ヘリコニア談話室1111

謎? 秘密?

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月30日(水)19時42分32秒
   それが問題だ! →勉強し直してまいります  

グローバリズムの申し子

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月30日(水)00時30分43秒
   メアリー・ホプキンはウェールズ語を母語として育ったんですね。ポントアルダウェpontardaweは、ロンドンから西へ300キロちょっと、ちょうど東京-名古屋間くらいでしょうか。ホプキンは1950年(昭和25年)生まれですから山田正紀と同い年です。
 この距離(の近さ)と、この年代(の新しさ)で、イギリスにはウェールズ語を母語とする人々がごくふつうに生活している。これは、日本に住んでいる感覚からすると、実に不思議です。日本じゃアイヌ人さえアイヌ語を母語とする人はごく少ない。ウィキペディアには「出自を隠す傾向」という記述も。
 日本人の斉一化圧力というのは異常としか思えませんね。
 はっ。てことは、日本人こそグローバリズム適性が高い国民ということになるのでは? うーむ。

 
 

横溝イベント拾遺

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月29日(火)11時03分0秒
   講師自身による要約→日本探偵小説史戦前篇

 追記→日本探偵小説史戦後篇

 

「機龍警察 自爆条項」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月28日(月)02時16分6秒
   月村了衛『機龍警察 自爆条項』(早川書房11)読了。

 や、これは傑作。450頁をほぼ一気に読了。パワードスーツというのでしょうか、要するに着ぐるみロボットですな、そういうのが出てくる、私としてはもっとも避けたいタイプの設定なのですが、気にならずに読めました。それもこれも、女テロリストの、リアリティあふれる迫真の物語(第2章と第4章)があったればこそ。本篇の中で真に血肉を与えられているのは、この女テロリストのライザ・マクブレイドのみと言っても過言ではありません。

 それに引き比べれば、警察小説の部分はいささか見劣りする。登場人物も陰影が薄い(ライザ・ラードナーも含めて)。というのは言い過ぎか。いや警察小説として充分及第のレベルなのですよ。機甲兵装という近未来兵器が存在する世界ですが、それを除けば《現代の警察小説》です(だからSFといえるかどうかは微妙)。面白かった。

 ただ、ライザの物語があまりにも濃い。いわば前日譚なのですが、本筋を完全に食ってしまっています。あまりにも濃密なので、比較、本筋が淡くなってしまったというところでしょうか。トータルとしてすぐれた警察小説となっているのは間違いありません。文章もしっかりしているので安心して読めました。

 本書には前作(『機龍警察』)があって、どうも続き物になっているようですね。〈敵〉ってなんじゃい? と謎のまま残ってしまったところがあります。第1作から読むべきだったんでしょうね。これは遡って読んでみたくなりました。
 

Re: またまた大層な

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月27日(日)11時20分34秒
  > No.3316[元記事へ]

 かんべさん

 レスありがとうございました。「大層」なのは私の書きグセで、ご勘弁を(^^;。
 しかし当該のエッセイにかぎらず、折々に読ませていただくサイトの文章には、やはり「警世」的なニュアンスを認めざるをえないんですよね。あ、というか「批評的」といったほうがいいかも……と、ズラズラと書きかけたのですが、また「大層」になってきたので、やめておきます(<おい)(^^ゞ

 写真拝受。ひと目でどこなのか分かりました。ここはジャズ住職の家に遊びに行く時にいつも通っていた道です。でも片側がこんな塀だったとは、完全に忘れていました。ありがとうございました。
 

またまた大層な

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2011年11月27日(日)09時01分2秒
  別に「警鐘は鳴らして」まへん。他人事ながら、
ちょっと気になっただけでございます。
しかし、私がネット機器に「支配されて」へんのだけは確かで、
その証拠に、この書き込み欄に写真も入れようと思ったけど、
その手順がわからん。何度かトライして、あきらめました。
メールで送っておきます。眺めつつ、「物を考えて」くだされ。
 

神戸/プラハ/ベルファスト

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月26日(土)23時50分47秒
   横溝先生生誕地碑建立7周年記念イベントには、やはり行く能わずでした。しかし出席された雫石さんが、レジュメを書いてくれました。おお、これはよくわかりますね。負け惜しみではありませんが、これを読めば、半分出席したようなもの、無理して行かなくてよかった〜(やっぱり負け惜しみ(^^;)。

 加賀乙彦『文学と狂気』を105円で拾ってしまいました。これだからブックオフ通いはやめられません(^^;。とりあえず「カフカと反世界の文学」に目を通す。カフカの描く世界が、分裂病者(現・統合失調症)の知覚世界(体験)に「近似」(≠同一)していること、そしてそれが「変身」→「審判」→「城」の順に完成していくことを、まず例証します。しかしそれだけなら受動的な作家でしかない。そこに(著者の能動的な)「狂気」の現代的意義を認めるべきとして、マックス・ピカートやデヴィッド・リースマンを引いて検証する。
 かんべさんがサイトで、スマートフォンに支配されて「情報の海にさらされ、酔っている感じ。便利だけど、オフの時間がなくなりました」という記事を引いて「思考時間と量が激減してしまう」傾向に警鐘を鳴らしておられましたが、まさに「他人の夥しい意見に圧倒されて自己本来の思考を失っている」というピカートの指摘に対応します。

 「この受動的状況は情報の伝達のみに限らない。私たちの日常生活を物質的に覆っているおびただしい商品の存在もそうである(……)現代人は他人の思想、他人の商品、つまり既製品で生きている」(100p)

 著者は、このような他人指向(リースマン)の生活は、現代という異常な時代での正常さにすぎないとし、カフカ作品はそれを分裂病者の目で見ることで、拡大し、反世界であることをあらわにしてくれるとして、逆にこれらの作品を書いたカフカの分裂病者ではありえないことの証左とします。またいたるところに認められるユーモアも、分裂病者ではありえないとも。

 本篇の初出は早稲田文学69年5月号で、当然手稿版は見ておられないと思いますが、ブロートの編集は構成上のものなので、趣旨に変更の要はなさそうです。

 月村了衛『機龍警察 自爆条項』に着手。第2章まで読みましたが、これは面白い! 特に第2章は足すことも引くことも不要の傑作。少女はいかにしてテロリストとなりしか? これだけで自立しており、長編の部分に嵌め込んだのはいかにも勿体ない。独立中編として発表してもよかったんではないでしょうか。
 

横溝正史先生生誕地碑建立7周年記念イベント

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月25日(金)00時53分0秒
   いよいよあさっての土曜は、「横溝正史先生生誕地碑建立7周年記念イベント」です。
 11月26日(土)午後2時〜 於:東川崎地域福祉センター(神戸市中央区東川崎町5-1-1 TEL 078-652-3866) 無料 地図

 講師は江戸川乱歩研究家の、サンデー先生こと中相作さん。いやなぜ男性の中相作さんがサンデー先生を名乗るのか、私もよくは知りません。気になってしかたがない方は、直接本人に会場でおたずね下さい。
 演題は「続・横溝正史と江戸川乱歩」(資料pdf)。昨年の6周年講演が好評で、引き続き今年も、となったようです。基本的に漫談ですから、去年聴いてなくてもぜんぜん大丈夫です。寄席感覚でお越し下さい(>おい)。
 といっても、実は私も去年は打ち上げのみ参加でしたので、聴講はしていないのですが、私の言葉に嘘偽りなきことは、実際に会場にお越しいただければ納得されることと思います。

 なぜ去年は打上げのみだったのか。それは単純に、会場が当地からすれば僻遠の地であるからで、しかもJR運賃体系例外路線のため途中わざわざ二度降車して切符を買い直さなければならないからで、そのため開演の2時に間に合おうと思えば、昼前には出発しなければならないからなのです。基本顧客からの連絡待ちの仕事でありまして、土曜とはいえそんな時間から離脱するのはちょっと難しいのですよね。というわけで、今年も出席できるかどうか、その日になってみなければ分からないのでありました。うーむ。

