ヘリコニア談話室ログ(20105)




「非登場人物」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月31日(月)21時57分53秒

返信・引用

 

 

中原涼『非登場人物』(地人書館89)読了。

いや〜王道のショートショートもよいですが、幻想ショートショートも不思議感横溢で私好み(^^)。

ところで、wikipediaの「中原涼」の項目は、当然押さえておかなければならない情報が殆ど何も載っていないというシロモノなのだが、少なくとも記述者が中原に何を求めているかだけはとてもよく分かります(^^;。その意味では極めて主体的なすっきりした記述といえます。困るんだけど(笑)。

ということで、ひきつづき『ifがいっぱい』に着手。

 




最古っていつ頃?

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月30日(日)23時59分41秒

返信・引用  編集済

 

 

日本最古の屋上遊園地
っていうから、弥生か縄文かと思うではないか。たかだか昭和6年に「最古」なんて使いますか。せいぜい「日本最初の屋上遊園地」ではないんかな。この記事、ほんまに天下の毎日新聞に載ったん?


 




「笑う宇宙」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月30日(日)21時23分22秒

返信・引用  編集済

 

 

いまちょっと「文章を纏める」脳が働かない状態につき、読書に専念できております(^^;
という次第で、
中原涼『笑う宇宙』(地人書館89)読了。

ひきつづき中原涼『非登場人物』に着手。


 




近況

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月29日(土)19時53分27秒

返信・引用  編集済

 

 

吉田知子『天地玄黄』(新潮社76)読了。
倉阪鬼一郎『忍者ルネッサンス!』(出版芸術社10)読了。
感想は順次上げていきます。

中原涼『笑う宇宙』に着手。


いま見てもやっぱりおもろい。なんでもあるなyoutube

 




「天地玄黄」より(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月27日(木)22時14分16秒

返信・引用  編集済

 

 

「天地玄黄」読む。
本篇を、石川喬司が「でてくたあ」で取り上げていたのを覚えています。たしか石川は「ねぼすけの妖怪が網を投げて神を捕らえようとする話」と紹介していたと記憶しているのですが、偽記憶かもしれません(識者の方ご教示頂ければ幸甚)(^^;。
ところで上記の紹介は間違いではないけれども、そのエピソードは24ページの本篇中わずか半ページに満たないエピソードであり、且つとつぜん現れてそのまま消えてしまう本筋に何のつながりも持たないものなんです。非常に印象深いものではありますが。

では、それでは本筋はどんな話かというと、どうもそういうものはない。
「眠ることの次に好きなことは何もしないことである。その次に好きなのは何かすることである。四番目に好きなことは、もうない」(86p)という、人よりも虫に似ているらしい妖怪<無名異>(「蒟蒻の化物がザムザに化けかかっているところだといえば最も適切なる形容だろう」(87p))がある日目ざめて窖から外へ出てくる。ただし無名異を馬鹿にしている右足と左足に、まさに足を取られて行く手を阻まれながら(笑)。

そして無定形にひろがる白い妖怪<オンナ>にごうかんされたり、おそらく著者の樺太からの引き上げ時の記憶(から捏造された)子捨てのシーン(著者の他の作品にも同じシーンがあった気がします)があらわれたり、リンチにあったり、それらが何の脈略もなく唐突に並んでいるばかりで(リンチのシーンでははらわたまで引きずり出されているのに、次のシーンではシャツを着ようと頭にかぶったまま二進も三進もいかず右往左往していて、時間の経過、因果律も無化されている)、あろうことかラストは
「(未完。ただし続篇なし)」で終わってしまうという八方破れ。大体これら各シーンの無名異が、同じ一匹(?)の無名異の経験したことかどうかも定かではありません。

仔細に読めばずいぶん酷いシチュエーションの集合なのに、<無名異>の有り様がユーモラスなため、あまり深刻な印象を残さない。寓話のようですが、だとしたらその寓意は何なのか……。そういう意味でも、ちょっと類例のないふしぎな小説でした。

 




太陽上らず

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月26日(水)21時51分16秒

返信・引用

 

 

今日は藤田太陽が見れると楽しみにしていたのですが、なんとケガで登録抹消中とのこと。残念。
しかし太陽はトレードされてよかった選手。パ・リーグの野球の方が向いているんでしょうね。先月でしたかオリックス戦で見ましたが、ヒゲを生やして、より野武士っぽい雰囲気が出ていてなかなかよかった。阪神を出された選手が他球団で頑張っているのを見るのは嬉しいものです。本人も投げたかったのではないかなあ。私もタイガースのラインナップがきりきり舞いするの見たかったです(^^;

 




73シカゴライブ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月26日(水)00時06分18秒

返信・引用

 

 

これは日本未発売なのかな。


 




今岡抹消

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月25日(火)17時59分47秒

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雫石さん

新井は今岡に比べれば断然ましですが、日ハム小谷野の守備を目の当たりにしますと、正直、あ、ぜんぜん(レベルが)違うやん、と思ってしまいましたね。
たぶん金本がスタメンに戻っても、これからは後半は交代するケースが増えると思います。なのでいっそのこと、前半と後半ではメンバー総入れ替えしたらどうでしょう。
まずサードに関本を入れ、新井はファースト。平野がライトに回り、セカンド大和。で、キャッチャー矢野。金本レフト先発の時は、金本引込みセンターからマートンがレフトに回り、センター藤川。わ、これだと動かないのは鳥谷だけですね(そうなったらキャッチフレーズは「タイガースの不動明王」!)(笑)
まあ前半大量点が前提ですけど(^^ゞ

今日は今岡の勇姿(?)が見れるかと思ったてたら、なんと登録抹消ではないですか! この調子じゃ来年はクビでしょうから、今日が甲子園最後のチャンスやったんですけどねえ・・

あ、そろそろ試合開始です(^^;

 




Re: 代打今岡

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年 5月25日(火)10時04分46秒

返信・引用

 

 

> No.2484[元記事へ]

>ある程度前半に得点して引き離していたら、矢野に変えた方が安全では。城島のリードは、一流ピッチャーには向いているかも知れませんが、阪神の、せいぜい一流半の先発陣には合ってないように思うのですがね。

賛成です。あかんピッチャーを、押したり一突いたり、だましだまし使うのは、矢野の方が得意ですね。きのうもそうでしたが、リードしてて8回ぐらいになると、一塁をブラゼルから、関本や葛城に替えるでしょう。あの時キャッチャーも同時に替えればいいですね。
それにしても新井はアホですね。城島が犠牲フライ打ったとき、なんで二塁でじっとしていなかったのでしょう。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/

 




「天地玄黄」より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月25日(火)02時12分26秒

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「日常」を読む。

本篇は、庭つき一軒家に住む(60年代当時としては一般的な風景でしょう)若い家族の(というのは子供が小学生くらいだから)、表題どおり、日常に継起する何ともない出来事が、数篇のエピソードに分かたれて、それぞれ彼女・母親・妻の視点から綴られているのですが、それらの彼女や母親や妻たちが、同一人物であるのかどうかは定かではありません。本篇が書かれた60年代当時にあっては実にありきたりな、誰であってもたいしてかわりがない構成であるからです。(69年早稲田文学初出)

そしてそれらのエピソードの合間に、新聞の切り抜きらしい記事が挿入される。それらの記事もまた、どこにでもありそうな事件(但し殺人や火事)なんですが、にもかかわらず、こうして切り抜かれて配置されると、一種異常な、不安に満ちた感覚をもたらします。

その感覚は、翻って日常のエピソードにもみられるもので、たとえば話者が、82歳で死んだ自分のばあさんについて回想するエピソードでは、髪の毛を癇症にきりっと結ぶのが好きだったため50歳でもう頭頂が禿げていたばあさんが、死ぬ前ごろは流石にきちんと髪を結えなくなって、朝結った髪が晩にほどけてくるようになり、真夜中そうやって髪を垂らしたばあさんが、ごとごと時間をかけて茶の間の押し入れを開けている。何事かと隣部屋で寝ていた伯父さんがのぞくと、不思議そうに伯父さんの顔をながめた。そして黙って押入れに入ろうとした。便所と間違えたのだというエピソードは、ある意味これまたありそうな日常風景でありながら、その叙述の配置によって背筋がぞっとするような不安感を吹き込んでくるのです。

