ヘリコニア談話室ログ(20112)


「架空の街の物語」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月28日(月)22時52分49秒

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 まだ二十八日だと考えていたら、なんと今日は月末だというじゃないですか。ビックリしたなモウ。あわてて雑事あれこれ。思いがけない忙しさに右往左往させられたのでした(自分が暢気だっただけ)。さらに昼前には、突発性の激しい降雨にも見舞われて、べったりぐっちょり濡れネズミ。とんでもない一日でありました。
 で、夕食後こたつに入ったら寝入ってしまった。目が覚めたら今頃。2時間ほど眠ったようです。
 そういったけっこう気のあせる一日だったので、読書にはなかなか集中できず、『言葉と脳と心』再読は五〇頁ほどにして、『架空の街の物語』を手に取る。
 わ、面白いやないですか。なんとなく、甘いだけの小説かとずっと思っていました。こんなに残酷なお話だったとは。
 残酷といっても、血が出たり肉が飛び散るわけではありません。心理的なそれ。リリカルでメルヘンチックな話なんです。リリカルでメルヘンチックな話なのにラストで容赦なくグサッとくるんです。いや、チクリとか。
 とにかく期待して読み始めたわけでは全然なくて、積ん読消化のつもりだったのですが、ちょっと様相が変わってきました。ただし最後までこの調子だとしたら、逆の意味でつらくなるかもしれません。悲しく切なくなる話には耐性がないもので(笑)。http://hokuseikouro.blog40.fc2.com/

 



新ブログ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月27日(日)23時19分25秒

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 ぐうぜん、縦書きできる方法を知ったのですが、どうもこの板やチャチャヤン気分では文字の大きさの調整がうまくいきません。で、新たにブログを作ってみました。 →http://hokuseikouro.blog40.fc2.com/
 どんなもんでしょう?
 ただし、(筒井さんのブログと同じで)基本、画像ですので、検索にはひっかかりません。あ、むしろ悪口を書く場合、好都合か(→おい)。
 ショートショートもといみじか話を載せるときはことに都合がよさそう。

 
男が拳銃をサックに収めると、組員たちからいっせいにどよめきの声が上がった。全部命中している。
 ボスが進みでた。「よかろう、君を採用しよう。仕事は分かっているな」
 男はうっそりと頷く。
 「相手は手ごわいぜ」「もう五人やられた」「頼んだぜ兄さん」 組員たちが口々にいう。
 「早速仕事にかかってくれ」 ボスがいった。
 「それじゃ……」
 そういったとき、男の手には既に拳銃があった。


 とりあえずしばらくは、掲示板の私の投稿分を転載して、使い勝手を確かめたい。習熟でき、うまく使えるようだったら、いろいろ使い道が思い浮かびます。

 



オリゴ党観劇、SF検討会、「言葉と脳と心」「ウイルスハンター」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月27日(日)13時10分18秒

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昨日は、生魂神社南下る應典院にて、オリゴ党公演「死なない薬」を観てきました。山奥の秘密研究所、そこに集められた70歳以上の老人たち。かれらは不老不死(どころか若返る)の薬の検体として集まられたのだった……!?
いやー面白かった(^^)。例によって座付作者のイワハシさんが台本を送ってくださるので、感想はそれを読んでからにさせていただきますね(^^;。

オリゴ党観劇のあとは、梅田にて久しぶりにジャズ住職と定員二名のSF世相検討会。西村賢太で盛り上がる(笑)。伊藤計劃が面白いらしい。うーむ。あと柴崎友香。この人、谷甲州以来のわれらが高校出身らしい。うーむ。
検討会のあとは、例によってニューサントリー5にてラスカルズ。トランペットではよく見かけますが、トロンボーンでチューリップの口を、ワウワウというのか、帽子状の器具で開閉したりするのを見たのははじめて。どうやって扱うのかと思ったら肩にのせていました。2ステージを見て退散。

山鳥重『言葉と脳と心 失語症とは何か (講談社現代新書11)読了。
感想を書こうとしたら、言葉がスムーズに出てきません。はっ、これは失語症なのか。いうべき言葉を見いだせないという意味ではそのとおりです。但し本書で扱っている失語症ではなく(なぜなら統語は狂っていないし、音読すれば連続的な音の日本語的区分け選択も保たれている。はず。なのだが、統語が失せていたらそもそも統語を認識できず誤っているとも感じない)、いわば未知の知識の貫入に対して、それを組み込むべき既存の知識体系の再編がうまく進んでいないからということではないか思われます。要するにまだちゃんと咀嚼出来ていない、読み足りていないわけで、そうと知れば読み返してみるしかありません。ということで再読に着手。

昨日の電車での往復(というか往。復は酔っ払って爆睡)の間に、
北野安騎夫『ウイルスハンター』(リイド文庫95)読了。
ウイルスハンターシリーズの第1巻で、50ページ程度の短編4編と、100頁の中編を収録。このシリーズ、2巻以降長編シリーズとなっており、コンピュータ、電脳空間に潜み、殆ど意識(悪意?)を持っているかのように進化していく超ウイルスと、その発生に因縁を持つ一匹狼の電脳免疫学者(ウイルスハンター)浅倉圭(プロポーション抜群の美女>お約束通り)との戦い(という名のイタチごっこ)を描く物語となっています。そのうち2、3冊を既に読んでいるのですが、面白くなかったという記憶もない代わりに殆ど覚えてもいません。そういう、いわば読み捨てタイプのエンターテインメントだったんでしょうか。

さて本書、短編集ということもあって(あるいはそれゆえ)存外に面白かった。なんといっても95年刊ですから、データのやり取りは「3.5インチフロッピー」(^^;。この辺が実に、今となっては不思議な異化効果があってよい。
話は飛びますが、たまに「風俗的な部分が古びてしまって読むのが苦しい」的な感想をみかけるのですが、私はぜんぜん違いますね。風俗小説が面白くなるのは、実にもってその風俗が「現在」とかけ離れてしまってからなのです。「いま」の風俗を読んだって楽しくもなんともない。むかしの(現在からはちょっと想像できない)風俗だから面白いのではないでしょうか。その意味で戦前の私小説、花袋にしろ白鳥にしろ泡鳴にしろ、今読んでみなはれ、もうめっちゃ面白いです。最近の若い世代ならば戦後派から第三の新人あたりもそういう感覚で読めるかもしれません。
これらは皆、(相対的)異化効果の面白さんなんですね。
本書の面白さも一部そういう異化効果に負っている。コンピュータウイルスの描写が、生物ウイルスのアナロジーで理解されすぎていて、眉をひそめる人もいそうですが、デジタルをアナログで説明するなんてとても素敵じゃあありませんか。
これらは「古びて」いるんじゃない。この時間線とは別の、データのやり取りをフロッピーで行い、生物ウイルスと見紛う電脳ウイルスが猖獗を極める、そういう並行世界のお話だと思えばいいんです!(笑)
作品的には、短編はいいのですが、中編はいまいちに感じました。この作家、シーンを描くのはとてもうまい。実は4つの短編とも、ストーリーが殆ど動かない。複数のシーンだけで構成されている(シーンのつなぎが笑福亭たま的に素早いのも好印象)。ところが、100頁の中編となると、ストーリーを書かざるをえない。ところがストーリーを書かせると、この作者とたんに既視感芬々たる出来合いの借用になってしまうようです。以前長編を読んで、印象が残っていないのも、その辺に理由があるのかもしれません。

それにしてもなんで電車だと読書が進むんでしょうか。振動がいいのか。たしかに読書中興が乗ってくると貧乏揺すりしています。そういえば寺山修司が、一頁めくるのにワンラウンドスパーリングするくらいエネルギー消費できたらいいのに、とか何とか書いていたような。そういう意味で読書は脳の運動量と体の運動量が極端にいびつなんですよね。生気溌剌たる健康な青少年が読書を厭うのもむべなるかな。JRもお座敷列車ならぬ読書列車を企画すれば、意外にあたるんじゃないでしょうか(^^;。

 



動員ランキング

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月26日(土)00時19分21秒

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「ぼくつま」10位→http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/ranking/news/20110222-OHT1T00170.htm
おお、踏みとどまっているではありませんか(^^;

 



あぢきなきことばかりなり春の風

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月25日(金)23時49分53秒

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本板の投稿用フォームの上に、広告のバナーが出ていると思いますが、ときどきここにポンパレの広告が載ります。で、そのコピーが、例えば旅館ならば「もともと半額だったなんて、いえない」みたいな、要するに、安く手に入ったチケットなのに同行者にその事実を黙っている、という風なシーンであるわけです。
やらしいなあ。やらしいと思いませんか?
このバナーが出ると、いつもがっかりしてしまうんですよね。
これが東京風なんでしょうか(^^;
大阪人はこんなことはしません。安ければ安いほど、鬼の首を取ったように吹聴します。吹聴せずにはいられません。
「これなんぼやと思う?」「1000円か」「アホ抜かせ、500円や」「500円かあ、やったなあ」「やったやろ」と小鼻をひくひくさせるんです。ほんまに東京人はせこいですなあ(^^ゞ

がっかりしたといえば、読売のこの記事→図書館貸し出し猶予を…小説家が巻末にお願い
言いたいことはわかるけれども、それならまず、自分たちが守られている「再販制」を返上してからいうべきなのでは? 少なくともこの作家は、当該書籍をオープン価格にしてから持論を主張するべきです。
たとえば生鮮食品は朝と夕方で値段が変わります。鮮度が劣化するからです。衣料品も季のはじめの値段が、季の終わりではバーゲンセールで7割引とかされてしまいます。電化製品も、新機種が出たら安売りされる。それが市場原理です。安くなってから買うという購買態度も、市場原理から当然ありなわけです。
ところが書籍はそれが基本できなくなっている。市場原理が働かなくされているわけです。書籍にも鮮度はあります。日々新刊が出されているわけですから、日毎鮮度が落ちていきます。でも再販制に守られて単価は維持されている。
だから、古本屋が存在でき、図書館で読まれもする。つまり図書館は社会的に「機能」しているのです。書籍に市場原理が働けば、図書館で読む人の何割かは、下がるのを待って購入するはず。
それを再販制は維持する。しかし古本屋や図書館は認めない、というのは甘え以外の何者でもありませんな。
この作家は、まず先陣をきってオープン価格を採用すればいい(再販制から外れればいい)。そうして堂々と半年猶予を求めればよい。
そうすれば書店は返品できない代わりに安く仕入れられる。それを最初は高く値付けして売り(定価というものがないのですから)、最終見切って売り尽くすという手順になるわけです。で、売れなければ原価を割ってたたき売らざるをえない。最終赤になるか黒になるかです。そこには商売の醍醐味もあって、たぶん書店員も仕事が今よりも波乱にとんで面白くなるはずです。一度苦い目にあわされた作家の次の新作は、いきおい書店としても注文冊数を減らさないわけにはいかんでしょう。場合によったら発注しない。すると版元に滞貨する。それは最終ゾッキ本として古書市場に流れるわけですが、それは別にして、当然、その作家への新作の依頼は極めて慎重にならざるを得ない。むろんこれは売れない本の話です。だからこの作家がどんな作風でどれほどの人気作家なのかは知りませんが、下手すると、逆に作家生命を絶たれる可能性もあるわけです(一般論でいえばSF作家は不利でしょう(^^;)。面白い。ぜひ実験していただきたいものですな。

