ヘリコニア談話室ログ(20109)




「特捜検察官」「非法弁護士」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月30日(木)20時48分57秒

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姉小路祐『特捜検察官 疑惑のトライアングル』(講談社ノベルス06)読了。ひきつづき、姉小路祐『非法弁護士』(光文社文庫99、元版96)読了。

前者は気の抜けたサイダーみたいでしたが(*)、後者は、仕事を放り出して読みふけっちゃいました。これは大傑作。
どこが違うのか? 前者の主人公が司法試験に合格しなくても検事(したがって弁護士)になれる「副検事」という「裏口」に色気を示すのに対し、後者は(冤罪ですけれども)実刑を受けたため弁護士の道を、法律的に完全に閉ざされてしまった男という設定。ここが決定的に違うのです。あらかじめパッション(受苦)の洗礼を受けている。ゼロどころかマイナスからの出発である。これは大衆娯楽小説の主人公には必須なのです。著者がどのようなパッションを主人公に設定するか、小説の面白さはそれで六割がた決まってしまうんじゃないでしょうか。

ところで後者、最大の見せ場である関空連絡橋から空港島でのカーチェイスのシーン、主人公が昔とった杵柄でフルスピードで走るライトバンの屋根の上でだんじりの大工方のように舞い踊り、対向車線のトラックの荷台に飛び移り、橋の下を走る関空快速はるかの屋根に飛び降りるのは、いくらなんでもやりすぎ(笑)。ハリソン・フォードもびっくりですが、これはまあ、映像的に許してもいい。
しかし、主人公は生まれも育ちも岸和田というチャキチャキのダンジリっ子なのに、話す言葉が「警察とわれわれの調査はまた別どすさかい」(235p)のように、どすを連発するのは画竜点睛を欠いており、ちょっと許せませんなあ(調べたら作者は京都府生まれ)(^^;。

(*)検察にも特捜派、公安派、国策派があって闘争しているらしいことはわかった(核は事実なんだろう)

 




Re: 帯を読めば書店が見える

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月29日(水)20時50分45秒

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> No.2684[元記事へ]

高井さん
いやホンマですよ。おかしくて涙が出そう、なのでした。

「月刊俳句界」届きました。ざっとページを繰ったら、83ページに「オノマトペ」の掲題で10句掲載されています。
「西日中しぼむ昨夜のオノマトペ」
あと齋藤愼爾選で、71文人71句として1句、
「冬空に旗の狂乱音もなし」が選ばれています(72p)。
あとでじっくり読ませていただきます。

久生十蘭『平賀源内捕物帳』(朝日文芸文庫96、初出「講談倶楽部」40、底本49)読了。
これは想像以上によかった。花やかな美文に存分に酔いしれました。時代小説のフォーマットに幻想小説を流し込んだといいますか。時代小説でこんなことができるのかという感じ。いやまあ十蘭なればこそでしょうが。あとでもうちょっと感想書きます。

ということで、『特捜検察官』に着手。
「問題の多い大阪地検の内部監察」の極秘任務を命ぜられた「副検事」の話らしい(笑)。

 




Re: 帯を読めば書店が見える

 投稿者:高井 信  投稿日:2010年 9月29日(水)16時01分53秒

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> No.2683[元記事へ]

 大笑いさせていただきました。
 特に、
> 小学生の作文かよ。

 




帯を読めば書店が見える

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月28日(火)23時43分0秒

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『ハイ・アラート』、読み終わったので仕舞おうと、購入した書店でつけてもらったカバーをはずしたのでした。愕然とした。何に。帯の惹句にです。カバーをしていたので今まで気づかなかったのでしたが、
「子細な描写」
なにそれ?

「子細」は――名詞でなければ形容動詞なのだから「子細な」は文法的にありえない。使うのなら「仔細に描写する(されている)」でしょう(笑)。
これはあかんのとちゃう? こんなん満天下にさらしてしまって、所属する書店(天下の大書店ですが)が恥かいちゃいますよ(書店員が書いた惹句なのです)。
「文」全体でみても、あまりにも拙い表現。――
「子細な描写、呟く言葉、揺れる心情に思わず入り込む。」

帯の推薦文はすべて書店員が書いているんですが、他のも負けず劣らず拙い。

「全編に追い詰められる緊張感が漂い、巧妙に仕組まれたスピード感あふれる展開と、複雑に絡み合う善と悪の交錯に、高鳴る鼓動を隠せない」
「複雑に絡み合う善と悪の交錯に」って(汗)
「高鳴る鼓動を隠せない」は、「高鳴る鼓動を押えきれない」だろう。

「現代日本のテロ、だと本書のように、思いもよらない動機や思いつきの殺戮もありえるとおそろしかったです。」
小学生の作文かよ。

なんでこんな駄文を使うのかなあ。著者だって内心がっかりしていることでしょう。それどころか「子細な描写」なんて、買おうかと手にとった客の半分はこれを読んで買うのをやめるんじゃないか。むしろ営業妨害だ。こんな帯に惑わされずに購入していただきたいと思います。
誰かが言ってましたが、「書店対策」なんでしょうか。そんな内向きの営業は(必要なのはわかるが)、読者に見えないところでやってほしいなあ。

 




「奇妙な花嫁」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月28日(火)20時58分39秒

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> No.2681[元記事へ]

E・S・ガードナー『奇妙な花嫁』平井イサク訳(ハヤカワミステリ文庫81、原著34)

(承前)
あれれ、後半に入って突如訳文が劇的に改善しているではありませんか! ふと気づいたら小説世界に深く入り込んでいて、どこから変わったのか定かではないのですが、文体が別人のように変化していたのでした(と私には思えた)。それにともなってメイスンも、従来通りの、傲慢なほどに自信たっぷりなメイスンに戻っていました(ところがメインの話が終わった後日譚の部分で、またもや文体が緩む)。こういうのは、つまるところ日本語の選び方なんだろうと思います。
一体これはどういうことなのでしょうか?
納期に迫られて、ザッと訳して、メインの部分にだけ手を入れたのか。
にしても文体の落差が大きすぎるような。で、ハッと気づく。
先に別人のようなと書きましたが、ひょっとして下訳を使ったのでは? で、メインの部分だけ下訳に手を入れたのではないか?
いやきっとそうに違いない。
と、一旦はそう得心しかけたのでしたが……。

しかし――

本篇は文庫版こそ81年の出版ですが、もともとはポケミス初期の、バックナンバー124番なんですよね。1954年の刊行。訳者は1929年生まれなので、このとき弱冠25歳。本訳書以前には、前年24歳のときに、ポケミス116番『恐怖の背景』(アンブラー)と日本出版協同版『復讐は俺の手に』(スピレーン)しかないようです。本訳がようやく三冊目なんです。つまり文字通りの駈け出しだった。そんな人が下訳を使うだろうか。
使わんでしょうね。
やはり全文平井イサクの手に為るとみなすべきです。となると、ゆるい部分は(当時の)駆け出しであった訳者の若さゆえなのか?
いずれにせよ、それを確認するためには「恐怖の背景」と「復讐は俺の手に」を読んでみる他なさそうです。今後の宿題とさせていただきます(>おい)
とまれお暇な方は、ぜひ本書をお読み下さって、文体の変化を検証していただけたら幸甚であります(^^;

本書、多少類型的ではありますが、或る心理学的キャラクターを造形しえていて、その意味では第一作『ビロードの爪』と並ぶ秀作です。ガードナーの類まれなる人間観察力の賜物といえるかも。

ところで、お約束の次回予告、本篇にも付いているのですが、なんと「義眼殺人事件」になっているではありませんか。つまり「吠える犬」→「奇妙な花嫁」→「義眼殺人事件」となるわけです。が、既述のように「義眼殺人事件」のラストで予告されたのは「奇妙な花嫁」でした。ですから、ここから本シリーズは「義眼殺人事件」→「奇妙な花嫁」→「義眼殺人事件」・・・という無限ループに落ち込んでしまうわけなのです!
そんなのに付き合っている暇はない(^^;。よってメイスンものの購読は、これにて一旦終了とし、また気が向いたら再開することにしたいと思います(笑)。

 




眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月27日(月)21時40分45秒

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先日、東京で「柴野拓美さんを偲ぶ会―柴野学校卒業生同窓会」という会があり、『塵もつもれば星となる 追憶の柴野拓美』という冊子が配布されたとのこと、高井信さんのHPショートショートの……で知りました(なんとあの久野四郎さんも寄稿なさっていてペンネームの由来を明かされているそうな。詳しくはリンク先へ)。
高井さんによれば、この冊子には眉村さんによる柴野さん追悼文も掲載されているそうです。ただ追悼文自体は、以前本板でもご紹介しました、推理作家協会会報に掲載されたものと同じとのことです。→こちら
以上、眉村さん情報として記録しておきます。高井さん、ありがとうございました。

さて、『奇妙な花嫁』は、半分弱。今回は平井イサク訳なんですが……平井イサクってこんなに下手だったっけ。ちょっと信じられない気持ちです。『火星の砂』とか、わが幼年期に必死になって読まされた記憶があるんですが。ところが意味の通らない文も二箇所ほどありましたし、下手というよりちゃんと推敲してないんじゃないのかな。大急ぎで訳させられたんでしょうか。そのせいかどうか、メイスンのイメージがずいぶんソフトになってしまって落差を感じているのですが。

 




一般論ですが……(備忘)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月26日(日)20時24分41秒

