ヘリコニア談話室ログ(2010年11)


黄昏に向って走れ(夕陽じゃなく)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月30日(火)21時23分34秒

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『エステルハージ博士の事件簿』読了。だいたいどの辺に何があるかわかったし、泥縄ですがそれなりに知識も集まりましたし、これから本番で読もうと思います。
と、いったんその気になったのだが――
初読分がしっかり滲み込むまで、ちょっと時間をあけた方がいいかなと思い直した。
ということで、あまりの厚さに怯れをなして後まわしにしていた『華竜の宮』に着手するかも。いやまだ踏ん切りがつかないのですが(^^;。あるいは併読となるかも。まあ、もともと年内いっぱいかけるつもりだったので、慌てる気はありません。ゆっくり読もう。そもそも作家が何ヶ月もかかって書き上げた作品、それを訳者がやはり何ヶ月もかけて日本語にした作品を、わずか数日で読んでしまうなんて所業こそ、傲慢というべきでしょう(^^;
とりあえず初読時、随時ツイッターに暫定的なメモを上げています。興味のある方はご覧ください→http://twitter.com/mizcohol

<SFマガジン>が届いた。
中野善夫「黄昏の薄明かりの向こうへ」を読む。これが読みたくて注文したのです。
連載評論ということで、去年の1月号に載った第1回を読んで以来、心待ちにしていたのだが、ハヤカワオンラインを見ていても全然掲載された気配がない。これはもしや苦しんではるんかな、と勝手に思っていたところ、たまたまネットで今号に掲載されていることを知り、あわてて注文したのでした。
で、ページを開けてびっくり。なんと<第5回>となっているではないか。2、3,4はいつ載ったんだ。ハヤカワオンラインはちゃんと告知してほしいものだ。と、そこではたと、ハヤカワオンラインの目次は恣意的なものであることに気づいたのでした。
もー、自社の雑誌なんだからね、きちっとした目次を載せてほしいものだ。目次の内容で購入するかどうか決める読者もいるだろうに。ハヤカワはもっと東京創元社のHP(ミステリーズの)を見習うべきです。え、なになに? SFMの購読者はただ出たら右から左に買う(だけ)、という条件反射を刷り込まれているので、そんな詳細な情報を出したって意味がないからしないって? あんたみたいなのは例外中の例外だって? 失礼しました。

さて、気をとりなおして――とりあえず読みました。羅宇をすっ飛ばしているので、筆者がファンタジーにこめている意味をつかめていないかも知れないのですが……要旨は、ファンタジーには2種類あるということだろうか。夕日と黄昏の違い。安住するファンタジーと荒野に向かうファンタジー?
それはさておき、江戸時代はファンタジーになるかということだが、時代劇(小説)はファンタジーではないだろうか。近年の時代小説の隆盛は江戸ファンタジーの隆盛だと思う。最近の時代小説は概ねリアリズムとは無縁だ。本当の江戸ではない。都合よく想像された「ユートピアとしての」江戸というほかない。たとえばNHKの土曜時代劇の描く世界はどうだろう。ちょんまげを結った現代人ではないのか。いつも思うのだが、この番組ではそのうち、親分が手下の若いもんに
「この野郎、「パネエ」なんていうな。おいらが恥ずかしいやい。ちゃんと「半端ない」って言いやがれ!」って説教するのではないか(高井信さん盗用ごめんなさいm(__)m)
閑話休題。その意味では明治・大正もその方法論で十分ファンタジー化され得るだろう。私が知らないだけで、もうされているかも。
いやまあ、2〜4を飛ばしてるので、ファンタジーの概念が筆者ののそれとはずれているかも知れないが。
とはいえ、3丁目に背を向け黄昏の光の中へ踏み出そうという姿勢は、大いに共感。私もそういうファンタジーをこれからも読んでいきたい。黄昏とは元来逢魔が時というくらいで、日常性に裂け目が開き、非日常が顔を出す(日常性が剥ぎ取られ、むき出しの何かが現われる)刻限なのだから。

 



「僕と妻の1778話」(読了)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月29日(月)21時53分1秒

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承前
残りの22話を一気に読む。
1)774番目から1678番目と、2)それ以降に分けられる。すなわち2年目から4年7か月目とそれ以降です。

1)
この時期は、一進一退を繰り返しながらも、それなりに安定期といえる状態だったのでしょう、ある意味<日常化>が進展した時期ともいえ、著者はそれなりに楽しんでこなしているようです。それかあらぬか、このパートのメモには、どういう小説作法であったのかという小説講義的な記述すら認められます。
しかしその一方で、やはり小康期は小康期なのであって、妻の病状が回復するわけではありません。ある意味執行猶予が期限の定めなしにずるずると延びて、不謹慎な言い方かもしれませんが、夫にすれば真綿で首をしめられている・しめられ続けているような状態でもあったのではないでしょうか。そのような結果として、私も幾らか知っていますが、あれほど新しもの好きだった著者が、新規なものに対する興味を失ってしまうのです。

 
私は、世の中の新しい傾向とか新製品に対して、いつとはなしに興味を失っていった。新しいものが将来どんな風に世の中を変えることになりそうか、家で話し合い、また新しいものをいろいろ試していたところであろう。もともと私は、そうした新しいものに対して好奇心旺盛ですぐ飛びつくほうであった。しかし死が近づいてきつつある妻と、そんなことをする気にはなれない。未来などとやたらに口にしたくなかったのだ。(295p)

そのような日常の持続は、私は思うのですが、ある意味必然的に、世の中、社会、いやもっと世界に対して背を向けてしまう、防御的な心理的態度で壁を作ってしまいがちなのではないでしょうか。実はそういう姿勢は、今から考えると、1778話の初期からあったようです。
本書に収録されなかった短話で、「(54)階段の数」という作品があります(『日課・一日3枚以上』第1巻所収)。この作品について、私は初読時に次のような感想を書いているのです(こちら)。↓

 
当然作中人物は作者と等身大である場合が多く、たとえば「階段の数」は地下から上がる階段の段数が常と違うという差異から異世界に紛れ込むという実に巧みな導入部なのだが、「わけのわからない異世界にまぎれ込むよりは、ずっとましなのではないだろうか」と現実世界に戻ってしまう。往年の著者ならこういう終わり方は決してしなかったはずである。いいとか悪いとかではなく、現在の著者の心境が素直に出ているだけの話で、なるほどと納得した次第である。

当時はぼんやりとしか感取できていなかったにせよ、1778話とそれ以前の著者の間には、心的態度に於いて対蹠的といってよい隔たりがあるのではないでしょうか。
(842)最悪の事態」(1678)奇行の人」、あるいは(902)Mさんの住む町」には、著者のそういう、引きこもり願望とは言わないまでも、そういう防御的な姿勢が認められるように思われます。

かかる防御的態度は、また別の表現になっても現れているようです。
(868)神様の素」(955)一分間の春」(987)野望の丘」がそれで、これらは<最悪の事態>を見据えて、他力本願的な願望成就の物語群と読めなくもない。

(998)早朝の喫茶店で」には、「過去へ帰りたい」という無意識の願望があり、<ひきこもり>の別様態といえる。

(1572)雨の外出」は二段構えで、前段のショートショートは後段で言い訳に使われるための伏線ですが、この前段の話は、著者も分かっているし妻も「看破」している(但し支援する)ような、或るトーンに覆われている。

あと簡単に――
(774)メッセージを吹き込む」(824)うたかたの一年」は共通の話題(家庭の話題)型。(1136)ハテナ星マーク(?)」もこの範疇で、「最近よく壊れるな」というような会話があったのかも。

(828)青白い棒」は独立的というか、1778話のコンテキストを離れても面白い。社会派ショートショートです(なおSFでいう社会派は、ミステリのそれに含意される正義派の意味はありません)。学生に受けなかったというのは、「ちぇ、あてつけに書きやがって」という感じを持たれたのでは(^^;。あとの作品で併せて触れるつもりですが、「なぜ青白い棒なんでしょう?」という疑問も、こだわるところを間違っているというか、センスの問題のような。

(908)仙人がきた」、奇妙な味がいい。この奇妙さは漫画(のらくろのような昔の)に通ずるもので、最初は漫画家になろうと思っていた著者の脳裏には、くっきりと「絵」があるのではないでしょうか。

(1329)Qさんと協会」(1485)もらったロボット」も、コンテクストを離れて独立的なショートショート。

(1644)作中体験」の、「なぜこんな兵に入ったのですか」という疑問も「青白い棒」と同じで(私は同一人物の発言ではないかと疑いたくなるのですが)小説を読む、いわんや書くためには、星新一が言っていたと思いますが(筒井だっけ)「常識の感覚」すなわち「社会的なコンテキスト理解のセンスの内面化」は必須の契機なんだろうと思います。

2)
は1747番目から1778番目まで。メモによると最後の入院の時期にあたる。開始後4年9か月。当初数か月と言われていたのが1700日を越え得たのは、やはりこの(夫婦の共同作業といってよい)1778話の企画が大きかったに違いありません。が、その神通力も永久ではなかった。

(1747)共に喫煙」は、前項の<家族の話題もの>に含めてもよいものですが、著者が言うように「破れかぶれ」の心理のなせるものでもある。

このあとから一気に色調が暗く翳ってくる。

(1767)終了前?」は、「これを書いた前後のことは、ほとんど覚えていない」作者の平常ではない心理が否が応にも浮かび上がっている。
(1775)話を読む」も同上で、この二篇は、ある意味芥川の晩期の作品に似た鬼気迫るものがある。

(1776)寝不足の能力」は、病状急変に伴う著者の寝不足の破れかぶれ感。

(1777)けさも書く」
(1778)最終回」
この二篇についてはなんども読み返しもしている。いうこともない。間然するところなき名品だと思います。

以上で、
眉村卓『僕と妻の1778話』(集英社文庫10)読了。本書は、私にとっては(メモも含んで全体で)とても奥深い<長編小説>でありました。

 



「僕と妻の1778話」読み中(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月28日(日)12時57分18秒

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承前
今回は511番から770番の中からのセレクション10篇。開始1年5ヶ月から2年超あたりの作品。

(511)Dからの便り」はすばらしい幻想小説。ただ最後の解釈は、私はなくてもよかったんではないかと思います。その方が自然だと感じる。ふつうのショートショートならそうなんですが、この(解釈の)部分は特定単数読者への語りかけであり(つまりそれまで隠れていた作者が顔を出す)、作者とすれば不可欠なのかも。

(524)心を明るく」、これはまさに(ひとことメモにもあるとおり)読者の人へのメッセージ。なんですが、自分への叱咤の面が強いと感じてしまいます。読者の人はさらにそれを敏感に察したはずで、これこそがこの企ての、「読者の人」の「応援」の面を強く反映しているものではないでしょうか。

(557)椅子を占領するオバケ」。いってみればオバケと主人公の椅子取りゲームで、たしかにもっと反復をエスカレーションさせればいかりや長介と志村けんのコントにでもなりそうです。ひとくちメモで、「映像にしたらなおさらだ(おもしろい)」と書かれているのはそういう映像を念頭にされているんでしょう。しかし、とはいえやはりこれは、どうみても編集者ならぬ唯一読者に対する原稿遅れのいいわけにしか見えませんな(^^;

(568)走る植動物」、2段構えの作品で、重心は後段にあり、作者が日頃感じていたある種の悩み(?)を、唯一読者に向かって(間接的に)吐露したものとも読める。作品化する(読者を想定する)ことで、作者自身の精神的平衡を回復する(言ってすっきりする)のが無意識の動機です(>おい)。

(605)都会の声」は、一種恢復の物語で、表層唯一読者へのメッセージであるとともに、<伴走者>に対して「構え」を解除した甘えが出た話ではないでしょうか。「何も言わなかった」のは、まあそういうことにしといたろか、という「思いやり」に違いありません(>おい)。

(683)スギサク」は、先述した女性に好評なロボットものの典型作品で、かつ、かつて機関車に例えられた作者の基本姿勢が現れた佳品。

(699)タイムマシンで着いたところ」、これまたこの企画によるがんじがらめ観という一面が出た作品と読める。と同時に、そこにはそれが許容されるという無意識が(汗)。

(711)繰り返す癖」。「最近よく繰り返してるんやなあ。歳かなあ」という夫の繰り言がこうなります(^^;。

(735)ラウドランド」。同様に、「最近街中に音が溢れ返ってるんや、みんな耳がおかしなってるんと違うかなあ」という夫の繰り言がこう変化する(^^ゞ

(770)シノプシス8.24」。創元文庫の日本年刊SF選の(と書くのはタイトルがどれも似ていて紛らわしくきちんと把握できてないからですが)上田早夕里作品と同じシチュエーションでは? 同じく、その、一種のユートピア的存在になれるチャンスがあるのに、それを拒絶するのも同じ。ただその内的動機はどうだったか? あとで読み比べてみるかも。

かくのごとく、村上知子さんの解説を読んでしまうと、この壮大な建造物が、180度倒立して、全く新しい視点から見えてきてしまうのでした!