書き込んでいて不愉快になってきたので、『言葉と脳と心』は既に読み終わっているのですが、感想は明日以降に(但し、明日は観劇に出掛けるので、書き込みできないかも)。

『ウィルスハンター』に着手。

 



「言葉と脳と心」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月24日(木)21時06分48秒

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『言葉と脳と心』180頁まで。残り70頁。
本書は<失語症>の解説書なのですが、私は失語症って、何らかの重篤なトラウマを被った結果、それに関連する言葉が抑圧されて出てこない、そんなイメージを持っていました。全然違いました。そんな生やさしいものではなかった。
SFでよく、脳の内容をコピーし、それを別の場所(たとえばロボットのメモリー部分)に移したり、あるいはイーガンみたく、物理的なものを取り払って電子化しインターネットみたいなところへ移して電脳存在になる話がありますが、本書を読むと、そんな簡単な話ではないのではないかと思われてきます。
ラカンじゃないですが、言葉なくして人間なし。人間って、ヒトの皮をかぶったコトバなんですよね。
<脳>という物理的な容れ物が前提にあって初めて、思考(意識/心)は機能するんじゃないか。脳の存在と思考は不可分で、たとえばアインシュタインの脳からいわゆる「自我(私)」をコピーし得たとしても、脳から切り離したとたん、全く機能しないんじゃないでしょうか(本書で解説される、正しい意味での<失語症>状態にしかならない?)。一太郎で書いた文書をワードに流し込んでも文字化けするだけみたいな(その前に動かないのか)。メルロ=ポンティを読み直してみたくなるなあ。

 



「さまよえる騎士団の伝説」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月22日(火)22時03分53秒

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矢野徹『さまよえる騎士団の伝説』(角川文庫80、元版74)読了。

「さまよえる騎士団の伝説」、「雪嶺の密使」、「太陽神への讃歌」、「昇天する箱舟の伝説」、「耳鳴山由来」の5編を収録。それぞれ南ドイツ、チベット、エーゲ海、大西洋、古代の大和が舞台。設定だけで十分に楽しめます(^^)

「太陽神への讃歌」は、ムーじゃなくてアトランティスの話でした(^^;。しかも、初めから終わりまで、ムー帝国の港町を舞台にしたヒロイック・ファンタジーのように思い込んでいた。
実際は2段構えで、ヒロイック・ファンタジー的な部分は、発見された古代文書(偽書?)「ポセイドン記」の抄訳というかたちの、アトランティスの港町で元親衛隊士官トトが遭遇した物語なんですが、このトトの手記の部分は、35頁ほどの本作のうち、10数頁があてられているだけ。
骨格は旧ナチ残党を追うモサド的な話だったんですね。でもその部分は完全に忘却していました。HF部分の印象がよほど強烈だったんでしょうか(^^;。たしかに読み返してみても、まるで道鏡を髣髴とさせる妖僧ポセイドンの、後宮を取り込んでのクロノス帝追い落とし、それに抗するトトらの反抗というストーリーがあり、この話で十分長編が書けるのではないかと思わせられるほど魅力的なんです(なおこのトトはアトランティスからエジプトへ逃れたあのトト)。
でも本篇のテーマからすれば、35頁中、3分の1も費やすのは明らかに書き過ぎで、プロポーションが崩れてしまっている。おそらく著者もこのストーリーが惜しかったんでしょう、書かずにはいられなかったんでしょう、モサドもの要素とヒロイック・ファンタジー要素が同じ重さで書きこまれているのは小説としては成功とは言いがたいように思われます。そういう意味で、面白さは本集中屈指、小説としては失敗、そんな感じでした。

「雪嶺の密使」は、中共軍が進駐した直後くらいのチベットが舞台。近年の我が国でのダライ・ラマのもてはやされぶりには首をかしげているのですが、歴史的経緯も知らずにダライ・ラマを賞賛する人は、この作品を読んでみたらいいと思います。ダライ・ラマの支持基盤がどういう層なのか、イラン革命でホメイニがもてはやされたのと同じで、もし万一、ダライ・ラマが復帰することがあったとしたら、それはアンシャン・レジームでしかない筈。

集中の白眉が
「耳鳴山由来」、本篇では唯一の和物。いやこれは間然するところなき傑作です! ストーリー的には大したことないのだが、その独特の民俗的語り口が合うのか、一段の高みに昇華されて感じられます。

「さまよえる騎士団の伝説」も、雰囲気が素晴らしい。霧にしずむ南ドイツの森林地帯がまざまざと迫ってきます。

「昇天する箱舟の伝説」は、本集では唯一つまらなかった。

未読の長編『折紙宇宙船の伝説』も、そのうち読みたいと思います。

ということで、次は『言葉と脳と心』の予定。

 



「水」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月21日(月)22時22分33秒

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古井由吉『水』(集英社文庫80、元版73)読了。

「影」、「水」、「狐」、「衣」、「弟」、「谷」と、タイトルを全て漢字一字に統一した作品集。先日もリンクした習作「音」は、どうやら本集を読み、おそれいって書いたようですな。すぐ真似したくなるんです(^^;。出版時系列的には『行隠れ』『櫛の火』の間に挟まるもので、先般、『櫛の火』を「『杳子・妻隠』、『行隠れ』につづく本」と記述したのは勘違い。訂正します。

さて、本書を読まれるときは、まず
「狐」から入って「谷」まで読み、それから「水」「影」と戻って行くのがよいと思います。この2編はストーリーというものがなく、<水>、<影>を主題に話者である「私」が意識の流れ的にいろんな場面を回想する作りとなっており、ド頭から入るにはややきつい面があります。より小説的な「狐」以下の諸作を読んだあと戻れば、すっと入っていけます(「水」は入り込んでしまえば凄い作品)。

ストーリー的な意味で面白いのは
「狐」、「衣」、「弟」。先回、著者の特徴として、対象、とりわけ<女>に対して、あたかも接写するように目を近づけて見ることで、社交的な距離を一気に踏み越えて見ることで、そこに<異形>や<異質>を見出す視線を挙げましたが、「狐」ではその対象が<妻>であり、いかにも古井らしい作品。「衣」は珍しく視点人物が女性で、古井の方法論が逆向きに作用して面白い。従来、男にとって隔絶した、異質な非合理な<女>の相が浮かび上がってくる、あくまで男目線なのが、女を話者(思考者)としたことで、共感的に読むことが可能となる。一応なるのだが、そもそもその思考(回想)をどのような「姿」で行っていたかがラストで明らかになり、結局異質さが最後に残る。「弟」では、入院した弟の話のように見えて、実は付き添ってかいがいしく世話をする女友達へ<視線>が食い込んでいく。
「谷」では、偶然目の前で投身自殺された(但し蘇生する)見ず知らずの女のその行為に心的障害を被った友人の、その後の結婚→死まで遂にそれから遁れられなかった姿を凝視する息詰まる作品。
いやあ、どれも凄まじい。凄まじく面白かった! やはり『櫛の火』は緩かったんだなと再確認させられた作品集でした(^^;。

次は『さまよえる騎士団の伝説』に着手の予定。『太陽神の剣士タケル』を読んでいて、ふと「太陽神への讃歌」を思い出したので。

 



「魔界住人」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月20日(日)21時41分15秒

返信・引用

 

 

> No.2922[元記事へ]

高井さん
『魔界住人』面白いですか。それは読まないといけませんね。しかし、大陸文庫はまだ見かけますが、『魔界住人』は見た記憶がないんですよね。もう、面倒くさいからマーケットプレイスで調達してしまおうかな(田中光二で苦い経験をしているはずなのに。喉元過ぎればなんとやらです(^^;)。

『水』は残り1篇。今日中に読了の予定。

 



Re: 「太陽神の剣士タケル」読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 2月20日(日)17時38分52秒

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> No.2921[元記事へ]

『魔界住人』は面白かったですねえ。実は私が初めて読んだ宮崎さんの本なんですが、これ1冊で大ファンになってしまいました。文庫本はブックオフでもたまに見ますよ。
>マーケットプレイスでは案外高値ですね。
 私もざっと見ました。ソノラマ文庫ですら結構なお値段なのには驚きました。でも、好きな作家の本が高く売られているのは、持っていない方には申しわけないですけれど、ファンとしては嬉しいです。
> 石川誠壱さんのページは見れなくなっていますね。
 あら。それは残念。

 



Re: 「太陽神の剣士タケル」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月20日(日)13時50分20秒

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> No.2920[元記事へ]

高井さん
ご教示ありがとうございます。宮崎惇のリスト、改めて拝読しましたが、「魔界住人」や「時空間の剣鬼」は(タイトルからだけのインスピレーションですが)読んでみたいですね。後者はまだまだ見つかりそうな気がするんだけど、マーケットプレイスでは案外高値ですね。前者のほうがリーズナブル、ぐぐっと引力に引き寄せられそうでヤバイ。一度マケプレを利用すると軟弱になってしまうんであきません。うーむ(笑)。
石川誠壱さんのページは見れなくなっていますね。

 



Re: 「太陽神の剣士タケル」読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 2月20日(日)11時02分10秒

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> No.2919[元記事へ]

 宮崎惇さんの大ファンで、ほとんどの著作は読んでいます。個人的にも、言葉に表わせないくらいお世話になりました。
 亡くなられて30年も経つのに、こうして採り上げていただけると嬉しいです。
>でも著者は81年に亡くなっており、本書の出版は80年。確認していませんが本書が絶筆だった可能性もあります。
 以下、簡易版の著作リストです。
http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2009-07-20
 刊行時期は前後しますが、確か絶筆は『《虹》作戦を追え』だったと思います。

