ヘリコニア談話室ログ(20102)




「歪み真珠」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月28日(日)23時14分2秒

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  ―― 明るく激しい雨が来て、通り過ぎたあとに虹が架かった ――(52p)

「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」を読む。
わ、これはとんでもない傑作。山尾悠子流コンデンストノベルの筆法で描出された山尾悠子版「ヴァーミリオン・サンズ」!

今日は続きを読むのはやめて、暫く余韻に浸ることにします……

 




とつぜんショートショート(偽)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月28日(日)11時39分19秒

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鎖国市有情(中)

(承前)
 夫れ《四條畷》が再び世にその姿をあらわすのは時代も降って大正二年のことであった。航空機の発達がそれに寄与したのである。
 米国カーチス飛行学校で訓練を受け、我が国最初期の民間飛行家となった武石浩玻が、カーチス・プッシャー単座複葉機を引っさげ鳴り物入りで帰朝を果たしたのは大正二年四月のことであった。
 さっそく五月四日には大阪朝日新聞社主催のデモンストレーション飛行が企画敢行される。折からの天候不順で数日順延したこの日、武石はまず満員の鳴尾競馬場(現西宮東高校地)万雷の拍手のなか、城東練兵場(当時京橋駅の南にあった大阪砲兵工廠と、城東線(現環状線)を挟んで東接)をめざし無事これを果たした。
 ひきつづき京都深草練兵場に向かって飛行せしも、このとき悪気流に掴まり、東に流され《生駒》山系へと機体を迷走させてしまう。実にこれが《四條畷》再発見につながった。武石は上空より見遙かす《生駒》の山腹斜面に、貼り付くようにして点在する未知の集落を視認、無線にてそれを報告したのである。それこそが《四條畷》五七〇年に亘る鎖国に終止符が打たれた瞬間であった。
 (なお、余談ながらこのとき武石自身もまた、生駒上空より奇跡の大返しで深草練兵場へなんとかたどり着いたものの、武運むなしく着陸に失敗墜落、あたら二十八歳の生涯に終止符を打ったのであった)

 閑話休題、こうして《四條畷》の開国は果たされた。とはいえもとより《四條畷》側から積極的に開国を望んだわけではない。そもそも北朝世界との交通を嫌って、軍事に長けた尊氏をも大いに翻弄し震撼せしめたその卓越したゲリラの術を以て、山間に隠れ潜んだのである。航空機の発明なかりせば未だ気づかれずにそのまま鎖国が継続されていた筈なのだ。
 《四條畷》の不幸は、麓方面からは完璧にその姿を隠しおおせたその土遁の術が、上空からの目視に対してはまったく無効であったことである。上から見られては一目瞭然だったというわけだ。まさに頭隠して尻隠さず、いやいや尻隠して頭隠さずというべきか。住民も上空から発見されてしまうとは青天の霹靂であったろう。まことに《四條畷》にとっての黒船は航空機なのであった。さすがの楠木党も「空遁の術」は未だ会得していなかったのである。

 滋養期せんと絶った四杯目夜も眠れず

 当時の《四條畷》での混乱ぶりを囃した戯れ歌として伝わっているものである。しかしながら筆者には、この歌のどこにそういう意味が隠されているのかさっぱり判らぬ。素直に読めば、明日に備えて、あんまり飲みすぎてもいかんとナイトキャップの四杯目を我慢したら、結局眠れなくて朝までまんじりともしなかった、なんのこっちゃ、という悔恨の歌である。けだしこれをば日本国との修好通商条約の締結を翌日に控えた《四條畷》高官のよみ歌と判ずる定説は、いかにも無理筋というべきではあるまいか。

(次回完結)

 




「歪み真珠」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月27日(土)14時17分9秒

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  ―― 夜空には追悼のように星が流れた ――22p)

↓の続きを書くつもりだったが、標記の物が届いたのでいったん棚上げ。
ということで山尾悠子『歪み真珠』に着手。

 




とつぜんショートショート(偽)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月26日(金)22時11分9秒

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鎖国市有情(上)

 《四條畷》は大阪の東涯、峻険なる《生駒》の山中に蟠踞する。まさに塞外の絶境である。絶境、絶境! その地を訪れるのには唯一《片町線》を利用するほかにない。それ以外の交通手段は、後述の通り存在しないのである。
 《片町線》はJR大阪環状線を京橋駅で乗り換える。駅舎は二層で、上層は大阪環状線の高架ホーム、下層の地上駅が当の《片町線》ホームである。路線の名称は、建設当初京橋駅自体がまだ存在せず、西隣の小駅《片町》を以て発駅とし、終駅の《四条畷》までを結んだことによる。が、近時《片町》駅から乗降する客は殆どなく、京橋駅が実質的な始発駅といってよい。
 なに、いまは学研都市線というのではないかって?
 勘違いしてもらっては困る。学研都市線は《片町線》のとなりのホームですよ。お乗り間違いのないように。
 実際たしかにこの二路線を混同している人が少くない。そうだ丁度よい機会なので、この際違いをはっきりさせておくとしよう。
 JR学研都市線は、けいはんな学研都市と京橋駅を結ぶ、比較的最近に敷設された新・幹線路線である。しかも京橋駅でJR東西線と合体して、京阪奈地区と阪神地区を一気に繋いでしまう(実質この二路線で一本の)大動脈路線なのだ。鄙びた《片町線》とは全くの別路線なのである。
 片町線もかつてはJRの一支線であった。かつては、と書いたのは他でもない。現在では、学研都市線の開通に伴って新たに設立された第三セクター「株式会社片町線」に経営権が移管され、その運営に任されるかたちで細々と命脈を保っているばかりの赤字ローカル鉄道でしかないからだ。《片町線》が廃止されてしまうと《四條畷》が陸の孤島と化してしまうため、窮余の策としてこのような形態で存続が図られたのであった。
 そんなさいはての地、《四條畷》はすべて山の中である。天衝く峰々が南北に連なる峨々たる《生駒》の、その険しい斜面にしがみつくようにして集落がある。年配の方なら覚えておられよう、「大阪のチベット」なぞと面白おかしく(ある意味差別的に)形容されたのもさほど昔ではない。そういう表現は、今ではまず聞かなくなったけれども、依然大阪の大辺境であることに変わりはない。それが証拠に《四條畷》は、今なお、ゆうちょ銀行代理店である郵便局の他にはいかなる民間金融機関も存在しない、我が国でも数少ない市町村のひとつである。

 かつて――今を遡る六七〇年の昔、いわゆる四條畷の戦で南朝方の忠臣大楠公正成の嫡男正行が、当地に於いて凄絶な最期を遂げた。これは中学校の教科書にも載っている確固たる史実である。が、その一方で、どうした訳の訳柄か、まさか正行の怨念が実体化したのでもなかろうが、この地に於いて「南朝側が勝利した《四條畷》」もまた、そのとき以来存在を開始したのである。
 これには実のところ彼地の住人も途方に暮れ、警戒もしたらしい。それはそうだろう、北朝世界の大海にポツンとひとつだけ孤立して、小さな泡のように南朝世界が浮かんでいるのだ。彼らにしてみれば、まわりはすべて敵なのである。防御的とならない方がどうかしている。という次第で、以降《四條畷》は人跡未踏の山岳地帯に隠れ潜み、杳として他所との交渉を絶ってしまったのだった。
 そして《四條畷》は、それを完璧にやり遂げたのである。
 どうやって交通を絶ったのか。もとより楠木党は山の民ゲリラの民であるからして、隠遁の術などお茶の子さいさい朝飯前のカッパの屁というわけで、得意の五遁の術わけても土遁の術を駆使し、実に何と麓との交通路そのものを完全に迷路のなかに封じ込めてしまったのである。
 爾来、室町戦国安土桃山徳川と時代は移りゆく。その間、様々な動機から《四條畷》をめざした者が少からずいたらしい。なかでも特に有力な動機が「黄金伝説」であった。いわゆる「楠木正成の埋蔵金」である。むろん根も葉もない俗説であった。が、一攫千金を夢見る者はいつの時代にも存在したのである。しかしながら――その誰一人として、彼地に到達し得た者はなかった。麓から山の上の《四條畷》に至るいかなる間道も杣道も、彼らは見出すことが出来なかったのだ。
 そうこうするうち、この伝説の隠れ里を目指す者の数も次第に減じてゆき、いつしか鎖国市《四條畷》は、住人の冀求どおりに世間から忘れ去られていった。時が降り積もり、やがてその堆積の下に《四條畷》は覆い隠されてしまったのである……

(つづく)

 




ブラボーブラフォー! アイビーッ! スクエアッ!

