ヘリコニア談話室ログ(20113)


「非Aの傀儡 」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011 331()211954

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 今日は久しぶりに防潮堤の上を歩きました。いつもなら往復30分のところ、ちょっと頑張って往復35分歩いた(笑)。すると、信じられないことに帰宅してから腕がブルブル震えている。重いものを運んだあとみたいに。一生懸命腕を振って歩いたからでしょうか。効いているのが分かるのは励みになりますが、なんだか情けないなあ(ーー;。
 今日は暖かったからか、いろんな人がいた。ボンゴ(たぶんボンゴ)の練習をしている人がいたかと思えば、双眼鏡を目に当てて一心に見ている人がいる。海のほうじゃなく、陸地の方。陸地側は工場が並んでいます。や、産業スパイか!? 通り過ぎるときふと目があって、私が胡散臭そうな目をしていたからかもしれませんが、そのおじさん、わざわざバードウォッチングをしているんだと話しかけてきた。たしかにつがい(?)のキジが空き地にいた。埋め立て地なのにキジがいたのです。これはちょっと驚いた。日本の国鳥ですからありふれているのかもしれませんが、生息地は山間部でしょう。スズメやカラスみたいに人間と共棲する鳥じゃありません。どこから来たのでしょう。
 そう考えると、そのおじさん、本当にキジを観察していたのか? やはり産業スパイなのではないか。あるいは不審に思われたときの用心に、わざわざキジを運んできて放していたのでは? ならば埋め立て地にキジがいた理由も得心できます。妄想ですか。妄想ですね。失礼しました(^^;

 『非Aの傀儡』に着手。ところで私の持っているのは1974年5月10日発行の12版なんですが、無残なほど変色しているのです。先日、全く変色していないことに驚いた『イシャーの武器店』も、1974年4月26日発行(13版)でした。この差はなんなのだ。同じ著者ですから書棚でも隣合わせで、保存の状態はほぼ変わらないはずなんですがね。発行日も半月しか違わない。あ!、よく見たら製本会社が違う。あ!!、でも印刷会社は同じだ。紙は印刷会社が調達するんだろうに。触った感じで厚みも明らかに違う。不思議です。

 




「一億総ガキ社会」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 330()222955

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片田珠美『一億総ガキ社会「成熟拒否」という病(光文社新書10)読了。

 著者はラカン派の精神分析医です。これまでに読んだ『薬でうつは治るのか』『やめたくてもやめられない
依存症の時代は、薬を求める患者と、分析療法を厭いラクにカネ儲けができる投薬治療に傾く精神科医の(いわば)「共依存」に警鐘を鳴らす内容で、その主張に強く首肯させられたのでした。

 で、本書でありますが、著者は、臨床の現場で、打たれ弱い子どもや若者がますます増加しているとの実感を持っており、それが不登校やひきこもりの増加として社会問題化、大人でも出社拒否やうつという形であらわになっていると考えます。

 それはつまるところ、「現実」の自分と、「こうありたい」という自己イメージにギャップがありすぎ、それゆえ「現実」の自分を受け入れられないことに起因するとします。で、自己愛的セルフイメージが危機に晒されると「退却」する(ひきこもる)か、「ボクは悪くない社会が(親が)悪い」と「他責」化する(キレる)か、「依存」してしまうか、この三つ仕方で防衛しようとするのだそうです。

 ごく普通の発達・成熟過程に於いては、自己愛的セルフイメージは、環境や社会の荒波を経験することで「断念」させられ、「現実」と折りあわせられるのですが、それがつまり成熟ということなのですが、現代の日本社会は、そのような過程がうまく機能しなくなっている、と著者は分析する。つまり「打たれ弱い」者の増加は個人の資質の問題であるというより社会的病理であるとの考えです。
 この「成熟」のメカニズムの説明は、まさにフロイトそのもので、わたし的にはなんら目新しいものではありません。それもそのはずで、ラカンはそもそもフロイトを解釈することを認めず、「フロイトへ還れ」をスローガンとしたわけですから当然なのです。それを日本の社会に当て嵌めて、いわば社会病理学的な社会論として展開したところが目覚しい。
 凡百の「若者論」と違うのがその点で、要は現在の「成熟拒否」は前代の「成熟拒否」の結果だとみなす点です。

 ところで私の場合、「自我」といえるものが(部分的にでも)発生したのは30過ぎくらいだと思います。ちょっと遅い(^^;。それまではなんだったのか。自我のあるべき場所(私)を占めていたのは「他者」であります(著者によればその大部分は「母親」とのこと)。ラカンもいうように「人間の欲望とは他者の欲望である」というわけ。「私」が「欲望」であることは、ちょっとわが身を振り返れば納得出来るでしょう。

 著者は「多くの人々には確固たる自己などないのだし、実現すべき自己などないのである」「人の願望などというものは、周囲の環境が作り上げるものだ」という小谷野敦の言葉(「実現すべき自己などない時」)を引用し、同意します。子供がひきこもりになったり、キレて、場合によっては両親を殺してしまったりするのは、たとえば「ボクは、頑張っていい中学に入り、ひいては東大に入るんだ」という願望(欲望)が、「現実」の前に挫折した時(セルフイメージを維持できなくなった時)ですが、この「ボク」の「願望」は、しかし往々にして、というより100%両親の「欲望」なのですね。つまり「ボク」とは「両親(とりわけ母親)」のことだったのです。本人の前代の両親が、既にして「断念」(成熟)を拒否していた、その「因果」であったわけです。ありふれた「若者論」ではありません。

 さて、このような事態が拡大したのは(と書くのはこのような事態はそれこそ人類の発生と共にあったと考えられるからですが、それが急速に拡大したのは)、おそらく核家族の成立(個人化)による。で、この個人化は、社会の発展、資本主義の進展と不可分の現象で、少子化、長命化も関係している(「死」は最大の「断念」なのに、長命化によって「死」の経験が極端に減った。これはいかにもフロイト的説明(^^;。少子化は過保護化を引き起こす)。とりわけテレビ等にあふれる広告が欲望を喚起し続ける(「若さをあきらめないで!」。考えたら「断念」をすすめる広告なんてありえませんね)。
そしてそれらすべてが、最終的に「個人の責任」(自己責任)とされるわけです。そんな世の中になって、脆弱な「私」は、結局、退却するか、キレるか、うつになって折角得た(というか持たされた)自立を捨て依存に戻るか、要するに成熟を拒否するしかなくなっているとします。

 そのとおりではないでしょうか。ではその治療法は、となるのですが、その点に関しては本書の提言はフロイト的にありきたりで、要は「気づき」(無意識の意識化)さえすれば解消するということです。しかしながら、著者も書いていますが、それが出来る人は、そもそも順調に成熟し得ているんですよね(^^;

 




「一億総ガキ社会」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011 329()22543

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 訂正>昨日引用した日記は74年ではなく75年でした。訂正しました。で、ぱらぱら見ていたら、この時期は大学に入学したてで、手元不如意だったのか、いろいろ細かい家計簿的な数字が控えられていて興味深い。当時阿倍野センタービル7階に「四国」といううどん屋があり、たまに利用していたのでしたが、そこの"四国うどん"が(どんな内容のうどんか全然覚えてませんが)一杯150円だったようです。『非Aの世界』(73年13版)を200円で購入しており、この本、BK1で確認すると、今現在(但し96年発行)は777円とのことで、150÷200×777=582円となり、うどん店もピンからキリまでありますが、まあそんなもんですね。ふむ、当時に比べて物価は3倍から4倍……。てことは、本の値段が無闇に高くなっているような感じがしていたのですが、そうでもないのかも。あ、でも天王寺駅北口の(これは今でもある)喫茶店アラスカのコーヒーが200円だったみたいなんですが、この伝でいくと600円から800円となり、いくらなんでも高すぎる。結局一概にはいえないということのようです(^^;
ともあれ、日記にはくだらない心情吐露はいらないから、いろんな数字を書き残しておくべきですな。そのほうがずっとあとから読んで利用価値がある(笑)。

 『一億総ガキ社会』は190頁。この「ガキ」は、成熟できていない「ガキ」であると同時に、餓鬼道の、つまり欲望を断念できず執着してしまう「餓鬼」でもあるようです。

 




(ーー;

 投稿者:管理人  投稿日:2011 328()223636

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あらら??
昨日落札終了した筈の中古楽器が、また新たに出品されている。出品者も同じ。画像も商品説明も同じ。
これってどういうこと?
落札者が辞退? そんなことができるのか? というか許されることなのか?
なんか気ィ悪いなあ。

 




「非A の世界」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 328()211630

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 「それとも、あんたは、いつも主人公が勝つ、アリストテレス的な小説の愛読者なんですか」(58p)

 昨日のオークションは、結局私の指値より千円高で落札された模様。うーん。もうひと踏ん張りしておくべきだったか。いや、これでいい。これでよかったのです。慌てる乞食は貰いが少ない。待てば海路の日和あり。じっくり構えておれば、自ずと道は啓けるのであります。(ーー;。

 
A・E・ヴァン・ヴォークト『非Aの世界』中村保男訳(創元推理文庫66、原書45)読了。

 いやー、怒涛の終盤はあたかもフリージャズを文字で聴いているようでした(笑)。もう、なにがなんだか訳がわかりません(翻訳の悪さもありますが)。歪み、きしみ、痙攣するストーリーにめくるめく翻弄され、あれよあれよという間に、驚愕のラスト一行に到達!
 いや、プロソディは破壊されてないのです。ところがプロソディに乗せられた意味は……???(^^;。というわけで、本篇に対して、私はウェルニッケ型の傑作SFと名付けたいと思います(>おい!)。
 ともあれ、これは(私個人的には十分楽しめましたが)一般的には関門というべきでしょう。しかしながら、この第1部を通り抜けなければ、傑作の第2部に至ることができません。実に非A二部作の真骨頂は『傀儡』にこそあるのですから。ゆえに読者は、「わ、なにがなんだか分からんが、すげー!」と読み通していただきたいと思います。でなければ、『傀儡』に着手できません。『世界』は、『傀儡』あってこその『世界』なんです。私の記憶が確かならば、そういうことなのです。