これら新聞記事にしろエピソードにしろ、一見なんでもない現実のできごとを、著者の筆はあたかもいびつな拡大鏡のように作用して、読者にかかる不安感を醸成するわけです。しかし、拡大鏡のレンズが歪んでいると言い切れるのか。もしレンズ自体になんの問題もないとしたら、それは映し出される現実のほうが、実は歪んでいるのかも知れません。そういう意味で、本篇は日常こそが異常なのだといっているようなこわい小説でした。

 




代打今岡

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月24日(月)22時14分43秒

返信・引用

 

 

阪神、打順入れ替えで、だれが見ても妥当な打線になりましたね。懸案だった外野もよくなった。あとは3塁とキャッチャーですな(汗)。特にキャッチャーは、ある程度前半に得点して引き離していたら、矢野に変えた方が安全では。城島のリードは、一流ピッチャーには向いているかも知れませんが、阪神の、せいぜい一流半の先発陣には合ってないように思うのですがね。

しかし今日は今岡が出てくるかと思っていましたが、後半、そんなサービスをする余裕はなかったですね(^^; あ、昨日の試合が明日に回るのか。楽しみ!

 




工場占拠、その後の話題

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月23日(日)13時44分48秒

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例のロックアウトだかストだかの工場、その後の調べで(笑)、4月に倒産していることが判明。てことは倒産を何らかの理由で認めない組合が、資産の保全名目で立て篭もっているってことか!? なるほど、最近看板がひとつ増えていて、それには「〇〇出てこい!」(〇〇は社長の名)と書かれているのだが、そういうことか。なんかトラブルがあったんだろうな。
しかし組合ったって、駐車場には常時数台の同じ車が留っているだけなんだよなあ。一部先鋭分子の独断専行の気配もするなあ。引き続き要監視(^^;

●神戸文学館SF展のレポート追加分
http://www.jali.or.jp/hr/mad-j.html(5/22)
http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2010-05-23

 




「天地玄黄」より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月22日(土)22時25分40秒

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まず「ビルディング」読みました。
著者によれば、本篇は「極楽船の人びと」「ユエビ川」と同一主題を巡る作品であり、いわば<捨てられた人々>三部作を形成するものです(いま私が命名した(^^;)。
「極楽船の人びと」では船、「ユエビ川」では満州らしいけれどもどこともいえぬ荒野の療院に、捨てられた人々の話でしたが、本篇の舞台はビルディングです。

主人公の住む階を起点に少なくとも上へ21階、下へ12階の階層がある巨大なビルディング。ビルの住人の生活圏は内部に限られており、どうやら閉じ込められている。と書けば『ハイライズ』を思い出されるかも知れませんね。しかし本篇は、むしろ『宇宙の孤児』のビルディング版といったほうが近いように思われます。
住民が内部に閉じ込められている理由は不明ですが、その状態が何世代か続いており、今や彼らは、外に「世界」がある事を知らないのです。社会の教科書に都市の写真が載っているのですが、先生すらそれが真実ではないと思い込んでいる。そういう設定世界なのですが、なぜか最近、システムが不調になったのか食料がちゃんと配達されなくなり、水も乏しい。ところが風呂場で触ったらいかんと禁止されている丸いものを主人公が捻ると、どっと水が降り出してくるといったように、住民の側の知識が失われている面もあるようなのです。冒険心に満ちた主人公の少年は階段を上に行ったり下に行ったりしているうちに、ふと外に出る出口を発見するのでしたが……!?

いやーこれは面白かった。いつか<ビルディングSF傑作選>が編纂されるときは、眉村卓「通り過ぎた奴」、西秋生「魔天楼」、オールディス「外がわ」とともに、ぜひ収録してほしいと思いました(^^;

 




知り合いの死に思う

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月21日(金)23時10分40秒

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単発的にある製品を作ってもらっている工場に、頼んでいたものを引き取りに行ったら、数日前に社長が亡くなっていた。何年か前に癌で手術をされたのですが、予後は順調で、私はその事実さえ忘れていた。ところが何ヶ月か前に会ったときずいぶんやつれていて驚くとともにその事実を思い出した。だからその頃から悪化していたわけですが、奥さんによると、2年長生きしたらしい。
当日も仕事を手伝っていて、就寝してから亡くなったそうで、それは一番良い死に方でしたね、といったら頷いていたが、「死ぬまで働き詰めで、一体何のために生きてたんか」とぽつり。切ない。
それは端にいる人間として当然の思いだと思うのですが、そんなことを考えるのは人間だけで(文学の発生)動物は考えない。苦しまずに(いや薬で相当苦しんだそうですが)ぽっくりいけたのは、やっぱり当人は幸せだったのではないかと思います。
今年の決算は、先月(手術したときに、勤め人をやめて戻った)息子さんが(初めて)ひとりでやられたそうで、それでホッと安心したからだと思うと、奥さんはいってはったが、生への執念(=自分がいなくなったあとの心配)で無理して生きていたのが、そのつっかえ棒が外れたというのは当たっているのではないか(息子さんが優秀でなくボンクラだったらもっと生きてはったかも知れません)。
生への執念(生の意思)は、生体の物理的な因果律さえコントロールしてしまうものなのに、その物体である身体をいくら分解しても発見できないプラスアルファななにかなんですよね。
ああ私も死ぬときはアッちゅー間に逝ってしまいたいものです。

ということで(どういうことだ)、吉田知子『天地玄黄』に着手。

 




「ジャン=ジャックの自意識の場合」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月20日(木)22時26分32秒

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樺山三英『ジャン=ジャックの自意識の場合』(徳間書店07)読了。

物語のはじめのほうで、絶海の孤島に天まで聳え立つ塔という、きわめて「映像的」な幻想世界が描出され、これはボルヘスか山尾悠子か、きっと<永遠性>を帯びた結晶世界が展開されるに違いないと、そういう期待の仕方をしたのでしたが、すぐにどうも違うな、と気づき始めた。
遠近法的視界は読むほどに崩れ、輪郭を失い、曖昧模糊としていき、次第に静的な結晶世界とは正反対な、沸騰するがごとき乱雑で猥雑な動的世界が繰りひろげられ始めたのでした。

遠近法的な世界観がほどけていくにつれ現れてくるのは、一種演劇的な空間で、もとよりそれは現実に舞台に掛けるのは不可能な広がりを持つ「劇空間」なのですが、読んでいる私には、その壮大な舞台が目の前に展開されているような感覚を覚えたのでした。
あるいは著者は、もともとは戯曲を書いていた人なのかも。と思ったのはほかでもなく、私が懇意にしてもらっている劇団オリゴ党の座付き作者岩橋氏には、公演のたびに台本をいただくのですが、本篇と岩橋劇では世界観は全く違うのだけれども、世界の作り込み方、言い換えれば「存在のさせ方」自体は、大変よく似ているように感じられたからで、かかる小説空間というよりも劇空間という感覚は、読中ずっと持続していたのでした。

遠近法がほどけて感じられる理由はもうひとつあって、そもそも本篇の作品世界は、実際、主人公の夢なのかも知れないと作中でほのめかされているような存立のさせられ方をしており、「客観的な現実感の希薄」はある意味当然なのです。
そういう形式を取る本篇は、ストーリー自体が過去から未来へと向かうリニアなものではありえず、一応頭と終りはありますが、その間の因果関係は無効化されている。原因→結果は、ねじくれ歪められ、ときにループする(回帰した時点では意味が変わっている)。その結果醸成される混沌(カオス)は、もとより作者の目論見どおり、巨大な奔流となって読者を呑み込み、圧倒し溺れさせずにはおきません。その効果は、まるでニュージャズのパフォーマンスのよう。

