ヘリコニア過去ログ1201

Re: チャチャヤングの周辺

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月31日(火)20時50分37秒
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  > No.3423[元記事へ]

 高井さん

> いつかは叶うと信じて。
 大丈夫です。私が死ぬときにはお譲りしますから(^^ゞ

 さて、昨日の続きで、中相作さんの労作をアップしておきます。

  
  

 『黒猫ギムナジウム』は100頁。いわゆる帝都ものなので、それらしい(明治っぽい)表現を、と頑張っているのは分かるのですが、ズレているんですよねえ。ときどき抜けてイマっぽい表現がそのまま出てきたり。うーん、こっちの日本語が崩れてきそうで心配になって来ました。ここはひとつ山尾悠子再読を並行させて、カオスに呑み込まれるのを防ごうか知らん(笑)。
 

Re: チャチャヤングの周辺

 投稿者:高井 信  投稿日:2012年 1月31日(火)09時04分24秒
返信・引用
  > No.3422[元記事へ]

 おおおおおおおおーーーーーーーー!
 書影アップ、ありがとうございます。
 こんな冊子でしたか。初めて見ました。

>  勿論いずれは入手できるかも知れませんが、なかなか厳しそうですなあ。ふっふっ。m(__)m
 ええ、そう思いますが、願っていれば、いつかは叶うと信じて。

>  以上、今日は、「ショートショートの…」風にまとめてみました(^^;
 あはは。
 

チャチャヤングの周辺

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月30日(月)23時21分27秒
返信・引用 編集済
   ゆえあって『チャチャヤング=ショートショート』(No.1)(No.2)を出してきました。

 1971年5月1日発行
 1971年11月1日発行

 高井さんによると、「第1集は1000部以上、第2集は4000部以上発行」とのことですが、そもそもはがきで「下さい」と申し込めば、無料で送ってくれるもので、いわゆるSFファン、ショートショートファンは、その内のごく一部だったのではないかと想像されます(ショートショートコーナーへの応募が、毎週200編前後だったと記憶していますから、せいぜい200人前後では?)。つまり大多数は、ショートショートに対してさほど興味があるわけではない「一般人」(?)の手に渡ったわけで、その殆どは紛失したり捨てられてしまったりしていて、実際現存しているのはごく少ないのではないでしょうか。勿論いずれは入手できるかも知れませんが、なかなか厳しそうですなあ。ふっふっ。m(__)m

 さて、下はその目次です。

 No.1
 No.2

 栄えあるトップバッターは、第1集が和田宜久(現・海野久実)、第2集はS・A(現・深田享)。「願い事」も「岬」もオールタイム級の傑作です。両人のセンスは当時から別格でした。また、1集、2集ともトリは小野霧宥で、この三人がどちらにも選出されているのは当然というべきでしょう。しかしもうひとり、両方に掲載された方がいます。何を隠そう、何も隠しませんが、宇井亜綺夫(現・中相作)です! いやー才能は磨かれて花開くとはいえ、そもそも磨かれて輝く原石でなければ輝かないということでしょうね。
 この四人のうち小野霧宥(現・服部誕)のみ、ネットをしていないのであまり目立たないのですが、作品集を二冊出しています。どちらかといえば詩集ですが、散文詩的なショートショートとも読めます。

 1986年10月24日発行
 1992年11月5日発行

 このごろは書いてないのかな。海野さんも最近再開されたそうですし、服部さんにもぜひ戻ってきてほしいものです(発表していないだけかも知れませんが)。

 以上、今日は、「ショートショートの…」風にまとめてみました(^^;
 

「黒猫ギムナジウム」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月29日(日)23時05分42秒
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   今年に入ってからなんですが、どうもこれくらい時間になると、口の中が乾いてくるんですよね。なんかこうザラつくというか、イガっぽいというか。といっても私は常時コーヒーを飲んでいるので、実際のところ口の中が乾く筈がないのです。だからコーヒーをがぶ飲みしたって収まるものではない。ところがウイスキーを舐めると、たちどころに収まっちゃうのです。
 ははあ、これはひょっとしてアル中の初期症状なのかも。そう思ったので、既に二週間ほどになりますが、切れたのを機会に補充をやめていた。口の中の違和感は直らないのですが、別に飲まなくても一向に禁断症状みたいなのは出ないので、さほど気にしなくてもいいのかも。
 ところで私は、ウィンドシンセサイザーEWIのマウスピースの消毒に、ウィスキーを使っているのです。先日久しぶりに吹いたのですが、上記の次第で消毒できなかった。これはちょっと問題かな、と、仕方なく今日ウィスキーを補充することにしました。で、やはりあれば飲んでしまう。さっきも口の中の乾きに気づいたので、ショットグラスにちょろっと入れて舐めてみました。たちどころに口の中が爽やかに(^^;。やっぱり少し気をつけたほうがよさそうですな。しかし考えたらウィスキーを買わずに食品アルコールを買えばよかったんですよね。ミスったなあ、そこまで頭が回らなかった(^^ゞ

 『黒猫ギムナジウム』に着手。ぱらぱらっと数ページ目を通したばかりですが、この躁的な文章、読み通せるのだろうか(笑)
 

「終わり続ける世界のなかで」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月28日(土)21時52分41秒
返信・引用 編集済
   粕谷知世『終わり続ける世界のなかで』(新潮社11)読了。

 後半は一気。面白かった。先回書いたように、特に「ニ」に顕著なのですが、庄司薫をパスティーシュしています(ちなみに作中の地動説天動説は元ネタが。『バクの飼い主めざして』所収のはず)。あと、手紙の文面をそのまま載せるというスタイルは柴田翔か。それらはまちがいなく意識的で、そういうところから推測できるように、「人間いかに生くべきか」といった体のきまじめな教養小説の面があります(でも後述するように主人公は最後まで「変わらない」のですが)。むしろ青春小説というべきでしょうか。私はそのような小説も好きなので、興味深く読みました。ただ、主人公に共感することはなかった。それが微妙に作用して、肯定と否定の間を行ったりきたりする読程でもあった。

 本篇は、1969年生まれの主人公の1980年7月(小5、11歳)から2000年5月(30歳)までが、告白体の形式で語られています。細部の描写が非常に克明で、たとえば部室の書棚にあった本の書名が列挙されたりして著者自身の学生生活などを素材としていることを窺わせますし、折々の日本社会の状況もかなり詳しく解説されて、この話を永遠の無時間な教養小説ではなく、或る時代の青春小説であることを示しています。しかも著者の生年は(後の略歴によれば)1968年ということで、自動的に本篇が、(私小説ではないにしろ)著者の体験を色濃く反映したものであることを想像させます。でも、もしそうではないのなら、著者は筆法を誤ったというべきです。読者は十中九以上そう思うでしょう(追記。ちなみに庄司薫は30代で、過去の自分の同世代のではなく、「現在」の18歳を描いたのです。主人公と著者の同一視は論理的に不可能になっています)。ここが体験を素材にしても、全く変形し盡して原形を読者に覚らせない山尾幻想小説とは、小説との距離のとり方が180度違うところですね。どっちがいいとも正しいとも思いませんが、本篇の筆法は身を切らせる面があるとは思います。とまれ以下そのように読みます。

 さて物語は、小5の女の子がノストラダムスのテレビを見て、その予言を信じ込んでしまいます。それが彼女のその後の半生を強く規制していく(大学に入ってはじめて事実に目覚める)という骨格があるのですが、この設定はリアリティ的にいかにも不自然で有り得そうにない。というのは先回も触れました。しかしそれは重要ではなく、そもそも彼女がそのような、「他者に影響を受けやすく受けると盲目的になり鳥瞰的な視点をよう持たない」という性格設定に起因するものだと、のちに気づいてからは、私もそれを受け入れられました。(それは現実を見ていない=思い込みで虚構化した世界に住んでいるということでもあり、それゆえ現実に対して鈍感で、たとえばサークル内の人間関係の変化に最後まで気づかない)

 彼女は常に、自分を導いてくれる存在を求めているのです。ですから、ノストラダムスの軛から解放されたからといって自律的な人間になったわけではない。それに変わる導き手(絶対者)を再び見つけるだけなのです。そういう性格ですからフォーマル、インフォーマルを問わず「法」には極めて従順です。いや「絶対者」なのです。だから少学校ではじめて授業をサボり図書館にいたときも、そっちのほうが気になって本など読める心理状態ではなくなってしまっているわけです。

 ただし国立大学に合格するくらいですから頭はいい。ですから絶対者を換えた段階ならば、前代の絶対者を客観的に評価できる。ところが「現」絶対者にそれは働かない。即ち後ろ向きに反省は得意だが(ただし妄想的に大げさな反省となる)、それが前に向かう駆動力に連動し寄与しない。前に向かっては常に受動的なのです。

 図書館でのパートに変わり、当座は非常に居心地がいい。しかし仕事とは常に問題の発見とイコールな行為ですよね。どんな仕事でもまじめに取り組めば、そこに問題点が発見できたり、こうしたらどうかといった展望が開ける。ところが主人公は、イベントの提案を求められて全く返答できない。つまり日々の作業はこなしているが(言われたことに関しては優秀だが)、それが仕事となっていないのです。それは主体的に仕事をしていないから。そのような態度はすぐに周囲の知るところとなるのは当然で、人間関係を結べず居心地の良いはずの職場がしだいに重荷になってくる。

 ノストラダムス縛りは解けたかも知れませんが、それは別の縛りに入るだけの話で、それは本書の最後に至ってもそのままなんですよね。331頁あたりから以降での「反省」は、それなりに一階梯上がったかのように見えますが、結局は後付けの解釈で、その解釈自体は間違っていないのですが、それが主人公を前へ進める力には変換しない。そんなことを考えたあとのラストにおいてさえ、親友の母親(この部面での絶対者)からの一言で、自分の母親への気持ちがころっと変わってしまっている。
 まさに懲りない主人公で、わたし的には非常にイタくてしんどかった面もあるのですが、小説に熱があり、後半、途中休憩するのも惜しんで読み続けさせられたのも、かかる主人公の「造形」(発見)に成功していたからに他なりません。力作。

 追記。私が、主人公に対して共感できなかったりイタいと感じるのは、一種の近親憎悪なんですよね。私の裡に主人公と同じ契機が確実にあるからです。というか多かれ少かれ誰でもかかる要素はもっているのであって、それを拡大誇張してみせたのが本書といってよい。読者は夫々その成分の多寡によって共感したり反発したりする筈。なぜならそれは誰の裡にもある要素だから。
 そのような「類型」(オブローモフ型やハムレット型と同じ)を「発見」し「造形」してみせたのが本書で、その作業を、著者は最後まで逃げず、目を逸らさず、よく突き詰め得たと思います。なぜならばそれは、いわば自分の心を裸にする作業に他ならず、苦痛を伴うものであることは言うを俟ちません。その意味で著者は(作中にも言及されている)高橋和巳的です。少なくとも「馬鹿馬鹿しさの真っ只中」と軽やかに価値を相対化する庄司薫よりは、愚直な高橋和巳により近いと感じました。

 

「終わり続ける世界のなかで」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月27日(金)22時36分57秒
返信・引用 編集済
   早くも「府中市晴見町の府中刑務所から脱獄し逃走」で検索して当板に来られた方がいます。「そんな事件があったのか!情報情報!!」という感じでしょうか。
 うーん。前後を読めばフィクションと判りませんかねえ。私が『終わり続ける……』を読んでいてまず引っかかったのは、小学生なら許すけど、少なくとも中高になってそれはなかろう。ほっといても気づくだろう、という違和感、否、無理があるというあり得なさ感なんですが……じつはこっちのほうがリアル世界なんでしょうか?
 

みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月27日(金)20時54分46秒
返信・引用 編集済
  ツイッターにみじかばなしを一挙掲載。しかし140文字にはまず収まらないですな。
https://twitter.com/#!/mizcohol

 追記。いま下のアルバムを聴こうとしてあっと気づいたのだが、「エコーズ」はB面だったんですね。完全に勘違いしていました(ターンテーブルに乗せるときAなのかBなのか確認したりしませんから)。ゆえに「雲の影」は「おせっかい」A面の続きのような、に訂正いたしますm(__)m

 
 

「終わり続ける世界のなかで」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月27日(金)18時42分15秒
返信・引用 編集済
   粕谷知世『終わり続ける世界のなかで』に着手。200頁まで。
 む。これは(少なくとも「ニ」は)庄司薫のパスティーシュでは?
 昨日の今日で、どうしても山尾幻想小説の方法論と比較しながら読んでしまうんですよね。狙う所が違うんだから比較しても仕方がないのに。というか正反対なのに。読んだタイミングが悪いとしか。山尾作品の次に読むものは、誰によらずいつも割を食ってしまいます(^^ゞ。
 

和田宜久さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月27日(金)02時26分41秒
返信・引用
   そういえば和田宜久さんとコンタクトが取れたことを、こっちで報告していませんでした。どういういきさつだったかは高井さんのブログのこのエントリのコメント欄をお読みください(笑)。今度の眉村さんを囲む会に出席していただけそうですよ。お楽しみに〜(^^)。
 コメント欄をお読みいただければ分かるように、連絡はtwitterがどうやら便利なようです。なので休止していたtwitterを復活することにしました。→https://twitter.com/#!/mizcohol
 実は最初、何も考えず、登録名を水凍寒、ユーザー名をmizcoholにしてしまった。使っているうちに気づいたのですが、これ、かんべさんご本人のアカウントだと勘違いされる可能性が極めて大なのです。で、それが縛りとなって、あまり過激なことが呟けなくなり、使わなくなってしまったのでしたが、復活するにあたり、登録名を本名の「HirotoshiOkuma」に変更しました。これで勘違いする人はいないでしょう(mizcoholは継続使用)。今度はプロフィールもしっかり書きましたし。
 そうしてから、ようやく和田さん(いまは海野久実さんですね)をフォローしました! あまり使ったことがないのでよくわからないのですが、これでメッセージが使えるのかな?

 *和田さん(海野久実さん)のブログ→まりん組・図書係。相変わらず小気味のよいショートショートですね!
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月26日(木)20時56分11秒
返信・引用
   森下一仁さんのブログによりますと、1月22日、神田一ツ橋の如水会館にて「第24回大衆文学研究賞贈呈式」が執り行われ、眉村さんがスピーチされたとのこと。
 《来賓の挨拶では眉村卓さんが壇上に立たれて、権威から無視されてきた分野が正当に評価され、活力を持ち続けることの大切さを語られました。》

 ちなみに受賞作は、
●大衆文学部門:横田順彌『近代日本奇想小説史 明治篇』(ピラールプレス)
●大衆文化部門:米沢嘉博『戦後エロマンガ史』(青林工藝舎)

 横田さん再評価の機運、これを機にさらなる研究成果の発表を期待したいです(ホンネをいえばまたハチャハチャを書いてほしいのですが)(^^;。

 ところで、先日youtubeがより本格的なものを聴けるようによくなった話をしましたが、それならばこっちもそれに応えなければと、PCのスピーカーを買い換えました。
 LOGICOOL スピーカーシステム Z623。総出力200W。うち、ウーハー130Wなので、(ネットで見た使用体験記によれば)全開にすると家が振動するそうです(>ホンマか)。私はハードロックをギンギンにして聞くわけではないので真ん中ぐらいにしていますが、それで充分です(^^)。お値段も1万円弱とお買い得でした。
 今までもPCで音楽を聴くほうが多くなっていたのですが、これで別室の古いステレオはほぼ聴かなくなりそう(LPを聴きたいときくらいか)。それにしても、なんでもPCでこと足りるようになっていきますね。あとはテレビチューナーをつけたら(今のところその気はないが)、部屋から一歩も出る必要がなくなるかも。これじゃ箱男ならぬ部屋男ですな(笑)。
 

「ドロテアの首と銀の皿」再考

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月26日(木)17時40分7秒
返信・引用 編集済
  > No.3413[元記事へ]

 昨日は気づいていなかったのですが、今朝目覚めた瞬間に、ああそうか、と得心していました。何のことかといいますと、本篇のトマジのことで、昨日は関係なさそうと書きましたが、実は「竈の秋」のラウダーテとモチーフが同じなんですよね。
 5年前の出来事が忘れられず、今年こそは(姉と一緒に)冬眠しないで起きていようとラウダーテは一念発起しています(結局それどころの話ではなくなって叶わないのだが)。一方トマジの方も、冬眠の習慣が馬鹿らしくてしかたがない。なんとしても目覚めて「冬」をこの目に見るのだと、村に行って画策しています。同じモチーフですよね。これはどういうことなのか。
 私が読んで感じるに、どちらの少女も、作中人物の中では比較的著者が肩入れしている気配があります。そして冬眠人のアイデアが、寒さが極端に苦手であるという著者自身の性癖に発想の核があるのだとしたら、つまり寒さに負けて布団の中でだらだらしていることの合理化(本当は私はにんげん族ではなく冬眠族なのだ)であるのなら、そういう合理化に対する一抹の罪悪感を、無意識に感じていても不思議ではありません。その表現が、「冬眠したくない少女」に造形されているのではないでしょうか。しかし凛とした姿勢のよい著者の写真を見ると、血圧が、など言いながら、いぎたなく布団にくるまっている姿はちょっと想像できませんよねえ。やはりうがち過ぎでしょうか(^^ゞ
 しかし起きた瞬間に、そんなことに気づいていたんですから、これまた無意識の活動と考える以外にありません。私の無意識は、私の意識より、多少は賢いみたいですな(笑)。
 

「ドロテアの首と銀の皿」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月25日(水)20時54分5秒
返信・引用
   今日は「ドロテアの首と銀の皿」『歪み真珠』所収)を読み返していました。いうまでもなく冬眠族のお話です。『歪み真珠も』も近々にと思っているのですが、この話だけは『ラピスラズリ』の設定やら何やらが記憶から薄れてしまわないうちにと思いまして。というのは他でもなく、最近は数日前に読んだ本の内容すら、ともすれば思い出せない体たらくなので。そのくせ昔のことはくっきりと細部まで覚えているのですけどねえ。
 さて、結論からいって、本篇は冬眠者の話ではありますが、『ラピスラズリ』の世界と、直接つながる話ではなかった。『歪み真珠』の後記にも「前作『ラビスラズリ』の落ち穂拾いのようなもの」とあります。昨日も触れましたが、この<冬眠者>という(SFでいうところの)ガジェット、冬眠族の存在する世界という設定(世界観)が、『ラピスラズリ』を書き上げたあとも、意外に著者の裡に残り燻り続けていて、逆に膨らんできて、本篇のような《番外編》を生み出したといえるのではないでしょうか。そうだとしますと、今後更に、また別の「冬眠者の物語」を、著者は紡ぎ出してくれるかも知れませんねえ。楽しみです(^^)。

 しかし森下さんのベストSF2011の締め切りが迫ってきているので、とりあえずまた昨年新刊の消化に戻ります。ということで、明日から『終わり続ける世界のなかで』に着手します。
 

「ラピスラズリ」ニ周目読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月24日(火)23時12分22秒
返信・引用 編集済
  > No.3410[元記事へ]

 承前。後半も一気読了。
 こういうのは鑑賞する上で全く不要であるとは思うのですが、私の趣味なので、本書の小説世界の「重構造」について解釈してみたいと思います。 …… と書き始めたのはいいのだが、とんでもなく長くなって終わりそうもない。これなら源氏物語に立ち還って筆写したほうがましじゃないか、と遅ればせながら気づいた。ので、中止!(>おい)(^^;

 要するに、「銅版」で「わたし」が(小説内現在と過去で)見た六枚(三枚×二組)の銅版画の指し示していた世界を描いたのが「閑日」「竈の秋」ということになります。いやそれは逆で、そもそもこの銅版画が挿絵として使われた本の中身こそが、この二作品ですね。
 とりわけ「閑日」(銅版画<冬の花火>に該当)は完成度が素晴らしく高い、まさに《短篇小説》。これだけ切り出しても完結していますから、創元文庫年刊傑作アンソロジーに収録するならばこの作品が適当でしょう。あと、クリスマス・ストーリーというジャンルがあるなら、大晦日ストーリーというジャンルがあってもいいのではないかと思った。いうまでもなく本篇は大晦日ストーリーの逸品です。花火の真相が泣けます。

 「竈の秋」は通読すると全てのピースがピタッと嵌まってしまう超絶作品。本篇で分かるのは「銅版」の過去パートで「母」が疑問を呈した<使用人の反乱>はいつだったかの前後関係の確定と冬眠者における人形(身守り)の意味で、だから奥方(現支配者)の部屋に大量の人形があり、「森の連中」は塔の棟をめざすのですね。本棟も使用人棟も中棟も焼亡し(石造りの巨人塔の上に増設された塔棟は残っているみたいだが)、もはや日晒しの大竈のみが往時の館のありかを示すラストが実によい。最後の三行は画面的にはマグリットのように罅が入り、それが落ち葉のようにはらはらと落ちていく映像が浮かんだのですが、どうでしょうか。そこに一瞬垣間見える少女(?)も印象的。

 「トビアス」はふたたび「銅版」の世界。一応。しかし完全に同じなのかどうか(同じとすれば「トビアス」の主人公の性別は……)。
 ここでまたどうでもよい推理を書きつらねますが、「寮」の立地する(近未来の水没する)日本の地方都市は、というかそのモデルは、おそらく「倉敷」ですね。古い運河が流れ、過去に紡績で栄え(クラボウ)、南方に内海があり、架橋の橋桁(瀬戸大橋)、コンビナート地帯(水島)とくれば、倉敷以外にありえません。土地勘のある人はすぐピンとくるはず。寮の建つ小高い場所がちょっと不明ですが(向山?)、主人公が犬のトビーを連れて散歩するコースは、鶴形山(T**山)を後ろ手にアーケードのある商店街を抜け倉敷銀行本店(現中国銀行倉敷支店)に至る。その裏にマキノさんの古書店があったわけです(少し向こうにJR倉敷駅)。
 この世界には「中央」という都市があり、同じく「銅版」の世界にも「中央」が存在するので、「銅版」(の現在)は、「トビアス」の何十年か後の時代と想像されますが、それでは合わない部分もある。<冬の花火>はタマキさんがマキノ古書店で購入したとなっており、「銅版」の描写とは異なるところです。同じ世界ではないのかも知れません。
 また、本篇はそれまでの三篇を読んでいなければ了解できないので、「閑日」ほどの単体での自立性はありません。が、短篇小説として異様な〈気〉を放散していて、「閑日」が静なら「動」のダイナミズムがあり、これも傑作というべきです。ファンタジーというよりは純文学ですね。

 「青金石」は、一転、中世イタリアが舞台。聖フランチェスコの最晩年に遭遇した不思議な逸話という設定。冬眠族はこの時代この地方にも存在していたわけで、著者の裡では人類の普遍的な別種として、多分ずっと以前から意識されていたのでしょう(そういえば『歪み真珠』にも冬眠族の話がありました)。私は想像しますが、おそらく著者自身も自分は冬眠族であるとのアイデンティをもっているのでは。要するに寒さに弱いんでしょうねえ(>おい)(^^;。余談ながら私自身は眠るのが嫌いでもっと起きていたい。且つ、起きるのが嫌いでもっと寝ていたい。これは要するに一日が24時間の地球人ではなく、一日が24時間以上ある星から地球にやって来た異星人の後裔なのかも、といまでも半ば信じているのであります。いや、またまたどうでもいい話でした。

