ヘリコニア談話室ログ(20107)




「機械探偵クリク・ロボット」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 731()202459

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カミ『機械探偵クリク・ロボット』高野優訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ10)読了。

これは素敵なユーモア小説でした。
「五つの館の謎」(45)「パンテオンの誘拐事件」(47)の2中篇が収録されており、どちらも主人公は機械探偵クリク・ロボットと、古代ギリシアのかの発明家の直系子孫にしてロボット探偵の創造主であるジュール・アルキメデス博士。クリクは、<手がかりキャプチャー><推理バルブ><仮説コック><短絡推理発見センサー><思考推進プロペラ><論理タンク><誤解ストッパー><事実コンデンサー><情報混乱防止コイル><真相濾過フィルター><自動式指紋レコーダー><解読ピストン>などを備えていて、まるでドラえもんみたいですが、実際にはすべて博士の操縦によって機能するので、むしろ鉄人28号に近い。
しかもバルブだのコックだのプロペラだのピストンだの、そのデコラティブなところはあたかもスチームパンクの趣がなくもないのですが、もちろん違います。それはヴェルヌやウェルズの作品がスチームパンクではないのと同様です。1945〜47年あたりに本書を執筆した著者にとって、これらの技術は、著者の「現在から未来へ向かって」、いわば前向きに想像されたものに他ならず、後ろ向きに、「過去に向かって」「懐かしい未来」を設定したものではないからです(従ってウェルズやヴェルヌの原作の映画化作品をスチームパンクというのはありえます)。
や、話がそれました。

内容は上述のように上質のユーモア小説なのですが、翻訳がすばらしい。本書の魅力の一端は間違いなくその訳文に依っています。そしてそれは、いわば直訳・逐語訳の対極にある訳業で、もはや創訳、更にいえば共作といってよいのではないかとさえ思われます。
     
オート
たとえば
<自動銃弾嘔吐システム>――クリク最大の防衛システムであり、どちらの作品でも遺憾なくその能力を発揮したこの機能、原文はどうなっているんでしょうね(^^;
「へん、たぶんもかなぶんもあるもんか」(141p)
「実をいうとな、クリクは無帽で外にでるのは好きではないのじゃ。そんなのは無謀だといって……。頭が冷えると、三段ギア式の<高速脳>が脳梗塞になるかも知れんでの」(146p)

などはギャフンと萎えるオヤジギャグですが、原文にあるのかないのか(^^;。
「ぼくは(エグジスタンシアリスム(実存主義)ではなく)エクシタンシアリスム(実欣主義)と言ったのです(……)生きることに欣喜し、欣々として働き、悩みや問題は欣然として受け入れる。愛を欣悦し、死を欣受する。おぎゃあと生まれて、人生のゴングがなった瞬間から、感覚的な悦楽を欣求(ごんぐ)する、そんな哲学です」(126p)は、ここまで悪ノリされてはもはやアッパレとしか言いようがありません(汗)。

さて、二篇のうちでは
「パンテオンの誘拐事件」が圧倒的に優れている。「五つの館の謎」は、出だしこそ「庭に一発の銃声が鳴り響き……額にナイフの突き刺さった男が地面に倒れた」と、いかにも本格好みの設定ながら、設計図が途中で変更されたのか、第一被害者の謎めいた言葉が全然伏線をなさず言いっ放しになってしまっていますし、謎解明も(いかに本義がユーモア小説だとはいえ)「斜め屋敷」のさらに(ずっと)その斜め上をいくトリック(トリックなのか?)は、私には緩すぎました。
一方
「パンテオンの誘拐事件」は、本格ものというよりは冒険小説(訳者あとがき)であります。パリのパンテオンの地下霊廟からヴォルテール、ルソー、ゾラ、ユゴーのミイラが盗まれ(また何を盗むのか(^^;)忽然と消える。実はパンテオンは、更にその地下に広がる三千万平方メートルの広大なカタコンベ(地下墓地)と秘密の通路でつながっていたのです!(あながち創作ではないのだそうです)。私はパリの地下にこんな巨大な迷路があったとは、寡聞にして全然知らなかったのですが、本篇はその意味で、「梅田地下オデッセイ」のパリ版、「パリ地下オデッセイ」といっても強ち言い過ぎではありません(笑)。いや面白かった!

かつてフランス人はユーモアのセンスあふれる民族だった。ところがパンテオンに祀られているのはヴォルテール、ルソー、ゾラ、ユゴーのような連中である。彼らに共通しているのは真面目さである。パンテオンに喜劇役者やユーモア作家はいない。この事実が示すように、フランスからユーモア精神が衰退してしまった。今や歴史のないアメリカの方がずっとユーモアにとんでいる、と著者は犯人に言わしめますが、このあたりは著者の本音が出ているところではないかと思います。このシリーズ、本書収録の2篇しかないそうです。全く残念でなりません。

「ひな菊」(定稿)をチャチャヤン気分に掲載しました。

 




Re: 「量子回廊」より「スズダリ」へ

 投稿者:管理人  投稿日:2010 730()224949

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> No.2589[元記事へ]

さっき、突如不安感に襲われて、「ヴェネチアの恋人」を読み返しました。うーむ。この作品もまた「場」の小説であることに間違いはないと思うのですが、ヴェネチアは発端であってもそれに限定される話ではありませんね。ちょっとふさわしくないかも。ということで、下の文、「ヴェネチアの恋人」を「スズダリの鐘つき男」に差し替えさせていただきました。悪しからずm(__)m

*スズダリは、モスクワから車で4時間半。休憩を取ろうが取るまいが4時間半なる中世都市とのこと。

 




「女難の季節」原作

 投稿者:管理人  投稿日:2010 730()175447

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本日ようやっと『おみそれ社会』を確保できましたので、早速「女難の季節」を読んでみました。
結論からいってドラマは、ほぼ私の想像どおり、細部の肉付けは異なるところもありますが(仕掛け人の女はドラマではふたりでしたが、原作は3人)骨格は原作をそのまま踏襲していました。ただ、ドラマのラストの陸橋上での再会のシーンは原作にはありません。このシーンで視聴者はほっと安心するんじゃないかと思うのですが、考えてみればそんなシーンを星新一が書くはずがありませんよね。原作のラストは、社長の妻が仕掛け人に謝礼金を支払うところで終わっています。いかにも星新一らしい非情なラストです。

今日は、これも探していた篠田節子『天窓のある家』も見つかりました(残念ながら105円棚ではなかったのですが確保しちゃいました)(^^;。『量子回廊』の次か、その次あたりで読むつもり。

 




「量子回廊」より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 729()212741

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まずは高野史緒「ひな菊」を読みました。うーむ。これはいいねえ。私は二度読みました。かなり周到に緻密に組み立てられており、たとえば主人公が助手をつとめる姪と出遭って驚くのが入所数日後のことで、初読時はちょっと不自然に感じたのでしたが、読み返すとそのシーンより以前に「助手は数日中にあと二、三人やって来る」とさりげなく書かれてあって膝を打ったのでした。そういうクール(^^;な筆法なので、リズール(精読者)はともかくわれわれレクトゥールに於いては再読は必須だと思いました。実際二度目の方が私自身より面白く感じられましたし。

1950年代スターリン末期、トリビシの中学理科教師でアマチュアチェリストの主人公がひょんな偶然で当時ソ連音楽界の重鎮ショスタコーヴィチの目にとまり、彼の引きで(であろう)、レニングラード郊外レーピノのソ連作曲家同盟の保養所で開かれた「才能ある市民音楽家のためのキャンプ」(将来有望な20代の若いアマチュア音楽家を全国より抜擢し特別教育を施す講習会)に、異例にも30代で召集される。そこで主人公は、上記の姪と出遭い、関連して感染症を研究している校医と知り合い、且つはショスタコーヴィチより「特別の厚遇」を受けるのだったが……。

著者は「場」を描くのが実にうまい。というかそれこそが著者が小説を書く最大のモチベーションなんじゃないでしょうか。「場」とは「小説のカタチに切り取られた」場所といいましょうか、いちおう現実に存在する場所ですが、ただし著者によって「妄想された/現実のそれとは異なる」場所、或る濃密な時空間なのです。今ぱっと思い出すだけでも「イスタンブール(ノット・コンスタンティノープル)」、「スズダリの鐘つき男」、「空忘の鉢」の名を挙げられますが、そのイスタンブールにしろスズダリにしろ天山山脈の奥地にしろ、いずれも「場」の独特の風情、佇まいが読みどころでありました。

本篇においてもそれは遺憾なく発揮されており、上記の人間関係を周到に配置して独特の場の雰囲気を実に見事に伝えています。いや本篇においてはさらに、というかむしろ、時間的(歴史的)な要素が強い。上述したように場所はレニングラード郊外の別荘地なんですが、時間設定は1952年夏であり、スターリン時代最末期(53年3月没)という或る独特の「空気」、すなわちスターリン時代の密告に怯える暗い時代相が通奏低音として強く作品世界を覆っている。この雰囲気・気分がまず本篇の読みどころでしょう。

