ヘリコニア過去ログ1209

ユートピア小説

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月30日(日)22時32分48秒
返信・引用 編集済
   星新一さんは、直接向かい合った、目の前の相手に対しても、「○○さん」といわず「○○氏」と呼びかけるという知識があったのですが、伝説みたいなものだったのかな。

 高井信さんが私の書き込みに反応してくれて、ご蔵書から「ユートピア小説の紹介本」を紹介して下さっています。→ショートショートの……
 私はしつこく、一生かかっても読めない本をすでに収集して本棚の肥しにしているのに、さらにまだ収集しようする態度をからかっていますが、本を死蔵させている限りにおいての話です。それは単なる所有欲です。それを存分に活用している高井さんや中村融さんや日下さんのような蔵書家、というより書誌研究家は、当然その限りではありません。
 死蔵するくらいならリリースして、今、本当にその本を読みたいと切望している人の手に渡るようになるべきです。で、相談ですが、リリースするにあたっては、まず私にご一報頂けるとありがたいのであります(>おい)(^^;

 閑話休題。実は私、購入したまま手付かずだった『ゴースト・オブ・パラダイス』を、読もうと思い手にしたのですが、目次を見て、思わず持った本をばパッタと落とし、小膝も叩かずに考えこんでしまった。というのは他でもなく、自分が有名な「ユートピア小説」(但し非SFの)を、これまで全く読んで来なかった事に気づいたからでした。で、とりあえずといいますか、まずはといいますか、ユートピア小説のめぼしい作品を、先に読んでしまおう、それから『ゴースト・オブ・パラダイス』に着手しても遅くないだろう、『ゴースト・オブ・パラダイス』の性格からして、それが妥当な判断ではないだろうかと、思った次第。
 で、上記リンクの村山勇三『ユートピヤ物語』の目次を眺めますと、まさに、私が「読むべきユートピア小説」としてリストアップしたものと、(ウェルズを除き)ほぼ重なっており、まあこの線で間違いないな、と意を強くしたのでした。これらの作品は所持しており、あるいは持っていないのも市販されていて購読可能なのです。

 村山本にはないのだけれど、バトラーの『エレホン』もリストアップしていたのですが、これがアマゾンマーケットプレイスでトンデモナイ値付がなされているんですよね。死蔵されている方は即刻リリースしていただきたいものであります! と思っていたら、なんとこれ、ネットで読めるみたい→プロジェクト杉田玄白
 まさに捨てる神あれば拾う神ありです(>ちょっと違う?)。
 あと「1984年」「すばらしい新世界」「われら」(これらは反ユートピア小説?)も、この機会に読んでしまうつもり。
 という次第で、まあ断続的になるでしょうし、『ゴースト・オブ・パラダイス』に手を付けられるのはかなり先の話になりそうです。

 『ユートピア』は100頁まで。


 

「ユートピア」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月29日(土)21時09分12秒
返信・引用 編集済
   トマス・モア『ユートピア』に着手。70頁まで。第一部読了。面白い。まだユートピア国は直接には出てきていませんが、その前段として、第一次囲い込み(エンクロージャー)が、具体的に批判されます。このような具体的な問題は高校の世界史の教科書では絶対にわからなかったことです。で、まさにこれ、現代の日本が二重写しとなるんですよね。囲い込みは、日本では生産の海外移転が相当するでしょう。
[註]なお、ウィキペディアの「囲い込み」記事は相当問題があるようです。信用できません。こちらを参照のこと

 囲い込みによって農地を奪われた人々は、農業以外の生業の技術を持たない→ある一定の年齢に達していれば、それから改めて新しい職能を習得することも難しい→働くべき仕事が無い→流民化する→食うためにやむなく盗賊等非正業に落ちぶれてゆく→治安が悪化する→それで刑罰が厳罰化する。このゆくたても、日本の現状と構造は同じですね。

 本書では、それは方向が逆だとします。厳罰化したって食っていけない社会システムは変わらないのだから、生きてゆくための犯罪はなくならない。エンクロージャーで潤うのはごく一部のジェントリーで(後に資本家として産業革命の担い手となりイギリス資本主義を基礎づける)、そのために大多数の農民が困窮するのは話がおかしい。農地を奪われず農民でありさえしていたら、流民化することもなく、治安も悪化せず、罰則を強化することも必要ないじゃないか、と。

 これを語るのは、ラファエルという(ユートピア国に滞在し帰ってきた)旅行家なのですが、まあ、モア自身の意見であることは間違いありません。ラファエルは、国家は平等を保証しなければならない、と考えています。その意味で、貨幣経済と私有財産制を否定します。この辺は、まさに石川達三の『最後の共和国』と同じです。

 ただラファエルの言う「平等」国家観に対して、作品中の登場人物であるモア自身は、逆の意見を投げかけます。すなわちそういう世界では(働いた報酬が自分のものとならない世界では)、他人を当てにした怠け者ばかりになってしまうのではないか? この問題も『最後の共和国』では人民の「家畜化」(羊化)という視点から問題ありとしていました。石川の場合、平等主義とその裏面である人民の家畜化は、統一的には考究されなかったのですが(前者肯定、後者否定)、さて、本書の場合はどうなんでしょうか。楽しみであります(^^)

 しかし本書、1516年の出版なんですよね。日本で言えば戦国時代、北条早雲が相模を制圧した年。なんたる先見でありましょうか!

 ということで、第二部では、いよいよ「ユートピア国」の話となります。
 

40年前に始まっていた

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月28日(金)21時21分43秒
返信・引用 編集済
   児玉和夫国連次席大使が、「尖閣諸島は1972年に日本に返還された地域にはっきりと含まれています」と反論しているのを見ていたのですが、1972年といえばおれは高校二年生だなあ、とぼんやり考えていて、あ、そうだ、そういえばそのときのクラスメートの中核が、「尖閣言うな。釣魚台言え!」と叫んでいたよな、と、卒然と思い出しました。
 つまり沖縄返還(1972年5月)の、その時点から既に、中国は尖閣諸島の領有権を主張していたということになりますよね。
 当然ながら当時の政府は自民党です。そしてその後、ずーーーーっと、つい三年前まで政権の座にあったわけです(厳密には数年の休憩を挟みますが)。その間無慮37年、あんたら一体何してたん? と思うのが普通ではないですか。
 石破さんが強腰に「尖閣言及なしの首相批判」されたようですが、どの口がそんなこと言えるねん。ずーっと尖閣問題を、弱腰で曖昧なままにしていて今日の下地を作ったのん、あんたらやんか、と(ーー;。ひょっとして、三年以上前のことは、記憶から抜け落ちてしまうのでしょうか。そんなにメモリーが小さいのか。石破さんの頭の中ってどんな構造になってるんでしょうか。どたまかち割って中身拝見させていただきたくなりましたでございますわよ(>今喜多代)(^^;。

 
 

「最後の共和国」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月27日(木)22時59分4秒
返信・引用 編集済
  > No.3928[元記事へ]

 石川達三『最後の共和国』(新潮文庫75、元版53)読了。

 人類は滅びました!(^^; いや正確には、生き残った9千万未満の人類は、ロボットたちによってオーストラリアに集められ、人類はそこで勝手に暮らしなさい、との温情をかけられます(笑)。

「わが公国の大部分は、工場によって運営される。われらの墓地は工場であり、われらの病院は工場である。われらの寺院は工場であり、われらの学校は工場である。われらの商店は工場であり、われらの食堂は工場である。従ってわが公国には、一切の悲劇というものはなく喜怒哀楽が少なくなって、芸術もほとんど無くなるであろう」(243p)

 これはロボット公国初代委員長にして最初に道徳構造を付加されたロボット・トクガワの独立宣言の一部ですが、まさにアパッチの二毛次郎大酋長の言葉とかぶってくるではありませんか。
 人類はなぜ滅びたのか? ハマダは述懐します。