 という記憶を確認すべく、いま過去の日記を引っ張り出してきました(^^;。本篇を、私は1975年3月13日に読了しているようで、次のようなメモを残しています。
 
「『非Aの世界』読了す。熱っぽい作品で一気に二日で読み上げたが、難解でイメージが結びにくいのであった。訳の生硬なことも原因していると思うが、実に解りにくかった。これは第2部『非Aの傀儡』を読まねば判らないのではないだろうか?(……)ところで、ヴォークトの熱っぽい文体は大江健三郎のそれとよく似ていると思った。大江が非Aを訳したら素晴らしい作品になるのではないか?」
 と、昨日私が述べたのと同じ感想を、なんと37年前にも言っておりますなあ。全然進歩してませんなあ(汗)。

 それはさておき、つづいて同年4月1日に『非Aの傀儡』を読んでおり、
 
「『非Aの傀儡』を読了す。異様な衝撃をうけた。これこそSF中のSFといえる。第3部の邦訳早期完成を切望す(あまりの衝撃に手がふるえて字がかけない)」
 と記しており、大いに感動している様子が伺えます。かくのごとく、非Aシリーズは第2部を読んで初めてその凄さの全貌が見えてくるのであります。私も(圧倒的だった読後感は今も残っているとはいえ)内容は殆ど忘れているので、もう期待感にわくわくしているところ(^^ゞ。

 ――だったのです。ところが……
 昨日記しましたように『非Aの世界』、昨日の段階で230ページまで消化していた。余すところ60ページだったわけです。なのに私はついうっかりして、今朝、『非Aの傀儡』を持って出るのをすっかり忘れてしまったのでした。案の定『世界』は早々に読み終わってしまった。哀号。仕方なくブックオフにて、(これは前から読みたかったものではありますが)『一億総ガキ社会』を購入着手してしまったので、まずはこちらを片付けて、しかるのちに『非Aの傀儡』に着手することにします。

 




「非Aの世界」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011 327()220147

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 今日は、生まれてはじめてヤフーオークションに入札してみました。
ほしかった楽器があって、遊びでヤフオク覗いてみたら、なんと出品されていたのです。しかも締切り10時間前。ということで大急ぎで登録して入札に参加。今日一日ドキドキしながら経過を見ていたのでした。が、さっき(締切り2時間前にして)逆転されてしまいました(^^;
 これ以上釣り上げると、新品でネットで買える一番安いのに比べて、1万円程度しか安くない。あまり旨みがないので、撤退しました。残念なような,ホッとしたような(^^ゞ
 じゃ新品を買えよということですが、これまた1万円の差の壁が心理的に(経済的にも)大きい額で、どうすんべかね。

 『非Aの世界』に着手。230頁。今までなんども書いていますが、本書、翻訳が悪い。中村保男ですが、一次訳をそのまま載せたような、手抜きのこなれてない訳文が、特に中段に頻出します。ただ、ひょっとしたら大江健三郎の文体模写を意図したのでは、と思わないでもないのです。「あ、この作品は大江文体が合うんじゃないか」と思ったのかも。そうだったとしたらそれは正しい(>おい)。でも大江はその文体で、読者に明瞭に伝えますが、中村訳はただ意味不明なだけ。ということで本物と擬い物はかくも違うのか、と認識を新たにしたのでありました(>いやだから手抜きなんだって)(^^;。

 




「武器製造業者」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 325()21081

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 まずは訂正。静岡県でも富士市以東は東電エリアらしいです。ということは製紙業の一方の中心地も輪番停電地域になるはずで、これはちょっとしばらくは大変かも。

 
ヴァン・ヴォークト『武器製造業者』沼沢洽治訳(創元推理文庫67、原著47)読了。

 武器店二部作後編ですが、書かれたのはこちらのほうが先です。英語版wikipediaによれば雑誌連載はもっと早く43年とのこと(ちなみに武器店の方は雑誌連載ではなく、ヴォークト独特のfixupという、既存の短篇を繋ぎ合わせて長篇化する手法で完成されたもののようです)。
 先回の「武器店」は、あの壮大なラストを(不幸にも)覚えていた。ゆえに爆発的なセンス・オブ・ワンダーを今回は感じることができず、いささか残念だったのですが、翻って本篇は、初めての再読ということで、殆ど内容を忘却しており、まるまる楽しめました(^^)。
 それにしてもヘドロックって、操るのは疑似科学ですが、要するに「忍者」なんですね(^^;。先回の感想では「こけおどし」と書きましたが、むしろ「子供だまし」というべきかも。超未来忍者が子供だましな疑似科学を駆使して活躍するんです! 前作では「未来のスリック雑誌」風な場面もありましたが、今回はそれも殆どない(あ、女帝が出産を決意し周囲の反対を押し切ってしまう部分はそれっぽいかも)。まるまる活劇ゆえ、途中少し弛れたのは否めないのですが、それでも十分満足できる面白さでした。
 それはなんといっても、イシャー帝国世界のギミックな魅力に尽きる。薄っぺらなくせにキラキラ輝いている。これはタルホの世界に、ある意味近いのではないでしょうか。ストーリーは二の次と言って過言ではありません。
 そういう意味でヴォークトは、前代のスペオペを良い意味で〈継承〉してきた作家といえるのではないか。40-50年代黄金期のSFは、多かれ少なかれ前代のスペオペを「反面教師」としてモダン化を図った。いわば前代との〈断絶〉を契機として成立してきたという面があると思います。アシモフやハインラインは〈断絶〉派であるわけです。モダンSF全盛の40‐50年代において、なお前代を継承する旧作家のヴォークトが、多士済々の〈断絶派〉に伍して、「ビッグテン」の一人と目され一定の人気を誇りえたのは、薄っぺらでギミックなくせにそれを不思議にもキラキラ輝かしめる、独特の「詩情」に依っているのは間違いないでしょう。そんな風なことを、思いついたのでした。

 




この道は……

 投稿者:管理人  投稿日:2011 324()230050

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 昨日の今日ですが、早速とあるタイムマシンメーカーから、有無を言わせぬ値上げ連絡(通告?)が……。こういうのは堤防が決壊するようなもので、いったん堰が切られると、あとはわれもわれもとなってしまうのはなんども経験済み。メーカーは紙切れ一枚ファックスで流しゃいいんでしょうけど、私ども弱小業者は一軒一軒顧客を回って、頭を下げてお願いしなければなりません。で、回り終わってみたら大概粗利率は悪化しているんですよね。これまたいつか来た道ループ式。ああ、考えただけでぐったりしてきました。

 ということで『武器製造業者』は150頁まで。荷物は予定通りには届かないし、その対応で売り先へ連絡したり代替品を探したりで、集中できませんでした。月末も近いししばらくはこんな状態か。フラストレーションが溜まりそう。

 




「武器製造業者」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011 323()16588

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 震災の影響がじわじわとこちらの方でも現れてきました。
 メーカーの関東の工場で生産されている製品が、停電(協力?)による稼働率低下で、品薄になってきた模様。短期的に収まるのかな。収まったらいいけど、生産設備を西日本に移動させたりするみたいな事態になったらかなり深刻になるかも。
 あとトイレットペーパーが優先的に関東に出荷されたみたいです。上記とは違ってこっちはちょっと許せんなあ。これって結局買い占め効果でしょう? 震災とは、直接には関係のない話。関東に工場があれば上と同じだけど、基本的に製紙業って静岡とか四国が産地だったはず。普通に消費した分を補充していれば品切れをきたすはずがない。つまり局所的に死蔵されていると考えられるわけです。
 そんなこんなで、また値上げの嵐になったりしたら嫌だなあ。

 『武器製造業者』は100頁。

 追記>そういえば、ラジオで空気清浄機の通販やってました。空気清浄機の通販て、私の記憶では恐らくはじめて。これってやっぱり原発特需狙い(というか喚起)? 恐ろしいなあ。いや放射能(放射性物質)じゃなくて無から有を生む商魂の方です(汗)。

 




「イシャーの武器店」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 321()140846

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 ヴァン・ヴォークト『イシャーの武器店』沼沢洽治訳(創元推理文庫66、原著51)読了。

 いやーヴォークト、よいですなあ。面白かった。で、やはりヴォークトと光瀬龍は似ているとの思いを確認したのでした。
 本篇、というかヴォークトの小説はどれもですが、決して上手い小説ではありません。むしろぎくしゃくしている。ストーリー展開は娯楽小説の定石からすればずいぶんずれています。人間も紙切り細工
【註】。なのに面白い。それは上に挙げた欠点がすべて裏返って、この面白小説を支える側に回っている、そんな筆法だからでしょう。
 そのような筆法によってこの特異な小説は、特異な雰囲気を発散し始める。著者の作品には、著者名タイトルを隠して読まされたとしても、数ページも読み進めれば、あ、ヴォークトだ、気づかされる、一種特有の雰囲気があります。雰囲気というより「かたち」かも。
 あるいは、特有の「小説世界」と言い換えてもよい。それは、あえて言えばリアリティ皆無の小説世界です。一見「こけおどし」と見えなくもない。光瀬龍に対して、森優が「光瀬さんは叙情に流れるあまり科学的記述が不正確なときもあるんですね」と語ったことは、『派遣軍還る』の感想文で紹介しました。しかしこの森優の言葉の範囲は、科学的記述だけ留まるものではないようです。ストーリー展開、人物描写に於いても当たっていると思いました。光瀬龍は、自己の主観(感性・美意識)のためには、あえて、というより積極的に、主観にそぐわないリアリティを峻拒してしまうのです。そこから、あの独特の強烈なムードが生み出されてくるわけです。
 同じことがヴォークトにもいえるのではないでしょうか。
 ヴォークトの場合も、表現されかたちを得て現前した小説世界(作中人物の行動も含む)は、光瀬同様、独特の歪みを孕んでいます。この歪み方が、私のような読者にはたまらない魅力となるみたいです。私はその歪みを「散文詩的」と表現したいと思います。ヴォークトの描く世界は、むろんSFではあるのですが、但し詩を読むように読むべきSFなのだと思いました。
 そう思うのは、このような筆法が、他面で(正統なSF観からは)「こけおどし」ともいえるものであるのも間違いないからで、レムがヴォークトを「公式には」認めなかったそうですが、よく分かります。
 「公式には」と書いたのは、あの(たぐい稀な小説読みである)レムが、本当にヴォークトを楽しまなかったとは私には考えられないからです。ただレムの小説観・信条からは「表立って」認めるわけにはいかなかった。そういう事じゃないのかなあ(汗)。「こけおどし」と取るか「散文詩」と取るかで、評価が180度変わってしまう作風であるのは間違いないようです。

