ヘリコニア談話室ログ1108

「ぼくは話しかける」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月31日(水)21時16分55秒
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   寺山修司『ぼくは話しかける』(ハルキ文庫00、元版93)読了。

 元版は93年の立風書房版『人生なればこそ 一回限りの祝祭』。それ以前に大和書房から67年に『人生なればこそ さすらいの青春ノート』が出ていますが、内容的にはかなり変更されているようです。それもそのはず、この立風版は《寺山修司エッセンス》という全六巻のエッセイコレクションの一冊で、寺山の単行本未収録も含む全エッセイ(かどうか判りませんが)をテーマ別に再構成した新編集版なのでした(ただし本書ハルキ文庫版にはそのような成立事情の記載なし)。
 ということを調べるのに小一時間かかってしまいました。80年代以前の作家は、寺山クラスのけっこう著名な作家でも、ネット上のリストはお粗末きわまります。その点SF作家は本当に恵まれています。SFファンのみならず作家自身も、パソコンやワープロといった新技術に対して相性がよかったというか積極的だったというか、拒絶意識がなかったということでしょうね。

 さて、上記の次第でオリジナルエッセイ集でないためか、中にはなんか既読感のあるものもありましたが、寺山の本はすぐには取り出せないところに仕舞ってあるので、その確認は断念。そこまで暇ではないのであった。
 という次第で、内容的にはいつもの寺山。要するに「花に嵐のたとえもあるさ/さよならだけが人生だ」。さんまではありませんが幸せって何だっけ何だっけと読者に問い、書を捨てて町へ出ましょうと家出をすすめ、無宿を称揚するものです。それは「平凡に生きる」というミニ・ハピネスの現状維持の思想とは正反対の在り方。いまや――と寺山はいいます――少年の時代は終わり男の子の時代になった、と。
 「それは単に「男の子」的な主人、息子型の家長が家族主義の中でヘゲモニーを確立しはじめるようになったことの表れである。彼らは几帳面だが保守的で、冒険の代りに確実な生活の安定をめざす。さらに合理主義という魔に憑かれていて、炊事もすれば洗濯も手伝う(……)これは「女性的」なのではない。要するに、ただ母親孝行な「息子的」なのである(……)私は、息子型、男の子型の思想を排する。そして男の子たちが、情念の遊撃(ゲリラ)へ転身することにだけ、望みを託したい(……)今のところ、男の子たちは他人思考のおとなしい家畜であって、愛されながら、合理性とルックスで勝負している」(184-185p)

 ところで、寺山が亡くなったのは1983年なんですよね(汗)。

 

「月蝕機関説」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月30日(火)18時13分11秒
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   寺山修司『月蝕機関説』(河出文庫93、元版81)読了。

 「「猟奇歌」からくり――夢野久作という疑問符」で、恥ずかしながら私は初めて久作の「猟奇歌」というのを知り、戦慄しました。
 ここで取り上げられているのは当然久作の中でも秀歌なんでしょうが、寺山自身の態度は両義的です。つまるところ短歌の本質に照らして(ここでなぜか寺山は保守化しているのだが)ちょっと違うものだとの「違和感」があるみたいなんですよね。
 要するに視点となる私が希薄だというのですが、これは(自身もその中に含まれているところの)短歌の伝統からの違和感のように思われてなりません。というわけで、猟奇歌を短歌ではなく濃密小説の変形として捉えようとします。それはそれで正しいと思われます。
 実際のところ「視点となる私が希薄」というのは、寺山の競馬仲間であった山野浩一が第1世代に向けて発した批判と共通します。てことは「猟奇歌」は、「日本SFの先駆的作品」というよりも「早すぎた日本SF」と言ってかまわないかも。

  ニヤニヤと微笑し乍ら跟いて来る/もう一人の我を/振返る夕暮

 「個への退行を断ち切る歌稿」では、

  義母十夜 「主婦の友」より切り抜かれ悪夢の中の麗人となる

 と寺山は書いてみます。そのような歌が浮かんだんでしょう。で、それからなぜこのような歌が現れたのか、それを謎として解明しようとするのです。
 つまりこの歌は、ある意味、突然寺山の脳裏に浮かんだものを一種自動筆記したものである。本稿は寺山が「たぶんこうではないか、ああではないか」と推測解釈する過程を書き留めたものといえる。
 ここには、創作(歌のみならず小説)の一方の態度が示されていると思います。
 もう一方の態度は、作者が最初から最後まで構想し尽し、作中人物の心理等は全て把握されており、プロットが作られ、それから書き始められ、ほとんど予定表通りに完成させられる、そんな創作態度です。でもそのようにして書き上げられた作品が、作家を裏切ってしまうこともあるのではないでしょうか。
 それはさておき、寺山の態度は、いわば読者の立場に立っているわけです。ここでは、書き上げられたものは読者のみならず、作者にとってもまず「謎」として立ち現れている。作品に対する作家の特権性を、はなから認めていないのですよね。作品の前に作者も読者も平等である。それを実践したのが本稿といえるのではないでしょうか。

 「今も、男ありけり」「「お伽草子」の時空意識」「平清盛の七つの大罪」は、それぞれ「伊勢物語」「お伽草子」「平家物語」を読者として読み込むもので、そこに作者(?)たちの立脚点、立場拘束性を明らかにするもの。私もこういう読みを心がけたいものです。「多羅尾伴内はなぜ片眼をかくしたか」は、同じ手法を映画に対して適用したもの。
 圧巻は「「魚服記」手稿」で、太宰が、昭和5年に鎌倉の海で入水自殺を試み一人だけ逃げたその事件を小説化したのが「魚服記」であると解釈します。結論。「もし同じ時代に生きても、あなたとは友だちになりたくなかった」(^^ゞ

 

「月蝕機関説」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月29日(月)23時25分11秒
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   その末裔は、団地アパートでスピッツを飼い、『愛犬の友』を読み、自分が犬ではないことを日々たしかめながら、毎日を無事生きている。そして「飼う」という言葉の持つ残酷さにも気づかず、「お手!」とか「おあずけ!」などと陽気に言っているのである。(「愛犬の友 馬琴」)

 土曜日にアマゾンに注文したのが早速届き、人生はじめてメモリー増設ってのに挑戦しました。意外に簡単、というかあっけないくらい、ほんの1分で作業完了。なんだ。こんなんだったらもっと早く対処しておけばよかった。
 立ち上がりがもう目に見えて早くなり、最近は画像表示をオフにしてだましだまし使っていたのが、オンにしてもふつうにネットできるようになった。最初から二枚プリセットしておけよメーカーって感じなんですが、アマゾンで3000円弱、近くのY電機に問い合わせたら6000円弱ということで、安価が売りの機器ですから仕方ないんでしょう。
 こうして書いているテキスト文書でも、興に乗って一気に書き込んでいくと突然反応が極端に遅くなったりしていたのですが、今現在そんな気配なし。3000円はお安い買い物でした。

 寺山修司を久しぶりに。100頁まで。おお、70年代だ!(^^; とはいえ面白いのはめちゃ面白いが、分からないのはとことん分からないのであった。まあいつものこと。「ヴェルヌ 空洞説」は前者。ヴェルヌ研究会の大橋氏に読ませてみたい(笑)。
 

「大江戸遊仙記」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月28日(日)18時32分32秒
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   石川英輔『大江戸遊仙記』(講談社文庫93、元版90)読了。
 タイトルとは逆で、仙境(現代)から江戸時代の江戸に《転時》してきた主人公が隅田川を船で花見し、永代寺の牡丹園、亀戸天神で藤棚を、蛍沢では蛍を見、両国で川開きの花火に興じ中秋の名月、陰暦9月十三夜の「後の月」、秋は雑司が谷でピクニック、とほぼ一年の大江戸名所の物見遊山記です。
 それだけ(^^;。
 その意味でストーリーはないに等しいのですが、美化された(?)江戸を主人公と共に観光するのはとても楽しかったです。
 で、その合間に、主人公は江戸と現代を比べてみないではいられない。江戸時代のほうが現代よりずっと暮らしやすかったのではないかと、自走暴走する現代の行く末を(その中に組み込まれている自分をも含めて)案じてしまうのです。
 その発想の根本にあるのが、次のような江戸時代人観(適宜カット言い換えしています)――

 「江戸時代には政治的自由も民主主義もなければヒューマニズムも人権意識も、真理を追求する合理主義精神も発達しなかった。あるのは、毎日をのどかに送ろうという退嬰的な気風だけ。興味は個人的な話題ばかりで社会意識は無きに等しく、とにかく裏長屋に住んで毎日米の飯をたっぷり三回食べられれば、それで生きる喜びの大半は満たされる。支配階級にとってこれほど扱いやすい庶民はなかったのではないか(当時世界一の大都市に正規の警官はたったの十二名)。
 幕府ほど弱体な政府を相手に人民が蜂起しなかったのは、社会意識が恥ずかしほど低かったからというのが進歩的な見解だが、洋介(本篇の主人公)が現場で観察した結果も全くそのとおり。しかし最近の洋介は、こういう無欲で卑小な社会の方が、日本人はかえって幸せなのではないかと思うようになった。実は現代の政治家も財界人もサラリーマンも、中身はこの先祖たちとほとんど同じであることを、もっとはっきり自覚するべきときがきているのではないか。世界の大国などという身に合わない衣装を纏って国際舞台で猿芝居をして苦労するより、ふたたびつつましい小国寡民への道を進むほうが幸せなのではないか」(109~114p)
 「飼犬は野生の犬より幸福なのだ。飢えないように食事を与えられ、病気になれば獣医の治療を受けられ、時には散歩にも連れて行って貰える生活は、山の中で死と二人連れで生きているよりはるかに安楽だからである」(201p)


 ただしそのためには最大でも(江戸時代当時の)三千万程度の人口に戻さなければならない、それが列島の生産力で維持できるぎりぎりのボリューム、とのオチが付いているんですが(^^;。しかし三千万は一億二千万の四分の1ではないか。ユーベルシュタインは二分の一と書きましたが、それはかなり甘い判断だったということになりますなあ(汗)。

 これに対して次のような考え方があります(中野善夫氏の8月26日の日記より。長文引用お許しを)。

 「結局私たちは(私はさうでもないけど)偉大な兄弟のゐない世界には耐へられないのかも知れない。一人一物語の世界に生きてゐると、何でも自分で物事を評価して世界にはめこんでいかなくてはならない。だが、国や政府に決めてくれ宣言してくれと求める場面が多すぎる。そして、文句だけはいう。本当は文句の云えないほど、何でも決めてくれる偉大な兄弟を求めてゐるのではないだらうか。何でもはっきりと迷はず決めてくれる偉大な兄弟を。
 この程度の放射線量は危険なのかさうではないのか、今は誰も答へてくれない(断言してくれるのは怪しい狂信者みたいな声ばかりである。癌で死ぬ確率が30%から31%に増える。それが危険と認識するかどうかは自分で決めてくれとしか云ってくれない。そして自分が癌で死ぬときに、それがもともとの30%の方なのか、増えた1%の方なのかは決して判らないのだ。それに1%だってよく判らない。32%かも知れないし33%かも知れない。そしてやはり自分が死ぬときにはもともとの30%に入ってゐるのか、増加分の数%に入ってゐるのかは判らない。そんな状態には耐へられない。どうすべきか決めてくれといって偉大な兄弟を求めるのだらう。ゐるとうるさいが、ゐないと不安で寂しいのか。
 さっき私たちはと書いたが、私は嫌だ。測定値だけを教へてもらひたい。偉大な兄弟には何も決めてもらひたくない。真っ平御免である」


