ヘリコニア談話室ログ(20114)


「しょーもない、コキ」、bk1で予約開始!

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月29日(金)17時21分52秒

返信・引用 編集済

 

 

 眉村さんのエッセイ集『しょーもない、コキ』(出版芸術社)が、BK1に反映されました! もう予約できるようです!!→http://www.bk1.jp/product/03412419

 
【内容説明】
 SFの眉村卓がコキ(70歳)を節目に「しょーもない」とつぶやく日常を自筆イラストとともに綴る小説より面白いショートエッセイ集。

   ↑
  
???なんかふしぎな内容説明ですね(汗)

 今回は表紙も眉村さんのイラストになるんじゃないか知らん(^^)。

 



これみよがし

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月29日(金)15時27分33秒

返信・引用 編集済

 

 

 EWI>一番下のbとb♭のキイが電波障害のラジオみたいな音になってしまい、はや故障かとヒヤッとしたのですが、ネットでFAQ集をみつけて調整したら治った。ほっ。

 それはさておき、下の、「これみよがし編」はどうなのよ。「広告の効果」的には教科書どおりでこれでいいのかもしれませんが、面白い面白くないは措いといて、製作者としてどうなんよ、と、私は感じました。つまり職人として、ということですが……。なんというか、恥ずかしくないのかね。それとも満足しているのだろうか。
 わたし的には典型的な「面白いけどつまらない」というやつなんですが。同業者はどんなふうに感じるのかな。元ウガセンの方はどう感じられたのだろうか。知りたいなあ(^^ゞ

 

 



MP3ファイル

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月28日(木)09時30分41秒

返信・引用

 

 

また消失していました。復活。
あ、FFFTPが2時48分に更新された履歴が残っているではないか。何なんだろうね。

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月27日(水)19時15分32秒

返信・引用 編集済

 

 

 ◎出版芸術社より、眉村卓さんのエッセイ集『しょーもない・コキ』が出版されるみたいです! いちおう五月刊行の予定だそう。コキは、古希でしょうか? 楽しみ〜(^^;

 ◎もうひとつ、NHK文化センター神戸教室にて、眉村先生の新しい講座が五月より開講されます。上記リンク先では、まだ4月開講分しか反映されていないので、詳しいことが分かったら、また告知致します。

 ◎あと、現在開講中の神戸新聞文化センターで、新たにもう1講座受け持たれるようです。こちら(の一番下)から一日講習会・体験講座の申し込みができますが、これは従来の講座の分かも。確認してから、こちらも再告知します。

 ◎大阪芸大からは教え子さんがすべて卒業して、完全に足を抜かれた(>おい(^^;)んですが、まだまだお忙しそうです。ええこっちゃ(笑)

 ◎住職はシーア派じゃなくてスー派だったのか→http://www.cwo.zaq.ne.jp/bfapw502/nikki.htm

 ◎『エディプス・コンプレックス論争』に着手。

 ◎無念最後で集中力が途切れた→http://okmh.web.fc2.com/EWI/cs3.mp3
 まあまあのが録れた→http://okmh.web.fc2.com/EWI/cs4.mp3 私は分を知っているのです(^^;
 ということで、復習はもちろんしますが、新しい曲にチャレンジしようかな。

 



「ドリーマーズ」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月26日(火)22時39分6秒

返信・引用 編集済

 

 

 ありがとう浜村淳ですもとい管理人です(^^;。
 
柴崎友香『ドリーマーズ』(講談社09)読了しました。

 短篇集です。本書もなかなか面白かった。なかでも表題作が、書名に選ばれるだけあって一等よくできています。父親の一周忌で大阪に帰ってきた主人公は、(どこかで飲み会のあと)最終の地下鉄中央線で大阪港駅の妹夫婦のマンションに向かう。話は地下鉄が阿波座駅を出て地上に上がってくるところから始まります(ただし駅名等は明示されない。以下同じ)。車内の描写がすごくいい。いかにも最終電車らしく、酔っ払って少年隊の決めポーズのような格好で、反り返ったまま寝ている男。やはり酔っ払っているのだろう、吊革につかまって体を浮かしながら奇声を発している男。それらを眺めて笑っている、チアガールの衣装の上にウィンドブレーカーを羽織っている女……。ちょっと不思議な連中を乗せて最終列車は闇の中を走る。

 何度も言及しておりますように、乗り物で(幻想世界に)到着するのが幻想小説の基本パターンであるわけですが、本篇も例に漏れません。この車内の奇妙奇天烈な連中の描写は、いかにも幻想小説(軽ファンタジー?)の開幕にふさわしい。というか、実は主人公が地下鉄に乗った段階で、すでに《幻想世界》は始まっているのです。それが証拠に、地上に出て最初に止まった駅(だから九条駅でしょう)で、若いカップルが降り、次の駅、弁天町駅で吊革男ともう一人が降りる。この駅が弁天町駅であるのは、その駅を出発した電車の
「窓の外の景色は、黒い闇の部分が増え、そこに見える白い光の点々は、低いところに、遠いところに、私たちから離れていった」という描写から明らか。となれば、その次の駅は朝潮橋駅のはず。なのですが、地下鉄は一気に、大阪港駅へと到着する。
 どうやらこの世界に、朝潮橋駅の存在しないようなのです(笑)。単に省略しただけだろうって? 弁天町から大阪港まで、おそらく6分以上あるはず。ところがその間の会話といえば、
「今、好きな人いますか」/「うん」(即座)/「私も!」(155p)だけ。あとは停車のための減速で空き缶のようにゴロンと進行方向に転がった少年隊の描写があるだけ。やはり朝潮橋は存在しないんです!

 これは何を意味するのでしょうか。本篇の《小説世界》が、以下にも述べますが、リアル世界とまったく同じ世界ではない(幻想世界である)ということを表わしているに違いありません。しかし、それについてはあとで述べます。
 とまれ、電車は減速を始めた。主人公は降りるために立ち上がる。しかし、ふと見るとチアガールは座ったまま。あれ、と思ってすぐ気がついた。この地下鉄路線、
「長い間次の駅が終着駅だった」のだが「何年か前にわたしがちょうどこの街を離れたころに路線が延伸した」(156p)ことを思い出したのでした。港町ですから、ここで行き止まりなのです。その先は海しかない。だから「何十年も終わりだった」のです。ところが今やそれが「途中になり」、線路はここから海へ潜って、埋立島へと至っているのです……。たしかにリアル世界ではそうなのですが、主人公は「もしかしたら、線路は下降して海に潜るのではなくて、空に向かって昇っていくのでもよかったよかったかもしれない」(157p)と考える。ここでも、この世界が、リアル世界とは少しずれているかもしれないということが、ほのめかされていると看做せなくありません。
 さて、大阪港駅で降りた主人公。(天保山の)大観覧車の照明も、はや消えていて、明るいのはローソンだけ。そんな時間。
「金曜日と土曜日の境目だった」(158p)。妹夫婦のマンションに辿りつきます。

 この妹の造形がとてもよい。主人公も含めて、本篇の登場人物は概ね夢見がちな、だらりんとした人間ばかりなのだが、この妹・沙織だけは常に忙しく立ち働き、まるで潔癖症のように片付けまくっている。
「沙織はだいたい複数のことを並行してやっている」(166)。この沙織、古井由吉の描く女たちの同類なんですよね。沙織の夫のマサオはいたって暢気で、どうも年下っぽい雰囲気。なので釣り合いが取れているようですが、一歩間違えば『聖』三部作の女です(笑)。そういう対蹠的な女を配置することで、一種対位法が効いて、小説世界を引き締めています。沙織がいう。「夢? わたしは見いへん」/廊下からマサオの/「夢は見よう」/という声が聞こえた。(182p)

