ヘリコニア過去ログ1107


「翼の贈りもの」(10)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月31日(日)02時59分58秒
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   「深色ガラスの物語――非公式ステンドグラス窓の歴史」を読みました。いわゆる言葉の一般的な意味での小説(狭義の小説)ではありません。副題にあるように<ステンドグラス窓>の歴史を記述したものですが、それもネアンデルタール人の時代から22世紀、さらにはもっとその先までをも通観する「架空の」<ステンドグラス窓>の歴史なのです。
 ネアンデルタール人にステンドグラスという文化があったのか疑問の方は、まずもって本篇を読まれるべきでしょう。ネアンデルタールの時代とはほぼ氷河期とイコールであるわけですが、そんな閉ざされた世界で体調管理するための体育館(窓がステンドガラスで飾られている)がなかったはずがないというのはけだし卓見というべきでしょう(^^;。

 さて、ネアンデルタールの時代にステンドグラス文化が花開いたのは、それが氷河期且つ活発な火山活動期であったことと無縁ではありません。「霜巨人」(世界の生ける霊)と、火山が噴出する有色成分と酸化物の合作だったわけです。当然ネアンデルタールからクロマニヨンへの覇権の移動(すなわち氷期の終焉)と共に、最初のステンドグラス文化は廃れる。

 その後、この第4間氷期であるわれら新人の時代の、12世紀から14世紀にかけて最盛期を迎え、20世紀あたりでジリ貧になっていく、第2の勃興期がありました。これがわれわれがよく知っているステンドグラスの文化です。でもそれは、第1期の文化からすれば形骸も甚だしいものだったのです。

 22世紀にごく短い第5氷期が訪れ、ふたたび真のステンドグラス文化(世界の生ける霊の活動)が復活しますが、すぐに温暖化で消え去る。しかし遺物は十分に残った。その結果、このときの人類はわれわれですから、はじめて、世界の生ける霊によって描かれたステンドグラスが、あるメッセージを表現していたことに気づく。
 世界中に遺されたステンドグラスを巡る「ガラスのグランドツアー」が企画され、ツアー参加者は、そこに壮大な「叙事詩」を読み取る。その叙事詩に描かれる「人間」は、ホモサピエンスとイコールではない(もっと広くて、どうやら動物たちの中にも「人間」である者がいるような気配)。むしろホモサピエンスの時代は「狭い地峡に閉じ込められた」惨めな時代であると、ステンドグラスには描かれていたのです。

 始原たる「第一魔法の時代」の「人間」は空も飛べた。ところが、その後、幸福なネアンデルタールの時代があったが、やがて上記「地峡に打ち捨てられた遭難者の時代」が続く、というステンドグラスが明らかにした歴史は、一部の人間には耐え難いものだった。窓打ち壊し運動が起こり、遺物はことごとく壊されてしまう。

 ところがその後、ごく短い氷河期のゆり戻しがあり、世界の生ける霊が還ってくる。この時に描かれたステンドグラスには、「悔い改めよ!」との文字が書きなぐってあったのです! われわれ人間はそれらのガラスも破壊したのでしょうか? NOです。人々には恐ろしくて壊すことができなかった。ひそかにどこか秘密の場所に隠してしまったんだとさ(笑)。

 以上、簡単に要約しましたが、これは何をあらわしているんでしょうか。過去に(天使から猿[動物]まで含む、世界の生ける霊という意味では同じ仲間である「人間」の)ユートピアがあった(これはファンタジーの定石)。我々人類は、そこから退化したもので、天使と動物を切り離し、世界の生ける霊を信じなくなった。そういう現生人類が世界を支配し、狭い地峡に自らを閉じ込め自足していることを批判しているのでしょうか。もとよりかかる態度の先にあるのは、人間至上主義的な物質文明ということなんでしょう。
 

瀬川昌男さんご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月30日(土)19時04分45秒
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   オロモルフ先生の掲示板で知りました。『白鳥座61番星』は、記憶が正しければ、私がはじめて読んだ日本作家のSF小説。そうじゃないな、日本人にもこんなしっかりしたSFが書けるのか、と認識を改めた小説で、おいおい、ヴェガ=アルタイル間の距離は、アルタイル=ソル間の距離と同じくらいやで、と思った気がしますが【註】、本当に面白いSF小説でした。『チタンの幽霊人』『火星にさく花』も面白かった。記憶がもはや曖昧ですが、前者は、後年ブリッシュを読んで、あ、インスパイアされたんやな、と思った記憶が。偽記憶かも知れませんが(^^;
 いずれにせよ、当時の日本ジュブナイルSFでは一等抜きん出たハード派で、本格!という感じがあって大好きでしたね。ご冥福をお祈りいたします。

 【註】追記。というか白鳥座61番星はヴェガとアルタイルの間にあるというわけでもないぞ、と思ったのかも。もはや忘却の霧の向こうです(ーー;
 

「翼の贈りもの」(9)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月30日(土)15時11分13秒
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   「ジョン・ソルト」を読みました。イカサマ師もの。一読ただちに脳裏をかすめたのは、「眠れる童女、ポリー・チャームズ」でした。デイヴィッドスン作品では、ラストでポリーが起き上がって主人(?)のマーガトロイドを救けます。(どうでもいいですがメドシップのアレが浮かんできて困るのですよねこの名前(^^;、それはさておき)これは、1)眠っているふりをしていたのが緊急事態発生であわてて起き上がったとも解釈できますが(とすればメアリー・コルシカーナと同じ役割)、2)事実奇跡が起こって主人を救出したとも読める(むろん結局二人とも死んでしまうのだが肉体は損なわれない)。
 2)だとしたら、何はともあれ少なくとも食事の世話や身の回りの世話を(当然下の世話も)してくれていた主人に対して、最後のご奉公的な奇跡であったといえる(私はこちらを取りたい。金髪の長い長い髪を見事な状態に櫛って維持し続けていたという事実[著者の記述]から、徒や疎かな扱いはしていないことが確信を持って窺えるからです)。

 翻って本篇は、上に述べたようにメアリーはイカサマ師の片棒を担いでいた。ところがこの、いわばデイヴィッドスンの1)のシチュエーションで奇跡が起こってしまう。すなわち実は生きているのに細工で死体となっていた者を生き返らせようとしたところ死んでいたとか、本当は瑞々しい手なのに細工で乾涸びさせておき蘇らせようとしたところ実際に乾涸びてしまっていたという奇跡です。むしろ《逆奇跡》というべきですね。その結果、超自然の使い手を装いつつも超自然の存在を信じていなかったペテン師ジョン・ソルトは、実際に超自然の発現を目の当たりにして発狂してしまうのです。
 ところでこの2つの奇跡、一見互いに逆向きの奇跡ですが、シチュエーション自体が逆向きなので、実は同じ向きの奇跡だったんですね。かくのごとく並べるとこの二者の、同じく奇跡を扱う手付きの違いが際立って面白いのですが、実は方向は同じ。共に作品の芯にあるのは意外にも宗教が要請する倫理観で、つまりは「民話」なんです。興味深いですねえ。
 

Re: 小松先生ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月30日(土)00時24分47秒
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  > No.3150[元記事へ]

 雫石さん
 >ありがたいことに、私は親しく言葉を交わす機会に恵まれました
 それはうらやましい。いい思い出ですね(^^)
 ところで下の弔文もどき、致命的な欠陥を発見しました。向こうに着くまでに49日かかるんでした。だからまだ再会は果たされていないのです。そうかまだ歩き出したばかりなんやな〜、などと考えているうちにウトウトしていたらしく、こんな夢を見てしまいました――

 天上のテラスで、星さんと矢野さんが熱心に下を覗いておられるのです。

 「おった、あそこや、トコトコ歩いてはる」
 「まだあんなに小さくしか見えないな」
 「そら出発したばかりやさかい」
 「ああ待ちきれないぞ、だれか至急、軌道エレベーターを建設しろ!」
 「そら無理や」
 「なぜ?」
 「そやかて、ハードSF作家はまだ誰もこっちに来てはらへんがな」
 

Re: 小松先生ご逝去

 投稿者:雫石鉄也メール  投稿日:2011年 7月29日(金)22時32分11秒
返信・引用
  > No.3148[元記事へ]

小松さんは星群際に2回来ていただきましたので、ありがたいことに、私は親しく言葉を交わす機会に恵まれました。
私たちのような、無名のファンにもごく自然に接していただきました。
第1世代の先輩方が、どんどん逝かれる。さみしいかぎりです。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

「翼の贈りもの」(8)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月29日(金)21時10分45秒
返信・引用 編集済
   眉村さん情報>小松左京さん死去:桂米朝さん、眉村卓さん、石川喬司さんの話

 『優雅な日々と宮殿』を読みました。
 初再読の際にも書きましたが(ここ)、なぜかこの作品にコードウェイナー・スミスを想起させられたんですよね。グリッグルス・スウィングという万能人にロード・ジェストコーストの面影を見たような気がしたんです(万能人というとギルバート・ゴッセンをまっ先に思い浮かべがちですが、ここはジェストコーストなのです)。
 そのときはロード・ジェストコーストの名前が思い出せず、《超人指導者》と書いてお茶を濁したのでしたが、いま、『シェイヨルという名の星』を引っ張り出してきて確認しました。で、そこから二人の作家の共通点が、ぱっと視界に開けてきたのでした。まず伊藤典夫の解説を読み返して、スミスの作品も、ラファティ同様にキリスト教がモチーフに色濃く反映されていることに改めて注意が喚起されました。ここにも類似点があります。あと名前の付け方。チャーリー=イズ=マイダーリンとかロード・ノット=フロム=ヒアなどに、ヴィクター・ホーンスプーンとかジョージ・ダックハンターと命名する同じセンスを感じてしまいます。あ、遺伝子操作が重要な要素になっているのも類似点といえそう。
 上記スミス本解説での伊藤典夫の評言「ストーリーテリングの常道を無視した語り口」「用語説明はほとんどなく、読者を宙ぶらりんな不安な状態においたまま進んでいく物語」はまんまラファティにも通じるものですよね。結局のところ、要はどちらも《詩》小説だということではないでしょうか。
 そういう次第で、リンク先で記述した《扉の井上氏の言葉「遠大なSF的ビジョン」。そう、これなんですよ。これがそう感じさせたんですね。「宇宙舟歌」もそうですよね。この「遠大なSF的ビジョン」とは、ハード宇宙SFのそれではない筈です。「宇宙舟歌」、「タイタンの妖女」、「明日を越える旅」、「都市」、「人類補完機構」みたいなのを想定されているのだと思います。つまり宇宙は宇宙でも、埴谷的な意味でのそれだといえそうです》というのも、初再読にしてはあながち的外れでもなかったなあと、満更でもない思い出し笑いをしているところなんですが、なになに、「世の中には自己を客観視できないタイプの人間がいて、これがナルシストだとたいへんなことになる」ですって? 失礼な! 私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。佐々アワワ以下略……
 

