ヘリコニア談話室ログ(20101)





【今日の名セリフ】

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月31日(日)21時04分14秒

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翻訳で読むなんてコピーバンドの歌を聴くようなものだ
なるほど言い得て妙(^^)。ところがコピーバンドの域を脱する場合があり、となるとそれはもはや「翻訳」ではなく「創作」というべきものになるのでしょうか(cf負けない翻訳)。

語学の才は伝統への聴従のサインである。語学の才を以って人に接近するものは、いかに一見狷介とみえようとも、隠微に迎合主義者(コンフォーミスト)であり、どこか高等詐欺師(ホーホ・シュターブラー)でさえある

 




Re: 眉村先生を囲む会

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月31日(日)20時31分32秒

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> No.2288[元記事へ]

雫石さん
昨日は残念でしたね。我々は先生を囲んでたのしい一刻でした(>おい)。
また次回よろしくお願いします(^^)

 




Re: 眉村先生を囲む会

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年 1月31日(日)15時56分6秒

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> No.2287[元記事へ]

 盛会の様子。よかったですね。
私も行きたかったのですが、あいにくこの日は、親戚の結婚式でした。
また、お誘いください。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




眉村先生を囲む会

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月31日(日)11時58分48秒

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きのうは梅田で眉村先生を囲む会。いつもの旧関テレ辺の店ではなく文字どおり「まぎゃく」なヒルトンホテル地下の「四季自然喰処たちばな」というところ。場所柄高いんちゃうのん? は杞憂でリーズナブルなお店でした。自然食というのが出席者の年齢構成が上に偏る当会的にはバッチシ嵌りだったかも(^^;
先生は過日東京の撮影所に見学に行かれたとのことで、便乗アワワもとい協賛企画(笑)もいろいろ上がってきているみたいですよ。正直有り難いことであります。どんな企画があるのかは、まだ確定ではない部分もあると思いますので自粛しますが、おいおいお知らせできるかと思います。お楽しみに!
10名ほどで先生のお話を拝聴。2時間の時間制だったのだが今逆算して気づいた、3時間近くいたんじゃないでしょうか(酔っ払うと時間感覚が吹っ飛んじゃうのです)。たのしかったー(^^)ご出席下さったみなさん、幹事の柳生さん、お疲れ様でした!

さて、少し早く着いて書店廻りしていたのですが、シーベリイ・クインが出ていてびっくり。手にとって確認したらグランダンもので長篇らしい。短篇集だったら即買いだったのですが長篇というのにちょっとひっかかる。唯一の長篇というのも(逆に)心配。私の読書人生は残りが限られているので(70迄*としても残り15年ちょっと、冊数にしてもっとも甘く見積もっても1500冊以内)無駄遣いはできんのです(噫)。ということで今回は静観。会でその話をしたらたまたま今日購入したという方がおられたので、ラッキーその方の感想次第で考えることに(^^;。で今検索してみたんですけど感想文は皆無ですね。うーむ。
今回漫然と書店に寄ったのではなく目的もあって、それはSFM3月号の購入。雑誌コーナーに積んであるのを無造作に(いつものように)上から三冊目(^^;を引き抜く。で、レジへ持っていこうとしてふと目の端をかすめた。何が? なんと「季刊邪馬台国」の最新号(2月号)ががっ! 特集「卑弥呼の墓・宮殿を、捏造するな!――おかしいぞ、マスコミ便乗主義考古学」というまことに魅惑的なワクワクする文字が躍っていて、即座に私はSFMを戻し、こちらを持って精算に向かったのでありました。

ということでとりあえず安本編集長の巻頭言を読みました。で思った。この方古代史界の福島正実ではないでしょうか(^^; 邪馬台国大和説という「事実誤認」「無理解」「論難」に対して、敢然と立ち向かい徹底的に闘うその姿勢は、まさにF編集長を彷彿とさせますなあ。

 *米朝さんが本がしっかり読めた(もしくは読む気力があった)のは70くらいまでやった、と言うてはった。

 




クビ以外ない!

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月30日(土)13時26分20秒

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http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20100129-OHT1T00244.htm

ほんとかよ(^^;
ほんとなら年末の異種格闘技参戦決定ですな。こりゃ楽しみだ(^^) 曙戦が組まれんじゃないか。曙ボコボコにされたりして。で、白鵬が観戦してるわけです。その白鵬に向かって、のびている曙の上にピョコンととび乗って「白鵬コノヤロ上がって来い」と挑発する。モンゴル語でいえばいいのになぜか日本語なのです。というシナリオで間違いなし。と予言しておきましょう。いやー今からワクワクするなあ。
ここはぜひジンギスカン鍋かぶって登場してほしいなあ。

さて今夕は年始吉例眉村先生を囲む会。書店も廻りたいので、もう少ししたら出発します。

 




中井、十蘭からカフカへ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月29日(金)18時17分31秒

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『久生十蘭短篇選』に着手。『幻想博物館』のあとがきで、澁澤が「(中井が)現在にいたるまで私淑している久生十蘭」と書いてあったので手にとってみました。なるほど、「酒田はもとより、知世子自身生涯に使い切れぬほどのものを持っていて、そのほうからの流通で安部の暮らしもいくぶん楽になったようだが、麻布の酒田の邸にはモネやルッソウを陳べた趣味のいいサロンがあり、バアナアド・リーチやブルノ・タウト夫妻がよく遊びに来ていたので、そういう雰囲気が安部になにかしらいい影響をあたえたとみえ、一個の実在だけを飽くまでも試作反復するというような窮屈なところがいくぶん少くなった」(「予言」)といった体の息の長い文体は、これだけを中井のそれだといって見せられれば、たわいもなく信じてしまいそうな、そんな類縁性を持っているように感じられます。
ちなみにこういう文体は、書き言葉ではなく一種の話し言葉に近い性質のもので、ただし話し言葉そのものではなくそれを加工して読むための文章として成立させたものといえる。ニュース番組でアナウンサーがひとつのニュースを紹介するのに、句点で区切らずひとつの複文にして読みきってしまうのと根底で同じものといえるのですが(その意味でニュースの読み上げも話し言葉そのものではない)、そういえばカフカの蜿蜒とつづく長文も、実はカフカの草稿が、もともと家族に朗読するために書かれたものであることによるのだと、想像力によって喝破したのは池内紀でした。
池内によれば、朗読では読み上げる口調や間の取り方で句点に相当する効果を聞き手に与えられるのであり、朗読とは元来そういうものだ。しかし朗読体をそのまま活字にしてもそういう息づかいは読者に伝わらない。よってひとつの長文を、カフカが息づかいによって分かち聞かせたのと同じ効果を訳者が「感じ取って」複数の短文に直した方が、カフカの意にかなうとしてあの訳文が成ったわけです。丘沢はそれを傲慢とみなすわけですがそれはさておき、カフカの翻訳は中井や十蘭の文体を手本にすると、なかなか自然な訳文になるのではないでしょうか。太宰もそうかもですね。いや太宰のそれは不自然か(^^;

あ、昨日は創元文庫版の合本『とらんぷ譚』を推奨しましたが、講談社文庫版もあとがきが錚々たる顔ぶれ(第1巻澁澤龍彦、第2巻種村季弘、第3巻自注、第4巻鶴見俊輔)で捨てがたい。また合本は文庫本とすれば重厚すぎます。読者の使い勝手からいえば200頁程度でポケットに入る丁度よいサイズの講談社版は、その意味で優れています。順番に出るのを待てばよい講談社新装版を今から読むのであればそれが最適ですが、出る間隔がどうやら2ヶ月ごとのようなので待ちきれなくなる可能性が多分にあり、それは案外と問題であるかも。結局どっちを選ぶかはあなた次第(^^;

 




「真珠母の匣」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月28日(木)22時04分53秒

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「アンテルメド」と「V 花火と殺人の誘いのこと並びに青は紅に勝つこと」の3篇と「W 砂時計の砂の滅びのこと並びに翔べない翼のこと」の3篇を読む。
大昔に読んだときは、幻想味も色褪せた通俗家族小説という評価で、とらんぷ譚は最初と二番目だけでもいいかな、というのがわが感想でした。それはしかしまことに見当違いも甚だしい理解であった。今回読み返して、大正生まれの三姉妹の、著者の他の作品と同様、それぞれに過去に縛られた物語(ファンタジー)は同じながら、本篇ではそれ(ファンタジー)が「老い」という(時間=現在を原理的に含まざるをえない)テーマによって揺さぶられる物語であったことに気づかされた。たしかに絢爛たる1巻、2巻に比べれば、表面、平凡な物語であるのは間違いなく、本書を最初に手にとってしまうと(かつての私のような)表層的な読みで終わってしまいかねない。講談社文庫版は4分冊なので、この巻から手にとる読者は当然いるわけです。しかしこれは、やはり1巻から順番に読んでいくべきで、そうやって読み進めてきたもののみが、本篇の真の面白さにたどり着けるように思われます。その意味では4巻を一冊に集成した創元文庫版中井英夫全集の『とらんぷ譚』の方が、作品のためにはよい形態であるように思います。