 なんとなくアマゾンのマーケットプレイスを見たら、おおっ、『怪惑星セレス』が750円。図書館除籍本とはいえ、格安ですね。

 



「太陽神の剣士タケル」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月20日(日)02時29分43秒

返信・引用 編集済

 

 

宮崎惇『太陽神の剣士タケル』(ソノラマ文庫80)読了。

前巻『魔界剣士タケル』でのいきさつの結果、今やフジ山麓扶桑(コエ)国王となっているカラスバネのタケルことアメクニタチのもとに、アソベ王国の王女との婚礼のためツガル滞在中の盟友トウツミ国王ナガスネヒコからの救援要請が……。アソベ国に、暗黒宇宙より飛来した邪神アペウケに使嗾された隣国ツボケ王国のオガツ黒蛇王が攻め込んできたのだ。盟友の危機に、おっとり刀で単身天空浮舟(あめのうきふね)に飛び乗り、一路東北を目指すタケルだったが、北関東辺で磁気異常に見舞われ墜落、はからずも徒歩北をめざすみちのくひとり旅とあいなってしまいます。ところがその道すがら、墜落の際救助してくれたポイヤウンペ王しらす矮人の国クズ王国では荒頑鬼(あれかたがみ)、怪魔の棲む島では半魚人、さらに《死体蘇生(いよぶせ)》の呪法(まじこり)を駆使するラス・サバスのようなミイラ、空飛ぶ人面岩などが、タケルの行路を邪魔する。これらの妖怪は全て暗黒邪神アペウケの眷属だった。それらを成敗しつつ漸くアソベ国に到着したタケルは、ナガスネヒコやアソベ国王アビヒコらと共に、アペウケを後ろ盾と持むツボケ王オガツ黒蛇王との決戦に臨む……!

とあらすじを述べると、大和朝廷前史的神話世界かと思ってしまいますが、さにあらず、舞台は第三間氷期! 扶桑国は科学技術の発達したミヨ帝国(ムー帝国)の植民都市なのです。記紀神代に断片が残されているのは、実はこの時代のかすかな記憶なのです。ただし記紀以前の古史古伝には比較的記されており、とりわけ神代文字による日本超古代文書「蓬莱参山高天原朝秘紀」には詳細に記述されている。本サーガは、この書物に基づいており、ナウマン象や剣歯虎跋扈する超古代の亜熱帯日本《天越根州(あめのこしねじま)》が舞台の、気宇壮大なクトゥルー風味のヒロイック・ファンタジー(もしくバローズタイプのスペオペ)となっています。

面白かったです。30年前に読んだきりで、もちろん面白かったという印象は強く残ってはいたんだけれども、実のところ設定すら忘れはてていました。いやーこんな壮大な設定だったのか。
思うに、もともとは大人向けで構想されていたものではないでしょうか。それをソノラマ文庫向きにしてしまっているんですよね。本来ならば倍のボリュームがあってしかるべき作品なんです。上記設定にはおそらくその殆どに著者なりの理屈付けがあるはず(なんといっても『消された日本史』を上梓するほど古史古伝・超古代史に造詣のある作家ですから)。語られる必要のある蘊蓄がすっぽりと省略されてしまっている。その結果、良くも悪くも「読むアニメ」になってしまっています。タケルが佩いているヒヒイロガネの剣は、タケルの精神力を享けて白熱するんですが、これなんかコブラのサイコガンと同じですな(^^; そういうのは悪くないんだけれども、やはりわたし的には残念、大人向きのを読みたかったです。でも著者は81年に亡くなっており、本書の出版は80年。確認していませんが本書が絶筆だった可能性もあります。だとしたらわが希望は、そもそも果たされる筈もなかったわけです。

ということで、古井由吉『水』に戻ります。これも再読。

 



「ラジオ深夜便」顛末と「太陽神の剣士タケル」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月19日(土)17時17分15秒

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みなさん、「ラジオ深夜便」お聴きになりましたか。
私は1時45分くらいから炬燵にもぐりこんで聴取を開始しましたところ、まるで眠り誘う薬のような放送に次第に目がとろとろしてきまして、ようやく「かんさいストーリーの時間です」とか何とかアナウンサーの言う声が耳に届き、ああやれやれ始まるのか、と思った瞬間に、悪魔の所業か深く眠りに吸い込まれてしまったようで、自分ではまばたきをして目を開けたつもりが、なんと2番目の「時計のこと」が終わりかけのところなのでした。「嘘やろ」と思わず声を発しましたが、本当のことでした。何たる、なーんたるちや。さんたるちや〜!m(__)m

12時間以上たってようやくショックから立ち直り、いまこの文章を書き始めたところ。
しかしまあ何だな、僕、アナウンサーがどう解釈して朗読するか楽しみにしていたんだけど(by賢太)、後半しか聴かずにいうのもおこがましいですが、今回はちょっといまいちな印象でしたね。眉村さんのエッセイには或る何ともいえぬ独特のユーモア感覚がありますよね、それがどうもうまく表現されてなくて、慊いものを感じた。いささか解釈不足だったのではないでしょうか(汗)。
と、せっかく放送してくださったのに、勝手なことを書いてしまいました。NHKさんには、これにめげず眉村作品の朗読どんどん企画していただきたいと期待しております(^^)。

お話変わって、先般宮崎惇のタケルシリーズ二部作がいつの間にか紛失してしまっているという話をしたところですが、昨日通りかかったブックオフにて『太陽神の剣士タケル』の方を105円棚で発見、早速確保しました(^^)。この本、マーケットプレイスにも出品がなく、今となっては稀覯本なんでしょうか、大収穫でありました。まこと、足繁く通えば海路の日和あり、が古本道なんですよね! いま読みかけ始めたのがあるのですが、後まわしにしてこっちに着手するかもです。

 



Re: 眉村さん情報「ラジオ深夜便」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月18日(金)21時47分36秒

返信・引用 編集済

 

 

高井さん
ブログ拝読しました(→こちら)。今日はゆっくりお休みになって、明日しっかりお聴きになってくださいね!
『ショートショートの世界』を引っ張り出してきて、当該ページを読んでいたら、いかりや長介と志村けんのナンセンス・コントの場面が浮かんできてしまいました。スーツ姿の長さんがパッと振り返ると、郵便配達の志村がサッと隠れる、この繰り返しのパターン(^^ゞ 没にするのは惜しいですね。あ、でもエッセイにしてるのか。プロは転んでもただでは起きないということですね(笑)

 



Re: 眉村さん情報「ラジオ深夜便」

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 2月18日(金)20時07分24秒

返信・引用

 

 

> No.2915[元記事へ]

 情報をありがとうございます。拙ブログでも告知させていただきました。
 眉村さんのインタビューがあるかも、と期待しています。

 



眉村さん情報「ラジオ深夜便」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月18日(金)17時18分57秒

返信・引用

 

 

告知が直前になってしまいました。申し訳ありません。
明朝19日土曜、というよりも、本日18日金曜深夜のNHKラジオ第1放送「関西発ラジオ深夜便」にて、眉村さんのエッセイが朗読されます→http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/ch.cgi?area=001&date=2011-02-18&tz=midnight&ch=05

放送自体は午後11時20分からですが、朗読は午前2時過ぎ「かんさいストーリー」のコーナーにおいてです。朗読されるのは――
エッセイ集『大阪の街角』より、
 「囲いの中で」
 「時計のこと」
 「アイデアの成立」
 「本が届いて」
の4編。塚本貴之アナウンサーの朗読です。
明日は土曜ですし、皆さん今日は夜更かししましょう(^^;

ところで、先の土日(2/12・13)の「ぼくつま」は9位でした。一か月が過ぎて5回目の土日、まだランキングしております。粘っているのではないでしょうか(^^)→http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/ranking/news/20110215-OHT1T00126.htm

 



「櫛の火」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月17日(木)20時48分34秒

返信・引用 編集済

 

 

古井由吉『櫛の火』(河出書房74)読了。

面白かった。予想どおりすこし緩めた筆の運びでしたが、それ故にか、著者の本来的な作風に比べれば色彩があって、物語として面白かった。そしてこれは、緩めた、という印象にもつながるのですが、映画化されたことからも分かるように、そのストーリー自体、外形だけに着目すれば、昼メロ調といえるものなんですよね。とはいえ、たしかにこれから昼メロドラマのシナリオを作ることは可能なんですが、『みごもりの湖』と同じで、それでは本篇の狙いはぶち壊しなんです。

だいたい三つのパートに分かれます。まず弥須子との再会とその衝撃的な死。次にそれがPTSDとなったかのような、一種腑抜けた、それゆえに女から警戒されない時期、そして柾子と出会ってからの日々。主筋は三番目です。
一と二は、三から見ればその導入部といえるものですが、一の弥須子のパートがもっとも従来の著者らしい部分で、「病気の女」を描かせれば天下一品ですな。二は、基本的には必然性のないパートで、ただ一から即二へ移るのは性急すぎるからということで加えられた部分ではないか。このパートは少し退屈しました。

タイトルについて、弥須子の生前使っていた櫛を、主人公は棺から密かに取り出して持ち帰るのですが、そのうちどうでもよくなって机の引き出しに放り込んでいる。で、その後、柾子が部屋に転がり込んでくるのだが、柾子の化粧道具の中に、櫛はいつの間にか紛れ込んでしまっている。しかしストーリー的にはそこで消えてしまう。そんなに本筋に絡んでくるものではないのです。
ところで神話の、イザナギが黄泉の闇の中でイザナミを待つうちに、待ちきれず櫛の歯に火を点して奥を覗き込んでしまい、ウジにまみれたイザナミの本当の姿を目にしてしまうという話がありますが、タイトルはむしろこっちから来ているのではないか。むろん上記弥須子の櫛から連想したのだとは思いますが(もしくはタイトルを成り立たせるため櫛のエピソードが付加された)。
つまり、イザナギが櫛に火を点した結果、イザナミの外形からは隠されていた穢れを目の当たりにしてしまったように、本篇が読者にさらけ出して見せるものもまた、男には異質な存在としての「女」の深層(真相)であるように思われるのです。

