ヘリコニア談話室ログ(2011年1)




「アッシュ」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月31日(月)01時42分16秒

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田中光二『アッシュ――大宇宙の狼』(講談社文庫80、元版78)読了。

アッシュシリーズ第1巻。短編3本と230頁の長中編というか長編(ですね。昔の文庫ですからみっちり詰まっており、450枚ほどあるので)を収録。
劈頭の
「ザタールの血と砂」は、奇想天外誌創刊号(76年4月号)の記念すべき巻頭作品でもあります。収録作品は全て奇想天外初出で、私も同誌で既読。
田中光二というと、華麗な文体というイメージがあるのですが、今回読み返して、たしかに華麗ではあるけれども、若書きでもあるなあ、と感じました。当時は分からなかったけれども、いっぱいいっぱいで文章をひねくり出しているのが、今はわかります。

文体も文体ですが、視点人物である300歳のメトセラ族<知恵者>ルカンの語りが、空疎な言葉を弄ぶ能書き親父そのもので、苛々させられました(言葉の濫費)。収録の長編
「アッシュとテスの女王」の、それも中盤にいたって、ようやく面白くなって、読むのもノッてきたのですが、それははっきりいって、ルカンの語りから能書きが殆どなくなり、<アクション>の描写に専念するようになったからなんですね。つまり本書のようなスペースオペラやヒロイックファンタジーに、説明など必要ない、百害あって一利なしということ。そもそも「小説」自体に説明は夾雑物でしかありません。説明してくれなくても、終わってみれば、なぜその<行為>が選択されたのか、その理由はおのずと分かるものです。

本シリーズは、ひょっとして著者が初めて手がけたスペースオペラだったのかも知れませんね。それでなかなか筆法が掴めなかったのかも。そういう次第で、長編の中盤から、ようやく勘所を掴んだのか展開も早くなり、面白くなってきました。この先どうなるのかも気になってきましたので、続編も読んでみたいと思います。

ところで、これまで無意識に(というかおのずと)<スペオペ>と<ヒロイックファンタジー>の区別が付いていたのですが、本書を読んで、私自身、どういう根拠でそれを区別していたのか、自覚できたように思います。どうやらそれは<メカニック>の有無なのです。<ヒロイックファンタジー>は剣と魔法といわれるように、「剣」で戦われるのに対し、主たる武器がメカニックな(光線)「銃」なのが<スペオペ>なのではないでしょうか。同じく移動手段が(馬であれ架空のそれであれ)動物であるのが<ヒロイックファンタジー>で、移動手段にメカニックなロケットや飛行船(あるいは自動車の類)が使われるのが<スペオペ>といえるのではないか。

バローズ火星シリーズが<スペオペ>なのか<ヒロイックファンタジー>なのか、いつも困ってしまうのですが、上に従うなら<スペオペ>ということになりそうです(飛行船、光線銃)。もちろん火星馬ソートに騎乗し、剣戟のシーンも多いので境界線上にあるのは間違いないけれども、メカニックの「ある」「なし」に着目するならば、<スペオペ>に分類するのが相応しいのでは。

では本書はどうか。やはり両方の要素が伯仲する設定ではありますが、アッシュを「ガンマン」と規定する記述が何度も出てきますし、やはり<スペースオペラ>と言えそうに思われます。

ま、いずれにせよこんな「能書き」、読むに際しては何の役にも立たないものではありますがね(^^ゞ

 



「遊ばれた」のかな(笑)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月30日(日)00時15分10秒

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森下一仁さんの今日の日記「遊ばれた」、いいですねえ。眉村さんの短話みたい(^^)
ていうか、
「つづきはまたこんど」が、ばっちり決まりすぎていて、これ、創作じゃないのかなあ(^^ゞ。
いや、疑っているわけじゃないですよ。実際そうだったんでしょう。森下さんが、そんな人を騙すような所業をする筈がありませんから。
私はもちろん実話だと信じています。でも私の脳内の大木こだまが、「そんな訳ないやろう」と連呼してるんですよね(^^;。やっぱり私が「遊ばれた」のかな。なかなか佳いショートショートでした(>おい)(^^;

ということで(>どういうことだ)、『アッシュ――大宇宙の狼』に着手。

   

 



「闇からの叫び」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月29日(土)15時19分15秒

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かんべさん
ぜひぜひ! 使って頂ければ光栄でございます(^^;。あ、目が顔から飛び出して必死に走り始める絵が浮かんできたではありませんか。そういえば筒井さんは驚きのあまり飛び出した目が紀州まで転がっていって蜜柑になったんでしたっけ(笑)。

川田武『闇からの叫び』(角川文庫80)読了。

マルタン(炭鉱労働者)の劣悪な労働条件、経営者側の凄まじい搾取、苛斂誅求についてはつとに知られるところでしょう。石炭産業壊滅期60年代のマルタンたちの精神の状況、その荒廃した内宇宙を風景として描きとめ、ときにSFにまで昇華させたのは井上光晴でした。
一方本篇の舞台は、本篇発表当時の現在、すなわち70年代末の筑豊です。既に全ての炭鉱は70年代初頭までに閉山しており、廃鉱にはボタ山や打ち棄てられた気罐場の煙突、錆びついた捲揚機が放置されてむなしく残るのみ。
その地がにわかに世の注目を集めるようになったのは、地下に巨大なマグマ溜まりが発見され、なかなか進まない原子力発電所の代替として地熱発電所の計画が持ち上がったことによる。

この計画の(政府や財界に働きかけての)実質的な推進者は、筑豊に大手の日鉄(元八幡製鉄)や三菱に伍して炭鉱を経営し、廃鉱後もその備蓄した資本力で筑豊地域に隠然たる勢力を維持していた衛藤財閥・衛藤昌蔵だった。
ところが計画が発表された直後から、それを妨害する動きが活発化し、衛藤自身も列車事故に遭遇する。

実はこの衛藤財閥の前身の鉱山会社は、同業他社に比べてもマルタンを虐げること甚だしく、63年の炭鉱火災では、衛藤昌蔵は炭鉱夫の救助より鉱山の被害を最小限に押さえることを優先して、坑内に数百名の炭鉱夫が残っていたにもかかわらず注水を命じ、結局火攻めの上に水攻めで彼らを見殺しにしてしまいます。

石炭の時代が終わり、鉱山が閉じられると、かつての炭鉱地帯は人口が激減する(wikipediaによれば、
「田川市・・・102,755人(1963年)→52,328(現在)、山田市(当時)・・・39,563人(1959年)→11,007(合併による消滅前)」)。
マルタンは四散し(ごく一部を山谷や釜ヶ崎が吸収したと推定されるが、もとより吸収しきれる人数ではない。他の行き先の調査はなく、彼らは杳として消え去った)、筑豊に残った者も、生活保護を受ける割合が全国でも突出する(同じくwikipedia
「生活保護受給者が急激に増え、福岡県は日本でも屈指の受給率である」)。本篇によればその虎の子の生活保護手当も、衛藤財閥傘下の高利貸し会社に吸い上げられてしまっているのが現状。

ところが――地中に見捨てられ、皆殺しにされたと思われていた彼らの一部は、生体系を光なき世界に適応させて生き延びていた! 筑豊の地下に縦横に張り巡らされた坑道の奥深くで、地底人としてマグマの熱エネルギーを活用して、地上とは没交渉でひそかに地下共和国を営んでいたのです。そこにだしぬけに、彼らにとって必須のエネルギ源を奪い盗ろうとする地熱発電計画が立案される。しかもその実質的な実行者は、彼らを今の状況に陥れた張本人の、憎き衛藤ではないか……。

怒った地底人たちは遂に立ち上がる。しかしながら、ひとり衛藤を取り除いたところで第ニ、第三の衛藤が現われるのは必定。この国の権力構造そのものを、下からひっくり返すべし。「世直し」であります。そのために彼らは、衛藤の計画阻止の行動と並行して、新興宗教「黒霊教」を立ち上げる。全国に四散していたマルタンたちが筑豊に還ってきます。三池からも、石狩釧路からも、常磐からも続々黒霊教のもとに集合してきます。
そしていよいよ、(政府、警察をも味方に付けた)衛藤財閥と、黒霊教の斗いが開始されるのでしたが……!?

かくのごとく、本篇は川田版「大暗室」(乱歩)であり、「日本アパッチ族」(左京)であり、「邪宗門」(和巳)です!
で、フォーマットは半村伝奇(^^;。「ツィス」もそうでしたが、半村伝奇小説が70年代から80年代の小説の形式に与えた影響は計り知れないものがありますね。いやー面白かった。前作である『戦慄の神像』よりもストーリーは整っていました。「戦慄の神像」ほど強引なところはない(いや充分強引ですが(^^;)。
* ところでこの衛藤財閥、モデルはこの会社かも(汗) 

ということで、著者はデビューしてから10年たらずで短篇集一冊と長篇が三作あり(第3作は『女王国トライアングル』)、これで全部読んだことになります。すべて水準以上で面白かったのですが、その後20年くらい断筆する。これは本業が忙しくなったからのようです。その後復帰して何冊か長篇が上梓されているようなので、これらもおいおい読んでみようと思います。

 



すんません

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2011年 1月29日(土)09時32分22秒

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いまの投稿、URLは前に入れたのが残っていただけです。
今回は、何の意味もありません。失礼しました。

 



う〜ん。何とねえ。

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2011年 1月29日(土)09時29分6秒

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面白すぎて目が走り出し始めた、というのは、
リアルで、実感がこもってて、いい表現だなあ!
機会があったら、使わせていただきたいと思ったほど。
ちょっと、そのことだけ、お伝えしたかったのです。
(ラストのこの一行は、米朝師匠の本のあとがきより)

http://www.ne.jp/asahi/kanbe/musashi/

 



「闇からの叫び」着手。

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月28日(金)17時28分23秒

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半分読んだ。これ、めちゃくちゃ面白いです。面白すぎて目が走り出し始めたので、あえて強制終了。今日はこれまで(^^;。
代替で岩波新書『日本語と時間』に着手。これもおもしろい。でもこっちは時間がかかりそう。

 



ない

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月28日(金)09時33分44秒

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気がついたところでは、光瀬龍のジュブナイルが全滅。山尾悠子「オットーと魔術師」も。
「オットー……」は少し前から見当たらないことに気づいていて、よく探してみなければと思っていたのですが……
ジュブナイルをまとめた引越し荷物のダンボール箱が、家のどこかの隅に埋れているに違いない。きっとそうだ。そうに違いない。……

 



和製ヒロイックファンタジー

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月27日(木)18時51分40秒

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年末からヒロイック・ファンタジーがマイブームになっていて、『タイムマシンのつくり方』をさがしている最中、そういえば宮崎惇『魔界戦士タケル』が面白かったんだよなあ、と、ふと思いだしてしまいまして、読み返してみようかとこっちもさがし始めたのでしたが……

――ない!

しかも『太陽神の剣士タケル』も見当たらない。
おかしいなあ。処分するはずはないのですが。誰かに貸したままになっているのかな。
こういうのって非常に心臓に悪いですなあ。
とりあえずたぶんどっかに埋もれているんだろう、そのうち出てくるだろうと、楽観的に思うことにしました。

  ――自分をだましたところで、事実までだまされてくれるとはかぎらない。安部公房――

とまれかくまれ、70年代は和製ヒロイック・ファンタジーがちょっとしたブームでした。鏡明がSFMにかなり本格的なヒロイック・ファンタジーを発表して、私は続篇を期待していたのでしたが、またいつもの体たらくで、その後全く音沙汰がなくガッカリしたものでした。この人はニンジャが流行ればニンジャSFを書いたり(結局尻切れトンボ)、ぱっぱ、ぱっぱとその時々の流行に棹さしていくのだが、すぐに飽きて簡単に離れていってしまう。小説家にもっとも必要なのは粘り、持久力だと思うのですが、それがそもそも備わってない人だったように思います。

しかし読みたい本が見つからないと、急にフラストレーションが溜まってくるもので、そういえば奇想天外の創刊号より連載されていた田中光二のアッシュシリーズも、(最初のうちは)なかなか面白かったと思い出し、しかし当時は雑誌連載で読んだものを単行本で買うのは無駄という考え方だったので、これは持っていないのです。が、持っていないとなると、逆にむしょうに読みたい気持ちが高まってきまして、つい(あまり利用したくないのだが)マーケットプレイスで『アッシュ―大宇宙の狼』を注文してしまいました(^^;。楽しみ〜。

 

 



「鏡の国のアリス」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月26日(水)21時50分45秒

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毎度おなじみ、高井信さんがブログで、広瀬正に反応して下さっています。で、調べたら、ありゃありゃ『タイムマシンのつくり方』だけ持ってないことが判明しました。うーむ。持っているつもりだったのでなんどもスルーしているなあ(ーー;。 とあれ可及的速やかに入手し読んでみたいと思います。

