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ヘリコニア談話室ログ1109


 

「果しなき……」の中の「救助隊」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月30日(金)22時30分15秒

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 『果しなき流れの果に』、旭屋書店本店3Fのレシートが挟んでありました。日付は76年7月26日。購入時期がわかれば日記を参照できます。確認したところ、同年8月5日(木)に感想メモがありました。

 
『果しなき流れの果に』読了。まさに遠大な構想小説で圧倒された。時間-次元構造の説明部分は全く分からなかったが、すごい迫力があり、一日たらずで一気読了した。久しぶりのことだ。時間配列を無視した構成(必然的なものだけれど)が効いていて、よかった。それにしても何て複雑な話なんだろう! ご都合主義的な感もしないではないけれど。

 ということで220頁まで。実は上記の初読以来再読しておらず、記憶しているのはラストの爺さん婆さんだけなのでした。なので、「太陽系最後の日」がふまえられた展開にびっくり。いったん中断して『明日にとどく』を引っ張り出してきた(ちなみに本書には旭屋書店1F、70年3月3日付のレシートが。そういえば1F奥階段の左手の、一番目立たない壁面が、ハヤカワポケットのコーナーでしたねえ)。収録の「太陽系最後の日」を再読。うーむ。おそらく小松さんは、クラークが宇宙人の立場で記述していることに反感を持ったのではないか。で、同じシチュエーションを、地球人類の視点から再考したかったのではないでしょうか。

 



リメイク版「アイ・スパイ」看了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月29日(木)22時08分39秒

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 わ、『果しなき流れの果に』、プロローグをちょろっと読んでみるつもりが、気がついたら120頁まで読んでしまっていました〜!(汗)。
 あわてて中断して、 リメイク版「アイ・スパイ」を観る。オリジナル版のテレビドラマ(65〜、日本66)は、「スパイ専科70」のタイトルでも放送されましたね。あ、wikipediaを牽いたら、「スパイ専科70」は第2シーズンのタイトルだったようで(66〜、日本70)、としますと私は両シリーズとも見ているようです。もちろん内容は完全に忘却していますが、とても面白かった記憶があります。スパイものとしては「スパイ大作戦」(66〜、日本67)より1年早く、「0011ナポレオン・ソロ」(64〜、日本65)には1年遅れる放送で、さすがにナポレオン・ソロは私は殆ど見ていません(スパイ大作戦になると設定も覚えている)。いずれにしろ小学校5、6年生の話で、この頃は1年の差がとても大きかったということでしょう。

 さて本映画は、オリジナル版とはコンビの名前が逆になっています。オリジナル版では黒人のほうがアレクサンダー(アレックス)・スコットで、白人のほうがケリー・ロビンソンであったわけですが、リメイク版では、エディ・マーフィーがケリー・ロビンソンの名前になっています。内容は……マンガでした(^^;。エディ・マーフィーが出る映画は何でも同じような気がしますなあ。ま、90分飽きることはなかったので、パスタイムとすれば合格でしょうか。

 しかし、それにしても『果しなき流れの果に』、この段階で中断するのは中途半端だなあ。1週間も寝かせたら忘れてしまいそう。仕方がない、読みきってしまおう。まさに朝令暮改。いやいや、予定とは未定の謂なりですからこれでいいのです!

 



読書会の準備

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月28日(水)23時32分22秒

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 昨日の怠け過ぎで、今日は死ぬ思い。読書する能わず。
 畸人郷課題の『果しなき流れの果に』を、とりあえず引っ張り出してきました。昔の角川文庫はよい紙を使ってたんですね。つるつるでつやつや光っていて新刊文庫よりもむしろ白い(よく見たら釉薬みたいにコーティングされているような)。もちろん部分的に茶色いシミが付いてはいますが、読むに問題はありません。最悪買い直さねばならないかも、と心配していたので、ほっとひと安心。早速明日から着手しようと思わないでもなかったが、いやいや、読書会は10月第3土曜、あまり早く読んでも内容を忘れてしまいますからね。その前の連休あたりがよさそうか。

 



「隠蔽捜査」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月28日(水)02時35分45秒

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 下記の次第で、今日は仕事をする気にならず、仕方なく読書で時間潰ししていたら、読み終わってしまいました(笑)。ということで、今野敏『隠蔽捜査』(新潮文庫08、元版05)読了。

 日本作品でスクエアな主人公って誰だろう、と思い返していたら、『果断』の竜崎がすっと浮かんできたのでした。で、読んでみました。本書は『果断』に先立つ、シリーズ第一作にあたります。
 スクエアといっても本篇の竜崎は、スカダーとは全く異なるキャラクターです。東大卒で47歳、警察庁官房の総務課長というキャリアのなかでもエリート中のエリート。この男が一種のロボットみたいな、いやスポックみたいな性格で、理の通らないことは一切やらないし認めない。たとえば法令の中には現状から乖離してしまったものがある。それはもちろん改正されていかなくてはならない。しかしその法が有効である限りはそれに従うのは当然のことで、悪法だから従わなくてよいということを認めていては組織も社会も成り立たないと考える男なのです。ただそこには私利私欲というものはありません。ごく些細な(と一般的な官僚が考えるような)接待も、割り勘にしてしまう。その言動行為は「正論」そのもので、誰も反論できない。まさに官僚の鑑というべきなのですが、大多数の人間はそんな杓子定規なことを言っていてはと顔をしかめ、「変人」と噂するのです。
 その正論変人を(一般的にいってTPOを認めず正論を吐くのは変人ですよね)
「警察組織の中に置いたらどうなるか、を描いたのが本書なのである。この基本設定は素晴らしい」との北上次郎の解説は当を得ています。スカダーも「頑固者」ですが、法に対する態度はかなり違いますね。竜崎は悩みつつも結局息子を自首させてしまうが、スカダーだったら(内面の法に照らして)平気で握りつぶしてしまうでしょう。大体竜崎は、スカダーみたいに弱さをさらけ出すことはありません。その点は沢崎に近い。ただし沢崎に感じるリアリティは、竜崎にはない。それは竜崎があまりにもカリカチュアライズされすぎて、いわゆるキャラ化してしまっているからだと思われます。北上は本篇を「家族小説」としても評価しているのですが、私見ではこの「家族」もまた、理想化されすぎていてリアリティが抜け落ちてしまっている。評価できるものではありません。とはいえ本篇は、リアリティを放棄することで理念的な「変人」を、くっきりと存立せしめることに成功しているともいえ、上記の家族も、一面ではたしかに欠点なのですが、他面本篇の成立に手法上不可避な欠点でもあり、それを欠点といってしまうのは言い過ぎなのかも知れません。

 



「愚か者死すべし」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月27日(火)21時08分57秒

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 原ォ『愚か者死すべし』(ハヤカワ文庫07、元版04)読了。

 『八百万の死にざま』感想のラストで日本人作品について言及しましたが、ちょっと勢いで書いてしまった感なきにしもあらず。てことで確認を兼ね本書に着手。面白くてやめられず一気に一日で、正確には一晩で(4時までかけて)読んでしまいました。400頁を一日で読みきったのは久しぶり、というより、感覚的には30代以降では初めてではないか。いやまあテキトーですが(^^;。
 だいたい「久しぶり面白いのを読んだ」なんて表現がよく使われますが、その1か月前にも使っていたなんてことがままあるんですよね(笑)。「久しぶり」も「以降初めて」も、「白髪三千丈」の類と読み流していただければ幸甚(^^;。

 のっけから話が飛びました。結論からいって沢崎は、紛れもなくタフでなければ生きていけない「強い探偵」でした。ウジウジしたネクラな苦悩は、沢崎にはもっとも似合わないものですね。パッパッと決断し、間髪入れず行動する。ひきこもりとはまさに対蹠的な一種の「スーパーマン」として造形されている(その意味ではスカダーよりも、沢崎はずっとマーロウに近い。スカダーはやはり特異な探偵というべきですね)。
 しかも本篇は、第一期三部作から9年後に発表された新・沢崎シリーズ第一弾なのですが、私の記憶が確かならば、第一期と比べて、より行動力がアップしているようです。
 内容的にも、半村良の伝説シリーズかと見紛う、戦後の政界を牛耳ってきたとんでもない黒幕という設定があったりして、ストーリーの展開も非常に派手(奪われる金も七億七千万円!)。だいぶ印象が変わっていたのでした
(註)。ある意味リアリズム成分よりもファンタジー成分がまさってきているような……。そのような変化が、本作に(私が一気に読了させられたように)第一期に比較しても格段に高いリーダビリティをもたらした要因の一つであることは間違いないように思われます。(註)第一期三冊のうち、まだ二冊しか読んでいません、その限りでの印象です。

 という次第で第二弾が待望されるわけですが、2011年現在、まだ第ニ作は上板されていません。本篇刊行より既に7年が経過しています。もともと寡作な作家ですが、しかし本書のあとがきでは次のように高らかに宣言していたのですよね。
 
「短時間で書くための執筆方法と執筆能力の獲得に苦心を重ねておりました(……)短時間で書くことができたことは、本作につづく新シリーズの第二作、第三作の早期の刊行をもって証明するつもりです」とは、どの口が言うてるんや〜(笑)

 それにしても、やっぱり400頁の長篇を一晩で読破したら、あとでどっと疲れが出て、今日は仕事になりませんでした。もうこのような爆発的な読書は、しようと思えばできるが、あまりするべきではありませんな。


 

 



「八百万の死にざま」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月26日(月)21時16分37秒

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 「エメラルド・シティには八百万の物語がある。そして八百万の死にざまがある」(292p)

 
ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』田口俊樹訳(ハヤカワミステリ文庫88、原書82)読了。

