ヘリコニア談話室ログ(20103)




オリゴ党公演のご案内

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月31日(水)18時25分29秒

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半期に一度の大バーゲン、じゃなくて、半期に一度しか見られない、関西の小劇場オリゴ党さんの定期公演が近づいてまいりました。→HP
しかしHPみても、公演内容はさっぱりわかりませんねえ(^^;。なんか本格的なバンド演奏をやるらしい。
それも楽しみですが、同じ劇団を何年にもわたって観てくると、やりたい効果や主題はそうそう変わるはずはありませんから、そういう意味での新しさ、めざましさ、驚きというのは減じてきます。劇団員の顔ぶれが変わるわけでもない。
ところがそうなると、今度は座付き作家が、どのように同じメンバーの(個性は活かしつつ)配置を変え絡みを変えていっているのかといったところに関心が向かうのです。面白いですねー。この辺が小説と全く違うところで、劇団は常に登場人物が(配役は毎回違いますが)同じ「キャラ」なんですよね(その辺は漫画と似ているかも)。
しかも座付き作者はメンバー全てを登場させなければなりません。小説のように、前作は二名しか登場しなかったが、今度の作品は百名出てくるで、というような自由さはない。むしろ制約をいかに活かすかが面白さの重要な要素なんですね(よい意味のマンネリズムも芝居の重要な要素です)。そういう意味で、私の観劇の際の見方も次第に変わってきており、そういう経験させてくれているオリゴ党さんには感謝の言葉もありません。今回も楽しませてもらうつもり(^^)

 




Re: 名刺

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月30日(火)23時03分30秒

返信・引用

 

 

> No.2375[元記事へ]

堀さん
素早く対応して頂きありがとうございました!

> 貴社にはPCの周辺機器やサプライ品で色々とお世話になっております……ちとちがうか。
いや確かに扱っている素材ではありますが(^^;

> 神戸文学館……連休は田舎暮らしになりそうで、眉村さんの講演を聴きに行くのは難しそうな、
それは残念。またどこかで。あ、勝新の本近所の図書館にありました。あいにく貸し出し中でしたが予約しました。

 




名刺

 投稿者:堀 晃  投稿日:2010年 3月30日(火)22時33分32秒

返信・引用

 

 

>もう捨てられているかも知れませんが。

んなことは、しておりません。
貴社にはPCの周辺機器やサプライ品で色々とお世話になっております……ちとちがうか。
神戸文学館……連休は田舎暮らしになりそうで、眉村さんの講演を聴きに行くのは難しそうな、

 




ツイッターの日本語

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月30日(火)22時31分5秒

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息子から印鑑証明が必要との連絡で朝から走り回らされる。やれやれ。今日からボンクラ(親父の)息子に格上げのつもりだったが、まだしばらくボンクラ息子に据え置きであるなあ。

かんべさん
あと法曹界の方がいらっしゃれば鉄壁の布陣ですね。
「ほう、そうかい」なんちゃって(^^;

 ヒュウ〜〜〜〜〜〜(氷になった男)

らっぱ亭さん
山田正紀さんのツイッター見つけました(^^)山尾悠子さんは見つけられなかった(汗)
フォローしなくても読むのは読めるんですね。ただフォローしておけば自動的にホーム画面にツイートが反映されるということですね。

あ、そういえばツイッターのヘルプは素晴らしいと思いました。大概ネット上で読むヘルプって何度読んでも意味が理解できないシロモノですが、ここのは読めますね。読めるどころかなかなかこんなに読む人の事を斟酌した簡潔で的確な日本語は書けませんよ。国語の教材に推薦したいくらいです。どんな人が書いてはるのかなと思いました(^^)

 




Twitter

 投稿者:らっぱ亭  投稿日:2010年 3月30日(火)21時28分1秒

返信・引用

 

 

>管理人さん
Twitterでは日々、山田正紀先生と殊能将之先生のダジャレ合戦が勃発したり、楽しさ満載です。
先日SF系のタイムラインでは、かんべむさし先生と堀晃先生のTwitterかけあい漫才が是非ともみたいっ! という話題で盛り上がっておりました。

という訳で、先生方。たくさんのSF者がTwitterへのご参加をお待ちしております。

 




堀氏より即、名刺電送あり

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2010年 3月30日(火)18時08分9秒

返信・引用

 

 

堀さん、ありがとうございました。
なるほど。わたしゃ放送で、むこうが包装で。
ほう、そうですか。バンザーイ、バンザーイ!
(わしは、あほとちゃうぞ……)
企画展の件、ちょっと気になりましたもので。

 




あらみてたのねー!

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月30日(火)16時19分58秒

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> No.2370[元記事へ]

かんべさん
や、見つかっちゃいましたか(^^; ごめんなさいごめんなさいm(__)m

>名前の使用料は免除してあげますから
お目零し頂き感謝感激雨霰(古っ)。
でもミズコールとアルコールを掛け合せたmizcohol、なかなかいいと思いません? これ思いついた途端、使いたくて矢も盾もたまらなくなってしまったのでした(笑)。

私の仕事は、ここではつぶさに語れませんが危ない橋はわたっておりません! あ、堀さんには名刺をお渡ししていて、いまも変わっていません。もう捨てられているかも知れませんが。
というか……
うーんとですねえ……名刺のはオモテの仕事なんですよね。あと副業にピンカートン関西支社嘱託としていろいろ嗅ぎ回っているくらい、ということで決して怪しいものではございません(>怪しいって!)(笑)

>神戸文学館の展示企画
先日打ち合わせに出席したのですが、かんべさんもご協力いただけるとききました。よろしくお願いします。
ていうか、私もかんべさんと同じで、一協力者の立場(眉村先生とのパイプ役)なんです。なので詳しいことはよくわかりません。ただ会合では、小松先生は、イオ事務所から全面バックアップのお墨付きを戴いているのですが、筒井先生のほうは、所属(?)なさっているホリプロを通さなければいけないということで、こういう展示企画をしたいのでご協力頂けないかといった内容の手紙を、文学館から何度か送っているそうなんですが、いまのところ(というかその時点では)ナシのつぶてだそうです。ちゃんとご本人に伝わっているのかどうか、ですね。シンコン関係がメインの企画なのに、ちょっと困っておられるようでした(ネオヌル編集長が強力に支援してくださっておりますので何とかなっていますが)。

追記>そういえば旧ヌルが揃わないっていってましたっけ。

 




元祖ミズコール・サムサより

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2010年 3月30日(火)09時44分42秒

返信・引用

 

 

前々から一遍聞いてみたかったんですが、
管理人さんは、何の商売をしてはるんですか。
名前の使用料は免除してあげますから、お答えをば。
それから、もうひとつ。実はこちらが本当の質問。
神戸文学館の展示企画、筒井さんも協力しはるんですか?
以上、よろしく、お願いいたします。

 




氷になった男

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月29日(月)18時06分45秒

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子どもが就職で東京に出発しました。本社で二ヶ月の研修の後、配属が決まってこちらへ帰ってくる可能性もありますが、とりあえず親の(最低限の)責任は今日で果たし終わりましたー! やったー! 後は知らんよ。
これで養わねばならない者はなくなり、私は晴れて自由の身。これからは自分たちの食い扶持だけ稼げばよい。もう嫌な奴にヘコヘコ揉み手してご機嫌を伺う必要はありません。辛抱ならん相手には「あんた嫌い」とはっきりいってやる。
「あーその値段では、うちはようお付き合いできまへんな、すんまへん、他をお当たりよし」
こ、このセリフ、にこやかな笑みが瞬時に消えて冷然と言い放つ、あの京都人のセリフ。いっぺんゆーてみたかったそのセリフ、もうだれに憚ることなくいえるんです。ぜったいゆーてこましたるねん。明日から私は京都人になるのだ。で、ハイカラを気取って上品振る阪急人に冷たく言い放ってやるんです。そうです、これまで私はホトケの〇〇さんでしたが、今日からは氷の男。いやさ氷になった男なのである! そうだ、ハンドル名は「水凍寒」にしよう。そうだそうだ、丁度よい、前からやってみたかったツイッター、このHNで登録してやるのだ。できた。mizcoholで登録できました。まだなにも呟いていませんが、これから世の中に対する呪詛怨詛を呟いていこうと思います。
あー、なにはともあれ、ほっ。

 




「あなたのための物語」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月28日(日)20時59分33秒

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おお、これは『第四間氷期』へのレスポンスなのか!?
とかいいながら、実はまだ30ページ(汗)。やっぱり文章で引っかかるんだよね。著者の語の選択とどうもソリが合わないみたいです(何を表現したくてその語を使ったのかは分かるんですけどね)。いちいち気にかかって全然進みません。

 
「息をするたび肺が縮んでいくような閉塞感」(4p)
 「苦痛に性根を歪められて」(5p)
 「彼女は気鬱をため息で洗い流し」(20p)
 「気晴らしに開けるのは、禁止ではないのですが」(24p)
 「ははぁ、すいません。ミス・ウォーカーが笑う人だとは思わなかったもので」(25p)