「フォボスとディモス」 ユミは、三年間の火星探検から還ってきたフィアンセと一夜を共にしている。そこへ緊急連絡が入り、フィアンセは基地へ呼び戻される。同行したユミは、もう一台のロケットが火星から帰還し、中からフィアンセが現れたことを知る――
さっきから頭を絞っているのですが、この元ネタ、ありましたよね。ディックでしたっけ、ブラッドベリでしたっけ。それとも三田村信行? ああ小骨が喉に刺さっているようで気持ち悪い。
もっとも本篇は不条理小説にはならず、ごくありふれた侵略もの。侵略物がダメだとはいいませんが、本篇はそれ以前に習作の域を越えるものではないのであった。

「遊覧バスは何を見た」 「マイナス・ゼロ」系の大正から昭和、関東大震災後から大阪万博あたりまでの日本が、二つの家族の関わり合いのなかに浮かび上がってくる。本来は「楡家の人びと」とか、そんな大作になってしかるべきテーマを、点描法というのでしょうか、そういう手法を用いてわずか30頁にコンパクト化し、かつ一定の余韻を読者に残す。これは秀作です。

「おねえさんはあそこに」 これも習作っぽい。なぜ習作っぽく感じたかといいますと、本篇にしろ「フォボスとディモス」にしろ、第1、第2世代が英米の本格SFの洗礼をモロに浴びた直後、消化しないまま再生産した作品(のひとつ)と見えるからで、整理相対化するという(必須の)操作が出来ていない。すなわち山野のいう「日本建築への改造」以前の作風なんです(ちなみに高井さんたち第3世代になると、こういう無批判な受容は全く影を潜めるのですね)。おそらく60年代の「宇宙塵」の初期号には、こんな感じの英米SFをそのまま踏み返した仿製品が多く載っていたんじゃないでしょうか。広瀬の場合、昭和史へ適用することで改築を完成させたといえ、ゆえに「遊覧バスは何を見た」はオリジナルな広瀬SFたりえているのだと思います。

ということで、
広瀬正『鏡の国のアリス』(集英社文庫82、元版73)読了。

 



Re: 眉村さん情報&「鏡の国のアリス」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月25日(火)22時08分43秒

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> No.2878[元記事へ]

堀さん

あ、私もちょっと短いなと感じました。注意深くみると、かなりカットされているんじゃないでしょうか。課題の伴奏者が黒人から日本人に変わっているという記述が唐突にあり、その理由も書かれておらず、意味のない描写になっているのはその名残かも。

>短いフレーズで興奮させるところがプロの技だったのかな
そうですね。おそらく時がたつにつれ回想の中で輝きを増し大きく見えてくる、そんな描写ではないでしょうか。わたしも30年後に読み直したら、あれ、案外短かったんだな、と思うのかも知れません(^^;

 



Re: 眉村さん情報&「鏡の国のアリス」

 投稿者:堀 晃  投稿日:2011年 1月25日(火)21時54分35秒

返信・引用

 

 

> No.2877[元記事へ]

昨夜、書庫から『鏡の国のアリス』を出してきて再読してました。
30年ぶりくらいかな。
クライマックスの「反転テナー」演奏場面が、もっと長い印象を持ってましたが、再読すると意外に短いのでとまどいました。
物凄く興奮したのですが。
短いフレーズで興奮させるところがプロの技だったのかな。
マウスピースの選び方とか反転譜面を読むトレーニングとか、細部の描写はさすがですよねえ。

 



眉村さん情報&「鏡の国のアリス」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月25日(火)21時26分51秒

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高井信さんのブログに、先般1月10日から13日まで4日間にわたって放送されましたFM大阪「男のポケット」特別編で、眉村さんが朗読された作品名が掲載されました→http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2011-01-25
こちらへも転載させていただきます。

   1月10日(月):第198話「偶然の顔」
   1月11日(火):第524話「心を明るく」
   1月12日(水):第699話「タイムマシンで着いたところ」
   1月13日(木):第868話「神様の素」

最終回は朗読の後に、番組のパーソナリティKOJIさんによる眉村卓インタビュー(生出演なのか録音なのかは不明)も放送されたのですね。
録音データを私も高井さんから頂き聴取したのですが、高井さんがブログにお書きのように、朗読作品はKOJIさんの選択だったようです。当日の当板にちょっと書いていますが、実は作品選択にいささか違和感を感じてもいたのでしたが、なるほどね。これで氷解しました(^^;

眉村さん情報をもうひとつ。
2月19日(土曜)のNHKラジオ第1放送「ラジオ深夜便」で、眉村さんの作品が朗読されます。朗読されるのは、眉村さんのエッセイ集『大阪の街角 眉村卓SEMBAエッセイ』からとのこと。また近づいたら告知します(^^)

『鏡の国のアリス』より、表題作で250頁の長中篇の
「鏡の国のアリス」を読みました。
これは面白かった〜(^^)。「講義」(笑)が終わって(設定の解説が済んで)からの残り100頁は一気呵成。この部分喫茶店で読んでいたのですが、完全に周囲は消え去ってしまい、没入して読み終わりました。
前作『ツィス』が、主人公らしい主人公がいない、いわゆるシチュエーション・ノベルだったのに対し、本篇はきっちり主人公が確定しており、その主人公の(一種の)「受難劇」になっているので、作品世界に没入しやすかったのがまず大きな理由でしょう。ある意味、小説というよりもドラマというべきかも。そんなストーリーでした。
実際映像化したら映えそう。鏡文字とか左利き用テナーサックスとか(笑)。いや逆に難しいのか。映像を主人公の視点に合わせれば、セットは全て鏡像にしなければならないのか。いやいやそれもまた面白そうではないですか。NHKの連続ドラマでやらないかしらん。縦糸はそういうドラマ向きの軽い恋愛劇ですし、なんたってジャズ小説でもありますから、音楽的にもはなやか!
本篇は、元の世界ではジャズマンだった左利きの主人公が、気がついたら鏡像世界に転移させられてしまっている(その理由の説明が秀逸!)。しかしたまたま出遭った左利きの会の主催者家族に扶けられ、居候しながら、世界に一つしかない左利き用サキソフォンの演奏コンテストに出場し優勝する(実は主人公にとっては、ウラのウラはオモテで、普通のサックスなんですけど(^^;)。このコンテストの場面がまさに本格的なジャズ小説になっていて、臨場感たっぷりで読みごたえがありました!
優勝したことで主人公、一介の風来坊の境遇から、元の世界同様バンドマンとして職を得ることが出来たのでしたが、そうして生活の基盤もかたまった彼は、そこで一大決心をします。それは……

いやー、これは楽しかった。本篇、世界で唯一の(だろう多分)レフティ・ハードSFと命名したい(笑)。ラストはメルヘンですね。その辺もドラマ的。私はこれまで読んだ二作(「マイナス・ゼロ」「ツィス」)よりも本篇のほうがより面白かったです。ストーリーテリングがずいぶんこなれてきているんですよね。人物が自然に動いています。こうなると、いやでも今後が期待されるわけですが、なんとこの作品集、著者没後の出版なんですね。今から振り返っても逸材を失ったの感を強くいたします。ふと伊藤計劃を連想しました(あ、でも伊藤計劃よむのは27、8年後の予定>おい)。

ということで、残りの短篇にとりかかります。

 



「鏡の国のアリス」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月24日(月)20時26分38秒

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『鏡の国のアリス』140頁まで。
ジャズの話はまだ出てきませんが、私も左ギッチョなので、最初から共感を以って惹きこまれてしまいました(^^)
現在、鏡像に就いての講義(笑)の真っ最中で、左右が逆というのは見た目で、実は前後が反対なのだというのに、目からウロコ! この中で野球が例に出されているのですが、まさに私も、なんで一塁側の腕で投げる投手はサウスポー(左投げ)なのに、一塁側の外野がライト(右翼)なのか、ずーっと疑問だったのです。本書を読んで氷解しました。
124pで、
「鏡に写った像は、上下がそのままで左右だけが反対になるとはかぎらない。見方によっていろいろ変わる(……)人間が三つの場合の中で、左右が反対になったという見方をする場合が多いというのは、おもしろいですね」として、その理由として「人間は、からだを足で支えて、地面の上を横に動く、平面的な生活を」しているため、「まわれ右はすることが多いが、逆立ちすることはほとんどない」という身体性に根拠を求めています。

でも、それはどうでしょうか(^^;

岩波新書『ことばと思考』に、「前」「後」「右」「左」というような「相対的位置関係」を指示することばをもたない言語が紹介されています。たとえばオーストラリアのグーグ・イミディル語がそうなんですが、この言葉の話者は、絶対座標(東西南北)で位置を把握します。実験によると、我々のような相対的位置把握者よりも、彼らのほうが空間認知性は高く、優れているのだそうですが、逆に、下図のような「鏡像」関係にある二つの図形を、我々は別の図形として認識しがちなのに対し、彼らは左右反転した図形を区別しない傾向があったそうです。この理由に就いてこの本の著者は
「「左」「右」ということばを持たないということは、左右の方向だけの違いに注意を向けず、鏡像関係を同じものとして考える、ということのようだ」(92-93p)と考えています。
これを敷衍するならば、グーグ・イミディル語の話者は、鏡を見て、あれ左右が逆だぞ、などとは思わない可能性があり、翻って、鏡像関係の認識は人類普遍のものではなく、言語の構造に依存するもので、たかだか英語や日本語のような、相対的位置把握が卓越する言語にのみ認められる概念なのかもしれません。
なんてことをつらつら妄想したりしていたのでした。いやー面白い(^^)。ということで読書に戻ります(^^ゞ

 



Re: ツィス

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月23日(日)21時48分44秒

返信・引用

 

 

> No.2874[元記事へ]

堀さん

常時鳴っている(外在する)ツィス音を逆手にとって(組み込んで)48種の和音を生成するツィス・ハーモナイザーが凝ってましたね(でも考えたらムチャクチャ当たり前(^^;)。これ、ある意味「ピットインでヤマシタ・トリオをディグしていると……」の逆パターンですよね。
とはいえそんな和音を聴くことに、実際上どんな効果があるのかって思いました。まさにアイデア倒れな便乗商品であるところが、このストーリー的にはピッタリはまっていました(笑)。

>「本格的ジャズSF」で、ジャズ小説としても屈指の傑作
そうなんですか! そういうことなら『闇からの叫び』は後まわしにして、『鏡の国のアリス』をこれから読みます(^^)

 



Re:ツィス

 投稿者:堀 晃  投稿日:2011年 1月23日(日)21時12分37秒

返信・引用

 

 

これが「音楽ハードSF」であることは間違いござんせん。
近いうち、ぜひとも『鏡の国のアリス』を。
こちらは「本格的ジャズSF」で、ジャズ小説としても屈指の傑作と思ってます。

 



「ツィス」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月23日(日)19時49分11秒

返信・引用

 

 

広瀬正『ツィス』(集英社文庫82、元版71)読了。

ラストは一応、形式的にはリドル仕立て(しかも二段重ね)になっていますが、まあ大体予想していたような捻りでした(^^;。かなり強引。とはいえその強腕ぶりは(陰謀史観も含めて)、半村良(とりわけ伝説シリーズ)と共通します。70年代はこういうパターンが好まれたんでしょうね。
ただ振り返ってみれば、首都が(実質的に)壊滅するというのに、経済的なダメージがあまり描かれていません。東京のテレビ局が最後まで生き残っていますが、もっと早い段階で(スポンサーが撤退して)破綻していてもおかしくない。最近のテレビ局の状況を見ているからか、やや詰めが甘く感じられました(まあ、70年代は今よりもっと余裕(余力)があったということかも)。その一方で自動車関連やテレビ番組制作現場の描写などは、(多分趣味だったり仕事がらみだったりするのでしょう)きわめて精細に描かれていて、描写の深さにムラを感じます。
そういう欠点が、(後から)みえてくるのですが、読んでいる間はほとんど気にならず、楽しめました。

ただ「ツィス」という《謎》は、「中篇」にこそ相応しいアイデアなんではないでしょうか。これのみに頼って長篇を引っ張ったのは、やや無理があったように感じた。それが上記の「強引」という印象にもつながったようです。そういう次第で、謎が提示される前半はめちゃめちゃ面白かったのですが、しかしこの謎のみで展開される後半は、単調というか単線的であり、「静的」です。
ラストでリドル化されるところの「解釈」が、いわゆる「転」であり「破」にあたるのですが、これをもっと早めに明かして、そこからストーリーがどう畝っていくか、そういった「動的」な展開も読みたかったような……。しかしそれはないものねだりであって、たぶん著者の関心からはずれる。そういうのを書きたくないから、このような締め方になったのでしょう(ただこの締め方はショートショートのそれですよね(^^;)。