 100頁残したあたりで切り上げるつもりが、やめられなくなり一気読了。面白かった。舞台は執筆時点におけるリアルタイムな80年代初頭のニューヨーク。タイトルの八百万はニューヨーク市の人口でしょう。この頃のニューヨーク市は、いわゆるジュリアーニ改革以前(市長在任期間1994年〜2001年)、治安がもっとも悪かった時期ですね。日本からの海外旅行者もニューヨークだけは避けていた頃。本篇でもスカダーは、タクシーの運転手にハーレムへ行ってくれと頼んで、2台続けて乗車拒否されています。本篇は500頁の長篇ですが、そのうちの100頁近くは、ストーリーとは直接には関わらない、かかる治安の悪さへの批判的な描写なんですね。ストーリーの合間合間に、ニューヨークの当時の「現状」談義が、スカダーと作中人物たちの会話によって挟まれます。そのあたりは、作者は表立って出てはこないけれども、一種のエッセイになっているといえなくもありません。当然ストーリー展開はゆるくなっています。これはそこそこ作品を上梓してきた人気作家が必ず陥る弊害ともいえるのですが(本書は著者18冊目の長編)、必ずしも欠点といえないのがこの作家の持ち味かも。つまりストーリーはたしかにゆるむのですが、その部分がある独特のムードを醸成していて、実は本篇の構成上欠かせない部分になっているのです。ストーリーテラーはみなそういう面があるのかも知れませんが。

 さて、上記から想像される著者は、ある意味保守的な人のようです(というか小市民)。その著者をニアリイコールで体現する主人公も、悪く言えばスクエア、よくいえば不器用。融通の効かない四角四面な性格に造形されています。本篇ラストで、犯人が探偵を襲ったときに使った変名がT.E.Starudoというのですが、「TESTARUDO」をエキサイト西語翻訳にかけたら「頑固者」でした(笑)。
 かくのごとく、この卑しい街で、探偵はきわめて誠実に不器用に、遵「法」精神に則って日々を生きています。
 ただしその「法」は、外在するフォーマルな、あるいはインフォーマルなそれと必ずしも一致するものではない。スカダーの内面にある「法」なのです。そのなかには信者でもないのに収入があれば必ず目についた教会(宗派はどこであろうと)に入って募金箱に自発的な十分の一税を納めることも含まれる。無宗教を装っていながら、実は縋るものを求めているのでしょう。そんな一種の心の弱さがある、というのはちょっと先走りました。とまれ「内なる法」が「外なる法」と相容れない場合があります。その場合は外なる法を犯しても、内なる法に従って行動するのです。もっともそれはハードボイルドの探偵に共通する生き方なんでしょうけど。このあたりは作者が正統ハードボイルドを強く継承しているところ。ハードボイルドは男のハーレクインロマンスだという悪口がありますが、まあそのとおりですね(^^;。

 自己を律する心が強いスカダーですが、ただ酒に就てはだけはなかなか自己を律することができません。本篇は、アル中探偵スカダーが、積年の悪癖が祟って救急病院に運ばれ、退院して禁酒を決意し、ちょうど禁酒をはじめて4日目あたりから物語がはじまるのですが、途中で禁酒に失敗、ふたたび病院に担ぎ込まれ、医師からもう次はないと脅される。
 スカダーがアルコールに溺れるようになったのは、ある不可抗力の事故で女の子を撃ち殺してしまい、そのPTSDによります。それが元で警官もやめてしまうのだが、次作『聖なる酒場の挽歌』(86)では
「その事故が私が警察をやめた理由のすべてだとは思わない。いえるのはそれがきっかけになったということだけである」(解説)と回想しています。

 つまりもともと警官には向かない性格だったのです。はっきりいって、根は「ひきこもり」なんです。「ひきこもりには向かない職業」の最たるものが、警官や探偵ではないでしょうか。警官を辞めて探偵になりましたが、向いてないことは警官時代と同じなので、一旦癖になったアルコールへの依存(原因は何であるにしろ)は強まりこそすれ弱まることはありえません。弱まるはずがない。この設定が、我らの探偵を独特の立ち位置に置かしめます。主人公は自らの気の小ささ、臆病さを隠しません。で、そういうマイナスの地点から、気力を振り絞って(ときには酒の勢いを借りて)捜査に突き進んでいく。そこに(とりわけアメリカの)読者は大いに共感するんでしょうね。翻ってヒーローに対してどこかくずれた(反・優等生な)部分がなければ納得しないのが日本人の読者(ひいては出版社)だと思うのですが、この探偵はその意味では日本では存在し得ない探偵といえる。優等生で小市民。凡庸すぎて辟易させられる読者もいるでしょう。ただしその優等生的な部分に自ら負けてしまいそうな心弱き(或いは心優しき)優等生でもあります。日本人作家には、書きたくても書けない探偵像ではないでしょうか。

 

 



久霧亜子

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月25日(日)12時41分13秒

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 中さんのブログに今度の乱歩賞受賞作家が紹介されていました。玖村(くむら)まゆみさんという方。最近回想モードの私は、クムラと訓ませるのをみて卒然とあることを思いだしたのでした。
 それはNW−SFで活躍した翻訳家の久霧亜子です。クムラで思い出したのだから、ヒサギリアコと訓むんじゃないことはいうまでもありませんよね。野暮を承知で明かせばクムアッコ(^^;。誰がこんなペンネームを考えたんや!? のちに誰だか知りました。へえ、と驚いたのですが、ペンネームの作り方がその人のペンネームの作り方と同型なので納得した記憶があります。と書けば、あ、あの人か、と気づいた方もおられるのでは。野暮の上塗りになるので種明かしは自重。分からない方は検索してね(^^;

 ところでクムアッコであることに気づいたのは私ではなく、西さんでした。
 「〇〇くん、〇〇くん」
 「なんですか」
 「この(とNW−SFを見せて)訳者名読めるか?」
 「ヒサギリアコでしょう」
 「ところが違うんや。これはなァ」
 と、大昔、ドヤ顔で教えてくださったのを鮮明に覚えております(>おい)。
 西さんはネオヌル常連の江藤瀬虎がエトセトラであること、風の翼=北西航路に作品だけ送ってきていた変寧夢がペンネームであること(私はヘンナユメと思っていた。むろんダブルイメージでしょう)を喝破した筆名解読の達人なのでありました(笑)。
[註]いま確認したら、私の記憶違いで、変寧夢氏は風の翼とは関係なく、チャチャヤンの常連でした。だとしたら眉村さんが最初の解読者だったことになるのか(当然発音しているはずだから)。嗚呼、歳月が記憶を気づかせずに捏造していくなあ(ーー;(チャチャヤンの投稿者はそういえば変なペンネームが多かったですね)。

 



リメイク版「プリズナーNo.6」看了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月25日(日)00時01分40秒

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 リメイク版「プリズナーNo.6」(全6話)見終わりました。これは傑作ではないでしょうか。オリジナル版とはぜんぜん別の話として自立していました。といってもオリジナル版の物語自体をもはや覚えていないので、これまた印象でしかないのですが(しかも最終回は時間帯が変更されたか放送日が変わったかで見ておらず、翌日、教室でラストをきいて愕然としたのでした)。作りは複雑錯綜しており、その点はオリジナルと同じかも。場面転換は痙攣的で全6話を見終わって、はじめてすべてのエピソードが連結します。この作りがすごい。だからといってクリアに了解できる話ではないのはいうまでもありません。何が近いかといえば、やはりヴォークトの筆法でしょう。これは観るべし。でもネットで検索しても、ほとんど感想文は引っかかってきませんね。それはおそらく、オリジナル版が伝説化→神化されてしまって、リメイク版というものが、先入観としてまがい物っぽく、冒涜的に感じてしまうからではないか(実際私もそうでした)。でもそういう理由で見逃してしまうのはあまりにも勿体ないと思います。この際、偏見はいったん棚上げして、オリジナル信者も、とりあえずだまされたと思ってぜひ観られることをお勧めします。期待を裏切らない、知られざる逸品といってよいと思います。

 『八百万の死にざま』は250頁まで。

 



リメイク版プリズナー

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月24日(土)00時29分0秒

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 高井さんのブログでTV版コナンシリーズがあるとの情報は得ていたのですが、ようやく今日、ツタヤに行ってきました。最近ヒロイック・ファンタジーに飢えているのです。普段は通りすぎるテレビシリーズのコーナーをチェックしてみたところ、残念ながら当地のツタヤには置いてなかった。そのかわり、プリズナーNo.6のテレビシリーズ版を発見。全三巻に6話収録(計4時間30分)。つい最近、2009年にアメリカで製作放送されたものらしい。ということで、こちらを借りてきて3話まで看了。まあオリジナルとはほぼ別物ですね。感想は全部見てからということで。

 400頁の長篇は難なく読めることがわかったので、今度は500頁の『八百万の死にざま』に挑戦。100頁まで。

 



「純愛小説」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月22日(木)22時10分38秒

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 篠田節子『純愛小説』(角川文庫11、元版07)

 本書には初出情報の記載がないのですが、収録の4篇は、解説によれば2004年から2006年にかけて発表されたものとのこと(掲載誌も判らない)。ちょうど片山恭一の例の小説が映画化・ドラマ化されたり、「冬のソナタ」がヒットして純愛ブームだったのだそうです。そんな時代背景に上梓された本集のタイトルは、付けも付けたり「純愛小説」! 作者よあんたはオールディスか(笑)。
 解説者は書きます。
「『純愛小説』というタイトルに鼻白んでしまう人こそ、本書に選ばれた読者です。小説に限らず、「せつない」「泣ける」というキーワードで売り出される恋愛モノが好きになれない人も」
 ハイ、それは私です(^^;。ということで堪能しました。でも当然ですが、オールディスのようなドライな作風ではなかった。

 表題に選ばれた
「純愛小説」は、最初に純愛小説シリーズを立ち上げてブームのさきがけとなった女性編集者が主人公。本篇によれば、このような小説の愛読者は、小説(虚構)世界の、たとえそれが外形的には不倫であろうとも男女の一途な純愛に、想像的に自分自身を重ね、しかし現実には婚外恋愛などもってのほかと考える保守的な女性なのだそうです。でもそのような女性が、現実世界において自分の夫が、「外形的には不倫である一途な恋」をしている男女の片割れであることに気づいたら……。まさにオールディス的な筋立てですが、オールディスのように冷笑では終わらない。そこからもうひとひねりした「純愛」が立ち現れてくる。

 
「鞍馬」は、ある事件を当事者の姉妹二人の視点から挟みつけるように真相に迫っていく、一種芥川的な心理小説であり、且つ騙されていると判って尚、その「偽」恋愛に満ち足りて死んでいく老女の「純愛」を活写した「せつない」話。