 実は本篇の主たるモチーフは《夢》なのです。マンションに辿り着き、飲み会での酔いが今更のように襲ってきて、炬燵でうつらうつらした主人公は夢を見ます。この夢が、なんと、眠っているのだけれども耳から入って来たらしい、テレビの音声と室内の会話から合成されたものだったことが起きてから分かる。マサオも同じように炬燵でうたた寝していて夢をみるのだが、これまた右に同じで大笑いとなる。
「目は閉じれるけど、耳は閉じられへんねんなあ」(175p)
 マサオの見た夢は、金本の偉業(安打に関する記録らしい)を称えるテレビの報道番組と、イラク戦争のドキュメンタリーから構成されたものだったんですね。金本の安打の記録といえば、これは二千本安打しか思いつきません。検索したら、金本の記録達成は2008年4月12日(ちなみにイラク戦争は2003年から)。ですから本篇で描かれるこの話の時間は、2008年4月12日もしくは13日未明のこと、ということになります。4月初旬ですから、当然部屋には炬燵がまだあるわけです。

 でも――よくよく調べてみると、金本が2000本安打を達成した2008年4月12日は、土曜日なんですよね! ところが上記のように、小説世界の時間は、
「金曜日と土曜日の境目だった」(158)。だとすれば金本の偉業は翌日の試合で達成されるので、この時点では未達成のはず。やはりこの世界は、リアル世界そのままではない。朝潮橋では空間でしたが、ここでは時間も少しずれていることが、それとなく示されているのです。
 更に細かいことをいいますが、大阪港駅がテクノポート駅とつながり、終着駅から通過駅になったのは1997年なのです。小説内の「今」の《時点》が2008年だとしたら、とても「何年か前」どころではない。でも中央線に編入されたのは2005年なので、そこに着目すれば3年前となり、「何年か前」は妥当な表現となります(158pに
「二歳から三年前まで住んでいた部屋」という記述があり、これを裏付けます)。上記に従っていえば、本篇の世界では、OTSテクノポート線の歴史は存在せず、2005年に初めて中央線が延伸した、ということになる(笑)。

 ……と、もちろん考えてもいいのですが、むしろ著者において非常に強い印象があったに違いない、終着駅が途中の駅になってしまったという、一種のセンス・オブ・ワンダーをどうしても言い表したくて、97年に感じたそれを、小説内に摂り込むため05年に持ってきたというのが(小説作り上の)舞台裏なのではないかと私は推理しますが、これは余談でした(笑)。

 以上だらだら書いてきたのは、結局何を言いたいかというと、著者はリアルな回想記を書いているのではないということの確認です。リアル世界とは少しずれた世界として、いわば幻想世界として、構築している(その意味では先回の『ビリジアン』の読みは、初読で情報が少なすぎたせいもありますが、私小説的なリアルにひきずられすぎたかな、という気が今はしています)。
 上述のとおり本篇では、(まさにタイトル通り)各人の夢がライトモチーフとして語られるのですが(但し妹の沙織以外)、その中で、主人公の見た夢には亡き父が現れる。夢の中で父は、自分が死んでしまっていることに気づいていないようなのです。もう一晩泊まった次の夜の(つまり土曜の夜の)夢にも父が現れて、やはり死んだことに気づいていないように、主人公には思われて仕方がない。夢の中で、事実を告げてあげるべきなのか、主人公は悩む。言ってあげなければ、一周忌も数日後に控えて、成仏できない(とは書かれてませんが)のではないかと気がかりな一方で、ずっといてほしいという気持ちも。

 その気持を、主人公は携帯電話で、付き合い始めたばかりらしいボーイフレンドに語る(上記の
「うん」私は即答した。聞いてくれてうれしかった。(156p)の、彼ですね)。聞いてもらって、聞いてもらえただけで、主人公は何故か安心します。そもそも本篇は一周忌で帰ってきたことで始まる。その意味で、ここで主人公は、ボーイフレンドを受け手に、フロイトのいわゆる「喪の仕事」(モーニングワーク)を完結させたといえる(cf『フロイト思想のキーワード』)。魂鎮めとは一義的には死者の魂(霊)がふらふらと迷い出さずにきちんと成仏させることですが、実はそういう儀式を行なうことで、むしろ自らの心を、死者への気持ちを断ち切って安定させるものなのです。だとすれば、まさに「喪の仕事」とはそのことを差します。
 つまりここで主人公の心から、ずっと尾を引いていたものがいったんリセットされる。で、ラストの
「結婚祝いやな」(205p)が効いてくるのです。死の反対は生ですが、結婚は「生」に比定できる。上記の言葉は直接には友人の「結婚祝い」ですが、主人公のうちでは自身の「結婚」が含意されているわけです。一周忌を目前に「藻の仕事」で一定の決着をつけた主人公の新たな「生」の予感で、物語は終わります。

 後は簡単に。
 
「寝ても覚めても」は、ラスト一行がめちゃくちゃ面白い。この1行のためにストーリーがある。
 
「束の間」は、大晦日という「カテゴリーの中間領域」に、つかの間開けた無時間地帯に、主人公が入り込む、一種トワイライトゾーン風。構造論的にいってカテゴリー間の隙間に魔が宿りやすいのは言うまでもありません。
 
「夢見がち」は焼肉を食べに、福島駅から環状線に乗った主人公たちの、鶴橋駅までの間の車内での会話が描かれるだけ。ところがそれが一種百物語になってしまう。オモロイなあ。究極の環状線小説(^^;。
 
「クラップ・ユア・ハンズ!」も一種の怪談で、これも怖いのか可笑しいのかよく判らん、変な小説でよかった(^^)
 
「ハイポジション」でも夢がラストのオチに効果的に利用されています。

 



「フロイト思想のキーワード」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月24日(日)22時37分47秒

返信・引用 編集済

 

 

 これでは足が弱りそうなので(という強迫観念にせきたてられて)、今日は本格的に散歩してきました。天気もよく、肌着の上にトレーナー一枚(それでも汗ばんだ)で出発。30分歩いて、(いつもは車で)行きつけの喫茶店まで。そこで一時間、休憩&読書してから帰宅。帰りは35分かかりました。往復一時間のウォーキングは近年まれ。帰ったら足の裏が赤く擦れていました。まあこれで少しは強迫観念も収まることであろう(^^; ということで――

小此木啓吾『フロイト思想のキーワード』(講談社現代新書02)読了。

 本書は、一義的にはフロイトの用語の解説集であり、フロイトの著作を読むときに併読するとよいと思います。
 が、その一方で、そのような用語の概念が、なぜ、どのような経緯で、フロイトのなかに生まれてきたのかを、フロイトの生涯を小伝的に語ることから解き明かしていきます。さらにその延長線上に、かかるフロイト思想を全能として教条的に崇拝するのではなく、その限界を見極めるといいますか、実はその思想のかく在る姿(あるいはなぜかく在るしかなかったのか)から、フロイト自身のコンプレックス・無意識を浮かび上がらせる、著者の研究の成果の一端が示されていて、むしろそっちのほうが私には刺激的で面白かった。
 余談ですが、このような方法論は70年代に「病跡学」といわれたのとおなじ手法だと思います。私は加賀乙彦編の『現代のエスプり』を所有していますが、文学批評への応用は結局確立しなかったみたいですね(分散的には用いられているとは思いますが)。でも、見方を変えれば、作者が一番自作を知らないともいえるわけで(そういう言い方もできるはずで)、作品から作者の無意識を読み取るというのは今でも有効な方法ではないでしょうか。

  カリシャワ

 

 



最初の一歩

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月23日(土)15時21分57秒

返信・引用 編集済

 

 

 まずは復習。マイディア

 カリシャワのようなもの(但し間奏まで)。

 



「ドリーマーズ」しゃっくり

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月22日(金)22時34分13秒

返信・引用

 

 

 表題作を二読、三読、ささっと四読、ぱらっと五読。読めば読むほど面白い。なんどでも読み返したくなるので他の作品になかなか進めません(^^;

 『フロイト思想のキーワード』は250頁。あと100頁。

 「カリフォルニア・シャワー」にとりかかったのだが、これ、指よりもタンギングがついていけない(汗)。吹き方があるんかな?