と、不満ばかり書いてしまいましたが、読んでいる最中は、非常に面白く、十分に楽しめました。次作の『エロス』も近々読んでみよう(^^)。

つづいて『闇からの叫び』に着手の予定。

 



「ツィス」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月22日(土)20時26分1秒

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『ツィス』はちょうど半分。こ、これは、音楽ハードSFではないですか! こんな面白いテーマの小説だったとは。もっと早くに読んでおいたらよかったなあ。と今更後悔しても始まりません。当時から(現在と変わらず)人気作家には食指が伸びなかったのであります。広瀬正は『マイナス・ゼロ』でさえ、読んだのはごく最近のこと。30年経てばもうそろそろ構わないかと解禁したのでした(^^;。
半村良のときは、雌伏からの復活がSFMだったこともあり、流行作家になる以前にすでに愛読者でした。なので、そういう(広瀬正のときのような)心理的な抵抗感はなかった。要は流行作家になる前に読んでさえいれば何も問題ないのですね(星小松筒井に至っては私がSFを知るずっと以前にすでに直木賞候補で、そもそも彼らが流行作家であることそれ自体を知らないで読み始めたので、さらに無問題)。
ところが広瀬正は、雌伏後SFMに登場することなく直木賞候補になり流行作家になったんですよね。それでは私のレーダーには引っ掛からないわけで、知ったときには人気作家。時機を失してしまったのでした(その意味では、西村賢太はぎりぎりセーフでラッキーでした。でなければ読むのは30年遅れたかも知れず。もう生きてませんがな(^^;)。

前置きが長くなりましたが、さて本篇、事の起こりは神奈川県C市。原因不明のツィス音(つまりCシャープ音(=Dフラット音)、就中二点嬰ハ音とありますから基音より1オクターブ上)が通奏低音じゃないな、通奏高音(保続音)のように常時鳴りつづける異常事態が出来。のみならず、次第に音量も上がっていく(やがて東京にまで届き始める)。原因は今読んでいる段階では明らかではありません。
で、その進行につれ、社会がその影響を被って変化していく様が坦々と描かれています(これまでのところは)。とりわけツィス現象が、いわゆる「経済効果」を発生させていくところが具体的に活写されていて興味深い。その意味で社会SFになっており、これを読むと。今の社会が突然出来上がったわけではなく、70年代初頭には既にその萌芽が認められるということですね。その意味で一種の思考実験小説であり、SF手法の教科書のような作品になっています。今後どうなっていくのか(どのような「転」なり「破」があるのか、もしくはないのか)、とても楽しみ(^^)

ところで二点嬰ハ音は、女性の音域の丁度真ん中あたりとのことで、この音が一定の強度で鳴っていると、女性の高い声が聴き取りにくくなると書かれてあるのですが、そんなものなのか。

さらに余談ですが、当時のレコードプレイヤーが、厳密に回転数を調節されてなかったという記述があり、まさに私が持っていたプレイヤーがそうだったことを思い出した。これ、絶対音階がないと気づきません。私はたまたま「原子心母」のLPを聴いているとき(だから多分本書が出版されたのとほぼ同時期です)、おそらく操作を誤ったかなにかで、FMに切り替わってしまった。と、なんと偶然にもFMでも「原子心母」を流していて、しかもほぼ同じ演奏箇所が流れていたのです。嘘みたいですが本当です。で、このとき初めてLPのピッチとFMのピッチが微妙に違うことに気づいたのでした。LPのほうが半音近く高かった。つまりターンテーブルの回転が若干早かったのです。でも安物のプレイヤーで回転数を調節できなかった(ーー;。そういえば、また思い出しましたが、のちに友人がなにかのLP をカセットに録音しようとして、わずか何十秒か収まらなかったので、回転数を若干上げて入れ直したと聞いたときは、非常に悔しかったんだったなあ(^^;

それはさておき、そういう次第で気づいたのでしたが、わずか半音でも上がると、曲の印象が変わってしまうのですね。これはむしろ速度の変化のせいかも知れません。ELPのような速弾きが売りの演奏はむしろ私のプレイヤーで聴くほうがよかったのでした。
でも作中の座談会で、
「歌謡曲というのはだいたい保守的でしてね。むかしなぞは、一つの曲ができると、そのままキーもアレンジもぜったいに変えようとしない」(165p)と言っているのは、それなりに理由があったのだと思いますね。今はデジタルですから、カラオケでも簡単にピッチを調節でき、それで速度は一定ですから全く問題はないのかも。

あと、本篇に何度か出てくるのだが、中年になると耳が悪くなるというのは実感しますなあ。昔の五つの赤い風船、ボーカルが藤原秀子のとき、彼女は高音がすこし下がり気味になるんですよね。それで非常に聞き苦しかったという記憶があるのですが、最近youtubeで「遠い世界に」をよく聴くのですが、ぜんぜん問題なく耳に入ってくるのです。音源は同じですから、こちとらの耳の「解像度」が劣化したということ。アイゴーッ!!

  

 



皇后さま、「ぼくつま」をご鑑賞

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月21日(金)18時54分22秒

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産経ニュースによりますと、昨日(1月20日)、皇后さまが、東京有楽町のTOHOシネマズ日劇にて「僕と妻の1778の物語」をご覧になったとのこと。→http://sankei.jp.msn.com/life/news/110121/imp11012100240000-n1.htm

記事には出ていませんが、映画後の懇談には眉村さんも同席なさっていて、美智子皇后とお話もされたそうです。実は眉村さん、美智子さんと生年月日が同じなんですってね。そんな話も出た由(^^;。そういえば私も、どうでもいいですが1955年5月29日生まれで、実は大桃美代子さんが1965年5月29日生まれなんです、ってホントどうでもいいことですね。何を張り合っておるのか。しつれーしました(汗)。

お話かわって、先日「ぼくつま 星新一」の検索語で訪れてくださる方が、ぽつぽつおられると書きました。その傾向はつづいており、今日も今日とて「星新一 病床の妻に」でいらっしゃった方がいたようです。悦子さんよりも、星さんのほうが先に亡くなっているのになあ、なんだかなあ、とぶつぶつ呟いていて、はたと気づいた。
そうか! この人たちは星監督と星新一を混同しているんだ!! そう卒然と思い至ったのであります。違いますからね。監督は星護で、星新一とは全く別人物です。老婆心ながら(^^;
マクラが長くなりましたが(>マクラかよ!)、先日の書き込みで、星監督を森監督と誤記した箇所があり訂正しました。大変失礼しました(ちなみに森護は大阪港紋章制定に関わった紋章学者)。

『ツィス』に着手。

<追記> FNNの動画。眉村先生も写っています(^^)→http://rd.yahoo.co.jp/media/news/videonews/wmp/*http://news.bcst.yahoo.co.jp/videonews.asx?cid=20110121-00000596-fnn-000-1-video-300k
 *観れない場合は、このURLをブラウザの一番上のアドレス欄に直接コピー&ペーストし、ENTERして下さい。

 



「大江戸仙境録」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月20日(木)22時14分7秒

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石川英輔『大江戸仙境録』(講談社文庫92、元版86)読了。

大江戸シリーズの第2巻。前巻の最後で、愛するいな吉を残して現代に戻ったきり、《転時》能力を失ってしまった主人公、それから2年の歳月が流れたある日、郵便受けに入っていたのはなんと、いな吉からの「時を超えた」手紙だった……!?
おりしも愛する妻、流子が仕事でパリに長期滞在することに。と、また主人公に《転時》能力が戻り、主人公はいそいそと江戸へと跳ぶのであった(^^;

という、前巻に引き続いて都合の良い、男冥利に尽きる展開(>おい)(^^;。ただしこの巻では、おそらく前巻でその点を批判されたことがあったのではないでしょうか、予防線を張るかのように、主人公は、同様に《転時》能力を持つ(つまり秘密を共有する、ということは同時に、主人公を相対的にみる視点を付与された)お婆さんによって、その点をねちねちと啄かれるのでした(^^;

ともあれリアルな江戸の描写がすばらしい。本書、というか本シリーズは、江戸時代小説を目指す方は必読の教科書でしょう。著者は、江戸時代が、いわれるほどひどい環境ではなく、むしろ現代よりも棲みやすい時代だったのではなかったかということを本シリーズで主張しています。79年に始まるこのシリーズは、ちょうど同時期、公害など戦後の復興・経済成長のマイナス面が顕在化し、それへのアンチテーゼとして、当時、台頭したエコロジー的言説と軌を一にするものだと私は思います(余談ながら日本に於けるNW受容も同じ面があります>反テクノロジー、反進歩史観、進化論に対するエントロピー論etc)。その主張は、むしろ新自由主義に傷めつけられた21世紀の現在の読者にこそ、さらに説得力を以て迫ってくるものではないでしょうか。

私自身、その説くところにはおおむね賛同するものです。ただ、たしかに江戸時代は現在より暮らしやすい時代だったかも知れませんが、当時の庶民の知識のレベルは、それこそ村や郷のサイズに収まるもので、その内面的生活は貧しいものだったようにも思われるのです。老子のようにそっちのほうが幸福なのだという見方もありえますが、私自身は、共感しつつも、なにかそこに不足なものを感じてしまうのですね。

ところで、かくいうごとく半分エッセイの趣きもあって、ストーリー自体はいささか平板。火星シリーズやその類書のように、主人公がカッコよく剣を振り回すこともないし、美人で売れっ妓辰巳芸者のいな吉が悪漢に襲われたり拐かされたりすることもありません。そのかわり読むほうが、ときどき睡魔に襲われます(>おい)(^^;。そういうあっけなさは確かにあるのですが、描出される江戸世界の圧倒的なリアル感、臨場感がそれをおぎなって余りあります。充分に満足しました。続篇もそのうち読んでみたいと思います。

   

 



雫石さんのレビューに触発されて

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月19日(水)20時55分5秒

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雫石鉄也さんの「僕と妻の1778の物語」レビュー→http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/944c5b4d8657f451757d3f22e580a0a9

>ちょっと演出過剰な個所
は、私もトゥーマッチと思いました。でも監督がサクを聖愚者に、節子を聖母に、象徴的に重ね合わせていることを知り、監督は過剰であることを承知のうえで、このような演出をせずにはいられなかったのだろうな、と思い直しました。
劇場版パンフレットの監督インタビューでも、愚かなピエロが愚直に続けることで聖なる修行僧のように、そして聖人へとなっていく。病院を教会のように解釈していますと語っておられますね(大意)。なるほど、消灯された病院の待合室で、窓から差し込む月明かりをたよりにサクが執筆しているシーン(パンフレットの最後のページの写真ですね)、よくみると縦長の窓は、窓枠で十字に区切られており、まるで十字架を象ったステンドグラスのようにも見え、監督の意図は明らかです(笑)。聖愚者を静かに見守り、ときに捧げ物(?)をする病院の人々は、ナザレのイエスのもとに自然に集まってきた人々をダブルイメージしているようです。監督は実際の眉村さんと奥さんの織り成す1778話の営為を、そんな風な高みで、重ねていたんでしょうね。
でも、客観的映画構成的には、演出過剰、トゥーマッチであるのは、おっしゃるとおりで、私も100%同意するものであります(^^ゞ

>死病に冒された節子の内面
を描くと節子が「人間」になってしまう。監督はそう考えたのではないでしょうか。この映画の節子はあくまで(というか半面)聖母なのであり、我が子の愚行を許し、受け容れる存在であることを、人間であることよりも強調したかったのではないかと思います(だからやつれたメーキャップにはせず、ずっと美しいまま。一方サクの頬は(蒼い翳をつけられて)こけ、キリストのイメージに近づいていく)。

いずれにせよ、映画は眉村さんの作品ではなく、完全に星監督の作品として、完成しているということであろうかと思いました。

   

 



「緑の星の下で」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月18日(火)20時27分41秒

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リン・カーター『緑の星の下で』関口幸夫訳(ハヤカワ文庫76、原書72)読了。

《緑の太陽シリーズ》の第1巻。なるほど、とことんバローズでした(^^)。分厚い雲の下、高さ何マイルにもそびえ立つ巨大樹。その枝に建てられた樹上都市――という舞台は金星シリーズを彷彿とさせます。その一方で、ストーリーの型はもろ火星シリーズというか「火星のプリンセス」です。
肉体から抜け出し精神体となった主人公が、魅入られたように異世界に移行する。その世界で、生涯の伴侶たる女性を見出すも、予期せぬトラブルで地球に引き戻されてしまう(むろん次巻では再び異世界へと還帰するのですが)という展開はまさに「火星のプリンセス」そのもの。

ただし著者自身あとがきで自画自賛しているように、精神体で飛び出したジョン・カーターが、到着したバルスームではなぜか肉体を持っているという矛盾は、きっちり解消されています。まあこのかたちは「スターキング」に前例があるわけですが、「スターキング」では彼我の肉体と精神の入れ替わりですし、その入れ替わりはあくまで偶然、たまたまという範疇。
しかし本篇では、さらに高次な仕掛けがほのめかされています。時空を越えた巨大な真相が開示されそうでわくわくするのですが、それは最終巻で明らかになるのではないでしょうか(実際の最終巻がどうなっているかは分かりません。そもそも事実上の最終巻が、著者としては途中の巻という認識だった可能性もありますし)。

さて、わずか200頁あまりの作品で、ストーリーが動き出すのが100頁を過ぎてから。ということで最初は退屈したのですが、後半は面白かった。
この世界、巨大なトンボや蛾を騎馬代わりにしている世界で、これまた作中でほのめかされていますが、実際はこの世界の住人、一寸法師程度のサイズなのかもしれません。ただ精神体で飛来した主人公には比較する術がない。読んだ感じも、一種箱庭的、妖精の物語的なミクロコスモスな雰囲気があって(深井国の挿絵とも相俟って)、これはバローズにはない、著者独特のオリジナリティでしょう。これもその事実が最終明らかになれば、それなりにセンス・オブ・ワンダーが感じられそうです。(追記。あ、箱庭といえば「イシュタルの船」があるか。あとがきでメリットに言及しているのはそういうわけなのかな)
ということで、続巻を追いかけたくなりました(^^)。

そういえば先回読んだ『江戸迷宮』で抜群の面白さをみせつけた石川英輔の代表作である《大江戸シリーズ》も、実は第一巻は「火星のプリンセス」型なんですよね。第1巻で江戸(異世界)に(この場合は肉体もろともですが)タイムスリップした主人公が、そのラストで心ならずも現代に戻されてしまう筋立てでした。私はその第1巻しかまだ読んでなかったのですが、これを丁度よいきっかけとして、大江戸シリーズの第2巻『大江戸仙境録』に着手しようと思います。

 



君はもうパンフレットを見たか?

