ヘリコニア談話室ログ(20115)




Re: 「ジョージ・ルイス」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月30日(月)00時08分28秒

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 堀さん

 私もオーネット・コールマンのくだりはとても印象深かったです。全くやっていることが違う二人ですが、一流には一流がわかるということでしょうね。
 それから、この二人が同時代人であったということも実に不思議に感じました。ジャズは、というかアメリカは、1910年代から60年代までの、わずか半世紀で、えらい変化を遂げたんだなと実感しました。
 たとえば日本では、50年前といえば1963年、東京オリンピックの前年なんですよね。私からすればついこの間という感じです(ちなみに眉村さんはこの年処女長編を上梓しています)。その50年間に、日本はどれくらい変化したのかといえば、変わった部分もありますが、根底は殆ど変わってないような。
 ジャズはアメリカの激変期に寄り添うように自身も変わっていったかの印象です。アメリカも70年代以降はゆったりしてきたようで、それに適合する音楽としてロック(ンロール)が、ジャズに取って変わったといえるかも。
 トラッドジャズ、ニュージャズと言ったって、やっている人は、ほとんど親子ぐらいの年齢差しかなかったんですね(ジョージは00年、オーネットは30年生まれ)。

 や、話がずれちゃいました(^^;

 >『ジョージ・ルイス』の発行元は、わが「穴蔵」です
 あ、先日のジャズ・アット・チャーチでおっしゃっていた!(笑) リンク先からたどり着けました!→http://www.jali.or.jp/hr/soliton/
 購入はここで申し込めばいいですね。

 本書もベッセル版も、共通するのはジョージ・ルイス讃であることで、読んでいて、正直、「そこは実際はもっとドロドロしてたんとちゃうん?」と感じる記述が両書共にあるように感じられました。その意味で、この前書きこんで下さった「暴露本」を読んでみたくなりますねえ。ソリトンコーポレーションでなんとかm(__)m


 お話変わって、カニ朝ですが……、1週間たったので一応アップしました。しかしもうちょっとましになりそうな気がするなあ。ということで、来週もこの曲で継続します。

 
 音色はSopranoに変更してみました。

 『しょーもない、コキ』に着手しました。のっけから誤植発見。
 2p目次 漂白→漂泊
 10pタイトル 漂白→漂泊
 同6行目 漂白→漂泊
 ここまで徹底されると、ひょっとして漂白には漂泊の意味があるのかな、と自信がなくなってきます。でも、11p5行目は、漂泊となっているので、やはり誤植でしょう。

 



Re: 「ジョージ・ルイス」読了

 投稿者:堀 晃  投稿日:2011年 5月29日(日)20時42分10秒

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> No.3054[元記事へ]

たいへん深く鋭い書評をありがとうございます。

この本を出した時、「これはジャズ版の『ルーツ』だ」といった人がおりまして(現在、ニューオリンズ・フォーティーズでベース弾いてる村橋さんですが)、なるほどなあと思いました。
とべくまさんの考察はより深いですね。

ぼくがいちばん感激したのは272頁のオーネット・コールマンの発言です。
お互い認め合っていたのですね。
ぼくがニューオリンズ・ジャズもフリージャズもともに好きだというと不思議がられることがありますが、不思議でもなんでもないのです。

ええっと、『ジョージ・ルイス』の発行元は、わが「穴蔵」です。

http://www.isbn-center.jp/cgi-bin/isbndb/isbn.cgi

↑このあたりから「ソリトン」で調べると「出版者」が特定できます。
今のところ、次の予定はありませんが、電子書籍をやるかもしれないので、出版者コードは継続しているのです。

 



Re: 眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月29日(日)18時45分16秒

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> No.3055[元記事へ]

柳生さん
そのときに、年はじめにできなかった囲む会の仕切り直しの相談をしましょう。

 



Re: 眉村さん情報

 投稿者:柳生真加  投稿日:2011年 5月29日(日)17時33分45秒

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> No.3053[元記事へ]

>>眉村先生、今のところ(文化センターにつかまらない限り)予定はないそうで、講演後お茶くらい付>>き合っていただけそうですよ>柳生さん

ますます楽しみです!

 



「ジョージ・ルイス」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月29日(日)00時38分30秒

返信・引用 編集済

 

 

 ドロシー・テイト『ジョージ・ルイス』小中セツ子訳(SOLITON CORPORATION 07)読了。

 今日読んだところ、267ページ以降ラストまでは、晩年のルイスを描いた部分なのですが、もう圧巻でした。まさに解説にあるとおり
「母親アリスとジョージ・ルイス本人から直接聞いたことを主観的に捉え」(306p)(太字化管理人)て書き上げられたジョージ・ルイス讃というべき伝記。それはそうなのですが、見方を変えれば母アリスと息子ジョージの物語でもあります。うーん。入れ込みすぎて距離が取れないので、うまく対象化できないなあ。
 ということで、主筋ではなく傍系の話になるのかも知れませんが、ルイスを支えた母親アリスの描写に()強く感じ入ったのでした。いや、ゼイアー、ユラニア、アリスとつづく三代の母系に、というべきか。(本書によれば)8歳で奴隷商人によってセネガルからニューオリンズへと売られてきた初代ゼイアーは、しかし僥倖にも主人一家に恵まれ、その影響で熱心なカトリック信者となります。それは
「そのまま子孫に受け継がれて」(22p)いったわけですが、とりわけ本書では、アリスにおいてそれが具体的に描写される。そしてその態度は、まさに先日読んだ『夢の分析』で類型化された「前近代」人の心性を端的に示しているように思われました。
 すなわち、本板5月18日に投稿したように「前近代では「私」の位置には「超越」があった。ゆえに個人が悩む(選択する・決断する)こともなかった。前近代には私の位置には超越(運命)があってその場を埋めていた」という状態がまるまる当てはまる。アリスの場合も、具体的な
「はっきり理解できる擬人化した」(同上)神がそこを占めていた。客観的にいって、これは良し悪しで、過酷な強いられた生活に対する心の防御となったのです。と書くと受動的な感じですが、そうではなく、もっと積極的な態度となって生活へ立ち向かう。命は自分のものではなく神のものであった。そこから個人主義ではなく家族主義、さらには人間一般への共感へとひろがる余地が生ずる。そこまで広げずとも、アリスの心のなかでアリスとジョージは一心同体であった。ジョージの場合も、アリスほど全面的ではないにせよ、なにほどか運命共同体的な意識があったことは、13章を読むとよく分かります。典型的な近代人である私には、とても(理解はできるが実行は)できない態度です。いろいろ考えさせられるのであります。
 いずれにせよ、アリスの96年の生涯を思うと、なんとも言えない気持ちになります。

 と、主筋を離れてアリスに着目した感想を述べた次第ですが(ひとつには、主筋に関してはいろいろこみ上げてきてまとめ切れないと感じたためでもあります)、傍系の話でもかくのごとくに、なんといいますか複雑に面白い。父方のゼノー一族も面白い。いわんやジョージ・ルイスをや。その意味では一種のルーツもの、大河小説でもあります。というわけで、本書はジャズファンにのみ読まれるものにしておくのはいかにももったいない。トラッドジャズの知識がなくてもぜんぜん問題ないです(私もありません)。ごくふつうの読者にも十分面白いものとなっています。これはもっと広く読まれてほしいなあ。
 なお本書は、堀晃さんから頂戴しました。面白い本をありがとうございました。


 カニ朝


 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月27日(金)21時07分33秒

返信・引用 編集済

 

 

『ジョージ・ルイス』は、267頁。今日中に読み終えて、『しょーもない、コキ』にとりかかる予定だったのですが、266〜267pに記された、著者のぼやけた目に見えた幻視に、私の目もぼやけてしまって、それ以上読めなくなってしまいました。

 さて、その『しょーもない、コキ』なんですが、昨日アマゾンに、ようやく在庫が(またもや1冊)復活し、やれやれと思ったのもつかの間、今日確認してみたところ、早くも在庫切れしているではないですか! だからそんな風にちびりちびり補充していては間に合わないんですってば!!