 なお、今回は横溝正史のご長男で元編集者の横溝亮一氏も来場されるとのことです。
 

幸朗師匠の副作用

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月24日(木)00時05分40秒
   今日の午後、テレビを付けてみたら、たまたまABC60周年記念の漫才特番をやっていて、ずるずると5時頃まで見てしまいました(5時から相撲にチャンネルを変えた)。だいたい私は、落語よりも漫才のほうが好きで、それもとりわけ音曲漫才が大好きなので、番組内特集として宮川左近ショー、かしまし娘、フラワーショー、ちゃっきり娘、ミスハワイ暁伸、オリジナル横山ホットブラザーズなどの懐かしい昔の映像が流れて大満足でありました。
 人生幸朗の、肩をクネっとさせる身振りについて、阪神巨人さんが「副作用」とかなんとか、ポロッと漏らすのだが、だれも反応しないのです。それでちょっと気になって、あとでネットを見たのですが、判りませんでした。タブーなのでしょうか。

 追記。あ、そういえば楽屋では、トイレットペーパーを枕がわりにしてずっと寝ていたと言っていたなあ。関係があるのか知らん。
 

「これはペンです」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月23日(水)19時37分19秒
   円城塔『これはペンです』(新潮社11)読了。

 表題作「これはペンです」と「良い夜を持っている」の2編収録。どちらの作品も80頁強、150枚程度の中編小説で、はっきりいって長すぎ。その結果著者のよい部分が減殺されてしまったように思いました。著者の作品のよいところは、管見ではその作品が小説ではなく「詩」(散文詩)もしくは「絵」(もちろん描けない絵)であるところ。今回はどちらも(その長さゆえ)ストーリーになってしまった。ストーリーが必ずしも悪いわけではないのですが、著者の本書のストーリーは、説明と同義。ストーリーとして貧弱です。説明はいらない。
 そうはいっても後者のラスト(171p〜173p)の喚起力はさすがに円城塔。ただ者ではないところを見せつけます。ただこのラストが、それまでの文章によって何倍にも(掛け算的に)輝くことはない。この3頁(の絵)だけ読まされたとしても、私は同じだけのインパクトを得たと思います。
 要するに著者の筆法はストーリーじゃないんですよね。それを無理やりストーリーにしている。では長くなった分、感動や衝撃が増しているかと言ったら、そうはならない。むしろページ数で割ったら逆に減ってしまう。
 そういえば以上と同じ感想を、私は川上未映子のときにも言ったことがあります(「わたくし率in歯ー」)。何の根拠もなく言いますが、これらの中編小説を、著者は自発的に書いたのでしょうか。違うのではないか。編集者の要請だったのではないのか。もしそうだったら、それは編集者(出版社)側の(著者の資質を無視した)賞獲りの思惑に嵌められています。資質と書きましたが、むろん将来的には小説の文体を獲得するかもしれません。しかし少なくとも本書の文体は、小説のそれではない。そこは著者次第ですが、なにも円城塔が19世紀以来のストーリーに戻る(退化する)必要はないのではないでしょうか。と、私は思うのでありました。
 

Re: ご聴取ありがとうございます♪

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月22日(火)20時50分49秒
  > No.3310[元記事へ]

 平谷さん

 ご来信ありがとうございます。先日の放送、いつもにもまして楽しかったです。

 >回を改めてまたやろうということになりました
 いいですねえ。大歓迎♪ 楽しみにしております〜(^^)

 ということで(どういうことだ)、秘蔵の(嘘)音源を披露します(笑)

 これ→http://okmh.web.fc2.com/music/nisikogarasi.wma(いつものように期間限定)←すぐに消されるので欲しい人は速やかに取り込んで下さいね♪

  チャチャヤン火曜担当N氏のレコード未収録のあの曲であります。懐かしい(人には懐かしい)んじゃないでしょうか(^^;。チャチャヤンではそこそこかかっていたんですけどね。

 もう何度も書いていますが、1971年4月29日に、チャチャヤン木曜担当眉村さんのリスナーが、いわば眉村さんを囲む会ということで、当時千里にあったMBSに集まったことがありました。中学生の私もジャズ住職とツレもて参加しました。そのときに嵯峨ディレクターから、N氏手書きのこの曲の歌詞カードのコピーを頂いた記憶があります。

 それがなぜレコード化されなかったのか、ネットを検索しても出て来ません。
 この曲、そのとき頂いたコピーにも記されていましたが、劇作家の福田善之さんの詩を、N氏が補作しているのです(作曲もN氏)。私の独断と偏見の推理では、たぶん、この補作の部分に、福田さんがクレームをつけたんじゃないでしょうか。
 一体どの部分が補作なのか、それはどこにも記載されていません。ただヒントがあります。周知のようにこの曲、チャチャヤン水曜担当の加川良さんがレコード化しているんです。レコード化出来たということは福田さんの許可が下りたということです。聞き比べるとわかるので、加川良版を貼り付けておきます。
 
 一目もとい一聞瞭然、N氏版にあったセリフの部分がそっくり除かれています。したがってこのセリフの部分こそ、N氏の付加したものであったと逆算できる。

 そうと知って聞きなおしてみますと、たしかにセリフの部分が福田氏らしくない。福田氏は1931年生まれで東大仏文卒、蛇足ながら小松左京の一年下で高橋和巳と同い年、この経歴で左翼シンパ(未来を変える。今よりよくする)でなかったはずがありません。
 ところがセリフの部分の主題は、微温的日常が明日も続いていく(未来は変わらない。今でもそこそこよい)、という根拠のない信頼に貫かれているわけです。歌詞の部分とは明らかに温度差がありますよね。
 N氏はひとまわり下の全共闘世代ですが、この世代が68年以降一気にノンポリ化シラケ化に反動する。その音楽的表現がポスト岡林的な(関西)フォークだったわけですが、N氏はその支柱的存在だったといえます。つまり福田的観念とN的観念は全く相容れないものなんですよね。
 結局のところ、このセリフ部分こそ、N氏の補作部分であったと言い切って間違いないと思います。福田氏がかかる改変を受け容れるはずがありません。加川良はN氏付加部分を削り落とすことで、この曲を録音できたに違いありません。

 私自身も、70年当時この曲を聞いて、セリフの部分はあまり好きではなかった。いま聞くとその理由がよくわかります。つまりこのセリフ、実に70年代に取り込まれている。70年代はジャパンアズナンバーワンといわれ日本的経営が自賛された、「例外的に」よい時代だった。未来は今のままで何もせずとも良くなっていくという根拠のない信頼が幅をきかせていた。それに丸々取り込まれているんですね。一見世を拗ねているように見えても実は甘えそのものの言説。まあ当時のフォークの限界をそのまま象徴しているわけで、あの頃のフォークを今の若い人が聞いたら怒り出すんじゃないでしょうか。
 そんなフォークですが、それでも私は今でも聴いてしまうんですよね。刷り込みは恐ろしいものです(>おい)(^^;
 

ご聴取ありがとうございます♪

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2011年11月21日(月)18時36分14秒
  ラジオの話は終了後も盛り上がりまして、回を改めてまたやろうということになりました(笑)
 

ラジオ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月21日(月)01時26分34秒
   今日の平谷さんのラジオは、そのものずばりラジオがテーマ。アシスタントの高橋さん、ディレクターさんともども、ラジオにまつわる思い出話のあれこれで、話は尽きることがないという感じなのでしたが、たしかにある年代にとって、ラジオ就中深夜ラジオは青年期の形成に少なからぬ影響がありましたよね(ラジカセというライフスタイルも)。
 ということで、今日は懐かしのフォークソングを聴きまくっておりました。当然関西フォーク中心。平谷さんが聞いていたオールナイトニッポンは関西でもラジオ大阪で放送していましたが、これはチャチャヤングの裏番組だったのかな、で、あんまり聞いたことがありません。あれ、ラジオ大阪はバチョンの後がオールナイトニッポン(ニッポン放送)でその後が走れ歌謡曲(文化放送)だったっけ。そのように記憶しているのですが、系列的にありえないような。私の記憶違い?