 たまたま先日読んだばかりで鮮明に覚えていたので引用させていただきました。他意はございません。こういう感じ方は、SFファンというかSFを好む読者にはごくふつうのものだと思います。SFを好む読者が「真っ平御免」と感じる態度を、大江戸の著者は「それでいいのではないか」と考えている。実は私もSFを好む読者の端くれですので、後者の立場です。なのですが、最近とみに(50を過ぎてから)前者の立場も理解できるようになってきた。そういえば石川英輔さんは1933年生まれなので、本書を書かれた1990年当時57歳なのです。一方中野氏はおそらく現在40歳代でしょう。その意味では年齢も考慮に入れなければならないかも。

 ただ両者は「同じ態度」(或いは何が幸せか)について別の判定を下している。かかる他者依存的な態度を、フッサールは「自然的態度」と規定しました。つまりそれが人間にとって「自然」な本源的なものだという判断でしょう。
 実はこのような他者が逃げ出せば訳もわからず追随する(他者が行列を作っていたら訳もわからずその後ろに並んでみる)という行動様式がホモサピエンスを霊長類の勝者となした契機だったのかも知れません。他者依存的な、ビッグブラザーの言うことを聞いておけばよいという態度が、実に人類を今日まで生き永らえさせてきたのかも。

 フッサールはそのような自然的態度から、いったん判断中止(エポケー)し現象学的還元を行うことで、「超越的態度」に至れるとします。「真っ平御免」とはかかる「超越的態度」からなされる判断です。つまり多くのSFを好む読者は一種の「超人」なんですよね。
 一方ハイデッガーは、フッサールの「自然的態度」が指し示す状態を「頽落」と規定するのです。つまり、SFファンこそ本源的な人間であり、江戸時代人や現代一般大衆は本源的態度から何ほどか堕落してしまった人々ということになる。これは中野さんの所論の基本的態度と同じです。

 その意味で人間存在の定式をめぐる石川さんと、中野さんに代表される一般的なSFを好む読者の評価基準の差異は、実にフッサールとハイデッガーの立場の違いと同型といえそう。てことはひょっとして、フッサールは50代以降に「自然的態度」を発想し、ハイデッガーは若い時に「頽落」を構想したのではないかな、と思い付き、ちょっと調べてみましたが、たしかにハイデッガーはそのとおりでしたが、フッサールも50代以前に発表しているようで、私に都合のよい結論は得られなかったのでした。ちゃんちゃん。

 「自分をだましたところで、事実までだまされてくれるとは限らない」安部公房。

 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月27日(土)20時16分33秒
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  作家・眉村卓さんインタビュー全文(3)「自分は生きている」から始めよう


▼以前からお知らせしておりました眉村さんの、KCC神戸新聞文化センターの新しい講座が、愈々9月開講となるようです。
 これまでKCCでは、毎月第3金曜日に《眉村卓の物語・エッセイをこれから書く人のために》が開講されていたわけですが、この9月より上記とは別途の新講座として、講座名は同じ《眉村卓の「物語・エッセイをこれから書く人のために」》ですが、新しい講座が開講されます(毎月第2金曜日)。
 無料見学会が9月16日(13時~14時30分)にあります。興味のある方は、ものは試しで見学してみられてはいかがでしょうか。
 《ここ》(→「新設講座」クリック→「三宮KCC」クリック→「文芸」クリック→上から3番目→「詳しくみる」クリック→一番下に無料見学申し込み)

 なお、この講座は(以前うかがったのですが)初心者向けで、それこそ原稿用紙の書き方から教えてくださるみたいですよ。物語を書いてみたいという気持ちはあるのだけど、そもそもどのように書いたらいいのかが、わからないという方には、おあつらえ向きの講座では(^^)。

 

眉村さん情報 または「大江戸ピグミー」縁起覚書

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月26日(金)21時02分47秒
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   ▼作家・眉村卓さんインタビュー全文(2)最終話「また一緒に暮らしましょう」

 先日、雫石さんの「ジェノサイド」の感想を読んでいて、「あれ、ピグミーはカラハリ砂漠じゃなかったっけ」と思い、検索したりしていたんですが、全く私の思い違いで、カラハリ砂漠はホッテントット(コイコイ)なのでした【註1】。恥ずかしながらアフリカ史はほとんど頭に入っていません。近代史以降からしか世界史と関わってこないから、受験世界史的には存在しない地域ですよね。日本人にとっては本当に遠い世界です。

 閑話休題。ピグミーをwikipediaで牽いてみると、なぜ身長が低いのかに就てのひとつの仮説として「彼らは共通祖先の形質を継承したからではなく、熱帯雨林における狩猟採集生活という環境が自然選択として働いた結果」なのかも知れないとの示唆がありました【註2】
 これは一種の「島嶼効果」の可能性ですよね。一万二千年前のフローレス人が、おそらくこれですよね。

 で、本題ですが、今読んでいる《大江戸シリーズ》でも強く主張されているように、江戸時代は超エコ社会であった。マスコミが、アイヌと並んでよく引き合いに出してきますよね。でも江戸時代が(もし実際に)エコ社会であったとするなら、それは江戸時代人が環境に配慮する人々だったからではなく、やむにやまれずそうならざるを得なかったというべきでしょう。
 日本列島の人口は、ここを見ますと、それまで弥生以来漸増傾向であったのが、享保の改革以降幕末まで3000万人で足踏みしています。つまり鎖国列島はもはや満杯だったのですね。でもこれを維持したのはエライところで、それは(今から言えば)エコ化によって達成されたといえます。つまり限りあるモノを、江戸時代人はシェアすることで3000万の人口を維持し得たのでしょう。

 ところで最大のエコ化はなんでしょう。それは体を小さくすることなんです。ユーベルシュタインの『青い紐』は、人口増加と資源の枯渇に悩む地球が、遺伝子操作で人間のサイズを2分の1にすることでそれに対応するというお話でした。要するに(人工的)「島嶼効果」です(笑)。
 日本列島史上、江戸時代が身長が一番低い時代だったというのはよく知られているわけですが(155センチくらいだったはず)、これはひょっとして、過度のシェアリングの結果、(自然的)「島嶼効果」が起動してしまったということではないでしょうか。
 もし明治維新がならず、江戸時代(鎖国)が現在まで続いていたしたら、或いはそのような並行世界では、現代日本人の平均身長は150センチを切っていたかも。だとすればwikipediaにあるようにピグミーが「特に身長の低い(平均1.5メートル未満)特徴を持つ」ことを指標としているのであれば、「現代江戸時代人」は、立派にその要件を満たしてることになります。並行世界の学者は、なぜピグミー族がアフリカと日本列島という相懸隔した地域に生息しているのか、頭を悩ませたかも知れませんね(笑)。

 ということで、『大江戸遊仙記』は100頁まで。

【註1】しかしそれにしてもwikipediaのコイコイ人の項は酷いですなあ(ーー;→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25B3%25E3%2582%25A4%25E3%2582%25B3%25E3%2582%25A4%25E4%25BA%25BA

【註2】「ピグミーは他の民族と異なり、10代はじめに身長の成長が鈍化する傾向にあるために成人の身長が低くなる。これらは環境への適応のためであり、小島や密林といった隔絶された環境に応じ人間以外の種の中で独立して進化したものである。ピグミーの祖先が生きた環境はかれらの身体サイズを多世代にわたり小さくし、そして今日、自然淘汰によりその遺伝子が優位性を占めている」(waikipedia
 

眉村さん情報 その他の情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月25日(木)21時54分38秒
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  ▼本日8月25日付読売新聞夕刊「いやす」欄に、眉村卓さんのインタビュー記事「妻をなくした眉村卓さん」「「楽しみ」探して前へ進む」が掲載されました。このインタビューはかなりアブリッジされているようなのですが、読売新聞の医療介護サイト「ヨミドクター」に完全版がアップされています→作家・眉村卓さんインタビュー全文(1)妻のがん判明、5年生存率は「ゼロ」(2011年8月25日)
 (1)ということは、まだアップされていない続きがあるんでしょうね。明日以降も要チェックです。

その他、展覧会関係をご紹介。
▼渡辺温オマージュ展 (品川ギャラリーオキュルス) 9月22日~10月2日
 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww14.plala.or.jp%2Foculus%2Fcoming_exhibition.html

▼村上芳正原画展ー家畜人ヤプーの世界 (神楽坂アーディッシュ) 9月15日~10月28日
 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fbarano-tessaku.com%2Findex.html
 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fbarano-tessaku.com%2Fbbs%2Fbbs23.cgi

▼追悼・黒岩比佐子蔵書展 (市立小樽文学館) 9月3日~11月6日
 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fotaru-journal.com%2Fevent%2Findex3.htm

芝居関係をご紹介。
▼オリゴ党20周年記念公演「~も一度やるを初めてやる~グレガリア」 (シアトリカル應典院) 9月10日、11日
 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.origo-tou.com%2F

 東京や北海道は、ちょっとよう行きませんが、大阪のオリゴ党公演は今回もお邪魔させていただきます(^^)。

 大江戸シリーズ第3弾『大江戸遊仙記』に着手。

 追記。また蒸し暑さがぶり返してきましたね。こんなときこそ耳のスタミナ料理、コルトレーンですよ。さあみなさん、トレーン聴いてスタミナつけて、夏バテなんか吹き飛ばしてしまいましょう!m(__)m
  (1)  (2)



 

「アーリア人」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月24日(水)21時54分7秒
返信・引用 編集済
   神戸のみなさんは、眉村さんのインタビューを観ることができましたでしょうか。もっと早くに告知できればよかったのですが、私自身、気がついたのが直前だったのでした(念のためNHK大阪放送局をつけてみましたが、放送されなかった。当然ですね)。ご覧になった方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報いただければ幸甚です。

 さて、青木健『アーリア人』(講談社選書メチエ09)読了しました。
 最後の方はイスラム化したアーリア人の動向を追うもので、ヒロイック・ファンタジー的観点からはあまり興味を持てず、流し読みしてしまいましたが、全体としては大変面白い「読み物」となっていました。これまでに引用した部分からも分かるように、著者もノリにのって書かれたんだろうなあということがよくわかる好著だったと思います。
 地球最東端のイラン系アーリア人であったタリム盆地とりわけ崑崙山脈北麓ホータンのサカ(スキタイ)人の毘沙門天信仰について、毘沙門天“Vaiasravana”を、通説の仏教の四天王ではなく、アーリア人本来のアフラ・マズダと並ぶ(ローマ帝国でも信奉された)太陽神ミスラ“Mithra-mana”の変化したものとする宮崎市定の説は、思い付きの域をでないものらしいのですが、泰斗の学説だけに影響力はかなり大きかったとのこと。シルクロード関係の書籍には、今でも「ホータンの本来の宗教はミスラ教だった」と解説されることがある(213p)そうなんですが、著者もワルのりして「この説に従うなら、驚くべし、越後の武将上杉謙信は、サカ人の太陽神崇拝を引き継いで川中島で戦っていたことになる」(同) と八切止夫みたいなことを言っていて愉快愉快。この著者の同じメチエの『ゾロアスター教』も読んでみたくなりました(笑)。

 補足。先にゲルマン人の金髪は混血で獲得した形質かもと書きましたが、金髪碧眼はアーリア人本有の形質だったようですね。シッダールタがアーリア人だったのか先住民だったのかは定かでないそうですが、著者はアーリア人説のようです。ただし「形質的に金髪碧眼だったかどうかは不明」(240p)とのこと。金髪碧眼のシッダールタなんて嫌だなあ(^^ゞ
 

もうすぐ始まります!(眉村さん情報)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月24日(水)18時10分53秒
返信・引用 編集済
   NHK総合1・神戸の「ニュースKOBE発」(18時10分~19時00分)にて、《「この人に聞く」 作家・眉村卓さん~故小松左京を語る~》というインタビューが放送されるようです。神戸の方はぜひ!  