 



「ドリーマーズ」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月21日(木)22時14分31秒

返信・引用 編集済

 

 

 まずは表題作を読む。あ〜いいですねえ。地下鉄中央線大阪港駅付近が舞台なのですが、東京に住んでいて、久しぶりに地下鉄で妹夫婦の家を訪れた主人公が、大阪港駅を終着駅と一瞬勘違いします。この感覚、よくわかるなあ。あっ、また邪道読みしてしまった(^^ゞ

 マイ・ディア・ライフ
    ↑
 これまでのなかではベスト。課題はほぼクリアしています(ケアレスミスは無視)。
 実は昨日は一度も触れなかったのでしたが、それがよかったみたい。こういうことは、これまでも習いごとにしばしばあって、私は寝かしたことで「醗酵」したんだという風に捉えています。
 え、それがベストかって? 私は身の程を弁えておるのです(^^;。

 

 



チャチャヤン気分

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月20日(水)17時41分22秒

返信・引用

 

 

下の感想文、改稿し(反映済み)、ついでにチャチャヤン気分にも転載しました。
http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/240.html

 



「ビリジアン」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月19日(火)23時26分26秒

返信・引用 編集済

 

 

  柴崎友香『ビリジアン』(毎日新聞社 11)読了。

 著者はわが高校の後輩とのことで、以前から気になってはいたのですが、ネットであらすじなどをチラ見するに、最近の純文学に多い、ゆる小説みたいな感じがどうも予感されて、手を出しあぐねていた。でもこのたび上板された本書は、主人公の小学校高学年、中学、高校、予備校での話とのことで、これはいけるかもと手にとった次第。はたして正解。全然ゆるい小説ではありませんでした!
 本書は眉村さんの『沈みゆく人』をちょっと連想させる連作集で、さながら大阪軽幻想小説集の趣きがあります。そして、たぶん――というのは主人公の「わたし」が、どの程度著者自身をなぞっているものなのか、初柴崎ゆえに見当がつかないからですが――眉村作品と同様の意味で、《私ファンタジー》と考えて差し支えなさそうです。
 10ページから20ページ程度の短い短篇――頁当たり文字数が少ないので20枚前後。掌篇というべきかも――20篇で構成され、主人公の小中高予備校での出来事が、点描式に、主人公自身が何十年かのちになって思い出すままに、時系列も自在にいったりきたりしながら、回想的に綴られたものという形式の連作集です。
 先にも書きましたが、舞台はまさに大阪、それも、どうやら主人公は大正区に住んでいるらしく(眼鏡橋の近く)、主たる舞台は、明示はなされませんが、大正区、港区、それからミナミで、丁度ミナミを交点にして眉村ワールドの西隣に広がっているという感じ。
 そういう場所柄当然ですが、作品世界には常に「川」があり、「橋」がある。川の上を高速道路が走り、環状線が横切る。渡し船が「本土」との間を結んでいる……と書くと、いかにも地域性丸出しみたいですが、さにあらず(私がその辺をよく知っているだけ)、どこの誰が読んでも大変面白い、そういう一般性を充分に獲得し得ている。それらの風景や事物は、あたかもモニュメントのように、或る陰影を帯びて読者に示される。一種不気味といえなくもない雰囲気が全体を覆っている。その結果、独特の色調を帯びた、柴崎ワールドと云ってもよい《ランズケープ》が現出させられているのです。すなわち風景が単に脊髄反射的に直接に描写されるのではなく、いわば心象風景に昇華されてから提示されているわけで、それがとても好ましく感じられました。
 その一方で、大阪弁の効果でそこはかとない可笑しみが全体を包んでもいる。なぜか環状線にマドンナが乗っていて、主人公と会話する。
 
マドンナは網タイツの足を組み替えた。/「映画? なに見るん?」/「ドグラマグラ」/「あー、枝雀が出てるやつや。おもしろいらしいで、あれ」
 ちなみにジャニス(ジョプリン)やボブ(マーリイ)も出てきます。そのように作中で突然有名無名の外人が出現して主人公と会話するのも本篇の特徴で、あるいはひょっとして、マドンナやジャニスやルー・リードに語らせている言葉(大体が主人公より高次から語られる)は、当時の、その時点の主人公(≒過去の著者)に対する、執筆時点の(現在の)著者の想い(批評)が反映されているのかも知れません。マドンナたちは、仮託された著者自身なのかも。《私ファンタジー》という所以です(ただし最初のピーター・ジャクソンは実在で事実でしょう)。受験生の主人公が環状線を降りると、ホームで待っていた中学生の主人公が乗り込んでくる。『沈みゆく人』を直に彷彿とさせられるシーンですね。
 話は飛びますが、冒頭の「黄色の日」で、黄色い空が描写される。これはなにか意味深で象徴的と思われるかもしれませんが、大阪市内では実際、と云っても最近は知りませんが、まっ黄色な空になることが年に一回か、数年に一回、あった。私も中学校の時、教室の窓から毒々しいまっ黄色な空を見ていた記憶があります。
 眼目の高校時代の話も何篇かあるが、実際に高校が出てくるのは「アイスクリーム」。ただし私の卒業後、ほぼ完全な改築がなされたため(かつての裏門に正門が作られ、正門が裏門になった)、本書に出てくる高校はほとんど馴染みがないのでした。ただ
「スロープの前は裏門で、格子の向こうはバス通りだった(……)道路の向こう側の中華料理屋の赤い暖簾が揺れた」とあるその中華料理屋が、唯一私の知る風景で、よく利用した店でしたが、現在ではガソリンスタンドに変わってしまっており、著者の知る高校も、既に記憶の中にしかないものかもしれません。
 ――と、最後は邪道読みになってしまいましたが、いや面白かった。もっと読んでみようかな。

 追記。タイトルは色名で、緑色の一種らしい。青春時代という含意なのかな。私は、主人公がマラソン大会でダントツのビリッケツだったところからきているのではないかと邪推しているのですが(^^;

 



ありゃ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月19日(火)16時28分26秒

返信・引用

 

 

↓また消えてしまっています。いま復活しましたが……何かに抵触して消されてしまうのか。単にわが操作ミスなのか……様子を見よう。

 



マイ・ディア・ライフ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月19日(火)00時01分5秒

返信・引用

 

 

 http://okmh.web.fc2.com/EWI/mydear6.mp3
 今日はこれまで。満足にはほど遠いですが、同じ曲ばかりでは飽きてくるので、明日は違う曲に挑戦しようかな。しばらく間を開けてから戻ってみるのも、意外に効率的だったりしますし(^^;

 



「大人になれないまま成熟するために」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月18日(月)21時45分33秒

返信・引用 編集済

 

 