その「切り取られた空間」に登場するのは、(wikioediaによれば面従腹背ではあったようですが)保身能力でソ連音楽界に君臨したショスタコーヴィチ。その隠然たる力は主人公を抜擢したことにも窺えます。またソ連といえばルイセンコですが、そのルイセンコ学説に強く反発し、条件さえ整っていればワトソンとクリックの先を行っていたかも知れない保養所の校医。小説における彼の位置はショスタコーヴィチとは対極で、最後は(どうやら密告により)行方不明となります。その校医が学問的に興味を抱いていたのが主人公の姪で、数年ぶりに姪に遭った主人公が、彼女が年齢不相応に成熟し、異様なまでに妖艶な性的魅力を発散していて驚かされるのですが、校医と理科の教師である主人公はその急激な成熟の原因にやがて気づく(ここで私は小松左京「牙の時代」を思い出さずにはいられませんでした(^^;)。あ、これ以上だらだら書いて興を削ぐのはやめますが、なぜ生物は有性生殖なのかが赤の女王仮説などを引き合いに考察され、最後に到達する感懐も実に興味深い。

本篇は、一義的には1952年スターリン体制最末期という背景においてレニングラード郊外の保養所での主人公の数週間を描いた一般小説です。著者は小説をその独特の時代相に浸しきってしっかりと染め上げており、一般読者はそのような読みで十分な満足を得るでしょう(それが証拠に本篇は『短篇ベストコレクション 現代の小説2010』にも収録されています)。しかしながら本篇は、同時にその構成要素に必然的な時代性を強く帯びたルイセンコ学説を摂り込むことで、それからスピンアウトする進化論のベクトルも併せ持っています。その面に着目すれば本篇はワトソン・クリック直前の科学から妄想された進化論SFといって過言ではない。SF(もしくは幻想小説)であることを潜ませて、一般小説として一貫させ(得)たのは、(私は読む限りでは)おそらく初めてで、これはある意味著者の進化なのではないのかな。そんな感想を持ったことでした。

 




「黄衣の王」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010 727()22240

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【今日の箴言】
 無知は常に革新を怪しむ――誰かに決めてもらうまで、記憶にとどめるのもこわがるのだ。(165p)

「魂を屠る者」(1920年)読了。
第一次大戦中、ドイツが毒ガスを使用し、ロシアに共産主義国家が生まれ世情騒然たる激動の時代――アメリカ合衆国においてはひそかに心霊大戦が戦われていたことを知る者は少ない。本篇はその一部始終の記録である。
日英同盟に基づき日本軍が中国のドイツ占領地に進軍した際、ひとりの米国女性トレッサ・ノーンを救出する。彼女は、謎の種族イェーズィーディ族、すなわち13世紀チンギスハンにより滅ぼされたと思われていたかの暗殺教団、「山の老人」に率いられアサシンともハシシーンとも呼ばれた闇の部族に囚われていたのだ。彼女は幽閉中に彼らの魔術を教え込まれ、その比類ない使い手になっていたが、日本国経由でアメリカに帰国する。
さて、実はドイツもボルシェビキも、またユダヤ人もアジア人も、澎湃と巻き起こる労働運動も世界労働組合も、すべてこの「山の老人」の組織に操られていたのだ(この辺り著者の思想信条があらわれていますね。もっとも著者は日本人には好意的で味方と考えているようです(汗))。そのことに気づいたアメリカ合衆国は(イギリスのコナン・ドイル卿にも意見を求め)、情報部に命じてトレッサ・ノーンの身柄を確保し、その卓越した魔術力を以て、イェーズィーディ族に対抗しようとする。これに対してイェーズィーディ族は、副摂政サナンを頭に、その副官として本拠アラムート山を守護する山の老人直属の八つの塔から八名の刺客(八旗の旗印*)をアメリカに送り込み、トレッサ・ノーンを亡き者にしようと蠢動する……。

後半はこの9名とトレッサの心霊合戦となって、まるで山田風太郎の忍法帳の様相を呈してきます(笑)。
いやー面白かった。半村良ばりの伝奇SF(実は山の老人たちを更に操っているのが別の暗黒遊星らしい)で、サクサク読めました。ただトレッサの身辺警護を任された副主人公(お約束でトレッサに一目惚れする)がいわゆるヤンキーで頭が悪くて、警護する能力もないのにしゃしゃり出て「おいおい、そっちへ行ったら敵の思う壺やろ」という行動を繰り返してイライラさせられます。この辺がわたし的には減点でしたが、上記箴言の読者相手のもろ大衆小説の筆法ではあるのでしょう。

ということで、
ロバート・W・チェイムバーズ『黄衣の王』大瀧啓裕訳(創元推理文庫10)読了です。

ひきつづき創元文庫より『虚無回廊』に着手の予定。追記>ぎゃー間違ごた『量子回廊』だ(汗)。

*きじるしと読むのかな(違)(^^;

 




バルト=ロシア化計画、もしくは暗殺教団

 投稿者:管理人  投稿日:2010 725()212616

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今場所の収穫は豊真将と阿覧でしたね。豊真将は(言われ続けていた)速攻がようやくできるようになりましたし、阿覧もやっと(相撲を覚えて)手順が理詰めになり、どちらも見違えるように強くなりました。来場所以降が楽しみ。
それにひきかえ、把瑠都は期待はずれ。否、期待を大きく裏切りました。今日も今日とてがっぷり四つになったのに、逆に白鵬に力負けした。もっとも白鵬は、先場所だったか先々場所だったか、琴欧洲にもがっぷり組んで勝ちましたから、白鵬の進化が加速しているってことでしょう。むしろ欧洲や把瑠都が停滞して、さらに距離が開きつつありますね。

ところで阿覧がロシア出身とアナウンスされるのは、なんかそぐわないというか、違うような気がするんですよね。やっぱり出身は北オセチアといってあげてほしいなあ。
そういえば把瑠都はエストニア出身ですが、ラトビア、エストニア、リトアニアのバルト三国をロシア領と勘違いしている人はさすがにいないと思います(>いるのか?)。そもそも旧ソ連においてもロシア領ではありません。でも把瑠都をラトビア人だったっけ、リトアニア人だったっけ、と迷う人は案外多いのではないでしょうか。実は私がそうで、ときどきふっと「あれ、どこだっけ」と、一瞬ですが考え込んでしまうのは、把瑠都というシコ名に問題があるに違いない(>おい)。

『黄衣の王』は、300頁の長篇「魂を屠る者」に取り掛かる。おお! ハシシーン、山の老人、アラムート山 etc etc……私の大好物な言葉が並んでいるではありませんか(^^;。いやこれは面白くなりそうな予感が(笑)。

 




わが祖国はルイジアナやってきたのはニューオリンズ

 投稿者:管理人  投稿日:2010 725()17596

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いま気づいたのですが、「ユーア・マイ・サンシャイン」「ディスランド・イズ・ユアランド……」はそっくりですね。「ミステリーゾーン」と「垣根の垣根の……」よりももっとそっくり。口ずさんでいたらいつのまにか入れ替わってしまっていました(^^ゞ


 




「黄衣の王」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 725()143023

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『黄衣の王』は短篇4篇を読む。残りは巻末長篇一本。
うーむ。ときどき戻って確認しなければならないような非常に緻密な作風なのはいいんだが、筆法がラヴクラフトに似ている(ラヴクラフトが似ているというべきか)。その似ているところが、いささか私には合わないみたい。「黄の印」はやはり「黄印」に掛けているのかな(笑)。

 




コンゴ広場の夜は更けて

 投稿者:管理人  投稿日:2010 724()153511

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> No.2583[元記事へ]

堀さん
おかげさまで、また面白い本に出遭えました。ありがとうございます。この素晴らしい本が限定出版とは、なんかもったいないです。予備が少しあるとのことで、興味を持たれた方は今がチャンスですね(^^;。
さて本書には、とりわけ前半にニューオーリンズの地名や店の名前がたくさん出てきます。
コンゴ広場、トレメ地区、ホープス・ホール、紅燈街ストリーヴィル、バーガンディ通り、カナール通り、バーボン・ストリート、ポンチャートレイン湖の河蒸気、船上演奏(といえばスタージョンの名作が思い出されます)、それからジム・クロー法、etc etc……
これらの言葉だけで酔えますね。遠いところへ連れていかれちゃいます(笑)。
となりますと一読者の勝手な気持ちは、この地この時代を舞台にした、ハードボイルドなニューオーリンズ・ジャズSFを、読ませていただけないものかと冀わずにはいられなくなるのですが(^^;。

『黄衣の王』に着手。あれ、これって改変歴史物なのかな?>1920年ニューヨーク官立ガス室設立。
       ↑
追記>わ、勘違い。1895年作品だから1920年は未来なんだね(汗)

 




Re: 「ジョージ・ルイス」読了

 投稿者:堀 晃  投稿日:2010 724()053121

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> No.2582[元記事へ]

「ジャズマン・フロム・ニューオーリンズ」……肝心の本を持っていくのを忘れての田舎行きだったので、ぼくはこれからです。
ゲラというか、画面上でざっと読んだだけで、これから熟読することに。

