ヘリコニア談話室ログ(200912月)




今年が終わりました

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 1日(金)00時08分56秒

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あー、K-1面白かった(^^)この手の番組は年一度しか見ないからか、サップや曙のような無闇な重量級の試合が(あったのかも知れないが番組としては)なかったのにちょっと意表をつかれました。しかし魔裟斗がいうように、試合本位でいえば中量級軽量級の試合のほうがずっと面白いわけで、よい傾向ですね。それを反映してかショー的な演出も比較的目立たなくなっていましたね。その意味でも、これは毎年いっているけど、K-1甲子園が一番よかった(^^)

ところで下の小松論に従うならば、小松には三つの原理が初めから併在していたということで(山野の、小松は作品によって言っていることが違うという批判はこの在り方に対応していると考えられます)、だとすれば小松の「変化」の時点を求めるという私の目論見は無意味なことになってしまうのですが(汗)、でも、たとえ3原理並立を認めるにせよ、「アパッチ」と「地には平和を」で開始されたことからしても、小松の仕事における3原理の比率は、抵抗から管理という方向に変化していると考えられ、それはたぶん時系列に従うと予想されるので、あながち無意味ではないと私は思います。

と書いていて急に思い出したのですが、奇天連載時、フランク・ハーバート論を読んだ記憶があるのですが、単行本化の際、省かれたのでしょうか? それともまた私の得意の偽記憶なのかな? ご存じの方、ご教示いただければ幸甚です。

などと書いているうちに0時になりましたが、まだ24時と考えて――今年もありがとうございました。来年9月で丸10年となります。早いものですね。来年も引き続きご愛顧お願いいたします。

 




「機械じかけの夢」より

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月31日(木)17時50分5秒

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小松左京論(「宇宙精神と収容所」)を読む。
論者は、「幼年期の終り」が近代主義から超越するに際し、「管理」すなわち下からいえば「主体性が否定される」問題がスルーされたことを不満として「果しなき……」が構想されたとする。
つまりオーバーロードはオーバーマインドに管理されているわけだが、それに対してオーバーロードがルサンチマンを抱かず「運命愛」に殉じるけれども、それは「ホンネ」の部分でどうなのか? あるいは一部の進化した人類以外の旧人類が運命を甘受するのは(多少反抗するがお座なり)その辺の問題はなんにも解決されてないやん、ということです。

そこでオーバーマインドに対応する「超意識」の対抗勢力として(「幼年期」には該当するものがない)ルキッフが投入される。こうして「果しなき……」はまさしく正(「幼年期的」運命への服従)と反(運命への反抗)の闘争というヘーゲル=マルクス流弁証法の小説的展開として開示される。ここで小松は、要するに弁証法の法廷に「幼年期……」を放り込んだといえるでしょう。
だが、その止揚された合(統一)が「運命としての伝統」(エピローグの爺さん婆さん)を介してなされたことで、反が正に吸収されてしまったことを論者は批判します。これまたヘーゲルの結論に結果として従っている(その延長としてのソ連収容所国家)わけで、そういう次第で「果しなき……」の宇宙が、まさに収容所的様相を帯びているのは(毫もブレのない)当然の帰結であるとする。

結局「幼年期」の不備を再考しようとして、逆に小松は「近代主義」によりがんじがらめにされた。ミイラとりがミイラになってしまったといえるかも。「果しなき……」はこれ以上もなく近代主義を体現した傑作SFとして完成されてしまい、それは小松自身にとっても不本意な結論であったかもしれないとします。ただ小松のすべての作品において、かかる正反の分裂を合するに伝統をもってするの構図が認められ、それは緊急回避的な仮の結論に過ぎず、結局小松自身未だ哲学的思弁を完結しえていないとして、その完成を強く望んでいるようです。
いやー面白かった。「果しなき……」近日中に読み返そうと思ったのでありおりはべり、はのばべり。あ、その前に「幼年期……」の再読が前提ですな。

 




「愛の嵐」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月29日(火)23時56分48秒

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TSUTAYAで借りた「愛の嵐」(73)を観る。
ダーク・ボガード、シャーロット・ランブリング主演。どちらも「地獄に堕ちた勇者ども」に出ていたように、一見ヴィスコンティ風で、前半はよかったが、後半、ランブリングがボガードの部屋に行ってからは急激に緊密感がゆるむ。後半の男女関係がある意味「ふつう」すぎる。あんまり「ふつう」すぎては、シャーロットがボガードと縒りを戻す必然性が薄まってしまうように思う。そうなってくると、なぜ篭城したのかまで粗が見えてくる。もっと方法があったのではないかと。やはりヴィスコンティのようにはいきません。
実は以前から観たかったのだが、近所のTSUTAYAでは扱ってなく、最近開店した別のTSUTAYAが扱っていて、ようやく観ることができたという経緯があって、ちょっと期待が高くなりすぎていたかも。

 




マーグ財団美術館の夜(70)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月29日(火)20時26分56秒

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ミシマと同じ日に死んだアイラーのラストレコーディング。実は初めて聞いた。68年の「ラヴ・クライ」を持っているのですが、これがどうも何といいますか、ライナーノートでも確か商業主義に屈した作品(大意)と書かれていて、やっぱトレーンが死んだらフリーは全滅するんだな、と思った記憶がある。
しかし。
本盤(?)を聴いて認識を改めました。

 凄い!

まずは1曲目は飛ばして(1曲目も素晴らしいですがとりあえず)2曲目「スピリッツ」を聴きましょう。まじトレーンが乗り移っています(^^; と書くと、アイラーファンは怒るかも知れませんが、そうとしかいいようがない白熱の演奏。アイラーの中でも1、2を争う名演ではないか。そしてそれから1曲目「イン・ハート・オンリー」に戻ると、これがまたトレーンの宗教的静謐さを感じさせられるから不思議。というのは間違いでエクスプレッションの静謐さはアイラーをトレーンが咀嚼した結果でしょう。そういう意味で父(トレーン)と子(ファラオ)と精霊(アイラー)という三位一体説は正しい。
ところが3曲目「ホーリー・ファミリー」になると、今度は一転ロリンズが降りていますよ(いやまあロリンズだから生霊か(^^;)。もともとフリーなロリンズの要素もあったから不思議ではありません。これも圧巻の名演奏。追記。いま「スピリッツ・リジョイス」のライナーを読み返していたら「ロリンズの影響を強く受けていた」と書かれていました。by岩浪洋三。
4曲目の「スピリッツ・リジョイス」は私がアイラー曲でもとりわけ好きな曲で、この演奏でもアイラー独特の土俗的演奏が好い方に出ています。
5曲目「トルース・イズ・マーチン・イン」は最初期時代に回帰したようなアイラーの火の出るような高音の疾走が素晴らしい。
6曲目「ユニバーサル・メッセージ」と7曲目「スピリチュアル・リユニオン」は「ラヴ・クライ」に通じるトラディショナルでシンプルな霊歌。ラストの「ミュージック・イズ・ザ・ヒーリング・フォース・オブ・ジ・ユニバース」は、これはアイラー版クルセママか(笑)。後半3曲はまあそれなり(爆) 「ラヴ・クライ」に通じるぬるさが出ているんですよね。でもラヴ・クライよりはずっと良い演奏です(バックがいいのかも)。

というわけでぜひお聴きください!


 




アーサー王からヤマトヤケルへ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月29日(火)13時01分52秒

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映画「キング・アーサー」(04)をテレビ大阪で観る。

本篇は、背景として投降した遊牧民サルマート(サルマタイ。スキタイの南にいた民族。大相撲阿覧の超先祖(^^;)がローマによってブリテンに駐留させられた史実があり、そのときサルマタイの持ち込んだ神話伝説に、のちのアーサー王伝説(の原型)もあったという新説(?)から妄想されたもので、従来のケルト伝説に基づいた映画化ではないのがめずらしい。そしてマーリンも魔術師ではないし超自然的な描写も(一応)なく、ふつうの時代劇映画の感じで、それもこの素材ではちょっと目新しいのではないか。
ただ円卓の騎士は史実とは認められないしそれがサルマートであったというのもそもそも完全なフィクションであり(サルマートの伝説が原型であることが騎士もまたサルマートであることにはならない)、歴史映画ではない。やはりファンタジー的な時代劇と言うべきでしょう(ネットを閲覧すると考証的にはどうも杜撰みたい)。

ローマの守備隊長と(原住民)ブリトン人の女の間に生まれた混血児アーサー(アントニウス)が15年契約の軍役で来させられた6名のサルマート人(円卓の騎士。15年間で6名に減った)を率いて、最初はマーリン率いるブリトン人からローマ人移民を警護しているが、新たな侵入者サクソン人が彊盛でローマはブリテン島から撤退することを決意する。その決定を知らせる使いが、丁度サルマートたちの年季も切れたのでそれを認める勅許状もたずさえてやってきた。しかし使いは最後の仕事として、サクソン人充満するハドリアヌス長城の北で孤立したローマ人一家を救出してくる仕事を強要する――いう話。

要は七人の侍による救出プロジェクト(笑)。この設定は面白い。チャンバラ時代劇なのだが、古代において異民族の存在を積極的にはみとめない日本では作れないシチュエーションかも。
あ、ヤマトタケルを景行天皇がクマソタケルの娘に生ませた混血児であるとすればストーリーになるか。そうすると再び背いたカワカミタケル(クマソタケルの実弟もしくは義弟とする)の成敗をヤマトタケルに命ずるのは叔父を撃たせるわけで心理的な拷問となる。カワカミタケルに容易に取り入ったのも説明しやすい。そういう経験から蝦夷征伐でも、同じく異民族である蝦夷への共感は強かったと設定できる。蝦夷征伐が容易であったというのも、むしろ搾取していた和人を討伐したとすれば、話になる。ヤマト大王の血を受け継ぐ異民族との混血という設定が(非情な父王へのアンビバレントとか)引き裂かれた悲劇性を醸し出せる。ただヤマトタケルには家臣団の記述があんまりなかったのではないかな。まあ作ればいいわけですが。

 




「機械じかけの夢」より

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月29日(火)01時01分13秒

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アーサー・C・クラーク論(「進化の反人間主義」)を読む。
完全に忘却していたがこれは力作。厳密には「幼年期……」論。近代主義・合理主義の行き着く果てがいわば人間の「熱的死」であるとクラークが認識していたというのは、たしかにストーリーを思い出せば腑に落ちるものだが、完全に取りこぼしていて、一種意外感があった。その意味で「幼年期」は近代主義の黄昏の物語であり、それを突破するのは秘教的な反合理主義(ドストエフスキー的な)であるとするのも、クラークの一般イメージ(と私は認識しているのだが)を覆すものだ。
とすれば、クラークはその後後退したのだろうか? 著者の見解はそうではないようだ。クラークも体系的に読み直さないといけないなあ。そうすべきなんだろうけどねえ……。次は小松論。

 




21世紀のゴエモン

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月28日(月)20時57分30秒

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やっと年賀状を仕上げ、投函してきました。元日には間に合わないだろうなあ。
今日で一応仕事納め。とどこおりなく支払いも済ませた(ホッ)。といっても零細自営業者ですから電話がかかってきたら動かなくてはならないのである。一度三が日を神戸港で孤独に作業したことがあったなあ。とまれ何も起こらないことを祈るのみでありおりはべり(^^;。

ありおりはべりといえば、来年は小松左京をちゃんと読み返そうかなと思っているのでありおりはべり。正直いって私は小松左京のあまりよい読者ではなかったのでありおりますが(主に文体がネック)、しかし今ならば、とりわけ初期の作品は(わたし的には)とても面白く感じるんではないかという気がしているんでありおりはべり。長編はアパッチから継ぐのは誰かあたりまで。短編は牙の時代あたりまで、体系的に読んでみたい。
まあすぐに気が変わる質でありおりはべりますし(?)、基本的に苦手なタイプの作家ではありおりはべるので(?)、どこまでできるか分からんのでありおりはべるのでありおりはべるが(???)。
ただ、いま挙げた期間のどこかで、小松は「変わった」と踏んでいて、それをトレースしてみたいと、そう思っているのでありおりはべり、おおそとがり(>ちゃう)。ありおりはべりこそとがり(>ちゃうちゃう)。こまたすくい(>ちゃうちゃうちゃう)。こまねち(>えーかげんにしなさい!)←なんとか無事に年を越せそうでハイになっているようです(汗)

 

 