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『奇妙な花嫁』に着手。
メイスンものも、はや6冊目。ということで、ちょっと面白いことに気づいたのでメモ。
ガードナーは、絶対にメイスンの内面の思考を文章化しないんですよね。いわんや他の登場人物に於いてをや。これはまあ、ハードボイルドの筆法であるわけですが(ハメットは少し違うかも>確認作業未)、本格物のクイーンやヴァンダインもやはりそのはず(でないとラストの謎解明に支障をきたす)。その意味でこのような筆法は、当時のアメリカ娯楽小説(ミステリー系)のひとつの型(契機)であったといえるかも。
それはさておき、いま私の読書のスタンスは、上記の理由でそのような筆法を当然のように受け入れている状態にあるわけです。そういう初期条件の中に、最近の日本の娯楽小説を入れるとどうなるか。ある違和感が浮かび上がって来るのです。というか来たわけです。
それは、近年の日本の娯楽小説は、上記の内面の思考の描写(内面描写?)がごく当たり前に常用されている(されすぎている)んじゃないかということ。出てくる人物が皆(というのはオーバーですが)内面描写されているような印象があります。
本格ハードボイルドは別として、一般的なミステリー風娯楽小説に於いて、主人公(主たる視点人物)が内的思考を描写されるのに関してならば、そんなに気にならない(ハメットもこれです)。ある意味当然です。でも視点人物は少なければ少ないほどいいとは思います。数シーンにしか登場しないような(主筋に絡まない)端役にいたるまでが内面を語り始めると、これはちょっと違和感を感じてしまう。
いうまでもなく、最近読んだというのは『ハイ・アラート』なんですが、かかる傾向はもとより本書に限ったものではなく、近年の日本小説にデフォルトなもののようです(経験的にそれは分かる)。ただ、たまたまメイスンもの集中のあとで「ハイアラート」を読んだことで、それが私の中で明確に意識化させられたというにすぎません。
というわけで、「ハイ・アラート」を例に使わせていただきますが、他意はないので念のため。
さて、「ハイ・アラート」に於いて、たとえば当該事件責任者の警察官や報道番組のニュースキャスターやその上司が登場するのですが、ほんの端役なんです。キャスターはストーリーに絡みますけど、その上司や警察官は形式的に居場所があるだけという人物。それが警察官は新妻のことを内面で考えますし、上司は(スクープ)で「自分の人生はこれで一大転換するかも」と思ったりする。それらの思考は主筋と無関係な想念です。そんな連中でさえ内面を語るのですから、当然主要な登場人物はみな内面を語りつづける。(勿論作家の中では作中人物たちはみんな背後に人生をかかえて自由に動き回っているのであろうことは私にだって分かります。逆に生き生きとした登場人物を生み出せない作家がどれだけいることか。しかしそれを全部描写する必要はないんじゃないか。ちゃんと作家の中で立体感を持っている人物であるならば、そういうのは(筋が通って存在しているので)読者がきちんと想像で補ってくれるはず)。
これではミステリーにならない。というのは別の話なので省略しますが、とりあえずこのような筆法は多焦点すぎて(過剰で)作品の緊密度を緩めてしまうように(メイスン物を読んだ直後に読むと)感ぜずにはいられなかったのでした。でも思い返せば、最近の日本の娯楽小説ってみんなこのような傾向があるんですよね。
昔の小説は、例えば眉村作品は、視点人物こそ自己を語りまくりますが、他の登場人物は大体外面描写されるだけです。重要な脇役が内面を語る(視点を持つ)場合もありますが、それは例外的です。(眉村さんは長大小説も書いておられますが、それは手法に合理的な理由があり、ちゃんと説明されています。これは後記する「過剰」を存分に使いこなした例です。しかもそんな大長編でも視点は単視点固定描写です。数千枚を単視点で書き上げる筆力をこそ、むしろ賛嘆すべきでしょう)。
この掲示板をずっと読んでくださっている方はご承知のとおり、私は最近バカとアホを分類概念として使っているわけですが、「バカ」は突き詰めると「粋」になります。対概念である「アホ」は当然「無粋」で、それを突き詰めるSFは、いかに無粋を極めるかが作品の出来不出来に直結します(ベイリーが典型)。
「ハイ・アラート」の多焦点内面描写は、過剰ゆえ「アホ」に属しますが、そもそもSFではなく「ミステリー」系作品なので、その過剰さは作品の形式が求めるものに逆行するように思われます(むろん多焦点を突き詰める作品を書くのであればそれはSFとなり、また評価の軸が変わります。でも本作はそんな作品じゃない)。
結局何が言いたいかといいますと、一般的にいって、本作のようなスピード感が身上の娯楽小説は、「粋」の方に向かわなければならないのに、最近の娯楽小説にデフォルトな多焦点内面描写は、それに逆行する要素と感じられるということで、実際、最近の日本の娯楽小説は(私が読む限りでは)、かかる多焦点内面描写によって散漫化すると共に無駄に長くなっているという印象が強い。以上は本書を離れた一般的な印象です。日本の近年の娯楽小説は一般に引き締っていないように思います。著者はもっとシェイプアップにつとめるべきではないでしょうか。昔の日本の長篇小説はいまほど長いものは殆ど無かった。それは著者がシェイプアップを常に意識していたからでしょう。たとえば――

佐々木基一 だけど無駄なところ、ずいぶん削ってるでしょう。
安部公房  それはそうだ。半分くらいになっている。(『燃えつきた地図』純文学書き下ろし特別作品版挟み込み付録)

大江健三郎 第一稿で2千3百枚あったものが、最終稿では千枚に縮まりました。(『同時代ゲーム』純文学書き下ろし特別作品版挟み込み付録)

渡辺広士  だいぶ削られたのでしょう。
大江健三郎 最初の完成時に千7百枚ぐらいあったものを千2、3百枚にして、それを校正刷の段階でもっと削っていくという形にしたわけです。今度は削っていく作業が主力でした。(『洪水はわが魂に及び』純文学書き下ろし特別作品版挟み込み付録)


このように昔の作家は、作品のシェイプアップにきわめて意識的でした。私はこれが作家として正しいあり方だと思います。削った部分は読者がそれぞれ自分で補うわけです。それがまた読者の楽しみでもあるのです。本作も日本の娯楽小説ですから、同じ欠点を共有しているのは間違いない。既刊にも同じ欠点があったに違いないのですが、気付かなかった。たまたまメイスン物を続けて読み、その最中に本作を読んだため、本作を契機に、いままで気づかなかった最近のミステリー系娯楽小説一般に認められる、或る傾向が私に可視化されたように思います。

 




体質はアメリカン

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月26日(日)11時38分40秒

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民主党は、政策はどうであれその性格や体質に関しては、(良くも悪くも古い体質が残っている)自民党に比べてもアメリカの政党っぽいところがあるので、カネを出す有力支持者(企業)が強硬にクレームをつけてきたら、それに従わざるをえない、というよりも、本能的にその意向に沿うように行動してしまうんでしょうね(cf「貧困大国アメリカ2」)。
中国が単なる生産拠点ならばインドへ移せばよい。しかし販売拠点と捉えているかぎりは、これに変わる大消費地はいまのところありません。移すところがないのです。で、三波春夫に教えられるまでもなく、お客様は神様ですから、中国人様は神様なんです。売り方(販売者)であるかぎり神様には逆らえない。民主党は(その限りでは)正しい対応をしているのであって、ただ批判するのは筋違い。それを否定したいのであれば、今の日本のグローバル体制自体を否定しなければいけません。
ではどうするか。中国市場に頼らない、分相応の生産規模にダウンサイジングし、グローバル世界から撤退し国内生産を復活させて民力を上げ、内需だけで回っていく体質にシステム転換するほかない。そんなことが可能なのか。国民もまたダウンサイジングすればよいのです。食料自給率の平均に何の意味もありませんが、とりあえず単純モデルとして、それがたとえば30%ならば、日本人を30%に縮小すればよい。
つまり日本の独立性は、縮小技術の開発に掛かっているといえるのであります!(>ユーベルシュタインかよ(^^;)

福田和代『ハイ・アラート』(徳間書店10)読了。面白かった。のだが、次はそろそろテロ小説じゃないのも読ませてほしいなあ(^^)。

 




ヤ行は嫌行

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月25日(土)18時52分23秒

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若者語「こえー」はkowai→kowe-なので、表記するなら「こゑー」が正しいのです。
同様に「つえー」はtuyoi→tuye-なのだが、ヤ行に該当するカナがなく表記できないんですよね。
というか、oiは[wa]なんだから、若者たちは「つわー」(もしくは「つ(い)わー」)と発音すべきなんだ(>仏語かよ)

 




眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月24日(金)20時50分6秒

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10月7日のNHK教育テレビ「福祉ネットワーク」(20:00〜20:30、再放送あり)に、眉村さんが出演されます。
元高槻市長江村利雄さんとの対談で(司会の方も加わっているので鼎談?)、テーマは一人暮らし、没イチ。とくれば先日のサンデー毎日の記事がただちに思い出されます。
それもそのはず、あの記事がヒントになって番組の内容が決まったようですよ。じつは当初は片山善博さんが対談のお相手だったそうですが、周知のように総務大臣で入閣されましたので(^^;。
江村さんとの対談は談論風発となったみたいで、30分の番組ですからだいぶ削られているのではないかとのことですが、これは楽しみ。みなさんもお見逃しなく〜(^^)。

明日発売の月刊「俳句界」10月号が、「秋の夜長に読みたい文人俳句」という特集を組んでおり、眉村さんの作品も掲載されるようです。下に掲載した表紙に目を近づけて判読しますと、夏目漱石、永井荷風、久保田万太郎、芥川龍之介、森村誠一、眉村卓、ねじめ正一、長嶋有の名前が! 錚々たるラインナップですねえ。
ということで、早速アマゾンに予約しました。これも楽しみです(笑)。

最近、「僕と妻の1778の物語」の検索語で来られる方がとみに増えてきました。注目度もしだいに高まってきているみたいですね。ありがたいことです。
さて、その関連(便乗?)企画が幾つかあり、そのうちのひとつに、一日一話のメモリアルセレクションというのがあります。まだサイトに上がってないので出版社名は伏せますが、1778話の中から眉村さんがセレクトし、しかもそれらすべてに眉村さんがコメントを付けるという体裁で、すでにゲラが届いているとのこと(コメントだけで60枚。これが楽しみ)。表紙だか帯だかは、映画の写真が使われる予定だそうで、こちらも注目です(^^)。タイトルは付けも付けたり(もちろん編集部が)メモリアル・セレクション僕と妻の1778話』(>おい)(^^ゞ

いま、日本で国際ペンクラブの世界大会が開催されているんですってね。→国際ペン東京大会
あ、サラ・パレツキーも来ているのか。や、マーガレット・アトウッドも!
さしづめワールドコン横浜大会みたいなものでしょうか。
日本ペンクラブの副会長であらせられます眉村さんは、いまそっちの方で大変お忙しいようで、上記のゲラもなかなかままならないみたいですね。サイトを見たら一部当日参加も可みたい。アトウッドは締め切られてますが。ともあれ関心のある方は確認してみてください。

以上、眉村さん最新情報でした。

 




「僕は昔子供じゃなかった」(後-2)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月23日(木)21時53分10秒

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> No.2674[元記事へ]

承前

モノローグ
繋ぎの話1
サエコの場合1
ヒミコの場合1
ユウコの場合1
繋ぎの話2
女子トーク
繋ぎの話3
ユウコの場合2
ヒミコの場合2
繋ぎの話4
サエコの場合2
繋ぎの話5
エピローグ

