ヘリコニア過去ログ1207

Re: 「小松左京自伝」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月31日(火)22時47分42秒
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  私信>坪ちゃんへ。堀晃さんも抜けてまっせ。

> No.3849[元記事へ]
> No.3848[元記事へ]

 濱田さん
 商売の話になってしまうと、理も法も引っ込んで、勢だけが幅を利かすので、あたりまえの話が通じなくなってしまいますよね(ーー;。あまり近づきたくない世界ではあります。
 ということで、言っても詮ないですが、第一部は自伝(もともと「私の履歴書」シリーズだから)、第二部は伝言、しかして小松左京・著であってなんら不都合はないと、私も思います。自叙伝と書かれているわけではないですし。

 昨日は結局バレーボールまで見てしまいました。終わってみれば朝の6時! 二時間ほど寝ただけ。今日も柔道やってますが、用心してテレビに近づかないようにしております。北島康介は4時前後か(>おい)(^^;

「ペケ投げ」は23枚目まで。残り7枚ちょっと。
 

Re: 「小松左京自伝」

 投稿者:澤田芳郎  投稿日:2012年 7月31日(火)13時39分48秒
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  管理人様

追伸です。「伝言」か「著作」かの問題ですが、「伝言の形をとった著作」
というのもありうると私は考えています。だから伝言であることを明らかに
することに意味があると思うのですが、これは著作という概念の範囲の問題
になりましょうし、異論が出るのはやむをえないでしょう。

まあ文学なぞという何でもありの世界のことですから、(けじめをつけつつ
も)何でもありを許して李いただけるなら、小松先生の路線だと思うのです
が。
 

Re: 「小松左京自伝」

 投稿者:澤田芳郎  投稿日:2012年 7月31日(火)07時02分48秒
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  管理人様

重要なご指摘と存じます。が、商品としての『小松左京自伝』が成立するに
あたって「実は伝言です」と書いてあるわけにはいかない−−と、事務所や
出版社が判断したのではないでしょうか。あるいは、聞き書きに許容される
「構成」の範囲内とも言えます。それを小松先生が世を去られたことを機に
私自身で部分的に覆し、まさに事務所が刊行している雑誌がその掲載を許す
ことで、正確化を図ったとご理解いただければと思います。『小松左京マガ
ジン』は国会図書館にも入っているし、小松左京の研究家の方はおそらく発
見してくださるだろうと期待しています。すなわち、ないよりまし。
 

Re: 「小松左京自伝」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月31日(火)02時30分53秒
返信・引用 編集済
   いやー柔道、面白かった。予選から決勝まで、8チャンネルから2チャンネルへ移動しつつ、6時間くらいテレビに齧りついてしまいました(^^;。松本選手は、サップなど足元にも及ばない、ホンモノのビーストですね(>おい)。

> No.3846[元記事へ]

 澤田さん
>「伝言」と受け止めていただきたい次第です。
 はい、しっかり受け止めました! それはPDFを読ませていただいてよくわかりましたし、個人的にはとても有意義でありがたい情報でした。

 でも、それはそれとして……澤田さんが当該PDFを執筆された動機として、「各方面の小松左京論で引用される傾向になっていることから'その成立経緯をご紹介し」(PDF70p)、そうすることで、一般的な意味でのインタビューではないことを、すなわち、内容の十分の九は削られているんですよ、ニュアンスは薄められているんですよ、ということを理解してほしい、という希望があるように思います。
 これは非常に誠実な態度であると私は思います。

 PDFでも、「「伝言」と受けとめていただいた方がいいと思う」(PDF75p)とありますから、上記の、

>「伝言」と受け止めていただきたい次第です。

 は、一義的に、本書の読者全員に対しての澤田さんの希望であると了解されます。しかしそうだとしますと、その希望は、まず不可能な希望という他ないのですよね。

 なぜなら「第二部」のどこにも、これが「伝言」であることが示されていないからです。本書読者の大半は、当該PDFを参照しませんし(まず存在すら知ることはない)、小松さんの語りグセを知っているわけでもありません。ごく普通のインタビューと認識してしまう読者が大半でしょう。最初の私のように。

 その意味で、当該PDFの文章は、最初から本書に付録として収録しておくべきだったのではなかったでしょうか。文庫化の際には、ぜひともそうしていただきたいと思います。

 もっとも、「しかし先生は聞き書きを否定しない方であり、その意味で『自伝』第二部も間違いなく小松先生の著件である」(75p)、を優先するならば、現行のままでいいわけですが、だったら、そもそもPDFは必要ないということになってしまうようにも思われます。
 

Re: 「小松左京自伝」

 投稿者:澤田芳郎  投稿日:2012年 7月30日(月)22時18分43秒
返信・引用
  管理人様

聞き書きというのは相手の考えを聞いた側の言葉で表現せざるをえないわけで、
どうしてもニュアンスが薄まってしまいます。その点で「第二部」は極力小松
先生の言葉だけで表現するよう務めました。しゃべり言葉ゆえにそうしやすか
った面もありますが、「聞き手として」に書きましたように、あれが小松先生
の語りそのものかというと決してそうではありません。「伝言」と受け止めて
いただきたい次第です。
 

Re: 「小松左京自伝」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月30日(月)11時05分34秒
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  > No.3844[元記事へ]

 澤田さん
 リンク先の「『小松左京自伝』第二部の聞き手として : 私の小松左京観」拝読しました。どのようにしてこの第二部ができあがっていったのか、大変よくわかりました。
 しかしこれで10分の1なのだとしたら、第一部はどんだけ削ったんでしょう。100分の1?(笑) まあ、気のおけない相手に対してリラックスして喋るのと、新聞記者に対して喋るのとでは、小松さんの態度というか構え自体が、まったく違っていたとはいえそうですね。
 ともあれ、本だけではわからない情報をいただくことが出来、さらに理解が深まったように(誤解が減ったように(^^;)思います。有難うございました。
 

Re: 「小松左京自伝」

 投稿者:澤田芳郎  投稿日:2012年 7月30日(月)01時33分38秒
返信・引用
  管理人様

「第二部」は録音書き起こしを編集していったのですが、あれでも
10分の1に圧縮しています。圧縮どころか、相当な構成もしまし
た。その方針については、
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/handle/10252/4685
の第2節をご参照ください。「小松さんの言葉をできるだけそのま
ま拾いまくろう、という方針」に見えるとしたら、むしろ成功です。
お目通しいただきましてありがとうございました。
 

「カラマーゾフの兄弟」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月29日(日)20時59分14秒
返信・引用 編集済
   さて、予定からしますと、次は『さよならジュピター』の順番なんですが、『小松左京自伝』によれば、小松さんは『カラマーゾフの兄弟』を若いころ読まれて非常に啓発されたみたいですね。
 『復活の日』も、(私はこの長編、あまり面白いと思わなかったのだが、実は《逆『ペスト』》の構想(136p)だったとのことで、そういうことなら『ペスト』を読んでから『復活の日』も読んでみようかなと思い始めているのですが)、あのウィルスが広がってしまったのは罪なのか、という問題意識があり、それもやはりドストエフスキーから引き継いでいるものらしい(135p)。
 そればかりか、『果しなき流れの果に』の執筆動機においても、福島さんからはハードSFをという注文だったそうですが、「『カラマーゾフの兄弟』は未完だろ。アリョーシャが最後に救いになるけど、その先どうなるかわからないし、イワンもおかしくなっちゃう。だから僕はああいうものを書いて、しかも強引にハッピーエンドにしてやろうと思ったんだ」(145p)とあり(たしかに強引なハッピーエンドですね(^^;)、小松さんは折にふれて、自作について、「カラマーゾフ……」を視界において考えていたらしいことが読み取れるのです。
 ということならば、「よし、「カラマーゾフ……」読んでやろうじゃないか(長いけど)」、と思い始めても当然ではないでしょうか(笑)

 折しも、高野史緒さんの乱歩賞受賞作品『カラマーゾフの妹』が8月2日発売のようです→〔Amazon〕 この作品はどうやら「カラマーゾフ……」の新解釈(続編?)らしく、オリジナルは読んでおいた方がいい、と聞いていたのですが、別に読んでなくても構わないだろう、と、安易に考えていたのでした。しかしその発売を目前にして小松左京自伝を読むゆくたてとなり、そこで「カラマーゾフ」が何度も言及されているとなりますと、これまたプロヴィダンス(神が暗号のように差し出す「偶然」)のように思われてしまうわけで(いや無神論者ですが)、急遽『カラマーゾフの兄弟』(古典新訳文庫版)に着手してしまいましたー(>言い訳が長い)(^^;

 まだ冒頭ですが、フョードルとアデライーダの結婚に、和巳とたか子がダブってしまって妄想が暴発しなかなか前へ進みません。

「フョードルは、妻のアデライーダが約二万五千ルーブルの金を受けとるとそれをそっくり巻き上げてしまい、以来、彼女からすれば、その金はドブに捨てたも同然なものになった」(古典新訳文庫版、20p)

「或る日の夕方、家庭教師のアルバイトから月謝を三千円もらって家に戻って来た。他に金とてなく、私はそれを主人と二人でささやかな楽しみに替えるつもりで、いそいそと帰宅したのだ。うす暗い部屋で小説(……)を書いていた主人は、飄然とした姿で立ち上がると、「温泉へ行ってくるわ」と言い、その月謝袋を自分のポケットに入れた。私は呆然とし、主人の顔を見つめた。その表情はいつもと変わらない。(……)私は洗面用具をそろえ、それを持たせて主人を玄関で見送った。行先も訊ねなかった(……)私は涙がでた。私のためではなく主人のためである。なんとかわいそうな人だろう。他人の心がわからないのだ」(『高橋和巳の思い出』101p)
 

Re: 「小松左京自伝」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月29日(日)16時14分16秒
返信・引用 編集済
  > No.3841[元記事へ]

 澤田さん
 あ、そうだったんですか。大変失礼しました。
 そうしますと同じ聞き取りでも、方針は正反対で、面白いですねえ。日経記者は、刈り込みにヒイヒイ言っていたかも知れませんね(^^;
 いっぽう第二部は、小松さんの言葉をできるだけそのまま拾いまくろう、という方針のようですね。でもその分、話がだらだらしたりあっちこっちへ飛んでいったりするの(をそのまま収録しているの)が、私のようないらちにはちょっとしんどかったのでした(第一部の続きで読むと)。
 でもそれは、私の読書態度が間違いで、インタビューのその現場に参加しているつもりで、一を聞けば十も二十も出てきて、あまつさえそれらが四方八方へ拡散してゆく、そんな小松さん独特のお話の形式をも楽しむ、そういった雰囲気を思い浮かべながら読むべきだったのかも知れませんね。
 

Re:「小松左京自伝」

 投稿者:澤田芳郎  投稿日:2012年 7月29日(日)15時42分36秒
返信・引用
  管理人様

実は第一部も聞き書きです。こちらは日経の記者の方が
取材・構成されました。
 

眉村さんキタ新地情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月29日(日)15時27分9秒
返信・引用
  「私と北新地」

 平成3年(1991年)より平成11年(1999年)まで、年1回発行されていた「北新地ガイド(北新地ポケットガイド)」の、創刊号に掲載されたものだそうです。一番下から三人目です。
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月29日(日)00時03分41秒
返信・引用 編集済
   承前。妄想に妄想を重ねますが、和巳を釣り上げた餌というのが、京都ゆえ焼尽を免れた、いわば「戦前」由来の資産であったこともまた、小松さんには容認しがたかったのではないでしょうか。コノヤロてめーらだけずっこいことしやがって、という感じで。それはないか(^^;

 眉村さんによると、hontoという電子書店で、現在刊行中の『眉村卓コレクション異世界篇』(全三巻)の「序文」に相当するエッセイが掲載されるのだそうで、いったん退会していたのを復活して見に行ったのですが、たぶんまだ掲載されていないようです。このサイト、慣れてないからか非常に見にくくて、見落としているかも知れません。みなさま、もし気づかれましたら、ご一報いただけると有り難いです。よろしくお願い致します。

「ペケ投げ」は15枚目まで。半分超え。
 

「小松左京自伝」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月27日(金)22時03分30秒
返信・引用 編集済
   小松左京『小松左京自伝 実存を求めて(日本経済新聞出版社08)読了。

 面白かった。第一部「人生を語る」は、要するに「私の履歴書」なんですが(SF作家では初?)、これは小松さん自身が執筆した文章だけあって(と書くのは、第二部が聞き取りなので)、間然するところがなく、過不足ない自伝となっています。
 先日も流転さんが書き込んで下さいましたが、第一世代作家にとって戦争体験が「いかに切実重要であったか」が、本篇を読むとひしひしと感じ取れます。「僕は戦争を経験していなかったらSFは書いていない」(224p)
 戦後も30年近く過ぎた73年に発表の『日本沈没』ですら、なお、「日本人は高度経済成長に酔い、浮かれていると思った。あの戦争で国土を失い、みんな死ぬ覚悟をしたはずなのに、その悲壮な気持ちを忘れて、何が世界に肩を並べる日本か、という気持ちが私の中に渦巻いていた。のんきに浮かれる日本人を、虚構の中とはいえ国を失う危機に直面させてみようと思って書きはじめたのだった」(76-77p)
 と、生き残った者としての責任(贖罪)が執筆の動機だったとあります。「あれは一種の贖罪意識なんだ」(180p)