 気を取り直して、眉村さん情報――
 日経新聞で、6月20日(月)〜24日(金)にかけての5日間、眉村さんのエッセイが同紙に掲載されます。日経新聞を購読されている方がおられましたら、ご報告いただけたら幸いです。

 あと、先日お知らせしましたNHK文化センター神戸で、7月より開講されます眉村卓の創作のすすめの開講日が判りましたので(これは左記HPにもまだ反映されていないスクープです(^^;)、本板の読者にのみフライング発表させていただきます。

 7月は17日(第3日曜)、8月は7日(第1日曜)、9月は18日(第3日曜)となっています。

 さてもこのような変則日程になってしまったのは他でもありません、NHK文化センターからのオファーが急で、既に眉村さんのスケジュールが詰まっていたからなのです。従って10月以降は毎月第1日曜に固定となるそうです(上記HPでは3回限りの講義のように読めますが、NHK文化センターの受け付けの形式が3か月単位となっているだけの話で、それ以降も講義はつづく予定とのこと)。
 ちなみに7月第1日曜は短歌誌あめつちの会議。9月第1日曜の4日は、泉大津で講演が入っているみたいですね→泉大津市広報(PDFです)

 以前にNHK文化センターと並べて、神戸新聞文化センターの講義が、新たに一講義ふえると書きましたが、こちらは9月から開講だそうです。詳しいスケジュールが分かりましたら、また告知いたします。

 相変わらず今年の後半も眉村先生ご多忙のようですね。そのかわりと言っちゃなんですが、大阪芸大の方は今年の3月で教え子さんが卒業されたことは既報のとおりですが、日本ペンクラブの副会長の方もようやく任期をまっとうされてお役御免となる(なった?)とのことで、やれやれという感じみたいです。でも差し引きどっこいどっこいというところなんじゃないでしょうか(^^;

 あ、そうそう、6月18日のNHK文化センターの単独講演後は、眉村先生、今のところ(文化センターにつかまらない限り)予定はないそうで、講演後お茶くらい付き合っていただけそうですよ>柳生さん
 この記事を読まれている皆さんの中で、上記講演会に出席される方がいらっしゃいましたら、どうぞご一報下さい。ご一緒にお茶でもいかがですか(^^)>あ、私をご存じの方は連絡など不要ですよ(^^;

 



Re: 神戸で講演会!・眉村さん情報

 投稿者:柳生真加  投稿日:2011年 5月26日(木)09時24分0秒

返信・引用

 

 

> No.3051[元記事へ]

大熊さんも参加ですか
うれしいです

講演会でお会いしましょう

 



Re: 神戸で講演会!・眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月26日(木)01時03分42秒

返信・引用

 

 

> No.3050[元記事へ]

 柳生さん
 おお、眉村先生情報ありがとうございます。NHK文化センター神戸教室で講座を始められるとは聞いていたのですが、この講演は、そのイントロダクション的なものなのかも知れませんね。ということで、リンク先ページの左にある「新しく始まる講座」をクリックしてみましたら、ありました!
 →眉村卓の創作のすすめ
 これからエッセイや小説を書こうという方を対象とした講座のようですね。講座に興味をお持ちになった方も、まず、当講演を聴講してみられたらよいのではないでしょうか。
 私はもう、創作の才能がないことを自覚しちゃいましたので、いまさらそのための勉強をしたいという気持ちもないのですが、この講演は聴講したいと思います。
 柳生さんも参加されるのでしたら、講演後、うまくいけば眉村先生とお茶くらいできるかも知れませんね(^^)

 



神戸で講演会!

 投稿者:柳生真加  投稿日:2011年 5月25日(水)21時20分16秒

返信・引用

 

 

お久しぶりです
けさの新聞の折り込み広告で眉村さんの講座のお知らせがありました。
わたしは参加したいと思っています。

http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_636171.html

題   『妻に捧げた1778話』 眉村卓がショートショートに込めたメッセージ
と き 6/18(土) 12:30〜14:00
ところ NHK文化センター 神戸

 



「カニ朝」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月25日(水)02時56分30秒

返信・引用 編集済

 

 

 『ジョージ・ルイス』190頁まで。愈々バンク・ジョンソンが登場!(笑)

 「カニ朝」に着手しました。はじめの一歩→http://okmh.web.fc2.com/EWI/mc2.mp3

 ところで吹奏楽器は歯にくるんでしょうか。最近吹き終わったあと歯が痛むというか、そこまではいかないのですが、無理やり押さえつけられていたような違和感があるんです。思うに頬の筋肉を強く緊張・収縮させるため、それで歯が、口腔の内側によって、無理やり押されているんでしょうね。そのうち歯がポキリと折れてしまうのではないか。そういえばバンク・ジョンソンも歯が悪かったんですよね。頬を収縮させずに、ほっぺたをふくらませて吹けばいいのかな。でもそれでは、ガレスピーみたいになりそうで嫌だなあ。どっちにしろ、その程度の練習量では、なりませんって? まあそうか(^^;。

 



「しょーもない、コキ」書店在庫情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月23日(月)21時12分24秒

返信・引用

 

 

 『しょーもない、コキ』在庫状況の続報です。
 紀伊國屋書店では梅田本店、本町店、京橋店、堺北花田店、泉北店に在庫があります。感心したのは、グランドビル店、32番街店に在庫していないこと。これは賢い。どちらの店も梅田本店より5分以内の立地なんですよね。昨日書きましたように、そんな立地ならば、3店舗にパラパラ薄くばらまく必要はないのです。本店に集中させた方がボリュームも出てよほど効率的です。まあ販売者的には当たり前っちゃ当たり前。旭屋が馬鹿すぎるのです。しかしそれにしても、天下の旭屋ですのに、大阪圏店舗に2冊しか配本がないというのは、これはよっぽど弱っているのでしょうか? 40年来の旭屋ファンとしては心配になってきます。

 『ジョージ・ルイス』は160頁まで。

 
手と唇の間に持つ楽器は、自分の呼吸と同じくらいに自分自身の体の一部になるにちがいない。自分の口笛と同じように反応がよく、耳とハートと頭と指と息の協調関係は瞬時でしかも完璧であるべきだ。その時が来るにちがいない……来るだろう……彼が旋律を“思う”或いは音調を“感じる”、直ぐそれを努力や意識なしに指と息を使って生命を与える時がくるだろう。(109p)

 来るのかしら(^^ゞ。

 ということで(どういうことだ)、未練がましくもう一回。これが最後。どうしても譲れないところがあったので(>お、職人気質)(笑)。
 

 



Re: 「しょーもない、コキ」続報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月22日(日)21時50分49秒

返信・引用 編集済

 

 

 斎藤さん

 ご報告ありがとうございました。

 > 近所の丸善では、見事に平積みされていました!!
 丸善・ジュンク堂系列にはドーンと入荷したようですね。結構結構(^^)。
 それに比べて旭屋梅田本店はなんと1冊。知らない人が売り場を見れば、残り物にしか見えないんじゃないでしょうか。
 大体においてネットではなく書店を利用するという方の、その最大の動機は、「選べる」ということでしょう。平積みされている本を、何も考えず一番上のを取ってレジに行く人がいるでしょうか(>いません)。「それしか買えない」のであれば、わざわざ書店に出掛ける意味がない。
 だから最低2冊は売り場になければいけません(新刊の場合)。1冊しか置いていないというのは、人の購買態度からいってむしろ逆効果なんですよね。それが証拠に、この3日間、旭屋書店梅田本店の在庫は1冊のまま。つまり売れていないのです。この結果は上記からして当然なのです。
 むろん旭屋に買いに行った人がいなかったわけではない。しかし、売り場を見た段階で、たぶん旭屋で買うのはやめて丸善やジュンク堂に移動したことは、太陽が東から上がって西に沈むよりも、なお確かなことだと私には思われます。
 大阪市内の旭屋は、本店に1冊、ナンバ店に1冊となっているんですが、どうせ2冊しか入らなかったのであれば、平等に1冊ずつなんてトーシロなことはせず、本店にその2冊とも集めるべきでした。そうすれば少なくとも1冊はすでに売れているはず。ほーんと旭屋は売り方がヘタクソですなあ(^^ゞ。