本篇の構成は、3人の女、サエコ、ヒミコ、ユウコの話が、駅での事故の結果ひとつになって、銀河鉄道車両内での話にまとまります。これで一応、物語は完結しているはずです。
ところがもう一つ、別の話があって、それが「繋ぎの話」のパートです。それは一応、連結された5台の列車たちが、(きかんしゃトーマスのように)人格を持って会話し合うという趣向になっています。しかしまたそれは、5人の男たちが、一列に繋がっている図でもあります。つまり女の不要な「男の世界」の暗喩でもあるわけです。
そういうわけで、そんな状態から切り離されて自由になりたいと思っていた列車サダマツは、希望が成就した結果として、巨大な高枝切ハサミでジョッキンと切り取られちゃうのです(汗)
最終的にサダマツは、男と女の相互理解不能性に気づき、戻ってきて仲間に受け入れられる(「エピローグ」)。
このようなゆくたてから、「銀河鉄道」の女の世界に、「繋がった列車」の男の世界が対置されている図式が見えてきます。
上述のように、「銀河鉄道」の世界は、そのパートだけ取り出して上演されても十分に物語は完結しているのです。しかし、前回書いたように作者はそれでは片手落ちだと感じたのではないか。だからあえて「繋がった列車」のパートが付加されたのでは?
5台の列車は、駅での事故を目撃しますから、現実世界に属していたはずなのですが、「エピローグ」では銀河鉄道を走っている列車であるようになっている。
あるいは男の世界である当の列車に、サエコたち女3人は乗車しているのかも。
だとしたら、これまた皮肉な設定です。銀河鉄道という成長を拒否する・現実否定の「車内」(引きこもりの場)が、女を拒否して疾走する5台の列車のなかに存在しているわけですから。……

ヒミコ「私たちは。銀河鉄道に乗って、どこまでもどこまでも、旅を続けるんです」

サダマツ「俺たちは走り続ける。なにせ銀河鉄道だ。時間軸だけが無限に延長された、永遠に答えのない旅。どこまでも行かなくちゃ。どこまでもどこまでもどこまでも」


――まさにイワハシワールド、イワハシマジック!! このなんともアクロバチックでパラドクシックで、ヘンテコリンなお芝居(というか脚本)、たっぷりと堪能させてもらいました。次回も期待!

 




「夏王朝」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月23日(木)13時47分44秒

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岡村秀典『夏王朝 王権誕生の考古学(講談社03)、読了。

私が学生だった1970年代後半は、夏殷周のうち夏はいまだ存在が確定されてませんでした。いわばわが国の邪馬台国に比定される位置づけで、やはりわが国で邪馬台国探しがブームになったように、文献に現れる夏を、考古学的に確定する試みが、かの国においても盛んになったようです。
1996年には「夏商(殷)周断代工程」という暦年を確定する国家プロジェクトがたちあげられるほどに古代史探求の科学化がすすみ、既に夏の実在は確定し、その前代である(我々は伝説と教えられたところの)堯舜時代の実在の確認の段階にまで進もうというのが現状であるそうで、
「中華文明の起源は、いま公認されている夏代よりもっと古くさかのぼるだろう。中国古代の三皇五帝の歴史伝説は、考古学によって確かな歴史として確認されるであろう」(13p)とは中国の専門家の談話。少なくとも夏に関しては、邪馬台国を遙かに抜き去ってしまったのは間違いない。

本書はその夏王朝の実在を確定した中国の考古学の成果を紹介し、且つ夏王朝(少なくとも最後の都)はどこにあったか、著者の説を開陳しているのですが、その論旨は、まるで本格ミステリの解明を読んだようにすっきり視界が開けるもので、ゾクゾクさせられました。面白かった!

といっても上述のとおり、殷みたく文字で確認できるものは出土していません。しかし史記の記述にぴったり符合する状況証拠が発掘されたのです。というか著者の推理に従えば、その状況が浮かび上がってくるのです。
河南省偃師市の(二里頭文化圏の)二里頭遺跡は大規模な宮殿跡が出土し、従来殷初代湯王の都「西亳」と考えられていたところ。1983年にそのわずか6キロ東方に巨大な城郭を持つ偃師城遺跡が発見されます。この偃師城遺跡は二里頭文化ではなく二里岡文化に属するもので、最初小さな城であったのを、後に拡張されたことが判明します。そして最初の小城が出現したのと同時期に、西方の二里頭遺跡が滅んでいる。滅んだ後、小城が巨大都城に拡張されている。
これは史記にある殷湯王が夏桀王を滅ぼした記述と一致します。即ち湯王はまず桀王王都の西6キロ地点に砦を作り、楔を打ち込み、そこから一挙に桀を滅ぼした図が浮かび上がってくる。すなわち偃師城遺跡こそ湯王の西亳であり、二里頭遺跡は湯王に滅ぼされた。湯王が滅ぼしたのは誰か。桀です。桀は夏の最後の王であり、したがって夏王朝の実在が裏付けられたとなるわけです。(同時に二里頭文化が夏文化で二里岡文化が殷文化であることが確定する)

もちろん直接証拠である文字遺物はないので、状況証拠に留まりますが、殷代の前に巨大な都城を構築しうる別の国家があったという事実は覆らない。しかもこの二里頭遺跡にはのちの中国歴代王朝に共通する特徴が明瞭にあり、殷はこの都をモデルに自分たちの都を建設したことが分かる。その実領域は、たかだか半径100キロ程度だったことが分かっていますが、殷の直接のライバルだったことで、滅亡後1500年も降った司馬遷の時代においてもまだ強烈な印象が各所に刻印されていたということなんでしょうね。

いやー、悠久の中国古代にしばし浸ったのでありました。

ということで、『ハイ・アラート』に着手。

 




「僕は昔子供じゃなかった」(後-1)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月22日(水)22時39分23秒

返信・引用

 

 

> No.2671[元記事へ]

承前

モノローグ
繋ぎの話1
サエコの場合1
ヒミコの場合1
ユウコの場合1
繋ぎの話2
女子トーク
繋ぎの話3
ユウコの場合2
ヒミコの場合2
繋ぎの話4
サエコの場合2
繋ぎの話5
エピローグ


●エピローグ
台本には「エピローグ」という章立てはありません。「繋ぎの話5」のラストに、唐突にサダマツの独白(モノローグ)が入り、このモノローグ以降と、それまでの女たちの会話のシーンは、直接には繋がっておらず、私は実質、別の章であると解釈した次第。またこの部分は、ど頭の「モノローグ」に対応するもので、「モノローグ」の話者も、芝居の中ではサダマツでありましたから(ただし台本には話者の記載なし)、対位法的にもこの部分は独立していると考えたほうがよさそう(もちろん観客は台本を読んでいるわけではないので、この推測は無意味といえば無意味です)。

さて、エピローグでサダマツは、自分たち「列車」が呪われて存在しているといいます。

そのまえに台本ではサダマツとなっていますが、サダマツはヒミコの現実世界の登場人物「男1」でもあります(むろんサダマツと男1は芝居では同じ役者が演じています)。
私の解釈では、三人の女たちの現実世界に登場する男たちと、「列車である」男たちは、無関係な別存在だと思うのです。そう思っていたのです。
ところが台本をつぶさに見ますと、変なことに気づいた。
「繋ぎの話」のパート、即ち「列車である」男たちの世界においてですが、台本では「列車を演じる役者が現実世界で演じるところの人物」の名前になっているのです。ちょっと分かり難いですね。つまり――

サダマツ やっぱり僕ら、電車なんですか?
メグロ  電車じゃねえよ
ハラ   列車です


のように。そして逆に、現実世界のパートで、たとえば有馬ハルさんが演じている人物、ヒミコによって「サダマツさん」と呼びかけられることでサダマツであることが分かる当の人物が、台本では「男1」とされている。

男1   ヒミコちゃんはさ、
ヒミコ  あ、サダマツさん。
男1   要領が悪いんだよ。


本来は逆だと思うんですよね(というか「男1」は「列車1」でなければならない筈ですよね)。この逆転にはどういう意味があるのか。それともないのか。少なくとも台本を見ない観客にとっては無意味な話ではありますが、台本に於いてこんなややこしい書き分けがなされているからには、作者は何らかの意味を込めているに違いないのです。

で、考えてみました。

サダマツは、自分たち「列車」が呪われて存在しているといいます。そして呪いをかけたのは女だというのです。ここで列車であるサダマツは、どう考えても自分を「男」として認識しています。列車は単なる列車ではなく、やはり男の寓意であると考えるべきなのかも、と思い直したのでした。

「…そもそも、俺たちは、あいつらと分かりあうことなんかできない。だって俺たちは男で、あいつらは女だから。違う生き物なんだ」

これはどういうことなのか。
ここまで解題してきた物語は、女の視点から世界が解釈されたものといえます。サエコの世界でも、ヒミコの世界でも、ユウコの世界でも、男たちはなべて女を利用し貶めるもの、悪者としてしか存在していません。
でも。
悪者めいた男の方には理はないのでしょうか?
ここで作者は。平衡をとっているのではないか。

サエコが秘密クラブに連れ込まれて、その尊厳を徹底的に貶められたのは、やはり(男から見て)鼻持ちならない女だったからなのです。上記の仕打ちは、見方を変えれば男による復讐といえなくもない。
ヒミコの場合も、上司であるメグロの視点からみれば、身持ちのだらしない女でしかなく、サダマツの視点からは、鈍臭い女でしかない。メグロの罵倒は、ヒミコの内面を知らなければ、きわめてまっとうなものといえるかも知れません。
ユウコの場合は、お父さんを演ずる役者がいないのでよく分からないが、ハラの視点から見れば、世間知らずのわがままな娘なのかも。

「…そもそも、俺たちは、あいつらと分かりあうことなんかできない。だって俺たちは男で、あいつらは女だから。違う生き物なんだ」
とは、「サエコの場合」の世界、「ヒミコの場合」の世界、「ユウコの場合」の世界で示された「女の視点」から見た世界を、相対化しようとする意図なのではないでしょうか。

となりますと、やはり「列車」たちは単なる列車の擬人化ではない。男のメタファーであることになります。

今回はササッと終わらすつもりだったのですが、書きながら感想が変わってきてしまい、考えながら書いていたので、けっこう時間がかかってしまった。
ということで、今日はここまで。
次回はいよいよ、「繋ぎの話」すなわち「繋がれた列車たちの世界」について考えたいと思います。

 




 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月21日(火)23時38分4秒

返信・引用

 

 

また腰をひねってしまった。ここ数年調子がよかったのに。
椅子に座るとじんじん痛くなってくるので、腰に座布団を当てて寝転がってます。
パソコン作業は今日はお休みします。
すみませんが、悪しからず。
『夏王朝 王権誕生の考古学』は読了。

 




「義眼殺人事件」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月20日(月)22時52分50秒

返信・引用  編集済

 

 