さすがに読みが深いですねえ。
バンク・ジョンソン=カツシン説なんて思いもよりませんでした。
前著「Call Him George」を書いたドロシー・テイトはルイスのマネージャーもつとめた人で、それだけにルイス寄り。こちらでバンクの性格の悪さを刷り込まれてましたが、カツシンだと思えば納得ですね。
ベッセルの記述は冷静で客観的、音楽的な分析も深く、評伝としては決定版でしょうね。

なお、本書は若干予備を残しております。


http://www.jali.or.jp/hr/soliton/lewis-4.html

 




「ジョージ・ルイス」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010 723()205734

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トム・ベッセル『ジョージ・ルイス ジャズマン・フロム・ニューオーリンズ小中セツ子訳(10)読了。

本書には出版社の記載がありません。こちらによりますと、完全なる自費出版本というのか、予約者を募り、確定したその人数分だけ製作したもののようです(私は堀さんのソリトン経由で予約しました)。実はこういう人の輪的な(一種の協同組合的な)出版形態に以前から注目していて、SFのようなジャンルは今後このような形態を模索していかなければ立ちゆかなくなるのではないだろうかと本気で思っているのです(紙媒体にこだわるならば)。

などとSFをマクラに持ってきたのは他でもなく、今日読んだ部分はルイスの、そしてニューオーリンズジャズの晩期というべきパートでありまして、とりわけ12章はその記述がいちいちSF(とりわけ日本SF)の運命と重なって見えて来るのを押さえることができなかったのでした。

1900年ごろに生まれたこの音楽は、60年代初めには早くも終わりを迎えようとしていたのだ。40年代の半ばに成熟して育ち切り、そののち右肩下がりの道をたどる」
「古いスタイルのジャズプレイヤーは、いつのまにか自分たちの音楽が受け入れられなくなったことを知った。要望がどんどん減って必要とされなくなり、演奏のチャンスが限られた」
「論理的にはモダン・ジャズがトラディショナル・ジャズに取って代わった、と見えるかも知れないが、実はそうではない。モダン・ジャズは少数のインテリ革新派にアピールしただけで、限られたアカデミックなものである(ジャズの歴史からみると、モダン・ジャズはかなり高い位置をしめている。社会に対する小さな役割に比べ、大きく評価されていることは注目に値する)」
233p)

実はこのあと(60年代)、著者にいわせれば「真のニューオーリンズ・リバイバル」が起きたのでしたが、著者の、その内実への評価は辛い。この著者の評価は、まさに「通人」のそれなんですね。少数のほぼ特定の聴衆が毎日彼らの演奏を聴きに来ているという、演者と聴者のそういう「世にも稀なる」(よい意味での)緊張関係においてのみ実現しえたものだったのではないでしょうか。しかしルイス等が「伝統保存の動くシンボルになった」(215p)と悲しんでいるのはなんとなくわかるような気がします。

ところで我々はデキシーランドと考えもなしに称していましたが、実はデキシーは白人のそれだったことを初めて知りました。ならばニューオーリンズ・ジャズというべきなのでしょうか。実はルイス等にとっては、彼らの音楽はそれでもない。単に「ジャズ」だった。だから文中に何度か出てきますが、スイングも当然「ジャズ」とは別のジャンルとして彼らは認識していたんですね。

訳者はあとがきで、著者の一番いいたかったことは、ニューオーリンズ・ジャズとルイスの一生が同時進行した、ということだったとします。つまり「ジャズ」はルイスと運命を共にしたとの認識。その伝でいくと、元に戻りますが「SFは第二世代と運命をともにする」ことになるんですけど(>おい)(^^;

私はニューオーリンズ・ジャズを体系的に聴いたことがないものですが、そんな門外漢にも本書は読み物としてとても面白かった。それは著者がニューオーリンズ・ジャズを愛していることが痛いほど伝わってくることにもよりますが、同時に単なる贔屓の引き倒しではなく、客観的にジャンルの消長を見つめる冷静な目にも拠っているように思いました。大変面白い評伝で、大いに楽しみました。


ということで、これから『黄衣の王』に着手。これは期待しているのです(^^)。

 




バンク=勝新説(>おい)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 722()213857

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『ジョージ・ルイス』210頁まで。
昨日の続きですが、バンク・ジョンソンが「ユーアー・マイ・サン・シャイン」を「ケイジャンナンバーだ」と嫌がったは1944年8月です。調べるとユーアー・マイ・サンシャインが、本書にも書かれているように(のちの)ルイジアナ州知事ジミー・H・デイビス(もちろん白人)によってレコードに吹き込まれたのが1940年。しかもそのデイビスが知事選に勝利したのが1944年2月なのです。つまり「ユーアー・マイ・サン・シャイン」は1944年当時、最もホットな曲であったばかりか、主催者側としてはこれほど聴衆(あるいはマスコミ)にアピールする組み合わせはなかったに違いなく、バンクにとっては二重三重にケイジャンな楽曲だったんでしょう。
それにしても、バンク・ジョンソンは面白いですねえ。トウーマッチ(たとえばベビー・ドッズのドラミング)を拒否するところはまるで勝新みたい。唯我独尊なところもそうですが、「聴衆への音楽的な要求」(173p)が高かったというところも、勝新が「オレのドラマはテレビの前にちゃんと正座して見ろ」と要求したのに通じるのでは。なんたってビーバップ派の驍将ガレスピーに、面と向かって「お前の音楽はなんのための音楽か」と質問(というか難癖だろう)しちゃうんですから(188p)どう考えても協調的な仕事が出来る御仁ではなさそうです。それに比べればジョージ・ルイスは実直すぎて公務員みたい。まるで正反対なんですね。反りが合わなかったのも納得できます(^^;。

 




Re: Re:眉村さん情報 Re: 眉村卓の昔のラジオ番組について

 投稿者:管理人  投稿日:2010 721()223824

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> No.2579[元記事へ]

斎藤さん
あらすじの要約ありがとうございます。やはり設定のみ共通の別作品ですね。私はこの頃の眉村さんの未来社会SFが大好きです。石川喬司が「ソロバンの玉とパチンコの玉とラーメンの玉」の未来社会といっていたと思いますが、そういう人間くさい、決してバラ色ではない未来社会がとても魅力的でした(そのなかで苦悩する作中人物たちも)。またあんな未来社会SFを書いていただけないかなといつも思ってしまいます。

「タック健在なりや」>なつかしくなって読み返してしまいました(^^;。いま読んでもニヤリとしてしまいます。
ところでこれ、元版は銀背の『ベトナム観光公社』ですが、文庫は『笑うな』収録です。文庫版『べ観光』ではないので、ご注意くださいね。

『ジョージ・ルイス』は170頁。滅茶苦茶面白い。163頁にバンク・ジョンソンがある種の曲を「ケイジャン曲」と軽蔑的に言うシーンがあります。この「ケイジャン」は、おそらくレオン・ラッセルの「ケイジャン・ラヴ・ソング」の「ケイジャン」ですよね。語源的にはルイジアナのフランス系の曲のようですが、要はブルーグラスっぽい曲(つまり白人音楽)を拒否したんでしょうかねえ→ユーアー・マイ・サンシャイン

 




Re:眉村さん情報 Re: 眉村卓の昔のラジオ番組について

 投稿者:斎藤  投稿日:2010 721()201616

返信・引用

 

 

「クイズマン」の件、ご確認ありがとうございます。
「クイズマン」のストーリー、何となく思い出しました。明らかに別の小説です。
やはり単行本には未収録のようです。スッキリしました。ありがとうございます。
クイズマンという設定自体は同じ感じではないでしょうか。
クイズマンとは、クイズ回答者がプロ野球のようにチームを作って、チーム同士
がテレビのクイズ番組で対戦し、勝った賞金で生活するプロ集団という設定です。
私が紹介したほうの「クイズマン」では、本来は研究者の道を目指していたはずの
主人公が、研究とは正反対の、知識だけで賞金を稼ぐクイズマンに身をやつしてし
まったことに対する苦悩、そして、その苦悩から一度は離れたクイズマンの世界に
再び戻ることを決意し、その苦悩から脱することが出来た喜びを描いています。

筒井康隆「タック健在なりや(ベトナム観光公社)」の件、全く知りませんでした。
私は筒井康隆のあまり良い読者ではありませんので、この短編集自体未読のはずです。
早速あたってみます。楽しみが増えました。ありがとうございます。

 




眉村さん情報 Re: 眉村卓の昔のラジオ番組について

 投稿者:管理人  投稿日:2010 720()222535

返信・引用

 

 

> No.2577[元記事へ]

斎藤さん

早速お返事有り難うございます。また新しい情報が(^^)

>「文学夜話 作家が語る作家」
は、これですね→http://www.bk1.jp/isbn/4062103867?partnerid=02ebookoff/
一応書誌情報をコピーしておきます。

  日本ペンクラブ編『文学夜話作家が語る作家』(講談社00)