本篇は、たしかにある意味<夢の論理>といえばいえるものですが、それは表層であって、その下には幾重にも深層が折りたたまれているに違いない。しかし残念ながら、言及されるルソーの思想と特異な生涯について私は殆ど知識がなく(5人の子供のエピソードも本篇ではじめて知った>記述されているのが事実ならば(^^;)、いわんやバルトに至っては片言隻句すら知らないとなれば、その面での反応は私には不可能です。ロビンソン・クルーソーやピーターパンの物語も著者によって独特な意味合いを籠められているみたいなんですが、これもパス。それでも本書は面白い。それは楽典を知らなくても音楽は楽しめるのと恐らく同じ。

作中ハイチ革命のエピソードが挿入されていて、それからの連想で、本篇の、バイタルなエネルギーのアナーキーな乱舞には、<マジックリアリズム>の影響があるのかもと思いましたが、その方面もあまり知らない(知らないことばかりです)私は、むしろそこにエムシュ的なものを感じました。なんとボルヘスかと思ったらエムシュなのでした(^^;

ただしラストの印象的な(ある意味感動的な)シーン(なんとなく「果しなき流れの果に」のラストを思い出させます)を読み終わった段階で振り返れば、本篇は意外にも、私の大好きなSFのサブジャンルである<遍歴もの>にぴったり収まるではないですか! <遍歴もの>とは私の言葉ですが、要するに「タイタンの妖女」や「時を越える旅」や「宇宙舟歌」みたいな話で、本篇はつまるところ、SF叙事詩であり神話譚だったのです(私の考えではそういうことになる)!
本書は新人の処女作なんですが、手法上の冒険を自覚的に行いつつ、しかもそれがジャンルからのスピンアウトに向かうのではなく、結果としてジャンルを深く掘り下げる類の、いわばモダンジャズに対するニュージャズのような作品であり、且つ先行の(タイトルを挙げたような)SFらしいSFに引けを取らない堂々たる力作で、感心しました。

 




安藤

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月20日(木)18時45分2秒

返信・引用

 

 

2軍戦で好投!27日にも昇格
http://www.sanspo.com/baseball/news/100519/bsb1005191002012-n1.htm

上がってきて快投したら怒るぞ。それやったら春キャンプは何やってん、ちゅうことですがな。
なので打たれても怒りませんよ。見放すだけ。

 




ポメラ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月18日(火)21時19分46秒

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ポメラを買いました(^^;。
以前から関心があったのですが、日曜の深夜、ネットをうろついていて偶然1万円そこそこで買える簡易型の新機種(DM5)が発売されていることを知り、気がついたら注文してました〜(笑)

で、今この文章はポメラで打っているのであります。これってまさしく往年のワープロ専用機ですね。ただし文庫本サイズというのが目新しい。
さわった感じは……画面が小さい分、どうしてものぞき込むような姿勢になってしまうので、肩が凝りそうな感じはある。しかしキイボードはこのサイズで十分です。慣れたらまず問題なしでしょう。

使い方は――もちろん機動的使用。いつでも、どこででも(^^)
昨今ワープロでものを書くことに完全に順応してしまったせいでしょうか、ちょっとした文章が、「鉛筆と紙」というツールでは全然かけなくなってしまいました。ノートPCを持ってない私は、いきおい、そういう文章は帰宅して机の前にすわって、ということになる。でも、たとえばふと時間が余ったとき、喫茶店で、ここにアップする感想文でも書けたらなあ、と思うことがたまにあるのです。読書の折々に浮かぶ感想やアイデアは、今はツイッターにメモしているのですが、それもこちらで対応できそう(ケータイの入力はやはりストレスが)。家の中でも、居間や寝室でも思い立ったときにさっと使えたら(何せ立ち上げ2秒!)便利ではないかな、と期待は高まるばかり。

できればケータイにデータを移せられたらもっと便利なんですけどね、それはできないみたい。

『ジャン=ジャックの……』は170pまで。山尾悠子的な遠近法的な空間性とはちょっとちがうのが面白い。むしろ演劇的な「奥行きのない」(これは否定辞ではない)世界観。

 




朝やんを継ぐ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月17日(月)20時39分11秒

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http://www.sanspo.com/sports/news/100517/spf1005171937006-n1.htm

白鵬が栃ノ心と鶴竜の変化に「苦言」を呈していて気にくわない。自分だって上がってきた頃、朝青龍に対して変化してるやん(で、朝青龍に「苦言」されている)。
そんな事実があったことを、もう忘れとるんかいな。いくらなんでもそれはないでしょう。自分がたどって来た道、むしろ相手が変化する気持ちが分かって当然ではないか。自分のことを棚にあげて何をほざくかとむかついた。逆に「ええよええよ、なんぼでも変わりなはれ、しかしそんな手じゃわしゃ負けんよ」くらい言えばいいのにと思うのでした。
いずれにしても朝青龍が引退してから「ダメ押し」も増えたし、天狗になってるんとちゃう? 一人横綱というのはやはり良い状態ではないのよな。

ということで(どういうことだ)、樺山三英『ジャン=ジャックの自意識の場合』に着手。一気に100ページ超。面白い! ちょっと山尾悠子というかボルヘスっぽくてよいですなあ。

追記>わ、スイングジャーナル休刊だって!→http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100517-OYT1T00937.htm
オレも20年以上購入してないからなあ(基本ジャズ喫茶で読む雑誌でしたけど(^^;)。若い頃の一時期は舐めるように読んでいたものですが……。

 




頽落と自然的態度

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月16日(日)21時21分0秒

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ハイデガーの「頽落」って、たぶんフッサールの「自然的態度」なんだな。向きが逆なんですよね。「頽落」っていうくらいだから、正しい状態(在るべき状態)から転落しているわけです。で、「非本来的」。
フッサールの場合は「自然的態度」をエポケーすることで「超越論的態度」に移行できるとするわけで、「自然的態度」がたぶん「本来的」であると考えている。
完全に方向が反対ですね。ハイデガーの方が上から目線?(笑)

 




Re: 「神の仕掛けた玩具」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月16日(日)01時07分46秒

返信・引用

 

 

> No.2474[元記事へ]

橋元先生

書き込みありがとうございます。『神の仕掛けた玩具』はとても面白かったです(^^)

>まだまだ小説を書きたいという思いは強くあります
ぜひぜひ! いろいろ状況的に難しい面があるかと思いますが(>子育てとか(^^;)、新作読みたいです〜。よろしくお願いします。

 




Re: 「神の仕掛けた玩具」

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2010年 5月15日(土)22時22分8秒

返信・引用

 

 

> No.2472[元記事へ]

管理人さん、拙著をお読み下さり、なおかつ望外の評価を下さり、誠にありがとうございます。
自分の作品へのコメントは差し控えますが、まだまだ小説を書きたいという思いは強くあります。大変励みになりました。

 




存が浮遊する

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月15日(土)02時02分48秒

返信・引用

 

 

わ、家にあった木田元とか竹田青嗣とかのハイデッガー入門書を読み散らしていたら、「存」の字が分解して、意味(というかカタチ?)をなさない、単なる線の交差模様にしか見えなくなりました。
――と書いていたら、元に戻った。ほっ。

 




「神の仕掛けた玩具」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月14日(金)00時17分11秒

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橋元淳一郎『神の仕掛けた玩具』(講談社06)読了。

短篇集ですが、複数の作品にキヅカ船長という脇役が登場しますし、くしゃみをするトカゲや、エギリ・クリムタという天才科学者がアインシュタイン相対論に対抗する「絶対時空理論」を提唱したという設定が共有されたりもしており、全体で一つのゆるい長篇というか、或るつながりを持った世界観を構成しているようです(後述しますが、かかる構成もスミスを彷彿とさせる一因でしょう)。

ハードSFという先入観が強く、かなり構えて読み始めたのでしたが、そんな意識はすぐに消え去ってしまいました。ハードSFはハードSFなんですが、木で鼻を括ったような無味乾燥なそれではない。収録作品は(
「超網の目理論」(*)以外は)すべて、なんともいえぬ一種「せつなさ」をそこはかとなく漂わせていて、それがとてもよかったのでした。