古本市での一挿話

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月28日(月)00時45分55秒

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そういえば思い出したが、昨日の古本市で大江の『夜よゆるやかに歩め』を見つけたのだった。新書サイズのペラペラの本だ。私の記憶が確かならばこれは第2長編で、POPには大江の封印作品と書かれているではないか。たしかに文庫化されていないし私も現物を見たのは初めてかも。でちょっと興味が出て手に取った。定価280円なのだが値付けをみて仰天。なんと3800円(3200円だったかも。正確には覚えてない)だと! なぜそんな高いかね。出来が悪いから封印作品なんだろうに。こういう古書の値付けが私にはとんと理解出来ない(かと思うとマーケットプレイスで1円なんて値付けがゴロゴロあるし)。品質でなく稀少性で価格が決まるというのはわたし的には詐欺同然に思えるんだよね。ということで憤然として棚に戻したのでした。

 




補足

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月27日(日)23時08分9秒

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というのは他でもなく、「未踏の時代」を読んでいて、SFMが他誌と比べて固定読者層を持っていることをやっかまれたとか、ジュブナイルに傾注するのは未来のSF(M)読者予備軍形成のためだったとか、私が独自に福島業績に対して(不遜にも)分析していたつもりであったことが、実は本人が意図認識していたことであったということ、つまりSFM連載で読んだことを、その事実を忘却して、自分自身が分析して析出したことだと思い込んでいた、そういう事実関係に気づかされて、ひとり赤面したことがあったからなんですね(多少酔っ払っており文章が乱れている事お許しあれ)。
私独自の理論なんてほとんどなく、覚えたことを、その事実を忘却しているだけのことが、実はほとんどなのかも知れません(汗)

 




「機械じかけの夢」より

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月27日(日)22時51分41秒

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まずはヴァン・ヴォークト論(「錬金術とテクノロジー」)を読む。
いやまさにそのとおりと頷くばかり。
ていうか、私は奇天での連載を、それこそ繰り返し熟読していたわけで、今は忘却しているけれども、私のSF観ヴォークト観に、本篇の内容が決定的に影響を与えているかもしれないわけであって、というか影響を与えていないわけがないのであって、だとしたら御説そのとおりと頷くのは、それこそ当然のことなのかも知れないなあ。

 




とつぜんショートショート(偽)その4(上)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月27日(日)21時15分55秒

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黙示録

 白昼の青空に、突如、直視できないほどまばゆく輝く〈星〉が出現し、人々を驚かせた。
 そのニュース映像を、范もまた《退役宇宙開拓者の家》のベッドから凝視めていた。
 《退役宇宙開拓者の家》に収容された元・宇宙開拓者たちは、現役の宇宙開拓者からは敗残者として蔑視されていた。過酷な環境で精神に失調をきたしたり、事故で身体を損壊し地球へ送還された者たちが、宇宙事業不適格者の烙印を押されて、此処に収容されているのだった。
 范も、あの事故に遭遇するまでは一等巡視員として最前線で活躍し、将来を嘱望もされていたのだ。が、今では意識も混濁しがちで、ただ「あの現象を再びこの目で見たい」という執念にも似た意志が、彼を今日まで生きながらえさせてきた。
 そしていま、范のうすれゆく意識に、あの事件が甦っていた……

     ○

 巡視艇の重力感知器が、強大な重力異常を捉えた。
 范はいぶかった。
 (この宙域に、これほどまでに顕著な重力井戸はなかったはずだ)
 というより、さっきまではなかった。
 今とつぜん出現した――そんな感じだった。
 范は巡航設定を解除し、重力異常点へとコースを変更した。

 二時間後、巡視艇は肉眼で確認できる距離まで接近した。
 (これは?)
 范は茫然としていた。
 (……穴だ!)
 宇宙空間に円い穴があいていた。直径5メートルほどの真円である。ブラックホールの類ではない。それは明らかに人工の何かだった。ブラックホールではないから、周りの時空がその穴に向かって歪み雪崩れ落ちるような現象は起こっていなかった。ただ直径5メートルの穴の断面から垂直に、完全に指向的収束的な直径5メートルの引力ビームが放射されていた。たまたま巡視艇はそのビームの線上を通過したので、異常に気づくことができたようだ。
 「これは人工物だ。しかし太陽系から2光年も離れたこんな宙域に、なぜこのような物が存在しているのか?」
 少なくとも、人類の現在の技術ではとてもなしえないものであるのは間違いなかった。
 (調べなくては!)
 彼は決心し、宇宙服に着替え、船外へと飛び出した。

 ――満天の星くずが、范の前後上下左右でいっせいに輝きをました。

 范が接近する。穴のふちに達した。
 「何も無い」はずの虚空にぽっかりと、〈穴〉が穿たれていた……。
 それが范にははっきりと知覚できた。そしてその真円上にだけ、「引力」が存在した。
 覗き込むと、それがとてつもなく深い深い坑道であることが、はっきりと感知できた。
 范は〈穴〉に躍り込んだ。引力に引かれて范の体が「落下」していく。ヘッドライトの明かりは何も捉えない。穴なのに側壁がないかのようだ。全く光を反射しない漆黒の中を彼は落ちていく。どこまでも。どこまでも――
  いつのまにか時間感覚を喪失していた。それが一瞬だったのか、無限だったのか判然としなかったが、漆黒の彼方に一点の光源を見出して、范は我にかえった。
 光の点でしかなかったそれが、次第に次第に膨らんでいく。やがてそれが円で囲われた星海であることが視認できるようになった。
 (出口だ!)
 范は〈穴〉からポンと吐き出された。
 范の口から思わず声が漏れる。
 〈そこ〉は范の知る宇宙ではなかった。(以下次回)

……………………        …………………………        ……………………


以下次回て……ちゃんと終結するのんか?
させるためにあえて載せる。
終結せんかったら?
あやまる(爆)。

 




畸人郷忘年会

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月27日(日)12時15分15秒

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昨日は久しぶりに畸人郷忘年会に出席しました。
いつもより1時間早く出て、まずは大丸梅田店の古書市を覗く。眉村卓他第1世代の単行本が帯付きでずらりと並んでいましたよ! もっとも私は蔵書家ではないので食指が動くものはなかった(^^;
1時間弱ではとても丹念に見ることはできません。うむ、ぬかった。とりあえず笠井潔『機械じかけの夢』(*)と私市保彦『幻想物語の文法』とあと文庫本をあわただしく購入し、1000円札3枚渡し小銭を数枚チョロリともらう。や、今日はSFM1月号を買うつもりだったのに、予算オーバーだ! ということでSFMは今月は断念することに(汗)。

忘年会は後半新版世界ミステリ全集とSF全集の収録作家作品の検討会となりアイデア百出議論白熱(^^)この結果を血判状にしたため早川書房に突撃直訴せんことを誓ふ(笑)
ということでなかなか尻が上がらず最終にて帰宅。今年最後の忘年会を楽しく過ごさせて頂きました。次は風の翼新年会です(^^ゞ その前に年賀状か……

(*)この名著は文庫化してほしいなあ

 




「座頭市 関所破り」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月26日(土)02時21分16秒

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GyaOで「戦国自衛隊」(79)をやっていた。これまで未見だったので視聴してみるも、あまりのつまらなさに早々に見るのを中止する。70年代の悪しき部分であり、こういう要素が80年代に主流となっていくんだよな。テーマ曲はいいんだけどね。
で、他に何かないかなと思って物色したら「座頭市 関所破り」というのがリストにあった。これは面白かった。64年の作品なのだがストーリー自体は予定調和で平板で、こいつきっと裏切るなと思った登場人物は予想通り市を裏切って期待を裏切らない体たらくなのだが、それでも面白い。ストーリーじゃないんやろね。市の設定そのものが面白さの源泉で、60年代の庶民はこの設定に共感できたんだろうな。私の想像では、2010年代の時代相はおそらく60年代の時代相に近づいていくはずだから、市的な人物設定が復活するかもしれないなあ。トレンドは60年代かも(^^;

 




とつぜんショートショート(偽)その3

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月25日(金)18時11分9秒

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アルゴン君とふしぎな元日

 元日の朝――、アルゴン君はパッチリと目をさましました。
 すがすがしい朝です。さっぱりと洗われたような感じがします。民族学者にいわせれば、元日とは「世界が再生する日」とのことですから、気持がいいのも当然かも知れません。しかし……
 両手を広げて「うーん!」と伸びをしようとしかけたアルゴン君が、その姿勢のまま、ふと動きを止めたのです。
 「あれ?」
 アルゴン君は、首をひねった。
 (なんだか変だぞ)
 どこかおかしいのです。でも、何が変なのか、どこが変なんだか、よく分かりません。
 何か忘れ物をしているような、そんな気分。
 隔靴掻痒というんでしたっけ、原因が分からないことがいっそう気持ち悪さをつのらせます。けれども……
 「ま、いっか」
 アルゴン君は活発な良い子ですが、そんなに深く物事をつきつめるタイプではありません。あっさり原因追求をあきらめちゃいました。そういうものだ!

 おかあさんがお年玉をくれたので、アルゴン君は喜び勇んでおもてに飛び出しました。冷たい空気がピリっと気持ちよい。
 と、向こうから男の人が歩いてきます。
 (あ、あの人は……)
 よく知った人です。思わずニッコリ笑いかけてしまいました。ところが……
 えーと……
 名前が出てこない。
 (誰だっけ?)
 顔はよく知っているのに、なぜか名前が思い出せません。
 喉まで出かかっている感じなのに、どうしてもそれが舌まで上がってこない。なぜ出てこないのか分からないので、歯がゆくて仕方ありません。
 アルゴン君は不愉快な気分です。
 どうやらこれも、起きた時からつづいている「変な感じ」と関係がありそう。
 などと考えているうちに、男の人は目の前までやってきた。当然、年始の挨拶をするのです。でっぷりと太ったおじさんです。口の中でゴニョゴニョと、当たりさわりのない会話を交わすのです。
 だけど……やっぱり思い出せません。
 おじさんの方も、しきりに首をひねっている。
 しかし、ともあれその場は無事切り抜けられたようです。
 (よかった!)
 アルゴン君はほっとしました。アルゴン君と謎のおじさんは別れの挨拶をします。「ちゃんと挨拶ができて、かしこいねえ」 おじさんがアルゴン君の頭をなでてくれました。
 謎のおじさんは、アルゴン君と逆方向に離れていきます。その後ろ姿を、首をかしげながら見送るアルゴン君。でもそっちは……
 はたしておじさんは、アルゴン君ちの玄関の引き戸をガラガラと開けたじゃありませんか!
 「ただいまー。今帰ったよ」

 




とつぜんショートショート(偽)その2

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月24日(木)22時44分30秒

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飛ぶ魚

 男がその姿をあらわしたのは朝もまだ早いうちで、辰砂の街はようやくめざめたばかりだったから、往来を行き来する人々は少なかった。
 浜辺からやってきた男は大きな風呂敷包みを抱えていて、それは長方形の板状の、縦はずいぶんと長く一五〇センチはあろうか、幅は四五センチほどで厚みはごく薄いものであったが、それを持て余し気味に両手に抱えて、男は歩いてきたのだ。
 男が街に入ると、行き交う人々は不審げな一瞥をその荷物にくれたが、すぐに関心を失ってかの男が傍らを通り過ぎるのを看過した。
 男はのろのろと通りを歩き出す。通りに並ぶ店々を一軒ずつ確かめるように覗き込みながら……。
 とはいえ三〇分も歩くともう街はずれなのだった。大通りの両側に建物が連なっているだけの、辰砂は細長い街であった。
 男はそこで大通りを向こう側に渡り、もと来た方角へと引き返す。
 今や街は完全に覚醒していた。だがやはり誰も男に注意を向けるものはない。人々はせかせかと急ぎ足で、男のことなどてんで眼中にないのである。むしろその細長い荷物が先を急ぐ通行の妨げになってしまい、男はしばしば邪険に押しのけられたのだ。しかし――どうやら男は、目的の店を見出したようだった。

 それは骨董店であった。埃っぽく澱んだ薄暗い店内には、もの古りた家具や書画や刀剣のたぐいが所狭しと積み上げられている。その奥に、同様に時間から取り残されたような老人の姿が、乏しい光線にぼんやりと浮かんでいた……

 ……澱んだ空気の底で、ふと息苦しさを感じて男は大きくあえいだ。
 「駄目ですか?」
  男は問う。
 「骨董屋ってのはね……」
  店主が応える。
 「古いもの、稀少価値のあるものを扱うことで商売になるのですよ」
  老人は目でそれを指し示す。
 「でも、これじゃあ、ねえ……」

