ヘリコニア談話室ログ(2010年12)




「エステルハージ博士の事件簿」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月31日(金)16時34分54秒

返信・引用 編集済

 

 

アヴラム・デイヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』(河出書房10)

再読、了。ゆっくり読んでいたら、案の定、年末になってしまいました(^^)。本書でことしの読み納め。よい本で締めくくることができました(それに合わせたことは内緒だ)。
いやそれにしてもいっぱい笑わせてもらいました〜。偉大なるユーモア小説というべき。基本ヨシモトなんですよね(>おい)。いやホンマですよ、新喜劇というか、要はドタバタ。ただしそれはとんでもないウンチクと絡めて繰り出されるので、ドタバタなのに重厚感があるという、ちょっと他に類例にない不思議な読み心地でありました。

本書は、表紙裏と裏表紙裏に、共に見開きで、現実には存在しない架空の国家スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国の、首都ベラの地図と、その版図がオーストリア=ハンガリー二重帝国の南に展っている19C末〜20C初頭の<バルカン半島>の地図が印刷されています(どちらもJ・ウェストフォール刻とあります。ウェストフォールって誰なんでしょう?)。私はこの世界そのものが、本篇の主人公だと思います。
表向きは短篇集の体裁ですが、実はこの<世界>そのものが主人公の、ひとつづきの長篇なのです。いうなれば『ヴァーミリオン・サンズ』のような小説といえば近いでしょうか。したがって読者は、この世界に入り込んでしまうために、まずかかる地図を頭に叩き込んでおいたほうがよいと思うのです。
そんな理由がなくとも、私は地図が大好きですから、しげしげと小一時間見入ってしまいました。で、いろいろ発見。ルリタニアはこんなところにあったのか(ゼンダ城はたしかに国境に位置してます)、とか、ヒューペルボレオスってこんなちっちゃな地域だったのか、とか、琴欧洲の出身地は、してみるとパンノニアに含まれるのか、ゼンダ城からもそう遠くないな、とか、ウロクス人は民度が低く差別されているようだが、<この世界線>ならばサラエボ辺であるな、セーブル河はボズナ川かな、とか、イリリアは古代民族の地名かと思っていたのだが、調べたらそうでもなく、クロアチア人が自称する場合もあるのか、とか、どうでもいいことまで含めていろいろ妄想してしまうのでした(笑)。

以下箇条書きに――
・本書の世界にはアヴァール人(語族)というのが700万人という大勢力で存在するのですが、現実のアヴァール人は、スラブ人がバルカン半島に南下してくる前にドナウ河畔にいた東方起源の遊牧民です(柔然説あり)。もちろん「この」バルカン半島には存在しない民族。
・スロヴァチコ人は、最初スロバキア人のことかと思っていたのですが、件の地図に当たればベオグラードの西北域が居住地域らしく、スロバキア人では合わない。(この世界の)スロベニア人かと思われます。
・(地図上の)アグラムはザグレブですね。
・としますと、現在のスロベニアの領域は、小説世界のオーストリア領になる。スロヴァチコ人は現スロヴェニア人居住地より南東にいたという設定か。
・つまりブーメラン型の実存するクロアチアの国土の西翼がイリリア(クロアチア)で、東翼にスロヴァチカ(スロヴェニア)人がいた?
・となりますと、彼のウロクスがボスニアヘルツェゴビナと定まる。上記したようにウロクス人は蔑視されていたようですが、なるほど蔑視されてるわけだ!  このへん現実が反映されていますね(ただし「真珠の擬母」に描かれる小ウロクス領の描写は、たしかにきわめてど田舎の印象ですが、回教世界ぽいものではない。このあたりの現実についたり離れたりする出し入れは、著者の恣意、ただし絶妙のそれです)。
・ボスニアに回教が広まる前は、グノーシス系のボゴミール教が信仰されていたんですね。妄想ですが、ウロクスにボゴミール派が残っていたら面白いんだが。そうすると、『マラキア・タペストリ』と繋がるんです(笑)→チャチャヤン気分(と期待していたら、「神聖伏魔殿」で「ブルガリアの魔人崇拝」「キリスト悪魔教」が実際に出てきて大笑い)
・アヴァール語族が700万人に対して、スロヴァチコが350〜400万(約半分)というのはいかにも少ないような気が……。しかし「これは三重帝国に」(47p)在住する人数ということ。つまりオーストリア領内(現スロヴェニア)とに分断されている(合計で700万)という含意なのではないでしょうか。
・ところが、いま調べたらスロヴェニア人の推計総人口は250万人! うーむ。かの世界は現世界より人口稠密なのかな(^^;
・と一瞬思いましたが、この350万は、三重帝国外人口(現スロヴェニア領人口)からデイヴィッドスンが推計した架空の(地図に切れ目を入れて継ぎ足した)三重帝国内の架空のスロヴァチコ人口なんでしょう。
・だいたいアヴァール語族700万人というのが、現実には存在しない数字(笑)なんですから、スロヴァチコ人の350〜400万というのも存在しない数字。

――と、妄想の上に妄想を重ねてしまいました。もとより私の勝手な想像です。当たるも八卦、当たらぬも八卦(^^;。こういうのはデイヴィッドスン本人に訊きたかったな。「先生これはこうでしょ?」 「ふっふ、残念でした。キミそれはやな、実はこうなんや」、嬉々として語ってくれそうな気がするなあ(笑)。

とまれ読むほどに、この細密に描き出される架空世界・三重帝国こそが主人公の感が強まってくるのであります。これはもはや<異郷小説>というジャンルを提唱したいほど(当然『ヴァーミリオンサンズ』も、この角度からは異郷小説と言える筈です)。

第1話
「眠れる童女、ポリー・チャームズ」、この作品は、本書の解説者でもある殊能将之さんが自身で訳してネット公開していたのと、新異色作家短篇集『狼の一族』の古屋美登里訳のも読んでおり、今回が三読目。何度読んでも面白い。いや読めば読むほどその世界観が身に馴染んできて、面白さが深まってくるようです。
翻訳者はそのあたり、実によく読み込んで訳していますね。たとえば14頁、「cannot-shot」が「cannon-shot」の誤植であることをロバッツ警視総監が指摘する場面、訳者は、前者を「不可能砲弾」と訳し後者を「加農砲弾」と訳していて、語呂合わせは分かるのだが、加農砲ってなによ? 気になってきて調べたのですが、カノン砲を漢字で書くと「加農砲」なんですね。いやーこれなんか忠実に訳すことで日本語としても語呂合わせになっているわけで、訳者の素晴らしいテクニック(^^;。 訳者池央耿は、原作の雰囲気をしっかり日本語化しており、本書は最良の訳者を得ていると思いました。

ただし本篇は、第1作(解説によれば執筆順に並べられているそうです)ということもあってか、あとの作品と比べればドタバタも控えめなのですが、それでもこんな場面が――
 
エステルハージは聴診器を取り出した。客一同は、あぁ……、と嘆声を漏らした。
「哲学者だ」誰かが言って、別の誰かが相槌を打った。「そうよ」おそらくは二人とも、哲学者の何たるかをまるで理解していなかった。(25p)


――たまたま電車の中で読んでいたのですが、周囲も忘れて大笑いしてしまいました。さしづめ八つぁんと熊さんですね(^^;。

第2話
「エルサレムの宝冠 または、告げ口頭」はさらにスラップスティック度が強まって、最後に威光を示したのが60余年前という時代遅れにもほどがあるプロヴォ(国王直筆の書状)が、なぜか絶大な効力を発揮してしまう。黄門かよ(笑)。これなどもはやドリフターズの世界ですなあ。いわば現代シリアスドラマで、あわやという瞬間、突如「控えおろう!」と印籠が示される。するとなぜか全員がははーっと平伏しちゃうようなもの。吹き出さずにはいられません。
その意味で、60頁の
「これでもか!」は、「このプロヴォが目に入らぬか!」と訳してほしかったなあ(^^;

ところで、タイトル「The Crown Jewewls of Jerusalem, or, The Tell-Tale Head」の「The Tell-Tale Head」はなぜ「告げ口頭」なんでしょうか? むろん「tell-tale」は辞書的にはそのとおりなんですが、それでは意味が通らないような……
直訳の「ほらふき」→内容に即して「誇大妄想狂」とか「夢想狂」がちかいのではないかと愚考するのです。少なくとも「告げ口」よりも意味が通る。エステルハージの骨相学による見立てでもそうだし。結局タイトルは、戴冠せる妄想頭、くらいの意味じゃないのかな? 私の訳はずばり「テルテル頭」!(>おい)(^^ゞ。

しかしこの2篇、ともにラストでは人生の苦さをしみじみ感じさせてポンと終わる、名場面になっており、作家の筆の冴えに、読者は溜め息をついてページを閉じるのでありました。

第3話
「熊と暮らす老女」は、これはまるでディケンズのようなしみじみさせられる話。もちろんオーネット・コールマンが吹くスタンダード・の・ようなもの、ではありますが(笑)。狼男(超自然)の存在は曖昧なままで、否定も肯定もされない。表層的にはそうですが、読者は実在と読むはず。

第4話、
「神聖伏魔殿」、あ、やっぱり「キリスト悪魔教」が出てきたではないか(^^;。いやもう、たまりませんなあ。これぞ私がSFに求める<理想型>をほぼ体現した小説といえそうです。おそらくエステルハージとグロッツ助祭の間に密約が成立していたのでしょう。巨大な異形の人面は何らかの仕掛けに違いない。劈頭のアメリカに関する話題はラストに対応している。間然するところなき傑作というべきでしょう。
なんども出てくる不思議な描写、
「縫い取りのあるチョッキを両手で掴んで半ズボンの中にちろっと洩らし、全身にふるえが来て堆肥の山に倒れこむ」は、ヨシモトで、ボケに対して全員がずっこける、あのリアクションと同じ定型だと思われます。
ところで、後日譚に出てくるバイソンですが、このバイソンはヨーロッパバイソン。20C初頭に一旦絶滅します。あまりにも唐突な場面で、最初は成功報酬でアメリカに来たのかと思ったのですが、ヨーロッパでは絶滅するが新大陸では生き残っているのを、この教団に重ねあわせたものなのかも知れません。

第5話
「イギリス人魔術師 ジョージ・ペンパートン・スミス卿」、これも傑作。<笑撃力>では本集中でも一等ずば抜けています。読中ゲラゲラ笑い詰め。筒井康隆もかくやの面白さで、いつ冷蔵庫からシロクマが飛び出してくるか楽しみにしていたのだが、出てこなかった(>おい)(^^;
さて本書も、本篇にいたってはじめて、まごうかたなき超常現象が目撃されます。「きゃあーっ!」(笑)

第6話
「真珠の擬母」。これはめずらしくオカルト探偵らしい話。一見超自然存在が物理的に謎解きされる。筋が通って腑に落ちます。その分わかりやすすぎて歯応えがたりないかも。
ただしその筋の通り方が半端じゃありません。伝説の復活が一国の経済をゆるがすのです。まあ風が吹けば桶屋が儲かる式なんだけど(^^;

相変わらずドタバタ描写は際立っており――
 エステルハージから針箱を受け取って、セリグマンはクックと喉を鳴らし、舌打ちして嬉しそうにうなずいた。「ほう、ほう。これこれ!親父の代の細工です。親父の代の。この菱形模様……。菱形模様は当時の流行でしてね」主人は螺鈿の部分を指先で軽く叩き、ちょっと間をおいて言い足した。「安物です」(201p)

 ワイトモンドルはものものしくうなずいて、どこからともなく貝殻を二つ取り出した。鼻の孔からだったかもしれない。(202p)

第7話
「人類の夢 不老不死」「もう、金を作ってはいけない」って、おい。そんなに簡単なのか(^^; もう、ムチャクチャでござりますう!
錬金術書バシリウス・ヴァレンティヌス「十二の鍵」からの引用があるのですが、この著書、実在し、引用部分も作者の創作ではないようです。ネットに訳文がありました(なんでもあるな、ネット)→バシリウス・ヴァレンティヌス「十二の鍵」の翻訳(「南の不死鳥」云々の一文もあり)。おや「逃げるアタランテー」なる書物もあるのか(cf山尾悠子)。

第8話
「無限泡影」。これは一転、謡曲小説です。全編を覆う滅びのイメージ。御大は夢で枯野を駆け巡る、もとい大都ベガを駆け巡り、エステルハージはそこに帝国の滅びを重ねあわせるのでした……。