 
「知恵熱」 大学生の息子が「一人暮し」をしたいと言って出て行った。その二か月後父親が息子のアパートに立ち寄ってみると……。個人的にはギクリとする話で面白かった。ラストも決まっていました。そんなに重くない間奏曲的作品。

 
「蜂蜜色の女神」は、途中から半村良風に展開していくのではないかと予想していたのですが、そうはならなかった。となると、それまでの伏線的な記述はなんだったのか。男の異常な性欲の亢進の原因が明らかにならない。その意味でSF的には不全感が残るのですが、枚数の関係で膨らませられないのでこのような方向に落としたのかな。だからSFではありません。でも個人的にはこの結末でよかった。

 ということで一日で読了。篠田節子、オールマイティにうまいですねえ(^^)。

 



「カンガルー・ノート」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月21日(水)21時42分37秒

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 安部公房『カンガルー・ノート』(新潮文庫94、元版91)

 1993年に69歳で亡くなった著者の最後の(完成した)長篇。実は未完と勘違いしていました
*)。未完なのは『飛ぶ男』という長篇で、没後フロッピーから発見され、94年に上梓されたようです(未読)。ただ、この刊行された「飛ぶ男」には、安部真知の手が入っていたことが判明し、文庫化はなされなかったとのこと(wikipedia)。余談ですが、初期にはカフカの直系的に受け止められていた著者が、遺作でマックス・ブロートとカフカみたいなことになっているのは、なんか因縁めいていますね(^^;。

 面白かったです。ただし全盛期(砂の女〜密会)の緻密さは、本作にはない。ある意味初期に戻ったかのような軽さ(というか現実離れの優越した緩さ)があるのですが、それは表層で、著者が亡くなったことではじめて、本作は真に読者に読解され得たんじゃないでしょうか。解説でドナルド・キーンが書いているように、本篇の
「小説のテーマは死」だったのでした。しかしキーンさんは著者の友人でしたから「安部さんの健康を心配して」いた、つまりその「業病」であることを「知って」いたんでしょうけど、一般読者は、大体著者が「闘病」していたことすら知らなかった人が大部分でしょう。そのような著者の私生活を知っていて、それを前提としてこそ、本篇は読解できるのです(一般読者は著者が亡くなって初めてその前提に達し得る)。
 すなわち本篇は解説のとおりで、
「私小説」だったわけです。そう理解してはじめて、入院したベッドに乗って幻想的世界を彷徨するという突拍子もないストーリーが納得できるのです。たぶん著者は本篇執筆時、入退院を繰り返していたのだと思います。たとえばナースにどのようにして好かれるべきであるかとかいった記述は、体験からしか出てこない類のそれではないでしょうか。

 ともあれ、主人公は膝からカイワレがわさわさ生えてくるという奇病で緊急入院した病院から、ベッドに乗って冒険に飛び出します。カイワレが生えるだけですから冒険するになんの身体的障害はない。ここが現実の著者とは異なる点で(もとより私小説ですから主人公は著者の分身)、主人公(著者自身)を冒険に旅出たせるために、件の奇病(入院するけど健康)が発明されたに違いない。一見突拍子もない「なぜにベッドなのか?」は、著者の当時の状況を知ってこそ納得できる設定といえる。またこの設定には、ベッドに縛り付けられて鬱屈していた著者の(脱出)願望が、当然読み取れるわけです。

 このようにして主人公は、自走するベッドに乗って道路を走り、地下の川を下り、三途の川の賽の河原(全国に数あるそれのひとつ)にたどり着き(ここにも死のイメージが!)、安住の地を見つけかけるも大水で流され、死んだ母親と出会い、最初の病院をやめて久しいナースに拾われ(時間線の混乱)、別の病院に入院し、入院者の一人の老人の安楽死(!)に加担し、病院を抜け出し廃駅でナースの分身に出会い、最後は「箱男」にされ、翌朝(?)廃駅で死体が発見されたという新聞記事の抜粋で終わるのですが、これらのストーリーをタテに構成するエピソード(群)は繋がっているようで、その繋がりはしかし因果的に緊密なものではありません(おそらくそれらは、著者の病室で見た夢が繋ぎあわされたものであるに違いない。著者が夢を創作の核にしていたのは周知の事実)。むしろそのありようは、マッチ売りの少女が暖を取るために擦ったマッチの炎の、その擦るたびに炎の中に浮かび上がった幻影と似ているようです。マッチ売りの小女がクリスマスの翌朝、町の人々にその屍を発見されたように、同様に本篇の主人公も廃駅の構内でその屍を発見されたわけです。
 ただマッチ売りの少女は寒さで死ぬのですが、元来本篇の主人公に死に至らねばならない内的理由はありません。理由は著者の方にある。本篇は著者の病院(病気)からの脱出願望に形を与えたものであり、その冒険譚にふさわしい本来健康な主人公が、著者の分身として措定され、世界(実は著者が見た夢)の冒険に旅立ち、最終的に不条理な死を迎えるわけですが、それは結局、著者からすれば条理の結末だったといえる。

 キーンは、だから私小説と言ったのですが、同時に
「言うまでもなく、自然主義者が書いたような私小説ではない。安部さんは私小説を毛嫌いしていた。しかし、『カンガルー・ノート』は文字どおりの私(傍点あり)小説である」とも書いています。私小説ではない私(傍点あり)小説とは、それは「どんな」私小説であるのか。と書けば、ただちにピンときますね(笑) そうです。それはまさに眉村さんが唱道され、実践もされた「私ファンタジー」の意味なんですよね。

 
*)著者に興味が失せたというわけではありません。当時の私は仕事に追いまくられていて、読了冊数が91年=36冊、92年=21冊、93年=18冊、94年に至ってはなんと2冊という次第で、読書などという精神的余裕が全くない時代だったという単純な理由なんです。又この時期は丁度SF冬の時代であるわけですが、70年代にSFを膨張させた我々世代(いわばSF団塊世代)が、一挙に仕事に呑み込まれていったのがこの頃に当たるわけで、SF冬の時代到来を少なからず後押したのは間違いないところでしょう。

 



「カンガルー・ノート」に着手。

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月20日(火)23時22分43秒

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 せっかく引っ張り出してきた日記帳なので、ぱらぱら見ていたのですが、この年(76年)の夏休みは(もはやぜんぜん記憶から消え去っていましたが)もう、これが自分なのかと信じられないほどのバイタリティで遊びまくっていたようです。
 ――その狂熱の季節(河野典生)は、すでに夏休み前日の6月30日から始まっていたのでした。まず4限終了後、ルナホールの軽音部のコンサートに、ゼミの友人が出演するというので、仲間8人と行く。帰りは手分けして女子を送って帰り、深夜、別の友人Iと大学近所のローソンに。棚卸しのバイトで、明朝6時まで。時給450円x6時間=2700円。
 7月1日。夜、友人Iと同じ下宿のSと三人で、「ぽんた」(飲み屋らしいが店を思い出せない)へ。二人とも金なくおれが払う。1750円。
 7月2日。帰宅。
 7月3日。「人間の手がまだ触れない」読了。
 7月4日。アメリカ独立200年の日でバイキングが着陸するはずだったが、延期。
 7月5日。学相へ行き短期バイトみつけてくる。
 7月6日。「限りなく透明に近いブルー」読了。偶然にもその日芥川賞受賞。
 7月9日〜11日。ダイエーで店頭販売のバイト。

 7月12日。テレビで「標的ナンバー10」。
 7月13日。バイトの給料を貰いに行く。含交通費で9900円。帰途ムゲン。マッコイタイナー「アトランティス」がよかった。
 7月16日。「司政官」読了。
 7月17日〜18日。「ゲームの戦士」「放浪者たち」「グジャグジャSFはこうして創られる」「神聖試験」「奇妙な戦争」「海龍伝説」「とりて喰えこれは我が肉體なり」を読む。大相撲夏場所、輪島優勝。

 7月23日。「ある微笑」読了。
 7月24日。伊勢へ。Nと合流。ねむジャズイン。
 7月25日。朝帰宅。夕方、「銀座会」於、眉村さん宅。
 7月26日。大学。
 7月27日。高校のバド部合宿に行って先輩ヅラ。合宿所に泊まる。
 7月28日。昼から帰って家庭教師のバイト。
 7月29日。「虹は消えた」読了。
 7月30日。バド合宿。泊まる。
 7月31日。合宿最終日。解散後、第一生命ビルのビヤガーデン。

 8月1日。大学SF研合宿の特急指定券買うため、天王寺で徹夜。
 8月3日。家庭教師。
 8月7日。高校の同窓会。於、三麗PM6時(店を全く思い出せない)二次会サテン。三次会かっぱ横丁上のパブ。Oとオールナイト映画館で仮眠。
 8月8日(日)。5時に追い出されて北市民教養ルーム(銀座会の副会の会場)隣の小学校(現在廃校)で守衛のバイトをしているNの所へ行く。昨日の流れ組が麻雀をしてやがった。合流し、8時に帰途。
 8月9日〜8月11日。SF研合宿。於、能登島。
 8月12日。「狐狸庵VSマンボウ」読了。
 8月15日。バド部26期集まり、梅田ブラブラする。
 8月17日。O、A、と車で琵琶湖行き決定。女の子誘うもフラれる。
 8月19日。近江舞子で海水浴。
 8月21日。同窓会のときのキープの残りを飲みに、おれ他5名で行く。(かっぱ横丁の上階のことか)
 8月27日。「櫛の火」読了。
 8月29日。「さよなら快傑黒頭巾」読了。3度目か4度目。
 8月31日。家庭教師最終日。締めて5000円。

 9月1日。下宿へ行き布団干す。日本のチベット愛知県北設楽郡豊根村に帰郷していたIがもう戻っていた。
 9月2日。Aが来訪。二色の浜でちょっと日光浴。天王寺へ出てすこし飲む。
 9月4日。定例会。於、北市民教養ルーム。
 9月9日。下宿へ戻る。
 9月10日。毛沢東逝去。劇団四季「エクウス」見に行く。於、サンケイホール。おれ他2名。会場で、現**市市会議員様のOが(全く未知の)BFを連れて見にきていたのにでくわしたのであった。
 9月13日。後期はじまる――。

 いやー今から見れば信じられないバイタリティ。あの時代の10分の1でいいからその元気、分けてほしいとまじ思いますねえ。

 『カンガルー・ノート』に着手。200頁中、100頁。
 

 



過去日記発掘

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月19日(月)22時51分8秒

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 『虚構の大地』の初読時の感想をようやく発掘。76年4月12日(月)に読了していました。やはり2か月以内でしたね。

 
「『虚構の大地』読了す。映画にすればピッタリの未来社会ディストピアで面白かった。オールディスの場合、つねに主人公はアンチヒーローで欠点だらけで、ふつうのSFのように主人公を肯定的に読むことはタブーだが、今度のノール・ノーランドの、意識の変化で大統領暗殺に至るところのそれも、そうなのだろうか? もうちょっと考えてみる必要がありそうだ。意識の流れ的手法を使っていて、これも映画的といえなくもない」

 おや、意外に読めてるではありませんか。えらいえらい(>おい)。いやまあ35年前の自分なんて、はっきりいって他人ですから(^^;

 あ、この日の二日前、4月10日(土)の日記には、
「新聞を見ると、福島正実の訃報である。47才」との記述が!