   
 (チャチャヤン火曜)    (チャチャヤン水曜)    (チャチャヤン金曜)
 

畸人郷読書会

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月20日(日)14時18分4秒
   昨日は畸人郷例会。今回の課題図書は『土井徹先生の診療事件簿』。私の感想は下に書いたとおり。ミステリ読みの方々がどんな感想を述べるのか、興味津々で臨みました。大枠私の感想は外してなかったと思うのですが、やはりその道のプロ(?)ならではの指摘がどんどん挙げられて、なるほどなあ、と納得するやら感嘆するやら。

 まずここに描かれた警察機構はかなりテキトーらしい。複数の方がいろいろ指摘されたのですが、覚えている限りでは、まずキャリアの研修期間後の最初の任地が、自宅通勤可能地であることはありえないそうです。また、副署長には副署長の専任の職務や役割があって、本書の主人公のように、閉じこもって遊んでい(られ)るような暇はないとのこと。当該署の内部組織の描写も随分ヘンらしい(具体的な課名も出たのですが失念)。所管内での事件の出動に3時間もかかるというのも、私は読み流していましたが、ミステリを読み慣れた読者的には、ピンと違和感が発生する類の描写みたいです。
 あと、冒頭早々「ノンキャリアであるにもかかわらず多くの難事件を解決した現場担当者」(9p)との迷走記述に出鼻をくじかれた方が(^^;。

 これらを聞いていて私が思ったのは、本書の警察は、いうならば「テレビドラマに出てくる警察」程度の信憑性しかなく、あるいは著者の知識はテレビドラマから仕入れたものなのではないか。そんなふうにも感じた。
 その疑問を述べたところ、著者はそれなりにコンスタントに(ガチガチのミステリはないようですが)長編を発表している中堅作家だそうで、知識を持っていないということはあまり考えられないようですね。
 では、これは何だったんだ? と考えるに、小説を作り上げるにあたって、そんなリアルなところを追求していてはお話が複雑になりすぎるので、著者が敢えてテレビドラマ程度でお茶を濁した可能性を思いついた。しかしこれはその先を突き詰めるなら、読者を「この程度」とみなしているということですよね。

 これに関連して、本連作の成立過程が話題になった。本書には初出情報の記載がないのだが、どう考えても書き下ろしとは思えない。おそらくどこかに連載していたものだろう。それは(一篇の短さから)文芸誌ではなくて、PR誌とかタウン誌だったのかもしれない。となると一回あたりの枚数はかなり制限されるだろう。そしてそのタウン誌が、女性読者あるいは若いお母さんを対象としているものであったらどうでしょう?
 おそらく書く内容にかなり制限を設けられたのではないでしょうか(あるいは自主規制)。たとえば以前(いまもかな?)知合いのY氏が関係していて、私も一度「ちょっといい話」を書かせて頂いたことがある情報誌は、教育委員会の外郭団体(?)の発行でした、本連作の発表媒体がそのような場であったら、このようなお話になったのも頷けなくありません。

 そういえば元版では、ラストにもう一編あったのだが、本文庫では外されているとの指摘がありました。どうもその(外された)作品は、ちょっと傾向が異なった「読後感の悪い」話だったようで、それで外されたのではないか、とのことでした。
 実はいま書いていて気づいたのだが、著者もいい加減ゆるい話作りに嫌気がさしていて、ひょっとしたら最終回ということで、これまでの鬱憤を晴らした話を書いたのではないでしょうか(笑) このように想像すると、上述した「読者を下に見る」傲慢な作者像が消え、媒体に振り回される可哀相な作者が浮かんできますな(^^ゞ

 ついでにいえば、本書カバー絵は元版のを流用しているそうなんですが、実はこのカバー、収録作品の「謎」を絵解きしているのです。で、カバーには、そういう次第で、本文庫版には掲載されなかった作品の謎も絵解きされているんですよね。もっとも私自身は、そもそも読むときはカバーを外してしまうので全く気づかなかったのですが(^^;
 こういう趣向はミステリ本的には無茶苦茶ですが、そういえば帯でもフライングがなされている。連載媒体も連載媒体なら出版社も出版社であるな、と苦笑するばかり。カバーにしろ帯にしろ、読者を舐めているのは出版社ということになりますね。あ、幻冬舎か(^^;)。

 てな次第で、今回出席の八名に加えて、欠席ながら採点のみ参加が一名の、計九名で採点。10点満点で、3点が三名、4点が二or三名、5点が二or三名、6点が一名となりました(記憶があやふや)。

 次回も「ふだんは読まない」シリーズ継続となり(笑)、アラン・ブラッドリー『パイは小さな秘密を運ぶ』に決定。コージー・ミステリで、ミステリ賞「9冠達成」とのこと、楽しみです(^^;

 二次会はいつもの居酒屋。いつもの時間に離脱するも、阪和線上野芝駅坑内踏切トラブルのため約10分延着となり、日付が変わってからの帰館となりました。アリバイのため明記しておきます(何のアリバイだ)。
 

「土井徹先生の診療事件簿」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月17日(木)23時36分12秒
   五十嵐貴久『土井徹先生の診療事件簿』(幻冬舎文庫11、元版08)読了。

 畸人郷読書会の課題図書。さっそく「子供の物語の手法で書かれた大人の本」に当たってしまいました。いや、そこまで商売として意識的なのかどうか。それすら疑問。むしろなんにも考えてない?
 まず、事件簿と銘打たれているのですから、著者は「ミステリ」として書いている(あるいは売っている)のでしょう? ミステリをミステリたらしめる根本的な約束は「謎解明の手がかりを系外に求めてはならない」ということ。ノックスの十戒でいうならば「探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない」ということです。ですから系外の知識を持ち込んで解決するのは反則です。本書は連作集ですが、収録作全て、反則で解決されます。ミステリとして論外であります。そういう次第で、もとより畸人郷は本格探偵小説寄りの同好会ですから、読書会でいったいどんな感想が出てくるか、非常に楽しみ(^^;。

 一方、子供の物語と考えれば、それなりに面白い。というのは解決をもたらす知識自体は、まあ小ネタなんですけど、知らない知識を吸収したくて仕方がない小学生や中学生が読めば、そこそこ楽しめるように思われます。猫はなぜ笑うか、とか、カラスの色識別とか、クイズ好きの子供にはたまらないかも。

 でも結局のところ、本書は子供向けではありません。大人向けの本なんです。ジャンル的には警察小説です。主人公は女性。東大卒のいわゆるキャリア。1年半の研修期間のあと、南武蔵野署に副署長として赴任している。と書くと典型的エリート官僚みたいですが、あに図らんやこの主人公、おりからの就職氷河期で民間企業は軒並みアウト、仕方なくデモシカで公務員試験(国家公務員T種)を受け、警察官になったという設定。したがって残業はしたくないし日曜日はきっちり休みたい。実際仕事らしい仕事もなく、日がな副署長室にこもってケータイゲームをしたり、転職情報誌を読んで時間を潰しているのです。

 このような設定だけ聞くと、公務員や官僚機構を皮肉った話のように見えるかもしれません。たしかにそのような方向にストーリーを転がせば、なかなか風刺の効いた話が作れそうに思うのですが、そういう社会性や批評性(警察小説の要件でもあります)は皆無。ある意味何のための設定か、という感じ。

 あるいは主人公の、このユルい、おちょくったような設定は、ライトノベル的なキャラ小説に展開させても面白いかも知れません。しかしこの主人公、そのような意味では戯画化が不充分、というか中途半端で、ぜんぜんキャラ立ちしていないんですよね。要するに具体的な人物造形には何の工夫もない。まさに児童小説の主人公なんです。(行間に仄見える著者の若い女性観は非常に古臭く、いまどきありえない。こんな認識ではキャラ小説はどだい無理かも。そんな著者ですが、略歴を見たら1961年生まれ。なんと私より歳下!)。

 ストーリーも手抜きで、実際の探偵役の土井先生(主人公はまあワトソン役)は、形式的にいえば主人公の要請で推理するんですが、ほぼすべての収録作品で、実は事件(ともいえないようなものですが)の当事者と知合いで、読者の知らない事実を予め持っていたりする。これは反則と言うより手抜きというべきでしょう。まったく読者を低く見積もっていますね。
 あ、ということは、編集者の意向(中二にもわかるように書け)に忠実な作品なのか! と思ってあらためて本を見たら、版元は幻冬舎。なるほど(ーー;
 

Re: 「星群」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月17日(木)00時54分10秒
  > No.3304[元記事へ]

 高井さん

 毎度ありがとうございますm(__)m。
 さっそくリスト改定しました。チェックしていただけたら有り難いです(忍者小説集の発行年が抜けていた事に気づいて訂正しました(ーー;)。
  眉村卓 著書リスト【一般小説(63〜76)】
  眉村卓 著書リスト【一般小説(77〜84)】

 雫石さん

 >21号「敗者たち」は、SFマガジン第1回コンテストに「下級アイデアマン」と同時に応募された作品です。
 この文章をほぼそのまま反映させていただきました。ありがとうございました。
 