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月17日(月)21時46分47秒

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昨日は、雫石さんからご報告賜りましたが、「僕と妻の1778話の物語」、そろそろ見に行こうかなと思っておられる方も多いのではないかと思います。
劇場に行かれたら、必ずパンフレットをお買い求めくださいね。
というのは他でもありません。なんと
1778話の全タイトル名が記載されているんです! これは貴重です。第一級の資料というべき!!
そればかりか、眉村さんと森監督の対談、眉村さんのエッセイ「映画を見ての記」、第1778話「最終回」の生原稿の写真まで掲載されている。つまりこれ、映画のパンフなのに、眉村資料集といってもあながち言いすぎではないものになっているんです。
いつもなら対談もエッセイも要約して呈示するんですが、どうせ皆さん、映画館に行かれて購入されるのだから、今回はいいですよね(>おい)(^^;
いや実は、昨日からくしゃみが止まらなかったり、さむけがしたり、ちょっと風邪のひき始めみたいな感じがするので、まだ9時過ぎですが、早々とナイトキャップで温めにかかっていて、すでにかなり出来上がりつつある。その分さっきから打鍵もおぼつかなくなってきてもいるので、今日のところはこれにて、とさせていただきます。あしからず(^^;

 



「江戸迷宮」より(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月16日(日)23時58分21秒

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雫石さん
や、早速観に行かれたんですね!
レビュー楽しみにしています(^^)

承前
タタツシンイチ「風神」 劇画を字で読んでいるような印象。
井上雅彦「笹色紅」 著者らしいトリッキーなダブルイメージが、単調な構成がつづく本集のなかで際立った。
佐々木ゆう「鉢頭摩」 あまり好まない筋立てなのだが、説明を極力抑えた叙述でしっかりと描けていてよかった。
藤水名子「闇に走る」 ひどい。短篇小説の体をなしていない。小説というもおこがましい説明文。
森真沙子「定信公始末」 これもひどい。そもそも江戸の人間が、たとえ文に強い奥祐筆でも「記憶します」とか「清涼剤」とか「政治」とか近代になってから現れた表現を使うはずがない。ストーリーも散漫で一体何を描きたいのか。ラストはまたしても吸血鬼モノ。吸血鬼を出せばそれで読者が納得すると安易に思っているとしか考えられない。しかも蝦夷地から吸血鬼が船で江戸にやってくるというのは有名な先例があり、少なくとも井上さんが知らない筈はないのであって、まずそこでアウトでしょう。
岡田秀文「泡影」 これは切ない秀作。しびれますなあ。
加門七海「ぐるりよーざ いんへるの」 本篇もなかなかよいが、「泡影」を読んだすぐ後ではいささか色褪せる。
皆川博子「宿かせと刀投げ出す雪吹哉 ――蕪村――」 傑作幻想掌編。とろりと濃厚なお酒を呑んでいるような読み心地で堪能させられました。

以上、
井上雅彦監修異形コレクション江戸迷宮』(光文社文庫11)読了。
ベスト5は、平谷美樹「萩供養」、平山夢明「異聞耳算用 其の2」、石川英輔「大江戸百物語」、岡田秀文「泡影」、皆川博子「宿かせと刀投げ出す雪吹哉 ――蕪村――」(掲載順)
ペケは竹河聖「振り向いた女」、長島槇子「雛妓」、薄井ゆうじ「彫物師甚三郎首生娘」、藤水名子「闇に走る」、森真沙子「定信公始末」(同上)

 



Re: 眉村さん情報

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2011年 1月16日(日)22時36分40秒

返信・引用

 

 

> No.2864[元記事へ]

星群の連中と「僕と妻の1778話の物語」を観て、ちょっと一杯飲んで
今帰ってきました。
劇場は、TOHOシネマズ梅田。ナビオ8階のこの映画館の一番大きな劇場のスクリーン1でしたが、満席でした。満員盛況でした。若い人が多く、カップルの客も多かったです。
映画としてよく出来ていました。草ナギもさることながら、竹内結子がうまかったです。
くわしくは18日に私のブログでレビューします。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月16日(日)11時58分43秒

返信・引用

 

 

1月15日付(?)神戸新聞に、眉村さんのインタビュー記事《「僕と妻の1778の物語」眉村卓さんに聞く》が掲載されました→http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003740459.shtml
眉村さんの写真のバックは、映画「僕と妻の1778の物語」のポスターですね(^^)

 



Re: いえいえ(笑)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月16日(日)11時00分56秒

返信・引用

 

 

> No.2862[元記事へ]

平谷さん
> あの祝詞は足がかりであります。
あ、そうでしたか。失礼しました。
うーむ。
もいっぺん読んでみます(^^;

 



いえいえ(笑)

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2011年 1月16日(日)07時34分19秒

返信・引用

 

 

あの祝詞は足がかりであります。
その「仕掛け」は、小説の「ごく普通の描写」として、さらりと書いています。
伏線としての書き方ではありませんが、管理人さんなら見つけられるかもしれません。
見つけたらメールください♪

 



Re: ゴミソの鐵次モノ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月16日(日)01時15分45秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2860[元記事へ]

何をおっしゃるウサギさん、「謂はまくも畏き我が○○○の大神……」でしょ(^^;

>【義経になった男】は全4巻で4月に一気に出ることになりました
あ、全4巻でしたか。失礼しました。

 



ゴミソの鐵次モノ

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2011年 1月16日(日)01時09分50秒

返信・引用

 

 

ゴミソの鐵次モノは、実は「蝦夷関係の仕掛け」がしてあります(笑)
【萩供養】の中にも分からないように伏線を張りました。
そのほかにも江戸モノ3本、準備中です♪
【義経になった男】は全4巻で4月に一気に出ることになりました。
よろしくお願いします♪

 



Re: 感想ありがとうございました♪

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月16日(日)00時35分3秒

返信・引用

 

 

平谷さん
どうも。お久しぶりです!
「萩供養」、楽しませていただきました。
私は以前から、江戸(に限らず)時代小説は平谷さんに向いているんじゃないかと思っていましたから、本篇を読んで、自分の目に狂いがなかったことが証明され、とても嬉しいです(^^; 特に平谷さんには、凡百の時代作家と違って「蝦夷からの視線」という専売特許がある。これは絶対的な強みを発揮するんじゃないでしょうか。井上さんによれば、ゴミソの鐵次ものの長篇(連作?)が既に準備されているとのこと、期待しております。
あ、その前に『義経になった男』ですね。楽しみ〜!

 



感想ありがとうございました♪

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2011年 1月15日(土)22時44分33秒

返信・引用

 

 

【萩供養】の感想、ありがとうございました。
これからもっと勉強して、江戸モノも書き続けて行こうと思っています!

 



「江戸迷宮」より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月15日(土)20時21分49秒

返信・引用 編集済

 

 

ほぼ5分の3、300頁強読む。

中島要「かくれ鬼」 何よりも文体にリズムがあり、出だしも上々で期待したのだが、ラストでばらけてしまう。どこから棺桶を用意できたのか。この屋台の女は何者か。なぜ(場所柄ありえない)上等の酒を飲ませられるのか。リアリティが一気になくなる。超自然を扱うからといって設定まで現実を離れてしまっては興冷め。
朝松健「黒【イ】」(【イ】=[生]の下に[目])
竹河聖「振り向いた女」 全体に緊密感がない。この話、突き詰めれば、本篇で一番のカッコイイ男であり、それゆえ(話者ではないが)主人公と言ってよい若侍小三郎の、人を見る目がなかったという話では(^^; そのくせ全然反省の色もない。むしろ解決したつもりになっているのは笑止。金田一だってラストで反省するというのに(^^ゞ
長島槇子「雛妓」 私がもっとも嫌いな作風。ラストで形而上が仄見えなければ小説とはいえないのだが、この小説は最後まで形而下に留まっている。作者に相対的な物の見方が備わってないのだろう。
倉阪鬼一郎「常世舟」 さすが昔取った杵柄(>おい)(^^;
薄井ゆうじ「彫物師甚三郎首生娘」 これも書く意味を見出せない作品。だいたいこの生首、どうやって栄養補給しどうやって排泄しているんだ? 生首のくせに形而下的リアルなことを考えるんだったら、生理もリアルでなくちゃ。ラストは形而下どころか、更に地面を掘り進む。
平山夢明「異聞耳算用 其の2」 これは面白かった。奇談・怪談を近代小説的に描写せず、伝統的な聞き書き・間接描写にした形式の勝利。元来怪談のたぐいは、このような形式によってのみ、非現実性を乗り越えられるのだろうと思う。
入江鳩斎・作/菊地秀行・訳「江戸珍鬼草子」 これ、本当に著者が発掘したの? そういう形式の創作でしょう。これも形式の勝利。面白い!
石川英輔「大江戸百物語」 や、これは大傑作! ここまでのベスト作品かも(^^)

 



ロードショー始まる

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月15日(土)10時47分16秒

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いよいよ今日から公開です! シアターリスト、リンクしておきます→http://gekijyo.toho-movie.com/theater.php?no=112 今日は朝から全然客足が伸びないんですけど、ネットを漁る段階は終わって、みんな映画館へ行っちゃったんですねきっと。良き哉(^^ゞ
あ、高井信さんが映画のノベライズを読まれた感想をアップされています→http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2011-01-14
ノベライズも出ていたのか。考えて見れば当然ですね。眉村さんの「原作」があるわけではないですから。
高井さんが書いておられるとおり、眉村さんと朔太郎は別人なのですね。その辺は実際に映画を見て確認していただきたく思います。
でも映画が始まったことで、一般的にはますます朔太郎と眉村卓を融即混同した論調がひろがるんでしょうね(ーー;。
その意味で、今後はむしろ「相違点」に、どこが同じでどこが違うのかに、焦点を当てる考察をマスコミやレビュアーには期待したいところ。無理でしょうけど(^^;。

 



「江戸迷宮」より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月14日(金)21時25分43秒

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昨日、今日と二日連続で散歩。いつものコースですが200メートルほど距離を伸ばしました。で、今日はさらに、いつもはだらしない摺り足なのですが、歩行中意識して腿を高く上げて歩いた。高く上げる分、なんとなく前に進んでないような感じ。でもかかった時間は昨日とほぼ同じだったので、一種の錯覚だったのでしょう。効いた〜! 同じ距離ながら負荷度は倍ぐらいに感じられた。倍歩くより効率的です。味をしめたので、次回はスキップしながら歩こうかしらん(^^;

異形コレクション『江戸迷宮』は、全篇江戸が舞台の時代小説という趣向。
まずは本集購読の眼目というべき
平谷美樹「萩供養」を読みました。著者初めての時代小説(^^)。時代物としては、先般二年にわたる新聞連載が完結し、今春全3巻にて刊行予定の長篇「義経になった男」があります。義経北行伝説を新たな視点で解釈した2100枚の大長篇とのことですが、これは時代物というより歴史小説の範疇でしょう。私はこの作品を楽しみに待っているのですが、でも未刊行なので、本篇が著者の時代物の初体験となります。