 わ、5月2日(日)に、
「<波>連載の「聖」読了」とある。読んでいたのか。しかもあの話、波連載だったのか*)。全然憶えていませんでした。この歳になると、こういうことが実はいっぱい起こっているんでしょうなあ。哀号。

 この二日間は、休日のため読書はできず。そのかわりコンピュータの空き領域が40パーセントになっていたので、不要なデータを消したりCDRに移したりしていました。焼け石に水。ぜんぜん減りません。この1か月位で急に50パーセントが40パーセントになってしまった。新しいソフトやプログラムを入れたことはないんですが。そういえばマカフィーがインストールしたから再起動しろとの表示が出て従いましたが、それが原因かしらん。そんなのたかが知れてますよね。うーん。

*)追記。下の方に感想があった。「今月号の波インタビューを併せて考えると興味深い。古井のいう"集合"とは一体どんなものなのだろうか。我々が使う"文化"とさほど違う概念ではないように思うのだが……。この作品は明らかにSFの対極に位置している」。波のインタビュー自体が手元にないので、何に悩んでいるのかさっぱり判りません(^^;。

 



「精神科医が狂気をつくる」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月18日(日)23時25分34秒

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 今日の相撲中継は浅香山親方だったのだが、7連敗中の阿覧が立会い変化したことについて、アナウンサーが大所高所的な硬直した批判をさも当然のようにし、同じくさも当然のように「ですよね」と親方に同意を強いたのに対して、浅香山が次負ければ負け越しなのだから必死なんです、とかばったのは流石と思いました。いまはまだ半分現役みたいな気持ちであるから言えたのかも知れませんが、最近の舞の海が、現役だったことなど全く忘れてしまったような発言を繰り返すなか、浅香山ならその気持ちを忘れず持ち続けるのではないかとの期待を抱かされましたね。
 というか、阿覧の取り口の傾向と7連敗中ということを勘案すれば、立合いの変化はかなりの確率で予想されるもので、隠岐の海は当然それを頭に入れておかねばいけませんよね。そういう心の準備ができていたかどうかを、放送室では問題にすべきだったのでは。テレビ桟敷としては、観念論はいいから実技論を解説してほしいんですよね。

 使っているキイボードが、使い出して5年以上経ち、さすがに文字が擦れて一部消えたキイも散見されてきました。どの文字が消えかかっているかというと、これが面白い。「O」「K」「U」「A」「N」の5文字なのです。なんと私の苗字のアルファベット5文字のうちの4文字が、そのなかに含まれている。やはり名前を打鍵する回数が多いということなのかな。あと「N」は、「ん」を打つとき2回打鍵するからでしょうね。
 あ、でも名前だとすると、「M」だけ全然擦れていないのが理屈に合いませんね。

 就眠時にすこしずつ読んでいた
岩波明『精神科医が狂気をつくる 臨床現場からの緊急警告(新潮社 11)を読了。

 



「虚構の大地」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月17日(土)22時05分12秒

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 ブライアン・W・オールディス『虚構の大地』山田和子訳(ハヤカワSFシリーズ 72、原書 65)読了。

 先回書いたように76年2月購入で、当時のパターンからしておそらく数か月以内に読み終えているはずなのですが、今回、まったく初読同然で読了(^^;。
 いやあ読み返してよかった。これは35年前の私には到底歯が立たなかったと思われます。それは単純に現実的な回想と幻視の回想が意識の流れ的に時系列を無視して思い出されるからで、それだけでたぶん混乱してしまったはずです(実は今回はそれが面白かった)。その意味では叙述は錯綜していますが、再読していれば当時でも問題なく読めたんじゃないかな。なにぶんそういう習慣をまだ持っていなかったのでした。

 先回この著者は、創作意図(テーマ)に関してはものすごく分かりやすいと書きました。そのとき挙げた例のようなグランドテーマというようなものは本篇にはなさそうです。ただ黒人と白人の逆転、アフリカと西欧の逆転、とりわけイギリスは小国に転落し消滅してしまう(たぶん)といったお得意のピーアイマン的ひっくり返しは健在です。そして途中で気づいたのですが、主人公ノール・ノーランド(knowle Noland)の行動パターン(の描写)には、ジョン・カーター(のバローズの描写)がパロられていますね(作中のジュスティーヌはデジャー・ソリス)。だから主人公の行動があまりにも「ご都合主義的」(解説)と感じられるとしたら、その何割かは主人公の内にジョン・カーターがいるからでしょう(笑)。

 原題の「アースワークス」(earthworks)は作中の詩のなかに「バースワークス」(たぶんbirthworks)と対比的に出てくるもので、地の産出力の意味だと思います。この世界では地球人口は2400億に達しており、2400億を養うため、ファーマーたち(農民ではなく農業資本家)は文字どおり地に鞭打って(具体的には地をクスリ漬けにして)生産物を搾り取っている。そこではかつての農民ではなく、ランドマンと呼ばれる、都市で犯罪を犯した者が強制収容所的に送り込まれ働かされている。過酷なランドマンから逃散し、トラベラーと呼ばれる小グループを形成し、官憲を逃れて移動生活をしている者もいる。

 主人公も農村に送り込まれて来た者なのだが、むしろ都市にいた時よりも安定している生活に(比較的に)満足してしまう、その程度の人間。トラベラーになるなんて馬鹿らしいと思っている。それがひょんなことで、自発的にではなく行きがかかリ上仕方なくトラベラーと生活することになるのだが、グループごと官憲に捕縛される。リーダーを売って自分だけ助かる(本当なら脱獄の罪で死刑。この時代、食料を消費する生きた人間よりも農地に必須なリンを出す死体のほうが価値がある)。自分が属していたファーマーの温情で(というかリーダーが賞金首だったからかも)、ファーマーが農地で使う砂(それにクスリをぶち込んで農地の表土にする。つまり表土はあまりの搾取に頻繁に取り替えなくてはならないのですが、既にイギリスの表土はすべて使い盡されている)をアフリカから買い、農地に運んでくる自前の船の船員にしてくれる。その船にのって20年、主人公ノールはその船の船長になっている……
 というのが発端の場面で、上の説明はその後の展開の中ですこしずつ分かってくるわけです。

 かくのごとく、この時代の人間には珍しく字が読める主人公だが(それで自分自身を買い被っている面がある)、視野は明盲同然、教養のない「平民」そのもので、保身のためにはリーダーも売ってしまうあたりは「平民」以下。その弱さ故に自己のドッペルゲンゲルを怖れ、幼児期の栄養不足で頻繁に喪神して幻視してしまう。そんな人間を主人公に据えるわけですから、エンタテインメント小説にはなりようがありません。読んでいて苛々してきます。それが輻輳し断片化したストーリーを行動するのですから、上記のように一見ではなかなか掴み難いわけです。

 結局主人公は、(啓発され目を見開かされ信念に共鳴したからではなく)ただジュスティーヌの懇願で狙撃者となるところで話は終わる(こうして回想記を書いているのですから成功したのでしょう)。なおジュスティーヌらの党派は、世界を統合しうる有能な指導者を暗殺することで世界をふたたび分裂させ、内乱を誘発し、最終戦争に至らしめて一挙に世界体制を滅びさせようとするアナーキストグループです(体制は維持しつつ改良していこうとするメンシェビキでない点は私の好み)。そして性交をやめると誓った者たちなのです。上記のバースワークスに対応するもので、すでにアースワークスは限度を遙かに超えているのであり、残るはバースワークスの否定でしか地球を回復できないという立場のようです。というか一気に一切合切滅びようという党派なのです。いわば半村良描くところの日蓮宗不受不施派のイギリス版(^^;。で、ジュスティーヌは希望をトラベラーに託しているようなのですが、この辺はかなりむちゃくちゃですね。

 本書は65年の発表ですが、人間がいっぱい的世界像は当時盛んに書かれたテーマながら、エコロジー的な視点が盛り込まれているのはずいぶん先見的だと思います。主人公が栄養失調による脳障害(?)で幻視するのは、バラードが『沈んだ世界』を発表した直後で対抗したのでしょうか(舞台もアフリカですし)(笑)。さすがオールディス、面白かったです。

 追記。あれ、アフリカは結晶世界だっけ?(汗)

 