Re: 「星群」

 投稿者:雫石鉄也メール  投稿日:2011年11月16日(水)21時00分38秒
  > No.3304[元記事へ]

高井 信さんへのお返事です。

>  SF同人誌「星群」に眉村さんは以下の作品(小説)を寄稿されているようです。
>
> 「ある夜のめざめ」――「星群」18号(1976年5月1日発行)
> 「その夜」――「星群」20号(1976年11月1日発行)*「宇宙塵」38号(1960年11月号)からの再録
> 「敗者たち」――「星群」21号(1977年2月1日発行)*再録?
> 「霧に沈んだ人々」――「星群」29号(1978年11月1日発行)
>
>  以上。あくまでもデータだけで、現物を確認したわけではありません。間違っていたら、ごめんなさい。

間違っていません。現物を確認しました。
21号「敗者たち」は、SFマガジン第1回コンテストに「下級アイデアマン」と同時に応募された作品です。
29号「霧に沈んだ人々」は「燃える傾斜」の前後に書かれたものと思われます。なお、星群29号掲載時にはイラストが添えられていますが、眉村さん直筆のイラストです。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

「星群」

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年11月16日(水)20時03分13秒
   SF同人誌「星群」に眉村さんは以下の作品(小説)を寄稿されているようです。

「ある夜のめざめ」――「星群」18号(1976年5月1日発行)
「その夜」――「星群」20号(1976年11月1日発行)*「宇宙塵」38号(1960年11月号)からの再録
「敗者たち」――「星群」21号(1977年2月1日発行)*再録?
「霧に沈んだ人々」――「星群」29号(1978年11月1日発行)

 以上。あくまでもデータだけで、現物を確認したわけではありません。間違っていたら、ごめんなさい。
 

ジャズ部門でブレークってのは不可解ですが

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月15日(火)23時14分17秒
   由紀さおりが再ブレークしているというので、久しぶりに「夜明けのスキャット」でも、と、youtubeで視聴しました。この曲は、「みんな夢の中」(高田恭子)と共に歌詞がSFなので(前者は光瀬的宇宙-時間テーマ、後者は異次元往還譚)、仲間うちで好評だった曲ですが、いま聴いてもやはり名曲ですね。
 それはさておき、このページのを聴いたのですが、右端の関連曲の欄に、由紀さおりや昭和歌謡が並ぶなか、なぜかぽつんと「卒業」(サウンド・オブ・サイレンス)が出ていて、あれ、と思った。
 この曲も懐かしいので、ついでに聴いてみたのですが、イントロで、なるほど、そうか! と疑問氷解。膝ぽんでありました(ちなみにこっちの関連曲欄には「夜明けのスキャット」が)(^^;。
 youtubeのソート機能って凄いですね。単にテキスト文字でソートするばかりではない、ってことですよね。一体どのような仕組みなんでしょうか。いやまあ、たとえ説明されても馬の耳に念仏なんですけど(笑)。

 週末の読書会に備えて、『土井徹先生の診療事件簿』に着手。
 
 

カナリアはちゃんと選ぼう

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月14日(月)22時48分30秒
   ≪私の考える「大人の物語」というのは、読者から「おもしろくない」と言われたときに「このおもしろさがわからないのは、きみが未熟だからだよ」と返すことが可能なものだ≫シンポジウム「子どもの物語・大人の物語」レポート

 まったくそのとおりだと思います。ですが近年の出版事情はこの正論を許さないようですね。
 本エッセイによれば、まことしやかに言われているらしい「売れたければ中学二年生にわかるように書け」というのは、要するに(一般書を読み始める年齢である)中2にわかれば、それより上の世代は当然わかるからその本の購買可能性はマックスになる、という戦略なんでしょう(事実私も大人ものを買い始めたのは中2でした)。

 だがこれには条件があって、「読者を中2から成長させてはいけない」ということが予め含まれている。著者の言葉を言い換えれば、読者の「読解力や想像力や論理的思考力が鍛えられ、人生経験も積み、行間も読める」ようになってしまっては、逆に通用しない本になってしまうからです。

 となれば出版社が次に取る戦略は、読者を「中2から永遠に成長させない」よう、コントロールすることに違いありません。たとえばそれは、大人の本と見せかけて、実際は子供の本と何ら変わらない程度の話で読者を塩漬けにしてしまう、といったことでしょう。
 越水氏の「大人の本に子供の物語の手法で書かれたものが多くなってきている気がする」という発言に価値観は含まれていませんが、まさに事実としてそれを裏付けるものであるように思われます。
 これに対して、大人の本と子供の本の区分けについて「書店や図書館で本を並べるときの便宜上のものにすぎない」という令丈氏の発言は、悪い意味で示唆的です。

 どうやらこの戦略は成功しつつあるようです。著者も「大人の物語を求めるひとは少数派になりつつあるのではないだろうか」と危惧されていますね。実はこれ、著者が言われる坑内カナリア理論に相当するんですよね。――てことで、坑道に入る際は藤野氏を連れて行きましょう。令丈氏では役に立ちません(>おい)。

 以上は当該エッセイに触発された(というか捻じ曲げた)私の妄想であり、著者藤野氏の意見にあらざることは申すまでもありませんが、ここは念には念を入れて(中学二年生にも理解できるよう)ひとことお断り申し上げておきます。
 

Time Waits for No One

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月14日(月)01時45分1秒
 
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「時間はだれも待ってくれない」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月13日(日)22時49分35秒
   高野史緒編『時間はだれも待ってくれない 21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集(東京創元社11)読了。

 (書籍のかたちでは)30年ぶりの東欧SF傑作集とのことで期待して読み始めました。期待通りの傑作集となっていて満足。既に東欧圏は存在しませんが、ロシア圏から離脱したとはいえ、やはり西欧とは違う独特の感性・土俗性がありますね(旧東独も含めて)。それが英米SFにまみれた私などからしますと、なかなかに新鮮でした。
 以上は編集以前にあるアプリオリな特質ですが、本集はその編集動機においても、ある独特な偏り(編集意図)が認められます。それはまず、1)原則21世紀に発表された作品からのセレクション(しかも直訳)であること、次に、2)ファンタスチカ傑作集であること――の二点であります。
 そのような(二重、三重の)意味において、本集は他に類例のない、編者の主体性が強く出た、個性的なアンソロジーとなっていると思いました。

 東欧的ということに重なりますが、読中私が感じていたのは、一種懐かしい気分でした。それは本集収録作品に、60年代後半から70年代にかけての第一世代日本SFと同様のにおいを感じ取っていたからのようです。はっきりいって近年の日本SFよりも、ずっと第一世代ぽいという印象がありますね。具体的にはキャラで小説を作っていない点。
 それはおそらく東欧地域が、現在の日本の出版状況ほどには、商業主義に絡め取られていないからではないか。作家たちの状況が、日本の6〜70年代のそれに近いところがあるのではないでしょうか。

 21世紀作品集という意味では、「3・11」就中福島原発事故が(とりわけ編者において)大きな影を落としている。それについては個別に述べるつもりですが、客観的には東欧諸国の作品とフクシマとの間に直接的な関連はない。ただ当該事故が起きるまでは、原発事故といえばチェルノブイリでした。この点に本職が小説家である編者の、その作家的想像力が大いに刺激されたのは間違いなく、作家の想像力によってフクシマとチェルノブイリが内的に重ね合わされたのはある意味当然といえる。編者の主体性が強く出た個性的なアンソロジーと書いた所以です。

 それとはまた別の意味で、本集は(一応SFの文字も冠してはありますが)「ファンタスチカ」に特化したセレクションとなっているのも、同様に編者の主体性が強く出た個性的な編纂態度であります。
 この「ファンタスチカ」という、ちょっと日本の読者には唐突な文芸用語ですが、読んでいて、読み進めるほどに、ああこれはよい概念提示だな、と頷かせられずにはいられませんでした。私的に理解したところでは、要するに「SF」とはいいがたく、かといって「ファンタジー」でもない、そのような種類の作品群を指す言葉と考えてよいのではないでしょうか。

