ヘリコニア談話室ログ(20108)




「波止場」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 830()230055

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 《サンフランシスコには全米最大(……)世界最大のチャイナタウンがある。その理由は、
 トランスアメリカ鉄道の建設のために、膨大な中国人労働者を呼び寄せたからだ。(……)
 西部劇にはよく中国人の洗濯屋、葬儀屋、そしてコックが出てくるが、鉄道工事以外の仕
 事はそれしかなかった》      (『無人大陸中国』62p)



エリア・カザン監督「波止場」マーロン・ブランド主演(54)を観ました。
ニューヨーク港の港湾労働者組合を牛耳り、甘い汁を吸っているボス。彼に逆らうと沖仲仕たちは仕事にありつけない。その不正を暴こうとするものは消されてしまう。元プロボクサーの主人公テリイ(M・ブランド)の親友で、聴聞会で証言しようとしていたジョーイが殺される。テリイも含め沖仲仕たちは見て見ぬふりをする。その後テリイは、ジョーイの妹で、兄の死の真相を追求しようとしていたイディに、しだいに惹かれていく。その過程で、ボスの賭け勝負のために、ボスの片腕になっていた兄の使嗾でテリイが八百長試合をやり、その結果チャンピオンの夢が破れた事実が明らかになる。イディや正義派の牧師の影響で次第に目覚めてきた主人公は聴聞会で証言を決意するが……

最後の最後まで、港湾労働者たちがボスに縛り付けられているところが、簡単にファンタジーになってしまう日本製の単純なドラマ仕立てとは決定的に違っていて、「今観る」私にはとても新鮮でした。
先日の畸人郷で、日本のドラマは軽薄に脱構築で、それゆえ韓流ドラマを作れないのだという話になったのでしたが、同じ意味で、このようなシリアスな構築劇も作れなくなっているのではないかな、とふと感じました。

60年代以前のアメリカでは、このような地方ボスの王国がいたるところにあったようですね。それがまずハードボイルド小説の舞台になり、とりわけアメリカン・ニューシネマの舞台になりました。本篇はその先駆的な作品だと思います。アメリカン・ニューシネマの頃はすでにそのような悪しき構造が崩れ始めており、それゆえテーマにしやすかった面があると思います。本篇はその点で先駆的であるだけに、前例のないところから組み上げていかなければならなかったはずで、牧師や恋人の影響というところがやや弱いのは致し方ないところでしょうか。

日本でも、同和事業体や府民共済など、ある種の第3セクター的な組織体に同様のボス王国が生まれがちなので、本篇のような映画をとる余地はまだあるはずですが(小説なら警察小説)、制作者サイドに愚直な構築を馬鹿にする風潮があるので無理でしょうね。

読書は『無人大陸 中国』に着手。半分読みました。
ある日忽然と、中国大陸の13億の人間が消滅。一夜にして(インフラは維持したまま)無人地帯と化した中国。ロシア、インド、ベトナム、北朝鮮、台湾等の近隣隣国は虎視眈々と領土的野心を示し始める。そんななか、世界より3000万の華僑や華人が故国を守るため陸続と帰還してくるのであった!!

 




「チャーリー・チャンの活躍」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010 829()221410

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E・D・ビガーズ『チャーリー・チャンの活躍』佐倉潤吾訳(創元推理文庫63、原書30)

(承前)
戦前の抄訳が『世界観光団殺人事件』というのらしいですが、まさにそのタイトルどおり、世界一周ツアー団の一行が、ニューヨーク→ロンドン→パリ→ニース→サンレモ→ゼノア→地中海→エジプト→紅海→インド→シンガポール→香港→横浜→ホノルル→サンフランシスコと世界を経巡るにつれ、連続殺人事件が勃発します(奇しくも、というより当然というべきか、起点は違うとはいえ「八十日間世界一周」とほぼ同じコース)。ストーリー自体も、その船旅同様、慌てず急がず駘蕩としていて、ゆったりと作品世界に浸れます。まさに夏休みにぴったりのミステリーでした。

一応、本格ものといえるでしょう。手がかりは全て小説系内にあります。というか、最後の50ページだけ読んでも、犯人を指し示すことができます。いやできませんが、チャンはこの50ページ内にある手がかりで解明しちゃいます(笑)。
そういう意味で、本書の面白さは、謎解きよりもストーリー自体にあるといえるでしょう。

本書は1930年上梓。つまり先日読んだ『フランス白粉の謎』と同じ年の作品なんですね。世界史的には満州事変の前年です。本書を読むと、当時の英国人は、シカゴやボストンさえ地図上のどこにあるのか、よくわかっていなかったようです(著者がアメリカ人ですから、まあ誇張も含まれているとは思いますが)。デトロイトを、どこにアクセントをつけて発音するのかも判らない。イギリスの警官とタコマの木材業者が「あなたはスコットランド出身ですね」「おや、まだ訛りが残っていますか」という会話をしている。アメリカ人同士でも、ボストンの上流階級の子息は、中西部デトロイトの自動車業者の娘を「なんでもカネ、カネ」と批判すれば、娘は子息を「家柄や伝統を鼻にかけるスクエアなやつ」と軽蔑します。
アメリカという国自体が、ロンドン警視庁の警官がいみじくも「なるほど、アメリカはいろんな人間の坩堝だ」(76p)と呟くように、まだ一つにまとまる前の状態であったことが、本書を読むと浮かび上がってくるのです。グローバル化される前の、多元的アメリカがここに定着されているように思います。
そしてハワイには、中国人と日本人が……(笑)。一体に著者は日本人よりも中国人にシンパシーを感じているようです。満州事変直前という歴史背景もあるのかも知れません(いやむしろ上海事変を挙げるべきか)。
(チャン)「そのころは、シナは平和でした」「でも今はそうではありませんね」パメラ・ポッターがいった。(……)「そうです。シナはいま病人です」(242p)

サンフランシスコ行きの客船に潜り込んだカシマのあとをすこし追ってみましょう。
「まず感じたのは、助手のカシマに対する賛嘆の念だった(……)たしかにカシマはよく失敗するが、物を捜すということにかけては、他人の持ち物にチョッカイを出すということについては天才的なひらめきがある」(292p) これは褒めてるのか貶しているのか。というか日本人はみんなニンジャの末裔だと思っているのかな(^^ゞ
「すみません」カシマはまたいった。/「あなたすみませんいう時間、あとでたくさんある」 もうこの頃から、日本人はアイアムソーリーヒゲソーリーを連発していたみたいですね(笑)

しかししかし。最後の最後でカシマは、チャン警部の足を引っ張ることしかしていなかったカシマが犯人逮捕の決定的な証拠を掴むのです! 次がその場面。
「カシマ!」チャンは声を高くした。「もう隠れ場所出て来てよろしい」/ほこりまみれになった小柄な人間が、ベッドの一つのしたから、急いでころがり出て来た。綿屑と糸屑とほこりがいっぱいくっついている(……)「おや体少しこちこちになっているね、カシマ。もっと早く出してやることできなくて、気の毒だったです」(372p)
やっぱりニンジャだ(^^; でも最後にお手柄を挙げさせたのですから、著者もそんなには日本人を嫌ってないのかも。チャンはカシマの肩を叩いてねぎらいます。
「日陰に育った桃もいつか実を結びます」(385p)って、おい(汗)
本土に残るチャンがハワイに帰るカシマにいう。
「ここでとりあえず、私さよならいいます/あなた成功の輝く衣に包まれてばかりでなく、もっと衛生的なシャツに包まれて、帰るです」 やっぱり馬鹿にしてる?(笑)

と、かくのごとく本書は本格であるというより、ユーモアミステリーとして私は面白く読みました(^^) 大戦間という時代相に、イギリス人、アメリカ人、日系人、中国人探偵入り乱れての波乱万丈の捕物劇、堪能しました!

追記。
書き忘れましたが、本篇がノックスの十戒「中国人を登場させてはならない」へのアンチテーゼであるのはいうまでもありません。チャンは言います。
「私たち、アメリカでは高く評価されません。私たち洗濯屋か、トーキーの話に出てくる悪者くらいに思われます」(342p)。そんな中国人を、(イメージをひっくり返して)著者は神の如き名探偵に設定するのです。ボストンとデトロイトの辛辣な比較もそうでしたが、著者は本質皮肉屋さんですね。なかなか辛口の知性を感じずにはいられません。

 




野江→梅田→天満橋

 投稿者:管理人  投稿日:2010 829()120258

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昨日は久々によく運動した。1時半前に出発して帰ったのは日付が変った頃。ふだん仕事でも90%は座っているという生活をおくっているので、途中から腰と脚の付け根の蝶番の部分が悲鳴を上げていました。帰館バタンキューで寝たのだが、3時頃足がつって目が覚めました(笑)。足がつるなんて何十年ぶりか。運動不足を痛感したのでした。でも、そのおかげで今朝は気分爽快に起床。涼しくなったらもっと散歩しようと誓うのであった(もう何度目か)。

まず京阪野江でオリゴ党を観劇。会場が分かりにくく、長方形の3辺を回るようにして迂回的に到着。はやくもここで腰が。内容はある意味衝撃的なもので、予想を裏切られる展開に吃驚。でもなぜこのテーマ? 芝居の動機がわからないなあ。別項で感想書きます。なお今回も超満員でギューギュー詰め。紅テント、黒テントの時代から小劇場はこんなものとはいえ、歳をとるとやはりこたえますね。
なお本日が最終日ですので(13時と17時)、興味ある方はどうぞ→「僕は昔子供じゃなかった」。楽しい稽古場日記はこちら。あ、今読んだら会場へのアクセスが写真付きで説明されてました(^^;

梅田に戻って畸人郷例会。いろいろ面白い話が聞けました。ミステリ界隈では、SFが夏の時代を迎えつつあるという認識なのか。全然実感がないのですが。
それから、いわゆる大衆的読者の読みと、マスコミに載る読み(ネットでの感想等も含めて)は全然違うもので、マスコミやネットはそのような層になんら影響を及ぼしていないというのは、確かにそうだろうなあと思いました。たとえば時代小説。

畸人郷は1次会のみで失礼して、天満橋のEXPO CAFEへ。道筋の途中にある中華料理「大東」がなにやら騒がしいので入り口越しに覗くと満員。や、これは間違いなく総サポのメンバーであろう。と横目に見つつ、(案外に急な)坂道をヒイヒイ上ってEXPO CAFEに到着。
今日は『日本万国博覧会 パビリオン制服図鑑』好評発売中の大橋博之さんが来阪されていたので、久しぶりにお会いしたのでした。他にも怪獣関係、ロボット関係その他の大橋人脈の方々が6、7名。こういう方々が実は私には興味深かったりします。今回はゴスロリとかガングロといった一部先鋭的な少女ファッション愛好者(人体改変も含める)が参照するようなガイドブック(一種聖典となるもの)が意外にないので、そういうのを作りたいと考えておられる方の話が聞けた。そういう少女は放っておいたら非合法の世界に入り込んでしまう(しまわざるをえない)ので、そういう防波堤になるガイドが必要とのこと。いろんな人がおられますなあ。
今回の大橋さんの来阪は、我々の世代共通の悩みで。といえば分かる人はわかるでありましょう。大橋氏は住吉高校卒、眉村さんの後輩で、阿倍野西成あたりで育ったのです。うちはまだ大丈夫なんですが、とにかく大変ですなあ。