 



Re: 「く、苦しいっ」のお返し

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月27日(土)21時13分17秒

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> No.2770[元記事へ]

おお、むか新とはピンポイントネタで来られましたな(^^;。
ま、いろいろあらーなということで、むかしのことはもうごかんべん。むかし……むさし? かんべんむさし!!
バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!
失礼しました〜m(__)m

 



「く、苦しいっ」のお返し

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2010年11月27日(土)18時52分38秒

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そうですか。遠い世界になりましたか。
でもって卒業式には、元彼女(?)は振り袖でも着てましたか。
と、いうようなこととかけて、何と解く。
近くの和菓子屋と解く。そのココロは、
昔のことです→むかしのことです→「むか新」のことです。
バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!
(管理人氏以外、世間の人にはわからへん……)

 



遠い世界になりにけり

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月27日(土)16時49分45秒

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youtubeで「遠い世界に」を聞いていたら、コメントに「これが日本だ、私の国だ、という歌詞に涙してしまいます」とあって、へえー、と思ったのだった。
この曲はいい曲だが、唯一その部分、最初に聞いた中学以来、ずっと私は違和感があるんですけどね。
あと、「なごり雪」の「去年よりずっときれいになった」というのも当時は不快だった。もっともこっちは、大学の卒業式の日に卒然と具体的に理解できましたが(^^;。

  

 



24時間メンテナンスは再来週

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月27日(土)09時27分36秒

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や、まだ見えているぞ、ということで確認したら――
24時間メンテナンスが実施されるのは12月11日でした→http://314.teacup.com/tcup/bbs/1030
早とちり申し訳ありません。
しかしまあ、最近細かい不具合が確かにあるので、しっかり修正してほしいと思います。

 



「僕と妻の1778話」読み中(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月26日(金)20時54分8秒

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承前
前回は、この企画(?)の特徴として、作者が、不特定多数の一般者ではなく妻悦子さんという特定個人を読者として想定しており、その結果、扱う題材は夫婦にとって馴染み深いものが優先的に選択され、且つ文体は「語りかけ調」であるという傾向があることを指摘しました。
今回読んだ10篇は、198回-395回からセレクトされているのですが、上記の特徴はかなり薄れてきています(>おい)(^^;。

これは要するに、198回-395回とは始めて半年後から1年後ということで、著者も書き慣れ、読者も読み慣れて、この企画が夫婦にとって、いわば日常化し、別に最初の頃のような縛りに拘らなくてもいいようになってきたということではないか。材料も夫婦共通の話題から、作者が外で遭遇したり感じたりしたことを「今日はこんなことがあったよ」とストレートに話すのではなく、フィクションに乗せて報告する形式が多くなっているように思われます。
(224)古い硬貨」(260)お返し機」(309)どうでもいいような話」(329)地下街の便所」(354)乱世型社員」(376)使わなかった手帳」(395)?印」が、これに当たると思います。
中でも
(376)使わなかった手帳」が、スラデク「教育用書籍の渡りに関する報告書」と同じテーマで興味深かった。勿論影響関係はなく、このような同時発生的なシンクロニシティは<幻想小説素>で説明したくなってしまいます(^^;。(224)古い硬貨」は一種の時間テーマで、ちょっとしたセンス・オブ・ワンダーを覚えました。こういう話は眉村さんは実にうまいです。

(297)シャンデリアの電球」は、「夫婦共通の話題」なんでしょうね。上の(376)使わなかった手帳」、「(395)?印」も、こっちの面があるかも。

(198)偶然の顔」(228)絶叫ボックス」は、一般的なショートショートといっていいのではないでしょうか。

さて、エステルハージは
「イギリス人魔術師ジョージ・ペンバートン・スミス卿」を読む。あんたは筒井康隆か、と言いたくなるドタバタ(笑)。筒井さんの戯曲形式に多いのですが、一つの場所(舞台。多くは部屋)にとんでもない連中が押し寄せててんやわんやになる、あの形式。残念ながら冷蔵庫からシロクマは飛び出してきませんでした(^^ゞ

<お知らせ>
当掲示板サービスが明日土曜日0時から24時のまる24時間、メンテナンスで閲覧できなくなるようです。あしからずです。

 



「僕と妻の1778話」読み中(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月25日(木)19時54分50秒

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 『僕と妻の1778話』から、まずは10篇読みました。妻の悦子さんに好評だった作品を眉村さんが選んだメモリアルセレクションとのことで、興味津々で読みだしたのですが、なんとなく傾向が見えてきました(^^;。それは、やはり(考えたら当然でもあるのですが)夫婦に関わりのある題材が多く占めていることです。

第1作目
「(1)詰碁」は、悦子さんが興味を持っていた(持ち始めていた)碁の話。この話に限らず、(今回読んで気づいたのですが)文体は語りかけ調であり、当然悦子さんに対して語りかけているんですよね。
「(6)特別喫煙室」は、執筆当時、著者自身がヘビースモーカーでしたし、
「(91)魔除け」は、「闘病生活に入ってまもなく二人でいった奈良県の壷阪寺で求めた鬼の顔」の魔除けにインスパイアされた話。

「(119)一号館七階」は、いうまでもなく阪南団地で、ご夫妻が13年間暮らした室は1号館の7階でした。こういうテーマなら読んでもらえるのではないか、との戦略も垣間見えますなあ(^^;
「(154)ゲラ修正」は、いかにも作家にはありそうなシチュエーションで、それは作家の妻である悦子さんにとっても馴染みぶかくも興味深い話であるのでしょう。
(174)書庫の話」も、実際夫が本の整理で頭を悩ましているのを知っている妻には取っ付きやすかったに違いありません。

あと、
「(127)ミニミニロボット」は、司政官のロボット官僚が意外に女性に好評であるのと繋がるもので、著者が明かす悦子さんの「アハハ」は、女性一般を代表した反応のように思われます。
「(89)生命反応探知装置」は、出だし本格的なショートショートであり、というか本格的なショートショートを装った話で、つまりラストはそれを裏切る結末なんですが、そういうオフビートが効いた作品。

二段構えの
「(27)調査」は、前段はもっともらしいけどよく考えればありえないシチュエーションであり、しかも後段で、それすら後ろに置いてきぼりを食わす(私の言葉で)アセンション物に分類できる作品。読めば読むほど可笑しみが伝わってくるという、眉村さん好みの話。
「(162)悪徳大名」は、実際著者がこういう夢を見たのかどうか、定かではないが(私はたぶん原型的なものは見たのだと思う)、それを「いや今日はこんな夢を見たねん」と、単純に直接言えばいいものを、ショートショートにフィクション化して妻に提出したもの。上記の「語りかけ」の面が強く出た作品だと思います(^^;。

『エステルハージ博士……』も順調にゆっくり進めておりまして、
「熊と暮らす老女」、「神聖伏魔殿」の二篇を読了。あ、やっぱり「キリスト悪魔教」が出てきたではないか(^^;。いやもう、たまりませんなあ。これぞ私がSFに求める<理想型>をほぼ体現した小説といえそうです。

 



「僕と妻の1778の物語」予告編

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月24日(水)18時33分33秒

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映画「僕と妻の1778の物語」の予告編が、高井信さんのところにアップ(リンク)されています→ショートショートの……
コメントにも書かせていただきましたが、こんなアコギな映画を思いつき、製作してしまう監督って、私にはもう鬼っ!としか思えませんです(^^;

 



眉村さん情報・完成披露試写

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月24日(水)09時06分25秒

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雫石さん
昨日は10時半まで三宮にいましたが、繋がりが良くて、12時過ぎには最寄り駅に帰着。これで神戸で飲むときの腰をあげるタイミングが大体わかりました。いつでもオッケーです(^^;。

中さんにキンドルを触らせてもらいました。表示は紙に印刷した感じに充分近く、これならいいですねえ。でも中さんもどう利用しているかといったら、青空文庫を読むくらいみたいなので、日本語の作品が充実してこないと、食指は動きませんね。

眉村さん情報ですが、22日(月)の「いい夫婦の日」に、六本木で『僕と妻の1778の物語』の完成披露試写があり、眉村さんも観られたとのこと。いよいよ迫ってきたなという感じです。

私も、ようやく昨日、集英社文庫『僕と妻の1778話』をゲットしました。本文はまだ読んでいませんが、巻末解説が、娘さんで歌人の村上知子さんによる「両親の1778日」。あの壮大な構築が、夫→妻の一方向のものではなく、妻の夫に対する応援の面が確かにあったというのは、これまで誰も言ってないはずで、そういわれてみればそのとおりかも知れんなあ、と頷かされた。家族だから分かる心理の綾でありましょう。原文はもっと深いので、短い文章ですし、ぜひ直接当たってみて頂きたいと思います。

 ――とにかく、父母が三十代四十代のころはよく飲んだのだ。なじみのバーも多かったし、私も時々連れていかれた。その中には、母がよくカラオケで『百万本のバラ』を歌った「ワインリバー」というスナックや、ジャズライブを聴いた「ニューサントリー5」などがあった――

 



Re: 間に合わない

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年11月24日(水)04時57分23秒

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> No.2762[元記事へ]

残念でしたね。中さんの講演はものすごく、おもしろかったですよ。
きのうは午前中は会社で仕事してました。会社も神戸です。昼まで仕事して、昼飯食って、ゆっくり歩いて行きました。地元民は近くです。西さんはもっと近いです。
泉州は遠いですね。でも、車だと近いです。昔、車を持っている頃、二色浜によく潮干狩りに行きました。神戸から阪神高速海岸線を走って、1時間足らずで着けましよ。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



間に合わない

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月23日(火)12時24分19秒

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バタバタしていて講演に間に合わなくなったので、あきらめてゆっくり行くことに。宴会に直接向かいます(>おい)。
といっても、なんせ片道正味二時間ですから、プラス書店滞在時間を考えるならば、昼飯を食ったらそろそろ出かけなくてはなりません。遠いな神戸は。逆にいえば神戸市民にとって泉州は遠いわけで、神戸空港を作ろうなんて考えを起こしたのも、その意味じゃ理解出来ないこともないですな。大阪湾越しにお互い目視できるのにね(^^;

 



眉村さんテレビ出演

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月22日(月)20時28分36秒

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眉村さんのTV出演、みなさんご覧になりましたか?
私は、なんと突発的事態出来で、見ること能わずなのでありました! 哀号!
なんとかラジオで、音声だけは聴取するを得ましたが、このたびの眼目であった眉村さんの書庫を拝見できなかったのは返すがえすも残念至極。
とはいえ最終話の朗読には、久しぶりに聞きましたが、やっぱりじわっときますねえ。由緒由来を離れて、独立した作品としてみても、これは名作というべきです。将来、眉村さんの代表作になっているのではないでしょうか。
今回集英社文庫で発売された『僕と妻の1778話』は、1778話の中から、妻悦子さんに特に好評だった52編を選び、全編眉村さんによる裏話を添えて収録した<メモリアル・セレクション>とのこと。
私は明日神戸に行く折に購入する予定ですが、とりわけ今回のテレビで初めて知ったという方がいらっしゃいましたら、ぜひ購入してお読みいただきたく思います。→[amazon] [bk−1] [紀伊國屋書店] *なおリンク先よりお買い求めいただきましても、管理人にアフィリエイト等が発生することは一切ありませんので、心おきなくご利用ください。