さて、トランプが4種それぞれ13枚のカードを持つように、とらんぷ譚もまた4巻それぞれ13作ずつ収録されているわけですが、トランプにはあとジョーカーが二枚入っており、もちろんとらんぷ譚においてもそれに対応する作品が二篇、用意されています。
「影の狩人」と「幻戯」がそれで、本書「真珠母の匣」の13篇のあとに付加されています。この2編は、上に書いたように幻想味という意味ではやや乏しい「真珠母の匣」の諸作からは一転、初期に戻ったような濃厚な幻想小説になっており、どちらも独立した傑作といってよい(アンソロジーに単品で収録可ということ)。ある意味このジョーカー2篇を介在させることで(とりわけ奇術を主題とした「幻戯」によって)本書は第1部『幻想博物館』と繋がり、とらんぷ譚は円環を形成し完成するわけです。

ということで、
中井英夫『真珠母の匣』(講談社文庫88、元版78)読了。

『とらんぷ譚』4部作は、『虚無への供物』と並んで中井の二大代表作であり、「虚無への供物」がアンチミステリの大傑作ならば、「とらんぷ譚」もまた<反SF>の壮大な大伽藍といって過言ではないでしょう。今回の講談社文庫版復刊によって、新しい読者の目に触れことができるようになるのは喜ばしいことであります。

 




既得権益としての正規雇用

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月27日(水)23時11分55秒

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たまたまクローズアップ現代を見ていたのですが、今回の「正社員の雇用が危ない」は、悩ましいなあ。番組の論調には概ね賛同するものですが、ただ余剰人員排出・人権費削減だけのリストラは問題外にしても、仕事のできない、もしくは意欲のない正社員は切りたいわなあ。今の制度では、仕事が出来ようが出来まいが正社員だから守られる、という一面が確かにある。昔いた会社でも、どうしようもない月給泥棒がいて、他方非常に優秀なアルバイトがいた。同じ労働者という身分の私でさえ、こいつをアルバイトにして、そのアルバイト君を正社員にした方が、賃金の分配が正しくなるばかりか、みんなが楽になって気分よく働けるんだがな、と苦々しく思った記憶があります。番組では不当解雇された方が取材されていて、部屋には高そうなギターがあり、立派な本棚に本がずらりと並んでいるのが写っていて、こりゃ趣味に生きている人だろうなあと直感した(あくまでも直感です)。で、そこからの連想で思ったんですが(この人がそうだというつもりは毛頭ないので念のため)、趣味を第一義として、どんなに職場が大変な状況でも残業は全て断り同僚が居残っていてもさっさと帰るような人は確かに存在します。出世さえ望まなければ今までは「制度」に守られていました。でもそういう人は同僚も不愉快ですし、まず「仕事に対する意欲」の観点から会社が解雇の対象とするのも判らんではないなあと思ったのです。
いったん正社員(期間の定めなき労働契約者)になれば身分が保証されるというのはとてもよい制度ですが、そして既得権益としてこれまではそれに安住もできたのだが、そういうのは改善されるべきだと私は思います。働きたくても職のない人の中には優秀であったり労働意欲に満ちた人材はたくさんいるはずなんですから、流動性は高くなければならない。
という一面の事実を見つつも、多方ハケンという会社都合の安全弁的雇用形態はなくしていかなければなりません。問題はこの両面から追い込んでいくべきで、そのなかからもっと合理的な形態を模索していかなければ、上記の問題は根本的に解決は出来ないのではないのかな、と思ったことでした。

『真珠母の匣』は、
「T 三人姉妹予言に戦くこと並びに海の死者のこと」の3篇、及び「U 老女独り旅のこと並びにセーヌ川に浮かぶ真珠のこと」の3篇を読む。

 




「人外境通信」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月26日(火)21時12分1秒

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中井英夫『人外境通信(とらんぷ譚)』(講談社文庫86、元版76)読了。
20年前の初読時より評価はぐんと上昇したが、それでも前2作の重層性や厚みには及ばない。というかわざと通俗小説めかして書いているのかも知れません。たとえば
「藍いろの夜」がそうで、作者らしいねっちょりした女性性への嫌悪はよく出ていますが、(巻末自作解説で「モーパッサン風」というオチも含めて)中間小説誌に載っていそうな話。
掉尾を飾る
「悪夢者」「薔人」「薔薇の戒め」連作は、著者は意に染まないようですが、私は案外よかった。こういう仕掛けこそ中井的だと思いました。とりわけ「薔人」はディッシュ=オールディス的なオチがかなり好き。
先に書いたように、前2作ほどの結晶化はなされていませんが、とはいえ中井の体臭は噎せ返るほどに充満しているのであって、決して読み捨てにすることはできません。これは私だけの感じかも知れませんが、全般にテレビドラマの「ミステリーゾーン」(トワイライトゾーン)や「ウルトラゾーン」(アウターリミッツ)の雰囲気があり、各編とも中井彫琢の出だしをそのまま若山弦蔵のナレーションにしてドラマ化したら、きっと面白いテレビシリーズが出来上がるのになあ、と思いました。
記憶より評価が上がったのは、初回ちゃんと読み切れてなかったからでしょう。ということで10年後辺りにまた読み返してみたいですね、まだ生きていればですが(>そんなことをいうのに限って無駄に長生きするのよな)。

いよいよ最終巻『真珠母の匣』に着手。

 




ビールとピーマン

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月26日(火)01時47分40秒

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ここのところビール(といっても第三のそれですが)がちっともうまくなくて、というよりもまずくて、しばらく晩酌をやめていたのですが、今日、何日かぶりで飲んだらうまい!と感じた。体調が戻ったのかも知れません。

『人外境通信』は10月から12月の三篇とアンテルメド。
「鏡に棲む男」は遙か大昔に読んだときは詰まらないと思ったが、今日読んだら抜群に面白かった。ピーマン讃(逆)が最高。

 




「テルミー」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月25日(月)00時10分18秒

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はじめてストーンズ「テルミー」を聞いたときは、なんて下手くそなんやと聞くに耐えなかったのでした。それはクラシック的な、全音と半音しかない、ある意味デジタルな西洋音階に耳が慣らされていたためで、ビートルズのクラシックなハーモニーは聞けても、ストーンズのようにそれからはみ出す音を(意識して)用いる音楽は、音楽として認識できなかったからです(下手なんだと認識されるわけです)。しかもビートルズの透明な声質に対してストーンズのそれはきしんで濁っている。それが突如良いと感ずるようになったのはいつだったか定かではありませんが、とにかく高校時代のあるとき突然それが訪れた(友人のMというのがビートルズとストーンズのアルバムを蒐めていて借りまくったのでした)。いうなればパラダイム変換です。そうなるともうビートルズ(少なくとも初期の)なんかよりもストーンズの方がずっとよいと感ずるようになりました。有名な「ア・ハード・デイズ・ナイト」のG7sus4/Dコードのように、ビートルズは西洋楽典的に高度化していきますが、ストーンズは逆方向に単純化していく。ストーンズの使うコードはごくありきたりですが、それはクラシックの観点から言うとそうなるだけで、実際はビートルズよりも音が豊穣なんですよね。それは一種「肉声の豊穣」とでもいうべきもので、ストーンズは南部や黒人音楽の影響を受けたといわれますが、デヴュー作のテルミーから既にしてそういう方向性を持っていたんですよね。従って非正統音楽的な感覚が最初から備わっていて、それが必然的に、それと親和的な南部音楽と結びついて、ミックテイラー時代に頂点をむかえる、と私なりに整理しているんです。もっとも事実に当たって裏付けを取ったわけではなく、すべて作品からインスピレーションを受けた「想像・妄想」なんですが(^^;。

   

 




フレンチポップスからハードロックへ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月24日(日)20時54分5秒