 おそらく、本集中の作品のあるものに対して「これがSFか?」と首を傾げる読者がいるに違いない。当然ながらその意味するところは、「この作品はもちろんSFであろう。しかし私が感じるSFではない」ということなのですが、そしてその感覚は、私にも十分に理解できるのですが、実はこれ、SF開闢以来のおなじみの違和感(ジャンル内見解の相違)ですよね。しかしそのような感覚を、棚上げしたまま、我々は、どちらの立場の作品も「SF」(広義の)として雑居させて来つづけていたといえる。
 同様の意味で、たとえばブラッドベリはファンタジーではないのか、という意見があります。たしかにある意味でファンタジーでしょう。しかし火星年代記もハリーポッターもおなじファンタジーというのはいかにも違和感がある。ここでも「ファンタジー」(広義の)の名の下での雑居が起こっています。
 そこで「サイエンス・ファンタジー」などという言い方が英米にはありますが、少なくとも日本では一般化していない。それはやはりこの言葉自体が「語義矛盾」であり「雑居的」であることが受け入れがたかったのではないでしょうか。
 また日本ではある種の「SF」や「ファンタジー」作品に対して、その語感を嫌って「幻想小説」という場合があります。山尾悠子がそうですね。これまた純文学系の伝統的な「幻想小説」観からすればちょっと違います(私はこれまで、紹介するに幻想小説としたりファンタジーとしたり、その時々の温度と湿度で、一定しなかったのですが、今後はファンタスチカで統一するかも)。

 「ファンタスチカ」は、かかる意味で「SF」ではなく、「ファンタジー」でもなく、いわんや「幻想小説」でもない、ある種の小説にうってつけの命名ではないでしょうか。「ファンタスチカ」という概念を提出したのは、本書の大きな功績であると思いました。むろん東欧ロシア圏ではごく普通に流通するジャンル指示語とのことですが、察するところ編者は、私が上に書いたような範囲でこの言葉を用いているように思われます。その意味で、「SF・ファンタスチカ傑作集」という副題は、「ファンタスチカ傑作集」でよかったのではないか。おそらく東欧圏には、何の疑いもなく「SF」といい得る作品が存在しているはずなんです。最初の段階で編者はそれらのSFも収録するかどうか検討したかも知れない。しかし、セレクトされたのは「ファンタスチカ」であったというのが真相でありましょう。

 以下、簡単に――

 <オーストリア>ヘルムート・W・モンマース/識名章喜訳「ハーベムス・パーパム(新教皇万歳)」
 や、これは傑作! しかし(私の読み間違いでなければ)新教皇になられた「お方」が、教皇になる小説内的必然性はおそらくないはずなので(ですよね)、私ならリドルにしたいところ(^^;。登場のシーン、遠く小さく「光っている」ものがまず見えてくるので、伏線として(記述された)候補者すべてに、どこか「光る」部分を描写しておけば面白いような(笑)。本集中ではもっとも「SF」的。

 <ルーマニア>オナ・フランツ/住谷春也訳「私と犬」
 いやこれも佳品ですな。著者は73年生まれとのことで、日本で言えば長谷敏司(74生)ら最近の若手作家と同世代。ところが作風は大違いで、編者が「星新一にも似た情緒性」という指摘をしていますが、文体も星的に抑制が効いている。視点と描写という小説の契機大前提が、ルーマニアではまだちゃんと前代から後代へ伝えられているんでしょうね。というか、いわゆるライトノベル(YAにあらず)が存在していないんじゃないかな。日本はライトノベルで育った世代とそれ以前の世代で切れてしまったように思います。

 <ルーマニア>ロクサーナ・ブルンチェアヌ/住谷春也訳「女性成功者」
 本篇にもロボットが登場しますが、それは主人公の内面を浮き上がらすための道具としてであって、このようなロボットが将来実現するかもですよ、といった話とは全く違う。英米的にはサイエンス・ファンタジー。

 <ベラルーシ>アンドレイ・フェダレンカ/越野剛訳「ブリャハ」
 編者が述べるようにファンタスチカとは言い難く21世紀作品でもないのだが、チェルノブイリを扱っているので収録したものとのこと。サバイバルものとの観点ではイギリスSFにありそうですが、そのような意味を離れて、私は黒島伝治のシベリアものを連想させられました。ごつごつとしたタッチが熱っぽい臨場感をもたらす力作。

 <チェコ>ミハイル・アイヴァス/阿部賢一訳「もうひとつの街」
 これはいかにもチェコっぽい(と感じるのは日本人の偏見かもしれません)幻想味横溢のファンタスチカ。チェコの荒巻義雄といいたい。そんな作風です(笑)。9章でできた長篇の、8、9章のみ訳出(1から7章はあらすじが1頁にまとめられている)というのは、一見あまりにも乱暴な気もするのですが、逆にいえば全訳では冗長な作品なのかも。とりあえず訳出部分だけで異様な迫力があります。

 <スロヴァキア>シチェファン・フスリツァ/木村英明訳「カウントダウン」、「三つの色」
 両作品とも、かつての「NW−SF」誌に載っていそうなテロ小説。後者は藤本泉の「紙幣は吹雪のごとく」を思い出した。全く忘れていたのに。おためごかしな解決を提示しない、読者無視なところが、いっそ清々しくてよかったです。著者は自殺したそうですがさもありなん。なおこの2作品、目次で順番を間違っています。重版時訂正を願う。

 <ポーランド>ミハウ・ストゥドニャレク/小倉彩訳「時間はだれも待ってくれない」
 おお、これはまたポーランドの広瀬正ではないですか! 年に一度、ハロウィーンの日に(今はもはや存在しない)古い建物たちが、その夜だけ、元の場所に還ってき、一晩かけて新築から崩壊までを再現するという、まさに西洋のお盆にふさわしいアイデアが素晴らしい。ナチスによって壊滅させられた当時のワルシャワの建物が、現在のワルシャワに重なって出現します。著者は、今の都市のどのあたりに、それらの過去の建物が存在していたかを、ただただ精細に復元するため「だけ」に本篇を描いているように思われます。

 <旧東独>アンゲラ&カールハインツ・シュタインミュラー/西塔玲司訳「労働者階級の手にあるインターネット」
 西独に統合された東独という「この世界線」の(おそらく東)ベルリンの主人公の許に、ありえない<ドットDDR(東独)>のメールアドレスからメールが届く。差出人は主人公と同じ名前。手の込んだいたずらか? ところが、それは東独がドイツを統一した<別の世界線>からの配信だった! ドイツ人(とりわけ元東独人)には奇妙なノスタルジーを感じられるのではないでしょうか。私は野田昌宏の「五号回線始末記」を連想させられました。かたや双方向テレビ、かたやインターネットと、ツールに時差がありますが、技術的な淫し方が似ていますね。

 <ハンガリー>ダルヴァシ・ラースロー/鵜戸聡訳「盛雲、庭園に隠れる者」
 これはボルヘスが試みたのと同じ、中国の志怪・怪談を装ったもの。日本でいえば「異形コレクション」に載っていそうな話。

 <ラトヴィア>ヤーニス・エインフェルズ/黒沢歩訳「アスコルディーネの愛―ダウガワ河幻想―」
 こちらは民話風。ケルト民話的な、たとえばフィオナ・マクラウドを思い出したのですが、バルト語族って、ひょっとして古くはケルト人と関係があったのではないでしょうか。先日読んだ『アーリア人』にはゲルマン人の形成に、当時東ドイツ・ポーランド辺りいたケルト人も関わっているようですから、あながち妄想ではないかも(^^;。閑話休題、読み出しはなんとなく取っ散らかっていて集中できなかったのだが、後半それらがぐんぐん収束していき、終わりよければ全てよしとなりました(笑)。

 <セルビア>ゾラン・ジヴコヴィッチ/山崎信一訳「列車」
 ちょうど10頁。むだな描写をとことん削ぎ落とした簡潔な文体は、まさに星新一。アレゴリカルなストーリーも星新一的です。端正によく練られたショートショートの味わい。

 以上、ある意味無理矢理に日本第一世代と関連させて感想を書いてみました。というのは、最初に書いたように、本集全体に、60年代後半から70年代にかけての<日本SF第一世代>の雰囲気が感じられて、或る「懐かしさ」を覚えずにいられなかったからで、決してこれらの作品のオリジナリティを貶めようとしたのではない。そのことは強調しておきたいと思います。
 編者の主張がある、良質のアンソロジーで楽しみました。続巻の「ロシア編」も期待します!
 