さて、明日神戸に行くというのは、勿論「横溝正史生誕地碑建立六周年記念イベント」に参加するため。詳しくはこちら→http://nabariningaikyo.blog.shinobi.jp/
ご興味のある方はどうぞ。無料です。

 



Re: 眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月21日(日)23時39分53秒

返信・引用

 

 

> No.2759[元記事へ]

斎藤さん
あ、購入されましたか。私は祝日に大阪へ出るので、そのときに購入しようと思っています。

>念のためと思い棚を見たら一冊だけありました
それはひどいですね。通常よりも刷り部数は多いのではないかと思っていましたが。
ということで念のため旭屋書店の店舗在庫を見てみました→http://www.asahiya.com/book_search/book_search_SearchList.asp
さすがに地元の天王寺店は46冊! おそらく50冊は入荷していたんじゃないでしょうか。ちなみに大阪市内の他の店は、本店4冊、梅田地下街店16冊、なんば店17冊。本店が異常に少ないのですが、これは売れたんでしょう(^^)。それにしてもかなりドラスティックな在庫振り分けをしたような。その結果斎藤さんの所のような書店も出たのかも知れません。いやいや、きっと売れたんですよ(^^)

 



Re: 眉村さん情報

 投稿者:斎藤  投稿日:2010年11月21日(日)23時09分59秒

返信・引用

 

 

> No.2755[元記事へ]

集英社文庫の『僕と妻の1778話』を本日店頭で購入しました。
情報ありがとうございました。全く気付きませんでしたので、この掲示版で情報をアップ頂き本当に嬉しく思います。
昨日発売ということでしたから、文庫新刊の平台をずっと探しましたが見つからず、念のためと思い棚を見たら一冊だけありました。
「出たばかりで棚に一冊だけとはふざけるなあ!!」と先ず怒りが先にこみ上げて来ましたが、本を手に取ると、新刊が手にできた歓びで怒りは忘れてしまいました。
出版芸術社の『沈みゆく人』の情報もありがとうございます。
年末が楽しみです。
それと年明け封切の映画も是非見たいと思っています。

 



「エステルハージ博士の事件簿」読み継ぐ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月21日(日)21時13分35秒

返信・引用 編集済

 

 

いやー読むほどに、この架空世界こそが主人公の感が強まってきますね。今日もまた触発されて妄想したり調べたりしてしまいました。以下箇条書きに――

・本書の世界にはアヴァール人(語族)というのが700万人という大勢力で存在するのですが、現実のアヴァール人は、スラブ人がバルカン半島に南下してくる前にドナウ河畔にいた東方起源の遊牧民です(柔然説あり)。もちろん「この」バルカン半島には存在しない民族。
・スロヴァチコ人は、最初スロバキア人のことかと思っていたのですが、件の地図に当たればベオグラードの西北域が居住地域らしく、スロバキア人では合わない。(この世界の)スロベニア人かと思われます。
・(地図上の)アグラムはザグレブですね。
・としますと、現在のスロベニアの領域は、小説世界のオーストリア領になる。スロヴァチコ人は現スロヴェニア人居住地より南東にいたという設定か。
・つまりブーメラン型の現クロアチアの国土の西翼がイリリア(クロアチア)で、東翼にスロヴァチカ(スロヴェニア)人がいた? となりますと、彼のウロクスがボスニアヘルツェゴビナと定まる。ウロクス人が差別されていると記述されていますが、なるほど差別されてるわけだ!
・ボスニアに回教が広まる前は、グノーシス系のボゴミール教が信仰されていたんですね。妄想ですが、ウロクスにボゴミール派が残っていたら面白いんだが。そうすると、『マラキア・タペストリ』と繋がるんです(笑)→チャチャヤン気分
・アヴァール語族が700万人に対して、スロヴァチコが350〜400万(約半分)というのはいかにも少ないような気が……。しかし「これは三重帝国に」(47p)在住する人数ということ。つまりオーストリア領内(現スロヴェニア)とに分断されている(合計で700万)という含意なのではないでしょうか。
・ところが、いま調べたらスロヴェニア人の推計総人口は250万人! うーむ。かの世界は現世界より人口稠密なのかな(^^;
・と一瞬思いましたが、この350万は、三重帝国外人口(現スロヴェニア領人口)からデイヴィッドスンが推計した架空の(地図に切れ目を入れて継ぎ足した)三重帝国内の架空のスロヴァチコ人口なんでしょう。
・だいたいアヴァール語族700万人というのが、現実には存在しない数字(笑)なんですから、スロヴァチコ人の350〜400万というのも存在しない数字。

――と、妄想の上に妄想を重ねてしまいました。
こういうのはデイヴィッドスン本人に訊きたかったな。「先生これはこうでしょ?」 「ふっふ、残念でした。キミそれはやな、実はこうなんや」、嬉々として語ってくれそうな気がするなあ(笑)。

ということで、
「エルサレムの宝冠 または、告げ口頭」読了。
黄門かよ!(笑)
などと笑っている場合ではない。のこり6篇になってしまったではないか。読むのが早すぎる。もっと遅く、もっとゆっくりと!

追記。眉村さんのTV出演は明日ですよ。みなさんお見逃しなく!→<スーパーニュースアンカー>関西テレビ16時53分〜17時54分

 



「エステルハージ博士の事件簿」読み始める

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月20日(土)22時09分43秒

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『エステルハージ博士の事件簿』には、表紙裏と裏表紙裏に共に見開きで、首都ベラの地図とスキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国がオーストリア=ハンガリー二重帝国の南に存在する<バルカン半島>の地図が印刷されています(どちらもJ・ウェストフォール刻とあります。ウェストフォールって誰なんでしょう?)。本書は表向きは短篇集ですが、実はこの<世界>そのものが主人公というべき、ひとつづきの長篇でもある、いわば『ヴァーミリオン・サンズ』のような小説なんですよね。したがって読者は、この世界に入り込んでしまうために、まずかかる地図を頭に叩き込んでおいたほうがいいでしょう。
そんな理由がなくとも、私は地図が大好きですから、しげしげと小一時間見入ってしまいました。で、いろいろ発見。ルリタニアはこんなところにあったのか(ゼンダ城はたしかに国境に位置してます)、とか、ヒューペルボレオスってこんなちっちゃな地域だったのか、とか、琴欧洲の出身地は、してみるとパンノニアに含まれるのか、ゼンダ城からもそう遠くないな、とか、ウロクス人は民度が低く差別されているようだが、<この世界線>ならばサラエボ辺であるな、セーブル河はボズナ川かな、とか、イリリアは古代民族の地名かと思っていたのだが、調べたらそうでもなく、クロアチア人が自称する場合もあるのか、とか、どうでもいいことまで含めていろいろ妄想してしまいました。
ということで、地図を心ゆくまで眺めてから、まずは
「眠れる童女、ポリー・チャームズ」に着手。ゆっくり読んだんですが、いかんせん「終わりありし物語」ゆえ、いつか終わりがやって来る。しぶしぶ読了。いやーどっぷり浸りきって、しわしわにふやけちゃいました(^^;。この作品は、本書の解説者でもある殊能将之さんが自身で訳してネット公開していたのと、新異色作家短篇集『狼の一族』の古屋美登里訳のも読んでおり、今回が三読目。何度読んでも面白い。いや読むほどに面白さが広がっていきます。感想は上に書いた理由で一篇ずつ書くのはあまり意味がないと思いますので、まとめて書きます。
しかし、のこり七篇になってしまったではないか。もったいないからちびりちびり読んでいこう。年内いっぱいかけてもいいかな(^^;

 



「ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語」(下)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月19日(金)19時02分58秒

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> No.2754[元記事へ]

承前
本書は作品集で、短篇が三本収録されています。
「ティーショップ」(05)は、乗ってきた列車が遅れたため乗り継ぐべき列車が出発してしまい、乗換駅で次の列車を待たなければならなくなった女性が主人公。何度も言ってきてますが、「小説世界への到着」は幻想小説の重要な契機であり、往々にしてそれは「列車での到着」なんですよね。本篇もまたそのモチーフを踏襲しているわけです。このように同じ(似た)モチーフが伝播関係の認められない別の作品にそれぞれ独立的に現われる現象は、『夢の遠近法』でも再三取り上げました。そのときはまだ思いつかなかったのですが、このようなモチーフ群を、レヴィ=ストロースの<神話素>に倣って、<幻想小説素>と名づけてはどうでしょうか。これらは諸個人の無意識の深奥で通底している集合無意識から曳き上げられてくるものなんでしょう。

さて、主人公は「到着」しました。そこは一体どんな幻想界だったでしょうか? 主人公は2時間半の待ち時間をどうつぶすか、考えあぐねます。読んでいた本は残り80頁しかなく、それは旅の最終区間に見合う量なのであって、今ここで読み切ってしまうわけには行かない。このことから主人公が読書好きの婦人であることが分かります。そこで主人公は、目に止まった喫茶店で時間を潰すことを思いつく。店のメニューには変った名前のお茶が並んでいます。そのなかでもとびきり変わっていて目を引いたのは<物語のお茶>! 主人公はそれを所望する。すると――

注意>ここから先は、まず実作を読まれることをおすすめします(^^;

いやー実に巧緻な作品になっているのですよ。オチ? うーんそうでもないんですけどね。むしろ「趣向」というべきか。実はこれだけのほのめかしでも、読み慣れた鋭敏な読者は、その趣向に始読即気づいてしまうのでは(汗)。私自身は、最後の話者が語った男の顔の描写で、あっと叫んで最初に戻りました。どんな鈍い読者も、ここで分かるように作者は仕掛けているわけです(^^;。うまい!

ところで結局、主人公は<小説世界>(物語の世界)に留まる、というか(おそらく積極的に)加わっていくのだろうと推量せられるわけですが、それは単に読書好きだから、というだけの理由でしょうか。私は、そもそもなぜこの主人公は旅に出たのか、を重視したい。そう思ったのは、次の作品を読んだからなのですが……。

「火事」(01)は本集中の白眉。<図書館SF傑作選>が編まれるならば、「バベルの図書館」と共にぜひ収録してほしい作品(笑)。
主人公は図書館の司書。不思議な建造物が焼亡する嫌な夢を見た朝、気分がすぐれないけれども、いつものように夫の車に便乗して図書館に出勤します。この間(かん)、長年連れ添った夫との間に会話はない。主人公はこれを夫婦生活の安定のしからしめるところ、一種の「阿吽の呼吸」と考えています。図書館でコンピュータを立ち上げていると、変な映像が現われる。それはなんと今朝、夢に見た建造物。解説者に従えば、(映像がある筈のない)アレキサンドリア大図書館なのでした。当時世界中の書物という書物(当然紙の本ではなくパピルスの巻物)を蒐集したと謳われる大図書館です(但し解説者は勘違いして「ギリシャの」と記しています。もちろん所在地は「アレキサンドリア」)。主人公が見守るうちに図書館は(夢に見たとおり)火災を起こし焼亡する(現実のアレキサンドリア図書館もそう)。と――、前作同様、作中世界とコンピュータが映し出す古代世界がシームレスに繋がり……

主人公はこの不可思議な体験を、帰宅の車の中で、夫に語ろうとして、結局已めます。会話がなくても大丈夫なように、カーラジオもすでに夫によってつけられているのでした。……

という具合に、主人公は合理化しているのだが、折々挿入されるのは倦怠期の夫婦の図です。会話のない夫婦。それは一面では安定でもあるが、それまで保っていた引力が斥力に負けつつあるのかも。斥力が引力にまさったとき、主人公は<旅>に出るのかも知れません。
そういう意味で、本集の構成は、本篇を頭に持ってきて、次に「コーヒーショップ」を並べたほうが、私はよかったように思うのです(実際本篇のほうが「コーヒーショップ」より発表も早い)。しかし切れ味鋭い「コーヒーショップ」を頭に持ってきた編者(訳者?)の考えもよく分かります。

「換気口」(03)は、最近はやりの<多元宇宙>テーマ。事故で頭を強打した少女は、その結果、目をつぶると、光の線が無数に撚り合わさった光の太い束が見えるようになる。それは未来へと伸びるこの世界の<可能性>の束なのだった。その無数の光の線のうちの一本が、次第に太く強く輝きだし、未来が確定する。ではどういうメカニズムで、未来は確定するのか? 偶然が介在するのか? 神の御手なのか? そして少女は、怖しい事実に気づき……
これは珍しく、SFの王道を行くテーマに著者は挑戦していますが、もとより一筋縄の筋立てではない。全体の色調は、戦前の変格探偵小説を髣髴させるもので、一種異様な感覚が楽しめました。

ということで、ユーゴスラビアの(SF)作家ゾラン・ジフコヴィッチの奇妙で魅力的な
『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』山田順子訳(黒田藩プレス)読了。これはおすすめです! お値段も(消費税・送料込みで)800円と価格破壊並み(笑)。お買い求めください→こちら。いまリンク先見たら、「特別価格中」とあります。期間が終わったら消費税・送料が付加されるかも知れません。今がお買い得!!