 ということで、山尾悠子『ラピスラズリ』(ちくま文庫12、元版03)、二読目読了。三読目は暫く措いてから読み返したい。その前に『歪み真珠』を読み返したくなりました。
 

「ラピスラズリ」一周目読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月23日(月)22時32分0秒
返信・引用 編集済
   「竈の秋」(後半)、「トビアス」「青金石」とつづけて読み、まずは山尾悠子『ラビスラズリ』(ちくま文庫12、元版03)、一周目読了。ひきつづき再読に入り、「竈の秋」(前半)118頁まで。ほぼ半分。二読目はここまで一気。既に個々のシーン(と世界観)は頭に入っているので、シーン群の連結に留意して読み進めていますが、いや本当によく作り込まれていますね。ほとほと感心。まさに精巧精緻な拵え物の感触。絶品!
 最初読時は硬質な文体に跳ね返される感じがあったのですが、いまはちっとも硬質という感じがしません。やわらかくて伸びがあって、この不思議な世界が生き生きと捉えられています。読んでいる私の方も、いつのまにか「読んでいる」意識が消え去り、作品世界に「一体化」している。いわゆる読書の至高体験の瞬間ですな。著者現時点での最高作でしょう。
 

「雲の影」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月22日(日)22時27分52秒
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   youtubeって、長くても10分程度なので、ジャズやプログレの長い曲は、分割アップロードされるんですよね。私の場合、それを再生リストでつないで聴いていたのですが、当然ながらつなぎ目に何秒か空白が生じる。まあ仕方がないなと諦めていたわけですが、何と最近はフルアルバム一括アップロードできるようになったみたいですね。いつからそうなのかわかりませんが、私は昨日気づいたのでした。
 ピンクフロイドやELPやイエスのアルバムがバンバンアップされていて、嬉しいの嬉しくないのって、もちろん嬉しいのですが、昨夜は三時頃まであれやこれやを聴きまくっていました。
 そのなかに、ピンクフロイドの「雲の影」(72)もあったのですが、このLP,後で述べますが「エコーズ」収録の「おせっかい」(71)と「狂気」(73)という両傑作の間に発表された作品で、映画サウンドトラックという事情もあってかPFのなかでは評判にならなかったアルバムでしたね。
 当時、FM大阪で夕方6時から、ちょっと番組名を忘れてしまったのですが、オープニングでDJが「いちご畑の向こうからナンタラカンタラ」という口上(?)を述べる、新発売のアルバムをまるまるオンエアする番組があって、あとNHKFMでも7時から同様の番組があって、(今から考えると信じられないことですが当時はラジカセさえそんなに一般化していなかったからこそ存在し得た番組といえるしょう)、この二番組で大体ロックの新盤はチェックできました。それゆえクラブ活動が5時過ぎに終わると必死になって帰ってきてステレオにかじりついたものでしたが、そのどっちかの番組で聴いて以来の、実に昨日はまさに40年ぶりの聴取となりました。
 この盤があまり話題にならなかったのは、聴いてもらえば分かるように、サウンドトラックだから当然なんでしょうけど、個々の演奏がポンと投げ出されたように録音されている。「あれ、これで終わり?」てな感じ。元来PFは曲と曲の繋がりを非常に工夫するグループで、それによってアルバムをトータルアルバムっぽく感じさせるのがうまいのですが、このアルバムはそこのところ手を抜いた感があります。いやもちろんサウンドトラックだから映画のBGMそのままなのは当然なのです。ただPFファンとしてはそれに一工夫加えてオリジナルアルバムにしてほしかった、といま聴いても思われます。そんなアルバムでありました。当時聴いたときも不満を感じたことは覚えており、それで購入を控えたのでしょう。
 アルバム全体の雰囲気は、まさに前作「おせっかい」のB面からそのまま続いているような、PF的にはナチュラルなサウンドで、いま聴いて上記の不満はありますが、そんなに悪くもないなあ、と感じました。これはあるいは当時私にとって「神」だったPFの「実力」を、良くも悪くも今は客観的に聴けるようになってしまった、ということなのかも判りませんね。
 
 

黙読の発明

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月21日(土)21時05分17秒
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   『ラピスラズリ』は、130頁の中篇「竈の秋」の「T」を読み終わりました。このごろ過剰サービスな(見方を変えれば至れり尽くせりな)文章ばかり読んでいたせいで、山尾悠子のカンナをかけまくった文章が一読では頭に入りません。で、区切り区切りで戻りながら読み進めています。再読すると一気に視界がひらけ世界が明瞭になるのは驚くほどです。そのかわり一行もゆるがせにできません。それをすると一遍に話がつながらなくなるのです。この物語の有するたぐい稀なる作品世界の堅牢な構築がよくわかる次第ですが、逆にいえば、初読の速度が拙速なために再読しなければならないともいえる。もっと遅く。もっとゆっくり読まなければ。本当は音読したほうがいいんですけどね。
 そもそも物語は、音読し、筆写しながら読むべきもの。源氏物語はそのようにして読まれ伝えられたのです(場合によっては変奏されながら)。だいたい作家が数か月、場合によっては何年もかけて完成させた作品を、「わずか数時間」で読了してしまうなんてこれはとんでもない話なのであって、私たちは作家が完成に費やした時間と同等の時間をかけて読書すべきなのだと思います。

 ところがいつの時代からか(ウィキペディアによれば明治以後とのことでですが)黙読が一般化した。世界史的には、おそらくグーテンベルグ革命以降に一般化したものでしょう。つまりこれは書籍の大量生産化と表裏一体の新技術といえるものなのです。黙読が読書の速度を飛躍的に増大させるのは言うまでもありません。活版印刷という大量生産技術の発明は、出版の「産業化」を促進しますが、それには生産されてくる大量の書物を消費する「読者」の拡大が不可欠です。「量」としての「読者」拡大のために識字教育がなされますが、同時に「質」の面では、読者一人あたりの消化率の向上=多読化も図られなければならない。「黙読」はそれに対応する技術として、いつのまにか読者の普通の読書態度として内面化させられた。その意味で「黙読」は読者大衆を出版資本の「読書家畜」として囲い込む面がある。その行き着く果てが現在の出版の在り方で……というのは、またまた大きく逸れてしまうのでやめておきます。

 ともあれかかる意味で「反時代的」といって差し支えないであろう本書、悲しい哉大量消費の奴隷のひとりである私ですが、しかしできるだけゆっくりと噛み締めつつ読み進めて行こうと思います。
 

日本人横綱二千年

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月19日(木)21時32分9秒
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   昨日は朝青龍について触れましたが、白鵬のいかにも横綱に適う人格者ぶりを見聞するにつけ、朝青龍の引退はもったいなかったと思います。思慮深く相撲界の将来を我がことのように考えている(ように外からは見える)「静」の白鵬と、やんちゃな悪ガキそのままの「動」の朝青龍、この対称的な二人が東西に綱を張っていたら、大相撲は今の倍以上面白く、話題性も豊富だったのではないでしょうか。
 
 それはそうと、モンゴル人力士は何故にこれほど強いのでしょうか? 私は、彼らの(民族的)体型が、相撲に適合しているからだと思うのです。朝青龍歩きについては昨日書いた次第ですが、白鵬の体型を見れば分かるように、モンゴル人力士は極端なO脚が多いですよね(時天空にも顕著)。この下半身が相撲に向いているのは、説明するまでもありません。
 彼らは騎馬民族なのです。おそらく白鵬も時天空も、子供の頃は草原を馬で駆け回っていたに違いありません。まさに馬の胴を挟みつけるに相応しい脚の形ではありませんか。
 それから首が前について背中が猫背気味。これも乗馬に適した身体特徴といえる。朝青龍について、ふんぞり返っていると書きましたが、たしかにふんぞり返っているんですが、仔細に観察すると首は前に伸びています(上の画像参照)。O脚で腰を割り、背中を丸める姿勢は相撲の「摺り足」そのもの。普段の体型がそのまま相撲の型になっているんですから、これで相撲に強くないわけがありません。

 今場所は日本人大関が二人も生まれて、「日本力士の逆襲」が期待されていますが、甘い甘い。上記体型的な優位があるかぎり日本人はモンゴル人にかないません。根本的な体型改良なくして「逆襲」はありえないというべきです。
 ではどうすれば根本的解決になるでしょうか。実は簡単です。日本人も騎馬民族になればいいのです。子供の頃から(自転車ではなく)馬に乗って遊び回ればよい。交通手段を車から馬へ転換するのですよ。そうしてみなんせ、ガソリンのエコにも繋がりますし、大量に発生する馬糞を産業用燃料に精錬すれば一石二鳥。「KURUMA」文化から「UMA」文化へ転換です。「KUR」を取るのです。クルとりますか? いやちょっとクルしい。
 鶯の糞は高級化粧品になるというではありませんか。だったら馬の糞も化粧品に加工できるんじゃないか。当然ヘアケア製品も。馬糞を使ったヘアシャンプーにはヴィダル・バフーンという商品名を提案したいと思います。こうして石油化学文明から馬糞化学文明へ転換が完了した暁には、大相撲もおのずと「逆襲」は果たされ、モンゴル人は淘汰されているに違いありません。

 では西部劇のアメリカ人はなぜO脚じゃないのかって? アメリカ人の乗馬文化ってたかだか200年にすぎないじゃないですか。モンゴル人が匈奴の子孫であるとすれば、乗馬文化は2000年以上の伝統があるわけです。アメリカ本土人も2000年乗馬を続けていれば、大相撲界に横綱を輩出したかも知れませんよね。
 え、じゃあ日本人横綱も2000年待たなければならないのでは、って? うーむ……。
 
 

「閑日」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月18日(水)22時31分10秒
返信・引用 編集済
   今日は久しぶりにいつものコースを30分(約3600歩)歩きました。ただ歩くのではなく腿を高く上げ、歩幅を肩幅よりも少し広いくらいにして、要するに朝青龍のようにふんぞり返って歩いてみた。私は下半身が弱ってくると、足裏の外側に重心がかかる歩き方になり、それは靴底が極端に外側がすり減ることで分かるのですが、事実そうなっていた。それで今日はちょっと工夫してみたわけです。
 体がなまっているのはわかっていましたが、かなりキツかった。というかキツ気持よかった(^^;。運動したなあという満足感がありました(わずか3600歩でおこがましいですが)。
 でも、しばらくしたら左の足裏が痛くなってきて、みたら親指の付け根の土を踏みしめる部分が赤くなっている。たぶん皮が向けそうな感じ。いやこれは脚の内側の筋肉も使っていた証拠で、目論見の成功を意味しているのです。暫くは意識して朝青龍歩きに努めたいと思います。しかしこれ、繁華街でやっているとインネンを付けられそうですね。TPOに気をつけよう(^^;

 『ラピスラズリ』、今日は「閑日」を読み返していました。で、ラストの光輝の理由に気づいた。なるほどそういうことだったのか! と膝を打つ。われながら鈍いなあ、一読目で気づけよ、という感じですが、それは私の読解力の問題であって、もちろん描写はこれでよいのです。形式は物語なので話者が措定されていて説明もあるのですが、ここにはない。この付いたり離れたりの間合いがさすが。この辺がセンスですよねえ。
 