小松先生ご逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月28日(木)21時04分2秒
返信・引用 編集済
   小松左京先生の訃報に接し、謹んでご冥福をお祈りいたします。学生時代、大フィル祭で(眉村組のパシリとして)アルバイトさせていただいたのが、唯一じかにご尊顔を拝する機会でありましたが、そのときはじめて、楽譜を読みながらオーケストラを聴くということをし、その楽しさに目覚めさせられました。今頃は星さん光瀬さん矢野さん野田さんらと再会し、上機嫌に酒を酌み交わしていらっしゃるんでしょうね。お疲れさまでした。どうぞお元気で。  

「翼の贈りもの」(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月27日(水)20時59分43秒
返信・引用 編集済
   「マルタ」を読みました。原題が「ホーリー・ウーマン」。このタイトルを見ますと、モンクではなく、やはりアイラーなのかなあ、などと思ってしまいますね。下に述べるように邦題も「ホーリー・ウーマン」でよかったのではないでしょうか。ストレートに演奏すれば、いわゆる「姉さん女房」のお話といってよいような内容ですから(^^;。(いうまでもなく年齢は無関係です)

 マルタは孤児院の前に捨てられていた女の子で、この町ジェベル・シャーのインフォーマルな仕組みに基づけば、「従属奉仕」の一員(つまり奴隷)で生涯を終わっても仕方がなかった。ところがなんの幸運か(それとも不運か)、こともあろうにジョハン・イブン・カーブ(つまりジャック・マッケイブ)と結婚の契りを結ぶゆくたてとなる。
 このジャック、はっきりいって「ろくでなし」であります。しかし賢くて働き者のマルタは、ジャックに対して「分を越えて結婚してくれた」ことをもって際限なく尽くすのです(要するに尻拭き)。にもかかわらずこのろくでなし、ろくでなしで且つ「信じられないくらいのうすのろ」ですから「相手がそんな些細なことを永遠に動かし難いものであると見なすとはまったく気づいていなかった」(108p)といううつけ者。自分が「分を超えた妻を娶った」果報者であることに全然気づいていないのですよね。いい気な者なのであります。

 こういうのって、現実でも意外によくある夫婦のパターンじゃないでしょうか。私のごく狭い交友範囲でも複数のカップルを認めることができます。私に言わせれば「なんで別れへんのん? キャツにあんたは勿体ない」なんですが、「こんなオタフクを貰ってくれたのにありがたいと思わんと」となる。まあ前提として(おそらく)アフターケアがしっかりしているんだと思いますが(>おい)、それにしてもあまりにも「持ち出し」のほうが多い。あ、邦題は「観音さま」がよいかも(笑)。(【註】ただし客観的には共依存の面もある)

 そういうかなり深刻な内容なのですが(「マルタはこの世で一番重い十字架を背負い、一日も絶えない愚かな行いとともに生きる苦しみを受け入れ続けている」)、それを、間抜けな盗賊が賢い娘の機知によっていっぱい食わされるていの、一種民話的なストーリーに乗せて軽妙に語られるので、そのシリアスな部分を読者は見落としがちかも知れません。そこで英語国民は、「ホーリー・ウーマン」のタイトルを見返し、アッ!と見落としに気づくはずなのです。ホーリー・ウーマンもまた、前作「ケイシィ・マシン」で言及された、「堕落の娯楽」とは違う道を歩く者のひとりなのです。
 「でもこう信じたいのです。私が去るとき、私がこの世にまったくいなかったよりは、少しはよい状態だろうと」(129p)
 

「翼の贈りもの」(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月26日(火)22時34分11秒
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   「ケイシィ・マシン」を読みました。これは間然とするところなき傑作。しかもインプロビゼーションもほどほどなので非常に読みやすかったです。とはいえラファティらしい逆説は健在で、私審判と公審判の時差はたいしたものではない、なぜなら死んだあと我々は永遠に入るのであるからして、死せる者の主観からすれば須臾の間にしか過ぎないだろうというのは、なるほどなあ、と納得させられます。

 ところで私、最後の審判(公審判)という概念は知っていましたが、それ以前に私審判というものがあるという、いうならば2段階式になっているということを、この歳になるまで知りませんでした。SFは勉強になります。大体私の知識の7割がたは、SF小説とそれを読むために調べることで得たものです。というのはさておき、審判のあと、私たちはこの世で起こったことをすべて知ることになるというのは、これまた初めて聞く話で、その意外さに驚いたのですが、これはカトリックの教義的な常識なのでしょうか。それともラファティのアイデア? ざっとネットを見た限りではそんな記述は見当たらなかったのですが、とりあえず本篇の前提条件として受け入れることにします。これを受け入れなければ本篇は成立しないので。

 で、ここでもラファティの逆説が真価を発揮する。即ち、すべてとなれば、いうまでもなく清いことだけではなく濁世の罪深いこともすべてということではないのか、と難癖をつける者が出てくる。彼のたまいく、審判後、振り分けられて天国へ上ることが許された清廉潔白な人は、当然生前は身を戒めて、さような罪深いこととは関わりにならず一生を終えたはず。であるからこそ天国の門が開かれたのである。しかるに審判後、悪の愉しみも含めたすべてを知ってしまっては、それでは一体どういうことになるのか、と。これに対して聖職者は、困惑しつつも、許されたものはそのようなものは見ないと答える。なんと選ばれた者はそんな楽しい経験ができるにも関わらずさせてもらえないのか。では私は審判後すべてを(追)体験できる側にとどまろう、地獄に堕ちる方を選ぼう、というのです!
 なるほどねえ。一理ありますな(^^;

 そこでケイシィ・マシンであります。ケイシィ・マシンは一種の窃視機械で、世の全ての出来事をのぞき見れるのです。それも現在だけでなく、天地開闢から終末までの全出来事を見ることができる。ゆえにケイシィ・マシンは非時間的なのです。長くなるのでそのしくみについては省略します(>おい)(^^;。

 これはいわば、上に述べた審判後の愉しみを、生きているうちに体験できる画期的な発明でありました。「堕落の娯楽」を提供できるケイシィ・マシンは売れに売れまくる。つまり大多数の人間にとっては、悪が楽しいということ。「多くの人間は知りたい放題の世界に我を忘れた」(103p)ばかりか、「それより限りなき"背徳の世界"(ポルニア)に夢中になった人間のほうがもっと多かった」(同)のです。うん? これってなにかに似ていますね。そう、パソコンとインターネットの世界です。何でも情報を知ることができ、とりわけ劣情的な情報へのアクセスへの閾の低さは、初期のパソコンの普及に大きく寄与したのでしたよね(ケイシィ・マシンが磁気や電気によって可能であったというのも示唆的)。「この機械とは、娼婦(ポルノ)の神殿だった」(106p)というのは、むろんケイシィ・マシンのことですが、パソコンであっても全然おかしくありません。そのあげくのはては――すべての情報をケイシィ・マシンによって共有可能となった人類は、「私たちすべては一匹の同じ獣になった」(103p)。一匹の同じ獣にグローバリズムの斉一化を読み取るのは私だけでしょうか。

 さて、かかる「あらえっさっさの時代」は、永遠にうち続いたのでしょうか? 残念ながらそうではなかった。本篇を読んでもその顛末は具体的には判りません。ただ主人公には前兆が感じられた。「リンゴ摘み労働者」とは何者なんでしょう。エデンの園のリンゴの管理者? いずれにせよ、リンゴ摘み労働者に代表される「堕落の娯楽」とは違う道を歩く者もいたという、前後につながりを持たない一文が挿入されているのは、著者の信念の表明だったのでしょうか。112頁にポツンとあらわれる「力を持った命令」とは何を指すのでしょうか? それが「あらえっさっさの時代」を強制終了させたのでしょうか?