 > 尚、ジュンク堂の紹介文とご紹介のあった文章は、腰巻に書かれたあおり文でした。
 > 又、bk1の紹介文の方は、腰巻の裏表紙側に書かれているあおり文でした。
 おお、そうだったのですか。ご教示感謝。なかなかよいあおり文ですよね(^^;

 > 未だ連載中ということですので、第二弾、第三弾も期待したいです!!
 そのためにもどーんと売れてほしいですよねえ(^^)。

 さて、EWI――
   ←削除済み
 もうちょっとよくなりそうな気がしますが、だらだらやるのは性に合わないので、これで打ち止め。また何週間かしてから取り組んでみるかも。そのときはたぶん発酵できているんじゃないかな。

 仕切りなおし→  まあこれが限界。

 



Re: 「しょーもない、コキ」続報

 投稿者:斎藤  投稿日:2011年 5月22日(日)14時03分53秒

返信・引用

 

 

> No.3045[元記事へ]

近所の丸善では、見事に平積みされていました!!
ネット書店での各種書影では、腰巻がないので全体に白っぽい幹事ですが、実物では水色の腰巻が付いていて、見栄えも良いですよ。
尚、ジュンク堂の紹介文とご紹介のあった文章は、腰巻に書かれたあおり文でした。
又、bk1の紹介文の方は、腰巻の裏表紙側に書かれているあおり文でした。

私は、早く読みたい気持ちを抑えながら、読む順番が来るのを待っている状態です。
でも、我慢出来ずパラパラ中身を覗いてしまいました。
収録された各作品は全て2ページ見開き構成で、文章は1ページ半位まで、余白に眉村さんご自身の書かれたイラストが書かれているという体裁です。
この作品群は、俳句誌「渦」と短歌誌「あめつち」に連載しているエッセイを発表順に収録したものということです。未だ連載中ということですので、第二弾、第三弾も期待したいです!!
ああ〜、早く読みたい!!

以上です。

 



「しょーもない、コキ」続報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月21日(土)19時02分42秒

返信・引用 編集済

 

 

『しょーもない、コキ』>一日遅れで、ジュンク堂大阪本店、ヒルトンプラザ店、難波店、千日前店、丸善ジュンク堂梅田店、それからネットストアにも在庫されました!→http://www.junkudo.co.jp/detail.jsp?ISBN=9784882934066

 あと、昨日品切れしていました紀伊国屋梅田本店で、在庫補充されました!→http://www.kinokuniya.co.jp/store/Umeda-Main-Store/ (まさか品出しが遅れとったんとちゃうやろね(^^;)

 ジュンク堂サイトでの内容紹介はこれ→
「作家マユムラセンセのおかしな?毎日 くすりと笑える、そうだとウナヅク、おしゃれなマンガエッセイ集!」

 わ、bk-1の内容紹介も変わっていました→
「世の中、よーく考えると「しょーもない」ことばかり? コキ(70歳)を迎えたベテランSF作家がユニークな視点から、街並みの変化や亡き妻との思い出などを“かわいい”イラストと共に綴る。 」 うん、以前のよりずっとよくなりました(^^ゞ

 となると、性格的に、アマゾンも確認してみなければ気がすみません。あれ、内容紹介がまだない。あっ、昨日2冊在庫だったのに、今見たら「通常5〜7日以内に発送します」に変わっているではないか。切らしちゃったのね。そりゃそうだ。2冊くらい在庫していたって焼け石に水ですがな。舐めたらあかんぜよ、アマゾンさんよ(>おい!)

  ns5
 どうも頭の部分、指が動かないんですよね。客観的にはそんなに難しい箇所ではないんですが……。それとこの曲で、私はじめてメモを取りました。それまでは耳コピで、まあそこそこ行けていたんですが、この曲のアドリブパートは、私の耳ごときでは追い切れなかったのでした。
 といっても五線譜を使うわけではなく、ミソッソーラ、ミソッソーラ、ラーシ、シーラーッ、ソミレードレ、ミドレラ、ドーレラーッ、ソラソミ……という具合にカタカナで(但しキーはG)。さてこれはどの部分でしょう(笑)というのは措いといて、聞くだけでは(カタマリとしてしか)耳に入らなかったのが、文字にして目で追いながら聞くと、あら不思議、明瞭に聞き分けられるのですね。どんだけ活字人間なのか>オレ(^^;。
  ns6 ←かなり改善

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月21日(土)00時56分52秒

返信・引用 編集済

 

 

 眉村さんの最新エッセイ集『しょーもない、コキ』(出版芸術社刊)が、各ネット書店に入荷したようです。セブンネットには書影もあがっています。表紙は眉村さんご自身のイラスト!!

 セブンネット(当日〜二日で発送)
 amazon (2点在庫あり)
 bk1 (出荷可能時間;24時間)

 リアル書店も調べてみました。
 旭屋本店 1冊
 旭屋なんばCITY店 1冊
 紀伊国屋梅田本店 在庫なし(在庫なしとはケシカラン、念のため新宿本店を確認したら在庫あり。てことは早くも売り切れたのか?)
 ジュンク堂はまだ入荷してないようです。
 ネット書店を利用するのが無難みたいですね。ということで、早速注文しました! 楽しみ〜(^^)

 

 



Re: 「ジョージ・ルイス」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月20日(金)00時23分29秒

返信・引用 編集済

 

 

 堀さん、ご教示ありがとうございます。
 今日は110頁まで読みました。86頁に、ゼイアーが1910年早々(1月14日頃?)に110歳で亡くなったとあります(ベッセル説では享年101歳としているのですが、それはまあ措いといて)。昨日引用したように、本書16頁でテイトは、1900年7月13日、「ゼイアーは100歳を優に越えていた」と書いていて、上の記述と微妙に矛盾しているのですよね。まあ「100歳を優に数ヶ月越えていた」ととれば嘘じゃないわけですが(笑)。この辺いかにもフィクション的な針小棒大はぜんぜん気にしない書き方であることが分かります。全体に(と云ってもまだ途中ですが)細部が活き活きとしているのはベッセルの比ではなく、よくも悪くも小説的といえそうですね。
 それ故に、読み物としてはテイトのほうが断然面白いです。ゼイアーのセネガルの思い出の部分など、まるで見ていたように書かれていて、それがとてもよいのですが、事実はゼイアーの母親の話なのかも知れないわけなんですよね。まあ聞き取りをしたアリス(聞き取りが戦後のことならば70歳を越えていた)が祖母と曾祖母を混同して喋った可能性もありますが(^^;。

>死後40年以上経って、暴露本?
 これはぜひ読みたいですねえ(笑)

 ns3 ns4

 



Re: 「ジョージ・ルイス」に着手

 投稿者:堀 晃  投稿日:2011年 5月19日(木)22時23分38秒

返信・引用

 

 

> No.3041[元記事へ]

鋭いですねえ……ルイスのルーツ。
これはトラッド系マニアの中でも議論されていて、ベッセル説がたぷん正しいようです。
2年ほど前に、またもアメリカでルイスに関する本だ出たようで(これがなんと批判系?つうか暴露系?つうか)、訳されるかどうかは未定です。
しかし、死後40年以上経って、暴露本?が出るってところがアメリカの凄さですね。

テイト本とベッセル本に共通するのは「バンク・ジョンソンの性格の悪さ」で、これだけは真実みたい。
『大いなる助走』で大垣義郎のいう名文句を思い出してしまいます。
音楽バージョンに直せば、
「嫌なやつかいい音楽をやるんだよ」
ということになりますか。

 



「ジョージ・ルイス」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月18日(水)22時54分48秒

返信・引用 編集済

 

 