この「せつなさ」はどこからもたらされるのか。それは(世界を体験してきた/しつつある)読者には明らかであるに違いない。一般化して言えば「生きて進むことにより生ずる抵抗感」とでもいうべきもので、それこそ著者が時間論で考察した抗エントロピー体としての生命の、その発生の契機そのものの「悲哀」なのではないでしょうか。
「スミレ」や、「モネラの断想」、「白い飛翔体」にはとりわけそれが強く表現されているように思われます。

SFのなかには、著者がすべて説明してしまって、いわば「行間がない」ものがあります。それは多分にSFという形式が要請する面があり、仕方がない部分もあるのですが(SF作家のサガでもあるかも)、著者の筆法はそのような、「すべてを書き込んでしまう」ある意味「トゥーマッチ」なものではなく、謎が謎のまま残されている。たとえば
「スミレ」で、なぜ墜落事故が起こったのかは曖昧なままです。そしてそのような「空白」が逆に「せつなさ」を醸成している。つまりすべて書き尽くさないことによって、ある種謡曲のそれにも似た効果を生んでいるように思うのです。このあたりが著者のハードSFの、他に類をみない個性的なところではないでしょうか。

私の感覚では、本書に一番近いのはコードウェイナー・スミスですね。一体に著者のハードSFはクラークのようなリアリズムSFでなく、何程か誇張されているのですが、その誇張の形式に或る類似性を感じました。
「神の仕掛けた玩具」や、「とけい座イオタ星系における有機知性体の研究」なんかに、特にそのような印象を持ちました。

マイベスト作品は、まさに「能」が重要な役割を果たす
「モネラの断想」で、これは一種前衛小説の趣きがあり、構成に過も不足もない全き傑作であると感じました。
また
「白い飛翔体」も甲乙つけ難いところで、この話は、もしトカゲSFアンソロジーが編まれるならば、光瀬龍「墓碑銘2007年」、森下一仁「コスモスホテル」と並んでぜひ収録してほしい佳品であります。

今回はじめて著者のSFを読んだのですが、かくのごとく非常に個性的な作風が面白く、とてもよかった。この世界、もっともっと読みたい(^^) 最近は小説の方はあまり書かれていないようですが、それはあまりにもったいない。もっと発表してほしいと思わずにいられません。

 (*)収録作品の中では最も初期の作品である本篇は、なかなかユーモラスでそれはよかったのですが、本書の中ではすこし異質で、石原藤夫のハードSFの影響を顕著に受けている(というか抜け出せてない)ように思いました。

 




工場占拠、その他の話題

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月12日(水)22時22分59秒

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■昨日のこと。大きな工場(本社工場)の入り口が閉め切られ、「立ち入り禁止〇〇労」の看板が……。すわロックアウト!? いやロックアウトは経営者側の手段か。なら工場占拠? とゆーかストライキでいいのか。ちょっとだけ路肩に止めてなかを窺ってみましたが、人の気配なし。無人なのでロックアウトかと思ったのでした。検索したらその会社のHPがあった。のだけれども、それらしい記載はなし。これって何なんでしょうか。今日も見てきましたが変化なし。明日も見に行こう。野次馬なのである(^^;。

■SFマガジン6月号所収、
樺山三英「収容所群島」を読みました。著者の作品は文体が安部公房っぽくて好きです。この短篇も面白かった。連作とのことで全体の構想は分からないのですが、読み切りの単品としてもじゅうぶん自立していて楽しめました。この号の読み切りでは唯一まともな作品でした(^^;。

■橋元淳一郎さんのSF作品集『神の仕掛けた玩具』(講談社06)に着手。

 




「時間はどこで生まれるのか」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月11日(火)22時06分6秒

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橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書06)読了。

本書は『時間はなぜ取り戻せないのか』(PHPサイエンス・ワールド新書09)の前著にあたり、同様に、生命が意思であり時間であるということを解説したものです。両書の間には3年の時差があります。いうまでもなくその3年間に著者の思索は進展しています。何がどう進展したのか? それは生命の発生を、水の海の中でリン脂質が<閉空間>を形成したことに求め、それがすべての(時間の)開始であったと具体的に記述したことです。これは先行書である本書ではまだ述べられていません。

そのかわり主題の前提となる相対論・量子論等の解説はこちらの方が詳細です。但し本書には、『時間はなぜ取り戻せないのか』172pの図による説明はないのですが、生命(秩序体)にとって過去は(受け取るばかりで)変えられず、しかしその(過去からの)圧力を未来に投げ返す「自由」を契機として持つということに就いての説明は、本書の方が私にとってはわかりやすく、より鮮明になった感じがします。まあ両方読んだからでしょうけど(ちなみにサルトルの「人間は未来に向かって投企する自由を持つ存在」を思い出しました)。

結局生命体は、(単なる物質とは違い)エントロピー増大に抗して生き延びるために刻々と決断(未来への投機)する存在ですが、かかる決断の都度都度に時間が発生する。それを振り返ったとき、生命は「時間の流れ」を錯覚する。もとよりそういう意識(記憶)を持っているのは人間だけなのであって、かかる記憶をもったとき、(主体的意思の高次な)意識(自己)は発生した――というのは、直観としてとてもよく分かります。で、それらはすべて「進化」の一環なのですね。

そういう(決断を重視する)著者の立場からして、多世界宇宙はあり得ないということになるのは当然の帰結でしょう。著者ははっきり「並行宇宙は存在しない」と述べています(152p)。

タイムマシンはどうか。過去へ戻って親殺しした場合、(決断を無化する多世界宇宙とは違い)そこから別バージョンの宇宙が発生するという(ヒュー・エヴェレットならぬ)ヴィンス・エヴェレット的な枝分かれ宇宙はあり得ると著者は言います。しかしながら、過去へ戻るとは、エントロピー減少の方向への移動であり、エントロピー増大に抗して発生した生命(⊃人間)がその方向へ動くということは、つまるところ意思を剥ぎ取られ時間感覚も保てず、「たぶん死を意味するであろう」(158p)。過去へのタイムトラベルは、もしかしたら物体ならば可能かもしれないが、生命には不可能ということのようです。このへんいま一つピンと来ておらず、ならば(帰還を想定しない)未来への片道旅行はどうなのかな、とふと思いました。

――以上、両方つづけて読むことで、かなりイメージがくっきりしてきたように思います。そのような、かなり分かってきた(まだまだですが)地点から振り返りますと、著者の生命論(時間論というより生命論だと思います。一緒か(^^;)は、実はものすごくあたりまえのことをいっているような気がしてきました。それは取りも直さず、私が人間の一員で、人間もまた抗エントロピー体としての生命の一員であるところに由来する、その直観によるのだと思われます(哲学的な言いようで済みません)。当たり前と思うのはそれが私にとって「間違ってない」からに違いありません。
そのような意味においても、非常に面白く、かつ刺激的な読書体験となりました。あー楽しかった(^^; 読んでみようかなと思われた方は、やはり両方つづけて読まれたらよいと思います。

 




「進化の設計者」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 9日(日)23時32分15秒

返信・引用  編集済

 

 

林譲治『進化の設計者』(Jコレクション07)読了。

面白かった。のみならずこれまで私が読んできた著者の作品のなかでも群を抜いた完成度を示していると思いました。間然するところのない傑作でした!
しかしそれにしても、現代のSF作家は、システムエンジニアの素養が不可欠となっているのでしょうか。『オーディンの鴉』を読み、続けて本書を読むと、そんな気がしてなりません(『オーディンの鴉』がSFじゃないとはいわせません。『進化の設計者』が近未来社会テーマSFだとしたら、『オーディンの鴉』は立派に現未来社会SFたりえています)。
しかも本書は、そればかりでなく、SFの王道を行く進化論テーマ、新人類テーマを受け継ぐものでもあり、平谷美樹『約束の地』とも繋がりを感じるのであります。いや新人類というのか人=猫=コンピュータ三位一体ゲシュタルトというべきか(笑)。ここでもコンピュータの介在が不可避であるのも現代的といえますね……。