そういう次第で、まずはお手並み拝見と読み始めたところ、いやこれが予想以上に面白かった(^^)。とにかくびしっと短篇小説しているのがよい。要するに起承転結・序破急があり、しかして無駄な部分はないということ。

主人公は何年か前に津軽から江戸に出てきた修法師。つまり《逆髪 刹鬼 亡魂の障り 憑物祓い 失せ物探し 萬相談申し受け候》の看板を掲げる祈祷師で、名をゴミソの鐵次という男。ゴミソとは津軽の言葉で八卦置きのことだそうですが、どうやら鐵次は(生来か修行の結果かはこの段階では定かではありませんが)霊体質者らしく、亡魂の障りや憑物祓いを専らとしている。そんな鐵次に、吉原の大見世から出動要請が来る……

鐵次を呼んだ花魁も実は津軽の出で、「ゴミソ」という渾名に反応して鐵次を指名したのです。むろん花魁は廓言葉を叩き込まれており(「吉原に入ったときに生国など忘れるよう言うてある(……)お国言葉が出たんじゃ帳消しさ」と楼主は言います)、津軽言葉は毫も出ません。しかし鐵次は数年前に江戸に出てきたばかり。なのにその口調はまるで江戸っ子なのですね。これはあかんやろ、と私は思ったのでした。これが作者の仕掛けだとはさすがに気づかなかった。ラストでビシッと決まります。
大枠、江戸を舞台の霊祓い物のようですが(連作になるのかな)、本篇に限っては方言をうまく仕掛けに使って(仕掛けと言ってもミステリのそれとは趣きを異にします)情感を孕ませた、短篇らしい短篇になっており、満足しました。

*余談ですが本篇はSFではないけれども、霊の描き方はわたし的に納得できるものです。すなわち霊は身体から切れた段階から、当の切れたことによって、どんどん「退化」していくのであり、何らかの理由で成仏せず留まった霊は、最終的になぜ魂魄この世に留まっているか、本人すら忘れ果ててしまう筈、というのが私の理解なのです(その根拠を、メルロ=ポンティで説明したくてウズウズしてるのですが、なん10行にも及んで逸脱するのもアレなんで自重しておきます(^^;)。本篇の霊現象はそういう私の理解にかなり近いように思われたのも好印象の理由の一つ。

あと、唯一トゥーマッチと思ったことがあって、それは花魁が「迷宮」なんて生硬な言葉を使うだろうかという疑問。そんな漢語知っているだろうか。さらにその前に江戸期に「迷宮」という言葉が既に存在していたのかどうか、ちょっと気になった。総合タイトルに引っ掛けようとしたのでしょうが、勇み足だったように思うのですが(^^;

 



Re: 眉村さん情報&「人もいない春」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月14日(金)00時11分29秒

返信・引用

 

 

> No.2853[元記事へ]

高井さん
「とくダネ!」>もっと早く書き込みできたらよかったのですが。申し訳ありません。

>どうして予約録画しないんでしょう
いやー恥ずかしながら録画ということをしたことがなく、予約録画のやり方を理解していないのでした(汗)。

>音源データをもらいましたら、ご連絡します。
いつもすみません。分かりましたら宜しくお願いしますm(__)m

 



Re: 眉村さん情報&「人もいない春」

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 1月13日(木)23時19分8秒

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> No.2852[元記事へ]

「とくだね!」は、ここにアクセスしたのが番組終了後で、残念ながら観ることができませんでした。
 しかし管理人さん、どうして予約録画しないんでしょう(笑)。
「奇跡体験!アンビリーバボー特別編」は、名古屋では本日放送でした。もちろんリアルタイム視聴&録画しました。映画公開に向けて、どんどん盛り上がっていきますね。

> ところで昨日の第三回も、実は急な来客があって全く聞くこと能わずだったのでした。どの話を朗読されたのかも分かりません。聴かれた方、教えていただけたら幸甚です。
「男のポケット」も「LOVE FLAP」も関西在住の方に録音を頼んでいます。音源データをもらいましたら、ご連絡します。

 



眉村さん情報&「人もいない春」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月13日(木)21時41分46秒

返信・引用 編集済

 

 

まずは眉村さん最新情報。
雑誌「いきいき」2月号に、眉村さんのインタビューが掲載されているようです。→http://www.e-ikiiki.net/ikiiki_digest/201102/index.html
ただ、この雑誌、書店では売っておらず、定期購読のみのようです。

さて、「とくダネ!」観ました。ニュースではないので、そんなに早くからは放映しないだろうと高を括って、9時前にテレビを付けたら、タイミングよく始まりました(^^;
しかし特別番組もそうでしたが、1778話「最終回」を、さも仔細ありげに取り上げる割には、ストーリーは見せないんやね(^^;。屹度この内容については緘口令が出ているんでしょうな。とはいっても『僕と妻の1778話』(集英社文庫)に全文掲載されているんですけど。気になる方はネットでさがすよりも書店で立ち読みするのが手っ取り早いですよ(笑)

FM大阪「男のポケット」最終回は
No.886「神様の素」。ただし眉村さん朗読中に折悪しく電話がかかってきて最後まで聴けませんでした(ーー;。
ところで昨日の第三回も、実は急な来客があって全く聞くこと能わずだったのでした。どの話を朗読されたのかも分かりません。聴かれた方、教えていただけたら幸甚です。

FM大阪「LOVE FLAP」ですが、午後は外回りしており、カーラジオはずっとつけっぱなしにしていたのですが、仕事中とのことで断続的にしか聴取できず、結局眉村さんのインタビューは聴けなかった。しかし、冒頭の時間割でも言及がなかったし、ゲストの紹介でも眉村さんの名前は挙げられなかった。ひょっとしてそもそも無かったのかも。おかしいなあ。ここにちゃんと記載されているのですが。

それはさておき、昨日の書き込みで、

>眉村さんはその一方で、何を注文されてもそれを原則断らない。作家たるもの注文されたものは何でもこなさなければならない。自分はできる。それが出来てはじめて一人前――という信念の持ち主

と書きましたが、ちょっと舌足らずだったので追記します。概ね上記で間違いないのですが、ただ、要求されたジャンルの小説を漫然と書くだけではない、ということは付け加えたく思います。つまりどんなジャンル、恋愛小説であれジュヴナイルであれ、を要求されたとしても、それは断らない。ただしそのジャンルの制約を逆手にとって「SF」にしてしまう、その意気込みと自信で以って、オファーを受けるわけです。「アクチュアルな書き手」と書いた所以です。
その意味で、眉村さんは朔太郎の「SFしか書かない」という態度を、あきたりなく感じたのではないでしょうか。週刊大衆のインタビューの
「草gさんみたいなSF作家がいたら、飯食っていけないと思うけど」との発言は、そのあたりから発されたものかもと感じました。

西村賢太『人もいない春』(角川書店10)読了。
うーん……
すべて「野性時代」掲載ということも関係しているのか、内圧がかなり減じています。主人公と女のやりとりは相変わらずめっぽう面白いのですが、どうものびた麺類めいた印象を払拭できません。いわゆる中期の安定的停滞期に入ってしまったのかな。というか、早く女との決定的な場面を描けよ、と思いました。たぶん書けないんだろうなあ。それで蜿蜒お茶を濁している感じ(今回は私小説ではない、ネズミ一族の滅亡を描いた短編なんかも載っているんですよね)(^^;
ということで……あ、もう読み残しはないのか。上梓された単行本は全て読んでしまったのか。となると文芸誌の広告に注意して、掲載されたのを拾っていかねばならないな、と前書まではそう思ったかも知れませんが、本書を読んだあとでは追いかける気持ちも少し薄れた。出版されたらもちろん読むと思いますが。

ということで、異形コレクション『江戸迷宮』に着手の予定。

 



緊急告知!

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月13日(木)00時12分34秒

返信・引用 編集済

 

 

明日(あ、もう今日ですね)、関西テレビ(フジ系列)朝のワイド番組「とくダネ!」(8時〜9時55分)にて、眉村先生の録画インタビューが流れるそうです。1778話の生原稿の映像もあるらしいので、直前で申し訳ないのですが、ご覧になれる方はお見逃しなく〜(^^)

 



Re: 「スタジオパークからこんにちは」&「キネ旬」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月12日(水)22時49分20秒

返信・引用 編集済

 

 

高井信さん
情報ありがとうございます。全然気づいていませんでした。残念。
>草g剛の代表作になりそうですね
不勉強で草gさんのドラマって、今まで見たことがなかったのですが、この映画の演技はとてもよかったです。というか、演技しているのか地なのか、その間を行ったり来たりしているような、良い意味で「濃くない」(?)ところが、この映画の場合とてもマッチしているように感じました(といってバラエティの草gくんしか知らないのですが)。

丁度
「キネマ旬報」(1月下旬号)が届いていて、さっきまで「巻頭特集僕と妻の1778の物語」を読みふけっていたのですが、「草g剛ロング・インタビュー」(取材・文=石津文子)で、草gさん、「笑うにしろ、泣くにしろ、どこか自分を超えて表現しないと、(星護監督に)納得していただけないんです」(18p)と語っていて、想像ですが監督は草gさんに「朔太郎は草g剛じゃないんだよ」というような要求がかなりあったことを窺わせます。でもこれが実は案外ハマっていたんでしょうね。

同じく
「竹内結子インタビュー」(取材・文=編集部)で、竹内さんが草gさんと堺雅人を比較していて、「役を憑依させるような点では似ているかも知れませんが(……)堺さんは演じるキャラクターによって(……)違う人と接しているような感じがする。一方、草gさんは何でも自分のものにしまえるタイプで、役を吸い込んじゃうとでもいうんでしょうか(……)」(23p)と分析していて、同じことを言っているんだと思いました。
その竹内さんは、どうも堺雅人タイプのようで、そういえば以前にもリンクしました完成披露舞台挨拶で、草gさんが竹内さんの演技について
「本当に節子にしか見えなくて。でも今日は、節子のひとかけらもなくて、節子はどこへ行ったのかなと思いますよね。女優さんですよね(笑)」と感心してましたね(^^;。

「星護監督インタビュー」(取材・文=石津文子)では、ああ、そうだったのか!と思わず膝を打ちました。どうやらこの映画で森監督は、朔太郎をキリスト、節子をマリアに擬していたようなのです。これは全く気づけませんでした。

そういえば草gインタビューでも、朔太郎を
「聖なる愚者」としていますし、竹内さんも「撮影中は、苦しいはずの節子がなぜそんなに個人的な感情をみせず、笑顔で接したりできるんだろうかという疑問が湧いて(……)」と述べているのですが、聖母であればさもありなん。
監督も(この映画が朔太郎視線で、しかも50年後から振り返ったそれであることを示したのち)
「節子が闘病中も美しいままなのは、その過去の美しさなのかも知れない。欠点がない清らかな女性として、『僕が支えていたつもりだったが、支えられていたのだ』と、朔太郎が回想しているようにも思います」(26p)と言ってますが、これも私は節子の中に「聖母」を見たと言い換えられるのではないかと思います。

また監督は(現実の眉村さんは全然こんな人ではありませんけどと断った上で)
「朔太郎は、もともと現実に疎い夢見がちな男で、節子という繭に守られるかのように、空想し、小説を書くことに没頭している」(25p)とも言っている。つまりそのように構想して製作された映画ということで、本映画は、隠れた次元で、[聖愚者]と[聖母]の物語ということができるようです。そうと気づけば、私は終盤の病院の人たちが朔太郎を見守り、[施し](笑)を呉れたりするシーンが、いかにもトゥーマッチに感じられて不満だったのですが、必要な、欠くべからざるシーンであったのだなと、認識を改めさせられた次第。

さて、本特集を締めくくるのは
「眉村卓の発言から読み解く「僕と妻の1778の物語」と眉村卓の作品世界」(取材・文=山下慧)。これは力作。
まず本映画が、実話とは年齢で30年の時差があることによる設定の改変で、もはや純然たる実話の映画化ではないこと、同視すべきではないことを強調する。
つまり反映されている部分とそうでない部分があるということで、たとえば映画の朔太郎が、SFにこだわって恋愛小説の注文を断るのですが、むろん現実にはそういう事実はないとはいえそのような態度が、本人の反映であるとしているのは鋭い(でも私見ですが、眉村さんはその一方で、何を注文されてもそれを原則断らない。作家たるもの注文されたものは何でもこなさなければならない。自分はできる。それが出来てはじめて一人前――という信念の持ち主でもあるのですが……いやこれは余談でした(^^;)。