E・S・ガードナー『義眼殺人事件』小西宏訳(創元推理文庫61、原著35)読了。

シリーズ第六作。第五作『奇妙な花嫁』をとばしたのには訳がありまして、作品のラストで次回予告をするのがこのシリーズの「お約束」なのですが、奇妙なことに、本篇のラストで、前作である(筈の)「奇妙な花嫁」が予告されているのです。実は第四作『吠える犬』のラストでも、「奇妙な花嫁」を予告する、全く同じ文章が記されており、というか、それが当然なわけですが(ただし創元文庫では『義眼殺人事件』『吠える犬』より先に翻訳された関係で、『吠える犬』ではラストのお約束が削除されている)、どういう理由でそうなったかは解説にも記載がなく、よく分かりません。でも通シリーズ時系列に従えば、第五作の前に第六作を読むのが順当なのだろうと判断した次第。ストーリーが繋がっているわけではないので、まあどうでもいいっちゃどうでもいいんですがね、読者のつまらんトリビア趣味であります(^^;

さて本篇も面白くあっという間に読了。でもここまで読むと、だんだんメイスンの手法が分かってきちゃった。ある意味おんなじような「だましのテクニック」を使っている(メイスンも、
「最近の心理学説に関する本を読ん」(59p)」だりして、日々研鑽にこれ怠りないようですが)(^^;。本作までの六作を、二年そこそこの間に書き上げているんですから、まあそうなりますわな(笑)。でも(今のところ)まだ面白いです。とはいえメイスンの信念はブレていません。

「ある人間が有罪か無罪かということは、ぼくの関知しないところです。依頼を引き受けたら、ぼくは金を受け取って、事件を扱う。有罪にしろ、無罪にしろ、その人間は法廷で黒白をつける資格がある。しかし万一依頼人がほんとうに殺人事件について有罪であり、道徳的にも法律的にも弁護の余地がないことがわかれば、ぼくは依頼人を服役させて、法廷の情状酌量を願うだけです」(192p)

おいおい、それじゃ『吠える犬』の結末と違うじゃないか。と私は一瞬思いましたが――

バーガー(検事)は熱心にうなずいた。「きみはそういう人だろうと思っていたよ、メイスン」
「殺人事件で、道徳的にも法律的にも弁護の余地のない場合には、といったことを忘れんでくださいよ」メイスンは念を押した。「もし道徳的に弁護の余地があれば、ぼくは可能なかぎり、法の刑罰を受けないように努力する」
「ふむ、その点は賛成しかねるな。法律に道徳的考慮が加わる余地はないと思うが(……)」(同上)


という次第で、メイスンには1ミリのブレもありません。ただ前作では弁護を依頼された容疑者を無罪にすれば、依頼人(既に死んでいる)の遺産の一部が転がり込んでくるというとんでもなくおいしい契約でしたから、メイスンもただ道徳的見地だけではなかったような(^^; いずれにしろ踏んだくれるのならとことん踏んだくるけれども、場合によれば全く無報酬でも別け隔てなく頑張るという、メイスンの行動原理は、とても魅力があります。しかし今の時代、こういう押し付けがましい男は共感をもたれないかも知れませんね。私はメイスンと同時代の日本人で、大陸浪人となったような、いわゆる「国士」タイプに、同じような匂いを感じるのですが。日米を問わない、ある一つの時代相を象徴するキャラクターではないでしょうか。

ということで、『夏王朝 王権誕生の考古学』に着手。半分。

 




「僕は昔子供じゃなかった」(中)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月20日(月)21時06分37秒

返信・引用  編集済

 

 

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承前

モノローグ
繋ぎの話1
サエコの場合1
ヒミコの場合1
ユウコの場合1
繋ぎの話2
女子トーク
繋ぎの話3
ユウコの場合2
ヒミコの場合2
繋ぎの話4
サエコの場合2
繋ぎの話5

●ユウコの場合2
カバンの持ち主で、無賃乗車を見逃してくれた男(ハラ)に、ユウコは問わず語りに身の上話を始めます。これはハラに気を許したからでしょう。あるいは少し(無意識に)好意を寄せたのかも。その身の上話は父親による虐待で、それから逃れるため、そして当然自立するため(大人になるため)に、ユウコは「家出」したことが明らかになる。
「子供扱いはいやかい?」/「うん」
ところが、ユウコが好意を寄せ、心の防御を解いてしまった当のハラが、実は家出少女をその手の組織に売ることで自らも生きながらえていることが判明します。ユウコはハラに「裏切られ」、借金のカタに引き渡される。密かに好意を寄せた(気づいてないかも知れない)その男に人間性を否定されたユウコは隙を見て逃げ出します。
「…どこかへ、行きたいって、思ったんだ。あそこじゃない、どこか。あそこじゃなければ、もう、どこでもいい。僕が僕だったり、そんな世界じゃなけりゃ、どうでもいい。そう、思ったんだ」
最初は単なる家出だった。しかしこの段階に至って、ユウコはもっと根源的な逃亡(逃避)、むしろ現実拒否・現実否定へと向かわざるをえない。それは子供から大人になることではなかった。逆に大人にならないことだった。大人にならない、成長しない国への逃避、すなわちファンタジーの世界へ……。

●ヒミコの場合2
とろいヒミコだが、密かに思いを寄せていた上司(メグロ)のためには頑張ろうと思っています。告白するなんて思いもよりませんが、上司に役だっていさえすれば、それでヒミコはメグロと繋がってい、満足なのです。ところが、その上司に誤解され酷い言葉を投げられる。それはヒミコの人間性を否定するものだった。脳力活性剤「アルジャーノン内服薬」の助けを借りてヒミコは呟く。
「現実はいつも私を裏切る」と。ちなみに「アルジャーノン内服薬」はとろいヒミコの内面を論理的に語らせる(素では不可能なので)ための一種の装置です。
この事態は、もともと現実感の薄いヒミコを、簡単にファンタジーの世界へと連れ去ります。

●サエコの場合2
サエコは少しずつ、何があったのか思い出していきます。
それは、密かに思いを寄せていた(社内で唯一尊敬できる)男(ハヤシ)が本社に栄転することになり、じゃあ最後だからと、サエコを飲みに誘ったのが発端だった。なぜそういう仕儀に至ったかというと、送別会のような俗な慣習を軽蔑するサエコはハヤシの送別会に欠席したからなのです。もちろん作者は、欠席させることでハヤシに誘わせる口実を設けたわけです。
さて、ハヤシに連れていかれたのはいかがわしい秘密クラブだった。そこでサエコはおぞましい体験をさせられます。実はハヤシは同性愛者だった。だから、そもそもサエコになんの気もないのです。むしろ(他の社員同様)反吐がでるほど嫌っていた。最後に(同僚を代表して?)「お仕置き」をしたのかも知れません。
密かに思っていた上司に人間性を否定される仕打ちを受けたサエコは、翌朝、気づくとどこかの駅に立っている。途中の記憶は曖昧だったが次第に思い出してくる。おぞましさにサエコはプラットフォームに嘔吐します。……

●繋ぎの話5
このシーンは、実は既に「繋ぎの話」に登場している列車たちの目撃したプラットフォームでの出来事です。
サエコがゲロを吐き、そのまま立ち去る。
女が本を読みながら歩いてきてゲロに気づいて立ち止まる(おそらくヒミコ)。
その隣には、杖を付いた(足の不自由な)子供。
女の子(おそらくユウコ)が走ってきて(多分つかまった男たちから逃げていて)、ぼーっとつっ立っていたヒミコにぶつかる。ヒミコの体が子供に触れる。足の悪い子供はゲロを踏み、すべってプラットホームから落ちる。そこに通過列車が……

サエコの記憶は明瞭に甦った。なぜこの「列車」に乗っているのかを。
そして車掌が、サエコの切符は有効になったと告げます。
書き忘れていましたが、実は車掌は車椅子に乗っているんです(足が不自由)。
つまり車掌は、吐瀉物を踏んでプラットフォームから落ちた子供だった。
結局、「銀河鉄道」(であるのは主にヒミコによる構成物ですが)への乗車は、三人の女に必然の結果だった。本来は三人バラバラの「現実否定欲求」が、この事件によって一本に纏まってしまい、巨大な逃避エネルギーとなって(ありえない)銀河鉄道空間へと、三人(と車掌)を吹っ飛ばしてしまった……。私はそう解釈します。

ユウコ  私たちが願ったんですよ。
サエコ  ええ。
ユウコ  あの子は、その望みをかなえてくれただけ。
サエコ  そうね。そうだった。
ユウコ  私たちは、共犯者なんです

ヒミコ  私たちは。銀河鉄道に乗って、どこまでもどこまでも、旅を続けるんです。


とりあえずここまで。次回で必ず終わらせますm(__)m

 




「僕は昔子供じゃなかった」(上)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月19日(日)22時21分36秒

返信・引用

 

 

先日のオリゴ党の芝居『僕は昔子供じゃなかった』8/28,29、於アトリエS-pace)は、観ている間は熱中して、必死になって観させられ、また十分に満足させられるものだったのだけれども、振り返って腑分けしようと思い始めると、とたんに?マークが三つも四つも頭の上に浮かんでくるていたらく、舞台芸術(一回性の視聴芸術)に慣れていないせいか、一見ぐらいでは何がなにやら極めて難解で、帰る道すがら、あれは一体なんだったのだろう、と途方に暮れてしまったのでした。
で、座付作者(兼演出)の岩橋貞則氏に台本を送ってもらった。何日も前に届いていたのだが、ようやく読ませて頂きました。や、少し分かったような(ほんとか?)。
むろん文字で読んで初めて分かるようでは芝居を見る資格はないんだけれども、それは措いといて、この芝居が、実のところ極めて構造的に構築されていることに、遅まきながら気づかされた。
と同時に、改めてすげー傑作、岩橋脚本の中でも一二を争うに違いない大傑作であると認識を新たにしたのでした。
構造的であるとは、ある意味非常に平明だということであって、なぜこれが観劇オンリーでは見えなかったのか、自らの度し難い文字情報偏向、読み専に凝り固まってしまった脳を恥じ入るばかり(>まあ50年続けてるからな、固まりもしようぞ(^^;)。

では感想。

舞台は次のように転換します(目次?)。

モノローグ
繋ぎの話1
サエコの場合1
ヒミコの場合1
ユウコの場合1
繋ぎの話2
女子トーク
繋ぎの話3
ユウコの場合2
ヒミコの場合2
繋ぎの話4
サエコの場合2
繋ぎの話5

実際に芝居をみると、役者の存在感(と内容の猟奇性)で、サエコの物語のように私は受け取ってしまったのですが、そうではなかったのです。
目次を見れば明らかなように、登場する三人の女性は、三人とも物語の中で等分の重さで存在しているのです。