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月25日(木)17時59分22秒

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フラワー革命以前のキャンパス風景。アホは見当たりませんね(^^;。


長山靖生『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』(河出ブックス09)読了。

 




PPM

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月25日(木)00時45分41秒

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この時代のフォークはまだコードが手探りで分かるんですよね。手に負えなくなるのはS&Gあたりから。
ばんばひろふみが言ってましたが、近所にギターの得意なお兄さんがいて、判らないコードがあると聞けば即教えてくれたんだそうです。ところがS&Gのレコードを持って聞きに行くと、「一週間待って」といわれた。で、一週間後に行くと、「もう一週間待って」(笑)
やっぱりS&Gでフォークも一気に進化したというか、時代が変わっちゃいましたよね。

 




「アホの壁」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月23日(火)21時21分18秒

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筒井康隆『アホの壁』(新潮新書10)読了。

いやー面白かった。ラストが「アホ万歳」で締められているとおり、つまるところ本書の結論は「アホ讃」なのでした(^^)。アホとは何か。昨日もちょっと書きましたが、オッカムの剃刀的合理的思考からすれば「やらんでいいこと」をなぜかやってしまい、場合によっては自らを窮地に落としてしまいかねないニンゲンの非合理的側面を、著者は「アホ」と命名しているようです。つまり(合目的的)行為としては必要ない「過剰」な部分が「アホ」なんですね(そういえば大阪弁で「アホほど多い」とはいいますが、「アホほど少ない」という言い方はしませんなあ)。このアホ自体は所謂中立的(没価値的)であり、戦争を引き起こしもしますが戦争を収める作用もあることは本書を読めばおのずと理解に達します。それはいうまでもなくアホが必然的に随伴する「笑い」の要素の効用で、ある種の「アホ」(行為)は笑いを惹起することで人間関係の潤滑油ともなるわけです(となれば眉村さんの「笑い」も(柴野さんの苦笑も)腑に落ちるわけでありまして、この場面では著者の筒井さんがアホをやったわけですね(^^;)。

では「壁」とは何か。私は読み始める前の段階ではタイトルを、人間がそこから「外に出る」のを妨げる「アホの壁」と予断しておったわけですが、そうではなく実は逆でした。つまり人間が(場合によっては自己破滅的に)アホな行為に走り出すその瞬間を「壁」を乗り越えたとする意味で使っており、要するに合理的常識的思考の「壁」という意味であったようです。さよう「アホ」とは保身を壁の内側に置き捨てて壁の「外」へと超越する、一種英雄的といって過言でない行為だったのです(言うまでもなく英雄とは狂人です)!

例えていうならば、一生かかっても読み切れない本を既に所持しているのに、なお何かにせかされるように本を買い続けるのは「アホ」です(>おい)。「アホ」の壁を越えてしまった行為であります。でもその行為は周囲の友人に、何とも言えない微笑ましさと癒しをもたらす効用がある。
「腹の中では「アホやっ。アホやっ」と叫び」(26p)つつも、友人たちはそのおかげで精神の安定を得ているわけです。ありがとう!(でも本人が一番それで安定を得ているはず)

いやあ嬉しいなあ。本書は私にとってまさにエールの書というべきもので、これからさらにアホに邁進しようと決意を新たにした次第でありました。そんな私を笑わば笑え。人生幸朗師じゃありませんが、笑いこそ健康の栄養素、凝りと疲労の回復剤、笑う門には福来たる――ということで、皆様のご健康とご発展とを心よりお祈り申し上げ、本稿終了とさせていただきます(笑)。

追記。そういえば最近「アッポ」と言うのを聞かなくなりましたね。オンナ言葉の衰退と軌を一にした変化でしょうか。

 




眉村さんの「笑い」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月22日(月)21時33分59秒

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『アホの壁』>入手。三軒目で確保しました(汗)。いやー案外置いていませんでした。一軒目はツタヤの書店。ここはそもそも新潮新書を扱ってなかった。次に和歌山で面展開している宮脇書店。和歌山では最大手なんですけどね、「バカの壁」はあったが「アホの壁」はなし。最後にジャスコのなかの旭屋へ行ったのですが、なんと旭屋は撤退していた。これはあかん。帰ってネットで注文するか。悄然として帰りかけたら、別のスペースに未来屋書店というのが出店していて、そこでようやく入手するを得ました。未来屋書店なんて、はじめて聞く書店やなと思って、後で検索してみました。意外に全国展開の書店だった。

ということで、とりあえず眉村さん登場まで読みました。いやオモロイ。これって一応新書形態ですが、中身はエッセイでドタバタをやるという趣向ですよね(笑)。つまりあらえっさっさならぬあらえっせいせい・・・コホン失礼しました。気を取り直して、とりあえず京都人と女はアホであるということが書いてあります(>ヲイ)。女のアホに効く
「処方箋はない。ありませんっ」(42p)とのこと。いえ私が言ってるんじゃありません。筒井先生のお言葉ですっ!

とりあえず「せんでもいい、いらんこと」を何故かしてしまう人間の「非合理的な部分」を「アホ」といっているようです(その奥にはやはり著者がいうようにナルシシズムがあるんでしょう)。これは私なんか特に我が身を振り返って共感してしまいますなあ。私なんかしょっちゅう言わんでもいいことを言い、せんでもいい「アホ」をしてヒンシュクをかっているもんなあ。ヒンシュクだけならまだいい。実際に立場を悪くもしてるもんなあ(>しみじみ)。

ということで眉村さんの「笑い」なんですが――これ難しい。
「フロイトを読むとこんな具合に人の行為や言葉を分析して喜び、人から嫌われる」(59p)の、「喜び」に係っているんでしょうか?