『果しなき流れの果に』ラストのじいさんばあさんについて、じいさんは野々村ではないとの衝撃の事実が!(^^;
 私は、野々村本人ではないにしても、少なくとも野々村も入った複合人物ではないかと思っていたのですが、はっきり、野々村ではないとなれば、作品の評価が変わってしまいます。
 というのは、あのラストで大感動する点では、私も人後に落ちませんが(但し最近の再読では意外に感動係数は低下していて、やはりこれは一発もののアイデアだったなと思いましたが)、メロドラマにした点で、感動したけれども、客観的には減点だったのです。
 しかし、野々村ではないとなると、佐世子は死ぬまで勘違いしていた、という、ある意味情け容赦のない話になる。まるでオールディスではありませんか! むろんオールディスなら、得意げに、もっとあからさまにそう書くはずで、実は私自身はそのような話を好むのですが、その辺は小松のウェットさが、そこまで筆を進めさせない(「それはぼやかしておこうと」(150p))。それがよいのか悪いのか、私にも判定は付きませんが、少なくとも小松の限界(飛翔していく足を引っ張る要素)であったとは言えるのではないか。

 小松と高橋たか子は、意外に扱うテーマは近いんじゃないかな、というのが、最近のマイ高橋たか子特集での思いだったんですが、「BS6005に何が起こったか」(読んだけど覚えてない(^^;)で解脱論を展開しているそうで、西洋には「解脱」というコンセプトがない、それは、
「救済は聖職者がやることであって、俗人が触れてはいけない問題なんだ」「キリスト教では人類には原罪というものがあるだから人類はひたすら神の恩寵にすがる。自力では救われない、大いなる力がなければ救われないと。しかもその救われる、救われないの選択は自分の方にはないという、あれはものすごい大きな主張だと思うんだ」(180p)
 とし、かかる一神教特有の観念は「よくわからない」と言っています。この小松さんの「わからない」は、私にはよくわかります。
 対して高橋たか子の場合は、ある時点から、突如、それを受け入れてしまっているのですね。白黒はっきりつける論理性が優越する思考者であった高橋たか子が、読者視点からすると、なんのきっかけもなく無批判に、するりとそっち側に移ってしまっている。それが私にはよくわからなかった。でも考えてみれば、キリスト教的思考が白黒はっきり付ける西欧思考(→科学思考)を生み出したのは事実なので(それはイスラム教にもいえる)、それからすれば(了解は出来ないけれども)理解はできそうではある。
 その伝で言うならば、ウェットな小松は、そのウェット性ゆえに、自己救済である解脱を、ひとつの立場として了解できたのかも、とも思ったのでした。上で「限界」と書きましたが、その「限界」こそが、西欧的思考の「限界」を打ち破る力があったわけですね。簡単に限界などとしたり顔で言う誰かこそ限界なのでありました(^^;

 追記。高橋たか子といえば、375頁でこう言っています。
「彼(和巳:管理人註)は結婚後も高橋姓を名乗っていたけれども、いろんな関係が養子みたいなもので、財産は全部彼のところへ行くようになっていた」「彼にとっては養子に行けば生活に困らない、すごい古本が買えるというのが大きな魅力だったんだ。家に行ったら奥の部屋を見せてくれたんだけど、漢籍がいっぱい並んでて、どうだすごいだろうって言うんだけど、僕はイタリア文学だからわかりゃしない(笑)」
 よくよく読めば、散々な言いようですよね。表層、和巳を貶しているようですが、深読みすれば、心地よい学究生活に目が眩んで、否、目を眩まされて、たか子に引っかかった、と、言っているようにも読めます。小松のたか子に対する気持ちが無意識に出た発言だと思います。
 でも実際のところ、たか子の方から積極的にアプローチを仕掛けての結婚だったんじゃないかなあ、という気は、確かにしますね。
 

「ペケ投げ」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月26日(木)22時45分14秒
返信・引用 編集済
   眉村さんの新作短篇「ペケ投げ」の打ち込みに着手。6枚目途中まで。あまり進まなかったのは、眉村さんには珍しい「ふりがな」や「註」が出てきて、ワープロの、あまり私も使ったことがない機能なので、いろいろ試行錯誤していたためです。どうしても行間の統一が崩れちゃいますね。
 で、あらためて読み直していて、あ、これは「火星人ゴーホーム!」じゃん、と気づいたのでした。どのような意味で「火星人ゴーホーム!」なのか? それは公開してのお楽しみ〜(^^;
 

眉村さん新作情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月25日(水)22時51分4秒
返信・引用 編集済
   眉村さんから、新作の原稿(のコピー)を拝受しました!
 タイトルは「ペケ投げ」。30枚の短篇です。
 早速読ませていただきました。
 ああ、これもよいですねえ(^^)
 主人公は70代の作家で、10年ほど前に妻と死別していまは独り暮らし。息子の家族は遠い土地で暮らしている、という、つまりほぼ作家自身をなぞった設定ですね(なんとなく、眉村さんの日常はこうなんだろうなあ、というのが浮かび上がって見えてくるような気がします)。
 すなわち《私ファンタジー》の一篇といえるわけですが、私自身は、読んでいて、これはファンタジーに入るものだろうか、という感じになって来ました。
 ファンタジーっぽくないのです。むしろ一般的な《私小説》の方により近く、ただそこで、現実には(今のところ)ない、不思議な(というよりも不条理な)現象が発生し、それに引きずられてストーリーが回ってゆく。私小説なんだけど、不条理な現象が起こる私小説――なんです。幻想私小説? その意味では、前作「自殺卵」(当サイト掲載中)も同じ傾向ですね。
 眉村さん、次第に百間とか石川淳とか、日本の伝統的私小説から異化された私小説の伝統(ややこしい表現ですが)に近づいていっているような……。

 とまれこの作品も、公開のご許可いただきましたので、ワープロでテキスト化し、近々ホームページにて掲載いたします。みなさん、お楽しみに〜(^^)

 ――以上、眉村さん情報でした。

 つづいてわたし情報(^^ゞ
 ついさっき、私も「パイロット版」の原稿脱稿しましたですよ〜(^^)
 10枚弱。オリジナル判型で3頁です。6時頃から書き始め、食事を挟んで正味2時間ちょっとで書き上げました(むろんしばらく寝かしてからちょこちょこ手直しするつもりですが、多分大改造にはならず、枚数的にはこんなものでしょう)。アイデアは前からあったんだけれども、どうにも書く糸口が見つからなくて放り出してあったのが、眉村さんの玉稿を拝読しているうちに、ある描写にぶち当たり、パッと糸口が開けたのでした。いやー不思議ですねえ。これが「プロヴィダンス」ということなんでしょうか(無神論者ですが(^^;)
 ということで、これで3名、32頁となりました。皆さんの力作をお待ちしております!!
 

Re: ラファティ長篇「Serpent's Egg」刊行予定

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月25日(水)09時05分21秒
返信・引用
  > No.3834[元記事へ]

 らっぱ亭さん、お久しぶりです。

> R.A.ラファティ後期の傑作長篇「Serpent's Egg」が井上央訳で青心社より出版予定です。
> 早ければ年内に出るかもしれません。
 おお、それはまたなんという朗報でしょうか! 楽しみです〜!

 で、余談。ご投稿を読んだ瞬間、「Serpent's Egg」って「タッツェル蛇の卵」の長編化なのかしらん、と、思ったのでした。あれはイドリス・シーブライトでしたね(^^;


 

ラファティ長篇「Serpent's Egg」刊行予定

 投稿者:らっぱ亭  投稿日:2012年 7月25日(水)00時40分18秒
返信・引用
  ご無沙汰しております。
「とりあえず、ラファティ」のらっぱ亭です。
とびきりのニュースをお届けします。

R.A.ラファティ後期の傑作長篇「Serpent's Egg」が井上央訳で青心社より出版予定です。
早ければ年内に出るかもしれません。

お楽しみに!

http://hc2.seikyou.ne.jp/home/DrBr/index.html

 

Re: 「ベム AGAIN」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月24日(火)23時02分30秒
返信・引用
  > No.3831[元記事へ]

 や、早速に返信ありがとうございます。

>少しでも多くのSFファンに知ってもらいたいと思っています。
 本当にそう思います。私も本書で初めて知った一人ですが、高井さんのこの本が出たことで、知名度は相当あがったんじゃないでしょうか。
 読めばその内容の面白さに、「初期ファンダムには、岡田正也というすごい人がいてはったんやなあ」と驚くことまちがいなしですから。
 いや、それにしても労作で、お疲れさまでした。
 どれくらい刷られたのか知りませんが、たくさんのSFファンの手に行き渡ってほしいと切望します。
 

Re: 眉村卓先生と戦争SF

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月24日(火)22時39分46秒
返信・引用
  > No.3829[元記事へ]

 流転さん、お久しぶりです。

>大森望さんのツィートで
 や、そうでしたか。気が付きませんでした。ツイッターって、ものすごく見にくいんですよね。飛び飛びだし逆向きだしで、たとえば笠井潔さんのツイートのような連載的投稿ものはタイムラインでは読めたものではないので、最近は名前で検索して読むことが多いです。

 流転さんは光瀬さんと面識がおありだったんですね。うらやましい〜。私は眉村さん以前は、光瀬さんの大大大ファンだったんですよ(^^;。
「SF未来戦記全艦発進<オールファイアー>せよ!」は持っているんですが、まだきちんと読んだことがありません。光瀬さんがそうおっしゃられていたのなら、これはちゃんと(眉村作品と他作品を比較しつつ)読まなければいけませんねえ。
 ちょっと読まなければならない本が溜まっているので、すぐには難しいですが、そのうちに着手してみますね。
 おっしゃるように、「戦争」(それと「戦後」)体験は、第一世代作家の原体験だと思います。SFのプロパー批評では、そのへん通り一遍で済ます、どころか、全く顧慮されないのが大体で、もっときちんと読み取っていかなければならないことだと思います。
 今回も、よい情報をお知らせ下さって、ありがとうございました。またよろしくおねがいします。
 

Re: 「ベム AGAIN」読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2012年 7月24日(火)22時33分3秒
返信・引用
   感想をありがとうございます。こんなにきっちりと読んでいただき、本当に嬉しいです。
>  鳥山石燕の「画面百鬼夜行」(管理人注:面は図の誤記か)
 管理人さんのおっしゃる通りです。岡田さんの間違いではなく、私の誤入力。ほかにも発行後に気づいた誤入力があり、岡田さんには申しわけない限りです。

 むかしむかしのおんむかし えすえふらんどというくにに おかだまさやがおったげな

 少しでも多くのSFファンに知ってもらいたいと思っています。

 
 

「ベム AGAIN」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月24日(火)21時56分2秒
返信・引用 編集済
   承前、昨日の「ベムを編む」の感想、大事なことを抜かしていました。この文章、著者が推すBEM小説を、二、三行のごく短い内容紹介とともに列挙する、いわば「BEM小説傑作選」の試みで、知った名前から初めて見る名前まで、長短とりまぜて四〇編近い作品がズラリと並べられています。そのなかで石原作品が特におすすめされていたというわけです。

 「影を求めて」は、「MUTANTS」掲載。BEMは地球外生物ですが、その「在地球近縁種」(?)ともいうべき、存在の確定されていない生物(最近の用語でいえば「∪MA」?)について、うんちくを述べる、いわば《幻想動物誌》というべきもの。
 いちおう不定期連載の予定だったようですが、惜しむらくは本書所収の二篇のみで中断したみたいです。

 「一、オラン・ペンデク」(「MUTANTS」18号、70)は、いうまでもなく香山滋のそれ。著者は最初、全く架空の生物だと思っていたのだが、実は現地や白人探検家の間ではそれなりに(ネッシーのような意味で)知られたものであることを知り、いろいろ調べられたようで、白人探検家の記述から原人の生き残り説のような「学術的」(?)なのまで、該博な知識が開陳されています。著者は「URO」(Unidentified Roaming Object)と命名。未確認徘徊物体の和訳ですが、実は陸上をウロつくから(^^;。
 このオラン・ペンデクや、ヒマラヤのイエティ、アメリカのビッグフットなどは、「ロスト・レイス」ものにも含まれるのではないか、と私は思います。