たとえば人間の皮膚にカメラを向け、ごく普通の距離で撮影すれば何の違和感もないですが、それをぐぐっと対象に接近させて、ほとんど舐めるように撮影してみると、そこに思いがけない凸凹や陰影が現れて、それが皮膚であるとは思えない、異質な風景が立ち現れてどきっとさせられます。
男が女を見る場合においても同様のことがいえるのではないか。最初友人として接しているうちは理解し合っていたと思っていた女性と、一定の社交的な距離を越えて近接してしまうと、(女も気を許してふと見せてしまうのかも知れませんが)いままで見えもしなかった(男の論理や常識では推し量れない)異質なものが、非合理な(男から見てです)何かが、件のその女から立ち現れるのに遭遇した経験はないでしょうか(^^;。いったいに、シュバルツシルト半径みたいなのがあって、それを越えて中に踏み込んでしまうと、女は別の様相を見せ始めますよね。
古井由吉はそれを執拗に描いた作家だと思います。古井は、「病気の女」を文学にまで高めた作家でしょう。
三においても、社交的な距離の間は、柾子は頭が良すぎるほどのしっかりした女だったのが、主人公が距離を越えて踏み込んでしまった結果みたものは、いわば「接写した人間の皮膚」だったわけですね。

ところで、三において、私はちょっと面白い発見をしました。著者の作風として、あまり会話では話を進めない特徴があったと思うのですが、本篇、とりわけ三においては、会話での進行が顕著なんですね。これもある意味「緩さ」として理解されるものかも知れません。が、それは措いておいて、たとえば柾子の夫の代理人である松岡という男と、主人公はほぼ30頁にわたって延々と会話します。この会話が、実に迂遠的で表層政治的曖昧さに満ちているのだけれど、当事者たちはしっかりその真意を汲みとっており、そうしてまたもや禅問答めいた表現で返すのです。なんか既視感があるなあと思っていたのですが、そうだ、これ庄司薫だ、と気づいたのでした。薫くんシリーズで主人公薫の下の兄貴がその仲間と喋っている場面とそっくりなんです。
実は古井と庄司は同い年で同じく東大出身。つまり上記のような会話は、東大出のエリートたちの日常会話なのかも知れない、と思ったのでした。薫くんじゃないですが、実に「いやったらしい」言葉のキャッチボールで、ああ、古井由吉も本来エリートだったんだなと改めて知らされた気がしました(^^;

とまれ、いろんな意味で楽しめた長篇小説で満足しました(^^ゞ。

 



「太陽風交点事件」資料を読む

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月17日(木)02時37分24秒

返信・引用 編集済

 

 

昨日から、かの「太陽風交点事件」のPDF資料をいままでかかって読んでいたのでした。実はだいたいの経緯と作家側の勝訴という結果は知っていましたが、きちんとは知らなかった(>すみません)。ようやく全貌が見えました。
要は昔ながらのバクッとした(よくいえば性善説の)出版手順で出版した単行本について、出版社の熱意のない慊い処遇(例えば日本SF大賞を受賞した本を市場に流通させない。今から見れば考えられませんが他社の興した文学賞になんで乗らなあかんねんという感じでしょうか)に不満を持った著作者が他社で文庫化しようとしたとき、性善説でというか大人の対応をしておけばいいものを(実際半村平井田中はそうしている)、突如(半村平井田中ならぬ駆け出しの新人作家に対しては)著作者も担当編集者も知らない契約用語を振りかざしてそれを妨げようとしたことについて、裁判所が、それは無体無理筋やでとの判断を示したんですね。非常に当たり前の結論。
しかしなんでこんな無謀な訴訟が起こされたのかは丸見えで、原告出版社の誰ももってない知識を持っていたのは法律の専門家しかありえません。顧問弁護士が訴訟をさせて(煙のないところに煙を立てて)商売にしようとしたからでしょう。

こちらの「太陽風交点」事件全資料 目次をみると目が眩みますが、以下の7項目、これだけ読んどけば十分。大体のところはわかります(但し判読できない速記官の文字あり)。ご一読あれ。

A045  速記録(今岡清 主尋問)
A052  速記録(今岡清 反対尋問)
A053  速記録(細井恵津子 主尋問・反対尋問)
A054  速記録(堀晃 主尋問・反対尋問)
A060  速記録(堀晃 反対尋問)
A091  一審判決
A146  二審判決

 



オリゴ党公演「死なない薬」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月16日(水)20時45分9秒

返信・引用

 

 

大阪を中心に活動する劇団《オリゴ党》第29回公演のDMを頂きましたので、お知らせ致します→http://www.origo-tou.com/

今回のお芝居は『死なない薬』(作・演出:岩橋貞則)
 会場:シアトリカル應典院(→アクセス
 日時:2011年2月26日(土)15:30/19:30
         27日(日)13:00/17:00

最近突然社会派になったらしい(ほんまか)代表兼座付作者兼演出の岩橋氏による「老人芝居」とのこと。どんな芝居になるのでしょうか! シアトリカル應典院の広い舞台をせまく使って(笑)、「生きる」とか「死ぬ」とか、そんな辛気臭い話題満載でお送りしますとのことで、これは期待しちゃいますねえ(^^ゞ

しかし、わ、もう来週ではないですか。いつもは4回公演の3回目にお邪魔していて、それは多分3回目あたりが一番充実しているのではないかとの計算なんですが、今回は土曜の第1回目に伺おうかなと考え中(その後の行動も鑑みて)。

興味をもったという方がいらっしゃいましたら、劇団HPからお問い合わせ下さい!

 



Re: 昔のワープロソフト

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月16日(水)00時02分28秒

返信・引用

 

 

雫石さん
や、88でしたか。私が買ってすぐ後に88が発売され、しまった、もう数か月見合わせていたらよかった〜、とほぞを噛んだのでした。
しかしベーシックってまったく無意味でしたね。
ユーカラというのはよくおぼえていませんが、とにかくいろはが最廉価ソフトでした。29800円だったでしょうか。ほとんどおもちゃでしたけど、ものすごく重宝しました。酷使で5インチのフロッピー(!)に穴があいてしまってお亡くなりになったのでした(^^;
ゲームはしなかったです。今もしませんね。いらちなので、ああいう何日もかけてするものは性に合わないみたいです(笑)

 



Re: 昔のワープロソフト

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2011年 2月15日(火)22時07分6秒

返信・引用

 

 

> No.2909[元記事へ]

私は、PC8801-MR2-SRで、ユーカラを使ってました。
わ、なつかし。
「信長の野望」「ハイドライド」「ザナドゥ」「大戦略」もやりました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



昔のワープロソフト

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月15日(火)17時06分15秒

返信・引用 編集済

 

 

『櫛の火』250頁まで。あと80頁。今日中に読み了えそう。

ところで、きのう捜し物をしていたら、こんなのを発掘してしまいました。↓

  



1985年1月1日付で発行した同人誌です(^^;。で、きのうの「みじかばなし」はここに載っていたのを改稿したもの。
どこを、なぜ改稿したか。掲載稿ではターミナル発の終電車になっていたのを、乗換駅に変更(というか乗越駅で戻りの電車を待っているイメージ)しました。当時の私は、終電車は閑散としているものとの先入観があったようです。実はラッシュアワー並みですよね(^^;
それもその筈でありまして、就職して最初の任地が和歌山だったのです。和歌山から大阪に向かう阪和線終電車は実際そんな感じで、私はぐでんぐでんに酔っ払って終電車に乗り込むと、ほとんどひとりだけの車両に傍若無人(当たり前)に長座席に寝っ転がってガーガー眠りこけて帰っていたのでした。余談ですがそんな飲み方もしなくなっちゃいました(ーー;。閑話休題、で、そういう終電車もあるでしょうが、殆どの方にとって終電車は満員電車のイメージだと思いましたので、リアルではなくリアリティ優先で変更した次第。

ところでこの雑誌、下の画像をご覧下さい、PC8001-MK2でワープロソフト「いろは」で製作したものであります。8x8ドットでしたっけ(^^;。1字打つのに何秒もかかるような、こんなワープロで書いていたのでした。というかこれを手にいれたので、とつぜん雑誌を作る気になったようです(CORAL DEEP-1は手書きオフセット)。懐かしいなあ。

  

 



みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月14日(月)22時29分29秒

返信・引用 編集済

 

 

 とうに日付も変わった乗換の小駅。不協和音を響かせ今日最後の鈍行がすべり込んできた。やれありがたや。寒風吹きっさらしのホームにひとりきり、なお酔い醒めぬ身を震えさせ待っていたおれは、地獄に仏はこのことかと、大慌てで乗り込みふうと息をついた。と――ブレて歪んだ視界の端に、うすぼんやりと霞んだ人影。おれは苦心惨憺、焦点をあわせる。
 ――ガランとうつろな車両のなか、向かいななめにすわっていた。
 「?」
 何か忘れているような、そんな焦燥。だれだったっけ……。OL風の小柄な女。K・・書店のカバーをつけた文庫本、熱中して読んでいるのは。
 ガラガラ電車。ガタンゴトンと右へ左へ。揺れているのは、おれか、電車か。
 やがて列車は速度をおとし、ドアが開く。男が降りていった。黒づくめの貧相な男。いったいどこに隠れていたのやら。いぶかしむ間もなくドアは閉まり、動き出す。
 ぷっと女がふきだした。あわてて本で口許を押さえ、そっとおれを盗み見る、目が合った。忽ち女は眉根を顰め、おれを睨むと、溶けるように掻き消えた……
 ハッ、あれは! 酔いがいっぺんに醒めた。

 



「櫛の火」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月13日(日)21時13分48秒

返信・引用 編集済

 

 

『櫛の火』70頁まで。まだ、ぜんぜん読んだ記憶が甦ってきません(^^;。ところで本書、『みごもりの湖』と同じく74年の作品で、『杳子・妻隠』『行隠れ』につづく本なんですが、最初期の古井由吉ってこんなに素直な文章だったのか、と意外でした。最近のはとりわけ無理矢理感が強いですが、そこまででなくても、この作家は文章に凝るイメージがあって、実際私もその文体の影響を受けた時期もあったのでした(その無残な実例)。最初期はまだそんなことはなかったのですね。忘れてしまってるんだなあ。いやほんと、忘却とは忘れ去ることなりで、嫌になってしまいますね(ーー;。