本書のキイ概念は<エピジェネティクス>です。本書を読んだ限りの私の理解によれば、<進化>が遺伝子情報の変化の定着であるのに対して、急激な環境変化に、いわば緊急回避的に、遺伝子変化を伴わずに<適応>するもので、<進化>よりももっと短期的な(急激な)適応であるようです。

それは親と子の間でも起こりうるものとされており、かつてスンダランドであった海底の原人墓地遺跡で発見されたホモ・フロレシエンスと未知の(現生人類と同サイズの)原人の骨の分析で、両者が親子であることが判明します(遺伝子情報は同一)。
一方、日本が世界に誇るスーパーコンピュータ(地球シミュレータの進化型)が急激にその予報精度を低下させるのですが、これまたプランクトンの<エピジェネティクス>によることが分かる。海洋の新種のプランクトン(遺伝子情報は同一)が急速に在来種に置き変わっていくことによる海洋の状態の変化が気づかれず、データにインプットされなかったことが原因。なんとなく『消滅の光輪』を髣髴させます(^^;
そしてそれは当のスーパーコンピュータにおいても類似の現象が起っていたのでした。事故でリソースを制限されたスーパーコンピュータが、自立的にその環境に適応した振る舞いを示したのです。
同様のことがユビキタス化された個人のホームシステムにも起こり、この場合は何と飼い猫がユビキタスのシステムと共生します。

そのような個別の変化が、社会ダーウィニズムと原理主義が融合したような組織による「21世紀のひょっこりひょうたん島」(違)へのテロ攻撃というタテイトと絡んで、読者をぐいぐい引っ張ってゆき飽きさせないのですが、そのストーリーに籠められた著者の主張は共感できるものです。
著者としては『記憶汚染』につづく近未来社会SF長編で、宇宙ハードSFも勿論面白いのですが、個人的にはこの路線の作品を今後も期待し、楽しみにしたいところです。

 




神戸文学館SF企画展のレポート

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 8日(土)21時51分9秒

返信・引用

 

 

「SF幼年期と神戸」展(5月1日)の詳細なレポート。とりわけ眉村さんの講演内容が非常によく纏めて下さっていてありがたい。→http://d.hatena.ne.jp/flow2005/20100508

《本日のBGM》
       

 




「時間はどこで生まれるのか」と「進化の設計者」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 8日(土)14時29分7秒

返信・引用  編集済

 

 

ということで(どういうことだ)『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書06)購入してきました(^^)

なのですが、昨日から林譲治『進化の設計者』(07)に着手したところなので、暫くお預けです〜。
とはいえ読み始めたばかりですが既に3分の1消化、いやこれは面白いです! ある意味『オーディンの鴉』の世界の近未来版といえるかも。

 
「重力の下では時間の流れが遅くなる。人間も(…)爪先と頭の天辺では時間の進み方が違っている。地面に近い方が重力は強いから、爪先の方が時間の流れは遅い」(75p)

これはよいことを知りました。つまり脳の老化を防ぐには出来るだけ寝っ転がっている方が良いのか。しかも二階よりも一階、ベッドよりも畳に布団の方が効果があるわけですよね。ということで早速寝っ転がって読んでいるのでありました(>いつもと同じだ)(^^;。

それはさておきニュースによりますと、ネアンデルタールとホモサピエンスが混血していたことが分かったとのこと。→http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100507-OYT1T00076.htm
ところが08年には、混血はなかったというニュースが出ていた(→http://wiredvision.jp/news/200808/2008081122.html)のですから、僅か2年で大逆転です。もっともそれ以前に、99年ポルトガルのラペド渓谷で、03年ルーマニアでも混血を示唆する骨が見つかっており、2年前の記事は、当時私も首をひねったのでした。したがって今回の発表は非常に妥当なものだという感じがしています。通婚できたわけですから、ホモ・ネアンデルタレンシスではなく、ホモサピエンス・ネアンデルタレンシスということになるのかな。

 




Re: 「時間はなぜ取り戻せないのか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 7日(金)21時40分40秒

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> No.2465[元記事へ]

橋元先生

いやー面白かったです〜(^^) とても刺激的でした。H2Oの海の中でリン脂質が閉空間を結んだ瞬間から主観が生じ、時間が流れはじめ、それがやがて人間に自我を発生させたというのは私の解釈(妄想)ですが、何と壮大でセンス・オブ・ワンダーに溢れた「物語」でしょうか!

とはいえ基礎的な素養が不足しているため、理解が届かなかったところも多々あるように感じています。たとえば(偶然に)有利な形質を獲得(適応)したものが生き残るその積み重ねという進化論的な説明と、生命意思を重視する先生の解釈は相補的なのか相反するのか、よく分かりません(直感では反するような気がします)。
ともあれ他の著書も読ませていただき、私の中にあるイメージを少しでもクッキリ鮮明にさせたいと思っておりますので、またよろしくお願いします。

 




Re: 「時間はなぜ取り戻せないのか」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2010年 5月 7日(金)18時20分3秒

返信・引用

 

 

> No.2464[元記事へ]

管理人さん、熱のこもった感想をありがとうございました。
私の謂わんとしたことは、まさにその通りでして、生きている、主観がある、ということ自体が時間の流れそのものなんですね。空間的システムとして生命を見るかぎり、そこに主体的意思は見い出せません。
主観の外に時間の流れはない。これは実験的に証明されたことではありませんが、論理的にはそれ以外に考えようがない気がします。このようなことが、もし現代科学の方法論に則って、数式で論理的に導け、実験的に実証されれば、注目を浴びることになるのですが、残念ながらまだそこまでは行きません。
今考えていることは、秩序やエントロピーといった概念の本質は何かということです。これは高い壁です。挑戦を続けたいと思います。

 




「時間はなぜ取り戻せないのか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 7日(金)00時00分3秒

返信・引用  編集済

 

 

第5章には著者によるまとめが箇条書されており、私が要約することもないでしょう。興味を持たれた方は現物にあたって下さい(>おい)(^^;

以下は妄想(^^;

生命(生物)とモノ(物体)はどこが違うのか、といいますと、モノは物理法則に従い、エントロピー増大の法則そのままに腐ったり壊れたりしていくのに対し、生物はエントロピー増大の法則に、何ほどか抵抗する存在といえるでしょう(抗エントロピー体)。
どんな生物も、生物であるからには外部から栄養を摂取し、同じ成分で構成された物質よりも、長く腐りも崩壊もしない。たとえば人間は60年、70年ビクともしなかったのが、死ねばたちまち腐っていきます。
死を生命を失うと表現しますが、示唆的です。命を失うと、死ぬ。死ねば生体は物質に還り、物質はエントロピーの法則に従います。構成要素は同じであるのに……。そういうわけで、生命は、物質でありながらエントロピーに抗する機制といえる。

この生命は、本書の最初に書かれていたように、いくら肉体を分解しても発見できません。「プラスアルファ」な何かであり、著者の言う「主体的意思」はかかる「生命」と同じだと私は思います。「主体的意思」(主観)とは「生きる意志」「存在し続ける意志」であり、それは生命(生体)が「もろい秩序」であるからこそのものであり、表裏一体なものであるといえそうです。

元来、ミンコフスキー時空が示すように、その中に描かれた時間線に動きはない。動きとは継起であり時間です。そこに時間を感じたのは人間(生命)ですが、そのベクトルはどっちむきでもありえた。しかしエントロピー減少の方向へは、別に、というか当然「主体的意思」は必要なかった(壊れていくんじゃなく、その反対なんですから。そしてそういう宇宙も存在するかも知れないが、我々には見えない)。
エントロピー増大の方向へ向かう方向にのみ、「主体的意思」は現れるのでしょう。そしてその方向を選んだことで、ミンコフスキー時空が示すように(172pの図で確認のこと)未来は必然的に見えなくなってしまう。……

3章で明らかにされたように、主体的意思は細胞の前駆物質系が閉空間を完成したことに起因するものです。ウチとソトの区別というのは重要だと思います。その区別が、波及的にウチの自己保存欲求(主体的意思)をも発生させたのではないでしょうか。そして生体(個体)はそのような細胞の共鳴組織であり、それを統覚する更なるレベルの「主体的意思」を析出する。それの存在理由は、自己保存・生存欲求であり、エントロピー増大に抵抗する根源的なあらわれである。抗エントロピーを目的とするそれは、当然(正の)時間性を体現しているはずです。空間的にはシステム(分子機械)である生体の、時間的なあらわれが「主体的意思」ということになる。したがって「時間」は外に流れているのではなく、「主体的意思」そのものが時間ということになる。たぶん(^^;
それにしても、時間が細胞の中にあったとは……。なんともセンス・オブ・ワンダーですなあ!