 「二、シー・サーペント」(「MUTANTS」21号、70)は、直訳すれば海蛇ですが、著者はネッシーのような生物もこれに含ませています。本篇も聖書から中国の古典、日本からは鳥山石燕の「画面百鬼夜行」(管理人注:面は図の誤記か)まで渉猟されていて、著者の知識の広さに驚かされます。石燕なんて、今でこそ私も、京極夏彦のおかげで知っていますが、40年前は殆ど一般的に知られていなかったんではないかな。「URO」に対して、シーサーペント等海棲未確認生物を、著者は未確認遊泳物体(Unidentified Swimming Object)、略して「USO」と命名しています。ウソではないですよ(^^;

 さて本項もまた、前項と同じで、「URO」も「USO」も、今いうところの「UMA」の下位分類ということになるわけですが、連載が継続されていたら、更なる(「URO」や「USO」に併立する)下位概念が提唱されたに違いなく、まことに残念という他ありませんね。

 「僕はベムが好き?」は、自分はなぜこんなにBEMが好きなんだろう、という自己分析。

 「昆虫あれこれ」 「BEM」Bug Eyed Monsterの「Bug」は昆虫のこと、というところから、「影を求めて」の昆虫版、というか、あまり幻想昆虫が出てくるわけではないので、ごく正統的な昆虫記になっています。「第一話・たまご」は「ベム」1号(66)、「第二話・幼虫」は「ベム」2号(67)、「第三話・サナギ」は「ベム」4号(67)掲載。未完。

 「愛しのベムは今何処」(「FAR SIGHT」9号、85)では、「BEM」という言葉が死語化し、「エイリアン」がとってかわりつつある傾向を嘆いていまして、エイリアンみたいなカッコイイ宇宙人は、ベムではない! とのたまっておられます(^^;。
 最後のページには、こうあります。

「ベムは死なず ただ消え去るのみ」(90p)

 以上、高井信編・岡田正也著『ベム AGAIN』(ネオ・ベム12)読了。

 いやー面白かった。高井さん、ありがとうございました。
 

眉村卓先生と戦争SF

 投稿者:流転  投稿日:2012年 7月24日(火)21時46分29秒
返信・引用 編集済
  大森望さんのツィートで眉村先生の戦争SFの話題が出てその中で「SF未来戦記全艦発進<オールファイアー>せよ!」の名があがり大変懐かしく感じました。
「全艦〜」は光瀬龍、眉村卓の他福島正実、高橋泰邦、今日泊亜蘭の五人作家が戦記雑誌「丸」に連載したものをまとめたもので、エディトリアルは光瀬先生がなさったはずです。
実はこのアンソロジーが出た時に光瀬先生から直接伺ったのですが
「今回、つくずく感じたのは眉村さんがほんとうに書ける人だということであった。自分も他の作家の方たちも、<SF未来戦記>という括りでは書ききれず、多元世界物などでお茶を濁している作品が幾つかある、その中で眉村さんだけは全作品<SF未来戦記>で描ききっているこれはなまなかな筆力ではない」とおっしゃつておられました。

しかしこアンソロジーを再読しますと、「戦争」が第一世代の作家にとっていかに切実重要であったかが感じられます。
 

「ベム AGAIN」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月23日(月)21時32分54秒
返信・引用 編集済
   深田亨さんから「パイロット版」用玉稿拝受! 43枚! 今読み終わったところ。眉村さん50周年とチャチャヤングに、これほどふさわしい作品はないというのを頂戴しました。いやーよかった。素晴らしい作品でした。深田さん、ありがとうございました。可及的速やかにプリント送りますね。
 それにしても、チャチャヤングショートショートオリジナルの判型にして、段野さん12頁、深田さん17頁と、お二人で、はや29頁(^^;。最終的にいったいどれくらいのボリュームになるのでしょうか。うれしい悲鳴。いやいいんです。私が引っ込めばいいだけですから(とすでに逃げ腰)(^^ゞ

 閑話休題。『ベム AGAIN』は69頁まで。

 「A Hyatt Verrill と「失われた種族」」は、A Hyatt Verrill という作家の紹介。「失われた種族」モノ作家として、初期アメージング誌で最も人気があったとのこと。
 「彼は弱冠17歳で、博物館のために自然史関係の資料を集め始め、その後は、中・南米、西インド諸島に探検隊を率い、カリブ海ではスペインの沈没船から宝物を引き上げたりしている」「いわば科学者、作家、イラストレーター、探検家といった幾つかの顔を持」つ「多才な人物」だったらしい。と、くれば誰でも「まるでインディ・ジョーンズみたい」と思うのではないでしょうか。ところが本篇にはそのような表現はありません。それもそのはずでありまして、本篇は、1975年「ALDEBARAN」4号に発表されたもの。一方「レイダーズ失われたアーク」は81年公開。つまり本篇執筆時にインディ・ジョーンズは影も形もなかったのでした(^^;。では、本篇、いったい誰に擬せられていると思いますか。
 「正に多才な人物で」「その著書は100冊以上あり」「例えて言えば、アジモフ博士の先駆者とでも言えそうだ」(笑)

 「失われた種族」モノは、「秘境冒険」モノと重複し、区別できない場合が多い、とありますが、要するに秘境冒険モノを、著者がさらに分類を厳密化した結果、析出してきたサブジャンルと考えるべきかも。この分類を私なりに咀嚼するなら、秘境冒険モノは「ロストワールド」ものと「ロストレイス」ものに二分できると言い換えられるのではないでしょうか。同じじゃんと言われるかも知れませんが、関心の重点が民族にあるか世界(土地)にあるかということです。ロストレイスものは、その意味で、マリノフスキーに始まるフィールドワークを重視する人類学(民族学)との関連で捉えてみると面白いかも。1920〜40年代は、そのような(極端な言い方をすれば冒険的)人類学が盛行していたのですが、本篇に付録されたVerrillの著作リストを見ますと、はたしてこの著者は1926年から1939年にかけて活躍しています。あながち的外れではないかも(^^;

 「ハガードとの出会い」はエッセイ。初出は『《世界大ロマン全集》解説総目録』(79)。『《世界大ロマン全集》解説総目録』ってなんぞや、と検索したら……なんと高井さんが制作されたインデックスだったんですねー。→こちらこちら
 だから文中で「高井君」と呼びかけられているわけか(笑)

 「ベムを編む」は、「ルーナティック」第6号(70)初出。著者の「BEM」愛が横溢しています(そのかわり「ハイブラウ」なSFMへの違和感が(^^; 念のため言っておきますが福島時代のSFMですよ。現在のSFMは>以下略)。石原藤夫作品を「BEM」小説と捉える見方は、虚をつかれましたが、言われてみればなるほどそうですね。

 ちょっと書きつかれたので、今日はこれまで(^^;
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月22日(日)20時55分0秒
返信・引用 編集済
   産経新聞関西版、眉村さんの【家族を語る】第5回は、「娘が妻のあとを継ぐ“司令塔”に」
 たしかにある時期の(流行作家時代の)眉村さんは、どう考えても、家族第一というのからはほど遠い生活をされていたように、私には思われます。テレビやラジオの収録で、週の何日かは外泊でしたし、東京にも頻繁に行かれていたでしょうし、夜は夜で、東京では戸川昌子さんのお店に出没し(そのおかげでマリア四郎さんの「火星の落日」が出来上がる)、キタ新地をホームグラウンドとした(>いや知りませんが(^^;)成果は、『夕焼けの回転木馬』『眉村卓コレクション異世界篇V』に収録予定)の冒頭に反映されています(以下、引用は黒田藩プレス版に拠る)。

 「目的地は決まっていた」「梅田新道の交差点に来た中原は、右手の巨大な市街地改造ビルに沿って右折した。まっすぐ道路を横断しようにも、横断歩道はなく、代りに地下道が作られているので、……階段を降りたりあがったりするくらいなら、もう少し先にある横断歩道を渡るほうが楽なのだ」(以上13p)「横断歩道を横切った」「のれんを手で分けて戸を開くと、おでんの匂いと店内の濁ったあたたかい空気が中原を包んだ」(以上14p)

 と描写されるこのお店にはモデルがあり、私も行ったことがあります(今はもうない)。
 主人公中原は、東京から単身赴任で大阪に来ているのですが、こんなことを思います。

 「来てみれば……二年あまりも暮らしてみれば……ここの生活だって、東京にいたころと本質的には何も変りはしない。それに東京の家族のところへある程度定期的に帰らなければならないのが(楽しみではないとはいわないものの、子供たちが大学に進んであまり家にもおらず、妻は妻でマイペースで地域活動などやっていると、帰宅もそれほどのものではなくなっている)結構時間的に負担になるのだった」(17p)

 この描写、産経のインタビューに照らし合わせると、意外に著者自身がオーバーラップして見えてくるんですよね。

 『夕焼けの回転木馬』は昭和61年の出版で、産経の記事によると長女知子さんは38年生まれとのことですから、24歳。東京の大学を既に卒業されてそのまま東京にとどまっている。いやむしろ、知子さんが在学中に書き始められた可能性が高い。
 つまりその当時、中原とはまさに対極的な位置に、眉村さんはいたわけです。というか、明らかに中原の設定に、眉村さんはそういう意味を隠している、と思えてきました。
 とすれば、「妻は妻でマイペースで地域活動などやっている」という記述も、「父母は今でこそ一心同体の夫婦のように思われているけれども、母が元気なうちは、結構それぞれで動いていた」という知子さんの述懐と対応してくるではないですか!

 おまえそれは読み過ぎだよ、ですって? うーん読み過ぎですか。読み過ぎですね。こりゃまた失礼しました〜(^^ゞ

 とはいえ夫婦愛の作家とのみ認識されるのは、眉村さんにしても本意ではないと思われます(それは確かに事実ではありますが、それだけに収まる作家ではないということです)。いよいよ次回は最終回。楽しみです!
 

Re: 「小松左京ナイト」に行く

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月22日(日)18時15分53秒
返信・引用
  > No.3825[元記事へ]

 堀さん
 小説の本質とは関わりのない些末事なんですが、近いうちに当然企画されるであろう「小松左京史跡めぐりツアー」において、オラが村的な醜い争いが起こるのは必定と思いましたので、あえてあげつらい、確定させていただきました。これでわが地方も、いささか潤うことでありましょう(>それかい)(^^;
 しかしこれは小松さんが悪いです。ただ単に「葛城山」といえば、10人が10人思い浮かべるのは金剛山地のそれに違いなく、和泉山脈のはやはり「和泉葛城山」と記述されるべきでした。

>和泉山系を「魔の山」「極めつけの呪術的山脈」として、役の行者や土蜘蛛や化け物の伝承がぞろぞろ出てきます。佐世子が語るのはそのごく一部ですね。
 あ、そうでしたか。それは知識不足でした。ご教示ありがとうございました。『地図の思想』も読まねばなりませんね。うーむ。今年の後半は小松左京特集となりそうです(笑)。
 

Re: 「小松左京ナイト」に行く

 投稿者:堀 晃  投稿日:2012年 7月22日(日)15時37分12秒
返信・引用
  小松ナイトご来場ありがとうございました。
黒い円筒の影を投影するだけであんなに迫力があるとは思いませんでした。
あれは巨大な暗黒星雲みたいなもので、昼間は見えませんね。

>「果しなき流れの果に」で、砂時計が発見された場所について、
>大和葛城山が示されましたが、
>これは和泉葛城山が正しい位置だと思います。

わ、確かにこれは、貝塚市南端の葛城山ですね。
なぜ大和と思いこんでいたのだろう。
70年代のはじめに金剛山へ登ったことがあり、その時に大和の葛城山を近くで見た記憶からかなあ。

「果しなき……」の描写のベースになった「地図の思想」紀伊半島の章の記述、
「和泉山脈は、最高峰の葛城山が標高857メートルで……」
からも明かです。

小松左京観光マップを修正しなければ……

ちなみに「地図の思想」には、和泉山系を「魔の山」「極めつけの呪術的山脈」として、役の行者や土蜘蛛や化け物の伝承がぞろぞろ出てきます。佐世子が語るのはそのごく一部ですね。

 

「小松左京ナイト」に行く

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月22日(日)11時19分25秒
返信・引用 編集済
   「小松左京ナイト」に行って来ました。
 本イベントの眼目は、小松作品に登場する印象深い「SF的存在物」を、実際に見るとどんな姿をしているのか、実際に見てみたいなあ、という堀さんの個人的願望をみたすために企画されたんだそうです(>違)(^^;
 プラネタリウムの全天スクリーンに映し出されることになったのは、「虚無回廊」の茶筒天体SS。「結晶星団」の14個の恒星が形作る結晶構造。「さよならジュピター」の(中途半端な)ブラックホール。と、「果しなき流れの果に」。