尚、こちらによれば、現在編集中の『新東欧SF傑作集(仮)』に著者の作品が載るようです。刮目して待ちたいと思います。代表作(解説による)『図書館』の翻訳も、本書が好評ならば期待出来るのではないでしょうか!

アヴラム・デイヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』に着手しました。

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月18日(木)21時03分47秒

返信・引用 編集済

 

 

◎集英社文庫より、『僕と妻の1778話』が出ます。1778話の中から、妻悦子さんに好評だった作品を中心に52話選んだ<メモリアルセレクション>で、全話、執筆時の裏話が付されているとのこと。
急ですが、明日から店頭に並ぶようです。あ、ネット書店ではもう在庫になっていますね→[amazon] [bk-1] [セブンネット]
(註)なお、上記リンクより購入されても、管理人にアフィリエイトが発生することはありませんので、安心してご利用下さい!
 

◎出版芸術社より、待望久しかった眉村さんの新作作品集『沈みゆく人』が、いよいよ来年早々に出ます(12月末より店頭に並びます)。「エイやん」系列の<私ファンタジー>の書き下ろし四篇収録とのこと。四年ぶりの新作短編集ということで、これは楽しみです(^^)

◎11月22日の関西テレビ<スーパーニュースアンカー>に出演、というか、玉岡かおるさんによるインタビュー録画(書庫で?)が放映されます。この番組はひょっとしたら関西だけかもですが、ご覧になれる方はお見逃しなく。勤労感謝の日の前日の月曜日ですよ。

新潮新書の『妻に捧げた1778話』も増刷完了とのことで、さすが新潮社、おさおさ怠りがありません。年始に向かってどんと来いという感じですな(^^;
眉村先生ご自身も、この年末年始はいろいろお忙しくなりそうですね。恒例12月のヨーロッパ旅行も、今年は11月1日から10日まで、既に行って来られたそうで、準備万端、どこからでもかかって来なさいという感じでしょうか。
この後もさらにいろいろお伝えできる情報がありそうですので、ご期待ください。

*)尚、暫くこのエントリをトップに置いておきたいので、「ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語」(下)の投稿は明日に延期いたします。

 



「ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語」(上)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月18日(木)16時41分8秒

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ゾラン・ジフコヴィッチ『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』山田順子訳(黒田藩プレス10)、読了。

著者はバルカン半島ユーゴスラビアのSF作家。解説によれば、既訳にSFマガジン82年4月号掲載の「琴座計画」があるそうで、そういえばタイトルをうっすらと覚えています(つまり読んでない(^^;)。
そういうわけで今回が初読となるのですが、さらさらとあっさりしたお茶漬けのような作風で、こってり濃厚な山尾悠子のあとに読むのには(偶然ですが)最適な選択だったかも。するりと僅かな時間で読みきってしまいました。
実は解説部分を含んでも140ページ、しかも1ページあたりの文字数も一般的な小説本にしては少なく、ほぼ400字詰め1枚に換算できる。つまり全部併せても140枚の小さな本なのです。数時間で読了できて当然なのでした。
これぐらいのボリュームがいいですね。私のような遅読者でも一気に読み切れるちょうどよい分量。しかも軽いから読んでいて腕も疲れません。

そもそもわが国は、安楽椅子でゆったりと読書するイギリスじゃないんですから、一般的な読者の大半が、通勤時間を主たる読書タイムにしていると考えてあながち間違いではないと思われます。そういうお国柄(読書環境)なのに、日本の書籍はどんどん分厚く重くなって来ていますよね。いったい、満員電車で片手は吊革で塞がれ、もう片方の手だけで本を持って無理やり読書している読書人の姿を(シーンを)、出版社は想像したことがあるのかな。自分たちの都合(部数減を頁数の増化と過剰な付加価値(>豪華本化)で対応)だけ考えて、読者の読書環境などまったく考慮していないんじゃないでしょうか。

ちょっと話がそれますが、私が以前勤めていたのはチェーンストア業界なのですが、そこで口を酸っぱくして教えられたのは、客を抽象的な消費者としてみず、具体的な(生身の)生活者として想像しろ。食品部門ならば台所と食卓にいる(血の通った)客を、そのシーンを想像しろということでした。
たとえば食品のパッケージはここ数十年来の傾向として多品種少量化してきていることは皆さんも常日頃感じておられることと思います。ところが今度はその少量化・多品種化がお題目・新たなる抽象化になってしまうこともある。
私はかれこれ二十年前、当時まだ所謂<新住民>の流入が少ない地方都市の店に配属されたことがあるのですが、チェーン店の長所であり欠点は、日本全国同じパッケージが並ぶことなんですね。いったん少量化したパッケージが標準化すると、大家族主体の地域でも同じ売場になってしまうのです。私は逆に業務用品並の大容量パッケージ(量目が増えるので価格は見かけ上がりますが、定量当たり単価は下がる)を実験的にその店で扱わせてもらったところ、大好評で成績も上がり、その後そういう地域では大容量品の品揃えがパターンとして商品部に取り入れられたのでした。いや自慢する訳じゃないですが(>しとるよ)(^^;
まあチェーンストアに限らず、民間企業ではこういうのは当たり前の発想といっていいでしょう。どうもそういうCS的発想が出版社では機能していないのかなあ。本来の流れは単行本はソフトカバー化(片手で曲げて持てる)、文庫はズボンのポケットに入る厚さ(上着の内ポケットにならkindleだって入るんです(だそうです)。書籍はとりあえず何でもいいからkindleに出来ないことを目指さなくては)だと私は思いますがね。それができていないということは、出版社が民間企業「未満」な企業形態だということでしょうね。

や、前置きが長くなってしまいました。疲れちゃったので(というかそろそろ相撲が始まるので)本文はのちほど(>おい!)

 



村上芳正展終了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月17日(水)20時24分45秒

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ギャラリー・オキュルスの村上芳正展は13日、盛況裡に終了したそうです。
そして翌々日15日の東京新聞夕刊には、あたかも展覧会を総括するかのように、(拝み鳥)という方によって(どうやら著名な方の筆名らしい)「異端の装丁画家」という記事が掲載されたとのこと。村上芳正再発見の機運の高まりを感じますね。
村上芳正展は第二弾がありまして、来年2011年4月に市立小樽文学館にて再度開催されるそうです。北海道の皆さま、チャンスです(^^ゞ
しかしまあ、とりあえず第一弾が終了しましたので、展示予定作品をご紹介しておきましょうか。

> 1  日影丈吉『日影丈吉未刊短篇集成』(牧神社出版/1974年)
> 2  沼正三『家畜人ヤプー』(角川書店/1984年)
> 3  多田智満子『四面道(知らぬ時刻に)』(思潮社/1975年)
> 4  ジャン・ジュネ『花のノートルダム』(新潮文庫/1969年)
> 5  ジャン・ジュネ『薔薇の奇蹟』(新潮文庫/1968年)
> 6  曾野綾子『蒼ざめた日曜日』(桃源社/1971年)
> 7  澁澤龍彦編『暗黒のメルヘン』(立風書房/1971年)
> 8  倉橋由美子『聖少女』(新潮社/1965年)
> 9  沼正三『家畜人ヤプー』(角川文庫/1972年)
> 10 沼正三『家畜人ヤプー』(都市出版社/1970年)
> 11 連城三紀彦『戻り川心中』(講談社文庫/1983年)
> 12 曾野綾子『落葉の声』(読売新聞社/1976年)
> 13 立原正秋『血と砂』(新潮社/1972年)
> 14 バイロン『バイロン詩集』(新潮文庫/不明)
> 15 吉行淳之介『吉行淳之介長編全集』(新潮社/1968年)
> 16 『よいこの名作館1 シンデレラ』(暁教育図書/1977年)
> 17 沼正三『家畜人ヤプー』(都市出版社/1970年)
> 18 連城三紀彦『密やかな喪服』(講談社/1982年)
> 19
> 20 吉田知子『蒼穹と伽藍(さんざめく終章)』(角川書店/1974年)
> 21 吉田知子『蒼穹と伽藍(美しき対話)』(角川書店/1974年)
> 22 吉田知子『蒼穹と伽藍(彼方にて1)』(角川書店/1974年)
> 23 多田智満子『四面道』(思潮社/1975年)
> 24 多田智満子『四面道』(思潮社/1975年)
> 25 多田智満子『四面道』(思潮社/1975年)
> 26 中井英夫「殺人者の憩いの家」(『幻影城』1978年6−7月号)
> 27 中井英夫「殺人者の憩いの家」(『幻影城』1978年6−7月号)

いやあ壮観ですなあ。このリストを見て、しまった観に行っとけばよかったとほぞを噛んでいる方も多いのでは? そんな方は来春小樽へGOですよ! 今から500円貯金をはじめましょう! 500円x約150日で7万円。十分往復の航空運賃が出るんじゃないでしょうか(笑)。

 



欧洲女性ポップス大全集私家版

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月17日(水)00時52分55秒

返信・引用

 

 

ジフコヴィッチを読み出す前の景気付けにと、youtubeでナナ・ムスクーリを聴き始めたら(いやまあ隣国だから(^^;)とまらなくなって、60年代後半-70年代初頭のヨーロッパ女性歌手大全集になってしまいました(笑)。
あの頃はヨーロッパの軽音楽もたくさん日本に入ってきていたんですね。ナナ・ムスクーリ(希)、ジリオラ・チンクェッティ(伊)、フランスは枚挙にいとまがないがシルヴィー・バルタン、ヴィッキー(独)、メリーホプキン(英は欧洲じゃないのかな)、ついでにマリスカ・ヴェレス(蘭)(^^ゞ……
いや懐かしい! ほっといたら徹夜で聴いてしまいそうです。

 



「夢の遠近法」より(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月16日(火)17時14分33秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2750[元記事へ]

(承前)
や、入荷リクエストしていたセブンネットから『エステルハージ博士の事件簿』入荷の連絡が来ちゃいました。やっぱり予定は未定だったか(汗)。ちょっとくつろぎ過ぎちゃいましたね。ということで残り手短かに――

「童話・支那風小夜曲集」はシノワズリをテーマに書かれた中国ファンタジー掌篇集で、志怪小説に通じる感じ。マイフェイバリットは「スープの中の鶏」で、未明や賢治にも引けを取らない逸品。

「透明族に関するエスキス」は、まさに表題どおりのスケッチ風、自作解説にアニメーションかCGによる動画のイメージで(読み手は読め)とありますが、私はなかなかそういうイメージが浮かんでこず、ようやく「E 場面は変わらず夜明けから朝へ」に登場する自転車の少女で、はじめて細田守「時をかける少女」の主人公めいた映像が浮かび(かの少女も一生懸命自転車をこぐ場面があった筈でそれが融即したのかも)、しめしめと思ったの束の間、以降も映像が発火することはなかった。自作解説の東欧製の人形アニメーションというのはなるほどと思いましたが理解の範疇。まあそもそもアニメを殆ど見てませんから当然かも。