Re: お恥ずかし!

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月24日(水)00時26分8秒
返信・引用 編集済
  > No.3195[元記事へ]

 流転さん
 御意! 泣く子と年齢と暑さには勝てませんっ(^^;

 
 

お恥ずかし!

 投稿者:流転  投稿日:2011年 8月23日(火)23時00分56秒
返信・引用
  いやども、年齢と暑さのためボケが来てしまったようです、トホホ・・・  

Re: 初めまして

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月23日(火)20時40分3秒
返信・引用 編集済
  > No.3193[元記事へ]

 流転さん
 あ、お久しぶりです。あれ、初めましてじゃありませんよね(^^;。
 エフタル情報、ありがとうございます。そうですか、ナウシカにも出てくるのですか。映画は見ましたが、原作の漫画は未読です。しかし、トルメキアの語感もそうですが、全体にオリエント、アーリアっぽい命名がなされていますよね。クシャナなどそのまんま。(ヒロイック)ファンタジー世界を構築しようと思うと、どうしてもあのあたりを(無意識に)下敷きにしてしまうのかも知れませんね。
 ところで『アーリア人』によりますと、エフタルは民族名も国名も自称は伝わっていず、エフタルはギリシア語音、アラビア語音ではハイタール、中国語音では嚈噠(エンタツ?)とのこと。自称はこれらの音に近いものなんでしょう。
 教えていただいた「白匈奴」は「音」ではなく、「意味」で当てられたものでしょうね。黄色人の野蛮な遊牧民「匈奴」に対して「白人の匈奴」という意味なんでしょう。よっぽどその凶暴さが中国に伝わっていたのかも知れませんね。中国の造語は面白いですねえ(^^)。

 

初めまして

 投稿者:流転  投稿日:2011年 8月23日(火)11時13分43秒
返信・引用
  いつも興味深く読ましていただいております。
エフタルの名称は「風の谷のナウシカ」の原作でトルメキアやドルク以前に
大帝国を打ち立てた民族で、風の谷の民はその末裔という設定になっていました。
(作中でナウシカが「エフタルの娘よ」と呼びかけられるシーンがあったように記憶しております)
あと中国の史書に「白匈奴」と記された民族とエフタルが同じだという説を
読んだ覚えがあります。
 

「アーリア人」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月22日(月)21時28分3秒
返信・引用 編集済
   『アーリア人』は150頁まで。ここら辺で特筆しておきたいのはマゴス(マゴイ)族です。もともと紀元前7~6世紀のメディア王国の宗教担当部族(忌部氏みたいな感じ?)だったのが、次のペルシア帝国でもなぜかそのまま解体されず、いわば居抜き的に登用され、次第にイラン系定住アーリア人全体の神官階級に成長します。「(1)父子相承で記憶する呪文、(2)拝火儀礼、(3)遺体を放置する曝葬、(4)爬虫類の屠殺、(5)最近親婚などの風習で知られる、ギリシア人からは不気味がられた集団」(108p)とあり、いかにもヒロイック・ファンタジーのモデルになっていそう。火星シリーズのイサスのホーリー・サーン教団等、スペオペやHFの暗黒宗教組織は、なんとなくエジプトっぽいイメージを持っていましたが、こっちがモデルかも。しかもこの集団、いつのまにか原始ゾロアスター教と融合して、ゾロアスター教があるかぎり生き延び、現在も存続しており、「現代インドのゾロアスター教徒財閥の多くは、このマゴス神官団の教えを継承した末流たちが創設したもの」(110p)とのこと。余談ですがキリスト教の東方博士のマギはこのマゴス(マゴイ)で、英語のマジックはマギを語源としているんですよね。紀元前7世紀から数えれば2700年間連綿と続いているというのも凄い。BC660年にはじまる天皇家とほぼ同じですが、天皇家は水増しで、実際は早くみつもってもAD3世紀の成立ですから、ぜんぜん敵わないのでした(^^;。
 

「アーリア人」雑感

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月21日(日)23時18分47秒
返信・引用 編集済
   日曜は休読日ということで、『アーリア人』は進んでいないのですが、昨日の続きで少しメモしておきます。
 5世紀半ばにバクトリアに拠ってササン朝ペルシアを苦しめたエフタルですが、謎めいた民族ながら、伝えられる王名からイラン系アーリア人遊牧民であると推定されているようです。「彼らは5世紀半ば以来、北魏や南朝梁に朝貢していた」(87p)>中国とも関係があったのですね。

 このエフタル、「聖火崇拝」があったことが判っており、それはアーリア人として普遍的な宗教概念なので当然なのですが、その一方で「魚の神ズーン」を信仰しているのです。これは他のアーリア人に見られない特殊な信仰で、「彼らは黄金製の魚の頭を模した王冠を被り、神殿には魚の骨を奉納して拝んでいたと記録されている」(同)
 ところがエフタルは中央アジア内陸の遊牧民ですから、元来、魚や海とは無縁な民族です。だから不思議なんです。「ある学者はこれをインド系の商売の神と推測したが、バラモン教の中に該当する神格は見つかっていない」(同)
 奇妙、謎、という以外にありませんよね。でも私にはピンと来たんですよね。

 以前、原田実さんの『もののけの正体』を読んだとき、こんな想像を書きました(→12)。また伴野朗『さらば黄河』でもこのような感想を述べました。
 すなわち、古代より黄河の治水に関わった鯀-禹系の水神を信仰する一族がいた。その一部が、何らかの理由で、仁徳の時代に日本にやってきた(2で4世紀と書いたのは間違い。仁徳は倭の五王ですから5世紀の天皇です)。同じ理由で同じく5世紀、別の一派が、エフタルの朝貢団にくっついて西へ移動し、エフタルの信仰を得たのではないでしょうか。
 丁度同じ時期に、東の日本と西のエフタルに水神の移動を髣髴とさせる記述が残っているのは、とても偶然で済ますことはできないように思われてなりません。エフタルの信仰した「魚の神ズーン」とは、黄河の水神だったのではないでしょうか。いや、もっと端的に(リンク先2で推測したように)古き神々の一人だったのかも。いやーヒロイック・ファンタジーっぽくなってきましたね。むしろ伝奇SFか(>おい)。
 

「アーリア人」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月20日(土)22時04分53秒
返信・引用 編集済
   なかなか、今の自分に合うヒロイック・ファンタジーが見当たらないので、じゃあということで講談社メチエ『アーリア人』に着手。ヒロイック・ファンタジー世界の源泉ですね。アッシュの登場人物のバビロナ王女はバビロニアからイメージしたものでしょうし、ハワードにはカル王というのがいます。バビロニアはセム人の国ですが、現実のカル(クル)王(キュロス王)はペルシアの初代王であり、まさに本書のいうイラン系アーリア人の定住種族です。ちなみにバビロニアを倒したのがこのクル王でした。このようにヒロイック・ファンタジーはその想の多くを<アーリア人世界>から得ているんですよね。

 その最たるものがキンメリアではないでしょうか。現実のキンメリアは、イラン系遊牧アーリア人の中では最初に歴史に姿をあらわした種族です。しかし遺跡も遺さずすぐに別種のイラン系遊牧アーリア人であるスキタイに滅ぼされます。
 ただ逆に情報が少ないせいで(オデュッセイアに神話的に伝わるだけ)ヨーロッパ人の想像力を喚起した面があり、「「黄色人種で野蛮な遊牧民」=フン族などに対して、「白色人種で高貴な遊牧民」=キンメリア人のイメージをもって語られることに」(27p)なります。コナンのキンメリヤはまさにこのイメージ上に創作されています。本書の著者によれば、ハワードは「俗説でケルト人の一部族であるキンブリ族がキンメリア人の末裔とされていることに着目し、架空のキンメリア人の英雄に古代ケルト語の男性名「コナン」を冠して活躍させ」(28p)たのだとします。ハワードにとってキンメリアやコナンはアーリア人とケルト人のダブルイメージなんですね。

 さてヒトラーがドイツ・北欧人(ノルディッシュ)をアーリア人種のなかでも最も優秀高貴としたのは、その「金髪・碧眼・長身・細面」を良しとする形質的な」(12p)観点からですが、実際にはアーリア人はイランやインドのアーリア人が本流(純血種)で、ヨーロッパ人は、早い時期に本流から離れて西進した分派に過ぎず、ことにゲルマン人は先住民である巨石文化人と混血して現在の姿となっている、いうならば<雑種>なんですよね。金髪もアーリア人本来の形質ではないんでしょう。
 たしかに、アイヌが1万年前の出アフリカ人の形質を保持しているのだとすれば、黒人も白人も黄色人もそれ以後の獲得形質にすぎない。実際のところそのような形質の変化は短期間に起こるみたいです。

 さて、スキタイ人の後を襲ったのがサルマタイ人、さらにその後をアラン人が継ぐ。すべてアーリア人の別種に他ならず、アラン人にいたっては要はアーリア(ン)人の謂です。そのアラン人はフン族に追いまくられ、ゲルマン人ゴート族やバンダル族と共にヨーロッパからカタロニア、海をわたってカルタゴへと落ちのびる。フランス人名の「Alain」や英語の「Alan」はアラン人のオルレアン入植後に現れてくる名前らしい。カタロニアは「ゴート・アラン・ニア」からの転訛。

 現在、アラン人はオセット人という名になっていて北オセチア共和国とグルジアの南オセチア自治州を形成しています。露鵬・白露山、若ノ鵬はこの民族の出身。著者によれば「露鵬と若ノ鵬の本名「ソスラン」」は岩から生まれた太陽神、白露山の本名「バトラズ」は聖杯の守護者に当たり、イラン系アーリア人の宗教思想の中では実に由緒正しい名前」(48p)なんだそう。本書には出てきませんが阿覧は本名がアランで、これまた由緒ある名前ですね(笑)。

 聖杯伝説といえばアーサー王伝説はケルトの伝説かと思いきや、ブリテンに渡ったイラン系アーリア人(サルマタイ?)の伝承が多分に取り入れられているらしいことは、映画「キング・アーサー」の感想で書きましたが、本書によれば「アーサー王とこのイラン系アーリア人遊牧民の間に共通性があることは確かである」(47p)とのこと。
 いや面白い!(笑)

 

「アッシュと地球の緑の森」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月19日(金)23時13分28秒
返信・引用 編集済
   「あんたには、ものを集めるという情熱が分からないんだよ、ルカン」
 バービはあざけるように答えた。
 「そいつはほとんど、人間の病なのさ」(250p)