以上で全篇の読み終わり。
結局エステルハージとは何者だったのか。オカルト探偵? 否。オカルト探偵のように超自然現象を合理的に解釈したのは第6話「真珠の擬母」だけなのです。
エステルハージは推理してなにかを解決したか? 基本なにもしていません。かろうじて第2話「エルサレムの宝冠 または、告げ口頭」が捕物帖の形式に則っており、犯人を突き止めますが、突き止めたときには犯人は既に自殺したあと。解決してはいない。
一つ一つつぶさに思い出してみれば、エステルハージ独自の魅力というものはほとんど見つけられないことに気づかざるを得ません。ホームズのようにキャラ立ちしているのでもありません。つまりエステルハージとは「世界」を描写するための<狂言回し>でしかないようです。結局著者は、三重帝国という、ありえない架空世界を望見する視座として、エステルハージを創造したのです。やはり主人公は、エステルハージによって見られた奇妙奇天烈な「三重帝国」そのものなのであって、本書はたしかに<異郷小説>と呼ぶのが相応しいように思われるのです。

 



みじかばなし集(とつぜんショートショート偽改め)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月30日(木)20時23分47秒

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 新月状の地球の姿が小さくスクリーンに映っている。ようやく太陽圏に還ってきたのだ。船は既に巡航速度にまで速度を落としていた。
 宇宙飛行士は亜光速船で銀河宇宙の探検に出、いま還ってきたのだ。船はほぼ光の速度で航行していたので、宇宙飛行士にとってこの旅は10年足らずの旅程であった。
 しかし地球ではとてつもない時間が経過していた。同胞はもういないであろう。それを承知で出発したのだ。
 むろん出発した彼を追いかけるように、地球から情報は届いている。しかし亜光速で太陽系を飛び出した船に往路で追いつく情報はわずかだった。所期の目的を終え、ふたたび地球を目指した船に、情報は矢継ぎ早にやってきた。それで宇宙飛行士は、地球文明が未曾有の災厄に見舞われることを知った。そして情報は途絶えた。地球は破滅したのであろう。
 青い地球が次第に大きくなってきた。彼は気づいた。地球上空をいろんな電波が乱れとんでいることに。してみると同胞は災厄を乗り越えたのか。
 さらに地球は大きくなった。大陸のかたちは、出発した時のそれとは大きく変貌していた。地球の夜の面が人工の明かりで縁どられていた。では同胞は災厄に打ち勝ったのだ!
 しかし傍受する通信波はまったく彼には読解できなかった。旧文明は滅び去り、新文明が勃興したのだろうか。
 宇宙飛行士は用心して、小さな都市のはずれに着陸した。こっそりと物陰に潜んで、彼は観察した。行き交う人々は、彼とは似ても似つかなかった。生体観測器は、その連中が彼とは別の種属であることを数値で示した。やはり同胞は滅び去ったのだ。宇宙飛行士は肩を落とした。さてこれからどうしよう。
 そのとき、翼ある生物が、彼のそばに舞い降りて地面をついばみ始めたのだ。ふと飛行士は機械をそれに向けてみた。数値が表示された。飛行士の目から涙がこぼれた。さめざめと泣いた。そのため警戒がおろそかになった。彼の体に、バサッと網がかぶせられた。網ごと宇宙飛行士は空中に持ち上げられた。
「や、変なトカゲをつかまえたぞ」子供が言った。
「ほんとだ、こんなの見たことないな」もうひとりが相づちを打つ。
「図鑑で調べてみようか」
 ふたりは網の中で暴れる宇宙飛行士を、逃さないようにしっかり押さえながら、急いで立ち去った。
 そんなことなどおかまいなしに、一羽の雀は無心に地面を掘り返していた。

 



「冬の狼」開始

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月30日(木)16時22分26秒

返信・引用

 

 

おお、これはすばらしい! みっしりとリアリズムです(^^;。まだ読み始めなので(現在50頁)、世界設定が把握できておらず、何度もページを繰り直しては読みすすめているところ。いえ貶しているのではありませんよ。それがいいんですから。まさに至福の読書体験。説明はいっさいありません。「チアリとは〇〇のことである」なんて説明がなされていたらいっぺんにしらけてしまいます。もとに戻っても分からないことは、読んでいくうちに自ずと分かってくるのです。
あ、それから翻訳が実に雰囲気を再現していてよいのです。誰かと思えば……野口幸夫だったのか。なるほどさもありなんです(^^;

 



ローズガーデン

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月30日(木)00時04分24秒

返信・引用 編集済

 

 

それはリン・アンダーソン(^^;。
リン・カーターのあとは、リンつながりでエリザベス・リン『冬の狼』を読もうか思案中(^^;。これ、ヒロイック・ファンタジーなのかハイ・ファンタジーなのかよく分からないのですが……とりあえず着手するか。

 

 



Re: ゾンガー読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月29日(水)22時45分11秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2824[元記事へ]

高井さん
>これ、あんまり見ないような
たしかに。図書館にないか調べてみましたが、どこも所蔵していませんね。
ということで節を屈して(?)マーケットプレイスに第1巻を注文してみました(笑)

 



Re: ゾンガー読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2010年12月29日(水)18時27分0秒

返信・引用

 

 

> No.2823[元記事へ]

> でもこれ、まるっきりバローズでしたねえ(^^;。
〈レムリアン・サーガ〉はハワード+バローズですが、〈緑の太陽シリーズ〉はもっともっとバローズですよ。
> 緑の太陽シリーズも見つけたら購入してみます。
 これ、あんまり見ないような……。幸運を祈ります。

 



ゾンガー読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月29日(水)18時12分48秒

返信・引用

 

 

リン・カーター『ゾンガーと竜の都』多田雄二訳(ハヤカワ文庫73、原書66)読了。

高井さん
読了しました〜! 面白かったです。長さも250頁そこそこで丁度よいボリューム。一気に読み終えました。
でもこれ、まるっきりバローズでしたねえ(^^;。バローズなりきり小説といいますか(笑)。逆にバローズならぬカーターっぽさ、独自性みたいなものはあまり感じられませんでした。けだしバローズを読み尽くした異世界冒険小説ファンが、喝を癒すために手に取る本というべきかもと思いました。
このシリーズは岡田英明によると、第1巻はハワードで、この巻はバローズとのこと。どうもこの作者はオリジナリティよりもパロディもといパスティーシュが創作動機みたいですね(パロディと書くとオリジナルに対する批評性みたいなものが含意されます。本篇はむしろ原典への賛歌です)。
リン・カーターは初めて読みましたが、1930年生まれなんですね。バラードと同い年ではないですか! 本篇発表の66年は「結晶世界」が出ています。世はニューウェーブ真っ盛り。そんななかこのような作品を執筆する時代錯誤性は、ある意味強烈な個性かも(^^;

とりあえず持っているカーターはこれ1冊だけなのですが、なかなか面白かったので、今後は見逃して買い逃すことはないでしょう。緑の太陽シリーズも見つけたら購入してみます。

 



Re: ゾンガー

 投稿者:高井 信  投稿日:2010年12月29日(水)12時35分35秒

返信・引用

 

 

 うおおお、懐かしいですねえ。私、新刊が出るたびに貪るように読んでいました。スペース・オペラかヒロイック・ファンタジーか、なんてことはどうでもよくて、要するに異世界冒険小説! こういうのが大好きで、特に中高生時代、片端から読んでいたのですよ。
 同じころ、やはりリン・カーターの〈緑の太陽シリーズ〉も出ていて、こちらはもろにバローズ・タイプでした。私の好みでは、〈緑の太陽〉>〈レムリアン・サーガ〉です。言い換えると、バローズ>ハワード(笑)。

 



ゾンガー

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月29日(水)01時05分27秒

返信・引用 編集済

 

 

ヒロイック・ファンタジーつながりで、リン・カーター『ゾンガーと竜の都』に着手。これはレムリアン・サーガの2巻なのだが、1巻を持っていないので。多分問題なく読めるはず。
解説によれば、リン・カーターは火星シリーズをヒロイック・ファンタジーとは認めないのか。まあソード&ソーサリーと同義とするならそのとおり。でも両者は別と考えたい。でないと、火星シリーズはなに? スペースオペラ? スペースオペラだとするのは、わたし的にはヒロイック・ファンタジーより違和感があるなあ。その意味で、火星シリーズも、正統ソード&ソーサリーも含めたジャンルとしてヒロイック・ファンタジーを定義したい(おお初めて岡田英明と意見が合った(^^;)。そうすれば日本製伝奇バイオレンス作品も、ヒロイック・ファンタジーに収まる訳です。

1)   

2)  3)

 



「翔び去りしものの伝説」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月28日(火)21時03分27秒

返信・引用 編集済

 

 

都筑道夫『翔び去りしものの伝説』(徳間文庫83、元版79)読了。

あとがきにもありますが、なるほどゼンダ城プラス西遊記。もっとも瓜二つの替え玉は、元ネタとは真逆の真逆で(まさかのまぎゃくでとお読みください)、本物をあっさりと殺してしまいます(^^;。
いやー、これは予想以上に面白かった。途中から巻措く能わずになってきて、400ページ中後半の200ページは一気読了。
非常に軽快な異世界ヒロイック・ファンタジーです。日本製ヒロイック・ファンタジーというべき伝奇バイオレンス系の作品が、いったいにまなじりを決したパセティックなものが多い中で、本篇は実に軽やか。
言い換えれば「見得」を切らないのです。なので流れが寸断されず、場面展開が早い(そしてその場面転換がまたムチャクチャうまい)。その意味では多分にアメリカナイズされているわけで、私は英訳してアメリカで出版しても違和感なく受け入れられそうな気がしました。
それは逆にいえば、オレにはこれしかない、といった「愚直な思い入れ」に欠けるともいえるわけで、コナンのような、がつんがつんと繰り出されてくる重いパンチではない。ハワードのようにのめり込んでいくのとは対極の執筆態度なのです。著者は「ヒロイック・ファンタジーでも書いてやろうか」と目論み、そのなかで、自らの豊富な読書体験から磨き上げた小説技巧をこれでもかと見せつけているわけです(もとよりキャラなんぞに寄りかかったりしません)。私はキース・ローマーを連想しました。このような執筆スタンスも、勿論有りなわけで、職人芸に徹した面白小説を思う存分楽しませてもらいました。面白かった!

 



今年の読了冊数

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月27日(月)21時20分2秒

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今年(本日現在)の読了冊数は94冊。今年は久方ぶりに100冊突破かという勢いでしたが、終盤にきて失速しました。あと現在進行中なのが『エステルハージ博士の事件簿』再読と『翔び去りしものの伝説』『ことばと思考』で、この3冊は今年中に読了するでしょうけど、それくらいで限界かな。ここにきて読書意欲も薄れ気味で、大台越えははっきりいってありえません。もっとも去年が93冊、一昨年も93冊ということで、まあこんなもんでしょう。大体100冊越えなんてこの40年間で数回しかないはず。死ぬまでにもう一回くらい経験したいもんですが……

小説・日本
12-04)高井 信『風雲のズダイ・ツァ@ ズダイ・ツァ奴隷行』(ログアウト冒険文庫93)
12-03)堀  晃『エネルギー救出作戦』(新潮文庫85)
12-02)眉村 卓『沈みゆく人』(出版芸術社10)
12-01)上田早夕里『華竜の宮』(Jコレクション10)

11-03)眉村 卓『僕と妻の1778話』(集英社文庫10)
11-02)山尾悠子『夢の遠近法』(国書刊行会10)
11-01)篠田節子『秋の花火』(文春文庫07、元版04)

10-09)野阿 梓『武装音楽祭』(ハヤカワ文庫84)
10-08)阿部牧郎『ぼてぢゅう一代』(双葉文庫87、元版74)
10-07)殊能将之『黒い仏』(講談社文庫04、元版01)
10-06)佐々木譲『警察庁から来た男』(ハルキ文庫08、元版06)
10-05)姉小路祐『特捜弁護士 十三年目の復讐』(カッパノベルス93)
10-04)姉小路祐『期待された死』(双葉ノベルズ92)
10-03)今野 敏『果断 隠蔽捜査2』(新潮社07)
10-02)姉小路祐『刑事長 四の告発』(講談社ノベルス93)
10-01)姉小路祐『殺意の法廷』(カドカワノベルズ91)