 ――街を出たときには、日は中天に達していた。雲ひとつない青空だ。男は立ち止まり、シャツの袖で汗をぬぐう。あちこち尋ねて回っていたらこんな時間になった。街は午睡に入ってしまった。抱えた風呂敷包みが不首尾を物語っている。
 引き潮で汀線ははるかに後退しており、浜辺のあちこちに干潟が取り残されていた。
 男は干上がった遠浅を、退いた海岸線に向かって歩き始める。
 と――
 目の端で、なにかがキラリと光った。

 ――それは引き潮に置き忘れられて、浅い干潟の中で銀色に鱗をきらめかせ跳ね回っている小魚であった。
 男は風呂敷包みを砂地に寝かせると、それを手掴んだ。弱っているらしく、ほとんど抵抗はない。男はしばらくぼんやりと掴んだものをながめていた。が、いったん干潟に戻した。そして荷物の包みをほどきはじめた。
 鏡が現れた。
 枠が傷だらけの、細長いスタンドミラーだ。包みを解かれ上向きに寝かされたそれは、真っ青な空を映している。
 男はふたたび干潟に手を入れる。そして、今やほとんど動かなくなってしまっている掴んだものを、そっと鏡面に横たえた。

 《真っ青な空に浮かんだ銀色の魚体》

………………      ………………      ………………


 (ああすみませんすみませんポランスキーのパクリです〜やりたかったんです〜)m(__)m

 




Re: とつぜんショートショート(偽)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月24日(木)17時10分35秒

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> No.2231[元記事へ]

雫石さん

ふっふっふ。そうなんですよ、そもそも世界は不条理なんです。運命や因果応報なんてものはなくすべて単なる偶然なのです。偶然だから「とつぜん」このようなことが立ち起こるんです(>牽強付会(^^;)
ということでしばらく続くかもしれませんが、続かないかもです。

余談ながらこの不条理に対して、おかしい、変えようという方向にいくのがサルトル→コミュニズムで、そういうもんだ、しゃーないというのがカミュ→アナーキズムだと思います。

 




Re: とつぜんショートショート(偽)

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年12月24日(木)10時19分50秒

返信・引用

 

 

> No.2230[元記事へ]

わっ、びっくりするじゃないですか。
とつぜんにショートショートを掲載するなんて。
不条理ですね。

http:////6823.teacup.com

 




とつぜんショートショート(偽)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月23日(水)19時05分27秒

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  転身

 ある朝目覚めると、何かがニヤニヤ笑っていた。
 「わっ!」
 ぼくは驚いてベッドから飛び起きた。
 何と、信じられないことにベッドの傍ら、床から一メートルくらいの高さの、丁度人間の口くらいの広さの〈空間〉が、こっちを向いて哄笑しているではないか。
 「なな、何なんだこれは!?」
 あまりに突拍子もないシチュエーションに、ぼくは呆然と目を見張った。
 すると――
 哄笑が嘲笑に変わった。そう感じとれた。明らかにぼくを嘲っている。
 しかし、それはすぐ失笑へと変化した。そして失笑は冷笑に、冷笑はやがて憫笑に変わり、憫笑のあとを苦笑が襲うや急速に薄れ始め、そして――

 消えた!

 最後に一瞬、ちらりと微笑をひらめかせて……
 今はもう、それが存在していた空間は、何ごともなかったかのように、素知らぬ顔ですっとぼけている。
 「いったい何だったんだ?」
 なんかバカにされたような気分だった。
 ぼくは少し腹がたったが、怒る気力も起こってこない。ぐったりとしてふたたびベッドにもぐり込むばかりなのだった。
 ――と。
(ソノ時、ボクノ内部ニ生マレタ空虚感……)
 ションボリと、何もない空間を見つめる。
 ぼくは悲しくて仕方がなかった。

     *

 その頃エヌ氏は、突如ふたり分の笑いにとりつかれて病院にかつぎ込まれていた……

――――――      ――――――      ――――――


  ↓クリックで拡大↓

 




オグンデ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月23日(水)12時50分58秒

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バベル図書館廃墟で催された夜奏会のパーソネルは以下の通り――

 トレーン(ts)
 ウクバル(b)
 オルビス・テルティウス(ds)
 +1

 

 




Last Date

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月22日(火)22時47分3秒

返信・引用  編集済

 

 

仕事関係だがしかし気のおけない忘年会があってさっき帰ってきたのですが、その帰る道すがら無意識に「浪速の都名にし負う恵美須の神を鎮めにて」と口ずさんでいたのでした。それにふと気づいて、「名にし負う」とは難しいなあ、そういえば「何しよう」だと昔は思って歌ってたんだよな、と思い出し――そう思い出した次の瞬間、あっ、と立ちどまっていた。
「この歌は小学校の校歌ではないか!」
なんと小学校校歌を歌っていたのですよ!
埋れた記憶の音楽のパノラマ現象は、ついに小学校校歌まで来てしまったようで、これはいよいよなのか、との思いを強くしたのでありました。うーむ……。

ということで、今夜は↓を選択(^^;
     

 




補足・2

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月22日(火)08時40分19秒

返信・引用

 

 

著者の<人柄>が浮かび上がってくる、という意味ではもちろんありませんよ。

 




補足

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月21日(月)23時04分42秒

返信・引用

 

 

下の投稿読み返してみて、これではテクニックをほめているみたいだなあ。うーん書き方が稚拙なんだよな。そうではなくて、スタージョンにしろ眉村さんにしろ、活字から著者自身が浮き上がってくるそういう小説だといいたかったのです。丁度コルトレーンがその演奏された音の配列に浮き上がってくるように……。

 




「SFマガジン1月号」(遡行5)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月21日(月)21時35分28秒

返信・引用

 

 

シオドア・スタージョン「カクタス・ダンス」若島正訳

ありていにいって、スタージョンで訳しておかなければいけない作品は、もうないんじゃないでしょうか。巻末の執筆者紹介欄での訳者のつぶやきの真意はそういうことでしょう。SF史的見地からはそういっても全く問題がなさそうです。本篇もざっと読む分には、とりたててどこが優れているといった作品ではない。だらだらストーリーが流れていくだけみたいにみえる。
でも――

それがなぜか実にいいんですよね! 「コリャア絶品ダナア!」と思ってしまいました(笑)。
先日の眉村作品と同じで、ストーリーはある意味平凡。というかよくこんなプロットで小説に仕立て上げられるもんだなと逆に感心してしまいます。
だからそれは「演奏」の勝利なんです。何を素材にしても、著者がいったん筆をとれば、それは「スタージョン作品」になってしまうのです。
本篇ではとりわけ語り口がなんともいえず素敵で(もちろん語り口だけが演奏の要件ではありませんが)、延々とつづく主人公と教授の漫才なみのボケとツッコミが笑わせられます(
「きみほどの知識を持っていない人間たちと、きみはよく付き合ってこられたものだな」104p)。
小説を絵画的と音楽的に分けるならば、スタージョンは後者の典型。眉村さんも(その初期から)ある種の短篇ではそういうスタイルをとっていますよね。

上記はしかし、ある程度著者を読み込んできたからこそ感じることができる、そういうものなのかもしれない。本篇がスタージョン初体験という方は、どこから入っていけばいいのか、切り口がちょっと見つからないでしょう。そういう意味で私は、本篇のような作品は、SF史的にはもはや訳さねばならぬ必然性はない、と上に記したわけです。でも「スタージョンの演奏スタイル」を楽しめる(ようになった)読者にとっては、本篇もまさに好物であることにかわりはない。その意味ではスタージョンは全作品訳されるべき、そうしても構わない作家といえると思う。もはやマンネリとかそういう域ははるかに越えてしまっているわけです。史的価値ではなく私的価値において、全作品の翻訳を、わたしは希望するものであります。

 




Out to lunch!

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月21日(月)18時42分25秒

返信・引用  編集済

 

 

昨日はちゃんとリンクできてなかったみたいで、楽しみにされている皆様にはご迷惑をおかけしました(>いるのか)。完全版(LP版。ただしB→A)を再度リンクします(昨日のリンクも訂正済み)。
いや最近はなんかジャズ喫茶のマスターの気分ですなあ(^^;


 




そういうものだ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月21日(月)00時00分29秒

返信・引用  編集済

 

 

実存とか不条理と書かれていると拒否反応を示す人がいるのだが、ぶっちゃけヴォネガットのいう「そういうものだ」の内容が実存なんですけどね。だからなにも特別な状態を指し示す言葉ではない。主体の現実存在なんだから。でそれは不条理なんですから。


 




「SFマガジン1月号」(遡行4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月20日(日)11時48分5秒

返信・引用  編集済

 

 

ブルース・スターリング「秘境の都」小川隆訳

訳文がひどくてかなり損をした作品。我慢して読み進めたらとても面白い作品だった。途中で投げなくてよかった(笑)。
とにかく訳文がぎこちなくてあぶなっかしい。たとえば9行目の「目が縮んだ」。こんな表現がありえるだろうか。状況は、暗闇で冷蔵庫を開けたら中から眩い光が差してきた場面。こういうときは「目がくらんだ」もしくは「瞳孔が縮んだ」と書くべきでは。
というか、この段落自体が糞表現のオンパレードなのです。私はまずここで悶絶しました(汗)。

訳文>「口を開けた冷蔵庫のまばゆい光にオッキエッティの目が縮んだ。晩の試合のとき、嫌われ者のフィオレンティーナを相手に地元チームが勝利したことに浮かれて、焼いた胡桃と胡椒入りのスティックパンとアルプスのリコッタ・チーズを食べ過ぎた。ああ、隠れていたぞ、安眠をかき乱す、あのチーズだ。毛も皮もない、猛烈に濃厚なチーズだ。」

私の案>「開けた冷蔵庫からまばゆい光が漏れ出しオッキエッティの目をくらませた。昨晩の試合で、嫌われ者のフィオレンティーナを地元チームがこてんぱんにしたことに浮かれ、焼いた胡桃と胡椒入りのスティックパンとアルプスのリコッタ・チーズを食べ過ぎたのだったが……。ああ、見つけたぞ、安眠をかき乱す、このチーズめ。毛も皮もない、猛烈に濃厚なチーズめ。」(リコッタチーズを知らないので、「毛も皮もない」の意味がよく判らないのでここはそのまま踏襲しましたが、ここも調べれば慣用句なのではないか)

私は下のほうがずっとストレスなく読めると思うのですが如何? 要は日本語としてちょっとずつヘンなんです。そしてそれは直訳したのをもう一度日本語に練りこむ工程を省いてしまっているからだと思います。もうひとつ例。「ときおり扇情的なランジェリーのくずが置き忘れたままになっている」(129p)。ランジェリーのくずって何よ(汗)。だいたいクズからそのランジェリーが扇情的であったかどうか分かるのか? ここは「ときおり扇情的なランジェリーがくしゃくしゃのまましまい忘れたままになっている」というような状況でしょう。

このような雑な文章が最後まで続くわけで、読む方はなかなか作品世界に没入できない。それが結果として作品自体が面白くないような錯覚に向かわせる。特に本篇はイタリア版地獄八景であり、「ユーモア小説」というか、ある意味「冗談小説」なんですよね。その軽妙な面白さが訳文の杜撰な生硬さに負けて消えてしまっているように思われます。私の考えではこの小説は、いわば筒井康隆の初期の文体で訳すべきなのだと思います。

さて、そういう密林のような文章を我慢して読み進めると、本篇がイタリア(トリノ)の社会状況、政治状況を踏まえた風刺小説として企図されたものであることが見えてきます(フィアットの創業三代がモデルにされているのは明らか)。そうなると一気呵成で面白くなる。たとえばこの地獄での最大の責め苦は、「最低のイタリアのバラエティ番組を見」(116p)せられることなんです(^^;。そういうふうな小説なので、勝負は一にかかって速度にあるわけで、憚りながら速度を阻害させる訳文では、この小説には「役不足」[註]というほかなさそうです(30年前なら通用したのかもしれませんがね。今や翻訳者のレベルは当時とは格段に上昇しているんですよね)。

[註]文化庁が発表した平成18年度「国語に関する世論調査」では、「彼には役不足の仕事だ」を、本来の意味である「本人の力量に対して役目が軽すぎること」で使う人が40.3パーセント、間違った意味「本人の力量に対して役目が重すぎること」で使う人が50.3パーセントと、逆転した結果が出ている。(yahoo!辞書「役不足」の項より)

 