「人間は慾が多すぎる。才智、感情、感覚があり、愛情があり、憎悪がある。人間の持つ、そのような、多くの機能がこれからの、社会文化と相容れない」(240p)

 ここでいう「文化」は「文明」というべきです。つまり、人間は、自分たちが生み出した高度な文明に、付いていかれなくなってしまったのだ、というのです。文明の高度化複雑化は、人間の「自然的(身体的)基礎」を抑圧する方向に進んでいく。平たく言えば、勝ち続けることを願って髭を剃らなかったり、連敗を止めるためにいつもと違う道で球場に行ったり、運動会で弁当にカツを入れる、といった、ゲンかつぎの行為が、科学的因果論的見地から嗤われる時代になってしまった、ということですね。よく見かける、一生かかっても読み切れない本を買い集め、本棚の肥しにしてはえへらえへらと撫でさすったりしている光景も同断でありましょう(>おい)(^^;。
 これはまさに予見的で、元来人間とはかくのごとく不合理な存在なのですが、実際、本書刊行より60年後の現21世紀世界は、そのような人間に対して、合理的な態度を強要する方向に進んできているのは間違いないところであります。それが身の丈を越えかけている、ということです。では一体誰が嗤うのでしょうか? もちろんアパッチやロボットたちです(人間の内なる)。あるいは未来の両生類かも(そういえば本篇でも、地球は第五氷期に入りかけています)。

 そういう意味で、本書は、『第四間氷期』『日本アパッチ族』の先駆け的意義がありそうです。ついでに書いておくと、本篇のロボットは、「小説内実在」「虚構的存在」であり、現実の工学的ロボットとは一切無関係です。かかるロボットをあげつらって馬鹿にするのはお門違いというべき。「食鉄人」と同様な機能(人間の鏡)を受け持たされた「装置」なのであり、SF読者はアパッチを受け入れたように、かかるロボットも、小説内了解事項として受け入れなければなりません。

 著者は、進みすぎた文明を廃棄してホモサピエンスのレベルに戻れ、と言っているのでしょうか? ひょっとしたらそうかもしれません。私はそうではない(それだけではない)と思いたいですが、たとえそこまで自覚的ではなかったとしても、われわれの前に在る「小説」は、作家の意図を超えて、別の世界観を表現している。それは、自走し始めたテクノロジーと社会に対応してゆくには、「人類」には限界があり、それを乗り越えてゆくのは「現」人類ではないだろう、というイデーです。

 予想以上に面白く、これは収穫でした。


 それはそうと、本板の9月1日に、こういう感じの曲ご存知ありませんか、とお尋ねしたの、覚えていらっしゃるでしょうか。
 本日それが判明しました。この曲!
              ↓
  

 私の耳コピ、微妙に違ってますなあ(ーー;。

 この、Just the Two of Us という曲、オリジナルはグローバー・ワシントン・ジュニアで、1982年のヒット曲だったそうですが、私は知りませんでした。
 ということで、オリジナル。
          ↓
  

 むむむ。オリジナルも(いかにも80年風で)よいですが、私はシリル・エイミの方が好みですねえ(^^)
 

「最後の共和国」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月26日(水)23時46分34秒
返信・引用 編集済
  > No.3927[元記事へ]

 『最後の共和国』は180頁まで。残り70頁。
 地球は第四次世界大戦の結果、人口が3分の1に激減(※)。それを期に、人口をこのレベルに抑制することを最大の方針とした世界連邦共和国が成立。生産労働はロボットが行ない、人類はその上に、ブルジョアとして君臨するユートピアを実現します。これは古代ギリシア的(市民−奴隷)といえますが、惑星ソラリアの世界という方がわれわれにはなじみ深いし、より近いです。(『裸の太陽』は1957年刊行。本書より一年早いですが、本邦初訳は1958年11月講談社刊。本書は1957年雑誌連載後、1958年2月刊)
 そして人口限度の維持の上に、人類の完全な平等社会が実現しています。すべてが潤沢に支給されるので、貨幣経済は無意味化し過去の遺物となっている。

 ストーリーというべき一本の太い線はなく、このユートピアを次第に覆ってゆく影が、通信社の配信文の列挙という形で、しだいに明らかになってゆきます。

 たとえば上記の平等化は、個性の否定、個性の単一化を惹起するものだった。というか、それによってなしとげられたものだった。かかる個性の希釈と潤沢な物質生活は、個人の生への執着(欲)をも希釈化し、無意味な自殺者が急増したりします。

「大衆行動がおこったのは、一見民衆の自覚による抵抗運動のようではあるが(……)むしろ全く反対に、民衆の無自覚を証明している。暴動に加わった民衆のほとんど全部は、暴動の、原因も目的も知らなかった(……)個人が個性を持たないから、一、二の指導者がありさえすれば、付和雷同してゼネストでも略奪殺人でもやってのける。群衆が一つの個性をもち、全体が一つの個体となり、誰も責任を感ずることなく、道徳、習慣、秩序を乗り越え、善悪の埒を踏み越えてしまう」(125p)

「今年の夏の流行色は女の方にはうすいローズ、男はうすいグレーであります。衣料の生産が非常に多く、麻でも毛でもナイロンでも、お好きなきれ地がどっさりあります。一人四着まで自由にどれでも、お作りになってもかまいませんが、特に申請許可をうければ、六着まではこしらえられます」(129p)


 ――そして、ロボットによる殺人事件が発生します。

(※)解説には「三分の二に減少」とありますが、本文は「世界の人口を三分の二までも殺戮した」(15p)ですから、「三分の一に減少」が正しい。
 

「最後の共和国」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月25日(火)21時32分4秒
返信・引用 編集済
  > No.3926[元記事へ]

 平谷さん
>現在、18本、あずけてあります
 おお! それはもう、草上仁さん張りですね! 配信を楽しみにしております(^^)

 今日から石川達三『最後の共和国』に着手しました。いうまでもなく、戦後初のユートピア小説です。『第四間氷期』より6年早く、『日本アパッチ族』からすれば11年早い、1953年刊行の長編小説。
 石川達三が海外SFを読んでいたとは思われませんし、だいたいSFマガジンはおろか、元々社すらまだ存在していません。ですから非常に興味深い。ただし『1984年』は1949年に、『すばらしい新世界』に至っては戦前の1932年に翻訳されているみたいです(こちらによる)。これらは読んでいた可能性はありますね。60頁まで。

 今日FMで引っかかった曲。そこはかとなくツェッペリン(^^;
      ↓
 
 

百夜まで読んでいただき

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2012年 9月25日(火)19時23分27秒
返信・引用
  百夜まで読んでいただき、ありがとうございます!
枚数制限がありましたので、テンポ良く読めるように書いてみました。
現在、18本、あずけてあります。
月に2本ずつ配信されます。
今後の展開も色々あるようですが、それは決まりしだいブログで(笑)
小説の執筆はいつも楽しんでいるのですが、百夜は一篇を一日か二日で書くので、ほかにはない気楽さと楽しみがあります。
 

「百夜・百鬼夜行帖」を読む

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月25日(火)00時36分48秒
返信・引用 編集済
   『萩供養』が、いいところで終わってしまい、なんか読み足りないなー、もう少し平谷作品、読みたいなー、と感じていたところ、そういえば平谷さんのブログで、電子出版がどうとか、と書かれていたな、と思いだし、確認したら、ありました→九十九神曼荼羅シリーズ 百夜・百鬼夜行帖
 早速ダウンロード。おお、なんとこのシリーズ、『萩供養』にも重要な役割で登場するイタコの百夜を主人公に据えた、いわばゴミソの鐵次シリーズから枝分かれした番外編ではないですか。
 ということで、読みました(^^)

 九十九神曼荼羅シリーズ 百夜・百鬼夜行帖1 冬の蝶
 九十九神曼荼羅シリーズ 百夜・百鬼夜行帖2 台所の龍
 九十九神曼荼羅シリーズ 百夜・百鬼夜行帖3 化人の剣客
 九十九神曼荼羅シリーズ 百夜・百鬼夜行帖4 花の宴