 
【註】本篇中の重要なエピソードであるファーラ(そしてグレイ村の村民たち)の物語は、紙切り細工どころか、内的リアリティに満ちていて複雑で、そこら辺の中間小説の比ではない、まさに「スリック雑誌」にふさわしいストーリーになっています。若い読者は読み飛ばしてしまうでしょうが、私も今回読み返してはじめて気づきました。ただし主筋であるヘドロック・ケイル・イネルダの物語は相変わらず紙切り細工です。

 ということで、『武器製造業者』に着手。

 




因業親父のみにはあらじ

 投稿者:管理人  投稿日:2011 320()191417

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 ネットの海を巡航していて、東京方面ではトイレットペーパーやティッシュペーパー等の日常雑貨、生活必需品が店頭品切れをきたしているようですね。また品切れしていない店でも、値段が三倍近く上がっている由。そういう記述を複数見かけました。
 ふっかけやがって、と感じている向きもあるようです。平時に戻ったとき恨まれるぞ、とも。まあ消費者の正直な気持ちでしょう。
 でも、ことはそう単純でもないようにも思うのです。これはもとそういう仕事に従事していたものの感想です。
 たしかに非常時をいいことにここで儲けてやろうという強欲な店主もあるかとは思います。しかし非常時の値上げには別な理由があるのではないか。
 実は小売者が一番恐れるのは、こういう事態において売り場から一瞬でモノがなくなってしまうことなんです。とりわけ入荷するや、最初に来た数人によって買い占められてしまうのは、もっとも避けたいところ(数量制限などいくらでも逃れる手があります)。
 こういう状況で小売店が願うのは、商品が少数の人間に買い占められてしまわないように、できるだけ多くの人に、あさく広く行き渡って欲しいと云うことの筈です。個人的な心理に於ても、カラっぽの売り場に立って訪れる客に頭を下げ続けるのは、考えただけでめまいがします。
 ならば値段を3倍にしよう。そうすれば30個買って帰るつもりの人が、10個でおさまる(かもしれない)と考えるのは、まったく道理にかなっており、私が担当者であってもそうすると思います(小心者ですから尚更)。少なくとも何も想像せず手をこまぬいて、あっという間に売り切れさせてしまう店よりずっと社会に役立っているといえるのではないでしょうか。
 単にふっかけているだけなの店もきっとあるでしょう。でも少なくとも本部が別にあるチェーン店で値上げが行われているのだとしたら、そこには上記の意味合いが必ずあると私は思います。
 しかし一般の消費者はそこまで考えてくれないんでしょうね。平時に戻ってから、あそこは因業で、と言われ続けるんでしょうなあ(ーー;

 
ちょっと音が悪いです。というかステレオになっていない。悪しからず。
 

 




「イシャーの武器店」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011 319()215414

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センチメンタリズムという二次災害

双葉町の1200人、さいたま市に役場ごと疎開
 古代の楽浪郡が、時代によって平壌付近だったりソウル付近だったり、場合によっては遼東だったり(私見では遼西だったこともあると思う)移動するのは、たぶんこういう事情なんだろうなあ、と思った(1200人という規模は別にして)。いや天災ばかりではなく、戦乱や隣国の圧力も含まれるでしょう。
 いま規模は別にしてと書いたが、そんなこともないのかも。都市の結構をそなえた時期も、(異民族東夷に対する)砦同然だった時期もあるのじゃないかな。あ、また妄想が広がってきました(^^;

 『イシャーの武器店』は190頁。休日は(というか家は)読書にふさわしい環境ではないのです(ーー;。

   

 




「イシャーの武器店」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011 318()213944

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 『イシャーの武器店』270頁中150頁。これ、何度目になるのかな。4読目? 何度読んでも面白いです(^^)。
 初めに出てくる田舎の修理屋の親父のエピソードは、この部分だけで完結した短篇とみなせますね。しかもこれ、コーンブルースのいわゆる「スリック雑誌」に載っていてもおかしくない小説になっているのでは? いいねえ。

 ところで私の持っているのは1974年発行の13版なんですが、驚くほどきれい。全く変色していません(天にしみが点々とあるくらい)。本文の紙質も密度があってさわり心地も固い(反発力が大きい?)。ずいぶん上質な感じがします。今とは比べ物になりません。

 今とは比べものにならないと書きましたが、さてその感覚がどこまで正しいものか、実際にゲージで厚みを測ってみました。場所を変えて何回か測るのですが、大体85ミクロンから90ミクロンでした。比較に、最近出たばかりの眉村さんの『僕と妻の1778話』を測ったら、70~75ミクロン。ということで、昔の紙のほうが厚みはたしかにあるようです。
 とはいえ、厚みがあるから上質であるとも、一概にはいえません。漉きの密度と厚みは必ずしも連動しないようにも思われます。たとえば再生紙だと凸凹がきつい分、さわり心地厚く感じられそうな気がします。

 それに、同じころ購入した文庫本でも、変色しきっているのもあったりするわけで、購入後の保存状態の違いも重要かも。たとえば本棚の差す位置によっても状態は変わってきそうですよね。

 これは今気づきましたが、紙にも相場があるはずで、印刷会社も紙の仕入れは、その時どきに応じて安いときには比較的上質、高いときは質を落とすというふうなことをやっているのかもしれませんね。

 




「派遣軍還る」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 318()001817

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 光瀬龍宇宙塵版派遣軍還る』(ハヤカワ文庫81)読了。

 初出が〈宇宙塵〉60年9月号~61年9月号ということで、あとがきに著者自身も書いているように、習作というべきでしょう。習作とは言い条、十分面白かった。とりわけ前半はわくわくさせられました。

 著者は、山野浩一が述べていて、私も同感なのですが、年代記シリーズの頃の作品にはブラッドベリとハインラインの影響が強く感じられます。ところが(年代記シリーズに先行する)本篇に私が感じ取ったのは、むしろヴォークトなのでした。
 それは、たとえば1)主人公が(理由もなく、というのか、ごく当たり前に?)超人的な能力を発揮すること。2)通常の意味でのストーリーは破綻していること。3)背景(設定)も非常に適当なように見えること
[註]、などに依るのですが、これらは一般的に言って、欠点として挙げられる要素ですよね。ところが、これらが欠点にならないどころか、むしろ作品を輝かせる方向に作用している。そういう点がとてもヴォークトっぽいと感じさせられたのでした。

 でもよく考えたら、上記の要素は、光瀬作品には常に見いだせる要素なんですよね。しかしヴォークト的と感じたことは今までなかった。その理由は、おそらく光瀬SFを光瀬SFたらしめている「東洋的無常観」が、本篇ではあまり強く押し出されていないからではないか、と思いついたのでした。光瀬SFから東洋的無常観を除いたら、隠れていたヴォークト的資質が顕在化してきた。そんな感じでしょうか。そこで気になるのは1960年以前に著者がヴォークトを読んでいたかどうかということなんですが、元々社のラインナップに「スラン」があるので、少なくともこの作品は読んでいたのは間違いない。でも影響関係よりも、二人ともそもそも同じ資質を持っていて、一種の平行進化だったような気がしますね。本篇は、そういう意味ではむしろ後期の(連作「宇宙航路」以降の)作品群に直接繋がる面があるようにも思われます。
 後期作に関しては、単純に本篇的要素の復活ではなく、他面、今日泊亜蘭との影響関係も気になるんですよね。私は、著者は或る時期以降、今日泊亜蘭の作風に賛同し近づいていったんじゃないかという気がしているのです。ただ私自身、今日泊がまだ腹に嵌って読めていないので、この辺は宿題とさせていただきます。

 
[註]これに就ては、本篇を読むと、昭和35年当時の著者はあまり天文学の知識がなかったのではないかとさえ思えてきます。でもその一方で、森優が「光瀬さんは叙情に流れるあまり科学的記述が不正確なときもあるんですね」と語っていまして(大橋博之編『光瀬龍 SF作家の曳航』177p)、たしかに正確さよりは雰囲気を重視したのは間違いないと私も感じます。いずれにしろ、そのような傾向から、私は本篇をSFではなくファンタジーとして読みました。

 本篇を読んだら、むしょうにヴォークトを読み返したくなったので、『イシャーの武器店』を掘り出してきました(^^;

 




「派遣軍還る」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011 316()212345

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 内向の世代は、当時その没社会性を批判されたものでしたが、その最右翼たる古井由吉の作品にしてからが、いま読むと、当時の社会状況をあざやかに反映している。と気付かされるのも、三十年という時差のおかげで、当時の評論家には、というよりもいつの時代においても、「現在」ほど(あたりまえすぎて)視え難いものはないということなんでしょうね。
 ということで、いよいよ『親』に着手……と、思ったのですが、まあ、何もそんなに慌てて読むこともありません。積読消化も粛々とすすめていかなければ。大滝詠一じゃありませんが「君が言うほど時間が無限になかったことも、今ではよく知っている」なんですよね。もはやこの歳になりますと(ーー;。
 てなわけで、
宇宙塵版 派遣軍還る』に着手。100頁まで。

 
「彼、此処ヨリ出デテ帰リ、此処ヨリ出デテ還ラザリキ」(92p)

 うーん。堪りませんなあ(^^;

 