「SFマガジン1月号」(遡行3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月20日(日)10時35分8秒

返信・引用

 

 

ラリイ・ニーヴン「《ドラコ亭夜話》」小隅黎訳
宇宙港を訪れる異星人目当ての酒場<ドラコ亭>では今日もチャープシストラ人を筆頭に異星人で賑わっている。そこで亭主の「わたし」が彼らから聞いた話の数々――といったていのショートショート集で、たのしめた。まさに雑誌媒体にぴったりの形態で、重い小説と小説の間に挟まっていると丁度よいクッションになりそうです。

コニイ・ウィリス「ポータルズ・ノンストップ」大森望訳
著者はファンなのだろうジャック・ウィリアムスンへのオマージュ作品。いいですねえ。ダン・シモンズがシェイクスピアでやったことを、ウィリアムスンでやっている。そのファナティックなこだわりが作品を爾余から屹立させるのですね。確信犯的作品(笑)。しかしそれにしても、未来ではウィリアムスンはバス1台仕立てられるほどの人気作家なのか。いやだから確信犯なのです(^^;

 




「SFマガジン1月号」(遡行2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月20日(日)02時08分40秒

返信・引用  編集済

 

 

<名作SF再録>は、5篇中2篇が既読(ティプトリーとヴォネガット)。だからといってパスはしない。当然読む。初読とはまた違ったものが見えてくるから。実際のところ再読する機会なんてなかなかないでしょう? そういう意味ではこれはむしろ天の配剤と感謝すべき。そうじゃありませんかみなさん?(と何故か鳩山口調(^^;)

ウィリアム・ギブスン「記憶屋ジョニイ」黒丸尚訳
サイバーパンクは、丁度私がSFから離れていた80年代後半から90年代前半に猖獗もとい全盛を極めたので、全く縁がなく殆ど読んでいません。ギブスンもこれが初めて。なるほどスタイリッシュできらびやかですなあ。一種無国籍なところも含めて日本でいえば矢作俊彦みたいな感じか。

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「いっしょに生きよう」伊藤典夫訳
これはSFMの初出で読んだ。で、再読したわけだが、初読より評価が下がった。それは共生関係があまりに都合よく行き過ぎに感じられたからで、もっとストレスとかあって当然なのに(人間に寄宿した方も、人間のプライバシーには配慮しましょうとかちょっと「人間的」すぎる)いささか予定調和的でファンタジーっぽいのだった。

R・A・ラファティ「昔には帰れない」伊藤典夫訳
これは面白かった。いかにもラファティらしい珍妙なアイデアを、いかにもラファティらしくふしぎなツイストを効かせて語っていて楽しめた。

カート・ヴォネガット「明日も明日もその明日も」浅倉久志訳
初読は短篇集『モンキーハウス……』。これは完全にストーリーを忘れていた。皮肉なのだがラストがほのぼの暖かいのがいかにもヴォネガット。

フィリップ・K・ディック「凍った旅」浅倉久志訳
これもディックらしい話。再録はすべて「らしい」のを集めたのだな。なかなか気の利いたセレクション。本篇は何をやってもトラウマに引き寄せられるマイナス思考の主人公の「哀しき行為」が笑わせてくれる。繰り返しオチもディックのお家芸。

 




「SFマガジン1月号」(遡行1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月19日(土)23時50分56秒

返信・引用  編集済

 

 

ダン・シモンズ「炎のミューズ」(酒井昭伸訳)
ダン・シモンズを読むのは初めてだが、面白かった。解説にあるとおりスペオペなのに宇宙のシェイクスピア劇団の話というひねりがよい。でもやはり10代で読んだらもっと面白かっただろう。300枚弱という長さも丁度よい。上下2巻本が当たり前の最近のスペオペには端から食指が動かないのですがね。

パオロ・バチガルピ「第六ポンプ」(中原尚哉訳)
レナルズ作品「でも」というか「で特に」感じたのだが、この訳者ちょっと訳語の選択が杜撰ではないか。それについてはレナルズ作品で述べたいが、ひとつだけ。3行目「これはこれ」って何よ。文脈的におかしいと思いませんか。「これはこれ、あれはあれ、人生いろいろだ!」という風に使うのだ。原文は知りませんが、ここは「ウッシッシ」で決まりでしょう(笑)
作品自体は面白かった。この作家も初めて。最近人気があるらしいが、さもありなんと思いました。この人、アメリカの小川一水なんですよね(^^; きちんと勉強しよう知識をつけよう教養を積もう、さもないとトログみたいになっちゃうぞ。というのが主調音で、しかも「裏庭のマッドサイエンティスト」的ブリコラージュ的な職人仕事が賛美されているわけです。まさに坊っちゃんお嬢ちゃんの星ですな(^^)当然ムカシ坊っちゃんお嬢ちゃんであった私も楽しめた次第。その意味では典型的オールドウェーブ(ギャラクシー派か)。

ジョン・スコルジー「ウィケッドの物語」(内田昌之訳)
ふ、古! 初めて読んだが、40年代のアスタウンディングから訳したのかと思った。オールドウェーブ以前だ。

アレステア・レナルズ「フューリー」(中原尚哉訳)
「玉体は横倒しになり」(7行目)って(笑)。玉体とはモノなのか? 玉体という貴字を使うならば受ける動詞(句)は尊敬語でなくては変でしょう。気持が悪い。これ以上あげつらわないけど、この手の「ありえない日本語表現」が頻出とまではいわないまでも、要所要所(笑)に出てきてげんなり。よしんばこの玉体はそもそも玉体ではないから横倒しと表現したというのならば、最初から玉体なんて使う必要がない。
作品自体はまあ面白く読めた(銀河帝国の皇帝なんて設定はわたし的には噴飯物だが)。でもフューリーが最初からガードマンになれたというのは無理がある。
それからラストがよくわかりません。「水に流す」という意味か? 英語にも水に流すという表現があるのかな。どなたかこのラスト解説していただけたら幸甚。

 




「出張の帰途」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月19日(土)22時28分32秒

返信・引用

 

 

眉村卓『出張の帰途』(ノンポシェット90)

著者50代半ばの作品集で、私自身がその年代に踏み込みつつあるためか、気に入った作品が多く時々読み返しているのですが、今回あらためて全作品読み返してみました。
「つかの間の草原」がやはり出色。でも他の作品もおとらず実に味わい深い。ストーリー自体は何ということもないようなのですが、それが微妙にひねってある。そのツイスト感が得も言われません。いうなればスタンダードな曲を著者独特のフレーズをまじえて即興演奏したような感じなんですね。とはいえ、それはしかしある程度眉村SFを読んでいないとその感覚は判りにくいかもしれません。コルトレーンのフレーズは、初めて耳にしたものには一種異様感があると思うのですが聞き慣れるとクセになります。いやむしろ、眉村フレーズはコルトレーンのような重火器ではなく正反対なので、モンクになぞらえるべきかも(^^;
ともあれベテランの絶妙のインプロヴィゼーションが満喫できる好短篇集であります。

   

 




「未踏の時代」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月19日(土)21時29分27秒

返信・引用  編集済

 

 

福島正実『未踏の時代』(ハヤカワ文庫JA、09)

SFM連載で読んでいたので単行本は未読でした。今回読んで、エピソードは大体覚えていたというか、読んだら思い出したので、連載はちゃんと全部読んでいた模様。
こうして読み返してみると、私のSF観の半分強は福島正実によって培われたものであることが再確認されます(残り范文雀は山野浩一)。
ただしアマを徹底的に排除したプロ独裁(笑)は当時においては妥当有効だったと思いますが、今現在の私は採らない。むしろ現在では、ハヤカワSF文庫が旧作の再刊とミリタリーSFの専門レーベルと化してしまっているように、現状、福島が考える「SF」がプロ=「商業出版」の間尺に合わなくなってきており(理由はいろいろある。本書にもあるように福島が60年代に児童文学界にSFを導入することで70年代の新規読者層を掘り起こした(私がそうして釣り上げられた典型例)そのようなアクションが途絶えた。更にハヤカワ方針の縮み志向(ローダンやグインの夢再度という荒っぽいシリーズ作品偏重や70年代に成功した森方針の、世代人口の膨らみの高齢化という前提が全く変わってしまっているにも関わらず、盲目的な模倣)等々)、むしろインターネットを介する新しいアマチュアが、その空隙を埋めるという状況になってきているように思われます。
お祭り騒ぎをしたり作家をヨイショするだけの旧ファンとは違う新ファン層が、事実上福島的SFを実践しているのです。作家的にも良心的なSFを発表していくには専業作家では難しい時代になってきているのではないか。この点が(右肩上がりだったというか、右肩上がりを実現させた)福島の時代とは大きく違っている。

とはいえプロ独裁の上に君臨した福島が、見方を変えればSF界のヒトラーだったのは間違いなく[註]、未完の本書が更に書き継がれていれば、独裁者が国民にそっぽを向かれていく過程を、当のヒトラーはどう感じていたのかというところまで踏み込まれたのかもしれない。著者の道半ばでの夭折はかえすがえすも残念という他ありません。
日本SF黎明期を知る上での必読書であり、この機会に是非購読して頂きたいと思います。

[註]本書でも眉村卓に割かれる紙幅は小松、筒井と並んでおり、第1世代の中では眉村は福島とウマがあった方でしょう(それでも本書では「燃える傾斜」は完全無視されてますが(^^;)。「飢餓列島」の共作は福島の要請によるもので、自身の作家的資質と眉村のそれに共通の何かを感じたからではないか。私は、このとき福島は作家兼編集者である自分をポールに、眉村をコーンブルースになぞらえていたに違いないと確信しているのですが、その眉村ですら、福島にはなんともいえない、煙たいような、ストレスめいた圧迫感を感じていたようなのです。と眉村さん本人から伺ったことは一切なく、すべて私の想像なのですが、福島さんのことを伺った際の言葉の端々からそういう感じを受けたのは事実です。

 




復活

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月19日(土)14時38分24秒

返信・引用

 

 

眉村卓「出張の帰途」読了。
SFMも残りダン・シモンズのみ。それももうちょっと。

 




今週いっぱい

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月17日(木)22時41分31秒

返信・引用

 

 

もしくは週明けまで、諸般の事情で書き込みできません。メールも見れないと思います。
とりあえずそういうことで……。

「未踏の時代」読了。

 




追記

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月15日(火)17時13分1秒

返信・引用  編集済

 

 

昨日のシアトルの演奏、エルビンがのってないなあ(それはマッコイもだがエルビンはとりわけ)。ファラオが入ってやる気を失ったのかしらん(^^;
↓と比較すると一目瞭然……と思ったらこっちはロイ・ヘインズだった(汗)


ところで下の記事の全般のところは当然商業出版優先ですので念のため。大橋氏以外は把握していませんが進行中のがあるなら双手をあげて応援させて頂きますのでよろしくです。というか創元文庫で単行本未収録作品をあつめて短篇集作らないですかね(^^)。「夢まかせ」なんか眉村短編としてもベスト級と思っているのですが如何。

 




眉村さん50周年

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月14日(月)22時25分18秒

返信・引用  編集済

 

 

そろそろ眉村さんを囲む新年会の段取りをしなきゃなあと考えて、ふと思い出してしまったのだが、今年の会で50周年記念でなにか出したいなあと言っていたのだった。
いやなこと(?)を思い出してしまった。なんにも考えてない。で、にわかに焦ってきている。しかし頭を伏せていたらやり過ごせることでもないので、ここに記すことで、もう逃げられなくしようと思う。

案。
全般
・ここ10年の眉村さんが各紙誌に発表されたエッセイ雑文の類はほぼ把握しているので、これを集める。
・SFM等雑誌掲載されたまま単行本になってない短編があるのでそれをまとめる。
・日課作品1001〜1777から抜粋。

チャチャヤン関係
・ショートショートコーナーを一回だけ復活する(もちろん下読みで残った秀作のみ読んでもらう)。
・嵯峨ディレクターを探し出してコメントをもらう。できたら文章。

創研・星群関係
・当時を振り返った雑文。もしくは創作。

希望
・眉村さんの新作掲載。

今パッと浮かんだのはこんなところ。全般に関しては、大橋氏が手がけかけているので要調整。
あと何かありますか? 出版物化(するのか?)に関しては、わたしは全然知識がないので、中さんなり西さんなり誰かに丸投げしたい(汗)

ああ、重圧に押しつぶされそうになってきた。逃避する↓

 




更に「喜劇綺劇」より

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月14日(月)17時11分25秒

返信・引用

 