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ところで下のNは、みんなから「じいちゃん」というあだ名で呼ばれていた(^^;

高校で、一年の時ポール・モーリアのアルバムを貸してくれた友人のGは、頭も坊ちゃん刈りだったのだが、進級してクラスが変わりしばらくしたら、いつのまにか髪の毛を肩まで伸ばして軽音でロックをやっていました(笑)。ちなみに以前書いたget it onはいいよなあ、と頷き合ったK(実は私はチェイスを思い浮かべKはTレックスを念頭していたという笑い話)と、Gはバンドを組んでいた。この頃は数カ月単位で趣味が変わっていったもんでした(しみじみ)。

   

 




グリーン版とアンディ・ウィリアムズ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月24日(日)16時00分7秒

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中学の時の友人にNという男がいて、彼は読書は専らグリーン版、音楽はアンディ・ウィリアムズを好んでいたのですが、あるとき、S&Gはいいんやけど、アンディ・ウィリアムズで聴く方がずっと良いなあ、と言っていたのを思い出した。その時は私も、あ、確かにそやなあと頷いた記憶があるのですが、いま振り返るとそれはやはり違う。声量、声質、音程等をクラシック的な見地からみればたしかにそういえるかも知れないが、音楽はクラシック的な見地から一義的に決まるものではないんですよね。その意味で「サイモンはサイモンにまかすべし」とは言えますなあ。ポール・サイモンを聞いていてふと思い出したのでした。

 




今日は日曜

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月24日(日)15時16分5秒

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外出しないと本が読めないのは困ったことだ。ならば喫茶店に行けばいいわけですが、しかし週に一日くらいは隠ってだらだらしていたいのであった。

 

 




カフカとボルヘス

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月23日(土)22時00分4秒

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ボルヘス編<バベルの図書館>のカフカ『禿鷹』の挟み込み月報に、訳者の池内紀が、カフカの作品を通読するとそこに或る方向性がみえてくる。それは「名声という方向、歴史にとどまるべき栄誉ということ」で、これは広く流布する高潔謙虚なカフカ像とは異なる。もしそうだとすると、ブロートへの死後焼却すべしという遺言も、あるいはひょっとしてブロートが作り出そうとした肖像なのではないかと、「野心家カフカ」という雑文で書いたら、今度のこの(バベルの図書館の)仕事で、ボルヘスの序文を読んだ。なんとそこには、(遺言は)「ブロートが承服しないであろうことをあてにしていたにちがいない」と書かれていて我が意を得たということが綴られています。
池内もボルヘスも「遺言」だからといって素直に信じたりはしないわけです。目から鱗が落ちました。
私はこれこそが「読者」就中「読みの手練」のとるべき態度だろうと思いました。ブロート版は解釈ですが、ブロートが「読んだ」深刻なカフカが広く受け入れられたのは、見方を変えればブロートの「読み」(解釈)が優れていた証拠でもあろうかと思われます。

それに比べると「私たちは、カフカのかわりに改行できるほど偉くない」「カフカのことは、カフカに。わからないことは、わからないままに」という<史的批判版>の態度は、私からすれば昔の御用マルクス主義者と同じに見えてきます。学者の研究態度とすればそのような立場もありえますが、自由な生き生きとした読書においては、そんなもの糞でしかない。読書とは畢竟読者の「解釈」なのですから。批評理論とはまさにそれをきっぱりと認めてしまった立場といえましょう。その意味で、翻訳もどしどし自分の解釈で訳していいんです。その正否は、これまた読者の解釈に委ねられます。<史的批判版>的な逐語訳では、訳文から生き生きとしたしなやかさが失われるばかりか、実は逆に原作者の真意から遠ざかることが多いように、私には思われるんですよね。大体逐語訳って解釈を避けるから逐語訳するんではないかと、私は疑っているんですが。それこそ「わからないことは、わからないままに」(笑)……どうなんでしょう。

とらんぷ譚3『人外境通信』に着手。まずは7月から9月の3篇を読む。

 




「訴訟」と「審判」に就いて

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月22日(金)22時27分22秒

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『悪夢の骨牌』の瑠璃夫人が待ち望んだカフカは、いまから振り返れば<批判版>以前の、ブロートの解釈による所謂「深刻な」カフカであったわけです。
古典新訳文庫版『訴訟』は、<史的批判版>からの翻訳というのが売りなんでしょうが、<史的批判版>のコンセプトからいえば、そもそも翻訳すること自体冒涜ということになるんじゃないでしょうか。
「カフカのものはカフカに。わからないことはわからないままに。勝手にカフカを編集しない」。それは訳者もわかっていて「翻訳者は裏切り者だ。びくびくしながら私は史的批判版の「ラディカルな断念」を大きく裏切ることにした」

そうやって上梓された『訴訟』は、結果として白水社版『審判』とは、目次を見る限りは違いを探す方が難しい。結局丘沢版は、いまひとつの<批判版>として存在しているというべきでしょう。
その意味では著者が<史的批判版>を喧伝するのはちょっとおこがましいと思わないではいられません。あとがきでの威勢のよい言葉は、ぜんぜん「びくびく」しているようには見えませんな(^^; 章の並びは訳者の恣いままに(実際は<批判版>に準拠)しておいて、「ベック」という名前は触らなかったなんて、笑止としかいえません。
ではどこが(白水社版と)異なるのか。それは一に
「負ける翻訳」か「負けない翻訳」かの違いだけのように私には思われます。こちらは重要な違いといえる。

その前に「帯」の話。帯では訳者の尻馬に乗って
「深刻な『審判』から軽快な「訴訟」へ」などと煽っていますが、ブロート版との比較では妥当かもですが、訳者の仮想敵というべき白水社版(<批判版>)との顕著な差異とは認めがたい。<批判版>に準拠した白水社版すなわち池内訳版は軽快ではないのか、といったらそれはとんでもない話であることは白水社版を読んだ読者が一番よく知っている。つまり「帯」は白水社版を「故意に」見落としている、とんでもない詐欺惹句なんです。

訳者が主張しているのは、私の理解が正しければ、「カフカはあえて負けない翻訳にしなくとも、負ける翻訳で十分に面白い」ということではないか。上記のように、読者が本の形で読む分には、<史的批判版>と<批判版>の差異は殆どありません。ということは、つまるところ<史的批判版>からの翻訳だから「軽快」だと言っているのではなく、「翻訳」の<仕方>を丘沢は問題にしている。結局、丘沢は、池内訳のように「負けない翻訳」にしなくても、「負ける翻訳」で、カフカは十分面白いんだよ、と主張したいのでしょう。で、まさにその実践こそが『訴訟』であるというわけですね。丘沢の意気やよし。たしかに古典新訳文庫の『変身/掟の前で 他2編』の訳はよかった。そのことはここにも書きました。と同時に
「少なくとも主要な長篇はその主張にしたがった訳業を実際に示してもらいたいものだ」とも書きました。本書はそれを実現したもので、大変興味深く、これはやはり池内訳と併読するしかないでしょう(^^;

ともあれ『訴訟』の2大特徴のうち、<史的批判版>の翻訳であるというのは大嘘であるということは声を大にしていっておきたい(実際は丘沢<批判版>)。もうひとつの<負ける翻訳>についてはこれから読んで確認したいということです。

 




「悪夢の骨牌」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月22日(金)20時08分4秒

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「W 時間の獄のこと並びに車掌車の赤い尾灯のこと」の3篇を読む。
ラストの
「闇の彼方へ」は、あれ?破綻してる、と思って読み返したら全く破綻してなかった。まさにレトリックの手品であるなあ!
第1部『幻想博物館』にもまして<物語>が濃厚に立ち籠めた傑作で、<物語>はすべからくかくあるべしといいたい。SF読者必読の名著! とりわけラファティを好む人にはけっこう合いそうな気が(笑)
こう読み返してみると、牧野修を筆頭にいま活躍中の現代日本のSF作家に著者はずいぶん影響を及ぼしているなあ。少なくともアシモフやハインラインの比じゃない。そう考えると日本SF全集の第2巻に収録されてもよかったんではないかとさえ思えてくるのであった。

ということで、
中井英夫『悪夢の骨牌(とらんぷ譚)』(講談社文庫81、元版73)読了。

ひきつづき『人外境通信』に着手。

 




「野獣の青春」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月21日(木)01時41分45秒

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DVD「野獣の青春」(63)を観る。
大藪春彦原作、鈴木清順監督、宍戸錠主演。宍戸錠主演の映画を見たのははじめて。演技が一本調子で、新人の頃の作品なのかなと思いながら見ていたのですが、あとで調べると55年からコンスタントに主演しており、むしろ50年代後半(〜60年代前半)が活躍期なんですね。勝新よりも芽が出るのはずっと早かったのか、何となく意外でした。
非常にテンポがいい、というべきか、「勝手にしやがれ」を彷彿とさせるような無理矢理っぽいカットは、多分現在では考えられないほどフィルムが貴重だったからという理由が大きいのかも(^^;。と一瞬思ったけれど、そういえば「悪名」や「座頭市」でそんなふうに感じたことはないので、これは鈴木清順の方法論なのでしょうか?