 田中光二『アッシュと地球の緑の森 アッシュ・サーガ4(講談社文庫87)読了。
 いやこれは面白かった。ただしスペオペでも、ヒロイック・ファンタジーでもありません。解説で鏡明が書いているように「SFになってきている」のです。まさに著者の得意とする「冒険SF」そのもの。アッシュは神話的なヒーローではなくなり、「近代人」として活躍する。今回、アッシュとルカンが交替々々に一人称で物語るという形式で進んでいくのですが(前作も一部アッシュの一人称があったが部分的に留まっていた)、一人称で語れば自ずと内面を吐露せざるを得ないわけです。つまりは内面が「ある」アッシュとなってしまわざるをえない。「内面」は「近代人」の契機ですから、どうしても物語自体が近代なストーリーになびいてしまうのは自明。だから「SF」になってしまったのですね。だからといって駄目なことは決してない。田中冒険SFとして充分に愉しめ満足しました。
 しかしまあ、田中光二はほとほと日野皓正ですなあ。スピリチュアルを希求しつつも結局それを近代的に解釈しちゃうんです(^^;。地球純粋意識エネルギー生命体の何と人間臭いことか。でもそれがまたユニークといえばユニークで、やる気をなくして目覚めてしまうラストはあっと驚く秀逸さでした(笑)。
 解説によれば、著者はシリーズを継続する気だったみたいですが(大体雇用主のミッションの意図が不明で続編がありそうな雰囲気)、結局本作が最終巻となってしまったみたいですね。残念。
 

「アッシュと母なる惑星」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月18日(木)21時27分33秒
返信・引用 編集済
   ここのところ、帰宅すればまず冷房をかけて、ぐったりした体を冷やすという日が続いています。わけても今日は蓄熱が凄まじく、クーラーをかけながら小一時間寝てしまいました。それでもまだ頭蓋骨の内側に熱が残っている感じ。もはや関西はハビタブルゾーンから外れてしまったのでは。
 『アイヌの世界』によれば、4世紀頃は小寒冷期で、北東北から弥生人(実は弥生人と縄文人の混血)が南へ退き、その空白地帯を北海道から続縄文人(アイヌ)が南下し埋めたのだそうです(そして北北海道にサハリンから粛慎(オホーツク人)が南下。ただし著者はかかる動向は気候変動だけでは説明できないとしている)。で、寒冷化が緩むと古墳人(弥生人)が再び北上、続縄文人は北海道に撤退したんですが、そろそろ我々関西人も北上しなければならない時期に来ているのではないか。空いた関西には九州人が移り住めばよろしい。で、九州には台湾人が、台湾にはルソン島人が(以下同じ)、トコロテン式に移住すればいのです。これぞ国際親善世界平和であります。まだ脳が熱で茹だっているようです。

 それはさておき、田中光二『アッシュと母なる惑星 アッシュ・サーガ3(講談社文庫84)読了。
 なんやかんや言っても一気に読ませるのはさすが。昨日の言ったことに就いて、違和感の元はスペオペとHFの混在にあるのではなく、スペオペがいわばメカニックなそれだったからなのかも、と思い直した。リイ・ブラケットのスペオペはHFと区別がつきませんもの。要するに、今の私に欠乏していて脳が補給を求めているのが、20年代30年代パルプマガジンのストーリーというだけの話なのかも。
 てことで、ひきつづきアッシュ・サーガ4に着手の予定。本文の最後が「完」となっているので、これが最終巻なのかな。

 追記。わ、こんな記事が!
 

「アッシュ・サーガ3」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月17日(水)22時34分6秒
返信・引用 編集済
   『アッシュと母なる惑星』に着手。第一部を読んだ。相変わらず面白い。著者のもくろみはスペオペとヒロイック・ファンタジーの合体にあるので、これは言っても詮ないのですが、やっぱりこの合体は無理があるなあ。豪華宇宙客船で星界をわたり、途中宇宙海賊に襲われたりしながら到着した惑星では、魔道士が現実に力を行使している世界だった……というのはねえ。
 どちらの描写もそれぞれに魅力的なのですが、それがひとつの世界観の中で共在しているのは、なんだかなあ、打ち消し合っているような感じがしますね。とはいえそれは両シチュエーションが一望できる遠地点の視座での感想で、それぞれの世界にぐぐっと寄せれば関係なくなってしまうのですが。

 オラトゥンジつづき。終着のマイフェバ。
  (1)  (2)  (3) 
 

Re: 「アイヌの世界」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月17日(水)02時02分23秒
返信・引用 編集済
  > No.3185[元記事へ]

平谷さん

 >おもしろそうですね。
 おもしろいですよ~(笑)
 おたがい参照可能であるはずがないので、ほんとうに驚きました(^^;
 

Re: 「アイヌの世界」

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2011年 8月16日(火)22時57分30秒
返信・引用
  > No.3183[元記事へ]

おもしろそうですね。
現在、渡嶋も関わるお話を執筆中ですので、参考に読んでみます。
 

なにしとんじゃ。おぐんで、おらとんじゃ。さよか。

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月16日(火)22時10分23秒
返信・引用
   カードの期限が切れるので切り替えて下さいとのメールが来たので、ツタヤに出張って手続きして来ました。ついでに何か借りようかなと店内一周しましたが、別にビビっと感じるものなし。ヒロイックファンタジーの映画版みたいなのがあったらと思っていたのですが、意外にそういうのってないですねえ。丁度SF冒険でもなくホラーでもないというカテゴリーの隙間になってしまうからでしょうか。シュワちゃんのコナンくらい。これも私の考えるヒロイック・ファンタジーとはちと違うのです。子供が主人公の魔法ものは多いのですがね。ファファード&グレイマウザーの映画版みたいなのってないですかねえ。
 そこで手元にあるアッシュシリーズ第3巻に着手することに。でも今日は、暫く休んでいた『記号論への招待』を再開。続きから読み始めたのだが、前の部分を忘れていて少し戻って読み直さなければならなかった。昔の新書はしっかり構築して書かれているので、部分を忽せにしたまま進むと訳がわからなくなりますなあ。一気読みなどとてもとても。私の能力では1回10頁から20頁が限度。慌てず急がず、ただし間は開けず、読み進めよう。

 オラトゥンジ・コンサート発見! いやもう凄いの一語ですなあ。昨日から聴きまくっています(^^;
  (1)  (2)
 

「アイヌの世界」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月15日(月)22時45分29秒
返信・引用 編集済
   瀬川拓郎『アイヌの世界』(講談社選書メチエ11)読了。

 前作『アイヌの歴史』の続編。ある意味補遺編で一気読了。面白すぎる。世界で一番平和なエコ民族、逆に言えば歴史のない(進歩のない)ひ弱な民族という、流通する(ただしアイヌ民族のオピニオンリーダーたちが広めたという一面もある)イメージを覆す刺激と発見に満ちた快著といえます。アイヌ人(←擦文人←続縄文人)も、あたりまえに欲もある、自発的な活動力、生命力にあふれる民族だったのです!(以下まとめてアイヌとします。ついでに著者はアイヌを日本人と同系であるとは考えていません。縄文人の後裔ではある。縄文人は弥生人に吸収されたと考えているようです。原アイヌは一万年以上その純粋性を保ったことが確認できる世界でも稀有な「人種」で、その意味で出アフリカ人にかなり近い形質なんではないでしょうか)
 前著の、アイヌが、和人の商品経済に組み込まれてサケ漁に特化した川の民であるという画期的な説明にクラクラして、あたかもアイヌ全部がそうなったかのように、私はいつの間にか認識していました。本書はそういう誤認を正してくれるもので、サケ漁に特化したのはそういう(道央)地域のアイヌであって、他の地域では、また別の特化を行っていたんですね。道東では鷲の尾羽、道西のアイヌはオホーツク人(粛慎)を追い払い(道北に至り)、その位置を襲って大陸の北回り経由の富を求めた(アムール川まで進出、元と半世紀戦う)。
 しかしなぜそのような雄渾な商業民族と化し得たのか。それはなんといっても、南に巨大な市場が存在したからに他ならない。これは続縄文以来北海道の原住民にとり好むと好まざるとに関わらない、一種の運命という他ありません。日本にとって珍奇な宝を見つけ、日本に持ち込めば、莫大な利益が獲得できるんです。和人商人もそれを唆す。そんな世界で商品経済から身を離そうとする方が土台無理な話でしょう。
 それはしかしオホーツク人も同じで、ただオホーツク人にとっての市場は中国だったわけです。アイヌが日本の衛星であるならば、オホーツク人は中国の衛星だったわけです。天文学ではありえませんが、北海道はこの二つの衛星の軌道が重なるところだった。とはいえまだ日本がさほどの市場ではない時代、オホーツク人とアイヌは利害関係がない、交通のない隣人だった。しかし日本という市場の拡大が、オホーツクとアイヌ間に利害関係を発生させたのでした。その結果、阿倍比羅夫(日本)はアイヌを積極的に擁護し、やがてオホーツク人は北海道から撤退する。それは同時にアイヌが日本人の、王権の商業網に絡め取られていく契機でもあったのです。
 さて、道央(サケ)、道東(尾羽)、道西道北(北回りの毛皮他)については上記しましたが、道南日高地方にもアイヌの巨大集落があった。ここは何を日本に提供したのか。金だったのです。しかも、この金産地は、中央とは別系統の日本とつながりが強かった。実は7世紀以降、この地域に東北北部太平洋岸からの移住が盛んだったのです。つまり安倍・藤原氏です。奥の大道の整備は、かかる黄金の道の整備にほかならなかった。秋葉安一氏によれば、中尊寺金色堂の金箔を調べると、北上山系のに混じって、それらと全く異質な金が使われていて、それは日高の砂金としか思われないとの印象を持ったといいます(132p)。著者は日高他北海道の砂金の元素分析と金色堂金箔の元素分析を目下準備中とのこと。
 さらに驚くべきは、日高厚真の遺跡から常滑産の大型の中世陶器が出土。常滑産の中世陶器は平泉で大量に出土するのです。しかもこの常滑焼、どうも蔵骨器として使用された節があり、出土した遺跡は「経塚」であった。日高在地の和人がそんなものを造営するはずがないから、造営者は当時集団でやってきたのであり、そのような習俗を持つのであるから、葬られたのはかなり位の高い人物だったのではないかと想像されるわけです。
 「壺とほぼ同時期の文治五年(1189)、衣川で自害したはずの源義経が生きのびて北海道の、それも厚真や平取に渡った、という伝説がアイヌの中で古くから伝えられてきた(『蝦夷葉那志』ほか)。義経はともかく、奥州藤原氏の没落等にかかわって平泉からの移住があり、その事実が義経伝説として伝えられてきたことも想像したくなる/もしその可能性が考えられるのであれば、かれらが日高の山中に向かったのは、それ以前からの交流があったからであり、またそこには再起の経済的な基盤があったから、ということになるだろう。(130p)」
 妄想をたくましくすれば、経塚の被葬者こそ、誰あろう五代忠衡だったのではないでしょうか。
 以上で、『アイヌの世界』の読み終わりとしますが、この感想文は、あくまで所感であり、本書の内容を正確に反映しているわけではありません。というかかなり触発された妄想が混入しておりますことをお断りしておきます。実際のところは直接本書に当たられることをお勧めしておきます(>おい)(^^;。

 

Re: 眉村さんを囲む会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月15日(月)17時14分31秒
返信・引用 編集済
   柳生さん

 戸田勝久さん、なんとか宜しくお願いします!
 しかしそうしますと、やはり紙版となりますね。電子出版ではいくらなんでも失礼なのかな。要検討。

 さて、講談社メチエの『アイヌの世界』に着手。
 おおっ! これはっ!!
 平谷さんは読まれたのかしら? そうか3月出版だから、既に『義経になった男』は平谷さんの手を離れているなあ。
 

Re: 眉村さんを囲む会

 投稿者:柳生真加  投稿日:2011年 8月15日(月)13時06分35秒
返信・引用
  > No.3172[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

>  連絡係が柳生さんで、今回欠席されたメンバーに連絡していただきご協力お願いする予定。

了解しました
連絡しておきます!
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月15日(月)09時46分22秒
返信・引用
  > No.3179[元記事へ]