●サエコの場合1
サエコは優秀な派遣社員で、優秀な分、正社員たちの仕事ぶりが歯がゆくてならない。頼られるのに飽き飽きしいらついています。プライドが高く人に頼ることができない性格。それは社員たちからみればクソ生意気な派遣と映っている。
●ヒミコの場合1
ヒミコはOLのようですが、サエコとは正反対で、要領が悪く仕事も遅い。他の社員から軽んじられており、あまり社内に居場所がない。現実の自分は仮の姿で、本当の自分はファンタジーの中にいる。要領が悪いのも、常に半分白昼夢に浸っているからかも。役者は昔なら文学少女、今なら同人誌の世界にいかにもいそうなキャラを実にリアルに演じていました。
●ユウコの場合1
ユウコは外見子供ですが、実は成人している。隠れていたカバンの中から登場するシーンは見ものなのですが、なぜか私はその時別のどこかを見ていたらしくて、その瞬間を見逃してしまった。残念。それはさておき、ユウコは、家庭の事情等で現実に嫌気がさし、どこか遠くへ行きたいと無銭乗車する。大きなカバンに、たまたま持ち主が目を離した隙に(中身を捨てて)もぐりこみ、まんまと乗車してしまいます。

さて「サエコの場合1」は途中でとつぜん場面が変わり、後述する「銀河鉄道」世界の車掌から、サエコは検札される場面となる。しかし車掌に「あなたはまだ切符を使えない」といわれる。それはサエコがこの段階では「押しつぶされていない」からです。自信たっぷりなサエコだからです。「押しつぶされる前の」サエコであるからです。この段階のサエコには「銀河鉄道」に乗る資格がないのです。本場面はそのことを観客に印象づけるために、唐突にも関わらずあえて挿入されたように思われます。

「ヒミコの場合1」の世界は、現実世界に銀河鉄道世界が二重写しになっています。銀河鉄道世界で汽笛が鳴りますが、しかしヒミコには「汽笛」の音は聞こえない。なぜならこの段階では、サエコ同様、ヒミコにとっても銀河鉄道はまだ必要ないから。
「ユウコの場合1」のユウコが潜り込んだ列車は、「銀河鉄道」ではなく、現実の列車です。この段階では、ユウコの気持ちは安易で、いつでも戻れる。逃げ道があると思っている。

●女子トーク
三人の女が「銀河鉄道」列車内で顔を合わせる場面。つまり三人は列車に乗り込んでしまっているのです。ヒミコとユウコは、なんとなく自分がこの列車に乗り込んでいる理由(後で出てくる)に気づいているようですが、サエコには皆目見当がつかない。彼女は「忘れて」しまっている。あまりのことに無意識が記憶を抑圧してしまったのです。しかし一瞬その記憶が甦りかける。この場面は「サエコの場合2」への伏線であるとともに、本場面が、「サエコの場合2」の場面より後の話であることを示します。
ヒミコが「あなたも共犯者なんですよ」といいますから、彼女はサエコほど無意識に抑圧されてはいないようです。と同時に、この銀河鉄道が、三人の女が関係した或る出来事のために現出したものであることが暗示されているわけです(それは最終シーンで明らかになる)。

疲れたので今日はここまで(笑)。次回完結。

 




大丈夫か旭屋

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月19日(日)20時34分31秒

返信・引用

 

 

近所の、といっても車で20〜30分なので日常的には利用しないイオンに入っている旭屋が、市内の店舗にそこそこ負けない売場面積と品揃えであることに気づいて、最近はネット書店より利用することが多いのですが、ところが『ハイ・アラート』がいつまでたっても入荷しない。(ということが分かるのは、これも最近、インターネットで在庫検索が出来るということを知ったからなのですが)。
で、業を煮やして、今日は(少しは歩かねばという体調面での強迫感もあって)梅田の旭屋に出向いてみました。
ところが、入り口の新刊コーナーに積まれてない!
まさか売り切れ?
とあわてて3階のミステリ売場へ。
ありました。
ほっとして購入。余談ですが新刊を心待ちにするのは山田正紀以来のような気がします(あ、京極も最初の数冊はそうだったっけ)(^^;
しかし新刊コーナーに並べないとはけしからん。そういえばそこそこの規模である当地の旭屋店舗に配本しないのも不審。だってごく少部数だと思われる『黄衣の王』ですら、発売日に並んでいたのですから。
旭屋書店の仕入れ担当は福田和代が嫌いなのかな。まさかそんなことはないでしょうけれど(汗)。

でも近所の、といっても車で30〜40分なので日常的には利用しない高島屋に入っている紀伊国屋が、市内の店舗に劣るとも勝らない売場と品揃えなのですが、そこには(インターネットの店舗在庫検索で調べると)入荷しているのですよね。じゃあそこへ買いに行けばよいじゃないかということですが、ところがここは駐車場が2000円未満有料。2000円出せば梅田まで往復してお釣りが来る。となれば誰だって梅田へ出るんじゃないでしょうか。
などとつらつら考えますと、旭屋の配本はやはり変。ひょっとして仕入れに失敗して十分な部数を確保できなかったのかも知れませんね。

それはさておき、『季刊邪馬台国』が出てたので、これも購入。原田実さんが載っていたので。邪馬台国=纏向説の安易な拡散に警鐘を鳴らす文章のようです。

日曜日なのに旭屋もウメチカも人が少なかった。旭屋の入り口で社員が挨拶していたのは驚いた。初めて見ました。よほど人が余っていたのか。そういえば品揃えがちょっと悪くなったような気がします。人の流れが大阪駅の北側へ移ってしんどいのかな。

電車の行き帰りで『義眼殺人事件』を200頁読み進める。残り100頁。

 




「吠える犬」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月16日(木)22時59分56秒

返信・引用  編集済

 

 

E・S・ガードナー『吠える犬』小西宏訳(創元推理文庫62、原著34)、読了。

シリーズ第四作。いやこれは傑作。テーマ的には本シリーズの集大成的な作品ではないでしょうか(もちろんこれから後に75冊以上続くわけですが(^^;)。
端的には――
1)(デラ)「正しいことじゃありませんわ」/(メイスン)「結果が正しければ正しいさ」(249p)
2)「(……)ぼくは事実を明らかにしてみせるよ」/「すべての事実をかね? それとも依頼人向きの事実だけをかね?」/ ペリー・メイスンはにやっと笑った。/「ぼくは地方検事の代理人じゃないよ。きみのいう意味がそうだとすればね。そいつは検事の仕事だ」(258p)

――ということなんです。
1)は結果のためには手段を選ばない。2)は客観的な真実を追求するのではない。という意味で、はからずもメイスンの行動原理が集約されているように思います。

本篇ではかかる行動原理が極限まで追求されており、メイスンは何度も「きみは薄氷の上をスケートしている」と忠告されます。最初こそ
「弁護士たるもの(……)依頼人のためとあらば薄氷の上でもスケートするくらいの勇気がなくちゃ、価値ないね」(146p)と意気軒昂たるメイスンですが、258頁に至っては同じ忠告に「薄氷の上をすべっていることは自分でも心得ているよ」(258p)とむっつりと返すほかないほど、一か八かの大勝負に出て、言い換えれば法から逸脱してしまってにっちもさっちも行かなくなっています。ですがそれも、最終的に「結果よければ全てよし」であるとするのがメイスン流なんですね。

そういう意味で本書の魅力は、メイスンの荒っぽい行動力にあるわけですが、それだけならば、俗流ハードボイルドと異ならない。そのような荒っぽく(法すれすれ、いや違法な手段によって)集められた手がかりが、最後の法廷場面で、きれいに一本に撚り合わさって(たように陪審にはみえて)被告を救うカタルシスが生みだされるところにあるといえる。

ただその解明の論理は、本格パズラーのように「詰めて」いって降参させる体のものではなく、ここでもまた、はったりや一種ごまかしを用いた「心理戦」なのです(265頁から272頁にかけてのメイスンと見習い弁護士のエバリーの会話は、メイスン一流の陪審員論であり、もっと一般的な群集心理学講義となっています(^^;)。
本篇も、ある「証人」がメイスンの苛烈な追求によって「失神」しなければ、どうなっていたことやら(^^;。そういう「都合の良さ」(メイスン側に立てば失神させるために攻めたてたといえるわけだが)はあるにせよ、十分にあっと驚かされる論証で被告の無罪を勝ち取ります。

ところがその論証は、心理学に依拠したものであった。結審後ドレイクが、辻褄が合わないのではと首をひねったように、無罪を勝ち得た論証は、実は「真実」を解明したものではなかった。まさに「結果が正しければ正しい」という上の言葉通りの結末。そして「正しい結果」とはいうまでもなく「被告人の無罪」ということ。ここがメイスンものの、それまでにないミステリーとしてユニークなところではないでしょうか。
そういうのも含めてなお、本書はミステリの謎解きの定型を踏んでもいるのであって、最終的には36頁の「遺言書」に収斂する(なぜ吠えた犬が吠えないのか)。そのゆくたては、本格物の見地から見てもあざやかというほかないと私は思います。
ただし「なぜ合い鍵を持っていたのか」は謎のままなので(というかありえない)、やっぱり本格派の人には好まれないのかも(^^ゞ

 




新トロイカ体制

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月15日(水)21時46分11秒

返信・引用

 

 

優勝できなかったら当然真弓は来季の指揮を辞退するでしょう。しなければ嘘です(CSで勝ち上がって日本シリーズに出たらわかりませんが)。そうなったら来季は、いよいよ金本監督、矢野ヘッドコーチ、下柳投手コーチの新トロイカ体制の開始ですね(^^;

『吠える犬』に着手。半分。

 




「ルポ 貧困大国アメリカ 2」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月14日(火)20時44分52秒

返信・引用  編集済

 

 

堤未果『ルポ貧困大国アメリカ2』(岩波新書10)、読了。

二重国家アメリカルポ第2弾。
今回も深刻でまともに見れない。目を背けながら読んでしまいました。なので2時間弱で一気読了(>おい)。
奨学金制度がいつの間にか狼金融機関の「学資ローン」に入れ替わってしまう図はおぞましい限り。大学を卒業してみたら、一生かかっても返済できない元利に膨れ上がっているのですから。
しかも巧妙にも、他の低金利ローンに借換できず消費者保護法からも外されている。なので自己破産もできず、債務は一代限りではないというのは、これはそもそも官民学一体となって学資ローンで破綻させるのが目的としか思えません。
大学を出た学生は、死ぬまで返済し続けなければならない。サリーメイの奴隷となってしまうのです。返済できないローンは取り立て会社に売り払われるのですが、実はこの取り立て会社自体、サリーメイの子会社だというのですから、これはもはや学生を骨までしゃぶりつくさずにはおかないハイエナ企業というほかありません。
かかるサリーメイとはいったい何者であるのか。ビートルズでもロッド・スチュアートでもありませんよ(それはマギーメイ(^^;)。学資ローン専門の金融機関なのです。それも学生を食い物に全米トップ企業2位にまで上り詰めたアメリカ教育ローンの最大手であります。
なぜここまで野放しになっていたのか不思議ですが、野放しどころかどんどん自分に都合のいいように法改正させているのは、アメリカ政界の金蔓体質にある。同時に大学が1990年以降毎年5〜10%というスピードで学費を値上げしたこと(インフレ率は毎年2%)で借入金額が膨らんだことも原因の一つです。