 

井上雅彦「アシェンデンの流儀」読む。
面白い。読後、頭のなかでずーっとチャラリラチャラリラと垣根の垣根のが交互に鳴り響いていてどうしようもない(^^; これがまたラストで古事記の歌をぐんにゃりひん曲げてしまってとんでもないことに! なろうことなら小説化してほしかったです(^^)

 




さらに「出たとこまかせ ON AIR」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月13日(日)19時09分52秒

返信・引用  編集済

 

 

角川文庫版には本文に数枚、カットのような挿絵がついているのですが、どこにも画家名の記載がない(表紙はいつものとおり木村光佑)。ひょっとしてカットの影のくちゃくちゃっとした線がサインになっているのでは、と目をくっつけるようにして凝らしてみたんですが、そんなこともなさそうでした(笑)。こういうとき近眼は便利なんですよね。そういえば加賀乙彦の、タイトルは忘れましたが『風と死者』に収録されている短編で、こんなことでけへんやろと、近眼の特徴を誇る場面がありましたな(「くさびら譚」だっけ?)。
や、話が飛びました(あかん、本書の文体に影響されておる)。なぜそんな瑣末なところに興味をもったかといいますと、実はタッチがなんとなくクロイワカズに似ているんじゃないかとピンときたからなんです。それはもちろん『喜劇綺劇』で久しぶりにクロイワカズを見たからで、実に単純な話なんでした。

ところがうまい具合に、拙掲示板とほとんどリンク関係にある(^^;「ショートショートの……」で、高井さんが下の書き込みに「眉村卓のエッセイ」という記事で反応して下さったのです。私などよりずっと眉村書誌にはお詳しいのです。で、カクカクシカジカなんですがわかりませんかと問い合わせたら、早速回答が……。それについてはリンク先をご覧下さい。

ということで、我がカンはどうやらハズレみたい(^^; 高井さんの推理がおそらく妥当でしょう。

――というオチもなんにもない話でありました(^^;。

眉村さんのこのエッセイ集、アドリブが効いているっぽいので、BGMはこれ↓

 




2009読了書

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月13日(日)13時23分27秒

返信・引用

 

 

を書き出した(91冊/本日現在)。
昨年93冊ということで、まあこんなもんでしょう。もう長いこと年間100冊というのを達成できてませんね。というかこれまででもたぶん3、4回しかないのですけどね。
赤字は本年度新刊。新刊も読まんかった。追いかけようというモチベーションが発現しなかった1年でした。

小説・日本
10-01)中里友香『黒十字サナトリウム』(徳間書店08)

09-06)有村とおる『暗黒の城 ダークムーン』(角川春樹事務所05)
09-05)伊藤致雄『神の血脈』(角川春樹事務所05)
09-04)上杉那郎『セカンドムーン』(角川春樹事務所08)
09-03)森深紅『ラヴィン・ザ・キューブ』(角川春樹事務所09)
09-02)平谷美樹『精霊のクロニクル』(角川春樹事務所09)
09-01)仁木稔『グアルディア』(Jコレクション04)

08-03)田中光二『ヒトラーの黄金 アマゾン大樹林』(徳間文庫00、元版97)
08-02)佐々木譲『笑う警官』(ハルキ文庫07、元版04)
08-01)佐藤亜紀『激しく、速やかな死』(文藝春秋09)

07-05)眉村卓『句集 霧を行く』(深夜叢書社09)
07-04)志村有弘編『捕物時代小説選集4釘抜藤吉捕物覚書 他6編』(春陽文庫00)
07-03)志村有弘編『捕物時代小説選集5幽霊陰陽師 他8編』(春陽文庫00)
07-02)大森望・日下三蔵編『超弦領域 年刊日本SF傑作選』(創元文庫09)
07-01)大橋博之責任編集『光瀬龍 SF作家の曳航』(ラピュータ09)

06-05)吉田知子『極楽船の人びと』』(中公文庫87、元版84)
06-04)川田武『ピラミッドの日』(角川文庫78)
06-03)横田順彌『謎の宇宙人UFO』(早川書房78)
06-02)倉阪鬼一郎『深川まぼろし往来 素浪人鷲尾直十郎夢想剣』(光文社文庫09)
06-01)吉田知子『聖供』(新潮社73)

05-03)高千穂遙『聖獣の塔 運び屋サムシリーズ《2》』(徳間文庫83)
05-02)豊田有恒『カンガルー作戦』(徳間文庫81)
05-01)横山秀夫他『警察小説大全集』(小説新潮3月臨時増刊号 04)

04-03)福田和代『黒と赤の潮流』(早川書房09)
04-02)瀬名秀明『デカルトの密室』(新潮社05)
04-01)笹沢佐保『木枯し紋次郎(五) 夜泣石は霧に濡れた』(光文社文庫 97)

03-03)小川一水『フリーランチの時代』(ハヤカワ文庫08)
03-02)上田早夕里『魚舟・獣舟』(光文社文庫09)
03-01)小川一水『時砂の王』(ハヤカワ文庫07)

02-02)安部公房『方舟さくら丸』(新潮社84)
02-01)石川英輔『大江戸神仙伝』(評論社92、初出79)

01-03)大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 虚構機関』(創元文庫08)
01-02)泡坂妻夫『鬼女の鱗 宝引の辰捕者帳』(文春文庫92、元版88)
01-01)本多正一編『幻影城の時代 完全版』(講談社08)

小説・海外
11-03)ナサニエル・ホーソーン『人面の大岩』酒本雅之・竹村和子訳(バベルの図書館88)
11-02)ヴィリエ・ド・リラダン『最後の宴の客』釜山健・井上輝夫訳(バベルの図書館92)
11-01)J・L・ボルヘス『パラケルススの薔薇』鼓直訳(バベルの図書館90、原著80)

09-02)ボルヘス編『聊斎志異』中野美代子訳(バベルの図書館88)
09-01)クラーク・アシュトン・スミス『ゾティーク幻妖怪異譚』大瀧啓裕訳(創元推理文庫09)

08-04)エドガー・ライス・バローズ『金星の独裁者』厚木淳訳(創元文庫69、原書39)
08-03)エドガー・ライス・バローズ『金星の死者の国』厚木淳訳(創元SF文庫68、原書35)
08-02)エドガー・ライス・バローズ『金星の海賊』厚木淳訳(創元SF文庫67、原書34)
08-01)マイクル・ムアコック編『ニュー・ワールズ傑作選No.1』浅倉久志・伊藤典夫訳(ハヤカワSFシリーズ71、原書67)

07-01)ローズマリー・ティンパリー他『新・幻想と怪奇』仁賀克雄編・訳(ハヤカワミステリ09)

06-03)ロバート・シェクリイ『地球巡礼』宇野利泰訳(ハヤカワ文庫78 原書57)
06-02)レイ・ブラッドベリ『刺青の男』(ハヤカワ文庫76、原書51)
06-01)J・G・バラード『ヴァーミリオン・サンズ』浅倉久志・他訳(海外SFノヴェルズ80)

05-01)エド・マクベイン『毒薬』井上一夫訳(ハヤカワ文庫94)

04-06)レイモンド・チャンドラー『かわいい女』清水俊二訳(創元推理文庫59)
04-05)レイモンド・チャンドラー『世界の名探偵コレクション10 フィリップ・マーロウ』稲葉明雄訳(集英社文庫97)
04-04)H・P・ラヴクラフト他『怪奇幻想小説シリーズウィアード4』大瀧啓裕編(青心社文庫91)
04-03)ロバート・E・ハワード『新訂版コナン全集5 真紅の城砦』中村融訳(創元推理文庫09)
04-02)H・P・ラヴクラフト他『怪奇幻想小説シリーズ ウィアード3』大瀧啓裕編(青心社文庫90)
04-01)ロバート・E・ハワード『黒の碑』夏来健次訳(創元文庫91)

03-05)H・P・ラヴクラフト他『怪奇幻想小説シリーズ ウィアード2』大瀧啓裕編(青心社文庫90)
03-04)H・P・ラヴクラフト他『怪奇幻想小説シリーズ ウィアード1』大瀧啓裕編(青心社文庫90)
03-03)C・A・スミス『イルーニュの巨人』井辻朱美訳(創元推理文庫86)
03-02)グレッグ・イーガン『TAP』山岸真編訳(奇想コレクション08)
03-01)M・ジョン・ハリスン『ライト』小野田和子訳(国書刊行会08、原著02)

02-04)シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ」』若島正編(奇想コレクション07)
02-03)T・S・ストリブリング『ポジオリ教授の冒険』霜島義明訳(河出書房08)
02-02)キャロル・エムシュウィラー『カルメン・ドッグ』畔柳和代訳(河出書房08)
02-01)平野嘉彦編『カフカ・コレクションU運動/拘束』柴田翔訳(ちくま文庫08)

非小説
12-01)眉村卓『出たとこまかせ ON AIR』(角川文庫79、元版76)

11-01)安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書09)

09-01)藤原智美『検索バカ』(朝日新書08)

07-02)廣野由美子『ミステリーの人間学 英国古典探偵小説を読む』(岩波新書09)
07-01)西秋生『ハイカラ神戸幻視行コスモポリタンと美少女の都へ』(神戸新聞出版センター09)

06-05)ポール・クルーグマン『格差はつくられた』三上義一訳(早川書房08)
06-04)三浦展・柳内圭雄『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?』(光文社新書08)
06-03)金井美恵子『目白雑録3』(朝日新聞出版09)
06-02)中橋孝博『日本人の起源 古人骨からルーツを探る』(講談社選書メチエ05)
06-01)佐原真『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス93)

05-09)崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅 多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?』(昭和堂08)
05-08)海部陽介『人類がたどってきた道 "文化の多様化"の起源を探る』(NHKブックス05)
05-07)中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言』(光文社新書09)
05-06)中堀豊『Y染色体からみた日本人』(岩波科学ライブラリー05)
05-05)内村直之『われら以外の人類 猿人からネアンデルタール人まで』(朝日選書05)
05-04)篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造』(NHKブックス07)
05-03)後藤明『海を渡ったモンゴロイド 太平洋と日本への道』(講談社選書メチエ03)
05-02)池橋宏『稲作渡来民「日本人」成立の謎の迫る』(講談社選書メチエ08)
05-01)朴天秀『伽耶と倭』(講談社選書メチエ07)

03-02)野村恒彦『神戸70s青春古書街図』(神戸新聞総合出版センター09)
03-01)佐藤優『国家と神とマルクス』(太陽企画出版07)

02-03)石原千秋『未来形の読書術』(ちくまプリマー新書07)
02-02)石原千秋『ケータイ小説は文学か』(ちくまプリマー新書08)
02-01)香山リカ『私は若者が嫌いだ!』(ベスト新書08)

01-04)岩田規久男『「小さな政府」を問いなおす』(ちくま新書06)
01-03)中野雅至『格差社会の結末 富裕層の傲慢・貧困層の怠慢』(ソフトバンク新書06)
01-02)尾崎真理子『現代日本の小説』(ちくまプリマー新書07)
01-01)岡倉徹志『イスラム急進派』(岩波新書87)

 




承前

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月12日(土)23時27分24秒

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もうひとつ備忘を兼ねて――
テレビドラマが、基本的には永遠に続く、続けることが可能な形式になっている(たとえ最終回が来ても、いつでもそこから話が始められる)、いわば「安定のなかの起伏」であるのはそれなりに理由がある。漫画の連載もそういう面がある。しかし手塚漫画は全く想像もしなかった世界だった。「何もかも一回限り、正義も何も見方次第、という非情さがこたえられなかったのだなァ」と。
でも私は思うんですが、これってもちろん(眉村さんがハマったそれは)初期の(アトム以前の)手塚の話ですよね。いやまあ「アドルフに告ぐ」は例外でしょう。同時期の「ブラックジャック」ですらやはり「安定のなかの起伏」からハズレなかったように思います(チャンピオン連載で途切れ途切れでしか読んでないのでその限りでの認識ですが)。

これをSFMの中野善夫連載に引きつけるなら、「安定のなかの起伏」はファンタジーで、安定をぶっ壊して一回的に変化するのがSFなのではないでしょうか。

◎かんべむさし『ミラクル三年、柿八年』が各ネット書店に反映されました→amazon bk1 紀伊国屋

 




「出たとこまかせ ON AIR」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月12日(土)22時08分11秒

返信・引用  編集済

 

 

眉村卓『出たとこまかせ ON AIR』(角川文庫79、元版76)読了。

クレジットによると79年10月初版で、今日読んだのは翌年6月3版となっている。まさにSFバブル最盛期だったんでしょうね。昔聞いたんでうろ覚えの数字ですが、初版1万部で重版3千部というのは多分このころの話でしょう。(追記>あれ、1万部なんてことはないですよね。初版10万部で重版3万部だったっけ? ああ判らなくなった!)

