鎖国市有情(中)
(承前)
夫れ《四條畷》が再び世にその姿をあらわすのは時代も降って大正二年のことであった。航空機の発達がそれに寄与したのである。
米国カーチス飛行学校で訓練を受け、我が国最初期の民間飛行家となった武石浩玻が、カーチス・プッシャー単座複葉機を引っさげ鳴り物入りで帰朝を果たしたのは大正二年四月のことであった。
さっそく五月四日には大阪朝日新聞社主催のデモンストレーション飛行が企画敢行される。折からの天候不順で数日順延したこの日、武石はまず満員の鳴尾競馬場(現西宮東高校地)万雷の拍手のなか、城東練兵場(当時京橋駅の南にあった大阪砲兵工廠と、城東線(現環状線)を挟んで東接)をめざし無事これを果たした。
ひきつづき京都深草練兵場に向かって飛行せしも、このとき悪気流に掴まり、東に流され《生駒》山系へと機体を迷走させてしまう。実にこれが《四條畷》再発見につながった。武石は上空より見遙かす《生駒》の山腹斜面に、貼り付くようにして点在する未知の集落を視認、無線にてそれを報告したのである。それこそが《四條畷》五七〇年に亘る鎖国に終止符が打たれた瞬間であった。
(なお、余談ながらこのとき武石自身もまた、生駒上空より奇跡の大返しで深草練兵場へなんとかたどり着いたものの、武運むなしく着陸に失敗墜落、あたら二十八歳の生涯に終止符を打ったのであった)
閑話休題、こうして《四條畷》の開国は果たされた。とはいえもとより《四條畷》側から積極的に開国を望んだわけではない。そもそも北朝世界との交通を嫌って、軍事に長けた尊氏をも大いに翻弄し震撼せしめたその卓越したゲリラの術を以て、山間に隠れ潜んだのである。航空機の発明なかりせば未だ気づかれずにそのまま鎖国が継続されていた筈なのだ。
《四條畷》の不幸は、麓方面からは完璧にその姿を隠しおおせたその土遁の術が、上空からの目視に対してはまったく無効であったことである。上から見られては一目瞭然だったというわけだ。まさに頭隠して尻隠さず、いやいや尻隠して頭隠さずというべきか。住民も上空から発見されてしまうとは青天の霹靂であったろう。まことに《四條畷》にとっての黒船は航空機なのであった。さすがの楠木党も「空遁の術」は未だ会得していなかったのである。
滋養期せんと絶った四杯目夜も眠れず
当時の《四條畷》での混乱ぶりを囃した戯れ歌として伝わっているものである。しかしながら筆者には、この歌のどこにそういう意味が隠されているのかさっぱり判らぬ。素直に読めば、明日に備えて、あんまり飲みすぎてもいかんとナイトキャップの四杯目を我慢したら、結局眠れなくて朝までまんじりともしなかった、なんのこっちゃ、という悔恨の歌である。けだしこれをば日本国との修好通商条約の締結を翌日に控えた《四條畷》高官のよみ歌と判ずる定説は、いかにも無理筋というべきではあるまいか。
(次回完結)
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