「私はその男にハンザ街で出会った」、タイトルがいいですねえ。それだけで絵が浮かびそう。もっともハンザという街は実在しない筈。ただ商人街のイメージはあって、本篇の街のたたずまいはそれに合致します。一種のドッペルゲンガー譚で、両者が親しく(むろん愛憎せめぎ合わせて)交わっているというのは珍しい設定ではないでしょうか。ラストのエレベーターのシーンが素晴らしい。

「傳説」「月齢」「眠れる美女」は、<散文詩小説>(わが命名による)。そういうわけで、私はクラーク・アシュトン・スミスを連想せずにはいられなかった(>リンク先参照)。スミスは志怪風の小説も書いているんですよね。いずれおとらず色彩豊かな表現力に酔わされます。

「天使論」は京都宵闇幻想譚。あの某住職も通った某大学が、映像喚起力溢れる文体の力で、まるで南ドイツの古い大学のように見えてきます(註>イメージです(^^;)。

ということで、後半駆け足ながら
山尾悠子『夢の遠近法――山尾悠子初期作品選』(国書刊行会10)読了。堪能いたしました。

ひきつづき、『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』に着手。しかしよくよく考えてみれば、なんか出版社の思うがままに操られているんじゃないかという気がしてきた。なんで出版社のカレンダーにこっちが合わせにゃならんのだ! なので、ジフコヴィッチもやっぱりマイペースで行くのであった(^^;

 



「夢の遠近法」より(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月14日(日)22時11分10秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2745[元記事へ]

承前

「遠近法」の<腸詰宇宙>世界は、「バベルの図書館」の<図書館宇宙>世界と構造は同じです。ただ後者では視線が、中心に背を向けた外がわ――内壁の書棚に向かうのに対し、本篇では、まさに中心へ、上下に無限の空洞の、その視覚の遠近法へと向かっている。視線の向きが正反対なのです。
その結果、後者を読んでいても、遠近法が開示する空間的な無限のイメージはまったく伝わってきません(著者ボルヘスにはそれを描く気もない)。つまりこの二篇は、同じ構造の宇宙を舞台としながら、お互い関心が正反対の方向に異なり、それぞれ別々の事態を描いているといえる。自作解説で著者が述べるように、
「想像力の質」が異なっているのです。ですから著者は、何も「(表面的な)相似に気づいて狼狽」することはなかったのだと私は思うのです。むろん著者も、(その後に)当の事実に気づいたからこそ「表面的な相似」と言っているわけであり、本篇を仕上げてもいるわけです。

さて、本篇の描写する「空間的畏怖」は圧倒的です。合わせ鏡を巨大化したような、離れるに従い上下に無限にすぼまって、それぞれ消失点に収束する「遠近法の魔術」(143p)に捉えられた視界を想像するだに、くらくらとめまいがしてきそうです。一種崇高美を帯びたセンス・オブ・ワンダーすら感じてしまいます。乱歩の「鏡地獄」などよりずっと可視的で具体的な恐怖感があります。SFが想像してきた数あるシーンのなかでも屈指のヴィジュアルではないでしょうか。なるほど作中の住民が、恐怖にかられて発作的に飛び降りてしまうというのも納得させられます(飛び降りる記述はボルヘスにもある。が、本篇ほどには意味を担わされてはいない。イメージそのものは、このような世界を構想すれば、著者の言うように
「想像力の器械体操」で、ある意味トコロテン式に自動的に出てくるシーンともいえるものです。要はそれをどういうシチュエーションで用いるかなんです。同様の意味で、本篇の「九万階上層の老人」には彼の「書物の人」が対応)。

ところで著者は、本当に書き始めたあとに、
「相似」に気づいたのでしょうか? 実はもともと「気づいて」いたのだけれども、表層的なあげつらいをする読者を予め想定して、書き始めるに当たってこのような構成にした、ということはありえないだろうか。
その可能性は十分にありえると思います。しかし私は、自作解説の
「気づいて狼狽した」という記述を、とりあえず信じて、以下続けたいと思います(むしろダリのように偏執狂的批判的にというべきか(笑))。

というわけで、私の(偏った)想像――。
最初の構想では、小説はこのような二重構造ではなかったのではないでしょうか。もっとストレートなものだったはずです。だいいち、このような構造にしなくとも、上述のとおりボルヘスとは狙いが違うのですから、オリジナリティ的には何も問題ない。
しかし著者は、「気づいてしまった」結果、構想を「変更」します(したんだと思う)――今我々が読んでいるこの定稿に。理由は、上記の「読者」を想定するからですね。

その「変更」は必要な措置だったと私も思います。当時の著者は殆ど無名の新人ですから、これくらいの用心は必要だったでしょう。それが、著者の私淑する(らしい)澁澤龍彦だったなら、そんな用心は不要なのです。周知のように澁澤の小説には、実際、多かれ少なかれ依拠した先行作品が存在します。が、だからといってそれを問題にする者はいません。澁澤が先行作品をこねくることで、別のオリジナル作品を創り上げようとしていることが分かっているからですね。しかし当時の著者に(もちろん現在だったら様相は違っているでしょうが)そういう読者の反応を期待する事はできなかったはず。

で、その変更は、しかし思わぬ効果を作品にもたらします。作品世界が重層化され、更に迷宮的となった。ボルヘス作品が、通常の小説のパターンを踏んで、一義的に<図書館宇宙>世界を、「小説内現実」に(形式的に)存在するものとして描写したのに対して、本篇の<腸詰宇宙>は、書かれた/書かれつつある小説の草稿として、「小説内現実」に居場所を見つける。直接の「小説内現実」は、話者の<私>と草稿の作者の<彼>がいる世界と(いちおう)なる訳です。
ところが、<私>が、先行作品としてのボルヘス作品を示唆するや、<彼>は消えてしまい、世界には主人公(と草稿)しか残らない。この「小説内現実」のゆくたては何を意味するのか。

私は、かかる「小説内現実」のさらに上層に、「小説内現実」を覗き込んでいる「者」の存在を想定しないではいられません。<草稿>世界の腸詰宇宙の住民が
「何もない空間の一部分が」開き「その矩形の欠落部分のむこうから」見下ろす「巨大な血走った双眸」(151p)を想像したように、この「小説内現実」に窓を開いて、上から覗きこんでいる者がいるのです。むろん<作者>です。もちろんこの<作者>は、現実の作者(を何ほどか反映してはいますが)と必ずしも同一でないのはいうまでもありません。

153頁で<作者>が、<私>をして、<彼>の作品が盗用なのかどうかという問題に対する
「自分の度を越した関心の欠落の意味に気づく余裕は、その時の私にはなかったようだった」といわしめるのは、同時に今ではその理由が分かっているということを示唆するものです。
何が分かったのか。
つづいて<作者>は、<私>をして「バベルの図書館」の存在を<彼>に明かさしめ、その結果<彼>は消滅する。結局これらは<作者>の心の「ゆらぎ」のアレゴリーとなっているように私には思われる。
「(表面的な)相似に気づいて狼狽」した、この草稿を書きかけていた<作者>は、その結果、ある種の心的危機を来たし、(危機を回避するために)一時的に<彼>と<私>に人格分裂してしまうのです。草稿は<彼>の裡に封印されてしまう。しかし「それを口にする必要がないのと同様に黙っている理由もない」という程度に客観化が回復して来(「表層的な類似」にすぎないということが了解されて来て)、<彼>という封印装置が不要となる。その結果、<彼>は消滅し、<私>と<作者>がイコールとなる。「私の内部から"彼"が欠落してしまった今、その小説を書いたのはこの私なのだと言うべきなのかもしれなかった」(167p)
すなわち本篇は、もっとも上層のレベルに於いて、一種の私小説、否、<私ファンタジー>とでもいうべき作品になっているとみることができるのではないか、というのが、私の(パラノイアック・クリティカルな)妄想なのですが(笑)

最後に、蛇足かもしれませんが、「遠近法」の結末――太陽と月の<蝕>のさなか、合体した太陽と月を飲み込む蛇(=宇宙の崩壊)のイメージは、
「ムーンゲイト」のラストと同じですね。天(=空)に属する太陽(「空洞の空間は天体の領域」147p)、水と同視される月(「水めいた奇妙にゆらめく微光を回廊群に放射」し、「子供たちの夢の中で月は青い水底に沈んでいく」144-145p)、鱗を持ち空洞(天空)を飛ぶ(翼を持つ)蛇。

 



「眠狂四郎無頼控 魔性の肌」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月14日(日)00時27分54秒

返信・引用 編集済

 

 

雫石さん
>横溝正史生誕地碑建立記念イベント
いやー楽しみですね〜。それでは東川崎地域福祉センターでお会いしましょう!

さて、GyaOにて「眠狂四郎無頼控 魔性の肌」(67)を観ました。
市川雷蔵のシリーズを見たのは初めて。案に相違して面白かったです(^^;
これは完全にファンタジーですなあ。伝奇ファンタジーといいますか、リアリティゼロで、まさに座頭市の対極的作品でした。
狂四郎の着物はどんなに藪を通り抜けようと、埃っぽい堂に寝っ転がろうと、全然汚れません(笑)。坂道を材木が転げ落ちてくる場面があるのですが(インディ・ジョーンズの巨石が転がり落ちてくるシーンと同じパターン)、一瞬で帯をとき、それを生えている樹の枝に投げ縄の要領で投げて巻きつけ、反動で宙に飛び上がって避けるのは、もはや漫画(笑)
これはシリーズ9作目ということもあるのかも知れませんが、ストーリーはあってなきが如き。同じパターンの場面の繰り返しで、途中でいささか退屈になってきましたが、狂四郎のウェイ・オブ・ライフは共感できる。これはまあ柴錬の原作の力なんでしょうが、柴錬の背景思想に共感してしまうのは、やはり私が昭和生まれだからなのかなあ、とも思ったり。平成世代にわかるのでしょうか、わかんねーだろうなあ。
それから、やはりこのコンセプトは、以前にも書きましたが、想像通り「必殺」に受け継がれていると思いました。音楽も踏襲していますね(トランペットとギターを強調したフラメンコ風というのか)。
次は初期の作品を見てみようと思います。

 



Re: 横溝正史イベント情報

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年11月13日(土)23時08分40秒

返信・引用

 

 

> No.2746[元記事へ]

私も行きます。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



Re: 横溝正史イベント情報

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年11月13日(土)23時07分9秒

返信・引用

 

 

> No.2746[元記事へ]

私も行きます。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



横溝正史イベント情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月13日(土)17時49分22秒

返信・引用 編集済

 

 

横溝正史生誕地碑建立記念イベントが今年(第六回)も開催されるとのこと。

昨年の第五回は有栖川有栖さんが講師でしたが、今年は我らが江戸川乱歩研究家・中相作大先生が講師とのことで、これは見逃せません。たのしい漫談が聞けると思います(おい)。今年は祝日開催なので、私も出席するつもり。

◎日時 11月23日(勤労感謝の日)午後2時開演
◎会場 東川崎地域福祉センター
◎入場無料
◎参考資料 [横溝正史江戸川乱歩関連年譜]

詳細は下のチラシ(中先生御製)を御覧ください! 
*それにしても小春ちゃん美人ですね。先生がところかまわず写真を貼りたがるはずです(^^;

 

 



「夢の遠近法」より(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月12日(金)20時22分11秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2740[元記事へ]