「夜の香り」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 315()220750

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 古井由吉『夜の香り』(福武文庫87、元版78)読了。

 再読なんですが、初読が比較的遅く、九十年代に入ってからだったので、意外に細部は読んでいて甦ってきました。
 裏カバーの紹介に「短篇連作」とあります。しかし収録された四作品、
「街道の際」、「畑の声」、「駆ける女」、「夜の香り」は、すべて作中人物も違いますし、ストーリーが繋がっているわけでもない。
 ではなぜ連作なのか。
 じつはこの短篇集、出版時系列的には長篇『聖』(76)と『栖』(79)の間に挟まるもので、収録作品はすべて、『栖』と同じく、東京の「新開地」が舞台となっているのです。つまり〈新開地〉小説集という意味で、「短篇連作」と書かれているのでしょう。

 敗戦よりわずか十年あまりで急速に復興を遂げ、50年代なかばには「もはや戦後は終わった」と力強く宣言した我が国は、その余勢を駆って60年代の高度成長時代に突入していきます。いわば「開発」の時代の幕開けです。京浜、中京、阪神、北九州が工業地帯化し、地方より次男坊以下がその担い手として大挙東京等の大都市に送り込まれる。ホワイトカラーという新中間層も出現する。人口急騰に対応して、郊外が開発され、東京に於いても周辺の田園地帯がいわゆる「新東京」、東京の「新開地」としてベッドタウン化します。そこに棲まうのは赤ん坊を抱えた若い夫婦で、すなわち〈核家族〉の成立であります。

 
「今から考えると、東京に育って現に住まいながら日々に他処者になっていくような時期だった。久しく降りなかった駅に降りるたびに、まず新装成った構内の勝手の違うのにまごつかされ、改札口を出れば駅前の様子が一変してよそよそしくなっているのに唖然とさせられ、撤廃された都電の停留所などをつい目で探したりする。毎日のように降りる駅でさえ、どうかして物など考えながら改札口を出てしばらく行くと、ふいに記憶のない感じに襲われ、ここは以前は、つい一年ほど前までは、どんなだったかしら、と頭を抱え込んでしまいたくなることがあった」(「駆ける女」)

 本書の諸作は、すべて「新開地」の〈核家族〉の物語なんですね。象徴的なのは表題作
「夜の香り」で、東京の新開地の、若い核家族(おそらく月給取り)ばかり住むアパートの隣の家に、下町の商売人の〈大家族〉が越してきます。朝早くから活動を始め、商売柄夜遅く、十一時頃にならないと帰って来ない(働くだけカネになるからなと揶揄される)。それがまた絵に書いたような麗しい大家族なんです。両親と長男夫婦、そして弟たちが、ひとつ屋根の下に、和気藹々と暮らしている。
 ところがこの家族、夜遅くに晩飯の用意を始めるのだが、毎日決まって天ぷらなんです。天ぷらを上げる油の匂いが、隣のアパートにまで臭ってきて、アパートの住人の顰蹙を買う(ただし面と向かってはいわない)。妊娠中の主人公の妻に至っては油の臭いで悪阻がひどくなり、遂に絶交中だった実家と和解し実家に帰って出産する(^^;。これぞまさに旧来の大家族と新興の核家族の合わない反りの暗喩ともとれます。この緊張関係の安定を破ったのが、アパートに住んでいるが鼻つまみ者の、定職ももってないような「独身男」だったのです(笑)。本篇はおそらくファルスです。

 より著者らしいモチーフが出るのが
「畑の声」「駆ける女」。前者はおなじみの謎めいた神秘的な女(妻)ものですし、後者の主人公の以前の女は、『聖』の女と同じで、「忙しさ」や「緊張関係」の持続で心身の平衡を保っている。もしこの女が、それまで彼女の細腕が支えていたもの全てを打っちゃって主人公のもとに逃れてきたら、おそらく『栖』とおなじゆくたてが待っていたに違いありません。
 
「街道の際」はもう少し後の話で六十年代末期、学園紛争が終焉した大学の、教員の荒廃を、やはり新開地に描いた作品であります。
 本集を通して、初期の神秘性はずいぶん薄れてきています。でも新機軸も悪くありません。どれも充分に満足できる作品でしたが、でもやはり、それらしい雰囲気の残っている「畑の声」と「駆ける女」が、わたし的には好ましく感じられました。

 




「言葉と脳と心」(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 314()211818

返信・引用 編集済

 

 

 本書もいよいよ「エピローグ」。この章は一種のまとめになっています。「まとめ」をまとめても仕方ないので(興味ある方は直接当たってください>おい(^^;)、ここでは私の理解(誤解)と感想(妄想)のみを記します。
 著者は「心」のなかはどうなっているのだろうと考え、心の大部分を占めるのは「感情」だろうといいます。「感情」とはこれまで述べてきた「塊」のこと。それは「連続的で瀰漫的な経験の塊」であり、切れ目のない一本の流れのように、もしくは古事記神代の「混沌」のように、個別化以前の「全」的な状態で心の中を占めていると考えられます。
 「思い」(観念)は、そこから浮き上がってくるものです。あたかもイザナギがかき回して引き上げた天の沼矛の先からボトりと落ちて凝ったように。ただしいまだ混沌が局所的に凝ったものにすぎず、全的なものから「一」化はしましたが、そのウチとソトの区別というか境界領域は曖昧です。
 この「思い」が(言語心像のチェックをうけて)言語化され(ほぐされ)、初めて我々はその「思い」を対象化できるようになります。言語化(命名)とは、連続に(恣意的な)切れ目を入れて、いわば直線を破線状にすることです。このような操作をして始めて我々は「意識化」できる。
 ということは逆にいえば、心内感情を、我々はそのすべてを言語化して把握しているわけではないということになります。たとえば(今では少なくなりましたが)剃刀でヒゲを剃るとき、何も考えず手に任せたほうがスムーズに事が運びます。ところが一旦「意識」してしまうと、途端に手が硬直して剃り損ない血だらけになる。ということはどなたも経験的に了解されるでしょう。これは特殊かもしれませんが、私の場合、車の運転も意識はあまり介在していないような気がします(要所要所以外は)。
 我々の活動において「意識」の占める割合は、存外小さいのではないでしょうか(それは発話が、常にプロソディという定型に切れ切れに表現したいことを乗せて発射されるのと同型)。非言語的に、体が勝手に動いて処理する場合のほうが実は多いのです。
 以上を敷衍するならば、我々の意識は遍在するといった体のものではなくて、むしろ部分的局所的偏在的といえ、意識は、必要なときその都度都度に言語化され意識化させられるものといえそう。意識は常に立ち上げられているわけではなく、我々は認知活動のすべてを意識しているわけではない(著者の発想は、意外に精神分析のそれに近いように感じました)。

 そういう意味に於いて、先回も書きましたが、SFにおける自我の複写・電脳化、あるいはAIの自我問題は思索を進化させる余地があるように感じられるのです。
 世評高い『あなたのための物語』を読んだとき、いまいちのれなかったのは、出てくる(身体を持たない)AIが、あまりにも「人間的(心身存在的)」過ぎてリアリティを感じられなかったからだなと、いまさら気付かされた次第。

 ということで、
山鳥重『言葉と脳と心失語症とは何か(講談社現代新書11)の読み了りとします。

 




Re: 妄想の第二次脱出計画

 投稿者:管理人  投稿日:2011 314()092824

返信・引用

 

 

平谷さん
何はともあれ、ご無事で何より!
そうでしたか、「チャンス」は休養に当てられましたか(笑)。近刊『義経になった男』(全4巻)の著者校正が大変だったみたいですものね。丁度よかったですね(>よかったのか)。
その『義経になった男』も、いよいよ来月刊でしたっけ。楽しみにしております。

 




Re: 妄想の第二次脱出計画

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2011 314()010739

返信・引用

 

 

> No.2952[元記事へ]

平谷です。
ご心配をおかけしました。

> いやまあ、震災後に一度、ミクシイに接続しておられるのに気づいていたので、そんなに心配はしていなかったのですが。むしろ所在生存をなかなか明らかにしないことに、私は何か企みがあるのではないかと、実は思わないでもなかったのです。

企みなんてありませんて(笑)

> それはつまり、平谷さんの、震災にかこつけての「第二次脱出計画」の布石なのではないかと(^^;

mixiに無事の書き込みをした後、携帯が不通になったのです。
固定電話も不通。そして停電。ゆえにパソコンも使えない。
昨晩、電気は復旧しましたが、なかなかネットに繋がらない。
ネットに繋がったのが今夕であります。
それまでの間、携帯がmixiに繋がったタイミングで短い書き込みをしていたのであります。
我が家の被害はたいしたことなかったので、パソコンが使えないのは確かに「チャンス」。
体と頭を休めました。
「平谷美樹」がペンネームであれば、死んだことにして新しいペンネームで書くというのも面白いかも知れませんが、本名ですから親戚、友人が大騒ぎをします(笑)

 




「言葉と脳と心」(九)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 313()22541

返信・引用 編集済

 

 

 第5章は「脳の右半球と左半球のふしぎ」と題されて、脳の両半球をつなぐ神経連絡路(脳梁)が切断されてしまった場合と右半球が損傷を被った場合の二つの場合に起きることで、明らかになったことが解説されます。
 その前に、一般的に人間は、左半球に言語領域があることを確認しておきます。これまでの4種の失語はすべて、左脳の、それぞれ関連する部位の傷害によって引き起こされたものでした。ならば右脳の損傷は失語とは関係ないのではないか、と思われるかもしれません。ところがどうも、そうではないらしいのです。