 ところで、109頁の「拭き取り屋がやってきて」から「私は見た」までの断章が実によいと思いませんか。一種の散文詩として完結しています。この部分だけで一個の作品たりえています。こんなかっこいい幻想掌篇もラファティは書けるんだね(笑)。でもこういうのを作品でございとふんぞり返るには、ラファティは繊細すぎるのでしょう。だからこのように、作品内にこっそり紛れ込ましてしまうのではないでしょうか。
 
 

「翼の贈りもの」(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月25日(月)18時59分19秒
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   唐突ですが、アンソロジー『SFの旅 地中海・エーゲ海篇』編纂に際しては、ディッシュ「アジアの岸辺」デイヴィッドスン「ナポリ」高野史緒「イスタンブール(ノット・コンスタンティノープル)」など定番に加えて、「雨降る日のハリカルナッソス」も忘れずに、並べて収録して欲しいものであります。先回書き落としてしまったので(^^;。

 その伝でいきますと、本篇「片目のマネシツグミ」は、<ミクロコスモス・テーマ・アンソロジー>には欠かせない作品といえましょう。本篇、モンクばりの、変換された奇抜なフレーズや不協和音(それが実に本篇の聴きどころなんですけどね(^^;)を元に戻して、つまりストレートな譜面にかえしますと、まさにハミルトン「フェッセンデンの宇宙」! 科学者がミクロ世界(文中では「国」)を拵えます。ミクロ世界のミクロ時間は、8000年がこの世界の2秒半に相当します。したがって科学者団の狙いは超高速文明が、アッという間にこの世界を追い越して技術革新し、到達獲得するであろう未知の発明・発見を、横から(というか本文中の言葉を使えば「妖精たちの「住みかの屋根」を取り除いて)掠め盗ろうという魂胆(^^;。しかも科学者団の一員にして主導的な立場のトビアス・ラムは、更にきついノルマを課す。何と乱暴にもミクロ世界をライフルの弾倉に詰め発射しちゃう。もしミクロ世界が文明を発展させきれなかったら、発射された世界は4キロ先の岩崖に命中して木っ端微塵と化す。この4キロはライフルから発射された弾丸が2秒半後(この世界の8000年に相当)に到達する距離なのです。しかしその間に、見事科学者たちが期待する階梯に達し得たら、ミクロ世界はその弾道軌道を自らの技術で曲げ、Uターンし、無事元の位置に戻ってくるであろう、と。はたしてミクロ世界の運命や如何に……という話なんです、まあ大体(笑)。

 ところが実際はそんなストレートに演奏してくれません。まず2秒半(8000年)の根拠が示されるのですが、それは当の科学者トビアス・ラムのご先祖であるカインの息子たち(ヤバル、ユバルの兄弟、異母兄弟のトバルカインたち12名)が、大洪水の際、活火山の火口に球形の宇宙船を詰め、火山の噴火のエネルギーでスポンと宇宙に飛び出し、8000年後(の今から4、500年前(*))に、自力で地球に帰還した事実に基づいているんだそう。でも同僚は言います。「そんな伝説、まったく初耳だね」。で、彼が知っているという巨人族のゴグとマゴクがノアの箱舟の屋根に跨って生きながらえた伝説を語るのだが、その伝説、私は全く初耳ですね(>おい)(^^;。
 初耳なのは、ラファティが法螺を吹いているのでなければ、私が知らないだけなのかも知れません。本篇には、ちょっとネットで調べた程度では分からないことがとりわけ多い。
 タイトルにもなっているマネシツグミ(モッキン・バード)は、日本の読者でイメージできる人は殆どいないんじゃないか。アメリカではごく普通にみられる(日本の雀や烏のような)鳥みたいですね。で、トビアス・ラムがやたら罵る。これがよく判らない。例えば日本の読者は狐や狸や烏が出てきて罵られていたとしたら、そこにあるイメージを認めて納得できるんじゃないでしょうか。その意味でアメリカ人にはよく判る反応なのかも知れません。ネットを辿ると、この鳥、非常によく鳴く鳥で、夜中でも鳴くので寝られなかったという記述を複数見つけました。あと、トビアス・ラムが同僚に「モッカー」(人を食った男)と呆れられるシーンがある。これもモッキンバードが出てくるのと関係がありそうですが(最後ではラムの子孫(?)たちのシンボルになっている)、わたし的には腹に嵌って分かるものではなかった。「左利き」、「山羊」、「片目」もたぶん意味があるんでしょう。「片目」は製鉄部族かも(トバルカインは製鉄民の始祖)。なかなか難しい小説でした。

(*)4、500年前というのが意味深。丁度産業資本家の出現、マニュファクチュアの開始時期ではないですか。つまり宇宙から帰還した製鉄部族が次代の産業革命を準備した。ミクロ世界に新発見・新発明を求めた根拠になりますね。

 追記。文脈を離れて、人類学的にいえば、左手は「非日常」、俗に対する「聖(不浄も含む)」であり、羊(家畜)に対する山羊は「野生」を現すといえる。でもそんな公式的解釈で説明できるものかどうか。
 

「翼の贈りもの(補足)」その他の話

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月24日(日)22時39分10秒
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   昨日の続きですが、「ル・ノイア」の部分、ある方が原書に当たってくださいました。原書では「Le Noire」となっているそうです。これでロング・ジョンの知ったかぶりが確定しましたね(^^;。のみならず、さらに面白い事実が浮かび上がってきました。「あ、わかった!」と膝を打たれた方も多かろうと思われます。
 そうなんです。フランス語で「闇の男」は、きちんといえば「l'homme noir」ですが、英語「blackman」が「black」(もしくは「blacky」)といえるように、「le noir」と言い得ると思われます(日本語なら「クロ」とか「クロんぼ」)。ところがそれをロング・ジョンは、「Le Noire」と言ってしまった。つまり男性冠詞に女性形容詞をくっつけて「le noire」としてしまったんですよね(la noireなら闇の女)。フランス語を最初に学んだとき面食らうのがこの品詞に性別があることですよね。しかもアメリカ人にとりフランス語は第1外国語の一つですから、高校くらいからこれに苦しめられ、人によっては親の仇よりも憎い人がいるんじゃないでしょうか。だからこのロング・ジョンの知ったかぶりの間違いを読んだアメリカ人は腹を抱えて(ただしちょっと自嘲気味に)笑ったに違いありません。こういうのは日本語にはなかなかうまく移せないですよね。そこを訳者は「ル・ノイア」と ルビを振ってそこはかとなく示したわけですね。なかなかよい工夫だと思いました。ラファティの意地悪なユーモアがうまく出ていました(^^)。

 さて、外出しない日曜日は読書もおやすみ。また明日。その代わりといっちゃなんですが、平谷さんがパーソナリティをつとめるラジオ番組「焚き火の時間」を、今日も視聴していたのですが、今日は怪異譚特集で、そのなかで、一人で川釣りしていると、ときどき女の人の声が聞こえたりする、という怪しい話が紹介された。平谷さんの解釈は自然の物音の中で、人間の音声に近い周波数の物音が人声と誤認される(場合がある)のではないかとのことでした。
 実は私も、ぼんやりしていたり半覚半睡のようなとき、ふと人の声を聞いたように思うことがかなりの頻度であります。それらはやはりちょっとした物音の聴き違いなんでしょうが、人間はぼんやりしていたりしたときは特に、原因の確証のない音に対しては、まず、人間の出すそれと思うように、本能的に基礎づけられているのではないでしょうか。これは聴覚ですが、視覚においてもいえて、点のような染みが2つ横に並んだ壁に人間の顔(目)を見出さずにはいられないのも同じ機制でしょう。
 クロマニヨン人以来3万年以上の人類史の中で、そういう反応を内在化した人間が生存に適応し、そういう反応を持ち得なかった個体は生存に不利で滅んでいき子孫を残せなかった。その結果不利な因子は排除され現生人類はすべて、だしぬけに耳に入ってくる(平谷さんの言われる)人声の周波数に近い音や、横並びの2点や逆三角形の3点には、特段の注意を喚起させられるようになってしまった。で、とくにそれが人間の声や顔なのは、人間にとっての最大の脅威が人間ということなんでしょうなあ(^^;。
 
 

「翼の贈りもの(4)」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月23日(土)22時30分15秒
返信・引用 編集済
   昨日書き忘れてしまったのですが、ロング・ジョンがマルセイユでブラッキイの噂を聞いたとして「あれが噂の闇の男か」みたいなことを言うのですが、闇の男にル・ノイアとルビがふられています。フランス語は英語に輪をかけて不案内ですが、これは当然「le noir」を知ったかぶりであやまって英語読みしたものという設定に間違いなく、この発音で、すでにロング・ジョンがフランスなどに行ったことがないと分かる仕掛けなんですよね。ですからその直後の「二人ともマルセイユなんかに行ったことはなかった」という解説は、屋上屋を重ねてしまったというか、馬から落ちて落馬したといいいますか、とにかく言わずもがなの説明で、このような「読者の推理の愉しみ」を邪魔するトゥーマッチは、ラファティにはちょっと珍しいと思います。もとより日本製エンターテインメント小説の無粋極まる書き過ぎはこの比ではなく、それに比べたらかわいいものでありますが(^^;。

 ということで、「雨降る日のハリカルナッソス」を読みました。冒頭のアーパッド・アルティノフ「歴史の裏戸口」からの引用が実に刺激的。ところが、らっぱ亭さんの研究によると、アーパッド・アルティノフはラファティの創造した架空の人物とのこと。ですから「歴史の裏木戸」も架空の書物ということになる。うーん。たしかにアリストパネス「雲」の初演をソクラテスの死後であるBC395年として、ソクラテスの死を否定する材料としていますが、実際はBC423年で、ソクラテスはそもそも存命なんですよね(cf「ソクラテスの弁明」)。これはちょっと勇み足でしたが、作品の根幹に関わる致命的なものではない。なんたってアルティノフの祖父がそれよりも遙か19世紀に、ソクラテスに出遭っているというのですから(汗)。
 さて本篇も、台座のネジをキリキリと巻き、動き始めたという印象の、ジオラマ感あふれる作品。大体22フィートのモーターランチがなぜ地球を半周も回ったエーゲ海に浮かんでいられるのか、と船の愚かさをわらう著者に同感する他ないのですが、もっとも、おそらくは著者がひょいと指先でつまんで、ジオラマの海に浮かべたんでありましょう(笑)。いにしえのハリカルナッソスの地に現存するボドルムは、ネットで見ると風光明媚な観光都市で、ちっとも本篇の描写に合うところはありません。この辺現実と虚構の按配が見事。そうして映画クテシフォン起源説などというとんでもない虚構をいけしゃーしゃーと挟み込んでくる。旧都クテシフォンからバグダッドへの映画産業の移転というアイデアは、バグダッドとハリウッドの類似からの発想でしょう(^^;。最初から最後まで、二人のアメリカ人にとってはちょっと気に入ったガイドでしかないソクラテスというのがいいなあ。仕掛けがそんなにあるわけではない、比較的読みやすい小品でした。
 