以上のような表現には、私はとても違和感を感じるのですが。会話や、ネット上での書き込みなどではあり得るでしょう。でも完成され上梓された小説の表現としてはどうでしょうか(それとも私の語感の方に問題があるのか?)。

極めつけはこれ。起動した擬似脳ワナビーの反応に対して、
A「拾った子犬の予想外の賢さに驚いたかのように」(16p)注目したスタッフたちが、次のページではB「計算どおりの反応に、スタッフが生まれたばかりの《彼》と感覚器との伝達経路を開放する」(17p)というのですから、萎えないではいられません。Aが事実ならばBは「予想外の反応の良さに慌てて」と受けなければなりません。Bを生かすならばAは「その反応はたしかに予想されたものだったが」ではないでしょうか。

どうもこういう杜撰さは気になるとあら探ししてしまうんですよね。

 
「母になったことなどないサマンサは、新しい"意識"の誕生に立ち会っても母性などくすぐられなかった」(15p)
これも微妙に変。母になったことがある人ならみんな母性がくすぐられるのか? って思ってしまいます。それよりもなによりもこの文章自体が、日本語として座りが悪いように感じられます(それとも私の語感の方に問題があるのか?)。
でも頑張って読もう。読んだ後に大いなる喜びが待っている予感がするから。

 




啓窖

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月27日(土)19時18分37秒

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冬眠しておりました(笑)。晴れ間が見えたのでのそのそ出てきましたが、まだ寒いですな。
でも咳はとまったし、目の痛みも収まった(これは黄砂かも)ので、そろりそろりと。
てことで『あなたのための物語』を読み始めたのだが、これがとんでもない悪文。荷風が恋しくなってきました(爆)。続けて読むか思案中。しかしまあもうちょっと付き合ってみますか。こんな文章なのに評判がよいということは、内容がそれを不問にするほど凄いということなのかもしれませんからね。

 




神戸文学館SF企画展リーク

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月24日(水)00時09分40秒

返信・引用

 

 

昨日の打ち合わせで、神戸にテーマを絞るならKSFAの「世界SF全集」は外せないのでは、と提案し、プロデューサー(?)の野村さんに交渉をお願いしたのですが、今調べたら5冊だけしか出なかったんですね(私は1冊も持っていません)。全35巻の収録作品のリストを見た記憶があり、錚々たるラインナップであったと記憶しています。もし出展できるのならば、全巻の予定作品リストも掲示してほしいところですね。(メモ)

 




ベスト10

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月23日(火)15時27分17秒

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雫石さん

昨日はお疲れ様でした。家についたら殆ど7時半でした。乗り換えは結構うまく行ったんですけどね。神戸は遠いです(^^;

あ、私も昨日送付しましたが、下のはわがフェイバリットベスト。送ったのは初心者のガイド用に、だいぶ入れ替えました。ターゲットは、神戸文学館の主たる観覧層に合わせて、中高年でそこそこ読書歴はあるがSFは読んだことがない、という層です。芸が細かい!(爆)。集計が楽しみですね(^^)

 




Re: 追記

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年 3月23日(火)09時52分16秒

返信・引用

 

 

> No.2363[元記事へ]

私もベスト10昨晩のうちに考えて野村さんにメールしました。
いくつか同じ作品もありますが、私とは少々違うベストですね。
私のは、もう少し普通です。
何を選んだかは、集計が出来てからのお楽しみ。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/

 




追記

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月22日(月)21時22分45秒

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下の会合で、ベスト10を提出するようにと宿題が出たので考えました(但し1作家1作品)。

星 新一『ボッコちゃん』(作品集)
光瀬 龍『連作・宇宙年代記』
小松左京『日本アパッチ族』
半村 良『産霊山秘録』
荒巻義雄『神聖代』
石原藤夫『連作・惑星シリーズ』
筒井康隆『馬の首風雲録』
眉村 卓『ぬばたまの……』
豊田有恒『倭王の末裔』
平井和正『悪霊の女王』


ヴァン・ヴォークト『非Aの傀儡』
クリフォード・シマック『都市』
シオドア・スタージョン『人間以上』
アーサー・クラーク『都市と星』
レイ・ブラッドベリ『火星年代記』
カート・ヴォネガットJr『タイタンの妖女』
J・G・バラード『残虐行為展覧会』
ブライアン・オールディス『隠生代』
T・M・ディッシュ『334』
サミュエル・ディレーニイ『時は準宝石の螺旋のように』(作品集)

偏ってますか? 偏ってますね。集計者を困らすだけですね(爆)
ではこれを叩き台に「一般性」を加味した改訂版を作成し直して投票することにします(^^;

 




Re: モーパッサンの翻訳とSF企画展

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月22日(月)20時37分30秒

返信・引用

 

 

> No.2361[元記事へ]

高井さん

>平成16年まで毎年、翻訳刊行が続く。
というのが凄いですね。モーパッサンてそんなに日本人に人気があるのかって感じです。
まあたしかに小説らしい小説で、教科書的といいますか、「このシーンは主人公のどういう心の動きか?」なんていう設問がつくりやすい小説ではありますよね。読書初心者向き且つ翻訳の訓練にも丁度いいのかも。
驚くのは独歩や花袋が翻訳を試みていることで、やはり自然主義作家への影響力は大なるものがあったんでしょうか。ともあれ面白い資料をご教示下さり、ありがとうございました。

      ――――――      ――――――

ところで今日は例の神戸文学館のSF展の会合に出席してきました。かなり煮詰まってきていて、いやこれは面白いものになりそうです(^^)
私は神戸にこだわらず関西にすべきと主張するつもりで臨んだんですが、いろいろ面白い展示品が集まっていて、まあ展示室の広さも勘案すれば神戸に限定しても、それでもいささか窮屈な陳列になりそうな気配――ということで、持論はあえて封印いたしました(^^; ただし壁面のパネルやポスター類がやや弱いかも>要検討。
いずれにしましても一見の価値は十分にある企画展になりそうですよ(^^) 追って告知もしますが、ぜひご来場いただきたいと思います!>皆様

 




モーパッサンの翻訳

 投稿者:高井 信  投稿日:2010年 3月22日(月)17時58分57秒

返信・引用

 

 

> No.2360[元記事へ]

「翻訳と歴史」22・23合併号(2004年9月)はモーパッサン特集でして、その巻頭に掲載されている榊原貴教「モーパッサンに見る翻訳社会史」には――
> 明治28年(一八九五)4月〜6月に中央新聞に三遊亭円朝の翻
>案「名人長二」が連載され、30年に人見一太郎(築地庵主人)訳
>の「首輪」が訳されると、明治31年の「絲くづ」(国木田独歩訳、
>国民之友)、「二兵卒」(田山花袋訳、少年文集)以降、昭和17年か
>ら20年までの第二次世界大戦の期間を例外として、平成16年まで
>毎年、翻訳刊行が続く。
> 明治期は雑誌掲載を主として、毎年十数点(37年38年は三十点
>を超える)、大正期もその勢いに乗り(大正3年に33点が頂点)、
>大正9年から悪評高い天佑社版『モーパッサン全集』全15巻が刊
>行されることとなる。
 とあります。ご参考まで。

 




社会小説/艶笑小説/怪奇小説

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月21日(日)20時45分26秒

返信・引用

 

 

下の『モーパッサン短篇集』の感想文に対して、早速高井信さんがリプライして下さいました→ショートショートの世界
荷風は、高井さん所有の一番古い本(1914)より更に10年前に渡米(03)しており(といってもほぼ同時代の古さですね)、では荷風が読んだのは? と一瞬考えましたが、当然荷風は原書で読んでるんですよね(^^;。
しかし、「怪奇傑作集」というアンソロジーが既に存在していたとは……。どうやらモーパッサンと怪奇小説という組み合わせは、意外というほどのことではなく、単に私が物知らずなだけだったようですね(汗)
「艶笑小説集」というタイトルも言い得て妙です。社会小説、艶笑小説、怪奇小説の3ジャンル分類は案外有効かも。

ということで、次は『ふらんす物語』に着手の予定。でも古いのが続いているので何か新しいのを挟むかもです。

 




「モーパッサン短篇集」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月21日(日)07時16分53秒

返信・引用

 

 

山田登世子編訳『モーパッサン短篇集』(ちくま文庫09)読了。

モーパッサンは、高井信さんが「ショートショートの先駆者と考える4人のうちの1人」とのこと。しかし私は、そういう興味からではなく、荷風が影響を受けた作家らしいというので読んでみました。読んだことがないと思っていましたが、
「みれん」や「ジュールおじさん」「首飾り」の内容にはなんとなく見覚えがあった。これは国語の教科書で読んだのか、それとも子供向けアブリッジで読んだのかな。

本書は3部構成になっており、第1部は自然主義的な、一般庶民の、「人間」のどう仕様もない弱さを描いた作品群、第2部は主に上流階級の婦人たちに焦点を当てた「女」の物語群、第3部はこれは意外にもホラー・幻想小説群となっています。ストーリーは「ショートショートの先駆者」らしく、確かに殆どの場合「オチ」があり、その切れ味で読者を楽しませるものでした。