 圧巻は茶筒天体SSで、空中に浮かぶ飛行船どころではない大きさで背後の星を隠していました。知らなければ大気中に浮かんでいる、黒い巨大な物体としか思えないでしょうね。いやそれにしても、これだけの拡がりがあるのだったら昼間でも見えそうな気がしますが。やっぱり昼間は青空に紛れているのかな。どうなんでしょうか。

 「さよならジュピター」では、ブラックホールに飲み込まれる視点から、ブラックホールを内側から眺める映像が映し出されましたが、なんか漫画みたいだった。あんな感じではないんじゃないかな、と、思った。しかし科学知識ゼロの私のことで、あまり信ぴょう性なし(^^;。

 「果しなき流れの果に」で、砂時計が発見された場所について、大和葛城山が示されましたが、これは和泉葛城山が正しい位置だと思います。帰ってきてから確認しました(角川文庫版)。

 22p「いや――関西の南の方だ。和歌山との境に近い、K市ってところ……」
 同 「うまれて子供のころまで、和歌山にいたわ。葛城山って山のふもと……」/「妙な御縁だね。――その山の近くまで行くんだよ」
 28p「国道二十六号線は……」
云々とあり、
 29p「国道をにむかって走りながら」(……)「ここらへんは玉ネギの名産地でね」/「和泉玉ネギの名は全国に知られている」
 30p、26号線を南進していた車は、「ここを左へ」/「道は右に左にまがりくねって、葛城山脈の方へむかっている」

 という次第で、砂時計が発掘されたのは和泉葛城山に間違いありません。ただしここにも書きましたように、著者は和泉葛城山にまつわる伝承等は大和葛城山のそれを流用しているようです(その理由も上記リンク先で推測しましたが)。

 ともあれ、小松さんが想像/創造したSF的存在物を、こうして目の前に見ることができたのは至福の時間でありました。小松さん自身はこういう絵が浮かんでいたんでしょうか。もしこの会でも「そこにおり」はったんでしたら、ほう、こんなふうに見えるんか、とびっくりされたんでしょうか。なかなかの好企画で楽しませていただきました。

 
 

「ベム AGAIN」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月21日(土)14時41分40秒
返信・引用 編集済
   高井信さんから、岡田正也『ベム AGAIN』という出版物をいただきました。岡田正也さんは初期SFファンダムのBNFで、高井さんは大変かわいがってもらったそうです。その岡田さんが昨年67歳で亡くなったのですが、その一周忌に何かできないかと高井さんは考えます。で、考えついたのが、書庫に埋蔵している古い同人誌(岡田さんご自身発行の「ベム」(全12冊)や「宇宙塵」「ALDEBARAN」「ルーナティック」「MUTANTS」「ひゅーまんるねっさんす」)等に書き散らされた岡田さんの文章を、散逸を防ぐことも兼ねて発掘し、まずはそのうちの論考、エッセイ、コラムを集め、私費を投じて追悼ファンジン『ベム AGAIN』を発行するということだったのですね。
 という次第は、高井さんのページで知っていたのですが、私自身は岡田正也さんという方を存じ上げなかったので、ピンとこず、入手するということを思いつかなかった。

 手にとってびっくりしました。これは、「日本SFこてん古典」ならぬ、「英米パルプSFこてん古典」の試みではありませんか!
          オールドウェーヴ 
 さて劈頭に配されたのは「SF の 怪」というエッセイなんですが、これがまさに本書の巻頭言にふさわしい内容で、高井さんの編集者としてのセンスに舌を巻きます。
 つづいて「大空の秘境」。1910年代から30年代にかけて、パルプSFに、ちょうど「深海の秘境」(たとえばノーチラス号、沈んだ大陸)に対置されるような、「大空の秘境」ものというサブジャンルが存在していたことを、実例を持って示した労作です。そしてこのジャンルが、航空機の発達(1910年12月にアンリ・ファルマンV型機が最初の飛行機として日本上空に浮かび、13年3月には単葉機ブレリオW型機が早くも日本最初の空の犠牲者を出した、そんな時代>本書12p)とともに始まり、飛行機の発達のしすぎ(ロマンの不可能化)で衰退していったとします。ダイジェスト翻訳によって紹介されるのは、

 「The Air Serpent」 Will A.Page(Red Book Magazine1911/4)
 「The Horror of the Heights」 Conan Doyle(Everybody's1913/11)「大空の恐怖」延原謙訳
 「The Terrors of Upper Air」 Frank Orndorf(Amazing Quarterly1928/冬)
 「The Scond Shell」 Jack Willamson(The Wonder Stories1929/11)
 「Death in the Statosphere」 Henry J.Kostkos(Amazing Stories37/8)
 「Goldenfish Bowl」 Robert A.Heinlein(Astounding42/3)「金魚鉢」

 大空の秘境というサブジャンルの消長を航空機の発達とリンクさせた史観があざやかな、ヨコジュンにまさるともおとらない内容となっていました。

 というところで、そろそろ「小松左京ナイト」に出発しなくてはならない時間が近づいて来ました。残りは後日ということで(^^;
 

Re: 小松左京ナイト

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月21日(土)10時27分49秒
返信・引用
  > No.3821[元記事へ]

 澤田様

 早速にレスありがとうございます。
 とりあえず読んでみなければいけません。読んでから、澤田さんやこさんSFファンさんの書き込みを参考にしつつ考えてみたいと思います。楽しみです〜(^^)
 

Re: 小松左京ナイト

 投稿者:澤田芳郎  投稿日:2012年 7月21日(土)10時12分22秒
返信・引用
  管理人様

「意図した通り」「小松さん的には想定内のこと」かどうかは
問題にしておりません。映画と小説の作品評価にあたって全体
を見なければと言っているだけです。こさんSFファンさんが
紹介された「小松さんがやる気を失っていた」という証言は重
要ですが、その発言一つですべてを片づけることもできないで
しょう。ですから映画と小説の製作プロセスが解明されること
を期待しています。その際には「第2部問題」も手がかりの一
つになるであろうと予測しています。
 

小松左京ナイト

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月21日(土)01時57分48秒
返信・引用 編集済
  > No.3819[元記事へ]

 澤田芳郎様
 ご投稿ありがとうございます。未読のくせにおこがましいのですが、少し整理させてください。
 澤田さんの立場は、映画も小説もそのシナリオは小松さんの意図した通りのもので、従って(一見)バランスを欠いているように見える部分も、小松さん的には想定内のこと、というよりも、そうでなければならなかった必然性があったのだと捉えるべきであり、挙げられている(見かけの)瑕疵は、第二部でその必然性を読者に納得させる展開になるはずだった――ということでよろしいでしょうか。
 対して、こさんSFファンさんの考えは、映画のシナリオは、監督の横ヤリのせいで、小松さんの意図からは見るも無残に歪められてしまっており、クランクインの頃には、すでに小松さん自身が熱意を失っていた。ただし小説の方は(シナリオからのノベライズなので多少歪みは残っているが)、少なくとも現場SFとしてはよくできている――でしょうか。
 澤田さんの問いかけにも関連しますが、私の推測ですが、こさんSFファンさんは、澤田さんが挙げられた教団関係の出来の悪さ等はあるにしても、それは現場SFとしての面白さで十分相殺されている、との認識ではないかなと思ったんですが……どうなんでしょうか?
 いずれにせよ、私も早急に読んでみたいと思います。

 ということで(どういうことだ)、明日は小松左京ナイトに行ってきます(^^)。
 

Re: 小松左京に出会う会

 投稿者:澤田芳郎  投稿日:2012年 7月20日(金)21時14分2秒
返信・引用
  こさんSFファン様

BBJ計画の突貫工事やスペースアローの遭難と事故解析などは
もちろんすごいのですが、ジュピター教団の思想造形は不透明で
すよね。したがって教祖への過剰同調と説明されているアニタの
行動原理は不明確だし、マリアの言動も分裂的。そういうマリア
を英二は愛し続けるわけですが・・・。

マリアと英二に関しては一応フロイト的な説明が与えられていた
と思いますが、彼らが死ぬというドラスティックな運びのわりに
は、物語の本筋になっていないような。むしろ細部というか、現
場描写がよく出来ているだけに、全体としてバランスを欠いた作
品と言わざるを得ないと思っています。

ということは、そういう作品がなぜ書かれなければならなかった
のかという問題になりますが、それは逆に小松左京ファンにとっ
てはたいへんな財産が残されたということであり、小説と映画の
製作プロセスがいっそう解明されることを期待しています。やは
り、「第2部」を想定する必要があるだろうと思うのですね。
 

Re: 小松左京に出会う会

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月20日(金)16時09分24秒
返信・引用
  > No.3817[元記事へ]

 こさんSFファン様
 おお、これはとても興味深いお話をご投稿くださいました!
 なんかいろいろ錯綜していて、面白いですねえ。小松さんは大人(たいじん)ですから、同じ事象でも何層ものレイヤーで交通なさっていたに違いなく、おそらく腹に収めたまま、墓の中へ持っていかれたことも少なくないと思います。映画製作におけるあれやこれやも、そのひとつなのかも。
 でももちろん、そこが読者としては一番知りたいところでもあるわけでして、こさんSFファンさんのご投稿は(特に井口健二さんの言葉の発掘等)、まさに古参SFファンの名にふさわしい「歴史的証言」(笑)といって過言ではないんじゃないでしょうか。いや、映画製作と小松さんの関わりについて、さらに真相的なものを知りたくなってきましたが、まずはなにはともあれ、小説版を読んでみなければ話になりませんよね。
 ということで、昨日は「機会を見つけて」と書きましたが、そんな悠長なことを言っている訳にはいかない。「可及的速やかに」入手し、読んでみたいと思います!
 どうもありがとうございました。
 

Re: 小松左京に出会う会

 投稿者:こさんSFファン  投稿日:2012年 7月20日(金)03時24分0秒
返信・引用
  管理人さんへのお返事です。

>一四歳の少年が登場する必然性は、むしろ怪獣映画と同じ理由(子供客の集客と迎合。

小説では少年じゃないんですけどね。カルロスは。小説では最後の方にちらっと出てくるインド人天才少年数学者と小説のカルロスを混ぜ合わせたキャラに変えたのは監督の橋本さんのようです。
ちなみに、小説ではインド人少年は新しい世代の象徴としても描かれてるわけですが、映画はその辺のところは無視されてるように思います。監督が二人のキャラを一人にまとめたのは、上映時間の都合が一番の理由でしょう。(年少客の集客を意識してたのはもちろん)
>こんなぐじゃぐじゃなシナリオを小松さんが書くものだろうか、と強く疑いを持ちました。

脚本は小松氏が書いたものをベースにしてはいるものの、それに橋本監督が大きく手を入れて
大幅に刈り込んだものが実際には使われています。脚本のクレジットには小松氏の名前しかありませんけどね。
元々、3時間半を超えるような脚本を2時間程度にまとめるのが無理な事だったように思います。
総監督とはいえ、プロの映画監督である橋本氏への遠慮もあったのではないでしょうか。

小説は木星を犠牲にして生き残りを図ることへの心の痛みなんかも描かれていて
結構ぐっと来る作品なんですけど、そういう作品の核になるような部分もほとんどスルーされていて
(申し訳程度に残ってはいるけど)小説版の愛読者としては悲しい限りです。
澤田芳郎さんは小説版も感情移入できないと書いておられますが、これについては大いに異論を呈したいところです。私は「現場」でデスマーチの実体験があるせいか、BBJ計画の突貫工事には大いに燃えました。ああ、また小説を読み返したくなってきた(笑)小松氏も「これは現場の物語だ」と言っておられたはずですが、そういう部分は非常に良く描かれていると思います。

少なくとも、できそこないのダイジェストでしかない映画よりは小説の方が何千倍も面白いのは
保証します。未読とのことですから、ぜひ読んでみてください。
#そういえば、井口健二氏がクランクイン直前には東宝サイドとの様々な問題のせいで小松氏はすっかりやる気をなくしていた。とSFイズムという雑誌でばらしてましたね。怪文書まで出てきて「噂の真相」にインタビューされてたなんてことまでありました。
 

「装いせよ、わが魂よ」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月19日(木)21時11分54秒
返信・引用 編集済
   高橋たか子『装いせよ、わが魂よ』(新潮社純文学書き下ろし特別作品82)