「翼の贈りもの」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月22日(金)21時10分2秒
返信・引用 編集済
   前回、「反歌」と書いたのは、「返歌」の書き間違いでした。訂正しました。ところで、ラファティを読むとき、どんな映像が浮かんでいるでしょうか。よもやリアルな人間ではないと思います。写実的な人間の所作のはずがありません。私の場合は一種の人形劇というか人形アニメのような映像なんですよね。

 で、「なつかしきゴールデンゲイト」を読んだのですが、とりわけこの作品にはその感じが強かった。大昔、NHK「おかあさんといっしょ」で「ブーフーウー」だったか「三匹のこぶた」だったかという人形劇がありましたよね。当掲示板の読者はよく覚えておられると思います(>おい)(^^;。実際は着ぐるみ劇でしたが、着ぐるみ劇にうつるのは、うたのお姉さんが、ブーフーウーの世界のジオラマ(のようなミニチュア)の台座のネジを巻き、そうすると着ぐるみ劇が始まるという趣向でした。本篇の、ゴールデンゲイトという酒場、そして店が存在する太平洋ではない側の岸辺にある港町も含めて、上記のジオラマっぽい感じが私にはするんですよねえ。山尾悠子「夢の棲む街」の登場人物も人形っぽいですけど、ああいう感じですかね。いや山尾悠子はチェコの人形アニメっぽいか。

 端から話がそれましたが、本篇、いやー面白かった。読了ただちに思い浮かぶのは、かのラマンチャの男ではないでしょうか。まあ正確には人形アニメ版のそれということになりますか(^^;。もとより本篇はそのようにインプロビゼーション演奏されたものですが、もとになった譜面に戻しますと、つまりストレートな筋に戻しますと、「物事の分別が付いているとは言いがたい」主人公バーナビイが、夜ごと酒場で演じられるロマンス劇に入れ込み、現実とフィクションの区別をなくしてしまい、劇中でヒロインをいたぶる悪者専門の俳優ブラッキイを、「本物の悪の権化」と思い込んでしまうのです。で、家から拳銃を持ち込んで発射する(もっとも客観的には弾丸ははずれ、壁の漆喰にめり込む)という話でしょう。

 それをセルバンテス同様に、主人公の妄想的主観から描き(周りの者の発言に客観性を孕ませるのも同じ)、しかもセルバンテスにはない根源的な変形(ラファティらしさ)を加えてしまう。
 キホーテが風車に跳ね返されるように、バーナビイは撃ち損じる。でもバーナビイの内面においては、現実の弾丸ではない弾丸が、ブラッキイを正確に撃ちぬいている。その結果悪者役者の裡から悪魔が抜け去り、ごく平凡な男(抜け殻)が彼の前に立っているのです。

 さて、そんなこんなで店は営業スタイルを(90年代風から20年代風へと)変える。ところが90年代西部劇の分かりやすい善悪は、禁酒法の世界には存在しなかった。バーナビイは言います。「20年代に、悪役をどうやって見分けたんだろう?」。「うーん、分からないわね」と答える店主に失望(?)したバーナビイは、90年代風悪役をやりたいが為に店を変わっていくブラッキイを、追いかけて行きます。風車を風車と認めることを拒否し、再び旅立っていったラ・マンチャの男同様に……。ブラッキイは、ゴールデンゲートに来る以前にも、撃たれたことがあるとのことですが、それもたぶんバーナビイだったのかも知れませんね(^^ゞ

 追記。このような筆法は、牧野信一にも認められますね。牧野の場合は一人称で、実際はわかっているのだが現実に直面したくないので演じ続けている、というパターンになりますが。
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月21日(木)20時51分53秒
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   ■先日もご案内しましたが、神戸文学館の小松左京展がいよいよ明日から始まります(7/22〜9/25)。(*)
 その企画の一環として、眉村さんの「SFを書きはじめた頃」と題された特別講演が、8月6日土曜日に開催されます(14時〜15時30分)。内容はどうやら小松さん眉村さんに、筒井さんも含めた関西SF三羽烏の交友思い出話となるみたいですよ。このお三方が、いつどこでいかにして出遭い(宇宙塵、NULL)、それぞれプロとして羽ばたいていったか、そんな興味深い話が伺えそうです(^^)←推測です。為念。
 別のソースによりますと、コマケンから大挙聴講にこられるらしい。眉村さんもこれはめったなことは喋れんぞと、今から気を引き締めておられました(笑)。定員50名ですので(去年の眉村さんの講演では椅子が追加されましたけど)、まだ残席があるのかどうか確認していませんが、聴講希望者は078-882-2028神戸文学館へお問い合わせ・お申し込み下さい。
 (*)今日の読売夕刊に告知記事が載ると聞いたのですが、うちの夕刊には見当たりませんでした。神戸版かもしれません。

 ■短篇「じきに、こけるよ」が収録された創元文庫『年刊日本SF傑作選 結晶銀河』の現物が届いたそうです。ということは、早ければ週末、遅くとも週明けには、一般書店にも並ぶのではないでしょうか。こちらもたのしみ〜!

 

 ■NHK文化センター神戸教室の講座「眉村卓の創作のすすめ」ですが、結局、開講日は第3日曜で定まったようです。よって8月度のみ、変則で第1日曜となりますが、9月以降は第3日曜日となります。ただしHPをみると、残席はわずかみたいですよ。先生の教えを受けてみたいと考えられている方はお急ぎを。お申し込みはこちら

 

「翼の贈りもの」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月20日(水)21時32分34秒
返信・引用 編集済
   昨日の投稿で、アイラーと書きましたが、ちょっと違うなあと思い直しました。アイラーみたいな破壊感はない。むしろモンクですよね。ヤツデのように指を広げて音を探し探し弾く姿はまさにラファティの筆法にダブるような気がします。よって下の投稿も、「モンクがスタンダードナンバーを演奏するみたいな」と訂正しました。

 ということで、「最後の天文学者」を読みました。本篇も「だれかがくれた……」同様、死によって幕を閉じる、嫋々たる余韻漂う感傷的な作品なんですが、いかんせん前半がかなりハード。実は3読目だというのに頭に入ってこず、前半を2周してしまったのでした(^^;。老婆心ながらこれから読まれる方は、あらかじめ25頁の、変則現象鳥人が舞い降りてくる手前で、ダカーポ記号(D.C.)を打っておくとよいでしょう(>おい)。
 いずれにせよ変則現象鳥人以降は、ラファティにしてはコードが守られて「ストーリー」(因果の連鎖)になっているので余韻が発生するのです。
 本篇は、ブラッドベリ「亡命者たち」への返歌というか、倒立させた作品ですね。「亡命者たち」では、火星に逃れてきた反合理、古き思考が、結局清潔な冷たい合理的科学思考によって滅ぼされてしまうのでしたが、本篇では(数学と物理学の極致である)天文学の誤謬が明らかとなり、最後の天文学者が火星に逃れてくるも、そこで最期を遂げる。
 むろんラファティの意図は、ブラッドベリへの対抗にあるのではなく共感であるのは明らかです。同じ《物語》をラファティは鏡の向こうから辿っているといえるのではないでしょうか。ブラッドベリが近代宇宙観に包囲された反合理主義精神を描いたのに対して、ラファティは反合理的宇宙に包囲された天文学者を描いたといえる。
 なんといっても描かれた《世界》が実に魅力的です。荒巻描く「ダリ氏の火星」のように、本篇の火星も鋭角直線がなく柔らかい。体重計が罵詈雑言を吐き、自動車が勝手にスタートし運河に飛び込んで人命救助する。機械と人間と動物のあいだにはっきりした境界線がない世界――。
 それもこれも近代天文学が破綻したからなんですが、それ以前に、きわめて初歩的な望遠鏡でも火星に運河が望見できたのに、君たちの理論はそのような目の前にある事実さえ覆い隠してしまった、と、元天文学者は変則現象鳥人に揶揄されます。
 さて、この魅力的な《世界》は、主に前半に開示されるのだが、一回通読して今一度前半に戻らないと、前半はくっきりと見えてこない。実にこれがラファティの筆法なんですよね(とするとダカーポは最後に付けて25頁はフィーネにすべきか)。
 ところで、「ドクトル・ジバゴ」で少し触れましたが、《ストーリー》は《物語》すべてを含みません。《ストーリー》が走るのは《物語》のなかのほんの一部です。言い換えれば私たちは《ストーリー》から《物語》(の全貌)を推測(解釈)するしかない。というよりも解釈できる余地を貰っている。余談ですが、だから作者がしゃしゃり出てきて小説の世界観を解説されるとガックリとなってしまうのですよね。とまれかくまれこれで分かるように、《物語》は実は《世界》なのです。《世界》の通時態が《物語》であり、《物語》の共時態が《世界》なのです。
 本篇の場合、後半はストーリーがあり、《世界》は《物語》として推測できる。我々は《物語》を推測するのは比較的得意です。一方前半は《世界》のまま投げ出されている。因果的説明がないので、一読ではなかなか頭に入ってこない。でも何度か読んでいると、パッと視界が啓ける瞬間がある。実にこの瞬間が、ラファティの面白さであり、もとよりラファティは、その効果を狙って(指をヤツデのように広げて)記述しているんですよね。
 