という次第で、なかなか充実した一日でありました。

 




宇治電ビル

 投稿者:管理人  投稿日:2010 828()130231

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今日更新された、かんべさんの最新大阪ランダム案内によりますと、宇治電ビルが解体とのこと。かんべさんの本文にありますとおり、眉村さんのサラリーマン時代の勤務先が入っていたビルです。こちらに眉村さんの宇治電ビルに関する思い出話があります→「回転ドアとロッド・サーリング・ほか」(卓通信第3号−1)
この回転ドア、かんべさんの写真を拡大してしげしげと見ているのですが、どうやらふつうのドアに取り替えられているみたいですね。
もし回転ドアが残っていたら可及的速やかに見学に行かねば、と一瞬思ったのですが……別にいいか(^^;
そういえばGWの神戸文学館での公演で、このビルの隣のビルに筒井さんのヌルスタジオが越してきて、毎日入り浸っていた(正当な理由をでっちあげるためにマッチ等のデザインを依頼した)とのことでした。その筒井さんが入っていた大倉ビルも、堀さんのこちら(8月24日)によればもうないそうです。
阪南団地はすでに解体作業に入っています。どんどんSFの聖地が消え去っていくなあ。噫。
しかしまあ、どうせ私もそのうち消え去るので、構わないっちゃ構わないんですけどね(>おい)。

 




明日の予定

 投稿者:管理人  投稿日:2010 828()020714

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『チャーリー・チャンの活躍』読了。しかし今日は遅くなったので、感想は明日にでも。一応そのつもりでいるのですが、明日は、15時京阪野江にてオリゴ党公演。18時梅田で畸人境例会。最後に天満橋エクスポカフェで終電まで。と、けっこうハード。そういうわけで、実際のところ更新は無理かも知れません。というか、明日のために今日ちょっとだけ頑張ったのでした(^^;

 




十把一絡リードを排す

 投稿者:管理人  投稿日:2010 827()175032

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> No.2642[元記事へ]

雫石さん

彼のよく使う、同じコースを投げ続けるという配球は、原則論として1球目より2球目、2球目より3球目のほうが厳しくなければならない筈ですよね。ところが並のピッチャーはこれがなかなかできないんだと有田修三が言ってたと思います。2球目まではできる。でも3球目は必ず甘くなるようですね。2球目(2段階)までがその投手の球の限界なのと、やはり心理的に恐ろしくなっちゃうんでしょう。
たぶんこのリードに平気で応えられるのは、阪神では球児くらい。あとは雫石さんもおっしゃるように、ダルビッシュとか田中マー君あたりの、闘争本能が人間のカタチを纏ったような、パのエース級しかいないんじゃないでしょうか(大リーグのなーんも考えない有能な無脳投手もできるでしょうね。日本の投手はおそらく読みすぎちゃうんです)。
つまり並のピッチャーにはハードルが高い要求なんです。それを平然と要求するのは、個々の投手の適性なんか全然考えてない証拠だと私は思います。
あ、それから私が気になっているのは、テレビで見ていると、彼のサインに対して投手がよく首を振っているように感じられること(矢野や野口の時にはあまり見なかったように思うんですが)。まあ彼自身が、嫌だったら首を振っていいよと言っているのかも知れませんが、私は投手それぞれの個性(ID)を把握していない(しようとしない)証拠だと思っているのですが。

>思い切ってキャッチャーを代えてみるのはいいかもしれませんね
打棒は魅力ですが、今年の打線は22点取っちゃう打線なので、別に不要ですよね。いなくても10点取れます。その分バッテリーで相手の得点を押さえられるのだとしたら、その方がチームの勝率は安定しますよね。

 




Re: 「チャーリー・チャンの活躍」読み中

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010 827()103925

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> No.2641[元記事へ]

> 弱体投手陣といいますが、それはまあそのとおりなんですが、投手だけの問題なのでしょうか。バッテリーを組む捕手のリードに責任の一端はないのか。そういうことは誰もいいませんね。しかし全然悩んでいるように見えないところは、さすがに大物。

私も同感です。城島は一流のピッチャーを使うのはうまいが、あかんピッチャーをだましだまし、
使うのは、もひとつなんではないでしょうか。そのあたりは矢野の方がうまかったですね。
ことし、安藤があかんのは、城島との相性もあるのではないでしょうか。
思い切ってキャッチャーを代えてみるのはいいかもしれませんね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/

 




「チャーリー・チャンの活躍」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2010 826()203736

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弱体投手陣といいますが、それはまあそのとおりなんですが、投手だけの問題なのでしょうか。バッテリーを組む捕手のリードに責任の一端はないのか。そういうことは誰もいいませんね。しかし全然悩んでいるように見えないところは、さすがに大物。

『チャーリー・チャンの活躍』は300頁。あと100頁。めっちゃ面白いです。チャン警部が出てくるのは後半になってからなのですが、チャンの部下の日本人探偵見習いが、もう何ともいえませんな。落語の八っつぁんというかおっちょこちょいの粗忽者で、チャン警部の頭痛の種(^^;

「たぶんぼく、そのうちいい探偵になれます」カシマは希望をこめていってみた。
「そうかも知れないね」とチャンは答えた。(253p)

(カシマの同行希望を何とかなだめて単身本土行きの客船に乗り込んだチャンの前に、当のカシマが!)「カシマ――どういうわけ?」
「ぼく隠れていました。ぼくあなたの大事件手伝いに、いっしょに行きます」
チャンは船とワイキキ海岸の間の白波を見て、考えていた。
「あなた、泳げる、カシマ?」
「全然だめです」相手ははればれとした顔で答えた。(256p)


ビガーズは日本人に苦い目にあわされたことがあるのかな(^^;

 




「ネオン太平記」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 825()230415

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磯見忠彦監督「ネオン太平記」(小沢昭一主演、68)を観ました。冒頭で小松さんと米朝さんが、アルサロで遊んでいます(^^;。小沢昭一は東京生まれなのに大阪弁が板についてますね。
画面の中に人が溢れかえり、アナーキーなエネルギーが充満していました。68年はパリ5月革命の年ですね。時代が若かったというべきか。まさに60年代団塊世代映画。私自身はポスト団塊世代ですが、団塊世代の尻尾とは重なっている。この沸騰する時代のブラウン運動を全く知らないというわけではない。懐かしくもあるのでした。小沢昭一演ずる主人公の生き方には共感します。安定より破滅。所有ではなく処分。サヨナラだけが人生だ(^^; でもこういうエネルギーは、もう私の中からはなくなってしまいましたなあ。時代も私自身も、いつのまにか青から茜に色が変わってしまいました。かといって惑うのは相変わらずなんですから理不尽ではあります。といって天命を知りたくもありません。象のように、ある日ふっといなくなれたら本望。あ、処分していこう(^^;

『チャーリー・チャンの活躍』は丁度半分。

 




「もののけの正体」(後-2)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 824()212530

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> No.2638[元記事へ]

承前
あまりにも細部が面白いので、調子にのって妄想を炸裂させてしまいました。ついでにもうひとつ(>おい)(^^;
「辞闘戦新根」を現代に翻案するとしましょう。そうしますと、江戸の版元に対応するのは、現代ではまずマスコミではないでしょうか。そのマスコミに対して復讐を狼煙を上げる廃れた流行語の総帥は、さしづめ「サダハる」がふさわしいように思われます。
廃れた流行語は数々ありますが、大概廃れたあとでも意味は通じます。たとえば「ナウい」「ヤング」、もっと古くは「バタンキュー」「ズージャ」「C調」「トーシロ」などなど。これらは、流行った時代を知らない人でも「ああこういう意味だろうな」という察しはつくだろうと思われます。
しかし「サダハる」はどうか? 「いやーお父さん、サダハってるねえ」「まだまだ若いもんには負けんわい」という文脈に示せばなんとか推測がつくかも知れませんが、「サダハる」単体では「なにそれ?」という感じではないでしょうか。
それもそのはず。この流行語は大衆の中から生まれ次第に人口に膾炙していったものではなく、マスコミが「ネタ」で考案し、その動員力で以て無理からに広めたものだからです。だからそもそも根拠に乏しい。なので一旦廃れたら、もう思い出してもらえる可能性は薄い。したがって時折思い出したように使われる元流行語のなかにあって、ひとり誰からも思い出されることも使用されることもない。それ故に恨みもまた深いのであります。当然蜂起に際しては最も先鋭な分子であり、強硬派であり武断派であるに違いない。元流行語たちを強力なリーダーシップを以て率いていくのは、おそらく「サダハる」のような出自を持つものであることは火を見るよりも明らかでありましょう。
えー。
これ以上はしゃぐと著者から営業妨害で訴えられそうなので、このへんで(^^;。

ということで、
原田実『もののけの正体怪談はこうして生まれた』(新潮新書10)読了。

著者は、おもに江戸時代に表象された「もののけ」を丹念にたどり、驚異の蘊蓄を披露するのですが、決してそれらが実在するものだとは信じていません。「もののけ」は人間の表象、観念に他ならない。ある意味人間を写す鏡なのだといいます。なぜ幽霊は女が多いのか。それは当時の社会が男性社会であったからなのです。或いは(黄表紙本にみえる)化物の社会は、(当時の日本の)人間の社会(規範)と逆転した価値観で成り立っているとします(累の嘆きを思い出されたい)。
と同時に、「もののけ」は、人間にコントロール不可能な自然現象(灯火の乏しい江戸の深夜を歩いていてコウモリにぶつかられて肝を潰すのも含む)を可視化したものでもあります。
先述のように「名付けられない」ものは「見えない」のです。見えないものほど人間を脅かすものはない。それを「もののけ」として形相を与えることで、人間はちょっとは安心出来るのです。しかも形象を与えられた「もののけ」は、その形象ゆえに、次第に飼い慣らされ、なんとなくコントロール可能な存在のように「錯覚」されていく。そもそも水難の表象であった河童が、いつのまにか相撲大好きな滑稽な存在と化してしまうように(ファンシー化)。

著者は以上のような動態が江戸期に於いて「もののけ」一般に見られることを、とりわけ江戸の妖怪図鑑「絵本百物語」に依拠しつつ解説を加えます。
ところで、著者はもののけの実在を信じていないと書きましたが、実は想像の存在であるもののけへの偏愛ただならぬものがあるようです。その描写はまるでペットを自慢しているようなところもあり微笑ましい限りなのですが、またその愛は、同時に個々の妖怪が形象化されるにあたって、意識的、無意識的に参照されたと思われる現実の動物や器物の究明に向かう。すなわち(今までさんざ引用してきたので本書とは関係ない例を挙げるのですが)「人魚」のイメージ化に「ジュゴン」が寄与しているといったような意味であります。その凄まじい探求癖たるや、ついには「絵本百物語」の「舞首」は(どうやら作家たちの創作らしいのだが)、そのイメージの案出に際して「捜神記」の「眉間尺」が援用されたに違いないという新事実を発掘してしまうほど!