「虚構の大地」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月16日(金)22時50分55秒

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 白内障の手術をして、水晶体を人工のそれに取り替えた人が、「ああ、昔はこんな(鮮やかな)色だったなあ」と感じたそうです。白内障が進行していく過程で、脳が認識する視覚世界は少しずつくすんでいっているのですが、進行がゆっくり連続的なのでその変化を意識できないのです。ところが手術によって正しい(?)色が(劇的に)戻った。すると昨日まではごくふつうだと感じていた(ぜんぜん違和感のなかった)色が、本当の色からは何程か劣化した色だったと、卒然と理解するのです。いや思い出すのです。
 ことほどさように、歳を取ると感覚器官が知らず劣化していくわけで、絵画を見ても音楽を聞いても、十代のときのようにはヴィヴィッドに感じられないのは、それが大きく作用しているのではないでしょうか。ただ十代に見た絵や聞いた音楽をいま聞く場合は、脳で記憶が補正するので、十代に近い見え方や聞こえ方をしているようです。でもこの歳で初めて見た絵や聞いた音楽の場合は、正味、今の感覚器官でしか受容できないから、「いまひとつやなあ」という感想になるのかも。最近の音楽がつまらないと感じたら、まず自分の五感の劣化を疑ってみることも必要なのかも知れません。
 味覚や嗅覚や触覚も同様です。今夏、老人の熱死が多かったとのことですが、これもやはり暑いとか渇いたという感覚が鈍ってしまったからのようです。
 ところが読書は、むろん視覚で行うのですが、視覚が感じるのは文字記号なんですよね。原則白地に黒で書かれた線の組み合わせに過ぎませんから、視覚の劣化にはあまり関係ないわけです。ですから歳を取ったからといって、若い時に比べて感動できなくなったということは、原理的にありえません。むしろ涙腺がゆるくなって若い頃より感動しやすくなっているかも。というのは冗談でもなんでもなく、馬齢を重ね社会的経験をより多く積んでからのほうが、若い頃よりも多面的な読解ができるので、同じ本を何十年か後に読み返した場合、若い時よりも深い読書が楽しめる道理。読書(小説)は年齢に関係なく、年齢相応に楽しめる、究極の芸術形態といえそうです。

 ということで『虚構の大地』は130頁。

 



夏の夜長はオールディス

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月15日(木)21時54分15秒

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 ちょっと言い過ぎかも。さすがに夜は秋めいてきましたね(でも湿気がすごくてエアコン回していますが)。
 ということで『虚構の大地』に着手。いちおう再読。元来オールディスは、創作意図(テーマ)に関してはものすごく分かりやすいんですよね。浄・不浄の逆転(「暗い光年」)、老・若の再考(「グレイベアド」)、生・死の逆転(「隠生代」)等々、われわれの、自明的であるがゆえに透明化した価値観(認識のアプリオリ)を可視化し、揺さぶりをかけてくるわけです。
 ところが本篇は、初読時にそのような作者の意図(テーマ)がさっぱりわからず途方にくれた。これはいずれ再読しなければならんな、と思っているうちにウン十年(購入した旭屋アベノアポロ店のレシートが挟まっていて、76年2月23日の日付)、いつのまにかそんなことを思ったことすらすっかり忘れていました。ところがなぜか昨日「エデン」を読んでいるとき、はたと上記のことを思い出したのでした。で引っ張り出してきた。
 170頁(約350枚)中55頁まで読みましたが、実にもってまったく覚えているシーンがない。我ながらあきれてしまいました。読了したのは確かながら、たぶん最初から最後まで理解できなかったんでしょうね。
 さて今回はどうなりますやら(笑)。

 追記。今気づいたが、訳者の山田和子(当時NW−SF編集長)は本書発行時(72年)、なんと21歳だったんですね!

 



引き離す

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月15日(木)00時01分44秒

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> No.3222[元記事へ]

 村田さん

 > お、追い抜かれてしまった……。
 近日中に『純愛小説』も読みますよ〜(笑)

 



Re: 「はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか」読了

 投稿者:村田耿介  投稿日:2011年 9月14日(水)23時54分44秒

返信・引用

 

 

> No.3221[元記事へ]

お、追い抜かれてしまった……。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fd.hatena.ne.jp%2Fchateaudif%2F

 



「はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月14日(水)22時03分33秒

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 篠田節子『はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか』(文藝春秋11)読了。

 著者の短編集は、まだ前作の『純愛小説』を未読なのですが(タイトルが買う気を阻喪させるのです。いやまあ内容はそのまぎゃくであることはわかっているのですが)、今回は、純愛ならぬ純SF小説集とのことなので、先に手をつけてみました。私は著者の短編が大好きなのです。
 なるほどこれは、全作品いまどき珍しい70年代日本SFの香り高いエンタテインメントSF短編集でした。最近、こういうタイプのSF短編集はゲットー界隈でもまず出ないので(凝りまくったのかラノベっぽいのかに二極分化)、読者としては嬉しいかぎり。
 その意味で凝りまくってないのは評価するのですが、プロパーSF作家ではないからか、設定の書き込みが(私の感覚では)甘く、作品内に「世界」と言い得るパースペクティブをきちんと確立できていないように感じられ、その点は些か不満が残った。初出誌は全作オール読物なので、媒体的にはこれで正しいんでしょうけど。

 
「深海のEEL」は、小説ではなくシチュエーションドラマ。アイデアはまことに素晴らしいのですが、ドタバタに流れた。いやドタバタでもいいのだけど、ドタバタにするならばするで、もっと弾け切らなければ。
 
「豚と人骨」も設定がやや安易。縄文時代末期に縄文文化が急速にすたれた原因を仮設しているのだが、もうちょっと客観的な記述(の体裁)がほしかった。官の動きがあまりにもマンガ的。むろん媒体的にはこれでいいんでしょう。
 
「はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか」は、ロボットテーマ。本集の中では一番出来が悪い。というのは、主人公の頭が悪すぎるからで(B級ホラー映画のヒロインがわざわざ危険に陥りに行くように行動する、あの感じ)、この話はその頭の悪さを契機に成立している。ただラストでの主人公の心の動きがまさに「物語的」にロボットを擬人化して理解するもので、そこは面白かった。マイカーに名前をつけて呼びかけている人だって現実にいますもんね。
 
「エデン」は、本書集中の白眉でずば抜けています。ホーソーン的な世界も確立している。しかもそのホーソーン世界の成り立ちについては謎のままで、ラストで謎が明かされる組み立ても重層的でよい。ただ、表題作同様ストーリー作成に安易なところがある(たとえば脱出の日が都合よく出産日に重なるなど)のは、やや練り上げ不足ではないか。

 まあ分厚い長編を主戦場にしている作家なので、短編は余技(息抜き)めいた位置付けなのかも知れませんね。なんかあまり褒めていない文章になってしまいましたが、SF作品集として粒が揃っており、プロパー作家はだしの水準を維持しています。今年(11年)雑誌初出である
「エデン」は、当然本年度の「年刊SF傑作選」に収録されるんじゃないでしょうか。面白かったです。
 ということで丁度よい機会(今を逃すとまた買う気が薄れそう)なので、早速『純愛小説』を購入してきました(笑)。近々読んでみようと思います。

 今日FMで流れていて思い出した。40年間完璧に忘れていた。
   ↓
 

 



「はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月13日(火)23時09分25秒

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 やっぱり、夏は10月まで続きそうではありませんか。やれやれ。とりあえず無理やりにでも水分を摂取するようにしています。どうも「脳が感じる」渇きに合わせて補給しているだけでは、実際に身体が必要としている水分を摂れていないことに最近気づいたのです(老化現象?)。そのかわりトイレの回数が増え、車での移動が多い身にとってはいささか不便なのですが、熱中症でぐったりとなるよりはなんぼかましというもの。
 そんな中、嬉しいニュースが。読売新聞によれば地球が寒冷化するかもしれないとのこと→「地球環境に変動?太陽北極域で異例の磁場反転」。そういうことなら太陽には頑張って磁場の反転にこれ努めていただきたいものです(でも南極では反転していないって、太陽がモノポール化するってこと?)。そういえば桜井邦朋先生も寒冷化を主張しているらしい→『眠りにつく太陽』。しかしこの方は、先回のハレー彗星接近時にも、ハレー彗星の噴出物質で地球が寒冷化すると主張されていたんですよね。

 それはさておき、イトカワから帰還したはやぶさを、擬人化して物語で理解している人は、水を擬人化する人を批判できないと思うのですが、どうなんでしょうか。

 『はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか』を読み始める。収録4篇中、今日は2篇。

 



「聖なる酒場の挽歌」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月13日(火)00時09分51秒

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 「バーボンて下品なのよ」と彼女は言った。/「私はバーボンは紳士の飲みものだと思ってたがね」/「バーボンって下品になるのが好きな紳士の飲物なのよ。スコッチはヴェストとネクタイと進学予備校。バーボンは自分の中の獣を外に出したがってる、自分の卑しさを見せたがってる愛すべき男たちの飲みものなのよ」(90p)

 
ローレンス・ブロック『聖なる酒場の挽歌』田口俊樹訳(二見文庫86)読了。

 (元)アル中探偵マット・スカダー・シリーズ第6作です。舞台は1975年ですが、それを10年後の、禁酒に成功したスカダーが、愛惜を込めて振り返るノスタルジックなハードボイルド。よかった。
 探偵も含めて登場人物が、400頁に亘ってえんえん呑み続けます。いえば聖なるアル中たちの鎮魂歌かも。スカダーは酒場にいないときは、探偵業で歩き回っているわけですが、その途次、それが何処であろうと如何なる宗派であろうと教会が見えれば(ほぼカトリック教会であることが多いようですが)慈善箱に150ドル入れてろうそくを点し、沈思黙考します。でもスカダーにとって聖なる教会以上に、聖なる卑しき場所が酒場なんですよね。そういう意味で探偵は、真面目だけが取り柄の、まったく面白みのない、倫理観に囚われた人物設定で(それがアル中たらしめる原因でもあるでしょう)、その結果ストーリー自体もある意味凡庸に、制限時速を守って進んでいく。ですがそんな探偵だからこそ、ラストでの解明のやりきれなさが読者に沁み渡っていくのだと思います。

 ところで、或る場面で、芝居の大道具の組合の力が強く役者たちがうかつに大道具に触れないという描写があるのですが、あ、この場面以前にも読んだことがあるな、と思った。まあアメリカの演劇界を舞台にした作品ならそういう描写は当たり前に出てくるものなのかも知れないのですが、でそのときはそのように納得したのでしたが、しかし解説で、HMM1985年10月号に掲載された短篇「夜明けの光のなかで」が本篇の部分的な下敷きになっているとの記述を見つけ、先日述べたように1980年代はHMMもときどき購読していまして、そのタイトル名には覚えがあるので、あるいは短篇を雑誌で読んだ記憶が甦ったのかも知れません。