 の四編。以下続刊みたいです。各編30枚台と短い。短い分ストーリーもあまり複雑でなく単線一直線で、正編に比べたらだいぶ軽いです。やはり電子書籍ということで、ケータイ層を意識しているんでしょうか。すべて器物が100年以上経過して九十九神に変じ、人間に障るのを祓う話。ストーリーは(上述の次第で)力が抜けており、その分、ウンチクを気持ちよさそうに語っています。どうもこのシリーズ、著者がウンチクを開陳するために始めたもののようです(>おい)(^^;。
 しかしまあ、これはこれで、いいのではないでしょうか。正編とは別枠扱いになっているのですから。きっちり区別されてさえいれば、タッチの違いが混ざることもありません。こういうのがあってもいいと思います。私も楽しみました。
 余談ですが、この前読んだ別の作家のある連作シリーズ物では、比較的シリアスな正編の間に、セルフパロディ的な番外編が挟まれて一冊の本になっていたのですが、これは互いに長所が打ち消し合ってマイナス効果でしかなく悲惨でした。こちらの場合は正編とは媒体も違えてあり、互いの長所が伸び伸びと引き出されるのを妨げられないのでよいと思います。

 *ところで、話は変わりますが、そしてこれは著者にとっては全く与り知らぬ問題なんで、新たに別途投稿するほうが良かったかもしれないのですが、35枚前後で105円というのは、普通の文庫本が大体400枚〜500枚ですからかなり割高になっているんですよね(455÷35=13、13×105=1365)。もっともハヤカワ文庫なら同じくらいかもですが(^^;。電子出版でこんな値付けしていたら、まず普及しないと思います。もちろん105円より単価を落とすことなんかできないというのは、私にもよくわかります。だったらバンドル価格を作るべきなんです。5本買えば350円とか。月刊アレの今月号(アマゾン特集号)で指摘されていましたが、日本的特殊事情を抱えた出版社が乗り出す電子出版事業の最大の問題点ですね。

 

Re: ありがとうございます

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月24日(月)21時07分42秒
返信・引用
  > No.3923[元記事へ]

 平谷さん
 あらら、偽記憶でしたか。失礼しました。「平谷さんてとことん中央が嫌いなんだな」、と感心した記憶が生々しいのですが、誰かと思い違いしているのかしらん。

>三つの同心円で三重の結界
 同心円ですか? うーん。よくわかりません(汗)。共通の中心点の地点に、重大な意味があるのかな。あ、ここで解説はして頂かなくていいですよ。ネタバレするなー、と捩じ込んでくる人がいないとも限りませんから(笑)。第3巻を鶴首して待つことにしましょう。そのかわりできるだけ早く刊行して下さいね!
 

ありがとうございます

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2012年 9月24日(月)19時46分43秒
返信・引用
  「鐵次」の感想、ありがとうございます。
時代小説について以前どのように書いたのか覚えていませんが、ぼくが二の足を踏んでいたのは「資料をたくさん読み込まなければならないから」ということでした。
たとえば「居酒屋には基本的に飯台はない」などという細かいことをすべて頭に入れておかないとかけないのではないかと思っていたからです。
とりあえず少しずつ勉強して、「鐵次」のシリーズを習作として書き始めたのが数年前。

結界については円周上に東照宮がある円。円周上に寛永寺がある円。円周上に神田明神がある円。三つの同心円で三重の結界が作られているということでありました。
そのことについては、たぶん、第3巻あたりで言及されます(笑)

地図については自分で色々作っているのですが、巻頭に地図をたくさん載せられないと言われました(笑)
東日流国の地図。麗津や上京龍泉府、遠長湊の都市の地図なんかも細かく書いて送っているんですけどね(泣)
 

「萩供養」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月24日(月)18時52分30秒
返信・引用 編集済
  > No.3921[元記事へ]

 平谷さん
 たしかに渤海時代の現在地との比定は全く貧弱ですね。南京南海府や東京龍原府だって確定できてなかったり、確定していたのがひっくり返されたりしている状況みたいですね。
 しかし逆に言えば、作家が「この物語ではこの地に決定!」と、決め打ちしてもいいのではないかとも思います。どうせ小説なんだし。私はこの時代この情況下でも、邪馬台国北九州説で小説を書いて、ちっとも構わないんじゃないかと思っているんです。いやほんまですよ。
 豊田さんのヤマトタケルシリーズ第一巻の地図なんて、はっきりいってむちゃくちゃではないですか。でもそれを受け入れて楽しんでしまうのが、小説なんですよね(笑)。

 平谷美樹『萩供養 ゴミソの鐵次調伏覚書(光文社文庫12)読了。

 いやこれは想定外の面白さでした! 本書もまた、昨夜、巻措く能わずで半徹して読んでしまったのでありました(^^;

 小説としてよくできているのはやはり表題作ですが、レギュラーメンバーが次第に揃ってゆく後半が、どんどん面白くなってゆきます(こっちが作品世界に馴染んでいったということも勿論あります)。このシリーズも早くつづきが読みたい!(^^;

 いつだったか平谷さんに、時代小説を書いてみたらどうですか、と聞いたことがありました。平谷さんと時代小説は、案外親和性があるんじゃないかと思ったからですが、その時の返事は意外にも、自分は「江戸」というシニフィアンが指示するすべての意味されたものが嫌いである。よって時代小説は書かない、という返事であったと、(私の記憶が正しければ)そうおっしゃったように思い出します。
 それからしばらくして、表題作を発表されました。その直後は気がついてなかったのですが、あとでふと、あ、これは、江戸に津軽(蝦夷)を持ち込むことで、津軽を突き刺すことで、書くことが可能になったのだな、と気づいた。平谷さんがヒントをくれていたのですが、そのときはそこまでは読めなかったのでした。
 今回読んで、それがさらにはっきりしました。鐵次が江戸にやってきたことには理由があった――そのことは、今回本書で(お目付け役の百夜がやってきたことで)わかりました。けれども具体的な理由はまだ、全く明かされていません。それは続刊で次第に明かされてゆくのでしょう。孫太郎(後の五代目鶴屋南北)はワトソン役ですね。いやあこちらも待ち遠しいですねえ(^^ゞ

 追記。日光東照宮、上野寛永寺、神田明神で結ぶ結界って……極端に細長過ぎるような。何か見落としているのか。続編で分かるのかな。

 

地図

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2012年 9月23日(日)22時41分53秒
返信・引用
  拙著の感想、ありがとうございます。
地図の件ですが、お書きになったような地図があれば、ぼくも欲しいです(笑)
地図では苦労しています。現在の地図と、資料に載っている略図を照らし合わせながら執筆をしているのです。

続けて【萩供養】を読んでくださるとのこと。
ありがとうございます♪
感想、楽しみにしています。
【風の王国C】の再校ゲラを今日出版社に送りました。
来月には書店に並びます。
11月か12月には、幕末のトレジャーハンティング物が出ますのでそちらもよろしくお願いします(笑)
 

「風の王国3東日流の御霊使」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月23日(日)14時20分14秒
返信・引用 編集済
   平谷美樹『風の王国3東日流の御霊使』(ハルキ文庫12)読了。