第1部の作品群は、「弱さ」が「愚かさ」と二重写しされてきて、実はあんまり楽しめなかった。それに比べて第2部は、編者は「女」というが、むしろ私には、女に翻弄されあたふたする「男」がニヤリとさせられて楽しかった。しかし圧巻は第3部のホラー篇で、著者がこんな作品を書いているというのがまず意外でした。内容的にはホラーの定石の擬似実話の形式で超自然現象が無解釈に提示される。圧巻は
「髪」で、これはもはやフェティッシュな幻想小説といってよいのではないか。一方ニヤリとさせられるのが「死者のかたわらで」です。これは珍しくオチが(合理的)解釈になっており、恐怖が一転笑いに転ずる逸品でした。本篇で私は「ホラーとは最後まで書ききれば合理的な話を、あえて途中でやめることで、恐怖感を読者に提供するものであるのだなあ」と分かりました(笑)。どんな話でも結末まで書かなければホラーになるんですね(>おい)。

「擬似実話」と書きましたが、全体に聞き書きの形式をとっており、この辺は確かに荷風の筆法と似ています。
「ミス・ハリエット」、「旅にて」のラストが、話を聞き終わった婦人たちの涙で締めくくられるのですが、荷風の「一月一日」も同じ形式の踏襲といえなくもない。というわけで小説の形式面においては影響関係が認められるようです。言い換えれば、荷風はモーパッサンで小説の書き方を学んだのかも。
では内容面ではどうか? 『あめりか物語』は前半と後半で明らかに変化が認められるのは同書の感想に書いたとおり。それに合わせるならばモーパッサンは前半に対応し、後半はボードレールの影響が強く認められるように思われます。滞米中に現実を直視するモーパッサンから社会に背を向け内に沈潜するボードレールに、荷風の心境が変化していった、という事実があるのかも知れませんね。

 




終りし「あめりか物語」の標に

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月18日(木)23時29分40秒

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「六月の夢の夜」「舎路港の一夜」「夜の霧」を読む。

岩波文庫版『あめりか物語』には正篇の他、正篇には組み込まれなかったニ篇が「あめりか物語余録」として付録されています。すなわち
「舎路港の一夜」「夜の霧」がそれで、すなわち正篇はアメリカからフランスへと向かう船上にて書き上げられた(という設定の)「六月の夢の夜」がラストの作品となります。

さてその
「六月の夢の夜」ですが、これはまたドイツ浪漫派を彷彿とさせる作品で、「舞姫」の鴎外ですら顔を赤らめて逃げ出しそうな、甘々小説でした(笑)。一体に「おち葉」以降、文体が激変しており、批評的な視線は次第に薄れ、現実から眼を背けて、自己憐憫的微温的なデカダン夢想が勝っていく。当初、荷風にとっては唾棄すべき国日本の、その対極に理想的に観念されていた自由の国アメリカですが、しかし滞在が長くなるにつれその現実が見えて来だして、アメリカ的西欧にも幻滅していったということなのでしょうか。ボードレールへの傾倒とこれは軌を一にするもので、これが渡仏の遠因となったのかなと思いました。

しかしその結果、情景描写にはますます磨きがかかってきて、たとえば
「七月午前の烈しい炎暑は、鉛色した水蒸気に海をも空をもこめ尽し、森や人家は愚か、かの高い小山さえ、棚曳く村雲のように模糊としている」、くっきりと目に浮かぶ描写ですが、考えてみると出来すぎの「絵」ですよね。荷風の描写は実は自然をそのまま捉えたものではなく、荷風の裡で劇的に変換されているのかも知れないという気がしてきました。
とすれば、先般記したように、その描写がスペオペを連想させられるのも、実は当時のアメリカの風景そのものから発するのではなく、荷風による変換の結果であるのかも。変換とは取りも直さず語り口であり、だとすれば流転さんがおっしゃった「名人の語り口」というのはまさに正鵠を射ていたことになります。今頃気づく鈍い私(^^; いやー流転さんさすがです(ところで流転さんの張られたリンクが通れません。もしまだ御覧でしたら正しいURLご連絡頂けたら幸いです)。

余録の
「舎路港の一夜」「夜の霧」は、いずれも渡米した当初のシアトル/タコマ時代の話で、前者は作品としても完結しておらず、たしかに正篇に組み込むのが躊躇われるような緩い作品。後者は、「野路のかえり」の癲狂院の、別のエピソードというべきもので、上に記したように、末期には消えてしまう「社会小説」の一面を色濃く備えた話。

ということで、
永井荷風『あめりか物語』(岩波文庫52、改版02)読了。

 




「あめりか物語」尚

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月18日(木)02時51分34秒

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「支那街の記」「夜あるき」を読む。

「支那街の記」で話者は、自分の裡に、いわば「闇を愛する」傾向、「闇に傾斜していく」性向があるとまず告白します。闇とは、光に対する闇であり、美に対して醜、喜びに対して悲しみ、悪徳、汚辱、疾病、死の含意であります。そういうものに抗いがたく惹かれて、話者は、夜な夜な貧民窟という貧民窟、汚辱の土地という土地をさまよい、遂にその最たる場所に辿りつく。それが支那街なのです。その描写が素晴らしい。引用したいのですが、それをすると全文引用しなければ気が済みません(笑)。これはもはや詩、「醜の美」を謳った散文詩というべきです。私は朔太郎とか乱歩が思い浮かんだのですが、元はボードレールですね。「人工楽園」という言葉が使われ、最後には実際詩人の名が出てきますから。
この作品は、本集中でも際立って感傷的、自己憐憫的ですが、間然するところなき逸品といえる。今気がついたのですが、クラーク・アシュトン・スミスに近いかも。というか、スミスも朔太郎も乱歩も、みなボードレールの上に根を張っているのだから、当然といえば当然ですね(^^;

「夜あるき」は、擬古文・候文で綴られた手紙の形式ですが、本篇も(事実上)散文詩といってよい。雰囲気がとてもよいです。身も蓋もない言い方をすれば、「夜歩き」をしているうちに、街娼にとっつかまって一晩過ごすはめになった、という内容。しかしそれが雅文体で綴られると、実に感傷的な奥深い印象になってしまうものですなあ(^^;
ここでもボードレールが引用されています。著者の裡の「金田」的部分が、デカダン詩人に強く共鳴するのでしょうか。

 




「あめりか物語」更

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月16日(火)22時27分36秒

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「夏の海」「夜半の酒場」「おち葉」を読む。

この3篇は(厳密には「市俄古の二日」からだが)、それまであくまで聞き書きの形式を崩さなかったのが、ここに至って(弁者と視点者の分離が解消され)両者が視点人物である私(自分)に統合されています。本書の作品の並びは執筆順ではないようなので、これは意図的な配列なのではないでしょうか。

「夏の海」は、東海岸の逗子大磯ともいうべきニュージャージー州アシベリパークという海水浴場にて一日遊ぶ話。
本篇でも冒頭の数頁の描写は私にスペオペを連想させるものでありまして、既にNYには摩天楼が林立し、地下鉄が走り、波止場には世界から集まり来る幾多の汽船が浮かび、その巨大な汽船でさえ余裕で下を通過させるブルックリンの大橋があり、そのどこでも人間が溢れかえっているというそれは(しかも道路には自動車と馬車が共存している!)、ちょっとレンジをさわれば、まさにかつてのスペオペ世界の未来都市に変貌するように思われます。しかもここに描写された世界は、実に今から一世紀も前には現実に存在していたという事実が(日本最初の地下鉄は昭和2年)、わたし的には「視座効果」を揺さぶられずにはおきません。

それはさておき、著者と視点者が一致した本篇では(あとの二篇も)、これまでの作品でも垣間見えていた著者の思想というか心情が、比較的直截に出てきているようです。
自由の女神像を見て、それがいかにも<世界初の平民国>たる米国精神を代表していることに視点者は賛嘆するのですが、翻って
「思うに日露戦争後は我国でも東洋を代表する大記念碑の類を建設する計画」がありそうだけれども「美術の制作を土木事業と同一視している日本政府の手によってなら、自分はむしろそのような計画の起こらぬことを庶うのである」
として、むしろ我々は
「男子は尽く花造りとなり、女子は尽く舞妓となって、全島国を揚げて世界観楽の糸竹場たらしむることではあるまいか」と提案するのはいかにも荷風らしいではありませんか(笑)
行った先の海水浴場は人でごった返しているというのに、だれも泳いでいない事を不審に思う荷風ですが、今日が日曜日であることを思い出し膝をうつ。当時米国は宗教上日曜日にはすべての遊戯が禁止されていたのです。
「ああ、禁制、規定! 殊に宗教上の形式的法則ほど、愚に見えるものはない」

「夜半の酒場」は、NYイーストサイド(貧民街)の酒場に一見で入った時の話。そこで視点者はバンジョーとマンドリンで演奏するイタリア人に注目する。シシリー島から9ヶ月前にやってきたという。「初めは金儲けをするつもりで来たんですがね、生まれついての道楽者なんで、酒と賭博の外には、バンジョーを抱えて歌うのが何よりも好きだ」結局「怠惰者はどこへ行っても同じこと、こうして処方方々、鳥見たように歌って歩いてるんでさ……どうにかこうにかその日のパンにや有り付きますア」
このイタリア人も、「暁」の落ちぶれた学生と同一人物ですね。と同時にアメリカという国の、成功者と未成功者・敗残者との極端な二極分化社会のありさまが、ここにあらわされているようです。