「クイズマン」の主人公は「私」でクイズチーム・サイクロンのマネージャーです。チームがスカウトした有望な新人ユズルのおかげで連戦連勝。はいいのですが、このユズル、全然勉強している様子がない。そのため他のメンバーが自信喪失してヤル気を失っていく。それを心配した「私」がユズルを問い詰めると、実はユズルには特殊な能力があって……。という話です。
たぶん「クイズマン」の設定が同じで別の話なのかも知れませんね。「産業将校」の設定も複数の作品で使われたりしていますから、そういう感じなんでしょうか。

スベントン・シリーズは私も未読ですねえ。「おせいどんアドベンチャー」までフォローされていますか。すばらしい! それで思い出しましたが、筒井康隆の「タック健在なりや」(『ベトナム観光公社』所収)は、筒井さんの、ライバル眉村への強迫観念が生み出した(に違いない)すばらしい(わたくし的見地で)妄想的作品ですよ! あ、先刻ご存知ですね、失礼しました(^^ゞ

 




Re:眉村さん情報 Re: 眉村卓の昔のラジオ番組について

 投稿者:斎藤  投稿日:2010 720()21389

返信・引用

 

 

>お世辞じゃなく斎藤さんの眉村度、半端じゃありませんね。
ありがとうございます。私も、かなりコアな眉村ファンと自負しております。
単行本(含 文庫)は全て買っているつもりです。小説もエッセイも。
複数作家収録の講演物も見逃さずです。ちなみに、この講演物は、「文学夜話 作家が語る作家」
という本で、眉村卓は最後に登場し、「星新一とショート・ショート」という題で講演をしています。
又、眉村卓が作中人物として登場する「おせいどんアドベンチャー」とか、眉村卓が作中人物のモデ
ルになったとされている佐野洋「嫌いな名前」とかも追いかけました。
ただどうしても読めていないのが、スベントン・シリーズです。
どうしても見つかりません。悔しいです。気長に探し続けます。

「クイズマン」ですが、多分別だと思うのですが、「産業仕官弛緩候補生」も「準B級市民」実家に
置いてあって手元になく、確認が出来ません。
只、「人間百科事典 クイズマン」は、学研の72年の付録に収録されているもので、「クイ
ズマン」はSFMの65年掲載作品なので、この点からも別物と思います。
「人間百科事典 クイズマン」の主人公は「ぼく(西谷)」で、絡み相手は「山野律子」です。
もしご確認可能であればご確認いただけると私もスッキリ出来ます。
最後はお願いみたいになってしまって申しわけありません。

 




眉村さん情報 Re: 眉村卓の昔のラジオ番組について

 投稿者:管理人  投稿日:2010 720()110446

返信・引用

 

 

> No.2575[元記事へ]

斎藤さん
早速にご投稿有り難うございます。
高井さんのところでもコメントさせていただきましたが、お世辞じゃなく斎藤さんの眉村度、半端じゃありませんね。私はいまだにコバルト文庫やショートショートに未読が残っています(汗)。

>今日も雨
>私の音楽年賀状
こういうお仕事が埋もれてしまいがちなのですよね。全部は無理かもしれませんが、少しでも発掘したいものです。

>テレビドラマ「明鏡会」
ドラマの方は検索しても出てきませんね。試みにやってみたらド頭に右翼団体が上がってきてびっくり(笑)。しかしまあ原作の明鏡会も似たようなものかも(>おい)。

>「奪われたアンドロイド 眉村卓SF傑作選」
ああ、コースや時代の付録には、そんな擬似文庫本がよくありましたよね。しかしこれは未見。私はずっと時代でしたし47年は既に高校生なので、いずれにしろ遭遇するチャンスはなかったと思われます。「人間百科事典 クイズマン」は、『準B級市民』』(or『産業士官候補生』)に収められた「クイズマン」とは別作品なんでしょうか?

>「作家ほっとタイム 現代作家インタビュー集」
は、比較的新しいからか、まだ生きてますね→http://pub.maruzen.co.jp/videosoft/lineup/jinbun_syakai/1122540.html

いやー本当に有り難うございました。いろんなお仕事が少しずつ明らかになってきました。また何か思い出されましたらよろしくお願い致しますm(__)m

 




眉村卓の昔のラジオ番組について

 投稿者:斎藤  投稿日:2010 720()003918

返信・引用

 

 

大熊さんのお言葉に甘えさせて頂きまして、こちらに投稿させて頂きます。
高井さんのところで触れさせて頂いたラジオ番組の件と、「明鏡会」の件についてです。
先ず、ラジオ番組の方ですが、次の通りです。
・タイトル ラジオ劇場「今日も雨」
 放送日:79年11月17日
 主演:日下武史
 このお話はこのラジオ番組のための書き下ろし作品のはずです。
 当時録音したカセットテープのタイトルに明記されているのと、
 ドラマの中のナレーションでも、「原作」とは言わず、「作 眉村卓」
 と言っているので間違いないと思います。
 又、私は単行本になった眉村卓の小説は全て読んでいますが、
 このドラマのストーリーを読んだ記憶が無いのも確かです。

・タイトル「私の音楽年賀状」
 放送日:81年1月2日
 進行:藤本統紀子(藤本義一の奥さん)
 これは物語ではなく、対談のようなものです。
 この中で、俳句のお話などもされ、自作も披露されています。
 又、この中で、カナダのカントリー系の女性歌手、Anne Murray(アン・マレー)
 が取り上げられていて、私もそれまでカントリーには全く興味がなかったのですが、
 この番組で聴いてから、彼女のアルバムも購入するようになってしまいました。

次に、テレビドラマ「明鏡会」の件ですが、確か「不器用な戦士たち」に収録されてい
る短編です。
夜のドラマで特別番組みで何話かのオムニバス形式の中の一つだったと思います。
見ていて、なんか聞いたことのある話だなあと思っていたのですが、番組最後のテロ
ップで「エッ」と思った記憶があります。でも、色々調べても該当するドラマが出て
こないので、怪しい記憶ではあります。

あと、テレビやラジオとは関係のない件ですが、2つほど。
中学コース付録の文庫本としてだけ存在する小説があります。
昭和47年7月号の中学3年コースの付録で「奪われたアンドロイド 眉村卓SF傑作選」
というタイトルです。
収録されているのは2編で、「奪われたアンドロイド」と「人間百科事典 クイズマン」
です。両方とも正規単行本には収録されていないようです。2編で63ページという薄さ
ですが、立派な文庫本の体裁です。秋元文庫のどこかに並録されて良さそうな内容でした。
他にもこの手の単独で刊行されていない本があるのでしょうね。

2つ目はVHSビデオで発売された眉村卓のインタビュービデオです。00年発売です。
発売は丸善です。「作家ほっとタイム 現代作家インタビュー集」の中の一本で20巻目
が眉村卓です。収録時間は50分。

以上です。、

 




「ジョージ・ルイス」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2010 719()201656

返信・引用

 

 

高井さん
貴重な録画のあれこれ、楽しませていただきました(^^)。ありがとうございました!
眉村さん情報としても新たに明らかになった面があり(というか誤情報が正されて)、さらに正確に豊かなものとなったと思います。またよろしくお願いします。
「なぞの転校生」は、私もNHKアーカイブで見ましたので(ただし録画はしなかった)今回は見返しませんが、これでいつでも見返すことができるようになりました。折を見て視聴させていただきますね。

さて『ジョージ・ルイス』は70頁強。いやこれは興味深いです。初期ジャズが奴隷の持ってきたアフリカの音楽をルーツに進化したという通説に著者は異を唱えているようです。ジョージ・ルイスら(第2世代)の頃に黒人の環境は悪化したけれども、19世紀後半(もしくは南北戦争以前から?)の南部黒人たちはむしろある程度の教育も受けられる環境であった(善し悪しは別にしてプランテーション大地主一家に可愛がられる黒人メイドの図?)。楽譜も読める彼ら前代(第1世代)の(譜面通りの)クラシックな演奏が、20世紀初頭の黒人の文化的荒廃で「ラフ化」したことが結果的にジャズを生んだということでしょうか。まだ4分の1なのでよく分かりません。
しかしそういえばラスカルズの演目にアイルランド民謡が多いように、むしろアイルランド植民者の音楽(ブルーグラスの元?)こそルーツで、アフリカンリズムの影響というのは、(あるいはトレーン等の)かくあるべしという希望的幻想なのも知れませんね。

 




Re: 眉村さん情報:「幕末高校生」

 投稿者:高井 信  投稿日:2010 719()010050

返信・引用

 

 

> No.2572[元記事へ]

 詳細な感想をありがとうございます。これは観なければ! です。
 眉村さんの関与が気になるところですね。

 




眉村さん情報:「幕末高校生」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 718()232425

返信・引用  編集済

 

 