再び、電子出版あれこれ

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月17日(火)21時10分5秒
返信・引用 編集済
   昨日問い合わせた件で、早速hontoから回答をいただきました。端的に言って、ダウンロードした書籍データは、ダウンロードした当の端末(私の場合はPC)のみで有効で、CD−R等へデータの移し替えはできないそうです(たぶん不正頒布防止のための措置でしょう)。
 うーむ。では、昨日も書きましたように、現在使っている端末が使えなくなり、新しい端末の乗り換える場合はどうなのか? これは常にあり得ることですよね。実際私も、これまでに何度かPCの乗り換えは経験してきました。
 そういう次第で、あらためて、端末間の移動は可能なのかどうか、再質問してみました。
 すぐに返事が来ました。
 なんと、不可だそうです。ただしhontoの場合、ダウンロードは一年間可能。この期間中であれば別の端末に再ダウンロードできるとのこと。ですが、逆にいえば、一年過ぎたデータは、端末と運命を共にする他ないということです。

 PCの寿命って、どんなに大事に扱っても10年もたないでしょう。せっかく購入した電子書籍が、10年以内で利用できなくなるんだったら、これではちょっと使えませんよね。というか「全然」使い物になりません。少なくとも紙の書籍は「一生もの」です。
 そういえば今流行りのキンドルとかアイパッドではどうなっているんだろう。やっぱりデータは、購入したら即ダウンロードして内部メモリーに保存するような気がしますが。とすれば、不正頒布を防ぐ意味から端末間の移行はできないんじゃないのかなあ。使ったことがないので単なる想像ですが。ご存じの方ご教示下さい。キンドルやアイパッドで、どっさりダウンロードしている方は実際いらっしゃいますよね。てことはそのような問題は(キンドル等では)解決済みなのかしらん。

 あ、その点イーブックは、購入書籍データを外部のトランクルームに預ってくれる形式なので問題はなさそう(*)。しかしそれにしても、リーダーの問題にしろ移行の問題にしろ、まだクリアーしなければならない問題が、多くありそうですね。

(*)追記。でもこの場合でも、イーブックが事業をやめてしまったら、データを引き上げてくるしかなく、結局10年問題に該当しちゃうのか。
 

電子出版あれこれ

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月16日(月)22時31分47秒
返信・引用 編集済
   『ラピスラズリ』は、「銅版」と「閑日」の二篇。掌中の珠を愛で味わうように、行っては戻りしながらゆったり読んでいます。本書、連作長篇なんですね。

 さて昨日は話があっちこっちへ飛んでとっ散らかった文章になってしまいました(毎度のことですかそうですか)。で、もうひとつ主題から外れた話があったのだけれども、それは割愛しました。今日はそれを書こうという段取り。

 昨夜、「ゴルディアスの結び目」を読もうと、段ボール箱をかき回したのですが、見つからないのです。別の箱に紛れているのか、ひょっとしたら誰かに借りて読んだものだったのかも。とりあえず明日ブックオフに行ってみるかとも考えたのですが、どうしても今すぐに読みたかった。で、ふと電子出版があるじゃないか、と思いついたのでした。
 それで、先日眉村さんのショートショート「アシュラ」を購入するために登録した電子出版サイトhontoを覗いてみたところ、ぴったしカンカンで作品集『ゴルディアスの結び目』が578円で販売されていました。しかし単品販売はやってなかった。
 ものはためしと、もうひとつ私が登録している電子出版サイトのeBookjapanも覗いてみた。ここは小松左京の短編を105円で単品販売していたのですが、残念ながら「ゴルディアスの結び目」は売ってなかった。
 結局、hontoで作品集『ゴルディアスの結び目』を購入。手続きしたらあっという間にダウンロードされてきました。当然なんでしょうけど、いつもここで、おおっと思ってしまいます(^^; ということで、昨晩ただちに、ジャスト・イン・タイムで「ゴルディアス……」を読むことが出来たのでした。電子出版の利点ですよね。

 ところで、PCで読む電子出版本って、読み始めるまでなかなかその気にならないのですが、読み始めると、むしろ普通の書籍よりも精読が効き、読書速度も少しスピードアップしているような気がします。
 ただ誤字や脱字が目立った。これ原文を突き合わせてみないと確かなことはいえませんが、どうも電子データ化の際のタイプミスのように思います(あるいはスキャンニング誤認の校正不備)。文字を拡大して読めるので、精読や速読できる分、そのようなミスにも気づきやすいんですよね。あまりミスが多いと、つづけて利用する気が失せてしまいそうです。

 さはさあれ、せっかく短篇集で買ったのだから、残りの作品も近々読んでみようと思います。あ、『虚無回廊』も完全版が出たので、こちらも読む予定。じつは未読だったのです(^^ゞ

 私の現状としては、電子出版のリーダー(?)を二種類入れているという状態ですが、出版社を増やすたびにリーダーも増えていくわけで、もともと安物で5年近く使っている機種でもあり容量が気になります。リーダーの統一が出来なければなかなか浸透しないのではないでしょうか。しかもデータの容量も馬鹿にならなくなっていく。そう気づいて、『ゴルディアス……』のデータをCD−Rに移そうとしてみたのですが、なぜか出来なかった。これは困るんですよね(私のスキル不足の可能性があり問合わせている最中)。
 あと、これらの電子出版会社が競争に敗れて撤退してしまったらどうなるのか、とか。紙の本なら出版社が倒れたところでその本が読めなくなることはありませんが……。あ、そうか。リーダーがPC内にあるのだから、購入済みのデータは書籍と同じように読めるということか。
 
 

「マインド・イーター[完全版]」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月16日(月)02時36分56秒
返信・引用 編集済
   承前「緑の記憶」「憎悪の谷」「リトル・ジニー」「迷宮」と読み進み、読了したわけですが、もうなんでもあり。著者は〈大前提〉に全くこだわる気がありません。最後の「迷宮」など、M・Eがハムレットなみに悩んで髪の毛を掻き毟る(註:比喩です(^^;)。「この宇宙」の外的存在(2+2が5だったかも知れない前宇宙の残滓)であったはずのM・Eが、もはやねーんげんレベルに矮小化されてしまっている。ある意味竜頭蛇尾の極みともいえます(後述するようにだからダメと言いたい訳ではありません)。
 注目して欲しいのは、起承転結としてのストーリーが、まったく止まってしまっていること。結局、<M・Eの存在する世界>という「設定」のもと、その設定を(ある程度)踏まえた作品がいくらでも書ける(何度でも遊べる)という、一種ゲーム的な構造になっている。と書けばすぐ思いつくのが「クトゥルー」ものではないでしょうか。バーサーカーもそうですね。リングワールドも階層世界もそうです。SFのシリーズ物は大体このような「〇〇世界シリーズ」というカタチをとりがちです(一方ミステリでは、ホームズシリーズとか女弁護士○○○子シリーズといったように属人主義が多い。しかし○○○子で女性であることは明白なのになぜ「女」を付けるのかね。むしろ○○○子が実は男だったという場合のみ「男弁護士○○○子」というタイトルは意味があるわけですが)。
 や、話が飛びました。要するに本書はクトゥルーものに形式が極似しており、原理的にオープン形式で誰でも参加できるシリーズです。ところでSFではありふれたこのようなシリーズ物を一切書かなかったのが他ならぬ小松左京でした。『日本沈没』の続編は、もし書かれていたらこの形式になった可能性があります。小松が第二部を執筆しなかったのは、このような無限に継続可能な無時間的形式を嫌った面もあるのではないでしょうか。小松SFは、どんな長大な作品も、必ず起承転結のダイナミズムを指向していると思います(たとえ起承転で中断していても)。そういった小説に向かう態度(執筆観)でも、小松と著者では向いている方向が違います(光瀬龍の場合は、宇宙年代記のように一見歴史が流れているようにみえても、つぶさに見れば無時間的な「世界」ものの範疇に入る。やはり著者は小松より光瀬に近い。ちなみに「司政官シリーズ」は司政官という制度の始まりから衰退までを描くものなので前と後ろが確定しており、無限に書ける「世界」的要素は保持しつつも、それは微分的限定的で、小松同様起承転結のあるシリーズといえる)。
 また横道にそれました。クトゥルー物に極似する本シリーズは、それゆえにある意味SFというよりもホラー的で、ホラー映画のシーンのような映像的描写に秀でているように思いました。ひとつひとつのシーンは実に視覚的。なのですがそれは視覚優先的でもあり、設定的な因果性を無視している(とりわけM・Eの多様な存在形態)。というよりもそんなのに拘らない大らかさがあるというべきでしょうか、良くも悪くもビックリハウス的なのですが、それはそれで存分に楽しめました。著者は気づいてないかも知れないが、資質は異形派なのかも。異形コレクションで短編を読んでみたいです。
 なんか褒めているのか貶しているのか分からない文章になってしまいましたが、要するに傑作だけど小松左京的な作風ではないということ(*気になって「ゴルディアスの結び目」を読み直しましたですよ!)、解説で飛浩隆が書いているように「一九八〇年代の日本SFが成し遂げた最高の達成のひとつ」であるのは間違いありません。

 本書は、元版のハヤカワ文庫版に、SFMに掲載されたまま(30年間も!)書籍化されることなく捨て置かれていたシリーズ作品二編を増補した[完全版]です。SFMって意外にこういうのが多い(眉村さんの作品でも、SFM掲載後書籍未収録の作品がまだいくらか残っているはずです)。本来ならもっと何年も前に「ハヤカワ文庫」から、[完全版]が出ていてしかるべきだったと思います。SFMは「宝庫」でありますが、それを扱う早川書房の手つきはぞんざいで著者へのリスペクトを欠いていますよね。翻って、本書を上梓した東京創元社に対しては、よくぞ出してくださったと拍手を贈りたいです。しかしそれにしても最近の東京創元社、いい仕事していますねえ(^^)

 ということで、水見稜『マインド・イーター[完全版](創元SF文庫11、元版84に増補)、読了といたします。

 

物語は強し

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月15日(日)20時08分16秒
返信・引用 編集済
   『マインド・イーター[完全版]読了。面白かった。感想はあらためて。読了したら丁度夕食だったので、満足して階下に降りたところ、テレビで「ダーウィンが来た」を映していた。テーマはコヨーテ。やばい、と思ったものの食事も摂らねばなりません。我慢して見ていたのですが、今日も今日とて、擬人的説明(ーー;。コヨーテは頭がいいからフェイントをかけるんじゃありませんよね。フェイントをかける行動パターンを(偶然)獲得した個体が生き残り易く、次第にそんな個体ばかりになっていき(というか他は生き残れなかった)、遺伝情報に組み込まれた(行動本能となった)結果、こんにち種として生き残っているだけの話。個体が意識してやっている「賢い行動」ではありません。子供も見ている番組というかメインターゲットはそっちでしょう、公共放送なんですから、物語でじゃなく、きちんと正しい説明してほしいものです。仮にもダーウィンの名を冠しているんですから。
 というわけで、あわてて飯を掻きこんで二階に避難。おまえが家族に訂正すればいいだろうって? もう諦めました(ーー;

 さ、嫌なことはさっさと忘れて、『ラピスラズリ』に着手しよう(^^)
 

早い者勝ち

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月14日(土)22時04分57秒
返信・引用 編集済
   臨時ニュースです。府中市晴見町の府中刑務所から脱獄し逃走していた男は、立ち廻り先で、先程警察官に身柄を確保されました。
 あ、脱獄者関連の続報です。先ほど身柄を確保された男性ですが、脱獄し逃走していた男とは別人とわかりました。逃走中の男の行方はまだ不明です。
 さらに続報です。脱獄し逃走中の男と間違われ、誤って身柄を確保された男性は、逃走中の男の双子の弟であったようです。手配の写真とそっくりであったため、男性を男と見誤って、市民が通報したためと警察は言っています。男性は警察官に乱暴に扱われたと抗議しているそうです。
 えーさらに新しい情報が入って来ました。先ほど110番に、男の双子の弟と名乗る男性から、テレビで見たと電話がありました。警察では、電話の男性が男の双子の弟本人であったなら、男と誤認され不当に拘束されたと主張している男性こそ男本人である可能性があるとして、確認のため、男の弟と自称する男性が現在勤務している勤め先に、係官を派遣しました。男と誤認されたと主張している男性は、さらに暫く、任意で身柄を確保されることになる模様です。
 新しい情報です。現在、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、身柄を拘束されている当人が、男性なのかそれとも男なのか、まるでお天気のあいさつでもするように、うわさをし合っているそうです。臨時ニュースでした。
 

「マインド・イーター」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月14日(土)00時03分17秒
返信・引用 編集済
  > No.3399[元記事へ]

 承前「サック・フル・オブ・ドリームス」「夢の浅瀬」は、シリーズの番外編的作品。M・E設定に著者自身がインスパイアされスピンオフしたシェアワールドものと言えるかも。M・Eとの対決という《設定》は背景に退き、《設定》が既知のものとなった世界(社会)での二つの事件。元版に収録しなかったのは、シリーズのストーリーラインに齟齬をきたすからでしょう(特に後者)。また両編ともに音楽SFでもあります。どちらも愛読すべき佳品。
 前者はSFというより小説で、これを読むと著者の描写力はただごとではない。雰囲気といい感傷といい、SFではない現代小説も魅力的な物語を紡げそうですね。後者は水見稜版「墓碑銘2007年」。ラストの壮大なオチにあっと叫んでしまいました!