 




Re: 『アホの壁』

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月21日(日)21時23分7秒

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> No.2324[元記事へ]

高井さん
ごぶさたしております。
筒井さんの新書に眉村さんが登場されているのですか! で、笑ってはるのですか。何を笑ってはるんでしょうか? 興味津々です(^^;。
筒井さんで新潮新書となれば、さすがに近所の書店でも入手できると思いますので、早速あす購入してみます。楽しみ〜。お知らせありがとうございました。

 




『アホの壁』

 投稿者:高井 信  投稿日:2010年 2月21日(日)20時43分53秒

返信・引用

 

 

 筒井康隆『アホの壁』(新潮新書)を読んでいます。まだ途中ですが、眉村さんが登場していますので、ご報告します。59ページで、笑っております。

 




「読者はどこにいるのか」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月20日(土)21時00分11秒

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石原千秋『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』(河出ブックス09)読了。

著者を読むのは三冊目のはずで本篇も面白かった。講義を受けてみたくなりました(東京か、無理だ)。
読者はどこにいるのか? 小説の中にいるんだそうです!
「本書で著者は何をいいたかったのか」といった体の読解は時代(パラダイム)遅れ。小説は出版されただけでは完結していない。読者が入り込んで初めて完結する。と著者はいいます。
では作者は無力なのか。そんなことはなく作者はあえて(本人は無意識でも)作中に「空所」を設けているのであり、読者はそれを埋めていく。ところが面白い小説(テクスト)は読者の埋込みを随時的に修正させるように展開していくのであって、修正を強いられることが多いほど読者は楽しいわけで、小説として難度が高く「芸術度が高い」といえる(*)。 このあたりのテクストと読者のサシの勝負的な感覚は、私もなんども味わっているところですね。
理想型(理念型)でいえば、イメージとしてそのテクストのキモとなる穴ぼこがあり、そこを作者は自分の思うように埋めさせたいわけです(それは読んでいる読者にはある程度自明)。そこを読者が、作者が思いもよらなかったモノで埋めてしまう。そしてその結果作者の意図とは全く異なった風景が現出し、しかもそれでストーリーが首尾一貫したとき、読者(私)は「ヤター勝った!」と思うわけですよ(笑)。作者が「ほー、自分はこんな小説を書いたのか」と驚いてくれればさらに嬉しい(むろん想像するだけ)。これ以上の読書の醍醐味はありませぬ(^^;

柄谷行人は近代小説の時代は終わったといい、終わったからには「読本や人情本になるのが当然」といっているらしい。たしかに専ら萌えを追求するライトノベルは大塚英志がいうように江戸文学への回帰の面があるようです(ひょっとしたら言葉の正当な意味でのセンス・オブ・ワンダーを追求するSFも)。しかしそんな小説に(作者が意図していない)内面を求めて読むのが「読者」なのであり、ライトノベルもその中に読者が入り込んでしまえば立派に近代小説となる、というのが作者の考えでしょう。結局「読者」があってはじめて小説は完結するということですね(笑)。いやー面白かった。著者、もっといろいろ読んでみようと思いました。

(*) 逆に読み始めてすぐ「こうなるだろうな」と見当がつき、かつ思った通りに展開する小説は、この観点からいえば駄目な小説ということになる。むろんそういうのを求めて読む読書態度があることも著者は認めています。

 




「幻影の構成」を計算する

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月19日(金)21時48分0秒

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作中に出てくる最高時速150キロのムービングロード、一体どれくらいの幅があるのでしょうか。
私が読んだとき目の前に浮かんだのは、何百本というベルトで構成された、向こう岸がぼうっとかすんでしまうほどの幅を持つ大河のような、まさにヴォークト的な壮大なイメージ。
実際はどうなのか、計算してみました。

前提条件1)wikipediaで調べると現実のムービングロードは秒速0.8mらしい。人間の歩行速度は秒速1.1メートル(時速4キロ)です。なるほどたしかに阪急の「動く歩道」上に「立ち止まって」いると、横を歩く人に追い抜かれていきますから、そんなもんですね。
前提条件2)一本のベルトの幅は、これもwikipediaによれば80センチと120センチが標準らしい。ただし本書のムービングロードは座席がついているので、それよりはやや広めにみつもって150センチとします。

計算。
1)秒速0.8メートルは時速2.9キロ。よって150÷2.9=51.7≒52、最初は徒歩だからマイナス1として51が得られます。この51はベルトの本数にあたる。
2)ベルト幅1.5メートルだから1.5×51=76.5メートル。当然上りと下りがあるはずで、76.5×2=153メートル。

結局この東海道ムービングロード幹線(笑)は正味153メートルの幅を持っていると推測出来ます。両端の乗り口を加味すれば160メートルくらい?

うーん。微妙。
いえるのは向こう岸が霞むほどではない(爆)。大和川の下流がこれくらいの幅のようです。たとえば阪南団地の前の阿倍野筋を南に行った大和川との突き当たりの遠里小野橋は188.2メートルとのこと。もっともこれは橋自体の長さなので、実際の川幅はたぶん160メートルくらいでしょう。画像でイメージされたし→http://www.epcc.pref.osaka.jp/center_etc/water/titen/mlit/02501.html
しかしヴォークトのイメージではないですなあ。

ところで私は、上りと下りの複線をイメージしてましたが、これよく考えると危険ですよね。中央の150キロ帯で上りと下りが接していますから、この部分相対速度で300キロになっているわけです。本書でラグ・サートが最初ベルトに乗りそこねてひっくり返りましたが、この最高速帯でひっくり返って向こうの路線に落ちたら確実に命取りです。

と書いてきて気づいた。ひょっとしたら2層になっているのかも。ラグサートは扉を開けて構内に入ったとありますから、ムービングロードは屋内設置なのです。ベルトは当然バンド状になっているはずで、おそらく両端のターミナル(東京と大阪?)で折り返しているはず。これを利用しない手はありません。上層は上り、下層は下りというふうになっているとしたら単線で経済的ですもんね。なるほどよく考えられているなあ。

しかしやはり問題がありますね。車椅子使用者は利用不可能なんですよね。こんなのを建設しようとしたら障害者差別だと大ブーイングが起こるのは必定。やはり未来の交通機関としては実現可能性は低そうです(^^;

 




幻影の恒星群

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月18日(木)19時11分51秒

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遠くからだとはっきり見えているのに、近づくと見えなくなる天体なあに?

答え→http://www.sanspo.com/shakai/photos/100218/sha1002181136018-p1.htm

 




「幻影の構成」に還る

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月17日(水)22時15分46秒

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昨日は眉村先生が今春開講される新講座の問い合わせ先を、うっかりリンクし忘れていました。すみません。
こちらです→こちらのページから[1日講習会・体験講座]→[三宮KCC]→[文芸]の下から5番目です。

さて、昨日は市場縮小に対応して新たな『幻影の構成』を妄想したわけですが、ここで大事なのは双方に信頼関係が必須であることです。ところでこの形態、ものの動きは一方通行なので、市場という背景をもたない川下は情報格差により川上に対して優位に立てません。それをいいことに暴利を貪り始めると元の木阿弥、『幻影の構成』が描いた世界になってしまうわけです。

出版業界では、市場から少し離れたところで似たような試みが始まっていると書きましたが、それは結局のところ出版業界が市場といえるボリュームを既に割り込んでしまっているからなのです。でもやはり、川上の良心(企業倫理)を(無根拠に)信用することがその前提条件とならざるをえない。ここがこの形態の難しいところです。

たとえば四六判ハードカバー(函入り)240ページで3000円という値付けって「どないやねん」ということです(だって単純な話10円コピーで1200円なんですよ(^^;)。読者の信用につけ込んで不必要な付加価値で単価アップを図っているのではないのか? もちろん「いやいやこれでもギリギリでっせ」ということなのかも知れません。上記の通り川上と川下では情報格差が存在するので読者にはその辺はブラックボックスです。しかしいずれにせよ、今のところは読者は供給者を信用しているので問題はありません。
要は今後の状況次第ということになります。あまりにも「それはないで」ということになってきたら、むろんこの世界は『幻影の構成』の世界ではないので、売上が落ち(信用が落ち)是正されます。が、本当に市場というものがなくなってしまったらこの機制は働きません。

『幻影の構成』であるところの協同組合制は、やはり眉村さんの持論である「インサイダー」が経営を管理してはじめて円滑に機能する形態なのかもしれませんなあ(汗)。

 