「おち葉」 落葉の秋となり、視点者の心も少し自省的となっています。セントラルパークのベンチにすわって思うのは、米国へ来て早4年、いろいろ見聞し、自由の国の良さも見たが、「しかし、アメリカの流行は商売国だけあって、形が俗である。自分は飽くまで、米国の実業主義には感化されないということを見せたいばかりに」いろいろ抵抗もしてきたものだが、このままでよいのだろうか、といささか詠嘆的です。日本より遙かにましなアメリカ社会も、4年も滞在するとそれなりに裏が見えてきたということなのでしょうか。

 




追記(断想)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月16日(火)01時02分25秒

返信・引用  編集済

 

 

下の流転さんへの返信を書き込んでから風呂に入り、出てきたところなのですが、下の返信は間違ったことをいっているとは思いませんが、半分くらいしか言えてないような気がしてきました。
大体、元投稿では「あめりか物語」のような感覚を求めてスペオペを読んできたような気がすると書いていたわけで、「あめりか物語」がスペオペ的だというのは逆なのでした。
それに下の返信は、「悪友」の世界がスペオペ的だとはいってますが、「あめりか物語」自体にスペオペを感じる理由の説明にはなってませんね。
私は、たとえば「市俄古の二日」のシカゴのマーシャルフィールド百貨店にも、「林間」のワシントンの公園都市にも、スペオペ(SF)を感じたのですから(ちなみに前者はヴォクト、後者は惑星ソラリア)。
そこで気がつくのは、荷風が見た20世紀初頭のアメリカは、既に実質世界一になった勃興期、成長期のアメリカで、1920-30年代にスペオペを書き飛ばした作家たちもまた、その同じ風景を見て育ったアメリカ人だということ。
そうしますと当時のスペオペの小説世界の風景には、多かれ少なかれ無意識裡に(彼らが誇りに感じていたに違いない)当時の発展するアメリカが摂り込まれているのかも知れないと考えるのはあながち不可能ではない。当時の世界に冠たるアメリカ物質文明を(貧弱な)想像力で拡張したのがスペオペ的世界なのではないでしょうか。
つまりスペオペ的風景には、20世紀初頭の(当時としては世界最先端の)アメリカ世界が二重写しになっており、しかもそれを20世紀後半−21世紀初頭の日本人が読むという「視座効果」で一種独特の「古臭さへの」エキゾチックなムードがはからずも醸成されていたということで、それを私が好んだということなのかも。そしてそういうセンチメントを、「あめりか物語」は共有したというか、そのものずばりを描いていたということではないのか。今のところそういう感じがしております。
そういう意味で、荷風の作品一般にスペオペ的なものを感じるのではなく、特殊「あめりか物語」に、その成立要件の中に、スペオペの作品世界と共通する因子があるということなのかも知れません(メモ)

 




Re: 「あめりか物語」又

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月15日(月)23時24分8秒

返信・引用

 

 

> No.2352[元記事へ]

流転さん

書き込みありがとうございます。

>これは「巷談」人情噺
>それも名人の語り口ということなのでは?と思うのですが・・・

なるほど、そういう読み方も可能ですよね。
でも私がスペオペを感じたのは「話(噺)」といったタテ糸の方ではなく、ヨコ糸である「風景」の方に、なのでした。私の全く個人的な読み方かも知れませんが、結局古いスペオペの描いているのは(Bチャンドラーはあからさますぎますが)港町の悪所なんだと思ったのです。
たとえば「悪友」のシアトルの日本人部落は、どこかの星の宇宙港の場末の地球人部落と置き換え可能ではないでしょうか(^^;
スペオペの魅力は、宇宙や科学を描く振りをして実は海や魔法を描いている、その二重性のぶれ(ステレオグラム効果といいますか)、オフビートにこそあるように思うんですよね。異化作用といってもいいかも。
その意味で、西洋の港町に三味の音が流れているという情景も、異化作用があり私にはSF的で、なかんづくそのツールの古臭さでスペオペ的と感じるようです。
そういえば荷風描くところの、アメリカ人の喋る言葉がいかにも江戸弁なのもオフビートで、SF的な何か(かつその古臭さでスペオペ)を感じてしまいます。あ、そう考えると、荷風が江戸弁を採用したのは、まさに「語り口」の選択であるわけですから、流転さんのおっしゃるのとも繋がっちゃいますね(^^)
風景だけじゃなく、語り口も含めた全体的なオフビート感覚が、21世紀に荷風を読むという視座効果と相俟って「あめりか物語」に<スペオペ>を感じさせるのかも知れません。

流転さんの書き込みのおかげで、すこし私自身の中で整理ができましたです(笑)。

 




「あめりか物語」又々

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月15日(月)22時49分21秒

返信・引用  編集済

 

 

「一月一日」「暁」「市俄古の二日」を読む。

「一月一日」 東洋銀行米国支店頭取某氏の社宅では例年初春を祝う雑煮餅の宴会が開かれ、社員以外にもそういうのに飢えている連中が集まって盛況なんですが、なぜか社員の金田だけは参加したことがない。日本飯と日本酒が大嫌いで見ただけで気持ちが悪くなるのだという。ほんまかいな、と欠席裁判が始まるのだが、一人事情を知っているものがいた。その人が語るのには……
ここで語られるのは(後にも出てきますが)人々から尊敬される社会的名士である厳格な父親への反発と(アメリカ的見地からは)暴君以外の何者でもない父親に下女並みに扱われる母親への思慕です。
「弁者は語りおわって、再び雑煮の箸を取上げた。一座暫くは無言の中に、女心の何につけても感じやすいと見えて、頭取の夫人の吐く溜息のみが、際立って聞こえた」というラストが決まっています(冒頭に「時には細君ご自身までが手伝って、目の廻うほどに急しく給仕をしている」という描写がある)。

「暁」 ロングアイランドの出鼻に、かつてコニーアイランドという巨大遊園地があり、ニューヨーク市民の夏の遊び場として、日曜などは幾万の客が出入する当時世界最大の雑踏場であった由。そこでの人気は、なんと日本の玉転がし(Japanese rolling ball)。話者の「自分」はヨーロッパへ渡る旅費稼ぎのため(ということは当然荷風ですね)アルバイトに行きます。一日働いて仕事が終わったのが未明の二時。なんやかんやで三時。そろそろ東の空が明るくなってきますが、働いている(この地まで堕ちてきた)日本人従業員たちは三々五々、女を買いに散っていく。残されたのは「自分」ともう一人学生っぽい男。男はなぜこんなところにいるか、ポツポツと喋りだします。
で、結局この男も、社会的名士の父親を持ち、それを継ぐのを期待されるが、それがコンプレックスとなり、また根っから怠惰で遊びが好きで放校を繰り返し、結句アメリカくんだりへ留学とあいなるも、ここでもまた学業を放棄して最下層の仲間入りをしていまに至る。
「一月一日」の金田同様、もはや日本へ帰る気持ちはないのです。
金田の場合は、日本の儒教的厳格主義に対置するものとしてアメリカ社会の
「愛(ラブ)だとか家庭(ホーム)」を見出したのですが、こちらの男の場合は、そんな理想があるわけでもない。悪所に入り浸って抜け出す気持ちもない。しかしいずれも「日本」という言葉が示す或る何かを拒否している点で同類なのです。と同時に荷風自身の、裡なるニ面がそれぞれ担われているといえそうです。

つづく
「市俄古の二日」では、はじめて話者である「自分」の名前が明らかにされる。「ミスターN」。すなわち永井荷風ですな。本篇ではじめて聞き書きでなく、話者のNが自らの体験を語ります。そうして彼もまた、前二者と同類なのでした。「試みに、自分が養育された家庭(ホーム)の様を回想せよ。四書五経で暖い人間自然の血を冷却された父親、女今川と婦女庭訓で手足を縛られた母親。音楽や歌声なぞの起こりようはない。父は夜半過るまでも、友人と飲酒の快に耽り、終日の労苦に疲れた母親に向って、酒の燗具合と料理の仕方を攻撃するのを例としたが、ああ、そのときの父の顔、獰悪な専制的な父の顔、ただ諾々盲従している悲し気な、無気力な母の顔、自分は子供心ながら、世に父親ほど憎いものはないと思ったと同時に、母親ほど不幸なものも有るまいと信じたほどである」(256p)

まさに
「一月一日」の金田とは同一人物といえます。「一月一日」は聞き書きの実話という体裁をとっていますが、本篇を読めば実話を装った荷風の「創作」であることがおのずと分かってくるわけです(もとより「創作」のタネは当然あります。荷風の「思想」です)。
本篇においても、アメリカ人のWay of lifeが、日本的儒教体質に対置され称揚されます。
「ああ、幸いなるかな、自由の国に生まれた人よ、と羨まざるを得なかった。試みに論語を手にする日本の学者をして論ぜしめたらどうであろう。彼女は、はしたないものであろう。色情狂者であろう、しかし、自由の国には愛の福音より外には、人間自然の情に悖った面倒な教えは存在していないのである」(254p)