「翼の贈りもの」(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月19日(火)23時24分52秒
返信・引用 編集済
   『翼の贈りもの』は、「ユニークで斬新な発明の数々」を2周し、まずは全篇読了。ひきつづきふりだしに戻って「誰かがくれた翼の贈りもの」を読みました。
 らっぱ亭さんのまとめられた資料を見ると、本篇、最初の段階ではトップバッターではなかったみたいですね。しかし、最終的に劈頭に持ってこられたのもうべなるかなで、レコードに例えるならば、アルバムからシングルカットされるような、そんな類の作品です。
 つまりこの《物語》をごくオーソドックスに、コードに則って叙述(ストーリー化)すれば、おそらくブラッドベリっぽい雰囲気の作品に仕上がると思う(フィニイっぽいでも可)。そういう意味ではプリミティヴなセンチメントで、根本的にはバラードです(むろんballardではなくballad)。
 ところがラファティは、それを(当然ながら)オーソドックスに、コードに忠実に演奏しません。いえばモンクがスタンダードナンバーを演奏するみたいな感じか。その結果、読むものは先ず、いかにもラファティらしい奇抜な音の並びに目を白黒させるにしても、読み終わってみると、なぜか懐かしい気持ちにとらわれている自分を見出すんじゃないでしょうか。
 シングルカット向きの作品であると上述した所以です。(演奏の)形式の特異さ(ラファティらしさ)はあるにせよ、誰に贈られても喜んでもらえる、内容自体はスタンダードな作品であります。ラファティ入門にぴったりといえるかも。まさに作品集のトップにふさわしい佳品です。
 

「ドクトル・ジバゴ」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月18日(月)19時20分31秒
返信・引用 編集済
   「ドクトル・ジバゴ」(65)を観ました。200分の大長編、たっぷりと堪能しました。たまたまですがちょうど先日、「拝啓天皇陛下様」の感想で、《物語》自身が展開を求めているところを、スパスパ切り捨てたため、小粒な喜劇映画に収まってしまったと書きました。本篇はまさにその正反対。登場人物のその後が、たとえ一旦は物語もとい「ストーリー」から消えても、それは伏流したのであってのちにどんどん「数奇に」繋がっていく。だから大長編なんですが、それはしかし、ある意味(悪くいえば)都合よすぎるといえるほどです。まあ大衆小説のパターンなんですがね。でもここまで描き込めば、大衆小説の通り一遍表層的な解釈を超越してしまいます。
 本篇の主人公はオマー・シャリフ演じるところのドクター・ジバゴではありますが、《物語》上の主役はラーラ(ジュリー・クリスティ)でしょう。パーシャという婚約者がありながら、母親の庇護者(愛人?)であるコマロフスキーと関係せざるを得なくなり、やがて「数奇な」運命でジバゴと再会するも、またもやコマロフスキーの庇護に頼らなければならなくなる(この部分は明示的には描かれない。観者の想像により《物語》に付加される)、かかる運命の変転(女の一生)こそが本篇を下から支える《物語》なのですよね。
 そのような《物語》の観点からは、ジバゴは脇役でしかありません。ロシア革命もまた、たしかに《物語》を駆動させる必要不可欠な設定(初速)ではありますが、あとは《物語》を走らせる舞台でしかないともいえる。革命前後のロシアを舞台にした、歴史に翻弄される女の運命を描き、強く心に残る映画でした。
 ところで冒頭の美しい映像、平原とその向こうに横たわる雄大な雪山が、モンゴルと映画内でいわれるのだが、外蒙古ではないでしょう。コマロフスキーは極東共和国の要職に就いたということですから、外モンゴルの北辺、それもクラスノヤルスクの南方辺りではないでしょうか。ただし60年代に、西シベリアでハリウッドの映画のロケが出来たとは到底思えません。コロラドか、それともオレゴンか。いずれにしろ、いかにも観る者にロシアというかウラル=アルタイ世界を想起させる美しい映像でした。
 

「コッポラの胡蝶の夢」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月17日(日)22時16分56秒
返信・引用 編集済
   「コッポラの胡蝶の夢」(08)を観ました。
 原作はミルチャ・エリアーデとのことで、非常に幻想的――いやむしろSF的か。それも山田正紀を彷彿とさせるトンデモSFを重厚に、荘重に表現したような印象。コッポラ本人は「トワイライトゾーン」を意識していたみたいですね(wikipediaによると)。なるほどたしかに。その伝では、前半山田正紀、後半トワイライトゾーン(ラストなどまさに!)といえるかも。いずれにしても、その配合で面白くならないはずがありませんよね(^^)。
 ただ細かいところで気になる詰めの甘さが散見される。たとえば分身。6号室の女と最初に交渉を持ったのは分身なのですが、その後は体を乗っ取って行動している節がない。夜毎に過去に遡っていくヴェロニカはすでにルピニですらないはずなのにルピニで一括しているのはおかしい。ヴェロニカが急激に老化するのを元に戻すには二人が別れればよいというのも根拠がない。つまりいかに映像がゴダール風に荘重であっても、本質は軽エンターテインメントSF映画なんでしょう。要するにトワイライトゾーン長編版。その限りで十分に楽しませてもらえる映画で、面白かったです。

 『翼の贈りもの』「深色ガラスの物語」を2周。や、これはすごい。まるでボルヘスみたいですな(^^;。いよいよ次回が最終回。

 ところで今日はトレーンの命日なのだが、最近はyoutubeで毎日とはいわないまでも折にふれて聴いているので、トレーン特集の意義があまりないのでした(^^;。うーむ。ひさしぶりに(針が減るのと操作や手順が面倒くさいのとで聴き渋っている)LPで聴いてみるかな。
 

「拝啓天皇陛下様」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月16日(土)02時59分21秒
返信・引用 編集済
   渥美清の「拝啓天皇陛下様」(63)を観ました。
 戦前の日本は国民皆兵の徴兵制で、平時でも20歳から2年間の軍役がありました。5歳だったか6歳だったかで母親を亡くし、以降天涯孤独で辛酸を舐めてきたヤマショウ(渥美清)にとって、雨であろうが三度三度の飯にありつける軍隊は(いかに辛かろうと古参兵のイジメがあろうと)天国なのでした。2年の兵役義務が終わり、仲間たちはうきうきと帰郷を待ち望んでいるなか、帰るべき居場所もないヤマショウは、軍隊に残らせてほしいと天皇に手紙を書こうとします。天皇へ手紙を出すとは、それは直訴状というもので切腹覚悟しなければならない行為なのだということを、親友の棟本(長門裕之)が、慌てて教えて事なきを得ますが。
 高橋和巳が『堕落』「すでに国家の恩恵に浴している国民の中の急進主義者にとって、国家はやがて消滅するものであっても、すべてがユダヤ人マルクスのように思想的国際性を獲得できるわけではない混血児にとっては、何とかして既成の民族に融け込み、国家の枠内にもぐり込むことが先決だった」(講談社文芸文庫版70p)と書いていて、それを読んだとき、たとえば『箱男』の方法論などオプチミズムの極みとしかいえないなあと思ったものでしたが、本篇の、軍隊が天国としか思えないというヤマショウの設定も、ありきたりなインテリの軍隊批判などまさにオプチミズムの極みと無化してしまう力があります。
 ただ、その後の展開は全体に甘く通俗的すぎると思いました。せっかくの設定が十全に展開されていないように思えて、わたし的には残念でした。
 

みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月14日(木)20時40分17秒
返信・引用
  「待ったぁ〜!!」

 そう叫びつつも行司は、別の意識の中で、自分が取りかえしようもない失態を演じてしまった/演じつつある・ことに気づいていた。
「あぁ〜!」
「やっちまった〜!」
「ちぃー!」
「あいつ〜!」
「だめだこりゃ!」
 5人の勝負審判の、声にならない思念が、ぶすぶすと行司に突き刺さった。
 ふたりの力士もきまり悪そうに互いに目をそらして蹲踞に戻る。
 客席にひろがる不自然な静寂。そしてざわめき。おいおい。ありゃま。やれやれ。
 放送室では解説の親方とアナウンサーが、言葉もなく顔を見合せた。
 呆然と立ちつくす行司。

 猪木が、トンとロープを蹴る。
 

カフェ「白梅軒」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月14日(木)09時19分47秒
返信・引用 編集済
   復活!→http://www3.wind.ne.jp/kobashin/cgi-bin/nagaya/nagaya.cgi?room=030
 楽しみです〜!
 

祭りは要らない

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月14日(木)00時05分16秒
返信・引用 編集済
   今日の魁皇は併しバレバレでしたね。豊ノ島下手すぎ(笑)。でも仕方がなかったかも。昨日失敗していますもんね。鶴竜としてはバレバレはやりたくない。なので立ち会いが合わずにフラっと立ったところをかっ弾かれた、としたかったんでしょうが、いかんせん行司がKYでした(ーー;。たぶん昨日は終わってから理事長室に呼び出されてコンコンと説教されたんじゃないでしょうか(>それはないか)。中途半端なファンゆえ行司の個体識別まではできないので、今日も昨日と同じ行司さんだったのかどうか、ちょっと分りませんが、もし同じだったら今日は緊張したでしょうね(^^; 同じく豊ノ島も、昨日と同じ徹は踏めないので、あのような芸のない立ち会いにならざるを得なかったに違いありません。本人もプロとして不本意だったでしょうね。同情してあげましょう。
 あ、私は批判しているのではありませんよ。お客さんあっての興業ですから、それなりにストーリーが必要なことは承知しております。それにこれらは、「八百長」というものではありません。豊ノ島も鶴竜も結局のところ「社員」ですから、自分が今、組織から何をのぞまれていて、どう行動しなければならないか、心得ているだけの話。この「時期」に「指示」などできるはずがない。お金が動く「八百長」とは全く別次元なんです。何年も相撲を取り続けてきた者たちの、いわば「阿吽」の呼吸でことが運んだんですよね。それだけの話。
 ただNHKのアナウンサーはうざかったですね。昨日は黒姫山が、今日は大乃国がやんわり窘めていましたのに、そしておっしゃるとおりなどと相槌を打っておきながら、ことあるごとに、進行中の取り組みもなおざりにゼッキョーするのは、本当に白けてしまいました。なぜあんなにお祭りにしたいんでしょうねえ。前場所は今だ時期尚早と中継もしなかったくせに。

 さて、『翼の贈りもの』は「ジョン・ソルト」を2周し、あと『記号論への招待』をぽつりぽつりと80頁あたりまで。
 

Re: 翼の贈りもの

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月12日(火)22時15分16秒
返信・引用 編集済
  > No.3131[元記事へ]