 ドロシー・テイト『ジョージ・ルイス』に着手。50頁。丁度前史、ルイスが生まれた頃まで。で、ここで立ち止まってトム・ベッセル『ジョージ・ルイス』をパラパラめくってみました。
 あれ、テイト版ではセネガルから拉致されてきたのは曾祖母ゼイアーになっているのだが、ベッセル版ではゼイアーの母親(ルイスの曾曾祖母)になっているぞ。
「母親の曾祖母は奴隷船に乗せられニューオーリンズに連れて来られた。(……)間違いなく1803年のルイジアナ州購入より前。おそらくジョージ・ワシントン(1752〜1799)が大統領の頃だ」(B19p)(管理人註)ワシントンの在任期間は1789〜1797。
 あと、テイト版ではルイスの生まれた1900年7月13日、
「ゼイアーは100歳を優に越えていた」(T16p)。ベッセル版では「ゼイアーは1910年に101歳で亡くなった」(B19p)
 テイト版を信じれば、8歳で拉致されてきたゼイアーは1808年より数年前にアメリカに連れてこられたことになる。ベッセル版で
1808年には奴隷貿易が法的に禁止された。(……)それ以後、奴隷としてアメリカに来た人はごくわずかである」(B15p)とありますから、十分ありえます。(ただしテイトは、「ゼイアーが、いわば拉致されてきた5年前の1803年」(19p)とも記しており、つまり1808年に連れてこられた。これはT16pの記述と矛盾するばかりか、上記奴隷貿易禁止とも馴染みません)

 聞き取りの相手は同一人物(母アリス)のはずですが。時期が違っている(アリスの記憶違い?)のかな。いずれにせよ枝葉末節――と書きかけて、いやそうでもないのかも、と思い直す。
 ベッセルの立場は、ジャズをアフリカ由来とする定説への疑義があります。テイトの描くゼイアーは、拉致される直前に村の部族の太鼓の音を強く印象づけられ、ニューオーリンズでも折にふれて、(コンゴ広場だけでなく街角でも)同様のリズムを耳にする。これはテイトの立場がジャズにアフリカ音楽との強い関係性を見出すものであることを示している。連れてこられたのをゼイアーの母親にしてしまうと、この点がかなり間接的になって弱まってしまうんですよね。

 



Re: 「夢の分析」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月18日(水)00時37分59秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.3039[元記事へ]

 追記。拙速に書いてしまいましたが、ひきこもりが近代以前の心性ならば前近代には社会がなかったことになってしまいますね。もちろんそんなことはありません。だから上記は誤りです。
 本書によれば、前近代では「私」の位置には「超越」があった。ゆえに個人が悩む(選択する・決断する)こともなかった。前近代には私の位置には超越(運命)があってその場を埋めていた。ところが現代では、主体性の乏しい人にとって必須のそれが見つけられないのではないか。私に代替すべき中心の空虚がひきこもりを生むのでは。元来はひきこもりとなる人のほうが、前近代では適応態だったのかも。>メモ。

 



「夢の分析」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月17日(火)21時54分23秒

返信・引用 編集済

 

 

 「上本やるなあ。球団月間MVP決まりやね」
 「それはない」
 「ええ、なんで〜?」
 「やるのなら殊勲甲の鳥谷や」
 「殊勲甲……」

 
川嵜克哲『夢の分析 生成する〈私〉の根源(講談社選書メチエ05) 読了。

 非常に面白くて刺激を受けたのですが、いささか虻蜂取らずなところがあって拡散したような印象を持った。著者はユング派の夢分析を用いて著者が立ち会ったある婦人の夢を読み解いていくことで、近代的な「主体」というものの成立が17、18世紀より遡るものではなく、しかも近代的な「私」の基層には前近代的な「主体のあり方」が横たわっているということを言いたいのかも知れません。そういう意味で、本書はユング派の本であると同時に、フーコー的な近代論の本でもあります。そしてその両方は、著者にすれば決して別々のものではなく、表と裏の関係なのかも知れませんが、読む方からすると、なんとなく迂回的で散漫な感じもあった。と感じるのは、単に私の理解が及んでないだけなのかも知れません。著者の他の本を読んでみたい。

「こういうのは先に述べた意味で「神経症」的といえる。液晶テレビや海外旅行という自身の欲望に対して、それそのものが欲しいから買うなり行くなりというようにその「内容」に直接向かっていくのではなく、他の誰かが買ったから、多くの人が行くからという人との「関係」によって動いているからである。あるいは、逆に「連休にみんなが行くからにゃ、俺んちはどこへも行かねえ」と依怙地になるのも他人との関係を中心にして動いているという点では他人の動向を気にして動く人と本質的な差はない」(85‐86p)
  ↑
 あちゃー(汗)

「そもそも、羞恥の感情というものが、他人の視線からみた自分という自意識を前提としており、この意識が「外」からみえている自分と「内」側の隠された自分をつくりだす。つまり、外の視線を経由しての反省意識が「内面」をつくりだすのであり、閉じられた空間はこの意識のあり方に対応している」(142p)

「羞恥心は他人の視線という姿を一見とっているが、実は自意識によっている。神経症の人(とは近代人とほとんど同義である)」(193p)


 著者の説を敷衍すれば、「ひきこもり」という「神経症」はまさに近代の産物ということになるが、むしろ「ひきこもり」者というのは、自我(主体性・関係性)が一定のレベルに達していない人がそうなっているのではないのかという印象を私は持っているのです。それとも自我が強すぎて引きこもるということもあるのか? その辺のところをもう少し突き詰めてみたい。

 



最初の一歩

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月17日(火)01時32分5秒

返信・引用 編集済

 

 

 快方に向かったかに思われた風邪は、しかし昨日が最悪なのでした。悪いことは重なるもので、ギクッと腰までいわしてしもた。まさに踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目、類は友を呼ぶとはこのことでしょうか(違)。
 ともあれ、今日になって風邪は八割方回復したように思われます。でも手首に湿疹が出たり、眼鏡の鼻パッドの部分にニキビ(吹出物)が出たり、鼻の穴の周りが擦りむけたり(これはハナのかみ過ぎ)していて、体調はまだ本調子にはほど遠いのでした。

 そんななかでもEWIの練習は怠りません。ということで、最初の一歩二歩目
 まだメロディをうろ覚えなので途中からテキトーに吹いています。何度聴いてもリニアに分解できない部分があるんだよなあ。耳が悪すぎ。

 『夢の分析』読了。感想は明日にでも。

 



眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月15日(日)01時01分32秒

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 遅まきながら、小松左京フライバイガイドによりますと、ビッグローブのAndroidスマートフォン向けの販売サイトTOP BOOKSで、眉村さんの「一分間の春」が販売となったようです。小松さんの「人類裁判」「コップ一杯の戦争」「御先祖様万歳」と同時販売。→TOP BOOKSアプリはこちらからダウンロード可能。

 なお「一分間の春」は、集英社文庫版『僕と妻の1778話』(元版『日課・一日3枚以上(第10巻))所収の短話です。

 



フェイスブック始末

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月14日(土)23時43分32秒

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「原理的にいって、近代的な主体は運命に逆らう。そうでなくては「選択」ということは出てこない」(94p)

 風邪をひいてしまいました。最近暑かったので肌着のまま毛布もかけずに寝ていたのですが、昨晩はそれでは少し寒かったらしい。朝起きると、雨は降っていませんでしたが、起きた瞬間、これはヤバいと思った。案の定、リンパ腺が腫れて喉がいがらっぽく目が痛くて鼻水が出るのでした。今日は一日どんよりとしていました。夜になって、これではいかんと、しんどくてあまり吹きたくなかったのだけれども、EWIを1時間半ほど練習した。サックスに比べたら桁違いに肺活量も腹筋もその他の筋もラクなんですが、それでもわたし的にはそこそこの運動量になるのでありまして、うっすらと汗をかいた。鼻水は止まったみたい。いやーEWI(イーウィと発音するみたいです)、私にとっては健康器具ですな。ベルトの穴は二つほど改善しましたし、体重は、当初はあまり変化しなかったのですが、最近ようやく減少傾向に転じました。意識して腹筋を緊張させるようにさえしていれば、横から見てほぼ胸と腹が垂直になってきたような気がします。残された問題は上達しないことだけ(>あかんがな)(^^;。
 ということで、今日はCSとMIを復習し、「ナイスショット」に着手。