と、のっけから話がそれましたが(あかん、本書の文体に影響されておる)、SFMに戻るはずがなぜこういう事になったのかといいますと、ブックオフに寄ったら珍しく眉村さんの文庫がずらりと並んでいたのですよ。10年前ならば、3尺棚1段くらいざらに並んでいましたが、最近ではとんと並ばなくなっていました。おそらく誰かが放出したんでしょうね。エッセイ関係がまだ揃ってなかったはずなので、本書を購入したのでしたが、ガーン、必要だったのは『ぎやまんと機械』なのだった。

と書いていることからお分かりのように、『出たとこまかせ……』未読だったのです。なぜ未読だったのかというと、本書に顕著な――当時エッセイでよく使われていた――DJ風文体が、どうも私の内なる眉村卓イメージから乖離していて読めなかったのです。
それが今日は、パラパラとめくっていたらいつの間にか引き込まれて読んでいたという次第。どうも30年という時間と、自分でも(この掲示板等で)似たような軽い文体を平気で使うようになっていたのが、敷居を越えられた理由かもと思われますが、読んでよかった。

これは名エッセイ集というべきですよ。北杜夫、遠藤周作等、名エッセイは数々あれど、本書もそれに伍して劣りません。文体とは裏腹に(といっても読みなれればこれはこれで味わいが出てきたんですけど)、読み甲斐があるのです。
エッセイでありますから、そんなに深く掘り下げることはしていませんが、何度も玩味熟読するにたるもので、私も暫く本棚に仕舞わず座右においておくつもり。

例えば(どこでもいいですが今パッと開けたページには)、なぜヒゲを剃るのかというところから、社会的常識というものがどのようにして醸成され維持されていくかという「社会(動)学」の話になり、(これは私の言葉ですが)斉一化の機構が解釈される。じつにこれは昨日読んだ牧野修作品が、最近の「オワライ」のなかに同じ問題を追求しているのですね。笑いとは権威への抵抗の武器ですが、他面、支配者が飼い慣らすための道具にもなる……。

わ、話がそれた(あかん、本書の文体に影響されておる)。ということで懸案であった眉村エッセイへの敷居が越えられたので、他のエッセイ集も読んでみようと思いました(あ、読んでないのがバレてもた(^^;)。


追記。「ばれてもた」は「ばれてしまった」の関西弁的省略形で、やはり関西弁には省略への傾きやすさがあるようですね(^^;

 




「喜劇綺劇」より(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月11日(金)21時46分42秒

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田中哲弥「夜なのに」を読みました。
おおこの著者、めっちゃテクニシャンですなあ。いやまあ作家にテクニシャンはおかしいか。小説巧者と言うべきですかね。ともあれ3種(いや4種か)の異なる時間をシェークして、実にきれいなカクテルをつくりだしています。一種実験小説なんですが、全然そんな感じはしない。読み終わってから、「お、これって実験小説だったのか?」と気がつく、そんな感じです。しかしこういう高等技術でエンターテインメントをさらりと書いてしまうところはなんか筒井康隆の再来を予感させるなあ。いやー面白かった(^^)。ただラスト1行は個人的には不満(^^;。しかしこれも著者は類型を踏んでみせたのかもしれませんね。なんか不思議な世界に浸れて堪能しました(^^)

つづいて
北野勇作「第二箱船荘の悲劇」。や、これはボルヘスだ! せせこましい路地裏のうす汚れたボルヘスです(^^;。ボルヘスから山尾悠子へと伸ばした線を逆向きの延長すると、本篇に到達します。従来の、というか私が読んだ作品では、(世界内の)主人公(の主観)に視点があるため、世界は曖昧に揺れ動いているのですが、本篇ではいわゆる視座人物からの観察であるため一種の客観性が発生し、ボルヘス的な雰囲気が醸成されたのではないか。面白かった。

牧野修「山藤孝一の『笑っちゃダメよ!!』」。これは傑作! 昨今の「オワライ」ブームに、コンフォーミズムの翳を見出したディストピア世界の物語。ちょっと設定が強引だがそれを受け入れればストーリーは納得できる。山藤孝一は私だ!(笑)

田中啓文「地獄の新喜劇」。地獄八景的な世界設定で、吉本新喜劇が行われる。まあおもしろかったのだが、ヨシモトに頼っている部分が、新喜劇をみたことがない人(非関西人にはありうる。現に私の友人は秋田出身で大阪に来るまで新喜劇を知らなかった。爾来20年以上住んでいるがいまだに新喜劇の面白さが判らないらしい)にはマイナスに作用するかも。ラストのオチもベタで(大体これSSのオチでしょう)それからぐわんと広がるものがない。全体に捻りが足りないので、「だから何?」感が強いのがやや残念でした。

ということで、収録作品中ほぼ3分の1を読んだ。今回はなかなか粒が揃っているようですね(^^) わたし的には大体めぼしいところは読んだので、読みかけのSFMに復帰し、本書の残りはまたおいおいということにしたいと思います。

追記>あ、そうそう。クロイワカズの挿絵が見れたのは嬉しかった。何を隠そう眉村さんが日経に『C席の客』を連載したときのカットがクロイワカズだったのです(^^)

 




バカSF

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月11日(金)19時25分35秒

返信・引用  編集済

 

 

バカSFというのは嫌いではないが、最近何でもかんでもバカSFといいすぎというか、バカSFといっとけばとりあえずそれでOKみたいな風潮があるような気がして非常に不快。思考停止では? それでは若い子がカワイイを連発するのと同じではないのか。もっと腑分け分析すべきでしょう。
というわけで試みに、ネット書評をしている任意の誰かをターゲットに、その人が「バカSF」と評した作品を過去にさかのぼって書き出してみようかと思っている今日この頃。

 




高井さん

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月10日(木)21時51分58秒

返信・引用

 

 

> No.2204[元記事へ]

>面白い→おもろい、ではないかと
なるほど。でもそれだったら私の子供の頃からありましたし(現に私は使っていた)、戦前からもあったんじゃないでしょうか(講談のCDで聞いた記憶が)。あ、しかしそういう意味では、「きしょい」なんていう崩し方には関西弁の雰囲気が感じられますね。ひょっとしてこの現象は関西がルーツなのかなという気がしてきました。いや別に調べようとは思いませんが(^^;

誤用ショートショート、楽しみにしていますので、また書き溜めて、発表していただくよう期待しております。

「喜劇綺劇」>次は、以前から高井さんご推奨だった田中哲弥さんに着手するつもり。楽しみです〜(^^)

さっきから繰り返し聴いてるBGM>

 




Re: 「喜劇綺劇」より(2)

 投稿者:高井 信  投稿日:2009年12月10日(木)21時14分41秒

返信・引用

 

 

> No.2203[元記事へ]

 お読みいただき、ありがとうございます。

>はっ、ひょっとして「きもい」がこの現象の発端なのかも。
 面白い→おもろい、ではないかと。そのあと、面倒臭い→めんどい、あたりかも。
 きっちりと調査すると面白い結果が出そうな気がします。

>「アナウンサー試験」【註】がちょっとあっさりしすぎかも。
 すみません。ショートショートとして読んでいただくため、【註】は最小限にしてしまいました。

>「投票テーマ」これはテレビで知った。知るまでは私の周辺では使われてなかった。その後耳にするようになったのだが、それってテレビが広げたということでは?
 わけのわからない若者言葉や誤用を広めるのにマスコミが大いに貢献しているのは明らかですね。

> いやー「おも」かった。ふうふう(^^;
 おもく思っていただき、嬉しいです。

 




「喜劇綺劇」より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月10日(木)18時42分14秒

返信・引用  編集済

 

 

高井信「誤用だ! 御用だ!」を読んだ。

先日書いたように、『ショートショートで日本語を遊ぼう』の続編です。

「奇妙な評価」>違和感のある短縮に初めて気づいたのは、たぶん90年代前半で、会社の若い連中が「はずい」とか「きもい」としゃべっているのを聞いてだったように思います。と書いていて思ったのだが、「きもい」はもっと前から流通していたかも。はっ、ひょっとして「きもい」がこの現象の発端なのかも。

「お見合い」>ら抜き言葉とかは、わたし的には許せるのですが、形容詞の連用形の弱化は、ものすごい違和感があります。ら抜き言葉が、ある意味文法的に細分化厳密化への変化すなわち進化と(私には)感じられるのに対して、形容詞の連用形「く」の弱化は、分化・厳密化とは真逆の現象のように感じるからかもです。それは「かわいい」のひとり勝ち現象すなわち「かわいい」に、「かわいい」の周辺の形容詞が呑み込まれてしまう現象にも通じます。イヌイットが「雪」の細かな状態に対応してたくさんの言葉を持つように、日本語もたくさんの「雨」をあらわす言葉を持っています。それが全部「雨」一語に集約されてしまったら、それは悲しいことです。

「通訳」>これは傑作。周辺(marginal)に遺風が残るという原則からいっても、本篇の状況は現実にありうる事態といえますね(^^;

「アナウンサー試験」>【註】がちょっとあっさりしすぎかも。前著同様の形式にしてもらったほうがよかったと思います。これでは本文で主人公同様の回答をした読者が、「わ、立ち直れないー」と感じてしまうかもしれないから(^^;

「女心」>し、知らなかった……わー立ち直れない!

「アリバイ>そ、そうなの?・・

「投票テーマ」>これはテレビで知った。知るまでは私の周辺では使われてなかった。その後耳にするようになったのだが、それってテレビが広げたということでは?

「結果発表」>これは読んで成程合点がいったという例。突き詰めて考えるといろんな理由が浮かんできますが、現今の社会情勢、社会的潮流と無関係ではない。

「難問>これはちょっと矛先が逆向きで面白い。主人公の基礎的な語学力の乏しさがこのような失敗をもたらした例。自分の経験で言えば、学生時代英語を訳しているとき、同じような(知っている人からすれば)詰まらない疑問に拘泥してしまってにっちもさっちも行かなくなったことがあります。たとえば二重否定をどう訳すかとか。日本語でも、わたしも時折使いますが「ナニナニしないこともないこともないこともない」なんて文を、一個ずつ指折り否定の否定の否定だから、とやるようなもので、成熟したネイティブスピーカーならニュアンスで捉えてしまえることが見えないわけです。

「目撃証言」>これは末期新本格のトリックと同じだ(汗)。

「虚偽報道」>「難問」と同じく逆からみた誤用の事例。

「好きか嫌いか」>編者の言うとおり「世界一短いリドルストーリー」(^^)

「チーフの役目」>これも傑作。「ぱねえ」と略すことを怒る識者(?)に「爆笑」!