 『フロイト思想のキーワード』はちょっと休んで、金原瑞人『大人になれないまま成熟するために―前略。「ぼく」としか言えないオジさんたちへ(新書y04)、読了。

 うーむ。アメリカン・ニューシネマ以前の、50年代、60年代前半のアメリカ青春映画は見る必要なし、と思っていましたが、本書を読んで、やはり一応は押さえなければいけないか、と思い直しました(余談ですが、本書110頁「理由なき反抗」で、
「ファーストシーン。酔っぱらって歩道に倒れているジミーのアップ。ジミーは、手を伸ばして、歩道に転がっていた猿の玩具をつかみます。そして警察に連行されるシーン。持ち物検査されるジミーは、猿の玩具をはなそうとしません。ジミーの子供時代への執着が描かれる、印象的な場面と言っていいでしょう」というのを読んで、卒然と甦ったのは眉村さんの「交代の季節」(『準B級市民』所収)。この小説にもシンバルを鳴らす猿の玩具が効果的に使われていましたが、ひょっとして映画に触発されたのかも。念のため読み返してみましたが、象徴されているのはコンフォーミズムで子供時代への執着とは関係ないようです)。
 著者は、かつての[子供→大人]という図式が、アメリカでは50年代に[子供→若者→大人]という図式に変化したとします(「若者」の出現)。それは消費単位としても有意な存在で、映画や音楽や文学の大きな市場を形成した(それ向けのジャンルが興った)。
 日本でも後追いで同じ現象が起き、それはアメリカより10年以上遅れて「団塊の世代」が担い手となります(管見ですが森優のハヤカワSF文庫白背の成功は(大量の若者の出現である)団塊世代(但し後半)にフィットしたことによる。SFファンが一気に若返りを果たした)。著者は54年生まれで、私より1年先輩、いわゆる三無主義の団塊後世代に属します。で、団塊の世代以降、大人になりきれない大人が日本にも出現するのですが、その意味では団塊世代とその後の世代は同じ穴の狢ではあるのですが、後続する世代として、著者の団塊世代(全共闘世代)への視線は厳しいものがあります。かんべさんがいいだももに引き寄せて疑問を発せられていましたが、本書はある意味それへの(下の世代が感じた)答になっているように思いました(全共闘と企業戦士が同じ世代)。
 アメリカ青春映画もビートルズ以前のロックンロールも知識がなかったので、とても興味深かったです。
 あと、あとがきに、
「これまで、ある意味権威的、ある意味硬派であった日本のSF界を電撃文庫などのライトのベルが小気味よく切り崩している状況」とあるが、どうだろうか? 権威的・硬派のSFファンは全然ゆるがず切り崩されてないのでは? おかげでラノベからSFへ新流入はあったでしょうが、せいぜい市場を気にするSF媒体に生息する方々が切り崩された(あるいはそんなフリをした)程度なのではないでしょうか(^^;

 



幸せは歩いてこない

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月17日(日)22時16分25秒

返信・引用

 

 

 『フロイト思想のキーワード』20ページ進んだだけ。休日は読めないのです。読書はできないのに、笛の練習はできる。不思議(嘘)。
 でも今日はここまで。最後はソプラノで→http://okmh.web.fc2.com/EWI/mydear5.mp3
 うーん。昨日よりよくなったましになったところがある一方で、昨日クリアできていたところができなくなった部分もある。早くも壁でしょうか。まあ三歩すすんで二歩さがるくらいの気持ちでいよう。

 



別テイク

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月16日(土)22時36分45秒

返信・引用 編集済

 

 

 ↓の、聞きなおしたら録音のボリュームを失敗していましたので、別テイクで録り直しました。まだ慣れてないので少しマシな程度ですが。いや演奏ではなく録音の話。何事も日々の積み重ね(^^;

 の・ようなもの (*24:15 更に差し替えました)

 『フロイト思想のキーワード』は、130頁。

 



NEW TAKE

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月16日(土)16時35分55秒

返信・引用 編集済

 

 

あれ? 下のん、消えてしまってますね。
では、→ニューテイク。バックはナベサダグループ(>おい)(^^;

 



10日目

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月16日(土)01時56分3秒

返信・引用 編集済

 

 

 講談社現代新書『フロイト思想のキーワード』に着手。

 今日はMy Dear Lifeに挑戦してみた→の・ようなもの

 



「死なない薬」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月14日(木)01時45分0秒

返信・引用

 

 

 先般2月26日に観たオリゴ党公演『死なない薬』の脚本を、座長の岩橋氏に、それこそ直後にワード文書で頂いていたのですが、ようやく本日読み終わりました。いやPCではなかなか読む気にならんのですよね。で、一計をめぐらせ、テキスト文書に戻してケータイに入れてみた。するとあら不思議、すっと読めてしまいました(^^; やはり手軽にどこででも読めるというのが大きかった。ページを捲らなくていい代わりに、たえず親指でかちゃかちゃスクロールしていなければならないのが、メンドクサイといえばメンドクサイのですが、満員電車でページを捲ることを考えれば、よほど楽かも。こうなると本という形態は風前の灯の感を強くしますな。なのに出版社はいまだにバカ分厚い文庫本を平気で作っている。危機意識がないのにもほどがあるっちゅーねん。

 ま、その話は別の機会にして――『死なない薬』です。

 山奥の秘密研究所に、70歳以上の男女が9名集められている。研究所は不老不死、いや若返りの薬を研究していて、彼らはその被験者なのです。研究所には八百比丘尼の男版というべきアンザイという男もいる。彼の身体の研究から、若返りの薬が開発され、ようやく完成したのだ。
 その薬が、ついに9名に投与される。薬はめざましい効果を発揮し、数日にして被験者は、彼らがもっとも活力旺盛だった頃の体に戻る。喜ぶ被験者たち。しかしそのうちの一人、キジマは投与された薬を飲まなかった。こっそり捨てたのだが、その彼の体も、なぜか若返ってしまう。またオカムラという女性は先天的に下半身が不自由だったのに、それまで治ってしまう。
 ところがそうなると、被験者たちは、それまで協調的なグループだったのに、若返った途端、反目が生じる。それは「あきらめ」境地であることで協調できていたのが、若返ったことで「あきらめ」る必要がなくなったためなのかも。ここで被験者たちのそれぞれの過去が浮かび上がってくる。
 場面変わって20年後―― 被験者たちは最も活力ある身体年齢に固定されたまま、暮らしている。いまや研究所は、彼らがどこまで生きるか、或いは不死なのかを追跡観察しているのです(オカムラが自殺したので、死ぬこと(殺すこと)ができることは判明している)。もはやそこには反目はない。永遠につづく「生」の倦怠感から協調性が復活していた。が、その実態はといえば時間のありあまる退屈の中に、ただ生きている。死なないからという理由だけで……。男女それぞれパートナーをなんども変えながら、といった具合に。永遠に終わらない、弛緩した時間。
 実は永遠の命を得た彼らは子孫を残す能力を失っているのです(副作用?)。メトセラ族のアンザイが、そもそも生殖能力がない。研究所の所長によって、薬があまねくゆきわたってすべての人類がメトセラ化し、子どもは生まれず人口は一定というユートピアが語られるのだが、被験者たちの実態は……。これはユートピアなのか? それともディストピアなのか? アンザイがいう。永遠に生きるためのコツは「関係しない」ことだ、と……。
 新しい所員サトウが加わる。彼女は20歳で、実はアンザイの血を受け継いでいた。生殖能力のないメトセラ族の子種を作る研究も同時進行していたわけだ。知らなかったアンザイは怒る。永遠に生きるための心得は「関係を作らない」ことだったのに、係累ができてしまったのだから。サトウの登場が「破れ」を作り……

 というのがあらすじです。ただし私が勝手に補足して辻褄を合わせている部分があります。おそらく最初はもっと膨大なシナリオだったのではないでしょうか。それを2時間の上演時間に合わせて、かなりカットしてあるように思われます。そのために、たぶん、いささか判りづらくなっているんです。たとえば半身不随で画家のオカムラですが、なぜ顔の絵ばかり描き、その顔に笑い顔が一つもないのか。少しだけ本人が説明するのだが、余りよく判らない。そのオカムラがキジマの顔を描き、これがあなたですと見せる場面――顔に白紙を貼りつけた者たちが現れる――これは何を意味するのか? のちにオカムラは自殺するのだが、その理由と深く関連していることは見当がつきますが、そもそも最初が分からないので自殺も謎のまま。
 またグループ内の不満分子キジマは薬を飲まなかったのに若返っていくのも理由は明らかにされません。それはまあいいのです。20年後の姿を見ると、既に仲間の一人として「飼い慣らされて」しまっている。この間の心の変節が(たぶん)カットされていて不明なまま。
 上に、グループがいっとき不和になると書きましたが、その理由として若返りで「あきらめ」の心境が薄れたというのは私の解釈だったのですが、もうひとつの可能性を思いついた。それは急激に若返っていくなかで、その前代未聞の「体感」に、不安が生じ、それを無意識が、それぞれの「過去」語りさせることで合理化しようとしたのかも。というのは、ヤナギハラやイリノの言っていることは、若返りとあまり関係ないことのように感じられるからです。このような不安感が、20年後には倦怠感に変わってしまったのだと考えたほうがよさそうです。