 




ファンタジーとしての「悪夢の骨牌」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月20日(水)21時56分5秒

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V「戦後に打ち上げられた花火のこと並びに凶のお神籤のこと」の3篇を読む。
あとがきで種村季弘が書いているように、このあたりまさに
「戦後へのノスタルジーともいうべき感懐が、かなり手放しに語られている」。簡単にノスタルジーといってしまってよいのかどうか、ちょっと迷いますが、いずれにせよ中井は何を書いても、結局は「戦後」へと引き戻されてしまうのはそのとおりで、いわば「戦後の獄」へ幽閉されてしまっている。時間はそこで止まってもはや進まない。その意味で中井のコント・ファンタスティックは、まさに文字どおり(中野善夫の定義する)「ファンタジー」にきっちり収まっているといえそうです。

さてその3篇のうちの最初の
「緑の唇」には、瑠璃夫人が、「小脇にアメリカの週刊誌「タイム」――このとし初めてカフカを紹介した4月28日号を抱え、マックス・ブロートの、
  ……『城』を近代の『天路歴程』とするなら『審判』は20世紀の『ヨブ記』であろう。
  ヨオゼフ・Kはヨブのごとくに善良実直の人であり、神を畏れ邪悪を遠ざける者であった。
などと記した一節を思い浮かべて、英訳でもいいから、はやく『変身』を読みたいと考えている」
という描写があり、たまたまその数日前、丘沢静也によって昨年《史的批判版》より翻訳された『訴訟』と、《批判版》に準拠した池内紀訳『審判』を、たわむれに並べていた私は、スキを突かれたというか、まさにとらんぷ譚の語る「時間の奸計」に絡め取られたような気分になって、ちょっと茫然としたのでした。

 




「悪名」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月20日(水)00時10分10秒

返信・引用

 

 

DVDで「悪名」(61)を観る。
悪名シリーズの第1作、というよりシリーズ化される以前の(単発)作品。今東光の原作を踏まえた河内の朝吉がまだ半分カタギの、田宮二郎と出会ったころの話。
これはどんなシリーズでもそうですが、シリーズ化されることで自己パロディ化が進み、内容が軽くチャチくなっていくのがシリーズ化の通弊なのですが、逆にその軽みがオリジナル作品に勝るという面もあります。その意味でシリーズ作品の方から入ったわたし的には、オリジナルの本篇はやや重かった。それは多分座頭市シリーズにも(座頭市の第1作を私はまだ観てないですけれども)同じことがいえるはずです。
本篇は座頭市より1年先んずる勝新の最初のヒット作であり、恥しいくらい若い勝新が新鮮でした。

 




承前

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月19日(火)21時05分44秒

返信・引用

 

 

昨日は平沼赳夫の意見に蓮舫の個人的履歴は関わりをもたないと書きましたが、よくよく考えればそうともいえないことに気づいた。
つまり平沼は、蓮舫が「二位では駄目なのか」と発言したことに対して、そんな<国益を考えない>ことをいうのは、「もともと日本人じゃない」からだと理由づけたわけです。平たく言えば「半分外国人の血がまじっているヤツに全き愛国心はない」といっているわけです。そうですよね。

これを昨日のレトリックに沿わせるならば、オバマには「全き愛国心」がないと言っているのと同じことになります。論理的に平沼は、蓮舫に対してそういうならば、オバマに対してもそういわなければなりません。そして平沼が「それはそうなる」というんであれば、少なくとも首尾は一貫します。ただし外国人と日本人のハーフは<全き愛国心>を原理的に持てないという「幻想」の世界に生きているバカであることを満天下にさらしてしまいます。

一方「いやいや蓮舫とオバマを比べるのは話が違う。オバマは立派な人格者だ」などといって平沼がもし弁解するならば、それは筋が通らない。そんなことは中学生にだって分かる。そんな理屈もへったくれもない逃げ口上しかいえない平沼の頭の悪さ、バカさ加減をやはり満天下にさらすことになるわけで、いずれにしろ平沼赳夫が政治家としての基本条件を満たさないバカであることが、今回満天下に示されたといってよいでしょう。

こんな輩が新党を結成して選挙に打って出るそうですが、もしこれを当選させると、今度は選挙民がバカだということになり、オバマが昨日いうかも知れないと私が妄想した「オーノー、日本人ダメナ国民デース」が真となってしまうではありませんか。これではまさに日本国民は、「それみたことか」とオバマに馬鹿にされてしまいますわな。

暗澹たる気持ちになったので『悪夢の骨牌』のつづきを。U「ビーナスの翼のこと並びにアタランテ獅子に変ずること」の3篇と、アンテルメド「薔薇の獄もしくは鳥の匂いのする少年」を読み、日本人も捨てたものではないなと少し回復する。

 




「悪夢の骨牌」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月18日(月)20時53分36秒

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小沢問題で隠れてしまいましたが、平沼赳夫が仕分け人を務めた民主党の蓮舫参院議員について「元々日本人じゃない」と発言したそうです。→http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100118k0000m010058000c.html

《平沼氏はあいさつの中で、次世代スーパーコンピューター開発費の仕分けで蓮舫議員が「世界一になる理由があるのか。2位では駄目なのか」と質問したことは「政治家として不謹慎だ」とし、「言いたくないが、言った本人は元々日本人じゃない」と発言。「キャンペーンガールだった女性が帰化して日本の国会議員になって、事業仕分けでそんなことを言っている。そんな政治でいいのか」と続けた》というのですが、パーティー終了後の取材に対し、《「差別と取ってもらうと困る。日本の科学技術立国に対し、テレビ受けするセンセーショナルな政治は駄目だということ。彼女は日本国籍を取っており人種差別ではない」》と弁解しています。

蓮舫議員は、
《67年、台湾人の父と日本人の母の間に生まれた。当時は父親が日本人の場合にしか日本国籍を取得できなかったが、改正国籍法施行後の85年に日本国籍を取得した》んだそうですが、記事を読めば分かるように、仕分けに対する平沼の意見に、蓮舫の個人的履歴はまったく関わりをもたない(弁解でもそう言っている)。ということは逆にいえば、ふだんから平沼が思っていることが思わず口をついて出たということで、その政治家としての資質の劣悪さがはからずも露呈したものといえる。

だれかオバマ大統領に告口しちゃれ(^^;
オバマはアメリカ人の母とケニア人の父のあいだに生まれ、その後両親は離婚して母親はインドネシア人と再婚し、一時オバマ大統領自身もインドネシアで暮らしていたことは誰もがみんな知っていると思います。
オバマさん、正直にはコメントしないでしょうが、トホホな気持ちになるに違いない。きっと「オーノー、日本人ダメナ国民デース」って思ってるよ。しかしこれは平沼個人の資質の劣悪さにあるのであって日本人全体に拡大解釈して欲しくないんだよなあ。こんなヤツひとりのために日本人全体が悪く思われるかもと考えると、本当に腹立たしいねえ。

気分がめいったので、とらんぷ譚第2部『悪夢の骨牌』に着手。「T玻璃の柩のこと並びに青年夢魔の館を訪れること」の3篇を読んでほっと救われる。

 




「機械じかけの夢」より

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月17日(日)22時54分3秒

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体調はだいぶましになったがまだ本調子ではなく、前も書きましたが体温調節がうまくいってない、今日は比較的暖かく、ストーブを焚いていたら汗ばんできたので、ストーブを消して上着を1枚脱いでいたのですが、気がつけば鼻水を垂らしていた(室温18度なのに!)。自分の体温の状態を感じるセンサーが鈍くなっているんでしょうか。