 平谷講談第3巻です。始読措巻不能的昨夜半徹一気読了。面白かった。前巻で遼東にまで拡大した舞台はさらに松花江以北にまで達し、翻って環日本海的には、いよいよ日本国が登場してきました!
 考えてみれば、日本の娯楽小説で(シベリア出兵ものを除けば)沿海州・満州を、「面」として真正面から描いた小説は、少なくとも戦後初めてではないか。非常にユニークな構想の力作というべきでしょう。
 しかも今回は、遼東半島に「遼東東日流府」(りょうとうつがるふ)が樹立され、遼西から遼東北部に進出した契丹、松花江流域に遊弋する須[ロ里]奴夷靺鞨、遼東半島の東日流府が鼎立するという驚天動地の展開に!! いやーワクワクしてきますねー。
 それにしても、遼東政権が「東日流府」(つがるふ)で本当に良かった。本書発売から既にひと月が経過していますが、幸いにして著者は存命であらせられます。しかるにもし、これが万一にも「日本府」だったとしてごらんなさい、著者が生きながらえている可能性は万に一つもなかったのではないでショッカー(^^;(>おい)m(__)m
 ただ、私自身(に限らず大方の読者にとって)このあたりの地理には極めて不案内。ネットで検索しても良い具合の地図はなかなか見つけられません。可能ならば、もう少し距離間の正確な地図(山や川が描かれた地形図)、さらにそこに現在の主要都市の位置もわかるようになっていれば、より作品世界がイメージしやすくなるのではないでしょうか。
 次回配本は来月10月とのこと。待ち遠しい。

 ひきつづき平谷美樹の、初の時代小説『萩供養』に着手。
 

Re: お写真拝見

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月22日(土)23時48分24秒
返信・引用 編集済
  > No.3918[元記事へ]

 かんべさん
 ご投稿ありがとうございます。
 しかし何を書いてはるのやら(汗)、顔相学でもやっておられるのでしょうか(^^;

>初対面で「関学ですか?」と、よく聞かれる
 そういえば、先年の同窓会で、あんたは在学中ぜんぜん関学生らしくなかった、と言われたのを思い出しました。かんべさんと私の違いは奈辺にありや。それはおそらくインケンでギスギスしていて、関学ボーイに必須の「さわやかな」「ぼんぼんらしさ」が毫もなかったからでしょうな。いやはや(^o^)。

 ということで(どういうことだ)、平谷美樹『風の王国3東日流の御霊使』に着手。70頁まで。うーん。もっと詳しい地図を付けてほしいなあ。この地図は少し不正確では(^^;
 

お写真拝見

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2012年 9月22日(土)22時57分13秒
返信・引用
  堀氏のホーページで、和泉葛城山取材の写真を拝見いたしました。
前に同じホームページで、ちらっと顔だけのやつを見せてもらい、
「関学出身で親の会社を継いだ(間違ってたら失礼!)という人には、
ある共通の雰囲気があるんやけど、全然違ってますね」と、
感想メールを堀氏に送ったことあり。そのときも書いたことですが、
「深い洞察力と豊かな表現力」が、この顔を作ったのでしょう。
私は理屈っぽいけど、初対面で「関学ですか?」と、よく聞かれる。
理屈のみあって、洞察力と表現力に欠けるからでしょうな。
いやいや。感服つかまつりました。(^o^)
 

「カラマーゾフの妹」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月21日(金)22時14分45秒
返信・引用 編集済
  > No.3916[元記事へ]

 高野史緒『カラマーゾフの妹』(講談社12)読了。

 真犯人をバラすかもしれません。ご注意下さい。

 と、書きましたが、「もっとも犯人らしくないのが犯人」というミステリの定石が頭の片隅にでもあったならば、それだけで犯人が確定できる話でした(>おい)。いやほんまですよ(>福本)。しかし私は、最後の最後まで、その人物が犯人だったとは、思いもよらなかったのでした。これは不覚。

 スメルジャコフが犯人でないならば、これはもうイワンしかありえないではないですか。著者もいかにもそうだという風に読者を誘導するのだから始末が悪い。まず意識を失って行動している場合がある。その人格の中に、「凶暴で」(271p)、「やっかいなの」(275p)がいるかもしれない。となれば……。しかし今思えば、ちょっとあからさまですね。引っかかった私がナイーブすぎます?(^^;。

 では、動機はどうか? ここで第一部前半の思想小説に回帰する。それにしてもうまく作られています。第一部前半のイワンは「神がいなければすべて許される」と考える。神がいるかいないかはここでは棚上げされている。イワンよりもさらに合理主義的近代人である(元中二病の)コーリャになると、はっきり「神はいない。だからすべては許されている」にまで進む。ところがアリョーシャはどうか。彼はもとより敬虔な信者です。その彼が到達した境地は、当然イワン→コーリャとは正反対のベクトルとなるはずですよね。すなわち「神はある。だからこそすべてが許されている」。ここにおいて、第2部は、第1部の思想的テーマをひっくり返しているわけです。それはゾシマ長老に手を下したときにアリョーシャに宿った境地で、それこそが動機を下支えするのですが、ここで気づくのは、スメルジャコフがアリョーシャにばらしたフョードルの言葉、動機を惹起した言葉は、本当にフョードルが言った言葉なのか、ということです。実際アリョーシャが聞いただけです。つまり(3千ルーブル同様)スメルジャコフの虚言である可能性が排除できないのですよね。

 こうなってくると、第一部、第二部を通しての真の主人公は、スメルジャコフではなかったのか、という気になってきます(サイコパスという設定になっているわけですが)。イワンが妹の死をただ見ていたのを、それを坐視してのち、「どうしてあんなことをなさったのですか?」(252p)と言って精神に後遺症を負わせたのも、フョードルがグルーシェニカのために(カーチャからの借金と同じ額の)3千ルーブルを封筒に入れて用意していると、ミーチャに嘘を言ったのも、上記のアリョーシャに教えたフョードルの言葉も、これらはすべて最終局面に関わってくる。結局フョードルは撲殺され、ミーチャは流刑地で(肉体的にも、そしておそらく自尊心もズタズタにされた上で)事故死し、アリョーシャは身体障害者になり脳も侵されて死ぬ。そしてイワンは……死にはせず子にも恵まれ外的には成功して小市民となり、つまりは第一部前半のイワンは生きながらの死を迎えている。そのすべての発端はスメルジャコフなのですから。まさにコントラの手先。

 このようなゆくたて(解釈)を、著者は、第一部をよく読み込み(例えば第1部第3巻188p)、真相を行間から炙り出し、記述を再構成し、さらにスチームパンク風の味付けまでして本書を完成させているのです。まさに力作。ミステリ的にもよくできていますし、第一部の持つ思想小説の一面もきちんと継承しており(ただし結論は逆向き)力技といってよいでしょう。アリョーシャの嗜癖も衝撃的でしたし(これまた妹の存在からの心的影響)、まさにオリジナルを自家薬籠中のものとして存分に遊んでいて、好感を持ちました。いやー面白かった。

 後記。ひとつだけつまらない指摘。213頁「その子の飼い犬に針の入ったパンを食べさせている」は事実(第1部の)とは異なりますね。単にイワンが勘違いしただけなのかもしれませんが。いずれにしろ主筋にかかわらないインネンめいた指摘でしたm(__)m

 ということで、遅くなりましたが、明日からは『風の王国3』に着手の予定。

 

「カラマーゾフの妹」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月20日(木)21時17分33秒
返信・引用 編集済
  > No.3915[元記事へ]

 念願の『カリブの天使』を105円で確保。アマゾンマーケットプレイスで2200円〜。ザマーミロっての(^^;
 私が100円で出品しちゃろか。どう対応しよるかね(^^ゞ

 今日の白鵬の技は、朝青龍が開発したやつでしたね。左で張って、相手の顔が右に振れたところに右でかち上げという名のラリアート一発。力がどこにも逃せず、すべて顔面にめり込みましたから、これはたまりません。非常に危険な技です。まさに大陸の技で、島国にはちょっと合いません。禁じ手にしたほうがいいのではないでしょうか。
 それはさておき、これで(先日の豪栄道とあわせて)モンゴル部族VS境川部屋の抗争勃発は必至。面白くなりそうですね(^^;