 ところでフェイスブックですが、なんとか登録できましたので、中を覗いてみた。わ、知った連中がうじゃうじゃいるではないか! 老けたけれども当時の面影は当然残っている顔写真がドーンと現れると、こっ恥ずかしくてなぜか正視できません。気分が悪くなってしまった。なぜなら見つけたのは男ばかりだったから。いやそれは冗談ですが、どうも登録しているのは、殆どがビジネス絡みのようで、オレはネットにリアルを求めてはいないんだ! と叫びたくなってしまった。私にとってはネットは「現実」とは別次元の、いわば妄想世界なのであって、むしろフェイスブックからわが妄想世界に、リアルが土足で入ってこられそうな恐怖さえ、大袈裟にいえば感じました。ということで、早々に退散。アカウントを閉鎖したのであった。あー怖かった(^^ゞ

 『夢の分析』は160頁。あと50頁ちょっと。

 



事実はどっちだ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月13日(金)23時42分48秒

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 臼田惣介さんが、ご自身が持っておられる角川文庫版の『見かえり峠の落日』のカバー画像を送って下さいました。
 おお、これはまた一転して古風な、典型的な股旅小説のイメージですね。

>奥付は昭和48年1月20日初版発行となっています

 とのことですが、実は私のも、昭和48年1月20日発行の初版なのです。ということはカバーが付け替えられたんでしょうね。
 私の想像ですが、元々は臼田さんお持ちのカバーだったのが、
「これではインパクト弱いんちゃうん?」「もっと紋次郎を全面に押し出さにゃ」という話になり、私の持っているカバーに差し替えられたんではないでしょうか。
 もちろん逆も考えられ、当初私のカバーだったのが、
「紋次郎ものではないのに、これは詐欺じゃないのか」という声が上がり、あわてて臼田さんのに付け替えられた可能性もなきにしもあらずではありますが(笑)

>尚、帯には
>時代小説界に新風を吹き込んだ 颯爽の、新股旅小説!
>中略
>お馴染み<木枯し紋次郎>の母体となった、著者初の股旅小説集。」

>とあって、最後に一行
>「木枯し紋次郎 = フジテレビ放映」
>となっています。

 とのこと。私のはブックオフなので帯は付いていず比較できないのですが、これまた最後に、ごく遠慮気味に「木枯し紋次郎 = フジテレビ放映」となっているのが、表紙カバーに対応しているような(笑)。

ともあれ、臼田さん、ありがとうございました!

 



フェイスブック

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月13日(金)20時18分6秒

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 朝だ。雨が・・・・・・・降ってない!

 こてっちゃんは? と思いましたが、これは商標なのか。

 フェイスブックに登録しかけているのだが、ぜんぜん判らない。途中で止まっています。メールにパスワードなんてないんだけどなあ。
 また何をだしぬけに、と思われたかも知れません。いやだしぬけなんですが、これには深ーいワケがあるのです。先日の同期飲み会で、ある女子が(A子としておきましょう)、最近自分の周囲でこんなことが流行っていると言い出した。なになに?と聞いてみると、それが、フェイスブックに登録することなんだそうです。フェイスブックをご存じない方も多いと思われます。私もそうでした。どうも新手のSNSらしく、特徴として本名でしか登録できず、個人情報も正直に記さなければいけないないらしい。日本人のネット特性として、本名やリアルな個人情報は隠すという習性があると思うのですが、このフェイスブックは正反対、もとい、まぎゃくなんですよね。で、どうやらそれが逆にある種の需要を喚起し、人気を集めているらしいのです。

A子「登録したら、高校とか、大学で昔付き合ってたり、好きやったりした同級生が登録してないか探すの」
私「さがしてどうするねん」
A子「メッセージを送るんやん」
私「送ってどうするんや?」
A子「そんなん知らん」

 知らんはずないやろ! それくらい私にでも推測はつくのであります。それをさっき不意に思い出したので、早速登録に掛かったのでしたが、上記のとおり、なんかよくわからんようになってしまったという次第。
 ははあ、さては登録して、お前もそういうコトをしようというわけやなって? そんなことは致しません。私はただ、私の名前をフェイスブック上にて探している女子がいたら困っているだろうな、とそう思って、仏の心で登録するだけのこと。だから早く登録を完了したいのですが。あー、私の名前が見つからずに落胆している子がきっといるんやろうな。困ったなあ。焦るなあ……(^^ゞ。

 



羊のような日本人は電気の夢を見るかも

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月12日(木)21時17分15秒

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 朝だ。雨が降っている。梅雨だ(>違)。

 東電の賠償、電気料値上げで

 電気料金の値上げは基本的に反対ではありません。それは節電に効果があると思うからで、たとえば15%値上げされたとしましょう。おそらく消費者は、実際のところ、そのときはじめて真剣に節電を実行し始め、使用電気量を15%削減しちゃうんでしょう。そうして支払う電気料金を従来と同じ程度に収めるはず。まあそんなもんです。

 でも、そもそもの賠償金目的としては、どうだろう。上記の次第で、個人が節電にこれつとめてしまえば、電力会社の思惑どおりには、増収に結びつかないのではないでしょうか。

 以上は一般消費者の話。大口需要者の企業はどうか。

 工場は基本的に注文があった分稼動させないわけにはいかない。というか実際は仕入れた原料ロット分作るだけ作って営業のケツを叩いて売りさばくわけですが(現状輪番停電で品不足が起こっているが、下記の次第で個人の節電で浮いた分が企業使用不足分に充当されるはず)。だから企業使用分に関しては、電力会社は増益になるのでしょう。
 しかしながら、電気料金の上がり分を企業が負担するかといえば、この資本主義の世の中、絶対にそんなことはしません。電気料金の値上げ分は必ず単価に上乗せされ、最終的に国民が負担するわけです。
 しかも、個人消費者は節電協力で、直接的な電気料金を始末できたとしても、それで浮いた電力は企業に回されることになり、計画停電は解消され、企業はほっと一息となりそうな予感。ところが、企業が消費した電力の値上がり分は商品に転嫁され、おそらく値上げの嵐が起こるでしょう。それは取りも直さず最終消費者である個人(国民)が負担するということなのです。

 しかしまあ、その結果個人消費者に引き締め気分が広がり、消費意欲が減退すれば、それが回りまわって企業の電力使用量も減少するわけなんですが(そうなったら更に賠償金目的の意味がなくなるという二律背反)、海外向けの製品はこの限りではないんですよね。でもそういう次第でどんどん景気が冷え込んで、ダウンサイジングしたらいいんです。そもそも水膨れ体質で回していた国なんですから。

 追記。結局これって、原発事故による電力供給能力の低下による減収をカバーするのが裏の、真の、まず第一の、狙いなのかな。で、その効果として、個人使用者が節電し、その分が企業使用分に振り向けられ、結果、東電供給能力低下の中で企業は従来通りの電力を供給されることになり、東電も産業社会的責任を果たせるというシナリオなのかも。でもその結果原発(の代替)が要らなくなったのだから、これでいいのか。まあ、そんなものだ。

 



幻想小説と夢

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月11日(水)23時26分16秒

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 朝だ。雨の朝だ。巴里に死す(>違)。

 昨夜はマイディア、カリシャワを(1週間ぶりくらいに)復習していたのですが、もうボロボロ。丁度EWIをさわり始めてまる1か月を過ぎたところなんですが、日毎進歩している実感があった当初と比べて伸びている実感もなくなり、停滞感がひしひし。この辺が壁なのかも。

 『夢の分析』は110頁。ユング派の解釈では「トンネル」というのが重要な手がかりみたいですね。トンネルとは境界をまたぐ通路とのことで、臨死体験でもよく現れるイメージらしい。私は、幻想小説に「乗り物での到着」というパターンが多いことに興味を持っており、そのことは繰り返して述べてもいるわけですが、これは「トンネル」と同じ意味を担っているのではないかな、と思わされました。幻想小説の小説世界と夢の世界は、ある意味同型なのかも。

 