取材者はこのあと、社会派時代の眉村さん、産業将校とビッグタレントを両極とする小説世界設定に言及し、それが司政官に集約されていくと「インサイダー文学論」を把握しているのはそのとおりです。この方はたぶん眉村作品をよく読まれている方だと思います。
そして
「インサイダー文学論からSFの枠組みを取り払えば、政治劇における官僚ドラマ、警察劇におけるキャリア組の刑事ドラマと同様に」(31p)なるとするのはけだし卓見ですね。
そしてそういう手法は(物語を)
「必然的に長編化」させざるをえないとして、その後の『消滅の光輪』『引き潮のとき』の長大化を必然性として捉えます。そのとおりだと思います。

さて、30代の眉村さんはそのようなアクチュアルな書き手であったわけですが、映画のサクにそのような片鱗は伺えません。ここに重要な差異があると取材者は考えています(眉村さんは、まあまあとなだめているようです(^^;)。

そしてもう一つ重大な差異があるとして、それは
「映画ではただ妻のためだけに掌編を捧げるのだが、現実では夫妻の間に娘さんもおられ、書き上げたショートショートの選集本『日がわり一話』や『日課一日3枚以上』を闘病と並行して出版していく」(31p)点で、ここには明確に「妻のため」ではなく「妻を一番目の読者として」という意識が見出せるとして、多分映画を(暗に)批判しています(私自身は、監督はそれを分かって映画作りをしていると思っています。問題があるとしたら、それは売らんかなのコピー屋です)。
取材者は、映画を観る観客に、この辺の映画では分からない(むしろ誤解されかねない)ところを憂慮しておられるようです。
だから次の言葉にも重みがあり、素直に首肯できるのだろうと思います。いわく――
「いわば妻の病気をも売り物にしてしまう作家の業」「ラブレターを書き続ける私人であることと、商業作家であることを両立させる業は、またインサイダー文学論の姿勢にも通じよう」

で、そういう取材者はこの映画について、こう位置づけするのです――
「あの状況に置かれた眉村卓の内宇宙をうつくしく虚構化した1779番目の物語として読み解くこともできるのではないか」(32p)と……。(太字化>管理人)


 



「スタジオパークからこんにちは」

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 1月12日(水)14時53分44秒

返信・引用

 

 

 先ほど何気なくテレビをつけたら、草g剛がゲストで出ていました。番組はNHK「スタジオパークからこんにちは」13:05〜13:45PMです。
 もしかしたらと観ていたら、やはり映画『僕と妻の1778の物語』の話題になりました。
「泣くシーンが嫌いで、いつもはうまく泣けないのだが、今回は自然に涙が流れた」「奇跡的なお芝居ができた」
 草g剛の代表作になりそうですね。

 



男のポケット第2回&「瘡瘢旅行」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月11日(火)21時04分16秒

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今日の朗読はNo.524「心を明るく」『僕と妻の1778話』(集英社文庫版)に収録されています。どうやらすべて本書からのセレクトになるみたいな感じですね。
さて本篇、難しいのを選択されましたね。あるがままに聴いて(読んで)くれたらいいのですが、既存の観念に引きずられて、「そうだ。どんなに苦しくたって笑顔を忘れず明るく生きるのだ!」と、修身的に了解してしまう人がいそう(正負いずれの意味でも)。そういう話ではないことは、上掲書本篇の作者のコメント、
「今読み返してみると、切ない」を読めば推察できるんですけどね。裏読みして下さい(^^ゞ

さて、
西村賢太『瘡瘢旅行』(講談社09)読了。
短篇の
「廃疾かかえて」「瘡瘢旅行」と中篇の「膿汁の流れ」の3篇収録。
最初のと最後のが貫多もの。先々回、三人称を選択したのは、客体として認識できるようになった20年前の10代の自分を、「私」で描くのはちょっと違和感があったためではないかと書きましたが、この2篇は、30代なかば、著者の私小説の中心を占める「女」との同棲時代の話。なので、あれ、と思いました。描かれているのは同棲時代といっても、それも末期の、かなり関係がギクシャクしている、そんなチュエーションです。でも読んでみて、なんとなく納得できたといいますか、二つの理由が思い浮かんできました。

まず、先回書いたように、結局主人公は女に愛想尽かしされて出て行かれてしまうわけです。はっきりいって殆どの読者はそれは当然で、女が出ていくのが遅すぎたくらいと思うはず。そのように(作者によって)描写(誘導)されてきたわけです。ところで主人公と作者はもとよりイコールではないにしても、その元に作者があるのは疑いない。読めば明らかですが、主人公はやることは大人気ないくせにプライドだけはやたら高い。おそらく作者がそういう性格なんでしょう。それがいよいよ同棲生活末期を描くに至って、その何とも情けない仕儀を「私」として描写するのは、いかにもプライドは許さなかったのではないでしょうか。

いまひとつは、主人公貫多(≒作者)が、これまで以上に戯画化されているように思えることです。言い換えれば「作った」部分の比率が高くなっている。私は読んでいてそんな感じがしました。その理由として考えられるのは、上記プライドの高さ故、戯画化を強めなければ書けなかったということが考えられる。もうひとつは、ある意味私小説の宿命で、書きうることをほぼ書き尽くした結果、「事実の創作」がついに始まった可能性。これらの理由は、いずれの場合も「私」で描くことは躊躇われたのではないかと推察するのです。いやまあ単なる推測ですよ。でも
「膿汁の流れ」のラストなんて落語の落ちじゃないですか(^^; 決まりすぎてこれはもう絶対フィクションですね。もしくは針小棒大されたファクト。
あとがきで、
「該作より、毎度の登場であるところの"女"の姿に、現実のモデルらしきもののそれとは一層かけ離れた、私なりのデフォルメが塗り重ねられていることを付け加えておく」とありますが、デフォルメを塗り重ねられているのは、ひとり"女"のみではないように思われます(^^;

ということで、『人もいない春』に着手。

 



関テレ視聴&「小銭をかぞえる」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月10日(月)21時23分34秒

返信・引用

 

 

関西テレビの特別番組「奇跡体験アンビリーバボー特別編 僕と妻の1778話の物語」を視聴。うわ。「世界でただ一人の読者のために書き続けた」などと言っているではないか……(ーー;
まあそれはそれとして、「タイトルや出演者はなんとなく知っているのだけど、内容は……」というのが、概ね「僕と妻の1778の物語」という映画に対する一般的な認知の程度だと思うのですが、そういう層の興味を上手に掻き立てるものになっていたように思いました。実はこの放送前後から、「1778話 最終回」といった風な検索語での訪問者が、この時間帯までひっきりなしにありまして、そういえば番組では、「最終回」をいかにも思わせぶりに、内容を示さずに何度も提示していました。視聴者も気になって仕方なかったんでしょうね。「釣り」としてはうまく機能したんじゃないでしょうか(^^;

さて、
西村賢太『小銭をかぞえる』(文藝春秋08)読了。
「焼却炉行き赤ん坊」「小銭をかぞえる」の2中篇を収録。どちらも昨日のべた妻虐めDVもので、その極めつけといってよい面白さでした(>おい!)。いったいに作者は、同棲する女への仕打ちを描写するときほど、その筆に力がこもり精彩を放つこと比類がなく、一気に読まされてしまいます(汗)。著者の作品の面白さの7割がたは、この女の描写にかかっていると言って過言ではありません。私小説とは、ある意味作家が生涯をかけて書き継ぐ、一本の大長篇小説とみなすことが可能なわけですが、この女が、今後一体どうなっていくのか(男を作って出奔することはあらかじめ書かれているのですが)、本当にもうハラハラドキドキで目が離せません(^^;。
ということで、『瘡瘢旅行』に着手。

 



Re: 男のポケット聴きました!

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月10日(月)15時04分20秒

返信・引用

 

 

高井さん
星さんのショートショートも、朗読されるとすごくいいですね。あ、筒井さんも朗読しますよね。結局文体に気を使っている・文体も作品を構成する重要な要素であると考えているかどうか、ということになってくるんでしょうね。この点は山尾悠子さんが『夢の遠近法』に書いてましたけど、「小説は散文詩でもいいのではないか」と思ったというのと繋がるんじゃないかと思います。

それからちょっと調べていて、キーホールテレビというのをダウンロードすれば、聴取可能圏内でなくても、というかワールドワイドでFM大阪が聴取できるみたいです。大阪県外の方、ぜひご利用になって、男のポケットの眉村さんの朗読を、まあ一度お聞きになってください(^^)

 



Re: 男のポケット聴きました!

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 1月10日(月)11時35分24秒

返信・引用

 

 

> No.2844[元記事へ]

 眉村さんがショートショートを書き始めたとき、まず思ったのは「星さんとは違うものを書こう」だったと、以前にお聞きしたことがあります。以後、現在にいたるまで、そのスタンスを貫き通しているんですね。感服!
 ちなみに私は、「星さんみたいなのを書こう」でした(苦笑)。

 



男のポケット聴きました!

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月10日(月)10時52分24秒

返信・引用 編集済

 

 

FM大阪男のポケット限定版聴取しました。PIECEという番組の中の、時間帯は9時40分から10分くらい。
正味眉村さんの朗読だけでした(^^;。私はオリジナルの男のポケットを聴いていないので分からないのですが、オリジナルでも朗読onlyだったのでしょうか? 先生のトークがないのは、ちょっと物足りなかったのでした。
朗読されたのは
No.198「偶然の顔」。これ先日出た『僕と妻の1778話』にも収録されている分ですね。相変わらず味のある朗読でした。朗読も良かったのですが、眉村さんの文章そのものが、これまでも何度か言及してますが、朗読向きというか朗読(音読)されることを意識(前提)した文体なんですよね。黙読した時とは印象がうんと異なってしまいます。読んだ時点でふつうかな、と思った作品でも、耳で聞くと、ああこれはいいやん、と認識を改める場合がしばしばなのです。眉村先生ご自身も、たしか執筆のとき声に出して読んで、リズムを確かめると言っておられたように記憶しています。
ところでこの短話系のショートショートは、星新一がものする、いわゆるショートショートらしいショートショートとは、ある意味別物と考えたほうがよいのかもしれません。星新一を念頭において読まれると、あっさりしすぎていると感じてしまう読者もいると思います。そういう読者は、試みに声に出して読んでみてはいかがでしょうか。

なんて書いているのは他でもなく、たまたまついさっき「僕と妻の 星新一」の検索語でいらっしゃった方がいて、実はこの検索語を見るのは、同じかたなのか別人なのか分かりませんが、もう3回目か4回目なのです。で、うーんと思って検索語で逆引きしてたどり着いたのがこの検索エンジンなんですが、そこでパッと目にとまったのが《『僕と妻の1778話』を読み途中なのだけど、物足りなくて、星新一のショートショート好きを再認識》というツイートだったんです。なるほどなあ。
と、思うた。それはありえるなと。
でもそれは星SSを基準にして読むからなんですよね。私は思うのですが、眉村短話に接する際は、その先入見を一旦棚上げされたほうがいいようです。狙い目というか読みどころが違うんですから(^^;。
というわけで、眉村短話はぜひ音読してみて欲しいとご提案させていただく次第なのであります(^^ゞ 

 



眉村さん情報・ラジオ&テレビ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 9日(日)23時41分59秒

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明日から「男のポケット」が始まるはずなんですが、FM大阪のHPには何も告知されてませんね。大丈夫なのかなあ(^^; とりあえずpieceという番組はAM8時20分からです。私も明日は祝日なので、ラジオの前で待機しています。

そして夕方は、関西テレビで16時24分から53分までの約30分間、特別番組「奇跡体験アンビリーバボー特別編 僕と妻の1778話の物語」が放送されます。先に「スーパーニュースアンカー」で、とお知らせしましたが、それは私の早とちり、スーパーニュースアンカー(16時53分〜)の前の独立した番組として放送されるみたいです(^^)。

そうそう、FM大阪のサイトを見ていて発見! 1月13日(木)13時からの「LOVE FLAP」に眉村さんがゲスト出演されます。あ、木曜のパーソナリティは谷口キヨコではないか! これもどんな話を聞き出してくれるのか、楽しみです。

さて、下の写真を御覧ください。

これらのセリフは、実際映画の中で話されるものなのですが、
「そこでは、子どももいて、家の中がにぎやかで、年取ってから旅行するの、一緒に」というセリフ、これ明らかに監督は、眉村さんのご家族を想定して言わせてるんですよね(^^;。悦子さんが病気になられたあとでイギリス旅行にいかれてますし。
週刊大衆のインタビューで眉村さんが映画について「パラレルワールドですね」とおっしゃっているのは、当然これを踏まえておられるんだと思いますね(笑)。監督やるなあ。
もっともパラレルワールドというモチーフは、監督の発想ではなく、眉村さんとの会話の中からインスピレーションを得たんじゃないでしょうか。そんな気がします。 

 