 高井さん

 いつも精細な情報を提供して下さり、ありがとうございます。
 あ、今日の高井さんのブログの眉村卓の商業誌デビューもリンクしておきます。きっと参照させていただくことになるでしょう。

 ところで本板では、検索に便利なように、眉村さん関係は<眉村さん情報>と記してアップしています。後でこの語で検索すれば、ズラズラっと時系列で表示されるんじゃないかと考えてのことなんですが、実際に試してみると、ぜんぜんそんな風にはならないんですよね。なにか検索のコツみたいなのがあるのでしょうかねえ。まあブログに移行すればいいことなのですが、掲示板の形式に愛着があってなかなかそんな気になれません。
 

Re: 眉村さんを囲む会

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 8月15日(月)07時10分42秒
返信・引用
  > No.3178[元記事へ]

 ふと思いついて確認してみたら、「別冊宝石107号 ショート・ショートのすべて」(1961年7月発行)にも「くり返し」が掲載されていました。
 

Re: 眉村さんを囲む会

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 8月15日(月)06時54分2秒
返信・引用
  > No.3174[元記事へ]

>  眉村さんは「SFマガジン」1961年10月号の「下級アイデアマン」で商業誌にデビューされました。
 気になって、ちょっと調べてみましたら、「SFマガジン」登場の前に「ヒッチコックマガジン」に何度も作品が掲載されていると判明しました。
「ヒッチコックマガジン」1961年5月号に「ショート・ショート集」、6月号に「古都で」、7月号に「お別れ」、8月号に「夜のたのしみ」、10月号に「雑種」が掲載。(資料は中島河太郎編「戦後推理小説総目録」)
 いいかげんなことを書いて、申しわけありませんでした。
 

木田福一

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月14日(日)21時06分21秒
返信・引用
   そういえば昨日も話していたのだが、福田紀一さんの書いた追悼文って、どこかに出ました? マスコミはまず、誰をおいても最初に取材に行かなければならない方でしょう。私の見落としなんでしょうか。  

「結晶銀河」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月14日(日)19時23分23秒
返信・引用 編集済
   大森望・日下三蔵編年刊日本SF傑作選結晶銀河』(創元SF文庫 11)読了。

 冲方丁「メトセラとプラスチックと太陽の臓器」。言葉の面白くも玄妙なところは、或る価値を示す言葉が、文脈(身振り・表情も含まれる)の中に置かれることによっては、ときにその逆の「価値」を表すこともあるということです。恋人が寝物語で云う「荒馬間」もとい「あらバカん」の「バカ」は、「バカ」が元来有するマイナスの価値から、この文脈においてはマイナスxマイナスでプラスに変化しています。そういう言葉の可塑性可逆性が失われてしまった硬直した近未来のスラップスティック狂騒曲。フレデリック・ポールなら喜んでギャラクシーに買ってくれそう(笑)

 小川一水「アリスマ王の愛した魔物」。日本を代表するハードSF作家である著者の、そのハード性をとことん突き詰めた果てに現出せしめた世界は……。幻想小説の傑作。

 上田早夕里「完全なる脳髄」。傑作。一読、眉村さんの「準B級市民」を思い出した。よく考えたら逆向きなんですが、初期眉村にあったダークな焦燥感が感じられて好感度は本集随一。

 津原泰水「五色の舟」。これもとんでもない傑作。小川作品が乾いた幻想ならば、本篇は湿った幻想で、本邦の伝統的な幻想小説の質を受け継いでいるように思いました。

 白井弓子「成人式」は漫画。

 月村了衛「機龍警察 火宅」は警察小説。一読では首を傾げたのだが、再読したら意外によかった。

 瀬名秀明「光の栞」は、よく判りません。当初「私のかわりに世界を聞き、言葉をしゃべり、呼吸する本を」との注文だったわけですが、ラストでそれは成就されたんでしょうか?

 円城塔「エデン逆行」。傑作。都市の描写が素晴らしい。本邦泰西を問わず、これまで描かれてきた架空幻想都市のなかでも屈指の景観ではないでしょうか。これに比べたらベローナなんて。読んでないけど(>おい)。

 伴名練「ゼロ年代の臨界点」。ゼロ年代と云っても千九百ゼロ年代。著者はシレ者。ただしシレーッと嘘をつくのシレ者(^^;。筆名はレ・バンナでしょうか。しかし内容にはバンナのような荒っぽさは微塵もなく、精密な嘘で世界を糊塗し切って、ゼロ年代世界をありありと実在させている。力作。

 谷甲州「メデューサ複合体」。これは著者本領発揮の宇宙土建小説。ストーリーの行き着く先は定まっているとはいえ、まさに観光船のベテラン船長よろしく手練の操船術で、乗り心地よく安全に、窓外に展がる奇妙で魅力的な風景を楽しませてもらえました。佳品。

 山本弘「アリスへの決別」。私には理解不能。てか断然熟女でしょう。そういう問題じゃない? 失礼しました(>おい)。

 長谷敏司「allo, toi, toi」。未熟な日本語をかき分けかき分け最後まで来てみれば、言っていることはちっとも新しくない。80頁も使わないと表現できませんかねえ。

 眉村卓「じきに、こけるよ」は、私ファンタジーながら、最初と最後が照応する短篇小説の教科書のような仕掛けで、うならせられる。ああ、だから私小説ではなく私ファンタジーなのか! 巨匠のたくみの逸品。

 酉島伝法「皆勤の徒」。これは凄い。この凝集された濃厚さは、一読では脳に展開できません。北野勇作・田中啓文・牧野修・小林泰三をぶっこみ原形がなくなるまでトロトロに煮込んだような味わいは、まさに関西SFの粋そのもの。文章もしっかりしていて好感。著者は伝法大橋の袂で産湯を使ったコテコテの大阪人らしい(出典不詳)。宜なるかな。ラストを締めるに相応しい傑作でした!

 今年はプロパー作家がほとんどで、たっぷり堪能させていただいた。来年も是非この路線で。
 

Re: 眉村さんを囲む会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月14日(日)17時06分50秒
返信・引用
  > No.3174[元記事へ]

 高井さん

 いやそこを突かれるのは覚悟しておりました(^^;
 ともあれ、よろしくお願いします!
 

Re: 眉村さんを囲む会

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年 8月14日(日)13時44分8秒
返信・引用
  > No.3173[元記事へ]

> なお、高井信さんには、ずっと以前にオッケーを頂いていると認識しておりますm(__)m。
 かしこまりました。何なりと、お申しつけください。

 眉村さんは「SFマガジン」1961年10月号の「下級アイデアマン」で商業誌にデビューされました。私の感覚としては、今年がデビュー50周年なのですけれど、まあ、堅苦しい話は抜きにして。
 SFファンらしいお祝いをしましょう。
 

Re: 眉村さんを囲む会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月14日(日)10時59分13秒
返信・引用 編集済
   昨日は集合場所の旭屋書店に到着してびっくり。入り口に↓のような張り紙が。
 なんと店舗ビル老朽化による建替えのため今年12月をもって閉店とのこと。「平成27年春の竣工を予定しております」。
 平成27年て、4年後ではないですか。うーん。これって希望的観測みたいな予定ですな。要は今後の業績次第ということ
なのかな。人の流れが北へ移っている趨勢からして、いまの場所はいわば取り残された地区。その場所に建て替えるというのもなんか効果が薄いような。あるいは27年から曽根崎地区全体のリニューアル計画があるのか。それだったら頷けるのですが。ともあれ現状の客の入りをみれば早急に手を打つのは正解かも。
 私は、店が西梅田の木造(だったっけ。裏口を出て細い道を渡れば別館がありました)の建物からこのビルを建てて移ってきた42年前からの、最初からの客であり、うたた感慨を禁じえません。またどんな集まりであれ、この店が集合場所でありました。これからどこに集まろうか、それが気がかり(汗)。

 そんな感懐を抱いているうちに本日のメンバーが三々五々到着。一同うち揃って東通りの吉在門へ。幹事の柳生さんのおかげさまで個室も丁度よく、コース料理を美味しく戴きました。ここで自然発生的に、雫石さんも記されていますが、2年後の平成25年が、昭和38年(1963)年に処女作『燃える傾斜』を上梓されて、すなわち作家デビューされて50年目の区切りにあたることが話題となり、それでは50周年を祝う同人誌をつくってはどうかと云うことになり衆議一決したのでありました。あれは酒席の戯れ言でなどと責を逃れようとする者が無いよう、ここに明記する次第であります(>おい)。
 一応決まったのは編集長が岡本俊弥(元ネオヌル編集長)、実質的な製作担当が、ミステリ史上に燦然と輝く名著『江戸川乱歩リファレンスブック』三部作を完全独力で製作刊行した実績をかわれて中相作。さらに新作小説寄稿の確約を、異形コレクション等で活躍の西秋生、宇井亜綺夫(第一回幻想文学新人賞佳作)、所与志夫(第七回ハヤカワSFコンテスト第三席)、本板でお馴染みの雫石鉄也からいただきました。西さんには本業のプランニングの経験を生かしてもらうことになるでしょう。
 あ、チャチャヤン名物であったショートショートコンテストの復活を書き落としてはいけません。もちろん眉村先生に選考して頂き、A、A上、A上格、準A、準々Aと、次第に複雑に奇怪に細分化していったあの評価をして頂きます。
 私の担当は、眉村さんのエッセイの整理で、私自身は単行本未収録エッセイの整理でいいのかと思っていたら、なんかもっと凄いことをいわれて困惑しているところ。もちろんショートショートコーナーには私も応募するつもり(笑)。
 あと、連絡係が柳生さんで、今回欠席されたメンバーに連絡していただきご協力お願いする予定。可能ならば眉村さんと関係の深いプロの作家さんにも。なお、高井信さんには、ずっと以前にオッケーを頂いていると認識しておりますm(__)m。
 紙媒体のつもりですが、電子書籍ではという案もあり、その辺は全くの白紙。ともあれ、関係者の方々には(これから連絡させていただく方も含めて)よろしくお願い申し上げます。

 てなことを話題にし、最後には眉村さんとのツーショット写真タイムもあったりして、一次会はお開き。眉村さんはお帰りになりましたが、残ったメンバーで二次会。先日私が利用し、あまりの安さに計算間違いではなかったかとあとで困惑した、ニューサントリー5の上のアイリッシュパブに、怖いもの見たさでまた行ってみました。大変混んでいて(やはり外国人率高し)、6人掛けくらいの席に8名つめ込まれたのでしたが、会計が注文する都度支払いに変わっていた。誰かが言ってましたが、イギリスではよくある形式らしいですね。でも私は、あの時の計算間違いにこりて、この制度を導入したのではないかと密かに疑ってしまいました(笑)。で、私はハイボールと水割りを飲んだ。500円と600円で合計1100円。まあこんなものですが、別にアテは頼まなくていいみたいですし、さらにはテーブルチャージが取られないので、やはり二次会で使うのなら割安ですね。また利用しよう。
 あー楽しかったなあ(笑)

 

眉村さんを囲む会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月13日(土)23時59分11秒
返信・引用
   眉村先生を囲む会から帰還しました。いろいろ決まったことがあってご報告したいのですが、酔っ払っているので明日にさせて頂きます。