かくのごとく、本篇はいかにも著者らしい博覧強記の展示会のようでありながら(勿論その魅力も本書に大いに寄与していますが)、それがもののけの個別的解説にとどまらず、「もののけを見てしまう」人間の一般的な心理機構を解明しているところが、私にはとりわけ興味深く面白かった。これはぜひ現物を手にとって頂きたい。新書本の秀作といえると思いました(^^)

次は『チャーリー・チャンの活躍』の予定。

 




「もののけの正体」(後-1)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 823()202718

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> No.2636[元記事へ]

承前
日本のインスマスの件、再説します。自分の中では自明なので説明をすっ飛ばしてしまったのです。
江戸時代と違って、現在では河童の実在を信じているひとはまずいないでしょう。大多数の人は架空の生物であると認識しています。
では四世紀に八代に上陸し17世紀初頭まで人間と雑居していたその生物は、いったいなんだったのでしょうか。八代の人々が河童だと認識したわけですから水陸両棲の生物だったのです。
現在の我々からすれば、その生物が(架空の生物である)河童であるはずがないことは自明です。でも当時の人々は河童の存在を信じていた。河童にしてはちょっと形態が違っていたかも知れませんね。これは現代も古代も同じですが、人間の脳は、「名付けられざるもの」は認識できないのです。せいぜい「……の・ようなもの」として類似的に認識するほかない。四世紀の八代の人々も、自分たちの知識にある最もそれに近い生物、すなわち「河童・の・ようなもの」がやってきたということで、河童が上陸したと伝えたのかも知れません。いや、きっとそうです。そうに違いありません!
とすれば当時の人々が河童だと思い込んでしまった・河童によく似た水陸両生の生物とは、いったい何が相当しうるでしょうか?(*)
現在の私たちは米マサチューセッツ州のアーカムとニューベリーの間に、よく似た港街があったことを知っています。もちろんインスマスに他なりません。あるいはひょっとして、加藤清正によって海に追い払われた彼らが、その後マサチューセッツ州海岸にたどり着いた可能性があるのではないか。
いまwikipediaを牽いたら、インスマスの建国は1643年となっていました。清正は1611年になくなっていますから、彼らが八代を離れたのは1611年より少し以前のはずです。仮に1610年だとすれば、33年かかって、東部海岸にたどり着いたことになります。当初彼らは、八代にかわる安住の地を捜して太平洋からインド洋、さらに喜望峰を廻って大西洋へと放浪していたのでしょう。おりしも、1620年にメイフラワー号がマサチューセッツ州プリマス付近に到着しています。この豊穣なる新天地の情報を、彼らもどこかで知った蓋然性は高い。もっといえばメイフラワー号のあとを追いかけて、彼らも新大陸に到着した可能性も否定できないのではないか。いや、たぶんそうです。そうに決まっています。そうでなければなりません!
すなわち八代の河童の子孫こそ、インスマスの人々であったのです。
で、さらに想像をたくましくするならば、彼らは黄河から八代に渡来したわけですから、水と関係が深い伏羲・女媧、夏王朝との関係もなきにしもあらずといえるのではないか。しかしまあ、ハッタリもその辺にしておきましょう(^^;

なお、以上は『もののけの正体』とは全く無関係な妄説であることを、ここに明言しておく次第であります(笑)。

 (*)というか、本書によれば我々に馴染み深いあの河童の姿は、江戸時代にイメージが収斂して成立したものなんですから、四世紀の八代の人々が見た生物がいわゆる河童のイメージと違っていてもそれはそれで問題ないかもですね。九州のガラッパは河童とは別種と考えればいいかも。江戸時代に収斂されるとしても。

つづく

 




「もののけの正体」(中)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 822()205459

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承前
次の例は、このままでショートショートの切れ味があります。
十返舎一九の黄表紙本「怜悧怪異話」では、(真景累ケ淵の元となった実録本「死霊解脱物語聞書」で醜女とされている)お累が、あの世で「見越の入道」(妖怪の総帥)の妻となって幸せに暮らしている。彼女の気苦労の種といえば、養女にした菊(皿屋敷のヒロイン)のことくらい。
「お菊は、人間の世界でなら美女で通る顔立ちだが、価値観の違う化物の世界では嫁の貰い手が見つからないのだ」(56p)(^^ゞ

恋川春町「辞闘戦新根」は
「黄表紙で広まった流行語が、新しい言葉を生んでは廃れさせていく黄表紙の業界を恨み、版元を襲うという話」(104p)だそうで、これなんか舞台を現代にしても十分通用しますなあ(笑)

つづく

 




「もののけの正体」(前)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 822()192623

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昨日、車で走っていてふと計器をみると、ガソリンがほとんどE! あわてて∪ターンし契約しているスタンドへ向かう。まあスムーズに行けば10分くらいの距離なので全然心配してなかったのですが、ところがところが、出遭う信号が必ず私の前で赤になるではないか。もう恐ろしいくらいすべての信号に引っかかる。
赤の間もエンジンは吹かしているわけで、だんだん心配になってきた。
全部で七つくらいあったんですが、その5番目が踏切の信号。いわゆるあかずの踏切というやつで、いつにもまして前に車が並んで止まっていて不吉な予感。
案の定、通り抜けるまでに三度踏切が開閉した。10分は待ち続けたはず。メーターの針はもはやEの線上に乗っている。
というわけで、なんとか無事たどり着いたとは言い条、冷や汗をかきました(^^;。まるで信号機に邪悪な意志があって私の進行を邪魔しているのかと思いましたよ。これぞ信号機ならぬ信号鬼、なんちゃって。

というのは半分冗談ですが、つい半世紀前くらいまでは(と私は思っているのですが)アニミズム的な観念が残っていましたから、本気でそう感じる人があっても不思議はない。ことに江戸時代はそのような観念が習合され定型化された時代で、その結果畏怖の対象だったものが文脈を離れて娯楽化された時代であったというのが、今読んでいる『もののけの正体』のテーマの一つだと思います(今日は全然読めなかったのだが、感想長くなりそうなので、昨日までのところをメモがわりに。私自身の覚書を兼ねており、本書を読まれる予定の方はお気をつけください)。

鬼にしろ天狗にしろ河童にしろ、江戸の前代まではその姿は多様な形態をとっていたのが、江戸時代に、今私たちが知っている形に収斂していったそうです。それは江戸の出版文化の発達と並行するもので、出版され一般庶民に流布した結果、多様な形態がある典型に固まっていったわけです。その変化を本書は丹念にたどっていて面白い。

昨日、日本のインスマスと書きましたが、著者はそんなことはひとことも言ってませんので念のため(^^; でも実質そういう事だと思う事態が江戸の文献に残されているのです。
九州八代市に「河童渡来の碑」があり、碑文に曰く、
「ここは千五六百年前河童が中国方面から初めて日本に来て住み着いたと伝えられる場所である」。同市では夏盛大に河童祭(オレオレデーライタ祭)が開かれる由。
「本朝俗諺誌」「和訓栞」など江戸時代の文献によると、河童が黄河から渡来したのは仁徳天皇の時代とのことで、書紀の紀年を信用するなら碑文と一致します。また
「それら江戸時代の文献に記された伝承によると、八代に住みついたガラッパ(河童の九州方言:管理人註)の群れは、大いに栄えその数9000匹を数えた(……)長年にわたって、田畑を荒らしたり、人をさらったりと悪事を繰り返した。そのため、彼らは加藤清正公の怒りに触れて退治され、その後は二度と悪事を行わないと誓ってそのまま八代に住むことを許されたとも、筑後川に移住して久留米の水天宮の眷属になったとも伝えられている」(43p)
まさに日本のインスマスではありませんか(笑)

河童だけではなく、天狗も日本に来寇しています。
「鎌倉時代末期の延慶元年(1308)頃に完成した絵巻『是害坊絵巻』では、中国の天狗・是害坊が、日本を征服しようとはるばる飛来してくる。興味深いのは、この絵巻において是害坊にたちむかう者として日本側の大天狗・太郎坊(日羅坊ともいう)が登場することだ。太郎坊は同じ天狗の手前、協力すると称して強い法力を持つ高僧・善神が屯する比叡山に案内し、さんざんな目にあった是害坊を言いくるめて帰国させてしまう」(30p)のです! まさに日中妖怪大戦争(^^ゞ。
つづく

 




「霧笛が俺を呼んでいる」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 821()221621

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山崎徳次郎監督「霧笛が俺を呼んでいる」(60)を観ました。赤木圭一郎主演。吉永小百合が新人で出ています(15歳)。
なるほど「第三の男」でした(^^)。赤木圭一郎って初めて見たのですが、まあ棒読みに近い(>おい)。しかしそれが、近年のマンガ的な演技過剰、演出過剰のドラマにはない清新さを感じられて、逆にとてもよかった。赤木圭一郎の神話化も宜なる哉ですね。無国籍映画の荒唐無稽さは魅力ですが、横浜ってこんな無法の街だったのかと、最近の人は思いませんかね(^^ゞ
当時のロケーションが興味深い。昔の映画を観る醍醐味の一つですね。いやー面白かった。日活青春映画、見もしないで馬鹿にしていて悪かった。純愛ものは勘弁ですが、無国籍なハードボイルドっぽいのは興味が出てきました(笑)。

原田実『もののけの正体』(新潮新書10)は約半分。これは面白いです! 日本にもインスマスが存在してたって、皆さんご存知でした? 詳細は明日にでも(笑)

 




「フランス白粉の秘密」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 820()220821

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エラリイ・クイーン『フランス白粉の秘密』宇野利泰訳(ハヤカワ文庫83、原著30)読了。

先日書き込んだとおりで、私は、初読時にフレンチ百貨店の売場がよくわからなかったことをふと思い出して、読み返してみようかなという気になったのでした。ところが、あれれれ……。再読してみて驚いた。なんと売場の具体的な描写は皆無だったのです! 一階に皮革品売場、階は不明ながら書籍売場があり、五階が催事場となっていることが分かるだけ。具体的な、客と店員が交渉する売り場(販売の形態)のシーンはないのでした(最上階の六階は全フロア社長私室)。
完全な記憶ねつ造。なぜそんな思い違いをしたんでしょうか。おそらく20世紀初頭(本書は1930年の出版)のアメリカの、(初期の業態の)百貨店てどんな感じだったんだろうという興味があったわけです。それが本書では具体的には描かれておらず、ちょっとがっかりしたのでしょうか。その気持ちが、読後時間の経過と共に歪められていき(初読は20年前)、「舞台となった百貨店(メイシーがモデル?)の売り場の構造(というか販売形式)がどうもよく把握できなくて、首をひねりながら読み終わった」という風に、いささか実際の内容とは違う記憶になってしまったのかも。
しかしバックヤードの描写は、私が思うに、いかにもこんな感じなので、本篇執筆に当たってちゃんと取材はなされており、著者は単なる想像で本篇の舞台である百貨店を「作り上げた」のではないことは間違いなさそうです。ただこれは翻訳の問題ですが、慣用的見地からは異様な感じの訳語があったりします。「百貨店専属の探偵主任」と訳されたもとの英語はわかりませんが、これは日本では一般に保安係長(主任)ではないでしょうか。訳者はSFの翻訳家でもあり、その訳文が信頼できるものであることは疑いありません。が、それだけに百貨店らしい訳語の調べが不足だったのではないかなと少し残念な気がしました(本書初版は83年なんだから尚更)。