 中編「おまえのしるし」も力作。「フッサール・ポイント」とか「チョムスキー臨界」とかのシニフィアン(ただしシニフィエなきシニフィアン)に狂喜乱舞(^^; ぐいぐい引きずり込まれました。ただ本編でM・Eの正体(発生原理)が示唆されるのですが、「野生の夢」の冒頭で示された前代のビッグクランチの残滓という説明とは相容れないのではないか。この辺も非常に文系的、光瀬的といえ、美学的イメージが因果的論理を吹っ飛ばしているような気がします(これまでのところは。もちろんこのあとにものすごいアクロバットが用意されているのかも知れませんが)。このような「安易さ」は小松のシリアスな宇宙SFにはありえない。また上記三作に漂う、いわゆる正統ハードボイルド派的な感性も、小松左京にはない。どちらも光瀬龍にはあります。なんか貶しているようですが、実は私、はっきりいって宇宙小説に限っては、小松よりも光瀬の作風のほうが大好きなのです(^^ゞ

 *ついでにいえば「夢の浅瀬」の主人公たちが見る(見させられる)滅びの幻像都市のイメージも少女漫画的で、小松ではなく光瀬的。又ここでも大前提との齟齬は等閑視されている。
 

「マインド・イーター」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月12日(木)22時26分7秒
返信・引用 編集済
   『マインド・イーター[完全版]に着手。まずは冒頭の100頁の中編「野生の夢」を読みました。この作品、SFMで読んでいる筈ですが、全く覚えておらず初読同然。いや傑作。面白かった。ある意味「バーサーカー」ですな。で、バーサーカーを読んだ時にも感じたのと同じことを感じた(→「赤方偏移の仮面」)。少なくとも、読んだ「野生の夢」は、バーサーカー同様《謡曲小説》です。
 著者あとがきと飛浩隆解説で小松左京を引き合いに出していますが、そうだろうか。私は光瀬龍だと思いました。著者が小松SFの影響を受けたというのは、本人が言っているのだからそのとおりなんでしょうけど……。M・Eが人間レベルでしゃべる段階で、既にして似て非なるもののような。「――M・Eが夢を見ていたんだ」(102p)も唐突な因果無視の主人公の直観でしかないし、父親の存在形式も同様。要するに本編は「情緒的」な(情緒を論理に優先させる)文系SFとして傑作なんです。M・Eは幽玄な、能における亡霊のSF的表現といえるのでは?
 まあ感じ方は人それぞれ、私も続編を読んだら、また意見が変わるかも知れませんし(^^;

 追記。本編は正統派SFらしく「説明」で固めていますが(でも近年の日本SFのそれのように煩ったくはない)、このイマージュを説明せず書けたらバラードの結晶小説ですよね。
 

「未来警察殺人課」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月12日(木)00時54分27秒
返信・引用 編集済
   都筑道夫『未来警察殺人課』(徳間文庫82、元版79)読了。

 本書は連作集。舞台は太陽系第三惑星を捨ててから数十世紀、故郷忘じがたく原地球そのままの世界を再現しているセカンドアースです。予防医療の発達で殺人衝動は根絶されています。が、まれに先祖返りをきたした個体が出現する。殺人課(三課)の任務は殺人の取締ではなく、そのような異常者の殺害なのです。この設定では当然ながら、任務に従事する刑事もまた、そのような衝動の持ち主でなければ務まらないわけです。先祖返り者の中から身体技能等を買われた者が選ばれ、自己の衝動の昇華と社会秩序維持を両立させている。しかし、社会にとって獅子身中の虫的存在であるのは間違いなく、脳内に歯止め装置が埋め込まれていて、逸脱行為があると本部でボタンを押されてショック死させられる、という設定。
 物語は主人公星野の、ケニア(「人間狩り」)、ニューヨーク(「死霊剥製師」)、東京(「空中庭園」)、パリ(「料理長(シェフ)ギロチン」)、ロンドン(「ジャック・ザ・ストリッパー」)、グリーンランド(「氷島伝説」)、ラスヴェガス(「カジノ鷲の爪」)での活躍が描かれます(ただしセカンドアースの話なので、地名はなじみ深くても、たとえばラスヴェガスは治外法権の島だったりします。先住種族の生き残りもいる)。
 端的に言って、読むスパイアクション映画ですね。事実この星野、映画「100発100中」の宝田明のアンドリュー星野らしい。ということで本書、おそらく映画ネタ満載で作りこまれているのでしょう。そういう知識のない私は、たぶん本書の面白さを半分以上取り逃がしていると思いますが、そんな素人読みでも、各編の冒頭で、星野が現地三課と最初に接触するシーンで凝っていたり、毎回必ずボンドガールならぬホシノガールが登場したりと、映画っぽい雰囲気は充分楽しめました。ストーリーもどんでん返しの連続でせわしないくらい。ミステリ的には無理な展開もありますが、それも「先読みは絶対させない」という著者の自負の表れなんでしょうね。
 本シリーズ、続編『未来警察殺人課2』があるそうですが、これはブックオフで見かけたことがないなあ。

 

Re: うむ。なるほど!

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月11日(水)18時29分24秒
返信・引用 編集済
  > No.3396[元記事へ]

 かんべさん

> あなたなら書ける。吐きなはれ。吐いたら、楽になるで〜
 その手は桑名正博でございます。遠慮させていただきます。というか、そこが作家さん(もしくは作家的資質の持ち主)と一般市民の決定的に異なるところでありまして、自分をさらけ出すなんて、もうブルルル。あ、こんなこと書いたら変に臆断されてしまわないか、精神分析されてしまうんじゃないか、性的嗜好を見透かされてしまうのとちゃうやろか、などと思ってしまって、白状するなんてとんでもない話です。いやまあ秘匿しておかなければならないことが多すぎる私の行動や人格が問題なんですけど(^^;

 *だから官僚が書くのは愚行録とはならず立志伝みたいなものになるのではないでしょうか?
 

うむ。なるほど!

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2012年 1月11日(水)00時45分56秒
返信・引用
  青春記とは愚行録であるというのは、言い得て妙見さんですな。
官僚的エリートの青春記というものが、あるかないか知らんけど、
あってもおもしろくなさそうなのは、彼らが自分の愚行を、
あっても書かないから、または、愚行自体がなかったからなんだな。
生乾きの「煙が目にしみた」なんぞも、うまいこと言いなはる。
となると、残るはこの談話室で、「白状」記を書くことしかないな。
あなたなら書ける。吐きなはれ。吐いたら、楽になるで〜。(^○^)

 

「むさしキャンパス記」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月10日(火)21時29分41秒
返信・引用 編集済
   かんべむさし『むさしキャンパス記』(徳間文庫82、元版79)、読了。

 うむ。面白かった。むしろ興味深かったというべきでしょうか。ムズムズ感はやはりところどころであったのですが、読み進んでいくに従って少なくなって行きました(後述)。
 昨日も書いたように、恥前ではなく恥後に読んだという、読者である私の側にその要因がまずあったのは確かですが、読み終えてもう少し考えてみました。前半より後半のほうが心理的抵抗が小さかったというのはなぜでしょうか。

 青春記とは、つまるところ「愚行録」でしょう。本書でもどこかで「愚行」という言葉が使われていたと思います(いまざっと探したのですが見つけられなかったのだけれど)。青春記といえばまず「どくとるマンボウ青春記」ですよね。本書でも何度か言及されています。マンボウ青春記もむさし青春記も、愚行録という意味では同じ範疇です。が、読んだ際の感じは微妙に異なるように思います。それは上記の恥前恥後という読者の時間的ポジションも関係するのですが、客観的に違う面もありそう。

 それはどうやら、執筆年齢と関係があるのではないでしょうか。北さんが書かれたのは40歳、かんべさんは30歳です。30歳といえば、大学を卒業して8年くらいしか経っていない。まだまだ生々しさの消えていない(生乾きの)記憶であったはずです。一方北さんは(旧制高校でもあり)20年前の出来事です。北さんの愚行の記憶は、従ってある意味枯れ切った記憶、つまりほぼ客観視できる(ほど離れてしまった)記憶なのです。

 かんべさんと記憶との距離はもっとずっと近い。まだ枯れ切っておらず、いまだ客観視できない部分が残っている(描写にそれが残っている)。北さんの愚行録は枯枝録なので、燃やせばきれいに燃えますが、かんべさんの愚行録は、ですからときどき燻ぶる。どっちがどっちということではもちろんありません。ただその煙が、実に私の目には沁みたということに他ならない。
 たしかに30歳って、連載誌編集長も言っているように、まだ青春期(青春後期)只中ではないですか。青春記ではなくキャンパス記にした所以を、著者は韜晦していますが(259−260p)、私は本書に残る、まだ断ち切られていない生々しさを感じておられたんだろうと推測するものであります(意識か無意識かは判りませんが)。

 それは著者の視線のアンビバレンツな二重性に現れている。265頁に「大学生なんていい気なものだ」という記述があります。私はその言葉に、紛れもない「苦々しさ」を感じ取りました。いうまでもなく著者は、10年前の「愚行」を全面肯定して本書を執筆しているのです。しかし、その反面というか、肯定の裏側には、はっきりと8−9年後の著者の視線が「苦々しく」見つめている。

 実は私も、「私学文系」を謳歌したことにおいて人後に落ちません。つまり愚行の限りを尽くしたということです。そしてそれが私の形成にとって必要な時間(モラトリアム)であったのも間違いなく、後悔なんか全然していないのですが(その点は全く著者と同意見です)、反面、さすがに4年生になると、「こんなことしていたら人間じゃなくなるぞ」「もういい、もう出してくれ」との思いが強くなって、卒業式のときには「やれやれ!」とほっとしたのを覚えているのです。

 かかる視点の二重性が本書の底流にある(マンボウ青春記にはありません。それは完全に「他人ごと」になりきっていたからに違いない)。ムズムズ感は次第に減っていったと書きましたが、たしかに前半と後半では色調が変化していると思います。それは著者が参照引用した原資料のメモ類の色調を反映している。一年生と四年生では、そりゃあ変化していて当然でしょう。
 私は本書元版が上梓された年に同じ大学を卒業した者で、出てくる場面には馴染みのある場所も多く、いきおい自分の体験をそこにオーバーラップさせずにはいられなかったのですが、本書の初めの方の記事には、その原資料を反映して愚行謳歌の視点が強く、いささか紙面を正視できなかったというわけです。勿論それは本書とは無関係な、読者である私の側の事情です。ほほう、それは一体どんな愚行だったのかねって? そんなこと白状できますかいな!
 