 とはいえこのようなことは、脚本を読んで気づいたことで、実際に観劇中は気にならなかった。観劇中に気になったのは別のことで、もっとも、これは芝居が終わったあと岩橋さんにも言ったことですが、前半がいまいちのれなかった。その理由を考えていたのでしたが、要は薬をのむ前のメンバーが、ぜんぜん年寄りに見えないことがどうも原因らしい。冒頭の踊りでそれを表現しようとしているのかもしれませんが、これはこれで、逆にわざとらしかった(^^;。
 不自然かもしれないが、前半と後半で、言葉遣いが変わってもよかったのではないか。あ、いや素人のいうことで、気にしないで下さい(^^;。
 とにかく前半はそういう次第だったのだが、後半は引きこまれました。イワハシ劇は重構造が多く難解なのだが、先回に引き続き今回もあまりそういう構造にこだわってなく、素人の私には「丁度よい」お芝居で、楽しませていただきました(^^)

 



「地球〇年」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月12日(火)23時41分7秒

返信・引用

 

 

矢野徹『地球〇年』(角川文庫78、元版69)

 これはまた沈鬱なストーリーでした。救いがないといいますか、やりきれないといいますか。著者の作品を読み込んでいるわけではありませんが、この作風はちょっと意外でした。アメリカファンダムと太いパイプを持ち、オレオマエ的な付き合いをしていたところから、私は一種親米的なイメージを持っていたのですが(それはそのとおりだと思うのですが)、本書ではアメリカ及びアメリカ人に対して強い怨嗟の感情がストレートに表出されています。でもそれは、どうやらアメリカファンダムに友人たちを持つことと、矛盾するものではないようです。
 本書には、著者の戦争体験(戦後体験)が色濃く反映されている。自衛隊が国連軍として進駐した北カリフォルニアの描写(ギブミーチョコレート的な)は、日本の敗戦直後の状況を、そっくりそのままアメリカに鏡像転移させたものです。いかに著者が戦後の日本を屈辱的に感じていたかがひしひしと伝わってきます。
 ただそれは、単にアメリカ憎しで、江戸長崎的な感情にまかせて描写しているわけではない。米軍に対して、モラルも主体性もなく、敗戦した途端、掌返しで媚びた大方の日本人への同胞としての屈辱感でもある。そのことは本書前半で、非・被曝者が被曝者に示す、まさに「野獣」の態度や、自衛隊進駐に便乗し、被災した日本人の女を従軍慰安婦に仕立てて一儲けしようとする輩を描いていることでも明らかでしょう。そこには、立場が変われば、日本人だって同じことをするという、人間への不信が読み取れます。このような創作志向性は戦後文学に連なるものです。
 ただ著者は、そういう意識のみに凝り固まらない、或るおおらかさも併せ持っている。巻末解説で森優が「二律背反(アンビバレンツ)がいっしょくたに同居している」と評しているのはそういうことなのでしょう。そこには著者の開明的、開放的な人柄が大きく与っていることは疑いありません。旧敵国に単身渡るのも進取の勇気がなければできるものではありませんが、そうして行ってみると「敵国ながら個人個人を見ればそんなに悪いやつはいないぞ。むしろお人好しで気のいい奴ばかりじゃないか」みたいな認識も得たのではないか。そこからアメリカ国家とアメリカ人を同一視してしまう観念論も払拭できただろうし、翻って日本人、日本国家への逆視点も獲得し得ただろう。戦後の状況に嫌気がさして「引きこもって」しまった人にはこのようなアンビバレンツは到底持ち得ないものです。
 検索してみたのですが、驚いたことに本書の感想や書評は存在しません。「矢野徹 地球〇年」で検索してみなはれ。かろうじて私のと高井さんのがひっかかるだけ。あとは古書情報です。本書は矢野徹という作家を知るに必読の代表作といえると思います。

 それはさておき、本書はPFではありません。自衛隊は出てきますが、あくまで前線の佐官が主人公。政府の首脳や将官クラスは描かれないからです。実は日本の現代小説は伝統的に為政者(政策決定者)そのものを描かなかったのです(歴史小説ではある。司馬遼太郎)。現代小説に於いてそういう書き方が一般化したのは『日本沈没』以後のこと。その意味でも本篇は、戦後文学的といえるのではないでしょうか。

 



はじめの一歩

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月12日(火)21時38分55秒

返信・引用

 

 

 Naimaのようなもの

 うーん、音が細いというか、息絶え絶えという感じ。同じ強さを維持できません。
 しかしこれでも6日前(まだ1週間にならない)と比べたら長足の進歩、だいぶ息も長くつづくようになったのです。
 スタート地点のレベルとして記録しておきます(^^;

 



ナイーマから10000光年

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月11日(月)00時51分18秒

返信・引用 編集済

 

 

わ、下唇にぷっくり水泡(血まめ?)が……。今日はこれくらいにしておこう。

『地球〇年』読了。感想は明日にでも。

 



「非Aの傀儡」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月10日(日)22時37分54秒

返信・引用 編集済

 

 

ヴァン・ヴォークト『非Aの傀儡』沼沢洽治訳(創元推理文庫66、原書56)

 37年前の私の感想――もとい、「私(1975)」の感想は、そんなに的はずれなものではありませんでした(^^; いやー面白かった。「一般意味論」を拡大解釈した「非A哲学」(要するに、そもそも言葉は多義的だから限定記号を用いて厳密に使用しなさいというもの。「これはSFじゃない!」と言うのではなく「これは(私の考える)SFじゃない!」と言う態度)は、ストーリーに対してさほど規定性をもちません。むしろそれをしているのは「精神分析」です。その意味で本篇は、さしづめ《銀河精神分析記録(ガラクティコ・アナリュシス)》というべきもので、神経症に陥って痙攣する銀河系が、ギルバート・ゴッセンという分析士によりその「無意識」を意識化させられることで寛解する、というのが構想されたストーリーでしょう(その意味ではこのシリーズ、まだぜんぜん終っていないのですよね。ひとつの「局面」が終わっただけ)。
 とにかくめまぐるしく状況がひっくり返っていきます。どうも著者は、専ら読者の予想をはずそうはずそうという意識で書いているのではないかと思えてなりません(^^;。それがもはや病膏肓の域といいますか、著者自身の筆致が神経症的というべき。したがって作中人物の行動の因果的妥当性は二の次にされる。それがなぜか苛々させられないのが不思議。むしろ「わ、わ、どうなるの、どうなるの?」と言う感じになって、巻を措くことができません。
 いずれにしろ、先日も書きましたが、オールドウェーブ作家で人文諸科学とりわけ精神分析を摂り込んだ作品を書いたのは、大物ではヴォークト以外には寡聞にして思い当たりません(むろんNW以降は人文科学的SFが主流になる)。ヴォークトの立ち位置は、案外日本の第1世代と近いものがあるのではないでしょうか。具体的には光瀬龍と荒巻義雄【註】が浮かんできます。科学や哲学の学説をあからさまに呈示する手法は荒巻と共通します。(【註】管見では荒巻は第1世代。田中光二以降を第2世代とみなしたい)
 一方、光瀬とヴォークトの類似性は『派遣軍還る』でも指摘したことがあります。本篇の「埋れていた宇宙船」というモチーフはただちに光瀬龍を想起させるものですし、因果的妥当性を等閑視するストーリーテリングも同様です。光瀬とヴォークトの違いは、極論すれば「文体」があるかないかだけの違いではないのかとさえ思えてきます(言い過ぎです(^^;)。
 という意味でも、『世界』の悪訳が惜しまれるわけです(でも見方を変えれば、中村保男は『世界』に「文体」は絶対必要だ、そういう小説なのだ、という確信があったからこそ、大江亜流の文体を試みたのかも。結果は無残なものでしたが、私は中村の批評家としての側面は案外評価しているので、その可能性は捨て切れません)。
 それにしても、本篇に至るためには、前編の『非Aの世界』を中村訳で読まなければならないというのは、本当につらい。たぶん『世界』で読むのをやめた人が多数存在すると思われます。この状況は何とかならないものか。できれば新訳で、更に出来得れば未訳の第三部も併せて一巻本で出し直してほしいと思わずにはいられないのであります。