閑話休題。昨日も書いたように、これぞ古典本格というべき悠揚迫らざる、且つ練り上げられた作品で堪能しました。私が付けている感想ノートによれば、20年前の初読時(90/4/21/土)、「典型的なパズラーで堂々たるものだが、論理の帰結としての犯人が小物なのが物足りない」というメモを残しています。この感想は今回も変わりませんでしたが、この「小物」であるところが、実はヴァンダインよりも進化しているところなのだということも、今では私も判っています(^^;

今回の再読で気づいたこと――書籍売場を舞台にしたトリックですが、この方法では明らかに一人にしか用件は伝わりませんよね。私の理解では、一人では用をなさないのではないでしょうか。これでは畢竟子供らのごっこの世界での秘密と異ならないような――という「リアリティ」は、ミステリを読む際は棚上げしなければならないのだということも、今では私も判っています。いつもいいますが、「D坂」のトリックを嬉々として受け容れられる者のみが、本格の悦楽を知ることができるのであります。

などと貶しているようですが、そのような点も含めて、本書は面白かったのです。堪能いたしました。しばらく古典ミステリを続けるかも(^^ゞ

とかいいながら、原田実『もののけの正体』に着手(>おい)。

 




×日曜→◯月曜

 投稿者:管理人  投稿日:2010 819()222222

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『フランス白粉の秘密』350頁。ちょっと休憩。本格古典はやっぱり面白いなあ。続けて読んでしまいそうです(笑)。誤植というかミス発見。335頁の「そしてその六週間目があの日曜日の夜だ」の「日曜日」は、明らかに「月曜日」が正しいですよね。と思うのですが……。ミステリの方、検証して下さいませ。
さて、のこり100頁。頭も疲れてきたし、今日中は無理かな。

 




や、困った。

 投稿者:管理人  投稿日:2010 819()004010

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思い出してきてしまった(汗)>『フランス白粉の秘密』229頁で。

 




「冬の海」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 818()21238

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「冬の海」を観ました(TVシリーズ「新・座頭市」第2シリーズ第10話、監督・脚本・編集・主演:勝新太郎、78)。
映画の座頭市とはまったくの別物でした。しかもこれはもう、(私の感覚では)フランス映画ですよ。初期のフェリーニのような瑞々しい映像で、びっくりしました。
後景に冬の日本海の荒波と砂浜、そして破れ屋。前景にはまるで心象風景のような淡い人物(その人物が粗末な着物なので、それがまた実に不思議)。加うるに、BGMがフランス映画の映画音楽そのもの――すべてがぴったり嵌っていました。まさに映像美の世界! 映像美の極致! 長唄三味線の師匠の家に生まれ自らも名取だった勝新は、しかし本質はモダンだったんだろうなと得心したのでした。

で、ふと感じたんですが、この秀作を本場フランスに持って行っても注目されなかったんじゃないだろうかと。つまり、これはあまりにも西欧的・フランス的な映像すぎるんですよね。たしかに登場人物は日本そのものですが、映像をみても、西欧人は「日本」を感じられないだろうな、と思われたのです(黒澤がヨーロッパで持て囃されたのは実力ですが、しかし少なくともその一端は、日本的な何かを、そこに感じ取ったからではないのでしょうか)。

という具合にいろいろ思い返していると、だんだん粗(?)も見えてきた。まずこの少女の病気の内容がわからない(下記の本によれば白血病みたいですが)。むしろ「不治の病」の記号でしかないような感じ。そういえば市を狙う敵も、なんで市を狙っているのか、視聴者には皆目わかりません。これまた「敵」の記号でしかないようです。つまり「ストーリー」というものが殆どないんですね。ストーリーとは因果的継起のことです。心象風景と感じたのも、そういうところから来た印象かも知れません。

その後、『天才勝新太郎』の当該部分を再読してみました。で、またまたびっくり。
「偶然生まれるものが完全なものだ」(16p)というのが信条の勝は、台本を否定します。そのかわり打ち合わせのテープが残っているのですが、そこで勝は、湯水のように湧き出てくる着想を語り続けている。ところが再読してみると、勝が語った場面でさえ、現実のドラマの中にはほとんど反映されていなかったのでした。

で、気がついた。勝が語っているのはストーリーなんです。たとえば映像では、出会った勝と原田美枝子が、次の場面では浜の破れ屋で暮らしている。なぜそうなったのか、映像には何の説明もない。ところがテープでは勝は、なぜふたりがそこに住んでいるかのいきさつの物語を二つ思いついており、どっちにしようかと悩んでいるのです。でも現実の映像にはそれは反映されなかった。たぶんどっちの物語も「トゥーマッチ」だったんです。そんなものは必要ない。映像から視聴者が勝手に読み取ればよいものだというのが、勝の結論だったに違いありません。
だとすれば、少女の病名も、敵が市を追い回す理由も、どちらもトゥーマッチだったと自ずと理解できるではありませんか。
「ストーリーはどうとでも書ける」(22p)とはそういう意味だったんじゃないでしょうか。

結局、本篇には映像しかありません(もちろん音も含んでの映像です)。それ以外に何がいるか、というのが勝の結論で、たしかに映像以外には何もいらないよなあ、というのが私の最終的な結論なのでした。

 




黒虎より虎文庫

 投稿者:管理人  投稿日:2010 818()181357

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帰宅したらなんと室温38度! 締め切っているわけではなく風も通るのに。これまでは大体35度くらいだったので、今日はよほど暑いんでしょうね。こういうときはコルトレーンを聴いて体に気合を入れるに如くはなし。ということで、インディアを聴き、今はスピリチュアルを聴いているところ(youtubeで)。なので、聞きながら同時にこの文を書けるわけです。はっきりいってスピリチュアルはテープなのでこっちの方がよほど音がいいのであった(^^;。
気合が入ったらブラックバスじゃなかったブラックタイガースを見る。しかし、今日は横浜だが、めったにタイガースを見れない昨日の長野のお客さんは、普通のユニフォーム姿のほうが見たかったんじゃないでしょうかね。よっぽど金が余ってるんやろね>球団。あんまり還元になってないような。
どうせ税金対策なら、サンリオに倣ってSF文庫を立ち上げたらいいのにね。阪神SF文庫(笑)。そっちの方がずっと文化的貢献になると思うのですが(^^ゞ

 




オリゴ党公演のお知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2010 817()225524

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毎回楽しませてもらっています関西の劇団オリゴ党の公演が月末にあります。案内状をいただきましたのでお知らせしますね。

『僕は子供じゃなかった』
 2010年8月28日(土)15:30*/19:30
    8月29日(日)13:00*/17:00
 於、アトリエS-pace →地図 *いつもの会場と違いますね。気をつけねば。

今回は、テーマが「ファンタジー」。といっても岩橋さんのことですから「妖精とか出てきて、犬や猫が喋ってりゃいい」なんてものであるはずがありません。興味津々であります(^^;
また、*の回終了後に劇団員今中黎明さんのひとり芝居「ロシア語を学ヴ」が上演されるそうで、こちらも楽しみ。
私は、今回は土曜の昼の部にお邪魔しようかと考えています。興味のある方はご連絡ください!

 




Re: 「『七人の侍』と現代」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010 817()174920

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> No.2626[元記事へ]

承前。
ちょっと深読みでは、と思った一例ですが、菊千代は系図によれば当年13歳であるわけです(笑)。なぜ13歳に設定されたのか、理由がちゃんとあるんだと著者は言います。
即ち
「占領下のマッカーサー元帥が日本人は12歳にすぎないと語り、当時の日本人にトラウマを与えた」(139p)という事実があるらしいのです(私は初めて知りました)。
「「七人の侍」の制作が決定された1952年とは、サンフランシスコ講和条約によって日本が国家としての独立を回復した年でもあった。12歳から一年を経て13歳という自嘲的な冗談は、今日では注釈を加えないと理解されないものではあるが、当時の社会では一般的であった」って、ほんとかよー。当時でも菊千代の年齢にそこまで読む人がいたとは、到底私には思えないのですが……(^^;

 




フレンチ百貨店と3本のDVD

 投稿者:管理人  投稿日:2010 817()014155

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なぜか無性にミステリの古典を読みたくなって、『フランス白粉の秘密』を選択。この話、1990年に読んでいるのですが、舞台となった百貨店(メイシーがモデル?)の売り場の構造(というか販売形式)がどうもよく把握できなくて、首をひねりながら読み終わった記憶があるのです(当時小売業に身を置いていたので余計に気になったようです)。先般『あめりか物語』を読んだとき、メイシーの売り場がちょこっと出て来、不意にそのことを思い出してしまったのでした。犯人もトリックもまったく憶えてないみたいなので(笑)、再読に着手してみることに。はたして今回は?

ご好意で、見たいと思っていたDVD3本、入手するを得ました。
1)「冬の海」は、コンポーザーにめざめた勝新が、商売を度外視して(笑)制作したTVシリーズのなかで、特に評価が高かった作品。
2)「霧笛が俺を呼んでいる」は、以前当掲示板で「第三の男」の日活版として話題になった作品。
3)「ネオン太平記」は、小松さんと米朝さんが出演されている作品だそうです。

以上のうち、とりわけ1)と2)は、私も探したけれども結局よう見つけられず、殆ど諦めていたもの。それだけに嬉しくて仕方がありません。一本ずつじっくりと鑑賞させていただきたいと思います。感想は随時当板にて。楽しみです(^^)

 




「『七人の侍』と現代」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010 816()182341

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四方田犬彦『「七人の侍」と現代――黒澤明再考(岩波新書10)読了。
後半は社会学的アプローチから焦点を絞って「七人の侍」自体の分析になっています。映画批評というのを読んだことがないので、小説の批評からの類推ですが、かなり深く突っ込んだ分析(ちょっと深読みかも(^^;)になっていて、とても面白く読み終えた。本書で著者は、主要登場人物を具体的に一人ひとり丹念に分析してみせます。そしてそこから浮かび上がるのは1954年という状況なのです。戦後わずか9年というこの時点でこの映画をみた観客には自明でも、現在の私たちには見えなくなってしまっている要素が明らかにされます(再軍備擁護(自衛隊は54年7月設立された)という「誤解」は、まず現在の我々には誤解すべくもありません)。