Re: 鬼首峠に棄てた鈴

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月11日(水)00時42分45秒

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臼田さん

 そうでした。短篇集の最後の作品ですね。とりあえず順番に読みますけど。紋次郎に集約・シリーズ化したことで、失われたものが、おそらくあるんでしょうね。ところが私が入手した角川文庫版(73)は、こんな表紙なんです。「笹沢左保・木枯し紋次郎」って……。70年代は今よりずっとおおらかな時代だったんですなあ(違)。

 



鬼首峠に棄てた鈴

 投稿者:臼田惣介  投稿日:2011年 5月10日(火)23時45分1秒

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表題作の「見かえり峠の落日」も悪くないですが、収録作品では「鬼首峠に棄てた鈴」が一番好きです。紋次郎を予感させるところもちょっとありますが、全編を通して紋次郎とは違う、生死を抗いようのない日常生活の延長として捉えるような乾いた空気感を感じさせるところが興味深い作品集です。

 



打ち止め

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 9日(月)21時39分29秒

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 一応。まあこれ以上は無理でしょう。ということで、youtubeにアップロード。

 

 しかしナベサダさんの広告が出るんだよなあ。音の中に特殊な識別信号が入っているのか。いや私は構わないんだが、ナベサダさんが迷惑でしょう(>おい)(^^;。いずれにせよすごい技術ですなあ。
 次は何にしようかな(^^)。

『夢の分析』は70頁。

 



仕切りなおし

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 8日(日)11時45分58秒

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 昨日のがあまりにひどいので録れ直しました。いやまあ五十歩百歩ですが。音色も若干合っていなかったので変えてみた。前回のがClareInNetで、今度のはMerrowというやつ。出来合いの音色が80種類標準装備されています。全部で100種類装備可能で、パソコンを使えば自分で作れるらしい。そういえば伊東たけしの音の数値表みたいのをネットで見かけましたな。その方面はまだ手を付けていません。出来合いの音で我慢していますが、殆どがオモチャみたいな音です。まあサックスっぽいのとフルートっぽいのとクラリネットぽいのがあれば、私は充分ですけど。
 あと、ゴミを繁殖させるのは本意ではないので、今回は(消えることを想定した上で)MP3ファイルでアップしました。数日で消えてしまう予定。なのだが、いま確認したところ、5月1日にアップロードしたのがまだ消え残っていました。これまでだとだいたい3日で消えていたんですが……よく分かりませんなあ。youtubeには、これ以上はオレの技倆では無理だろうというののみアップしようかな。考え中。あ、昨日のyoutubeも消しておきます(汗)。

 http://okmh.web.fc2.com/EWI/mi2.mp3

 蟻の歩みですがましなのに差し替え(↑はたぶんチューニングも合ってなかった)
 http://okmh.web.fc2.com/EWI/mi4.mp3

 



Re: 稲むらの火

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 8日(日)03時45分2秒

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 臼田さん

 ご教示ありがとうございます。早速wikipediaを見てみました。どうも引き潮が、津波の際に必ず随伴する現象であるとは、必ずしもかぎらないようですね。ひとつ賢くなりました(笑)。
 紀州沿岸も津波の被害が多かったというのは、知りませんでした。でもまあ紀州もリアス式海岸ですから、考えてみれば当然か(^^;。地図をみると、広川町は三角形の湾の一番奥で、丁度今回被害甚大だった陸前高田とよく似た立地ですね。津波の被害が拡大しやすい地形。津波の村として有名だったというのはたしかに。
 そういう極めて不利な位置にあるのに、個人が私財で建設した津波防潮堤のおかげで、「昭和の東南海地震・南海地震による津波に際して被害を免れた」というのは、非常に示唆的ですね。(ということで、以下何行か書き込んだが、非常にデリケートな話になってきたので消しました。なので唐突ですが、この話は終了!)(^^;

 それはさておき、かねてより臼田さんご推薦だった作品集『見返り峠の落日』を、最近ようやっと(105円で)ゲットしましたよ! 何年かかった? 10年近くかかりましたっけ。近々読んでみますね(笑)

 



稲むらの火

 投稿者:臼田惣介  投稿日:2011年 5月 8日(日)00時58分53秒

返信・引用

 

 

先日は携帯で失礼しました。
さて、津波の前に潮が引く、という説が一般に流布されている一因は戦前の教科書に長く掲載されていた「稲むらの火」という物語の影響があると思います。この物語の元ネタはラフカディオ・ハーンが日本の各地で採録した話として海外で発表した「Living God」ですが、教材の名作と言われるこの物語、また復活するという話もあるようです。
ハーンは地名を書かなかったようですが、教科書では明記されていて、現在の和歌山県有田郡広川町です。当時は広村の名で津波の村として全国に有名だったそうです。主人公の濱口梧陵はこの物語の後、南北600mにわたる津波防波堤を自力で建設しますが、私はその防波堤の北端の真下で生まれました。チャンチャン。
というわけで、「稲むらの火」で検索すると面白いですよ。ウィキペディアでは引き潮の話も出ています。濱口梧陵はなかなかの人で勝海舟や中央政界でも名を成した人です。ヤマサ醤油のオーナーでもあります。では、また。

 



コンクリート・アイランド(違)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 7日(土)23時04分55秒

返信・引用

 

 

 後半、集中力が途切れました(ーー;。まあ最初の一歩ですから(>言い訳)。

 

 



引き潮のとき(違)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 7日(土)20時07分4秒

返信・引用

 

 

 大震災の翌日、3月12日に当板に投稿した記事で、私は花輪莞爾の津波小説に言及してこう書きました。

 
「ところで、本篇の描写を信ずるならば、いずれの場合も、津波の前にいったん潮が引いて湾が空っぽになったそうです。昨日はどうだったのか。震源地が近すぎて引くいとまもなかったのか。」

 今日ようやくその疑問に応えてくれる記事を発見。→仙台女子アナ日記【5】

 
「女川町は揺れてから津波が押し寄せるまで30分の間があったそうです」
 「地震発生時はちょうど「お昼寝の時間」で、寝ていた園児たちを起こして園庭に誘導していたとき、ひとりの先生がふと海岸をのぞいて異様な光景を目撃したそうです。遙か向こうの海が、引き波で見たこともない高さまで盛り上がっていくのが見えたのです。「これは危ない」。機転を利かせてさらに高台に園児たちを連れて行ったのが良かった」


 やはり引き波はあったんですね。そのメカニズムは私にはいまいち理解できないのですが、盛り上がることで、盛り上がった波の外接する部分の水位が下がり、そこに、その周囲から海水が流入して埋めたということなのか。とりあえず花輪莞爾の描写(おそらく実地に聞き取り調査したもの)は正しかったことが判りました。小説家の空想(による針小棒大)ではなかったということで、こういうことが絶対ない訳ではないから、小説家はさじ加減というのか、虚実交える塩梅が難しいですね(^^ゞ

 『夢の分析 生成する〈私〉の根源』に着手。

 



「寝ても覚めても」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 6日(金)21時13分12秒

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柴崎友香『寝ても覚めても』(河出書房10)読了。

 本篇は、『ビリジアン』のように短篇を繋げた連作長篇ではなく、純然たる長篇小説で、同タイトルの短篇が『ドリーマーズ』に収録されていますが、その長篇化でもない全くの別作品です。私は著者の本を、本書を含めてもまだ三冊しか読んでいませんけれども、勘案するにおそらく本書は、これまでのところの最高傑作なんではないでしょうか。既読書に比べてもレベルが一桁違う作品のように感じました。とりあえず「凄い」のひと言。

 ストーリーを要約してしまうと、なんだか安直なドラマのように思われるかも知れません。私も最初は、「ちょっと危ういなあ」との予断を以って読み始めたものでしたが、恋愛小説というならばそういってもいいですが、これほどエンターテインメントのそれから遙かにはずれてしまった恋愛小説もありません。だからストーリーの要約は(予断を招きそうなので)省きます。