 承前。このように変わってゆくのは推測が付いていましたが、やはり戸惑わされました。
 それともうひとつ戸惑ったのは、日本を離れパリを舞台としたことで否応なく顕在化した著者の原点座標で、はっきりいってレヴィ=ストロース以前なんですよね。たとえば白人の男に対してと、黒人の男に対してとでは、筆致に明らかな差別があります。
 この著者の場合、作中主人公に著者自身が反映されているのは常識でありまして、中村真一郎は「あなたの小説は全部作者と精神的な反応を共有している主人公が出てくる」『空の果てまで』挟み込み付録)と、処女長篇で既に看破していましたが、本書函の著者の言葉では「主人公・山川波子はこれまでのどの作品にもまして、作者の「私」である」とはっきり宣言しています。
 という次第で、山川波子の西欧至上主義的認識の慣性はつまるところ著者自身のそれなのです。それはしかしよく分かるのであって、波子は物事が曖昧な日本でいるときよりも何事も白黒付けずには措かないパリでの方が水に合っていると感じています。
 日本的な文化にそもそも違和感を持っていたということで、それは日本を舞台にしているあいだは批評性を持ち得ていたのだが、舞台がそのような心性がそもそもごく当たり前なパリに移ってしまうと、妙にねじくれてくる。
 実際、主人公がパリに措かれたことで浮かび上がってきたのは、案外に表層的な、波子の(著者の)西欧文化への、黄色い猿のあこがれなのです。作中で波子が、黒人たちは日本人を、ヨーロッパに対せば、同じ仲間と感じている、といいますが、それに対して反発(自分も日本人だから)すると同時に、そうかもしれない(自分を西洋人的として、日本人のカテゴリーからはずした場合に出てくる日本文化蔑視)とも考えます。
 日本人でありながら自分は日本人的ではない西欧的であると思いたい気分が、文中のそこかしこに漂っていて、ちょっと読んでいて鼻白んでしまいます(それはブルジョアの臭みでもあるんですね)。つまり「裸」になるためパリに来たのだが、結局「裸」になっていないんですね。著者の意識のそのもっと下層に、衣を纏っている自己がいることに気づいてないのでしょうか。

 本書は起承転結的なストーリー性はなく、著者云うところのプロヴィダンス(神が暗号のように差し出す「偶然」)に身を任せるように進んでゆくのも、読みにくい原因。主体的な人間を描いてきた著者が、このようなカトリック的行動原理を受け入れているのが、ある意味唐突で、その理由(そう変わった経過)を腹にはまって了解できないんですよね。私には。

 さて、著者は本書の後(長篇を一本上梓しますが)、しばらく断筆します。私も他に読みたい本が溜まってきたので、同様に高橋たか子特集をいったん棚上げし、また気が向いてきたら再開したいと思います。
 

Re: 小松左京に出会う会

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月19日(木)08時06分8秒
返信・引用 編集済
  > No.3814[元記事へ]

 澤田芳郎様
 わ、ご来信ありがとうございます。ご講演、私にはとても新鮮で面白かったです。示唆されるところも多く、刺激をいただきました。
 聞き違え申し訳ありません。フッサールとハイデガーは私の中では対になっていて、勝手に脳内誤変換してしまったようです。メモしながら拝聴すればよかったのですが(しかしヘマルクスを読んでヘーゲルを読んでなかったというのも、いま、ちょっと驚きでした)。
 映画と小説の前後関係についてのご教示もありがとうございました。小説版は未読なので(というか大昔映画を先に見てがっかりし読む気が発動しなかったのでしたが)、機会を見つけて読んで、あらためて考えてみたいと思います。
 どうもありがとうございました。
 

小松左京に出会う会

 投稿者:澤田芳郎  投稿日:2012年 7月19日(木)07時34分14秒
返信・引用
  基調講演をさせていただきました澤田芳郎です。ご来場ありがとうござい
ました。管理人さんが書いておられる「小松左京がフッサールは深く読ん
でいたがハイデッガーは読んでなかった」の個所ですが、ハイデッガーで
はなくてヘーゲルです。私が言い間違いをしていなければ。

小説版の『ジュピター』はシナリオ第3稿の作者自身によるノベライゼー
ションで、感情移入ができない等の問題は共通と思います。すなわち放棄
したわけではないんですね。小説全体として何か別のことを書こうとして
書き切らなかったと私は解釈していて、あれを「文明」小説ではなく「宇
宙」小説と読めばそれがかすかに見えるような、というのが私が「ぶちこ
みすぎて失敗」と言った意味でした。表現力不足で失礼いたしました。実
はこのあたりの議論も『小松左京自伝』で小松先生にふっかけているので
すが、これといったコメントはなかったと思います。

それにしても私が米朝師匠と同じ席に並ぶとは。小松先生にえらいところ
まで連れてこられたと思ったことでした。
 

「ハンナ」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月18日(水)22時57分30秒
返信・引用
   映画「ハンナ」(11)を観ました。主演シアーシャ・ローナン。
 全部見終わると、主人公が、強化兵士となるべく遺伝子操作で生まれてきた少女であることがわかる。その計画はなぜか(まあ多分人道的見地とかそういうことでしょう)中止になり、赤ん坊は主人公をのぞいて「廃棄」されたんでしょう。で、おそらく主人公だけが、卵子を提供した(?)母親と、それを助ける計画の実行者の一人(育ての父親となる)によって、廃棄を免れ逃亡するが、ケイト・ブランシェット演ずる計画の責任者(?)に撃たれ、母親は死亡する。が、父と2才の娘はフィンランドの山奥に逃れ、娘は父親にサバイバル術を徹底的に仕込まれる……。娘が父を超えたとき、教育は終了し、娘は母のかたきケイト・ブランシェット演ずる計画の責任者を討つため、自分たちが生きていることを無線で知らせ、ゲームが始まります。
 という内容の説明はほぼ一切なし。それでいいんです。見終われば誰でも察しは付くのです。面白かった! こういうのを見ますと、近年のわが国娯楽小説の説明肉布団ぶりがいかに無意味無駄か、よく分かりますね。もっと痩せろっての!(>あ、オレもか)(^^;。
 

トレーン・ナイト

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月17日(火)22時35分36秒
返信・引用
   7月13日はジョージ・ルイス112歳の誕生日だったそうですが、四日後の今日は、ジョン・コルトレーン45回目の命日。あやうく忘れるところだった。どうも近年、ときどき忘れてしまう年があったりして、トレーン愛が薄れているのかなあ。てことで、今日は「ハンナ」(11)を観るつもりだったのですが、トレーン・ナイトに予定変更。今から聴きまくろうと思います(^^;

 高橋たか子『装いせよ、わが魂よ』(新潮純文学書き下ろし特別作品82)読了。
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月17日(火)20時29分46秒
返信・引用
   産経新聞関西版、眉村さんの【家族を語る】第4回は、「少なくとも“よくある家族”ではない家族だった」
 うーむ。山崎正和『鴎外 闘う家長』ではありませんが、長男であるというのは、(一人っ子がふつうの現代とは違って)重い縛りですよね。眉村さんの場合も、たしかに長男という立場が、その文学に強い刻印を与えているような。もろ長男の文学だって感じがしますよね。

 来週は愈々「妻・悦子さんの闘病生活をともに見守った長女・知子さんへの思いについて語る」! これは興味津々です。まじ楽しみ。見逃すことはできませんね。
 

Re: 小松左京に出会う会

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月17日(火)20時08分10秒
返信・引用 編集済
  > No.3809[元記事へ]

> No.3808[元記事へ]

 雫石さん 段野さん

 や、そうでしたか。それは残念なことをしましたね。終了後、見回したりしたらよかったのですが、さっさと出てきてしまいました。大失敗。来週行かれるなら、よろしくお願いします。

 段野さんより玉稿拝受。30枚超の短編ですよ!
>何かありましたらまたご連絡下さい
 とのことですが、私はM27ではないので、あわわもとい、編集ではなく単なる作業者ですので、何もありません(^^;。そのまま載せちゃうのであります。ありがとうございましたm(__)m。

 さあ、これで皆さんもお尻に火がついたんじゃないですか(笑)。傑作をお待ちしてますよ〜!!
 

Re: 小松左京に出会う会

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2012年 7月17日(火)19時02分49秒
返信・引用
  > No.3806[元記事へ]

来ておられたのですか。探しました。
レポートは今日(7/17)に拙ブログに掲載します。
「さよならジュピター」のレビューは7月23日に掲載します。
私は、段野さんとキリヤマさん、星群の面々9名と阪急トップビアガーデンで飲んで食っておりました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

小松左京に出会う会

 投稿者:段野のり子  投稿日:2012年 7月17日(火)14時02分12秒
返信・引用
  管理人さまをお探ししていたのですが、見つけられず、9名でビアガーデンになだれ込みました。「さよならジュピター論」なるほどなあ、これを聞いてから映画を鑑賞すると、昔見たのとはまた違う思いがわいてきました。会場も超満員、小松さんも満足しておられたのでは。


 

小松左京に出会う会

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月17日(火)06時44分33秒
返信・引用 編集済
   小松左京に出会う会に行って来ました。1時ちょっと過ぎに到着したら、盛況で、すでに二階席しかなく、それも二階の真ん中よりやや後ろの席でした。着席したときは石毛直道実行委員長の挨拶が始まっていました。
 つづいて「小松左京自伝」を構成された澤田芳郎さんの小松論。小松左京がフッサールは深く読んでいたがハイデッガーは読んでなかったというのはちょっと意外でした。どちらかと言うと逆だと思っていた。小松は、「日本沈没」の第二部を書かなかったけれど、「さよならジュピター」と「首都消失」と「こちらニッポン」が実質的にその続編だったとのこと。
 次のパネルディスカッションには米朝さん(と米團治さん)が登場。どこまでマジなのか分からないその一言一言が観客の笑いをどっと取っていて、さすがだなあと感心。
 ディスカッション内では下村健樹さんの映画「さよならジュピター」論が独創的で面白かった。その説を生前の小松さんに披露したら、最後にわが作品をよくそこまで読んでくれた、ありがとう、と言ってもらえたそうで、それはそうだろうな、と私も納得。ただしそうおっしゃったからといって、自分の意図をよく読み取ってくれた、という意味ではないでしょう。そんな風に(自分でも気づかなかった)読解をしてくれた、ということに対してのねぎらいのお言葉だったに違いありません(それは第二部で当の映画を見てそう確信しました)。むしろ自己の意図に執着せず多様な読みを快く許容する小松さんの大器量を示すエピソードと受け取られました。
 さて、小休憩の後、くだんの映画「さよならジュピター」が上映されました。上に書いたように二階の真ん中より後ろの席だった関係で、スクリーンは小さく、字幕はぼやけて半分読めないという悪条件ながら、先述の下村説を常に想起しながら鑑賞したので、大変興味深く見ることができました。ということは、逆にいえば何もなければ寝てしまったかも、ということなんですが(^^;。端的に言って、私は下村説は深読みしすぎだろうという結論でした。
 一四歳の少年が登場する必然性は、むしろ怪獣映画と同じ理由(子供客の集客と迎合。但しその伝統は鑑賞する子供から見ても滑っている、というのは怪獣映画のリアルタイムの子供客だった私がそう感じていたこと)でしょう。作り自体も伝統的な怪獣映画の作法そのものですし、その結果、作中人物の内的統一は蔑ろにされ、澤田さんも言っておられましたが、「どの登場人物にも感情移入できない」作品になってしまっていました。テログループの論理は無茶苦茶で、とりわけ小野みゆきの役どころはテロの必然性(自然の保持)を恋愛感情に矮小化しており、こんなぐじゃぐじゃなシナリオを小松さんが書くものだろうか、と強く疑いを持ちました。そのような次第で、私は、実は小松さんは、最後までシナリオに責任をもつことを放棄したんではないかな、と感じたのでした(ちなみに原作は未読)。わが想像では、小松さんは途中からやる気を無くして、もうどうでもいいからテキトーに作ってくれ、という心境だったのではなかったのかなあ。同じく澤田さんが、小松さんが或るシーンの挿入を強く要求しているのを目撃していますが、ところがそのシーンは完成した画面になかったと言っておられましたし。配役も三浦友和でははっきり役不足(誤用)。ここはフンパツしてハリソン・フォードを起用すべきだった(>おい)(^^;。映画の始まる前から、登壇者が何度も、評判はあまりよろしくなかった、と予防線を張っていたのも宜なるかなでありました。

 閉会後、いっしょに参加していたジャズ住職と、久しぶりの定員二名のSF&世相検討会。まあ上記のような話をしていたのであります。あ、その前に、手ぶらだったので頂いたパンフレット類が邪魔で、というかなくしたらいけないので、ジュンク堂に寄って本を購入。カバーはいらないからこのパンフレットも袋に入れて頂戴と頼んだら、調度よい大きさの袋に入れてくれました(^^)。購入したのは、気になっていた『ゴースト・オブ・ユートピア』。二次会はいつものアイリッシュバーで、今日は初めて(まあ二人だったので)カウンターに座ったところ、カウンターの中の女の子がなかなか気さくで、ときどき話に乗ってきてくれる。で、例のデッドエンドストリート(すぐ近くなのです)の話をしていたら非常に関心を示してくれました。福田さんの本は知らなかったので、ひょっとしたら購入して読んでくれるかも(^^ゞ
 六時前から始めたこともあり、いつもより一時間ほど早くお開きにしましたが、実質時間的にはいつもと変わらずで、いつもと変わらぬ千鳥足で帰還。バタンキューで日付が変わる前に就眠したら、早くに目覚めた。ということでこの文章を書いているのでありました。
 