昨日に引き続き、送っていただいたDVDより、「幕末高校生」を視聴(主演:細川ふみえ、武田真治)。

本篇は、フジテレビ系列で<ボクたちのドラマシリーズ>の一編として1994年1月15日から2月12日まで放送(全5回)されたもので、ちなみにこの連続ドラマの次が「時をかける少女」だったようです(筒井さんも出演されていたみたいですね)。
実は半分馬鹿にしつつ見始めたのでしたが、だんだん引き込まれて、結局全5回を一気に見てしまいました。いやこれは傑作ではないでしょうか(ただしTVドラマ特有のゆるい展開は認めた上でですが)。高井さんも安心して視聴してください(^^)。
タイトルからの連想で、眉村さんの名作「名残の雪」(『思いあがりの夏』所収)をドラマ化したNHK「幕末未来人」のリメイクかと思ってしまいますが(wikipediaにはそう記載されています)、全くオリジナル作品でした。眉村さんはクレジットでは「原案協力」となっていました。どの程度関与されたか定かではありませんが、私はかなり深く関わられたのではないかと感じました。そうとしか思えないほど、SFの改変歴史テーマのパターンをきっちり押さえて作られていたからです(部分的には近時SFMが提唱している「広義の」スチームパンク作品と見ることも可能(^^;)。それは後半になればなるほどそうなっていきますので、これから見られる方は、最初のマンガ的な作中人物のやりとりで、あ、こんな作品なのね、と分かったつもりになって消してしまわれないようにと、予めご注意申し上げておきます(^^;。
また、歴史的事実も(この手のドラマにしては)きっちり反映されていて(その上で大胆に変形されているのですが)、藤堂平助が新選組を脱退したというマニアックな小ネタを坂本龍馬暗殺と接続させてしまうところなんて、これはもう眉村さんのアイデア以外には考えられないような気がします。さらにラストで龍馬生存の真実が明かされるのですが、これが歴史的事実と抵触しないアクロバチックな解釈は、ご都合主義とはいえ、もはやセンス・オブ・ワンダーものでゾクゾクしました。歴史改変が現実化しかけると主人公が携行していた歴史教科書の内容が変化するところなども感心しました。

ふと思ったのですが、眉村さんのなされた仕事のうち、小説関係(というか活字化されたもの)はほぼ全容が分かりますし、原作の映像化なども比較的整理されているように思います。しかし本篇のような、原作がなく設定や原案で協力されたような仕事は、案外埋もれてしまっているのではないかと気づかされました。こういうのこそ衆知を結集して発掘していかなければなりません。みなさまぜひともご協力よろしくお願いいたしますm(__)m

 




Re: 今日はトレーン命日

 投稿者:高井 信  投稿日:2010 718()05232

返信・引用

 

 

> No.2570[元記事へ]

> その口ぶりからしますと、どうやらわがカンは外れていそうですね(^^;。
 いえいえ。どうだったのか、全然覚えていないのです。本もドラマも手元にありますから、確認しようと思えば簡単なんですけどね(苦笑)。

> 『幕末高校生』も明日から見る予定です。感想をお楽しみに〜。なんかドキドキしますなあ(笑)。
 よろしくお願いしま〜す。

 




今日はトレーン命日

 投稿者:管理人  投稿日:2010 717()230743

返信・引用  編集済

 

 

高井さん
> さて、どうだったでしょう。
その口ぶりからしますと、どうやらわがカンは外れていそうですね(^^;。とにかく読んでみますね。
『幕末高校生』も明日から見る予定です。感想をお楽しみに〜。なんかドキドキしますなあ(笑)。

さて、本日は7月17日。いうまでもなくトレーンの命日です。衰亡寸前のジャズ喫茶でも、今日ばかりはいずこも同じトレーンの音で溢れかえっていることでしょう。例年私もこの日はトレーンを聴くのですが、今日は趣向をかえてyoutubeで聴いてみたいと思います。演目は以下のとおり(笑)。

《ハードバップ・トレーン》


《シーツ・オブ・サウンド》


《モンク=トレーン》


《ドルフィー=トレーン》


《狂熱トレーン》


《静謐トレーン》

 




Re: 「モーパッサン短編集(三)読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2010 717()21154

返信・引用

 

 

> No.2568[元記事へ]

 さて、どうだったでしょう。>『女難の季節』
 ドラマを観たのは放送時ですし、原作を読んだのはその前。もうすっかり忘れています。
 ともあれ、お楽しみいただいているようで、お送りした甲斐がありました。
 眉村さん原案『幕末高校生』は、いまだに未鑑賞。大熊さんの感想を読んでから、観るか観ないか決めようと思っております(笑)。

 




「モーパッサン短編集(三)読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010 717()192017

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青柳瑞穂訳『モーパッサン短編集(三)』(新潮文庫71)

ラストの中篇
「パリ人の日曜日」を読み、全篇読了。
100頁の中篇とはいっても、平凡な官吏である主人公が、日曜日ごとに出かけて見聞したり自らひき起こしたりした出来事が10編(つまり10週間)、スケッチ風に描かれたもので、基本的にひとつひとつは完結しており、前の出来事が後ろに関わってストーリーが膨らんでいくようなことはありません。いうならば同一主人公での掌篇集です。非常にあっさりとしています。単行本に未収録作品とのことで、たしかに傑作とは思えませんが、主人公をはじめ登場人物の行動が、実にアホで(バカに非ず)よい意味でトゥーマッチ、つまりやらでもがななことをやって失敗したりする、その生態が何とも可笑しいのです。北杜夫のユーモア小説に近い感興があり私は楽しめました。
なお本篇とひとつ前の
「月光」の2篇は怪奇ものではなく、人間観察系の作品で、訳者によれば第二巻に入れるべきが頁数の関係でこの巻に入れられた由。
いやモーパッサン、面白いですなあ。もっと読んでみようかな。

さて、昨日のつづきで、星新一原作「女難の季節」を見ました(主演:春風亭小朝、川上麻衣子)。原作はもっとあっさり描いてあるんでしょうが、たぶんいろいろ細部が付加されてドロドロした話になっています。骨組みだけならば原作どおりなのではないでしょうか。何となくそんな感じがしたので読みなおして確認しようと思い、しかしクレジットには新潮文庫版との記載しかありません。調べたら原作は『おみそれ社会』所収の同名の作品でした。早速さがしてみたところ、見当たらない。ただ星新一は、友人に借りて読んだほうが多いので、もってない可能性は十分あり得るのです。で、1969年以来付けている読了リストを確認してみました。記載なし。ということで、『おみそれ社会』はどうやら読んでなかったことが明らかに(汗)。うーん。ブックオフで探してみます(^^;。

『ジョージ・ルイス』に着手。

 




「モーパッサン短編集(三)」(続)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 716()222229

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『モーパッサン短編集(三)』は、戦争ものより「捕虜」「ヴァルター・シュナッフスの冒険」「廃兵」「従卒」、怪奇ものより「水の上」「山の宿」「狼」「月光」を読んだ。いよいよ残すところは一篇のみです(ただし100頁の中篇)。
総体に戦争ものでは著者の辛辣な(知的な)側面が強くあらわれています。戯画化が甚だしく、一種スラップスティック・コメディとなっています。ある意味モーパッサン版人間喜劇と言ってもいいのではないかと思われます。
怪奇ものは、そのほとんどが晩年に書かれたそうです。実は著者の実質活動期間はわずか10年にすぎず、精神に狂いを生じて精神病院で亡くなるのですが、ほぼ最晩年の
「たれぞ知る」や「オルラ」に於いて、手記形式を採用して客観的叙述を回避し、自分の(感覚の)方がおかしいのではないかと疑いつつ主人公に語らせているのは、その予兆の反映と読めなくもない。その意味で私は、芥川との類似性を感ぜずにはいられません。芥川もまた活動期間がほぼ10年なんです。そして精神に変調をきたして自殺するのは周知の通り。初期の知的な作風と晩期の怪奇幻想的な作風が大きく隔たっているのも同様。「オルラ」はモーパッサン版「河童」、「たれぞ知る」は同「歯車」なのでは、などと妄想しますと、なかなか興味深いです。

追記。
高井さんのDVDより>「大吉大凶」を視聴(主演:萬田久子、小西博之)。これはまさに(過分に)得る者は(それ以上に)失うという半村的テーマがあからさまな作品でした。ただ膨らみがない分単調だったかな(特に小西の演技)。

その高井さんが、またまたDVDを送ってくださいました! いやー本当にありがとうございますm(__)m。「幕末高校生」(全5回分)と「なぞの転校生」(総集編+最終回)が収録されています。これらについての高井さんの解説はこちら。「幕末高校生」は怪作みたいですね(^^;。それもまたよきかな。あの名作がどんな風に無残に(笑)解体されているのか……楽しみです〜(^^;。

 




TVドラマ「およね平吉時穴道行」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 715()220721

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昨日の続きで、高井さんに頂いたDVDから「およね平吉時穴道行」を視聴。原作はいうまでもありません(いうほうが失礼)。さて私、昨日は本篇を「現代怪奇サスペンス」の一本と書いてしまいましたが、違ってました。本篇は1977年にNHK土曜ドラマで放送されたもので、たっぷり1時間15分の作品でした(主演:由美かおる、寺尾聡)。高井さんのブログにちゃんと記事があるのにうっかりしていました(汗)。穴があれば入りたい。山の穴穴。その前に穴に向かっておーいでてこいと叫びたい(笑)。たとえそれが時穴であっても(→こちら)。この反応、もはやSF者の哀しい宿痾というべきですね(^^;
大変面白かった。のですが違和感も。それは由美かおるの泣くシーンで、二カ所あったんですが、小説的文章にすれば「京子はとつぜんわっと泣き伏した」といった感じの演技なんですが、これはやや古臭さを感じた。今はこういう演技はしませんね。今日と70年代とでは、女性の表現形式も変化しているということでしょうか。先般水戸黄門を定年退職することが発表された由美かおるの、20代の作品ですから、変化もある意味当然というべきか。その由美かおる、70年代SF映画のマドンナだったんですよね。