 著者は上記二つの場合に分けて説明していますが、本稿ではひとつだけ、前者の単純化した例を紹介することにします。
 左脳と右脳が遮断された患者に、(右脳が支配する)左目でものを見させたり、(目隠しをして)左手でものを触らせたりして、その名前を答えさせる実験をします。すると頓珍漢な答えが返ってくるのです。ところが逆の場合、右目でものを見させたり右手で触らせたときは正確に答えられるのです。
 これはつまり、左右間が遮断されたため、左脳の言語領域は右脳の経験を認識できなくなったからなのだそうです(で、勝手な発語を暴走させる)。
 ところが、そもそも触覚や視覚は正常なので一般的な意味で認知はできている。いま見たり触ったものはどれですかと指ささせれば、正しいものを指さしできる。言語に拠らなければ正しい反応が返ってくる。でも左手で触ったものを言葉で言わそうとしても言えない。分かっていて言えないのではなく、(言語的には)認知できていない。なので意識もされていないのだそうです。要するに右脳と左脳が遮断されているので、左脳にある「言語性心像」に入力情報が届かないわけです(故にその空虚を補填するため空語が発せられる)。
 こうした事実は、「認知」と「言語」と「意識」という三種の心理過程は三位一体でなく、それぞれ分離しうるものだということを示していると著者は言います。
 なるほど。で、私はまたもや妄想を始めるわけです。クラークの昔からイーガンまで、意識を身体から分離して(複写したりして)保存したり、電脳空間に住まわせる話は枚挙にいとまがないが、実はそんな簡単な話ではないのかもしれない。意識が外界を認知するためには(脳も含めた)身体という容器が不可欠というか、身体があってこそ意識は機能する、「絶対的前提条件」なのだとしたら、身体と分離しても意識は保ちうるといういう設定は、少なくとも現実性にはかけるアイデアというべきなのではないでしょうか(そのことはまた霊魂(幽霊)の持続性も否定するものであるわけですが)。

 




妄想の第二次脱出計画

 投稿者:管理人  投稿日:2011 313()14380

返信・引用 編集済

 

 

岩手在住の作家・平谷美樹さん、無事(ご家族も家屋も)とのご報告がミクシイに!(^^)

いやまあ、震災後に一度、ミクシイに接続しておられるのに気づいていたので、そんなに心配はしていなかったのですが。むしろ所在生存をなかなか明らかにしないことに、私は何か企みがあるのではないかと、実は思わないでもなかったのです。
それはつまり、平谷さんの、震災にかこつけての「第二次脱出計画」の布石なのではないかと(^^;
妄想ですね、失礼しました(笑)。もちろん実際的に安否の報告などといった余裕はなかったでしょう。ようやくほっと一息ついて、ああそうだ、という感じだったのではないかと拝察します
(でもチャンスはチャンスですよね。これほどのチャンスは滅多とない>おい)
いずれにせよ、よかったよかった。

 




「言葉と脳と心」(八)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 313()112615

返信・引用 編集済

 

 

 第4章は「言い間違いのふしぎ」として、「伝導失語」が取り上げられます(ただしこの病名は著者の考えからすれば不適当なのですが)。
 ブローカ失語ではプロソディの発火が極端に鈍くなってしまいます。
 ウェルニッケ失語ではブローカ領域に障害はない。ただ〈言語性心像〉(初めて出てくる術語。聴覚心像より正確ですね。初めからこれを使えよ著者(汗))が壊れたため、入力されてくる〈音の連なり)を同定できない。逆に「思い」(塊)を表出しようとしたとき、〈言語性心像〉の壊れでちゃんとほぐせない。ブローカ領域は問題ないのでそのときほぐされてない塊(母音子音も崩れる)がそのままプロソディに乗せられて発射されてしまう。しかも当人は対照すべき〈言語心像〉の壊れでそれが間違っているとも認識できない状態。

 一方、本「伝導失語」は、「カラダ」を「カダラ」とか、「クルマ」を「クマイ」という風に、言い間違いをしてしまい、本人も間違ったことが分かっています。つまり伝導失語では「正しい単語の心像は浮かんでいるのに、実際には間違った単語が出」てきてしまうのだそうです。
 〈言語性心像〉は壊れてなく、入力されてくる言語〈音〉はちゃんと理解されているわけです。要するに出力の障害なのですが、ブローカ失語とは違って〈プロソディ〉の発火は正常です(だから一応「流暢に」しゃべれる)。
 著者の仮説は次のようなもの。

 健常者では、表現したい思いの塊(観念心像)が、〈言語心像〉の校正を受けてときほぐされ線状に精密化され、ブローカ領域でプロソディに乗せられ発射(発話)されます。本失語では、観念心像を想起する能力は正常です。問題は言語心像のほうにある。
 著者の説明を私流に言い換えるならば、こうなります。まず、表現したい思い(観念心像)が心に浮かぶ。するとそれがナマエ、この場合は単語ですが、それを引き寄せてくる。ただしこの単語(音声心像)は、この段階では未だ「塊」の状態であるわけです。いわば「カ→ラ→ダ」という風に線状に、通時的に不可逆的に並んであるんじゃなく、「カ」と「ラ」と「ダ」が(場合によっては、それ以外の音も含んでいたりするような、きわめてざっくりした塊として)、順番もなく「共時的」に、並列した状態で固まりを形成している(音韻塊心像)。
 それを通時化(分節化)するのが〈言語心像〉なのですが、この分節化(校正)がうまくいってないのではないか。かかるメカニズム(音韻塊心像の展開)の障害ではないか、というのが著者の仮説。これは中枢処理に関わる障害で、「領域」の障害といえるものではなく、言語表出過程の、きわめて限られた部分がうまく働かなくなっているようなのですが、それゆえどこが責任病巣であるのかという同定は、未だはっきりしていないようです。

 




「物いわぬ海」

 投稿者:管理人  投稿日:2011 312()214640

返信・引用 編集済

 

 

 被災された皆さまには心よりお見舞い申し上げます。
 津波の映像、凄まじかったです。私、早速花輪莞爾『悪夢小劇場』(新潮文庫92)を引っ張り出してきて、収録の
「物いわぬ海」を読み返してしまいました(あと、『海が呑む』(新潮文庫92)も。表題作は続篇というか自作解説風)。
 本篇の舞台はまさに三陸海岸大船渡・綾里であります。明治二十九年六月十五日、綾里白浜(明治三陸地震。このときはまだ津波という言葉がなく「大海嘯」といった)、昭和八年三月三日の綾里(昭和三陸地震)、そして昭和三十五年五月二十四日の大船渡(チリ大地震)と、この地区を襲った三度の地震・大津波がドキュメンタリー風に活写されています。読むとあたかも昨日の出来事を綴っているように錯覚されるほど。
 リアス式海岸の内湾は、津波に押し寄せられると、あとからあとから押し寄せる波を左右に逃がすことが出来ないので累積して平地へ押し寄せる津波より何倍もの高さになる由。地図でわかるように大船渡市は細長い湾のどん突きなのです。本篇によれば側面の山に逃げ上がったものは助かったが、奥へと逃げたものは津波に追いつかれてしまったとのこと。地形の特性でしょうか。

 家・車・船… すべて飲み込み迫る津波 大船渡
 チリ津波でもここまでは 大船渡市の被害
 綾里地区で四十八名行方不明

 ところで、本篇の描写を信ずるならば、いずれの場合も、津波の前にいったん潮が引いて湾が空っぽになったそうです。昨日はどうだったのか。震源地が近すぎて引くいとまもなかったのか。
 また、本篇では直前にイヌが騒いだとあるが、ある方の観察によると昨日はイヌも人間同様突然の出来にオロオロしていたそうです。現代ではイヌも飽食して野生の感覚を失ってしまったのか。や、すみません不謹慎でしたm(__)m
 しかしこの度は原発問題が発生したのが過去と違うところ。最悪の事態ではなかったみたいで、まずは何よりでありました。

 




「言葉と脳と心」(七)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 311()002528

返信・引用

 

 

 著者は〈聴覚心像〉(ナマエ)と〈視覚心像〉などの他の心像(概念)を区別するのですが、よくよく考えたらそうともいえないと思えてきました。たしかに人間の、コトバの発声に限ってはそうなのですが、ではスズムシの音色はどうなのか。[suzumusi]と発語された音を聴いたとき、まず想起されるのはあのリーンリーンという音色ではないでしょうか。或いは木枯らし。これなんぞ視覚心像はないに等しい。あるのは冷たい風の当たる触覚心像とひゅーひゅーとなる聴覚心像のはずです。
 或いはコルトレーン。[korutore-n]という音列を耳にした私は、写真でしか見たことがない視覚心像とともに、まず浮かんでくるのは、コルトレーンのテナーの音です。ただし個別的な何がしの曲のプレイが浮かんでくるのではなくて、コルトレーンの「テナーの音」の聴覚イメージが、漠とした音の塊として浮かんできます。
 このような、言語ではない「音」は視覚嗅覚触覚味覚と共に五感のひとつとして概念に含まれると思います。
 で、元に戻って、コルトレーンの「テナーの音」の塊からの類推ですが、コルトレーン自身が、表現したい「音」の塊を、内部(脳内)に貯蔵していたのではないでしょうか。最初からメロディやフレーズがすっかり出来上がって蔵されているのではないはずです。それは表現を待つ混沌たるマグマのような塊として、いわばごちゃっとトレーンの中にある。それを表出するために、トレーンは、いわば言葉を発するように、混沌を線状にほぐし整理して、しかしてサキソフォンを息と指先の連動で操り(運動性)、表出しているのだと思います。まさに言葉の発語と同じで、やはりプロソディがあって、たとえ音質が判らない極端にチャチなトランジスタラジオで聴いたとしても、そのスタイル(文体or文脈)やフレーズ、すなわちプロソディで、トレーンだと分かります。
 コルトレーンの事例を思いついたことで、先回よく分からないとかいた著者の仮説がするりと腑に落ちました。
 著者はいいます。ウェルニッケ失語は脳のウェルニッケ領域の損傷によってブローカ領域が自走(暴走)するために起こると。ブローカ失語はブローカ領域の損傷のため発症するのですが、ブローカ失語とはなんだったでしょうか。それは言葉を表出する「出力」装置の機能障害でした(単純に言葉が出なくなる)。ウェルニッケ失語ではこのブローカ領域は正常なのです。だからウェルニッケ失語の患者は流暢に、自然にしゃべります。ただ何を言っているか分からないのでした。ウェルニッケ領域の損傷で何が起こるのか。聴覚心像が壊れてしまったのでした。
 すなわち整理すれば、健常者は、ウェルニッケ領域で入力した言葉を理解し、入力情報に対応した妥当な反応(思いの塊を線状に解きほぐしたもの)を、ブローカ領域で運動に変えて出力するのです。
 かかる健常者に対して、ブローカ失語ではブローカ領域が機能しないために、言葉が出なくなる。
 一方ウェルニッケ失語ではウェルニッケ領域がちゃんと機能しないために、ブローカ領域が自走して発語運動を行ってしまう(プロソディに乗せて発射してしまう)。ただしプロソディに乗せられているのは、無意味な音でしかない。
 で、この無意味な音というのが、著者によれば上述の「塊」なのです。ウェルニッケ領域が機能しないために、ブローカ領域は、ウェルニッケ領域で解きほぐされないままの塊を、勝手にプロソディに乗せて発射してしまっているというのです。
これをジャズに引き戻してみればわかりやすい。ジャズマンの頭の中の混沌たる音の塊が、線状に解きほぐされずに、息と指の運動で出力されてしまった状態と考えてよいのではないか。
 それはつまり、ニュージャズがそうなのか? 違います。いっけんフリージャズのプレイは塊がそのまま表出されているように聞こえます。しかしよく聞くとそこには各人特有の反復(フレーズ)があることに気づくはず。山下洋輔の肘打ちは、あれは塊ではないのか。違うのです。なぜなら肘打ちは反復され、その反復が効果を計算してのそれであることが明らかに看取されるからです。
 なかなか理解できなかったことが、ジャズに当てはめてみたらするりと了解できてしまいました(笑)