 1970年代にアメリカミステリ界にハードボイルドが復興し、それをネオハードボイルドと称するとは、くだんの畸人郷で教えてもらったんですが、先回挙げた本篇のブロックや、グリーンリーフがその一派で、なかでもリューインはよいとのことなので、ネオハードボイルド、少し追いかけてみるかも知れません。

 



観劇と読書会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月11日(日)11時49分42秒

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 昨日はまず、シアトリカル應典院でオリゴ党の「グレガリア」を観劇。劇団結成20周年企画としてはじめて、過去に演った台本の再演を試みたものとのこと。パンフレットには初演の情報がないので調べてみたら、2001年7月に、場所も同じシアトリカル應典院にて上演されたもののようです。
 グレガリアとは「群集相」のこと。バッタの大量発生による蝗害(飛蝗現象:正確には飛バッタ現象でイナゴは無実)はよく知られています。それは元来「孤独相」(ソリタリア)のバッタが大量発生等による密集的な条件下で「相変異」し、「群集相」(グレガリア)化することで引き起こされるんだそうです。グレガリア化した個体は体色も黒っぽく変化するようです。
 週に一回しか船の通わない絶海の無人島、そこに製薬会社の研究施設があり、バッタを大量に飼育(島で放し飼い?)しています。研究員の一人は飼育したバッタを狭い空間に密集させて人工的に相転移させる実験中。嵐の夜、遭難した船が島に漂着、乗っていたのは何やら怪しげなスーツ姿の男たちで、翌日から不審な行動を示し始めるのだった……

 例によって台本を見せていただけることになっているので、詳しくはそのときに。

 芝居のあとは梅田に移動して、久しぶりに畸人郷例会に参加。最近は一次会で「読書会」などをやっていて、ちょっと敷居が高かったのでしたが、せっかく大阪に出てきたのだからと、持ち前のテキトーさ厚かましさを遺憾なく発揮して、課題?ナニソレ?と参加しちゃいました(^^;。今回の課題は『火刑法廷』。総合評価は9.5点になりました(ちなみに前回は『三つ首塔』で、総合評価5点だった由)。要するに10点満点と9点が相拮抗し、9点未満をつけた評者がいなかったということです。評価されたのは「見せ方」のうまさ。減点対象はトリックがエレガントではない点。ちょっと興味が出たので、私もそのうちに読んでみようと思いました。

 さて、次回の読書会課題は、ジャジャーン! 『果しなき流れの果に』に決定!! となれば何をおいても、来月は参加しなくてはなりません(笑)。高校で読んで以来再読していなかったので、これは良い機会になりそう。また、ミステリ読みの達人たちが日本最高の本格SFをいかに読み込むか、楽しみです(といってもほとんどの方が私と同様再読になるみたい。まあ当然ですね)。次回例会は10月15日土曜。会員でなくても参加自由のオープンな会ですので、興味ある方はご連絡下さい。
 二次会はいつものごとく酔っ払ってしまい、何を喋ったのか覚えていません。12時30分頃帰館。

 



「聖なる酒場の挽歌」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 9日(金)22時39分10秒

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 『無頼の船』400頁級の大長編(当社比)を読みきる自信がついたので、398頁の『聖なる酒場の挽歌』に着手。久しぶりに正統派ハードボイルドです。140頁まで。
 1980年代に入ってSFマガジンを買わなくなり、その代わりミステリマガジンを買っていた時期が(一瞬ですが)あって、その頃HMMが売りだそうとプッシュしていたのが、いまや大御所のローレンス・ブロックであり、スティーヴン・グリーンリーフだったんですよね。
 そういう次第で、本書も出た直後(1986年刊)に購入しているのですが、ぞれからずっと(25年か!)積ん読にしたままだったのでした。いやもっと強の者もうちにはおりますが、本書もかなりのもの。見たら一度も頁を捲られぬまま、うっすらと端っこから変色しかかっていました。雌伏25年、よくぞ我慢して飛び立たずにいてくれたものです(cf:「教育用書籍の渡りに関する報告書」)。しっかり読んであげよう。余談ですが未読本を切り裂いて大量電子化に勤しんでいる人は針供養ならぬ本供養をしてあげるべきです!(>おい)(^^;
 と、われわれはすぐ擬人化してしまいがち(水にやさしく声をかけたり)。これって物語化して世界を把握しようとする(物語化しなければ世界を把握できない)ホモサピエンスの「業」(限界?)なんでしょうか?

 



「無頼の船」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 8日(木)22時36分46秒

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 畑正憲『無頼の船』(角川文庫77、元版75)読了。

 めっちゃ面白かった。昨日はあれだけ分厚さにめげていたのに、読み始めるや、全420頁を一気に読みきってしまいました〜(笑)。
 意外や、『ゼロの怪物ヌル』『深海艇F7号』のような(一種知的な)ジュブナイルSFではなく、文字どおりの意味で小説でありました。
 海洋冒険小説と銘打たれていますが、海洋に実際に出ていくのは300頁を越えてから。海洋冒険小説的見地から言えば、4分の3は主人公たちが船を得、海へ乗り出していく迄の「前日譚」。
 舞台は北海道釧路花咲の港町。主人公龍造は、今一度漁師船で海を駆けまわりたいとの夢と、ロールスロイスの強力無比のエンジンとを持って、釧路にやって来ます。その竜造のもとに、梁山泊に勇者が集まってくるように、龍造を慕って一癖も二癖もある男たち5人が参集する。
 大黒柱を海難でなくし若未亡人の細腕で再建をめざす網元家を、この際一気に叩き潰さんと、経済ヤクザと化した土地の筋モンが、未亡人の義弟をイカサマ麻雀に誘い込み、4000万の証文を書かせる。ひょんな事でそれに関わった龍造が、ヤクザの思惑を打ち破る。龍造は未亡人の網元のもとで漁船を新造し(例のロールスロイスを据える)、鮭漁解禁の日、満を持して出航するのですが、早々にヤクザの船の嫌がらせでスクリューに古網を巻きつかせてしまうのです……
 ……のでした。が、
が!

 いやーよかった面白かった。読んで正解でした。上述したように、なんの修飾も形容も要らない、「ただの」小説それ自体なのでありまして、いうならば花登筺系です。いやまあ花登筺は脚本家ですが、花登が書いた物語こそ小説でしょう。ムツゴローさん、こんな泥臭い話も書けるのですね(でもあそこまでしつこくはない)。最近の作家の「知識」で書いた人物描写の線の細い「ハードボイルド」や「冒険小説」とは違う、まさに「無頼」をえがいた骨太の小説なのでありました。
 ところで本書、「第一部・了」で終わっているのです。あ、続編があるのか。花登筺系ならば当然そうだよな。と、検索してみましたが、どうも第二部は書かれずじまいだったようですね。動物王国で忙しくなって、そんな暇はなくなってしまったのでしょうか。勿体ないですなあ。

 



「アンドロギュノスの裔」追記

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 8日(木)18時11分6秒

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> No.3213[元記事へ]

 承前。渡辺啓助100歳を祝って2001年に出された新青年研究会編『渡辺啓助100』(「新青年趣味別冊」01)をパラパラと見ていて、面白いことに気づきました。『アンドロギュノスの裔』巻末年譜によれば、温は1923年(大正12年)に「女優・及川道子と出会い、恋愛関係となるが、及川が病弱だったため、周囲から結婚を反対される」とあります。
 
『渡辺啓助100』によれば、「及川は青山学院近くの啓助の行きつけの喫茶店オアシスの娘であり」(啓助は大正14年青山学院高等部卒)、「大正12年頃に温と出会っている(……)当時12歳(……)。大正13年に(……)築地小劇場に参加するのも」温の影響によるもので、その後18歳になった1929年、「昭和4年に松竹蒲田に入社」とあります。年譜では「昭和初期を代表する清純スター」と恋愛をしたように読めますが、実際は幼なじみに近い感覚でしょうか。

 以上は前置きです。新青年1928年7月号に発表された
「兵士と女優」は、戦争から帰ってきたばかりのオング君が街で久しぶりにハルちゃんと出会います(この戦争、実はトルキスタンあたりの活動会社(カラコルム映画会社)が仕組んだ擬似イベントだったのですが)。出征前はハルちゃんはホノルル・カフェにつとめていたのだが、今は女優になっていることを知らされる。で、二人で戦争映画の扇動性とそれを売り物にしてしまう映画会社を批判するというものなのですが、なんとなくオングくん=ハルちゃんと、温=及川道子が重なってきませんか。実際に道子が女優になったのは翌年ですが、既に築地小劇場で活躍し、女優になるのは既定路線だったのではないでしょうか。温が道子を想定しながらハルちゃんを描いたのは、まず間違いないように思われます。この随筆を読んだ道子もニヤリとしたことでしょう。

 ところで『渡辺啓助100』によれば、1歳年下の弟オンの方が、デビューも早く、何かにつけ早熟で華やかですね。比べて啓助は引っ込み思案で水谷隼の叱咤激励がなければ消えてしまった可能性もありそう。「偽眼のマドンナ」も当時新青年の編集助手だった温のすすめで書き上げられたものとのこと(しかもゴーストライター)。そんな華やかで早熟な温が27歳で人生を駆け抜け、啓助は101歳まで生きてミステリSF界に確固たる地位を築いたのも、不思議な因縁ですね。

 



ひさびさにEWI

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 8日(木)00時22分2秒

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 夜、涼しかったので、ひさしぶりにEWIを吹きました。今日くらいの温度と湿度なら吹けます。マイディア・ライフとカーニバルの朝を。そこそこ指が動いたのでほっと一安心。そろそろ再開しようかな。でもこのまますんなり秋になるんでしょうか。私には到底思えないのですが。きっと残暑がぶり返してくるに違いない。
 次に読む本に、畑正憲『無頼の船』を引っ張り出してきたのですが、420頁の長編だったのか。うーん。今日みたいな涼しさならオッケーなんですが、暑くなったらしんどいかな。ちょっと悩み中。変更するかも。

 

 



「アンドロギュノスの裔」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 7日(水)21時54分26秒

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> No.3212[元記事へ]

