| 「一月一日」、「暁」、「市俄古の二日」を読む。 「一月一日」 東洋銀行米国支店頭取某氏の社宅では例年初春を祝う雑煮餅の宴会が開かれ、社員以外にもそういうのに飢えている連中が集まって盛況なんですが、なぜか社員の金田だけは参加したことがない。日本飯と日本酒が大嫌いで見ただけで気持ちが悪くなるのだという。ほんまかいな、と欠席裁判が始まるのだが、一人事情を知っているものがいた。その人が語るのには…… ここで語られるのは(後にも出てきますが)人々から尊敬される社会的名士である厳格な父親への反発と(アメリカ的見地からは)暴君以外の何者でもない父親に下女並みに扱われる母親への思慕です。 「弁者は語りおわって、再び雑煮の箸を取上げた。一座暫くは無言の中に、女心の何につけても感じやすいと見えて、頭取の夫人の吐く溜息のみが、際立って聞こえた」というラストが決まっています(冒頭に「時には細君ご自身までが手伝って、目の廻うほどに急しく給仕をしている」という描写がある)。 「暁」 ロングアイランドの出鼻に、かつてコニーアイランドという巨大遊園地があり、ニューヨーク市民の夏の遊び場として、日曜などは幾万の客が出入する当時世界最大の雑踏場であった由。そこでの人気は、なんと日本の玉転がし(Japanese rolling ball)。話者の「自分」はヨーロッパへ渡る旅費稼ぎのため(ということは当然荷風ですね)アルバイトに行きます。一日働いて仕事が終わったのが未明の二時。なんやかんやで三時。そろそろ東の空が明るくなってきますが、働いている(この地まで堕ちてきた)日本人従業員たちは三々五々、女を買いに散っていく。残されたのは「自分」ともう一人学生っぽい男。男はなぜこんなところにいるか、ポツポツと喋りだします。 で、結局この男も、社会的名士の父親を持ち、それを継ぐのを期待されるが、それがコンプレックスとなり、また根っから怠惰で遊びが好きで放校を繰り返し、結句アメリカくんだりへ留学とあいなるも、ここでもまた学業を放棄して最下層の仲間入りをしていまに至る。「一月一日」の金田同様、もはや日本へ帰る気持ちはないのです。 金田の場合は、日本の儒教的厳格主義に対置するものとしてアメリカ社会の「愛(ラブ)だとか家庭(ホーム)」を見出したのですが、こちらの男の場合は、そんな理想があるわけでもない。悪所に入り浸って抜け出す気持ちもない。しかしいずれも「日本」という言葉が示す或る何かを拒否している点で同類なのです。と同時に荷風自身の、裡なるニ面がそれぞれ担われているといえそうです。 つづく「市俄古の二日」では、はじめて話者である「自分」の名前が明らかにされる。「ミスターN」。すなわち永井荷風ですな。本篇ではじめて聞き書きでなく、話者のNが自らの体験を語ります。そうして彼もまた、前二者と同類なのでした。「試みに、自分が養育された家庭(ホーム)の様を回想せよ。四書五経で暖い人間自然の血を冷却された父親、女今川と婦女庭訓で手足を縛られた母親。音楽や歌声なぞの起こりようはない。父は夜半過るまでも、友人と飲酒の快に耽り、終日の労苦に疲れた母親に向って、酒の燗具合と料理の仕方を攻撃するのを例としたが、ああ、そのときの父の顔、獰悪な専制的な父の顔、ただ諾々盲従している悲し気な、無気力な母の顔、自分は子供心ながら、世に父親ほど憎いものはないと思ったと同時に、母親ほど不幸なものも有るまいと信じたほどである」(256p) まさに「一月一日」の金田とは同一人物といえます。「一月一日」は聞き書きの実話という体裁をとっていますが、本篇を読めば実話を装った荷風の「創作」であることがおのずと分かってくるわけです(もとより「創作」のタネは当然あります。荷風の「思想」です)。 本篇においても、アメリカ人のWay of lifeが、日本的儒教体質に対置され称揚されます。「ああ、幸いなるかな、自由の国に生まれた人よ、と羨まざるを得なかった。試みに論語を手にする日本の学者をして論ぜしめたらどうであろう。彼女は、はしたないものであろう。色情狂者であろう、しかし、自由の国には愛の福音より外には、人間自然の情に悖った面倒な教えは存在していないのである」(254p) さて、ここまではまったく前二篇と同じ展開です。しかし本篇はここから少し進展するのです。話者のN氏は、上記の感懐を持ったシカゴ郊外の田園地帯から、再びシカゴ市内へ戻ってくる。そのとき彼は、満員電車にぎゅう詰めに押し込まれ、それでもなお片時も新聞から目をはなさず読み続けている通勤者を見て違和感を覚える。「彼らはいずれも鋭い眼で、最短時間の中に、最多の事件の要領を知ろうという非情な恐しい眼で、新聞を読みあさっている(……)彼らはいうであろう、進歩的の国民は皆一刻も早く、一事でも多く、世界の事件を知ろうとするのだと……」 N氏は心のなかで反論します。「ああ、しかし、世界の事件というものは、何の珍らしい事、変った事もなく、いつでも同じごたごたを繰返しているばかりではないか(……)毎日毎日人生の出来事は何の変化もない単調極るものである」(モーパッサンも「厭うべき同じき事の常に繰り返さるるを心付かぬものこそ幸なれ」といっているが)「この変化なき人生の事件を知ろうとするアメリカ人の如きは、もっとも幸福というべきものであろう」 現在の東京にも似たシカゴのせわしなき巨大さに彼は「非常な恐怖の念に打たれ……是非を問うの暇もなく自分も文明破壊者の一人に加盟したい念が矢の如く群り起って来」るのでした。立ち尽くす彼に、同道していたアメリカ人の友人が「Great cityだろう!」という。「Yes,Big monster」と彼は応えるのです。 自由の国アメリカは、ここにおいて背反する二面性を荷風に見せつけるのでした。 | |