いやー「おも」かった。ふうふう(^^;

 




「喜劇綺劇」より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 9日(水)22時26分43秒

返信・引用  編集済

 

 

かんべむさし「成程それで合点録」を読む。
おお、これは講談の台本ではありませんか! というか講談の一席を筆録した速記本というべきか。そもそも戦前の講談盛んなりし頃、かかる速記本もまた隆盛を極め、立川文庫へと発展していくのは周知の通り。本篇はかかる速記本の体裁を現代に復活させたものといえます。

当然文体は講談の語り口調ならぬ読み口調。往時のリズムそのままに、張り扇の音も威勢よく、衝口発と繰り出されたる言葉の連射を楽しむべきものである。したがって本当ならば音読するのが一番よいのですが、
「ポロッとこぼれるホワイトおっぱい。あ〜れ〜っなどと悲鳴をあげても、その手はゆるめん。下半身も丸出しにしてやれば、バタつく両脚、うごめくヒップだ」なんてのを大声で読むのは家族に憚られますから、そこはそれ、適当に口の中でごにょごによ呟くだけでもかまいません(汗)。

ただし間違っても<速読>はいけませんよ。速読とは、『新書1冊を15分で読む技術』という本があって、こちら(12月4日)によれば、
「文字を一文字づつ追ふのではなく、数個の塊として目にとらへ内容を把握する訓練をせよといふ内容」らしいのですが、そんな読み方では通時的な単音のフレーズの連続で「歌われて」いる本篇の面白さを完全に読み逃してしまうこと必定で、目もあてられません。私は二度読んで感心してしまったのですが、本篇は読本としての講談速記録の文体というかリズムを完璧に踏襲しており、まさしく講談師が語る口調が再現されている。従ってそれは当然講釈師が語っていると「みなして」読まなければならない。そうして読んでご覧なさい。なんと本篇の生きいきと面白いことか。私は思わず二度読んでしまいました(^^)

内容は、まさに講談らしく荒唐無稽文化財痛快丸齧的であり、随所に大小様々にくすぐりが入っており(小は「変奈元年」とか)ふきださずにはいられません。読みどころはやはり、伝統に則った「修羅場読み」の部分でしょう。著者も全身全霊を傾けた目一杯の全力疾走、あまりに力を込めすぎて腰を悪くした(「◎う〜っ。痛てえ、痛てえ。」)というのもむべなるかなの力業。ここは読者も張り扇片手に読むと吉かも(^^;
いや〜、もうおなかいっぱい堪能満喫しました。小説は音読で、と言う原点を思い出させてくれた快作でありました。

 




雫石さん

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 9日(水)17時57分10秒

返信・引用  編集済

 

 

> No.2200[元記事へ]

私にはいろんな才能がありますが(>大きく出た)、無から有を生じせしむ<創作>の才能だけはないみたいです。
既にあるものに対して、それを磨いたり変形したり毀したりするのは得意なんですけどね(笑)。
人生50年生きてきて、そういう自己の資質を認識したのはたかだか10年前。それはあまりにも目覚めるのが遅いやろと。本当に無駄な人生であります。噫。

『喜劇綺劇』が届いたので、これから着手(^^)

 

 

 

 

(追記) ――
でも完全にあきらめたわけじゃありませんよ(>懲りないヤツ(^^;)

 




Re: 「SFマガジン1月号」(ショートショートコーナー)

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年12月 9日(水)13時20分45秒

返信・引用

 

 

> No.2199[元記事へ]

ぜひ書いてくださいよ。
私は、いまだに書き続けていますよ。
SFマガジンのリーダーズ・ストーリイにも
投稿しているのですが、なかなか掲載されません。
講評では触れられるのですが。

http:////6823.teacup.com

 




「SFマガジン1月号」(ショートショートコーナー)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 8日(火)22時54分55秒

返信・引用

 

 

今月のリーダーズストーリー入選作はアイデアの勝利。ただしプロットの構成が私には不満です(^^;。336p1段2行目が「真のオチ」でしょう。ここで実質落ちている。読者はここでポンと膝を打って「アハハやられた!」と笑うんです。であるからしてそれ以降は付け足し感が強く、冗長。
これはやはり「真のオチ」をラストに持ってくる(ショートショートの最もオーソドックスな)形式であるべきです(そレに伴い、<私>がモニタで、原住民が飽きもせず興じている不可思議な球技を見ているシーンは伏線として先に挿入しておく)。「以前やってきた異星人……」云々という説明は不要。SSですからそんな細かい辻褄合わせに拘泥する必要ありません。もっと短くなってすっきりするんじゃないでしょうか。ちょっともったいなかった。

あーこういう作品を読むと、書きたくなってきちゃいますねえ(>ムリ!)。

 




Re: 要らないものは要らない

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 7日(月)22時31分1秒

返信・引用  編集済

 

 

> No.2197[元記事へ]

堀さん

下のリンク先の楽団なんて、それはもうプロはだしの実力なんですよ。なんでそんなにレベル高いのですかと、代表の中野さんに聞くと、キャバレーが楽団を抱えていた頃だったらそれで飯を食えた連中が集まっているからだ、とおっしゃってました。ジャズの場合、カラオケの出現でそういう需要が縮小するという大激変を経験して現在があるわけです。そんな状況がいいのか悪いのかは分かりませんが、クラシックがお上にすがるのを容認するのなら、彼らもまた同様に救済されなければなりません。クラシック業界だけ特別扱いというのは(これまででも)おかしかったのですよね。

> 演歌好きの成金社長をたらしこんで、本オケ・コンサートやるとか、オーケストラ諸君も、もっとがんばるべきですよね。

営業しなはれってことですよね。
それとこれだけ格差が開いた社会になってしまったんですから、アメリカのように金持ちが文化に貢献すべきだと思います(アメリカでは当然の義務になっています。それを忌避すれば社会的に非難される)。日本の金持ちは何もしません(したくなければしなくても済む)。そしていまだに日本では国や行政がそれを担っている(担わされてきた)。今の日本はとても金持ちが住みやすい国になっているように思います(^^;。

 




Re: 要らないものは要らない

 投稿者:堀 晃  投稿日:2009年12月 7日(月)21時42分47秒

返信・引用

 

 

> No.2196[元記事へ]

拍手!拍手!

大阪の某オーケストラが20年ほど前に著名ジャズメンをゲストに招いたコンサートが、楽団員の年金なんとか支援コンサート。
ゲストの某氏。
「仕事として割り切って演ったが、ジャズメンは明日どうなるかわからん状態でやってるのに、年金にジャズを利用するのもなあ……」
もっと詳しく書きたいけど、やばいからやめときます。

演歌好きの成金社長をたらしこんで、本オケ・コンサートやるとか、オーケストラ諸君も、もっとがんばるべきですよね。

 




要らないものは要らない

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 7日(月)20時27分33秒

返信・引用

 

 

「助成が削減されると、地方のオーケストラは存在できなくなる可能性がある」

クラシックは特別と思ってやがる。いらねーよ。
地方のジャズのビッグバンドを見習えといいたい→http://www2.sensyu.ne.jp/tikiri/link3.html

だいたい学校の授業でみた音楽会や劇や伝統芸能が、なんか役に立ってますか? 少なくとも私はゼロ。同級生の大半も寝てたぞ。
それがきっかけになることもあるって? そんな一部の人は授業とは関係なく、自発的に目覚めるのですよ。

 




「SFマガジン1月号」(5−2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 6日(日)22時18分54秒

返信・引用  編集済

 

 

「風来」(承前)
さて、
「風来はめぐまれている」存在であると人間に認識されていることは書きました。彼らの存在それ自体が、人間にはあまりに高みにありすぎて、ちょっとやそっとの努力がバカバカしく感じられて意気阻喪させられるのです。
「風来人がここにいる。そのことは文明再建の妨げになる。私たちとそれほど違いのない別の人類が、私たちのやることをじっと見ているんだよ。しかも私たちの失った科学など、かれらには子供のおもちゃのようなものだ」(74p)

そんな風来がなぜ、裸足に襤褸を纏った姿でビンの前に姿をあらわしたのでしょうか。そのためビンは、その「別の子」を憐れに思って、乏しい自分たちの夕食の残りを彼に与えようとします。
(もっともおそらくビンは、その子が「風来」の子であることを、半ば無意識にわかっているのです。その子はビンにとって<自由>の象徴でもあるのです。だからそういう行動をとったというのも反面あります。これは後述します)

まんまと風来の子の罠にはまって(後述)、ビンは自分の一張羅の靴までも、別の子に与えようとする。71pから72pにかけて、別の子が次第に図々しくビンの家に上がりこむ様子が活写されます。しかしそういう別の子の行動が、ビンと、ビンの祖母のガムをどんどんのっぴきならぬ深みへと落としていくことを、別の子は何も考えなかったのでしょうか? そんなことはありえない。結局別の子は、ビンたちが自分とかかわることでどういう事になるかなんて、(ニーマン・ジョエルのことがあった直後であるにも関わらず)これっぽっちも考えちゃいないのです。だから彼は、簡単にギッドにもシェーラの母親にも、その姿を見られている。というよりも、ビンのことを考えて見つからないようにするといった行動を全くとっていない。そうしようと思えば簡単にできる(能力を有している)のは、ビンのベッドに潜り込んだ描写から明らかです。(つづく)

 




同窓会の真実

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 6日(日)11時28分36秒

返信・引用  編集済

 

 

去年から定期開催となった小学校の忘年会。福島駅界隈の焼肉店でしゃぶしゃぶ。この辺見違えるように賑やかになっていますね。私はSF住職とのSF&世情検討会のため早めに到着していたのだが、6時開催の本会にやや遅れて参加した者によると、JR福島駅は待ち合わせの人でごった返していたとのこと。ほとんど西・西梅田状態であるなあ。

しゃぶしゃぶ美味! ここ(→http://www.fuku-warai.jp/index.html)の厳選しゃぶしゃぶ(プラス飲み放題)のコースだと思いますが、大変上等の肉で大満足でした。しかしながら量が多すぎて食べきれず、半分残してしまった。当然うどんもごはんも全然手をつけず。嗚呼まことに50過ぎ男女の宴会とはかくあるべしかと哀しくなってしまいました。もっとも残りは持ち帰り用にしてもらって、一番近い(自転車15分)者が持ち帰りましたが(30分後に2次会に現れましたが(^^;)。

ところで今回も衝撃の事実が発覚。当時「泥の河」の船から小学校に通学していた児童がいたらしいのです! 同級ではなく上の級にいたらしいのだが、私は全然憶えてない。しかしみんな知っていた。それから嘗てタイガース御用達であった厚生年金病院南面の下福島公園に、今でいうホームレスの仮住居が並んでいたというのも、私は初耳でした。私はそのほん近所に住んでいたので、知らないはずがないと皆はいうのですが……。「君は関心がなかったんやろう」といわれてしまったが、ただ単にぼーっとした小学生だったからではないでしょうかねえ。そういえば小学校のストーブはコークスで、コークス当番があったというのだが、これも記憶にない。だから社会的なことに関心がなかったというより、単に同級生より発達が遅かったのだと思います。

いずれにしても、私が真に私となったのは、中学一年の13歳の正月に創元文庫SFを初めて購入した時以降であることが、あらためて明白になったように思われます(^^;。

 




わ、SFマガジン!

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 5日(土)12時49分52秒

返信・引用

 

 

今から電車に乗って大阪に向かうのだが、デカすぎて持ち運び難いことに、直前になって思い至る(*)
電車にのるのが久しぶりなので、不覚にもこういう状況を予想していなかったのだ。
分割すべしと、咄嗟には思った。しかし時間がない。時間もないが、そもそも製本する紙も糊も用意していない。今更どうしようもないのであった。南無三。
とまれかくまれ何か持って出発するしかないなあ。何にするかな、とか考えている時間もないのだが……。
ということで、忘年同窓会に出席してきます(その前に梅田で本屋を回ってから別件の友人と会う)。

(*)余人はどうやって対処しているのか? ふつうに電車の中であの分厚いのをひろげているんだろうか? 満員電車で? ありえん。

 




「SFマガジン1月号」(5−1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 4日(金)21時27分53秒

返信・引用  編集済

 

 

ジーン・ウルフ「風来」(宮脇孝雄訳)

本篇は<風来>と呼ばれる不思議な一族の子供(?>大体子供なのかどうかも怪しいと私は睨んでいるのだが)と関わりあいになった少年の、受難の物語です。
この風来、人間と見た目は変わりませんが、どうやら人類とはちょっと違う人々のようで、解説で訳者は
「何も持たないかわりに超能力を身につけた新人類らしい」と解釈しています。が、本篇そのものにそう特定しうる記述がなされているわけではない。ひょっとしたら「火星人ゴーホーム」の火星人のように、テレポートしてきた宇宙人なのかもしれません。もっとも「火星人ゴーホーム」の火星人も、自らは一言も火星人であると言っているわけではなく、地球人がそう思い込んでいるだけでした。本篇の風来も、ひょっとしたら火星人ゴーホームの火星人と同様の存在なのではないでしょうか。
私はむしろ、精霊っぽい印象を強く持ちました。というのは、本篇が、全体として「遠野物語」に収録されていても不思議ではない雰囲気を強く纏っているように感じるからで、少なくとも<寒さお化け>と呼ばれることもあるらしいこの子供に、私は<座敷わらし>との類似を強く感じてしまうのです(後述しますが、善悪を超越した悪戯好きなところとか、ある意味家のために働くところとか)。実際、岩手の座敷わらしは、この仲間なのかもしれません。しかし存在は同じでも、<環境>が異なれば、違う影響をもたらす場合があるということなのかも。