 承前。《映画関係の随筆ほか》読了。全体に、映画に対する理想と現実の邦画への失望が強く出ています。随筆とは言い条、仕掛け的には創作に近く、オング君にしろゲレツバツコス氏にしろアルペン嬢にしろ、実在の人物というよりは何ほどか著者自身が投影された分身というべきでしょう。それらに於いて、著者が撮りたい(脳内スクリーンに映しだされた)短編映画が幾本も上映されるのだが(著者の内宇宙では、中央アジアなかんづく撒馬兒汗土市は前衛映画の一大生産地らしい)、こんな映画なら、私もぜひ観てみたい。でも当時の技術ではほぼ不可能でしょうね。いみじくも谷崎が「影」を一等当選させるにあたり「現在は無理でもいつか必ず映画化できる時代が来る」と興行価値を気にする小山内薫を説得した(解説)というのもよく分かります。

 
「日本のカメラよ! 今や僕は、お前の歯車の一つ一つが、一っぺんにぶち壊れてしまうことを望んでやまない!」(588p)
 「全く日本映画程(……)西洋の大映画を如何に巧妙に真似て、安い経費のベカベカ物を制作して見せようかとばかり企んでいるんだからやりきれない(……)僕に少しばかりのお金があれば直ぐに日本中の見物の迷信を破ってみせるんだがな」(599p)


 と実に威勢が良い(笑)。その覇気の一部を、晩期の小説にも注ぎ込んでほしかった(>おい)(^^;

 ところで牧野信一(1896生)、横光利一(1898生)、川端康成(1999生)、稲垣足穂(1900生)らの文学潮流をさして新感覚派といいますが(萩原朔太郎(1886生)も)、これは純文学におけるモダニズム運動だったわけです。実は江戸川乱歩(1894生)に発する探偵小説もまた、モダニズムの分流であることは言を俟たない。少なくとも現在から振り返れば同じ潮流内に位置していることは一目瞭然ではないでしょうか。でも文学史上の新感覚派とその周辺に乱歩の記述はありません。私が高校で使った副教材の日本文学史にはなかった。今はどうなのか、少なくともwikipediaにはなかったです。
 1902年生まれの渡辺温は、本書を通読すれば明らかなように、まさにモダニズムの申し子であり、乱歩以上にタルホやマキノに近い資質の持ち主だったように思われます。純文学・大衆文学の区別はあってもいいと思いますが、従来のそれは発表雑誌に拠って区別する杜撰なもの。真に内容に即せば、オンはタルホやマキノと同列に並べられなければならない。本書も全集と銘打つからには、(解説以外に)そのような作家論や作品論を2、3篇収録してもよかったかも。
                     
ちすじ
 ということで、
渡辺温『アンドロギュノスの裔 渡辺温全集(創元推理文庫11)読了。東京創元社、よい本を作ってくれました。満喫いたしました(笑)

<追記>へ

 

 



「アンドロギュノスの裔」読み中(更)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 6日(火)21時40分13秒

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> No.3211[元記事へ]

 560頁まで。<翻訳・翻案>編読了。例によって整理します。

 「新薬加速素」1928/10 新青年
 「絵姿」1928/11 新青年
 「外科医の傑作」1929/2 新青年
 「王様の耳は馬の耳」1929/8 文藝倶楽部
 「島の娘」1929/8〜1930/3 文藝倶楽部
 「矮人の指環」1929/11 文藝倶楽部

 
「新薬加速素」H・G・ウェルズの名作の翻訳。どんな感じなのかなと思ったが、安心して読める訳文でした。原作は1901年なのですが、本篇が本邦初訳なのかどうか、ちょっと検索してみましたが判りませんでした(初訳と既訳があるのとでは困難さが全く違うと思うので)。全集というわりには、そのような情報が本書には欠けていますね。
 
「絵姿」は、オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」の翻案。翻案というよりもあらすじ紹介に近い。原作の長編を僅か20頁にダイジェストしているのだから無茶苦茶です(笑)。背景がバッサリ省略されているので読者は想像で補わなければなりません。解説を読むと誌面で趣向があったみたいですね。
 
「外科医の傑作」はエヴァ・ピタロ原作の翻訳。原作者に関する記載なし(ネットでも引っかからない)。これは面白かった。フランケンシュタインものの「怪奇SF」で、死にかけの二人から一人を生存させる合成の結果、二重の記憶を持ってしまった男の悲劇。
 
「王様の耳は馬の耳」は、いうまでもなくイソップですが、結末は変更されているような気がします。翻案になるのかな。
 
「島の娘」は、ウォルター・ベサント原作、黒岩涙香訳を、温が補綴したものとのこと。これまた原作者が何ものかさっぱり判りません(ネットで見ると創元文庫で短篇の翻訳があるみたい)。また涙香訳(というか翻案ですね。イギリスの話なのに登場人物は日本人名)のどこを、なぜ、温が補綴したのかも不明。物語自体は、いかにも19世紀イギリス大衆小説っぽい善玉と悪玉がはっきりした筋立てながら、手に汗握る面白さ。
 
「矮人の指環」は「ニーベルンゲンの歌」を、やりもやったり8頁(!)にダイジェストしたもの。大伴昌司に勝るとも劣らぬ暴挙にラファティもゼッキョー(^^ゞ。

 次は《映画関係の随筆ほか》編。

<つづき>へ

 

 



「アンドロギュノスの裔」読み中(又)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 5日(月)21時18分9秒

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 400頁まで。<掌篇>編と<脚本>編を読了。まずは、本書の初出一覧はジャンル別ではないので、前例にならってジャンル別に整理します。

掌篇
 
「春ノ夜ノ海辺」 小学3年生当時の作文
 
「夕の馬車」1918/10 知道月報(中学校の出版物)
 
「小さな聖人たちに与う」1918/11 知道月報
 
「淋しく生きて」1919/9 知道月報
 
「若き兵士」1919/11 知道月報
 
「森のニムラ」1920/1 知道月報

 
「足 素人制作者のための短篇喜劇」1927/1 映画時代
  
「鏡」
  
「不幸」
  
「風景」
  
「足  PARABLE」
 
「兵隊の死」1927/1 探偵趣味

 
「子供を泣かしたお巡りさん」1928/11 文藝倶楽部
  
「子供を泣かしたお巡りさん」
  
「石あたま」
  
「一年生のお爺さん」

脚本
 
「氷れる花嫁 他三篇」1927/4 新青年
  
「進軍」
  
「老いたる父と母」
  
「子供と淫売婦」
  
「氷れる花嫁」
 
「どぶ鼠」1927/9 新青年

 
「山」1928/4 新青年
  
「山 影絵映画のシナリオ」
  
「降誕祭」
 
「縛られた夫」1928/10 文藝倶楽部

 さて、《掌篇》となっていますが実質的には前半は詩・散文詩編、後半は映画のシーンを並べたものという感じですね。いわゆる掌篇といえる作品は、《小説》編に入っています。
 
「春ノ夜ノ海辺」は9歳の頃の作文ですが、はっきりいって晩年の小説よりよほどいいと思います。ある意味「唱歌」の詞に近い(「朧月夜」と比べられたし)。類型的ですが、くっきり世界が拡がっています。
 
「淋しく生きて」に至っては、ウィアードテールズに載ったクラーク・アシュトン・スミスの詩かと見紛うばかり。人類出現以前に地球に落ち土に埋もれてしまった隕石の、従って人類も知らないその隕石の嘆きが謳われる。
 
「足 素人制作者のための短篇喜劇」の4篇は、「影」と同様の、「映画の筋」というべきもので、まさに温が、こんな映画を撮りたいと思ったものに違いない、そのシーン(コンテ)集になっている。それは「鏡」のラストの(観客を組み込んだ)構図に明らかでしょう。「不幸」はカフカっぽいラストがよい。「風景」のラストも(こちらはタルホ)。それぞれ、いかにも表現主義的なタッチの短編映画が目に浮かんできます。
 
「子供を泣かしたお巡りさん」は、スラップスティック喜劇映画をやってみたかったのかな。「石あたま」は純然たる掌篇。

 したがって《掌篇》後半と《脚本》の実質的な区別はないに等しい。せいぜい《脚本》は、脚本らしい体裁で書かれているというだけ。ここでは
「老いたる父と母」が面白い。昨今の中年ひきこもりを先取りしたような話で、すべからく現代のひきこもりの両親は、本篇の老夫婦を見習うべしと思いましたよ(>おい)。「氷れる花嫁」もラストがすべて。ただ小説にするにも映画にするにも瑕瑾だらけでムリ。このような体裁にしかならないかも。「どぶ鼠」も表現主義短編映画。「山」はボルヘス風。「降誕祭」は逆「クリスマス・カロル」(^^;。
「縛られた夫」はテレビの単発ホームドラマのコメディ。晩期の作風の萌芽?(笑)。
 次は《翻訳・翻案》編。

<つづき>へ

 



「アンドロギュノスの裔」読み中(続)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 4日(日)21時57分11秒

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> No.3209[元記事へ]

 承前。320頁まで。ここまででようやく半分。
 概してドイツ表現主義からフランス風コントに作風は移行していくというのが先回の結論でした。今回読んだのは「最後の半年」(1929/10〜1930/3)の作品ということになるのですが、実にさらにやせ細っていて、モダンな雰囲気こそ残ってはいるものの、ある意味女性雑誌に「よく」掲載されるような作風になっていく。世界の存在感はどんどん薄れていき、その結果相対的にストーリーばかり目立ってきます(そのストーリー自体は先述のようにあっけないものです)。
 
「或る母の話」「指環」はまだ(女性の好む「実は〜だった」的な)ドラマがありますが、「モダン夫婦抄」「モダン夫婦抄 赤いレイン・コートの巻」「四月馬鹿」などはモダンな新文化を体現した夫婦ものという体裁で、一般的な読者にとってはそれなりに興味を喚起されたかも知れませんが、それだけの話。
 そのなかで、
「男爵令嬢ストリートガール」は、そのような新文化(を体現した一種ススンダ女性)が銀座というモダン東京世界を舞台に描かれていて、特にラストはなかなかよかった。
 一方、
「浪漫趣味者として」「巷説「街の天使」」になると、もはや雑誌の埋め草に書いたとしか思えない単調さで、これらのアイデアを本来はもっと発酵させなければならなかったものでしょう。
 ただ、
「悲しきピストル」は一種のジュブナイルとして、それなり読める作品でした。
 
「夏の夜語」は、死後発見された遺稿で、おそらく初期、それもデビュー以前に書き上げられていたものに違いありません、これぞドイツ表現主義という作風で、これはよかった。個人的には「可哀相な姉」以上の満足度。傑作。
 ということで、《小説》編は読了。「全集」というのは、ある意味残酷ですなあ。次は《掌篇》編。

<つづき>へ

 

 



「アンドロギュノスの裔」読み中(大幅追記アリ)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 3日(土)21時51分38秒

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> No.3207[元記事へ]

 承前。150頁まで。
 
「嘘」は最後のどんでん返しが面白いのだが(というか冒頭で言及済みなんですが)、ストーリーも他愛がないといえばそうなんだけど、最後まで頁を繰らせずにはおきません。だからラストが効いてくるのですね。
 
「赤い煙突」は奥村みさ子名義。さすがに男名で発表するのはためらわれたのかな(笑)。というところから想像がつくように、全力で(?)少女小説です。余談ながら本篇を読み、近いうち西条八十を読んでみようかなという気になった。
 
「父を失う話」はカフカばりの不条理小説。この主人公はいったい何歳なんだろう?
 