承前
「遠近法」読む。比べてみたくなって今回は「バベルの図書館」も読む(ついでに「内がわ」も)。
著者は「表面的な類似」(自作解説)といっています。たしかに重点の位置というか展開の方向は、この両篇では異なっています。「遠近法」では<視覚的イメージ>専一であるのに対し、ボルヘス作品は、むしろ「すべての順列組み合わせを蔵しうる図書館の無限性」という、一種<観念的イメージ>に重点が置かれているように思います。すなわち、「正書法上の記号の数は二十五」(というのがよく分かりませんが、さしづめ日本語ならば全漢字とひらがなカタカナの五十音と、濁点半濁点、句点読点)の順列組み合わせによって可能な「あらゆる言語で表現可能なものはいっさいをふくんでいる」文章(書物)をすべて所蔵した図書館のイメージ!
可能な全ての文字列が収納されているのですから、そこには当然「未来の詳細な歴史」書も存在している道理です(でもいかにそれが膨大でも、有限数の組み合わせは有限なので、無限の図書館は所蔵しうる)。
かかる観念は、ある意味ホワイトノイズの中から有意な情報を抽出してくる、かのSFと同じですよね(>と、ぼやかして書くのは、実はこの作品を実際に読んだことがなく、タイトルも憶えてないからで、ご存知のかたご教示いただけると幸甚。さいきんこんなのばっかり(^^;)。
もとよりマクスウェルの悪魔の変奏であるわけですが、結局、存在するかも知れないにしても(いや存在するのは間違いないが)、それが無限の図書館のどこにあるかを確定し取り出してくることの不可能性に帰着するのも、ある意味、熱力学第二法則のアレゴリーとも読めるわけで、実に面白く読んだのでしたが、「遠近法」はたしかにそういう方向へ進む話ではありません。(つづく)

 



Re: お教えいただきたいタイトルが・・・&眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月11日(木)18時41分6秒

返信・引用

 

 

> No.2743[元記事へ]

ねこざかなさん

どうもお役に立てず、ごめんなさい。

>なにぶん、三十年くらい前のことですので
そうなんですよね。私にも、いま読みたいんだけれどもタイトルも作家名もわからないというSF作品がひとつあるんです。ていうか、探求していたことをいつのまにか忘れてしまっていたんですが、ねこざかなさんのお訊ねで、そのことを思い出しました! ありがとうございました(^^; そのへんのいきさつ興味ある、と、酔狂にも思われたのでしたら、こちらにコメントしていますので、ご覧になってください(^^ゞ→http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2010-11-09?comment_success=2010-11-11T18:25:09&time=1289467509

>談話室をお騒がせして
いえいえ、そういうお騒がせは大歓迎です(^^)。ただし満足して頂ける回答ができるかどうかは保証の限りではありませんが(>おい)。又お気軽にお立ち寄り下さいね!

 



Re: お教えいただきたいタイトルが・・・&眉村さん情報

 投稿者:ねこざかな  投稿日:2010年11月11日(木)04時37分17秒

返信・引用

 

 

> No.2736[元記事へ]

管理人さん、斎藤さん、御教授ありがとうございました!

確かに、なにぶん、三十年くらい前のことですので、
記憶の混同があるかもしれません(汗)

当時、このような設定のパラレルワールドものを初めて読んだので、
強く印象には残っているのですが・・・

眉村先生の作品ではない可能性が高いのですね。
談話室をお騒がせして、すみませんでした(汗)

豊田有恒先生、福島正実先生の方向で探してみます。
「迷宮世界」、記憶とは少々違いますが、これかもしれませんので読んでみます。

この度は、本当に御厚情ありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。

http://nekozakana.blog.so-net.ne.jp/

 



Re: マイクロソフト云々 その他の弁明

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月10日(水)18時34分50秒

返信・引用

 

 

> No.2741[元記事へ]

かんべさん
>く、苦しい〜つ! 大分、疲れてはりますな
失礼しました。いまがおそらく躁末の(北杜夫によれば)最もアブナイ時期なので、元につけ込まれないよう気をつけたいと思います(>なんのこっちゃ)。しょーもないコメントにお付き合い下さり、申し訳ありませんでした(^^;

ねこざかなさん
問い合わせていた方から返事が来ました。それらしき作品は思い浮かばないそうです。あと、
「なんとなくですが「日本」や「アメリカ」といった実在の国名を使う作品は眉村先生は書かないのではないかと思うのです。もし占領下の国で……という設定が書かれるなら架空の国名になるような気がします。(そういうカタカナ名前がいつも独特の響きで好きですが)」とのことで、実は私も同じことを感じていました。
もちろんすべて推量の範囲で、仰るその作品が眉村さんの作品でないと確定するものではありません。けれども、斉藤さん他、眉村さん読みの皆さんが、これだという具体的な作品を思いつけないところを鑑みれば、やはり別の作家の作品の可能性が高そうですね。

訂正>昨日の投稿で、
(たぶん「日本SF全集2」)と書きましたが、今日確認したら全然違ってました(汗)。昨日は動くのが面倒で、机の周囲のものしか参照せず、安易に当て推量で書いてしまいました。とりあえず削除しましたが、そうなると「私の偽記憶」の可能性も出てくるわけで、場合によったら書き直さなければならないかもです。なにファンタジーに2種類あるというのは間違った発想ではないと思うので、簡単に修整は出来るんですが(ミステリーとミステリ、ホラーとホラの区別があるように、ファンタジーにもファンタジーとファンタジの区分を導入できるのではないか、とか言う風にして(^^;)、問題は私が実際に読んだ記憶なのか、偽記憶なのか、なんですよねえ‥

 



マイクロソフト云々

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2010年11月10日(水)11時46分26秒

返信・引用

 

 

く、苦しい〜つ! 大分、疲れてはりますな。

 



「夢の遠近法」より(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月10日(水)03時25分21秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2737[元記事へ]

(承前)

「夢の棲む街」が硬質な、いわば鉱物的幻想世界を展開するのに対し、「ムーンゲイト」のタッチはもう少しやわらかで粘度があります。前者の世界をハンマーで打てば、ガシャンと破片になって飛び散ってしまいそうですが、本篇の世界はそうではない。といって「月蝕」のように、生き物たちがいきいきと活動するリアルな現実世界でもありません(>本当は少し違うのだが、図式的に都合がいいので、あえて言い切っておきます)。本篇の位置は、この両者のあわいにある。著者が自作解説で述べているように、こういう作風は、やはり「ファンタジー」というのが適当でしょう。

ところで著者は、どこでだったかちょっと思い出せないのですが、たしか「ファンタジー」を否定的なニュアンスで使われていたと記憶しています。矛盾するじゃないか(^^;。いえいえ、そんなことは決してありません。まったく矛盾しないのです。くだんの文章で著者が「ファンタジー」の語のもとに想起していたのは、おそらく近年の超長大なファンタジー文庫や、ヤングアダルト文庫で上梓されるような作品だったのではないでしょうか。私はそのように理解しました。ところが自作解説で使われた「ファンタジー」は、それらとはまた別種の「ファンタジー」なんです。ぜんぜん違うものなのです。だとすれば、それは一体どのようなファンタジーなのでしょうか?

本篇の世界は、少なくとも地球ではありません。どこか別の惑星か、はたまた球体であるかどうかも定かではない、一種神話的な世界なのかも知れません。
で、その世界は水没しています。昔は島の上に建設されていた都(千の鐘楼の都)も、いまやベニスのように、すべての道が、大通りも路地も、水路と化しています。事実上の水上都市です。でも海上都市ではない。都は大河の中に浮かんでいるのでした。
さてこの世界は、東の果てに峨々たる峰々が聳え、西の果ては海です。大河は東の峰々から発し、長駆西の海に注ぐのです。

お、そうしますと本篇もまた「傾斜世界」が舞台ということになりますね(^^;。

閑話休題、そのような地理的理由もあって、この世界は、東西方向が南北方向より優越しています。ちなみに中国の都市は、南北が優越しています。南大門があり宮殿は都市の北に作られ南面している。その都市理念は、実に四千年前の夏墟において既に認められるものだそうです。本篇の<千の鐘楼の都>は東西優越ですから、東に大門があり、領主館は川下である西に位置している訳です。

かかる地理的理念は、いかにして醸成されたのでしょうか。
この世界では、月は地上に属しています(陽は天に属す)。これは観念ではなく物理的な事実としてそうなのです。ここがこの世界の特異な点なのですが、毎夕、月は東の峰の頂にある大湖の水中から、水面を破って飛び出し、空に昇り、東から西へと上空を移動して、最終、西の海に没するのです(没した月は地下を通って湖底に戻る)。この世界はそういう(構造の)世界なのです。かかる特異な月の運行システムゆえ、この世界(の人々の認識構造)は、月に規定されている。東西優越の思考もここから発しているんだと思います。

また、この世界は「靄の季節」と「月の季節」の二季しかないようです。おそらく「靄の季節」が夏もしくは(雨期ならぬ)湿季に、「月の季節」が冬もしくは乾季に相当するのでしょう。「靄の季節」には、世界は完全にすっぽりと靄に包まれてしまいます。「月の季節」も、乾季と書きましたが、比較的な乾季にすぎず、この季節になりますと、すっぽりと地上を覆っていた靄が上空に退くので地表(水上)は靄から解放されますが、上空の、月の軌道あたりは(衛星の月を想像してはいけません)、年中靄に掩われている。そのため住民は、一生月の姿を直接目にすることはない。そういう世界。つまり有り体にいって、きわめて水分の多い世界です。

私はSF読みですから、まず最初、ここは金星なのではないかと想像しました。もとより100年前の金星像ですが、それは全然問題ありません。SFの描く金星世界は、「事実の金星像」に何ら拘束されるものではありませんから! もっとも、その後に上述の月の運行システムが明らかになってしまいましたので、金星説はちょっと苦しいです。もっとも、私自身も別段金星説にこだわるつもりもありません。103ページに、
「月の門はこの地の東の窮みにある。……その先にはなにもない」と僧侶が語っているのですが、本篇をSFとして読むならば、この言葉は、(おそらく中世的レベルである)かの地の住民の世界観にすぎないとみなせる。また、この言葉を事実であるとそのまま受け入れて、本篇を神話的世界の物語として読んだってかまわないのです。

ダラダラとこの世界の有り様を述べてきましたが、ところで以上の説明が、本篇でなされているわけではありません。そんな説明的文章は、本篇のどこにもない。以上は(殆ど)すべて、私が「描写」から汲み取り、解釈したものに他ならない。そして此処こそが、上記のふたつの「ファンタジー」を区別する分水嶺なんです。
とまれかくまれ、実に良く考え抜かれた魅惑的な世界で(だからこそ上記の如き解釈もできるわけです)、私はもう読みながらうっとりとなってしまいました。結局のところ本篇は、何よりもまず、かかる異世界の異質な風景を楽しむ小説なんですね。本篇は、著者が夢に見たのか醒めて見たのか、いずれ幻視された光景(原光景)が積み重ねられているに違いない。「世界は異世界だが、作中の人物は、髪の色も眼の色も違うにしろ、21世紀日本人」といった「ファンタジー」とは画然と別種の「ファンタジー」なのです。

なお、107ページに
「月がその面から覆いをはらい去る時、光は水に、水は光になる。その中で鳥と魚が交接し、滅びの道がひらかれる」とあり、実際ラストで月から靄が去り、光と水が入れ替わります。では魚と鳥の交接とは何? ここにも著者の幻視アイテムがあらわれています。魚と鳥は、鱗あるものと翼あるもの、すなわち人魚と天使に交換可能。交接が交わってひとつになること(合一)だとすれば、鱗と翼を共に持つもの、そう、竜(蛇)ではないですか! 事実この世界に破滅をもたらしたのは、不吉な出生ゆえ「水蛇」の名を持つ領主の娘なのでした。
月の季節の中日、月の力がもっとも強くなる日、光が水に、水が光に変相する描写はもの凄まじいばかり。悽愴といいたいほど。子供が、忘却によってだが主人を失っても嘆かないのもよい。面白かった!!