「二度はゆけぬ町の地図」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 9日(日)16時12分52秒

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西村賢太『二度はゆけぬ町の地図』(角川書店07)読了。

タイトルだけみると、迷宮小説みたいですが、さにあらず、主人公がかつて住んでいて、つまらない愚行で居られなくなった(場合によっては夜逃げした)町まちを、その愚行の顛末を描いた作品集なので、タイトルに騙されてロマンチックなものを求めて読まれると、呆然となりますので念のため(^^;

本集ではじめて一人称「私」ではなく、三人称の、貫多という名前の主人公を視点人物に設定した形式の小説が試みられています。4篇収録のうちの2篇、
「貧窶の沼」と「潰走」がそれ。もとより貫多は作者とほぼ重なる設定で、前者は16歳、後者は17歳のときの話。
著者は主に同人誌時代に書いたところの、20代から30代はじめの、まだ藤澤清造を知らない、もしくは知る直前あたりのことを書いた小説群と、商業誌に発表したところの、既に(著者の云う)墓前生活に入り、と同時に女と同棲も始まった頃の小説群(妻虐めDVもの(^^;)がありますが、おそらく貫多ものでは、それより以前の、中学を出て家を飛び出した10代頃の愚行を書いていくのでしょう。ではなぜことさらに三人称にしたのか。それはけだし、とうに10代を離れた作者にとって、その時代の自分自身が、他人とはいわぬまでも、何程か他人事めいた(それなりに客観的に振り返ることが可能な)エピソードになってきたか、なりつつあるからではないでしょうか。むろんやっていることは同じで、読めば作者が全然懲りてなく学習してなく進歩していないことがよく分かります(>おい)(^^;。
ただ三人称形式だと、世界が客観化される分、貫多(≒作者)のダメダメな行為の「あり得なさ」が浮いてきてしまう憾みがある。つまりこの作者は、ある意味「事実は小説より奇なり」の「事実」(リアル)の部分を小説化しているのですが、それを、より小説らしい三人称で描くと、いわゆる「小説のリアリティ」との間に齟齬を来たしてしまうからではないか。そのような次第で、これまでも、一般的に三人称で描かれた私小説に対して、私は多少の違和感を感ずる場合があったのですが、その理由が氷解したような気がします。
あと
「春は青いバスに乗って」と「腋臭風呂」
前者の青いバスとは護送用のマイクロバスのことで、20代なかばの「私」(北町という苗字だがほぼ作者)が10日あまり留置場に拘留された話。著者の作品はいずれも私小説として横紙破りなのだが、これは私小説の教科書のように完成されており、本集中のベストでしょう。警官の(頭の悪い)横暴と小心、縦割り、留置場で知り合った男達のユニークさ等が良い塩梅で作中に配置されていて、読み物としても格別の面白さ。余談ながら留置場(拘置所は違うらしい)に馴染むと天国らしいとはよく聞くが、まさにそれが分かりますね。下手に釈放されて人生の寒風に身を晒すくらいならわざと軽犯罪で戻ろうとするのも理解できます。
後者は18歳の或るエピソードが、後年作家になってからの或る体験で甦る。これは「作った」感の強い凡作(でもここまで3冊読んできてはじめての凡作)。

ということで、『小銭をかぞえる』に着手。

 



Re: 眉村さん情報・毎日文化センター&週刊現代

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 8日(土)21時07分22秒

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> No.2840[元記事へ]

雫石さん
ブログ拝読。
>「世界でただ一人の読者のために書き続けた」
>こういうことは絶対にない
そうですよね。映画の(コピーライターがオートマチックに書いた)宣伝文の中にも、ひょっとしたらあったかも知れませんが、実際の映画では、なんども竹内結子が「最初の読者として」「一番目の読者として」と言っています。この辺監督もきっちり理解して製作されているようです。安心して観に行ってください(^^;

 



Re: 眉村さん情報・毎日文化センター&週刊現代

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2011年 1月 8日(土)20時52分39秒

返信・引用

 

 

> No.2838[元記事へ]

> さて、内容ですが、特筆すべきは次のくだり。
>
「妻の遺体を一階に置いたまま、私は一人でいつものように2階に上がり、最後の原稿を書きました(管理人註、第1778話か)。下でガタガタやっているものだから、、つい「うるさい!」と怒鳴ってしまったことを覚えています 」
> これは(私の知る限り)今回が初出です。ところがこの場面、映画にそっくりそのまま出てくるんですよね!

このエピソード、今日の講演でご本人がおっしゃっておられました。
簡単なレポートですが、私のブログにレポートを書きました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



追記>映画特番情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 8日(土)20時46分59秒

返信・引用 編集済

 

 

下の投稿に加えると長くなっちゃうので新たに立てます。
いま映画のHPを見ていて気づいたのですが、関西テレビ1月10日(月)16:24-16:53の時間帯(というとスーパーニュースアンカーですね)に、「僕と妻の1778の物語」の特別番組が放送されるようです。番組名は、「奇跡体験!アンビリバボー特別編 映画「僕と妻の1778の物語」 〜本当にあった愛と感動のストーリー〜」。視聴可能な方、ものはためしでご覧いただけたらと思います。関西地区だけではなく全国で放送されるようです(早い地方は既に今日から)。上記HPでお確かめください。

 



眉村さん情報・毎日文化センター&週刊現代

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 8日(土)20時08分58秒

返信・引用 編集済

 

 

雫石さん
お疲れさまでした! 私は仕事があっていけなかったのですが、「知らない人ばかりでした」というご報告、非常に心強く感じました。固定ファンじゃない、いわゆる浮動層が動員できたということですからね。
1778話が(これまでの周知活動によって)一般の人たちにある程度注目され(attention)興味をもたれ(interest)観に行きたいかもという欲求(desire)が生じていることがわかるわけです。そして実際的な行為として映画館へ行こうという動機(motivation)を固めるために(最近の流行語でいうならば肩を押してもらうために)講演会に来られたと推量されるのです。これはまさに雫石さんのご専門の広告論でいうところのAIDOMAの法則ですよね。
映画はきっと成功するに違いない。改めてそう確信した次第です。
とにかく成功して欲しいのです。そしてその余勢をかって、(聞くところによるとカンヌに出品されるそうですが)映画賞で注目を集めなければなりません。日本にはなんと大変なことをやり遂げたSF作家がいるのか! とヨーロッパ人が驚いたらしめたもの。翻訳出版のオファーがくるやも知れないではないですか!! 私の狙いはそこなんですよ。なんという深謀遠慮(とらぬ狸ともいう)(笑)

ま、夢を語るのはその辺にしておいて(>おい)、眉村さん情報です――
またまた高井さんから教えていただきました。ただいま発売中の週刊現代(1/15.22合併号)に、<作家・眉村卓 そして奇跡は起きた 彼女は5年生き延びた! 余命1年の妻に捧げた「1日1話の物語」>というインタビューの構成記事が掲載されています。この何ともタブロイド紙並みに大仰な見出しは表紙のモデル上野樹里の左肩を大きく縦断して記載されていますので、捜すのは簡単と思われます。
さて、内容ですが、特筆すべきは次のくだり。
「妻の遺体を一階に置いたまま、私は一人でいつものように2階に上がり、最後の原稿を書きました(管理人註、第1778話か)。下でガタガタやっているものだから、、つい「うるさい!」と怒鳴ってしまったことを覚えています 」
これは(私の知る限り)今回が初出です。ところがこの場面、映画にそっくりそのまま出てくるんですよね! この事実から、監督はずいぶん綿密な聞き取りを眉村さんに行い、それを映像に反映させているんだな、ということがよく分かりました。単なるお涙頂戴の映画を作るのなら、ここまではしないのではないでしょうか。今日、この記事を読んで、より一層映画に対する好感度がワンランクアップしたのでした(^^;

あ、キネマ旬報もう出ているのか→http://www.7netshopping.jp/magazine/detail/-/accd/1200255849/subno/1
さっそく注文しました(^^;

 



Re: 眉村さん情報と「暗渠の宿」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2011年 1月 8日(土)18時38分9秒

返信・引用

 

 

> No.2836[元記事へ]

> (1)まずは、明日1月8日(土)、毎日文化センターにて「妻に毎日書いたショート・ショート」の演題で特別講演があります

行ってきました。知らない人ばかりでした。
眉村さんには、終わってからごあいさつだけしました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



眉村さん情報と「暗渠の宿」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 7日(金)17時56分22秒

返信・引用 編集済

 

 

しかしまあ、1775、1776、1777……いろいろな数字でご来訪くださって、有り難くもつい可笑しくなっちゃうのですが、正しくは1778話ですので、そこのところは一つよろしくお願いしたいと思うのであります(^^;

その「僕と妻の1778の物語」、いよいよ来週1月15日(水)より東宝系にてロードショーです。皆さまお楽しみに〜!
ということで、プレ企画も盛りだくさん。
(1)まずは、明日1月8日(土)、毎日文化センターにて「妻に毎日書いたショート・ショート」の演題で特別講演があります→http://www.maibun.co.jp/wp/?p=7196
(2)次に、FM大阪にて「男のポケット」が限定復活します。産経関西によれば、1月10日から13日までの4日間、同局のワイド番組「PEACE」(月-木8:20-11:00)の中で、「僕と妻の1778の物語」の基になった、病床の妻へ向けて1日1編書き続けた短編集の中から作品を選んでの朗読とトーク。こちらはまだFM大阪のHPには反映されていないようです。来週にはアップされるかと思います。

草なぎ剛、竹内結子主演の映画は、眉村先生夫妻の実話を、30代の夫婦の話に繰り下げ、それに伴うもろもろの改変も加えられて、いわば「並行世界」の物語というべきものになっています。実際の話は新潮新書『妻に捧げた1778話』にエッセイの形式で、集英社文庫『僕と妻の1778話』では毎日書き上げられた短話からの抜粋(メモリアルセレクション)にひと言添えるかたちでまとめられており、コンパクトに知ることが出来ます。映画を鑑賞するに当たっては、できればこの2冊のうちのどちらか(できれば両方)をあらかじめ読んでおくと、よりいっそう味わい深く楽しめると思います。

なお、最新作『沈みゆく人』(出版芸術社刊)は「私(わたくし)ファンタジー」と銘打たれた純然たる創作集で、同志でもあった糟糠の妻を失った老作家が、それから(いわば映画のラストから)10年近くを経た心境を、ありきたりな私小説ではなく、ファンタジー幻想小説として呈示した傑作集です。こちらは映画を見終わった「締め」としてお読みになると吉かも(^^;


話は変わって――

西村賢太『暗渠の宿』(新潮社06)読了。
後悔するならはなからしなきゃいいのに、という愚行の数々(^^;。しかしここまでひどくなくてもそれらは男ならばっさりと切って捨てられない、それなりに脛に傷持つというか身に覚えもある数々でもあって、共犯者めいた隠微な共感が、そこはかとなくきざしてこないでもないわけなのです。女ならば「キモイ!」と一刀両断にされることかも知れませんがね。そこがうまい。面白い。(^^;。

 
「(……)と、云って借金の肩代わりする替わりにぼくとつきあってくれ、なんて云う意味じゃないんだよ。それじゃ汚ならしい援助交際と、何ら変わらないものね」
 「……それはわかってる」
 いや、そこはわかられても困るんだ、と(……)私は少し慌てた。(「けがれなき酒のへど」より)


――バカだねえ(笑)。ということでひきつづき『二度はゆけぬ町の地図』に着手。

 



「どうで死ぬ身の一踊り」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 6日(木)19時44分18秒

返信・引用 編集済

 

 

「作者の頭の中だけで、観念だけで暴力を語ったり、登場人物を都合よく動かしたりしてる部分が微塵もないところに、当今のバカな読者やバカな評者、編輯者なぞがよろこびそうな小説よりも、いくらかマシな面がなかろうかとの思いもなくはないが」(跋より)

西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社06)読了。
私小説です。生活に満たされて丸くなってしまう以前の、初期車谷長吉のような研ぎ澄まされた凄みは端からありませんが、じゅうぶん狂人(^^;。ただ、その「アホ」なところ、分かっちゃいるのに破滅の方へ傾いていくのをとめられないのを、少し離れて客観的にみる視座もあわせて持っているのです(ときどき目が覚めるというか(^^;)。だから作家なんですが、それがあるからあとさき失った愚行、そのトゥーマッチの描写に、読者はなんともしれぬ可笑しみを読み取ってしまうのですよね。いやー面白い。
私も、私小説を試作したいとずっと思っているのですが、モデルとなるであろう家族や知人の迷惑を考えると、小心者の私にはちょっと手が出せません(^^;。そんなことを気にしていては私小説なんて書けないわけで、車谷長吉にしろ西村賢太にしろ、まあふつうではありませんわな。うらやましい(^^;

てことで、ひきつづき西村賢太『暗渠の宿』に着手。

 



「冬の狼」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 5日(水)21時26分51秒

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エリザベス・A・リン『冬の狼』野口幸夫訳(ハヤカワ文庫85)読了。