「シャンハイ」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月15日(日)23時31分26秒
返信・引用 編集済
   映画「シャンハイ」(11、米中)を観ました。主演ジョン・キューザック。
 舞台は1941年の上海。アメリカ(この時点では一応中立中)、日本、抗日軍のスパイ、二重スパイ、スパイをスパイするスパイたちが入り乱れる魔都が活写されます。
 いやー面白かった。気がつけば画面に食い入るように、身を乗り出してみていましたですよ(^^;。

 見終わると、たいていgoo映画でクレジットを確かめます。今回もそうしたのでしたが、ついでにレビューも読んでみました。すると、ほとんどのレビューに共通する或る特徴が見えてきました。それは、まずほぼすべての評者が、日本人が悪役ということで拒否反応を示していること、次にストーリーが分かりにくいと述べていること、の2点であります。

 私に言わせれば、どちらもわたし的にはちょっと違うんですよね。或る評者に至っては「そもそも、日中戦争は日本から仕掛けたものではないということ。中国の≪嫌がらせ≫から始まったはず」だと(ーー;。おいおい。この評者の高校の教師は、いったい何を教えたんだ? とがっくりしますね。要するに自国の歴史を客観的に把握していない。いや知らないんです。知らないけど風評だけは耳に入ってきている(その当否を自ら確かめることはしない)。

 ストーリーが分かりにくい、というのも、実は根は同じ。歴史をきちんと知っていないから分かりにくいと感ずる(シナリオは、知っていて当然のことは省略されていますから)。私はこのシナリオは非常に面白かった。渡辺謙演ずるタナカ大佐は、最初、上海事変の田中隆吉かと思ったのですが、ほぼ10年の時差がありますね。とすると梅機関の影佐禎昭っぽいが、1941年時点では少将に昇進して汪兆銘政権に入り込んでしまっています。いずれにせよ、上海特務機関でしょう。で、タナカが、当時休暇中との触れ込みで上海に停泊していた空母加賀と接触していた(実はドイツから到着した大量の魚雷を加賀に積み込んでいた)との情報をつかんだ主人公の米スパイが偵察に赴くと、なんと停泊していた休暇中の艦隊から、加賀ほか数艦がいつの間にか消えていたのです! アッ、と思う場面ですよね(知識がありさえすれば)。一気に視界が開けてくるわけです。でも、そういう基礎知識がない(日本の歴史なのに)とストーリーがごちゃごちゃして(というより説明不足で)分かりにくいと感じるんでしょう。

 しかしこういうストーリーにした製作国アメリカの観客には、このストーリーで難なく通じているということになるわけで、それが当事国である日本では分かりにくいと反応されるというのは、実に恥ずかしいことだと思いました。
 という次第で、上記レビューの評者の方々は、おしなべて本篇をラブロマンスと(矮小化して)認識し(としか認識できず)、その意味において中途半端と評価している。いやそれはそのとおりなんです。たしかに中途半端。でもその理由は明らかで、本篇はラブロマンス映画ではないのですからある意味当然なのです。いうまでもなく本篇の真の主人公は歴史であり、本篇の魅力もまた、歴史の非情の面白さなんですよね。

 さて明日は小松左京に出会ってきますよ(笑)。諸般の事情で1時過ぎ会場到着の予定。なので、できるだけ開始時間の遅れんことを期待します(>おい)m(__)m
  
 

「レッド・バロン」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月15日(日)00時00分6秒
返信・引用
   映画「レッド・バロン」(08、独)を観ました。主演マティアス・シュヴァイクヘーファー。
 第一次大戦ドイツ空軍のエースで、派手な赤い戦闘機に乗って戦い、撃墜王レッド・バロンとたたえられたマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの半生記。レッド・バロンは連合国側が付けたあだ名。実は撃墜王レッド・バロンとして連合国におそれられた、と自動的に書こうとして、いやいや、その空中戦における紳士的な態度で、おそれられもしたが、且つ尊敬もされていたんだった(映画でもフランス占領地でサインを求められるシーンあり)、と思い出し、あわてて書き直したのでした。
 いやーよかった。
 子供の頃読んだ漫画に「ゼロ戦レッド」というのがありましたが、あれはリヒトホーフェンがもとにあったのかな。
 空中戦はほぼCG。おかげでくっきり細部まで見えるのだが、複葉機にはありえない急旋回をしたりして、迫力満点とはいえ、そこまではできんやろ、とも思いました(^^;。
 この映画の世界では、敵機のパイロットの顔まで見えて認識しており(その結果国家を超えた友情が成立する余地がありラストに繋がる)、いわゆる鉄砲に対して刀的な、個人と個人の戦いの面が強く前面に出されているのですが、私の認識では、旅順要塞攻略戦のように、戦闘形態は第一次大戦から、個人戦が団体戦に取って代わられ、機械戦となり、兵士が消耗品とされたように考えていたので、ちょっと認識を改めました。でもヨーロッパ戦線でも、マルヌにしろ毒ガスにしろ、基本的には消耗戦なので、これは空軍(空戦)の特殊事情なのかも。
 ストーリーは、国民的英雄に祀り上げられ、国民の士気発揚に利用される主人公が、従軍看護婦との出遭いを通じて、また戦友たちが次々に戦死していくなかで、次第にスポーツ感覚では済まされなくなってゆくも、最後まで英雄役を引き受けて敗戦必至の空戦へと出動してゆきます。
 看護婦役のレナ・ヘディも好演。これは「メンフィス・ベル」同様、何度でも見たい空戦映画ですね。

『装いせよ、わが魂よ』は120頁まで。第一部読了。
 

「赤ずきん」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月13日(金)22時47分5秒
返信・引用 編集済
   映画「赤ずきん」(11)を観ました。主演アマンダ・セイフライド。
 グリム童話「赤ずきん」を換骨奪胎した、というよりも触発されて出てきた別の物語。一種の二次創作で、もちろん細部は踏襲されています(狼の腹に石を詰め込んで縫い合わせるとか。ただし全く別文脈です)。すべてCGとスタジオセットですね。ドイツの森っぽくはないのですが、中世ファンタジー風のモノトーンの画面に、赤ずきんのフード付き外套のみが真っ赤に色付けされていて、とてもあざやか。非常に綺麗な映像です。
 舞台は中世のヨーロッパの冬。ということで、エリザベス・リン『冬の狼』を彷彿とさせられます。
 ストーリーは、大人になった赤ずきんの話という映画の惹句はツリで、ふたつの物語に連続性はない。人狼もの、エクソシストもの、プラス、ロマンサスペンスという感じで、なかなか面白かった。
 CGでこれだけできるのなら、「冬の狼」も映画化可能ですね。

 『装いせよ、わが魂よ』は、80頁(第一部第二章)まで読む。
 

「金色の死」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月12日(木)20時57分2秒
返信・引用 編集済
   ようやく、(束の間の)平安が訪れて、『装いせよ、わが魂よ』に着手。今日は37頁(第一部第一章)まで読みましたが、EWIの練習も継続していることで、頭のなかではつねにセントトーマスが鳴り響いており、それが邪魔でなかなか集中できなかった。切り替えが下手くそなのは私の最大の欠点なんですよね。だいたい生活習慣からしてそうなのでありまして、寝るのが嫌いで起きるのが嫌い。これは死ぬまで治りませんね。

 藤野恵美さんがブログで、「全身に金箔を塗ると、皮膚呼吸ができなくなって死ぬ」「都市伝説」だと書いておられます→谷崎潤一郎の『金色の死』
 都市伝説だったのか!
 大学時代の友人で、金粉ショーのバイトをしていた者がおり、二時間以上[※]そのままでいると皮膚呼吸できなくて死んでしまうのだと聞かされて以来、私は今日の今日までずっとそうなんだと信じていましたですよ(^^;。
 少なくとも、そのショーの主催者は、踊り子にそう説明していたわけですよね。当然それを基準にしてショータイムが管理されていたはずです。都市伝説とはいい条、それが実際に機能していた(社会的拘束性を有していた)わけですから面白いですねえ(少なくとも谷崎の大正時代から70年代後半までは)。誰が言い出しっぺなのか(まさか谷崎?)、知りたいですね。そういう研究がすでにあるのでしょうか(笑)

[※]「二時間」と記憶しているのだが、今あらためて考えると二時間は長すぎるような。一時間? それとも20分と聞いたのかも。
 

眉村さん情報「被狙?的学?」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月12日(木)00時04分23秒
返信・引用 編集済
   昨日お伝えしました眉村卓原作アニメ「ねらわれた学園」マンガ化決定のニュースは、中国でも報道機関に取り上げられているようです→《被狙?的学?》?景美?公? 漫画化决定
 この南方網というウェブサイトは、広東省の大手マスメディア南方報業伝媒集団の構成体で、ウィキペディアによると、傘下の南方週末という週間新聞は、「ニューヨーク・タイムズに、中国で最も影響力を持つ自由主義の新聞」と紹介され、毎週160万以上の発行部数を誇るとのこと。(追記「?」の部分は中国文字(簡体?)で、この掲示板では読み取れない文字)

 中国語は読めないので(と書くと、あたかも読める外国語があるみたいですが(^^;)、エキサイト翻訳にかけてみました。

 改作は日本サイエンス・フィクション作家眉村の卓創作する少年SF小説の劇場のアニメーション《狙撃された学園》から、4回がドラマと改編して、2度真人の映画と改編してことがある、元来行って今年の秋に上映します。
 近日、政府は本部の劇場版のアニメーションのシーンの美術のピクチャーを公開して、同時に元来漫画化を行うことを宣言して、漫画の作者は石川樹で、最新の漫画の連載は8月10日に発売する“Newtype Ace”Vol.を掲載する12の上。
 【STAFF】
 原作: 眉村の卓
 映画監督: 中村の亮介
 アニメの製作: 日は上がります  OP:supercell
 配給: 松竹
 【STORY】
 古都の鎌倉の1つの中学(高校)。
 初級中学二学年の健やかな2に上がる、健やかな2の幼なじみの夏の望むこと、ある健やかな2のこっそりとこっそりと注意している存在の佳恵のナシ。このどこにも見られた普通が日常の中で、突然健やかな2と夏で彼らの目の前のが1位が京のきわめての少年というのなことを望むことが現れます。謎の普通なのは学生の京のきわめての存在を回転して、14歳の少年の少女達の心身を更には全体の学園の雰囲気がすべて危険な変化と動揺が発生させました。(作者:番地の君)


 なるほど。はるか遠方より意味が減衰しつつ伝わってきますね(笑)
 

眉村さん情報「ねらわれた学園」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 7月10日(火)20時16分2秒
返信・引用 編集済
  > No.3799[元記事へ]

 段野さん
 おお、段野さんのみじかばなし! 初投稿、ありがとうございます(^^)。この調子で、第二弾、第三弾もよろしくお願いします。
 8月末締切の分も、お忘れなく〜m(__)m
 ちょっと質問があるので、メールしますね(^^;

 それはさておき、今秋公開予定のアニメ映画「なぞの転校生」(公式ページ)の最新情報です!

 昨日の朝日新聞デジタルによりますと、映画化は、全く新しい解釈とエピソード、キャラクターになるみたいですね。で、それに先立ってマンガ化されることが決まったという内容。「ニュータイプエース」という雑誌(あ、やっぱり角川も噛んでるのかな)に連載されるとのこと→こちら
 要するに、アニメのキャラクターでマンガ化するということなんでしょうか。なんか大掛かりになって来ましたね。楽しみ〜(^^)。

 追記。さる方の情報によりますと、青い鳥文庫版の表紙も変更されるようです(^^)

 
 『ねらわれた学園』コミカライズ版のピンナップ(C)眉村卓・講談社/ねらわれた学園製作委員会
 

みじかばなし

 投稿者:段野のりこ 投稿日:2012年 7月10日(火)15時53分8秒
返信・引用 編集済
   「はんちょう」
  うちのおとうさんははんちょうです。でも休みの日にはいつもねてばかりいます。
  週にいちどは「とまり」といって家にかえってきません。
? 「けいかい」の日はいまみやえびすの十日えびすとかぞうへいきょくの人波をせいりしたり、天神まつりの花火のけいかいがあったり、そんな日はおそくに家にかえってきます。
 それでも夏休みには、おとうさんの休みにあわせて海水浴にいったり、海つりにつれて行ってくれます。
 やすみの日にはねてばかりいるおとうさん、おしごとがんばってくださいね。
?
 