追記。
101ページ
「――それは今の世継ぎが生まれた日のことだ」から「今でも、これと同じことがずっと続いているわけだが……」までの7行もまた、幻想小説の「元型的観念(パターン)」のひとつだと思います。この7行を前後に押し広げて小説を書いているのが北野勇作ではないでしょうか。でもだからといって、本篇の真似ということにはならないことは何度も述べたとおり。かくいう私自身も、はばかりながら「天離る鄙の星辺に」という、一体いつから、又どんな理由で、それが始まったのかすら忘れ去られてしまった戦争が続く銀河辺境を舞台にした短篇(北西航路の後継誌<風の翼11号>所収)を書いたことがあるのですが……。え、お呼びでない? こりゃまた失礼いたしました(^^ゞ

 



野にして卑だが粗ではない(違)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 9日(火)21時28分31秒

返信・引用 編集済

 

 

かんべ先生。マイクロフトがマイクロソフトより優れているのは当然なのです。なぜなら「粗」がない。……。およびでない? こりゃまた失礼しましたm(__)m

斎藤さん
ご教示ありがとうございます。冒頭のシーンは違うとのことですが、「異次元へ向かうエレベータ」というアイデアはなかなか秀逸なので、思い出しやすいような気がします。ねこざかなさんがこのアイデアを覚えておられたら決定的なんですけどね。ねこざかなさん、いかがでしょうか?

私は、矢野徹『地球0年』かも、と一瞬思ったんですが、占領するのは自衛隊なので、これはあきらかに違います。
ある方のサジェスチョンで、やはり日独が米を占領する話である『高い城の男』(>未読
(汗))を、冒頭部分のみぱらぱら見てみたのですが、こちらも覚えておられるシーンは見当たりませんでした。

「ムーンゲイト」のつづき、いまから書きます。書くのですが。上の調べ物をしていたら疲れちゃいました(笑)。よってアップロードは遅くなるかも。

 



Re: お教えいただきたいタイトルが・・・&眉村さん情報

 投稿者:斎藤  投稿日:2010年11月 9日(火)19時39分37秒

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> No.2736[元記事へ]

ねこざかなさんと、管理人さんへのお返事です。
眉村作品ではないのですが、もしかしたらと思い、投稿させていただきます。

学校の図書館ということから、私もジュブナイルと思い、眉村作品のジュブナイル作品のタイトルから、内容を思い出していきましたが、ねこざかなさんが書かれているストーリーに該当するものは思い出せませんでした。
戦争の勝敗国逆転物というと、豊田有恒か、福島正実辺りの作品を思い浮かべますが、もしかしたらと思ったのは、福島正実の「迷宮世界」という小説です。
71年に岩崎書店から出され、フォア文庫に収録されました。
私持っているのはフォア文庫版ですが、紹介文は次の通りです。

「モントリオール万国博を見学に訪れた滝田は、ふとしたはずみに、異次元へ向かうエレベーターに乗り込んでしまう。
行き着いた先では、ナチス・ドイツ、日本の枢軸国側と、クロード率いる地下組織の間で激しい戦闘が繰り広げられていた。
クロードが人類を破滅に導く恐るべき計画を進めていることを知った滝田は...」

「日独が米国を占領しているシチュエーション」ということでは合致しそうですが、少しだけ読み返してみましたが、「のんだくれの憲兵とSSが乱暴するのを止める主人公」という冒頭のエピソードは違うようです。
警察と地下組織と主人公が入り乱れての戦闘シーンはあります。
もしかしたら、この作品の記憶違いということも可能性があるのではないかと思い、投稿させて頂きました。
違っていたらすみません。

 



「夢の遠近法」より(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 9日(火)19時27分5秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2732[元記事へ]

承前

またまた気づいたのですが、『砂の女』のあの集落も、すり鉢状ではないけれども、海に向かってどんどん高くなっていく砂丘に位置していたのではなかったでしたっけ。主人公が囚われた女の家はその村はずれ、どん突きの一番高いところだったはず(なので家は蟻地獄の底になる)。やはり幻想小説に頻出する地形でありますね。
これを敷衍化しますと、「傾斜世界」という要素(契機)が抽出されるのであります。そうしますと『城』の村もこれに当てはまる。筒井さんの「平行世界」もそうですね。あ、『リングワールド』は究極の傾斜世界ですね。かくいう私自身も、はばかりながら「黄昏祭」という短篇で、丘陵斜面に段々に並び立つ高層集合住宅群を舞台にしたことがあります(チャチャヤングの後継誌<北西航路2号>所収)。え、及びでない? こりゃまた失礼いたしました(^^ゞ
閑話休題。ともあれかかる設定は、幻想小説に意外に多く見つけられそうです。その事実は、同時に<傾斜世界>の幻視が、読者を引きつけてやまないということも意味しています。それはやはり人間の無意識の最下層に全人類に通底する領域があるからであり、幻想小説はそこから多く材料を得ているといえるように思われます。

「ムーンゲイト」読了。いやこれもたまりませんなあ!
ここで一旦休憩しますが、アルコールが消化されるのをまって続き書きます(^^;

 



Re: お教えいただきたいタイトルが・・・&眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 8日(月)21時26分55秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2735[元記事へ]

ねこざかなさん

はじめまして。ご投稿ありがとうございます。
さて、お尋ねの件――

>「日独が米国を占領しているシチュエーション、のんだくれの憲兵とSSが乱暴するのを止める主人公といった冒頭の、眉村先生のパラレルワールドもの」

――のタイトルは何か、ですが、いろいろ思い出そうとしたのですが、どうもそれらしき作品が浮かんできません。学校の図書館でお読みになったとしますと、ジュブナイル作品の可能性が高い訳ですが、実は私、このようなサイトを作っていながら、眉村作品をすべて読んでいるわけではないのです(>おい)。とりわけジュブナイル関係が手薄です。ということで、今ちょっとお役に立てないのですが、私より眉村作品を沢山読んでいる方が当然ながらいらっしゃる訳で、そのうちのひとりの方に問い合わせ中です。もう暫くご猶予下さい。

この掲示板を閲覧なさっているみなさまの中で、該当作品に見当がお付きの方がいらっしゃいましたら、是非ともご一報いただけたらと思います。よろしくお願い致します。

      ――――――      ――――――      ――――――

ということで、眉村さん情報です!

これは高井信さんが発見されて教えてくださったのですが、手塚治虫の長篇マンガ『バンパイヤ』に、なんと「眉村氏」が登場しているんだそうです(秋田文庫版第3巻「武州怪異記」)。
これは大発見ですよ!
現在、宝塚市立手塚治虫記念館にて「星新一展〜2人のパイオニア〜」が開催されていることはご存知のかたも多いと思います。(→高井さんのレポート
この「2人のパイオニア」とは、もちろんSFのパイオニア星新一と漫画アニメのパイオニア手塚治虫のことである訳ですが、手塚さんはSFにも好意的で、多大の貢献もされた方でした。また眉村さんが中学時代、手塚さんが選者であった投稿雑誌に何度も投稿されていたことは本板でも取り上げたことがあります。
その意味で、手塚さんが自作に「眉村氏」を登場させているのは何ら不思議ではありません。しかし、おそらく誰もこの事実には気づいていなかった筈で、手塚さんとSF界との関係性、自作に登場させるほど眉村さんと親密であったことが窺える、一級の資料であると思います。私が「大発見!」と騒ぐのも分かっていただけるのではないでしょうか(^^ゞ
高井さんによれば、上記星新一展では手塚マンガに登場した星新一が大きく採り上げられているそうです。「もし「眉村卓展」が催されることになったら、生原稿が展示されるかも」とのこと。そうなったらワクワクしますねえ(笑)

さてその高井さんからもうひとつの情報――
先日ご紹介しました中日新聞の「没イチ」エッセイへの反応が、同じく中日新聞に掲載されていたとのこと。「にわか産婆・漱石」で歴史文学賞を受賞した(直木賞候補にも5度なられた)篠田達明さんの「新語没イチ」という短い文章です。いよいよ「没イチ」、新語として定着してきましたね(笑)。内容は「没イチ」の影の面に焦点を当て、「昔、長寿はおめでたいことだったが、家族のつながりが乏しくなった現代では、長生きは苦しみのはじまりでもある」という論旨。ま、そうですわな(ーー;

高井さん、ありがとうございました!

      ――――――      ――――――      ――――――

なかなか時間が作れず、今日は「ムーンゲイト」を半分まで>『夢の遠近法』

 



お教えいただきたいタイトルが・・・

 投稿者:ねこざかな  投稿日:2010年11月 8日(月)11時49分11秒

返信・引用

 

 

はじめまして。眉村先生の作品(だと思う)のタイトルについて、長年気になっていることがありますので、もし宜しければ知識をお分けいただきたく存じます。

30年以上前、学校の図書館で「日独が米国を占領しているシチュエーション、のんだくれの憲兵とSSが乱暴するのを止める主人公といった冒頭の、眉村先生のパラレルワールドもの」を読んだ記憶があり、もう一度読みたいのですが、どうしても題名が思い出せません。

もし万一、眉村先生の作品ではなかったら御免なさい(汗)。なにか分かることがあれば御教授いただければ幸いです。何卒よろしくお願いいたします。

http://nekozakana.blog.so-net.ne.jp/

 



竜の健闘を称う

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 7日(日)23時25分4秒

返信・引用

 

 

ロッテあっぱれでした。
しかし下克上ではないわな。パリーグCSはその言い方でオッケーですが。なぜってセとパは同格ではないもの(交流戦の結果を見れば一目瞭然)。むしろ中日がよく頑張った。私はさしづめ大リーグ3位チームと3Aの1位チームの戦いのレベルじゃないのかと思っていたのです(^^;。少なくともセの1位は、パの3位に拮抗しないまでもさほど差がないことを証明したわけですから、中日もあっぱれ。
どっちもあっぱれということで、まずはめでたしめでたし。いや面白い日本シリーズでした(^^ゞ

 



大手を凌ぐ黒田藩プレス

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 7日(日)12時43分6秒

返信・引用 編集済

 

 

『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』が、眉村さんの本も出している黒田藩プレスから届きました。昨日届いたのですが、注文をしたのが11月3日の深夜、実質4日(木)なので、正味中一日での到着。大手ネット書店を凌ぐ迅速な対応に感動。
日本では知られていない作家ですが(詳細は→こちらを参看)、「新世代のボルヘス」(NYタイムズ書評)らしいです。これは楽しみ。『夢の遠近法』を読み終わったら着手しようと思います。 (*) 購入はこちらから。税・送料込み800円はメチャ安! 頑張ってるなあ。はっきりいって利益度外視なのではないでしょうか。こういう努力を目のあたりにすると応援せずにはいられませんね!
上記リンクのアンソロジーも期待大(^^)
あ、『エステルハージ博士の事件簿』がネット書店に反映されているではないか。こちらはジフコヴィッチの次に読もう。15日発売のようなので、日程的にもうまくはまりそう。こういう計画をたてるのは大好きなんですが、予定は未定といいますからね(>「バベルの塔の狸」ともいう(違))(^^ゞ

 



「夢の遠近法」より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 6日(土)21時43分34秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2731[元記事へ]

今日から村上芳正展始まってます。お近くのかたは是非→

承前
「夢の棲む街」を、また読み返しちゃいました(笑)。いやー何度でも読み返したくなってしまいますし、何度読み返しても面白いですね!
ところで皆さんは、この
「夢の棲む街」を読まれて、どんな<絵>を思い浮かべられましたか? 私の脳内映像は、なんと意外にもアニメ風だったんです。それもムーミンぽい絵柄。まあ「ドングリの実によく似た姿」(9p)で「カバのような顔をした」(21p)<夢喰い虫>のバクのイメージに引きずられているのかも知れませんが(^^;
しかしこの話、そのような絵柄でアニメ化されたら、存外いい映像作品になるんじゃないでしょうか(既になされているのかな)。但し作者が必ず監修に入って幼稚化単純化をチェックする必要はあるでしょうけどね。そもそも「心が暖かくなる良いお話」じゃないので(>おい)(^^ゞ