09-08)姉小路祐『非法弁護士』(光文社文庫99、元版96)
09-07)姉小路祐『特捜検察官 疑惑のトライアングル』(講談社ノベルス06)
09-06)久生十蘭『平賀源内捕物帳』(朝日文芸文庫96、初出「講談倶楽部」40、底本49)
09-05)福田和代『ハイ・アラート』(徳間書店10)
09-04)伴野 朗『さらば、黄河』(講談社文庫89、元版85)
09-03)泡坂妻夫『自来也小町 宝引の辰捕者帳』(文春文庫97、元版94)
09-02)篠田節子『静かな黄昏の国』(角川文庫07、元版02)
09-01)田中光二『無人大陸 中国』(カッパノベルス04)

08-04)大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 量子回廊』(創元SF文庫10)
08-03)森下一仁『「希望」という名の船にのって』(ゴブリン書房10)
08-02)邦光史郎『謎の古代文字』(カッパノベルス78)
08-01)篠田節子『天窓のある家』(新潮文庫06、元版03)

07-01)篠田節子『夜のジンファンデル』(集英社06)

06-03)黒岩重吾『北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目』(中公文庫91)
06-02)日下三蔵編『日本SF全集2』(出版芸術社10)
06-01)中原 涼『ifがいっぱい』(白泉社91)

05-07)中原 涼『非登場人物』(地人書館89)
05-06)中原 涼『笑う宇宙』(地人書館89)
05-05)吉田知子『天地玄黄』(新潮社76)
05-04)倉阪鬼一郎『忍者ルネッサンス!』(出版芸術社10)
05-03)樺山三英『ジャン=ジャックの自意識の場合』(徳間書店07)
05-02)橋元淳一郎『神の仕掛けた玩具』(講談社06)
05-01)林 譲治『進化の設計者』(Jコレクション07)

04-03)長谷敏司『あなたのための物語』(Jコレクション09)
04-02)伴野 朗『シャンハイ伝説』(集英社95)
04-01)福田和代『オーディンの鴉』(朝日新聞出版10)

03-03)永井荷風『あめりか物語』(岩波文庫52、改版02)
03-02)福田和代『プロメテウス・トラップ』(早川書房10)
03-01)山尾悠子『歪み真珠』(国書刊行会10)

02-03)眉村 卓『幻影の構成』(ハヤカワ文庫73、元版66)
02-02)川崎賢子編『久生十蘭短篇選』(岩波文庫09)
02-01)横光利一『機械・春は馬車に乗って』(新潮文庫69)

01-05)中井英夫『真珠母の匣』(講談社文庫88、元版78)
01-04)中井英夫『人外境通信』(講談社文庫86、元版76)
01-03)中井英夫『悪夢の骨牌』(講談社文庫81、元版73)
01-02)中井英夫『幻想博物館』(講談社文庫81、元版72)
01-01)かんべむさし『ミラクル三年、柿八年』(小学館文庫10)

小説・海外
11-02)アヴラム・デイヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』池央耿訳(河出書房10)
11-01)ゾラン・ジフコヴィッチ『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』山田順子訳(黒田藩プレス10)

10-01)ジャン=ピエール・ガッテーニョ『悪魔の囁き』高野優訳(扶桑社ミステリー文庫93)

09-06)E・S・ガードナー『奇妙な花嫁』平井イサク訳(ハヤカワミステリ文庫81、原著34)
09-05)E・S・ガードナー『義眼殺人事件』小西宏訳(創元推理文庫61、原著35)
09-04)E・S・ガードナー『吠える犬』小西宏訳(創元推理文庫62、原著34)
09-03)E・S・ガードナー『幸運な足の娘』林房雄訳(創元推理文庫59、原著34)
09-02)E・S・ガードナー『すねた娘』池央耿訳(創元推理文庫76、原著33)
09-01)E・S・ガードナー『ビロードの爪』小西宏訳(創元推理文庫61、原著33)

08-03)E・D・ビガーズ『チャーリー・チャンの活躍』佐倉潤吾訳(創元推理文庫63、原書30)
08-02)エラリイ・クイーン『フランス白粉の秘密』宇野利泰訳(ハヤカワ文庫83、原著30)
08-01)ヴィクトル・ペレーヴィン『宇宙飛行士 オモン・ラー』尾山信二訳(群像社10、原著92)

07-04)カミ『機械探偵クリク・ロボット』高野優訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ10)
07-03)ロバート・W・チェイムバーズ『黄衣の王』大瀧啓裕訳(創元推理文庫10)
07-02)青柳瑞穂訳『モーパッサン短編集(三)』(新潮文庫71)
07-01)フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『金剛石のレンズ』大瀧啓裕訳(創元推理文庫08)

06-01)ホルヘ・ルイス・ボルヘス『創造者』鼓直訳(国書刊行会75)

03-01)山田登世子編訳『モーパッサン短篇集』(ちくま文庫09)

非小説
12-02)清水 勲『四コマ漫画 北斎から「萌え」まで』(岩波新書09)
12-01)鈴木邦男『右翼は言論の敵か』(ちくま新書09)

10-01)海老原嗣生『「若者はかわいそう」論のウソ』(扶桑社新書10)

09-02)岡村秀典『夏王朝 王権誕生の考古学』(講談社03)
09-01)堤 未果『ルポ貧困大国アメリカ2』(岩波新書10)

08-03)原田 実『もののけの正体怪談はこうして生まれた』(新潮新書10)
08-02)四方田犬彦『「七人の侍」と現代――黒澤明再考』(岩波新書10)
08-01)邦光史郎『太平記の謎 なぜ、70年も内戦が続いたのか』

07-03)トム・ベッセル『ジョージ・ルイス ジャズマン・フロム・ニューオーリンズ』小中セツ子訳(10)
07-02)小原秀雄『街のホモ・サピエンス自己家畜化するヒト』(徳間文庫99、元版81)
07-01)春日太一『時代劇は死なず!京都太秦の「職人」たち』(集英社新書08)

06-09)中山康樹『マイルスvsコルトレーン』(文春新書10)
06-08)大橋博之編著『日本万国博覧会パビリオン制服図鑑』(河出書房10)
06-07)小田切博『キャラクターとは何か』(ちくま新書10)
06-06)楡 周平『衆愚の時代』(新潮新書10)
06-05)前島 賢『セカイ系とは何かポスト・エヴァのオタク史』(ソフトバンク新書10)
06-04)NHK大阪「今城塚古墳」プロジェクト『NHKスペシャル大王陵発掘!巨大はにわと継体天皇の謎』(NHK出版04)
06-03)森浩一・門脇禎二編『第7回春日井シンポジウム 継体王朝』(大巧社00)
06-02)寺尾紗穂『評伝川島芳子 男装のエトランゼ』(文春新書08)
06-01)水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書01)

05-02)橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書06)
05-01)橋元淳一郎『時間はなぜ取り戻せないのか』(PHPサイエンス・ワールド新書10)

04-01)春日太一『天才 勝新太郎』(文春新書10)

02-03)長山靖生『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』(河出ブックス09)
02-02)筒井康隆『アホの壁』(新潮新書10)
02-01)石原千秋『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』(河出ブックス09)

 



年賀状

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月26日(日)18時09分38秒

返信・引用 編集済

 

 

年賀状投函なう。
午前中かかって作成し、午後は宛名書き120枚。治りかけていた腰がまた悪化してしまいました。
投函ついでに寄ったディスカウント店で、年末正月用のナイトキャップとしてバーボンを購入。いつもは千円強の安物なんですが、奮発して1600円のIWハーパー(わたし的には超ゼータク(^^;)。やっぱり味は値段に比例しますなあ(>飲んでるんかい)。
あ、これでは正月どころか、明日まで持つかどうか。あかんがな。

和製ヒロイック・ファンタジーつながりで、都筑道夫『翔び去りしものの伝説』に着手しました。

  ↓ 宛名書き作業中のBGM
1)  2)  3)

4)  5)  6)

7)  8)  9)

訂正>いま聴いていたら、誤って「Crepuscule with Nellie」がダブっていたので、片方消して「Nutty」を追加。9)に、5)の「Epistrophy」を入れてしまっていたので、改めて9)に「Epistrophy(incomplete)」を入れる。あかん、宛名書きでだいぶ疲れてしまっています。

 



Re: 「風雲のズダイ・ツァ@」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月24日(金)22時53分10秒

返信・引用

 

 

> No.2816[元記事へ]

高井さん

あ、RPGでしたか。すみません。英語に不自由なもので(汗)。
やっぱり前半と後半ではスタンスが変わっているのですね。後半が面白いのは言うまでもありませんが、前半の定型も捨てがたいです。こういうジャンルを知らないからかも知れませんが(^^;。

>このシリーズ、部数はそこそこ出ていますから、入手はさほど困難ではないと思います
では今後は、ラノベ棚も忘れずチェックするようにしますね。バローズは大好きなので、楽しみに探したいと思います。

 



Re: 「風雲のズダイ・ツァ@」

 投稿者:高井 信  投稿日:2010年12月24日(金)22時09分1秒

返信・引用

 

 

> No.2815[元記事へ]

 お読みいただき、ありがとうございます。

> 作者もそう思ったのではないでしょうか。というのは後半、冒険者のチームが罠にはまって捕らえられ、船に監禁されてリルガミンの町からヒノモト総督府へ拉致されていくあたりから、次第にRGP的定型描写から、より小説的な描写に変化していくからです。RGPの画面を見ているような印象はだんだんと薄くなって、次第に本来の、ヒロイック・ファンタジーらしさが強まってきます。
 鋭いですね。
 第1巻の前半部分(「第一章 呪われたボルタック」と「第二章 ゴッフェルの秘法」)は、もともとは単発の作品として執筆したもので、純然たるRPG小説です。『風雲のズダイ=ツァ』の本編は「第三章 マルカスの復讐」から始まるのです。
 第2巻以降、バローズがお好きなら楽しんでいただけると信じています。
 このシリーズ、部数はそこそこ出ていますから、入手はさほど困難ではないと思います。ブックオフでもちょくちょく目にしますよ。

 



「風雲のズダイ・ツァ@」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月24日(金)21時25分42秒

返信・引用 編集済

 

 

久しぶりにブックオフに寄ったら、105円→80円セールをやってた。これはラッキー! と物色したのですが、結局めぼしいものはなかったのでした。最近こんなパターンが多い。伴野朗『上海奪回指令』(だっけ)があったのだが、少し前に購入した『上海遙かなり』をまだ消化していないのでスルーした。どうせまたどこかで出遭えることでしょう。出遭えなくてもそれはそれでオッケー。これが最近の私の、古本に対するスタンスなのです。

あ、なぜ今日ブックオフに寄ったかといいますと、
高井信『風雲のズダイ・ツァ@ ズダイ・ツァ奴隷行(ログアウト冒険文庫93)を読了したので、2巻と3巻を探しに行ってきたのでした。ありませんでした(^^;。というかログアウト冒険文庫自体が皆無だった。ラノベ棚はふだんまったくチェックしないのでそれが常態なのか、私が訪れた店が異常なのかよくわかりませんが、とりあえず見つからなかったのでした。

実は先日高井さんが、<ズダイ・ツァ>シリーズに就て「バローズへのオマージュ」と書いておられて、バローズは私も大好きですから、これは読んでみなければ、と思った次第。幸い1巻目は所蔵していたのです。

なるほど、ヒロイック・ファンタジーでした(^^)。ちゃんと冒頭にシャンバラ大陸東部の地図が載っています。ヒロイック・ファンタジーに地図は必須です。火星シリーズにはオリジナルな地図はありませんが、野田さんの苦心の労作が火星シリーズの何巻目かに掲載されています。私も自作したものです。でもバローズ自身が地図に無頓着だったので、地理的関係は矛盾しまくっています。苦心の労作と書いたのはそういう意味です(^^;

話がずれました。で、読み始めたのですが、なんとなくヒロイック・ファンタジーらしくないのです。
それもそのはず、実は本書は、単なるヒロイック・ファンタジーではなかったのです。<真ウィザードリィRPGノベル>と銘うたれています。テーブルトークRPG(ロールプレイングゲーム)の「真ウィザードリィRPG」の世界を舞台にした、一種のノベライゼーションだった。すなわち設定があらかじめ定まっていて、それを踏襲して物語を進めなければならない、小説的見地からは、かなりしばりがきびしいものといえそうです。

余談ですが、私の知り合いに、人気アニメシリーズのノベライゼーションを請け負っている作家がいまして、その方によりますと、キャラのイメージが既に読者の中で固定していて、それから外れると、とたんにクレームが来たりするのでやりにくい、と言っていました。