『カラマーゾフの妹』は220頁まで。残りあと90頁。短い。短すぎる(^^;
 本篇を読んで改めて気づくことは、カラマーゾフとホームズが同世代ということ(ホームズ1854生。アリョーシャ1853生)。てことは、ニコラス・メイヤーではないですが、フロイト(1856生)も同世代ということです。時まさに近代。
 そう考えると、ドストエフスキー描くところの第一部世界は、いかにも前代の匂いが強い。第一部を読み始めた当初、小説内世界観のデフォルトが異質すぎてなかなか乗れなかった、と書いたのはまさにそれがためであったわけです(でもそれが次第に薄れていく後半はちょっと物足りなかったりもしたのですが)。しかし、ホームズ、フロイトに横並びさせますと、その世界観が、はっきりと、ヨーロッパの辺境ロシアという特殊条件だったことが浮かび上がってくる。
 その点からすると本篇の印象は、13年後だからかもしれませんが、ずいぶんと近代的です(それについては後述します)。なんとモスクワの地下には、(これは著者の、応募に際しての遊び心なのかどうか)「大暗室」さながらの地下世界が広がっており、地下秘密水力発電所*で得た電気で煌々と明かりが灯っているのです(やや誇張)。いやーこの辺はノーチラス号を彷彿とさせられました! *ちなみに世界最初の水力発電所はこの時点より10年前のイギリス。
 そしてその地下世界で延々と計算しているサヴァン的な少女。さらにその横にはディファレンス・エンジン!!
 この辺では、もはや前任者の世界からは完全に離れて、高野史緒ワールドになっていますね(^^)。

 お話変わって、スコトプリゴニエフスクの町では、イワンと、精神分析の知識を持ち科学アカデミーの会員でもある廷臣トロヤノフスキーが、ヒョードル殺しの新たな核心に近づきつつあった。フョードル殺害現場から消えた三千ルーブルは、本当にそこにあったのか? この先どうなる? 奇絶怪絶、また壮絶。

 

「カラマーゾフの妹」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月19日(水)20時18分45秒
返信・引用 編集済
  > No.3914[元記事へ]

 海野さん

 私も楽しみにしているのです〜(^^)
 しかし、アマゾンのレビューは玉石混淆で、石はトンデモナイですよ! それが証拠に、『なぞの転校生』レビューたるや!!

 ということで、『カラマーゾフの妹』に着手しました。110頁まで。本書310頁なので既にして3分の1! 短い。短かすぎる(^^;
 第一部より13年後、再調査にやってきたイワンは、フョードルの墓を暴き、頭蓋骨の傷を確認します。結果は文鎮ではなく杵に一致。つまりスメルジャコフの証言は嘘だったのです! おおっ!?

 ところで、第一部を読んで私が気になっていたのは、イワンの性格が、前半と後半で180度変わってしまっていることでした。一般的に言って、哲学小説的な前半で、西欧的怜悧な知性を示すイワンの印象が強すぎて、大半の読者は、後半のウジウジした性格を、半ば故意に、見逃して(読み落として)しまっているのではないでしょうか。しかし、きちんと読めば、この矛盾は看過しがたい。
 本篇は、ここまでのところ、まだ何も始まっていません。が、上記イワンの矛盾する性格については、きわめて明確な説明原理が導入されました。これは、受け入れられるかどうかは別にして(と書くのは拒絶する読者も多いと思うからですが)、イワンの性格に客観的な根拠を与えるものであることは間違いありません。
 なるほどねえ。いや面白い(^^;。とか言っているうちに、今度はラキーチンが殺された、との報が! このあと一体どうなる? 奇絶怪絶、また壮絶。

 
 

Re: 「カラマーゾフ5」読了

 投稿者:海野久実  投稿日:2012年 9月19日(水)12時50分44秒
返信・引用
  > No.3913[元記事へ]

『カラマーゾフの妹』アマゾンのレビューなんかでは、評判はあまりよくないですね。
大熊さんの感想が楽しみ。(;^_^A

http://marinegumi.exblog.jp/

 

「カラマーゾフ5」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月18日(火)23時55分26秒
返信・引用 編集済
  ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟5』亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫07)読了。

 全文360頁。うち本文60頁。あとは訳者による「ドストエフスキーの生涯」と「解題」。これ、読了にしてよいのだろうか、と、一瞬悩みましたが、これまでも本文を読んだものを読了としてきたので、前例に従い、読了書としてカウントすることにします。それにしても、最近はあとがきや解説の類は読まないことが多くなりましたが、ここまで極端なのは初めて(^^;。

 しかし、この大長篇のラストがこれなのか、の感強し。それもそのはずで、本篇は二部作の第一部なんですね。で、本篇の13年後の話と著者によって予告された第二部は、実に著者の死によって書かれないままになってしまったのでした。つまり『カラマーゾフの兄弟』は未完の小説なんです。とはいえ、そういう構想を措いても、本篇は幹たる主筋から、枝葉が四方八方に拡がっており、著者にどこまでこの小説を収束させる気があったのか、疑わせます。と感じるのは、枝筋は最終的に主筋に統合される伏線以外には認めないという、現代のエンターテインメント小説の筆法に慣らされてしまっているからかもしれません。本篇はもっとおおらかで、ある意味、前後左右無限の盤上に展開される囲碁のような感じでしょうか、作中人物の論理に徹底的に寄り添って、局面がうねうねと伸びてゆく。作者に時間さえあれば。でも時間は足りなかったんですね。

 ところが130年後の日本に、第二部が出現しました。いうまでもなく本年度乱歩賞受賞作である高野史緒『カラマーゾフの妹』です。というか、この第二部を読みたいがために、これまで蜿蜒と第一部を読んできたのでした(^^;。
 その第一部も読了し、第二部の設定も把握できました。いよいよ、これから着手するのであります。
 

粕谷知世「旅のはじまり」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月18日(火)00時31分4秒
返信・引用 編集済
  《月刊アレ!》9月号より、粕谷知世「旅のはじまり」を読む。
 ごく短い、30枚弱の短編で、タイトルどおり、物語の始まりというか、まさにプロローグですね。なんか《奇想天外》に載っていそうな感じの小説で、その点は好感。
 魔術が有効な世界観で、森の中の部族の少年(みたいだが実は青年。つまりジュブナイルみたいだが実はYA。ただしラノベではない)の心の中に、とつじょ、謎の声が響き、出立を促す。別の森で別の部族に捕まるも、魔導師の老婆を人質にして、主人公を助けるその部族の少女とともに脱出。ちょっとした隙に老婆が魔術を使って……
 という筋立てで、設定自体も謎のまま、はいいのですが、ラストでその地がアマゾンであるとわかるのはちょっとがっかり。全く架空の土地でよかったんじゃないのかなあ。まあ平行世界のアマゾン、異次元のアマゾンの可能性もあるので、とりあえず留保。
 とはいえ先を読みたいという気にさせる力は十分にあり、期待大ですね。
 しかし、どこにも連載とか分載、もしくは「つづく」とは記されていないなあ。

 追記。あ、よく見たらアマゾン特集号だった(^^ゞ
 

「カラマーゾフの兄弟4」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月17日(月)21時11分41秒
返信・引用 編集済
  > No.3910[元記事へ]

 段野さん

「ぬばたまの……」は、おそらく眉村さんの最高傑作の一つですね。
 私も先日、30年ぶりに読み返して、その感を新たにしました。でも段野さんと同じで、当時は何もわかってなかったことが、この年になって読み返して、わかったのでもありました。
 当時ももちろん最高傑作と思ったわけですが、それは「物語の面白さ」でそう思ったにすぎない、と今ならわかります。こっちが年齢を重ね(経験を積み上げ)た結果、ようやく「ぬばたまの……」の読み手として最低限のレベルに達したということだと思います。
 いや、やっぱり物語なんですが、体験に裏打ちされた物語だから、読者の体験(もしくは記憶)が共鳴し励起されるんでしょうね。これは頭で考えただけの物語では発動しえません。物語の中に、読者の体験に働きかける、対応するものが存在しないからです。それが極端にひどくなると、読者は「エソラゴト」と感じてしまうのですね。以上は空想小説を否定するものではなく(実際眉村さんの小説は空想小説です)、空想小説にも現実感、現実との対応性は必須ということです。
 くだんの<アレ>のエッセイに、
「活用できる自分の記憶、応用できる経験も織り込むほうが現実感を出し易い」
 と書かれていますが、その現実感は、厳密には「出し易い」というよりも、眉村さんの物語に、個々の読者のそれぞれの体験が共鳴する、というべきではないかと考えます。
 さはさあれ、単なる物語としても最高傑作なのに、それが読者の「現実感」を共鳴させるのですから、これはもう最高中の最高、傑作中の傑作といって過言ではありませんよね(^^)