「むさしキャンパス記」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月10日(火)02時28分4秒
返信・引用 編集済
   わ、気がつけば130頁まで読み耽っちゃいました。キツかったのはどうやら最初の方だけだったみたい(たぶん購入時も)。
 しかし、今日はもう寝なければ。あすは仕事。
 

「竜神戦士ハンニバル」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 9日(月)22時40分33秒
返信・引用 編集済
   ダッフルコートのくだりで、名将武田建先生の、トレードマークのハットにダッフルコートのおしゃれな姿を思い出しました。武田先生も、私の在学当時40代でしたが、ハットかぶれば30代でしたね。ってそれだけですが(>おい)。

 えーさて、田中文雄『竜神戦士ハンニバル』(ハヤカワ文庫81)読了。
 非常に設定が安普請で揺れまくり、最初読みきれるか心配したのですが、途中から、そうかヒロイック・ファンタジーで乱歩をしたいのかと気づき(黄金仮面)、要は国枝史郎や海野十三のセンだと思えばいいのだなと納得。後半は楽しく読みました。
 一応この話は決着しましたが、ジュンとシリアの話がまだ残っているはず。ジュンは地球へ帰還したけれどおそらく次巻で戻ってくるんだろうと、この辺はバローズ的展開を予想。その当否は気になるんですが、アマゾンマーケットプレイスで購入可能とはいえ、そこまでして読みたいと思ふ作品でもない。まあブックオフで見つかったらということで(でも意外にすぐ見つかったりするんですよね)。
 
 

人をからかえば穴ひとつ

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2012年 1月 9日(月)15時40分17秒
返信・引用
  熟読吟粉ではなく、玩味でした。失礼しました。
猿も筆の誤り、弘法も木から落ちるというやつですな。
 

Re: さよか。そないなもんですか。

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 9日(月)13時12分4秒
返信・引用 編集済
  > No.3390[元記事へ]

 うっ、うっ、いつもながらグサッときますねえ(笑)
 そんな皮肉ばかり言ってると、また中崎くに子さんにチェック入れられますよ(ユータッタユータッタ(^^;)

 でもご投稿を読んで気がついたんですが、マンボウ青春記はまだ恥体験前に読んだわけです。だからそれはあこがれとなり得ました。しかしむさし青春記はすでに恥をかきまくっていた。この違いは非常に大きいのではないでしょうか。あこがれではなく、ギャーッ、ワーッになってしまうんです。けだし青春記の類いは、すべからく青春期以前に読むべしですね。
 しかも自分が思い出す(思い出せる)恥は(無意識の検閲を通過してきたものなので)意外に甘美だったりしますが、むさし青春記の記述に喚起されてぞろぞろ出てくる恥の記憶は、そういう検閲が通ってなくだしぬけで出会いがしらで、これはキツイ場合があるのですよね。
 というわけで、せっかくのお勧めはお気持ちだけありがたく頂戴しますが、一気にはとてもムリ。少しずつ日をおいて、ワッと言っては数日休み、ギャッと叫んではまた数日休むといった調子で、読み進めていこうかなと考えております。よろしくお願いいたす次第なのでございます。\(^O^)/
 
 

さよか。そないなもんですか。

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2012年 1月 9日(月)09時18分44秒
返信・引用
  ということは、「どくとるマンボウ青春記」の言葉を借りるなら、
よっぽど、「恥多き」四年間やったんですな。
思い出すたびに、ギャーッ、ワーツと叫びかけるとか、
ピストルで頭を撃ち抜きたくなるとか、ねえ。
上方落語の「所帯念仏」にいわく、「うほっ。苦しんど〜る!」
そういう本こそ、ぜひとも熟読吟味なさり、しかるのち
得意技を駆使して、秀逸高邁なる論を構築されんことを、
切望いたす次第なのでございます。\(^O^)/

 

「竜神戦士ハンニバル」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 9日(月)00時18分28秒
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   せっかく出してきたんだし、ということで「キャンパス記」読みかけたのですが、あまりに近すぎて、じわりと冷や汗が出てきたので、急いで本を閉じました。ツルカメツルカメ(^^;

 じゃあ和製ヒロイック・ファンタジーでも、と、『竜神戦士ハンニバル』に着手。180頁。ちょうど半分。純然たるヒロイック・ファンタジー(ソード&ソーサリイ)ではなくバローズ・タイプですね。

 今年は遂に年賀状を出せませんでした(あの日徹夜するつもりが睡魔に負けてしまったため。いいわけですが)。むろん特別な方には出しました。それと賀状を下さった方にも遅ればせで。大量の裏面だけ印刷した年賀状が余ってしまったのだが、郵便局引き取ってくれるのだろうか。いやもちろん引き取ってくれるでしょう。でも、あんた何のために買うたん? と変な目で見られそうで、持っていくのが恥ずかしいなあ。うーん。どうせ出すつもりだったものだから、出したつもりにして、コンビニのゴミ箱にでも捨ててきちゃろか(ーー;

 思い悩んでいてもしかたがないので、エリック・ドルフィー「アット・ザ・ファイブ・スポットvol.1」を聴きました(どういうこっちゃ)。久しぶりに聴きましたが、やっぱり名盤ですねえ(^^)

 大掃除をしなかったので部屋がホコリだらけ。何とかしたいのですが、まあ今日はやめておこう。明日こそホコリははたく。
 

ペーダーさん

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 8日(日)13時47分21秒
返信・引用 編集済
  > No.3387[元記事へ]

 道南さん、お久しぶりです。

>ズボン全般ではなく、ジーンズがよくなかったのではなかったかと記憶しているのですが…
 以前ちょっと言及したメーリングリストが、実はこの大学関係で、早速これを流用して情報を求めたところ、さっきレスがありました。おっしゃるとおり「ジーンズ」がダメだったみたいですね。

 実は私、恥ずかしながら『むさしキャンパス記』を未読でしたので(というのは生皮を剥がされてしまいそうな予感がするからなんですが(^^;)、引っ張り出してきました。そうですそうです。「アイ・ライク・ペーダー」という項目に書かれている御仁が、まさにペーダーさんです。
 といっても私は授業を取ったことはありません。英語にかぎらず毛唐語は昔も今も大の苦手でありまして、この大学に辛うじてひっかかったのも、受験で(他大学では当たり前に実施していた)科目ごとの足切りが(今は知りませんが当時は)この大学だけ実施してなく、(たとえ英語が零点でも)総合得点で判断してくれたからなんですよね。おかげで英語も仏語もすべて同級生の倍授業を受けなければならず、最近でこそ見なくなりましたが、ほんの10数年前までは下級生に混じって授業を受けている嫌な夢をよく見たものでした。というのは話がそれました。

 上記エッセイ集に「その授業のある日だけスカート姿で登校すればいいのであって……」と書かれていますが、実際そのとおりですよね。私が「ズボン」と勘違いしていたのも、「あ、スカートやん」「うん、今日はペーダーやから」という会話を交わした記憶があったからで、それで勝手にそのように思い込んでしまったようです。ご指摘ありがとうございました。
 にしても、くだんの記憶から明らかな通りで、論理カタブツのH大生と違って、わが怪奇幻想大学の女子学生は学究意欲では劣るかも知れませんが、実際の行動では遙かに(良くも悪くも)社会的合理的であることが、証明されているといえるのではないでしょうか。まあ一般的なイメージ通りですな(^^;
 

Re: チャチャヤング最終回、再び

 投稿者:道南  投稿日:2012年 1月 7日(土)23時33分11秒
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  > No.3361[元記事へ]

年末年始の帰省で拝読が途切れており、亀のごときレスポンスとなり申し訳ありません。
当時報道され、かんべさんが「キャンパス記」にお書きになっていた方ですよね。
ズボン全般ではなく、ジーンズがよくなかったのではなかったかと記憶しているのですが…。

>  ペーダーさんて、女子がズボンで来たら教室に入れなかった先生じゃなかったかな、と誰にともなく(^^;

 

「地獄に堕ちた者ディルヴィシュ」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 7日(土)20時59分40秒
返信・引用 編集済
   ロジャー・ゼラズニイ『地獄に堕ちた者ディルヴィシュ』黒丸尚訳(創元推理文庫88、原著81)読了。

 面白かった。傑作とまではいかないですが充分楽しめました。筒井康隆が石川喬司にSFランドを疾駆するスポーツカー擬せられたのは誰でも知っていることですが、海の向こうでは、さしづめゼラズニイがそうですよね。まさに「しかめっ顔 片手ハンドル」(浜省)で、60年代を颯爽と走り抜けたイメージがありました。
 そんな著者の、これはまたなんとも古風なヒロイック・ファンタジー連作集。解説で高橋良平が(アンバーシリーズなどと比べても)「さらに純然たるヒロイック・ファンタシイ色の濃い」シリーズであると評しています。ところがこのシリーズ、実は全盛期の60年代に書き始められたものなんですって。ですからやはりゼラズニイはゼラズニイ、モダンな軽快さは主系列作品と同じなのでした。
 その意味でやはり短い作品の方が断然よい。収録11編の内訳は、8編が10ー20頁の掌編、あと100頁と80頁の2中編と40頁の短編となっており、長くなるほど著者のよさである散文詩性が薄れてしまいます。散文詩性と言いましたように、短い作品はクラーク・アシュトン・スミスを髣髴とさせられるムードがあります。
 冒頭からの三編、「ディルファーの道」(65/2)、「セリンデの歌」(65/6)、「ショアダンの鐘」(66/3)は、むしろダンセイニ風の英雄神話譚、訳者の黒丸尚もスタイリッシュな原文を必死に頑張って日本語化しています。ときどき頑張り過ぎて外していますが(^^;。いえそれでいいんです。ことわざにも「過ぎたるは及ばざるより可なり」と言うじゃないですか(>違)。
 しかし書き継ぐほどに筆もなめらかに、軽妙になってきます。つづく「メライザの騎士」(67/9)、「アアチの場」(80)、「分割された街」(書下ろし)、「白獣」(79/10)「血の庭」(79/夏)は、いわゆる「純然たるヒロイック・ファンタジー」になっています(ダンセイニもだんだん軽妙になっていきますから、それと同じかも)。とりわけ「アアチの場」は本集中ベスト作品。20頁の掌篇でなんということもない話なんですが、よいですなあ。余談ですが「分割された街」はレモン・トロツキー・シリーズに同趣向作品がありますね。
 「《氷の塔》」(81)「悪魔と踊り子」(書下ろし)は中編、「《地獄に堕ちた者》ディルヴィシュ」(書下ろし)は短編。

 それにしても、ハヤカワでがっくりしたのを創元で癒されるということが最近多いなあ、と思うのは気のせいでしょうか‥。
 

Re: 「ねじまき少女」棚上げ

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 6日(金)18時43分44秒
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  > No.3384[元記事へ]