アラン史略三部作の第一部とのことですが、訳者あとがきによると、そもそも本篇は単独作品として構想されたもので、著者にシリーズ化の意図はなかったそうです。訳者は「完全に独立した作品として読める」と書いており、そのとおりなんですが、回収されない設定がいくつか残っているのは事実。たとえばヴァンとマラーンスが助太刀を買ってでたのは、動機的にいささか唐突で、その理由の説明は皆無なのです。ただ、どうもふたりがキーンドラから追放されるいきさつに、コウル・イーストルが深く関わっていたからのようで、それは行間に仄めかされているとはいえ、結局明示されることはありません(これは本篇のストーリーの外側にも、(書かれない)世界が広く拡がっているということでもあり、本篇に重層性をもたらしてもいるわけです)。この辺から続篇が構想されたのかも知れません。

さて本篇は、アランという架空の世界描写が、ちょっとファンタジーの小説世界とは思えないようなリアリティあふれたもので(ただしこの断定には、ファンタジーを読んでいるわけではないので多分に偏見が入っているかも。言いたかったのは雷蔵ではなく勝新ということ)、概ね中世ドイツ世界が下敷きにされているように想像するのですが、まるで映画を見ているような、くっきりとした具体的な映像喚起力があり、読んでいて無上の喜びでした。

作中人物も通り一遍な薄っぺらなものではなく、みなそれぞれ矛盾をかかえている厚みのある造形になっている。とりわけ視点人物であるライクが、人間的には知的洞察に恵まれているわけでもなく視野も狭いのだが、これが実に陰影にとんでいる。そもそも柴田勝家的な人間で若殿アーレルを絶対的に信奉し、自身の命よりも上におくといった体の、愚直無骨、ある意味単純な武人で(ただしそこには主従関係のそれとは違う同性愛的な感情が著者の描写には籠められてもいるのです)、アーレルが齎す境遇の変化に、ようよう従いていくのが精一杯、自己の御家人的レゾンデートルを揺すぶられすこしずつ解体させられ変化していくのだけれども、結局変わりきれない。
アーレルの妹ソーレンが、やはりノーレスと同性愛的な関係に(ただし自然体で)なっており、アーレル=ライクとソーレン=ノーレスは鏡像的関係にある([受け入れている/受け入れていない(抑圧している)]も含めて)。その一方で、みかけライクはソーレンに惹かれており、ノーレスに焼きもちを焼かれたりもするのだが、実はライクは、ソーレンの裡にあるアーレルを愛していたのです。
「この似かよいこそが、ライクがソーレンにおいて愛するものだった」(311p)
なぜならアーレルはライクの絶対的なる主君なのであって、主従関係というレゾンデートルから結局解放されていないライクにとっては至高の存在なのです。(平等的関係を前提とする)愛の対象としてみるなんてことはできるはずもない(抑圧される)。それ以前にライクの古い観念は、同性を愛するなんてとんでもない話で思いつくことさえありえない。ただいくら本人が気づいていなくても、ライクはアーレルを愛しているのであって、抑圧された欲動は、アーレルの妹であるソーレン(の裡なるアーレル)に向かう(転移する)のです。

かくのごとくどの作中人物も(訳者お気に入りの敵役・冬の狼コウル・イーストルが生彩躍動的で魅力にとんでいるのは当然としても、その配下の武将でさえ)生き生きとしたリアリティを以て描かれているのだが、ラストで、ソーレンがトーナーの領主の地位を、アーレルから禅られ、それを受け入れるのは、いささか内的必然性において首を傾げる唐突な展開ではありました。この場面を執筆しているときには、すでに著者の裡では続篇執筆の意思が芽生えていたのでしょうか。

翻訳が実に凝っていてよかったのですが、ときおり首を捻るところもあった。あるいはひょっとして、巷間言われるところの直訳至上主義の片鱗というかきざしが、本書において既にあらわれかけているのでしょうか。原書を確認したわけでもない、単なる憶測ですが。しかしまあ、気になるというほどのものではありません。凝りまくった訳文を十二分に楽しみました。

ということで、ひき続いて西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』に着手。不勉強で作家の名前さえ知らなかったのですが、先日の新年会で中相作先生がしきりに褒めていたので、図書館で借りてきた。いやこれは確かに面白い(^^)

 



だらだらと

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 4日(火)21時29分34秒

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昨日は風の翼新年会。紀伊國屋書店前で集合する吉例なのだが、いつも待ち合わせ人で満員電車並みにごった返す前の広場が、昨日は若干見通しがよかった。そういえば店内もふつうに歩き回れた。この書店、いつ行ってもぎゅう詰めで、ゆっくり本をさがすような雰囲気ではなく、ここ数十年ほとんど(書店としては)利用していなかったのだが、集まったメンバーによれば、なにやら茶屋町方面に巨大書店が開店した由。そうと聞いて腑に落ちた。さしもの紀伊國屋書店も新店に客を奪われたのであるな。いやこれくらいの人の入りなら私でもふつうに本選びができそう。ありがたやと北東の方角を向いて伏し拝んだのでした。
で、新年会。年に一回、この会でしか会わない人もいて、大いに楽しみました。二次会は泉の広場の地上に上がってグニョグニョと行ったところで、会計したらなんとひとり900円! これはぜひとも以後利用しなくちゃ。問題はまた行こうとしても、その店に辿りつけるかどうかなのですが(^^;
二次会は専ら熱燗で、日本酒の酔はウィスキーやビールよりも回ってくるのが遅れるのですな。それで私自身は積極的には選択しない酒類なのだが、そのときはついいつもの調子で飲んでいたら、案の定最寄り駅が近づいてから深い眠りに捕らえられ、久しぶりに乗り過ごしてしまいました。まだ戻りの電車があったので事なきを得ましたが。
ということで帰館即バタンキュー。おかげで十分睡眠時間が摂れ、今日から仕事始めで、いつもなら初日は朝起きられないのですが、すっきり目覚めることが出来た(^^)。今年は例年より一日早い仕事始めで、(本来昨年中に済ませておかねばならない)12月度の締めをして郵便局に行って半日で切り上げました。
昼からは、家にいても読書は進まないし、家にいること自体に飽きてきていたので、本を抱えていつもの喫茶店へ。ところが満員で席なし。みんな考えることは同じのようですな(^^;。で、少し足を伸ばして同じチェーン店(FC?)の別の店に行ってみた。ここは大丈夫だったのですが、BGMがジャズではない。てことはいつも行く店は、店長の趣味でジャズを流していたのかな。
しかしこの店もどんどん人が入れ替り立ち替りやって来る。ちょっと粘りづらい。コーヒーをお替わりして抵抗しましたが、お尻がむずむずしてきて、あえなく1時間半も居ずに退散したのでした。
それでも外に出てみれば太陽はかなり低いところにあって、地図で見ると一目瞭然なのですが、この地域は海岸線が北東から南西で、どの道路もそれに合わせて大体海岸線と平行なんです。それが丁度この時期この刻限は、太陽の沈む方向に真正面に一致していて、南西方面に進むどの道を走っても、まともに太陽が目に入ってくる。昔の信号機は逆光で殆ど分からない。新しいLED信号機でさえも見にくい。そういえば山田正紀の「ハルピュイア」だったか「スパイラル」だったかは、環八の同様の信号が逆光で見えなくなるのがトリックだったのではなかったかしら。この地でも何かトリックが考えられそう。などと散漫に考えながら、帰館したのであった。
つまり、読書はあまり進まなかったと言いたいのでした。220頁ほど(汗)。

 



若者よジャズを試そう!

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 2日(日)20時14分5秒

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明日は新年会で梅田に出るので、ニューサントリー5に(営業してたら)寄っちゃろかと、サイトで確認したところ、3が日はお休みでした。まあそうだろうね。
で、サイトを見ていてふと目に入ったのですが、いま40歳以下の方ノーライブチャージというサービスをやってるらしい。

いねーよ!!!(笑)

しかしまあ、今までジャズって聴いたことないんだけど、ちょっと興味があるんだよな、という方にはもって来いの、渡りに船みたいなサービスではあります。ためしにご利用してみられてはいかがでしょう(おお、危なく「ご利用されてみては」と書くところだった)。

『冬の狼』は150頁。約半分。面白いねえ!
119頁
「ライクはまた酒を飲んだ。5箇月間、一滴も飲んでいないことに気づいた」と書いてあって、あれ、そうだっけ? とページを繰り直しました。直近では110頁で「葡萄酒を啜」っているではないか。で、気がついた。この直前にライクはギーヤのソーレンに女を感じているのです。つまり「一滴も」とは5箇月女を抱いていないことの、酒にかこつけた言い換え(隠喩)なんですね。まさに反説明的叙述。たまりませんなあ。

 



ぼくつま

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 2日(日)13時14分3秒

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元旦の中日新聞に、「僕と妻の1778話の物語」の記事が掲載されていたよと、高井さんが、切り抜きの画像データを送ってくださいました。いつもありがとうございます。
「初春を華麗に彩るお正月特集〜見どころ、おもしろさのヒミツを聞く〜」の総合タイトルの下、4本セレクトされたお正月映画のひとつとして、東宝中部映画支社林原祥一さんが紹介記事を書いておられます。
「新春、愛おしい夫婦愛の物語。"ぼくつま"が日本中を温かい涙で包みます」
うちにも時々この検索語で来られる方がいるところをみると、「ぼくつま」、すでに略語として定着してしまったみたいです(^^;

 



「ことばと思考」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月 1日(土)17時53分44秒

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今年もよろしくお願いします。
昨年は恒例Dynamiteの視聴で年を終わりました。この番組、縮小しましたね。楽しみにしていたK-1甲子園がなくなっていたのは残念。
年に一回しか観ないので、選手が様変わりしていますね。全体に地味になっていて好感。バンナは衰えましたな。キレがまったくない。それよりも往年の狂犬のような野性味が完全に失われ、聞き分けのよいベテランぽくなってしまっていてがっかりしました。選手生命は10年もたないということで、このこと自体は真剣勝負であることの証明なので歓迎ですが、その分昔の名前で出ています的なマッチメークは無残です。

聴き初めは、マハヴィシュヌ・オーケストラ「虚無への飛翔」。めずらしくステレオに相対して聴いたら、B面が退屈だった。パソコンでBGM的に聴く分にはあまり感じなかったのだが。発売当時に購入しなかったわけが判明しました(^^;。

さて今年最初の読了は、年越しで読んでいた
今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書10)
私は大学一年の基礎ゼミがフロイト的な人格発達論(パーソナリティ論)で、その後半に、人間の認識構造は文化(言語)によって異なるという、当時文化とパーソナリティと呼称された文化人類学の一分野に興味が向かい、ここでサピア・ウォーフ理論も知りました。そこで二年で社会人類学を取ったら、そういう多様性もその底には共通の関係性(構造)がある。表れ方が異なるだけ、という考え方に接してビックリし、三年からの専門ゼミで、そういう勉強がしたいのだがと聞くと、それは知識社会学というものだというので、そっちに進んだという経歴なので、この本に書かれていることは、ざっくりと大まかには大体分かっているか、まあそうだろうな、という感じで、新しい知識から感じる驚きはなかった。ただ当時の文化とパーソナリティ理論にしろ、構造人類学にしろ、計量的な研究は皆無だったはずで、ではその根拠はとつつけば、突き詰めて言うならば、民族誌的事実を現象学的な体験構造の反省によって了解するという方法論だった。そこに実験心理学の手法を持ち込み、検証した成果が本篇ということになるでしょう。

その過程でサピア・ウォーフ理論が、概ね正しいものではあるけれども、いわば黒白的な理解に陥っており、その黒と白の間に連続的な灰色のグラデーションがあることを、計量心理学の手法で、いわば精度を上げた点は評価に価するでしょう。
たとえば子供の認識構造は、最初は真っ白で、そこに言語が世界の切り取り方を刻印していくというのが、ウォーフの考え方ですが、じつは子供の認識構造そのものは、真っ白ではなく、そのような切り取り方を受け入れる素地が(脳の構造に)最初からあったことが分かる(ある意味動物学的根拠)。でも、これってピアジェのいわゆる「シェーマ」のことではないのかとも思うのですが、その方面は詳しくない上に忘却してしまっているので、ご教示いただければ幸甚です。とまれ本書の主張を図示すればこうです。



機能的には弁別可能なのに、いわば色眼鏡をかけさせられたように、グラデーションは捨象されて単一の「キイロ」や「ミドリ」として無意識に「認識」される(もちろん意識すれば違いは分かっている)。
ともあれ、このような事柄を解説している大変面白い新書ですので、興味のある方はどうぞ。

余談ですが実は私、この原理を利用して短篇を習作しておるのです(^^;→http://okmh.web.fc2.com/i/to-ki.htm
テーマは、同窓会的「故郷」がなぜ「夕日化」されるかの考察です(汗)

 


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