 




「栖」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 9()225814

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「栖」(元版79)読了。

 いやこれはすさまじい。前作
「聖」は、本篇のプロローグでしかなかった!などと、きいたふうな、浮わついた広告言葉を吐く気にもなりません(吐いとるがね)。

 「聖」の男女が、東京で(それぞれの家から望んで切れて)夫婦となっている。時代は昭和30年代後半、いわば核家族のはしりです。栖んだ場所も都心から1時間かからない東京の新開地(当時はそんな近くでも新開地だったのですね)、いわゆる新東京ということで、これは「妻隠」の延長線上であります。誰に遠慮もないが頼る者もいない。高度成長期日本のまさに新風俗。

 二人に子どもが生まれるのですが、それを境に、女の精神が狂っていきます(子どもの誕生と共にである点、過去に何か原因があったかもしれない。そんな仄めかしが少しある。続篇で分かるのかも)。神経のふれた女を描くのは著者のいつものパターンといえるが、これまではそれが、ルドンの絵のように輪郭の定かならぬ曖昧な世界の中で、一種神秘的な雰囲気を醸し出していました。本篇は違います。著者の視線はこれまでと逆の方向に働いており、あたかもダリの絵のようにくっきりと、毛の先一本まで明瞭です。幻想的な要素は殆ど無く(夢が重要な役割を担うのは従前どおりながら)、あくまで(グロテスクな)リアリズムの形式が維持されている。ほとんど私小説の病妻ものを読む気分です。

 これまでは、女を捉えるカメラは執拗に対象に密着して、グロテスクなまでに微視的な映像を読者の脳内スクリーンに映していましたが、それに比して視点人物である男の方は、対象の手前で焦点が結べずぼんやりしたままだった。今回は、視点人物を(とりわけ前半)男女平等に振り分けており、その結果として、女の発病によって振り回され始める(最後には自身も狂気と正気の境目にまで追い詰められる)男の像も、焦点があってくっきり映し出されています。

 そんな話ですから、しかもストーリーは最初から最後まで緩むことがなくぴんと張り詰めてもいて、なんともいえぬ緊張感が漲っていて、巻末解説にあるように、
「一気に読み通すことを拒む重苦しい読み物になっている」。たしかに私も、途中何度も休憩せずにはいられなかったのでしたが、しかし休憩すればしたで、早く続きを読まなくてはという、後ろから急かされるような、居ても立ってもいられない気持ちが突きあげてきて、今日は残り三分の二を、仕事の合間にというよりも、読書の合間に仕事を片付けながら、根をつめて読み切ってしまいました。いやー疲れた。でも読み甲斐のあるずっしりと重い小説でした。

 以上で
古井由吉『聖・栖』(新潮文庫86)読了。本篇には第三部があるとのことで(『親』という長篇)、これは可及的速やかに読まねばなりません。てことで、またマーケットプレイスに注文してしまいましたよ。

 




「言葉と脳と心」(六)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 9()01571

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 聴覚心像が壊れてしまったからといって、ウェルニッケ失語患者に意識障害や精神錯乱があると考えることは出来ません。たとえば先生が患者に対して「○○さん?」と改まった調子でしゃべりかけると、拝聴する姿勢を示すそうです。これはプロソディは正常なので、先生の態度の視認と、改まった口調(リズム)や語尾を?で上げる、その疑問の形式は分かっており、先生はなにか自分に言おうとしているのだな、と察するということのようです。ただしこの場合、○○が本人の名前と故意に違う名前を言っても関係なく姿勢を改める。それは聴覚心像が壊れているからです。
 着衣、洗面、食事などは全部普通にできることからしても、患者の頭の中での活動は基本正常とみなしうる。

 それなのに、重篤症例では、自分が相手の言葉を理解出来ていないことに気づかない(病態失認)。あるいは自分の発話内容に異常があることに気づかない。本人は言いたいことを伝えているつもりで疑いもしない。この辺になるともはや共感的な理解了解が効かなくなってきます。著者の説明もいまいち腑に落ちません。もっと聴覚心像の壊れに着目してもいいのではないでしょうか。本人の中で「イヌ」のイメージ(概念=視覚心像+触覚心像+嗅覚心像)の聴覚心像(ナマエ)は、もはや[i・nu]ではない別の音列なんです。しかも壊れているのだから都度変わるのかもしれません。であればその都度々々の「音列」を、患者はその都度正しいものとして認識するのではないか。[in・u]という記憶(聴覚心像)が失われてしまっているのだから、患者はそれをもって比較して判断することが不可能になっている。だから気づかないのではないでしょうか。

 この辺は大半妄想ですので、ぜひ本書に直接当たって、検定していただきたいと思います。もっとも私自身は正確な学説の吸収よりもSF的な認識の揺さぶりを求めている部分が大きいのでぜんぜん困らないのですが(>おい)(^^;

 




「聖」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 8()201735

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『聖・栖』(新潮文庫86)より「聖」(元版76)読了。

 承前、先回も書きましたが、本篇は著者の新機軸というべきで、それまで作品を成立させる背景的な意味しかなかった設定が、はじめて前面へ出て大きな意味を担っています。主人公は「(サエモン)ヒジリ」という、土俗的な風習に絡め取られて、お堂(と隣接する小屋)から抜け出せない。むろん女への執着がそこにはあるわけですが、それも含めて尋常な意識ではない状態で留め置かれる。その外形はまるで「砂の女」を髣髴とさせる要素もあります。都市の中の男女を描いていた従来の著者の作品とは180度異なっている。
 また、従来は眼の精度を極限にまで上げ、対象たる女の内も外も、その微視的なレンズで舐めるように撮ることで、一種グロテスクな神秘性を醸成していたのが、本篇では設定世界に関心が広がった分、極端な微視性は後退し、対象との距離はごく一般的な小説に近づいていて、女も多少癇性ではあっても神経の歪みはさほど感じられません。とはいえ何ともしれぬ曖昧な、グロテスクな神秘性は従来通りで、ただしそれもこれまでと違って小説世界そのものから発せられている、これまた新機軸と思わせられました。もっとも既に続篇の「栖」に着手しているのですが、続篇では従来の手法に回帰しており、件の女の神経の窶れが、接写に近い距離から、これでもかとばかりに撮し取られています(^^;。結局のところ本篇では、女は、いわば(家族に対してたった一人で祖母を守るという)臨戦態勢にあったわけで、それが逆に精神を勁く保たせていたということでしょうか。
 土俗的な風習をテーマに描かれた本篇は、ある意味異形コレクション的な風味もあり、また上記のような視座の取り方と相俟って、娯楽小説読者にも十分楽しめるものとなっている。異色作といえるかもしれません。

 ということで、既に「栖」に着手。二六〇頁中三分の一の九〇頁まで。

 




「言葉と脳と心」(五)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 7()18289

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 先回、ウェルニッケ失語ではプロソディが壊れてしまうと書きましたが、勘違いでした。壊れるのは〈聴覚心像〉で、プロソディは正常です。
 また聴きなれない言葉がでてきました(^^;。
 我々が耳で言葉(音声)を聞くとき、たとえば[i・nu]という音が耳に入ってきます。すると脳は、現実の「イヌ」(の心的映像)を想起します。心的映像の「イヌ」は、〈視覚心像〉や〈触覚心像〉や〈嗅覚心像〉の合成であります。要するに現実の生体であるイヌの「像」が浮かんでくるわけですね。
 この、[i・nu]が、イヌの〈ナマエ〉すなわち〈聴覚心像〉です。このことから分かるように、〈聴覚心像〉は、〈視覚心像〉や〈触覚心像〉や〈嗅覚心像〉とは同列ではありません(文字情報も、視覚から入ってくるけれども聴覚心像と同じ)。〈聴覚心像〉も他の心像も、脳の中に貯蔵されている「記憶」ではありますが、上記に対応して、収納の場所が異なるのだそうです。
 図式化するとこうなります。脳の聴覚連合野にナマエ(音の連なり)の鋳型というか「抜き型」(音の鋳型ですけど)が貯蔵されていると仮定したらどうでしょう。外部から耳を通して入ってきた[i・nu]という音は、まず脳に所蔵されている「イヌ」というナマエ(聴覚心像)=抜き型と照合されます。合致すれば(正常なら合致します)[i・nu]は抜き型を通り抜けることができる。それがキイとなって〈視覚心像〉等の「合成心像」が蔵されていた扉が開き、意識にその合成心像が浮かび上がるという次第。我々が[i・nu]という音を聞けば即座にイヌをイメージしますが、そこには以上のような過程があったわけです(そういうことが失語の観察から分かってきたわけです)