さて、昼過ぎ一旦帰宅したら予約していた『ジョージ・ルイス』が届いていました。早速振込完了。モーパッサンが終わったらすぐに読もう。もしくはその次に読むことにしよう。楽しみ〜(^^)

 




眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010 714()235941

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高井信さんが、眉村さん原作のテレビドラマを録画したDVDを送って下さいました。タイトルは「赤いハイヒール」(高井さんのサイトショートショートの……にも記事あり)。
関西テレビ制作の「現代怪奇サスペンス」というTVドラマシリーズの1本で、上記高井さんのサイトによれば86年9月29日に放送されたもののようです。
私、このTVドラマシリーズは全然覚えておらず、「赤いハイヒール」も見ていません。
で、早速視聴し、今見おわったところ(主演:石立鉄男、白都真理)。
原作は連作集『異郷変化』(角川文庫76)所収の
「中之島の女」です。ただ後半の部分のみ原作に拠っており、前半はオリジナルのシナリオでした。公務員やサラリーマンの(スクエアな・制服の)街である中之島の<土地性(精?)>が、その対極にある自由業者である主人公を排除するという原作のイデーが、前半の色恋沙汰や母子葛藤と馴染まない感もありますが、見ている間はなかなか面白かったです(ちなみに原作『異郷変化』は<トラベルミステリ>ならぬ<トラベルSF>というべきちょっと類例をみない面白い試みで、その視点が効いて楽しめる作品集になっています!)。
なお、高井さんから頂いたDVDには、同シリーズの「女難の季節」(星新一原作)、「大吉大凶」(半村良原作)、「およね平吉時穴道行」(半村良原作)も収録されています。これらも未見なので、楽しみです〜(^^)
高井さんありがとうございました。いつもいつもすみません。

 




「モーパッサン短編集(三)」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 714()000738

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なぜか巨人戦ではすなおに阪神を応援できるんですなあ。巨人戦だけは(^^;

『モーパッサン短編集(三)』は、怪奇編から3篇。
「オルラ」「たれぞ知る」「手」。いずれも傑作。
「オルラ」は手記という形式で、従って語られる内容の真偽は棚上げされます。つまり記述者が狂っているという余地をわずかに残しますが、しかし大半の読者は小説内「事実」として受け入れて読むでしょう。その意味で迫力充分の「UMA」否「未知の知性体」小説であり、はからずもオブライエンの作品同様本篇の「オルラ」も「見えない」存在です(ちなみに冒頭でブラジルからやってきた船を見送る場面があり、それがきわめて有効な伏線になっているのですが、この部分に見覚えがあるので、ひょっとしたらどこかで読んでいるのかも)。しかも単に「未知の知性体」であるのではなく、「人類を継ぐもの」(=滅びるべき現生人類)という観念が導入されていて驚かされます。この事実は、ウェルズの(進化論的)思考が、彼個人の思考であるのはもちろんですが、その土台に科学の世紀と謳われた19世紀という時代性も与っていることを伺わせるもので、本篇は「プレSF」アンソロジーが企画された暁には十分収録されるに足る資格を有していると思いました。
「たれぞ知る」も上作品同様話者の狂気の可能性をわずかに示唆する手記形式ながら、これはまたとんでもない奇想に満ちたモーパッサン版「機器怪々譚」(笑)となっており、上作品が50頁の長さに見合って書かでもがなな部分もあってゆったりしていたのに対し、こちらはそういう部分は一切なく引き締まっており、一気に読ませる快作でした。
「手」、本篇も一気に読ませる佳品で、これは後のオカルトハンターものに通ずる要素があり、さらに語り手をして超自然ではなく不可解というべきだとして合理的な解釈を提示させるも、しかしそういうのでは貴方達御物見衆は気に入らないのでしょうねと辛口の皮肉を言わすところが、これまた後代の読者のパターンを予め予見し揶揄していて実に面白い。
解説によればモーパッサンは「ポーとホフマンの後継者」とみなされていたらしい。教科書に載るような作品しか知らないと意外ですが怪奇小説を読めば納得しますね。

調べてみるとモーパッサンは1850年生まれ。ちなみにポー1809年生まれ、ヴェルヌ1828年生まれ、ウェルズ1866年生まれということで、意外にもヴェルヌより20歳以上年下で、ウェルズとほぼ同時代人なんですね。これは私には意外だったんですが(というか単に無知だっただけですが)、そうと知れば作中に仄見える先進性、科学精神やどうやら神を信じていないようなところも、ある程度納得出来るのでした。

 




出口調査を結果が覆すことはないのか

 投稿者:管理人  投稿日:2010 711()214122

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開票特集を見ていたのだけど、意外性のないドラマが面白くないのと同じで、結果が判っていてはちっとも面白くありません。ということで見るのを中止。

『モーパッサン短編集(三)』に着手。怪奇小説集かと思っていたら、戦争ものとのカップリングだった。前半が戦争もので、数篇読み進めたのですが、同じ色調なので直線道路を走行中のような散漫感が。ということで怪奇編と交互に読むことにしました。
それはさておき、
「母親」は示唆的。普仏戦争で普軍に占領された地域で各家が普兵を受け入れさせられる。息子が出征しひとり住まいの母親の家にも普兵が5名住みこむ。普兵はよい若者たちで母親にまるで息子のように尽くしてくれる。母親もある意味幸福だ。ところが息子の戦死の手紙が……。母親は普兵を家に閉じ込め焼死させる……。という話なんですが、これがネット社会ならネトウは愛国的行為と賞賛し人権派は幾ら何でも許されない狂気の沙汰と非難するのではないか。そしてどちらも母親の心理(の変化)をわかってない。当の母親さえ分かってないのです。いや誰もわかりません。異常な事件です。その心理の綾を、この小説はそれに一定の視座から解釈を加えることである程度(内側から)読者に納得させます。これこそ小説の本来の効用なのではないでしょうか。「罪と罰」だってインターネットの数行のニュースにしてしまえば弁護の余地ない殺人事件となってしまいます。訳のわからない事件が起こると、小説家に解説が求められるのは、まさに小説がそのようなものであるからでしょう。本篇はそのような小説のレゾンデートルをわずか十数ページでコンパクトに示しているように思いました。小説は世論的な動向(勢いもしくは潮流)に乗っかってしまえばベストセラーにもなりますが、本来はそれに抗するもの、「いやこうも考えられるぞ」という別の解を示すものであるべきなんですよね。

 




Re: 「街のホモ・サピエンス」と「夜のジンファンデル」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 711()105220

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> No.2561[元記事へ]

村田さん

貴兄の感想に触発されて読みましたが、いやー面白かったです(^^)
「必ずそれらが現実の生活、社会的地位や家庭、経済力とリンクしている」というのはおっしゃるとおりで、「コミュニティ」の場合はとりわけ、格差社会化が引き金となって「変容」を促す、大袈裟にいえば新人類(社会)ものと読め(そこまでミステリーやホラーから突き抜けており)、宇宙や(疑似)科学は一切出てきませんが、まごうかたなきSFであるとの印象を強くもちました。その点でも第1世代と非常に近しい作風ですね。
『天窓のある家』も近日中に読んでみますね!

 




Re: 「街のホモ・サピエンス」と「夜のジンファンデル」

 投稿者:村田耿介  投稿日:2010 711()011525

返信・引用

 

 

> No.2560[元記事へ]

>
「ポケットの中の晩餐」は、幻想的ですが道具立てがいささかトゥーマッチであざとい感じがした。たしかに「受けそう」な話で、しかしそういう話はわたし的には減点対象なので。

カトキハジメっていう、ガンダムやら何やらデザインしてる、その筋にはカリスマ的なメカデザイナーがいるのですが、その彼にはこんな過去が……と勝手に想像しちゃいました(笑)。
ちょっとこの話は、オチもきれいすぎましたね。


> しかし最後の2篇、
「恨み祓い師」と「コミュニティ」は圧巻で、枚数も50ページ以上あってストーリーが十分に膨らまされており、なんといっても70年代80年代、角川文庫からあまた出版されたSF第1世代の短篇集を彷彿とさせられるセンスが感じられて没入して読まされてしまいました。さばかりか「コミュニティ」に至っては井上光晴の短篇と云われても信じてしまいそうな泥絵めいた筋だてが強烈で面白かった。


著者的には、この二作が真骨頂と思います。
短編集はあまりないんですが、『天窓のある家』は良かったように思います。最後に入ってる「密会」が好きだなあ。

http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/

 




「街のホモ・サピエンス」と「夜のジンファンデル」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 710()224214

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小原秀雄『街のホモ・サピエンス自己家畜化するヒト』(徳間文庫99、元版81)読了。