この三日間、寒さもあって終日炬燵にもぐりこんだまま、本を読んでいるかうたた寝しているかで(たまに起き上がってネットのチェック(^^;)、案の定便秘になってしまいました。尾籠な話で恐縮だが(by三島)、さっきようやく通じがあってほっとする。明日は散歩しよう。

あ、三島で思い出しましたが、三島が自分の無意識を認めなかった対談、なんだったっけとずっと気になったりしていたのだが(大半忘れているのですが)、ここの3ページに引用がありました(PDFです)。昭和41年「20世紀の文学」安部公房との対談だったんですね。でも掲載誌がわかりません。

 

 



「みごもりの湖」追記

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月13日(日)14時27分16秒

返信・引用 編集済

 

 

承前。昨日は「これでは終わってないのでは?」と書きましたが、この結末でよいような気がしてきました。
「今、久しい隠り居の喪屋の戸を、槇子はそっと開けた」というこのラストは(事実描写ではなく象徴表現ですが)、姉と自分を無意識に同視している一種もの狂いの状態から、いわば憑きものを(自らの意志で)落としたことを表象している。こっちの側へ戻ってくる手続きなのであり、姉の出自たる<山の民>の部落を目指しながらも、途中の渓谷に架かった橋の手前(向こうは常世)で立ち止まり、自分の肩に乗っていた姉は、そこから先の、山の民のもとへ行かせ、自分はそこからUターンし現世へ還っていく、その象徴と読めるのではないか。昨日は途中で戻った行為から未完と感じたのでした。
ではなぜもの狂いめくほど姉と同一化していた(喪屋から出なかった)のが目が覚めたのか。それは友人の静子や叔父叔母が引力として働き、そこで引き留めたのです。
ではこの引力とは何かといえば、伝統社会の力「縁」なのです。静子は清水に確固たる基盤を持つ大店の娘ですし、叔父夫婦も駅で訪ねれば誰でも知っている医者の家です。つまり地縁社会の持つ「常識」の強さで、槇子は引き留められた。
でもこういう設定は、都市化無縁化の進んだ現代では機能しない。近年のミステリやホラーが、(良くも悪くも)エキセントリックな主人公を簡単に設定するのも(と私は感じているのだが)、かかる引力が弱化しているからではないか(引き止める力が働かないから突っ走って行ってしまう)。翻って私が本書結末に感じた、ある意味慊(あきたりな)い、中途半端未完という印象も、実にかかる現代的観点に無意識に立脚していたからでしょう。本書は、昭和10年生まれの著者が育った(なかなか複雑な家庭事情のようですが)、当時確然と存在した京都や滋賀の伝統社会に基盤を据えた物語であることに思い至れば(小説の舞台は69〜70年頃ですが)、本篇がこの結末で終わるのは、ある意味筋が通っているといえそうです。

実は本篇読み中、ずっと古井由吉が気になって仕方がなかったのでした。それは多分神話的雰囲気や失踪する姉といったモチーフに、何程か古井由吉と似たものを感じていたからに違いなく、とはいえ古井も読まなくなって久しく個々の内容は殆ど忘却している。だからといって今さら杳子でもなかろうと、書棚を眺めていたら、目に入ったのが『櫛の火』。これ全然内容を覚えていない。でも映画化されたのを観に行っていて(たしか草刈正雄とジャネット八田@現・田渕夫人でしたね)、今本を見たら映画化の帯が付いています。ところが初版発行の3ヶ月後の第3版なんですよね。そんなにすぐ映画化できるものでしょうか。あるいは映画化前提のタイアップ作品なのかも。この時代にそんなやり方があったのかどうか、そういえば古井作品の中ではゆるかった印象も甦ってきたのですが、ともあれ、せっかく抜き出したので読んでみようと思います。

 



「みごもりの湖」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月12日(土)21時54分41秒

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> No.2904[元記事へ]

秦恒平『みごもりの湖』(新潮社新鋭書き下ろし作品74)読了。

神話的雰囲気に満ちみちた力作で堪能しました。いやむしろ古代的雰囲気というべきか。それは作中作として古代史幻想が挿入されているからというばかりではなく、現代パートにおいてこそ色濃く感じられるもので、その一端に著者の、雅びとすらいいたいほどの美しい文体が与っているのは間違いありません。ただ読み文章を味わうだけでも、本書は大いに楽しめるように思われます。

それはさておき、承前。二つのパートの齟齬の理由が判明。なんと「私」のパートは「此の世」というタイトルの、幸田康之が書いた小説だったのです!(つまり小説内小説で、としますと藤原の恵美の東子の古代幻想パートは小説内小説内小説となるわけです)
やがて、ついに槇子は幸田とあいまみえます。幸田は小説は小説ですべてが事実ではないし作中の当尾宏は幸田康之ではないとつっぱねる(たしかに細部が異なっている)。迪子から手紙も届き、小説内で当尾宏(幸田)と直子(菊子)が行った二泊旅に相当する時間、実際には迪子と幸田が旅行していたと説明する。だがそれがどうして真実だといえるのか。ある意味「信用できない語り手」ものでもありますね。そして迪子の手紙にはさらに「衝撃的な事実」が綴られていた……

となって、前半の重層構造が(とりあえず)一つの相に収斂するのですが、そこから物語は「転」へと転じ一気呵成に動き始めます。どれが真実だ? という部分はフランス・ミステリー的ですし、「衝撃的な事実」は、逆に土俗的な琵琶湖版金田一物語めいた方へ本篇を進めていく。
この辺はストーリーに(ちょっと純文学とは思えない)牽引力があって、私も先をせかされるように読み切ってしまいました。ただ、前半の錯綜した、構築され尽くした小説世界から一気にもつれていた糸がほぐれていく(でもほぐれていくようでほぐれてない)、それはいいのだが、何となくそこで内圧が弱まった感じもしたのでした(というか、面白さの質が変わったというべきか)。
挟み込み付録の著者と竹西寛子の対談で、竹西が(前半は)
「正直いって気軽にすらすら読める作品ではないので、これはいい加減な姿勢では読めないぞ」だったのが「後半、作中小説が完結して以後は大変読みやすくなった」と言っているのは、おそらく同じことを本人を目の前にして多少薄めて表現したものでしょう。

そういう意味では、そもそも本書は、京都・琵琶湖巡り小説、味巡り小説の面があるのですよね(同志社小説でもあるのでOBは要必読(^^;)。非常に佶屈した前半も次元を減らして槇子に視点を固定したシナリオにすれば(小説的にはそれではぶち壊しだが)、実はテレビの二時間ドラマにもなりそうな舞台設定になっているんです。それが後半の金田一的展開へとつながっていくところは、意外に通俗的な面がなくもない。逆にいえばそんな小説世界を、錯綜する時間層を巧妙に按配して一個の幻想的な謎小説に構築し得た前半は読み応え充分ですし、それが後半、流れるようなミステリーになるのもよい。ただし失踪した姉の<謎>は、もとより明らかになったわけではなく、そう考えればこの話、まだ終わってないような気もしてきました(このラストは形式的なラストでしかないのでは)。
いずれにしろ純文学の垣根をこえた作品に違いなく、当時の純文読者は、前半にも後半にも(古代史蘊蓄にも)たじろぎ違和感を持ったのではないでしょうか。私自身は非常に楽しい読書となりました。 (追記

 



「みごもりの湖」読み継続中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月11日(金)22時35分15秒

返信・引用 編集済

 

 

承前、150頁まで読み進む。ちょうど半分。
あれれ、「私」のパートと「槇子」のパートにおいて、同一人物である(と私がみなしている)作中人物の名前が違う!? 「私」の妻の親友で、失踪した女の名前は「唐木直子」なのだが、55pで「槇子」の失踪した姉の名前は「絵屋菊子」だと明かされる。
その後「私」のパートで「私」は「宏」と呼ばれている(102p)のに、「直子」のパートでは「幸田康之」であることが分かっている。ところが、私(管理人)が同一人物であろうとみなしているところの「私」の妻と、「槇子」の姉の同級生である女は、品部迪子で共通するのです(同一人物だから当然なのだが)。???
そういえば、槇子は姉菊子の失踪の4年後に、幸田とそれと知らず接触するのだが、それと知らず槇子と思しき女と接触した「私」は、直子失踪の年に迪子と結婚しその翌年に娘が生まれていて、その娘が「接触」の翌日に、学校の男先生のうわさ話をしているので、到底3歳児とは考えられません。
うーむ。面白くなってきました(^^; (つづき

 



みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月11日(金)19時00分4秒

返信・引用 編集済

 

 

「先日の芥川賞、絵に描いたような美女と野獣の図だったね」
「笑っちゃったよね。あれは面白かった」
「最近の文学賞レースってなかなか面白いんだよね」
「それよりも大相撲だよ。あれは許せんね。今まで必死に応援もし一喜一憂していた自分がバカみたい」
「え、でも芥川賞は面白かったんだろ?」
「……」

 

 



「みごもりの湖」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月10日(木)19時53分59秒

返信・引用 編集済

 

 

『みごもりの湖』はまだ50頁ですが、これ、面白いです!
面白いのにまだ50頁なのか、といいたもうな。面白いけど、時間がかかるのです。50頁だけど既に150頁は読んでいるはず(^^;
とにかく時間が重層的というか錯綜している。それを確認していたら150頁読んでしまったというわけです。もとより説明的文章ナビゲーションなどありませんから、なんども読んで確かめ確かめ、類推しながら進んでいくほかありません。これはウルフかと思いましたよ(笑)。私が最も好む、理想的な小説というべき。でもウルフは円周率と同じでどこまで行っても割りきれませんが、本篇はしっかりと読めば最後はきれいに割り切れるはず。その意味ではミステリーです。
一つヒント。話者が私のパートと話者が槇子のパートは、一年ズレているのです!(プラス恵美押勝娘東子を巡る古代幻想パート。さらに二人がそれぞれ行う回想のパートがあり、それが(「日本語と時間」に指摘されていたように)<現前>として語られるからややこしい。いや楽しいんですけど)
気持よく疲れたので、今日はここまで。ゆっくり読もう。(つづき

 



「ぼくつま」6位

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 9日(水)22時23分28秒

返信・引用 編集済

 

 

「ぼくつま」>4回目の土日を乗り越えました。2/5〜6の動員ランキング→http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/ranking/news/20110208-OHT1T00109.htm
先週より1ランク下がったとはいえ、まだ6位を維持。頑張っているのではないでしょうか。近所のワーナーマイカルでも、ヤマトや相棒は上映終了しましたが、「ぼくつま」は上映継続です(^^;