 



Re: みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月10日(日)19時31分45秒

返信・引用

 

 

> No.2987[元記事へ]

>これがほんとのイナバウワー
うまいっ!
そんなアドバイスは大歓迎です。どんどんお願いします〜(^^)

 



Re: みじかばなし集

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 4月10日(日)13時56分13秒

返信・引用

 

 

> No.2986[元記事へ]

>しかし、「ぎゃ!」。思わず叫んだ。
「ぎゃ!」じゃなくて「うわー」と叫んで、のけぞったら、これがほんとのイナバウワー。
 失礼しました。

 



みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月10日(日)01時22分29秒

返信・引用

 

 

 暖かそうな太陽にあこがれたオールトの白ウサギは、一計を案じて、諸惑星を直列に並ばせた。ピョンピョンとうさぎ跳びに惑星の背中を駆け渡っていく。むろん地球の東京を踏み潰したのはコイツだ。水星を蹴って太陽に到達。ウサギは、「やーい引っかかった!」とあざけってやろうとして振り返る。しかし、「ぎゃ!」。思わず叫んだ。「ああちちち……」。プロミネンスの炎が忽ち白い毛皮に燃え移って赤裸に。そして真っ黒に、ぶすぶすに焼け死んだのである。惑星たちは、「バカなやつだ」と憐れみつつ、運行を再開した。……

 



「地球〇年」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 9日(土)22時13分43秒

返信・引用 編集済

 

 

「あいつらを町に入れるな!」/「病気がうつるぞ、追い返せ!」/「何てひどいことを言うんだ!」/「毒を吹いてるっていうぞ!」/「かわいそうな連中を見捨てるつもりか!」
 人の性は悪であり、他人の苦しみを察することはできないのだろうか? 不安は流言を作り流言は新しい恐怖を生み、そのとまるところを知らない。狂気は善人を暴徒に変え、少年を大人に変貌させる。(83p)


 うーん。同じ強さで吹けないなあ。慣れても来るんだろうが、根本的に体力不足です(ウィンドシンセ如きでと笑わば笑え)。メロディに挑戦を始めたのだが(ナイーマ)、覿面ですぐに息が切れてしまいます。
もっとも、既にベルトの穴が一個分改善した。これは意外なうれしい効果(どんだけ水膨れやったんやということですが(^^;)。
とりあえずyoutubeにアップしたい(>おい)。そう思って、どうすればいいのか調べていたのですが、ウェブカムというのを導入するのが手っ取り早いようです。ところがpentium推奨とある。いまだにcerelonなわがマシンで動くのだろうか。ダメなのか。そもそもアナログでなくMIDI音源で音が出ているのだろうから、もっと直接にPCに取り込む方法がありそうな気がします。でもネットではその手の記事が見つからない。初心者なりに研究中。

 『地球〇年』は130頁まで。

 



みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 9日(土)00時12分22秒

返信・引用

 

 

 人間の足が一匹の蟻を踏みつぶしたからといって、それを責められましょうか。

 ――ぐしゃっと、一瞬にして東京は、ぺしゃんこにつぶれた。……

 



「地球〇年」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 8日(金)21時49分44秒

返信・引用 編集済

 

 

ふわぁ〜。気張りすぎて脳の血管が拡張し、貧血になってしまいました。
ちょっと休憩。
なんでこんなに息が抜けていかないのかと、よくよく見たら、呼気の通る管が、直径5〜10ミリ程のちゃちなビニールパイプなのでした。いくら吹きこんでも大半の息が戻ってくる寸法。説明書を読むと、口の両端から息を逃がす独特の吹き方を会得しなければならないみたい。昔、筒井さんが奇想天外に連載していたクラリネットの体験報告みたいなので(「クラリネット言語」だっけか)、「薄笑いしているような口の形で吹く」みたいなことを書いておられたように記憶しているのですが、ああいう感じなのかな。そういえば下の伊東たけしの映像もそんな顔をしているなあ。

『非Aの傀儡』読了。面白かった! 感想は明日にでも。

ひきつづき矢野徹『地球〇年』に着手。本書もまた、東京並びに南関東が水爆ミサイルで壊滅してしまう話だったことに気づいたので。最近東京が核で壊滅する話が読みたくてたまらないのであります(>おい)。
80頁(自衛隊がカリフォルニアに進駐する手前)まで読む。。ここまでは左京じゃなく、清張的人間観が優越していて、非被爆地の住人が、被爆地域からの避難民を乗せた列車に石を投げつけたりして降りてくるのを妨げたり、野獣と化した日本人がえげつなくリアルに描かれています。

てことで休憩終了。

 



一億総EWI社会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 7日(木)20時40分46秒

返信・引用 編集済

 

 

 待てば海路の……で、当初予算の5千円増しで新品を入手するを得ました。
 早速吹いてみる。これはラク。 昔テナーを吹いていてモノにならなかった私ですが、ちゃんとした音が出ます(というか年取って肺活量も衰えたのでEWIに目をつけたのでした)(^^;。運指はほぼサックスと同じ。マウスピースはリードがないので、リコーダーのように吹いても音が出ます。
 最初はそのように吹いていたのですが、ビブラートはサックスと同じ方法なので、サックスと同じ口の形で吹くようにしました。そうしたら音がシャープになりました。かちっと咥えて吹くからでしょうか。いずれにしろ、吹き込む息の強さで音質が変わります(その意味ではある程度肺活量は必要)。鍵盤のシンセとはこの辺が違ってナチュラルです。

 ただタッチセンサー(サックスのキイではなくどっちかといえばリコーダー風)なので、指がキイに触れただけで音が出てしまう。ときどき半音下がってしまうので不良品かと思ったら、よく見たら持つ手の形が悪くて指の外側が半音下げるキイに当たっていました(^^;。きちんと正確に持たないとダメな、非常に繊細な面があるようです。
 ソプラノサックスと同じかやや小さいくらいです。ソプラノは触ったことがないので分かりませんが、テナーよりはよほど軽い。でもウィンドシンセの中では重い方らしい。たしかに右腕がかなり疲れます。それは、テナーなら右手親指に引っ掛ける部分があってそこで重さを支えられるのですが、EWIはそれがありません。なのでストラップは欠かせません。
 あと、オクターブの変化を左手親指で操作するのだが、これがテナーにない機能で、慣れるまで大変そうです。
 でも、昨晩から、たぶん、のべ10時間は吹いていて(^^;、かなり慣れてきました。とにかくヘッドフォンで音が聞けるので迷惑にならない。これは最大の利点です。すぐにでもトレーンのように吹けそうです(^^ゞ

 今、私の脳内イメージでは、コルトレーンのようにシーツオブサウンドを吹きまくる姿がはっきりと見えているのです。これが、『一億総ガキ社会』でいわれた「全能感にあふれたセルフイメージ」の段階なんでしょう。
 ところが、これからすぐに「現実」の荒波が、「全能感にあふれたセルフイメージ」をズタズタに引き裂いてしまうのでしょう。現実とセルフイメージの落差に耐え切れなくなった私は、
 1)セルフイメージを守るために退却する(ひきこもる)。すなわちEWIの置いてある場所に近づかず、存在しないかのように振舞う(現実的にはEWIを押入れに仕舞い込んでしまう)。
 2)楽器のせいにする(不良品じゃないのか)。あるいは不良品を売りつけられたと逆恨みする。キレる(他責化)。
 3)酒や薬に溺れて忘れる(依存)。

 でもひょっとしたら全能感を克服し、「現実との落差を埋めるべく」練習に励むかもしれませんよ(^^; コルトレーンは論外にしても伊東たけしくらいならなんとかなるのでは? と(>おい!)。いやー、これは面白くなってきました。管理人の運命や如何に。奇絶怪絶、また壮絶!