 らっぱ亭さん
 資料拝読。や、これは労作ですな。事前に知っていたら、もうちょっとラクに読めたかも(^^;。
 今日は「優雅な日々と宮殿」を2周してきました。この作品は特にコードウェイナー・スミス的な何かを想起させられました。その何かを分析できないのだけれども、珍しく一応ストーリーがあって、地球世界を指導する超人指導者という設定を後半の偉大なる白紙に繋ぐのですが、この辺の作り方にスミス的な詩情を感じたのかな、などと漠然と思ったのでした。
 で、さっき資料を読んだのです。扉の井上氏の言葉「遠大なSF的ビジョン」。そう、これなんですよ。これがそう感じさせたんですね。「宇宙舟歌」もそうですよね。この「遠大なSF的ビジョン」とは、ハード宇宙SFのそれではない筈です。「宇宙舟歌」、「タイタンの妖女」、「明日を越える旅」、「都市」、「人類補完機構」みたいなのを想定されているのだと思います。つまり宇宙は宇宙でも、埴谷的な意味でのそれだといえそうです。この視点から読みかえて、今あるSF史ではない、別のSF史も記述可能なんじゃないかな、と妄想に誘われました(^^ゞ
 

Re: 翼の贈りもの

 投稿者:らっぱ亭  投稿日:2011年 7月12日(火)13時09分21秒
返信・引用
  > No.3130[元記事へ]

雑誌掲載作はその一作のみですね。
他の作品は、短篇集「Golden Gate and Other Stories」やチャップブック、アンソロジーなどが初出です。

詳細は、昨年の京フェス企画で作成した資料(PDF)をよろしければご参照ください。

kyo-fes.web.infoseek.co.jp/2010/100_books_to_read_after_Lafferty.pdf
 

Re: 翼の贈りもの

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月12日(火)10時29分21秒
返信・引用
  > No.3129[元記事へ]

 らっぱ亭さん、お久しぶりです。
 まあ一日一話でぼちぼちと。今週めどに。で、感想まとめがてら軽く三周目回ってくる予定です。まあ気長にお待ちを(^^;。
 解説を読んでないのですが(村上春樹未読の為)、初出情報が、(一篇アシモフ誌となっていますがそれを除けば)収録単行本情報なんですよね。雑誌掲載データは分かりませんかね。それとも殆どが単行本ではじめて日の目を見たということなんでしょうか?
 

翼の贈りもの

 投稿者:らっぱ亭  投稿日:2011年 7月11日(月)23時40分44秒
返信・引用
  ご無沙汰しております。らっぱ亭です。

待ってましたw
管理人さんの濃厚なラファティ・レビュウを楽しみにしておりますよ。
秋には「第四の館」も出そうですし、何かと楽しみです。

http://hc2.seikyou.ne.jp/home/DrBr/index.html

 

ある日ある時ある瞬間、突然ネズミは翼を獲得した?

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月11日(月)22時47分27秒
返信・引用 編集済
   現在、室温31度。扇風機で充分快適なのですが、扇風機の風にずっと当たり続けのせいか、なんだかだるくなってきました。

 『翼の贈りもの』は130頁。各短篇二度読みしているので時間がかかっています。とにかく超高密度、一読では絶対分りませんねこれ。ラファティ作品でも特に難解で抽象的なのを蒐めたんじゃないかとさえ疑われます。再読でやっと視界が開けてきますが、そのかわり二度目は面白い(^^)。私自身意外でしたが、読後感がコードウェイナー・スミスのそれを、なぜか想起させられるんですよね(抽象的世界だからか)。でも一日一話が限界。暑いし。
 で、岩波新書の『記号論への招待』を、20数年ぶりにすこしずつ読み返している。ちょっとした空き時間に読んでいます。上のラファティはそういう読書には不向きなので(^^;
 どちらもぼちぼちと。狭い日本そんなに急いでどこに行く、じゃありませんが、先も見えてきたしそんなに急いでどこに行く、でありますよ(あかんがな>汗)。

 ところで、昨日「ダーウィンが来た」を見てしまったのですが、以前も言ったと思いますが、動物の擬人化がひどすぎる。それと、進化が、動物が(意識をもって)選択していったもののように説明するのも、私は(この番組は子供がターゲットなんだと思いますが)子供に誤った刷り込みをしていることになるんじゃないか。動物には(霊長類以外には)意識がないことを、きっちり踏まえた説明をしてほしいですな。私の理解では、進化は獲得するんじゃなくて、偶然の変異が環境に適応した場合のみ生き残り、それ以外は滅んでしまった、その繰り返しなんでしょう?
 で、ラファティに戻るのですが、なるほどネズミが翼を獲得し空を飛べるコーモリになったとして、その間少しずつ指が長くなり皮膚が飛翔可能な翼にまで発達する長い年月、飛ぶこともできない中途半端な翼は生存に不利なはずであり、コーモリになるまで生き残っていられる筈がない、というのはまったくもって理に適った反論ですね(^^;
 

「俺たちに明日はない」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月10日(日)23時47分17秒
返信・引用 編集済
   アーサー・ペン「俺たちに明日はない」(67)を観ました。
 言うまでもなくアメリカン・ニューシネマの名作中の名作。久しぶりに観ました。何度見ても面白い(でももう新しく発見するようなことはないですなあ)。実話についてはよく知らないのですが(育ちの問題とかいろいろあるみたいですね→wikipedia)、映画上のボニー(フェイ・ダナウェイ)もクライド(ウォーレン・ビーティ)も、結局(映画は甘く描いていますが)破滅していくしかない人間なんですよね。私がよく参照するgoo映画に、「こんな凶悪犯罪者が英雄なのか」という感想文が投稿されていますが、おっしゃるとおり。正論であります。たぶんオービットやギャラクシーよりもアスタウンディングを愛読している方なんでしょうね(>おい)(^^;。
 ところが私は、小説にしろ映画にしろ、危機に瀕した文明を救ったり、今在るシステムを維持するために働く(たとえば警官や自衛隊員の任務はそれですよね)人々の活躍を描くものよりも、文明に押しつぶされていく、あるいはシステムに楯突いて亡びていく人々を描くものに、強く惹かれるところがある。警官ではなく犯罪者に焦点を当てた話がよい。優等生よりも劣等生の話の方がよい。警察ものや自衛隊ものならば、コントロールする側のエリートを主人公に据えたものよりも、下っ端の反抗、いや頭が悪すぎて反抗する方向を勘違いしてさらにドツボに落ちて行くような物語が好みなのです。
 息子が将来警察官か消防隊員になると言っていたことがありました。それは高卒時に友人の何人かがその方面に就職したという単純な理由だったのですが、大学卒業に際して、なぜその方面を就活しなかったのかと聞いたら、友人から話を聞くに、実態はもう上下関係の暴力の世界で、あんな職場にはよう付かん、といってました。たしかに自衛隊なんて、今はどうか知りませんが昔は繁華街でよく募集していて私も声をかけられたものでしたが、要するに相撲界と一緒で親も手を焼く暴れん坊を放り込む装置の面が確実にあったわけです。そういうのを統制しなければならないとしたら上下関係の暴力も、ある意味必要悪なのだとコントロールする側は言うかも知れません。でもそれを、お説ごもっともでございと従容として受け入れるものばかりが入隊しているわけではない。反抗する者やサボる者、上にいい顔をして下を陰惨に虐める者もいるでしょう。そういう全体を描く自衛隊小説なら読んでみたいですけどね。
 あれ、話がアッチへいってしまいましたね。とまれかくまれ、たぶんまた何年かしたらきっと借りて観てしまうに違いない面白映画です。あ、上記wikipediaによればラストのシーンは実際そうだったみたいですね。
 