「ロバート・シルヴァーバーグ」論(「上にいる神か下にある神か」)を読む。
公教と秘教の二項対立から公教と社会倫理と国家がそれぞれ同一構造の別のあらわれであることを喝破するこれまでの章にもまして力の入った論考になっており、このあたりからいよいよ著者の思想的遍歴(脱ヘーゲル・マルクス→現象学・構造主義?)が具体的に語られ始めている気配。それだけに拙速に半可通な理解で終らせたくありません。
ところがなにぶん『禁じられた惑星』を未読なもので、いまいち腹に嵌らない。そんな凄い作家だったかという記憶における不審感も作用しており、これはやはり現物にあたってみなくてはと感じたのでした。またひきつづく『光の王』も未読、その次の『闇の左手』は読んでいますがギブスンは完全未読という体たらく、そういう次第でここからは取り上げられた作品をまず読んでから本書の各論をトレースしていこうと思います。まあ当然の順序であります。
幸い『禁じられた惑星』『光の王』『ニューロマンサー』も手許にあり物理的な問題はクリアーしているのです。これらの諸作、ひょっとしたら宝の持ち腐れで終る可能性も十分にあったわけで、読もうというモチベーションが復活したのはある意味ありがたい。

 




「幻想博物館」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月15日(金)23時21分55秒

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体調はかなり戻ってきたと感じるんですが、断続的にというか突発的に熱が出ているのかな、そんな気がします。特に飯を食ったあと(当然主食はご飯ではなくビール)発熱する感じで、ちょうど今がそうなんですが、何となくだるい。酒を飲まなければ体調もいいみたいなんですけどね、とつぜんやめると家人が心配しそうでやめられないのであった(>おい(^^;)
仕事中は気も張ってるからでしょうけどふつうの感じなんです。体温も正常。って分かるのは、毎日のように訪問する食品会社の工場が、仕事柄インフルに過剰防衛気味で、入場の際は必ず入り口で体温を測られる、もとい測っていただけるので平熱であることが確認できるのです。それでも先日までは節々が痛かったのが、いまは解消しているので、まあ治りかけてはいるのだと思います。やっぱり正月以降、不規則な生活と睡眠不足がつづいたのが原因かなと思います。今は最低6時間、できるなら8時間の睡眠を心がけていて、よく眠れた日はやはり比較的快調になるようです。昔のようなつもりで無理しても、必ず反動が来るということですな。悲しいことですが受け入れるしかありません。

中井英夫『幻想博物館』(講談社文庫81、元版72、新装版09)読了。
本書を読むと、当時の著者がSFに対して強い興味と関心をいだいていたことが明瞭に読み取れますね。石川喬司もいちはやくSFでてくたあ等で絶賛していたと記憶しています(手許にないので未確認)。
で、今更気づいたことですが、、中井は結局小説でSFMに登場することはなかったんですよね。NW−SFには書いているのにね。当時すでに福島正実はSFMを去っていますが、もし在職してたら絶対に原稿を取りに行ったんじゃないでしょうか(ちなみに福島編集長時代にエッセイが1本あるようです)。

中井作品を読むと、私はいつも「手品」を思い出します。本書の
「地下街」に、うらぶれて客集めしている街頭の手品師の描写がありますが、まさにそんな感じを私は中井英夫自身にも感じるものです。その「地下街」は「手品」そのものがテーマですが、そういうことに関係なく、どの作品もそのうしろに「種も仕掛けもありません」といいながら手つきもあざやかにマジックを披露する中井の姿が見え隠れします。取り揃え並べられた小説のなかには、実際場末の手品よろしく<拵え物>の仕掛けが透けて見えている場合もあるのですが、それが欠点とならず逆にそのちゃちさが魅力となっている。
本書は短篇集ですが、収録の各短篇は、実は長篇の各パートとして作り込まれてもいます。ただしアメリカのペーパーバックで短篇集を強引に長篇化してしまう(例えば『爆発星雲の伝説』のアメリカ版は全体をある大星雲の年代記という形式にまとめるため、各短編にかなり無理な手を加えてあるそうで、浅倉訳ではそれをできるだけ原型にもどしたと訳者あとがきにある)ような安易なそれではなく、ここでもまた中井の「<拵え物>へのこだわり」といった職人気質が強く発揮されており、個々のトリックの上にトリックを重ねた大掛かりな仕掛けが施されて、読了後に本書は長篇時間SFとしての新たな相をみせ、そろそろ帰りかけていた観客に最後の大サービスで驚かせ楽しませてくれるのです。

 




とつぜんショートショート(偽)その5

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月14日(木)18時09分47秒

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愚者を踏む。

――ぐしゃ!


蛇を踏む。

――ぐじゃ!



(自評)これはコントだ。

 




「幻想博物館」と「コント」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月13日(水)23時25分14秒

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中井英夫『幻想博物館』に着手。まだ三分の一だけれども、やっぱりいいですねえ。何といっても短いのがよい(^^;。収録作品はすべて創元短編賞の最低枚数(40x40x10枚)にも達していません(爆)。つまり長けりゃいいというものではないということで、SFM2月号の諸作品ですら、たとえば本書の「火星植物園」を読んだ後で振り返れば、長すぎるという気になってきます。もっと削ぎ落とせるのではないか(いやまあ無粋を承知でくっつけちゃうのがSFなんですが(^^;)。

ところで巻末解説で澁澤龍彦が、中井作品に対して「コント・ファンタスティック」という言葉をあてており、まあ言いたいニュアンスは理解できるですが、わたし的には「コント」という言葉はどうもそぐわない感じがしてしまう。
というのは、私が「コント」という言葉を意識したのはおそらくネオヌルのショートショートコーナーの筒井康隆の選評であったはずで、そこで筒井さんは、ショートショートに対置する形でコントという言葉を用い、たとえば「これはコントだ」という言い方をしていた。展開すれば「この作品はコントでしかない(ショートショートではない)」という意味で、地口洒落の類あるいは下品なアイデアの下品な処理で作られた作品に対して「コント」と言っていたと思います。

そこで刷り込まれてしまったので、私には、中井作品に対して「コント」という言葉を使うのは、そぐわないような感じがしてしまうのです。澁澤のいうコントは、原語のフランス語の「conte」のシニフィエ(意味内容)なんでしょう。一方筒井のいうコントは、おそらく(漫才に対するコントのように)日本でのみ膾炙されるようになった、いわば日本語としての(カタカナの)「コント」と考えたらいいのかも知れません。
本来的には澁澤が正しいのかも知れませんが、日本に移入された段階で、ある意味正反対な意味内容となってしまったのでしょうか。面白いですね。

 




「機械じかけの夢」より

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月11日(月)23時17分10秒

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ということで散歩してきました。2500歩。なんとなく、ちょっとすっきりしたような感じ(^^;

ハリイ・ハリスン論(
「黄金期とニューウェーブのあいだ」)を読む。
著者によれば、アシモフ「銀河帝国の興亡」(51)によって開始された<SF社会−学>が真に開花するのは、実に60年代後半、ハーバート、ゼラズニイ、ル・グイン、シルヴァーバーグらの登場を待たねばならなかったとします。アシモフが「古い」経済学、社会学、政治学(その頽落型である社会工学、行動科学)を土台としたのに対して、「デューン」では生態学、「光の王」では神話学、「闇の左手」では人類学、「禁じられた惑星」では言語学といった具合に、彼ら新しい連中が自作の基礎に据えたのは、戦後発展してきた「新しい」<社会−学>であり、これら諸学は古い諸科学の、いうなれば<現象学的還元>を経てきた学問であるわけで、当然それを土台とするSFもまた、新たな地平を拓いたのだとします。
ではアシモフと上記新作家たちの間に見るべき成果はなかったのかというと、そういうわけでもないとして、著者はハリスン、ファーマー、ディックの名を挙げ、とりわけハリスン「死の世界」(60)を俎上に乗せます。

著者は、「死の世界(3)」あとがきで訳者中村保男が、ハリスンが導入した社会学の位置づけとしてその講談的面白さの添え物としてしか認識していないことを強く批判し、この三部作が、<社会−学的思考>によって
「内在的かつ構造的に支え」られていることを具体的に例証していく。と同時に、アシモフがヘーゲル的な目的論的決定論的社会発展(心理歴史学)を疑わなかったのに対して、ハリスンは既にそういうのを信用しておらず、「新しい社会諸科学」に片足をかけており、その意味で「アシモフとニューウェーブのあいだに位置し、後者へと連続する要素を体現している」と評価します。
「ハリスンは、意味論・論理学から人類学・社会学のみならず、宗教学・神話学にまで及ぶ<SF社会−学>的思索を、この作品に埋め込んでいるのだと考えるべきなのである」