さて、ここまではまったく前二篇と同じ展開です。しかし本篇はここから少し進展するのです。話者のN氏は、上記の感懐を持ったシカゴ郊外の田園地帯から、再びシカゴ市内へ戻ってくる。そのとき彼は、満員電車にぎゅう詰めに押し込まれ、それでもなお片時も新聞から目をはなさず読み続けている通勤者を見て違和感を覚える。
「彼らはいずれも鋭い眼で、最短時間の中に、最多の事件の要領を知ろうという非情な恐しい眼で、新聞を読みあさっている(……)彼らはいうであろう、進歩的の国民は皆一刻も早く、一事でも多く、世界の事件を知ろうとするのだと……」
N氏は心のなかで反論します。
「ああ、しかし、世界の事件というものは、何の珍らしい事、変った事もなく、いつでも同じごたごたを繰返しているばかりではないか(……)毎日毎日人生の出来事は何の変化もない単調極るものである」(モーパッサンも「厭うべき同じき事の常に繰り返さるるを心付かぬものこそ幸なれ」といっているが)「この変化なき人生の事件を知ろうとするアメリカ人の如きは、もっとも幸福というべきものであろう」
現在の東京にも似たシカゴのせわしなき巨大さに彼は
「非常な恐怖の念に打たれ……是非を問うの暇もなく自分も文明破壊者の一人に加盟したい念が矢の如く群り起って来」るのでした。立ち尽くす彼に、同道していたアメリカ人の友人が「Great cityだろう!」という。「Yes,Big monster」と彼は応えるのです。
自由の国アメリカは、ここにおいて背反する二面性を荷風に見せつけるのでした。

 




Re: 「あめりか物語」又

 投稿者:流転  投稿日:2010年 3月15日(月)22時40分27秒

返信・引用

 

 

> No.2351[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

荷風とスペオペという取り合わせに意表を突かれました。
全くの個人的な感想なのですが、これは「巷談」人情噺
それも名人の語り口ということなのでは?と思うのですが・・・

http://www.ruten22100@jcom.home.ne.jp

 




「あめりか物語」又

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月14日(日)20時42分36秒

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「寝覚め」「夜の女」を読む。

「寝覚め」は大爆笑劇(^^)。小心翼々のくせ助平な紐育支店営業部長沢崎氏の話。ぎゅう詰めの満員電車で両側に女性に座られた描写などもう抱腹絶倒もので、いやこれはディッシュやオールディスに読ませたら大喜びすること疑いなしの傑作。「つまり米国ほど道徳の腐敗した社会はない。生活の困難なところから、貞操なぞ守る女は一人もないといってよい位だもの、到底士君子の長く住むに堪える処ではないです」って、負け惜しみも大概にしなさい(爆)
いやー荷風って日本人が本当に嫌いなんですねえ(^^;

「しかし沢崎は、この心持をば、如何なる理由とも知らず、また知ろうとも思わなかった。もともとその妻は世俗の習慣に従って娶った下女代り、その家は世間へ見せるための玄関、その子は生まれたるによって教育してある……というに過ぎぬので、その妻、その家のために思悩むなぞは、如何にも女々しく意気地なく感ぜられてならないので。ことに煩悶だの沈思だのと、内心の方面に気を向ける事は、男子の恥と信じた過渡期の教育を受けた身はなおさらで、彼は、遂に自ら大笑一番して、いや、こんな妙な心持になるのも、つまるところ、女に不足しているからだ! と我と我身を賎しく解釈して、僅かにその意志の強さに満足した」(172p)

「夜の女」 これは名作というべきでしょう。ブロードウェーからシックスアベニューへ抜ける裏町に並ぶ曖昧宿長屋。その一軒マダム・ミツセス・スタントンの店にはべる居付の女五名と通い二名たちの或る一夜。うーむ佳いです。これはもはやディケンズの世界ですなあ……。

 




エクスポカフェにて

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月14日(日)12時13分16秒

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昨日は久しぶりに大阪。エクスポカフェにて大橋氏と。氏のマイミクさんたちともご一緒となり、興味あるお話をいろいろ伺うことができた。とりわけロボット開発の話を興味深く拝聴。21世紀初頭の人型ロボットバラ色の未来的ヴィジョンがずいぶん色褪せてしまっていることを知り、隔世の感にうたれる(いま調べたらアイボは生産終了している)。結局ノスタルジイ先走りの徒花だったのか? ちらっとWikipediaを見た範囲ではそういう歴史的観点の記述は見当たらないのだけれども。
ここからは私がいま思いついたこと。介護ロボットというのは、家屋の形態上二足歩行が有利かも。ただそのために割高なものになるならば、先日の介護食と同じで結局普及しないだろう。要は介護士の費用よりも安くならなければ存在意義が発生しない(二足歩行ロボットを導入するより床をフラットにする方が安いのなら尚更)。介護士の補助に留まるならば人型である必要はないし更に費用の面で厳しい。(これは昨日も出たが)生身の人間に残された数少ない働く場を奪うという問題(新しきラッダイト)。
いやー楽しかった。
出発が遅れて書店等にはどこにも寄れず。

 




「あめりか物語」続々

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月12日(金)20時44分53秒

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「林間」「悪友」「旧恨」を読む。

「林間」は、アメリカが国家存立の契機として内在させている「人種差別」と、青年の、同じく国家によって「規律に圧迫される肉の苦悶」がいたましくもぶつかる話で、それを著者は首都ワシントンの林の中で偶然耳にしたのでした。
その結果、著者の心は「まとまりの付かない、いい現し難い、非常に大きな問題」にふさがれてしまいます。著者がいかに当時有数の知識人であったかが分かる記述で、世界(アメリカ)を見る視野の広さ確かさに驚かされるとともに、そういうのから目を背けたい気持ちも出ていて、本書の著者が後年の著者といささかも断絶してないことに驚かされます(というか、そういう先入観を持っていたのでした)。よく考えれば当然なんですけどね。公園都市ワシントンの描写が目に見えるようです。

「悪友」も、在留邦人会での聞き書きの形式。シアトルの場末の日本人部落の描写がよい。唐突ですが、本篇に限らず、本書の描写に、私は「スペオペ」を感じてしまっているのです。というか私が古いスペオペを好むのは、実に本書から得られるような読書感を求めているということなんでしょう。本書は、私にとっていわば「アクションのないスペオペ」というべきもので、シアトルの場末がまるで異星の宇宙港のいかがわしい街並みに見えてきて仕方がありません。「地獄酒場」なんて、一体どんな酒場なんだ、とワクワクしてしまいます。

 諸所の波止場や普請場に働いていた人足どもが、その日の仕事をおわって何処からともなく寄集まってくる……重い靴の響、罵る声につれ、土塗れの破れシャツ、破れズボン、破れ帽の行列は、黒い影の如く、次第次第に明るく灯の点いている日本人街の横町へと動いて行く……横町からは絶え間なく、雑然たる人声に交って、酒場や射的場の蓄音機に仕掛けてあるらしい、曲馬の囃しと同様な騒しい楽隊の響が聞え、同時にチンテンチンテンと彼方此方で、互いに呼応うように響く三味線の音、それに続いて、女の歌う声、男の手を叩く音…… まア、想像して御覧なさい。アメリカという周囲の光景に対し、汽船の笛、汽車の鐘、蓄音機の楽隊なぞ、「西洋」という響の喧しい中に、長く尾を曳いて、吠えるような唸るような、眠たげな九州地方の田舎唄に、ちぎれちぎれな短い糸の音。(139p)

「旧恨」で、著者に語るのはアメリカ人の博士B――氏。氏が新婚旅行でウィーンに立ち寄り、帝室付きオペラハウスで観た「タンホイザー」が、奇しくも氏の旧悪を暴き、新婚旅行が台無しになる話。これまたいかにもウィーンらしい、重々しい情景が実によくあらわされています。しかしこの話の内容は、まさに荷風が境地を語っているのではないでしょうか?