RPG自体を私はよく知らないのですが、読み始めたら、ああこれか! と思った。テーブルトークのそれはやったことがないのですが、専用ゲーム機のRPGは、昔子供のお相手で多少知っており、読み始めたら、まさにそれが文字で再現されていたのです。武器のレベルが決まっており、そのようなアイテムを購入したりするわけです。描写も常に<ギルガメシュ亭>という酒場が起点となり、一日が終われば、冒険者たちはねぐらに帰って休む。そういういかにもゲームにおけるパターンが踏襲されていたわけです。
おそらくこれはノベライジストが必ず守らなければならないもので、これから逸脱すると、本書のようなノベライズ本の主たる読者であるゲーマーが納得しないのでしょう。

そういう定型性が、実は私には意外に面白かった。ただしそれが一面では「小説」としての自由さを戒めているのは間違いないと私は思います。
作者もそう思ったのではないでしょうか。というのは後半、冒険者のチームが罠にはまって捕らえられ、船に監禁されてリルガミンの町からヒノモト総督府へ拉致されていくあたりから、次第にRPG的定型描写から、より小説的な描写に変化していくからです。RPGの画面を見ているような印象はだんだんと薄くなって、次第に本来の、ヒロイック・ファンタジーらしさが強まってきます。この傾向が2巻以降どのようになっていくのか、非常に興味があるところで、読み終わってさっそくブックオフを訪れたという次第。残念ながら入手することはできませんでしたが、まあ、いつかどこかで出遭えることでしょう。そのときまで楽しみは取っておくことにします。これが最近の私の、古本に対するスタンスなのです(>おい)(^^;。

 



追悼・黒岩比佐子さんDVD上映会のご案内

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月24日(金)02時44分28秒

返信・引用

 

 

今年11月17日に急逝されたノンフィクション作家、黒岩比佐子さんを偲んで、生前、10月16日に行われた講演会の記録DVDが、東京堂書店神田本店にて、下記の次第で上映されます。
内容は、最後の著作となった『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い(講談社)刊行(10/8刊)にあわせて開催された講演会の記録で、演題は『社会主義者・堺利彦の文才と「売文社」』
黒岩さんはすい臓がんで亡くなられたそうです。享年52歳。
今回は、『パンとペン』担当編集の中村勝利さんに加え、ライター仲間(?)の岡崎武志さん、鈴木千秋さんも友情出演されます。10月の講演会に来られなかった皆さま、ぜひ足をお運び下さい、とのことです。
杏さんの追悼文
          ―― 記 ――

 追悼・黒岩比佐子さんDVD上映会〜友情出演岡崎武志さん×鈴木千秋さん

  開催日時:2011年1月22日(土)13:30〜15:30
  開  場:13:15
  開催場所:東京堂書店神田本店6階
  参加費:500円
  お申込:要予約
  電話または、メール(tokyodosyoten@nifty.com)にて、件名「追悼・黒岩比佐子さんイベント希望」・
  お名前・電話番号・参加人数、をお知らせ下さい。当日22日と前日21日は、お電話にてお問合せください。
  電話03-3291-5181

 



「エネルギー救出作戦」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月23日(木)21時28分2秒

返信・引用

 

 

堀晃『エネルギー救出作戦』(新潮文庫85)

ふとショートショートの勉強でもしようかと思い立ち、本書と、本書とは正反対の作風の石川喬司『絵のない絵はがき』を、並べて読みはじめたのですが、結局途中から、本書一本になってしまいました。資質的には、私は石川に近い筈ですが、逆に近親憎悪が働いたかも。
で、本書を読み終わったのだが、これは実践的には役に立ちませんなあ(>おい)。こんなの真似できないもの(^^;
そういう意味では役に立たなかったのですが、別の意味で目から鱗が落ちるような啓示を得ました。
それはハードSFとリアリズムSFがイコールではないということ。私は、頑張ったらリアリズムSFは書けるかも知れません。正確にはリアリズムSFならば書ける可能性がゼロではない(汗)。でもハードSFは不可能です。
つまり科学書を読みあさって、リアルな小説世界は書ける。たとえばビッスンの「赤い惑星への航海」のようなもの。この作品はリアリスティックではありますが、ハードではありえません。
しかし、ビッスンにとって到達点であるこの地点は、堀SFにとっては初期値なのです。この地点から堀SFはぐぃーーんと想像の輪を広げていくのです。その届く範囲が、物理世界を越えてしまうことになっても、立ち止まらない。アイデアの指し示すところに赴くまで、といった感じです。それこそがハードSFなのではないでしょうか?
私がリアリスティックな火星世界を描いたら、現在分かっていることは盛り込めますが、そこから突出していくものは書く勇気がないでしょう(そんな資質がまずないわけですが)。たぶん記述が間違ってやしないかということにばかり汲々としてしまい、そこからはみ出していくようなベクトルは生まれないはずです。付け焼刃な科学書まる写しのSFは、その地点で社会や人間を描く(たとえばKSロビンスン)ことで良い作品を生み出し得ますが、ハードSFはそんなものではないのですね。科学的初期値からはみ出していくベクトルがあって初めてハードSFなのではないでしょうか。
そういうことがよくわかったショートショート集でした。

収録作品の半数近くがマキ博士シリーズといってよいもので、連作の効果もあってか、このシリーズが一等楽しい。マキ博士自体は、一種の狂言回しで、個性的な魅力があるわけではないのです。これはある意味エステルハージにも通じることで、エステルハージって基本なんの個性もないんですよね。活躍するわけでもない。単なる視者。それでもエステルハージものが楽しいのは、三重帝国という一種異郷世界の紹介者(というかカメラアイ的観察者)的立ち位置を保持しているからで、これはマキ博士も同じなんです。

ベスト5は――
「エネルギー救出作戦」>なんとなくニーヴン「無常の月」を思い出した。でも「無常の月」ってどんな話だったっけ(>おい)。
「エネルギー盗難事件」>確率的な全ての(並行)世界に遍在して、そのなかでもっとも気に入った世界に収斂する男の話。その瞬間、「気に入られなかった世界」では男は消失してしまう。
「接触の儀式」>タバコを吸うのは友好の印の筈だったが、換気装置が作動し……
「みどりの星へ」4度の氷期(と今後繰り返される氷期)の原因が、この惑星に動物が繁栄するという異常現象の結果だった!?
「安楽死星」>自らの死に、宇宙そのものを道連れにさせる試みは!? 「人間は死ぬとき、自分の死とともに世界の破滅も切望する」というのは『沈みゆく人』と通底する観念かも。

 



Re: 「僕と妻の1778の物語」試写会

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月23日(木)17時02分4秒

返信・引用

 

 

雫石さん

> この映画、私は、星群の連中と一緒に観に行く予定です。
お楽しみに〜(^^)
でも、老婆心ながら、ひとりで見に行かれたほうがいいですよ。おいおい泣いてしまいますから、知り合いと行くと、ちょっと恥ずかしいかもです〜(^^ゞ

 



Re: 「僕と妻の1778の物語」試写会

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年12月23日(木)15時31分58秒

返信・引用

 

 

> No.2809[元記事へ]

この映画、私は、星群の連中と一緒に観に行く予定です。
1月の星群例会は映画鑑賞会です。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



「僕と妻の1778の物語」追記&眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月23日(木)13時29分3秒

返信・引用

 

 

> No.2809[元記事へ]

承前
一晩寝て起きてあらためて実感したのは、この映画、竹内結子の存在感が草なぎ剛に圧倒的にまさっていることで、下のリンクの草なぎくんの発言に「自然にぼくのお芝居を引き出してくれて」とありますが、まさに竹内結子あっての草なぎ剛のイメージでした(^^;

これも朝起きて気づいたのですが、親友のSF作家で、恋愛小説に転じて流行作家になった滝沢の造形要素の中には、「黄泉がえり」の梶尾真治のイメージも利用されているかも。同じく東宝配給で、草なぎ剛と竹内結子が共演した作品でもありますし(^^; 偽悪的に流行作家ぶるところは半村良かも(>おい)。

先日ちょっと触れましたが、「キネマ旬報」は、2011年1月下旬号(1月6日発売)で、「僕と妻の1778の物語」を巻頭特集していて、その中に収録されている「『僕と妻の1778の物語』と眉村卓の作品世界」(取材・文:山下慧)が、けっこう読み応えがあるそうです。いやーたのしみたのしみ(^^)

草なぎ氏・竹内氏・星監督の舞台挨拶の様子

 



「僕と妻の1778の物語」試写会

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月23日(木)00時28分27秒

返信・引用 編集済

 

 

新春映画「僕と妻の1778の物語」の試写会に行ってきました!
場所は御堂会館大ホール。6時半開演で6時に到着したら、すでに長蛇の列。このホールは900人入るそうで、満員にはなりませんでしたが、8〜9割方埋まっていました。開始直前に入ってきた人は、カップルならば別々に座らなければならない、そんな感じの入り具合。

開始直後は草なぎ剛演ずるSF作家牧村の、(一般大衆がSF作家と聞くとまず思い浮かべるのであろう)浮世離れした子供っぽさに、リアリティのなさを感じたのでしたが、見終わったときには、むしろこれくらい現実感覚の希薄な、夢見る青年に設定しておかなければ、本篇のストーリー自体が必然性を失っていただろうな、と思い直した次第。それくらい1778話という営為そのものが、こうして絵にして提示されると、ありえないものに思えてくるわけで、眉村さんはSF作家の中でも現実感覚をもった方ですが、眉村さんをストレートに写した人物を設定していたら、ちょっとこの話は絵空事になってしまったかも知れません。逆にいえば眉村さんの実話は「小説的リアリティ」を持ち得ない類のもので、とんでもないことをなさっていたのだなということが、本篇を観て、はじめて私にも了解できたように思います。その意味でシナリオと演出は正しかったと思いました。

私は先入観で、どうせお涙頂戴映画(に利用されただけ)だろうと思っていましたが、そんなことは決してなかった。むろんお涙頂戴は座標の原点ではありますが、監督は眉村さんの1778話を深いところで理解しており、その制約内で、その立ち場の限りで最良の映像を作られたと思います。

映像的リアリティを追求していく中で、ストーリーはどんどん「実話」離れをしていきます。夫婦の年齢を若く設定したことで、ある面では実話よりももっとシビアなものになってもいるのです。
妻の節子(竹内結子)は、腹痛に、子供を授かったのではないかとの予感をもって病院を訪れ、がんを発見されるのですが、これは実話よりももっと残酷な話でしょう。少なくとも悦子夫人というか眉村夫妻は子どもに恵まれその成長の過程を共有できた。映画の節子は、実母(風吹ジュン)に孫を見せられないのを詫び、自分の子供に読み聞かせるのを楽しみにしていた(かつて自分が母親から読み聞かせられたのだろう)絵本の数々を、牧村の親友であるベストセラー作家滝沢(谷原章介)とその妻(吉瀬美智子)の子供に、自分にはもう必要ないからと譲ってしまうシーンも切ない。
同期のSF作家で恋愛小説に転じてベストセラー作家になった滝沢は、映画独自の設定でモデルはないと思われますが、ある意味筒井康隆を連想させる面もある。それは非常にシニカルなところで、SFにこだわってうだつの上がらない牧村に容赦ない言葉を浴びせるのですが、深いところでは互いに親友としての絆は強い。
死期を悟った節子が、滝沢を呼び出し、残される牧村のことを頼む場面。滝沢はきっぱり断る。この場面で「よし分かった任せとけ」と、言わせるのではないかと冷や冷やしました。そんなことはなかった。「あなたが生き続けるのが最善だ」と言うのです。「よし分かった任せとけ」では、秀吉に秀頼のことを託された家康になってしまう。
このとき節子は、自分亡き後いい人を牧村に見つけて欲しいと頼むのですが、これまた実話よりも残酷なシーンです。

本篇を見た眉村さんは、「パラレルワールド(の自分みたい)ですね」と、週刊大衆のインタビューで感想を述べられていますが(本篇内でもパラレルワールドへの言及がありますが)、年齢を60代から30代にもって行くだけで、そこには別の物語が必然的に開示されるものなのでしょう。

さて、この映画では1778話の中から何篇かが採られて朗読されたりしているのですが、少しずつ改変が施されているようです。1776話「寝不足の能力」は「彼」が「彼女」に変えられていましたし、1775話「話を読む」、1777話「けさも書く」もちょっと端折られている。これらは映像に合わせての改変なので、別に違和感はなかった。しかし1778話「最終回」は、私にはトゥーマッチに感じられた。この辺は大前提のお涙頂戴からすればしかたがないのかも知れませんが。

ともあれ、予想以上にしっかりした映画で、あるセンチメントに向かってストーリーが不自然に曲げられたところもなく、満足しました。先入観にとらわれず、いわば「実話のパラレルワールド版」として観られたらいいのではないでしょうか。どうしたもんかねと迷っておられる貴兄、観に行って良しですよ(^^)

  ↓牧村の書架の架空の本

 



頼むでアマゾン

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月21日(火)20時29分45秒

返信・引用 編集済

 

 

がー! いわんこっちゃない。切らしてしまってるがな!→アマゾン

 



がんばれアマゾン!