ところでこの論集は副題が「私的SF作家論」となっているように、著者の思想的変遷を同時に跡付けるものでもあるのですが、このような<SF−社会学>の内的重心移動と対応するように著者自身もヘーゲル=マルクス的地平を離脱し、レヴィ・ストロース=フーコー的な新世界へと踏み入っていくことになるようです。

 




夜の散歩

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月11日(月)21時11分24秒

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昨日からどうも調子が悪くて何もかも全然はかどらなかったのだが、今日も今日とて部屋でパソコンを触っていると、ふと気がつけば汗をだらだらかいていた。どうやら熱があったようだ。調子わるいなあ。それ以前に汗が流れ落ちるようになるまでそれに気づかないのが問題だ。ところが気づけないんだなこれが。ぼけてますな。そんなことさえ判らんようになったんか、と悲しい気持ちやね。うーん、それにしても頭がどんよりしてすっきりしないのがつらい。そういえば、土曜からこもりっきりで一歩も家を出てないのだった。体調不良は運動不足が原因かもしれんな。ちょっと散歩してこようかね。


 




復刊!「幻想博物館」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月10日(日)18時56分17秒

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今更なんですが、昨年末に『幻想博物館』の新装版というのが講談社文庫から出ていたんですね。ぜんぜん気づいていませんでした。→【amazon】
本書は、とらんぷ譚四部作の第一巻にして、《70年代SF国の殷賑窮めし首都より鄙離ること何千里人跡稀なる僻遠の地に聳え立つ孤高の時間SF》ですので、未読の方はぜひ!
新装版ということだから、(現物未確認ですが)一応「初版」扱いなんでしょうね。そうなら森下さんのベストSFに投票できますね。しめしめ(^^)

 




「ミラクル三年……」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月10日(日)12時45分44秒

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かんべむさし『ミラクル三年、柿八年』(小学館文庫10)

タイトルはこのあと実は「〜道上浜村三十年」とつづくのです(^^)
夜更ししたが一晩で読了。これは正味面白かった!
いまの私には一冊の長編を一気に読み通す体力(というよりは集中力)がなくなっているのですが、その私が、小休止しつつではあれ一晩で読みきってしまったのですから、この事実自体で、本篇に対する上記「面白かった!」という言葉がいかに簡潔にして正鵠を射たものであるか、わかっていただけるのではないでしょうか(^^;。

本書は、著者が3年と3ヶ月ラジオの早朝帯番組でパーソナリティを務めた体験をもとに書き下ろされた長編小説です。
「小説」と書きましたが、主人公は「かんべむさし」です。登場人物も、有名人(一種の公人)は実名でありますし、それ以外は一応仮名ですがすべて実在の人物であり、創作されたキャラクターはいません。当のラジオを聞いていた人ならば容易にそれが誰であるのか特定できる。<外的事実>は歪曲されていないと思われます。そういう意味では「私小説」です。

しかし一般的な私小説が、特殊個人的な私生活を赤裸々に暴露描写するものであるとするならば、本篇はいささか私小説のイメージにそぐわない。それは描かれる舞台がラジオの世界という、ある意味なかば公的な空間であるからかも知れません。ここに書かれている内容の大半は、番組の熱心なリスナーならば「ああ、あの話か」という感じで、恐らくほとんど既知の事項なのではないか。とはいえリスナーが表層的には「知っている」個々のエピソードについて、主人公の「かんべ」(やスタッフが)がどのように感じ、行動した結果のそれであるかが、本篇を読むと伝わってくる。それは読者がリスナーであるなしに関わらない「小説」の醍醐味であるわけで、その意味でいうならば本書は「私小説」というよりは「ノンフィクション・フィクション」といえるでしょうか。

またそれと並行しましすが、当然主人公が「かんべ」ですから、執筆している当の著者自身の所感と思しい「意見」や「感想」が随所に散りばめられてもあり、「長編エッセイ」の趣きもあります。

大昔に多少の経験があるとはいえズブの素人のSF作家によって手さぐりで開始されたラジオの2時間帯番組(のちに30分延長)が、スタッフに支えられ、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返していくうちに、おのずと阿吽の呼吸が生まれ番組のコンセプトも定まり、それが次第にリスナーに理解されていくばかりか、社内的評価も「大丈夫かいな」から「なかなかやるやん」というふうに変わっていきます。本篇はラジオ番組の立ち上げから終了までを描いた「プロ(ジェクト)小説」でもあるのです。

と同時に、それに伴って主人公かんべの意識も、触発されたり反発したり不安になったりしながらも、やはり「成長」している。本篇は、これは珍しい還暦も迫った主人公の「成長小説」でもあるのですね!

そういうタテ糸に加えて、ヨコ糸としてチームメイトであるスタッフが実に生き生きと描写されており(とりわけ相方の中崎くに子アナ)、というか主人公かんべによって鋭く深く洞察されており、そのあたりも面白い。

本篇は私小説でありノンフィクション・フィクションでありプロ小説であり成長小説であり、視点をずらせば長編エッセイでもあるという、いわば一種独自な「全体小説」となっているように思われます。
そしてそのような「全体」が協働するからこそ、上記のように一晩で読みきって「しまわせられる」、途中で巻を措いて寝てしまうことなど「させてもらえない」、実に「高齢者に対して情け容赦のない(笑)」老人虐待的オモシロ小説と成り得ているんだと思います。

 




「ミラクル三年……」到着

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 9日(土)13時29分39秒

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注文していたかんべむさし『ミラクル三年、柿八年』(小学館文庫)が届きました。→【amazon】【bk1】
今日は笠井潔の続きのつもりだったがこっちを選択することに。たのしみたのしみ(^^)

 




SFM2月号より

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 8日(金)20時26分31秒

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小川一水、円城塔、山本弘、森岡浩之、菅浩江、野尻抱介を読む。高レベルな作品目白押しで甲乙つけがたい。

小川一水「アリスマ王の愛した魔物」、これは凄い。小川一水って結局は「リアル」に囚われた作家だと、いまのいまで私は思っていました。認識を改めなければならないかも。ひょっとして本邦最高のSF作家は小川一水かもとすら思わせられる傑作でありました。本篇は一水版アラビアンナイトというべき傑作ファンタジーで、数のためなら民草も泣かす、それがどうした文句があるか的非情の人力コンピュータ「算廠」のアイデアがすばらしい。アリスマ王が数的サヴァンであったことにより物語は開始されるが、その世界の維持に第2のアリスマ王は必要ありません。なぜなら数の精はすでに世に解き放たれてしまったから。アリスマ王は扉の鍵でしかなかったというわけです。

円城塔「エデン逆行」、これも面白い。「時計の街」では垂直に伸びる直線(ただし6面を持つ。つまり一日6時間制と考えるとわかりやすい)である時計塔の針は動かず、住民が(時計回りに)回って時が刻まれる。街の中心にあるその時計塔から「まっすぐ」六方に伸びる道は、しかしその結果「螺旋」を描く。そして時計塔に近づけば近づくほど当然一周の距離は短くなるが同時に道も細くなり人間も小さくなって一周に要する時間(一日)は不変なのです。なんとなくブラックホールに呑み込まれて行く描写みたいで、中心に「辿りつくことは叶わない」のです。そうしてこの街では、「わたし」が女ならば、「わたし」は母方の祖母と同じであり(男なら父方の祖父)、わたしの娘が女の子を生まなければわたしは絶える。こうしてこの世界はエデンの園に向かって遡行して行くのです。円城版「隠生代」!

山本弘「地球から来た男」、本篇は上記「エデン逆行」を引き継ぐ話ともいえるもので、「Y染色体遺伝子」断絶阻止にばかり血道をあげ、その保有者の人権には目を向けない国民に嫌気がさし、「断絶」のため宇宙に逃亡した王子が、ある存在を知らされ引き返す。更に本篇は小林泰三作品での利他的ユートピアその一に対応するものでもあります。面白かった!