結局、荷風が聞き取ったとされる「実話」は、荷風の生涯を知る者には、すべて、いかにも荷風のエピソードにふさわしいと感じられるものばかりなのです(^^;

 




どこの何社かしらないけれど

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月11日(木)21時02分48秒

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今日、タイヤ交換してもらいにディーラーに行ったのでした。待っている間営業さんと喋っていて、ハイブリッド車の話になった。ハイブリッド車の販売は、かつて北米を席巻し今ちょっとだけ苦しんでいるあのT社のひとり勝ちなんですって。
「それじゃあエコカー減税ってT社のためみたいですやん」
「おっしゃるとおりなんです」と営業さん。この減税を決めた会議(?)は会長がT社の社長で(といっていたと思うのだが記憶不確か)ほぼT社の息がかかった人で占められていたんだそうです。
「ご存知のようにこの施策は大当たりでした。おかげでT社のハイブリッド車Pに注文が殺到し、納車が間に合わなくなりました」
ちなみの生産が間に合わなくなった(ほど売れた)のはPのみとのこと(汗)
「3月までのはずだったこの制度が9月まで延長になりましたが、それはPの生産が追いつかない結果、3月までに納車が済まない人が多数あるからなのです」
「じゃあエコカー減税って結局はT社の販促プロジェクトで、しかもその費用を税金で充当しているということじゃないですかっ」ドン!(←机を叩く音)
「いやまあ、うちもおこぼれにあずかってないわけではないので、えへ、えへ」
そんな話をしているうちに整備も済み、帰ってきたのでした。
知っている人は知っているお話でした。

 




「あめりか物語」続

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月10日(水)20時22分31秒

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「長髪」「春と秋」「雪のやどり」を読む。

「長髪」は従前どおりの構造でしたが、「春と秋」に至って、はじめて話者である私が登場しない形式が採用されています。一見ごくふつうの「小説」の体を成している。しかしそれは「一見」なのであって、ここまで読んできた読者は、続きに並んでいる本篇も、荷風の聞き書きであろうとの「思い込み」を、ごく自然にもつはずです。さて本篇、内容はファルスです(^^;。金持ちで暇を持て余した男Aが、それなら留学でもとやってきたミシガンの田舎のユニバーシティ。何と珍しくも日本人が他に二人(男B、女C)いた。しかも神学部に。くだんのA、暇にあかせてその女のほうを口説き落とす。神学部に留学するくらいですから堅物なんですな(大体自分の所属する教会の資金で留学している、任務として滞米しているのです)。女のほうもアメリカの開放的な学生生活にしだいに「つられて」いく。お定まりのように、男に捨てられるのですが、結局もう一人の神学部の男Bと帰国後結婚している。その夫となった男Bが日本でくだんのAと再会します。ラストのAのセリフがすばらしく皮肉で、荷風の面目躍如たるものがあります。こんな話が(核となったタネはあると思いますが)まるっぽ実話のはずがありません。大体最後の場面でAがシガーを一吸するのもあまりにもストーリーに決まりすぎている(プロテスタント宗教者は禁酒禁煙)。これは荷風の創作なのです。

「雪のやどり」も、私という主語は出てきませんが、在留邦人会での(実話の)聞き書きという形式は当然荷風の存在が前提としてあるわけです。片田舎から騙されてニューヨークにやってきた堅物の女がいかにいっぱしの街娼になりしか、これまたどう考えても荷風の創作です(それにしても雪のマンハッタン42丁目の映像喚起力あふれる描写の素晴らしさ!)。「長髪」の金持ち女のヒモに必死でしがみつく日本人もですが、次第に荷風らしくなってきました(^^;

 




「あめりか物語」の重構造

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 9日(火)18時05分34秒

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『あめりか物語』読み中。「酔美人」まで読む。
この
「酔美人」が傑作。万博見物でセントルイスにやってきた荷風氏、案内してくれる友人から聞いた「動物の目を持つ混血美女」の話は、まさに<ウィアード・テールズ>に載っていそうなエキゾチシズム横溢の怪奇譚なのでした。WTらしく人種差別風味もおさおさ怠りなく入っています(爆)。

「野路のかえり」で著者が聞いた出稼ぎ日本人夫婦の話も残酷で素晴らしかったですが、かくいうように、この作品集は、まず荷風のあめりか滞在記という形式がまずあり、そのなかで荷風がそこで出会った人から聞いた話が挿入されている、そういう枠物語になっているのかも知れません(まだ全体の4分の1ですが)。後者に焦点を絞るならば、まあ一種の百物語の形式といえなくもない。

アメリカ滞在記は、当時(日露戦争前)のアメリカの具体的な風物が、海外など彼岸と変わらない明治の一般日本人に、見たこともない世界へのあこがれをかきたてたことでしょう。いま読む私でさえ、20世紀初頭の具体的なアメリカ人の生活が風景の中にあざやかに切り取られていて(心の)目を楽しませてくれるものです。

しかし面白いのは聞き書きを装った「物語」のほうで、すくなくともこの2挿話は、きちんと小説として読みたいと思わずにはいられません。

なぜこんな書き方をするのか?
話者が著者の「私」であることが、当時の「近代」小説の「パラダイム」だったのだろうことは容易に想像がつくわけで、ここで先日の「フィクション・ノンフィクション」論に立ち還るのですが、作者も読者も「この小説は事実だよ」という前提を踏まなければ、なにも書けなかったんでしょう。書けなかったというのは、内容で呻吟するという意味ではなく、このような切り口以外の書き方を想像できなかったんだろうということです。その意味で、先に百物語と書きましたが、この形式も又、純然たる想像物語(創作)を語る(聞く)ために、昔の人が不可避的に潜らなければならない木戸みたいな意味合いがあったのかも知れませんなあ。

 




「コブラ」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 8日(月)22時33分58秒

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何となくGYAOで、現在TV放映中らしい「COBRA THE ANIMATION」を観た。といってもGYAOで視聴可能なのは第1話と第8話のみ。これが意外に面白く、ネットで探して、テレビ最新の10話まで一気に視聴。合計5時間! 疲れた(^^;
しかしインターネットって探せば何でもありますなあ。

荷風『あめりか物語』に着手。

 




「プロメテウス・トラップ」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 7日(日)23時08分41秒

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福田和代『プロメテウス・トラップ』(早川書房10)読了。
一気通読! 面白かった。抜群の面白小説でした(^^)。前著のハードボイルド風とは打って変わって、初期山田正紀のゲーム的なノベルズ作品が世紀を超えてよみがえった印象のノンストップ小説。天才ハッカーが知能の限りを尽くしてサイバー空間にひそむ敵の正体を暴いていく体のゲーム的冒険小説です。アクション場面はほぼゼロ、頭の戦いの面白さ。
これはハードカバーでなくノベルズで出版してほしかったなあ。あ、ハヤカワにはノベルズはなかったか(^^;

 




虚実のはざまで

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 7日(日)16時26分49秒

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フィクション・ノンフィクション論

『ミラクル三年、柿八年』感想を書いた時、それからしばらく「中崎くに子」で検索してくる方が意外に多くて、「おいおい」と思ったのでした。エッセイと勘違いするのは論外ですが、そうでなくても小説を事実と(たぶん無意識に)認識してしまうことは大いにありうることで、それはとりわけ小説読書の初心者に多いとは石原千秋も書いてました。

そこのところケータイ小説は巧妙で、むしろいかにもこれは事実ですよ、という書き方をするらしい。そういうスタンス(一種「手記」を擬す)でなければ読んでくれない。たしかに「あんたまた小説読んでるのん? そんなウソ書いてあるものばっかり読んで」という言い方をして子供をたしなめる母親は、昔はざらにいたような気がします(^^;

上の感想文で、この作品について「ノンフィクション・フィクション」と言ったのは、まさにかんべさんがおっしゃる「虚実融合」を表現したつもりですが、いま読み返すと、これは事実だといっているようにも読めないこともなく、いささか危ういですね。反省。

それにしても、「虚実融合」なんて、実はずいぶん高級な手法なんではないでしょうか。「ミラクル三年……」はその意味でかなり高度な読みを要求する小説なんですよね。
小説が単に事実を語ったものではなく、(それをタネにしたところの)想像の産物である、と認識するだけでも、発達心理学的には大変な進歩といえる。虚構と事実を綯い交ぜにしたのをそのように読み取るには、そこから更なる精神的な進歩、社会の内面化が必要な筈で、そんな高度なものをせいぜいケータイ小説に少し毛が生えたものしか読んでいない一般的な読者(つまり小説が虚構であることは「理解」していながら、無意識ではそこに「事実」を探している読者)に期待するのは、ちょっと読者のレベルを高く置きすぎているといえるのではないか、などとも愚考するのです。読者ってそんなに賢くないよ、というのが厳然たる事実かも(^^;

追記。しかし我々は「これはウソや、ウソなんや」と思いながら読んでない。読んでいる最中は「実際に起こっている・起こりつつある」事実として読むからこそ、ハラハラもドキドキもする。そして読み終わったときには、読んだ内容が事実だったとはこれっぽっちも思っていないわけで、これは考えればでーりゃー高度な心的活動でありますなあ。

 




終末曲面に「歪み真珠」を投げ入れて

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 6日(土)21時01分19秒

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 ―― 蝋燭の明かりは乏しく、小さな火は時おり生き物のように奇妙に伸び上がっては微量の黒い煤を吐いた。(183p)