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月21日(火)17時42分26秒

返信・引用 編集済

 

 

amazonの『沈みゆく人』、もう在庫2点になってしまっているではないか。一体何冊仕入れたのか。年寄りのションベンみたいにチョロチョロ仕入れたってあかんぜよ。数日おきに欠品が発生して売りのがしてしまうだけやないか。
ここは一発、ドーンと100冊くらい仕入れなはれ。そうして本のトップページの、ちょうど、いま見たら「大掃除特集」となっているところ、そこに大きく掲載しますんや。売れまっせー!
「あ、あのなあ……」
アマゾンに限らず、リアル書店も同じでっせ。入り口の一番目立つところ、いわゆる「第1磁石」に天井まで積み上げたらよろし。めちゃめちゃ売れまっせー!
「そやから、あのなー」
何やうるさいな。言うたらなんやが、何十万部も刷ってませんのや。やから、100冊完売したとしなんせ、一気に『沈みゆく人』の実売構成比では他を圧してシェアを獲得してしまうこと間違いない、私が請負います。
「あの、もしもし?」
『沈みゆく人』販売コンクールてのがあるのかどうか知りませんが、あったら一等賞は確実。賞品はなんでしょう?
「ちょっと待てって!」
「なんやねん、今わしが喋ってんねん」
「とにかく、オレの話を聞け〜♪」
「歌うな!」
「5分だけでいい〜♪」
「もうええって。なんや人の邪魔しくさって」
「キミの意見はよくわかった。たしかに第1磁石に積んだら10倍は売れるやろ。『沈みゆく人』の実売構成比も上がるかもしらん。しかし同じ場所に水嶋ヒロを積んだらどないや?」
「そら水嶋のほうが売れるやろ」
「あかんがな。書店としても売上が上がるように売場作りしてはるねんから。『沈みゆく人』を売りたいのは分かるけど、それは違うやろ」
「違うことない。これでええねん。なんも問題ないがな」
「なんでや?」
「なんでや、て、簡単な話や。本だけに、本末転倒しております」
「キミとはやってられんわ!」

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月21日(火)01時38分38秒

返信・引用 編集済

 

 

産経新聞12月17日夕刊に、「僕と妻の1778の物語/夫婦愛が包む幸福な時間」の見出しで、インタビューの構成記事と眉村さんの写真&映画の写真(『日がわり一話』(出版芸術社刊)の新しく差し替えられた帯のと同じ。高井さんとこで見られますよ>青い帯の方(^^;)が掲載されました。
これ、なかなかいい記事で、全文引用したいくらいなのですが、映画化に際して
「美談にしないこと」「いい映画にすること」を条件に許諾されたとのこと。したがって監督も、悲しいだけの闘病記ではなく、幸福な5年間を描くことを目指したそうです。出来上がりに就ては、「きれいに仕上がっていました」と満足されているようです。
また、これは初めて明かされた情報だと思うのですが、短話とは別に、闘病の記録も付けておられたとのこと。
「これは今も読むことができないです」。客観的に見れるようになられたら、ぜひそれを元に「私小説」を書いていただきたいものです。
「同盟国」だった夫人を失って8年、「いまは娘という司令塔のもと、新生活がはじまっています」という言葉は、『沈みゆく人』のラストと重なるように思います(^^)

以下は東宝関西支社さんから戴いた情報で、これからの眉村先生の出演・掲載のスケジュールです。

・エフエム大阪「PEACE」・・・1/10(月)〜1/13(木) ←これは例の「男のポケット」ですね。
・読売テレビ「朝生ワイド す・またん」or「ズームインSUPER」・・・1/13(木)予定
・朝日新聞・・・公開前予定
・神戸新聞・・・公開前予定

あと、眉村先生は出られませんが、映画関連で年末年始、特番やら宣伝やらが目白押しとのことで、いやが上にも盛り上がってきそうです。楽しみ〜!

『エネルギー救出作戦』読了。感想は明日にでも。

 



アマゾン在庫切れ

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月19日(日)21時33分19秒

返信・引用

 

 

眉村卓『沈みゆく人』(定稿)をチャチャヤン気分に掲載しました→http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/239.html

同じ文章をアマゾンのレヴューに投稿しようとしたら、なんとアマゾン、在庫を切らしているではないか。けしからん。でも関係なしに投稿しちゃうのだ。

 



とつぜんショートショート(もどき)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月19日(日)16時40分3秒

返信・引用 編集済

 

 

数字のマジック→http://8227.teacup.com/ysknsp/bbs/10131

料亭にて――
会長「おい、法人税できるだけ下げろよ」
官僚「はい、それはもう細工は流々で。実はこのように……ひそひそ」
会長「なるほど。官僚、お前も相当のワルよのう」
官僚「ははあ、恐れ入ります」
会長「大臣にはわからんようにな」
官僚「大臣に分かるはずがありますかいな。なにしろ数字にすると疑問というものが働かなくなるようで」
会長「数字は怖いものよのう」
官僚「御意」
会長「数字をちょちょいと触れば政も民も思いのまま」
官僚「しかも嘘を言っている訳ではありません」
会長「数字を見るものが勝手に騙されてしまうわけか」
官僚「O博士とかいう男だけが、なにか感づいているようで、ちと……」
会長「すぐ引っ捕えてしまえ」
官僚「ははあ!」

O博士の失踪を伝える新聞記事が出たのはそれから数日後のことであった。

(*)ほ、本篇はフィクションにつき……失礼しました〜m(__)m

本日のBGM
1     2  
3    

 



「沈みゆく人」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月18日(土)23時08分37秒

返信・引用 編集済

 

 

眉村卓『沈みゆく人』(出版芸術社10)

170頁の表題作中篇と、あと30頁に満たない短篇3本を収録。著者はあとがきで本書に就て「私(わたくし)ファンタジー」と名づけています。たしかに各篇の主人公の名前こそそれぞれに違いますが、住んでいる地域や、何年か前に妻を亡くしていることなど、いかにも著者を髣髴とさせる設定になっている。とはいえ「私小説」ではない。リアリズム小説ではないからです。

「沈みゆく人」で、主人公の私はひょんなことで自費出版本と思しい本を贈呈される。それは読む者の内面を反映してストーリーが変化するというもので、読者がストーリーに同調してしまうと、本の中にとり込まれてしまい、あとには「抜け殻」が残されるようになってしまうらしい。
最初は内容も短く読者である私に完全にはフィットしなかったのが、読み返すごとに物語は変化し、次第に私に同調した話になっていく。長くなり詳細にもなっていくのです。
この作中作というべき(太字で表現された)ストーリーというかエピソードが面白いのです。特に「私」がXYZの3人に分裂してしまうエピソードは実にもって興味深い。
そうこうするうちに主人公は、本の文字の色が少し薄くなっていることに気づく。
ここまでが序破急の序にあたるでしょう。そして破がくる。
すなわち次に開けたとき、文字は消え去って白紙になっていたのです。

ここからネタばらしをしますのでお気をつけ下さい。

実は白紙になったということは、読者が本の中にとり込まれてしまったということなんだろうと私は解釈します(説明はいっさいない)。なぜなら、それまでは結婚して妻は亡くなったけれども子供は海外で暮らしているという設定だったはずなのに、突然、子供はいないという設定に変わっており、やがて結婚もしていないとなる。そしてなぜかとうに亡くなった妻がいたという「偽記憶」が浮かんできて、主人公を当惑させます(この相転移を見逃すと、著者はうっかりミスしていると誤認してしまうのでお気をつけ下さい。って本板をお読みの皆さまには要らぬおせっかいでしたか(^^;)。
なお、更に蛇足を重ねるならば、本の中に飛び込んだ主人公の抜け殻が、現実世界に残されて日常生活を送っているはずですが、それは本篇では描かれていません。

さて、その世界で主人公は、体の調子も思わしくなく、死がすぐ間近に来ているような予感をいだいている。そしてなぜか世界そのものも終末を迎えようとしている風なのです。かくのごとく作品の背景には、最初から通奏低音のように「滅び」の予兆がひしひしと漲っている。主人公はなかば傍観者の態度で、ときおり「はは」と薄く笑うのですが、それはまさに主人公と世界の間の離人症的乖離感を表現している。
私はこのへんヴォネガットに非常に近しい世界への構えを感じないではいられませんでした。

本が白紙になって、主人公はいつのまにか現実とそっくりながら、少しずつ違う世界に放りこまれているわけですが。そこでは若者は不思議なファッションに身を包み、世界はガンマ線バーストやら小惑星の衝突やらが目前に迫っているらしい。そんな世界で、主人公は「偽記憶」として現われる「現実の」記憶に当惑する。それはまるでディックの現実崩壊的悪夢世界を想起させるものです。

全てにおいて生き生きとした現実感を失った主人公は、そのときくだんの、白紙になった本を思い出す。もしここに自分が物語を書き込めばどうなるのか? 主人公が書き込んだのは、無限の砂漠にまっすぐに伸びた一本の道だった……

私はこの安部公房的な開示に、ちょっと違和感を持った。ここはやはり「原っぱ」が展けているべきではないのか。が、あとがきを読んで納得。「原っぱ」では畢竟過去への逃避なんですよね。一本の道はまっすぐ「未来」へと伸びているのです。だから「原っぱ」ではいけない。あとがきで著者は、「エイやん」は挽歌だったとします。では本篇は? そう「始まり」「出生の歌」なんです。あるいは「再生」の歌。「終末」の予兆に満ちた本篇は、しかし最後に「未来」への道を見出すのでした。

いやあ引き締まった傑作でした!

あとの短篇も、それぞれ面白い。とりわけ
「板返し」の繰り返しのアイデアは、一見「しゃっくり」の後追いみたいですが、観念性はぜんぜん違う。私は思うのですが、著者はこれを書いているとき、ラストの暴力シーンでは、いったいどちらに思い入れして書いたのでしょうね。私は加害者の方だと思うのですが。
「じきにこけるよ」は最初と最後が対応する短篇小説の教科書のような佳篇。「住んでいた号室」で主人公がテレポートしたのは一体どこだったんでしょうねえ?

以上、4年ぶり待望の本書は、まさにその期待を裏切らない、期待にこたえて余りある秀作集でありました。

 



Re: 「沈みゆく人」を購入しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月18日(土)11時41分28秒

返信・引用

 

 

> No.2801[元記事へ]

いててて。また腰を痛めてしまいました。腰というか背筋の下部。筋肉が落ちきっているのに、昔の感覚で安易に重いものを持ち上げたら、案の定覿面でした。来年は運動しよう(>ほんとか)。

斎藤さん
おお、お買い上げになられましたか。もう店頭に並んでいるのですね。
私もたったいま読了しました。まだお読みになっておられなかったらアレですので、感想は別項にしますが、よかったです〜。どっぷりと眉村ワールドに浸ることができました(^^)。表題作(300枚弱の中篇)はヴォネガット→ディック→安部公房です(>あ、言うてもた。でもこれじゃ何がなにやらわからんですよね)(^^;。残りの短篇も意外にトリッキーです。斎藤さんも堪能して下さい!