 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟4』亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫07)読了。

 ドクターマッコイ検事の論述が日本のラノベ並みに論理が錯綜してわかりにくかったのに対し、スポック弁護士のそれは、さすがに理路整然としていてよくわかったし、大方の傍聴人同様、私も、証拠不十分で無罪かと思っていたのでしたが……。うーむ。「お百姓たちが意地を通しましたよ」(674p)とは、どういう意味なんでしょうか? 金科玉条に凝り固まったロシアの農民には、「父殺し」というシニフィアン(文字の形、音の響き)のみがアプリオリで、そのシニフィエの内容は無視されるということでしょうか。

 とまれ、最終巻『カラマーゾフ5』に着手。
 

Re.

 投稿者:段野のり子  投稿日:2012年 9月17日(月)17時03分23秒
返信・引用
  いまさらのごとくですが、「ぬばたまの…」を読み終わって、初版のころには何もわかってない自分を発見し、恥じ入るばかりです。その他の作品にも色濃くのこされていたとは。(そうしてセミナーでぼろくそにたたかれる私がいるのです)










 

眉村さん情報:エッセイ「異世界篇というシリーズ」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月17日(月)14時35分36秒
返信・引用
   月刊アレに、『眉村卓セレクション 異世界篇』全三巻全体の「緒言」に相当する眉村さんのエッセイが載るらしいということは、以前、少し触れたと思います。
 さっき、hontoのサイトに行き、「月刊アレ!九月号」に掲載されていることを確認、さっそくダウンロードしました。
 八月三十日発行だったようです。お知らせが遅くなりまして申し訳ありません。
 というか、このhontoのサイトってものすごく見辛いんですよね。そんなことないですか? 少なくとも私にはとても見難くいです。目次くらいは月号のトップページですぐ確認できるようにしてほしいものです(「立ち読みをする」をクリックして無料ダウンロードしなければ見れない)。
 雑誌って、大概、目次を見て内容を確認してから購入するかどうか決めるのが普通じゃないでしょうか。もちろんSFマガジンのようにろくに目次で内容確認もせず購入し、しかも読まないというような雑誌もありますが、あれは異例中の異例でしょう(>おい)(^^;

 ということで、読みました。「私が薦める私の本」というコラムで、「異世界篇というシリーズ」というタイトル。なるほど確かに『異世界篇』全体の「緒言」になっていますね。

「その頃から私は、濃厚に日常を書きながらも、いつの間にか客観的には空想世界を書いている、というのを何とも思わなくなってきた」

 近年の「私ファンタジー」が、「異世界もの」の延長線上にありその発展形との指摘は深く首肯させられます。
 

Re: CYSM情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月17日(月)01時16分17秒
返信・引用 編集済
   橘まるみ様
 ご投稿ありがとうございます。
「チャチャヤング・ショートショート・マガジン」に寄稿するには、とのお問い合わせですが――
 昔、チャチャヤングという深夜ラジオ番組があり、眉村先生がパーソナリティをなさっていました。眉村さんがパーソナリティですから、リスナーもそっち系が多かったんでしょうね、ショートショートを書いて送りつけてくるものが現れ、眉村さんも面白がって、出来の良いのは朗読されたりしていたら、あれよあれよという間に投稿が増え、いつのまにか「ショートショートコーナー」という、名物コーナーになっちゃいました。
 この「ショートショートコーナー」の常連が、番組が終了してからもまとまってグループを作り、眉村さんのご自宅に伺い教えを乞いつつ、北西航路、風の翼といった創作同人誌を発行し、現在に至っております。ここ10年位は、同人誌活動は休止状態ですが、「眉村さんを囲む会」を年一回で続けております。
「チャチャヤング・ショートショート・マガジン」は、かかるメンバーが、眉村さんのプロデビュー50周年(「燃える傾斜」を63年に処女出版されてフルタイムになられて来年が50年目です)をお祝いして発行する創作誌とご理解ください。
 そういう次第で、寄稿者は、当然ながら眉村さんの薫陶を受けた「ショートショートコーナー」投稿者、「風の翼」「北西航路」寄稿者、「眉村さんを囲む会」参加者ということになります。あしからずご了解願います。
 てゆーか、ちょっと勘違いなさっているんじゃないかと思うのですが、ごく内輪の、創作誌というもおこがましい手作りの冊子なんですよ(^^; 現在本番の予行演習でパイロット版を鋭意編集中ですが、完成した暁には当板にて告知いたしますので、もし興味があるんでしたら、そのときご連絡いただければお送りします。ということで、よろしくお願い致します。
 

Re: CYSM情報

 投稿者:橘まるみ  投稿日:2012年 9月16日(日)23時48分54秒
返信・引用
  > No.3885[元記事へ]

《チャチャヤング・ショートショート・マガジン》の計画が出た時から、深田亨(青山章二)先生に連絡の郵便葉書を出しています。
 西秋生(妹尾俊之)先生、深田亨(青山章二)先生と、「ショートショートの広場」、「ショートショートランド」、「ホシ計画」に寄稿しています。
「チャチャヤング・ショートショート・マガジン」に寄稿するには、どうしたらいいでしょうか。

http://mixi.jp/show_friend.pl?id=8325272

 

大説を含む小説?

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月16日(日)22時32分34秒
返信・引用 編集済
  『カラマーゾフ4』は605頁。イッポリート検事によるドクター・マッコイ的論告が終わり、弁護士の弁論が始まるところ。おそらくこのマッコイ的な部分が、弁護士スポックによって突かれるんじゃないでしょうか(^^;
 うーむ。しかし著者の構想には、単に人間ドラマ(哲学論議も人間の営為)を超える、もっと大きな意図があるのかも。ミーチャはロシアの大地に代表される「ロシア的」なるものの表象なのかな。とすればイワンは西欧的思考の表象か。ミーチャがスターリンならイワンはトロツキーか? ではアリョーシャは?
 

眉村さん情報「ねらわれた学園」

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月15日(土)23時11分40秒
返信・引用
   今秋話題独占のアニメ映画「ねらわれた学園」は11月10日全国ロードショー予定ですが、それに先立って、原作の眉村卓『ねらわれた学園』が、昨日、講談社文庫より発売となりました。[Amazon]
 この作品、講談社青い鳥文庫に収録済みなんですが、廃版にせず、あらためて講談社文庫からも出たんですねえ。いやー版元のヤル気が伺えますなあ。けっこうけっこう(^^ゞ
 ちなみに、青い鳥文庫って、原則廃版はないんですってね。ハヤカワ文庫のように出す尻から品切れにしてゆく出版社もあるというのに、いまどきめずらしい良心的なシリーズですね。それともハヤカワが異常に非情なのかな。

 まあ本板を訪れる方には言わずもがなですが、『ねらわれた学園』はジュブナイルSFの傑作ですので、この機会に未読の方は、映画の予習も兼ねてぜひお読みください、とおすすめしておきます。
 

ラノベは難解

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月15日(土)21時47分52秒
返信・引用 編集済
   『カラマーゾフ4』は510頁。証人尋問が終わったところ。かちっとした法廷小説じゃなく、著者はそれぞれの心理が力学的に流動する場を描きたかったのでしょうね。カーチャのそれが一番派手ながら、それだけではなく、すべての証人、とミーチャの心理が織り成してゆく綾が、いや実に面白いです。