 ではこの〈聴覚心像〉が壊れてしまうとどうなるでしょうか(文字でも同じことです)。
 それはこの(音の)抜き型が、何らかの理由で歪んでしまったと考える。 [i・nu]という音が入って来、抜き型〈聴覚心像〉と照合されるわけですが、抜き型が壊れているので、正しい音にもかかわらず抜き型に引っかかって通り抜けられない。はねられてしまう。ゆえに[i・nu]という音は合成心像「イヌ」を引き出せない。キイが合わない。

 逆に、患者が「イヌ!」と言いたいとします。ところが患者の「イヌ」心像を表す抜き型〈聴覚心像〉が壊れていますから、発声されるのは[i・nu]という正しい音ではなく、歪んだ抜き型を通り抜けられる、歪んだ音の連なりになってしまう。でたらめな音が発声されるわけです。しかし「プロソディ」は壊れてないので、遠くから患者のしゃべるのを聞いている人には日本語のように聞こえる。つまりタモリ語みたいな状況が生まれる。
 「言葉を理解できなくなること」と「話す言葉が崩れてしまうこと」、両者は同じ事態の表と裏だと思います、と先回に書いた所以です。

 ところで日本語の母音は五つですが(古代は八母音)、中国語はもっと多いそうですね。英語も曖昧母音があります(もちろん日本語から見て曖昧母音なのですが)。赤ちゃんは世界中のすべての母音を聞き分ける能力がありますが、次第に母語の母音しか聞き取れなくなります。これは以前色について書いたのと同じでありまして、母音と云っても連続的に変化する音を勝手に(恣意的に)切り分けているだけなのです。それはしたがって後天的に取得したものです。
 ウェルニッケ失語も重篤になると、この母音(当然子音も)が崩れてしまう。こうなったら聞き手は聞き取った音を文字に記すことすらできなくなります(というか聞き取れないのですが)。文字は音韻体系と相同ですから、音韻体系を外れた音は写すことができなくなる。本書は明確には書いていませんが、音韻が崩れるとはプロソディが崩れるということではないのでしょうか。

 




「聖」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 6()222626

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 「聖」は八十頁。一六〇頁の長中篇なので半分。純文仕様では充分長篇であり、元版の単行本は本篇単独で出版されています(文庫化に際して続編の「栖」と合本)。
 
山登りの帰途、雨に降り込められ、一夜を借りた麓の村のお堂で、主人公は女から、もうすぐ死ぬ祖母のため遺体を背負って川向こうに運ぶ「ヒジリ」になってほしいと頼まれる……
 おお、これは正史ばりの土俗的世界ではないですか。これまでも「木曜日に」や「杳子」のような山登りものがあり、その系列であるのは間違いないが、基本著者の語る話はエリート大学生(もしくは卒業生)の男女の話であり、彼らの家庭も東京在住の中流以上の家庭であることが多かった(会話も非常に知的)。本篇はそれを突き破ろうとする意図を感じます。面白い!

 




「言葉と脳と心」読み中(四)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 6()161221

返信・引用 編集済

 

 

 「言葉を理解できなくなること」と「話す言葉が崩れてしまうこと」、両者は同じ事態の表と裏だと思います。
 そもそも言語活動は、「思い」を「口に出す言葉」に変え、「耳で聞き取った言葉」を「思い」(意味)に変える、この繰り返しと著者は述べます(書き言葉でも同じでしょう)。
 ブログや掲示板で書いていて、何が大変かというと、まず、表現を欲する「思い」が頭の中に「ごちゃっ」と塊の状態であるわけです。それを「表現」(表出)するためには、塊を、時系列に線状にほぐしてプロソディに乗せなければならない。でないと相手に伝わりません。また、線状にほぐすことで自分自身も、自分が何をいいたかったのか改めてはっきり知ることができる効果がある(それは間違っていたことを自覚したり、いう必要のないことだなと気づいたりする効果でもある)。つまり「思い」が「厳密化」される。
 簡単なことだと、この過程も楽々クリアしますが、ちょっと複雑になると、私などは途端に呻吟してしまうんですよね。私のような健常者(一応そのつもりなんですっ!)でもなかなかたいへんです。
 この過程が、失語症では(脳の損傷で)阻害されてしまいます。単に阻害されるのが第2章の「ブローカ失語」だと思います。著者は言葉の生産の流れが悪くなるといっています。
 ところが、「ウェルニッケ失語」ではもっと深刻で、このプロソディが「壊れてしまう」らしいのです。(つづく)

 [ご注意] この辺から(以前もですが)本書の要約を越えて、私の理解(場合によっては妄想)が混じってきていますので、検索で来られた方は、正確なサマリーではない点充分ご留意の上お読み下さい。決して鵜呑みにしないように。コピペ論外(^^;

 




ヒロイックファンタジー脳

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 5()233935

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『SF三国志』を読みかけたところ、イマイチのれなかった。それではと『地球の汚名』を手にとったのですが、どうもスペオペは、今の私は受け付けないようです。ヒロイックファンタジー脳になってしまっているんですね。ということで、けっきょく上二作よりはヒロイックファンタジーっぽい(ホントか)『聖・栖』に着手(^^;。

 

 




「言葉と脳と心」読み中(三)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 5()131624

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 第3章は、「聞いた言葉が理解できなくなる不思議」と題して、《ウェルニッケ失語》が取り上げられます。この失語は、ブローカ失語以上に中核的な失語とのことで、特徴が二つあります。一つは言葉を理解できなくなること。もう一つは話す言葉が崩れてしまうこと。

 その前に、《プロソディ》について説明します。
 前回ふれた、思いを発話するにはリズムや定型に乗せる必要があるといいましたが、これが《プロソディ》です。具体的にはドンガバチョの藤村有弘の嘘外国語。……え、判らない? 判りませんか。それじゃあタモリのタモリ語にしましょう。タモリが発する中国語にしろ朝鮮語にしろ、いかにもその国の言語らしく聞こえますよね。
 でも、母国語の人が聞けば何を云っているのかさっぱりわからないはずです。ただリズムとかアクセントなどが「らしい」だけですから。この「らしさ」がプロソディなのです。
 プロソディは各言語によって特徴があります(だから嘘中国語でも、なんとなく私たちはそれが中国語だと認識しちゃいます。タモリの中国語を中国人が聞けば、何をいってるか分からないけれども、どうも中国語みたいと感じるはずなんです。
 実は《ウェルニッケ失語》もこのような事態になるらしい。患者は何か訴えるようにしゃべり出します(心のなかに思考がある)。しかし口から発せられるのは、外国人のタモリがしゃべるような嘘日本語(のようなもの)なのです。それが日本語であるのは分かるのだが、しゃべっている言葉(というよりも発せられる〈音〉)は支離滅裂なのです。(つづく)

 




「行隠れ」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 4()23117

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 古井由吉『行隠れ』(河出書房72)読了。

 手許の資料によると、1970年8月「杳子」(文芸)、11月「妻隠」(群像)掲載。翌71年1月に芥川賞受賞となり、受賞第1作として2月に本篇の第1部「行隠れ」が〈連作1〉として文芸に掲載されています。すなわち本篇は著者の芥川賞受賞後第1作であり、第1長篇でもあるわけです(1972年3月31日初版)。私の持っているのは1ヶ月後、4月28日刊の三版。やはりものすごい期待度だったことがうかがわれますね(まあ今も昔も同じということかも)。
 ところが今や、ネットを見回すに、ほとんど書誌情報が見つかりません。というか皆無。実は『杳子・妻隠』(河出書房71年1月刊)以前に、『円陣を組む女たち』(中央公論70年6月刊)、『男たちの円居』(講談社70年7月刊)が上梓されているのですが、この二作品集に至っては、なんとbk1の検索でも出てきません(ーー;。古井に限りませんが、純文学作家のネットでの手薄さは目を覆うばかりです。

 その点、SF第1世代はめぐまれています(内向の世代とSF第1世代はほぼ同世代なんです)。下の宮崎惇なんて、出版的には非常に不遇だった作家だと思うんですが、石川誠壱さんや高井信さんのような方がきちんと調査し発掘されて、情報をネットにアップされています。同世代のミステリ作家と比べても、SF作家は調査がゆきとどいているように思われます。
 これは純文学のファン層とSFのファン層の、パソコンやインターネットへの親和度の差異に由来するのは明らかですが、それ以上にSFが《ジャンル》として発展してきたことが大きいように思います。
 SF読者にとって、個々の作家、個々の作品であると同時に、SFという《ジャンル》自体が一種擬似人格的に認識されて、海外も含めれば1920年代(或いはそれ以前)から現在までのSF史が、一本の流れとして感取されているからではないでしょうか(ミステリは拡散しすぎてそのような一本の流れとしては、ファン自体も認識し得ない)。ゆえにSF読者の「読み」は、いきおい前代との連続を重視したものとなる。たとえばクラーク→小松、アシモフ→眉村、アンダースン→豊田、初期ハインライン→光瀬とか。
          → 堀
 最近では小松 ―|    のように。
          → 谷
 山野浩一も笠井潔もその評論ではこのようなジャンル論の形式を踏んでいますね。
 一本の流れ、〈SF〉という一個の擬似人格ですから、すべてのSF作家、作品に同じ注意が払われる。そういう傾向があるから、宇宙塵にしか発表しなかったアマチュア作家まで含めて同じ地平で平等に扱われるんじゃないでしょうか。

 や、話がはずれました。

 『行隠れ』、これも面白かったです(^^)。仕事も押していて、もうやめよう次の段落で切り上げようと思いつつ、けっきょく遂に、最後まで読み通してしまいました(^^;。