秦恒平『みごもりの湖』に着手。

 



「アッシュと燃える惑星」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 9日(水)18時50分16秒

返信・引用

 

 

田中光二『アッシュと燃える惑星』(講談社80)読了。

アッシュシリーズ第2巻。このシリーズ、ほとんど見かけたことがなかったのに(で、第1巻をマケプレで調達したというのに)、気にしていると見つけられるものなんでしょうか、1巻と2巻の単行本が105円棚に普通にささっていて、ある意味がっくり――しつつも喜び勇んで本書を購入したのはいうまでもありません(^^;
《奇想天外》79年から80年にかけてに連載された長編ですが、長編とはいい条、実質的には100枚ほどの惑星タルク編、50枚に満たない惑星コロブス編、そして280枚弱の長中編惑星シャルミラ編の三部に分解でき、それらが(惑星シャルミラを目指す)道中もののパターンでゆるく繋がっている。前二者はほとんどプロローグ的な意味しかなく、面白いのはボリュームのあるシャルミラ編で、これは引きこまれました。パトロール艇等の航空手段によるチェイスが重要な見せ場になっているところは、火星シリーズの飛行艇を意識しているのかも知れません。そんな連想をしたせいか、ヒロイックファンタジーではなく、スペオペの印象を強くもった。
あとがきによると、やはり
「スペース・オペラ(プラス・ヒロイック・ファンタジー)として企画された」もののようです。でも「アッシュとテスの女王」が古代世界舞台のヒロイック・ファンタジー調だったのに対して、(私も感じたように)スペオペとなっており、なかなかうまくバランスが取れずどちらかに振れてしまう、とのこと。
私見では融合は難しいのではないでしょうか。先回も書きましたが、メカニックなものが使用されるスペオペと、剣と魔法に代表されるヒロイックファンタジー(と書くのはソード&ソーサリー=ヒロイックファンタジーではなく、SSはHFの一分野と思うからですが)とは、印象的に水と油の部分があると私には感じられるからです。さらにいえばアッシュ自体の造形が、ヒロイックファンタジーの主人公にしては近代的すぎる感もある。基本著者の描く作中人物は、よくもわるくも「現代人」なんです。それはある意味限界なんですが、であると同時に、それが田中光二のオリジナリティ、田中光二にしか書けないユニークなHFを生み出し得ているともいえるわけで、その意味では非常に興味深い。第3巻も早急に見つけたいと思います。

 



「小惑星帯遊侠伝」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 8日(火)20時21分58秒

返信・引用 編集済

 

 

横田順彌『小惑星帯遊侠伝』(徳間文庫90、元版83)読了。

おそらく世界で唯一でしょうな(笑)、前代未聞にして前後不覚の任侠スペオペ連作集です! 収録の5篇中、4篇が《SFマガジン》で、最後の1篇のみ《週刊プレイボーイ》掲載とのこと→http://blogs.yahoo.co.jp/showhanng55/62733344.html

この連作シリーズ、著者の言を信じれば、
「東映任侠映画の世界をそっくりそのまま宇宙に移しSF化したらどうなるだろう?」という「単純な動機」で書き始められたそうです(>初刊本あとがき)。
私は任侠映画ってみたことがないけれども、大体どんな内容かは想像がつきます。ただし個別的なことはわからない。上にリンクしたブログによりますと、主人公の昇り竜こと真継龍一郎が高倉健、降り龍・梅原辰治が池辺良らしい。じぇんじぇん分かりません(笑)。鶴田浩二じゃあないのか。あ、黒水仙のお京が藤純子なのは分かった。

そんなわけで、《SFマガジン》掲載時は、むしろ反発して読まなかったのです(あ、本シリーズの一作目は読んだかも)。で、今回読んでみて……面白いやないですか! もっと早よに読んどけばよかった(^^;。
とにかくありえない設定です(^^;。まず、太陽系各惑星・衛星にヤクザがシマを張り、シノギ合っているという設定がありえない。というか、そもそも太陽系世界に日本人しかいない(らしい)というのがもう、まともな客観性もしくは「リアリティ(本当らしさ)」を放棄しているわけですな。

それは「宇宙服」に「きもの」とルビを振ったり、「白装束」の宇宙服で弔い合戦に赴いたり、宇宙服の「袖」(!)で涙を拭ったり、といった描写に明らか。上記ブログから引用させていただくなら
「出入りともなれば、電磁たんすの中から真新しい紺の宇宙服を取り出し、しつけの針金をペンチで抜き取る恋女房」てな具合であります。
リアリティ、整合性など端から無視で、強引に任侠映画世界を宇宙に移植してしまう。彼らが乗り回す戦闘機に、あたかも背中の倶利伽羅紋々みたく彫り込まれた鮮やかな「昇り竜」だの「怒り天女」だのが、宇宙の闇の中で電磁シールドにくっきり浮かび上がるところなどは……あ、それはトラック野郎か(^^;。とにかく、ある意味きわめて「抽象的」な小説世界なのであります。

ちょっと先走りました。結局本書は、そのような任侠物語をただ「単純に」宇宙に移し変えて再話しただけの物語なんです。一義的には……。
一義的にはといいましたが、ところがそのような「リアリティ(整合性)」をはなから無視した強引な操作が、結果として本書に、任侠映画の単なるパロディには収まらない、いやむしろ他に類例の思い当たらない、一種独特のセンス付加してしまう。ただ単に宇宙に移し替えられただけの手垢にまみれたフォーミュラフィクションを読まされていた筈の読者は、併しいつの間にか自分が、非常に個性的な不思議な世界を眺めていることに気づくに違いありません。すなわち手術台の上のミシンとコーモリ傘、アレなんです。ミスマッチ或いはアンマッチの効果といいましょうか、その「結婚」がある玄妙不思議な感覚を読者に醸成してしまうのです。あえて整合性にこだわらず突っ走る方針が奏功したのだと思います(というか著者の目論見に、このような効果を試す気持ちがあったのは明らかでしょう。「単純な動機」の筈がありません)。

その意味では、上記ブログに引用されている高千穂遙の元版解説
「「小惑星帯遊侠伝」には、東映任侠映画のパターンと様式が、すべて織り込まれている」というのはその通りですが違うのです。「すべて」を、アンマッチな異質な宇宙空間に強引に移植する(結婚させる)ことで、特異なセンスを醸成し得たことが、本書の大いなる価値なんではないでしょうか。いやー面白かった〜。

ということで、次は『アッシュと燃える惑星』に着手します。

 



Re: ついこないだ=昔、なのだ&「ズダイ・ツア」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 7日(月)23時18分7秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2897[元記事へ]

かんべさん
>ついこないだ=昔
いやそうなんですよね。主観と客観の齟齬が年々拡大していきます。ついこないだと感じていることを指折り数えてみれば、あれま20年前やん、ということがしばしば起こるようになってきました。
しかし西宮球場は序の口でありまして、大阪駅北口から歩道橋を通って阪急駅に向かったのですが、動く歩道がなくなっているのには吃驚を通り越して茫然自失でありましたですよ(汗)。紀伊國屋書店に行くときは歩道橋をマクドナルドのところで降りるので、そこからさらに進んで左へ曲がったのは、ですから数十年ぶりだったわけです。そして帰途は紀伊国屋から旭屋に向かっていたのですが、ぼんやり歩いていたら突如狭苦しい通路に入り込んでいて、一体ここはどこだと思ったら左手に32番街があるではないですか! 梅田周辺の日々刻々と変貌していくのにはホントついていけません(>一部誇張アリ)。
そういえばマルツバーグの「アポロの彼方」は、1951年に太陽系が創生され、53年に地球の陸地に生物が上陸してヤンキース優勝、57年に産業社会が始まりスプートニクが周回軌道に乗る云々という話でしたけど、そういう次第で今こそ本当に実感を以て楽しめるかも知れません(^^;

>てなこと言うてるうちに、皆、死にますねん。
ほんまですね(ーー;。

さて、
高井信『風雲のズダイ・ツァ(2)ズダイ・ツァ逃避行(ログアウト冒険文庫94)、『風雲のズダイ・ツァ(3)ズダイ・ツァ決死行(ログアウト冒険文庫94)、読了。

このシャンバラ大陸って、遠未来のユーラシア大陸ですね(^^;。45世紀くらい? とにかくあまりの遠未来で地形もかなり変わってしまっていますが、エセルナートはインドで、ズダイ・ツァはシベリアですね。アグル・パ湖はバイカル湖、ズヌ・ハア川はアムール川、レヴ・ハア川はレナ川、アクア・ガクラム山脈はモンゴル高原でしょう。当然ヒノモトは日本列島(ヒノモト総督府は朝鮮総督府がモデル?)。忍者もいるヒノモト人は日本人の後裔ということで、旧時代(?)から連綿と続いているようです。さすが日本人、しぶとい(^^;。

ストーリーも面白くイッキ読み。一冊にかかった時間は2時間弱ほどで、「コブラ」よりも早く読めました(^^;。一種の道中もののパターンですね。しかもヒロイックファンタジーとしては珍しく(多分)、一人のスーパーヒーローを描くのではなく、(一人一人はある意味凡庸な、ただしそれぞれ特殊技能を持つ)チーム(パーティ)であるところもユニーク(まあRPGとすればチームであるのはふつうなのかも)。
でも話はこれからという感じ。この3巻併せてようやく《ズダイ・ツァ・サーガ》のエピローグという印象が強いのです。あとがきにちょっと触れられている今後の展開を読むと、これから波乱万丈の物語世界が繰り広げられそうな雰囲気ではありませんか。ところがこれで一応終わりになるらしい。理由はあとがきにあるように、元となるRPGが休止したためとのこと。なんかもったいないですねえ。RPGとは無関係に、続編を書いたらいいのに。RPGを一切しない人間が勝手なことを言っております(^^ゞ

 



ついこないだ=昔、なのだ

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2011年 2月 7日(月)16時54分28秒

返信・引用

 

 