『非Aの傀儡』は300頁超。残り40頁。

 

 



展覧会のお知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 6日(水)22時39分47秒

返信・引用 編集済

 

 

 展覧会のお知らせです。

 まずは小樽文学館にて、企画展「文学に捧げる花束・村上芳正展」が、4月2日(土)〜5月29日(日)の期間開催されます。もう始まっています。

  
書籍の装丁やレコードジャケット・
  ポスターなどを手がける画家・村上芳正氏の原画や書簡を紹介する、企画展「文
  学に捧げる花束・村上芳正展」を開催。入館料一般300円、高校生・市内在住70歳
  以上150円、中学生以下無料。問合せ 32-2388 小樽文学館。

  http://barano-tessaku.com/index.html

 つづいて、明治村では「黒岩比佐子蔵書展」が始まっています。《 2011年3月5日(土)〜6月26日(日)》

  
日露戦争当時の作家やジャーナリストたちは何を考え、どんな作品やメディアを創ってきたのか、
  戦争にどう対応したのか----。主に国木田独歩と村井弦斎に関連するものを中心に、約百年前に
  登場した「戦争」「女性」「食」をテーマにした雑誌や書籍を展示します。

  http://blog.livedoor.jp/hisako9618/#

 どちらも昨年東京で開催されたものですが、それぞれ北海道と中京の、東京での展示を見に行けなかった方には朗報でしょう。この機会にどうぞ(^^)

 ところで、ウィンドシンセ買っちゃいました! アカイEWI4000s。伊東たけしが吹いてるやつです。今日届いた。明日、詳報します(^^;

 



Re: いやはや。実にどうも

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 6日(水)01時24分27秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2979[元記事へ]

わ、早速に返信ありがとうございます。

>「次はまじめなやつを」
これは意外でした。大概の編集者は二匹目を狙って「またハメを外したやつを」と言いそうですけどね。それを「まじめなやつを」と要求した倉橋編集長は、さすがといいますか慧眼でしたね。結果的にかんべさんの代表作の一つが生まれたばかりか、のちの「トロッコ三部作」に繋がる路線が敷設されたんですからねえ。

>「深読み過剰」
ん、過剰? つまり「アホ」やと……。いやアホですけど(^^;
しかし「完成」していたとは好意的解釈で、要は進歩してないということでしょう。30年間ずーっと同じ。これすなわち慣性学院大学なのであります(^^ゞ。

 



いやはや。実にどうも

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2011年 4月 6日(水)00時08分7秒

返信・引用

 

 

いきなり何を出しはりますねん。おたおたしますがな。
あれは、「決戦・日本シリーズ」が、ふざけ倒した作品だったので、
当時の倉橋編集長から、「次はまじめなやつを」と言われたのです。
それで、よほどまじめなやつを書かんと載せてもらえんのかと思って、
がんばってまじめに書いたら、ああなったのよ。
まあ、あんな感性も所有しとるんです。何せ感性学院大学卒やから。
そして管理人さんは、天下一品の「深読み過剰」能力が、
19歳にして、すでに完成学院大学だったのね。なはははは!

 



「非Aの傀儡」ひきつづき読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 5日(火)23時06分26秒

返信・引用

 

 

 非A摘要―― 健全な精神を保つためには、日付け、年代を明確にせよ。(……)「ジョン・スミス(1956)は、孤立主義者である……」そう表現しなければいけない。ジョン・スミスの政治的見解はいわずもがな、すべての物事は変化の対象となるのであり、したがって、その時期を抜きにして語ることはできないのだ。(133p) ニコニコ大百科によればジョン・スミスとは日本の「山田太郎」のようなものとのこと――管理人註)

 またもや日記話で恐縮ですが、1975年5月31日に、「私」は
「背でないてる」を読んでいるらしい。よっぽど気に入ったとみえ、SFMの中でこの作品だけ感想が記されていました。

 
SFM7月号200号記念特別増大号集中のかんべ・むさし「背でないてる」読む。傑作。素晴らしい作品。前作NULL載の「見えるみえる」の結末4行をテーマに持ってきた作品で、人の生涯を鉄道線路に擬した一種の象徴的作品である。大人の世界――即ち現実社会に突入する分岐点である“みえた”という町での幻想的情景は、これまでのかんべ氏の作品に見えた軽薄さが、実は隠れみのに他ならなかったことを如実に物語っており、氏の若さに似合わぬ暗い諦念は、かつて柴田翔が描いた60年代の青春群像と通ずる所がある。政治的人間にも、享楽的人間にもなりきれぬオブローモフ的な氏の個人的感想がすなおに出ているように思われる。作家の個人的体験の表白が、一般性をもって読者に受け入れられるのが、成功した青春小説だとすれば、この作品は、短いながらも、60年代を青春の渦中でおくった氏の苦くしかも甘美な「贈る言葉」であり、かんべ氏はこの作品を残し自身もみえた市を出発したのではあるまいか。

 ほほう、そうだったのか。そんな話だったのか! 「みえた市」なんか出てたっけか? 完全に忘れているよ。かんべ氏は一見軽薄だが実は柴田翔に匹敵する青春小説作家だったのか。ふーん。しかし「若さに似合わぬ」と記す当の本人が、まだ19歳なんだよな笑っちゃうよな……
 ――と、いささか傍観者的ですが、実際無責任なようですが傍観者なのであります。上記非A哲学に照らしても、「私」(1975)と「私」(2011)は、厳密に区別されなければならないからであります。従いまして「私」(1975)へのクレームその他は、「私」(2011)としましては一切受け付けませんし責任も取りませんので悪しからず!(>おい)(^^;

 『非Aの傀儡』は210頁。翻訳は武器店を訳した沼沢洽治に戻った。そのせいか、前作に比べて抜群に読みやすくなっています。

 



お嬢さまの条件

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 4日(月)22時23分27秒

返信・引用 編集済

 

 

 今日、市役所でぼーっとすわっていたら、後ろの人が会話しているのが耳に聞こえてきました。
「○○さんはよいお嬢さんで」
「それはもう。ツッコミもお上手ですし」
 そうだったのか。大阪のよいお嬢さんの条件は、ツッコミが上手であることだったのか。まあたしかに「ボケるのがお上手」なお嬢さんよりは利発に見えますわな(>イメージです)(^^;

 昨日はNHK第2放送80周年記念あの懐かしい声をもう一度を聴取しました。
 大佛次郎も谷崎潤一郎も滑舌がはっきりしリズムもあって朗読し慣れている感じでした(荷風は……)。私が思いますに、昔の作家は、やはり最後は音読して推敲していた。だからおのずと朗読もうまくなっていったんじゃないでしょうか。
 それにしても谷崎の朗読は、本当に情景が眼に浮かぶようで、だんだんと暗くなっていく中、ずっと向こうまで延びる細い川筋が、蛍の明かりで白い帯となって浮かび上がってくる、そんな幻想的な映像が脳内スクリーンにくっきりと映し出されてきて、さすがでした。
 藤沢周平の、挫折体験がなければ小説なんか書かない、という言葉に納得。ただ挫折体験とは主観的なもので、本人は大いに苦しんだかもしれないが、客観的には洗面器の水に顔を突っ込んで苦しがっているみたいな場合もあるわけで、そんなんでも小説を書くドライビングフォースとなりえる。でもそんな作家はやはり挫折体験に見合った作品の深みしか持ち得ないだろうと思ったりもするのでありました。
 水谷八重子の、おかめタイプと般若タイプの二分法は膝を打った。般若は最終的には鬼になってしまうのでありましょう。
 ――と、なかなかに面白い番組でした。

 



Re: 「神と野獣の日」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 3日(日)23時03分17秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.2975[元記事へ]