森岡浩之「気まぐれな宇宙にて」は、カイパーベルトに発見されたホットラインもしくはショートカットに類する「HCF」を巡るいわゆるひとつの「ちいさなお話」。宇宙にネット状に存在するショートカットというガジェットはアメリカSF的にはありふれているが、本篇のそれはちょっと類例がないのではないか。ストーリーは「ショートショート」的なお話なのですが、雑誌SFとしては理想的な作品だと思います。

菅浩江「夢」は力作。小川作品を享けるように数的サヴァンの主人公が登場するが、舞台はもっとリアルで、サヴァンの人々の一般人との齟齬や軋轢、すなわち「集団(社会)のなかのサヴァン」が真正面から描写されていて、万人に読んでほしい作品となっています。ただ瀬名作品の「ケンイチ」と同じで、著者自身の「かくあれかし」という思いが強すぎて「理想化」されすぎている憾みがあるように私は感じました。サヴァンである主人公の内面が、主人公によって理路整然と把握されすぎているのです。それは畢竟著者の「信念」の投影でしかないのではないかという一抹の疑いを払拭しきれない。一般に作家である作者によって完成される「小説」ではありますが、しかしそれは往々にして作者の意図を越えて広がりを示す場合がある。というよりそうならずにはいられないのが「小説」なのです。と私は考えるものですが、本篇ではそういう「小説」本来の在り方に対して、逆に箍を嵌めてしまうところがあるのではないか、そんなことをふと感じました。

野尻抱介「コンビニエンスなピアピア動画」、これも面白かった。掉尾を飾るにふさわしい快作でした。ハードSF・リアリズムSFの本道であるオプティミズム一色のストーリーはある意味壮観。プロジェクトに対して逆向きに働くエレメントはいっさいなく、偶然の味方や棚からぼた餅も含めて全ての要素が「結果」に向かって協働していく! それが痛快でした。

ということで、
『SFマガジン2010年2月号』読了。
今回読んでまず思ったのは、個々の作品の背景にかなり共通性があることで、「現在」のSF作家は関心事項がずいぶん重なっているんだなあと感じました。これは第1世代が(意図的なのか結果的なのか分かりませんが)それぞれ自分のホームグラウンドを持ちお互い侵犯しあわなかったのとはまさに真逆(「まぎゃく」とお読み下さい)なジャンルの在り方を示しているわけです。面白い。今後その状況がどう変わっていくのか行かないのか、そういう意味で目が離せなくなってきました。

 




SFM2月号より

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 7日(木)17時03分14秒

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連載である梶尾真治、新城カズマはとばして、北野勇作、小林泰三、田中啓文、冲方丁を読む。
この4篇では、
北野勇作「路面電車で行く王宮と温泉の旅一泊二日」の面白さが圧倒的です。
牧野作品に引き続いて、本篇は幻想小説なのですが、牧野作品がまだSFの尻尾を引きずっているのに対して、本篇はさらに純然たる幻想小説となっているように思います。
牧野作品においては、作者が一義的に展開したかった(に違いない)幻想領ノドランドを現前させるために、(現実の)高齢化社会からの、所謂「エクスポラポレーション」というSF的手続きが踏まれている。ただし社会派SF的な未来予測への志向は著者には殆どなく、形式的なものなのですが(それゆえ先日書いたような「リアリティの不足」を感じさせもするのだが)、著者はこういう手続きを踏まないとノドランドへ至ることが困難だったのだろうと想像するのです。SFの尻尾を引きずっていると記す所以です。
翻って北野作品には、もはやそのようなSFへの思い入れや形式に対するこだわりは毫も残っていないようです。従って「王宮のある温泉街」は、外的な「リアリティ」とは全く繋がりをもたずに建設される。ここにはエクストラポレーションが関与する余地すらありません。「王国」へ到達するのは、はなから<外なる現実>とは繋がらない「芋虫を改良した路面電車」によってなのです(当然ながら内的リアリティは別)。
ちなみに管見によれば(本板で何度も言及していることをまた繰り返すわけですが)、幻想小説の王領へは、恒に乗り物によって「到着」するのであり(シュルツ「クレプシドラ・サナトリウム」然り、荒巻「神聖代」然り)、本篇も同じく幻想領へと至る王道を踏襲しているのです。

*)そういえば本篇は「クレプシドラ・サナトリウム」と構造が似かよってますね。

 




SFM2月号より

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 6日(水)02時04分28秒

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ひきつづき、谷甲州、牧野修、神林長平、林譲治を読む。
このなかでは、
牧野修「小指の思い出」が異様な傑作。日本的幻想小説のひとつの達成ではないか。素晴らしい。
しかしあえて粗を探すならば、年金制度も保険制度も破綻した世界で、超互換臓器が(一部の金持ちのためのものではなく)一般に普及しているという前提設定は、ちょっと説得力(リアリティ)がないように思うのですが。

 




創元SF短編賞の締切トリック!

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 5日(火)22時45分25秒

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みんな創元SF短編賞の原稿は書けたかな? 私はさっき郵送完了しちゃいました(^^)
ふっふっふ。40x40x10枚くらい、一晩徹夜すれば書けちゃうのさっ!
そんなんじゃだめだって? いいではないか。参加することに意義があるのだから(汗・・
みなさんも早く仕上げないと間に合わないですよ(と煽る煽る。もう送っちゃった者の強みだ!)。

なぜなら、締切にトリックが仕掛けられているからです!
気づいてましたか? 「2010年1月12日(火)必着」ですからね。消印有効ではありませんよ。来週火曜日必着!!

「エーッ」と思わず声を上げた人がきっといるに違いない。

つまり速達は別にして、地方からだったら今週中に発送しないと火曜には到着しないってことです。あと、水、木、金の三日しか時間は残されてないのだ。
さあ、かなり焦ってきたのではないかな。ほれほれ、今日から徹夜だ(笑)


 




「マグネフィオ」補足

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 5日(火)20時13分59秒

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昨日、小酒井不木の名を挙げましたが作品までは思い出せなかったのでした。さっき青空文庫を検索して思い出した。「恋愛曲線」です。未読の方はまずは読んでみてください→http://www.aozora.gr.jp/cards/000262/card1458.html
オチは別にして、ストーリーの構成自体も(脳と心臓の違いはあれど)意外によく似ていると思います。わけても恋愛曲線を作ろうとする語り手(と協力者)の「意志」と、生体チップに賭ける「マグネフィオ」の主人公和也(と菜月)の「意志」のベクトルは、ほぼ同型といえるのではないか。
かかるベクトルは、突き詰めれば一種「昏い狂気」(パッション)とでもいうべきものであって、戦前のある種の探偵小説は(犯罪を扱うことで)実はこのような「狂気」へのまなざしが強くみとめられるように思います。
それから翻って上田早夕里の既読作品を思い起こしてみると、随所にやはり「昏い狂気」が認められるのですよね。
SF作家にも狂気を扱う作家は多いですが、このような種類の「狂気」は、案外SFではお目にかかれないような気がします。このあたりが上田早夕里の他には類例を見ない独自性ではないでしょうか。

 




SFM2月号より

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 4日(月)21時28分38秒

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ということで、早速順番に読み始める。
飛浩隆は連載なのでとばして、山田正紀、椎名誠、瀬名秀明、上田早夕里まで読んだ。
ここまででは
上田早夕里「マグネフィオ」が抜群に面白い。内的に戦前の探偵小説に共通する認識の視座が感じられ、肌触りがとても近いと思いました。イメージとして理化系の探偵作家、とりわけ小酒井不木が思い出されます。
ただ相貌失認の描写に少し引っかかるものを感じた。私の理解では、相貌失認とは、ちゃんと相手の顔は、「形体としては」見えているのだが、それを統合的に、個別化して認識できないというものではなかったっけ。「輪郭はあったが(……)すべて細かい破片となって散らばっていた」というのとは違うような気がするのだが、そういうのもあるんでしょうか?