セント・トーマス

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 9日(月)22時26分3秒
返信・引用 編集済
  ちょっと思い立って、さっきまでEWIを吹いていました。久しぶりなので、まずはカリフォルニアシャワーの復習。うーむ。細かいところずいぶん(指が)忘れている。ウォーミングアップ後、ロリンズのセントトーマスに初挑戦してみる。実はこの曲を聞いていたら、なんとなく出来そうな気がしてきて、それで久しぶりのEWIとなった次第なのです。身の程知らずでしょうか(笑)。ロリンズの演奏は、細かい装飾修飾に天才的な職人芸を見せつけますが、単純に音符的にはそんなに難しいことはやっていない……と思うんですけどねえ(つまり私の指でも何とかなりそうな>甘いか(^^;)。SFでいえばシェクリイですね。簡単に書けそうな話にみえますが、実はとんでもなく難易度が高い技倆を駆使しているんですよね。……あかんがな‥

 
 

Re: 眉村さん映画

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 9日(月)16時22分48秒
返信・引用
 > No.3796[元記事へ]

 雫石さん
>私にも優しく接していただきました
 あ、そうですよね。細かなニュアンスを聞き取れてなかったようで、大変失礼いたしました(^^;。
 とまれかくまれ、「僕と妻の1778話の物語」、なかなかよい映画だったですよね。眉村さんは、草なぎ朔太郎のような、あんな見るからに生活感にとぼしい夢見がちな外観ではないと思いますが、あの設定のおかげで、節子は、妻でありながら母であるという「聖母性」を獲得し、その独自性によって、この映画は(大方が求めた)擬似実話性をはらりと振りほどき、自立した虚構作品となり得たと思います。けだし星護監督が一番力を籠めた部分だったのではないでしょうか。一見甘々なようで、実はなかなかしたたかな構想が秘められていたんですよね。
 

Re: 眉村さん映画

 投稿者:雫石鉄也 投稿日:2012年 7月 9日(月)04時52分29秒
返信・引用
 あ、誤解なきよういいますが、わたし、しょっちゅう、悦子さんにしかられていたわけではありません。
原則として、私にも優しく接していただきました。
ただ、一度だけ、銀座会の日時を、2度聞いたことがあります。
「前にいったでしょう。ちゃんとメモしておきなさい」とたしなめられたことがありました。
叱られたのは、その時だけです。あとは優しかったです。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

Re: 眉村さん映画

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 9日(月)00時09分1秒
返信・引用 編集済
 > No.3793[元記事へ]

 段野さん
 眉村さん映画情報ご投稿ありがとうございました。さっき帰宅したところなので、私は見ること能わずでしたが(それ以前にわが部屋のテレビでは見れないのですが)、 レスして下さった海野さんだけでなく、多くの方が、「僕と妻の1778話の物語」を鑑賞することができたのではないかと思います。
 この作品、雫石さんにいわせると、竹内結子さんの節子が優しすぎる。実際の悦子さんはもっとコワかった。リアリティ無しや、と憤慨されていましたが(連絡係のときよほどヘマをして悦子夫人に叱られたものと見えます>おい(^^;)、監督もいっておられますように、この映画、主人公の草なぎ朔太郎が何十年ものち、初老になってから振り返った、回想の中の節子なのです。つまり、かぎりなく美化されている、という設定なのですね。きれいな部分だけで造形されたファンタジーなのでした。
 私の記憶に残っている悦子さんは、年齢的には私の母親の妹くらいの年齢差なのですが、わが母親と比べて、非常にモダンな印象が強く印象としてありましたね。それはもう雲泥の差というべきでありまして、まさしく戦後の自立する近代婦人というイメージでした。
 大フィル祭のとき創研のメンバーが駆りだされたのでしたが、ちょうど眉村さんは痛風で動けず、悦子さんが私たちを、あれはどこでしたか、ロイヤルホテルだったかどこかのホテルに、小松さんらが集まっていたところに連れて行ってくださいました。
 段野さんも御存知の通り(というか段野さんも駆りだされた口でしたっけ)、メンバーは例外なくぼーっとした行動力皆無の男たちでありますから、おそらく悦子さんは、放牧している羊を追い立てるような心境で、内心キリキリしていたに違いないと、確信を持って思い出すのですが、ホテルについたときも、小松さんたちに対して、まったく臆するところがない凛とした態度だったのも、よく覚えていますね。そういう悦子さんのキリッとしてところが、雫石さんにはきつく感じられたんでしょうね。でも私はいちども叱られたという記憶はなく、きついなあと思ったこともありません。雫石さんはよほどしょーもないことをなさったんじゃないですかねー(^^;
 
 

Re: 眉村さん映画

 投稿者:海野久実 投稿日:2012年 7月 8日(日)17時55分46秒
返信・引用
 > No.3793[元記事へ]

「僕と妻の1778の物語」映画館へは足を運ばなかったので、まだ見ていません。
「真夏のオリオン」ともども録画予約しています。
楽しみですね。
録画しながら見てしまいそう。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

眉村さん映画

 投稿者:段野Eり� 投稿日:2012年 7月 8日(日)14時12分50秒
返信・引用
 本日午後9時から「日本映画専門チャンネル」(CSかケーブルTV)で放送されます。見られる方は是非ご覧ください。 

眉村さん情報

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 8日(日)10時38分35秒
返信・引用 編集済
  サンケイ関西版【家族を語る】眉村さん編の三回目がアップされました。

眉村卓さん(3)少年時代、厳しかった父に隠し続けたヒミツ

 うーん。もっと聞きたい。お父さんだけでも3週は必要かも。やはり本格的な自伝もしくは評伝が望まれるところですね。

 次回は母・静子さんと弟、妹と過ごした少年時代の思い出とのこと。弟さんは疎開中の話や漫画投稿の話などに少し出てきますが、お母さんや妹さんの話は非常に珍しいと思います。楽しみ!
 
 

「ヨハネの剣」

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 6日(金)23時48分28秒
返信・引用 編集済
  今週は怠けすぎたので、いろいろ尻に火がついていて、ちょっと長篇小説を読む気分ではありません。ということで、山田正紀の、ささっと読める30頁ほどの短篇「ヨハネの剣」(講談社文庫同題短篇集収録)を読みました。

 偶然にも(キリスト教の言葉に置き換えるとプロヴィダンス。前掲対談による)『装いせよ、わが魂よ』(82)とほぼ同じ83年の出版(元版80年)で、舞台は、これはフランスとは違って、スペイン・セヴィリア。
 最過激派革命セクト世界最前衛赤軍の創設メンバーである幹部が資金を持ち逃げした。見つけ出して金を取り返すよう指示を受けた主人公が、当の幹部が天草四郎の生まれ変わりを自称していたことから、セヴィリアに目星をつけ、やって来る。義経北行伝説と同型の天草四郎セヴィリア生存伝説からの推理。果たして幹部はセヴィリアに潜伏していた。そこで幹部が語った話は……

 天草四郎を「神の子」(メシア)と信じた根拠は、四郎が原城に立てこもった三万もの信者を「神の御名において」全滅させたことによる(全滅した一揆なんて前代未聞)。神の子は「この世をいったん火中にくべる必要がある」からだ。「既に斧は根に置かれたり。すべて善き果を結ばざる樹は切られて火に投げ入れらるべし」
 自分も神の子であるからには、世界最前衛赤軍を組織し、世界を焼尽し盡そうとしていたのだが、自分はメシアではなく、メシアの到来を告げる「預言者」であったことに気づく。ヨハネが言ったように「我は預言者イザヤの言いしごとく『汝等主の道を平らにせよ』と野に呼ばわる者なり」だったのに、勘違いしてメシアとして世界の滅びに加担していたので、セクトから抜けたのだ、と――
 で、幹部はその資金で違うことを始めたようなのですが(ヨハネの役割の実践?)、それはこの短篇ではわかりません。

 ストーリー自体は短すぎて、あんまり大したものではないのですが(詳しく書くと破綻してしまうからかも)、私が感銘をうけたのは、山田正紀が、メシア(救世主)の仕事は、まず現行の世界を滅ぼしてしまう、滅ぼして「御破算に」したのち、新世界を建設すること、とした点です。
 この容赦の無さは、やはり砂漠(荒野)の思考であって、湿潤微温的「土掘り」である日本人には絶対自発しない思考だと思いましたね。かかる滅びは、伝統日本人的な、「そんな辛気臭い思いするくらいならいっそ滅びちゃおう」という滅びとはぜんぜん違うものでしょう。
 では最近の「守り」志向はどうか。昨日は日本の乾燥砂漠化の現れかもと思ったわけですが、今あるものを守っていく態度は、メシアの全否定とも相容れないような気がしてきました。うーむ。   
 

滅び雑感

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 5日(木)22時26分23秒
返信・引用 編集済
  『装いせよ、わが魂よ』を読むつもりが、今日はまとまった時間を捻出できませんでした。そこで、とりあえず挟み込み付録の対談に目をとおしてみた。これがなかなか読み甲斐があり、触発されるところ大でありました。
 対談相手は加賀乙彦! 本書、どうやら舞台がパリらしく、思うにその関係で、パリ小説の大先輩にお相手の要請がかかったんじゃないでしょうか(実際の年齢は三歳しか違いません)。

 著者はこの長篇小説を、パリで「裸になり」「神を求める」修道生活を送りつつ、書き上げたとのこと。したがって本篇でも「神」はアプリオリに受け入れられている。著者はそれを自明として質問に答えているわけです。そこに加賀は次のように釘をさします。
「波子が裸になってパリの町をさ迷う設定と、そして自分自身を何もかも捨てて虚無の中に入っていった先に何があるのかというテーマ――それは高橋さんから言えば神なのでしょうけど、作品は読者に開かれているから孤独の果てに何がくる、というふうに読んでもいいわけですね」(下線引用者)

 まあ作家は百パーセント自己のコントロール下に小説を書いたつもりでいますから、往々このような態度を取りますね。それはある意味仕方がないことですが、実は作家は、自分で書いたつもりではないことも書いているのです。それを読み取るのが、私は一義的な読書の楽しみであると思います。けだし読書とはパーソナルな行為というべきです。

 そういえばツイッターで、読者の感想で自分の気に入らないものにはいちいち文句をつけている作家がいて、あれは見苦しいなあ、器が小さいなあと思いますね。たぶん自信の無さの裏返しなんでしょう。馬耳東風というか泰然自若といいますか、歯牙にもかけない作家もいますから。

 逆に、ある書評家が、個人感想に対して、自分語りが混入しているものを認めない旨のツイートをしていましたが、これも逆の意味でおかしい。先にいったように読書はパーソナルな行為なのだから、自分語り(作品に触発されて出てきた隠れていた自分)がないほうがおかしい。この書評家は読者の主体性を否定するのか、作家の書いたことだけを読み取るのが正しい読書と思っているのかしらん、と首を傾げました。

 結局、上版された作品は、作家の手を離れて「独立物」なんです。加賀は別の文脈で、作者の解説に対して「僕は、必ずしもキリスト教的な読み方はしませんでしたが」とも言っています。
 つまり本篇を、加賀は著者の立脚点とは違う立場から読み、そして評価しているんですね。豊かな小説はどのような視点から読んでも、別の様相を示して輝いている。独立物である所以です。私はこれから読み始めるわけですが、私の読み方においても、この長篇が面白いものであるかどうか、その辺が焦点ですね。

 それはさておき、日本の微温的な(私なら湿潤な、と云いたい)自然や人間関係の中では、(乾燥した)オリエント・ヨーロッパ的な、むき出しの強烈な孤独を描く自分の小説は、理解され難いかも、という著者に、加賀は首肯しつつ、日本人の一般的な感受性がキリスト教のそれと違うのは、(しぶとく孤独を追求するくらいなら?)滅びをいいことだとする点で、日本の現代小説でも、破滅してしまう小説が評価されがちだね、と応じている(ちなみに82年の対談です)。それに対して著者も、だから自分の作品では『誘惑者』など暗黒面を強調した作品は喜んでもらえます、と冗談めかして答えています。

 私の中にも破滅を是とする気持ちは強く、納得させられるのですが、まてよ、この21世紀の時代は少し変わってきているのではないかな、と思い始めた。現代の日本は「今あるもの」が変化したり壊れてしまったりすることに非常な恐怖感を持つ社会になってしまったのではないでしょうか。

 或る半引きこもりの生活をしている人と話したとき、彼の口癖は「そんなの無理」「できない」でした。自分の境遇を(それが客観的にはどんなに不利益なものであっても)自発的に変えてゆくことに恐怖感を持っていました。こういう傾向が実は全日本的に蔓延しているのではないか。

 スーパーに勤めていたとき、職業柄、客に対して謝らなければならないことが多々あるのですが、そんなとき、ワープロでその理由を書いたものを張り出しておいて、それを指で示しながら、こういう理由でご迷惑をお掛けします、と、謝ると、案外納得してもらえました。少なくとも口頭だけでの謝罪よりは効果があった(手書き文字より活字のほうが効果があるのです(^^;)。これも日本人のお上に弱い性質を利用したものであったなあと、今にして思ったりするのですが、既存の権威を丸呑みして疑わない(それゆえそれが変化したり破滅したりすることを恐れる)点で同根なのではないでしょうか。