さて、「こちら側」の浪人と百姓の主なメンバーをじっくりと観察したあと、著者は「あちら側」の野伏たちがほとんど個人として造形されてない事実を指摘する。これは私も観ていてなんとなく感じていました。野伏の集団がどのような組織でどんな風に生活しているのか、さっぱり分からないですよね(野伏の山塞のシーンなど、まるでウィアードテールズに掲載されたヒロイックファンタジーの一シーンではないかと一瞬そんな気にさせられる荒唐無稽感があります)。ただ定期的に村を襲撃するというだけの、いわば記号的な存在としか感じられません。ここに於て著者は、黒澤の世界観にある二元論的な敵と味方の峻別が、実はリアリズムではない、現実を見ない観念的なものであったとします。そもそも戦国時代に防御機能を全然持たない農村なんてありえず、また現実に於いて野伏と浪人は画然と区別は不可能な、いわばいつでも交換可能な存在であるわけで、舞踏からリアリズムへ向かったはずのこの映画でありますが、しかしそこからぐんとロングに引けば、そこには再び観念的世界が見えてくるのでした。

ところで具体的な「敵」の不在は、そもそも日本映画の特徴だったと著者は言います。たとえば「忠臣蔵」の吉良は典型的な悪役・敵役ですが、これまでに100本を越す忠臣蔵映画が撮られたそうですが、47名の一挙手一投足は克明に描かれるのに、吉良の内面を描いた話は皆無であり、
「吉良が浅野の不祥事とその後の浪士たちの動向に対し、いかなる気持ちを抱いていたかといった問題は等閑にされ、ただ悪党とだけ単純に指名されているばかりである162p、太字化管理人)という指摘にはなるほどと頷かされました(ただしその分析は本書ではなされていません)。しかしこのような、いわば他者を「他我」として捉えることができない一方向的な認識態度は、現在でもこの国では支配的でなんですよね。たとえばSFにおいても北野勇作の方法論は意外にその典型かも知れません。北野ワールドに於ける「敵」は実に曖昧模糊としています。おそらく北野ワールドというのは、こっち側からの視点しかないが故に、あの独特の、輪郭の曖昧な不思議世界が現出されるのではないでしょうか、というのは今ふと思いついたこと>メモ(^^;

閑話休題。そういう意味で、「七人の侍」は、一見リアリズム映画の成果ながら(海外で受け入れられたのは当時ヨーロッパの映画界を席巻していたのがイタリアン・ネオリアリスモだったからとのこと)、仔細に見ればずいぶん観念的な映画なんですね。本書は「七人の侍」の優れた点と限界を共に提出しているのですが、ある意味、リアリズムと観念性の塩梅が丁度適当で、幸福な結婚だったのかもと私は思いました。黒澤が抱く「侍」という観念性が、なんとかリアリズムと折り合いをつけられた映画といえるのでは。

「侍とは何か。黒澤明の時代劇のなかでこの問いに向かい合っているのは、唯一「七人の侍」だけである。「蜘蛛巣城」から「用心棒」を経て「乱」へといたる壮大な黒澤時代劇の系列は、すでに侍の存在を自明のものとし、というより侍しか登場しない奇怪な世界での物語を語っているに過ぎない」(179p)

「黒澤明が廃棄したはずの殺陣は、その後黒澤明本人によってまったく異なった形で復活した。(……)「七人の侍」を裏切ったのは、ほかならぬ同じ黒澤明の「用心棒」である」(210p)

 




舞踏からリアリズムへ

 投稿者:管理人  投稿日:2010 815()234326

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『「七人の侍」と現代』は、ちょっとだけ進んで、100頁超。
第5章の後半で、黒澤の「殺陣」観が分析されます。黒澤が脚本を担当した「決闘鍵屋の辻」(森一生監督、52)は、荒木又右衛門の36人斬りを描いた作品なのですが、最初いきなり又右衛門(三船敏郎)と義弟の数馬(片山明彦)が大勢の敵に突進していくシーン。ここで三船は
「この40年間に日本映画が築き上げてきた殺陣の数々を次々と無駄なく披露してみせ」(92p)ます。まさに(戦前の)「舞踏」としての殺陣です。
ところがこのとき、「実際はこうじゃなかったのではないか」というナレーションが入るのです。そして本篇が、同じ場面から始まるという構成。そして本篇のこのシーンでは、「殺陣」の美しき型から逸脱も甚だしい動きが展開され、
「クライマックスも緊張も興奮もないまま、いとも簡単に終わる」のです。この映画、リアリズム時代劇との評価は得たものの、興行的には全く不成功だったそうです(^^;
「七人の侍」で菊千代が、抱えてきた刀を鞘から抜いて盛り土に突き立て、
「一本の刀じゃ5人と斬れねえ」と言い放つシーン。「おそらくこの場面こそ、黒澤明が半世紀に及ぶ殺陣の伝統を完全に否定した瞬間であった」(97p)と著者は言います。「七人の侍」は「日本映画史の文脈のなかでは時代劇というジャンルへの痛烈な批判であったといえる」(同)

 




Re: それでもって

 投稿者:管理人  投稿日:2010 815()172347

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> No.2623[元記事へ]

かんべさん
> あかん。わしが考えると、どうしてもコメディになってしまう。
コメディ・スターウォーズ! いいやないですか! てなもんやスターウォーズとかスターウォーズと丁稚どんとか(^^ゞ
私はハンソロには藤田まこと、ターキン総督は蛇口一角(の財津一郎)、ジャバザハット芦屋雁之助(「わてがジャバザハットだす」)、そしてレイア姫には、琴姫松山容子を推薦したいと思います!!
あんかけのハンソロ>ぴったりではないでしょうか(^^;

『「七人の侍」と現代』は半分弱。ここまではどちらかというと社会学的なアプローチ。もっと直截的なことを知りたいんだけど……。
とはいえ、「或る夜の出来事」(34)がロードムーヴィーというジャンルを生み、「グランドホテル」(32)がグランドホテル形式というジャンルを生んだように、「七人の侍」もまた「七人の侍」ジャンルを生み出したというくだりは刺激的でした。昨日書いたことに繋がりますが、この映画も、やはり無から有を生み出す時代的役割を担ったからだといえるのでは。上述の2作品に比べて20年も遅いじゃないかというのはこの際当てはまりません。戦後日本においてGHQ(CIE)によるチャンバラ映画解禁がなされたのは実に51年のことで、まさにチャンバラ映画ゼロからの出発点に、「七人の侍」は位置していたんですよね。

 




それでもって

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2010 815()15029

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C−3POが大村昆で、R2−D2は白木みのる、とか。
あかん。わしが考えると、どうしてもコメディになってしまう。
失礼しました。

 




Re: 「隠し砦の三悪人」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010 815()09350

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> No.2621[元記事へ]

ヨーダ、柳家小さん師匠というのはどうでしょう。
小さん師匠は、ほんまに剣の使い手でもあるし。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/

 




Re: 「隠し砦の三悪人」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010 815()045236

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> No.2620[元記事へ]

> 今になって思うのですが、ダースベーダーをカシラ(チャントリの南方英二師匠)が演ってたら素晴らしかったでしょうね。

カシラのダースベーダー。ぜひ観てみたいですね。
でも、それじゃ、ルークやオビ・ワンもそれなりの人が
やらなければ、バランスがとれませんね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




Re: 「隠し砦の三悪人」

 投稿者:堀 晃  投稿日:2010 814()203524

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> No.2617[元記事へ]

スターウォーズの殺陣論

>日本から殺陣師を呼ぶとかできなかったのでしょうか。

いや、確かに。
今になって思うのですが、ダースベーダーをカシラ(チャントリの南方英二師匠)が演ってたら素晴らしかったでしょうね。

 




「蜘蛛巣城」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 814()202510

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黒澤明監督「蜘蛛巣城」(57)を観ました。
「七人の侍」(54)と「隠し砦の三悪人」(58)の間に挟まる作品なのですが、黒澤時代劇の中では異色作といえるのではないでしょうか。「七人の侍」にしろ「隠し砦の三悪人」にしろ「用心棒」にしろ、その映像は明るくダイナミックで常に動いている、いわば劇画的な動の世界だったのですが、本篇はむしろ「静」の印象が強い。リアリティよりも、一種「能」を思わせるような様式的な世界なのでした。森に棲む霊的なものが実在しているという設定もそうで、全体に夢のなかでもがいているような非現実感に浸されています。そういえば本篇は「マクベス」を下敷きにしているとのこと。たしかに本篇、黒澤時代劇らしい明るさは影を潜め、暗い不吉な影に覆い尽されている感じなのですが、「マクベス」の時代劇化映像化を目指したものならば、ある意味当然ですね。
山田五十鈴の、まさに能面を彷彿とさせる怪演が見所のひとつなんですが、ストーリー的には五十鈴が三船を追い込んでいく動機がいまいち納得できません。森の霊に操られていたということなら判るのです。しかし山田五十鈴と森の霊は無関係なんですよね。
ともあれ、こういうアプローチの作品が他にあるのかどうか知りませんが、わたし的には黒澤の異色作というイメージで楽しめました。

ということで、四方田犬彦『「七人の侍」と現代』に着手の予定。

 




Re: 「隠し砦の三悪人」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 814()100216

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> No.2617[元記事へ]

雫石さん

スターウォーズの剣戟を殺陣の観点からみたことはありませんでした。記憶をたどる限りでは、たしかに全体に緩慢ですかね。

>日本から殺陣師を呼ぶとかできなかったのでしょうか
殺陣も型ですから、前代を継承しつつそこに積み上げていくわけです。一旦切れると伝統芸は消えてしまいます。スターウォーズが始まった1970年代後半は、邦画においても早くから青春路線に転身した日活(調布)では既に伝統は切れており、ひとり大映太秦でのみ、勝新のおかげでなんとかほそぼそと残っていただけみたいですよ。だからルーカスが勝新と組めば、殺陣は見違えるものになったかも知れませんね。ただしストーリーは勝によってぐじゃぐじゃにされて永遠に完成しなかったかもですが(汗)。「おい、なんでデススターに市がいねーんだ!」とか(^^ゞ

雪姫は姿勢はよろしいのですが、声がキンキン声なのが減点ですね。

 




Re: 「隠し砦の三悪人」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010 814()05213

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> No.2616[元記事へ]

私も、スターウォーズは大好きで、全作観てます。黒澤も好きです。
もちろん「隠し砦の三悪人も観ました」
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/4c41a0a94d15ba9643709a8386adff68
スターウォーズもいいんですが、黒澤映画に比べて、まったくダメな2点があります。
殺陣がヘタ。1作目のころはお金もなかったでしょう。しかし、後期3部作になっても殺陣がへた。CGにお金を使うのもいいですが、日本から殺陣師を呼ぶとかできなかったのでしょうか。
前期3部作のお姫様がブサイク。後期のナタリー・ポートマンはいいです。しかし、キャリー・フィッシャーはブサイクですね。
その点、「隠し砦」の上原美佐は良かったですね。キリッとしてて気品があって、きれいなおみ足で、いかにもお姫様でしたね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




Re: 「隠し砦の三悪人」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 814()01458

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> No.2615[元記事へ]