日本は大体10年遅れでアメリカの後追いをしているわけですが、つい最近、わが国でも学資ローンの問題がニュースになってましたね。とはいえ日本の場合、アメリカほどひどくないのは(といって安心してはいけないのですが。ドラスティックではないだけで同じ道を歩んでいるのは間違いないので)、シカゴ学派的なリバタリアニズムが風土と合わなかったことも要因ではないかと思うのですが、それはともかく、返済が滞るのは借りた金額が高額すぎるからなのは明白です。これはある意味卒業させた大学が、卒業生にしかるべき年収をもたらす就職をさせられなかったからという見方もできるわけです(大学入学が就職の手段であるのは公然の事実)。とすれば大学4年間に学生から徴収した授業料の半分くらいは、学生に(授業料に見合うだけの結果を大学は学生に与えられなかったのだから)返済してしかるべきで、学費を貸与した側はむしろ大学から一部回収する努力もすべきではないかと私は愚考するものです。

GMの破産で企業年金を受け取れなくなり、ウォルマートの電器売場で働き始めたバリーは、売場にある無数のテレビが、破産の直前に更迭されたGMのCEOリック・ワゴナーの顔を映しだし、彼が1000万ドル(10億円)の退職金を受け取るというニュースを目にして、思わず(客が不審げな顔をするなか)売場のテレビのスイッチを片っ端から切りはじめます。この、まるで映画の一場面のようなシーンには胸を突かれました。

 




「幸運な足の娘」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月13日(月)20時50分24秒

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E・S・ガードナー『幸運な足の娘』林房雄訳(創元推理文庫59、原著34)、読了。

ぺりー・メイスン・シリーズ第三作。第一作で著者は、依頼人の無罪を勝ち取るために、もしくは能う限り軽減するために、陪審の心情に訴えることを真実の追究よりも優先する弁護士を創造したわけですが、第三作の本篇で早くも、かかる第一原則の裏をかく、というかマンネリを防ぐ案件を提出します。
弁護依頼人と弁護すべき被疑者が異なる場合であります。第一作では弁護依頼人は容疑者とイコールでした。しかし今回は、有力な容疑者の潔白を証明してほしいと第三者がメイスンを雇うのです。ところが途中で状況が変わり、依頼人の要求は変化します。容疑者の潔白の証明は、ある意味二義的となります。
この場合、メイスンはどういう行動をとったのか。依頼人の意向(変化)を尊重したのか、依頼人の意向に反して(というか最初の契約内容に従って)冤罪を防いだのか。
端的に言って後者だったわけですが、それではメイスンは報酬を放棄したのか。
ご安心下さい。メイスンはまず、16頁で着手金(弁護予約料)として1000ドル、221頁で追加として4000ドル、ともに現金で受け取り、領収証を発行しているのでした(^^;。調査費としてかなり使っていますが(飛行機チャーター代とか。メイスンは大概費用を記述しているのですが、チャーター代は不明)、おそらくマイナスにはならなかったでしょう。
でも、たとえマイナスになったとしてもメイスンはやり遂げたに違いない。
なぜなら35頁に、並行して着手している別件への言及があり、著者は、
「弁護料は、お貰えになるの?」とデラに質問させ、メイスンは首をふって「これは慈善でやっている事件だ。なんとしてもあの女を非難することはできないじゃないか(……)彼女は、金もなければ、友達もなかった」(35p)
と言わせているからで、この会話はまさしく本篇の結末への伏線でありましょう。

ラストの30頁は解決編で、メイスンはそれまでに小説内で開示された数々の事実(証拠)をもとに、犯人と犯行の手口をあざやかに指し示して、本格物の形式を踏襲してみせます(ただし犯行に至る動機に必然性が薄弱かも)。これは思うに当時隆盛だった本格物への皮肉、俺だってそんなパズラーくらい書けるぞという自負のあらわれだったのではないでしょうか。穿ち過ぎですか(^^;

 




浪曼派メイスン

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月12日(日)19時55分38秒

返信・引用  編集済

 

 

「吸うかね?」メイスンはテーブルごしにタバコの箱を押しやりながらたずねた。(128p)

『幸運な足の娘』は250頁。残り100頁。今日中に読み終わるかな。
ところで本書は、日本浪曼派の泰斗・林房雄が翻訳しているんですよね。なんかイメージとそぐわないのですが(^^;。それはさておき、本書のメイスンはこれまでになく尊大です。そんな感じがするのです。これは「あの」林房雄の翻訳だから威張っているのか(林房雄の口調なのか)。それとも1903年(明治36年)生まれの世代はこんな感じでしゃべるのか。ちょっと興味があります。

 




2010年・現未来

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月11日(土)21時56分34秒

返信・引用

 

 

「これを喫ったことがありますか?」ブラッドベリーはメイスンにたずねた。「なかなかうまい25セント葉巻ですよ」/メイスンはうなずいて、葉巻を一本とった。/「二本おとり下さい」とブラッドベリーがいった。/メイスンは二本とった。/ブラッドベリーはその箱をポール・ドレイクのほうにおしやって、/「あなたも二本、どうぞ」(27p)

これは1934年に出版された小説の一場面。でもこんな光景が、もうすぐわが国でも見られるようになるんでしょうな(笑)。→たばこ値上げ

ということで、『幸運な足の娘』に着手。100頁超。

 




「さらば、黄河」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月11日(土)01時59分49秒

返信・引用  編集済

 

 

伴野朗『さらば、黄河』(講談社文庫89、元版85)読了。

物語は、かの「黄河決壊事件」に始まります。1937年の開戦直後より日本軍は急速に北支に展開、翌38年には、開封を陥れて鄭州に迫る勢い。鄭州から洛陽はまさに指呼の間です。蒋介石は黄河を決壊させて日本軍の進攻を妨げようとします。本書によればむしろ共産党軍対策の意味が強かったみたいですね。案の定日本軍への影響はほとんどないばかりか、逆に中国国土自体に甚大な被害を与えます。
「雨期で増水していた黄河の濁流は、猛烈な勢いで河南、安徽、江蘇三省を浸した。水没面積五万四千平方キロ。九州よりも広い地域に及んだ。被災者千二百五十万、死者八十九万に達した。さらに濁流は、南の淮河を溢れさせ、長江にも流れ込んで、洪水の連鎖反応を引き起こした。/――水を以って、兵に代える。/蒋介石軍のこの作戦は、未曾有の人災となったのである」(30p)

この暴挙に怒ったのが、夏の開祖である禹を祖に戴く謎の部族というか秘密結社・黄龍族。史記によれば、禹は黄河の治水に成功して舜のあとを襲ったわけで、その後裔を唱える黄龍族も当然水利に通じた部族(結社)、代々黄河の治水に関わってきた者たちでありますから、怒るのも当然。そんな彼らですから、国民党軍による黄河護岸爆破を直前に察知しその妨害を試み失敗して捕らえられた日本軍斥候隊を救出します。救われたひとりが本篇の主人公の父親なのでした。

時代は下って1980年代に入ったある日、当時のことは何も言わず静かに暮らしていたこの父親が、突如日記に「黄河は神河なり」の謎の文言を残して、中国に旅立ち、かつての黄河決壊事件の現場付近で行方不明になるのです。不審に思った主人公が、おりから編成された幻の夏墟(殷墟に対する夏墟)調査団に潜り込み、中国へ向かって出発するのでしたが……。

ストーリーは、伝奇というよりはむしろトラベルミステリー風。北京からまず蘭州に飛んだ一行は、そこから黄河に沿って下りつつ、銀川から塞上の江南・オルドスの沃地を抜け、南下、西安に寄り道し潼関、三門峡、仰韶、洛陽、登封(嵩山)、鄭州そしてかの事件の現地・三劉寨へと至る。その間風物と共に語られる歴史が実に興味深く楽しいのでした。ストーリーは、黄龍族をめぐる話だけに、竜頭蛇尾でしたが(笑)。

さてその語られた歴史漫歩によれば、夏の禹の父親は鯀といい、やはり(舜の前代の)堯の命令で黄河の治水に携わっています(成功しない)。つまり代々水利に通じた一族のようです。また本文中に、禹という文字の中に「虫」の字が隠されている。「虫」は大トカゲとか蛇などを形象する文字。鯀も「魚ヘン」で、鯀は想像上の巨大な魚を意味するとのことで、どちらも治水を象徴する河水の神という説が紹介されています。

ここから妄想。
夏の始祖とその父親に治水の携わる水神の面があるとしたら、何かに似てはいませんか。そう、河童ですね。『もののけの正体』によれば、水害など水の恐怖が形象化されるにつれ、治水する存在、水神に転じていったのが、河童なのでした。おそらく鯀も禹も、暴れ龍である黄河の水害の形象化→神化の面があるに違いない(そもそも暴れ龍が黄河の水害の形象化です)。つまり河童も禹も、構造は同じなのです。
とすると、『もののけの正体』に紹介されていた河童・黄河渡来説が、また別の意味で面白くなってくるわけで、ここに繋がってくるではないですか(^^ゞ

 




首位よ、さらば!