 何を書いているかが理解できない
 ライトノベルはほとんど読みませんが、その理由の一つに「難解さ」(難読性)ということが確実にあります。リンク先では確率的な論理性が挙げられているのですが、こういう数学的議論は実は私もあやしい(>おい)(^^;
 『あなたのための物語』は非常に読みにくい小説で、その読み難さは、まず文章がおかしいことによっているんですが(それは以前に書いた通り)、それ以上にストーリーの流れが了解しがたかったんですね。ストーリーの流れとは、端的に作中人物たちの「関係」的交通(応答の連鎖)ということで、それが、上に従えば、状況論理性にかけるように感じられたのでした。
 上の例も、私の例も、要するに作者が突き詰めて考え切らずに書いてしまっているからでしょう。もうちょっと思考の射程を伸ばせば、そんな風にはならないことに思い当たるはずなんですが、そこのところを、まあこのへんでええか、とストップしてしまう。
 いや、それ以上考えをつきつめていったら、話が輻輳し錯綜して(作者の)手に負えなくなるって言うんで、手を打ってしまう、そんな感じなんではないか。でも小説は、作家の創作物とは一概に言い切れないのであって、高橋和巳が言ったように、小説内論理の赴くところに、作者はとことん付き合ってゆかなければ小説を書く意味がありません。その意味でラノベ作家は「カラマーゾフ」を見習うとよいと思います。
 本当は、代表的な、じゃなくて(*)、いかにもラノベらしい作風のを数冊読んで立論するべきなんですが、そんな苦痛には、ちょっと耐えられそうにないなあ。
(*)ラノベと言えども傑作と目される作品は、ラノベの範疇を超えて豊かに広がっているはずなので、分析には不向き。クラークやレムでSFを論じようとしたら、あるべきSFの理想は論じられても、今あるSFの本質論からは外れてしまうのと同じですね。
 

Re: >でも、よくわからないのがあります。

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月14日(金)21時48分48秒
返信・引用
  > No.3902[元記事へ]

 あ、そのお答え、私も10分ほど前に、とつぜん脳にふわっと浮かびました。海野さんの思考が伝わってきたのかも(笑)
 いやこれは書き切れてないわけじゃなくて、読者である私が鈍かっただけですね。このままでオッケーと思います。というかこれでなければ逆に説明しすぎで切れ味が鈍りますね。
 まだまだ未熟であります。
 

>でも、よくわからないのがあります。

 投稿者:海野久実  投稿日:2012年 9月14日(金)21時36分46秒
返信・引用
  えーとですねー、いろいろ考えていると、140文字では書き切れない物も出て来ますね。
無理やり削った結果、わかりにくくなったのでしょう。

恒星間宇宙船に乗るはずだった男性が、恋人の遺書を読んでいるんですが、結局宇宙船には乗らずに(恋人が自殺したからか)見送っているんですね。
恋人は男性が宇宙船に乗ってしまうと言う事はどういう事かと思い悩み、結局、もう自分も男性の家族も、男性にとっては死んでしまったと同じなのではないかと気が付き、死を選ぶと言う感じです。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

「カラマーゾフ4」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月14日(金)21時11分16秒
返信・引用 編集済
   海野さん
 恒星間宇宙船ネタは、次の本番に頂きたい位よいですねえ(^^)
 でも、よくわからないのがあります。
   ↓
 これ。解説求ム(^^;

 クローンネタではこれが好きです。

『カラマーゾフ4』は410頁。「第11編 兄イワン」読了。今日読んだ部分「悪魔。イワンの悪夢」は圧巻。ユートピア小説ですな。

「この地上すべてのものが理にかなっていたら、それこそ何も起こらなくなってしまう。きみ(悪魔>管理人註)がいなくなったら、いっさいの事件がなくなる。事件はなくちゃならないんだ」(373p)
「するとたちまちなくてはならないマイナスが消滅し、世界全体に分別が行き渡り、その分別とともに、当然のことですが、すべての終わりが来るからですよ」(391p)


 つまりゲンをかついで髭を剃らないことには、人間の版図に関わる深遠な意味があるのです(>ほんまか)(^^;
 

Re: スターシップ・ノーリターン

 投稿者:海野久実  投稿日:2012年 9月14日(金)15時53分48秒
返信・引用
  > No.3899[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

> 恒星間宇宙船ネタは、パイロット版が出るまではしばらく封印しておいてほしいんですよね。

え?ぼくですか?
御希望ならばー

昨日今日は「クローン」ネタでやっています。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

スターシップ・ノーリターン

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月14日(金)11時53分42秒
返信・引用 編集済
   恒星間宇宙船ネタは、パイロット版が出るまではしばらく封印しておいてほしいんですよね。強く要望します。彼我の差にがっくりして引き上げてしまいたくなるから(>おい)(^^;

『カラマーゾフ4』は350頁。うーむ。先が全く読めなくなってきました・・
 

「カラマーゾフ4」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月11日(火)22時21分35秒
返信・引用 編集済
  『カラマーゾフの兄弟4』に着手。210頁。コーリャって、まさに中二病ですね(笑)。19世紀から中二病ってあったんですね。いやいや、人類が今の人類に進化した時点からあったというべきなのかな。それとも近代の産物なのかしらん。

 ということで、130年ぶりの続編(?)『カラマーゾフの妹』が届いた。長大な正編もそろそろ先が見えてきましたので(^^;。
 パラパラと見ていたら、巻末に授賞リストが載っていた。
 読んだことがあるかないかは無視して、受賞作家の名前を果たしてどれだけ知っているか、数えてみました。昭和61年(第32回)まで(32名+1出版社)は全員知っていた。
 ところが昭和62年から去年まで、31名中、知っていた作家は、なんと9名だけ。とりわけ第48回の三浦明博から、去年の川瀬七緒までの連続13名は、きれいさっぱり知らない名前でした(汗)。
 あらためて乱歩賞が、私にとってまったく興味のもてない文学賞になってしまっていたことに気付かされた。私の興味の対象が、乱歩賞からどんどん外れていったということですね。
※本当のことを言えば、乱歩賞に限らず文学賞という「催事」自体に興味がなくなってしまったというべきでしょうね。
 

読書における自分語りと現象学

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月11日(火)00時27分39秒
返信・引用 編集済
   また読書における自分語りを半端にしか了解していない(しかも現象学をひきながら)文章を読んでしまいました。
 現象学は体験の学であり、我々は生きて(体験して)きたことに於て、根源的にそれを捉えているというのが学の大前提。ただし本人にそれが十全に可知化されている訳ではない。可知化されてない部分は精神分析の無意識みたいなもので、そういえばラカンは無意識は他者(超個人)だといってますね。
 読書体験をよくよく考えれば(反省すれば)、読前と読後では自分が変化して少し広がったことに(これは誰でも)気づくはずです。
 それは知識で言えば、当の本から得たものであるかも知れないが、感動や印象は(本に触発されて)自分から出てきたものです。
 しかしてその感動とか印象、読前には自分(意識)の中にはなかった、増えたのだとしたら、それはどこからやって来たのか。
 それこそが上記「生きて(体験して)きたことに於て根源的にそれを捉えている」蓄えられたその部分(内なる他者)から沸き上がってきたわけです。
 つまり読書における「自分語り」は、単なる自然的態度の反射ではなく、現象学的に引きずり出されてきた蓄えられていた無意識(他者)を記述する(可視化する)ものなのであって、いわば読書するとは現象学的還元をしているということに他ならないのです。読書して自分語りしなくて、何が読書かと私は思いますけどね。
 もちろん本そのものに、そういう反応をさせる力がなくてはならず、つまらない本はつまらない発火しか起こせない道理でもありますが(いやこれも客観的につまらない本であっても、ハマればどどっと中から引き出されてくる場合があって一概にはいえない。一概に言えるのは本は(たとえば書棚に)存在するだけでは何も引き起こさない。読者が読んで初めて何かが起動するということですね)。

 追記。そしてこのことは、腑分け式に作品をいじくりまわして読み解くような態度を決して否定するものではありません。一般的な分類形式は外にありますが、個々の作品の分類や分析の基準はどこにあるのかといえば、それは読者自身の主体性の中にあるという以外にない。腑分けもまた現象学的還元の一形式なんですね。
 

眉村さんの新作アップしました!