第6章は、そのような主体的意思こそが生物を生物たらしめているという立場から、昨今有力な「宇宙の人間原理」や、「多世界宇宙」論が検討されます。これが実に刺激的で面白かった。読んでいてアドレナリンが出まくりでした(笑)。
イーガン(の名前は本書には出てきませんが)描くところの多世界宇宙に対して、違和感を持たれた方は多かったのではないでしょうか。イーガンの小説世界は、いわば人間の「意志」や「決断」の意義を無化するものといえます。どんなに確率的に小さな可能性も、それが実現した世界が実際にあると考えるのですから。
こういう多世界宇宙に対して著者は、生物が、取りも直さず「主体的意思」の空間的あらわれとする立場からすれば、多世界宇宙は生命の主体的意思を無視するものとの意見のようで、すべての生命は、すべからく分岐点の無限の可能性からたったひとつだけ選び取るのである、との考えのようです。詳しくは実地にあたって下さい(^^)
そういう著者の立場は、「宇宙の人間原理」ならぬ「主体的な生命原理」とのことであります。

ということで、とりあえず
橋元淳一郎『時間はなぜ取り戻せないのか』(PHPサイエンス・ワールド新書、10)の読み終わりとします。いや面白かった! でもまだ理解できたとはとてもいえませんのでまた読み返すつもり。『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書、06)も読んでみたいと思います!

 




「椿三十郎」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 6日(木)03時37分55秒

返信・引用  編集済

 

 

「椿三十郎」(黒澤明監督、62)観る。
先日は「用心棒」に就いて、マンガ的を芝居的と言い換えましたが、これはもうマンガ(劇画)そのもの(志士たちの幼稚さ、城代夫人の性格設定etcの戯画的表現)。むろんカムイ伝が64年からですから、影響関係はありえません。大衆演劇的な伝統か。前作の加東大介に相当するのが小林桂樹だが、加藤ほど誇張した演技ではないけれどもシーンの中のアクセントとして秀逸でした。
一方、三十郎がコミットする「動機」がいまいち弱いと思いました。紋次郎は一応「仕方なく」関わっていくという建前がありますが、あまりに簡単に志士側に入れ込むのはリアリティを感じられなかった。なんか理由がいるとおもうのですが、逆にそういうのはトゥーマッチとして退けたのかな。

 




Re: 「第三の男」と「第4章」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 5日(水)23時28分44秒

返信・引用  編集済

 

 

橋元先生

「第三の男」は世評どおりの名作でした。ラストが小説とは異なっているというのは知りませんでしたが、このラストシーンが本映画のキモであり、このラストでなければ本映画は成立しない、とさえ言ってしまいたくなるような印象的なシーンでした。

主人公ホリーは、自分では誠実に自分の意志で生きているつもりですが、その実何も主体的に理解していず(いわば勘違いしている)、それゆえすべての行動は、誰か(彼以外の他者)の影響を受けての他動的(反射的)行動なんですね。だからこの役を十全に演じれば演じるほど観客は嫌悪とまでは言わないが魅力を感じず離れて行き、相対的にハリーに光があたって(当にその登場のシーンのように)輝いていった、と思うのです。
そのホリーを象徴的に表しているのがラストのシーンで、勘違いもきわまって――というのは少佐の車から降りた段階で、系外の観測者(観客ですが(^^;)にはラストの結果は見えているわけです――女を待つのですが、観客の予想したとおりになる。またその絵(ポーズ)は、表層的なハードボイルドを揶揄するものになっています。いいですねえ(^^;

このシーンは、私は、いわば必然的なもので、結果的に必ずそうなったものではないかと思います。作家も納得の変更だったのではないでしょうか。脱帽したというのも頷かれますねえ(笑)。

さて、ご著書、疑問にお答え下さり助かりました。疑問が残っていると不安になり、あとの読みにも差し障ってくるんですよね。ありがとうございました(細胞に対するごく基礎的な知識が欠けているのだと思います)。

>「もろい秩序である」
これは確かに欠くべからざる契機ですよね。その伝でいくと「結晶生物」というのは存在が難しいのですね。
これまた妄想ですが(^^;、亀の形態は進化の結果でありますが、進化の行き止まりだと思う。たしかにその「ノロさ」は「固い秩序」に特化したからですね。

『時間はなぜ取り戻せないか』第4章読了し、現在第5章の途中です。第4章は相対論の確認です。この章の内容は、私もSF読者の端くれですので幸い(?)センス・オブ・ワンダーは感じずに済みました(汗)。もっとも算数の九九のように内部はブラックボックスで結果のみ「知っている」だけですが……。この章で特記すべきはミンコフスキー時空の時間軸は実数で空間軸が虚数と考えるのが妥当ということですね。
4章は、5章と一緒に纏めることにします。

 




Re: 「第三の男」

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2010年 5月 5日(水)16時15分11秒

返信・引用

 

 

> No.2459[元記事へ]

「第三の男」は、ぼくも好きな映画で、ビデオやDVDで何度も観ました。原作者のグレアム・グリーンは、映画にするという前提で小説を書いたそうですが、ラストシーンをあっさりひっくり返されて、小説ではこんなラストは考えられないと脱帽したそうですね。

 




Re: 「時間はなぜ取り戻せないのか」第3章

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2010年 5月 5日(水)16時13分44秒

返信・引用

 

 

> No.2458[元記事へ]

管理人さま、深く読み込んで頂きありがとうございます。
「生命は秩序である」とはよく言われることですが、むしろ重要なのは「もろい秩序である」という点かと思います。もろいがゆえに壊れやすく、その崩壊を防ぐには意思が必要というのが、大雑把な話の筋道です。
光合成システムが主体的意思かどうかは、難しい問題ですね。もともと葉緑体は、植物の元となった細胞にシアノバクテリアが寄生したものだそうですから、植物細胞という主体的意思の中に、シアノバクテリアという別の主体的意思が住み込んでいたことになります。

 




「第三の男」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 4日(火)23時12分31秒

返信・引用

 

 

「第三の男」(キャロル・リード監督、49)観る。
全体に暗い画面でパースペクティブを無化されているのですが(当時の技術的限界ではなく演出として)、しかしそれが実によい。まさしくフィルム・ノワールで堪能しました。オーソン・ウェルズが登場するのは3分の2を過ぎてからなんですね。実際の主役はジョゼフ・コットンなのに、オーソン・ウェルズの方がこの映画を代表しているように喧伝されるのは、実はコットンがホリー・マーチンス役を十全に演じきっているからこそでしょう、その結果<影>としてのオースン・ウェルズが逆に浮き出たのではないでしょうか。面白かった。
これは「霧笛が俺を呼んでいる」、探さなければ。トレバー・ハワード役の西村晃も是非観てみたいですね。

 




「時間はなぜ取り戻せないのか」第3章

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 4日(火)14時57分34秒

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本章は、生命はいかに生まれたかの続き。
生命を育んだのが水の海であったのはある種必然で、水分子がプラスとマイナスの極性が偏って分布する(極性がある)ことを契機とします。アルコールにはこの極性がないのだそうで、あるいはアルコールでいっぱいの海では生命は生まれないのです。
つまり水分子の極性に方向(秩序)づけられて細胞膜の原初形態である小胞が発生させられる。水の海の中に存在する(細胞膜の材料である)リン脂質が、記述されている必然性に従って閉曲面を(嫌でも)形成してしまうのです。平たく言えばウチとソトが隔てられる。ウチもソトも満たしているのは同じ水ですが、リン脂質の壁でウチとソトの水が入り交じることはない。
著者によれば「主観、すなわち主体的意思を持つためには、一つの生命個体は外界と峻別された内部空間(内部時空)を持たねばならない」とのことですが、ここにおいてその最初の要件が満たされるわけです。著者の言うとおり、「主体的意思の第一歩は、自己と他者の境界が存在することである」