 創元新人賞受賞作品読了。100頁の中編はあと10頁。
 

「白鳥座61番星」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月13日(土)00時30分44秒
返信・引用 編集済
   承前、このクソ暑いさなか、クソ厚い100頁ものボリュームを、しかもどうやらかなり深刻な内容らしいのを読むなんて、わざわざストレスを溜めに行くようなもの、自虐にもほどがあります。ということで『結晶銀河』は一日お休みし、ひと月遅れではありますが、夕涼みがわりに七夕伝説をモチーフにした瀬川昌男『白鳥座61番星』(小峰書店85、元版61)を読みました。読了。いやー面白かった。ラストが駆け足になってしまっているのがちょっと気になりましたが(毎中新聞連載とのことで、あらかじめ枚数が決まっていたのかも)、しかし悠々と始まって次第にテンポよくなりラストは駆け抜けるというのも読み物小説のパターンですから、これはこれでよいのかも。あとはキミたち想像しなさい、というのもまた楽しからずや(^^;。
 小学校5、6年生で読んで以来なので、内容は全き霧の彼方に消え去っているのですが(但し読んでいるうちに少し思い出した。ラストのオチとか)、アルタイル(牽牛)、ヴェガ(織女)、白鳥座61番星(鵲橋)の位置関係、というより地球からの距離関係に無理があったという記憶がかすかに残っていて、それを確かめたいという欲求もあった。この点に関しては私の記憶が間違っていました。きっちりと計算され尽くした、むしろ諸天体間の距離(光年)が肝となった、パズル的にもよくできた宇宙ハードSFでした。いうならばタイムマシンではなく、ウラシマ効果で書かれた「夏への扉」といえなくもない。あんなに甘くない点では「夏への扉」よりわたし的には評価が上かも。
 巻末、著者自身によって、使用した天文学的ガジェットが解説されています(上記の時間的センス・オブ・ワンダーに就いては図示整理されているので少年読者はじっくり眺めてほしい)。これがよい。というかジュブナイル・ハードSFに於いては、解説と小説はセットではじめて一個の本になる、必須の要素なんですよね。私の天文学その他の知識の基礎は、小学生のとき図書館で読んだジュブナイルSFの解説で培われたといって過言ではありません。このようなSF小説の設定は、アインシュタイン物理学が覆されないかぎり絶対に古びません。本書の場合、ストーリー自体もごく一般的な、永遠の少年少女小説のパターンを踏襲していますから、これまた古びない。そういう意味で、本書は、今、出版されたとしても充分に通用するんじゃないでしょうか。永遠のスタンダードといえるのでは。
 夏の宵の蒸し暑さを、しばし忘れさせてくれる読書となりました(あ、湿疹も消えた。消滅の湿疹だ)。
 

8月は夏への扉

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月11日(木)22時12分32秒
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   暦上は秋になりましたが、現実はここ数日でようやく盛夏になったの感が強いですね。私も半袖から長袖に衣替えしました。書き間違いではありません。直射す日光が素肌に痛くなってきたのです。わたし的にはこれからが本格的な夏、晩夏10月まで消耗する日々が続くのであります。で、例年9月、10月に、体力が落ちて湿疹を発症するのですが、今年はなんと、昨日から湿疹が出始めた。つまりいざ消耗戦を目前に控えて、肝心要の免疫力が既に低下しつつあるということで、いやはや私は、今夏を乗りきれるのでしょうか。哀号。

 『結晶銀河』は、100頁近い「allo,toi,toi」をとばして「じきに、こけるよ」まで読みました。残りは上記と、これまた60頁あるSF短編賞受賞作の2編のみ。感想を順次書いていきたいのですが、書きだすに必要な気力が湧いてきません。つまりローギヤでの初速の駆動力が確保できない。そこを上手くやり過ごせれば、2速3速はなんとかなるんですけどね(読む分は大丈夫。本書もここまで全作品、最低でも二読しています)。
 

8月平均気温偏差

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月10日(水)22時30分10秒
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   今日も暑かったですね。今日は五十日で、私は丁度2時頃、堺から泉佐野に向かって、車で走っていたのですが、周知のように泉州の数本の幹線道路は、海岸線に沿って、おおむね北東から南西に向かっているんです。つまり午後、堺から泉佐野まで車を走らせるということは、太陽の直射日光を常に浴びている状態になるわけです。むろん車内はガンガンに冷房を効かせてはいるんですけど、太陽からの輻射熱で、シートも人間の体も冷房に関係なく熱を帯びてくるんですよね。これはやばいな、と思ったのですが、果たして途中から後頭部が鈍く痛み始めた。あわてて喫茶店に逃げ込んだのですが、生憎関電の通達に協力的な店だったのは選択ミスでした。結局いまだに頭に鈍い違和感があります。

 それにしても、35度とか36度というのは、われわれの若い頃にはなかった温度ではないでしょうか。せいぜい33度くらいだったような。そう思って少し検索してみたのですが、求める情報にぴったしのものはよう見つけませんでした。でもこういうのがあった。


(出典はここ

 個々の数字は分りませんが、大筋としては1970年代(丁度一瞬の寒冷化時期で温暖化と寒冷化に意見が二分されてましたね。根本順吉は寒冷化派でした)と比べて、最近は間違いなく気温は高くなっていますよね。甲子園も、我々の頃の球児たちより、今の球児たちのほうが過酷なコンディションでの戦いを強いられているということになるんでしょうね。

 ということで、今日は大事を取って早寝するのである。『結晶銀河』「光の栞」まで。
 

「ヒュペルボレオス極北神怪譚」(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 9日(火)22時40分40秒
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   <幻夢郷綺譚>の7篇を読みました。スミスには、ムーやレムリアやその他の異郷を扱った作品が、あることはあるのだが、それぞれごく僅かしかないそうで、ヒュペルボレオスやアトランティス(あるいはゾティークやアヴェロワーニュ)のようにはいかず、〈異郷〉という括りでそれらの佳作を集めたのが、この<幻夢郷綺譚>とのこと。

 「始原の都市」は、これはまたとんでもない方角の異郷でありました(^^;。私は理由もなく先入観で中央アジア、アフガニスタンとかパミール高原あたりかと目星を付けていたので、「インディオ」という言葉が出てきたとき、気づかねばならないのに、はて不思議な言いようだな、とは感じつつも、インド人のことかと勝手に解釈してしまったのでした。そのあとにラマが出てきて、これでようやく気づいた次第ですが、読後ページを戻って拾い読みしていたら、なんと2ページ目にコンドルが既に描写されているではないですか! うっかりにもほどがあると反省したのでした。内容は引き締まった異郷掌篇で、天空の城塞を護る雲生命体(?)に既視感があって、記憶を探ってみたら、ハミルトンの「風の子供」でした(^^;。こちらは中央アジアでしたよね。殆ど忘れてしまっていますが、生命体の描き方はまったく違うので、読み比べたら面白いのではないでしょうか。

 「月への供物」、主人公モーリイのモデルはヘイエルダールですね。というのは他でもなく、コンチキ号の冒険は1947年。本篇は53年初出で、当然スミスはこの出来事を知っているはず。むしろ誰よりも興味深く熱心にニュースを追っかけたにちがいない。あとヘイエルダールはノルウェー人ですが、本篇の船長はスウェーデン人(^^;。
 そんなどうでもよい推理はともかく、モーリイの一行が南太平洋マルケサス諸島でムーの遺跡を発見します。ところがその廃墟の毒気に当てられる(たぶん太陽神のライバルの神様なんでしょう)。あまりの悍しさに、急遽サンフランシスコへ帰ろうと衆議一決したのだったが……。これもいい(^^)。アンソロジー<南太平洋>には、定番のモームと共にぜひ収録してほしい傑作(笑)。

 「地図にない島」、これまたアンソロジーに採りたい話なのだが、この島が南太平洋にあると、必ずしもいえないのが、推すにはやや弱いかもですなあ(>おい)(^^;。この世界の時空ではなく、かといってムーの民(おそらく)の時空でもないんですよね。以上の2篇は<ムー>ものといえるが、ムーを直接扱ったものではない。そのような設定の作品は書いてないのかも。しかしスミスは、私見では極北ものよりも熱帯もの(就中海洋もの)の方がありありとしていて迫力がありますね。このようなのをもっと読みたいなあ。

 「歌う炎の都市」は、「土星への扉」や「スファノモエーへの旅」と同型の、「想像された異郷」へ旅立つ話なのだが、この手のは私にはいまいち。

 「マルネシアンでの一夜」は、『イルーニュの巨人』にも収録されていた本集中でも屈指の傑作幻想小説。足すものも引くものも、何も思い付きません。完璧な小説!

 「サダストル」は、これも「想像された異郷」としての<宇宙>の描写が、SF読み的には興ざめなのだが、異星のセイレーンのエピソードはとても素敵です。散文詩でしょう。

 「柳のある山水画」は、『イルーニュの巨人』にも『ウィアード(3)』にも収録されているように、乱歩「押絵と旅する男」あるいは露伴「観画談」にも匹敵する佳篇です。中国が舞台となっていて、ひょっとしたら「聊斎志異」あたりに元ネタがあるのかも知れませんが、アメリカ人のスミスにこれが書けたというのが凄いですね。

 ということで、クラーク・アシュトン・スミス『ヒュペルボレオス極北神怪譚』大瀧啓裕編訳(創元推理文庫11)の読み終わりとします。次回の大瀧スミスは『アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚』とのこと。今から楽しみ(^^)。

 

「ヒュペルボレオス極北神怪譚」(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 8日(月)21時15分40秒
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   暑かったですねえ。今日はさすがにへばってしまい、我慢できず冷たいのをひっきりなしに飲んだり食べたりしていたら、案の定、腹を壊してしまいました。子供やがな。
 案の定、とプロソディに乗っかってオートマチックに書いてしまいましたが、実は私胃腸がことのほか頑健で、子供の頃はどんなに暴飲暴食しても腹を壊したことなんかなかったのです。ですからかかる現象は、むしろ老化に伴う身体器官の劣化にこそ、その因を求めるべきなのです。子供やがな、ではなく、わしも衰えたなあ、というべきでした。哀号。

 「スファノモエーへの旅」と「アトランティスの美酒」を読みました。スファノモエーとはアトランティス語で金星のこと。既にアトランティスは国土の大半が海没し、いまや大陸の名残はポセイドニスという大きな島だけになっています。主人公の兄弟は当代に並ぶ者なき科学者。アトランティスの民は、兄弟が、少なくとも現在ある島を救おうと研究努力している救い主と考えていますが、実は二人は金星へ脱出する宇宙船を建造していたのでした(>おい)。努力は実って宇宙船は完成し、二人は誰にも見つからずひそかに金星に向かって出発するのですが……。これ、利己主義にはしるものを戒める話なのかなあ。よく判りません(^^;。
 後者は、アトランティスなどとっくに沈没し、神話となってしまっている近世、バカニーアとありますから17世紀でしょうか、カリブの海賊が秘密基地としている無人島で休養中のこと、大きな酒壺が浜に流れ着きます。それは古い壺でどう考えても古代ローマより古い。見たこともない奇妙な文字が彫り込まれた栓は固く封印されている。壺の中身は熟成し盡された芳醇極まる葡萄酒でした。海賊たちは酒盛りを始める。すると気づけば、海はなくなっており、そこに、不思議な町が出現していたのです。海賊たちはふらふらと町に向かって歩き出す。たったひとり、海賊のくせに清教徒の男(話者)のみ、積極的には飲まなかったため、幻覚があまり作用せず、町への誘引を振り切ることに成功し、救かる。
 実はこの話、件の男が、酒場の夜話に語ったという体裁。つまりトールテールというわけ。ですから形式上、どこまで本当かわからないということになるのです(^^;。いやこれは面白かった。余談ですが本篇、冒頭でカナリア諸島の甘口白葡萄酒に言及されているところから、著者はアトランティス大陸を、東はカナリア諸島から西はカリブ海に至るように想定していたのではないでしょうか。
 ということで、以上で<アトランティス篇>は終わり、次からは<夢幻郷綺譚>となります。
 