堀さん

三船が馬で追いかけるシーンは迫力がありました。ぐーんと速度感がアップする瞬間がありますよね。素人考えですが、あれは進行方向と反対方向にカメラを動かしながら撮ったんでしょうか(笑)。
当時の映画界は、シーンの「型」を模索し作っていった時代なんでしょうね(殺陣も含めて)。今は逆に「型」を壊すことばっかりやっているわけで、やはり壊すよりも何もない所から作っていく方が「正」のエネルギーなんで、見ていて圧倒されます。
ロケ地も半世紀前だからこそでしょう、あれだけの拡がりを撮れたのは。その辺を観るのも楽しみのひとつです。
「蜘蛛巣城」も借りているので、見るのが楽しみです(笑)。

 




Re: 「隠し砦の三悪人」

 投稿者:堀 晃  投稿日:2010 813()210035

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> No.2614[元記事へ]

馬上で刀を構えての大追跡劇があって、なんとそのまま敵陣に入ってしまって「一騎打ち」となる。
このエネルギーが凄いですね。
ロケ地。
隠し砦が蓬莱峡……これは現場にも行きました。
最後の方の、山麓を逃亡する場面。あれはどこですかね。わかれば行ってみたい。

 




「隠し砦の三悪人」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 813()192354

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黒澤明監督「隠し砦の三悪人」(58)を観ました。
たしかにR2D2とC3POのからみはこの作品が元になっているのがよくわかりますね。千秋実の歩く姿はR2D2に全くそっくり(笑)。千秋がスターウォーズを見た時の反応、どっかに書かれていませんかねえ(^^;

本篇は「七人の侍」と「用心棒」の中間の作品で、前者に比べるとずいぶん軽くなっていますが、その分農民(庶民)の無学さゆえの強欲さがよりストレートに(戯画的に)描かれ、それが翻って庶民をそうあらしめた環境を浮かび上がらせている。というのはしかし背景であって、前景はお姫様と軍資金を伴っての敵中突破劇であり文句なしに面白い。スクリーンの横幅を目一杯使ったアングルも(CG映画ばかり観ている目には)一種新鮮で気持よかった。

 




「量子回廊」(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 813()131359

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大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選量子回廊』(創元SF文庫10)読了。
年刊傑作選の三回目ですが、レベルは今回が一番低かったような気がします。ベスト3は
高野史緒「ひな菊」(→感想)、倉田タカシ「紙片50」、円城塔「バナナ剥きには最適の日々」。これらの三篇はさすがに素晴らしい作品でした(*)。とりわけ初読の倉田タカシには唸らされた。本篇も同人誌より収録とのことで、まさにずぶの新人。ショートショート集ではなく散文詩であり、文体のみで自立しているのがよい。作風は柊たんぽぽをかしこくした感じか(>おい)。前の作品がうしろの作品へ残響を響かせ、規定しつつ変奏していくさまは手練れというか堂々たるもの。今後の活躍が期待されます。

あとは全体に低調。これでベストなの? という感じ。従来にもまして純文関係が多いように思うのですが、もっとプロパー系にスポットを当ててほしい。というかプロパーたちの今年の成果を並べて欲しいというのが、このアンソロジーの最初からの希望なんですが。その意味で
上田早夕里「夢見る葦笛」、北野勇作「観覧車」、谷甲州「星魂転生」はよかった。一方瀬名作品ですが、最近の瀬名作品はフランス小説っぽい形式が多いんですが、内容とマッチしていないように思うのです。もっと「無粋」に「武骨」に書き込んだほうがいいんじゃないでしょうか。最近ずっと惜しいと感じている。
途中で投げ出したのが「スパークした」と「雨ふりマージ」の二編(
「ラビアコントロール」は一応最後まで読んだけどどこが面白いの? 口直しに「教育用書籍の渡りに関する報告書」を読み返してしまったじゃないか(^^;)。漫画は読んでない。

 (*)だからといって「この三編を読むだけでも本書を購入する価値がある」なんて、時々見かける、日和った台詞はいいませんよ勿論。それは編者に対して最も失礼な言いぐさ。

追記。田中哲弥を書き落としていた(汗)。というか
「夜なのに」は異形(『喜劇綺劇』)で既読だったので、後回しにしたままうっかり読み忘れていたのでした。早速読了。初読時にも書きましたが、超絶技巧作品。やはり面白かった。なのですが、読んでから8か月たってないので、幸か不幸か内容(しくみ)をまだ覚えていました(^^;。この作品、半分以上技巧的部分の効果に面白さがあるので、結果、初読ほどには衝撃は少なかったのは致し方なしか。技巧的な作品ほど再読は不適ということかも知れません。とはいえ上記ベストスリーに匹敵する面白さなのは間違いありません。

 




「「希望」という名の船にのって」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 812()221559

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森下一仁『「希望」という名の船にのって』(ゴブリン書房10)読了。

著者久しぶりの新作は、ジュブナイル長篇SF。
世代宇宙船「希望」は、人類の新故郷めざして既に15年以上、宇宙空間を飛翔していた……筈だった。しかし、主人公ヒロシ(12歳)に明かされた衝撃の事実――「希望」は宇宙を翔んでいるのではなかった? 実は太平洋のど真ん中に沈み、座礁したまま15年が経過していたのだった!

いやー、まるでオールディスが書きそうな、世代宇宙船テーマを出し抜く設定に、まず度肝を抜かれます。ここでワクワクしないSF者はいないでしょう。
でも話は、そういうNW的な方には進んでいきません。むしろ本篇は海洋SFであり、後半は海面下3千メートルで座礁したまま経年老朽化し、このままでは座して死を待つばかりとなった「希望」が、いかなる手段で船体を浮かび上がらせ、海上へ帰還を果たすのかという脱出劇となっていきます。
だからといって映画もどきの、手に汗握る強烈なサスペンスがあるわけではない。それは主人公の心の揺れを専ら写し取ろうとする著者の筆づかいにも関係があり、スペクタルなシーンは正面に出てくることはないのです。それらは主人公の意識の中でのみ描かれ、必然遠景に退いているわけです。
かくのごとくに、いかにも著者らしく物語はたんたんと進み、少年と少女の仄かな慕情、弟を庇護する兄、大人たちと子供たちの団結、合間に提示される「科学的風景」……といった、今時珍しいジュブナイルSFの王道を行く上質の長篇小説に仕上がっています。「萌え」なんていう夾雑物は一切ありません。

かつて我々の10代前半にはこういう日本SFジュブナイル作品がたくさん刊行されていて、私たちを「大人のSF」ものへと導いてくれたものでした。いまの10代前半の読者には、当時に比べてSFへと関心が励起される環境が整ってないように思うのですが、本篇には、ぜひそのような役割を担って欲しいものです(願わくば純然たるジュブナイルSFのオリジナル・シリーズがほしいところですが)。
ジュブナイルで海洋SFといえば、ただちに『ゼロの怪物ヌル(海から来たチフス)』や『両棲人間一号』が浮かんできますが、本篇もそれらの古典に伍して一歩も引かない。いわば<新古典>といっても強ち言い過ぎではないように思われます。

 




SFマガジン2010年9月号より(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 811()201912

返信・引用  編集済

 

 

クリストファー・バルザック「きみよりもリアルに」ジェニファー・レネア「トウキョウ=マガイ」を読みました。

前者は意外に面白かった。父親の仕事の関係で日本で暮らすことになった主人公(アメリカ人、16歳)は、性格的なものなのか異文化受容に失敗してアパシー状態。そんなとき家(牛久阿見)の近くで小さな祠を見つけ、赤狐に出遭う……。単純なボーイ・ミーツ・ガールかと思いきや、ラストで奥深い感興に浸れます。

後者はつまらない。霊界に河童がいたりとか、勘違い(というか検索手抜き)に萎える。アメリカで雑誌に掲載されるのは構わないですが、わざわざ日本語に翻訳する意味がない作品では。

あと、監修者の「特集解説」を読んで、この人本当に特集にタッチしたんだろうかと首を捻りました。少なくとも上記2作は明らかに読んでないね。前者に対して
「都心部と郊外の文化的落差を海外から来た少年が体験する」って……ぜんぜん違いますやん。そこではないでしょう、と(^^;

ということで、
『SFマガジン2010年9月号』(特集・東京SF化計画)の読了とします。

 




SFマガジン2010年9月号より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 810()220136

返信・引用  編集済

 

 

なんだ藪、がっかりやな。アメリカ野球を経験するとみんなビッグマウスになるんやね。

SFマガジン2010年9月号より、
樺山三英「太陽の帝国」を読みました。今号は特集が《東京・SF化計画》なのだが、それに対抗してか(それとも協賛して?)、本篇はいうならば《東京・上海化計画》というべき作品になっており、レインボーブリッジはガーデンブリッジに、浜離宮恩賜庭園はパブリックガーデンに変わり、隅田川の水は黄変し、東京タワーは東方明珠塔に、六本木ヒルズは上海環球金融中心に変貌します(^^;。
主人公は著者自身と考えてよく、主人公の内的世界が現実を侵食し、内宇宙化していくというのが、一応の形式です。また或る意味では「アントンと清姫」に照応する作品ともいえ、グーグルが中国資本に買収されたり、iPadを注文したら中国製類似品が送られてきたりと、現実と虚構がメビウス化し、事実だと思っていた記憶(歴史)が、はたして本当に疑いないそれなのかが疑われます。そういう個々のイメージ(バラードの偽作も含めて)はさすが気鋭らしく、まるでダリの絵画のようにくっきり浮かび上がってくるのですが、惜しむらくは今回はそれらのイメージを束ねて一つに結ぶ論理が薄弱というか細かった。そのため作品としての凝集性がいささかゆるかったように感じました。

 




Re: 「謎の古代文字」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 9()215243

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> No.2607[元記事へ]

承前。
別の語で検索したら、あらら、すぐ見つかりました。ニュースが流れたのは1978年9月19日だったようです。本の出版が11月30日ですから、その間2か月と10日。修正にかけられる時間は、実質1か月もなかったのでは。
もしマスコミ発表が一か月後ろにずれていたら、この本は出た時点で既に時代遅れだったかも。そして獲加多支鹵の読みが、ワカタケルから別の読みに変わる可能性はもうありえませんから、本書はその面においては永遠に古びることはないわけです。
こうなると運命ですね。
しかしながら、日付を確認したリンク先は今年3月の記事ですが、また別の読みを提案されていますね(古田支持者のようですが)。興味のある方は続きを読んでみそ(笑)。これぞ古代史妄想の悦楽。

 




村田さんへ

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 9()170124

返信・引用  編集済

 

 

そちらにコメントしようかと思ったのですが、そちらには作家のファンが相当いそうで、万が一炎上しても――と思いこちらに書きます。

この小説、一般には自虐小説と思われているかも知れませんが、自虐(被虐)だったのは最初のうちだけなんです。途中から、つまりご先祖様が出てきてからは、するりとその位置を抜けだし、ご先祖様と入れ替わっちゃうのです。そればかりかいつのまにか、ちゃっかり虐める側に回っているんですよね(余談ですが、実際にこんなやついますよね)。その時点で推進力ががくんと落ちてしまったように思います。周到な著者ですから、当然「わかって」やっているに違いなく、だとすればちょっとあざといなと思ったのです。村田さんもラストはいまいちと思われたようですが、私もそうで、今までさんざっぱらコケにしといて、何を今さら勝手やな、と(笑)。けっきょく著者は、最初から最後までの自虐小説としてはよう書ききれんかったんやろうな、と想像しているのですが。