「影盗みの話」
「火の発見」
この2篇、前者は長篇「仮面物語」、後者は短篇「遠近法」から、それぞれ派生的に生まれた作品だと思われます(別に前者には中篇ヴァージョン「ゴーレム」、後者のには「遠近法補遺」という作品があるらしいが未読)。
作家がひとつの物語を書き上げたからといって、その作品の世界内存在物がすべて描き尽くされているわけではないのはいうまでもありません。むしろ作品は、書き上げられたその瞬間に(作者から)自立し、作者は外に放り出されてしまうのです。その結果作者もまた、われわれ読者と同じ立場で作品に対峙することになる。そうしますと、執筆中には気付かなかった、思いもしなかった謎を、当の小説世界が懐胎していたことに気づくようなことも起こりうるのではないでしょうか。書かれ、定着された作品世界とはまた別の局面・様相を垣間見てしまうなんてこともあるのに違いありません。ひょっとして当世界とは別の時間線も発見するかも知れない。
そんなことを思うのは、またまた私事にわたりますが、私自身、例の鎖国市を描いていて、「はて、ここは一体どうなってるんだ?」という疑問がどんどん湧き上がってきて、「ああ、そやったんか」と膝を打つ場合が少くないからでありまして、しかし読み返すその都度都度に湧き上がってくるそうした新たな視点なり解釈なりを、無闇矢鱈と取り込んで行っては実際小説は終わらないし、むしろ矛盾混乱して収拾も付かなくなってくるわけで、いま悩んでいるところなんですが、これは素人の想像ですが、おそらく作家はある時点で「諦めて」、そこで「思考を締め切って」、作品を完成させてしまうのではないかと想像するのです。
以上の立場から、私はこの2作は、元作品が「締め切られた」後に、発見された「謎」を、改めて著者が語りなおした、その「報告書」というべきもので、著者があとがきで書いているように「差異」を楽しむべきものなのかも知れません。

「アンヌンツィアツィオーネ」
初読のときは、なにやらよくわからないもやもや感があったのだが、再読したらぐわっと視界が開けて大感動。マイフェイヴァリットベスト級に評価が急上昇しました(^^; これは一体どういうことでしょうか。細部はいぜん謎のままなんですけど(^^;。

「夜の宮殿の観光、女王との謁見つき」
「夜の宮殿と輝くまひるの塔」
この2篇は、石川喬司「夢書房シリーズ」の山尾悠子版というべきもので、読者は島尾敏雄のように、冒頭に「夢の中で」と付け加えて読むとよい。
女王の住まう夜の宮殿が、なぜか造幣局の通り抜けみたいに市民で溢れかえっており、そのうち花火が打ち上がります(笑)。そんな辻褄の合わないシーンがどんどん繋がっていくのがシュールレアリスム的で面白い。とりわけ前者がマイフェバリットベスト級で気に入った。

「紫禁城の後宮で、ひとりの女が」
これも夢の断片的な話です。しかし夢そのものでなく著者によって十全に作品化されている。それは、辻褄は合わないけれどトーンというか色調は一定していることで分かります。

ということで、
山尾悠子『歪み真珠』(国書刊行会10)読了。素晴らしい出来映えの作品集で、いろいろ示唆も得られましたし、楽しめました。満足満足(^^)

次は『プロメテウス・トラップ』の予定。

 




「歪み真珠」更

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 5日(金)20時29分8秒

返信・引用  編集済

 

 

「向日性について」
ああ、この話もいいですねえ(^^)。現時点では
「娼婦たち……」「マスクと……」と並んで本集のマイフェイバリットベスト作品(暫定)(^^;
本篇がカルヴィーノ『見えない都市』を踏まえているのは今さらにいうまでもありません。作品内で挙げられている
「エウフラーシア、オディーレ、マルガーラ」も、「オーケアナ、タモエ、ハルモニア」も、前者はマルコポーロがまだ「一度もいってみたことがなく、ただその名前からあれこれと想像してみるだけの、あの数多くの都市」(河出77年版126p)として出てくる非在の都市名ですし、後者は「偉大なる汗の地図貼(アトラス)のなかにはまたさらに思念のなかでのみ訪れたものはあってもまだ発見されても創建もされていない約束の土地の地図さえ含まれている」(同書223p)として挙げられたなかにある未在の都市名です。本篇の<向日性人>の棲む都市もまた、上記諸都市同様正しく皇帝の「アトラス」に記述されていても決して不思議ではない「見えない都市」なのですよね(ちなみに「皇帝の地図帖(アトラス)」に就いては同書182-188p参照のこと)。
そういえば円城塔「エデン逆行」の<時計の街>もまた、上記都市名のいずれかであっても一向にかまわないといえますし、恐れ乍ら憚り乍らわが鎖国市も同様に見えない都市なんですけどね(>あー、ゆーてもた(^^;)

「ドロテアの首と銀の皿」
本篇は冬眠する一族が住まう荘園での物語。<冬眠族>という幻想的な設定と、その設定世界に否応なく侵入してこようとする現実界との葛藤が本篇のテーマといえるでしょうか。
本集では唯一短篇のボリュームを持つ作品で、珍しくといいますか、異例に細部(因果関係)がしっかりと描き込まれています。犬嫌いの管財人Fや老人たちのいささか誇張された描写が、本篇にそこはかとないユーモア性を付与しているのですが、このような描写法自体まぎれもなく「ノベル」のそれであるといえます。その意味で、たしかに本篇をふくらませて長編化するのは不可能ではない、むしろ本篇の小説世界自体が、長編化を期待しているように私には感じられるのですが。……というかこの長さは、実はいささか中途半端なんですよね。この描写法的には長さが不足している。そのために因果的解説が目立ってしまっている憾みがあると私は思います。これは長尺化することで目立たなくなるはずで、そうやって長編化された本篇は、私の見立てが間違っていなければ、(何を言いだすかと思われるかも知れませんが)おそらく屹度ディケンズ的な小説世界を開示することになるんじゃないかなあ。そんなことを考えていたのでした。
(つづく)

 




没経済志向

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 4日(木)20時16分8秒

返信・引用  編集済

 

 

クローズアップ現代を見た。今日のテーマは「どう支える高齢者の食」。前半は普通に経口で食事ができるようにサポートする集団医療体制の試み。後半はここまできた日本の「おいしい」介護食。
ここまで「進んでいますよ」というレポートなんですが、このての番組でいつも思うのは、じゃあそれを実際に一般の介護家庭で利用する場合、どれくらいの費用負担が必要なのか、をまったくレポートしないことなんですよね。
介護食を中国の施設に売り込むシーンがありましたが、はからずもそこが中国の富裕層の介護施設であるとのナレーションが。
それはたぶん日本でも同じで、いくら技術が進んでも、それを利用できるのが一部富裕層に限られるのならば、このレポートはある意味「まやかし」なんです。我々庶民では、あるいは年金生活者では高嶺の花であるのならば、番組中で介護食のメーカーの取締役が「ビジネスチャンス」という発言をしていましたけれども、まさにこのレポートはこのメーカーの提灯持ちでしかないといって過言ではない。そういう意味での経済面をまるで報道しないのがNHKなんですよね。眉村さんが既存の文学に対して行った問題提起と同型の構造がここにもあるわけです。

ひょっとしたらそこそこの収入が保証されているNHK職員の意識では、費用なんか取るに足らない問題なのかも知れませんね。そう意味では、事実上この番組は(費用がいくらかかるかなんて気にする必要のない)富裕な介護家庭を対象とする番組となっているといってよいかも。しかしNHKが富裕層の資金で運営されているのならば別ですが、受信料は年収と無関係に万人一律なんですよね。検索したら2006年現在納税者(給与所得者)のうち年収400万以下の人で50%以上、500万以下の人まで含めたら70%を占めるらしい。有り体にいってNHKを支えているのは500万以下の人々ということになる。そういう階層にNHK職員の目は向いているのかどうか。こういう制作姿勢は、まさに自分たちの目線から離れることができない想像力の欠如を示しているのかも知れませんな。

 




「歪み真珠」又

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 3日(水)22時27分5秒

返信・引用  編集済

 

 

前回、本書は読誦すべしといいました。それに関連して書くつもりのことをうっかり書き飛ばしていました。それは本書の文体には、一種「変拍子」の部分があるということです。たとえば同様に音楽的な文体を持つ筒井康隆の場合、調性は自由自在ですがリズムだけはきっちりと一定しています。私にはそう感じられます。翻って本篇の文体は、ときに拍子が変わる部分があり、それは著者が意図的なのか天性のセンスなのか分かりませんが、とにかく読誦するとその面白さが伝わってくる。もっとも音楽の変拍子でも、意識しすぎるといつの間にか指を折って数えていたりするわけで、本書でもちょっとその傾向が出てわれながら苦笑してしまったのでした(もちろん読誦するといっても、別に音読にこだわらない。黙読でも可能です。駄目なのはいわゆる「速読」で、速読では文体の音楽性は認識できないはずです。速読では山尾悠子は十全に味わうことはできません)。

そういう文体のきわめてすぐれた特質が、ここまで読んできた作品にはあったのですが、これから述べる2篇では少し文体が変わっています。それはこの2篇が「ストーリー」であるからだと思われます。

「聖アントワーヌの憂鬱」
ボッシュの絵「聖アントニウスの誘惑」の後日譚。どうやらこの話の前日譚があるようです。或いはあるという設定なのかもしれません。
悪魔の誘惑を何とか回避したアントワーヌだったが、以降何となく彼は気が落ち着かない。人々の彼を見る目が以前とはちょっと違うのだ。
そこに、前日譚で因縁があるらしい悪魔イラリヨンが現れる……
後日譚といい、前日譚という。リニアな時間的継起が本篇には流れているということです。言うまでもなくそれは「ストーリー」なのです。その意味で本篇はまさに「幻想小説」と呼ぶべき作品で、面白くて一気に読ませられてしまいます。ラストも皮肉で決まっています。著者がストーリーテラーとしても卓越した伎倆の持ち主であることがよく分かる佳品でした。