以前に著者の『ペット化する現代人自己家畜化論から』を読み、啓発されるところ大でしたが、対談集ということもあってやや物足りない感じもしていた。本書の存在は全然知らず、たまたま先日ブックオフで見つけて、あ、これは対談集の元になった論考なのではないか、と期待して読み始めたのでしたが、ちょっと私の関心とはズレていました。いやまあ対談集の方が「現代人のペット化」に話題を特化させたものというか、本書の元版上梓後、自己家畜化からさらにペット化へ進行した事態へ考察の照明が及んだのかも。自己家畜化そのものがホモサピエンス出現と同時に出来した事態であり(むしろ自己家畜化がホモサピエンスへのステージアップの契機といえるかも)いわば3万年前に始まっているので、ペット化とはそれからの更なる遷移とみなして、別の適応形態と考えるべきなのかも知れませんね。対談の内容がもはやうろ覚えなのでアレですが(^^;。

ひきつづき
篠田節子『夜のジンファンデル』(集英社06)読了。

著者を読むのは正味初めて。全く先入見皆無で読み始めたのでしたが、これは面白かった。
「永久保存」はいわゆる「イヤな感じ」の心理ホラー。
「ポケットの中の晩餐」は、幻想的ですが道具立てがいささかトゥーマッチであざとい感じがした。たしかに「受けそう」な話で、しかしそういう話はわたし的には減点対象なので。
「絆」、これも心理ホラーで、ストーリーはよく出来ている。
表題作。心理小説で読ませる。
ここまではよくできたホラー風味の、しかしあくまでミステリジャンルに収まる作品であって、非常に面白く楽しめたのだけれども、SF読みの見地からはあえて追いかけるほどでもないな、という印象でした。
しかし最後の2篇、
「恨み祓い師」と「コミュニティ」は圧巻で、枚数も50ページ以上あってストーリーが十分に膨らまされており、なんといっても70年代80年代、角川文庫からあまた出版されたSF第1世代の短篇集を彷彿とさせられるセンスが感じられて没入して読まされてしまいました。さばかりか「コミュニティ」に至っては井上光晴の短篇と云われても信じてしまいそうな泥絵めいた筋だてが強烈で面白かった。
ふと思ったのですが、第1世代的な小説世界は現在のプロパーSF界からはほぼ失われていますが、なくなってしまったのではなく、この著者のようなミステリやホラーの領域に移ってしまっただけなのかも知れないなと思いました。そういえば平谷美樹は第1世代の雰囲気を残した作風ですが、プロパーSF界よりもミステリやホラーの世界でより受け入れられているようですから、あながち間違った見解でもないように思うのですが(^^;
ともあれ篠田節子はちょっと追いかけてみようかと思いました。まずは短編集から。長篇はどれも分厚そうなので(笑)。

 




その手はくわねーぞ

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 9()21260

返信・引用

 

 

書店にて――
ゴールデンラインに面陳された文庫本――菅野美穂の写真に「ジーン・ウルフ」の文字。何事?とおもったら「ジーン・ワルツ」だった。
ウルフと空見させて売りつけようなんて、姑息な新潮文庫だな。

それにしても菅さんの消費税発言といい、加賀の替え時といい、最近の日本はリーダーたちのカンの悪さ、判断ミスが目立ちますなあ(ーー;

 




眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 8()220246

返信・引用

 

 

有志の方から眉村さん15歳の頃の4コマ漫画入賞作品「見事命中!」(<東光少年>1949年11月号別冊付録)と、先日の神戸SF展での講演会で触れられていました<日本児童文学>での投稿作品の、「投稿作品選評」(<日本児童文学>1959年12月号)の、それぞれ該当頁のコピーを頂きました。

中学生の眉村さんの作品「見事命中!」は……いやー発想がまだ子供ですなー(>おい)。ういういしさ横溢の逸品であります(笑)
「投稿作品選評」では、投稿30篇の中から佳作8篇が選ばれ、更にその中から優秀作品3篇が個別に評されており、眉村さんはそのトップで選評が掲載されています(評者は塚原健二郎。作品の掲載はなかった模様)。選評を読むと超現実的な連作とのことで、あらすじが載っているのですが、それを読んだ私の想像では、どうやら初期のショートショート「午後」とか「浜近くの町で」のような、しかしもっとメルヘンチックにした、そんな雰囲気の作品みたいに思われます。読んでみたいなあ。掲載されなかったのでそれは不可能なんですが、いや残念。

これらの貴重な資料はコピーをとって私が保管し、頂いた方は眉村先生にお送りしておきます。きっと喜ばれると思います! ◯◯さん、ありがとうございました。


小原秀雄『街のホモ・サピエンス 自己家畜化するヒト』に着手。

 




「金剛石のレンズ」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 8()005030

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フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『金剛石のレンズ』大瀧啓裕訳(創元推理文庫08)

「手妻使いパイオウ・ルウの所有する龍の牙」「ワンダースミス」「手から口へ」を読み、全篇読了。
これらは30ページ以上のしっかりした短篇です。ここまでは短いのが多く、幻想掌篇、散文詩的な要素が強かったのですが、30ページを越えてくると、小説らしい厚みが一気に増してきますね(
表題作、「ボヘミアン」「絶対の秘密」30ページ超です)。今日読んだ3篇も、とりわけ後二者は50ページを越えており、俄然物語的な面白さが楽しめるものとなっています。
「手妻使いパイオウ・ルウの所有する龍の牙」は、文学的シノワズリといってもよさそうな中華幻想譚で、(白人がみた中国の瑣末な事実誤認は認めた上で(だからシノワズリなんですが))聊斎志異的な奇譚がとても楽しい。
「ワンダースミス」は、訳者は「ホフマン風の不思議なメルヘン」と書いていてなるほどと思いましたが、読中私自身は、これは鏡花の西洋版だなと感じていました。(19世紀白人のジプシーに対する偏見は棚上げした上で)19世紀ニューヨークで魔術がふつうに行われる世界観は、のちのメリットやヒロイック・ファンタシーにも通ずる面白さです。
「手から口へ」は怪作。ダークファンタジーっぽく開幕するのですが、著者がノリのりで次第に饒舌に風呂敷が広がっていき、結局著者自身畳み込めなかったらしく、終章は編集者の代筆とのこと(笑)。確かに終わらせるためだけの強引な閉め方なんですが、全体に荒巻義雄を彷彿とさせる超現実感が楽しめました。

著者は19世紀中頃の作家。ウィアードテールズの常連作家かとだまされてしまいそうな作風ですが(*)、事実はウィアードテールズ創刊に先駆けること70〜80年前の作家なんですよね。驚かされてしまいます。

本書は実に短篇小説の快楽がすべて詰まっており、描写もしっかり書き込まれていて(頁面が文字列で黒っぽく見えます)、まるで映画を見ているような視覚性がある。
「手から口へ」のホテルの階段の、幻想的というよりも奇怪なシーンなど、いかにも映像的なところなんですが、くっきりと目の前に絵が浮かびあがってきましたし、まじ「ミステリーゾーン」のテーマ(決して「垣根の垣根の」ではない!)がうしろで鳴り響いていましたです(^^;。分厚い描写は翻訳ものの醍醐味ですね。こういうのを読むと、頁面の寒々と白っぽい作品は満足できなくなっちゃうんですよね(そのかわりすぐ読めますが)。あ、むろん訳者である大瀧啓裕の、的確な上にこなれた(だから日本語として明瞭に伝わってくる)訳文に負っていることはいうまでもありません。佳い短編集でした。

(*)実際少なくとも
「チューリップの鉢」はWTにて復刻されています(邦訳は『ウィアード2』に所収)。

 




「時代劇は死なず!」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 6()231529

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春日太一『時代劇は死なず!京都太秦の「職人」たち』(集英社新書08)

一気に読了。本書は『天才 勝新太郎』の著者のデビュー作です。
60年代後半、映画が斜陽化し、とりわけ時代劇映画の退潮は著しく、時代劇不要論・太秦不要論が囁かれる。そんななか、映画会社各社の時代劇スタッフは生き残りをかけてテレビというニューフロンティアに向います。本書は各社の時代劇がその特徴を活かしつつ且つ新しい要素を摂り込み、テレビという新大陸でいかにフロンティア精神を発揮し生き延びていったかの物語です!(但し2006年時点)
東映は白塗りスーパーヒーロー様式美を否定した、テレビに合った日常的安心感のある定型ドラマ化(月影兵庫→銭形平次)を開発し、大映は勝新のリアリズムに賭け、勝新はトゥーマッチを徹底的に排する「見巧者にだけ分かればいい」という反大衆主義でテレビとは反りが合わなかったが、かれが「わが身を削って実現させた<最高の仕事>が<世界最高の>の技術の拡散を防」いだのは間違いなく、その遺産(といっては事実に反するが)のなかから「木枯し紋次郎」の、良く言えば(笑)イタリアンリアリズム的世界が花開く。
これに対抗意識を燃やした山内久司(我が高校の大先輩です。すんません余談でした(^^;)が、幸か不幸か映画時代の伝統が途切れてしまって、逆に伝統的テクニックを知らない若手しかいなくなった松竹時代劇のテレビ部門を使嗾し制作したのが「必殺」で、このシリーズは紋次郎と対極的な、ある意味(いかにも関西的な)極彩色の「あざとい」映像で紋次郎に止めを刺す。しかしストーンズがビートルズなきあと一時低迷したように迷走するも、やがて安定的な様式美で「必殺」から「仕事人」へと移行して延命する。
その後「紋次郎」のスタッフと「必殺」のスタッフは、「鬼平犯科帳」で一つに会するが、その世界はかつて東映が捨て去った歌舞伎的世界観の復活であった。結局最後に残ったのは岡田茂により安かろう悪かろうの量産体制を維持していた東映だった……
という話です(>おい)。なお上記は私の言葉で語り直しており、ビートルズもイタリアンリアリズムも本書にはひとことも現れませんので念のため。
著者は、そのゆくたてを、いかにも必然的なように描写していますが、根本的には生き残るためのなりふりかまわぬその場その場での反射的対応の集積というのが実情だったんでしょう、きっと。それをこのように記述するのはもちろん著者の主体性であってそれはそれで正しいものです。
本書、まるでエンターテインメント小説のように面白く、引き込まれました。

 




19世紀は60年代西海岸?