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月10日(金)22時11分33秒

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いやー面白くなってきましたね。さすが福原、役者やの〜(^^; 皆がえっと思った交代劇、ちゃんと自分の役割をわきまえてはりました。これで負け数差が3。名古屋での3戦を残しての3差は実質五分ですね。あー楽しいなあ。

『さらば、黄河』は230頁。残り60頁。今日中に読み終わるかな。
ところで黄河は「暴れ竜」の異名を持つんですが(実際本篇には黄河を竜として崇める部族が登場します)、このタイトル、間違うとりやしませんか。
正しくは「さらば、虎」ですがな(>おい)。

 




天王山第1弾

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 9日(木)17時51分52秒

返信・引用

 

 

『さらば、黄河』に着手。100頁まで。これは面白いです! 夏王朝の亡霊が現代に甦る伝奇もの? いや、まだ分かりませんが(^^; 著者が長江じゃなく黄河を舞台にするのは珍しいかも。

今日は能見が先発か。楽しみ。でも負けたほうが面白くなるんだけどね(>おい)。

 




「自来也小町」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 8日(水)21時22分0秒

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泡坂妻夫『自来也小町 宝引の辰捕者帳』(文春文庫97、元版94)読了。

宝引の辰捕者帳シリーズ第二集です。第一集『鬼女の鱗』は大変面白かった。そういう記憶が残っていて本書にとりかかったのでしたが……。何かイマイチなまま読み終わってしまいました。どうも著者に「やる気」がなかったような印象(^^;
大体、表題作
「自来也小町」なんて、このタイトルでほぼ犯人(というか下手人?)が特定できてしまうではないですか。また「謡幽霊」は身代わりトリックなのだが、これなんかまず知り合いに面通しさせるのが通常の捜査でしょう。その段階で成立しないもの。ちょっとユルすぎるような。というかミステリの謎解きには重きをおいてないのかも。

さて、以上から推測できると思いますが、内容的には全体にあっさりした軽時代ミステリ。ところがその内容の割には、出てくる登場人物が、本筋に絡まない役柄なのに、非常に濃い人物描写になっていたりします。
それもそのはずで、本篇の(江戸時代)世界は、著者の(現代物の)世界と《直接に繋がった過去》という設定になっているのです。たとえばかの名探偵曾我佳城のご先祖様がいてはるわけです(やはり手妻使いをしている)。まあこの人物の場合は重要な役柄なので許すとして(笑)、端役にもかかわらず濃い人物がいる。私自身は著者を殆ど読んでないので特定することは叶いませんのですが、そういう濃い人物は、おそらく著者の現代ものに、子孫を残した人物なんでしょう。
「旅差道中」に出てくる連次は、辰そこのけの観察眼を示すので、よっぽど重要人物(犯人?)かと予想していたら、まあ最終的には端役の一人の位置づけでしかない。おそらく連次の子孫は、現代世界ではカメラ店の主人かカメラマンとして、たぶん主役級の推理力を示す人物に間違いないと私は思いますね。どなたか検証してくださいませ(^^ゞ

という次第で、本集の諸作品はいずれも重心がずれて収まりが悪い印象なのでした。ストーリー的には不要な人物がどんどん出てくる。それは思うに著者の意図が、謎解きよりもむしろ「現代物の過去の設定」にあったからに違いありません。一種顔見世興行みたいな感じか。つまり「やる気」がなかったのではなく、やる気の方向が違っていたのです。ある意味泡坂妻夫マニアが読むべき(読んでニヤニヤほくそ笑む)作品集なのかも知れません。

 




「すねた娘」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 7日(火)21時27分27秒

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E・S・ガードナー『すねた娘』池央耿訳(創元推理文庫76、原著33)読了。

ペリー・メイスン・シリーズの二作目です。これも面白かった。タイトルは前作のラストで仄めかされていたとおり。いかにも続き物の定石ですな(^^;(ちなみに本篇のラストでは「幸運な足の娘」の写真がメイスンの事務所に送り付けられます)。
さて、本作ではじめて法廷場面が描かれます。第一作では法廷場面はなかったのでした。法廷シーンが典型ですが、このシリーズ、それ以外の場面においても、メイスンの「駆け引き」が読みどころ。探偵小説らしからぬハッタリやブラフが多用されます。いわば心理戦です。読みどころもそこにあります。この辺が古典本格とはちょっと違いますね。

これはアメリカの陪審制が、12人の陪審員の心証に強く左右されるものであること(そのことが作中でも何度も言及されています)と密接に関係しているように思いました。弁護士にとっては事実の解明よりも依頼人の救済が優先するわけで、それは絶対的な真実ではなく、陪審の心証を良くするための、証拠のプレゼンテーションの技術に左右される。乱暴な言い方をすれば、陪審の被告に対する好悪の印象が、判決の時点において、好の方へ最大に触れていれば、それでいいわけです。

本篇も第一作に負けず劣らず面白かったのですが、とはいえ小説としてみた場合、わたし的には第一作に及ぶものではなかった。というのは、どちらの依頼人も女なんですが、
「ビロードの爪」の依頼人の女のほうがずっと複雑で興味深い人物に造形されていて、ある種「悪女」の一典型たりえているのに対し、本篇の依頼人は、いうならば金持ちのわがまま娘というだけの、人物造形的に生き生きとした現実感が感じられなかったからなんですね。
その意味で本篇は、よくできた、非常に面白い、すぐれた大衆小説「でしか」ない小説なのでした(笑)。
次作も読んでみるつもりですが、その第三作である『幸運な足の娘』が試金石となりそう。ということで、早速マーケットプレイスに発注。これはちょっとブックオフでは見つけられそうにないので(^^;、

『自来也小町』に着手。90頁。

 




「静かな黄昏の国」(追記)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 6日(月)20時27分53秒

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> No.2656[元記事へ]

(承前)
先月読んだ
『天窓のある家』の感想で、私は著者の作中人物の造形に、眉村さんに近いものを感じると書きました(→こちら)。本書に於いてそれに該当するのが「陽炎」ですね。この作品の女主人公の性格造形は、まさに眉村さんの作品に出てくる人物にうりふたつです。

市井のごく平凡な町役場の職員の吹く篠笛の音に衝撃を受けた主人公(正統な音楽教育を受けている)はこう思います。
「彼なら篠笛でなくフルートを持たせたところで、数年のうちに自分を追いぬいてしまうのではないか(……)こんなことがあってはならない」(37p)
実は篠笛に魔性が潜んでいるんですが、この段階では主人公はそれを知らないわけです。
「小柄な真理の体の内側には、野心が漲っていた。楽団員の一人として終わることや、ましてやレッスンプロとして生きることなど願い下げだった」(45p)
かかる上昇志向(それとないまぜになった転落恐怖)が、彼女を破滅へと運んでいくわけですね。

「子羊」の主人公の少女も、別の意味で眉村さんの主人公によく似ています。選ばれたものだと思っていた自分自身の境遇の実際の意味がわかったとき、彼女は自らの運命を拒否し、「ユートピア」から現実世界へと下水溝に飛び込みます。「排泄物を浮かべた水の飛沫が彼女の全身を濡らしていた。風が吹いている闇の向こうに、彼女は何も見ていなかった。何も見えない。しかしまぎれもない彼女自身の未来が、その先に続いていた」(208p)というラストは、まさに眉村さんの「産業士官候補生」のラストとダブって、私には見えました(笑)。
「ぼくは失格者かも知れない! だが、栄光ある失格者なのだ!/いいではないか!/失格者でいいではないか! 走れ!/きらきらと春の日をはね返す丘陵を、彼はわめきながら走っていた。フルートをふりまわし、泣きじゃくりながら走り続けていた」(『時のオデュセウス』所収、283p)

ところで
「子羊」のユートピアはいわば時限ユートピアだったわけですが、「静かな黄昏の国」のユートピアも、そいえば時限ユートピアですね。著者にとってユートピアという観念は、決して永遠であってはならないものであるのかも知れませんね。

『すねた娘』は200頁。のこり100頁。

 




「静かな黄昏の国」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 6日(月)01時24分51秒

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> No.2655[元記事へ]

篠田節子『静かな黄昏の国』(角川文庫07、元版02)読了。

(承前)
最近、著者の短篇集に凝っているのですが、本書も抜群の面白さでした。おそらく第一作品集だと思います。そのせいか、意外に小説の構造がわかりやすかったりします(^^;。

たとえば
「陽炎」と「エレジー」は、音楽小説で且つ芸道小説になっています。ともに楽器(前者は葦笛、後者ではチェロ)の虜になり、うまくなりたいと一心に練習に励む者が、魔性(超自然性)を帯びた楽器に出遭い(というかとり憑かれ)、破滅していきます。
「刺」は、楽器ではなく植物です。しかし構造は同じで、やはり(ある理由で)魔性(超自然)が宿ったサボテンによって破滅する男の話。

「一番抵当権」と「ホワイトクリスマス」は、いずれもちょっとだけ脚光を浴びたけれどもすぐに落ちぶれた作家・クリエイターが主人公。どちらも「過剰なまでの自己チュー」(解説)で、金銭感覚がなくプライドだけは高い。ある意味同一人物です(余談ですが、とりわけ後者の小説家は、倉阪鬼一郎の小説でよく揶揄的に描かれている人物像が彷彿とされて、思わず笑ってしまいました)。こいつら、全く学習しませんから当然破滅に向かって転がり落ちていくしかありません。
ところで、両作品には、このどうしようもない自己チュー男たちの世話をする(してしまう)姉さん女房的な女が出てきます。実はこの女は
「刺」にも登場します。やはり同一人物といえます。自己チューで破滅型の男と、甲斐甲斐しくその世話をする姉さん女房型の女が、著者の作品にはセットで出てくるようです(私は共依存性を強く感じましたが、作者にその意図はないようです)。
ただし、本書より以前に読んだ作品集では、このような構造性は気づきませんでした。著者の技倆が進化しヴァリエーションがひろがり、潜在化させてしまったんでしょう(笑)。

さて、以上は構造論的な分析にすぎず、内容とは関係のない話です(でもこうやって並べられると否応なく類似に気づかざるを得ません。それはやはり第一作品集ということで、のちの作品集に比べて隠し方がまだ手馴れていなかったのだと思います)。
内容的には、昨日も述べましたように、
「エレジー」が一等すぐれていると思いました。この作品は怪奇幻想小説として屹立しています。
次に
「ホワイトクリスマス」が、(「エレジー」のような結晶性はありませんが)100頁の中篇にもかかわらず一気に読まされました。上述のように倉阪作品を彷彿とさせる駄目人間がリアリティ豊かに活写されていて、途中で止めることができないほど面白さでした。

「リトル・マーメード」、「小羊」、「静かな黄昏の国」はSFです。「一番抵当権」もこれに含めていいでしょう。ただし、いずれも70年代風SFというべきです。こういうSFを、最近見なくなったように思います。少なくとも今どきのSFマガジンには載らないタイプのSFであるといえる。前回も書いたと思いますが、著者は70年代SFの感性を強く保持している(わたし的には)貴重な、大変にありがたい作家であります。長篇に特化されているようですが、短篇ももっと書いてほしいものです。
閑話休題。これらSF作品は、まさに「一作一世界」(解説)という著者のモットーが遺憾なく実践されています。
「リトル・マーメード」は上田早夕里にも通ずる海洋生物SF。
「子羊」はソイレント・グリーン的伝統の上に小林泰三をまぶした(笑)、清らかなファンタジー的世界が一転汚穢に満ちたリアル世界に遷移する、しかも「エレジー」群に含まれる音楽小説でもある、という重層的な傑作。
「静かな黄昏の国」は、これまたソイレント・グリーン的な終の住処であるユートピア世界が、実はディストピア世界を基盤・基層として建設されていたという逆説がおぞましい社会SFの力作でありました。→《追記》