天晴れSFMのブレない方針

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 7日(日)23時08分37秒
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   日曜は、週に一度の休読日にしております。

 雫石鉄也さんの、昨日の眉村さん講演のレジメ→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703%2Fe%2Fc2d6d2e04641f8b2f850d6fe856ee077

 神戸文学館からの帰途、大体17時過ぎ頃だったでしょうか、梅田のA書店に立ち寄ってみました。これからが書き入れ時、一人の顧客も、一冊たりとも売り逃してはならじとばかり、1階集中レジは、全面開放で7~8名のレジ係がずらりと並び、とき今や遅しと待機していました。
 が。
 お客さんはゼロ。奥の雑誌売場でパラパラとSFMを見て、帰りかけたときも、やはりレジに人かげはなし。うち並ぶレジ係さんが、ぼんやりと、目もうつろに直立しておりました。
 うーむ。大丈夫かA書店。
 そういえば昨日は淀川べりで花火大会だったらしく、JR神戸線も大阪駅付近も浴衣姿の若者でごった返していましたから、そっちに人が流れたのかも知れないな、と一瞬考えたが、と同時に、しかし花火見物を好む層と書店に出かける層はそんなに重ならないのではないかと思い直したり。先日も書きましたが、私は今のビルを建てて移る以前の、郵便局の筋向いに店が在った頃からの利用者で、梅田辺で書籍を購入する際は、たぶんその90%をA書店で購入しているはずの、いわばA書店ファンと自称することに、いささかの躊躇も覚えないものであります。
 以上が私の杞憂であればよいと思います。

 というのは実はマクラで、以下が本論。SFMをめくっていて吃驚しました。なんと「ディレイニー再入門」という特集が組まれているではないか! で、つぶさに眺めてみれば、実質ダールグレン協賛企画なのでした。それは悪くないのですが、まず私が感じるのは、協賛プッシュするくらいの本であるならば、なぜ自社で出さなかったのか。そういう疑問なのでした。かれこれ30年近く、当該書が出るとか出ないとか、噂され続けてきましたが、出すのは早川書房であろうという一点に関しては、疑うものは誰もいなかったはずです。それを30年間引き伸ばし続けて、結局他社に持って行かれて、よくもまあ、平気な顔で協賛できるものであるなあと。実際私は情けないのですよ。SFMにはもはや矜持というものがないのかと。あの異常なほどのプライドの塊であった福島正実のSFMなら、他社企画を潰しこそすれ協賛など絶対に考えられません。
 で、とにかくパラパラとめくっていたのですが、あらら案外薄いじゃあーりませんか。収録小説も、ディレーニイを代表する傑作であることは間違いないにしても再録。未訳を訳出しているわけではないところで、すでにメッキが剥げてますな。つまり、とりあえず刊行に合わせたというだけの、いかにも付け焼刃でまとめた特集だったのです。歴然としてます。
 そうなのか。私も腑に落ちた。これはプッシュ企画でもなんでもなく、国書のダールグレン祭りのおこぼれを頂戴しようというコバンザメ商法以外の何ものでもない。そう気づいたわけです。で、それなら私にもよく分かるのです。最近のSFMの編集傾向のど真ん中を行く、まさにぶれない編集方針そのものではありませんか。
 ああ。SFMもハヤカワも、なーんも変わってなかったんだ~! 私は安心し、ほっと胸をなで下ろしたのでありました。

 

Re: 「星殺し」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 7日(日)11時52分45秒
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  > No.3164[元記事へ]

 通りががった奴さま

 アアーッ! 「地には平和を」でしたか。何をボケていたのか。ともあれご指摘感謝です。早速訂正致しましたm(__)m
 ところで、通りががった奴さまは、講演会終了後、眉村さんのご紹介でご挨拶させて頂いたご夫婦のご主人さまでいらっしゃいますよね。その節は大変失礼いたしました。脳の容量が小さく一つのことにかかずらっていると他のことに気が回らなくなるもので、あの場面は眉村さんへの伝言のことで頭がいっぱいでして、殆ど会話になりませんでした。申し訳ありませんでした。あーもうちょっとお話ししたかったなあ、(T先生とのご関係とか)お訊きしたかったなあと、あとでほぞを噛んでいたのでした。
 よろしかったら、このまま通りすぎていかれず(笑)またお気軽にお立ち寄り願えましたら嬉しいです。この度はありがとうございました(^^)。
 

「星殺し」

 投稿者:通りがかった奴  投稿日:2011年 8月 7日(日)10時01分18秒
返信・引用
  えー、突然すみません。管理人さん初めまして。
私も昨日眉村さんの講演会、拝聴しました。
眉村さんが、夜行列車で小松さんからサインを頂いた銀背は「地には平和を」
であります。
講演会前に少し眉村さんとお話しさせて頂き(その上厚かましくも為書き・
イラスト入りサインを2冊も頂戴いたしました)その優しく・暖かなお人柄に
感銘いたしました。その際、先の「地には平和を」も拝見させて頂きました。
妻とともに大変楽しく有意義な時間を過ごさせて頂きました。
 

小松左京展・眉村卓講演、聴いてきました

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 6日(土)22時02分17秒
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   神戸文学館小松左京展、眉村卓さんの講演を聴いてきました。
 予定では50名の定員のところ、文学館内のあらゆる椅子を掻き集めたんでしょうね、型もバラバラな椅子に、70~80名は座っておられたでしょうか。さらに立ち見の方が10名ほど。大盛況でありました。内容についてはどこかでしっかりした報告があるかも知れませんから、ここでは自粛いたします(^^;。
 小松左京展の展示自体につきましては、簡にして要を得た高井信さんのレポートをご覧下さい→「小松左京展」レポート 空想科学小説コンテスト
 空想科学小説コンテスト(第1回、第2回)については、今日の眉村さんの講演でもかなり詳しく言及がありました。第一回で一番評価の高かった方がなぜその後プロとして残ることが出来なかったのかとか。あと直木賞の呪いとか(笑)。

 今日は電車内読書のために『結晶銀河』を持参。先日ざっと読んでしまった冲方丁「メトセラとプラスチックと太陽の臓器」をじっくり読み直していました。うむ。これは傑作ですな。感想はまた後日にでも。
 ところで今読み中の『ヒュペルボレオス極北神怪譚』ではなく『結晶銀河』を持参したのには理由があって、それは眉村さんにサインを貰うためだったのですが、いつの間にやらすっかり失念してしまっていて、アッと思い出したときは既に帰路の電車の中でした。アホやがな。
 あ、それで今まさに思い出したのですが、講演の最中、眉村さんが、小松さんのサイン入り(眉村さんへの為書き入り)の銀背版『星殺し』(たぶん。確認を怠った。とにかくめちゃめちゃレアアイテム)『地には平和を』を、聴講者に回覧されたのですが、あれ、ちゃんと戻ってきたのでしょうか? 私、途中まではそれが気になって仕方がなかったのです。ところが、これまた講演が終了した時点では、完全に頭から抜け去ってしまっていたんですよねえ。あかんがな。ほとほと使えん奴であります(ーー;
 

眉村卓特別講演/「ヒュペルボレオス極北神怪譚」(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 5日(金)21時35分29秒
返信・引用 編集済
   いよいよ明日、神戸文学館小松左京展は眉村卓さんの特別講演当日であります。「SFを書きはじめた頃」の演題のもと、眉村さんが、一九六〇年前後、まだアマチュアだった小松さんや筒井さんらとの交流、そしてそれぞれデビューに至る頃の思い出話が聴けるはずだったんですが、なんということでしょう、小松さんが亡くなってしまいました。話される内容に若干の変更があるのは間違いないのではないでしょうか。これは聴き逃せません。14時からですので、聴講予約されている皆さんは、お時間お間違いなきよう! そういう私が、実は一番アブナイ状況なのですが、なに、万難を排して駆けつける所存であります。
 あ、これは内緒ですが、たぶん予約は満杯と思われますが、小松左京展の展示室内で、席を設けての講演会ですので、予約されてない方も立ち見を覚悟でしたらお話は聴くことができますヨ。もう無理かと勝手にあきらめずに、何はともあれ神戸文学館まで足をお運びいただければ、それはそれ、なんとかなるんじゃないでしょうか(笑)


 クラーク・アシュトン・スミスは「最後の呪文」「マリュグリス」「二重の影」を読みました。すでに<アトランティス>の物語に入っているのですが、ここまでのところ、国名であるポセイドニスや首都名のススランという名称は出てくるものの、具体的にアトランティスを感じさせる風景描写がありません。やや残念。
 さて前二者は、連作というか「最後の呪文」「マリュグリス」の前日譚。アトランティス王よりも力を持つ大魔術師マリュグリスが、死してなお現界に威力を及ぼします。その死せるを知ったライバル魔術師マナラピオンが、大魔術師の死を暴き取って代わろうと画策するも、逆に撃ち仆されてしまう。そのすべてが終わったとき、「最後の呪文」で、大魔術師のよき助言者SQ1であったこと、単なる「使い魔」ではなかったことが読者にはわかっている使い魔の鎖蛇が、大魔術師の懐からすべりでて、「大理石の階段を音もなくくだって、これを最後に塔を離れた」とあるのは、そもそも大魔術師は(ふつうに)死んでおり、それに乗じるライバルを見越した鎖蛇の、最後のご奉公だったのでしょうか。いやーよかった。
 「二重の影」では、ポセイドニス随一の賢者アウィクテスが、ひょんなきっかけで、数ある召喚の書にも記載のない(つまり鎮める呪文も分からない)、人類誕生以前の蛇人間よりもさらに古い“なにものか”を喚び出してしまうという、これはラヴクラフト的な話。

 ところで、本集巻頭の散文詩「ヒュペルボレオスのムーサ」が、"The Muse of Hyperborea"であることに、たったいま気づきました。ムーサはミューズであったか。そうと分かっておれば、もっと理解が簡単だったのに~。せめてムーサにミューズとルビを振ってくれていたらなあ(>おい)。

 

日本沈没と司政官の間、もしくは結晶銀河

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 5日(金)01時03分57秒
返信・引用 編集済
   ところで、制度とは、常に現実から遅れて成立する、現実はとどまることを知らず前進変化しており、制度が出来上がったときにはすでにそのような現実の前に、時代遅れになっている、そんなものではないでしょうか。<司政官>シリーズは、まさにそれを描いていて、歴代の司政官は、常に現実と、既にその現実からは何ほどか時代遅れになっている司政官制度とのギャップに、悩み苦しむのですよね。しかも時代を経るにつれその乖離はどんどん大きくなっていく。創元文庫『司政官全短編』は経時的に作品が並べられているのですが、そのラストが「限界のヤヌス」であるのは、まさに象徴的です(ありおりはべり的には限界のロンパリ)(^^;
 そこで昨日の文脈に立ち還るのですが、私の妄想する<日本沈没>第二部で、国土なき国家としてともかくも発足した<日本>は、当初こそ国民と現地国家の間に立って権益を守る機能を果たしたかも知れないが、移住直後の不安定な立場だった国民も、いつしかその国に馴染み、むしろ日本国籍であることを不便に思い厭い出す。日本国家は、国民の居住する国々に、行政官を駐在させているのですが、司政官同様、次第に現実と制度のギャップに苦しまされるのです。いったい日本国民である意義があるのか、既にニッポン国は一定の役割を終え、解散する潮時なのではないか、と。
 で、私の想像では、恐らく小松オリジナル第二部もそのような事態になっていくんじゃないでしょうか。どう考えても、遅かれ早かれ、そうなっていくしかないように思うのです。ただしそこに<宗教>を持ち込めば話は変わってくる。でもそんな話には小松作品は絶対にならないと思うんですよね。まあそのような立案をする官僚が現れて、でも結局失敗する(良心的勢力によって阻まれる)というサブストーリーは可能性がありそうですが。
 第二部と司政官の間の距離は、意外に近いんじゃないでしょうか。