「幻影の構成」の経済制は意外に現実的かも

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月16日(火)22時21分23秒

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ここだけの話ですが、『幻影の構成』を読んでいる最中、ふとヴォークトを読んでいるような感じがしましたですよ(^^;。そんな雰囲気が確かにそこはかとなく漂っていて、それもまた(アシモフだけでなく)「50年代SF」を感じさせる一因であったようです。あ、荒唐無稽と言ってるんじゃありませんよ。具体的にはムーヴィングロードのシーンなんかがそうで、これって元ネタはなんでしたっけ、最高時速150キロベルトまでいくのにどれだけベルトを渡らなければならないか、と考えていて、ムーヴィングロードが、まさに大河のように何キロもの幅で流れているイメージがふわーっと浮かんできて、ヴォークト的センス・オブ・ワンダーを感じてしまったのでした。で、そうと思いつけば、いたるところにヴォークトっぽい雰囲気が横溢しているんですよね。今では眉村卓と50年代アメリカSFなんて、極めてかけ離れた位置関係にあるような印象がありますが、こういう初期作品を読むと、山野浩一が問題化した「日本SFはいかアメリカSF式住居を改装したか」という設問が、なるほど当時は切実な問題だったんだろうなあと納得できたような気がしたのでした。

ところでコンツェルンによる消費者系列化と言うのは、たしかに現在からみると現実的な感じがしませんが、眉村さんが執筆していた60年代なかば(丁度東京オリンピックの頃)は、現在のような「消費社会」をイメージ出来る人は極めて少数だったのではないでしょうか。その傾向がはっきりしてきたのは70年代後半あたりだったように思います。60年当時では、「幻影の構成」が描いたような企業の複合巨大化・コンツェルン化も、少なくとも消費社会化と同程度の実現可能性があったのでは。

どこで道は別れたのか? それは人口ビッグクランチをいつに設定したかで別れたのかも知れません。本書では1995年頃から人口は減少に転じたとしています。現実より20年早く見積もっている。人口減少は、生産資本主義にとってもっとも恐ろしい事態です。消費力が落ちるからです。消費が拡大しないと生産も拡大しない。右肩下がりほど法人企業にとってしんどいことはない(とりわけ資金回転で)。それを切り抜けるためには、たぶん単価に占める利潤比を上げるしかありません。つまり値上げです。ところが市場経済では値上げすれば消費者にそっぽを向かれる。同品質で値段の安い他社製品に移行される。よって無闇な値上げなど出来ない道理です。むしろ市場確保のための安売り競争に入ってしまいかねない。現在の日本経済がまさにそうですよね。結局根本に消費者人口の停滞がある。

この事態に、市場資本主義ではなく、各社が消費者を囲い込む形態の経済体制が生まれる余地ができるのです。1社からしか買うことが出来ないならば、消費者は生産者の言い値で購買するしかない。売上の減少を、企業は値入率の上昇で補えるのです。『幻影の構成』の背景にはこのような経済が想定されており、それは荒唐無稽でもなんでもなく、「ありうべき」経済体制なんですね。

さて、人口停滞を根本因とする現在の経済的状況は、『幻影の構成』の経済体制を復活させる可能性があります。実は既にそれは始まっているのです。それも出版界において。と書くと、何を寝ぼけたことをと思われるかも知れません。
たとえば論創社がそうです。論創社は版権の切れた古典ミステリを、初刷り自費出版と変わらない1000部程度で出版します。単価は2000円台と、一般的な同程度の出版物よりかなり割高です(むろん小ロットで利益出すため)。それでもおおむね捌けてしまうそうです。購入者はほぼ固定と考えられています。つまり論創社は古典ミステリファンという1000人の系列読者を持っている(も同然なの)です(^^; これは『幻影の構成』の経済と同じといってあながち間違いではない。論創社は市場原理から外れることで成功しているといえます。海外文学の国書刊行会も同様ですね。最近は早川書房が真似し始めているようです。これら例が「幻影の構成」と違うのは、消費者が「分かって」この経済行為に参加していることで、その意味で企業も消費者も利益をえている。で、この形式の行き着く先は「協同組合制」に他なりません。

案外『幻影の構成』の経済制は、この現実の消費社会の未来に現実化する可能性があり得るのではないでしょうか(^^;。

 




Re: KCC眉村先生の講座

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月16日(火)17時57分10秒

返信・引用

 

 

> No.2317[元記事へ]

柳生さん

お知らせありがとうございます。
眉村先生の新しい講座ですね。春からなんですね。神戸方面の物書き志望者は即申し込みですね!
いやいや、神戸方面の方だけではありません。
「囲む会」でのお話では、毎日文化ホールの講座がいつの間にかレベルが高くなってしまって初心者向けではなくなってしまっており(芸大をやめてこっちへ来ている人がいるとかおっしゃってませんでしたっけ)、KCCでは初心者向けの講義をしたいといっておられましたから、一から学びたい人はむしろKCCで受講される方が良いかもしれません。ということで、体験講座もあるようですので、関心をもたれた方はお問い合わせいただきたいと思います(^^)。

 




KCC眉村先生の講座

 投稿者:柳生真加  投稿日:2010年 2月16日(火)08時05分43秒

返信・引用

 

 

こんにちは。
「眉村先生を囲む会」楽しかったです。いつもありがとうございます。
あのとき話題になった神戸新聞カルチャー、KCCのHPに出てました。
 「物語・エッセイをこれから書く人のために 」
 講師 眉村 卓
 日時 金(第3)  13:00〜14:30
4月から始まる予定で、体験講座は 3月19日13:00〜14:30です。

 




「幻影の構成」第2ファウンデーション説

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月15日(月)20時59分48秒

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眉村卓『幻影の構成』(ハヤカワ文庫73、元版66)読了。

いやー面白かった。最後の方は一気呵成。殆ど忘れていたので、意外にも50年代アメリカSFを強く彷彿とさせる結構にちょっと驚かされました。これアメリカで出版したら売れるんじゃないでしょうか。基本(とりわけ後半は)冒険SFなんですよね。

ただ設定は眉村作品らしく近未来社会テーマで、60〜70年代の、まだ消費社会化が明瞭ではない時期に、この現在の世界へと至る時間線(社会史線)とは別の方向に枝分かれした世界を扱っており、日本は国家が有名無実化し、市場競争を嫌った複数の巨大企業コンツェルンによって分割支配されています。地方都市は各コンツェルンによって系列下され、市民はコンツェルンを形成する企業の製品しか購買出来ない。つまり日本は巨大企業によって棲み分けられており、それぞれの生産物は消費者が予め確定している。これは実質ソ連型社会主義に近い形態で、計画経済体制といえるものです。で、この体制はとうぜん競争によるサービス向上や技術革新等はのぞめず、どんどん劣化していく。結果それは市民の不満を醸成するはずですが、そこにイミジェックス装置という一種の精神支配装置が投入され、市民は「現実」を認識出来なくされているのです。

ところがこのイミジェックス装置は、実に「この現在の日本」を「予見」したものなんですね。いまの日本人は(管見によれば)各種の情報発信装置(主にテレビ)によって家畜化されているのですが、同じ状況が描かれている。但しこの世界の状況は、むしろ情報量の拡大が個人の処理能力を超えた結果、その不安を解消するために情報オピニオンリーダーにすがるものでありちょっと違うのですが。すなわち情報洪水が逆に単一化を招来している。端的に音楽や書籍における巨大ベストセラー化(それと裏腹なベストセラー以外の作品の量的拡大と売上不振)はかかる構造のあらわれといえます。つまり現代人は自ら好んで「家畜化」されているというわけです――というのは話がずれましたね(^^;。

閑話休題、かかる世界の「企業城下町化」による競争原理無化世界というのは、しかし今となれば現実とはかけ離れた世界といわざるをえません。実際現実の世界はそういう方向には行かなかったのですから。でもSF的には、とても面白い「魅力的」な世界であるのも間違いありません。かかる「幻影の上に構築された」世界に、著者はそのディストピア世界から人民を解放しようとする人物を放り込むのです。彼は「消費するために」飼い慣らされた「家畜階級」出身で、その強烈な上昇志向(その強烈さは読者も辟易させられるほど)を武器に、世界を一気に初期化してしまう。その過程が後半なんですが、まさに巻措く能わずの面白さ(それに比して前半は設定の説明もあってややぎこちないのですが)。その意味で、本篇の社会的設定は、冒険SFを走らせるための条件であると考えるべきでしょう。「基本冒険SFなんですよね」と書いたのはそういう意味で、読者は周到に構築された世界でのアクション物語を堪能すれば良いのだと思います。

そうして世界は初期化されました。しかしその結果文明は崩壊し世界は何百年も後退してしまう。そのとき主人公の心に勝利感はない。これでよかったのだろうか、という慚愧ばかり。隠棲した主人公をかつての同志が訪れます。その彼が言うのは、なんとイミジェックス装置による「第二ファウンデーション計画」(笑)なのでした!!