 



「沈みゆく人」を購入しました。

 投稿者:斎藤  投稿日:2010年12月17日(金)20時24分45秒

返信・引用

 

 

こちらの掲示板でのお知らせのおかげで、眉村卓「沈みゆく人」を、近所の書店で無事購入できました。ありがとうございました。
ネットショップでの予約も考えたのですが、やはり書店で実物を手に取って購入したいという思いが強く、書店で購入となりました。
平積みを願っていたのですが、残念ながら、棚の中に一冊だけ立て置き状態だったのが悔しいです。
でも、久々の長編小説で嬉しいです。
第一世代作家で、ちゃんとSFに向き合った小説を書いている、正真正銘の現役作家って、眉村卓しかいないのではないでしょうか。
司政官シリーズの新作も読めたら嬉しいです。

 



とつぜんショートショート(偽)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月17日(金)17時42分19秒

返信・引用 編集済

 

 

「いててて」
「おい、大丈夫か」
「ああ、なんとか。すごい勢いで曲がってきやがった」
「そりゃ完全に信号無視じゃないか」
「ブレーキかけてたけど、あんなんじゃ効かないって」
「スピード違反もか!」
「あやうく衝突はまぬがれたが、避けきれなくて接触した」
「あ、そこに破片が」
「接触したときに脱落したようだね」
「しかしひどいなあ、当て逃げか」
「あっという間にすっ飛んで逃げていった」
「取り逃がしちゃったな」
「うん、でも補助コンピュータに軌道計算させることはできた」
「そりゃ、もっけの幸い。で?」
「6地球年後にまた戻ってくるようだ。戻ってきたらただじゃおかない」
「よし、そのときは俺も手伝うよ」
 といって機械生命体は、ボディをへこませて浮遊している仲間にアームを差しのべた。

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月16日(木)18時47分29秒

返信・引用

 

 

わ、ズボンのホックがはじけた(泣)。

既に店頭発売中の週刊大衆12/27号のカラーグラビア「シリーズ人間力」に、眉村さんの写真とインタビューの構成記事が、色っぽい写真に挟まれて(>おい)、掲載されています(^^;
 
<『僕と妻の1778の物語』は、映画としてよくできてました。感心しましたね。(……)草なぎさんみたいなSF作家がいたら、飯食っていけないと思うけど(笑)。>

12/21読売新聞夕刊文化面にもインタビューが載るようです。

あと、「キネマ旬報」も(当然ですね)。こちらはまだ何号なのかわかりません。わかり次第お知らせします。

よみうりテレビ(朝生ワイド?)にも出演される予定とのことで(収録は終わっている?)、これも詳細は追ってということで。

待望久しかった新作作品集『沈みゆく人』(出版芸術社近刊)ですが、先日報じましたようにbk-1では既に予約受付しておりましたが、ようやくamazonでも予約受付が始まりました!
bk-1には表紙の写真がアップされていますね(^^)

まずは分かっているところまで。

 



striking pauseは永遠なり

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月15日(水)19時46分12秒

返信・引用

 

 

中相作氏、「リストラ風雪記」を絶賛!→http://nabariningaikyo.blog.shinobi.jp/Entry/196/

かんべむさしさんの「ふりーめも」で、ハリウッドに出演した殺陣の名人が、その演技に対して徹底的にNGを出されたとの記事を読んで、私はさもありなんと思ったのでした。剣戟の殺陣に看取できる「型どおりの美」は、おそらく歌舞伎の「見得」に発するものでしょう。英訳の「striking pause」はなるほど言い得て妙。

ところでこのストライキングポーズ、芝居の世界、時代劇の世界だけのものではなく、邦画全体に通底する特徴ではないでしょうか。いや、テレビドラマやアニメも例外ではありません。つまり古い世代のものではなく、現在でも通用している感性なのです。余談ですが、私は昔、邦画と洋画でカットの平均時間を測って比べてみたいと思ったことがあります。

だいたい私が若い頃邦画を好まなかったのは、かかるポーズを多用する長いワンカットがあざとく感じられたからです(演技者の内面を説明するナレーションはもっと嫌いですが(^^;)。ただこの頃は、歌舞伎や殺陣のように、時に鞣されて洗練したものはやはりそれなりによいと感じられるようになってきました。とはいえドラマなどに多用される安直なそれはいまだに見るに耐えません。

件の役者はその(伝統的な)演技を「不自然である」とみなされたとのことですが、たしかに不自然なんです。ただし私は日本人を半世紀やってきましたから、リアリズムとは対極にある歌舞伎や剣戟のそれは、それなりに機能していることが分かってきました。そこが外国人とは多少違うところではありますが、様式美の世界で通用するものをリアリズムに持ち込んでしまう心性は、やはり容認できません。

その意味で子供向け特撮ヒーロー・スーパー戦隊ものが、いまだに必殺技を叫んで見得を切っているらしいのですが(リアリズムの見地からいえばその間にやられてしまう筈なわけで、これに関しては私は子供の時分から違和感を持っていました)、こういう心性を再生産する温床になっているなあ、と思ってしまうのです。


とつぜんショートショート(偽)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月14日(火)17時45分1秒

返信・引用 編集済

 

 

 シケモク泥棒なのだ。
「シケモクってなんですのん?」
 若い男がウマそうに一服しながら訊いてきた。
「一回吸って消したタバコのことだよ。転じてシケモクにもう一回火をつけて吸うこと。昔は自販機なんてなかったから、夜中にタバコを切らしてしまうとにっちもさっちもいかない。あるいは買う金がなかったりしたときに、灰皿の中を引っ掻き回してシケモクしたものさ」
「へえ」
「小松左京はチェーンスモーカーで、ひとくち吸ってはすぐ消して新しいのに火をつける。で手持ち吸い切ってしまうと、吸殻の山の中からまた引っこ抜いて吸っていたそうだよ」
「あ、いらちな感じが出てますねえ」
「街に落ちているシケモクを拾い集めるのをモク拾い。集めたシケモクを巻き直して売る商売があったそうで、当時の新聞の四コマ漫画にも出てくる。『四コマ漫画』という岩波新書に書いてあった。ちなみに巻紙はコンサイスが薄くて好まれたそうだ」
「つまり、今ではすたれた風俗なんですね」
「そうだね、死語だね。こんせつ誰もそんなことしないもんね。でもこれだけタバコが値上がりしたら、シケモク拾って吸う人が現われるんじゃないか」
「とはいっても、最近は条例で道に吸殻も落ちてませんから」
「だからモク泥棒は公共施設の喫煙室を狙うんだ。ここみたいな」
 といって、私はおもむろに拳銃を取り出した。

 



「エステルハージ博士の事件簿」再読(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月13日(月)20時46分20秒

返信・引用 編集済

 

 

というわけで(どういうわけだ)『エステルハージ……』の再読に着手。「ポリー・チャームズ」と「エルサレムの宝冠」読む。状況が掴めているからスラスラ読めますね。やはり再読でようやく初読の感じ。それでもまだ初めて気づくことが出てきます。
前者14頁、「cannot-shot」が「cannon-shot」の誤植であることをロバッツ警視総監が指摘する場面、訳者は、前者を「不可能砲弾」と訳し後者を「加農砲弾」と訳していて、語呂合わせは分かるのだが、加農砲ってなによ、と調べたらカノン砲を漢字で書くと「加農砲」なんですね。いやーこれなんか忠実に訳すことで日本語としても語呂合わせになっているわけで、訳者の素晴らしいテクニックでありますなあ(^^;。 とりあえず池央耿訳は原作の雰囲気をしっかり日本語化しており、本書は最良の訳者を得ていると思いました。

 エステルハージは聴診器を取り出した。客一同は、あぁ……、と嘆声を漏らした。
「哲学者だ」誰かが言って、別の誰かが相槌を打った。「そうよ」おそらくは二人とも、哲学者の何たるかをまるで理解していなかった。(25p)

なんて、周囲も忘れて大笑いしてしまいましたがな。さしづめ八つぁんと熊さんですね。

後者はさらにスラップスティック度が強まって、最後に威光を示したのが60余年前という時代遅れにもほどがあるプロヴォ(国王直筆の書状)が、なぜか絶大な効力を発揮してしまう(笑)。これなどもはやドリフターズの世界ですなあ。60頁の「これでもか!」は「この書状が目に入らぬか!」と訳してほしかったなあ(>おい!)(^^;

しかして両篇、ともにラストでは人生の苦さをしみじみ感じさせてポンと終わる。名場面になっており、作家の筆の冴えに、読者は溜め息をついて本を閉じるのでありました。→感想文へ

 



「華竜の宮」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月12日(日)23時06分54秒

返信・引用 編集済

 

 

(承前)
気をとりなおして、一番いいたかったことだけ――
「えー、これでおしまい?」と思ったのでした(汗)。終わってないじゃん、と。
エピローグは、単体で見ればイーガンを意識していてとても興味深いのだけれど、主筋とは関係ないですやん(主筋からスピンアウトしたものではあるが)。なんかはぐらかされたような(^^;
エピローグに70歳になった主人公が描かれますが、読者は彼がその年になるまでの20数年間に、一体どんな経験(というか活動)をしてきたのかを知りたい。それがぽっかり抜けているのです。
これって、ある意味小松左京が「日本沈没第2部」を書かなかったのと同じだと私は思います。著者はあとがきで「この設定を使った別の物語を、また書いてみたい」と書かれていますが、まずは「この物語」そのものを完結させてもらいたい。
とはいえ、現状のこの部分まででも十ニ分に面白く、その意味では満足しました。よくぞここまで精細に描き切ったものです(だからこそ不満にもなるわけだが)。
とまれ、あまりの分厚さに半分及び腰で臨んだ本書でしたが、最後まで読み終わってみれば、短い! 短すぎる! と言わざるをえないのでありました(^^;

ということで、
上田早夕里『華竜の宮』の、一応読了とします(一応というのは続篇を期待してという意味です)。

追記。
司政官にしろ日本沈没にしろ、アシモフ「ファウンデーション」に連なる世界観で、本書もこれを継いでいるものといえます。しかし小松には他面で日本アパッチ族があり、眉村は「原っぱ」の自由さへの郷愁を隠さない。本篇の著者はしかしかかるアナーキーな状態に対しては拒否的であるように感じました(たとえばポストホロコースト世界においても国家は存続しているという設定を選択する)。ここが小松や眉村とは違う面で、実はこれまでの作品においても微妙な違和感が私にはあり、それがなんだか分からなかったのですが、そういうコントロールの効かない世界への憧憬の皆無さが、私の感覚と微妙に合わななったのかも知れないと、思い当たったのでした。

 



(無題)

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月12日(日)21時28分26秒

返信・引用

 

 

がーん、「華竜」の感想文消してしもた。20枚くらい書いたのに……立ち直れない。

 



Re: 「四コマ漫画」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年12月12日(日)15時41分14秒

返信・引用

 

 

> No.2792[元記事へ]

ありがとうございます。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



「四コマ漫画」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月12日(日)13時01分56秒

返信・引用

 

 

雫石さん
毎日文化センターさんに確認しましたところ、やはり西梅田の方でした。なんとなく昔の毎日文化ホール(大毎地下の上でしたっけ隣でしたっけ)と混同してしまって、桜橋にあるように錯覚していましたが、今は、西梅田といっても桜橋交差点よりもう一つ西の、リッツカールトンの北西筋向いの毎日新聞ビル内(2F)のようです。→地図
しかしまあ、このあたり、私の感覚(30年前で止まっている)では梅田とはいえないんですけどね。三十年間で梅田がどんどん西進してきたんですよね(北にもずいぶん侵略していますが)。

清水勲『四コマ漫画 北斎から「萌え」まで(岩波新書09)読了。
日本の伝統的な漫画(鳥羽絵)と舶来のコマ漫画(四コマとは限らない)を源流として明治後期に四コマ漫画が形式として定着するようです。
昭和20年代は新聞四コマが全盛となり、媒体上家族で楽しめる(言い換えれば他愛ない)話題が中心(サザエさん、クリちゃん)。
昭和34年には少年週刊誌(サンデー、マガジン)が創刊されるのですが、私が驚いたことに劇画の出現はそれと同時期あるいは先行していたのですね(31年創刊の貸本屋ルートの漫画雑誌「影」で辰巳ヨシヒロが「劇画」という言葉を初めて使用)。
なんとなく少年漫画のアンチとして生まれたように思っていましたが、「忍者武芸帳」17巻も34年から37年にかけて刊行されておりまさにヨーイドンで出発したようです。またギャグマンガも30年代後半には出現し(37年おそ松くん)40年代に大開花する(40年代天才バカボン、ハレンチ学園、がきデカ、50年代こち亀、Drスランプ)。漫画家も一気に増えます。のちに著者は、台湾講演の際、台湾では子供には漫画を見せないように親が規制するのだが日本の状況はどうかと聞かれ、50年代あたりから長者番付に漫画家が並ぶようになってそれはなくなりました、と冗談でこたえている(^^;。

昭和40年代に入ると日本は高度成長を背景にサラリーマン四コマが発展(フジ三太郎、サンワリ君、バクさん、アサッテ君)。
昭和50年代は、49年に始まった山上たつひこ「がきデカ」がチャンピオンを200万部雑誌にし、「大人っぽい子供」のがきデカに対抗して、山止たつひこ(秋本治)が「子どもっぽい大人」の両さん活躍するこち亀を発表(だから山止)したり、少女漫画がブームになったり(ベルばら)で漫画全体の黄金期を迎える。
四コマ漫画にも新時代が訪れ、新聞連載では反良識過激なものは掲載できない制約からマンネリ化し衰退、自由な表現を求める漫画家は(全盛の)雑誌に活路をもとめ流入、表現の自由を武器に、読者をはっきり定めたユニークな作品が支持を集める(いしいひさいちと植田まさしの二大天才が雑誌に出現、そこから新聞四コマに進出して新しい感覚を吹き込む)。またかかる傾向が浸透と拡散的方向に向かい、新感覚四コマ(いがらしみきお)等の多様化が進展。
昭和60年代は4年しかないが、この傾向がつづき平成へ。