 『結晶銀河』をパラパラめくっているうちに、気がついたら冲方丁「メトセラとプラスチックと太陽の臓器」を読んでしまってました(笑)。おお、これはフレデリック・ポール編集長が大喜びしそうな話ですなあ(^^;
 

「ヒュペルボレオス極北神怪譚」(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 4日(木)21時16分50秒
返信・引用 編集済
   「氷の魔物」「サタムプラ・ゼイロスの話」「三十九の飾帯盗み」「ウッボ=サトゥラ」を読みました。

 「氷の魔物」『イルーニュの巨人』にも収録されていました。五十年前、迫り来る極地の氷に戦いを挑み遭難死したと伝えられる伝説の王一行の氷漬けの墓を発見した兄から、その位置を聞いた弟が、王の纏ったたぐい稀なる紅玉を手に入れんと、欲に目の眩んだ宝石商を引き込み、氷河の只中にある墓に向かって出立するという初期設定は、典型的なヒロイック・ファンタジーなのですが、話はそのようには展開せず(個人の活躍の物語とはならず)、ただただタブーを侵犯した者に超自然の鉄槌が下されるという神話の構造に忠実な物語となるのがスミスの特徴。いいですねえ。迫真の秀作。

 「サタムプラ・ゼイロスの話」「三十九の飾帯盗み」は、盗賊のサタムプラ・ゼイロスが話者となって語る奇怪な体験談。なのですが、経時順に並んでいるのだが、前者で右手を失ったはずのゼイロスが、後者ではそんな素振りも見せません。あるいはこれはトールテールなのかも。そういえば後者の、ゼイロスが、引き込んだ仲間にいっぱい食わされるゆくたては、これが酒場で語られたものだとすれば、大いに笑いを取ったと思われますなあ(笑)。

 「ウッボ=サトゥラ」は、珍しくわれわれのこの世界と繋がる話。骨董店で魅せられた不思議な水晶は、店主によればグリーンランドの氷河の下の中新世の地層から発見されたものとのこと。「エイボンの書」に通じた主人公のポール・トリガーディスは、グリーンランドがかつてのヒュペルボレオス大陸の北の半島ムー・トゥランであることから、水晶が魔術師ゾン・メッザマレクが所持していたものではないかとあたりをつける。言い値で買い、持ち帰ったトリガーディスが凝っと見据えていると……いつの間にかトリガーディスはゾン・メッザマレクと同期しており、ゾン・メッザマレク(トリガーディス)もまた水晶を凝視している。そしてトリガーディスなのかゾン・メッザマレクなのか判然としないまま、水晶に吸い込まれるように過去を遡っていき、即ち退化していき、クトゥルトの神々が飛来するよりも以前、あめつち未だわかれざる地球の始原の、形を持たない神ウッボ=サトゥラに至る。めくるめく逆回しの創世神話。

 いや~面白くなってきました! ところが、折角面白くなってきたというのに、なんと以上でヒュペルボレオスの物語はおしまいなんですよね。次からはアトランティス篇となります。
 

「ヒュペルボレオス極北神怪譚」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 3日(水)21時47分58秒
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   昨日の続きですが、国土なき国家というものが可能であろうと思われるのは、まず宗教国家でしょう。その意味でイスラエルは国土を得、それゆえに禍根を残したのですが、国土などなくても十分成立し得たに違いない。日本はどうでしょうか。日本沈没に即せば、全世界に散らばった「国民」を一つにまとめあげる、ユダヤ教のようなものがあるでしょうか。私は、この飽きやすい国民が、他国で暮らすようになって、アイデンティティを保持できるとは到底思えないんですよね。忽ちその国に同化してしまうんじゃないでしょうか。
 言語的には日本人と沖縄人はデンマーク人とスウェーデン人程度には違っていると聞いたことがあります。ヨーロッパだったら民族戦線みたいなのが地下活動していても不思議ではない。ところが国内異民族(マイノリティ)というべき沖縄民族がむしろ嬉々として同化されたがっているかのように見える。それはたぶん沖縄がすでにそれだけ日本の文化に包み込まれてしまった証拠なんでしょう。
 というのは、日本文化は、京大人文研的にはネバネバ文化ですが、そのネバネバは食文化にかぎらず文化そのものの特性なのかも知れない。この特性を持つ日本文化を受け入れた(押し付けられた)沖縄は、自身もネバネバ化し、オリジナルネバネバ文化に絡め取られてしまったのかも。
 ところで、この和を以って貴しとする文化特性は、逆にも働くはずなんです。もし日本人が、沖縄人のようなマイノリティ的状況に陥れば、ころっと多数派に包摂融合されてしまうんではないでしょうか。日本沈没で世界各地に散らばった日本人は、その和の精神で忽ちその国に同化してしまうというのが、私の考えです(^^;
 (*) 固有アイヌはもはや人口が少なくなりすぎてここで考察するにはちょっと不適切です。でも現実において国土なき国家を実現するとしたらアイヌ人かも。

 これはまあ、畢竟私の日本人観というべきで、まぎゃくの日本人観を持つ人は当然想定さるべきです。結局、作家の日本人観がここで問われることになる。小松左京がいかなる日本人観を以って小説世界を構築するのか、するつもりだったのか、見届けたかったですねえ(そういう意味に限っていえば、現在ある第二部はまったく不十分なものです)。

 さて今日は、「土星への扉」と「皓白の巫女」を読みました。前者は30頁には満たないとはいえ28頁あって、やはり冗長。珍しくコミカルな話なんですが、その意味ではダンセイニの域には達し得ていません。後者は、スミス節冴えわたる官能嫋々たる幻想怪談。
 

「ヒュペルボレオス極北神怪譚」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 2日(火)22時01分19秒
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   オロモルフ先生の瀬川昌男さん話。高千穂遙さんへのレス→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2F8227.teacup.com%2Fysknsp%2Fbbs%2F11436

 さて今日は「アタムマウスの遺書」、「白蛆の襲来」を読みました。前者は『イルーニュの巨人』(井辻朱美訳)にも収録されていましたし、何で読んだのかちょっと思い出せないのですが、大瀧啓裕の別訳でも読んだことがある。今回が三度目。何度も採録されるだけのことはある、何度読んでも面白い小説ですが【註】、ややラブクラフト寄り。後者は、これぞCAスミスワールドというべき! 彫琢された美文に酔いしれずにはいられません。このような文章を読むと、むしょうに書き写したくなるのですが、スミスの場合、それをやると全文書写さなければならなくなってしまいます(^^;。
 【註】この作品集には他にも既読があるはずですが、神話的なスタイルが多いスミス作品にあって、本篇は(エンターテインメント小説的に)ストーリーがくっきりしているので、あんまりストーリーを覚えられない私でも既読と気づくわけです。

 高井信さんのブログに、「宇宙人ピピ」と「明日泥棒」の映像がリンクされています→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fshort-short.blog.so-net.ne.jp%2F2011-08-02 コメント欄で書くと迷惑になりそうなのでこっちに(^^;
 私は「宇宙人ピピ」の、詞はもはや覚えていませんが、テーマソングのメロディはしっかり脳に刻印されていて、いつでも鼻歌で再生可能です(笑)。今日聴いて、寸分も間違えて記憶していないことを確認し、ザマアミロと思ったことでした(>誰にやねん)。
 「明日泥棒」の小説も「ありおりはべり」以外は忘却の彼方ですが(>おい)、いま観て思ったのは、その立ち位置が、「日本沈没」でのそれとは(一見)懸隔していることでした。「明日泥棒」のアナーキーさは驚嘆しますね。あの高度成長の真っ只中でこのような作品を書いた見識と勇気はさすがです。と同時に連載が予定より早く終わらされたというのもむべなるかな。ここには戦後のゼロを体験した小松さんがいます。
 一方、「日本沈没」は、そんなアナーキーさが日本は維持されなければならないという立場に(一見)変わっているように見える。でもそれは「日本沈没」が、本来構想された作品の、実にプロローグでしかないからではないかと考え直しているところです。実は第2部で描かれるはずだったのは、「国土なき国家」という新概念だった。国土なしに国家というものは考えられませんし法的にもあり得ない形態でしょう。土地は秩序の根底的条件といえる。でも国土を引きずるから国家は国民までも「所有」してしまおうとするんじゃないでしょうか。その辺を再考してみようというのが、「日本沈没」に始まる全体小説「日本沈没」の意図だったのではないでしょうか。
 

「ヒュペルボレオス極北神怪譚」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月 1日(月)21時05分29秒
返信・引用
   昨日の投稿の補足。絞首刑がなぜ魂の飛散を防ぐのか、と疑問に思われた方がいると思います。でもそれ、科学的思惟にどっぷり浸かり過ぎですよ(^^;。たしかに意識は脳にあるわけですから、その意味では絞首刑は無意味です。でもこの文脈では、魂は「心」にあるとされているんですよね。これもまた、近代科学の唯物論で読むとよく判りませんよね。

 オロモルフ先生の瀬川昌男さん話→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2F8227.teacup.com%2Fysknsp%2Fbbs%2F11429
 うーむ。SFマガジンへの登場を妨げた作家って? あの福島正実が遠慮するっていうんですから、よほどの大物ですよね。荒正人……じゃないわなあ。

 『結晶銀河』購入。とりあえず「小説」以外の部分をざっと読む。プロパー作家が多いのは大歓迎。推薦作リストをみると、眉村さんは、「沈みゆく人」「板返し」「住んでいた号室」も候補だったのか。つまり採録された「じきに、こけるよ」も含めて、作品集『沈みゆく人』の全作品が候補だったんですね(^^)。
 この前も書きましたが、「じきに、こけるよ」はLPアルバムの中で(並びの中で)精彩を放つ作品。シングルカット向きなのは表題作なんです。でも170頁の中編であること、それから短編集の半分以上を占める作品を、他社ベストアンソロジーに収録するのは、いくらなんでも仁義に反すると考えたんでしょうね。仕方がないかも。
 個別作品を読むのはもうちょっとあとにします。その前に――

 順番待ちだったクラーク・アシュトン・スミス『ヒュペルボレオス極北神怪譚』に着手。本当は先週のうちに読み終わって、今週は『結晶銀河』という皮算用だったのですが、ラファティがあまりに面白かったので、予定が一周遅れになってしまいました。
 ということで、「ヒュペルボレオスのムーサ」「七つの呪い」「アウースル・ウトックアンの不運」を読んだ。一者は散文詩。二者は〈近代人〉で合理主義精神の持ち主の主人公が、そのために非道い目にあいます(^^;。ただちょっと長くてダレた。30頁以上もあるんですよね(ちなみに本集では最も長い作品)。最初のは純然たる散文詩でしたが、スミスの場合、小説も多かれ少なかれ広義の散文詩なので、30頁以上あるとだらりんとしてしまいますね。その点三者は長さも適当で程よく締まっており、よかった。スミスらしい皮肉がよく効いていました。
 


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