「恋」「嘘」と同趣向。他愛のない話ながら読ませる。
 
「可哀相な姉」は幻想小説だと思います。無理のある設定だから。容赦ない傑作。
 
「イワンとイワンの兄」 イワンはお人好しのキャラクターの類型名でロシア民話によく登場するらしい。本篇もそれを踏襲した民話風小説で、民話の勧善懲悪よりはもう少し複雑。
 
「シルクハット」は心理掌篇。中村の「薄笑い」の意味は?
 
「風船美人」は霧島クララ名義。軽気球をテーマにするところがモダンですな。本篇も純情が苦い現実を被って転倒する。

 最近の(短編でも)びっしり書き込まれた小説に慣れた読者は、話が単純でものたりないと感じられるかも知れません。しかしそれはストーリー偏重に毒されています。本書のこれらの短いお話は、ストーリーはあっけないかも知れないけれども、そこには時間が流れています。そして時空というくらいですから、空間も、これは奥に向かって広がっている。つまりこれらの作品はどれもそれぞれに時間と空間をありありと読者に感じさせてくれる、いわば<世界>を持っているんですね。目前のストーリーはその<世界>内の一部分である(でしかない)という感覚。<世界>は、わたし的には小説にとって最低必要な条件であり、且つそれで十分でもあるんです。場合によっては、ストーリーは夾雑物でしかない。目前のストーリーだけしかない(語られない世界を感じさせない)小説は論外。

 《追記》
 
「勝敗」は戦前の探偵小説のコード範疇を超えるものではなく、<世界>もあまり感じられなかった。残念。
 
「ああ華族様だよと私は嘘を吐くのであった」はモダン神戸ならぬモダン横浜小説。ストーリーのアイデアは「シルクハット」と同じだが、スポットライトの当たらない暗がりの向こうには、ありありとモダン横浜世界が拡がっています。
 
「遺書に就て」は平凡な探偵小説。藪の中的な結末にはコード破ろうという反・探偵小説的な意図を認めてもいいですが。
 
「アンドロギュノスの裔」 フランス風のコントですな。たしかに悪くはないのだが、でも表題作としてふさわしいほどの作品だろうか。
 
「花嫁の訂正夫婦哲学 これもコント。
 うーむ。本書はジャンル別に発表年順で収録されているのだが……初期作品に比べて、急速にコクがなくなってきたような感じがします。解説者がいう「表現主義」的な志向性もずいぶん薄まってしまっている、いや、ないに等しいといってもいいのではないか。

 ――ということで少し整理。

 
「影」1925/1 苦楽、女性、同時掲載
 「少女」1925/7 三田文藝陣

 「象牙の牌」1926/5 雄辯

 「嘘」1927/3 新青年
 「赤い煙突」1927/5 新青年
 「父を失う話」1927/7 探偵趣味
 「恋」1927/7/17 サンデー毎日
 「可哀相な姉」1927/10 新青年

 「イワンとイワンの兄」1928/1 新青年
 「シルクハット」1928/4 探偵趣味
 「風船美人」1928/6 新青年
 「勝敗」1928/10 新青年

 「ああ華族様だよと私は嘘を吐くのであった」1929/4 講談雑誌
 「遺書に就て」1929/5 新青年
 「アンドロギュノスの裔」1929/8 新青年
 「花嫁の訂正」1929/9 新青年
 「或る母の話」1929/10 朝日
 「男爵令嬢ストリートガール」1929/10 文藝倶楽部
 「浪漫趣味者として」1929/11 新青年
 「巷説「街の天使」」1929/11 講談雑誌
 「悲しきピストル」1929/11 少年世界

 「指環」1930/1 文藝倶楽部
 「モダン夫婦抄」1930/2 講談雑誌
 「モダン夫婦抄 赤いレイン・コートの巻」1930/3 講談雑誌
 「四月馬鹿」1930/5 講談雑誌(死後掲載)

 「夏の夜語」1934/2 オアシス(死後掲載)


 なるほど。1929年になって突如前年の倍(9篇)も発表しています。明らかに書き過ぎで、筆が荒れてきているんじゃないでしょうか。とは言い丈、翌1930年の2月に27歳で亡くなってしまうんですが……

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みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 2日(金)21時51分8秒

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 深更、人ひとりいない通りを歩いていた。月明かりのすごい晩で、私の前にはくっきりと影が伸びていた。
 ふと見ていると、それがみるみる、さらにさらに濃く凝っていくではないか。と、いきなりめくれ上がり、私の襟首を掴み、すっと腰を落としてきれいに投げ飛ばしたのだ。
 ぺしゃっとつぶれた。
 私の足を踏んで、月光をシルエットに黒い影が見下ろしていた。

 



「アンドロギュノスの裔」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 2日(金)20時53分42秒

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 めずらしく労働をしました。筋肉痛。腕がブルブル震えて原稿用紙に字が書けない。と、ふた昔前なら言うところですが、今はキイボードを叩くだけなので問題なし(^^;。しかし、私が労働するときにかぎって、なぜに嵐なのか。びしょ濡れになりましたがな。そういえば先回はカンカン照りで熱中症になりかけたのだった。これはもう歳なのだからあんまり無理するなという、神のサインなのか。しかし悲しいかなたった一人の極微企業、自分がやらねば誰がやる、なんですよねえ。マイッタマイッタ。

 渡辺温『アンドロギュノスの裔』に着手。文庫なのにずいぶん重い。重いはずです。なんと630頁もある。腕がブルブル震えている身にはキビシイのでした。60頁まで。
 
「影 Ein Märchen」「少女」は、共に10頁程度、20枚に満たない掌篇。うーん、こういうのを読むと、また書きたくなってくるんですよねえ。私の創作の理想はこのような作品。ところがこのような作品は、実は私の資質からは最も遠いのでした。それに気づくのに20年近くかかったわけですが。哀号(ーー;。

 
「象牙の牌」は、「ウィアードテールズ」に載っていてもおかしくない、クラーク・アシュトン・スミスばりの小説。ところが、最後で無理やり探偵小説の型に押し込めてしまい、「新青年」向きの小説になってしまいました(初出は「雄辯」=講談倶楽部の前身?)。もっとも謎明かしでメタを導入しているのはなかなか捨てがたい。

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 せっかくですから、ギャラリー・オキュルスの渡辺温オマージュ展《アンドロギュノスの裔》に、もう一度リンクしておきます。
 

 



静岡大会にことよせて

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 9月 2日(金)01時44分39秒

返信・引用

 

 

 本日は読書タイムを捻出できませんでした。

 ところで、今年のSF大会は静岡なんですってね。静岡は一年ほど住んだことがあり、とても住みやすかったよい印象が残っています。静岡の人の性質が穏やかなのがその一因であることは間違いありません。ただ見解の相違で、浜松の人に云わせると、穏やかというよりもぼーっとしているとなる。逆に静岡の人は、浜松の人は性質が荒いというんですよね。第三者的立場のわたし的には非常に面白かった。こういうのってありますよね。たとえば伊賀国では名張と伊賀上野が張り合っていて、平成大合併で伊賀市ができた時も、結局名張市は参加しなかったのでした(笑)。
 同様に、静岡市は今でこそ静清合併しましたからアレですが、私がいた頃は浜松市のほうが人口が多かったのです
[註]。産業も盛んで、浜松の人はなぜ県庁所在地が静岡で、浜松ではないのか相当不満を持っていましたね。実は静清合併も浜松にヘゲモニーを奪われないため、それだけのために行われたようなものなんです。私がいた頃から合併の是非が問われていて、そんな噂を聞きました。ですから清水市民はそれほど乗り気ではなかったようです。少なくとも、私が住んでいた15年ほど前は、そんな雰囲気でした。
 ところで静岡市民が温厚なのは、当の静岡の人に云わせると、むかし天領だったからだそうです。この説明は宮崎の人にも同じ事を聞いたことがあり、宮崎も天領だったので非常に大人しい。薩摩みたいにガサツではないのだと(^^;。日本中の天領は、みんなそうなんでしょうか。
 浜松の気性が荒いのは、これは有名らしく、私は大学の社会心理学で、故田中国夫先生に、冗談か本気か分りませんが、次のような説明を聞きました。和泉ナンバーや姫路ナンバーが怖れられるのと同様、浜松ナンバーの車も怖れられているんだそうです。和泉は大阪圏の、姫路は神戸圏の、浜松は名古屋圏の、それぞれ郊外という意味で同じ位置を占めていて、なぜか都市圏からある一定の距離を離れた衛星都市は気性が荒くなる傾向があるんだそうです。ホントかなあ(笑)
 そんなわけで、気が走っている浜松人には、静岡人の穏かさはトロ臭く見えるみたいですね。ただ天領の自己説明でも分かるように、静岡人自身もおっとりしていることは認めていて、自分らがおっとりしているために、静岡の経済はすべて甲斐商人に握られてしまった、と怒っているんですよね。浜松=静岡=甲斐の複雑なお話でした(^^;

[註]今調べたら、浜松市も同じ年に大合併していて、人口第一位は堅持しているようです。意地でも負けたくなかったのかな。

 



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