西宮北口、神戸線の車窓から西宮球場がみえなくて吃驚って、
今頃、何を言うてはりますねん。その方に、びっくりするわ。
そんなん、幕末の侍が日清戦争が終わった翌々年に東京へ出てきて、
北町奉行所がなくなってるって驚くようなもんでっせ。
しかし、私にも似た経験はある。あるとき、大学紛争時代の
記録や書籍を買いにKG生協の書籍部へ行ったら、何もなかった。
けしからんなと思ったけど、卒業後の年数を過去にあてはめたら、
自分の在学中に、太平洋戦争中に学んだというOBが来て、
その当時の記録や書籍がないやないかと怒るのと一緒やとわかった。
歳月の経過。主観ではほんのちょっとやと思ってるけど、
その間、世間は客観的に、びしびし変わってるわけですな。
てなこと言うてるうちに、皆、死にますねん。

 



Re: 新井素子・高井信対談&マンガの表現

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 6日(日)22時59分1秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2895[元記事へ]

雫石さん
>仁川の阪神競馬場でアルバイトしてましたから
おおそうでしたか。競馬場とは縁がなかったですね。私は西宮球場でアルバイトしました。76年だったか77年だったか忘れましたが、巨人との日本シリーズでした(^^;

ブログ拝読しました。なかなかよいトークショーでしたね。私も、お話されている内容に引き寄せられるように、ああそういえばその話の頃自分はこうだったなあとか、半ば忘れていたあれこれが、一種並行世界的な感覚でいろいろ思い出されてきて、我ながらちょっと奇妙で面白い感じでした。

 



Re: 新井素子・高井信対談&マンガの表現

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2011年 2月 6日(日)17時09分18秒

返信・引用

 

 

> No.2894[元記事へ]

5日はどうも。
楽しいトークショーでしたね。
西宮北口周辺、がらっと変わったでしょう。
私は、学生時代、仁川の阪神競馬場でアルバイトしてましたから、そのころは、この駅はよく通りました。西宮球場がなくなったのが一番大きな変化でしょうか。
あそこは今は、阪急西宮ガーデンという巨大商業施設になっています。そのこシネコンに時々映画を観に行きます。昨年は「2001年宇宙の旅」をやってました。
トークショーのこと、ブログにアップしました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



新井素子・高井信対談&マンガの表現

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 6日(日)16時09分50秒

返信・引用 編集済

 

 

昨日は、宝塚の手塚治虫記念館にて現在開催されている「星新一展〜2人のパイオニア〜」関連企画として行われたトークイベント新井素子・高井信対談「星新一チルドレンから見た星新一」を観てきました。会場には雫石さんも来ておられました(^^)
お二人が接した星新一を語るというテーマだったのですが、なにぶん亡くなられるまででも20年以上という長いお付き合い。エピソードもそれこそ語り尽くせないほどあったに違いないものを、1時間弱という限られた時間で語らねばならず(というのはトークのあとに手塚治虫関係の映画上映が控えていたからですが)、その結果豊富に用意されていた内容を駆け足もしくは抜粋という形での紹介とならざるを得なかったのはちょっと残念ではありましたけれども、トークされた内容だけでも十分に興味深く、面白かったです。
冀くは、お二人には改めて時間を十分にとった場所で再度語り合っていただきたい。星群祭40周年特別企画で実現できませんですか雫石さん?(^^;

さて今津線を利用したのですが、今津線に乗るのは79年3月の大学卒業以来ではないか。いや卒業後数年くらいは行ってたかも知れませんが、それにしたって30年近くは経っているはず。新井さんが初めて星さんに会われたのが77年年末とのことですから、新井さんや高井さんが星さんと会っていた丁度その期間、私は今津線と会ってなかったとは、なんか不思議な因縁を感じますなあ(>どんな因縁やねん)(^^;
西宮北口、ぜんぜん変わっていて当時の面影なし(神戸線の車窓から西宮球場がみえなくて吃驚)。今津線のホームはなんとなく面影がありましたが。門戸厄神、甲東園、仁川、小林、逆瀬川と、通りすぎるどの駅にも友人が下宿していたりジャズ喫茶(門戸厄神にあった、名前も思い出せないジャズ喫茶)があったりして、夜中うろうろしたものでしたが、これらも風景が一変していてびっくり――となるかと思ったら、ならなかった。というか当時の車窓の風景を完全に忘却していて、今がどれほど変わってしまったのか想像するよすがすらないという体たらくなのでありました。途中下車していっちょう大学まで行ってみようかと思わなくもなかったが坂道を歩き通せるか自問して諦めました(>おい)。

帰途、旭屋に寄ったら、なんと西村賢太の芥川賞受賞作が早くも単行本になって陳列されているではないか。一瞬購入しようかと思ったが、レジの姐ちゃんに「あ、また釣られたヤツが一人」と心のなかで哂われるのが目に見えているのでやめました。そこら辺の流行に乗り遅れまいとする有象無象と同断にされてまで読む気はありません。 じゃあネットで買えばいいではないかって? そんな対面的体面的な話ではない! 信念の問題なのですっ!! まあ30年も待つ気はないので、10年後くらいに読むことにします。

さて、
寺沢武一SPACE ADVENTUREコブラ』(ジャンプコミックスDELUX88)1巻、4巻、8巻、9巻、10巻を読みました。
いやー(エピソードによって出来不出来はありますが)なかなか面白かった。でも意外に読むのに時間がかかりました。細切れに読んだからアレですが、1冊につき2、3時間かかったのではないか。慣れたらもっと早いのかも知れませんが、ちょっと気づいたのは、コマ割りのストーリーマンガって、アニメや小説よりも抽象的な面がありますよね。つまり「現実リアル」を主観(つまるところ視線)は連続的な経過として認識します。それを小説やアニメでは、「擬似現実」をシーンにぶった切って、シーンの内部では連続的な時間が保持されているが、シーンとシーンの間は「省略」されている。漫画はさらに抽象度が上がって、すべて「瞬間」を、ただしざっくりと、切り取った絵(コマ)として提示される。もとよりアニメも突き詰めれば「瞬間」絵の集合体ですが、それは「連続」として認識される。漫画はもっとぶつ切りで、読者は瞬間絵(切断面)で「連続」を「想像」しなければならない。どこをどのような角度で切って呈示するのか、そういった切り口の選択はとても難しいことのように思います。しかも下手くそなアニメやドラマが常用する「ナレーション」や小説が常用する「説明」は基本できない(石森・平井「幻魔大戦」みたいな例外はあるが)。この二つの「抽象」が、読む速度を遅くさせてしまうのではないでしょうか。

その意味で、たまたま手塚記念館を見学して思い出したのですが、去年か一昨年かに読んだ「アドルフに告ぐ」は、生半可な小説よりもずっと小説らしかった(先日書いた画像表現700年後成熟説は撤回します(^^;)。優れた表現者の手にかかれば、マンガはある意味小説よりも可能性があるのかもしれません。逆にいえばマンガによる表現は小説による表現よりもずっと難しいものといえるかも。

 



Re: 「日本語と時間」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 5日(土)10時19分43秒

返信・引用 編集済

 

 

(承前)
昨日の投稿ではうっかり書き落としてしまったのですが、助動辞(詞)「き」は、「けり」の分解で示したように、「現在との関係を断ち切られた過去」であり、さらにいうなら「神話的過去の認識や歴史意識の所産であるというように、起点をわれわれや古代人の認識の外部に置く」、つまり「われわれや古代人の体験の外部に超越的にある」過去を示す機能を負っているようです(故に「古事記」等に頻出する)。
ところで「ファンタジー」は、基本「神話的過去」やそれに類する「この世界とは無関係な別の世界」を物語る小説ではないでしょうか。だとするなら、知る人は知っているように、ハヤカワ文庫FTの邦訳タイトルに「き」の活用「し」が多用されがちなのは(この2年間に限っても「斃れし者の書」「 試されし王」「遺されし力」「護られし者」があります)、単に頭が悪いというだけではなく、そもそも助動詞(辞)「き」が「超越的な過去を示す」ものであることを 、現代の日本人はその語感の中にいまだ保持しており、それが「ファンタジー」の特性に引きずられて、無意識裡に表出されたと考えることができるのではないでしょうか(それを最もよく体現しているのが「終わらざりし物語」の邦題でしょうか)。
なお本稿後段は、インスパイアされたものとはいえ本書の内容とは無関係な私の妄想であることを、念のため明記しておきます(汗)。

今日は手塚治虫記念館に行ってきます(^^)→http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/sub/kikaku51.html#talk

 



「日本語と時間」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 4日(金)21時27分29秒

返信・引用 編集済

 

 

藤井貞和『日本語と時間<時の文法>をたどる(岩波新書10)読了。

古文には、<き><けり><つ><ぬ><たり><り>の6種の「時」に関する助動辞(助動詞)があり、さらに<けむ>とa-ri(構成要素「あり」詳細本書参看)を加えれば8種のそれを日常的に使い分けて言語生活をおくっていた。ではそれらを現代語訳すればどうなるのか。なんと、<き><けり><つ><ぬ><たり><り>は、「〜た」一つになってしまったのだ!(<けむ>は「〜ただろう」、a-riは「〜である」)として、著者はこれらの助動詞が、それぞれどのような範囲を受け持っていたかを解説します。その解説が非常にユニークかつ論理的なので、まるで推理小説の謎解きを読んだときのような爽快感がある。
たとえば<けり>は、さらに「き+あり」に分解でき(厳密には助動詞「き」に「き」という連用形を設定し、それと「あり」が音韻融合(ki‐ari:ia→e)したもの。ただし一般に「き」に連用形はないとされているらしい)、その結果「けり」は、現在との関係を断ち切られた過去を示す「き」が、現在(現に在る)を示す「あり」と接続することで、過去の状態が現在まで持続していることを表すことになるわけです。ちなみに「き」のさらに元は「来」。つまり「来て有る」のが「けり」。
つまりどんどん始原のかたちに遡っていくもので、無味乾燥な古文の授業となんと違って生き生きとした解説でしょうか。
また、「〜た」しかなくなったとしながらも、たとえば「けり」は、「あんときゃ雨が降ってたっけ」の「〜っけ」のなかに残されているとか、昨日私が感じたように、現代人の時間表現自体は古典時代から劣化しているわけでもないことも、それなりに解説されています。
あとめざましく思ったのは、「ぬ」が、往ぬから転成したという通説に対して、祈る(い-宣る)等の例から「い」は「古生層にある意味不明の接頭語」であるとして、「ぬ」という一音動詞が古生時代に存在したとする点で、もしそうだとすれば、「西」は通説では「往に処」から「い」が落ちたとしますが、たしかに「往ぬ」から語幹が落ちて活用が残るというのは不審で、一音動詞「ぬ」の活用「に」に方向を示す「し(処)」が接続したと考えたほうが論理的です(西に就いては私の妄想であり本書とは関係ありませんので念のため)。
いや面白かった。もっともっと著者の講義を聴きたくなりました(^^)。