 




「謎の古代文字」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 8()185652

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邦光史郎『謎の古代文字』(カッパノベルス78)読了。

著者の代表的傑作はなんといっても『大氷結』『地底の王国』のSF二篇だと思います。が、作風からすれば傍系。本篇は著者の作風の主系列というべき歴史ミステリの神原東洋シリーズの一冊。
江田船山古墳の鉄刀銘文の「獲□□□鹵大王」を、従来「タジヒノミズハワケ」大王と読むのが有力だったのが、埼玉稲荷山古墳の鉄剣に「獲加多支鹵大王」の文字が発見され、「ワカタケル」大王であることが確定したことを享け、船山古墳鉄刀銘文も「ワカタケル」大王であることが将棋倒しに確定したことが本文中にありますが、それは1978年のことでした。本書の出版も1978年。著者は考古学の新発見をいち早く取り込んだわけです。この素早い対応が、本書を現在まで(今後も)延命させ得ています。「タジヒノミズハワケ」のままにしておいたら、本書は生き残れなかったでしょう。本書初版は1978年11月30日。稲荷山鉄剣の銘文読解発表が何月だったのか? 私はこの時の新聞の切り抜きを持っているのです。しかしはて、いったいどこに仕舞ってあるのか……。中途半端な探索では発掘できませんでした(役に立たんがな)。でもダイジョーブ、検索があるじゃないか。ということで、答え一発。
――出ない!
まあ検索語の選択が下手なんでしょう。とにかく判らなかった。無念。

「アントンと清姫」では、帝都を取り巻く「竜の道」に対してモスクワに至る「蛇の道」が示されましたが、本篇は竜の道がいつの間にか蛇の道に変じているという変り種。といっても、そもそもこの手の作品の王道であり、それはこちとらも織り込み済み。ということで、いささかも揺るがず読了。面白かったです(^^;
神原東洋ものは今後も継続して探求、読み残しを潰していきたいです。

 




もはや過去は参照できない

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 7()213953

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今日は風邪がぶり返して、コンディション最低。何十年もこんなことは経験してきていて、対症療法は判っていたはずなんですが……。たぶんその前提の「身体の恒常性」が崩れてきつつあるのかも。10代後半までの「正の変化」のあと、長らく続いた高原状態が終わり、これから「負の変化」の時代に突入するのか。ふたたび「未踏の時代」に踏み込むのでしょうか。今後が楽しくなってきた(>なはずねえ)。

邦光史郎『謎の古代文字』(カッパノベルス78)に着手。三分の一。

 




Re: 大麒麟訃報

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 7()112850

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> No.2604[元記事へ]

堀さん

そんなに優秀な方だったのですか。それは知りませんでしたが、二所の跡目をホラ吹き金剛にかっさらわれていますから、根回しのような迂遠な政治は苦手だったのかも知れませんね。

 




Re: 大麒麟訃報

 投稿者:堀 晃  投稿日:2010 8 7()111150

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> No.2601[元記事へ]

大麒麟といえば、抜群の秀才だったのでしょう?
相撲やらなければ九州大合格間違いなしだったとか。
こういう人が理事長になればよかったのに、政治は下手だったんですよね。

 




Re: 大麒麟訃報

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 7()110426

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> No.2602[元記事へ]

雫石さん

ああ富士桜も、火の玉小僧だか突貫小僧だかいわれたけれん味のないよい力士でしたね。現中村ですが、執行部もこういう人格者を登用しなければ(旭国とか鷲羽山とか魁傑とかが権力を握らなければ)なにも変わらないと思いますね。北の湖や朝潮や金剛が仕切っているようじゃ駄目です。私は千代の富士も信用できんと思っています。千代の富士の精神構造は朝青龍と同じなんじゃないでしょうか。

理事長外部招聘問題は、自主独立でやってきた会社が立ち行かなくなって銀行から社長を迎え入れるのと同じ構図では?

 




Re: 大麒麟訃報

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010 8 7()084959

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> No.2601[元記事へ]

大麒麟というと、突っ張りですね。
大麒麟VS富士桜の突っ張り合戦なんぞは、
ボボ・ブラジルVS大木金太郎の
頭突き合戦と並ぶ見ものでしたね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/

 




大麒麟訃報

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 6()232053

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元大関大麒麟逝去の報。
私はこの人のうっちゃりが大好きでした。神風正一さんだったか玉ノ海梅吉さんだったか、前に行かず後ろに行きたがると苦言を呈していましたが(笑)。大関に上がったらさすがにそういう相撲は取りませんでしたけど、私は不満だったのでした。合掌。

邦光史郎『太平記の謎 なぜ、70年も内戦が続いたのか』(カッパブックス90)読了。

 



SFマガジン2010年9月号より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 6()204426

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まずは巻頭の高野史緒「アントンと清姫」を読みました。もちろん元ネタは「アントンと点子ちゃん」です。嘘です。道成寺の方です。ド、ド、道成寺、道成寺の鐘は♪……のあの道成寺です。違いますね。それもいうなら証城寺の庭は、ですね。どうも昨日の熱がまだ下がりきってないようです。

一説によると、古いパルプ雑誌をぱらぱらと捲っていたら、そこに載っている作家の名前を何となく入力して検索したりしてしまうのが普通なんだそうです。日本人の94%くらいはそうらしい。ホンマかよ(^^;。少なくとも私はしませんけどね。そのかわり小説を読みながら検索したりすることはあります。ただしやる場合とやらない場合がある。それは作品が要求するんですよね。本篇も(というか著者の小説はだいたい)そういう類の作品といってよく、読者は事前に、安珍清姫伝説あたりはざっと検索しておいたほうがよいと思われます。よりいっそう面白さが広がること請け合いです。道成寺伝説くらい知ってるよとおっしゃるかも知れませんが、意外にヴァリアントが多様なのです。私も初めて知りました。本篇はそういうヴァリアントも巧みに組み込まれているように思います。

本篇の基本設定は、長篇『赤い星』とたぶん同じです。いわば『赤い星』から派生した番外編といえ、江戸時代が現代までつづき、旧ソ連を継いだロシアが日本に対して強い影響力を持っているという世界のようです。今回はその世界観に切れ目が入れられ、そこに「道成寺伝説」が嵌めこまれます。

現実の安珍清姫は紀州の伝説ですが、この<小説世界>では実際に起った歴史的事実となっています。安珍ならぬアントンというソ連人スパイと江戸に住む清姫の、どろどろした愛憎は同じですが、こちらは逃げるように帰国したアントンを、燃える蛇体に変身した清姫がモスクワまで追いかけて、(道成寺の、じゃなくて)クレムリンの大鐘に隠れたアントンを鐘ごと焼き殺してしまうのです! 
「少なくとも日本とロシアではよく知られていた」(13p)実話だったという設定です(蛇体に変身するのに、ですよ!)。しかもなお、主人公オレグスの叔父さんはアントンの友人だったということですから、2010年(と断定するのはツイッターが出てくるからです)の江戸から見ればたかだか20年前(というのはソ連崩壊は<こちらの世界>と同じみたいなので)、ほとんどつい最近の、旧ソ連時代の出来事であったことが読者には容易に推測されるのであります。いかんせん長篇『赤い星』においても、時間の流れは物理法則に従ってなかったこととて、こういうことも起こりうる世界なんでしょう。

以上はメインのストーリーではなく、本篇を成り立たせる前日譚です。本篇の舞台は、21世紀の江戸、すなわち異形の東京に固定されている。まさしく本篇もまた、先般「ひな菊」で述べた「場」の小説というべきです。

まえがきが長くなりました。本篇のメインの筋は、大学の研究者として江戸に暮らしている叔父さんの下宿に、主人公であるオレグスが短期に逗留しています。ふたりはラトヴィア人。オレグスはさほどではないが叔父さんは筋金入りのロシア嫌い。日本とラトヴィアでロシアを両面から攻めようといつも言っているほど。しかし上記のようにアントンとは親友だった。アントン清姫悲話で常に悪者になるのはアントン。叔父さんはこれが気に入りません。で、つくばの高エネルギー加速器を使って叔父さん発明の「時間砲」(!)を作動させ、アントンと清姫が出遭わなかったように歴史を微修正しようと狙っていたのです。おりしも大江戸は桜満開で、しかも奇しくもアントンの命日でもあったこの日、加速器の使用が認められ、叔父さんは勇躍つくばに向かったのでしたが……

と書くと、まるでノダコウさんかヨコジュンの世界かと思われます。実際少しだけそんなケがあるのです。いつもの高野史緒よりも、ちょっと筆の伸びしろがある。そこはかとないユーモアも漂っています(だいたい安珍がアントンですから)。
たとえば、13p下段で、オレグスが遅い時間に起きてくると、下宿の大家さん一家が花見の準備に大童。
「和食の重箱弁当は余所者が手伝う余地はなく、オレグスは出かけることにした」とありますが、このあっさりした記述から、私には2メートルの大男のオレグスが弁当準備を手伝おうとして失敗を繰り返し、お母さんや娘さんから「もうオレグスさん、逆に邪魔なんだってば。どっか出かけてきて」と追い出された末の「オレグスは出かけることにした」なのだろうな、というのがありありと目に浮かんでくるのです(笑)。ヨコジュンならばこの場面で10枚ほどのドタバタにしてしまうにちがいないところを、さすがに著者の筆は抑制が効いている。にもかかわらず、その裏に上記の情景が目に浮かぶのは、筆の伸びがよいからにほかなりません。ここにも「ひな菊」で書いたのと多少関連しますが、著者の「進化」を感じたのでした。会話文も常よりも多めの気がします。

えーと、これ以上だらだら書いて興を削ぐのはやめます(依代としての主人公にも触れたかったのですが)。最後に一つだけ。叔父さんが翌日消沈して帰ってきます。時間砲計画は失敗したのだと。しかしそうなのでしょうか? オレグスは「拒否」されたと解釈していますが、もし時間砲が成功していたとしたら……。当然微修正がなされたのは1990年以前のはずです。つまり2010年時間線上で、叔父さんにその変化がわかるはずがないのです。修正は既に20年前に完了している。成功し(てい)たからこそ、<小説世界>上の「いまここ」があるのではないか。ただしその微修正は、叔父さんが想像したものではなかったのは確かなようですが(^^;。
ラストの大家さんちの情景がとてもよい。新境地を開く快作でした(^^)

 




naga道はheavy

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 5()212840

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風邪なのか、ちょっとクーラーをかけると鼻水とくしゃみが。クーラーを切ったら切ったで汗がざあざあと流れ落ちる。体にとっての適温の幅がむちゃくちゃ狭くなっているようです。という次第で読書不可。書き込みなんてとてもとても。かといって野球は凡戦で聴いちゃいられません。今日も廉価盤聴きつつ早寝。明日こそ口はばったく。

 




明日こそ口はばったく

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 4()210425

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一昨日から冷房病みたいな感じだったのですが、今日はこの炎天下に超忙しく走りまわらなければならなくなり、涼しい喫茶店で読書する時間もありませんでした。車のシートの背もたれが腐るんじゃないかというほど汗かいて、これで冷房病も退散かなと思っていたら、なんか熱が出てきた。冷房病転じて熱中症になったのか? われながらせわしないことです。てことで野球も一方的で面白くないし(なので今こうして書き込みしているわけです)、バードの廉価盤を聴きつつ早寝するのである。

あ、SFMは
「アントンと清姫」を読了しています。感想は明日こそ。

 




Re: 「天窓のある家」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 3()20599

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> No.2596[元記事へ]

村田さん

面白い小説をご紹介くださり、ありがとうございます!