ということで、以下、本篇の感想を逐次的に述べていきたいと思います。
本篇を読まれた読者が、まず疑問に思うのは(というか私が不審に思ったのですが)、風来は
「(地球人の)科学などかれらには子供のおもちゃのようなもの」(74p)だと人々に考えられている。自らも「ぼくは自分のことをとても恵まれている」(80p)と言っている。そんな風来の子がなぜ、靴も履かず裸足で、ボロを身に纏ってワラの中で寒さに震えているところを、主人公の少年ビンに発見されたのかということです。考えてみればおかしいではありませんか。ウルフがそんな杜撰な記述をするでしょうか。するからにはなにか意味があるのです。穿った見方かもしれませんが、風来の子は、ビンに近づくために、わざとそんな格好になっていたのではないでしょうか?
(つづく)

<BGM>

 




風邪か

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 3日(木)23時25分48秒

返信・引用  編集済

 

 

だるい。頭が痛い。ふしぶしも痛い。気温が急に下がったからでしょうか。
GyaOの、「悪魔の手毬唄」の最終回つまり解明編を見ていたのだが、あまりのつまらなさに途中で消してしまいました。まあ体調のせいもあるでしょうが。
ということで、例によってyoutubeをぼんやり聞いていたらこんな時間に。また無為に一日が終わるのであった。

あ、ウルフ「風来」を読了しました。こいつら、とんでもないやつらだ>風来人。

BGM

 




久しぶりのドタバタと、補足の追記

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 3日(木)17時16分7秒

返信・引用  編集済

 

 

そういえばうっかりしてましたが、12月8日発売の異形コレクション『喜劇綺劇』には、かんべむさしさんも寄稿されているのでした。いま突如思い出しました(^^;→「◎う〜っ。痛てえ、痛てえ。」
「ひさしぶりに、ドタバタ、アチャラカの短編」を書かれたとのことで、こちらも楽しみです(^^)

ところでビッスンと私では、見解の相違もある。私の妄想世界では、HSはNTを軽蔑しているとはいえ、同じ人間と考えている。一方ビッスンのHSは、NTをせいぜいサルの仲間くらいにしか考えていません。だから彼らに食人の意識はありえない。せいぜいインディ・ジョーンズに振舞われたご馳走と同じ感覚でしょう(^^;
これを言い換えるならば、本篇の世界のNTはホモ・ネアンデルタレンシスであるのに対し、私の妄想世界ではホモサピエンス・ネアンデルタレンシスなのです。もちろんビッスン自身は彼のHSとは違う考えです。

 




「スカウトの名誉」補足

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 2日(水)22時25分8秒

返信・引用

 

 

ころっと忘れていましたが、こんなことを書いていました→http://kuma-gor.hp.infoseek.co.jp/kakolog/herikonia-log0905.htm#neandel
ここに書いたわが妄想シーン、これって本篇と同じパターンですよね(汗)。いやーひょっとしたら私、ビッスン並みのイマジネーションがあるのかも(>ないない)。

序でにこちらも→http://kuma-gor.hp.infoseek.co.jp/kakolog/herikonia-log0502.htm

ヨーロッパ人の祖先であることが確定しているクロマニヨン人が黒色の肌の持ち主だった蓋然性は、かなり高いといえるでしょう。こういうきわめて重要な情報は、教科書のイラストなんかにはただちに反映させてほしいものです(特に欧米で)。

 




Re: 高井信さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 2日(水)20時36分29秒

返信・引用

 

 

> No.2187[元記事へ]

高井さん

amazonに反映されましたね。12月8日発売→【amazon】

>読者の方々にも楽しんでもらえると嬉しいのですが……。
いや誤用ものは内容が古傷を抉りますから(^^;、他人事としては読めないという強みがあるのです。しかもいちど恥かしい思いをしますと、強迫観念的に誤用ショートショートは全て読まずばいられなくなります(笑)。面白さは当然として、そういう実用性を併せ持っていますから、これは鬼に金棒ですね。私も楽しみにしています!

 




Re: 高井信さん情報

 投稿者:高井 信  投稿日:2009年12月 2日(水)07時12分52秒

返信・引用

 

 

> No.2184[元記事へ]

 ご紹介いただき、ありがとうございます。
 作者本人は非常に楽しんで書いています。読者の方々にも楽しんでもらえると嬉しいのですが……。

 




「SFマガジン1月号」(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 1日(火)23時27分33秒

返信・引用  編集済

 

 

テリー・ビッスン「スカウトの名誉」(中村融訳)
南仏の地層からネアンデルタール人とホモサピエンスが並んで横たわった骨の化石が発見され、人類学の永遠の課題に終止符が打たれたかに見えた。しかしそれは……

ネアンデルタール最後の男と、社会的スキルに問題があり、唯一の友人(無意識では友人以上の気持ちがあったかも)から去られ天涯孤独となった女性科学者の、その痕跡をあらかじめ現在に残された、しかし未だ始まっていない、遙かな過去での出会いの物語です???
と書けば、なんかジャプリゾみたいやな、と思われるかもしれません。それもそのはず。本篇は
「SF界屈指の技巧派」(解説)である著者の面目躍如たる超絶技巧小説(^^)。考え抜かれて制作されており、「星を継ぐもの」系の、まさにミステリファンが喜ぶ作品といえるでしょう。

ところでビッスンてかなりポピュラーサイエンスファンみたいですね。「赤い惑星への航海」もそうでしたが、ヨーロッパに侵攻したHSは黒人であったろうとか、NTの姿かたち、生態とか、サイエンスのトピックを実に上手に自作にはめ込んでいます。その手腕も一流ですね(もっとも私は、著者は少しNTの知的水準を低く見すぎていると思います)。

時の風のびょうびょうと吹き荒ぶのを感じることができる時間テーマの好篇でした。

 




Re: ちょっと事前サービス

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 1日(火)22時16分29秒

返信・引用

 

 

> No.2183[元記事へ]

雫石さん

大体こんな感じの曲だったと思うんですけどね(たぶん)→http://www3.ocn.ne.jp/~kumagoro/chachayanmidi.htm
うーん、どなたか覚えていらっしゃいませんかねえ(^^;

 




高井信さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 1日(火)20時28分31秒

返信・引用

 

 

今月発売の異形コレクション最新刊『喜劇綺劇』に、高井さんの日本語誤用テーマのショートショートが
13編、一挙掲載されるそうです→http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2009-12-01
ただamazonもbk1も、まだ反映されていませんね。発売はもうすこし先でしょうか。とりあえず→7&Y

『ショートショートで日本語をあそぼう』ちくま文庫(03)の続編というか拾遺というか、そんな内容」とのことで、これは楽しみ(^^)。
日本語誤用テーマは、高井さんが開発したショートショートの新領土であり、面白いばかりか教養として為にもなります。私自身、読んでいて何度、あまりの恥かしさに、ぎゃっと叫んで部屋中走り回ったことか(^^ゞ。まじでこれらをもとにテレビでクイズ番組作れるんじゃないかと思います。ということで、みなさんにもぜひお読みいただいて、どんだけこれまで誤用してきたのかと、恥かしい思いをして頂きたいと思いますです(笑)

 




Re: ちょっと事前サービス

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年12月 1日(火)19時29分50秒

返信・引用

 

 

> No.2182[元記事へ]

さあ、私も憶えていません。
ただ、高石さんの時は

 ヘイヘイヘイ
 夜明けに 夜明けに乗ろう
 一番 一番電車によ

と、いうご自分の歌を使っていたのでは、と記憶します。
あの歌、高石さんのCDに入っているでしょうか。
馬場さんは、ピッコロ協奏曲だったと記憶します。
で、肝心のことは思い出せません。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




Re: ちょっと事前サービス

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 1日(火)17時34分52秒

返信・引用

 

 

> No.2181[元記事へ]

雫石さん

>あのころの浜村純はリベラルでしたね
芦辺さんが、昔リベラルいま反動、とかなんとか言っておられましたね(笑)

>チャチャヤンが終ると、明け方まで「走れ歌謡曲」
あ、私は月曜日は聞きましたよ。いえレモンちゃんではありません。その後釜の高橋小枝子さんのファンだったのでした(^^ゞ

MBSはチャチャヤンの後はサンライズコールという番組で、これはずっと音楽を流していたんでしたっけ。もはやぜんぜん思い出せないのですが、テーマ曲はプロコルハルムの「青い影」でした。この名曲を知ったのはこの番組でだったと思います。

 

ところで、肝腎のチャチャヤンのテーマ曲がいまだ発見できなくて困ってます。曲名とか演奏者とか覚えてはります?

 




Re: ちょっと事前サービス

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年12月 1日(火)11時30分26秒

返信・引用

 

 

> No.2179[元記事へ]

私も、チャチャヤンが始まるまでは、バチョンがメインでした。
あのころの浜村純はリベラルでしたね。
チャチャヤンが終ると、明け方まで「走れ歌謡曲」を
聞いてました。歌謡曲には興味はなかったけど、
他に聞くものがなくて。

http:////6823.teacup.com

 




「SFマガジン1月号」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 1日(火)00時10分22秒

返信・引用  編集済

 

 

グレッグ・イーガン「クリスタルの夜」(山岸真訳)
解説にあるように、本篇は現代版「フェッセンデンの宇宙」です。ただ元ネタと違うのは、本篇ではミクロコスモスの住人が(途中から)不死者となること。これは面白かった。そもそも文明は(文化とは異なり)世代を重ねた(歴史的な)試行錯誤の上に築かれる(累積的/前進的な)ものであるが(cf.Aウェーバー)、本篇のミクロコスモス(サファイア)では、不死が世代交代に取って代わり、進化的な積み重ねではなく、一種「ミーム」によって文明が進展していくのです。
と書けばお気づきかもしれませんが、このサファイア人(ファイト)は、実は「息吹」のコンプレッサー宇宙の住人(ロボット?)と同じ存在なんですよね。偶然なんでしょうけど面白い。たくまざる連係というべきでしょうか(もしくは編集部の勝利?)(^^;

さて、本篇は寓話(寓意小説)です。寓意小説とはネットの辞書によると
「教訓・批判などを出来事にかこつけて暗示した小説」とあります。まさに本篇は、解説者の言うとおり「知性を持つプログラムの生殺与奪を弄ぶのは忌むべき行為ではないか」というイーガンの主張を、小説形式で表明したものといえるでしょう。
それは、本篇を成立させる大前提たる超コンピュータ「クリスタル」が、一種の魔法であることからも窺える。まず本篇が、現実の科学技術の可能な延長線上に打ち建てられる(未来を垣間見せる)ハードSFではないことを確認したい。そうではないのです。つまり、そもそも本篇の眼目である著者の主張に、場を提供するための装置として採用されたものである。ハードSFならば著者は、主人公に
「その手法の詳細まで明かすつもりはない」(27p)なんて言わせないに違いありません。

それでは、その当の寓意小説は成功しているのか。残念ながら私には、(ある意味管理社会論になっている)その主張には賛同するものではあるが、「小説」としてはずいぶん粗が目立つという他ない。
まず最初に、著者の思想を代弁する女性科学者ジュリーが登場するのだが、持論(=著者の持論)を開陳しただけで、あっさりそれっきり消えてしまう。ジュリーの対極に位置を占めるのが、このミクロコスモス宝探し計画の責任者であるルーシェンです。そして主人公はその両者を媒介する役割を担っている――という位置関係を、私の見るところでは、この物語そのものが本来要求していたはずなのです。
実際、多分そういう見取り図のもとに著者は出発したんだと私は思うのですが、進行するにつれ、ルーシェンと主人公の位置が、ともすれば重なってしまうのですね。
それはおそらく、ジュリーが途中で消えてしまったからなのです。その結果対位法が崩れ、主人公の行動が非常に矛盾に満ちたものになってしまっている。34ページでジェノサイドを敢行した主人公が、言語を獲得したファイトたちの最初の言葉(生の根源欲求)のなかに「grief」を認めて、「死」を取り除いてしまう(37p)のは、小説内の一個人の行為としては、ちょっと読者を納得させるリアリティを持たないように私には思われます。
この不死性は、出産の不可能性とセットになっており、その結果ラストが開かれるので、ストーリー展開上必須ではあるのですが、もしジュリーを残していれば、この二つの決断はルーシェンとジュリーに振り分けられて、ストーリーが自然になったのではないか。

もうひとつ、ストーリー上の(恣意的な)不備があって、これもラストの展開にいたるために必要だったんでしょうが、幾何級数的に文明を飛躍させていくファイトに対して、それまではふつうに行なっていたサファイアの減速を禁止してしまうのは、これもストーリーに奉仕させる恣意で、私には瑕疵と映りました。

ということで、結局のところ本篇は、意あまって力足らずといいますか、ガジェットが魅力的であった分、「小説としての出来」はいまいちだったように感じました。

 


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