「さらば青春の光」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月10日(日)00時02分45秒
返信・引用 編集済
   「さらば青春の光」(79)を観ました。
 1964年に実際にあったブライトンに於けるモッズとロッカーズの乱闘事件に材を取った青春映画。わたし的には洋楽に目覚める前の話で、モッズといわれてもピンと来ません。映画でポップスやロックがずっと流れていますが(ザ・フーが音楽担当)、ロッカーズとの違いというのはいまいち分かりません。そんなに違っているんでしょうか。むしろファッションで際立って違っており、いわば中核(白)と革マル(赤)の差異のようなものなのかな(>おい)(^^;。
 話はモッズの少年(広告代理店のメールボーイ。届いた郵便物を各部署へ配達したり、各部署で預かった配達物を郵便局に持って行ったりするのかな。いずれにしろ誰でもできる単純労働。最後の方で売り言葉に買い言葉で辞めると言ってしまったときに、社長に向かって、そんなに良い仕事なんだったらあんたがやれよ、と言う)を主人公に、未来に展望のないロンドンの下層労働階級の若者の生態を描いています。
 この主人公ジミーが、まあ典型的なチンピラで、フィル・ダニエルスがそれを実に上手く演じていて、チビでちんちくりんで落ち着きがなく(クスリのせいもあるんでしょう)、私はネズミを想起したのでしたが、何をやってもうだつが上がらない。ただ、ブライトンでの乱闘が唯一輝かしい勲章なんです(もっとも仲間は、逃げ遅れて逮捕されたノロマと思っている気配)。逃げている途中、片思いでつれなくされていたスーパーマーケットのレジ係の娘ステフ(レスリー・アッシュ)といい按配になったり、モッズ仲間のスターであるエース(スティング)と一緒の護送車になりスティングから煙草をすすめられたり、法廷で堂々と裁判官を侮辱するスティングに見惚れたりした輝かしい記憶。(余談ですが、エースを映画の中ではアイスと発音されている。これはミック・ジャガーが、たとえばヒップをハイップという風に発音するのと同じですね。ロンドンの下層労働者の若者言葉なんでしょうか)
 しかし、罰金を払って出てきたら、すでにステフは別のモッズ仲間とくっついていて、ジミーのことなど見向きもしない。家からも追い出される。上記のように仕事も辞めざるを得なくなる。悪いことは続くもので、モッズのプライドであるスクーターも事故で壊してしまう。
 となると、帰るところは一つ。ブライトンであります。しかしブライトンの海は静まり返り、あの日の熱狂の欠片さえ残ってはいない。とぼとぼと歩くジミー、ふと見ると、リゾートホテルの横にスティングのスクーターが駐められているではないですか。ホテルを伺うと、いましたあの輝かしいエースが!……でもそのエースは、何とベルボーイの制服を着て、到着した客の荷物を一杯に抱え込んで足元もおぼつかなく客に付き従っている姿だったのです。あのエースですら、誰にでもできる単純労働に従事する未来のない下層労働者でしかなかった。
 ここに於いてジミーの、残された唯一の心の拠り所であった輝ける栄光の記憶さえも、無残に色褪せてしまうのでありました。ジミーはエースのスクーターを盗み、海岸の崖に向かって疾走する。
 さて、ラストです。ラストはいかにもジミーがスクーターもろとも海にダイブしそうな雰囲気を引っ張ります。洋画にしてはくどい演出だなと思っていたら、結局スクーターは崖から飛び出していく。飛び出していくのですが、肝心のジミーの姿が映らない。ふつうはスタントマンじゃなければダミー人形を使うところでしょう。実はこれが引っ掛けになっているんですよね。観客はここで映画の冒頭のシーンを思い出すかも知れません。そう、最初のシーンは、夕日(朝日かも。地図で見たらブライトンの海岸は南に開けているのでどちらでもあり得る。朝日ならジミーは崖っぷちで一夜を明かした。わたし的にはこっちのほうがよいですね)を背に、シルエットのジミーが海岸(の岸壁?)からこっちの方へ帰ってくる絵でした。つまりジミーは、結局のところ盗んだエースのスクーターを崖から飛び出させただけだったということなんです。これがジミーの(ブライトンの栄光への)復讐だったのだとしたら、なんとまあちいせえ復讐でしょうか。これでは単に個人に対する意趣返しでしかない。勝手にエースに対して抱いた憧れが潰れてしまったのをエースのせいにしているということにしかならないではないですか。
 しかし、この結末こそ、実にチンピラ、ジミーにはふさわしいんじゃないでしょうか。なかなか面白い映画でした。
 

「禁じられた遊び」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 8日(金)22時27分42秒
返信・引用 編集済
   ルネ・クレマン「禁じられた遊び」(52)を観ました。
 イエペスのギターで有名ですが、これは難しい映画ですね。1940年のフランス、田舎ではカトリックの信仰が生活に密着しているのに、パリから疎開の途中、両親をドイツ軍に殺された5歳の少女ポーレットは、アーメンさえ知らない。中産階級と思われるポーレットの家族は、パリで実質無神論的生活を送っていたことがうかがえます。まずその落差が印象的。
 そのポーレットは、拾われたドレ家で、強迫的に十字架集め(墓づくり)に熱中する。ただ十字架への畏敬は薄く、単にその意匠に惹かれているだけ。と同時に、(両親と愛犬の)死に、だしぬけに直面し、ひとりぼっちとなったこともあわせて、十字架遊びがそれへの代償行動であることも強く伝わってくるのです。
 一方、そのような神経症的十字架遊びに加担させられる11歳の少年ミシェルにとっては、ポーレットは一種ファム・ファタールであります。家族の中で一番信心深い筈なのに、冒涜的な行為を拒否も止めさせることもできない。このファム・ファタール性は、両親と犬が撃ち殺されたあと、犬を抱いて(まだ生きていると思っていたにせよ)、さっさと両親を見捨てて歩き出す冒頭のシーンに伏線的に暗示されている。客観的にいって、ポーレットさえ現れなかったら(兄の負傷死は不可抗力として)事件は何も起こっていないのですよね。それ以前に犬を追いかけて走り出さなかったら両親も死ぬことはなかった。ある意味不幸を撒き散らす少女なのです。カソリック的観点からは魔女でしょう。
 さてそのポーレット、ついに修道院(孤児院)に引き取られていくことになる。駅で警官から尼さんに引き渡されたポーレットが、しかし群衆の中に赤の他人が「ミシェル」と呼ぶ声を聞いて、ふらふらと歩き出してしまうラストのシーンは切ないのですが、これはあるいは監督が与えた罰だったのかも知れません。それとも魔女性ゆえに修道院に対して斥力が働いたのでしょうか(あ、だからアーメンも知らないのか)。視点を変えるといろんな相が見えてくるというところが、やはり名作ですなあ。
 

「黒いオルフェ」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 8日(金)00時09分54秒
返信・引用 編集済
   マルセル・カミュ「黒いオルフェ」(59)を観ました。
 これは素晴らしかった。カーニバルに熱狂するリオを舞台にオルフェウス神話が黒色再話されます。現在(当時)のリオという設定ながらアンチ・リアリズムで、まるで幻想小説を読んだような充足感がありました。
 現在のリオらしく、カーニバルは商業化されています。そのカーニバル世界にオルフェウス神話が持ち込まれ、死神によってユリディス(エウリュディケー)が冥界へ連れ去られる。ユリディスを捜す現代のマランドロ、市電運転手のオルフェ(オルフェウス)は、近代官僚機構の権化のような警察ビルをさまようが成果なく、掃除をしていた警察の清掃夫(カローン)の手引きで番犬(ケルベロス)が守る屋敷に至る。そこはマクンバやカンドンブレを彷彿とさせる秘密結社の祈祷所(もしくは踊り場)だった。いわゆるブラック・サンバの源流ですね。ここにおいて商業サンバ的現代から一気にアフリカをルーツとする秘教的世界へと移行します。そこで祈るオルフェはやがてユリディスの声を背後に聴く。振り返ってはならないと懇願するユリディスを無視して振り返ったオルフェは――永遠にユリディスを喪ってしまう。この辺は神話どおり(但し観者によってはこのシーン、エセ宗教を見破ったと(近代的)解釈をする人もいるかも知れません。私は素直に神話どおりと採ります)。秘密祈祷所を飛び出したオルフェは、結局病院の死体安置室で、永遠に喪った、その抜け殻だけを見出すのでした……
 常にサンバのリズム楽器が鳴り響き、サンバやボサノバの名曲が流れる音楽も素晴らしいが、リオの風景がまた格別。こんな垂直方向へのパースペクティブをもった大都市はちょっと類例を思いつきません。あーリオ、行ってみたいなあ! さすがに圧巻の名作でした。(補足)しかしストーリー至上主義者(たとえばラファティってどこが面白いの?と言うような)は、評価しないかも知れませんな。
 

Re: 堪忍しとくなはれ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 7日(木)16時45分43秒
返信・引用 編集済
  > No.3122[元記事へ]

 あ、もう予約しちゃったのに〜。しかしまあ、たしかに「一般」の方の席を奪うのはよくないですね。おっしゃることはごもっとも。了解致しました。あとで解約しておきます。
 でも、「一般」のフリをして出席する人はきっと多いと思いますよ。これは私には止められません。
 そこで似非「一般」の方に私からご提案。もし出席を強行されるんでしたら、老婆心ながら会場には正体が露見しない格好で行かれることを推奨いたします。たとえば正ちゃん帽にサングラスにマスクであるとか、ストッキングをかぶっていくとか、ダンボール箱を被って箱男になるとか。講演中も目が合いそうになったらサッとそらして軽く口笛を吹いたりするとよいでしょう。仮にもかんべさんに見つからないように(^^;。あと講演内容こっそり教えてくださいね(>おい!)m(__)m

 さて今日は「黒いオルフェ」を観る予定(^^)。
 

堪忍しとくなはれ

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2011年 7月 7日(木)10時26分37秒
返信・引用
  皆さん方に目の前に座られたら、やりにくいこと限りなし。
50名限定らしいから、どうぞ「一般」の方にお譲りを。
管理人さん。講演のタイトルまで「深読み」過剰でっせ。
なおのこと、やりにくなりますやないか!
 

Re: 眉村さん情報・小松左京展

 投稿者:雫石鉄也メール  投稿日:2011年 7月 6日(水)22時22分42秒
返信・引用
  > No.3120[元記事へ]

私のところにも送って来ました。
眉村さんと、かんべさんの講演はもちろん、行きます。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

眉村さん情報・小松左京展

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 6日(水)21時36分22秒
返信・引用 編集済
   むしろ小松左京さん情報とした方がいいのでしょうか、昨年SF企画展「SF幼年期と神戸」を開催した神戸文学館に於きまして、「SF作家小松左京展」が開催されるとのこと、神戸文学館さんよりお知らせいただきました。
 それを眉村さん情報としましたのは、展覧会の目玉である記念講演に眉村さんが登壇されるからなんです。詳しくは下のチラシをご覧ください。
 しかも嬉しいことに、今回は、眉村さんに加えて、かんべむさしさんが講演なさるとのこと、みなさん、これは見逃せませんよ(^^)。

 眉村卓講演:8月6日(土)14時〜15時30分、演題は「SFを書きはじめた頃」
 かんべむさし講演:8月27日(土)14時〜15時30分、演題は「神戸・人・小松左京」

 眉村さんのは、いわゆるSF蜜月時代の、小松さん(や筒井さん?)とのお付き合いの思い出が語られるんじゃないでしょうか。かんべさんのは、まさに神戸文学館講演にふさわしい、神戸と小松左京を一望のもとに語る、そんな内容になるんじゃないかなあ。いかにもかんべさんらしい演題の選び方だな、と思いました。いや単なる想像ですが(^^;。実際はどんな内容になるのか、いずれにしても楽しみです〜!