アキラのシベリア

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月12日(土)23時49分56秒
    

 私はジャズだけではないのである。m(__)m
 

モスコーの夜は更けて

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月12日(土)00時48分24秒
 


『時間はだれも待ってくれない21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集は200頁まで。あと80頁。

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書かれざるパニックSF

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月11日(金)01時04分17秒
   またひょいと、忘れていたことを思い出しました。
 みなさんは黒潮をはさんで列島側と沖側とで海水面の高さが違うことをご存知ですか? 沖側のほうが水位が高いのです。
 つまりイメージ的にいえば、日本列島は(正確には静岡以西の太平洋岸は)海水のすり鉢の底に位置しているようなものなのです。ところが黒潮が流れているお陰で、それが防潮堤みたいな役割を果たして、水浸しにならずにすんでいるのです(そのメカニズムを当時は理解していたはずなんですが、それは甦ってこなかった(^^;)。
 しかし、もし黒潮の流れがなくなったら? ――沖合いから一気に海水が流れ込んで(なだれ落ちて)きて、列島沿岸に襲いかかるでありましょう!
 これ、SFになりそうだな、と当時思ったのでした。ではどうしたら黒潮の流れを消せるか? 別に理由はいらんのんとちゃうか。小松さんの「夜が明けたら」だって、地球の自転がとまった理由は書かれてなかったはず。なら、それよりかなりスケールのちっちゃい黒潮の流れが止まる理由なんて、別になかったって、なんの問題もあらへんやん。
 で、私はそのパニックSFを書いたでしょうか? 残念ながら断念せざるを得なかったのでした。なぜならその理由は簡単で、黒潮の両側で水位差があることはあるのだが、あろうことかあるまいことか(あるのですが)、その差はわずか1メートル程度だったのでした。10メートル、いや50メートルくらいあったらねえ(>おい)。 
 

小松さんの「高橋和巳の思い出」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 9日(水)23時07分59秒
   ≪闇雲に歩いているうちに、夜が明けたら一番の飛行機でとぼうか、という気持ちになった。しかし、まわりが、私にかくしたがっている、という事が、どうにもひっかかった。K社の若い編集者は知っている。関係のないHは知っている。――だが、私は知らされていない。情報は、まるきり関係のない筋から、一種の好意でもれてきたのだ。あまり関係のない人たちの、酒席の噂にのぼる話が、どうして京大入学当時からの友人であり(……)精神的なつながりは決して切れたわけでない私に、直接つたえられないのか?≫[すべて読む]

 『机上の遭遇』を引っ張り出してきて、「「内部の友」とその死」を読み返していました。入魂の力作。60頁に亘って小松さんが力を振り絞って全力で書いておられます。なぜ小松さん(や関西在住の京大の友人たち)が見舞いに行かなかったのか、納得できました。
 のみならず、本エッセイは、『高橋和巳の思い出』と照応する部分が多い。ただし立場が違いますから視点も違います。
 上掲書は、たか子さんの視点から見た和巳だったわけですから、やはり偏りがある。たとえば<対話叢書>第一弾として「捨子物語」を和巳が自費出版したとき、そのあと続けて小松以下同人が順次長篇を上梓していくはずだったのに(小松エッセイによれば小松が書くはずの(と和巳がひとり決めしていた)作品は「彼方へ」)、そうならず、いわばはしごを外されたかたちになって和巳がショックを受けたと記されている、このいきさつは、小松エッセイを読むと、別の相が浮かび上がってくるのですよね。

 とはいえ、たか子さんと小松さんの和巳観は、そのような視点的な認識のずれはありますが、全体像としては、まさに同じことを言っていて、これは驚くばかりです。むしろ両方読むことによって、私はいわば両眼視差効果で、高橋和巳の全体が<立体視>されて浮かび上がってくるように感じました。その意味では併読すべきエッセイとなっており、これから読まれる方もぜひ併読を奨めたいと思います。
 

Re: 忍者小説集&「高橋和巳の思い出」

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 8日(火)23時25分30秒
  > No.3294[元記事へ]

 高井さん、流転さん

 ありがとうございます。頂いた情報追加しました。→http://okmh.web.fc2.com/i/mayu.htm
 たしかに光瀬龍、宮崎惇が執筆していないのは、SFファン的には不審ですよね。そういえば豊田さんは歴史物が得意でしたが、江戸時代の忍者ものは意外に書かれてないような(確認もせずに言ってます)。古代の忍者はありますが。

     ――――――     ――――――     ――――――

 ≪こんな書きかたをするのは私の我田引水ではない。主人を根源的なところで理解していた、大学時代の主人の友人、近藤龍茂氏や小松実氏もおそらく私と同意見だろう。≫ →[すべて読む]

 高橋たか子『高橋和巳の思い出』(構想社77)読了。

 読んで、「ある意味で」高橋和巳夫婦は、眉村さんのところに似ているなあと思いました。「ある意味で」ですが。つまり、奥さんが、夫が作家になることを強く望み、そのために自分ができることはすべてやった、夫が作家になることが、妻の最大の生きがいだった、というところが、です。あと第一読者だったというところも。
 でも、眉村さんの奥さんは、夫が(高橋和巳のような「狂人」ではなく)眉村さんで本当によかったなあ、としみじみ思いました。もっとも、たか子本人も相当キョーレツです。その意味で、眉村さんも、奥さんが悦子夫人であって本当によかったよかった(でも夫が妻に頼りきっていたというところは同じですね>おい)m(__)m。

 「臨床日記」が凄絶。若いから進行も早かったのでしょうが、やはり現在とは医療技術に格段の格差を感じました。告知しないのが主流の時代で、著者はそれでいいのかと自問しながらもそれに従っていたのだが、それも末期になってくると苦しいですね。

 一つ疑問が。これは前にも書いたかも知れませんが、日記が見舞いに訪れた作家編集者を余さず記録しているのだとしたら、小松左京が一度も来ていないのですよね。45年12月21日に入院し、46年5月3日に亡くなるまでの日記で、その間に、埴谷雄高、柴田翔、真継伸彦、開高健、小田実、吉川幸次郎、梅原猛、大江健三郎が見舞いに来ているのですが……。近藤龍茂も一度来ている。
 万博は45年秋に終わっています。それ以後も超多忙だったのか。何か別の理由があるのか。
 小松さんの自伝に何か書かれてあったっけ。と思って、『SF魂』を引っ張り出してきました。それによると、45年暮れから46年正月にかけて星新一とオランダに行かれていますね。で、46年後半から『歴史と文明の旅』の取材で海外取材のハードスケジュールがつづくようです。だから多忙だったのは間違いありません。しかし確実なところは判りませんでした。今後の課題。

<追記> これを書いたあと、風呂に浸かっていてふと気がついた。小松さんは見舞いに行って高橋と対面したら、嘘をつき通す自信がなかった。だから見舞いに行きたくても行けなかった。のではないかと。或いは、小松さんが見舞いに行けば、それだけで高橋は死病であることに気づいてしまう。だから行けなかった。もしくはたか子さんがそう言って小松さんに来てくれるな、と頼んでいたのかも。そんな気がしてきました。

<さらに追記> 気になって、当掲示板の過去の書き込みを検索したら、ありました→ここの7月16日の書き込み。

 再録します。
 小松左京『机上の遭遇』(集英社文庫 86、元版82)より、高橋和巳関連の2編を読む(「高橋和巳の姿勢」、「「内部の友」とその死」)。
こんなエッセイ集があったとは今日まで知りませんでした。

高橋和巳が不治の病で「命旦夕にせまっている」のを小松左京が知ったのは、高橋の親族からではなく、SF作家のHからだったそうです(Hが星新一であることは文脈で明らかです)。
Hはとある編集者からそれを聞いたとのこと。Hによれば編集者はHに喋ってから、あ、Hさんは小松さんと知り合いだったんだな、とすこしあわて出し、実は高橋さんの家族から、小松さんには知らせないで欲しいと釘を刺されているから、小松さんには言わないでくれ、と釘を刺されたんだというのです。
いうまでもなくHと高橋和巳に繋がりはありません。Hはつづけます。
だけど、あなたと高橋和巳の関係は常々あなたからきかされているし、ぼくと君との関係も編集者はよく知っているはずだ。それを知っている上で、言わないでくれというのは、実はそれとなく知らせてくれ、という意味だろうと思って電話した……。

実は高橋家は(というよりも高橋たか子さんは)京大系の友人すべてに対して緘口令を敷いていたのです。小松左京のような朋友に大挙して関西から見舞いにこられては高橋が死期を覚ってしまうとの判断があったのは確かでしょうが、この辺の経緯については、今日の主題と関係ないので割愛します。ただ高橋が立命から明治に移籍し居を鎌倉に移したのを一番喜んだのはたか子でしたし、恩師吉川幸次郎の引きで和巳が京大へ戻ったときも、たか子は鎌倉に留まっています。