以上8篇、すべてたっぷりと堪能しました。面白かった〜!
ということで、次は『秋の花火』を見つけねば。これを読んだら著者の短篇集は完読になるのかな。

『すねた娘』に着手。100頁まで。

 




器物もののけ楽器篇

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 4日(土)19時04分12秒

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夏休み期間中、ファストフード店は餓鬼やファミリーで混むので、専ら喫茶店で読書でした。
私が利用するのは、チェーン店なんですがジャズがずっと流れていて、空間的には非常に快適な店。昔、阪急東通商店街にバンビーというジャズ喫茶(もどき)がありましたが、あんな感じ。たぶん音楽はジャズ専門の有線放送かなにかを掛けているんでしょう。でもたまにドルフィーやコルトレーンも流れていたりして侮れません。昨日はなんとモンクが掛かっていました(笑)。
ただコーヒーが400円で高い。サンドイッチのセットで800円。コーヒーの追加が半額の200円で、結局1000円散財してしまう。先日畸人郷の例会をやった大阪第3ビルの喫茶店が200円だったので(しかも二時間以上粘れる)、改めて田舎は高いと思った。1000円払ってもせいぜい1時間くらいしかいないんですから。よく粘って1時間半。非常にコストパフォーマンスが悪いのです。
というわけで、来週からファストフード店も利用できたら助かるんだけどなあ、と思っている今日この頃であります。

『静かな黄昏の国』は半分弱。
「エレジー」が傑作。音楽幻想小説というか芸道小説の変形というか、戦前フランスで製作された一千万円のチェロの魔性が男を破滅させます。異形コレクションにもろ嵌る作品ですが(「アートフィリア」とか)、篠田節子は異形には書いてないんじゃないかな。ある意味、チェロのもののけ(西洋妖怪)にとり殺される話とも読めます(^^;

 




「ビロードの爪」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 3日(金)18時18分53秒

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E・S・ガードナー『ビロードの爪』小西宏訳(創元推理文庫61、原著33)読了。

多作家のイメージが強く、あまり良い印象を持っていませんでしたが、なかなかどうして、とても良く出来ていて面白かった。前回読んだチャーリー・チャンが1930年ですから、まあほぼ同時期といってよいでしょう。同じく禁酒法時代(1919〜1933)の話ですし。
余談ですが、メイスンがホテルにチェックインした際、
「ジンジャーエール四本と氷をたっぷり注文し、ベル・ボーイからウィスキーを一本仕入れた」(153p)のは、ホテルでは公然と販売できなかったからなんでしょうね(^^;。

閑話休題、にもかかわらず両作品を比べると、そこには恰も10年以上の時差があるかのように感じられます。チャーリーチャンの世界に比べて、ペリー・メイスンの世界は極めて「新しい」。舞台を21世紀の現代に移し変えても、ストーリーは十分通用すると思います。
メイスンへの依頼人の女は、メイスンを頼りつつも、いつでもメイスンを出し抜きかねない(実際なんども裏切る)、そんな世渡りをしてきた人物で、事務員のデラ・ストリートが蛇蝎のように嫌うのですが、それはいわば、旧時代(古き好きアメリカ)の世界観と、新時代の(利益のためには手段を選ばない)世界観との対立、相容れなさを象徴しているかのようです(そういう対立をうまく持ち込んでいるのが大衆小説作家としての著者のうまさかも)。

そんな依頼人に対して、その依頼人のせいで自分自身が窮地に陥っても、メイスンは、支払いをきちんとしてくれている限りは顧客であるとして、ビジネスに徹します。これまた契約主義という新時代の原理を体現しているわけです。同時に安易な倫理観によって断罪がなされてはならないという主張があります。

このようなガードナーの小説世界に比して、わずか3年の時差なのにビガーズの小説世界はあまりにも旧時代的なんですよね(だから駄目だと言っているわけではありませんよ。これはこれで、駘蕩としていて大変よくできた物語になっています)。世界史的にも第1次大戦後アメリカ資本主義は拡大して世界の一等国へと上り詰めます。本書の描く世界は、この大戦間という時代が、アメリカの、「新世界」から「新時代」への移行期・転回期でもあったということを示しているに違いありません。
メイスンはいいます。
「依頼人のためにベストをつくすことは、ぼくにとって強迫観念のようなものだ。依頼人かならずしも咎なきものじゃない。悪党も多い。おそらく大半が有罪だろう。しかし、それは、ぼくが決めることじゃない。陪審のやることだ」(254p)

同種の言明は小説内に何度も出てきます。それでふと思い出したのがモームの「手紙」で、この作品も弁護士が、依頼人がどんな悪党であれ、引き受けたからには無罪を勝ち取る(罪を軽減する)ために仕事を果たす話だったと思います。実は高校の現国で読んだもので、感情論的に、悪いヤツを弁護するのは駄目だろういう意見が大半を占めるなか、私は当の弁護士を弁護するために孤軍奮闘したのを思い出しました(笑)。あれから既に40年近く経過しましたが、主情的倫理観が卓越する精神風土はあまり変ってないように見受けられます。このような法定主義や契約観念は日本人には馴染まないものなのかも知れませんね。

ガードナーはもう一冊(たぶん『すねた娘』)持っている筈なので、掘り起こして読んでみようと思います。
とはいえ、まずは『静かな黄昏の国』に着手の予定(^^)。

 




眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 2日(木)17時36分26秒

返信・引用

 

 

星新一公式サイト寄せ書きのコーナーに、眉村卓「星新一のショートショート」が掲載されました!
読みますとこれ、眉村さんの星ショートショート論になっていますね。私の言い方に纏めますと、そもそも屈曲している石を磨いて滑らかな玉にしたものなので、玉の部分だけ真似しても、模造ダイヤ にしかならない、ということでしょうか。滑らかなとは、メルヘンっぽい、童話めいた、といったような意味合いで、そんな「穏やかな」表層にまず読者は反応しがちですが、その研磨された表面をちょっと鑿井してみると、そこから底意地の悪いシニシズムが吹き出してくる。滑らかな穏やかな表面の下にはシニシズムの赤黒い毒がみっちり詰まっていて渦巻いていて、だからこそ磨かれた表面は美しい薔薇色に輝いて見える――そんなかんじでしょうか。
うーむ。
確かに表層を模倣してしまうんですよね。耳が痛いです(^^;。

 




インフォシークの無料HPサービス終了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 2日(木)02時01分34秒

返信・引用  編集済

 

 

主に掲示板の過去ログの保存に使っている無料ホームページサービスの「インフォシーク iswebライト」が、10月末でサービス終了とのことで、とりあえず「FC2」に登録してみました。2か月で移し替えなければなりません。一括変換できないのかね。

 




「ガス燈」視聴をやめたら、別の話が浮かんできた

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 1日(水)23時38分54秒

返信・引用  編集済

 

 

バーグマン主演「ガス燈」を観かけたのですが、途中で視聴中止。いや面白くないわけではないんです。たぶん最後まで観れば満足するでしょう。でも、「いま」私が映画に求めているものじゃないなあ――と、そう感じてしまったんです。このために114分を取られるのは時間がもったいないと思ってしまった。
そんなことをいいながら、実はすでに視聴中止してから30分経過していまして(ぼーっとしていた)、なんのこっちゃない、こっちの方が空費じゃんという感じなんですが(汗)。

で、ふと思った。そういえば映像作品って、テレビもそう、時間を縛られてしまう感が強いんですよね。早送りで観れないものかって思うことがあります。テレビの場合は特にそうです。一時間の番組でも正味はその三分の一くらいではないかとイライラさせられることがあるんですよね。本ですと薄い記述の場合は目の速度を上げて対応できますが、テレビはそういう調節ができません。だからテレビが好きじゃないのかも。
あ、「ガス燈」が水増しされているといっているのではありませんよ。為念。「ガス燈」がきっかけで浮かんできた別の話なのでした。

 




「無人大陸 中国」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 1日(水)20時43分33秒

返信・引用  編集済

 

 

田中光二『無人大陸 中国』(カッパノベルス04)読了。

(承前)
近隣諸国の侵略軍は、「なにものか」によって消滅させられます。武器を持って侵入してきたものは「はねられる」のです(その事実に気づいた北朝鮮は武器など必要ない、肉体そのものが武器である超人部隊を侵入させます>っておい(汗))。その「なにものか」が「真空地帯」を作り、そこに人類が「アルカディア」(理想郷)を作れるかどうか、人類を試しているのだと理解した世界の指導者は、華僑の植民地は別格として(華僑だけでは広大な空白地帯を埋めきれない)、民族別ではない、各民族を混ぜあわせた植民者の集団を作り、各地に入植させる。しかしその試みはすぐに綻び、民族別に固まってしまう。そんななか、終盤、13人の「霊人」が出現します。霊人は、自分たちが、13億中国人の、それぞれ1億人の化身であるというのだった……

初期設定は大変面白いのですが、如何せん「小説」以前のしろもので、大いに失望しました。むしろ酷いといいたい。世界中のコンピュータの画面に、一斉に不思議な字体の「arcadia」の文字が浮かび上がるシーンは、(明らかに「未知との遭遇」の「ニホハハト」を踏んでいるわけです)ゾクゾクしたんですけれども……。

追記。シミュレーション小説というならば、むしろ中国が無人化した世界における日本社会の話が私は読みたい。今、突然中国が消滅してしまったら、日本は大変なことになりますよね。その辺をつぶさに書いてほしい。でもそれは田中光二ではなく、堺屋太一の領分ですかね。

 




十年

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 9月 1日(水)01時08分23秒

返信・引用

 

 

到頭9月です。当サイト「とべ、クマゴロー!」は、2000年9月1日の開設なので、まる10年が経過したことになります。感覚的にはあっという間なんですが、開設当時を個別に思い出そうとすると、やはりはるか昔のことのように感じられます。
いちおう10年ですが、実際は掲示板以外殆ど停止状態なんですからなにも威張れません。ともあれこの10年間で分かったことがあって、それは私がこういうコツコツ積み上げていく蟻型サイトは向いてないということですね(>おい)。
というか、当初HTMLタグの知識もなく、見よう見まねで、これはというサイトがあればソースを開いてはコピペするという泥縄で作ってきたので、今やどこがどうなっているか訳が分からなくなってしまっていて、さわるとおかしくなってしまいそうで書き足すのが実はこわいというのもあるんですけどね。
しかしまあ、日課第6巻で止まっている著書リストは、可及的速やかに何とかしなければなりません。
あと、掲示板の眉村さん情報も別に取り出してリスト化しなければ、折角の情報が利用できません。今のままでは死蔵です。
この2点は、今日から始まる第2ディケードの課題としたい(>って10年掛かりかよ)。皆様気長にお待ち下さいますよう、伏して御願い申し上げる次第であります。そんなこんなで、今後ともご贔屓に。

 


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