 雫石さん
 あ、私も全く同じです。最初に引っかかったところを例示しましょう。

 場面は、一日の操業を終えて従業員も帰宅し人気のなくなった工場の事務所。二人の男が(経営権の譲渡に関して?)話し合っているところ――

 (……)イエイツは煙草を持ちあげて、片眉をひそめた。「煙草か」
 もう一度吸いこんで、目を細めて煙草の火に見入った。あたりを見回しても、暗がりのデスクやコンピュータは鳴りを潜めていた。日が暮れて、工場も閉まっているので、人のいないデスクは、うっかりすると出来損ないの地形図ではないなにかに見えないこともなかった。従業員は帰宅しただけなのかもしれない。明日はまたきつい仕事が待っているのだから休息をとらないと。ほこりの積もった椅子や足踏み式のコンピュータを見れば、それがまやかしであることはわかる――けれども、あたりは暗く、デスクやコンピュータは影に覆われていて、チーク材の鎧戸からうっすらと月明かりが漏れこんでくる状態では、妄想をめぐらすのも無理な話ではない。


 いかにももっちゃりした文章ですが、まず???となったのはここ。
 「うっかりすると出来損ないの地形図ではないなにかに見えないこともなかった」
 たぶん暗くなって所々影がさしたデスクの板面が(あるいは積もったほこりで)地図のように見えなくもなかったということでしょうが、「地形図ではないなにかに見えないこともなかった」という表現は日本語的にありえないでしょう。

 で、思わず戸惑って段落を読み返したら、さらに変なところに気づいたという次第です。

 「暗がりのデスクやコンピュータは鳴りを潜めていた」
 コンピュータは分かりますが、デスクが「鳴りを潜め」るものか? そもそも音を発しない。大体こんなシチュエーションに用いる言葉ではない。ここは「しんとしていた」とか「静まりかえっていた」とか、そんな表現が妥当では。

 このあとがちょっと複雑なのですが、要は、誰もいない森閑とした事務室の有様が、工場も事務所も定時で終わったからであることをほのめかす文章なのです。
 ところが、「ほこりの積もった椅子や足踏み式のコンピュータを見れば、それがまやかしであることはわかる」で、事実は工場の稼働が思わしくなく、そもそもそれらのデスクには、もう長い間、そこで作業する人が座ってないからなのだということですね。でも輪郭の曖昧な暗がりの中では、(経営に失敗した身とすれば)そんな風に「妄想」をめぐらしたくもなるじゃないかというわけです。(しかし上の文章、一読でそこまで理解できます? 私はできませんでした)追記。いま気づきましたが、この時点では工場は一時操業していなかったのかも。

 ということを踏まえた上で、

 「従業員は帰宅しただけなのかもしれない」
 これもよく考えたらおかしな文章。操業が終わって帰宅したのは自明で、「だけなのかもしれない」はありえない(視点は経営者のイエイツ)。どんな原文なのか分りませんが、「従業員は帰宅してしまったのだ」という「断定」で意訳すべき。

 でも、上に述べたように、原因はそうじゃなかったわけですね。とすれば、「ほこりの積もった椅子や足踏み式のコンピュータを見れば、それがまやかしであることはわかる」の頭に「しかし、」があったほうがスムーズに繋がる。

 ということで、雫石さんに倣って、私も修正案をば(^^;

 (……)イエイツはそれを持ちあげて、片眉をひそめた。「煙草か」
 もう一度吸いこむと、目を細めて火先に見入った。ふとあたりを見回したが、暗がりのなかでデスクやコンピュータはひっそりと静まりかえっている。日暮れて工場はもう閉まっているのだ。無人のデスクは、仄かな明かりが積もったほこりをまだらに浮き上がらせて、出来損ないの地形図と見えなくもない陰影を曳いている。この静けさ――従業員は帰宅してしまったのさ。明日はまたきつい仕事が待っている。休息をとらなければならないのだからな。しかしそれは嘘だ……椅子や足踏み式のコンピュータの上に積もったほこりが、そのことを一目瞭然に示していた――あたりは暗く、デスクやコンピュータは影に覆われていて、チーク材の鎧戸からうっすらと差し込んでくる月明かりのもとでは、そんな願望めいた妄想にとらわれたくなるのも、あながち無理からぬことであった。


 ちょっと意訳しすぎかもですが、ともあれ私は何が言いたいのかというと、この訳文が、いわば「仕上げのカンナがけ」を怠っているということなんですね。100ページ強読んだ限りですが、語の選択が的中していない。これはやはり訳者がストーリーを咀嚼しておらず一知半解で訳文を作っているからではないでしょうか。私も「少々日本語の文章の修練が必要と見る」ご意見に同意します。ただし二人の共訳者がどのように分担したのかわからないので、どちらかに決めつけるのは保留したいと思います。
 

Re: 「ねじまき少女」棚上げ

 投稿者:雫石鉄也メール  投稿日:2012年 1月 6日(金)04時53分27秒
返信・引用
  > No.3383[元記事へ]

「ねじまき少女」の訳文は、私はさして気にならなかったから、2011年ベスト4に上げましたが、確かに翻訳者の田中一江は下手ですね。
SFマガジン2009年3月号で、訳した訳文などはひどいものでした。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/955aeb01523bf3d1063e0ab9cd0d40aa
2011年6月号のバチカルピ特集で、訳者が田中さんと知って、心配していたのですが、当たったようです。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/f045cd5a248273fed4785ec4074422fa

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

「ねじまき少女」棚上げ

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 5日(木)22時30分21秒
返信・引用 編集済
                              ・・・
『ねじまき少女』はいったん棚上げします。《信頼できない訳し手》ものゆえ(>おい)、あら捜しモードに入ってしまって虚心坦懐に楽しめなくなりました。この作者は近々短篇集が出るらしいので、それを読んでからにします。もちろん短編集が私に、「悪訳でも読まねば」と思わせる力量を見せてくれたら、の話ですが(^^;。まあ雫石さんがベスト5に選んでいるくらいなので、その点は楽観していますがね。

 ということで、口直しにヒロイック・ファンタジー『地獄に堕ちた者ディルヴィシュ』に着手。
 

ヴィーナス・リターンズ

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 5日(木)19時47分54秒
返信・引用 編集済
   オロモルフ先生の掲示板に、常連の方が書き込んでおられるのですが、金星の二酸化炭素は全て気体ではなく、超臨界流体の状態になっているらしい→こちら。超臨界流体ってのは、wikipediaによりますと気体と液体の区別がつかない状態とのことですが、何やらよく判りません(^^;
 でも、とにかく金星の(太陽からの距離にしては)異常な高温の説明として、金星大気の99%(?)を占めるニ酸化炭素による温室効果説がこれまでの通説だったと思います。ところが、事実は二酸化炭素は気体として存在していないので、その説明は適切ではないという要旨です。
 うーむ。これは面白くなってきましたね。もし上記が正しいとして、それ踏まえた新しい説明メカニズム・金星像が今後出てくるはずです。と同時に、金星が再びハードSFの魅力的な舞台として、復活してくるんじゃないでしょうか。今後の成り行きが楽しみ(^^)
 

「ねじり鉢巻少女」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 4日(水)23時18分11秒
返信・引用 編集済
   「ネジなんか巻いてくれなくていいよ、あたしゃこれで充分さ!」
 と言って少女は、額の手拭いをキリリと締めなおした。……

 
 

「ねじまき少女」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 4日(水)23時11分34秒
返信・引用
  100頁過ぎて停滞中。そこそこ評判がよいらしいのですが、読了者はこの訳文、気持ち悪くなかったのですかねえ。  

Re: 新年会参加の御礼

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 4日(水)19時57分57秒
返信・引用
  > No.3378[元記事へ]

ogawaさん

昨夜はお疲れ様でした。ほんとうに楽しかったです。

> 私は昨夜すでに喉が痛かったです。それだけ楽しくお話ができたということです。
ですねえ。40年前の、わずか2年のラジオ放送なのに、それで喉が枯れるほどしゃべり尽くせるというのが、ほんとうに不思議な気がします。
チャチャヤング木曜日なかりせば、私達の人生は相当変わっており、それも味気ない方に変わっていたような気がしてなりませんでした。
次も必ず連絡しますので、ご都合よろしければまたご参加いただけたらと思います。昨夜はどうもありがとうございました。
 

新年会参加の御礼

 投稿者:ogawa  投稿日:2012年 1月 4日(水)16時28分47秒
返信・引用
   無事、諏訪に戻りました。こちらは雪です。私は昨夜すでに喉が痛かったです。それだけ楽しくお話ができたということです。
 名古屋できしめんを食べて、車中はちょっと本を読みだしたら睡魔に襲われ、爆睡でした。それでも疲れるのですから歳ですね。
 また機会があれば、元気をだして伺おうと思います。
 投稿者名、さすがにずっと本名は?と思いまして、ogawaにさせていただきます。
 ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。

 
 

風の翼新年会

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 4日(水)11時35分53秒
返信・引用 編集済
   昨日は風の翼新年会。伝説の人であった小川圭太氏も遠路はるばる駆けつけて下さって大盛り上がりとなりました。私はしゃべり過ぎで、いまのどが痛い(^^;。みなさまお疲れ様でした。特に小川さんには、この会のためだけに長野・東京・大阪間の膨大な移動距離を強いてしまいました。それに見合う会であったか甚だ心配ですが、ありがとうございました。
 さてチャチャヤング最終回ですが、全員にいきわたらず済みませんでした。次回また何枚か作ってもっていきますね。「その後の某ディレクター」の経過発表は、それなりに出席者の驚きの声をいただいたので満足(^^; あともうちょっとでたどり着きそうなので(しかしここからは物理的行動が必要)がんばります。
 二次会は、またまた6階のアイリッシュパブ。8時半までの注文は割引価格であることが判明。それ以降は正価に戻るのですが、トータルやっぱりお安い。店員が注文を取りに来ず、ある意味ほったらかしにしてくれることも大きいですね。現金引換制ととともにあっち風のシステムは合理的ですなあ。相変わらず外人率高めでしたが、われわれの横の2グループとも邦人女子会で、スパイの秘密連絡所っぽい雰囲気は、昨日はあまりしませんでした(^^;
 午前0時30分過ぎ最寄り駅到着。たのしい夜となりました(^^;
 

「ねじまき少女」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 3日(火)12時51分12秒
返信・引用
   『ねじまき少女』を読み始めたのですが……なんかこの翻訳、手抜きじゃないの? まだほんの出だしなので、もうちょっと付き合ってみますが。

 今日は風の翼新年会。ということで暫くしたら出発します。
 

「ジェノサイド」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 2日(月)15時37分0秒
返信・引用 編集済
   高野和明『ジェノサイド』(角川書店11)読了。

 後半の300ページは一気! 大傑作(^^)。十二分に堪能いたしました。昨年度髄一、いやこの十年でも五指に入る《SF》であることは間違いないでしょう。590頁ありますが、私が最近の大長編にしばしば感じる無駄に長いという水増し感、ひとりよがりな設定説明過多は全くありません。必要最小限の590頁で、これ以上はおそらく削ることはできない。そしてそのなかに、いわゆる敵側も味方側も、充分な厚みを以って描かれている。つまり詰将棋的に作者は本篇を作っています。エンタメ小説によく見られる敵側を薄っぺらに描く安易さはありません。一見安易に見える大統領も、神の導入でそれなりに納得できる立体感を獲得します。まあそのような全体が、本篇を優れた《小説》となさしめているわけです。
 しかもそのようなしっかり組まれた《小説》という車の上に、著者は《SF》を乗せている。明らかに1965年発表のあの傑作を、著者は本書内に反響させていますよね(特にハイズマン博士)。それはタイトルからも明らか(あ、平井和正「人類公害論」も(^^;)。
 というわけで、エンターテインメント小説の体裁ながら、SF者なら、おっ、と感じる気配がそこら中にばら撒かれていて、それも本書の嬉しいところです(※)。とりわけ500頁前後数頁で展開される超人類語の議論がぐっときます。我々人類はたとえば左から右に(不可逆的通時的に)言語活動しますが、新人類は、おそらく「絵」を読むように言語活動するのでしょう(可逆的共時的)。それは複雑系のふるまいを一瞬で「分かる」脳にしかできないこと――ではあるのですが、ある意味「小説」を読むことに似てもいる。読書はただ筋を追うだけの一方向的なものではなく、都度的に前段に立ち戻ったり、逆順に読み返したりすることで、全体像を理解するという行為ですからね(^^;。

 最近とみに情報に疎くなった私は、この本も著者も、実は全くチェックしてなかったのです。野村さんが「これはあんた向きやろ」といって本書を下げわたし下さらなかったらずっと気が付かなかったと思われます。感謝感謝。
 あ、それから本書は、平谷美樹『約束の地』と併読すると面白さ倍増です。とりわけ(小説から読み取れる)著者の人間観を較べてみるのも一興かも(^^;

(※)追記。ハリ・セルダンも踏まえられてますよね(笑)。
 

Re: 賀正

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 1日(日)17時28分30秒
返信・引用
  > No.3373[元記事へ]

 村田さん

 こちらこそよろしくお願いします。
 大晦日のK-1、なくなってたんですね。テレビを付けて愕然としました。しかし大晦日にK-1がないと、もうテレビは見るものが何もないんですよね。おかげで読書が進みました(^^; 村田さんは直接見に行かれたんでしょうか?