余談ですが、生命の発生が閉曲面の形成による内と外の分離であったというのは示唆的です。というのは人間の思考の発生の原初形態、最初の形式はおそらくウチとソトの区別の意識であったろうと考えられるからです。この形式は現代人の思考の形式の再古層にあり、今でも思考の枠組みとして機能していてこれを離れた思考はありえない(二項対立、弁証法)。なんかフラクタル構造を想像させられますね。

それはさておき、生命の前駆物質系(小胞)は用意された。これから主体的意思がどう生まれるのでしょうか。生命は有機機械ですが、それ以上(プラスアルファ)のものであるというのが著者の立場です。木の葉の上の小さな存在物が風に吹かれて滑っていき落下するのは自然現象です。しかしその小さい存在物が、風もないのに動いている。あるいは風に逆らって止まっていたらどうか。小さな存在物が毛虫ならあり得る。毛虫は生物だから。そしてそういう動きをさせるのは著者によれば毛虫の「主体的意思」ということになります。そういう主体的意思を持つ物体(システム)は単なる力学系以上のシステムです。
とすれば、植物の光合成だって、それに携わる無数の過程(化学反応)を組み合わせたシステムですから、それを動かし実際に光合成させているのを植物の主体的意思と読んで何ら問題ありません。「主体的意思」とはそのようなものとして定義されたものです。すなわち主体的意思を持つのが生命です。

こういう見方はいわゆる「生物(分子)機械論」的な見方からは生まれてこないと著者は考えます。しかしそれでは、「生きている「私」が持っている主観とはほど遠い感じがする」と著者は「直観」します。まさに現象学でいう本質直観です。そのような「生物(分子)機械論」には重要な視点が欠けているのです。それが取りも直さずカントのいう「主体的意思すなわち主観とは内観であり、それは時間とともにある」(102p)ということなんだそうです。
いよいよ「時間」が登場してきました(^^)

追記。実は細胞とシステムとしての生物機械の関係がいまいち判っていません。単細胞バクテリアにも主体的意思はあると最初の方に書いてありましたので、光合成は植物の主体的意思と書いた上の読解は間違っているかも。

 




スチーム・カンヌ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 4日(火)00時51分26秒

返信・引用

 

 

今日は弟家族が帰省してきているのであまり自分の時間がなかった。

ちょこちょこと読んでいたSFマガジン6月号の<スチームパンク・リローデッド>をほぼ読み終わる。創作はおしなべてつまらなかった。前二編はそれでも設定はなかなかよい。ストーリーがだめだめ。後二編はすべてダメで語る言葉もありません。唯一翻訳評論が筋が通った論考で、これは楽しめました(監修者解説ではないですよ為念)。久々にどうしようもない特集で、こんな下らないのはスプロール特集以来ではないでしょうか。

それから思い出したのでメモ。眉村さん原作の草なぎ剛・竹内結子の映画は既に完成しているらしい。現在字幕スーパーをつけてる最中だそうで、公開は来年1月になるようですね。字幕スーパー?って驚かないように。映画祭出品用のフランス語のスーパーだそうで、つまりカンヌ狙い!?(^^;

 




Re: 「時間はなぜ取り戻せないのか」第1章

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 3日(月)18時12分37秒

返信・引用  編集済

 

 

> No.2454[元記事へ]

あ、橋元先生、お返事ありがとうございます。そんなに持ち上げられるとこそばゆいです。まだ導入部ですがとても面白いです(^^)。この方面の知識がないので、センス・オブ・ワンダーを至る所に感じられて楽しいのですが、さらっとは読めません。ゆっくりになりますがあしからずです。
また、もとより私の書くのは主観的な感想と客観的な要約が明確に分けられずないまぜになったメモの類ですので、先生の著書の代用にはなりません。当然ですがご著書の方が何倍も豊かで楽しいですから、ぜひ購入して読んで欲しいですね〜。

また続きを書きましたのでご笑覧下さい。↓

 




「時間はなぜ取り戻せないのか」第2章

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 3日(月)18時00分24秒

返信・引用  編集済

 

 

前章で人間の主観(内観)と客観的物理量(外観)は必ずしも一致しない例が示されました。実は「時間」もそのようなものであり、むしろその最たるものなのだそうです。たしかに砂時計で砂が落ち切る時間は客観的に一定ですが、主観時間はそれを長いと感じたり短いと感じたりして必ず濃淡がある。それが内的時間の特徴でしょう。本書によれば、時間が過去から未来へ一方行にのみ流れているというのは主観時間の話で、客観的な物理学の法則のなかにそれを示すものはないそうです。
しかし、本章では、まだそういう時間論には踏み込みません。前章に続いて前提の確認で、主観のもとである「私」とは何かが説明される。著者によれば人間における「思考する私」のような高度なものではないが、いかなる生命もすべて「何らかの方法で外界を感じ、それに反応する」ところの「主観」を持っているとします。これは主観を持つ生命体である著者の「直観」というべきものでしょう。人間の「私」はその高度な発展形で、それと区別して「主体的意思」とする。
人間(生命)の体をどこまで分解していっても「私」(主体的意思)は見つからない。そこには原子しかない。原子で構成された人間(生命)は当然物理法則にのみ規定される。しかし「私」(主体的意思)の存在は物理法則から説明しうるものではないとして、「私は物理法則プラスアルファ」によって成立していると著者は考える(生命ではないコンピュータと違うところ)。

ということで、さらに前提の確認として、生命とはいかにして生まれたかが考究されます。まず、生命が海で発生したのは必然であったことが解説される。しかもその流体が「水」であったことも契機といえる必須要素だった。
余談ですが、著者は台風生命の可能性(不可能性)に触れており、これはセンス・オブ・ワンダーを感じた。それらしい条件を持った惑星を想定したら台風生命を存在させられないのか? 生命の条件は何かと考えると、まず自己保存本能であり、もうひとつは子孫を残す本能でしょう。台風生命はできるだけ存在し続けられるよう(例えば日本列島へ近づくのをできるだけ遅らせるよう)気象条件に抵抗していることが観測できたら生命といえないのかな?

それにしても「生命がいかなるものであるのかは我々は直観的に知っている。なぜなら我々自身が生命であり、我々は主観を持っているからである」(76p)という記述は、まるで現象学の哲学書の中に書かれていそうな文章であるなあ。

 




Re: 「時間はなぜ取り戻せないのか」第1章

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2010年 5月 3日(月)17時44分4秒

返信・引用

 

 

> No.2453[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

素晴らしい要約です。ぼくの本を読まなくてもこれさえ読めばO.K.という感じです。
床からの抗力などが間接的に重力の存在を示しているのはその通りで、ふつう我々が重力と呼んでいるのは、このような力ですね。

 




「時間はなぜ取り戻せないのか」第1章

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 3日(月)00時43分0秒

返信・引用  編集済

 

 

下の投稿後、雑用が多くて読書は全然進んでいません。ということで、とりあえず第1章の感想――

まず「人間は重力を感じることができない」に、目からウロコ。たしかにSFで無重力のことをフリーフォールといいますよね。フリーフォールはその字義通り、自由に(何の障害もなく)落下している(すなわち重力の影響を受けている)状態。これを人間は「重力がない」と感じます。これは面白かった。
しかしこの自由落下状態を「外部」から見れば、重力を受けて落下しているのは一目瞭然。
つまり、人間は重力を直接感知することはできないが、外部から「見る」ことはできるわけです。

それは分かった。

それはそうとして、しかし何らかの装置(たとえば床)を介して、間接的にならば感知しているのではないのか? たとえば床によって自由落下が妨げられ(抗力の発生)、その結果間接的に人間は重力の存在を感知しているといってもよいのではないか? 抗力を感じるということを、間接的に重力を感じるといってはいけないのかな?