 完全に忘れていたのですが、無意識は記憶していたのでしょう。それが湯に浸かっているうちに、不完全なかたちで意識に上がってきたのでしょうか。
 

Re: 忍者小説集

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年11月 8日(火)20時03分42秒
  > No.3293[元記事へ]

 流転さん、どうもです。
「忍者小説集」当該号ですが、残念ながら光瀬龍さんや小松左京さんの作品は掲載されていません。
 特集とはいえ、全3編。眉村さん以外の作品は、三橋一夫「星人」、朝倉文治郎「海女こぶし」です。宮崎惇さんの作品がないのは、言われてみれば意外ですね。
 で、ふと思いついて宮崎さんの作品スクラップを眺めておりましたら、同じ号に眉村さんの作品も掲載されていることに気がつきました。
 いつもでしたら管理人さんにメールでお知らせするのですが、こういう流れですから、ここに書かせていただきます。

 眉村卓「屋上の夫婦」――「小説CLUB」昭和49年5月増刊号
  『ワルのり旅行』に収録
 眉村卓「砂丘の女」――「別冊小説CLUB」昭和50年8月号
    『異郷変化』に収録

 あくまでも宮崎作品のスクラップゆえ、眉村さんの作品そのものを確認しているわけではありません(目次ページで作品名と作家名を確認しているだけ)。また、掲載誌情報は「宇宙塵」182号(1982年2月28日発行)に掲載の「宮崎惇創作年表」に拠っています。
 

忍者小説集

 投稿者:流転  投稿日:2011年11月 8日(火)17時55分0秒
  眉村先生以外の執筆者の方が気になります
宮崎淳先生が書いておられるのは確実だと思うのですが・・・
もう少し後だと光瀬先生も書いておられると思うのですが
果たして?、後、もしかして小松左京先生が書いておられたりして・・・
 

三羽烏

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 7日(月)20時07分30秒
   本日の収穫♪

 ≪主人と近藤龍茂氏と小松実氏(現在の小松左京氏)とは、京大在学中、三羽烏といわれるほど親密であった。(……)主人は後にいろいろなグループに所属することになり(……)知人友人が次々と出来たが(……)純粋友人というべきは、「作家集団」(……)の人々であり、その中心に、三羽烏的結束があった。高橋和巳の才能と、近藤龍茂氏の才能と、小松実氏の才能とは、群を抜いていて、三人の特別な結束をまわりの友人達は容認していた。……≫

    ⇒《全文を読む》



 

Re: 眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 7日(月)18時53分16秒
  > No.3290[元記事へ]

 高井さん

 毎度お世話になり、ありがとうございます。

 >おもに昭和30年代、40年代です
 その頃が特に情報不足で、且つ錯綜散逸しているんですよね。
 それを逆にいえば、書誌研究者にとって「宝の時代」ということになるんでしょうか(笑)

 >ご活用いただければ幸いです。
 とてもありがたいです。また何かありましたら、よろしくお願いします。

 
 

Re: 眉村さん情報

 投稿者:高井 信  投稿日:2011年11月 7日(月)08時03分57秒
  > No.3289[元記事へ]

>  でも高井さん、一体何を調査しておられるんでしょうか(^^;。
 某作家の、おもに昭和30年代、40年代です。調べていると、いろいろと目につくんですよね。
 ご活用いただければ幸いです。
 
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 6日(日)23時02分34秒
   またまた高井信さんから眉村さん初出情報が届いております。ありがたい。でも高井さん、一体何を調査しておられるんでしょうか(^^;。

「決算の夜」――「サンデー毎日別冊」1963年5月
「限りなき逃避」――「世界の秘境シリーズ」第33集(1964年12月)*当該ページのスクラップしか確認していないため、月号は不確か。単行本未収録? あるいは、タイトル変更?
「暗示忠誠法」――「世界の秘境シリーズ」第36集(1965年3月)*当該ページのスクラップしか確認していないため、月号は不確か。
「宿直」――「週刊小説」1977年11月25日号*単行本未収録? あるいは、タイトル変更?

「身がわられの記」――「忍者小説集」昭和40年新年特大号。「特集・忍者S・F小説」中の1編。単行本未収録?

 タイトルがリストにある「決算の夜」「暗示忠誠法」は、上記初出情報を空欄の初出誌欄に記入しました。
 問題は、「限りなき逃避」「宿直」「身がわられの記」で、単行本未収録か、タイトルが変更されて既に単行本収録済みか、どちらかということになります。とりあえず、リンクしたリストの末尾に、補遺的に収納してみました。どんなものでしょうか。リスト
 もともと完成したリストでも、完成を目指したものでもないので、些かファジーですが、こういう形にしておきます。利用される方が適当に加工して使って下さい、ということで(^^ゞ

 それにしても「忍者小説集」という「雑誌」があったんですねえ(笑)
 同送して頂いた画像
   ↓
 

「日本アパッチ族」(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 6日(日)15時55分20秒
  > No.3269[元記事へ]

 承前。山田捻の観念造形はかなり複雑というか複合的で、先回述べたように、1)共産党専従に多い上から目線の「引き上げてやる」的傲慢性が付与されている。と同時に、2)共産党の体質としての個人圧殺的非人間性には、人道主義的観点から反抗を示す、いわば井上光晴や高橋和巳や真継伸彦、柴田翔的な(よく知らないのですが、当の山田稔もそうなのかも)、いわゆる教養豊かな進歩派文化人(士)の象徴でもあります。従って(おそらく共産主義者であったろう)山田があくまでアパッチに加わらず批判的なのは、実にもって当然なのです。
 しかるに本来の共産主義は既存の人間主義を超越しなければならないとの立場からすれば、中間派的でもある。六全協以降の民主主義共産党は、この意味で中間派的な綱領を持つわけですが、余談ながら共産党の中間主義化を拒否して別れたのがいわゆる新左翼(全共闘)であると(形式的には)いえるでしょう。

 アパッチが担うのは、かかる新左翼的立場であったといえると思います。この立場から見れば、「アパッチもまた人間である」としてアパッチを擁護したいわゆる進歩的知識人は、「アパッチ」をまったく勘違いして支持したことになる。
 実際、後になって彼ら文化人が、ぜんぜん鉄化していなかった事がわかる(319p)、という筋立てには、小松左京の冷徹な認識(自己認識?)が反映されているようです。
 浦上は彼らとは少し違って、実際に鉄化したわけですが、文化人の尻尾は最後まで切り落とせなかった。つまり鉄化が完遂しなかった。半人前ならぬ「半鉄前」で終わったようです(実は木田福一自身がそうだったことも、ラストで明かされる)。(4)のラストで、「ではオーバーロードに対応するのは?」と書きましたが、まさにこの浦上(眉村さん?(^^;)と、そして木田(福田紀一ですが、実質的には小松左京)こそ、オーバーロードに比してよいのではないでしょうか(^^ゞ。(以下次回)
 

「想像するちから」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 5日(土)22時06分13秒
   ライターの大橋博之さんが、仕事関係で関西に来ておられるというので、夕方、梅田でお会いしていました。昼間からあいている居酒屋チェーンで、生ビール飲みながら、いろいろ近況を聞かせてもらう。なにやら来年から再来年にかけ、SF関係でいくつか、大きなイベントや企画がありそうですよ。まだ海のものとも山のものともしれないところのようで、具体的な内容を記すことができないのが残念ですが、ワクワクするようなお話を伺うことができました(^^)。実現されることを期待してやみません。

 松沢哲郎『想像するちからチンパンジーが教えてくれた人間の心(岩波書店11)読了。

 先日の阪急六甲までの往復で7割がた読んでいて(当地からだとそれくらい電車に乗るわけです)、残りを本日の電車往復で読了。

 著者はやはり京大霊長研で、『サル学の現在』には直接出ていませんが、「言葉を覚えたチンパンジー」の脚注には名前が出ています。この章のインタビュアーの室伏靖子の後継的な立場の方でしょうか。で、その方が「還暦」を迎えて「遺書のつもりで書いた」ものとのことで、今年出たばかりの本。なんと「サル学の現在」の「過去」であることか。そういうことから論文集というよりも一種のエッセイ集に近いもので(その意味では木田元の近著みたいな感じ)、非常に面白かった。