平成に入り、手塚、田河、長谷川町子、そのやましゅんじら旧世代が一斉に亡くなり、一つの時代が終わったの感をファンに与える。ジャンプが653万部を記録したのをピークに次第にその勢いを失う(直接的にはドラゴンボールの終了)。浸透と拡散の多様化は不条理化でもあり、吉田戦車(伝染るんです。)、秋月りす(OL進化論)、業田良家(自虐の詩)、しりあがり寿を生むが、読者の読み方もストーリーからキャラクター主体のものに変化(「萌え」化)、相原コージ(コージ苑)、森下裕美(少年アシベ)、究極的に「らき☆すた」、「あずまんが大王」。
「ちびまる子ちゃん」が新聞四コマに進出するも、時代に取り残された新聞四コマそのものの作風で面白くないらしい。新聞四コマを支えた作品は殆ど終了し、いまは共同配信を利用しているような状況。

といったところが、本書で分かる四コマ漫画の状況です。

読んでいて思ったのは、眉村さんの1778話系列の短話は、いわば字で書かれた四コマ漫画ではなかったかということ。内容も昭和30年代から40年代新聞四コマに重なる部分が多い。毎日書かれ、何年も続いた(可能なら何十年でも続けられる)ところも同じですね。新聞の四コマ漫画が低調な現在、ちょっと実験で、眉村さんに短話を四コマ漫画感覚で依頼しないですかねえ。そんな進取の気性にとんだ新聞社はありませんか?(笑)

『華竜』も読了済み。あとで書きます。

 



Re: 眉村さん情報

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年12月10日(金)20時58分31秒

返信・引用

 

 

> No.2790[元記事へ]

この講演会、私も行きます。
ところで、会場は神戸でしょうか大阪でしょうか。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

 

 

 

(管理人よりお返事) そういえば記載がないですね。
多分大阪だと思いますが、確認してお返事します。

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月10日(金)20時25分56秒

返信・引用 編集済

 

 

久しぶりに防潮堤の上を30分散歩。散歩が全身運動であることを実感。私のように筋肉の落ちきった人間のみが感じ取れるこの微妙な感覚、ふだんきっちり体を動かしている人にはわからんでしょうな(>おい)(^^;。

以前、ちょっと触れたことがあると思いますが、講座「眉村卓の創作教室」開講中の毎日文化センターにて、眉村先生の講演会が決定しましたので、お知らせします。1月15日より東宝系で公開されます映画「僕と妻の1778の物語」に合わせた一日教室です。

     眉村卓講演会「妻に毎日書いたショート・ショート」
     【日 時】 1月8日(土)13時〜14時半
     【受講料】1200円(入会金不要)

受講お申し込みは毎日文化センターまで→http://www.maibun.co.jp(リンク先画面右「ご案内」欄の「お申し込み」からどうぞ)

映画を観る前の予習に是非!(実際と映画のストーリーとの差異を確認しつつ観るのも一興かと)(^^;

さて、『四コマ漫画』は昭和20年代。

『華竜の宮』は第六章に入って、まずはT。長篇小説はいくつもの起承転結のサイクルが縒り合わさってできています。そのうちのひとつのサイクルが、荘厳に終わる。
ひきつづき、U〜W読み、第六章読了。おお、小松左京だ(但し沈没の)!

 

 

 

 

(追記) 、
でもよく考えたら、燦が運命を共にするのは(ストーリー的にはオッケーなのだが)不審ではある。
しかしそういえばアシスタント知性体の本体(?)はどこにあるんだろう?
ダムをかませると筐体から抜け出せないということか?

 



「四コマ漫画」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 9日(木)22時35分58秒

返信・引用 編集済

 

 

岩波新書『四コマ漫画』に着手。ざざっと1時間ほどで半分(100頁弱)読んだ。時代的には江戸から戦中まで。ううむ。求めている内容とはちょっと違う。昔の四コマ漫画がたくさん採録されているのはいいのだが、縮小されすぎで読めないのが残念(老人に不親切だ(^^;)。正チャン帽の由来をはじめて知った。著者は「四コマ漫画は当時の日常語の録音盤」といっている。巻末に「四コマ漫画の中の消えつつある言葉」がまとめられていて、そのなかに「おはひにくさま」があってなるほどと膝を打つ。「生憎」を「あいにく」とは、知らなければ読めない。ネットでは大勢「あや憎し」が語源という風に書かれているが、それではなぜ「生」という字が当てられているのかは説明できない。でも、もともとが「はひにく」だったのなら「生憎」に繋がりますね。
*)つまり[ふ(は)→う(あ)]。[う→ふ]は原則ありえない。

『華竜の宮』は、第二部に入って第五章Wの途中まで。ここでまた、なんとなんととんでもない意外な事実が! 旅程半分を越えて、ここらあたりで一気に擬似SF圏を振り切る脱出速度を獲得するのでしょうか。面白い面白い(^^)

 



試写会情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 8日(水)21時30分16秒

返信・引用 編集済

 

 

東宝映画「僕と妻の1778の物語」の試写会情報を求めて当板に来られる方も(この僻地のレベルからすれば)半端じゃなくなってまいりました。ということで、私も「僕と妻の1778の物語 試写」で検索してみました(^^;
おお、ずいぶんあるものなんですね! すでに締め切られてしまったのも散見しますが(12月上旬開催分はそうですね)、しかしまだ応募できるのも残っています。たとえばここは、試写会が12月24日のクリスマス・イブ、応募締め切りは12月17日となっています。「涙の聖夜を過ごして!」なんてコピーが(汗)。完全にお涙頂戴モードですなあ。まあそうなんでしょうが。しかし必ずしもそれだけではないかも知れませんよ(笑)。とまれ1月15日のロードショーまでとても待てない、というせっかちな方は、ためしに応募してみられてはいかがですか?(おお、あぶなく「応募されてみては」と書くところだった(^^;)

追記。高井信さんのところに、関連書籍の、映画公開に合わせて差し替えられた帯の画像が! どちらさまもどんと増刷してくださいね(^^)

 



「気をつけて」

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 8日(水)02時30分12秒

返信・引用 編集済

 

 

あ、今日はっと気づいたことを思い出したので、忘れないうちにメモしておこう。
「気をつけて行ってらっしゃい」の「気をつけて」は、「注意して」という意味に、ふつう解釈しますよね。goo辞書でも「気をつける」の意味は「注意をはらう」となっている。普段は何も気にせず使用していて違和感もないわけですが、一旦全ての先入見を棚上げして、純粋に「気をつけて」を見たとき、どうして気を「つける」ことが「注意を払う」ことになるのか、意外にその筋道は見えてこないように思われます。

さて、その一方で、「気をつけ! 休め!」とか「気をつけ! 礼!」という使い方がある。しかしこれを「注意をはらえ!」と言い換えることは出来ませんよね。それでは意味が通りません。goo辞書では「気をつけ」は「気をつける」とは別項仕立てになっていて、「[連語]直立不動の姿勢をとらせるための号令」とだけある。なぜそれが「気をつけ」なのかについては全く記載なしです。
この場合の「気をつけ!」は、おそらく「背筋をのばしてシャキッと!」という感じでしょう。「気をつけ」と「気を注入して(シャキッと)」は明らかに関係を想定できそうです。少なくとも「注意をはらう」よりは自然である。

多分後者の意味が語源的に正しい、というか前者に先行する(古い、しかし語源に近い)ものではないでしょうか。としますと、「気をつけて行ってらっしゃい」の「気をつけて」は、元来「注意して」に直結するのではなく、「気をしっかりもって、シャキッとして(行ってきなさい)」だったのではないでしょうか。そう考えれば「気をつけて」と「気をつけ!」は、同じ意味内容であることになり、まことにスッキリするわけです。

 



「右翼は言論の敵か」読了。

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 7日(火)20時38分53秒

返信・引用

 

 

里見岸雄と国家社会主義、権藤成卿と天皇アナキズム、橘孝三郎と農本主義に触れ、戦前右翼が反体制であり、「反資本主義」であり、天皇と民衆の間に立ちふさがって私腹を肥やし私欲を貪る資本家・富裕層をこそターゲットとしていたとする。実質共産主義やアナーキズムや白樺派的人間主義そのもので、ただ天皇を全ての前提とする点が違うだけであったとする。わたし的にはそれは観念論だろうと思うわけですが、よく考えれば戦前左翼も観念的であったのは同じ。
このように戦前右翼を総括したあと、それと戦後右翼がいかに違うかを論ずる。児玉誉士夫によって再建された戦後右翼は、ヤクザも取り込んだ支配階級の用心棒でしかなく、カネと暴力という右翼のイメージは、実にかかる戦後右翼から始まる。そのような戦後右翼にアンチを突きつけたのが野村秋介であり、筆者らの新(真)右翼なのだというのが結論でしょうか。
ということで、
鈴木邦男『右翼は言論の敵か』(ちくま新書09)読了。

『華竜の宮』は第四章を読み、第一部読了。ホットプリューム大海進によるホロコースト世界で、海と陸に分化してようやく復興してきた人類と地球を、新たな災厄が襲う!! 面白くなってきました(^^)。

 



「僕と妻の1778話」解説に就いて

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 7日(火)00時05分16秒

返信・引用 編集済

 

 

『僕と妻の1778話』の村上知子さんの解説で、ちょっと気づいたので補足します。
1778話の営々たる集積に就いては、これまで作家の側から企図された、専ら一方向的な(ある意味)「美談」として評価解釈されてきました。映画「僕と妻の1778の物語」も、おそらくその延長線上にあるものなんでしょう。
ところが解説者は、そこに妻の側からの、夫に対する「応援」の面があったという見方を提示しました。妻が読み続けてくれることが、夫の精神の拠り所となったからです。すなわちこの1778話は、いわば双方向的な、夫が書き妻が読むことによって初めてサイクルが完結する、その繰り返しという、そういう営為であった。これは本解説が提示するまでは、おそらく誰も気づかなかった。このことは先日も書きました。
ところがもう一つ重大なことを、私は読み落としていた。それはこの部分。

 自分が病気の妻にしてやれることは畢竟これしかないのだと、父は不器用に、「書く人」であり続けた。母は、「たったひとりの読者」としてではなく、その作品が外に出ていく手助けをする「一番目の読者」として最後まで居続けようとした。(334p)

先日のテレビで眉村さんは、1778話が「たった一人の読者」の為のものではなく、ただ、妻を「通風口」にして、そこから外に出ていくものとして捉えているように話されていました。この「通風口」が「一番目の読者」に対応しているわけです。
作家から見れば、1778話は妻を「通風口」として外へと出て行く。それを妻の側から見れば、自分が「一番目の読者」であるということになる。それはある意味「自負」でもあり「矜持」でもあったに違いない。なぜならばそもそもの始まりから、悦子さんは眉村さんの「一番目の読者」だったからで、その伴走者の立場で「最後まで居続けようとした」というのが、解説者の言いたかったことではないか。
1778話は夫の妻に対する思いの作品化であると同時に、それが読まれることで夫が救われる営為であった。しかもそれは妻の「一番目の読者」を全うするものでもあったわけです。その辺読み落としていたので、追記しておきます。

 



右翼とファンタジー

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 6日(月)19時41分37秒

返信・引用

 

 

『右翼は言論の敵か』は、中村武彦、幻の神兵隊事件、片岡駿、毛呂清輝、影山正治、葦津珍彦。著者によれば右翼には2種あるみたいです。安住する(戦後)右翼と荒野を目指す(新)右翼。ファンタジーと同じようなものか(違)。そういえば右翼はファンタジーで左翼はSFかも。ユートピアを過去に見出すか、未来に見出すかの違い。どっちも現実(現体制)否定であるのは同じ(但しここでいう右翼は荒野を目指す右翼)。

 戦後の長い間、マスコミ、論壇、教育界などにおいて左翼が強かった。しかし、今はその影もない。その反動として、日本への誇りを取り戻そうという運動が盛んだ。しかし、過去の反動として、日本のことを(現在も戦争中も戦前も含めて)「全て」を正義として認め、評価する傾向が出てきた。それはおかしいと思う。あの戦争は自衛の戦争だった。アジア解放のための正義の戦争だった。朝鮮・台湾を植民地にしたが、日本は「持ち出し」だけで、収奪は一切やっていない。むしろいいことをしたのだ。そういって、戦争の「全て」を是認する。夜郎自大的な「愛国者」たちだ。
 南京大虐殺はなかった。強制連行も従軍慰安婦もなかった。創氏改名も神社を作ったのも、住民の熱望でやっただけで日本の強制は全くない。満洲も素晴らしい理想の国だった。そう主張する人たちも最近は多い。
 あの戦争への突入経過に対して、「他に道はなかった」「やむをえなかった」といって弁護する保守派の人も多い。しかし、それでは同じような危機に直面したら、また、戦争をやるということだ。あの悲惨な戦争から何も学んでいないことになる。(160p)


念のため言っておきますが、著者は新右翼の指導者です。右翼の(事実を直視しない)ファンタジー性を剔抉した文章です。ここで告発されているのは、過去にユートピアを求めるファンタジーの二面性のうち、安住するファンタジーに比定される右翼です。

『華竜の宮』は、第一部の第二章、第三章を読了。

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 5日(日)17時26分10秒

返信・引用 編集済

 

 

昨日4日の産経新聞(関西版?)によりますと、なんと「眉村卓さんの伝説のラジオ番組が、期間限定で復活―。エフエム大阪は、開局40年記念として「男のポケット特別編」を来年放送する」とのこと→こちら
来年1月10日から13日まで4日間限定、すなわち映画公開の直前というタイミングですね(^^)。これは皆さん聞き逃せませんよ!