まさに50年代アメリカSFを地で行く傑作SFで堪能しました。

 




「幻影の構成」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月14日(日)22時59分44秒

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眉村卓『幻影の構成』に着手。スラスラ読めて消化が良いですなあ(^^; と一気に三分の一読む。今日中に読めるかも。高校以来の再読。というか中学で日本SFシリーズ版を友人に借りて読んだのが最初だった(いま読んでいるのはハヤカワ文庫版)ので三読目か。それでも36、7年ぶり。ということで内容をなんか間違って記憶していたことに気づく。イミジェックス装置って携帯用だと思っていました。デスクトップだったのか。

 




眉村卓=キャベジン説

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月14日(日)20時24分24秒

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笠井評論称揚のシルヴァーバーグ『禁じられた惑星』に着手しかけたんですがどうも乗れません。思うに著者に対する不信感が集中力を妨げているんですな。で、ちょうど某所で話題沸騰した(>稍誇張)マーガレット・セントクレア(イドリス・シーブライト)『アルタイルから来たイルカ』に乗り替えようかと発掘してきたのだが、こっちはこっちで訳者に(今頃)気づいてモチベーションが七割がた減退(良し悪しではなく相性の問題。デューンもこの訳者ですよね)。うまくいきませんなあ。ちょっと読書胃がもたれぎみかも。こういうときは基本に立ち還って(?)眉村卓を読み返し、読欲復活を図りますかね。

 




ちょっといい話・・か?

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月14日(日)16時18分23秒

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不景気対応の緊急融資制度で借換したことは以前ここでも触れましたが(いま見返したら年利1.6%と書いていますが1.4%でした。しかも保証料(0.8%)は市が肩代わりしてくれる別の制度でロハでした)、知り合いはこの制度で既存の借入金を完済してなお余りある(無担保)最大枠の8000万円借りたそうな。「今がチャンスやで」とえらい鼻息。それはそうだが、いくら低金利とはいえ返済がバカになりませんがな(汗)
返済といえば、これは別のところで聞いた話ですが、亀井効果で、返済の猶予を申し入れたら金融機関はそれを「断る」ことができなくなっているんだそうですよ。猶予の期間も、話し合いですがほぼ言うとおりになるということ。ホンマかいなという感じですが、この人も1年間猶予してもらったそうで、とにかく1年間で内部留保を充実させるつもりとのこと。民主党政権で中小企業はちょっと息継ぎできるようになったということでしょうか。いずれにせよ制度はフル活用しようという商売人根性が刺激されているのはいいことです。

 




ユートピア論の二分類

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月12日(金)23時04分44秒

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ユートピア論には2種類あって、ひとつは人類は進化していき最終的にユートピアを達成するというやつ。ウェルズ、クラークを筆頭に多くのSF作品に見られる。いわば進化論ユートピア(もっともウェルズは捻ってあり単線的なユートピアではない)。
もうひとつは過去のある時点にユートピアがあったが、そこから人類は追放され退化して現在に至ったとする退化論ユートピア。これは様々なバリエーションがあり、昔は良かったなあというのもこちらに含まれる(たとえば若者論もこの変型)。しかしもっとも有名な退化論ユートピアはエデンの園。かつて人間も動物も草木も同じ言葉をしゃべって交通していたという「アニミズム的世界観」もそうで、基本人間は退歩して今に至ったという基本認識から世界を理解する。
前者がSFの支配的認識であるなら後者はファンタジーのそれであるといえる。また弥生文化は前者で縄文文化は後者である、という分類も可能だろう。もっとも縄文の世界観など実地に確認出来ないから、これまた現代人の想像(分類概念)に過ぎない。実体ではなく虚構である。実は平谷美樹『精霊のクロニクル』でこの二分類が採用されており、二つのユートピア観が対立する。つまり「所有」をどう捉えるか、「進化」なのか、それとも「頽落」なのか、という観念の対立(ただし単線的ではない)。

――以上備忘。

 




「兵隊やくざ 大脱走」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月12日(金)00時48分6秒

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GYAOにて「兵隊やくざ 大脱走」(66)を観る。
面白いなあ。大宮が八尾の朝吉(芦屋雁之助)と邂逅するサービスもあり(笑)。
前回見た
「兵隊やくざ 脱獄」につづく作品ですが、「脱獄」がソ満国境でソ連参戦時の話ですから45年8月9日。本篇ではソ連軍がどんどん南下してくる話で、いえば10日から14日までのどこかに当たるわけで、映画内時間で前作から何日も経ってないことになるのかな(というか翌日?)。このあとも数作(調べたら4作)あるわけで、映画内時間の進行も興味深いですね。
ないものねだりですが、満人(といっても土着漢人でしょう)がなぜゲリラとなって日本軍を襲撃するのかに就いてはあんまり留意されてないのがちょっと残念(これではハリウッド西部劇のインディアンと同じ扱い)。それにしても満州の荒野、ロケはどこでやっているんでしょうか。北海道か?

 




年間ベストSFランキング

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月11日(木)20時15分27秒

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早川のサイトに昨年の年間ベストSFランキングが発表されています→http://www.hayakawa-online.co.jp/news/detail_news.php?news_id=00000323(識者による投票)

[海外篇ベスト10]
第1位◯『ペルディード・ストリート・ステーション』チャイナ・ミエヴィル/早川プラチナ・ファンタジイ
第2位◯『アッチェレランド』                      チャールズ・ストロス/早川海外SFノヴェルズ
第3位●『洋梨形の男』                    ジョージ・R・R・マーティン/河出奇想コレクション
第4位●『TAP』                                  グレッグ・イーガン/河出奇想コレクション
第5位◯『ユダヤ警官同盟(上・下)』       マイケル・シェイボン/新潮文庫
第6位●『ベガーズ・イン・スペイン』                  ナンシー・クレス/ハヤカワ文庫SF
第7位◯『無限記憶』                  ロバート・チャールズ・ウィルスン/創元SF文庫
第8位●『時の娘 ロマンティック時間SF傑作選』 ジャック・フィニイ他/創元SF文庫
第9位◯『レインボーズ・エンド(上・下)』    ヴァーナー・ヴィンジ/創元SF文庫
第10位◯『アメリカン・ゴッズ(上・下)』       ニール・ゲイマン/角川書店
 但し◯は長篇で●が作品集。

早川書房と東京創元社が3作ずつで同点、河出が2作、というのは、いかにも現実を反映しているようで納得の結果です。
とはいえ私自身は「TAP」しか読んでない。これでは森下さんのベストSFに投票する資格はないなあ。
しかしそれにしても、早川さんは大プッシュのミリタリーSF長編がひとつも10位以内に入ってないことを、私は真剣に受け止めるべきだと思う。思うのですが。如何?