次の慣性力も同様で、直接感じることはできないが(外部から観察はできる)、記述されているように摩擦力や遠心力として、間接的にならば感じ取れていると言い得るのではないか?
それはともかく、この「外部」ですが、「系」の設定の仕方によっては重力と慣性力は同じものに「見える」というのもよく分かった。等加速運動をしているロケットを静止状態と決めれば、その系に属する観察者には、乗組員が床に感じる抗力(間接的な慣性力)は重力によるそれと区別がつかないはずですね。

科学に感じるセンス・オブ・ワンダー(視点の転換)が個々人の体験量(知識量)と相関的というのも納得。それは当然、SFのセンス・オブ・ワンダーも固定的に措定できないことを導出するわけです。SFのセンス・オブ・ワンダーもまた、個々の読者の体験量(知識量)に相関的であるのに、大方の人は固定的な量として把握するので、個々人の体験格差・知識格差が等閑視され、結果としてすれ違いが発生する。

色は、物に色が実体的に直接ついているのではなく、反射されてきた電磁波を脳が処理することで間接的に(そういう色として)認識する。つまり色は実在物ではない。では、

1)電磁波や原子は実在するのか?
2)生身の人間の立場から言えば色や温度こそ実在しているのではないのか?

1)に関しては、(原子と波動は)観測の方法によって見え方が変わるから実在するとは言えない。電磁波に見えたり原子に見えたりする「何か」は実在する。結局、実在する何かとその実在を感知する人間がいて、始めて実在は成立する。それが前提である。

とすれば、物理学的には実在物ではないとされた2)もあながち否定出来ない。

結局1)は観測された客観的事実というべきもので、2)は主観的実在である。ところが客観的事実を確定するのは人間の主観との相互作用によるというのが現代物理学なのであるから、客観的対象のみを扱うという物理学他近代諸科学の前提は最初から崩れている。主観の問題を切り離して科学を扱うことはもはやできない。

この章は論述の前提の確認のようですね。

 




Re: 昨日はありがとうございました。

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 2日(日)17時15分0秒

返信・引用  編集済

 

 

> No.2451[元記事へ]

橋元淳一郎さん

昨日はお疲れ様でした。わざわざご来訪恐縮です。

>「あいつに会うのは厭だ」
とかいいながら、先生そのあとすぐ時間論の話を始められましたので、行動が言葉を裏切っておりますね(>私はついていけず目を白黒させておりました)(^^;。
『時間はなぜ取り戻せないのか』 (PHPサイエンス・ワールド新書)は結局待ちきれず、近所の書店へ出向いて購入いたしました。早速読み始めて現在50ページ。面白いです! 今のところ理解できております(と主観的には思っています(^^;)。私の癖で、読みながら随時感想をここに掲載していきますので、よろしかったらご笑覧下さい。よろしくお願い致します。

 




昨日はありがとうございました。

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2010年 5月 2日(日)14時27分2秒

返信・引用

 

 

始めまして。橋元淳一郎です。管理人さん、昨日は大変お世話になり、ありがとうございました。
眉村先生には、短編集の帯を書いて頂きながら、不義理を重ねていたのですが、5月1日、神戸文学館に来られると雀部岡山ぴょん吉さんに教えて頂き、これを逃しては一生御礼を申し上げるチャンスはないと思い立ったのです。お陰様で、眉村先生には優しくして頂き(管理人さんには事前に「あいつに会うのは厭だ」と仰ったそうですが(笑))、それだけでなく眉村ファンの皆さんにもお会い出来て、楽しく過ごさせて頂きました。
出不精な上にネットも余り得意ではありませんが、これを機会に今後ともよろしくお願い致します。
時間論の本、読んで頂けるとのことありがとうございます。その種のお話なら、いつでもお付き合いさせて頂きます。

 




Re: 「SF幼年期と神戸」展に行ってきました

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 2日(日)11時31分33秒

返信・引用

 

 

> No.2449[元記事へ]

雫石さん
お疲れさまでした。盛況でよかったですね。

>昨日のうちにちゃんと更新しているのですね
いや寝る前に記しておかないと忘れてしまうもので。案の定、マッチ箱の話はいま自分の投稿を読んで思い出しました(^^ゞ
そういう意味で、私のは私自身に特化したメモですので、客観的な内容を知りたい方は、雫石さんのブログをチェックしていただきたいと思います(爆)。



Re: 「SF幼年期と神戸」展に行ってきました

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年 5月 2日(日)11時19分6秒

返信・引用

 

 

> No.2448[元記事へ]

 昨日は楽しかったですね。そしてご苦労様でした。
さすがですね。昨日のうちにちゃんと更新しているのですね。
私は、帰宅後、阪神VS巨人の結果を知って、すぐ寝ました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




「SF幼年期と神戸」展に行ってきました

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 2日(日)00時13分34秒

返信・引用  編集済

 

 

神戸文学館企画展「SF幼年期と神戸」に行ってきました。
眉村さんの講演の受講希望者は、定員50名を既に越えていてキャンセル待ちみたいな状況になっていたらしい。最終的に椅子が増やされて、おそらく60名ほどになったのではないでしょうか。大盛況でありました(^^)
内容は、SF全体の創生期の話と、眉村さん自身のSF創生期の話とが、神戸(関西)という空間を介して繋がれる構成だったように思われます。筒井さんのスタジオが眉村さんのいた会社の隣のビルに越してきて、何かと眉村さんがスタジオに入り浸っていたのは有名ですが、そういう関係を正当化するため(?)、購買担当だった眉村さんが筒井さんに仕事を依頼していたというのは初めて聞きました(笑)。筒井さんがデザインした販促品のマッチ箱がもし残っていたら、これは凄いですねえ。
チャチャヤングの嵯峨ディレクターがMBSの人間でなかったのは知っていましたが、それは当時MBSの社員は深夜労働させることができず、そのため一種の外注方式で番組が作られていたからだったという事実は初めて知りました。なるほどそういうことだったのか。

SF作家の橋元淳一郎先生も来場されていて、打ち上げにも付き合ってくださいました。とってもいい人ですねえ。いっぺんにファンになってしまいました(^^)。いろいろお話をうかがったのですが、とりわけ時間論に目を洗われる思いがしました。私が考えている(以前ちょっと開陳した)時間理解は主観的なそれで、それだけでは不十分らしいです。ということでご著書の『時間はなぜ取り戻せないのか』 (PHPサイエンス・ワールド新書)をネット注文したのですが、連休で届くのがいつもよりかかるらしい。連休中に読みたいんだけどな。ということでキャンセルしてリアル書店へ買いに行くか思案中。
あ、それからイーガン的な多世界宇宙にひろがる「私」についても別の見方を示されて、非常に刺激を受けました。うーん。やっぱりキャンセルして買いに行こうか。でもPHPサイエンス・ワールド新書なんて、近所の書店に置いてるんだろうか。

 




「夜霧よ今夜も有難う」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 5月 1日(土)03時01分1秒

返信・引用  編集済

 

 

「夜霧よ今夜も有難う」(67)観る。つづけて2回観てしまいました〜(^^;
たしかに「カサブランカ」の翻案ですね。ただし移し変えたストーリーは無理がありすぎ(笑)。しかも最初の数シーンは演技演出ともにトゥーマッチ。でもそもそも期待してなかったので、まあこんなもんやろ、という感じで見ていたのですが、だんだん引き込まれて、無理もあんまり気にならなくなった。
浅丘ルリ子はバーグマンより数等良かったです(^^;。ルリ子に当てるライティングが一種独特で効果的で、ハレーションとかうまく使って、ちょっとこの世のものならぬファントムレディっぽい雰囲気が出ていましたね。裕次郎は全然ボギーに及ばず、本篇はわたし的には浅丘ルリ子を映えさせる映画だったように思います。

 


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