 人間とチンパンジーが、その共通祖先からそれぞれ分岐していった種であることは周知ですが、人間の知性のファンダメンタルな部分が、チンパンジーにも同様に備わっていることが見えてくると、殆どそのことが直観(≠直感)的に納得させられますね。
 では人間とチンパンジーは(知性的には)どこで分かれたのか。それは人間が、共通祖先の持っていた「直観像記憶」能力(一瞬にして見たものを画像として記憶する。たまにその能力が残っている人がいる。ダスティン・ホフマンのレインマン)を失うことでその代わりに(トレードオフ)言語を獲得したとします。でかかる言語的記憶の獲得により、長時の記憶が可能となると同時に、そのことによって逆向きの方向に、未来の存在をも理解する。それが「想像」することの原初形態となるのです。人間は「想像」できるようになって人間となった。未来をはかなんで死ぬのは人間だけであって、チンパンジーは(身体に重症を負って死んでいくその過程であっても)決して絶望することはないのだそうです。

 追記。DVD「セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー」を視聴。
 

常盤武彦さんのフォト・トーク・セッション

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 4日(金)21時20分52秒
   昨日は、阪急六甲にある甲陽音楽院神戸本校(米バークリー音楽学院提携校)で、常盤武彦さんのフォト&トーク・セッション・ツアー2011という催しに参加してきました。
   

 常盤さんは、フォトグラファー・ライターでニューヨーク在住。『ジャズでめぐるニューヨーク』amazon)や『ニューヨークアウトドアコンサートの楽しみ』amazon)の著書があります。

 実は参加するまで、常盤さんのことは何も知らなかったのでした。堀さんのマッドサイエンティストの手帳にこの催しが紹介されていて、ああ面白そうだなと、参加してみたのでした。
 到着したら堀さんもいらっしゃって、並んで坐らせて頂いて鑑賞。常盤さんが手元のノートパソコンを操って、ご自身が「コードやスタンドを掻い潜って」撮り溜めたものから厳選したフォト画像を、スクリーンに映し出し(もちろん音も)、それにトークを入れるという段取りで、アメリカのジャズ・ヒップホップシーンの<いま現在>を紹介するものでした。

 はっきりいって1967年7月17日で時間が停止している私には、もはや紹介されたミュージシャンの名前を列挙することも不可能(^^;。ただ、そもそもモダンジャズはダンス音楽から脱皮することで成立した面があると思うのですが、今はダンサブルであることが必須条件であるらしいことはわかった。
 ちょっとそれますが、今聴いている最中のDVD「ブルーノート物語」に、奇しくも昨日言及されていたカサンドラ・ウィルソンも登場していて、「昔はボーカルも楽器の一つだったが、いまはボーカルのために楽器がある」(大意)と語っていますね(文脈を離れてこの言葉だけ聞くと何やらゴーマンですが、常盤さんによると「気分の差は激しいがとてもいい人」だそうです)。
 閑話休題。かくのごとく、常盤さんが実際に接することで得たミュージシャンたちの生の地、生態なども話されたので興味深かった。とりわけソニー・ロリンズの逸話は、私には腑に落ちるものでした。

 この催しに、岩波新書『コルトレーン』amazon)の著者である藤岡靖洋さんがゲストでいらっしゃっていまして、当該書を読んだ時に少し疑問だったコルトレーンの来日スケジュールについて、堀さんの驥尾に付して質問させていただいたのでしたが、単なるメモのたぐいではなく公式のものを確認したものとのことでした。うーむ。

 終了後、嬉しいことに堀さんが誘って下さったので、素人であることも顧みず打ち上げに参加させていただきました。三宮のジャズストリートを少し上がり、左に折れて少し行った、堀さんご贔屓の中華料理屋さんで、出てくるもの全て素晴らしく美味しくて、口も堪能させてもらったのですが、それにもまして濃い話を聞くことができ、まさに眼福ならぬ耳福で、思いもよらぬ楽しい夜となりました。
 帰途、阪急電車で堀さんとSF話ができたのも楽しかったです。電車の連絡もよく、宵の口すぎに上機嫌で帰館。

 で、翌朝(つまり今朝)目覚めると、寝汗をかいていた。やはり風邪を引いていたみたいで(多少ふつか酔いも)、今日一日だらりんと過ごす。読書不可。ということで、上記の「ブルーノート物語」を視聴しているというわけです。
 

午前零時は宵のうち

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 3日(木)00時23分11秒
   先週の疲れがいま出てきたのでしょうか、とつぜん身体がだるくなり、youtubeを聴きながらさっきまで横になっていました。風邪をひきかけているのかも。しかし明日は出掛けなければならない。ということで、早寝するのである。

   
 

関関同立ランチパック

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 2日(水)16時33分39秒
   巷間話題沸騰の関関同立ランチパック、コンビニに立ち寄ったら売っていました。実はさほど興味なかったので、見つけた時も「あ、売ってるな」くらいな感じ。
 ところがよく見たら同立は売り切れて、関関が1個ずつ売れ残っていた。む。もしこのあとで関大が売れたりしたら、ちょっと名折れであるなあ、と、そう思ったら、ムラムラと、ふだんはそんなものは欠片もないのですが、愛校精神が湧いて来まして、つい購入してしまいました(^^;。
   
 味は……。ま、それは言わぬが花。てか、製造年月日が11月1日なので一日寝てしまっていて、たまごがあんかけじゃなく固まってしまっていたのだった。出来立てだったら美味しかったかも。
   ↓
   動画
 

万能ハガキ

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 1日(火)17時46分12秒
   昨日、ABCラジオで野球中継聴いていたのですが、CMが極端に減っていて、へえー、と思ったのでした。当たり前ですが攻守の交代のタイミングでCMが入ります。だいたい二本入ります。昨日は二本のうち一本は自局番組のPRでした。二本ともPRだった回もありました。うーむ。巨人=ヤクルトでは広告も集められないのでしょうか。赤切ってまで放送しないと思いますが、苦しいと思います。社会的責任と一年間の謝恩の意味と意地がないまぜになっているのでしょうか。

 北杜夫思い出がたりの続きですが、かんべさんの玉石混淆・ふりーめもを読んでいて、そうだ「いろいろに使える万能ハガキ」てのがあったなあと思いだした。どのエッセイで読んだのか思い出せませんが、もちろん知っていて、これは便利と私も(ガリ版で)作成したものでした。ちょうど受験生でして、ひと工夫しまして、

  小生この度[    ]大学に□合格  また遊んで下さい。
                □不合格

 というのを最後に入れたのでした(もちろん合格が確定してから作ったのです)。

 実物は、その1〜2年後、大学に入ってから、眉村さんのお宅で見せてもらいました。実際に郵送されてきたものではなく、北さんが眉村さんに贈られた献呈本に挟み込まれていたように記憶しています。

 追記。わ、昨日のスエ城がもう消されているではないか。まあいいか。あんまり集中できてなかったし。ということでもう一回録りました→スエ城
うむ。だんぜんよくなった。と自分では思うのですが。昨日のと比較できないのが残念。とりあえずこれで逆に後顧の憂い(?)がなくなってさっぱりしました。

 しかしまあ、雑音を聞かされて顔をしかめている方のために、お耳直しにどうぞ(^^;

   
 

Re: 眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2011年11月 1日(火)09時35分24秒
  > No.3281[元記事へ]

 堀さん

 >初出が不明という記事、どこかに出てたのですか
 いえ、リンクしたリストを見ていただくと、初出誌という項目があります。この項目が空白なのは、初出誌が不明(もしくは書きおろしかも)ということを消極的に表現しています。リストはそもそも制作者を反映してきわめて粗雑なもので、きちんと調査すれば分かる部分がまだまだあるようです(いっぱいあります)。そこで空白部分を埋める情報をもっている方が気づいて教えていただけることがあります。高井さんは特に気にかけてくれていて、わかったこと知らせてくださるのです。ほんとうに有り難いです。(だから逆に俺はやるべきことをやってないなと胸が痛むのです)←嘘こけm(__)m
 

Re: 眉村さん情報

 投稿者:堀 晃メール  投稿日:2011年11月 1日(火)03時51分1秒
  > No.3280[元記事へ]

あ、「黄色い時間」の初出が不明という記事、どこかに出てたのですか。
読み落としておりました。
 


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