あと幻想小説の「イメージ」について感じたこと――
「すり鉢の上辺で途切れる街」は、ただちに「エーリッヒ・ツァンの音楽」の街を思い出させましたし、すり鉢の底にある劇場が、立地上、雪崩落ちてくるすべての街の音を浴び続け、結果共振疲労してしまっているという観念は、「音響清掃人」や「ヴァーミリオン・サンズ」を髣髴とさせられます。<薔薇色の脚>の上半身は、私にはダリの「内乱の予感」のオブジェがすっと浮かんできて何の齟齬もなく収まっちゃいました(^^;。
「遠近法」とボルヘスもそうですが、かかる「相似」(274p)に「前後関係」を想定する必要はまったくない。そもそも「現実」とは直接関わらない「幻想小説」の想像力は、往々にして似たイメージを互いに無関係に発現させるものなんですよね(集合無意識?)。まさに「かまうことはない、この世の書物など悉皆偽書と了見しておけばいい」(挟み込み栞11p)ということ。

「月蝕」は、「夢の棲む街」とはまた(表層)対蹠的な小説で、『歪み真珠』所収の「水源地まで」と同系統の作品です。
70年代後半の学生の街・京都の夜、一瞬重なった異次元……? 眉村さんの短篇にも似た話があったと思うのですが、突如目の前に現れた不思議な女の子に、主人公が振り回される話。本篇で主人公の学生が一日預かった女の子は何者だったんでしょうか?
まず思いつくのが生霊ですが……私の解釈は、電話で頼まれた、その一瞬にこの世界に滑りこんできた精霊(spirit)だったのではないか。少なくとも本来の女の子とは全く無関係の存在だと思います。たまたま電話を利用してなりすましたものです。因果応報的な日本の幽霊とは違って、西洋の精霊は依られる個人とは無関係に存在し、好奇心が強く、イタズラ好きで、陽気な存在のようです。どこかからやってきた<それ>は、従って限られた一夜を精一杯楽しもうとします。だから「もう帰ろう」と主人公に言われたとき、不機嫌になり逃げ出すわけです。

そのように解釈しますと、本篇もやはりアイルランド的な幻想世界(勿論日本の基層精神界にもあるもの)を描いているということになり、となれば「夢の棲む街」からさほど離れた世界でもないことが了解される訳です。

 



「夢の遠近法」より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 5日(金)22時25分24秒

返信・引用 編集済

 

 

公私共多忙で、なかなか心安らかに読書するあたわずだったのですが、今日はいくぶん平常に戻ったので、漸く劈頭の「夢の棲む街」を読むことができました。
本篇、出た当初の数年間に何度か読み返していますが、今回はそれ以来の、殆ど30年ぶりの再読。当時味わった大いなる感動の記憶はいまだ強く残っているものの、併し具体的な内容ははっきりいってけっこう忘れていました。おかげである意味、初読と変わらない新鮮さで読むことができました(^^;。

いやー、これはもうとんでもない傑作ですね。

二十歳そこそこで、よくもまあこんな作品を書き上げたものだと思いました。
ちょっとうまく表現できませんが、著者の全著作が、いわば「山尾山脈」を形成して連なる峰々であるとするならば、本篇もまた当然その連峰の一つであるのはそのとおりながら、ある視点から望見すると、この峰は「山脈」から何程か離れたところに聳え立つ孤峰のようにも見える、そんな作品であるように思いました。

巻末自作解説で、本篇に就いて
「処女作には書き手のすべてが凝縮されているという説があって、しかし一方で一生に一度しか書けない種類の小説を書いてしまうこともままある訳で」(270p)と、二つながらに引き裂かれる気持ちが述べられているのですが、上記私の感ずるところの「連峰でありながら孤峰」という印象と重なるところがありそうです。
更に想像を逞しくすれば、著者もまた折にふれて本篇を読み返しては、この小説本当に自分が書いたんだろうか、と不思議な気持ちになることもあったのではないでしょうか(>おい)(^^ゞ。
そんな想像をさせるほど、本篇は日本幻想小説史上に屹立する、もはや名作といってよい小説であると思います。

さて、それでは連峰としての本篇をまず見るに、いかにも著者らしいアイテムが頻出している点が挙げられる。まさに「処女作には書き手のすべてが凝縮されている」であります。
本篇に最も印象が近いのは、いま思い出す限りでは、前著『歪み真珠』所収の「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」がそのように思われます。
たとえば【水がやってきて都市を沈める予感】【娼館】【人魚】【天使】など共通するアイテムが使用されて、かなり似た雰囲気が醸し出されています(天使と人魚は、いずれも一般に流通する(正の)イメージを、いわばオールディス的にひっくり返した一種頽落体として描かれているのがいかにも山尾悠子らしい)。
しかしながら、短篇と掌篇という違いもあって、「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」には「夢の棲む街」ほどの重層性はありません(もちろん「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」もまた、これはこれで自立した傑作であり、『歪み真珠』収録作品中では私の最も好きな作品です。でもだからといって「屹立する孤峰」のイメージはないのですね。山尾悠子作品として優れた掌編小説なんですね)。

要するに「夢の棲む街」は、材料はいかにも山尾悠子らしいアイテムが使用多様されているが、それらを以て構築され出来上がった作品としての本篇には、もはや著者である山尾悠子的なものからさえ独立してしまった、「とんでもない傑作」として存在しているように私には思われるのです。もちろんフロックという意味ではありませんよ、為念。本篇は著者の(実質)処女作でありながら、その処女作に於いて山尾悠子という作家性を超越してしまった作品なのではないでしょうか。上記著者の引き裂かれた感懐は、まさにその事実に依っているように思われます。

 



荒淫矢の如し

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 4日(木)02時04分11秒

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↓のコメントで知ったが、岡本信、去年なくなっていたのですね。いやーびっくり。
しかし井上忠夫は別としても、2006年アイ高野、2007年鈴木ヒロミツ、2008年デイブ平尾。いま調べていたら大口広司も去年なくなっていますね。それぞれそんな歳でもないのに。GSの死亡率高すぎないか。やはり若い頃無茶苦茶しているからなんでしょうかね。

 

 



Re: 上が変われば天国と地獄

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 3日(水)21時47分22秒

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> No.2728[元記事へ]

村田さん

>海外と見せかけて、大阪の新世界だった
なるほどその手があるか! って、それもまた私の血管は耐えませんよっ!!(^^;

「純愛小説」>さがしてみますね。いつもありがとうございます。

 



Re: 上が変われば天国と地獄

 投稿者:村田耿介  投稿日:2010年11月 3日(水)21時22分55秒

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> No.2727[元記事へ]

> 私の推理が正しいかどうか、読まれた方ご教示下さい。私、かなり自信があります(笑)。村田さん、どうなん?
> じゃ、自分で読んで確認すればいいじゃん、ということですが、もし私の推理が正しければ、書くほうは楽しくて仕方ないかもしれませんが、読まされるほうは瞬間脳溢血脳梗塞で光速あの世行きとなるに決まっています。故に私は絶対に読みませんっ(^^;

うえ〜、本が出てたことさえ知らなかったのですが、これは自慰臭がぷんぷんしますね。このトリックでも褒めるやつがいるんだろうなあ……。
実はどっちも海外と見せかけて、大阪の新世界だった、というオチに期待したいです。
うーん、よ、読もうかなあ。ちょうど旅行行くし……。

まだ読んでないんですが「純愛小説」という、恋愛ものオンリーの短編集が出てました!>篠田節子
「観覧車」みたいな話を、恋愛ものです!と言い張って入れている本……だといいなあ……。
残念ながら文庫にはなっていませんが、アマゾンなら400円以下で叩き売ってますので、こちらもどうぞ〜。

http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/

 



上が変われば天国と地獄

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 3日(水)10時59分2秒

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「引退勧告ですか」

「ウチは大砲がいないから、つないでいくしかないからね」

山崎、来季は厳しそうですな ‥

<余談>
私は倉○さんの「新○界○壊」を読んでないのだが、ネットから得られる情報によると、2段組新書でのみ可能なトリックで文庫化不可能とあり、上段がアメリカ、下段がイギリスで、主人公は瞬間移動するという。
といった情報を綜合するに、これはひょっとして、主人公が上段から下段、下段から上段に(紙面を)移動しているんじゃないのかな、と疑うわけです。ひょっとして上段と下段の間を横線が分けており、所々その線が途切れているそこから主人公は移動するのでは?
私の推理が正しいかどうか、読まれた方ご教示下さい。私、かなり自信があります(笑)。村田さん、どうなん?
じゃ、自分で読んで確認すればいいじゃん、ということですが、もし私の推理が正しければ、書くほうは楽しくて仕方ないかもしれませんが、読まされるほうは瞬間脳溢血脳梗塞で光速あの世行きとなるに決まっています。故に私は絶対に読みませんっ(^^;

 



「秋の花火」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 2日(火)21時50分18秒

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篠田節子『秋の花火』(文春文庫07、元版04)読了。

これで著者の短篇集はすべて読んだことになるのかな。本書も優れた作品集で楽しみました。著者はとんでもない小説巧者。
「観覧車」は、閉園間近のほぼ無人の遊園地、見ず知らずの男女がひょんなことで観覧車に相乗りするも、途中で閉園時間となり、機械が止められ、空中に閉じ込められる。この男女がまたヒーローやヒロインからは最も遠い人物たちなんです。男は悪い人間ではないが、普通は相手を慮って言うのをためらうようなことも平気で無神経に口に出してしまう性格。女は、一緒にいるだけで周囲を暗くしてしまう雰囲気の持ち主。いうまでもなくどちらも非モテの最たる者たち。それが観覧車に閉じ込められるのです。もちろん喜劇にしかなりません。しかし哀しい喜劇でもあります。

――
「ロシア人って、こうなんですよね、いつも」 / 県の文化行政課の女性職員が、舌打ちした。―― で始まる「ソリスト」は、ロシア、バルト三国(リトアニア)、クラシック音楽と、用いられる素材が高野史緒と微妙に被る、同じく異形系の幻想小説なのだが、完成した作品は全く違う。面白いなあ。

「灯油の尽きるとき」は介護がテーマ。女性主人公の心理が丹念に描かれるが、夫の描写が外在的で不満。それを書き込んでいたら短篇には収まらないのかも知れませんが。

「戦争の鴨たち」は一種の擬似イベントSF。内戦のアフガンに取材で潜入した日本人のカメラマンと作家が遭遇した戦争の実体とは? と書けば、SF読みの皆さんは「ははん、大体わかるな」とつぶやかれるでしょう。事実そうなります(>おい(^^;)。少なくとも私は最初の数ページで本篇の骨格は見抜きましたです。ということで、ここからもうひとひねりしなければSF読者には通用しない。ただ作家の人物描写は倉阪鬼一郎を意識したようなデフォルメが効いていて楽しめました。

「秋の花火」は本集中の白眉。タイトルは「人生の秋のつかの間の燃え上がり」を掛けている。ここで描かれる老指揮者の描写は、非常に筋が通っていて納得させられます。デフォルメを効かせているように見えますが、実はモデルがあるのかも知れません。

という次第で、十二分に満足した作品集でした。が、ゆるいところもあり、もっと短い枚数でも書けるんじゃないのかな、と感じたのも事実。切れ味の鋭い、削ぎ落した短篇が好きなのです。というか、私がいらちなだけかも知れませんが(^^;。
著者の短編はこれで暫く読めなくなるのか。それなら次は長篇に挑戦ということになるわけですが、どれも分厚い。上の理由でちょっと二の足を踏むなあ。

山尾悠子『夢の遠近法』に着手。

 



湾岸三国の運命や如何

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月 1日(月)20時07分1秒

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ときどき、高石、泉大津、忠岡あたりを走っていると、私はこの三市町がバルト三国にダブって見えてくることがあるんです。それは下の地図を見てもらえば一目瞭然でしょう。
海岸に並ぶ三小市町の東には、境を接して、古代和泉国の国府があったいにしえの大国・和泉市がある。内陸の和泉市は喉から手が出るほど海への出口を求めているのです。遠からず和泉市はその強力な軍事力を以て三市町を併呑してしまうに違いないのです。三市町は、両隣の大国である堺市と岸和田市に働きかけて和泉市を牽制するのだが……
――と、はっと気づけば、私はこの世界に戻っていた。
ううむ。その後どうなったのでしょうか。激しく知りたい私は、今日は早寝しようと思うのであった(^^ゞ

 


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