片田珠美『一億総ガキ社会「成熟拒否」という病』(光文社新書10)読了。
著者はラカン派の精神分析医です。これまでに読んだ『薬でうつは治るのか』と『やめたくてもやめられない依存症の時代』は、薬を求める患者と、分析療法を厭いラクにカネ儲けができる投薬治療に傾く精神科医の(いわば)「共依存」に警鐘を鳴らす内容で、その主張に強く首肯させられたのでした。
で、本書でありますが、著者は、臨床の現場で、打たれ弱い子どもや若者がますます増加しているとの実感を持っており、それが不登校やひきこもりの増加として社会問題化、大人でも出社拒否やうつという形であらわになっていると考えます。
それはつまるところ、「現実」の自分と、「こうありたい」という自己イメージにギャップがありすぎ、それゆえ「現実」の自分を受け入れられないことに起因するとします。で、自己愛的セルフイメージが危機に晒されると「退却」する(ひきこもる)か、「ボクは悪くない社会が(親が)悪い」と「他責」化する(キレる)か、「依存」してしまうか、この三つ仕方で防衛しようとするのだそうです。
ごく普通の発達・成熟過程に於いては、自己愛的セルフイメージは、環境や社会の荒波を経験することで「断念」させられ、「現実」と折りあわせられるのですが、それがつまり成熟ということなのですが、現代の日本社会は、そのような過程がうまく機能しなくなっている、と著者は分析する。つまり「打たれ弱い」者の増加は個人の資質の問題であるというより社会的病理であるとの考えです。
この「成熟」のメカニズムの説明は、まさにフロイトそのもので、わたし的にはなんら目新しいものではありません。それもそのはずで、ラカンはそもそもフロイトを解釈することを認めず、「フロイトへ還れ」をスローガンとしたわけですから当然なのです。それを日本の社会に当て嵌めて、いわば社会病理学的な社会論として展開したところが目覚しい。
凡百の「若者論」と違うのがその点で、要は現在の「成熟拒否」は前代の「成熟拒否」の結果だとみなす点です。
ところで私の場合、「自我」といえるものが(部分的にでも)発生したのは30過ぎくらいだと思います。ちょっと遅い(^^;。それまではなんだったのか。自我のあるべき場所(私)を占めていたのは「他者」であります(著者によればその大部分は「母親」とのこと)。ラカンもいうように「人間の欲望とは他者の欲望である」というわけ。「私」が「欲望」であることは、ちょっとわが身を振り返れば納得出来るでしょう。
著者は「多くの人々には確固たる自己などないのだし、実現すべき自己などないのである」「人の願望などというものは、周囲の環境が作り上げるものだ」という小谷野敦の言葉(「実現すべき自己などない時」)を引用し、同意します。子供がひきこもりになったり、キレて、場合によっては両親を殺してしまったりするのは、たとえば「ボクは、頑張っていい中学に入り、ひいては東大に入るんだ」という願望(欲望)が、「現実」の前に挫折した時(セルフイメージを維持できなくなった時)ですが、この「ボク」の「願望」は、しかし往々にして、というより100%両親の「欲望」なのですね。つまり「ボク」とは「両親(とりわけ母親)」のことだったのです。本人の前代の両親が、既にして「断念」(成熟)を拒否していた、その「因果」であったわけです。ありふれた「若者論」ではありません。
さて、このような事態が拡大したのは(と書くのはこのような事態はそれこそ人類の発生と共にあったと考えられるからですが、それが急速に拡大したのは)、おそらく核家族の成立(個人化)による。で、この個人化は、社会の発展、資本主義の進展と不可分の現象で、少子化、長命化も関係している(「死」は最大の「断念」なのに、長命化によって「死」の経験が極端に減った。これはいかにもフロイト的説明(^^;。少子化は過保護化を引き起こす)。とりわけテレビ等にあふれる広告が欲望を喚起し続ける(「若さをあきらめないで!」。考えたら「断念」をすすめる広告なんてありえませんね)。
そしてそれらすべてが、最終的に「個人の責任」(自己責任)とされるわけです。そんな世の中になって、脆弱な「私」は、結局、退却するか、キレるか、うつになって折角得た(というか持たされた)自立を捨て依存に戻るか、要するに成熟を拒否するしかなくなっているとします。
そのとおりではないでしょうか。ではその治療法は、となるのですが、その点に関しては本書の提言はフロイト的にありきたりで、要は「気づき」(無意識の意識化)さえすれば解消するということです。しかしながら、著者も書いていますが、それが出来る人は、そもそも順調に成熟し得ているんですよね(^^;
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