 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 5日(火)21時22分5秒
返信・引用 編集済
   東京創元社のサイトに、年刊日本SF傑作選『結晶銀河』のラインナップが、ようやく掲載されましたね→http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488734046
 今回は眉村さんの「じきに、こけるよ」が選ばれています。いうまでもなく私ファンタジー連作集『沈みゆく人』(出版芸術社10)所収の短篇であります。
 もっとも、私としては表題作「沈みゆく人」が選ばれるのではないかと思っていたのでしたが。
 「じきに、こけるよ」も、もちろん名品ではありますが、「沈みゆく人」を読んだあとに読むと、さらに感興深まる話だと、そういう類の小説だと私は思うのですよね。でもそれをいうならば「板返し」と「住んでいた号室」も同断。
 となれば最も良い選択は、連作集『沈みゆく人』をまるごと収録すべきということになってしまうわけで、それはボリュームの点で難しかったのかも知れませんね。編者たちも苦渋の判断だったのでしょう、致し方ありません。
 もとより「じきに、こけるよ」単品でも十分に味わい深い作品であるのは間違いありません。まずはバランス的にも妥当なセレクトといえるんじゃないでしょうか。
 発売予定日は7月28日。すでにamazonbk1セブンネットショッピング、等のネット書店で予約受付が始まっています。お楽しみに〜!
 <註>なお上記リンクより購入されましても、管理人にアフィリエイト等による利益が発生することは一切ありません。安心してご利用下さい(^^)

 さて、『翼の贈りもの』は90頁。范文雀。
 

Re: 初音ミク、英保ミクに敗れ去るの事

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 4日(月)09時02分39秒
返信・引用 編集済
  > No.3117[元記事へ]

 雫石さん
 なるほど。では雫石さんに免じてSFMは本棚に戻しておきましょう(笑)
 でも反応してほしかったのは、英保ミクの方だったんですけどね(>おい)(^^;
 

Re: 初音ミク、英保ミクに敗れ去るの事

 投稿者:雫石鉄也メール  投稿日:2011年 7月 4日(月)05時14分7秒
返信・引用
  > No.3116[元記事へ]

この号、増刷したそうです。創刊号以来の売れ行きだそうです。
私は、こういう企画もアリだと思います。なかなか面白い企画だと思います。
今、読んでいます。内容も面白いです。いずれ、私のブログでレビューしますが、「初音ミク」という現象を、創作、解説、評論といろんな切り口でとりあげていています。
「初音ミク」は確かに一企業が発売した商品名ですが、ニコニコ動画などの動画投稿サイトを中心に、多数の人が初音ミクを使った「作品」を発表してます。ミクはある種の社会現象となって、ミクはまったく新しい、表現手段でしょう。表現手段と同時に、ネットが生み出した、ネットならではのバーチャルアイドルです。こうなると、たんなる一商品ではなく、SFの可能性を示唆するモノではないでしょうか、初音ミクは。それに「初音ミク」は2007年に星雲賞を取っております。小説でなし、アニメでなし、漫画でなし、ゲームでなし、非常に面白い企画でしょう。
ご立腹は判ります。早川が一商品のちょうちん特集をしたとのことでご立腹なのでしょう。でも、このい企画はたんなるタイアップ企画ではなく、SFの一つの側面を見せるということで、SF専門誌としてな極めて自然なことではないでしょうか。それにSFマガジンといえども、ファンジンや同人誌ではなく商業誌なのですから、利潤を得るべき企画を考えるのは当然でしょう。
SF専門誌としての考察、いささか遅きに失した感じはしますが、タイムリーでジャーナリステックな感覚、それに商業誌としての利潤、いろんな面を考えた、ヒット企画だと私はおもいますよ。初音ミク特集は。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

初音ミク、英保ミクに敗れ去るの事

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 4日(月)00時38分31秒
返信・引用 編集済
   ナチュラルな室温は30度程度でさほどではないのだけれども、ここは水中ですかと思うほど湿度が高い。そのせいなのかどうなのか、うちは住宅地の端っこでその先は水田が広がっているのですが、今日は小虫が大量発生していて(この時期ときどきある現象です)、わが部屋のベランダのガラス戸にびっしりたかっている。網戸はありますが網戸など通り抜けてしまうような小さな羽虫なのです。必然、戸は締め切らざるをえない。クーラーを回しているのは、そのような次第で致し方なくそうしているのでお許し願いたいのであります。
 日曜日なので、読書はおやすみ。というか、今日は想定外の出し抜けな用事をこなさなければならなかったりして、頭の中で考えていた予定がご破算になってしまい、それで半ばふてくされて何もしない・できない一日となってしまいました。予定がちょっとでも狂ってしまうと、あーもーやめたやめたとなってしまう性格なのです。そのくせ予定通りに物事を進められたためしがないのですが。
 SFMの今月号を知り、あきれてものが言えません。1995年にすべて廃棄処分したあともう買うこともないだろうと思っていたのが、今世紀に入ってからまたぞろ購入し始めて、とはいえ年に数冊程度なんですが、それでも30冊弱溜まっていたのを発作的に抜き出して、売る本を入れたダンボールに放り込んでしまいました。
 初音ミクというのは具体的には知らなかったのでネットで調べてみたのです。なんと商品名ではないですか。福島さんが、いや星さんが生きていたら何と言うか。こういうヴォーカル作成ソフトを特集することは全然問題ないのです。これを発展させた未来社会SFはきっと面白いと思います。
 でもこの特集名は、ない。
 今現在大人気大流行の商品名を使用するのは、安易な売上至上主義ととられても仕方がないのではないでしょうか。だいたい商品名というものは、いつ別の同類の新商品に取って変わられてしまうか判ったものではないわけで、あるいは来月には「英保ミク」なる新商品が発売されていて、「初音ミク」なんて鼻も引っ掛けられなくなっているかも知れないではないですか。だから星さんは自作でそのような商品名を使用することを強く戒めておられたのでした。
 それでもいいのだこの号がバカ売れすればそれでいいのだ、なんてことは、編集部はこれっぽっちも考えてないと信じたいが、ここ10年くらいの傾向からしておいそれと信じられないのも事実。やはり拮抗力としてのライバル誌が存在しないのが最大の問題なのかなあ。ソ連が潰れてアメリカが夜郎自大化したように。
 

「眠狂四郎無頼控(一)」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 2日(土)18時52分28秒
返信・引用 編集済
   柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控(一)』(新潮文庫60、改版09。元版56、57)読了。

 本文庫版には20話収録されています。うち15話は元版「無頼控(一)」(56)の全話、残り5話が元版「無頼控(二)」(57)より横すべりです(元版全7巻を文庫化に際し全6巻に集約したようですね)。
 さて昨日も述べましたように、本シリーズ、一話完結形式ながら、設定に従ったゆるやかなストーリーがあり、全体で長編を形成しているのですが、狂四郎の出生に纏わる設定は、回を重ねるごとに次第に意味をもたなくなってゆきます。で、ところがそれにつれて、逆に話は面白くなっていくのです。つまり、特異な設定は背景に退いてしまい、ふつうの連続時代小説の結構を取り始めて、物語がいきいきと動き出すのであります。これは著者自身がその世界に馴染んでき、筆が自在に動き始めたともいえますが、一方で(それまでに先達により練り上げられていた)時代小説の定型に次第に寄り添っていったからではないでしょうか。その意味で時代小説を突き抜ける新しさというものはないように思われます。(註。解説で遠藤周作が、本シリーズの特徴の一つとして、「ドンデン返し」を挙げているのですが、私が紋次郎シリーズに就いて云うところのそれとはいささか意味を異にします。不幸なさだめを負った楚々たる薄幸の美女が、実は稀代の毒婦であった、といった体の、紋次郎ものに於いて頻出する「どんでん返し」(パターン)ではないのですよね。ちなみにこのような「どんでん返し」を指して、私は「ミステリー的」と言っているわけです)
 と知ったかぶりに書きましたが、わが脳内の定型にほかならず、時代小説の定型を実地に知っているわけではありません。ここはやはり山手樹一郎あたりを読んでみなければなりませんなあ(^^;。
 それはさておき、本篇に戻りますが、3分の2あたりまでは続巻を読む気は更々なかったのですが、その後どんどん引きこまれて、読了した今は、さらに読んでみようかと思っている私なのでありました。

 とは言い丈、それは何がなんでも今すぐにという意味ではなく、(紋次郎同様)そのうちに気が向いたらということであり、別に予定を枉げる気はありません。『翼の贈りもの』に着手の予定。
 

狂四郎vs紋次郎

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 7月 1日(金)21時40分10秒
返信・引用 編集済
   さっき、数週間ぶりに2階のテレビを付けたところ、これまでは「アナログ放送」という文字の出ていたところが、何もしていないのに「デジアナ変換」に変わっていて、どうやらデジタル放送が見れるようになっているみたいです。リビングのテレビはケーブルなので、早くにデジタル化していたのですが、2階のテレビは私専用で、これまでも野球中継くらいしか見てなかったのだが、とりわけ「タイガース」が「タイガース・の・ようなもの」と入れ替わってしまったここ1、2年は、殆ど無用の長物と化しており、別に見れなくなってもいいか、とほったらかしていたのでした。大体が古いテレビで、いつ壊れてもおかしくない代物なのです。
 ともあれ、これで2015年まで暫定的に見れるそうで、それまでには確実に壊れていることでしょう。
 しかし直前になって、何もアクションを起こさずとも自動的にデジタル化されるんだったら、一体あの大々的キャンペーンはなんだったのか。家電会社に儲けさせるための国策キャンペーンだったんじゃないのかと、痛くもない腹をさぐられても仕方がないですよね。

 『眠狂四郎無頼控(一)』は350頁。残り150頁。ミステリ形式かどうかを確認したくて読み始めたのですが、一話ごとに完結しながら、全体として少しずつストーリーが動いていく(その意味では謎はあるのですが)、主人公(ヒーロー)を固定した連続時代劇のパターンを踏襲しているようです。一方紋次郎は各話ミステリ的どんでん返しで完結するけれども、シリーズを通して動いていくストーリーはないのですよね。


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