なおFM大阪のホームページに、「僕と妻の1778の物語」試写会情報が(^^;→http://fmosaka.net/ncf_hotnews.html
未確認情報ですが、映画の方は香港と台湾で公開が決まったようです。

 



今年最後の忘年会

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 5日(日)12時26分59秒

返信・引用 編集済

 

 

堀さん

あ、そうでしたそうでした。私も堀さんに対抗して(汗)「エイやん街道一人旅」を敢行したのでした(^^;→こちら
今回の作品集『沈みゆく人』は、bk-1の内容紹介によれば、
「最愛の妻を亡くした『日がわり一話』の著者が、その後の10年を書き下ろす。現実と小説が絶妙に絡み合う奇妙な「私ファンタジー」。 」とのことで、「エイやん」やその系統の作品とは趣きが違って、ほぼ<現在>が描かれているようですね。あるいは現在のなかに過去が埋め込まれているのでしょうか。いずれにしても刊行が心待ちにされます!

ところで、阿倍野図書館ですが――バタバタしているうちに、出発時間が遅くなってしまい、結局寄らずに直行してしまったのでした。おお何たるちや!サンタルチヤ!三東ルシア!パコ・デ・ルシア!(>くどい!)
読みたい記事があるのですが、しかしまあどこに行けば読めるかがわかったので、別にあわてなければいけない訳でもなく、そのうち時間を作って行ってみたいと思います。

ということで、忘年会に直行したのですが、図書館に寄るには時間が足りなかったけれども、大阪に到着してみればすこし時間が余ってしまうという中途半端。丸ビルのタワーレコードで時間つぶしをしていたら、マハビシュヌ・オーケストラの「Between Nothingness & Eternity」が1000円でセールされているではないか! この作品、「虚無からの飛翔」の邦題で「火の鳥」の次にリリースされたんですが、当時FMでこのアルバムを聴いた私は、なんかもうひとつやな、と思って購入しなかった。ところがつい最近、youtubeでたまたま聴いたところ、意外によかったのです。で、アマゾンを見たら中古が679円。送料入れたら1000円を越える。どうしようかなと思案していた、そんなところに新品がジャスト1000円。これは神の配剤かと即購入したのでした。
が――購入してホクホク顔で店を出たとたん、そういえば15万円をドブに捨てた(違)直後、そんな贅沢をしてよかったんかいなと罪の意識がワッと押し寄せたのであった。しかしまあ、買ってしまったものはしゃーない。明日は昼飯を抜こうと固く決心したのでありました(^^;

同窓会は、一昨年と同じ新地の「石和川」。ちちんぷいぷいでお馴染みの浦上浩さんのお店。で、フグづくし(^^)。ひれ酒なんぞは普通の三倍は入っていて、こんなん無意味やがな、とフグを手配してくれたNをして言わしめるほどの豪華さでありました。ここが、危ない部位のすぐ隣でうまいんや、という部分をNにより分けてもらって食したてっちりはもうこの世の極楽で堪能いたしました。
この種の催しに絶対参加しない二名がいて、それがいつも話題に上がるのだが、今回もそうで、ひとりは小学校でキャッチャーだったS。Nがピッチャーだったので「なんで参加しないのか」といつも惜しがる。いじめられていたから参加しないと当人は言っているらしいのだが、どう考えても思い当たるフシは(私も)ない。Nが、「後逸したときに蹴ったことはあるけどなあ」。全員「それやで」。加害者がそれと気づいてない、しかし被害者は忘れられない、そういうことってあるんでしょうね。
二次会は地元に戻ってメンバーのなじみのスナックで終電ぎりぎりまで(各停はまだある)。11時過ぎ野田駅発、西九条で降りてちょうど次に来た関空快速に乗る。繋がりもよく12時過ぎに最寄り駅に帰着。今年最後の忘年会を楽しんできました。

 



Re: SFMのバックナンバー

 投稿者:堀 晃  投稿日:2010年12月 4日(土)20時02分41秒

返信・引用

 

 

> No.2780[元記事へ]

おお、阿倍野図書館!
その前の坂道を西へ下っていけば「異世界分岐点」があって、霊園沿いに南へ歩くと「エイやん」の崖の上の道につながるのです。
今日は天気がいいから、ちょっと歩いてみたかったですね。

↓こちらご参照。
http://www.jali.or.jp/hr/book/b079.html

 



SFMのバックナンバー

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 4日(土)12時30分18秒

返信・引用

 

 

承前、なぜ年を越せるか心配していたかといいますと、罰金を15万円も払わせられてしまったからであります。そりゃあ生きる気力も失せますって(>自分の非を棚に上げる)。一気に鬱になってしまいましたがな。この事実を書いておかないと、下の文意味がわかりませんね。ということで蛇足を加えた次第。いずれにしろ今年は、忘年会は自粛しなければなりません。今日のが本年の最初で最後となるかも。しっかり楽しんでこよう!

さて、SFMのバックナンバーが大阪市立阿倍野図書館に所蔵されていることを知りました。この図書館、行ったことがないのですが、阿倍野霊園の横らしい。天王寺は本日の行程の通過駅なので、途中下車して寄ってみるかもしれません(鬱なので行動力が鈍っている)。

 



眉村さん情報など

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 3日(金)21時26分42秒

返信・引用 編集済

 

 

眉村さんの4年ぶりの新作短篇集(連作長篇?)『沈みゆく人』が、bk-1で予約可になっていますね(他のネット書店はまだみたい)→[bk-1]
内容は、「エイやん」系列の<私ファンタジー>とのこと。これはうれしい映画の波及効果(>おい)。ありがたやありがたや(^^; このまま年を越せるのかと心配していましたが、これでなんとか正月までは生きる気力が出てきました!

高井さん
テレビではないのですが、先日週刊誌の取材があり、記者が司政官を読んでいる人だったらしく、ちょっと面白いインタビューになったとのことで、期待しているのです。詳しいことが分かりましたらお知らせします。

雫石さん
いーや、雫石さんは大きな顔をしてはりましたです。私は最年少でいつも隅っこで小さくなっていました(^^;
昨日書き落としてしまいましたが、中相作は幻想文学新人賞入選者でした。追記しておきます。

『右翼は言論の敵か』は、児玉誉士夫と白井為雄。
児玉が現在の右翼の一般的認識である体制的でダーティなイメージ(いや実体)を作ったのか。
「ヤクザと右翼が一体化して時の政権に奉公するという動きがこのときから始まったのだ。それも体制側のお墨付きによってだ」(87p)
それに対して白井為雄という人は人格者だなあ。
「天皇はもっと自由にしてほしい。デパートに買い物に行っていい」(101p)。これ、40年前の発言ですよ。

『華竜の宮』は、30頁ほどしか進まなかった。というのはストーリーを追うよりも、立ち止まって考えたり妄想したりしていたから。まあ、私の読書は多かれ少なかれこういう形式なんですが。

明日は小学校の忘年会(フグだ(^^;)につき、書き込みできないかも知れません。

 



Re: 眉村さんのDVD

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2010年12月 3日(金)20時56分55秒

返信・引用

 

 

> No.2776[元記事へ]

> そういえば大昔、月に一度眉村さんの(テレビにも写っていた)ご自宅に伺っていたのですが、それ以前、先生が阪南団地にお住まいの頃は、仕事場としてマンションを借りておられて、そこがたまり場でした。銀座ハイツだったかな。で、銀座会と称した。西秋生さんは大学の先輩なのでそれ以前からですが、おなじみの雫石鉄也、中相作、深田亨の諸氏ともそこで知り合った。森下一仁さんのショートノベル塾の常連だった柊たんぽぽ、ハヤカワコンテスト入選の所与志夫(草上仁と同期)、野波恒夫(貴志祐介と同期)、岡本俊弥ネオヌル編集長も、みんな銀座会で眉村さんを囲んでいたのでした。そんなことをふと思い出しました。
(^^)

私以外、すごいメンバーですね。
菅浩江や谷甲州も来たことがあります。菅ちゃんなんか女子中学生でした。私が谷甲州と初めて会ったのも銀座ハイツでした。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



Re: 眉村さんのDVD

 投稿者:高井 信  投稿日:2010年12月 3日(金)08時52分44秒

返信・引用

 

 

> No.2776[元記事へ]

 なんとなく1枚のDVDにまとめてしまったんですが、映画公開に向けて今後も眉村さんがテレビに出演されるかもしれませんね。ひと区切りするのを待って、まとめたほうがよかったかも。
 テレビ出演の情報がありましたら、よろしくお願いします。

> 今度お会いしたときに、コーヒーでも奢りますね(>おい)(^^;
 楽しみにしています。

 



眉村さんのDVD

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 2日(木)20時57分39秒

返信・引用 編集済

 

 

高井信さんが、スーパーニュースアンカーの眉村さん特集の録画(他)をDVDにして送って下さいました。
さっそく視聴。こういうのを見るといつも思うのですが、眉村さんの文章は朗読されると、よりその良さが分かりますね。なんなんだろうなあ。リズム感なんでしょうか。書庫も初めて拝見。ガレージとか倉庫ではなく、近所の家みたいな……。仕事場にもされているみたいでしたね。

そういえば大昔、月に一度眉村さんの(テレビにも写っていた)ご自宅に伺っていたのですが、それ以前、先生が阪南団地にお住まいの頃は、仕事場としてマンションを借りておられて、そこがたまり場でした。銀座ハイツだったかな。で、銀座会と称した。西秋生さんは大学の先輩なのでそれ以前からですが、おなじみの雫石鉄也、中相作、深田亨の諸氏ともそこで知り合った。森下一仁さんのショートノベル塾の常連だった柊たんぽぽ、ハヤカワコンテスト入選の所与志夫(草上仁と同期)、野波恒夫(貴志祐介と同期)、岡本俊弥ネオヌル編集長も、みんな銀座会で眉村さんを囲んでいたのでした。そんなことをふと思い出しました。

ということで、高井さん、ありがとうございました。いつもいつもすみません。今度お会いしたときに、コーヒーでも奢りますね(>おい)(^^;

さて、『右翼は言論の敵か』は、風流夢譚事件、三島事件まで。

『華竜の宮』は「第1部 第1章」読了。や、これは眉村風プロジェクト小説に向かうのか、それとも小松風PFなのかな。面白くなってきました(^^)

 



説明と蘊蓄は違う

 投稿者:管理人  投稿日:2010年12月 1日(水)23時23分11秒

返信・引用 編集済

 

 

「本当に面白い小説は、読み終わったところから始まる」(よみびとしらず)

<SFマガジン>より、
若島正「乱視読者の小説千一夜」を読む。ボーモントは読んだことがないなあ。ジャズ小説というからには読んでみなければ。
「古いものを読み返すことは老人に与えられた権利であり喜びなのだ」>そのと〜り!(財津一郎風に)。

鈴木邦男『右翼は言論の敵か』を読み始める。赤尾敏、いいね(^^;。でも既視感が。次の山口ニ矢も。同じ内容で何冊も書いているのかな。

『華竜の宮』は「プロローグ」を読んだ。

 


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