ついでに国内編も。

[国内篇ベスト10]
第1位◯『ハーモニー』 伊藤計劃      /ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
第2位◯『あなたのための物語』 長谷敏司  /ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
第3位◯『バレエ・メカニック』 津原泰水  /早川書房・想像力の文学
第4位●『魚舟・獣舟』 上田早夕里     /光文社文庫
第5位◯『アンブロークン アロー』 神林長平 /早川書房
第6位◯『地球移動作戦』 山本弘      /ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
第7位●『超弦領域』 大森望・日下三蔵=編 /創元SF文庫
第8位●『虚構機関』 大森望・日下三蔵=編 /創元SF文庫
第9位●『猿駅/初恋』 田中哲弥      /早川書房・想像力の文学
第10位◯『紫色のクオリア』 うえお久光   /アスキー・メディアワークス 電撃文庫

おお、こちらは早川さんのひとり勝ち。わが既読は3冊(4、7、8位)ですが、「猿駅」と「バレエ・メカニック」は読んでおきたいなあ。

 

 




「オメガマン」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月11日(木)01時05分34秒

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GYAOにて「地球最後の男オメガマン」(71)を観る。チャールトン・ヘストン主演。
これはこれで面白かった。でも原作的見地からいえば改悪でしょう。しかしまあ、どこにも「I am legend」という文字はありませんし、あくまでも「The Omega Man」なので、別作品と思えば文句はないか。とはいえ「転」もしくは「破」の部分はかなり無理筋で興をそがれた。
*ウィル・スミスの最新版はタイトルも「I am legend」なので、原作を踏まえているのでしょうね。

 




「久生十蘭短篇選」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月10日(水)20時42分50秒

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川崎賢子編『久生十蘭短篇選』(岩波文庫09)読了。

案外に時間がかかった。というのは他でもなく、最初はどうも合わないなあ、という感じだったからで、どこに引っかかっていたかというと、出だしは実によいのだが、ストーリーが確然としておらず矛盾もあり、そういうところにあんまり留意してないんとちゃうか、という不信感が払拭し難くて、もう中断してしまおうかとまで思ったのでした。ところが半分ほど来てはっと気づいた。これって鏡花ではないかと。

そうなんです。鏡花の現代版(といっても戦後版ですが)なのです。すなわちストーリーは緩いのではなく(積極的に)「不自然」だったのです(^^; そもそも鏡花と同じで、ストーリーにリアリティを付加する気はあまりないのでしょう、それよりも描きたい或るシーン(いわば一種の「見得?」)があってそれに向かってストーリーは従属させられる、そういう筆法であったわけです。
そうと気づいてからは俄然面白くなりました。ラストの
「春雪」がベストですが、これは単に焦点がだんだんとあっていき、最後の最後でドンピシャで合ったということなのかも知れず、前半はピントの合ってないメガネで見ていたのかも知れません。

でそれに触発されて気づいたのは、そういえば光瀬龍も(今日泊亜蘭もかも)実はそういう筆法だったよなということで、そうと気づけば確かに光瀬と十蘭は、ある面よく似ているのです。そしてその文脈を追えば、必然的に光瀬の源流に鏡花があったことに思い至るわけでありまして、なるほどと腑に落ちたのでした。

ところで私は、以前から光瀬SFに謡曲の影響、影響といわないまでも同じ感性を感じていたのですが、そういえば鏡花の作品もある種謡曲的な趣きがあるように思われます。
ということで、[謡曲→鏡花→十蘭・光瀬]という(一種日本的)感性の継承を措定する仮説を思いついた。つまり鏡花も十蘭も光瀬もひとしく「謡曲小説」であったという見立てなのですが、だからといってそれを後付け検証していこうという気はさらさらないのであった(^^;

先に「戦後」と書いたように、本書収録作品は
「黒い手帖」以外は全て戦後の作品で、著者晩期の作品を集めたことになるわけですが、内容も戦中・戦後が舞台となっており、まず戦後(進駐軍時代)の風俗が描かれているのが、(その辺の小説はあまり読んでいない)わたし的には珍しくて、興味深く面白く読みました(で、これまた気づいたのだが、光瀬の描く宇宙小説の舞台は、どうやら戦後の日本がそのまま移しかえられたものなのではないのでしょうか。これまた検証する気は別にありませんが)。

とまれ、予想外の拾い物で、著者の戦前の探偵小説系の作品もそのうち読んでみたいと思いました。

 




Re: 冬で寒いからかな〜

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 9日(火)19時56分16秒

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> No.2306[元記事へ]

かんべさん

立松和平さん、なぜ亡くなられたのかニュースではまだよく分かりませんね。でも「死ぬときは死ぬ。そういうものだ」なんて評論家口調で言ってられないんですよねふつうの一般人は。妻子の生活はどうなる、老親の介護は誰がする、なんて考えたらですね。

>気をつけねばいけません。皆さんも、どうぞ健康に御留意を。
はい。ありがとうございます。かんべさんもどうぞお気をつけて(^^;

 




冬で寒いからかな〜

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2010年 2月 9日(火)17時06分22秒

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堀晃氏と当方のホームページ、どちらも先週は葬儀出席。そして管理人氏も。
また、上方落語協会所属の下座(三味線)の女性も、50代で死去とのこと。
そして何と、今度は立松和平氏も、当方と同年齢で逝去。
気をつけねばいけません。皆さんも、どうぞ健康に御留意を。

 




福島正実

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 8日(月)21時24分26秒

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取引先の社長のお父さんが亡くなって、さっきお通夜から帰ってきたところ。85歳、大正14年生まれとのことでうちの親父と同い年なのです。一緒に行ったこれも取引先の社長で同級生の男と、道すがら話していたら、この前まで元気で歩いてはったお母さんが骨折で入院して急速にボケた由。昭和2年生まれとのことでうちの母親より一つ年上といっても同じようなものですな。しかもその話になったのが、壮観にも15台くらい介護専用車がずらりと並んだ介護会社の駐車場の横を通っているとき。
うーむ。諸先輩の通っていった道がそろそろ目前に見えてきたような、なんともいやーな気分。不定愁訴じゃー!

 




「80日間世界一周」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 7日(日)23時19分24秒

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GYAOで80日間世界一周」(56)を視聴。
これぞ映画の醍醐味ですなあ。どこまで考証がなされているのかは別として、ともあれ19世紀末の植民地世界が「映像」として観ることができ、ある意味「植民地周遊映画」といえる(むろん西部はアメリカの植民地)。「映像」とは、たとえば室内瓦斯燈がどのように点火されるのか実際に目に見えるといった、そんなことです。植民地世界が、たとえ西欧エスノセントリズムの視点であれ、映像として見えるのがよい(ラストはしかし西欧(大英帝国)の没落を暗示しているのですが(しかしそれはアメリカ風価値観の優越にとって変わられるだけなんですが))。
それにもまして、本篇は1872年すなわち明治5年の話なのだが、タイムラグはあるにせよ「世界」の逐一がニュースとして知ることが可能であったというのが前提になっており、実際大西洋横断ケーブルは早くも1858年には敷設完了しているのです。1858年は安政五年であり、いうまでもなく日米修好条約締結の年でもあるわけです。上喜撰たった四杯で夜も眠れず、などと寝ぼけているそのわずか5年後には、世界は電話線で繋がっていたという事実がまざまざと感じられる映画でした。というかまあ、80日間世界一周のコンセプトはそのような事実に裏打ちされているわけです。
それにつけても水平線にフジヤマが見えてくる映像は印象的で、あるいはペリーもそれを見てこの世の天国かと思ったのかも知れませんな。三時間になんなんとするハリウッド黄金時代の駘蕩たる大作映画でした。