 



画像文明

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 3日(木)21時30分10秒

返信・引用 編集済

 

 

『日本語と時間』180頁。
かつての日本語には時間をあらわす助動詞が6種ないし8種あって、それを使い分けていた。ところが今や日本人は、「〜した」「〜したろう」「〜する」のせいぜい3種しか時間を仕分けられなくなってしまっている、とのこと。
それはそうとして、とはいえ現代の我々がその3種類の時間しか持っていないわけではなく、「〜するのであった」「〜したのである」「〜しようとした」「〜してきた」「〜するに至った」等々、たくみに組み合わせて時間表現をしているはずで、古代人より認識力が弱化したわけでも表現力が劣化したわけでもないように私には思われます。
ただ、8種類が3種類しかなくなったというのは、文法的厳密性が崩れてきたとはいえそうで、たかだか数十年の私の経験的時間に照らしてさえ、、文法や表現が崩れてきつつあるのは見て取れるわけで、たとえば「気持ち悪い」は「きもい」に短縮されて原意がみえなくなりつつあります。このきもいはまだしも元の形が想像可能で、私ども年配者でも察しがつく。ところが「はずい」や「むずい」に至っては、はじめて聞いた日には、一体何がなにやらさっぱりさっぱり。などというのは瑣末なことで、謙譲語がなくなり敬語で代用(自分を下げるのではなく同等の相手を上げる)したりする傾向のほうが、崩れとしては深刻ですね。
でふと思ったのですが、文法や言葉というものが、古代からこっち、ずっと崩れきたったものであるとしますならば、そもそも日本語というものは、ある日出来上がったその時点が、一番厳密なものであったということになるわけで、日本語は突如完璧な体系として、この世にあれましたということになり、これまたそんなことがありうるのだろうかと首をひねってしまうわけです。一体に、最初はうなり声みたいなところから、しだいに言葉も増えていって文法も整っていき体系化されていったとふつう考えられるからです。それとも「はじめに言葉ありき」で、初期クロマニヨン人は「誰か」から言葉を授かったのでしょうか(^^;

さて、我が国における文章表現の最初は、卑弥呼の時代に既にあったのかも知れませんが、確実なのは6世紀あたりからでしょう。小説的表現は源氏以降でしょう。としますと、我々日本人は千年かけて文章表現を積み重ねてきた結果として、現今の小説の表現があると考えられそうです(上述したように文法的にはどうであれ、表現力や認識力が劣化したわけではない)。
ところで、絵による表現はいつごろからか。もちろん文字よりも古い歴史があると考えられますが、近代的な意味において「絵による表現」いわゆる(挿絵ではない独立的な)「漫画」は、ばくっと江戸時代以降のようです。つまりせいぜい300年。
先日文字情報に漫画は敵わないといいましたが、ある意味当然なのかも。だとすれば漫画(映像)による表現も、あと700年待てば、今の小説並みの表現力を獲得するのかも知れませんね。
ということで、現時点での漫画の表現力を知る意味で、コミック版「コブラ」を買ってきました。

というのは全くのデタラメで、たまたまブックオフを覗いたら「コブラ」が5冊並んでいた。全10巻のうち、巻数もバラバラな5冊だったのですが、大体コミック棚を見ることが殆どないのに、たまたま通路を通っていて偶然目に止まったのですから、因縁めいたのを感じてしまったのでした。これから読んでみます。楽しみ。

 

 

「僕妻」成績

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 2日(水)17時34分38秒

返信・引用

 

 

「僕と妻の1778の物語」も3週目を乗り越えました。この3週間の土日の成績が出ました。3週目でも5位に食い込んでおり、健闘しているのではないでしょうか。

●1/15-16 http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/ranking/news/20110118-OHT1T00075.htm

1位  NEW 僕と妻の1778の物語  2011/1/15  全国315スクリーン 動員12万1783人、興収1億5969万5200円
2位  NEW ソーシャル・ネットワーク  2011/1/15
3位   1 相棒-劇場版II-警視庁占拠!特命係の一番長い夜  2010/12/23
4位   2 アンストッパブル  2011/1/7
5位   3 ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1  2010/11/19

●1/22-23 http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/ranking/news/20110125-OHT1T00163.htm

1位  2 ソーシャル・ネットワーク  2011/1/15 全国328スクリーン 動員12万698人、興収1億6558万6000円
2位  1 僕と妻の1778の物語  2011/1/15
3位 NEW 天装戦隊ゴセイジャーVSシンケンジャー エピック ON 銀幕  2011/1/22
4位 NEW グリーン・ホーネット  2011/1/22
5位  3 相棒-劇場版II-警視庁占拠!特命係の一番長い夜  2010/12/23

●1/29-30 http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/ranking/news/20110202-OHT1T00216.htm

1位 NEW GANTZ  2011/1/29  全国410スクリーン 動員45万4,220人、興収5億9282万3900円
2位 NEW REDレッド  2011/1/29
3位  1 ソーシャル・ネットワーク  2011/1/15
4位  3 天装戦隊ゴセイジャーVSシンケンジャー エピック ON 銀幕  2011/1/22
5位  2 僕と妻の1778の物語  2011/1/15

岩波新書『日本語と時間』は、130頁まで(220頁中)。これ、面白いです! 古文の文法って、くーからくーかりしーきーかるけれかれ、とか、無味乾燥な暗記の記憶しかないのですが、本書を読むと目からウロコが落ちます。いやー文法って面白いですねえ(^^ゞ
そういえば学生時代、いろいろ、文法にかぎらず、暗記させられたものでしたが、それなりに暗記したことが役に立ってはいるんですよね。でもなかには、今となってはナンノコッチャというのもあって、李さん借りかなまあ当てにすなひどすぎる借金、なんて、今でもスラスラと出てはくるんですが、そもそもこれ、何を記憶するためのものだったのか、もはや完璧に忘却してしまっております。これってなんだったんだー!?

   

 



「スペースコブラ」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 1日(火)22時27分8秒

返信・引用 編集済

 

 

「SFは絵だねえ」といいます。その一方で「絵にも書けない面白さ」ともいわれる。私自身は、原則、SFは後者であると思っていますが、さはさあれSFの中でもスペオペやヒロイックファンタジーと呼ばれるジャンルは、基本(と但し書きをつけるのはディレーニイやコードウェイナー・スミスみたいなのもその範疇に加える場合もあるからですが)前者なのではないでしょうか。
しかしながらスペオペがイコール「絵」なのであれば、むしろ映像作品のほうがスペオペを体現しているのかもしれない。
そう思いついたので、試みにテレビ放映されたアニメ
「スペースコブラ」全31話(82〜83)のうち、16話まで、ツタヤで借りてきて視聴してみました。この作品を選んだのは、私自身がアメコミ風の絵柄を好むからです。
さて、1話30分として蜿蜒8時間、3日ほどかけて観てみました。言うまでもありませんが、映像は文字を読んで脳内イメージするよりも直接的ですね。小説では世界に入り込むまでに少し時間がかかりますが、アニメは即時。で、もちろん期待通りの面白さではあったのだが、続けて見ているうちに少しずつ慊(あきたりな)くなってきたのも事実(一気見するのがそもそも間違いという説も。たしかに)。それはやはりストーリーが不自然に単純で貧弱だから。その一端には子供向けにアレンジされていることもあるのでしょう。でも結局、文字情報には敵わないということではないでしょうか。最初こそ映像の迫力に魅了されますが、絵に慣れてしまえば、情報量の貧弱さが透けてみえてきてしまう。やはりスペオペやヒロイックファンタジーであっても、ただ「絵」だけでは、やがて物足りなくなってきてしまうようです。少なくとも私の場合は。

スペオペもヒロイックファンタジーも、その本場はパルプ雑誌です。
<奇想天外>誌のリストをつらつらと眺めているんですけど、今から振り返ると、いやこれ、すごい雑誌だったんですねえ。
創刊号で「アッシュシリーズ」、「宇宙航路シリーズ」(ただしタイトル作はSFM掲載)、連載として「翔び去りしものの伝説」が始まり、かんべむさし登場。
第ニ号で「地球精神分析シリーズ」始まり、堀晃登場。第三号で横田順彌登場。第四号で「神聖代」シリーズ開始。第五号で「ゲームの戦士」(未完というよりも中断)
等々、創刊半年に限っても、このように怒涛の勢いで傑作、意欲作が掲載されていて、老舗SFMに遜色ありません。
ところで、リストを見ていて思い出したのですが、海外作品は仁賀克雄のブラッドベリセレクションの他、矢崎竜介という人がパルプSFを訳していたのでした。
ハル・K・ウエルズ「戦慄!タイタンの青い霧」(?)、ジョン・ラッセル・ファーン「恋人は宇宙海賊」(スリリング・ワンダー45)、チャールズ・エリック・メイン「ハイウェイJ 」(プラネット・ストーリーズ53)、コナン・T・トロイ「金星の魔術師」(プラネット・ストーリーズ52)、A・R・スチュワート「宇宙で乾杯!」(?)、エドワード・D・ホック「ウルフラム・ハンター」(?)
これらの作品、当時はバカにしていて読まなかったのでしたが、訳者は違いますが、ウィリアム・ノールズ「好色な神へのささげ物」(?)という評論も掲載されていて、今ならば曽根編集長の意図もよくわかります。ああ、なぜ読まなかったのか。今さら後悔しても始まりませんが。
そう思って今一度リストを振り返れば、日本作家の作品も、どちらかといえばスペオペ、ヒロイックファンタジー系が多く掲載されています。神聖代も見ようによってはパルプ雑誌系といえなくもないですし、堀作品はスペース(タイム)オペラそのものではないですか。
SFMが中途半端にポストモダン化してしまった現在、このような傾向の作品をたとえ特集でも組むことはちょっと考えられない(もちろん組んでくれたら嬉しいけど)。となれば、どなたか奇特なコレクターの方、商業出版でなくてもいいので、訳出紹介してくれないかなあ(大瀧啓裕氏の線は、今話題にしているのとは、ちょっとズレているのですよね)。ひょっとして既に存在するのかな。ありそうな気もしますが。

 


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