 『チャーリーとチョコレート工場』は2年ほど前に見ました→ここの9月15日の投稿。ティム・バートンの名前も知らずに見たのでした。何となく気に入っていたのですが、それっきりになっていたところ、最近ティム・バートンの名前を知りまして、ああ、あの「チャーリーとチョコレート工場」の監督か、と結びついて今回つづけてみてみたという次第です。ということで今回ははずしたのですが、せっかくなので近々借りてみますね。今見たら、印象がまた変わるかもしれませんし(^^)。

 オススメがあったら教えて下さい。やはり「宇宙人ポール」でしょうか(^^)。
 

賀正

 投稿者:村田耿介  投稿日:2012年 1月 1日(日)16時45分34秒
返信・引用
  新年おめでとうございます〜。
今年もなんとなくですが、よろしくお願いしますです。

ティム・バートンはいいですねえ、私も大ファンなんですよ。
ところで『チャーリーとチョコレート工場』が見当たりませんが、ご覧になってますか?

http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/

 

謹賀新年

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 1月 1日(日)14時29分21秒
返信・引用 編集済
   みなさま明けましておめでとうございます。本年もひきつづき当掲示板をご愛顧願頂ければとお願い申し上げます。
 昨年は下記の通り95冊で終わりました。一昨年とほぼ同じということで、100冊弱というのが私のペースなのでしょう。今年も去年の続きで、70年代読み残し本の消化が主となる予定。というか、もはやこの歳で新刊を追いかける意味があるのかという気にもなっているところ。とはいえ、年の変わり目は『ジェノサイド』を読んでいました。コレは面白いですねえ。
 去年は電子吹奏楽器ウィンドシンセサイザーを購入、練習に明け暮れた毎日でした(嘘)。去年の最後の成果をYouTubeに挙げましたので、ご笑覧下さると幸甚。まあこの程度なんですが、今年は年末にはオヤジバンドを組めるくらいにはなりたい。無理ですかそうですか。
 ということで、本年もよろしくお願いいたします。

 


 《 2011読了書 (95冊) 》

小説・日本(60)
1201)森 深紅『安全靴とワルツ』(角川春樹事務所11)

1103)月村了衛『機龍警察 自爆条項』(早川書房11)
1102)円城 塔『これはペンです』(新潮社11)
1101)五十嵐貴久『土井徹先生の診療事件簿』(幻冬舎文庫11、元版08)

1002)小松左京『日本アパッチ族』(角川文庫71、元版64)
1001)小松左京『果しなき流れの果に』(角川文庫74、元版66)

0907)今野  敏『隠蔽捜査』(新潮文庫08、元版05)
0906)原  ォ『愚か者死すべし』(ハヤカワ文庫07、元版04)
0905)篠田節子『純愛小説』(角川文庫11、元版07)
0904)安部公房『カンガルー・ノート』(新潮文庫94、元版91)
0903)篠田節子『はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか』(文藝春秋11)
0902)畑正 憲『無頼の船』(角川文庫77、元版75)
0901)渡辺 温『アンドロギュノスの裔 渡辺温全集』(創元推理文庫11)

0807)寺山修司『ぼくは話しかける』(ハルキ文庫00、元版93)
0806)寺山修司『月蝕機関説』(河出文庫93、元版81)
0805)石川英輔『大江戸遊仙記』(講談社文庫93、元版90)
0804)田中光二『アッシュと地球の緑の森 アッシュ・サーガ4』(講談社文庫87)
0803)田中光二『アッシュと母なる惑星 アッシュ・サーガ3』(講談社文庫84)
0802)大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 結晶銀河』(創元SF文庫11)
0801)瀬川昌男『白鳥座61番星』(小峰書店85、元版61)

0701)柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控(一)』(新潮文庫60、改版09、元版56/57)

0607)古井由吉『親』(平凡社80)
0606)平谷美樹『義経になった男(四)奥州合戦』(ハルキ文庫11)
0605)平谷美樹『義経になった男(三)義経北行』(ハルキ文庫11)
0604)平谷美樹『義経になった男(二)壇ノ浦』(ハルキ文庫11)
0603)平谷美樹『義経になった男(一)三人の義経』(ハルキ文庫11)
0602)中上健次『十九歳のジェイコブ』(角川文庫92、元版86)
0601)笹沢左保『見かえり峠の落日』(角川文庫 73)

0501)柴崎友香『寝ても覚めても』(河出書房10)

0404)柴崎友香『ドリーマーズ』(講談社09)
0403)柴崎友香『ビリジアン』(毎日新聞社11)
0402)矢野 徹『地球〇年』(角川文庫78、元版69)
0401)松本清張『神と野獣の日』(角川文庫73、元版63)

0305)光瀬  龍『宇宙塵版 派遣軍還る』(ハヤカワ文庫81)
0304)古井由吉『夜の香り』(福武文庫87、元版79)
0303)古井由吉『聖・栖』(新潮文庫86、元版「聖」76、「栖」79)
0302)古井由吉『行隠れ』(河出書房72)
0301)津山紘一『架空の街の物語』(集英社文庫コバルトシリーズ81)

0210)北野安騎夫『ウイルスハンター』(リイド文庫95)
0209)矢野 徹『さまよえる騎士団の伝説』(角川文庫80、元版74)
0208)古井由吉『水』(集英社文庫80、元版73)
0207)宮崎 惇『太陽神の剣士タケル』(ソノラマ文庫80)
0206)古井由吉『櫛の火』(河出書房74)
0205)秦 恒平『みごもりの湖』(新潮社新鋭書き下ろし作品74)
0204)田中光二『アッシュと燃える惑星』(講談社80)
0203)横田順彌『小惑星帯遊侠伝』(徳間文庫90、元版83)
0202)高井  信『風雲のズダイ・ツァ(3)ズダイ・ツァ決死行』(ログアウト冒険文庫94)
0201)高井 信『風雲のズダイ・ツァ(2)ズダイ・ツァ逃避行』(ログアウト冒険文庫94)

0112)田中光二『アッシュ――大宇宙の狼』(講談社文庫80、元版78)
0111)川田  武『闇からの叫び』(角川文庫80)
0110)広瀬  正『鏡の国のアリス』(集英社文庫82、元版73)
0109)広瀬  正『ツィス』(集英社文庫82、元版71)
0108)石川英輔『大江戸仙境録』(講談社文庫92、元版86)
0107)井上雅彦監修『異形コレクション 江戸迷宮』(光文社文庫11)
0106)西村賢太『人もいない春』(角川書店10)
0105)西村賢太『瘡瘢旅行』(講談社09)
0104)西村賢太『小銭をかぞえる』(文藝春秋08)
0103)西村賢太『二度はゆけない町の地図』(角川書店07)
0102)西村賢太『暗渠の宿』(新潮社06)
0101)西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社06)

小説・海外(17)
1204)グレッグ・イーガン『プランク・ダイヴ』山岸真編・訳(ハヤカワ文庫11)
1203)アラン・ブラッドリー『パイは小さな秘密を運ぶ』古賀弥生訳(創元推理文庫09)
1202)ロバート・シェクリイ『無限がいっぱい』宇野利泰訳(早川書房76、原書60)
1201)ディーノ・ブッツァーティ『七人の使者』脇功訳(河出書房90、元版74)

1101)高野史緒編『時間はだれも待ってくれない 21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集』(東京創元社11)

0903)ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』田口俊樹訳(ハヤカワミステリ文庫88、原書82)
0902)ブライアン・W・オールディス『虚構の大地』山田和子訳(ハヤカワSFシリーズ 72、原書 65)
0901)ローレンス・ブロック『聖なる酒場の挽歌』田口俊樹訳(二見文庫86)

0801)クラーク・アシュトン・スミス『ヒュペルボレオス極北神怪譚』大瀧啓裕編訳(創元推理文庫11)

0701)R・A・ラファティ『翼の贈りもの』井上央訳(青心社11)

0601)フレデリック・ポール他編『ギャラクシー 上』矢野徹他訳(創元推理文庫87、原書80)

0401)ヴァン・ヴォークト『非Aの傀儡』沼沢洽治訳(創元推理文庫66、原書56)

0303)A・E・ヴァン・ヴォークト『非Aの世界』中村保男訳(創元推理文庫66、原書45)
0302)ヴァン・ヴォークト『武器製造業者』沼沢洽治訳(創元推理文庫67、原著47)
0301)ヴァン・ヴォークト『イシャーの武器店』沼沢洽治訳(創元推理文庫66、原著51)

0102)リン・カーター『緑の星の下で』関口幸夫訳(ハヤカワ文庫76、原書72)
0101)エリザベス・A・リン『冬の狼』野口幸夫訳(ハヤカワ文庫85)

非小説(18)
1102)高橋たか子『高橋和巳の思い出』(構想社77)
1101)松沢哲郎『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』(岩波書店11)

1003)金井美恵子『日々のあれこれ 目白雑録4』(朝日新聞出版11)
1002)立花隆『サル学の現在(下)』(文春文庫96、元版91)
1001)立花隆『サル学の現在(上)』(文春文庫96、元版91)

0901)岩波明『精神科医が狂気をつくる 臨床現場からの緊急警告』(新潮社 11)

0802)青木 健『アーリア人』(講談社選書メチエ09)
0801)瀬川拓郎『アイヌの世界』(講談社選書メチエ11)

0601)藤岡靖洋『コルトレーン ジャズの殉教者』(岩波新書 11)

0504)眉村 卓『しょーもない、コキ』(出版芸術社11)
0503)ドロシー・テイト『ジョージ・ルイス』小中セツ子訳(SOLITON CORPORATION 07)
0502)川嵜克哲『夢の分析 生成する〈私〉の根源』(講談社選書メチエ05)
0501)妙木浩之『エディプス・コンプレックス論争 性をめぐる精神分析史』 (講談社選書メチエ02)

0401)金原瑞人『大人になれないまま成熟するために―前略。「ぼく」としか言えないオジさんたちへ』(新書y04)

0301)片田珠美『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病』(光文社新書10)

0202)山鳥  重『言葉と脳と心 失語症とは何か』(講談社現代新書11)
0201)藤井貞和『日本語と時間 <時の文法>をたどる』(岩波新書10)

0101)今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書10)
 

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