「水源地まで」
絢爛たる異世界を描いてきた著者が、本篇では一転、「いま・ここ」を描いています。
海辺の、たぶん河口の都市から、山の上の水源地の管理をしている恋人の女性に逢いに、主人公が四駆車を疾走させる……
山尾悠子と四駆という組み合わせが、一見するところまるでミスマッチですが、読めば全然そんなことはありません。なぜなら水源を管理している恋人は魔女なんですから(^^;。なぜ魔女が水源の管理をしているのかさっぱりわかりません。大体彼女が魔女なのかも、主人公がそういっているだけで、実際そうなのか読者には判断のしようがないのです。
山上の水源地での、なにも起こらない半日が描写されるばかり。
ただ、これが実によい。その半日の(回想部分も含めて)どこまでが現実でどこからが幻想なのか判然としません。世界は曖昧なヴェールに包まれたまま。行き帰りはとんでもなく遠く入り組んでいるのに、水源地から見遙かす眼下の風景はごく近かったりします。これはひょっとして、魔女たちが土遁の術で経路を迷路化しているのかもしれませんぞ(^^;
こういうのを読むと(とりわけ魔女族の女性の描写に)著者の成分に倉橋由美子が少からず入っているのを感じますね。すこしふしぎな軽幻想小説でした。
(つづく)

 




「歪み真珠」続

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 2日(火)20時00分26秒

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「美しい背中のアタランテ」
アタランテがアルゴナウタイの一員に加われなかったという説のほうがむしろヴァリアントであって、著者はそういう異説を下敷きにしたのかも知れません。そういう「いきさつ」で、早く、誰よりも早く、もっと早く、と、その一点に特化したアタランテの顔はみえず、ただその美しい背中だけが人々に記憶されるゆくたては、まさに(帯にあるところの)「バロック」というにふさわしい内容かもしれません。捻れて軽快な小品。


「マスクとベルガマスク」
マスクとベルガマスクというと、ドビュッシーの「月の光」(ベルガマスク組曲)やフォーレの「パヴァーヌ」(マスクとベルガマスク組曲)が思い出されるわけですが、いずれもヴェルレーヌの詩集「艶なる宴」が元ネタであるようです。集中の「月の光」に「masques et bergamasques」という文字が見えます。
  Votre âme est un paysage choisi
  Que vont charmant masques et bergamasques
  Jouant du luth et dansant et quasi
  Tristes sous leurs déguisements fantasques.

これを意訳すると
  あなたの心は極上の風景だ。
  花やかな仮面をつけ、リュートを掻きならしベルガモの踊りを踊りながら行進していく者たち、
  しかしそのファンタスティックな仮装の下の素顔はとても悲しそうだ。
(念のためcf堀口大學訳
となり、本篇のような人名ではない。従って下敷きになるものがあるのではなく、これはあくまで著者の独創による改変、いやむしろ(詩ではなく)音楽にインスパイアされて生まれた別の物語なのだと思われます。ラストの五線譜の道がそれを暗示していると思います。(フォーレのあらすじは知らないのでこの点留保。ご存じの方ご教示を)
世界のつくりは
「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」に近く、(リニアな)「ストーリー」ではない。短いながらもぎゅっと濃縮された「なにか」で、それは「ナラティブ」ではあります。黙読ではなく音読するもの。むしろ希望をいえば、著者に枕元にすわって読み聞かせてほしいところであるなあ(>おい)。
いや黙読(したわけですが)でもすばらしいことはいうまでもなく、あまりの芳ばしさにとろけてしまいました〜(^^;
(つづく)

  

 




Re: 『ゴジラ』&眉村先生講演会その他

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 1日(月)21時14分39秒

返信・引用

 

 

> No.2336[元記事へ]

雫石さん

早速お手伝い頂けるとのこと、ありがとうございます。
創生期からの関西SFファンダムをよくご存知で、知識も豊富な雫石さんに加わっていただけたら百人力です(^^)
近日中に野村氏からメールが行くと思いますので、よろしくお願いします。

 




Re: 『ゴジラ』&眉村先生講演会その他

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年 3月 1日(月)19時19分35秒

返信・引用

 

 

> No.2335[元記事へ]

神戸は私の地元でもありますし、必ず足を運びます。
私にできることならば、可能な限り協力しようと思います。
私も、蔵書家ではありませんが、何かお役に立つことがあれば
私の手持ちのものを役だててくださればいいです。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




Re: 『ゴジラ』&眉村先生講演会その他

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 3月 1日(月)18時43分51秒

返信・引用  編集済

 

 

> No.2334[元記事へ]

高井さん

眉村先生情報のご投稿ありがとうございます。
いつもすみません。とてもありがたいです。

それにしてもゴジラですか(笑)
当時はSF関係者のヨコの繋がりがとても緊密で強かったんでしょうね。「こんな仕事があるけど、どう?」とか(^^;
しかしこの本はさすがに手が出せません。どなたか購入されたらどんな内容かご報告いただけたら幸甚です。

あ、そうだ。いいことを思いついた。
いやその前に、これはもう(この掲示板では)公開してもいいと思うのですが、というか業務連絡と考えてもらって結構なんですが……
ということで、ここからは高井さんへの返信というのではなく、高井さんも含んだ本板閲覧者の皆様への業務連絡・お願いということになるかと思います。

実は今春、5月1日に神戸文学館に於いて眉村先生の講演会が決定しています。演題は「関西SF黎明期」(仮題)。

これは4月23日から6月29日の会期で行われる「SF企画展」の目玉になるもので、
資料から引き写しますと、現在のところ

1 講演
 (1) 眉村卓先生 5月1日(土)午後、演題「関西SF黎明期」(仮題)
 (2) 西秋生氏 4月24日(土)午後、演題 未定

2 企画展について
 (1) 会期 2010年4月23日(金)〜6月29日(火)
 (2) 企画展のタイトル(未定)
 (3) 展示物 ボード11枚、ケース7本
 (4) SF関係の簡単な年表

3 今後の予定
 2月 打合せ
 3月 資料収集、キャプション、ポスター・チラシ作成
 4月 広報

4 文学館からの依頼事項
 (1) ボードによる展示物は大きいものとなるので、何かおもちではありませんか(ポスター等)
 (2) 神戸関係ということで、横山光輝(鉄人28号)と手塚治虫(鉄腕アトム)の展示も少し入れたいと思っていますが、どうですか。
 
(3) 会期内に会場に置いておき、自由に読める本のリストをお願いできればと思います(購入は文学館で行います)
 (4) 簡単なSF用語辞典(配布用)を作成できればと思っていますが、協力いただけるでしょうか
 (5) SF関係の簡単な年表を作成して展示したいのですが、協力いただけるでしょうか
 (6) ミニ・シンポジウムのようなものも考えたいのですが、如何でしょうか

5 展示物について
 (1) 準備できるもの
  ・『燃える傾斜』(東都SF)眉村先生署名本
  ・「SFマガジン」創刊号
  ・室町書房SFシリーズ
  ・ハヤカワファンタジィ『宇宙人フライデイ』『クリスマス・イヴ』
  ・早川「日本SFシリーズ」(全15冊)
  ・早川『SF入門』『SF宇宙英雄群像』
  ・「NULL」(号数不明・調査中)
  ・「Neo−NULL」(No.1〜3)
  ・光瀬龍署名本(ハヤカワSFシリーズ、タイトル不明、現在捜索中)
  ・創元推理文庫『不老不死の血』
  ・『緑人の魔都』(南澤十七)(新浪漫社刊)
 (2) 準備できないもの
  ・ポスター等
  ・「宇宙塵」、元々社SFシリーズ等SF関係貴重図書


といったことが決まっていたり、進行していたりしています。
この企画展にぜひご協力いただけないかということです。実は私は皆さんも御存知の通り蔵書家でも収集家でもないので、こういうときに殆ど協力できないんですよね(ーー;。
そこで是非とも皆様のお力添えを賜りたいということなんです。
もしご協力いただける方がいらっしゃいましたら(展示物以外にも、SF用語辞典やSF年表などの作成もぜひ)、私宛ご連絡下さいませんか? 本展の企画立案統括責任者の方(野村恒彦=亜駆良人氏です)からご連絡差し上げます。どうぞよろしく。

で、前に戻って何が「あ、そうだ」かといいますと、上の
赤字の部分です。これで「ゴジラ」の本購入してもらえないかなあ、とふと思ったわけであります。無理かなあ。高価だからなあ。

 




『ゴジラ』

 投稿者:高井 信  投稿日:2010年 3月 1日(月)14時19分26秒

返信・引用

 

 

 角川書店から『ゴジラ、東宝特撮未発表資料アーカイヴ』という本が出るようです。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3745478
 目次を見ますと――
>ゴジラ(プロット+メモ) 眉村卓
 眉村さんが『ゴジラ』に関わっていらっしゃったとは知りませんでした。

 




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