 




Re: 利一とマリガン

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 6日(土)23時58分53秒

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> No.2302[元記事へ]

堀さん

>あれこそ日本人ですかねえ
「かねえ」というのが微妙でよく分かります(^^;
利一>だんだんと自分に似ているような気がして、距離を取れなくなってきました。あぶないあぶない。

ナイトライツ65は、実はさっき発見して追加したんでした(でも埋込み無効になってますね)。調べたらCDには追加されているんですね。私はLPしかもってないので今日はじめて聴きました。クラリネットのナイトライツもいいですねえ。

GYAOにて
「兵隊やくざ 脱獄」 を視聴。このシリーズは初めて見ました。痛快ですなあ。

 




利一とマリガン

 投稿者:堀 晃  投稿日:2010年 2月 6日(土)21時07分50秒

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>或いは棒切れを渡して、情けないヤツだこれでもう一回ぶつかってこい

「仁義なき闘い」でしたっけ。
ふがいない試合をしてきた外人プロレスラーの頭をビール瓶でぶっ叩いて、
「あとでミス広島を抱かしたる、もう一回行て来い!」
というやつ。
あれこそ日本人ですかねえ。

で、メンタリティはがらり変わって、マリガンの「Night Lights」のラストの一曲、マリガンのクラリネット……これはたまらんですね。
後で探して、就眠前の1曲といたします。

 




横光雑感

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 6日(土)20時12分14秒

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「厨房日記」に、疎開先で、4つの子供が村の子供たちに引っ掻かれて泣きながら彼の部屋へ這入って来て、黙っている父を見ると棒切れを拾い上げ、/「よし、殴ってきてやろ」/と云ってまた駈け出すのを見ると、梶はこ奴は日本人だと思ってひそかに喜んだ」
という描写があり、何という父親かと情けなかったのだが、しだいに、これは自虐であって、オレは子供のカタキもよう取ってやれない(或いは棒切れを渡して、情けないヤツだこれでもう一回ぶつかってこい、ともいえない)「黙っている」だけの情けない非「日本人」な父親だといっているのだとだんだん分かってきた。
横光は厨房でしたが、しかし自身が厨房であることをよく自覚した厨房であったのではないでしょうか。そこらへんが爾余の厨房な大人とは一線を画する厨房であったといえるようにも感じられます。

――しかしそう読むと、今度は逆に身につまされますなあ(汗)。

 

 




「座頭市あばれ凧」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 5日(金)23時52分15秒

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GYAOで「座頭市あばれ凧」をやっていたので見る。これはつい数ヶ月前に見ており、つまり二度目になるのだが、さすがに二度目はストーリーの粗が目立って見れるものではなかった。途中で視聴中止。

 




「機械・春は馬車に乗って」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 5日(金)20時23分45秒

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「微笑」を読む。
これは傑作。70年代だったらSF雑誌に掲載されてもおかしくない、私観点ではまぎれもないSF(ただしサイエンスフィクションにあらず)です(^^)。戦争末期、敗色濃厚な海軍に21歳のとんでもない天才があらわれ起死回天の超兵器光線砲を発明する。実用化までもうあと一歩らしい。本篇の語り手にして「旅愁」の作者である(つまり横光自身をモデルとする)梶は、当の天才青年とひょんなことで知りあう。その青年はいわゆる数的サヴァンなのです。梶は青年のなんともいえない「微笑」に惹かれ深く関わっていくのだが、あるとき青年は気が狂っているので相手にしないよう、その筋からほのめかされる。でも狂人ならなぜ堂々と士官の襟章をつけて歩き回っているのか、また水交社(海軍の倶楽部)で梶を歓待できるのか。しかも青年はふしぎな能力があり、彼によれば何度も死を免れているらしい。青年は本当に天才児なのか。それとも稀代の虚言家なのか。謎は謎を呼び、青年の正体はなお不明なまま、やがて日本は空襲に晒されていく。しかし梶が待ち望んでも、回天の超兵器の放つ光線が敵機を撃ち落とす日は来ない!
いやー面白かった。

本篇も新潮文庫収録作品で、これで新潮文庫版
横光利一『機械・春は馬車に乗って』(69)の収録作品は全て読んだことになります(もっともなぜか本篇のみ底本が小学館「昭和文学全集第5巻」)。というかそれを選んで読んできたわけです。その理由は、40年間つづけてきた読書記録のつけ方を踏襲したかったということもあるが、私の場合「フレーム」がないと茫漠としてしまって整理出来ないなと気づいたからです。そもそも紙媒体の場合は単品での販売が事実上不可能だったから作品集として提供されていたわけです。ところが電子出版では「作品集」という形態をとる必要がないのですね(それは音楽にもいえ単品で販売されるようになりアルバムの意味は有名無実化しています)。それはまことに結構なことですが、単品でバラバラ読んでいては作家の全体像が見えて来なくなる憾みがあるんではないか。たとえば雑誌掲載で読んだ作品はなんとなく忘却しやすい気が私はするんですが、同じ理由だと思われます。少なくとも私はそのように感じたので、今回、文庫版に準じて読んだわけです(実はわざわざ本を引っ張り出してきたんだから直に読めばいいじゃないかと読みかけたんですが、ケータイで読むという方法を知ってしまうと、もはや文庫の細かな活字はちょっと勘弁してよと思ってしまったのでした)。今後もケータイで読むにしても、意識して作品集というくくりで読むんじゃないでしょうか。

 




朝やんが角界から放逐される時

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 4日(木)22時42分0秒

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一番迷惑を被るのは魁皇でしょう。
引退がまた遠のいちゃいましたね。

「親方、もう勘弁してくださいよ」
「まあそういうな。悪いようにはせんから。あと10年頑張れ。オレもツライのよ」

 




トヨタが北米から放逐される時

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 4日(木)21時51分0秒

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(タイトルはイメージです)(^^;

横光>
「御身」と「ナポレオンと田虫」を読む。
「御身」はデビュー作。結局横光はリアルな人間を描けない(描かない)のであり、多かれ少なかれカリカチュアライズされてしまうんですよね(北杜夫にも多少その傾向がある)。それはこのデビュー作から既に顕著で、主人公の姪の赤ちゃんに対する接し方はほとんど漫画的といえます。そういう意味で、横光に人気があったとするなら、当時の読者は現代の人がテレビドラマを見るような感じで楽しんだのではないでしょうか。
ところで本篇、青空文庫版で「なるほど」を「なるはど」と打ち込んでいて、あ、やっぱり「ママ」入力してるんだな、と感心して底本と突き合わせたら、新潮文庫版は「成る程」(18p)でがっくり(笑)。これは通報せにゃと入力者を確認したら、なんと「大野晋」!! や、これは誰も訂正出来ないなと納得(^^;

「ナポレオンと田虫」はさすがにストーリーが派手なので覚えていました。スラップスティック歴史小説というべき作品で、ナポレオンをしてヨーロッパ征服に(就中無謀ともいうべきロシア遠征に)赴かせた真の理由が明らかにされます(笑)。これなどは作品の構造そのものがカリカチュアであり、こういう作品にこそ著者の本領があるのではないかと思いました。つまり内側から捉えていくのではなく外側を、それも一般とはいささか異なった角度から眺めるという志向(嗜好)性です。
ところで本篇、青空文庫版では入力者注として「瑪瑙[#底本は「瑙」を「瑠」と誤植]」として訂正しています。つまり解釈がなされているんですよね。なんか方針が一貫してないなあ(^^;