 私はまず、本篇から「時間」というものを強く意識させられた。本篇は、主人公の、大学を卒業して就職したばかりの、22歳のゴールデンウィークから31歳までの物語が、わずか270頁で語られるのです。どんどん時が過ぎていきます。最初のGWで、いわゆる一目惚れをしてしまった「麦」に翻弄される9年間と言ってよい。「麦」は「獏」でしょう。夢の世界の人物のように淡い、全く生活感のない、実体感のない若者で、主人公の女友達が
「あさちゃんは、ああいう感じでオッケーなん? ていうか、かなりあかんと思うねんけど」と主人公を心配するほど。とつぜん数ヶ月も居なくなったりする。そういう事が何度もあり、案の定、中国へ旅行に出たまま音信不通になる。

 主人公も主人公で、かなり幼いというのか、生きるのが不器用な感じで、麦がいなくなったあとも、主体性もなく流されるまま、東京に移り住みます。で、そこで(麦と知り合って6年後、麦がいなくなってからなら3年後)麦とそっくりな若者亮平に出遭う……。

 なんといいますかこの辺が、表面的には韓流ドラマっぽい展開なんですよね(汗)。ま、それはとにかく、それから半年近く、主人公は亮平を避ける。実は亮平に惹かれているのだが、それは彼に麦を見ているからだと思っているのです。ところがひょんな偶然で(これまたテレビドラマの定石のシーン(^^;)、一気に二人は付き合い始める。そのうち主人公の心の中で、麦はどんどん印象を薄めていくのですが、亮平と付き合い始めて3年後、主人公の前に、突然麦が現れる、というか(テレビの中に)目撃する。麦は新人の映画俳優になっていたのです! なんとなんと(^^ゞ。
 亮平が転勤で大阪に帰ることになる。主人公も大阪に戻ろうと決意する。そんなとき、麦の乗っているロケ車が主人公の横を通り過ぎるのでした……。

 や、ストーリーは書かないと言っていたのに、気づいたら書いてしまってました(汗)。まあいいか。とまれかくまれ、このように要約すると、誰でもこの後の展開に、韓流ドラマのゆくたてを予想するに違いありません。たしかにある意味、まさに予想通りに展開していくのだが、その予想は最終的に大きく裏切られてしまうことになるのです!!

 このラスト、読む人で大きく好悪に印象が分かれてしまうでしょう。でも、このラスト、そもそも「現実」の(もちろん小説内現実の)出来事なんでしょうか?

 亮平は大阪に転勤することになって、それで主人公も大阪へ帰る決心をした筈です。なのに、なぜ亮平は主人公の住んでいたアパートの裏の家に住んでいるんでしょうか? 同じシーン、いま亮平と付き合っているらしい千花が、主人公と口論のあと、千花の友人らしいげんちゃんが、「都合よく」自転車でやってきて、千花を乗せて去っていく。これもふつうにはあり得ないシチュエーションではないでしょうか。
(註)

 そう考えると、このシーンが「現実」のシーンだとは考え難くなってくる。つまりこのシーンは主人公の「心の中」の、いわば《内宇宙》での出来事なのではないか。主人公は、眠っている麦を残して岡山駅でのぞみから降りたとき、「現実」との繋がりも切れてしまったのではなかろうか――と想像するのは、あながち無理読みでもないように思われるのです。あるいは麦との逃避行すら、既に《内宇宙》での話なのかも。……

 ともあれ、時の流れの非情さに、主人公がひたすら切ない、残酷な物語で、よかった。面白かった(汗)。
 あと、著者がアングルを考えて描写しているのは間違いなく(平谷美樹もそうですね)、たとえば本書の第1行目は
「この場所の全体が雲の影に入っていた」という印象的な文章で始まり、雲の下に街があり、やがて視線は高層ビルの展望フロアに収束していくのですが、この描写のように、実に視覚的な快感があります。折々に挿入される2、3行のスケッチ風の描写も(その前後に絡む場合も、ぜんぜん無関係な場合もある)、よいアクセントになっている。平谷さんは美術の先生でしたし、本篇の主人公はカメラが趣味なのだが、おそらく著者自身もそうなんでしょう、そういう「目」のよい人の小説だよなあ、と感じました。

 柴崎友香って、とんでもない作家なのではないか、そんな気がしてきました(>畏怖)。

 
(註)むろん亮平の方に未練があり、会社を辞めてアパートの裏の家を借りて主人公が戻ってくるのを待っていたという可能性もあり得るわけですが、そういうのはあからさまなので、千花は近づかないのではないでしょうか? そんなロマンチックな話ではないと思います。それではまんま韓流になってしまいます。

 



ジャズ・アット・チャーチ2011

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 6日(金)00時03分37秒

返信・引用

 

 

 連休の締めはラスカルズ、ということで、大阪のジャズの聖地(パンフレットによる)島之内教会で開かれたジャズ・アット・チャーチ2011に、ジャズ住職とつれもて行こら、と行ってきました!
 1時から始まっていたのですが、諸事情で2時半に到着。ところが着いてみれば、満員で立ち見もできない状況。しかしスタッフに堀晃さんがいらっしゃって、特別に2階の配電盤むき出しの屋根裏みたいな部屋(そこも満員だったのですが)に案内してくださって観るを得ました。この部屋、音響的にもステージを見るにも、実に良い部屋で、ラッキー! という感じ。なんか得した気分になりました(^^;。

 終演後、堀さんとわれら二人とで教会近くの海鮮居酒屋か串カツ屋かわからん居酒屋で一杯、二杯、三杯。いろいろ面白い話を聴かせていただきました。これもラッキー! 明日が早いという堀さんと別れたあとも、われら二人は、道頓堀のかに道楽の隣の白木屋で、さらにSF&世相検討会。気持ちよく酔って10時半過ぎ帰着しました。いやー楽しかった。これで明日から、また機嫌よく働けそうです。堀さん、ありがとうございました。

 



Re: 大学同期飲み会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 4日(水)21時18分55秒

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 やあ、昨日はみなさん梅田だったんですね。どうりで人ごみが尋常じゃありませんでした。違いますね。大阪ステーションシティのプレオープンだったんですね。昨日のメンバーの田舎から出てきたのが、ぼんやりしていたら、入場する行列に並ばされてしまっていたそうです(^^;。

 雫石さん
 昨日はそういう理由ですみませんでした。西夫人の携帯が壊れていたそうですね。

 堀さん
 たしかに変な店で、外人率が異様に高かったです(店員も大半が外人で、「おあいそ」が通じなかった。それは通じんわな、と笑ったんですが。日本人は女の子ひとりだけだったような……)。でもわれわれ以外は、静かな客ばかりでしたけど。そういえば撞球台が置かれていましたな。MI6かどこかの秘密の連絡場所なのかも知れません(^^;。

 



Re: 大学同期飲み会

 投稿者:堀 晃  投稿日:2011年 5月 4日(水)20時56分22秒

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> No.3019[元記事へ]

> 私は、いつものメンバーと、いつもの店で飲んでました。

私はロイヤルホースで飲んでました。

しかし、ニューサンの上のアイリッシュパブは気になりながらも行ったことがありません。
降りてくる客とエレベーターでいっしょになることは多いのですが、あまりお近づきになりたくないタイプが多いですねえ。

 



Re: 大学同期飲み会

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2011年 5月 4日(水)18時33分40秒

返信・引用

 

 

> No.3018[元記事へ]

それは楽しかったですね。
私は、いつものメンバーと、いつもの店で飲んでました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 