 またしても、ある傾向の女性が神話化・幻想化される話です。著者の家族構成は知りませんが、おそらく本書の主人公の家族のような、女兄弟の中で育ったんじゃないでしょうか。表層的に思えば、後半出てきて〈凝視〉される良子なんて、ただの癇性の女でしかない(のかも)。それが著者の筆にかかれば、なんともしれぬ、不思議な、現実とは思えないファントムレディめいた様相を示し始めるのです。さらにその(最近ほどではないにしても)古代めいた美文の効果か、小説世界そのものも、濃密な、粘性の高い霧に半ば閉ざされて、この世とは思えぬ異世界に見えてきます。この喚起力が著者の小説の魅力で、一旦はまると癖になってしまうのですね(笑)。
 さて、『櫛の火』(74)、『水』(73)、『行隠れ』(72)と、時系列をさかのぼってきたわけですが、この伝でいけば次は『杳子・妻隠』(71)となります。一応その予定ですが、この作品は二度ほど読み返しているんで、あるいは反転して『聖』(76)にするかも。『聖』は未読なので。でも次はいったんSFに戻りたいと思います(^^;。

 




Re: 「太陽神の剣士タケル」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 4()204658

返信・引用

 

 

> No.2937[元記事へ]

石川誠壱さん、お久しぶりです!
「宮崎惇と私」、移動先のご教示感謝です。いやー労作ですね。折にふれて参考にさせていただきたいです。
とりあえず『時空間の剣鬼』の収録作品のタイトルが、もう魅力的すぎます(『魔界住人』もですが)。読みたいっ!!(^^;

石川さんのことですからもちろん先刻ご承知かと思いますが、『太陽神の剣士タケル』のタイトルを掲げておきます。
        
チヂノク
 「英雄タケルの奥羽伝説」
       
あれかたがみ
 「クズ王国の荒頑鬼」

 「海魔の棲む島」

 「邪神の森の女王」

 「空飛ぶ人面岩」

 「アソベ王国の決戦」

ありがとうございました。

 




Re: 「太陽神の剣士タケル」読了

 投稿者:石川誠壱  投稿日:2011 3 4()114428

返信・引用

 

 

> No.2922[元記事へ]

【宮崎惇と私】は、ここへ移動しました。

http://www.geocities.jp/ishikawasei1/Mkun.html

 




「言葉と脳と心」読み中(二)

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 3()202031

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第一章の補足。空の青、海の青、信号機の青、すべて厳密には違う色です(空の青に限っても千差万別の色合いがある)。それをすべて<青>と、我々は認識します。これから導かれるのは<青>が具体的な「事実」に属するものではなくて、事実とは一旦切り離された、「考えられたもの」だということではないでしょうか。
あるいは日本人の<青>と、イギリス人の<blue>は完全に重なりあうものではない。ゆえに<青>や<blue>は「文化」であるといえます。

さて、第二章では「発話できなくなるふしぎ」と題されて、第一章の失語症とはまた別の、失語症中の失語症といわれる「ブローカ失語」が検討されます。この失語は、まさに言葉が出なくなってしまう。で、いくつかの代表的な説明が検討されるのですが、結局、言葉を発するという行為は、図式的にいえば、発声(発語)するには、エイヤ!という気合がいるってことです。音じゃなく文字でも一緒。ネットで文章を書いている方は同意してもらえると思うのですが、最初のワンセンテンスが極めて重要。それがハマればワッと書けちゃいます。それがハマらないと、なかなか書き続けられず、また最初から書き直す事が多い。
あるいは定型的な言葉や常套句は出やすい。普段はしゃべらない人が、営業の現場では流暢にしゃべれるというのは、いくらでも周囲に見つけられる。ブローカ失語で言葉をほとんど失った患者も、感情が高ぶると「クソッタレ」みたいな言葉がするりと出てくるらしい。常套句はエイヤ!の閾値を下げるんですね。
要するに「発語」は一種のリズムに乗って表出されるものなのです。ブローカ失語の患者は、この、乗せるべきリズムあるいはリズムに乗せるための最初のエイヤ!が機能しないんだそうです(脳の損傷で)。(つづく)

『行隠れ』に着手しました。

 




「架空の街の物語」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 2()201652

返信・引用

 

 

津山紘一『架空の街の物語』(集英社文庫コバルトシリーズ81)読了。

 《小説ジュニア》に短編連載されたものとのこと。収録十三編すべて、二十頁そこそこの(あとがきによれば三十枚)殆どショートショートに毛が生えたくらいの長さなんですが、どれも本格的な短編小説を読んだような、ずっしりした読み応えがありました(但し、うち二編はショートショート集)。
 それは、書かれたストーリーだけがあるのではなく、その前にも後ろにも、背景にも、書かれざる《物語の世界》が広がっているように感じられるからだと思います。書かれているのはストーリーだけですが、それが書かれていないものまで感じさせてくれるのです。これぞ「短編小説」ではないでしょうか。この豊かな小説世界が小説ジュニア掲載なのか? という一種意外な驚きに打たれました。いやまあ小説ジュニアを読んだことがないので、イメージですが(おい!)。

 むろん少女小説的なプロットの作品もあります。たとえば
「草笛」「錆びたブローチ」。それぞれ佳い小説でしたが、とはいえこんなのばかり並べられちゃうと、私は嫌になってくるのです。で「錆びたブローチ」の次の「チカちゃん」がつづけて同様に少女小説風の出だしで、またかと、いささか警戒感も湧いてきたのでしたが、途中から想定外な、異様にねじ曲がった展開になりとんでもないところに着地したのには唖然呆然(もっとも著者の狙いはコンフォーミズムと流行に捕らえられる非主体性を突っつくことにあったみたいですが、一行でこれをやるのはちょっと無謀(笑))、狙いすましたかのようなカウンターパンチでした。

 かくのごとくになかなかの小説巧者で、
「アッコの大冒険」は正統的な児童文学、「天使の涙」は戦争文学(小説ジュニアで!)、「長い航海」は海洋小説、「風邪をひいたら」はO・ヘンリー調、「さむい夏」は、これはなんと表現したらいいか、一幕ものの怪奇幻想譚(?)、「恋するコンピュー太」は宇宙SF、「すれちがい」、「扉のむこうに」はショートショート集と、それなりに(とはリリシズムの枠内で、という意味ですが)多様で読者を飽きさせません。
 マイフェイバリットは
「スナック・鳩ポッポ」、「あたしはネズ美」

 しかしネズ美にしろコンピュー太にしろ、ネーミングのセンスはちょっと首をかしげますなあ(汗)
 他の作品も読んでみたくなりました。高井さんに昨日リンクしていただいたリストを参考に、別に慌てませんが、探求したいと思います。縦書きページへ

 




Re: 「言葉と脳と心」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 2()003119

返信・引用 編集済

 

 

> No.2933[元記事へ]

>管理人さんがこれまで興味を持っていなかったことのほうが不思議です

なんででしょうね。なんとなく、甘い、女の子向けの話を書く作家のように思ってたみたいです。大体この本だってコバルト文庫ですから。きっとオチの切なさや残酷さ(の面白さ)に、当時は気づけなかったのかもしれません(^^;

 




Re: 「言葉と脳と心」読み中

 投稿者:高井 信  投稿日:2011 3 1()222715

返信・引用

 

 

> No.2932[元記事へ]

 津山紘一、面白いですよ。
>  著者は別冊新評のSF七人衆にも入っていたように第二世代です。が、プロパー的見地からは無視されているようです。いや私自身、全く興味を持ってなかったのだから人のことはいえません。でもこの作品集は粒ぞろいです。もっと評価されていいんじゃないでしょうか。
 激しく同感します。というより、管理人さんがこれまで興味を持っていなかったことのほうが不思議です。
 以下、ご参考に。
http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2009-07-06-2

 




「言葉と脳と心」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011 3 1()211428

返信・引用 編集済

 

 

 『言葉と脳と心』再読は一〇〇頁まで。
 失語症が興味深いのは、それが人間(心、自我)が身体内存在であることを明らかにするからです。
 第一章で、患者にいろんな色の糸を見せて、それが何色かを問う実験が紹介されているのですが、患者は答えられません。しかしそれは色が認識できなくなったからではなく、色のカテゴリがわからなくなったのです(抽象的態度の障害)。
 個々の色糸に対しては、それぞれ「桜の赤みたい」「オレンジみたい」「わすれな草みたい」という言い方でなら答えを返している。つまり具体的な色は認識できている。しかしそれらが、「ざっくりと」〈赤〉である、〈青〉である、ということに確信が持てないのだそうです。
 本板で何度も書いていますが、人間の認識できる赤から紫までの物理的な可視光はそもそも連続的で、それを十色なり十二色なりに、人間は「恣意的」に区切って認識している。
 だから健常者でも、これは青なのか緑なのかと迷う境界線上の色がある。しかしたいがいはざっくりと、「これは青」「これはピンク」と瞬時に判別します。
 じつはそう見なしただけなのですが(余談ですが、その認識の仕方・区切り方・に二次的に影響されるのは『言葉と思考』で触れました)、そういう認識の態度を抽象的(カテゴリー的)態度といい、これが障害されると、すべての色が別々に認識されて(情報量が過大になって)社会的生活が営めなくなる。上の患者がそうです。色が分からなくなったのではなく色の分類(きめつけ)ができなくなってしまったのです。そしてそれは脳の或る部位の損傷のせいなのです。
 この手の失語症の人に、家の部分(壁、床、天井など)がいえなくなるのも多いそうです。確かにこれらの呼称も、〈連続〉を恣意的に切り分けた名称ですね。やはり天井や床が何であるか判らないのではなく、図で書かせればこれは壁、という風に示せるとのこと。ところが現実の具体的な室内に立つと、どこまでが壁で、どこからが床なのか確信が持てなくなるんだそうです。著者の用語にはありませんが、要するに《パターン認識》(抽象的態度)の障害ですね。(つづく)

 『架空の街の物語』は二一〇頁。ほぼ三分の二。
 いやー面白い。ただしパッパッと読みとばせませんな。ずしんとくるので、連続的に読まないほうがよさそう。今日は上の新書と交代交代で読んでいました。
 著者は別冊新評のSF七人衆にも入っていたように第二世代です。が、プロパー的見地からは無視されているようです。いや私自身、全く興味を持ってなかったのだから人のことはいえません。でもこの作品集は粒ぞろいです。もっと評価されていいんじゃないでしょうか。縦書きページへ

 





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