堀さん

> ぼくには最後のオチ(2発目)が短編SFの結末の印象でした。
ああ! それ、いま書きかけていたところでした(^^;
私はショートショートのオチだと思いました。同時に発射されたのですから11分(です)の時差はありえないのではないかと(同所からとは書かれていませんけど)。長中編を担うラストではないですよね。
それにしても「地には平和を」が宇宙塵63年1月号ですから、清張の機を見るに敏というか、時流の掴みの早さには驚かされました(女性自身63年2月28日〜6月24日連載)。
ただ書き方が伴わなかったですね。そう考えると「日本沈没」は画期的な作品で、以後の作家は「こういう書き方があるんだ」という型を踏襲できるので書き易かったはず。事実PF的な小説がたくさん書かれました。同じことが半村伝奇SFにもいえますね。

 



Re: 「神と野獣の日」読了

 投稿者:堀 晃  投稿日:2011年 4月 3日(日)22時48分24秒

返信・引用

 

 

> No.2974[元記事へ]

書庫のどこかにあるはずなので探してみましたが見当たりません。
したがって半世紀前の記憶でしかないのですが、ぼくには最後のオチ(2発目)が短編SFの結末の印象でした。
その点では管理人さんの読み方とほぼ同じです。
この作品の低評価が「わしの目の黒いうちは」(『大いなる助走』)につながるという説もあります。

 



「神と野獣の日」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 2日(土)14時16分36秒

返信・引用 編集済

 

 

松本清張『神と野獣の日』(角川文庫73、元版63)読了。

 元版は63年カッパノベルです。63年といえば眉村卓『燃える傾斜』の出た年。カッパでいえば小松左京『日本アパッチ族』(64)よりも一年早い。というわけで、日本SF創成期と軌を一にするようにして発表された清張のSF作品です。

 西側同盟国Z国の5メガトン級核弾頭ミサイルが5発、誤って発射され、2時間後に東京に着弾する事が判明、米国よりの緊急連絡が総理大臣に伝えられる。在日米軍と(自衛隊の後身らしい)防衛軍の地対空ミサイルで迎撃してもすべてを打ち落とすことは不可能、最低2発、合計10メガトンの水爆が東京で爆発することは不可避との連絡に、首相は呆然自失。
 5メガトンで東京は、爆心地より半径12キロ以内の全地域が壊滅。10メガトンならば南関東の殆どが全滅する。そして死の灰(放射性物質)は風に乗ってさらに広範囲の地域を覆い盡す。さあ政府はどうする!? という話です。

 実際、2時間ではなんの手も打ちようがないから、徒らに事実を知らせてもむやみに混乱を来すだけ。むしろ市民が醜い野獣になってしまい、この世の地獄と化してしまう。いっそ知らせないで死んで行かせるほうが、そのほうが都民には幸せなのではないか。いやいや、それでも報知すれば、2時間あれば都心のサラリーマンも、家に帰って家族と共に最期を迎えられる。また人々は最後だからこそ粛然と運命を受け入れるのでは?
 ――という「野獣説」か「神の子説」かと悩んだあげく、首相が選択したのは「神の子説」でした。テレビとラジオで報知がなされます。さあ、人々はどういう行動をとったのでしょうか?

 事実が判明してからの2時間を、シチュエーションノベルというのでしょうか、主人公らしい主人公を設けずいろんな場面を点描するという手法が採用された結果、あたかも「ドキュメンタリー」風に話は進んで、巻を措かせません。ただし「ドラマ」として見た場合は、心理に深く切り込まないので、非常に淡々とした印象になります。その意味ではシナリオに毛が生えたような感じ。

 もっとも、たった2時間ですから、政府のできることは限られている。東京の被爆地に関しては手をこまぬいていることしかできません。せいぜい大阪臨時政府(首相以下閣僚はさっさと米軍ヘリで大阪へ退避している。首都全壊後の日本の舵取りこそ彼らの使命であるからですっ!)として、被爆/被曝後の復興計画の策定があるくらいか。

 その意味で、何年かの猶予があった『日本沈没』のようなわけにはいかないのは確かなんですが、それ以上に清張と左京ではその「人間観」が正反対であるように感じました。本篇では、都民は公共交通手段で郊外へ逃がれるしか術がないのだが、電車は、避難民で鈴なりの沿線の各駅を、小石のように黙殺して(いや、満員すぎてプラットフォームからポロリポロリと落ちる客を跳ね飛ばして)通りすぎていく。運転手が、自分が逃げ延びたいが為に勝手に急行列車にしてしまったのです! 大体、治安活動にあたる警察官や自衛隊員からしてさっさと逃亡してしまう。小松左京の描く自衛隊員とは明らかに違います。事実はどっちなんでしょう? 消防庁の隊員が躊躇するのを、所管の大臣が恫喝したというのは、ちょうどこの中間でしょうか(違)。
 そういう次第で、本篇は頁数にして200頁強なのですが、もっと深く、書き込んでほしかった。最低でも倍の400頁は必要だったのでは。そうだったならば、本書、『日本沈没』のアンチテーゼ的作品として、SFジャンル的にも意義のある位置づけを確保し得たように思うのですが。もっとも『日本沈没』がPFの嚆矢だったのだとすれば、それはないものねだりというべきかもしれません。

 



「非Aの傀儡」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 4月 1日(金)17時26分51秒

返信・引用 編集済

 

 

 非A摘要―― 子供――また子どもっぽい大人は、きめ細かい識別能力に欠ける。このため、多くの経験が彼らの神経系統に猛烈なショックを与えるので(……)精神医たちは特別な術語を作り出した。これが心の傷、つまり衝撃(trauma)である。(53p)

 『一億総ガキ社会』とも関連しますが、私たちは
「現実との落差を埋めるべく」日々努力を欠かしてはいけません(なかなか実効が伴いませんが(^^;)。それが翻って自己を客観視する「己を知る」ことにも繋がってきて「断念」を受け入れられるようになるのです。
 一般に母親は「トラウマ」になるからと、子供が「(挫折)経験」する可能性をあらかじめ摘みとってしまいます(過保護)。これでは子供は「己を知る」境地には到達しようがないわけです。
 ということとは別に、母親の、かかる子供に「挫折経験」をさせない態度そのものに、実は子どもが挫折することで自分自身が傷つくことを回避しようとする無意識が働いているのですね。つまり母親にとって「子供」は、「私」の部分である。だから子供の「私(欲望)」は母親の「私(欲望)」なのです。このように母親自体が子供離れできていないのは、その母親が(前代に於いて)「成熟」しないまま大人になってしまって現在に至っているからなんですよね。で、今の欲望資本主義がつづく限り、その傾向は促進されこそすれ、決して弱める方向には向かわない、つまり「業」なんだということです。[ガキの永続再生産]

 『非Aの傀儡』は60頁まで。NW以前の英米黄金期のSF作家は、おおむねそのベースに自然科学があります。たまに社会科学の作家もいる。でも人文科学をベースにした作家は、たぶんヴォークトくらいではないか。一方、我が国に於いては、筒井(心理学・精神分析)、荒巻(美学・哲学)を筆頭に川又、野阿など(この辺はNWの受容かも)意外に多くの作家が人文科学を手がかりに創作しています。読者にそういう下地があるので、日本ではヴォークトの人気が(比較的)高いのではないでしょうか。

 ちょっと故あって、本書は一旦お休み。『神と野獣の日』に着手しました。で、読了。感想は後ほど。

 【追記】中さんのブログより――
 4月3日のラジオ第2放送におきまして「あの懐かしい声をもう一度」という記念番組が放送されるとのこと(20:00〜22:00)。
 永井荷風の「断腸亭日乗」の自作朗読テープが流されるようです(あと谷崎潤一郎「細雪」、大佛次郎「赤穂浪士」)。あ、エノケンの声も聞けるのか(渡辺のジュースの素ですよ!)。これは楽しみ!

 



過去ログへ

inserted by FC2 system