> あとは『静かな黄昏の国』という、とてもとてもイヤな短編集がありまして……。
ではこの短編集さがしてみますね。「とてもとてもイヤな」というところに引っかかるんですが(^^;
しかし最近のイヤ小説の流行は私には信じられませんね。なぜあんなのを読みたがるのかね。むしろ読んでいる読者の内面の動きを観察したいです(笑)

 




Re: 「天窓のある家」

 投稿者:村田耿介  投稿日:2010 8 3()190716

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> No.2595[元記事へ]

> さて私、読中ずっと、これって眉村さんの女性版じゃないのか、と思っていましたですよ(^^)。

おおっと、何か意外なとこが直結した感じですね。昔お借りした『ぬばたまの……』は僕もすんなり読めたんですが、思い起こせば、あの頃にちょうど篠田節子よく読んでたんですよね。通じるものを実は感じていたのかも……(笑)。

あとは『静かな黄昏の国』という、とてもとてもイヤな短編集がありまして……。
著者史をたどりますと、『レクイエム』『家鳴り』の二冊が、最初に出た短編集なんですが、十年も前に読んだこともありますが、あまり印象に残っておりません。
ただ、数年後に出た『静かな黄昏の国』『天窓のある家』から、随分とこなれて良くなったような記憶があります。

あとは『秋の花火』というのがあるんですが、これ唯一読んでないんですよ〜。
せっかくなんで、これを機に読んでみます〜。

http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/

 




「天窓のある家」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 3()174417

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篠田節子『天窓のある家』(新潮文庫06、元版03)読了。

短編集で9編収録。さくさく読めて面白い。
主に「仕事を持つ女性」が主人公で、家族があったり独身であったり離婚していたりとその置かれた環境は様々ですが、そんな女性たちが、「仕事を持つ」がゆえに遭遇する軋轢やフラストレーション、不定愁訴を、さまざまな環境を設定しそこに主人公を投企することで顕在化させた好短篇集といえるでしょう。
したがって表層私には遠い世界なんですけど(しかしそれがまた興味深くもあるのですが)、現象に発現するその手前の内的なもの自体は、性別に関係ない普遍的なものなので、私のような者にも面白いわけです。

さて私、読中ずっと、これって眉村さんの女性版じゃないのか、と思っていましたですよ(^^)。
どの辺がそうかというと、概ね主人公はバックに家柄も資産もない。しかし誠実で努力の人で、ただおのれの鍛え上げた実力のみで、社会や会社内での地位を獲得した(もしくは獲得しようと努力を継続中の)女性たちなんですね。そのために行われる努力は常に並大抵でなく、ある意味産業士官候補生やクイズマンや司政官たちと、その構造においては全く同じものといえるのです。
眉村さんの、特に初期の主人公には、強い上昇志向と、その裏返しの「転落恐怖」が色濃く現れていると思っているのですが、本書の女性たちもまた、同様に「転落恐怖」に強く縛められているようです。著者が好んで「男女雇用機会均等法」の一期生を主人公にするのは、したがって故なきことではない。一期生ですから総合職であることを周囲も強く意識していますし、自らも男に負けてはいけないと無意識に肩肘はっている。一方で、一般職や専業主婦の同性に対しては、優越感やエリート意識もあるはず(逆にいえば「失敗すれば一般職」という転落恐怖も)。そういう負けられない意識にがんじがらめにされている彼女自身は、そもそも誠実で手抜きができない性格に設定されている。それゆえにあらゆる矛盾が彼女の上に顕在化する、せざるを得ないわけで、このような総合職という「場」は、著者にはまさに自己のテーマを展開しうる、うってつけのホームグラウンドなんではないでしょうか。

さて、どの短篇も面白いのですが、とりわけ
「手帳」は、眉村さん作であっても違和感はありません。まさに眉村的小説作法で書かれていてわたし的には興味深い(言うまでもありませんが、決して踏襲しているわけではない)。
全体にシリアスな作風なんですが、SFである
「世紀頭の病」は、ファルスです。誇張を更にアセンションしていく筆致はSFとしても堂にいったもの。
「誕生」は異色なホラー。ホラーの契機は内と外の峻別だが、本篇はその境界の一線がほころびます(故にSFでもある)。
珍しく老女が主人公の
「果実」は哀切で、忘れがたい印象を残す。
「野犬狩り」は半村調。ある意味変身テーマの佳作。
「密会」は究極のマザコンものともいえるかも知れませんが、本篇で著者は、著者が好んで描く「働く女性」を男(夫)の視線から視ることで外化し、全体としての「主人公像」の「影」の部分を対象化していておもしろい。
他に
「友と豆腐とベーゼンドルファー」、「パラサイト」も面白い。表題作は最近流行のイヤな展開で苦手。
いやーこの作者は面白いです。前も書きましたが第1世代の角川文庫短編集の趣き。短編集もっと読みたい。村田さんオススメは何でしょう?(^^;

SFマガジン9月号に着手。

 




眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 3()010833

返信・引用  編集済

 

 

                ∨没イチ
サンデー毎日今週号(8/8号)の「男 おひとりさまも楽しいぞ」という記事に、片山善博、帯津良一、江村利雄の各氏と並んで登場されています。
「没イチ」とはまたなんという造語かと思いますが、城山三郎や江藤淳に典型的な、配偶者を亡くすと「女没イチはハツラツするが男は孤独で早死」という定番イメージを覆す「いきいきと過ごす男おひとりさま」の例として登場されているわけです。
主題とはずれますが、元高槻市長で職を辞して奥さんを7年に亘って介護し看取られた江村利雄さんが、「嫁はん笑かしたろと意識的に冗談ふっかけたら笑うようになってきて、1年7ヵ月で痴呆の症状が止まったんです」と言っておられますが、眉村さんの一日一話と繋がりますね。そういう次第で江村さん自身もテレビを見ながらツッコミを入れたり、人と話すときも相手を笑わせ、自分も笑うことを心がけているんだそうです。
同様な活性化の手段なのでしょうか、フットワークの軽い眉村さんですが「行く場所ごとにマドンナを設定していたら、退屈しません」とのこと。ここをもっとじっくり聞いてほしかった(>おい)(笑)。
今週号ですので、売り切れている店もあるようです。お買い求めはお早めに。

篠田節子『天窓のある家』(新潮文庫06、元版03)読了。今日は遅くなったので、感想は明日にでも。

『宇宙飛行士オモン・ラー』(定稿)をチャチャヤン気分に掲載。

 




「宇宙飛行士 オモン・ラー」

 投稿者:管理人  投稿日:2010 8 1()220235

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ヴィクトル・ペレーヴィン宇宙飛行士 オモン・ラー』尾山信二訳(群像社10、原著92)読了。

何年か前、土田さんのお勧めで『虫の生活』を読んだことがあります。当時ずいぶん気に入って、他の作品も読もうと思った筈なんですが、いつしか忘れてしまってました。本書を手にして「や、あの作家か!」と気づいた次第(汗)。
『虫の生活』も戯画的ファンタジーでしたが、どことなくのほほんとした雰囲気だったのに対して、本篇はけっこう深刻です。ソ連崩壊(91)の、早くも翌年に出版された作品らしく、ソ連へのまなざしは厳しいものがあります。ソ連の軍用機は
「アメリカの連中に撮影させるために国境近くを飛ばしているのが何機かあるだけだ」(59p)などといった記述は、おそらく当時のインテリや学生たちがひそひそ言い交わしていた笑い話が元ネタなんじゃないでしょうか。
そのように非常に誇張された戯画性が強い作品で、そもそも寓意が目的であり、そのままで「現実」と対応させるわけにはいかないのは当然なんですが、それにしても(作品)内的なリアリティが無視されている部分がある。たとえば航空学校に合格したての新入生が、全員足を切断される(宇宙飛行士に抜擢された主人公二人は免れる)。強いて解釈すれば航空機乗務員に足は不要ということなのかも知れませんが、あまりに現実離れが甚だしい。
またアメリカの有人月着陸(+往還)に対抗してソ連は無人機で月探査をしたのは事実ですが、本篇では、その無人機を飛ばす技術がないため(また往還させる技術もないので)、ひそかに無人機に人間を乗せて操縦させて(乗組員は片道飛行を覚悟で乗り込むわけです)月に着陸させる計画(これはこれで皮肉な設定ではありますが)。人間を4名も乗せたら(たとえロケットを切り離すたびに減っていくにしても初速時は)アポロよりも重くなるんでは、というのは措いても、これまたとんでもない話です。なんたって自走性の月面車が、実は中で人間が自転車を漕いでるってんですからね(^^;。
私は当初、これらの非現実性から、本篇の主要な部分は、きっと主人公の妄想もしくは内的体験なのに違いないと考えていました。それは新入生たちが教官から「ソ連は今や戦後から戦前に変った」と知らされ、その晩あるいは翌朝主人公が目を覚まして目の当たりにしたのが切断ではなく負傷者で溢れていたのだと解釈するなら、そのとき戦争が始まって航空学校が空襲されたのだとすれば辻褄があいます(主人公も実は負傷して包帯でぐるぐる巻きにされていたのだとする)。
私はこの瞬間以降、舞台は主人公の「内宇宙」へと遷移したのだと考えたのでした。そう考えますと、主人公がモスクワの秘密警察本部に移送されて見せられた月面図に、赤いひっかき傷のような線(レーニン断層)があったのは、同志飛行長の額の斜めに走る赤い傷跡の反映と考えられるわけです。
という次第で、その後の悪夢のような展開はすべて主人公の内宇宙における現実なのだろうと思っていたのですが、ラストはそれを裏切るものでちょっと意表をつかれた。しかしどうなんでしょう。ラストでも主人公は内宇宙から脱出できていないのではないとしたら?
主人公が紛れ込んだスタジオでは、ミールのEVAが撮影されていました。当然宇宙飛行士たちは自分たちが演技をしていることを知っているわけです。そんなことを一方で行っているのに、なぜ主人公たちの月計画だけ本人に事実を知らせなかったのでしょうか。別に四名が死ぬ必要もないわけですよね。ここでも理に合わない非現実が残っているではありませんか(笑)。
――事実はどっちだ!? (余談ですが「ウマグマ」や「モア」を評価している著者のピンクフロイド観(感)には強く共感しました(^^;)

『機械探偵クリク・ロボット』チャチャヤン気分に掲載しました。

 

 


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