 




厨房横光

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 3日(水)22時39分53秒

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「厨房日記」を読む。併せて本篇を批判した宮本百合子「迷いの末は」(青空文庫所収)。
本篇は小松左京のいう「大説」というよりは豊田有恒的な「論文小説」(@矢野徹)に近いものといえる。ヨーロッパに遊んだ主人公(宮本百合子に従えば横光本人)が、パリでシュールレアリスムの領袖ツァラア(いうまでもなくトリスタン・ツァラ)の屋敷で経験した出来事を中心に、西洋と比較して日本人とは何かといったことを考える話です。
うーん。横光って脳の構造が荒巻義雄的なんでしょうね。論理をコツコツと耕すというよりはある意味ひらめき的で、逆説を好み聴衆をケムに巻いて喜ぶタイプというか……。ツァラから日本人を説明してくれといわれ、結論として日本人にはもはや知性は必要ないのだというようなことを滔々と述べ立てます。聴き終わったツァラは呆気に取られてなにも言わない。想像ですがこのとき横光はテーブルの下でよっしゃー!とちいさくガッツポーズをしたに間違いなし(^^;
その逆説的な所論は、私には非常に興味深く面白かったのですが、まあ一種評論家的な無責任な放言のたぐいであり、プロレタリア派の百合子の逆鱗に触れコテンパンにされます。確かに百合子の言う方が正しい(戦前というか既に二二六事件の翌年にここまで言う百合子は間違いなく一本筋の通った論客であり何度も投獄されたのもむべなるかな)。横光は結局はブルジョアの高等遊民の頭でっかちと言うことになるわけですが、それでも言っていることは面白いのは間違いなく、もうちょっと生まれてくるのが遅かったらSF作家になっていたんではないでしょうか。大体第1世代にしたって戦前に持っていけば新感覚派的な立ち位置になるわけで、たぶん小松左京なんか宮本百合子の格好のエジキになったに違いありません(笑)。

ところで、ひょっとして横光はそんなこと(批判された要素)は先刻自覚していて、それで「厨房日記」なんてタイトルにしたんじゃないか。作中に厨房なんか全く出てきませんから。しかし――てことは戦前から幼稚な言説を吐くものを「厨房」と言っていたということになるのだが(汗)。

 




承前

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 2日(火)23時24分32秒

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「罌粟の中」
「窓からすぐ真下の道路を傍のダニューブ河が流れていた」
という部分なのだが、私が入力者だったら、きっと誤記と解釈して無断で
「窓からすぐ真下の道路の傍をダニューブ河が流れていた」
と直しちゃうだろうなあ。でもそれは絶対やっちゃいけないんでしょうね。
これが翻訳だったらどうなんだろう。これくらいだったら大抵は斟酌して直してしまうような気がするんですけど、どうなんでしょうか。
むろん<負ける翻訳>派の人は、そんな傲慢なこと絶対やっちゃいかんと、そのまま(まさしく「ママ」)訳すんでしょうけどね。

あ、でもこれがヨコジュンの文章ならば違和感はなかったかも。道の横を流れるダニューブ川が突如岸をよじ登ってきて道路を流れはじめたと素直にイメージしたかもです(^^;

「わっ」と俺はのけぞった。窓からすぐ真下の道路を傍のダニューブ河が流れていたからだ!
俺に気づいた川が立ちどまっていった。「やあこんにちは。ぼく、ダニューブ河君です」


 

 




おまけ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 2日(火)21時49分34秒

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↓あんまり日本語として変なところがあるので、これは入力者のミスならん、とわざわざ新潮文庫を引っ張り出してきて対照してみた。
一字一句正確だった(汗)。

 

 




横光を読む

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 2日(火)21時23分57秒

返信・引用  編集済

 

 

ひきつづきケータイで「春は馬車に乗って」「比叡」「罌粟の中」を読む。すべて私小説もしくは擬似私小説(>今思いついた造語(^^;)。いずれも秀作で引き込まれます。有名な「春は……」は上林暁とはまた違うけれども同じく病妻もので、やはり紛うかたなき名作。「罌粟の中」はブタペスト滞在記ですが、ひな罌粟の大平原に突如出現する都市ブタペストはその登場からしてひとつの幻想都市の趣きがあり、ジプシーの音楽がつねに鳴り響く小説世界は、私には妖しい幻想小説のように感じられました。
とはいえ、これらの私小説、擬似私小説、幻想都市小説は、しかし「古い」センチメントによって構成された小説であるのも確かで、「具象小説」であるのは間違いありません。
ところが私は、
「機械」や「時間」のような「新しい」、「抽象的」な小説が読みたいんですよね。そういうのを求めて読み続けているわけですが……。こういうタイプは横光としても特殊なんでしょうかねえ?

 




ケータイ読書

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 2日(火)02時28分11秒

返信・引用

 

 

『季刊邪馬台国2月号』は、特集分読了。でもマスコミを使嗾するのは、実は吉野ヶ里に前例があるんだよね。というか吉野ヶ里がおそらくそういう手法のハシリ。といったことも含めて感想は明日にでも。

ところで数ヶ月前にケータイを変えたのですが、今日はじめてケータイ小説というのが読める機種であることに気づき、早速試してみた。青空文庫が(無料で)縦書きで読めるんです。で、とりあえず「オススメ」になっていた横光「機械」をダウンロードした。
これ、使えますね。文庫本で読むよりも読みやすいんじゃないでしょうか。文庫本よりずっと軽いし。するする読めるのに驚く。字が紙媒体より大きくて、むしろ年寄り向き(^^)。
で、「機械」なんですが――新潮文庫の『機械・春は馬車に乗って』を大昔読んでいるのだけれども殆ど印象に残ってない、そんなに面白いと感じなかったように記憶しています。ところが今日ケータイで読んでみたら、実に面白いではありませんか。なんとなく筒井康隆を思い出してしまいました。でも実際そんな感じなんです(次に読んだ「時間」も筒井っぽくて面白かった)。
これは多分にケータイ読書が(本での読書と比べても)「目にやさしい」ことも与っているように感じました。逆説的ですが実際私は本よりも目がラクです。これはちょっと先入観をよい意味で裏切られました。面白くなって「時間」「睡蓮」と次々ダウンロードして読んでしまいました。コンテンツを購入してまで利用する気は今のところありませんが、これからは暇なとき、ケータイで青空文庫を読んだりするようになるかも知れません。

 




アバターと3人の造反者

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 1日(月)23時20分57秒

返信・引用

 

 

貴乃花親方に投票した三名の造反者って誰なんでしょうか? それが知りたくてテレビのニュースをハシゴしていたのだが全く言及されなかった。知りたいなあ。おいおい分かってくるのかな(^^;

森下一仁さんが映画「アバター」についてご自身のブログで
「このシナリオには大きな意味があるといわざるを得ないのではないか」と書いておられます。→惑星ダルの日常
それで思い出したのですが、眉村さんも映画を見ておられて、映像ではなくストーリーが素晴らしいとおっしゃっていたのでした。先日の会での話です。
私の理解が正しければ「映像は凄いけどストーリーは月並み」というのが一般的な評価だった筈で、へえ? とちょっと意外な感じがしたのでした。そこですぐにどう「凄い」のか聞いたらよかったのですが、そもそも見る気もなく実際見ておらず、そういう次第でこちらに聞き取るだけの知識がなく、また酔っ払ってもおり、そうこうしているうちにいつの間にか話題が移ってしまっていたのでした。
抜かったなあ。今更ですが、さすが眉村さんの批評眼ですね。どうよかったのか、聞いておくべきでした。

 

 


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