 




新年会顛末

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 4日(月)15時04分25秒

返信・引用  編集済

 

 

昨日の新年会、楽しかった。何よりの愉快は皆酒を呑むと体が痒くなるらしいことが分かったことで、あ、みんな一緒、俺だけじゃなかったんだーと嬉しくなった(>そういう問題ではない)。
毎度ながら、この会は甚だ鯨飲度が高く、それも「ハンパなく」高くて、案の定帰途乗換駅を乗り過ごしてしまった。案の定と書いたが、乗り越すなんて実はきわめて久しぶりで、直近の記憶はない。少なくともこの10年ではなかった筈。まあ弱くもなったということなのだろう。乗越駅では幸い駅員に見つかることなく戻りの電車に乗れ、ああよかった刑罰を受けずに済んだとほっとする。
一年ぶりともなると色いろあるわけで、リストラにあうも一念発起して会社を設立し、しかしこのご時世で開店休業同然となりアルバイトしているという話もあって、私も例に漏れないのだが、大変な時節である。今年はもひとつ厳しいのではないかという話をする。
そういえば東京創元社の短編コンテストの締切が迫っていることを知らされ愕然。なんとなく春頃締切と思い込んでいた。間に合うのか。まだ全然書いてないのだが。
ところで会には少し早く到着したので旭屋に寄る。SFM2月号をパラパラ見ていたら、眉村さんの祝辞(?)が掲載されているではないか。これは買わないわけにはいかない。買った。1月号と2月号で5千円も散財してしまった。宴会1回分だ。そう考えると高いとも安いともいえる。いずれにせよ今月は緊縮財政である。
帰宅するやシャ乱Qもといバタンキュー(死語)。ところが4時頃目覚めてあと眠れなくなった。とはいえ頭が痛くて本を読む気にならぬ。布団の中で輾転反側しているうちに6時になる。これはラッキー昼時間に戻すチャンスとばかり、このまま起きといたれと思ったのもつかの間、寝入ってしまい気づいたら11時だった。これでは昨日と同じではないか。不覚。

 




新年会

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 3日(日)13時41分58秒

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仕事初めに備えてそろそろ生活時間を昼時間に戻そうと、貫徹するつもりが5時過ぎに寝てしまった。で11時に目覚める。これではいつもと一緒ではないか。不覚。

さて今日は風の翼新年会。これから着替えて、もう少ししたら出発します。

困ったズボンが入らない(泣)

 




「機械じかけの夢」より

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 3日(日)03時21分13秒

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コリン・ウィルソンは未読も同然なのでとばして、アイザック・アシモフ論(「銀河帝国の社会学」)を読む。
論者によれば、アシモフによってSF世界に<社会―学>は、自覚的に持ち込まれたとします。それが「心理歴史学」なんですが、その前に論者は近代科学としての実証的な自然科学の成立に後押しされて社会科学・人間科学(あわせて<社会―学>)が生まれた経緯を後付け、しかしウェーバーに至ってその(自然科学と類比的な)原理である法則性・因果性の有効性が否定されたとする。それどころか今世紀初頭には、本丸の自然科学においても近代科学の文法(観察―推論―実験)は解体したとし、以後科学は数学化による形式的抽象的研究に純化するか、知の技術化による悪無限的な功利的有用性の追求の二方向に頽落していくのだが、後者は社会―学において一層歴然としており、論者によれば
「計画科学と社会工学、サイバネティックス、情報理論、ゲーム理論、シミュレーション、コンピュータなどによる行動科学……。近年における、こうした社会科学の「現代化」は、その頽落を示すもの以外ではない」のだそうです。
で、「心理歴史学」がまさにかかる頽落した行動科学としての社会―学に対応したものであるのは明らかであり、
「SF的に極限化されているとはいえ、この発想は基本的にケインズ派経済学、社会工学と同型である」とします。
「銀河帝国……」はそういう視座から構想された宇宙経済史・社会史として構築されており、ファウンデーションがまず独立した社会以前の「公共機関」から、科学という資源を活用した(1)「擬似宗教的専制国家」となり、更に歴史の必然的な過程により(2)「金権政治制」(産業国家)に移行するもミュールという予測不可能要因によって第一ファンデーションが崩壊するまでが第一巻であります。
ここで(1)はカノッサの屈辱に象徴される
「ローマ教皇を頂点とする全西欧規模での宗教的権力体系=カトリック教会をモデルにしたもの」であり、(2)は大英帝国もしくは帝国主義近代ヨーロッパであり、第四セルダン危機で対決した旧銀河帝国残存勢力はムガールやオスマンや清といった「アジア的専制国家」に比定される。現実の歴史では旧勢力との対決に勝利した英国は階級闘争と植民地独立運動に悩まされるのですが、当然それに対応する第五セルダン危機が用意されていたのです(ミュールの出現で吹っ飛んでしまいますが)。
で、セルダンの解決(必然)は実にアメリカ独立運動に対応するものであった。これに対して論者は19世紀的帝国主義の諸矛盾の解決にそれ以前の18世紀のアメリカ独立運動を持ってきても
「アメリカ合衆国的ファンデーションによっては、第五セルダン危機をもたらした社会的病因は全く除去されえないはずではないか」とし、かかるアシモフの「特に政治的な意味でのアメリカ神話、民主主義神話に対する態度」と「近代科学へのあまりに楽観的で無批判と思える態度」とは「もちろん深い場所で通底したものである」と批判します。「問題はただ、科学と人間のこうした美しい予定調和が、近代科学の現段階ではたんなる夢物語になってしまっている事態のなかにある」。これがこの「優れた作品」の限界であったというのが論者の結論です。

私自身はローマ帝国史の焼き直しであるように認識していたので、それに近代までの西欧史が重ね合わされてあるとは気づきませんでした。そういう意味で、逆に改めてその構想の気宇壮大さに感心した次第で、論者的見地からすれば(近代から超越しえていない)限界のある作品かも知れませんが、それを認めても尚、屈指の優れた作品であると思いました。あ、論者も「優れた作品」であることは認めているのでしたね。

 




「ニュー・ワールド」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 2日(土)01時15分4秒

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「ニュー・ワールド」(05)を観た。テレンス・マリック監督。
ピルグリム号より10年以上以前の1607年(日本でいえば関ヶ原と大坂の陣のあいだ)、最初の植民地ヴァージニア植民地の話です。このヴァージニア植民地のありさまを映像的に見てみたいというのが本篇鑑賞の動機だったのですが、当時のヴァージニアが森と水の世界だったことは分かったのだが歴史的なリアリティはかなり潤色されているようです。
ただ本篇を観る限りでは、17世紀初頭の英国の(植民者になろうかという庶民レベルの)国教会徒の、強く宗教に支配された内面がよく現れているとは思いました。当然近代的な心性ではありえず本気で悪魔に怯え、また人質となって砦にやってきたポカホンタスに対して、男ばかりの砦の人間が誰も悪さをしないのは(事実としてどうだったのか分かりませんが)、いかにも敬虔というよりも信仰にがんじがらめになった人々の集団だったのだなあと感じた次第。
で、やはり本篇の見どころは運命に翻弄されるポカホンタスで、国王(酋長)の末娘に生まれ溺愛され伸び伸びと育ったのであろう天真爛漫で好奇心にみちた少女が、(出会う人々にはめぐまれているにも関わらず)どんどん笑顔を失っていくところを、15歳の新人クオリアンカ・キルヒャーが見事に演じています。ラストの寛解の場面で笑顔が戻るのがほっとさせられると同時に納得もでき、満足しました。
ところでこの作品、映像が妙に(というか無意味に)前衛的で、なんとなく70年代ATG系を髣髴とさせるんですが、これがまた個人的にはツボでした。でも興行的にはどうだったんでしょうか(^^;。

 




謹賀新年

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 1月 1日(金)20時37分34秒

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朝から映画みたり酒のんだり映画みたり酒のんだり。
TSUTAYAで借りた座頭市2本。「座頭市兇状旅」(63)、「座頭市血笑旅」(64)。オモロイなあ。特に後者は自分に関係して死なせてしまった女の乳飲み子をその実家にまで市が届ける話で、ストーリーもかなりよく出来ています。

たまたまサンテレビでやっていた「必殺スペシャル・新春 大暴れ仕事人! 横浜異人屋敷の決闘」を観る。必殺シリーズの長時間スペシャルとして、90年正月に放映されたもの。これはつまらなかった。ラストの黄金パターンは通常の1時間番組そのままで、それ以前の導入部だけ長くしたようなシナリオ。しかもこのストーリーがグジャグジャ。座頭市の直後に観るものではなかった。

「勝手にしやがれ」(59)観る。ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ主演。原案トリュフォー、監督ゴダール。やっぱりいいねえ。しかしこれが日本の今風の若者言葉(うぜーとかまじとか)で吹替えされたらどうだろう。そんなに楽しめないのではないか。私の場合、結局「間接性」が大切なようです。これはSFが今(未来)であり時間が流れている(流動)のに対し、ファンタジーが過去であり時間が停止している(永遠)とする中野理論(SFM1月号参照)にてらせば後者の範疇に入るわけで、それから敷衍すれば、私のSF読みは、SFの中にファンタジーをさがしているということなのかも知れないな。

今から「ニュー・ワールド」を観る予定。

 

 


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