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 5()224656

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貴乃花理事、退職の意思撤回
うーむ。これは茶番ですね。貴乃花としては自分に投票してくれた琴光喜への(といっても大嶽の差し金でしょうが)、せめてもの餞だったのでは?

『金剛石のレンズ』は、
「ボヘミアン」「絶対の秘密」「いかにして重力を克服したか」
「ボヘミアン」で扱われるのはメスメリスムと透視。両能力者を合力させることで埋蔵金を発見するストーリーながら、得る者は失うという半村良テーゼが効いています。「絶対の秘密」は、訳者はサスペンス小説の先駆けとしますが、私は不条理小説と思いました。「いかにして重力を克服したか」は、これは正真正銘のショートショート。オチはどうなのという話ですが、それまでの「語り」がよく出来ているのでオッケーです(笑)。

 




真珠母の歎き

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 5()001647

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突然ですが、以前雑談していて、日本ではセクサロイドの呼称が一般的ですが、正しくはセクソイドですよね、という話になったのを急に思い出しました。
アンドロイドがそもそも[andro-oid]なんですからそうなります。ヒューマノイドとはいってもヒューマノロイドとはいいいません。まあセクシャロイドは可能かも(笑)

『金剛石のレンズ』
「パールの母」のみ。訳者は絶賛していますが私は買わないなあ、セイロンの船上パートはとても美しいスケッチですが、このオチはないと思います(>オチなのか)。


 




遙かなり大月ミヤコ

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 3()22107

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何十年ぶりかで「セロニアス・ヒムセルフ」をひっぱり出してきたいきさつは昨日書いたとおり。ところがビニール袋からジャケットを引きぬいて驚いた。ジャケットの裏面の英語のライナーノートの部分が斑点状に茶色く変色していたのです!
こ、これはカビ!? 触ってみるとザラザラ盛り上がっています。近くにあった拭きとり用の洗剤スプレーをかけてティッシュでこすってみたところ、ザラザラ部分は取れましたが、変色は残ったまま。まあ変色は(本で見慣れているので)仕方がないかと諦めました。
で、考えた。一番の原因は何十年も収納しっぱなしだったからです。とはいえ湿気を逃がさないビニール袋にも問題があったのではないでしょうか。
昔のレコード盤は、ジャケットがビニール袋に入った状態で販売されていました。場合によっては二重にビニール袋がついていた盤もあります。
そういえば書籍でもビニールカバーは捨てたほうがよいと、ミクシイだったかで誰かが言っておられました。そういう意味ではレコードも同じはず。
私はすべて購入時のまま、ビニール袋に入った状態で(場合によっては二重で)保管してきたのですが、引っ剥がしてしまう方がよいのかな、そうすんべかな、などと思案しつつ、なんとなく件のセロニアス・ヒムセルフのビニール袋を手にとったのです。するとそのビニール袋には――

 Records Shop OTSUKI Umeda Osaka

――のロゴが!!
今頃気づいた次第ですが、ビニール袋はレコード店がサービスで付けていたのでしょうね。
うーん、これは捨てられないなあ(^^;

『金剛石のレンズ』
「失われた部屋」「墓を愛した少年」「世界を見る「鐘つきジューバル」まで読む。訳者は二者について「もはや散文詩に近」いと述べていますが(巻末解説)、この四篇全てに当てはまる評言ですね。散文詩と掌篇は、私の感覚では重なっており、とりわけ二者と四者は長さも10ページにみたず、よくできた掌篇いやショートショートの味わいが……。両篇ともラスト(の段落)が効いているんですよね。一般的なオチとは違うのですが、オチと同じ効果を醸し出しているように感じました。

 




モンクとトレーン

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 3()005142

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『マイルスvsコルトレーン』によれば(バクっとまとめれば)、マイルスがクスリでフニャフニャになったトレーンに業を煮やして鉄拳制裁しクビにしました(1957年4月13〜14日)。そのときトレーンを拾ってくれたのがモンクで、実家に帰ってクスリ断ちに成功したあと(マッコイ・タイナーによれば「急速に立ち直っ」て)、トレーンはモンクのグループに参加します。伝説のファイブ・スポット・セッション(7月〜12月)で、モンクの影響下にシーツ・オブ・サウンドを完成させる。下のyoutubeは、ファイブスポット出演中の11月に、カーネギーホールで行われたモンクとの共演ライブ「ライブ・アット・カーネギーホール」の全曲で、これを聴くとシーツ・オブ・サウンドが完成していることがはっきりと分かりますね。トレーンはわずか数ヶ月の間に悪癖を断ち切ったばかりか、モンクとのふれあいの中で「長足の進歩」を遂げたようです。
(マイルス楽団をクビになった直後、4月16日、早速トレーンはモンクを頼っており、ソロアルバム「セロニアス・ヒムセルフ」において「モンクス・モード」で共演しています。幸いこのアルバムは所持しており、何十年ぶりかで聞き返してみました。終始ストレートに吹いているのはトレーンのバラードの常とはいえ、(上記の先入観もあるのか)面白みのない演奏です。モンクのあとをただついて行っているだけという印象。このあとトレーンは実家に帰るわけです。「モンクス・モード」は下の「ライブ・アット・カーネギーホール」でもやっていて、比べてこっちの方がずいぶん溌剌としているように私には感じられます)。
ちなみに「ミステリオーソ」(+2)は1957年8月(+7月)録音であり、そもそも当時のモンクのカルテットのテナーはジョニー・グリフィンだったようです。
というわけで、「ライブ・アット・カーネギーホール」(11月)と「ミステリオーソ」(8月)はほぼ同じ時期のライブアルバムで、ベースも同じ(アーメド・アブダル・マリク)ですし、曲目も共通しているものがあります(「ナッティ」と「エヴィデンス」)。
聴き比べてどうでしょう。「ミステリオーソ」も全然悪くないアルバムで、いま私はカーステレオに放り込んで一日中聞いて飽きません(で、夜はPCで下のyoutubeを聴きまくっている)。でも比べたら私はトレーンに軍配を上げざるをえない。演奏の古さ新しさやテクニック以前に、テナーの音そのものがやはりぜんぜん違うんです。力が漲っているし一音一音歯切れがよい。こんな音が出せるのはトレーンだけ。グリフィンと比べて、というよりも、どんなテナー奏者と比べてもトレーンの音は段違いに力があるのです。これが数ヶ月前によれよれでマイルスに鉄拳で放り出された人間とはとても思えません。マッコイがいうようによほど克己心が強かったのとモンクの指導がよかったのでしょうか(上記の本でも、シーツ・オブ・サウンドのアイデアにはモンクのアドバイスがあったことが伺われます)。モンク楽団で急速に成長したトレーンは、やがて再びマイルスに呼び戻されるのです。


 




セロニオーソ・モンクvsミステリオーソ・ムンク

 投稿者:管理人  投稿日:2010 7 1()220025

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あ、モンクだからムンクなのか(>今ごろ気づいている迂闊な私)。



以前から書こうと思っていながら、しかしあまりにも下らないので、書く時点ですっかり忘れてしまっていた話題――それは桜井の応援歌のあまりにダサい件。
これ、何とかならないものか。聞くにたえません。桜井の打席が来るたびにチャンネルを変えてしまいたくてたまらなくなるほど。ホンマでっせ。こんなド演歌調も珍しいのでは? 応援団、桜井は応援したくないのかとさえ思われます。応援歌は基本的に泥臭いものですが、桜井のは別格ですね。まあいかにも桜井によく似合っているですが(>おい)。その点、桧山のは名曲ですね。

『金剛石のレンズ』はまだ3篇。最初の二つ
「金剛石のレンズ」「チューリップの鉢」は再読。むろん定評ある名作ですが、初読の「あれは何だったのか」も負けず劣らずの面白さ。一種UMAものともいえます。見えない怪物(?)を石膏で型どって姿を確認するシーンが秀逸でした。

 


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