|
『カラマーゾフの兄弟2』は300頁。有名な「大審問官」の節を読みました。
さすがに面白い。これって一種の(反)ユートピア論ではないですか。人間はそもそも個が確立しているわけではない群れる羊なのに、キリストはそれに不相応な独立と自由を与えようとした。ところが自由を得た羊たちは(羊飼いの指示がなく)自分で決断行動しなくてはいけなくなって、逆にどうしたらよいかわからず右往左往している。そこにローマ教会(そしてイエズス会)が登場し、親切にも自由を取り上げ、そのかわり餌を与えた。人間にはそっちのほうがありがたく安心できるのだ。というわけです。
うーむ。
そういえば『ゴースト・オブ・ユートピア』を買っていたことを思い出した(あれ、どこに置いたっけ?)。あの第一話が「1984年」で、元本を読んでからと思って置いてあるのですが、元本「1984年」にも通ずる観念ですよね。19世紀中葉の作品なのにものすごく現代性がある、と感じるのは錯覚で、それこそ「人間とは何か」という永遠のテーマなんでしょう。
ツイッターで愛読しているのが、「今日は気圧が低くてどんよりする」といったたぐいのよくある感想を攻撃する(いや揶揄する、か)人のそれで、実際言っていることは全く正論でそのとおりなんですが(しかもめちゃ面白い。要するにわかってやっている(^^;)、それはそれとしていつも思うのは、「人間」てそんなに現実には住んでないだろう。むしろ半分以上想像的な世界で住んでいるんじゃないのかな、という思いなんです。そのような「不完全」な人間に「自律性」や「主体性」や「科学的態度」を要求するのは、求められた当の人間にはありがた迷惑、という面も、実際あるんじゃないでしょうかね。ある意味このツイッターの方の思考態度は「超人」的といえるかも。今日も今日とて、「髭を剃らない→勝ちつづける」ことの因果的妥当性についてブツブツ呟いてましたが(笑)。もちろん人間も「脱人間」して「超人」に至るべきでしょうけど、「現人」はそこまで達していない。クラークの人間観も、「超人」を水準においていますよね。達しなかった者は、地球とともに滅んでよし、というわけです。
「佐藤一郎と時間」は15枚。
|
|
眉村さん情報「佐藤一郎と時間」
投稿者:管理人 投稿日:2012年 8月29日(水)21時51分13秒「佐藤一郎と時間」50枚です。
早速拝読。「ペケ投げ」も「自殺卵」も、主人公は半ば傍観者的でそのぶん軽みがありましたが、今回のはなかなかシリアスです。
「盗まれた街」を髣髴とさせる出だしのシーンは非常にサスペンスフル。ただしそっちへは行きません。私は「邯鄲夢」を想起しました。そういえば「スターキング」は邯鄲夢のSFバージョンですよね。本篇はこれまたそういう願望充足的方向へは行かず、何万年、何十万年という一文明の消長を、それに比べたら一瞬の、数夜の夢で見届けます。主人公の数日が、ある文明の数万年なのです。それに気づいた主人公は、冒頭の事件を思い出し、今度は自分たち人類の数万年を、一瞬と感じる種属に思いを馳せる。時間とは何か?
それが重いラスト「人生の時間」に接続するのです。……
この作品も「とべ、クマゴロー!」にアップさせて頂けることになりました。可及的速やかにテキスト化し(早速10枚完了)、眉村先生にチェックして頂いた上で、お見せしますね。お楽しみに〜(^^)