大学同期飲み会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 4日(水)12時18分11秒

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 昨日は大学同期と6年ぶり(?)の飲み会(同窓会とはちょっと言いがたい仲間うちの会なのでこうしておく)。7名集まったのだが、今回は男子の参加が少なく、男ふたりに対して女5人となってしまい、まあ喧しいの喧しくないの(喧しいのです)想像を絶するレベルで、本会に使った阪急東通りの割烹店・吉在門は、個室だからよかったですが、その前に入った阪急17番街の喫茶店では、(場所柄もあって)私はひたすら恥ずかしかった。まさに「恥」とは自分の姿が他人の目にどう映っているかの想像力であることを確認した次第。
 話題は女が多かったこともあって、姑の愚痴――なんですが、我々の年代になると、彼女たちの前に巨大に立ちはだかっていた恐怖に満ちた姑の姿は小さくなり、丸くなり、てことはつまり実質的な主導権がもはや移譲されてしまったということなんでしょう。それよりも老親介護の問題のほうが焦眉の急となってきているようでありました。まあ大変なのは変わらないんでしょうが、子供は独立し、以前と比べれば自由裁量時間が増えているのは事実らしく、次は温泉一泊旅行で、とかいう話になってきた。まあ想像を楽しむのは自由ですが、今回でも6年ぶりとなったわけですから、実現はかなりハードルが高いのではないのかな、と私は思いましたがもちろん表面安請け合いしていましたけれども(笑)。
 二次会は、前から入ってみたいと思っていたニューサントリー5の一階上、6階にあるアイリッシュパブ(店名失念)。はじめてでしたが、なかなか雰囲気のよい店でした。ただし喧しい客も許容する範囲の雰囲気の良さ(^^;、というか、この時分には既に私もずいぶん酔っ払っていて、他者の視線などどうでもよい状態になっていたので、客観的な判断とはいえません。実際は周囲の客から眉を顰められていたのかも。このお店、意外にリーズナブルでした。私はアイリッシュウイスキーのストレート二杯とウーロン茶、他の者も当然同じくらい(2〜3杯)飲み、おつまみは食べきれないほど並べて、ひとり何と千円で収まった。いいところを見つけました(笑)。最後は曽根崎通りの入口向こう岸へ渡ったところで、再会を約してホテル組はホテルへ、自宅組は駅方面へと、左右に別れたのでありました。いやー楽しかった。電車の繋がりもよく12時過ぎに帰着。

 追記。でもどう考えてもありえない安さだなあ。店の計算間違いではないのか。てことで、この投稿を見て行かれて、意外に高かったりしても、当局は一切関知しないのでそのつもりで(^^;。

 



「寝ても覚めても」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 2日(月)21時31分52秒

返信・引用

 

 

 MP3ファイルが二日前にも消えていて、これは予想していたので即復活させたのでしたが(やはりAM3時前)、原因を特定しようとネットをうろついて分かりました。そもそも(私が使っている)FC2のスペースは、MP3を許可していなかったのでした(汗)。
 なーんだ。というか、逆に時限的にでもアップできていたほうがおかしな話なんですね。
 てことで、この手は使えないことが分かったので、大袈裟ですがyoutubeにアップしちゃいました(^^;。
 ただし一般的な「公開」モードではなく(烏滸がましすぎます)、かといって「非公開」でもなく(それでは意味がない)、「限定公開」モードでアップしてみました。これは、youtubeのどこにも姿はないが、URLを知っていれば見れるというものらしい。掲示板にも貼れるみたいなので、まあ実験で貼ってみます。

 

 『寝ても覚めても』に着手しました。

 



Re: ご聴取ありがとうございます♪

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 2日(月)01時06分20秒

返信・引用 編集済

 

 

> No.3015[元記事へ]

平谷さん

> まだ5回目で慣れませんが
いや堂々たるホストぶりでしたよ。でも30分はあっという間で、ちょっと物足りないです〜(笑)。できれば1時間に拡大してもらってショートショートコーナーも(>お約束(^^;)

> 近いうちにアーカイブも含めてウェブラジオも
それはいいですね、楽しみです。「歴史ウンチク&推理」、どんな話だったのかわくわくします。その方面はぜひ今後も! 応援しております♪

 



ご聴取ありがとうございます♪

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2011年 5月 1日(日)22時31分51秒

返信・引用

 

 

まだ5回目で慣れませんが、ぼちぼち頑張っていきたいと思います(笑)。
近いうちにアーカイブも含めてウェブラジオも展開される予定ですので、そちらでお楽しみいただければ、と。
第2回では歴史ウンチク&推理などを語っております。

 



平谷美樹のラジオ番組

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 1日(日)20時35分32秒

返信・引用 編集済

 

 

 平谷美樹さんがラジオ番組を始めたことは知っていたのですが、東北でしかもFM放送ということで、聴くことは叶わないと思い込んでいたところ、ラジコで聴けることを最近知りました。
 で、今日、早速聴取→http://fukkou.radiko.jp/
 FM岩手の「焚き火の時間」(毎週日曜午後6時〜6時半)という番組です。
 今日は東北在住の画家さんがゲストで、アイルランドやスコットランド(ケルト)は東北(エミシ)を感じさせるというお話でした。
 平谷さんのナマのお声をはじめて拝聴しましたが、さすが元教師だけあって、よく響くいいお声でした(^^;。わがジャズ住職も朗々たる声なんですが、職業が声帯を鍛えるということはありえるんでしょうね。
 30分ということで、あっという間でしたが、なかなか楽しい番組でした。平谷さんのウンチクを聴けるのが魅力ですねえ(^^;。
 時間帯的に毎回は無理ですし、ラジコも期間限定っぽいのですが、聴ける間は楽しみにしたいと思います。

 



「エディプス・コンプレックス論争」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 1日(日)20時06分45秒

返信・引用

 

 

妙木浩之『エディプス・コンプレックス論争性をめぐる精神分析史 (講談社選書メチエ02)読了。

 フロイトが創始した(あるいは発明した)エディプス・コンプレックスという概念を、フロイトの弟子たちがどのように継承し、発展させ、あるいは改変し、あるいは否定したかを、ある意味「下世話に」(フロイト学派だから当然です)「相関図」的に描いた論争史といえばよいでしょうか。
 その意味で本書の特徴は、学説が、建前を離れればそもそも理念的なものではありえず、その「発明者」の個人史(コンプレックス)に大きく依存してなされたものであることを(フロイト自身も含めて)明らかにすることに重点が置かれているところにあるのではないでしょうか。本書を通読すると、フロイト学派(フロイト一家)がまるで一種の近親相姦の繰り返しであったような印象さえあります(アドラーとユングは早々に御免被った?)。この時代の(第1世代の)精神分析家はみな神経症なのではないかとさえ思われます(^^;
 これらは要するに、本書が精神分析家の筆によるものだからなのでしょう。非常にユニークなエディプスコンプレックスを巡る概論となっていて面白かった。ただし文章に難有り。ときどき意味を取りきれない日本語が出てきます。これは著者が、一気にダダっと書き上げたものだからでしょう。日本語(書き言葉)としておかしいし、本人が分かっていることが読者も自明という感じで書かれている部分がある。知識のある人はカンで推理するんでしょうが、私のような素人も読者にはいるのです。書かれた文章が正しく、かつ素人にも理解できるようになっているか、著者は、自分が書き上げたあとの興奮状態から冷めるまで、少し寝かせてから、読み返し推敲する作業を加えるべきだったように思われました。

 



ミスするとき

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 5月 1日(日)01時08分49秒

返信・引用 編集済

 

 

 『エディプス・コンプレックス論争』120頁。半分超。エディプス・コンプレックスの理論というか観念が、実はフロイト個人の無意識を表しているというのは『フロイト思想のキーワード』にも書かれていましたが、その世界では常識なのかな。

 今日は女子フィギュアを見ていたのですが、ミスってこわいですね。このレベルの選手ならとうぜん普段は余裕で出来ているんだろうというところで、ポロリとミスってるんですよね。ふっと心が空白になって、瞬間的な次の準備がおろそかになってしまうんでしょうか。
 まあレベルはぜんぜん違うんですが、その感覚は私もEWIを始めたせいでなんとなくわかるようになったような気がします。だいたいミスする時っていうのは、(難度の高いところは当然なのですが)いつもならすっと吹けるところをミスる時っていうのは、本来常に次の手順を意識してなければいけないのに、何らかの理由で吹き終わったところ(後ろ)に気が残ってしまい、前への心の準備がおろそかになってしまった時なんですよね。浅田選手だったか安藤選手だったか忘れましたが、インタビューで「抜けてしまった」と言ってましたが、言い得て妙だと思いました。
 EWIを初めてまだ1箇月足らずですが、フィギュアのテレビ中継を、これまでとは別の角度から見ている自分に驚かされました。

 ということで、復習 ←アルトの音と区別して聞き取れるよう、音の種類をシンセっぽいのに変えてみました(^^;。

 




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