 加賀が、あなたにとって書くことが布教活動では、と訊ねると、「ただ、布教というと、護教小説になってしまいます」と、それは否定しています。「芸術は芸術として独立したものですから」と。
 それで連想したのは『日本沈没』で、このベストセラーは「国破れて山河あり」とは反対の、「山河滅びてなお国家あり」という話なんですよね。いわば「護国小説」なんです。

 小松の本来の創作意図は、管見では第二部にあり、それは「山河滅びてなお人あり」を描くことであった。それは果たされずに終わったわけですが(現存する第二部は別物)、そもそも微温的な日本社会で「滅び」をよしとする感性だったのが、それがどうも「日本沈没(第一部)」が大好評を博したあの頃が転機となって、いまの「変化を拒否する」心性に、日本人は変わり始めたんじゃないだろうか。
 実際近年の日本現代小説は「滅びゆく物語」は少なく、「守る物語」ばかりではないですか(国を守る。家族を守る。恋人を守る。世界を守る)。それは社会が曖昧な日本型から、輪郭のくっきりした欧米型に変わってきたからなのか? 対談を読んで、ふとそんなことを思ったりしたのでした。
  
 

「荒野」読了

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 4日(水)22時09分58秒
返信・引用 編集済
  高橋たか子『荒野』(河出文庫83、元版80)読了。

 面白かった。私が読んだ中では最高傑作! やはり観念小説なのですが、これまでの長篇が、作中人物に仮託する観念性に濁りがなく、つまり純粋に一色だったので、読む方も比較的明瞭にそれが読み取れるものだった。
 本篇では一人の人物の中に、矛盾する要素が放り込まれていて、しかも群像劇というほどではないにしても、観念が付与された登場人物が、姉、妹、裸になるべく訓練中の男以外にも、[ハッピー・ポーターを自称する女]、[妹の夫]、[精神病院で姉と同室の女]、「いのちの電話」に電話する少女、と、7人もいる([ ]で囲んだ人物は視点人物とはならない)。これまでとは桁違いに複雑なのです。
 そういう次第で、ちょっと一言では要約しがたい、というか、私自身、読みきれたという気がしません。要再読です。

 ただいえるのは、作中人物すべての(善意の内在者である妹の夫は除く)内面をデフォルトに満たしているのは「存在の孤独」ということで、その孤独のありようはそれぞれに違うのですが、かかるそれぞれの「存在の孤独」に対して、彼らはそれぞれの生き方(世界との関わり方)で、対応している。
 とりわけ、『誘惑者』の主人公にほぼ近い妹は、「孤独」(外在)であることをさびしいとは思ってないけれども、或る種の「異性」を追求してやまない(それは本人ではなく「内面の女」がしている、とする)。そこが「誘惑者」と違うところで、実はこのあたりが私にはまだ謎のままなのですが、この謎ゆえなのか、妹「野辺道子」が、とても魅力的に感じられます。
 精神病院が重要な舞台である点からの連想かも知れませんが、本篇に関しては、加賀乙彦っぽいとも感じました。加賀の『荒地を旅する者たち』は、わが偏愛する長篇小説で、その偏愛の最大の理由はこの作品に登場する、やはり謎めいたジゼルの存在にあるのですが、本篇の「野辺道子」は、ジゼルにまさるともおとらない存在感で迫ってきたのでした(その伝でいえば、「荒野」は「荒野を旅する者たち」の話といえます)。

 ということで、要再読なのですが、とりあえず、本書の二年後に上梓された長篇『装いせよ、わが魂よ』(82)を持っているので、これまでは読んでしまうつもり。なお、本書『荒野』『装いせよ、わが魂よ』のあいだに、著者はフランスへ移住し修道院で「霊的生活」に入るようです。それがどう作品に反映されているのか。そういえば、本書では、[精神病院で姉と同室の女]が観念世界に沈潜し「神」と出遭うというのですが、それを聞いた姉は、おもわず後ずさりするんですよね。
  
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 3日(火)18時11分37秒
返信・引用 編集済
  産経新聞関西版の眉村さんインタビュー第2回→妻に捧げた1778話
「最終回は自分で言うのもなんですが、あざとい」
 むう(汗)

 次回は、「夕刊新聞の記者からダンスホールの支配人になり、歌人でもあったという父・芳雄さんについて語る」、とのことで、これは楽しみ。私の知る範囲では、芳雄さんについて語られるのは非常に珍しい、というか、初めてではないでしょうか。

 それはそうと、今日で通天閣は開業100年だそうですね。
 とすると、来年で眉村さんはデビュー50年を迎えますが、眉村さんデビュー前後、通天閣は50周年だったわけです。
 と、こう比較しても、通天閣開業が、案外最近の出来事なのか、随分前ということになるのか、なんかよく分かりませんな。余計ややこしくなったか(^^;

 など思いつつ、ふらふらと関西版サイトを眺めていたらこんな記事が→通天閣「幻の写真集」 100年ぶりに復刊
 9975円は、ちょっと、よう買いませんが(汗)。

 
 あ、この写真は、名張市の乱歩祭りの際、酒屋さんだったかの店頭に展示されていた古い絵ハガキで見たことがあります(明智と二十面相がルナパークで対決する話があるのです。いやあれは芦辺さんの作品だったっけ(^^;)。
 要するに浪速区恵美須東3丁目の旧フェスティバルゲート辺にあったルナパークと、初代通天閣を結んで、ロープウェイが架かっていたんですよね。現在よりもずいぶん華やかな感じですねえ。
 タイム・トラベルできるなら、私はまず、このロープウェイが存在した新世界へ行ってみたい。まあそれは無理としても、このあたりをCGで再現した映画、制作されませんかねえ。題して「恵美須東三丁目の夕日」なんちゃって(^^;

  
 

「荒野」読み中

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 2日(月)23時56分9秒
返信・引用 編集済
  『荒野』は150頁。ちょうど半分。前作『天の湖』同様、男女の視点人物が交互に小説世界を、その視界において描出します(実は視点人物はもうひとりいて、それは精神病院に入院中の、女の姉)。

 女の夫がなかなか興味深い。優秀なエリート社員らしいが、この男、毎日数紙の新聞を隅から隅まで読むのが習慣。
「いろんなことが起こっているんだよ、それを知らないで済ましていられるって、どういう気なのかなあ。われわれは人間社会にいるんだから、一日たりとも人間社会の外にいる日というものはありえないんだから」(122p)
 典型的「内在者」(外在者に対する)であるわけです(善意の人でもある)。

 そういう夫(隅々まできれいに掃除された部屋、抽出にいつも整頓されている真白な肌着やタオルやシーツ)を、妻である女は「退屈だ」(126p)と呟く。
 もちろん夫に対する評言ですが、結局、社会関係をアプリオリに受け入れている「内在者」への評言なんですね。すなわち女は、これまでの著者の作品に、ずーっと出ずっぱりの、あの「死にたいわけではないが、生きたくもない」外在者なんです。

 一方、いま一人の主人公である男は、東大卒で、順風満帆な未来が開けているのに、卒業する段になって、少年時代のある体験を思い出し、それがきっかけで、自分が「余分」なものを身につけてしまっていることに気づく(私なら「所有」と云いたいところ)。
「自分だけでなくあらゆる人が、程度の差こそあれたくさんの余分なものを身につけていて、それをとおして自分を浪費しているのだ」(136p)
 そしてエリートへの道を蹴って就職せず、アルバイトで糊口をしのぎつつ、裸の存在となるべく「余分なものを切り落としてゆく」訓練を10年間続けている。

 その男女が、間違い電話をきっかけに出会ったのであります。
  
 

母語の力

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 2日(月)00時15分29秒
返信・引用 編集済
  『荒野』は70頁。四分の一弱。こ、これは『誘惑者』以上の傑作ではないでしょうか!

 久しぶりにユーチューブを聴きまくっていました。数か月ぶりくらいかも。
 「流星」をかけていたら、こんなコメントが――

「僕は、12歳です。しかし、何故かこの曲を聞くと、懐かしくなります。学校の友達にこの曲を勧めても、古いという理由で、聞きま?せん。曲に新しい古いはないとおもいます」

 これ、よく分かりますねえ。12歳で、なぜ懐かしいのか。それはこの方が、日本語を、母語として内面化完了なさったということです。日本語という言語構造の中に、この詞を「懐かしく」感じさせる力があるのですね。それは年齢とか体験とは無関係な、言語の呪縛でもあるんですよね(よくも悪くも)。
 で、話は飛びまくるのですが、バイリンガル(というか帰国子女)の翻訳家を信用できないのもそこで、日本語を母語として内面化が未完成なバイリンガルは、何かを取りこぼしてしまうんです(もちろんそんな者ばかりではなく、母語として内面化されたバイリンガルもいらっしゃるわけです)。逆に過剰な何かを日本語に導入して豊かにしている可能性はもちろんあります。でも、「私が読む」翻訳書は、日本語を母語として完全に内面化した翻訳家に訳してもらいたいんですよね。

 
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「天の湖」読了

 投稿者:管理人 投稿日:2012年 7月 1日(日)15時27分27秒
返信・引用 編集済
  高橋たか子『天の湖』(新潮文庫84、元版77)読了。

 焦点人物は三人。大学三年生の兄弟(兄は二浪して早稲田、弟は現役東大)と、画家の女です。視点人物は女と兄で、弟は両者から見られる存在として神話化されています。
 前稿の流れでいいますと、本篇は受洗後最初の長編小説で、はたしてカトリック(教会)が重要な要素や場所となっており、兄は中学のときに友人の影響で受洗しています。ちなみに視点人物が男なのは、長篇では本書が初めてですね。

 『空の果てまで』『誘惑者』『ロンリー・ウーマン』(とりわけ表題作)では、すべての他者に対して、主人公は完全なる無関心でありました。どの作品でもおしなべて「死にたいわけではないが、生きたくもない」と主人公は言うのですが(本篇では弟がこれを口にします)、生きるとは取りも直さず他者と関わって社会的関係に入るということでありますから、主人公は世界の全き外在者であったといえます。それが『ロンリー・ウーマン』では、次第に外在者であることができなくなってきていたわけです。

 さて、本篇では、決定的な転換がありまして、主人公の一人である兄は、人間(じんかん)に交わりたくて仕方がない。逆にいえば今が孤独であるということなんですが、これまでの著者の主人公は、孤独であることはいわば本源的な状態で、むしろその状態を維持したいと願っていたわけです(「死にたいわけではないが、生きたくもない」)。
 その意識は、どうやら彼の家族のなかで自分だけが除け者にされているという思いから発している。父親はヘミングウェイ的で、そんな父親に子供の頃から憧れていたのだが、父は出来のよい弟を後継者的に遇しており、母親もその容姿や性格から弟に贔屓的態度をとっている。弟は弟で、兄を馬鹿にしている様子。
 実際、兄の行動の描写を読むと、いわゆる「善人」なんですね。脇が甘いというか、考える前に行動してしまうタイプ。いわば川で子供が溺れていたらあとさき考えず飛び込んで自らも溺れてしまうタイプですね。口も、思ったことがつい言葉になって出てくる(TPOがずれているので不興を買う)。こういうタイプは、たしかにある種の人々には嫌われ馬鹿にされますよね。

 一方、弟は、まさに女性マンガに描かれる、いわゆる男臭さがない美青年で、要領が良くて成績もよい、ガリ勉じゃなく学生運動にもちょこっと関わっている、といった、ある意味ステレオタイプで、私的には、読んでいてゲーッとなるんですが(^^;

 42歳の画家は、弟をモデルにして絵を描いており(その一連作が新境地として好評)、かつ愛人関係。要するにツバメですな。表層的には昼メロ的なストーリー。
 画家は3年ほどパリで遊学していて、外人社会に孤独者として暮らしているうちに(この辺は現在の感覚ではわからないところですね。加賀乙彦『フランドルの冬』等参照)、ヨーロッパ的(非日本的)な「絶対愛」の観念を得る。しかし同時にそれはヨーロッパ人が、人間が本来「絶対的孤独者」であることを知っているから、そのような観念が生まれたのだ、と思い至る。
 かかる「絶対愛」の観念と、兄の、人を求めて狂いそうになる心理機制は同じ起点を持っているように、私には思われます。この二機制が、神話的人物である弟を中心において対置されます。

 ストーリーは、かく述べたごとく通俗小説的で、掘り下げも(これまでの作品と比べると)ずいぶん浅い(しかし小説としては、一般的な意味で、面白くなっている)。なにはともあれ、主体は完全なる外在者ではありえず、孤独者として他者を求める、というところに、ようやく著者の筆が及びはじめたのは確かなようです。

 ということで、本書の三年後(80年)に上梓された長篇『荒野』に進みます。
  
 

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