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 9日(日)20時49分34秒
返信・引用 編集済
   先日ご案内しました、眉村卓さんの最新短篇「佐藤一郎と時間」(50枚)を、とべ、クマゴロー!に掲載しました。→「佐藤一郎と時間」

 ある日、佐藤一郎が散歩していると、突如行く手に半透明の物体が出現した。それはみるみる変形し、人間そっくりになり、立ち上がって佐藤一郎に話しかけてきたのだった!? 

 眉村卓のSF版「邯鄲夢」、とくとお読みください!

 

「カラマーゾフの兄弟3」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 8日(土)20時43分15秒
返信・引用 編集済
   承前。星新一作品を、「起承転結が明確など分かりやすい構成や文体」などと言ってしまえるのは、ストーリーが語るところ以外に、「意味」など読み取らないからなんでしょうね(※)。政界の長老に向かって怖じず臆せず正論を堂々と述べるのを、聴き終わった長老が、不気味な笑顔で「かわいいやっちゃな」と言う。こんなに歯向かっているのにかわいいと言われて、そうか分かってくれたか、と喜ぶ一年生議員と同列ですね。もちろん経験を積んで、この新米も、次第にタヌキになってゆくわけです。偏見かも知れませんが、体験よりも論理を重んじる人に、案外、書いていることしか読まないといった、そういうところがあるんじゃないでしょうか。

 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟3』亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫07)読了。
 取り調べで、ミーチャが言を左右にするのですが、3000ルーブルのうち半分を使わずに持っており、それをカテリーナに返さずにいる言い訳(恥辱)は、小説内事実か否かを超えて、その心理のセットは(たしかに非合理なんだけど)私にはよく分かりますね。判事や検事には了解不能なようですが。偏見で言えば、体験より論理に重きを置く人には通りにくい理屈なのかも。面白い。
 ひきつづき第4巻へ。

(※)そういう作家もいるわけで、そんな人は行間に埋め込んだりせず、全部書いちゃうんですよね。
 

超難解作家

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 7日(金)23時47分35秒
返信・引用
   星新一作品超える?コンピューターで小説創作へ
 星新一は難しいよ。
>起承転結が明確など分かりやすい構成や文体
 というのはそのとおりですが、あのわかりやすい構成ほど難しいものはないのでは? また、それに内包させたウィットやシニシズムは、生身の人間でも模倣は難しいですよ。わかってないなあ。読めてないのか。
 

「カラマーゾフ3」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 7日(金)00時05分57秒
返信・引用 編集済
   『カラマーゾフの兄弟3』は330頁まで。第8編「ミーチャ」の部分。第7編「アリョーシャ」が(描写する)小説というより、著者によるミーチャの行動の解説感想という感じが強かったのから、一転、小説らしい小説でした。しかも、ほとんど大衆小説のノリで、当然ながらわたし的にはちょっと長い、無駄な描写が多い(とりわけ乱痴気騒ぎの部分)、という印象になりました(^^;
 ここが物語の一つの山でしょう。ミステリとして読むならば、ここにおいてようやく物語が始まる、つまり事件が起こったわけです。が、しかし純然たるミステリ(目的の)小説ではないので、フョードル殺しはミーチャではないぞという暗黙の雰囲気が充満していますね。そういう冤罪(誤審)的イメージを読者にデフォルトに持たせつつ、物語は第9編「予審」へと進みます(ミスリードだったらすごい(^^;)。
 

「カラマーゾフの兄弟3」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 5日(水)22時26分59秒
返信・引用 編集済
  『カラマーゾフの兄弟3』に着手。110頁まで読む。第3部第7編「アリョーシャ」の部分ですが、あるまじき腐臭にショックを受け僧院を飛び出したアリョーシャが、コントラの手先である(ほんまか)ラキーチンの「導き」でグルーシェニカの家に行き、「葱を与える」ことで逆に葱に引かれて僧院に戻ることを得る。うまいですなあ。

 しかし葱の説話は、まんま「蜘蛛の糸」なんですよね。ウィキペディアを見ると、元ネタがあるわけではなく芥川のオリジナルっぽいのですが(山形県、福島県、愛媛県には、「地獄の人参」という同種の説話があり、ウィキペディアの筆者は芥川の小説から生まれた新説話かもと言っている)、説話等に元ネタらしきものがないとすれば、むしろ「カラマーゾフ」のこの話から、芥川は翻案したという可能性を疑うべきではないんでしょうかねえ。大体芥川が元ネタに頼らずオリジナルを書いたということがちょっと信じられませんね(おい)。

 追記。検索していたらこんな説が紹介されていました→http://matome.naver.jp/odai/2128695480427697601/2128702328528510203
「芥川が典拠したと見られている」とあります。出典も出してほしかったですね。

 さらに追記。ドストエフスキー翻訳作品年表によれば、「カラマーゾフ」の最初の翻訳は、1914年の米川正夫訳。
 芥川龍之介年表によれば、芥川が「蜘蛛の糸」を発表したのは、1918年。
 またここによれば、ラーゲルレーヴの「キリスト伝説集」は1904年刊で、集中の「わが主とペトロ聖者」の本邦初訳は翌1905年に小山内薫訳で出ているとのことですから、こちらも芥川が元ネタにした可能性は残ります。
 ただ、ラーゲルレーヴが「カラマーゾフ」(1880年刊)を参考にした可能性もあります。ドストエフスキー→ラーゲルレーヴ→芥川という元ネタ関係も考えられますね。
 

「佐藤一郎と時間」テキスト化完了

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 4日(火)20時58分19秒
返信・引用 編集済
  「佐藤一郎と時間」の打ち込みを完了。画面上で二度見なおして(訂正して)、プリントアウトしてからもう一度見直したら、もうぼろぼろ。
 やはり紙に落として確認するのが、一番カタイようです。
 紙のほうが注意が働く(PC画面だと読み落としがち)というのは、これは世代的なものなのでしょうか? 物心ついた時からパソコンに慣れている世代ではそんなことないのでしょうか。
 私だって1980年、25歳からワープロソフトを使い出しているわけで今年で32年目。手書きの期間よりもはるかに長くなっている。それでも紙のほうが注意力が働くということは、若い世代でも同じである可能性が高いといえるんじゃないでしょうか。
 すべての文書が電子化され、紙の文書が消え去った未来では、情報の公共化が高まると同時に、誤読ミスによる意志疎通の阻害も高まり、案外早期に最終戦争を引き起こして、人類は滅亡するかも知れませんね(>おい)(^^;

 ということで(どういうことだ)、明日眉村さんに返送し、校正して頂いたら可及的速やかに反映させて、アップしたいと思います。いましばしのご辛抱。お楽しみに〜(^^)
 

Re: 再び、あなたの選ぶ短編ベスト3

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 3日(月)20時50分7秒
返信・引用 編集済
  > No.3889[元記事へ]

 らっぱ亭さん
 ラファティ企画のお知らせ、ありがとうございました。
 今年はラファティ再発見の年となりそうとのこと、いやめでたいではありませんか。これもらっぱ亭さんの、長年にわたる地道な情宣活動の成果というべきですね。お慶び申し上げます。
 私自身は、ラファティ作品を(邦訳に限っても)まだ半分も読めておらず、投票すること叶わぬのがまことに面目ないのですが、「再び、あなたの選ぶ短編ベスト3」への投票の、盛況ならんことをお祈りしております。
 京フェスへは、雫石さんに誘われておりまして、ひょっとしたらお邪魔するかも知れません。そのときはよろしくお願いします。

 閑話休題。昨日の投稿で、「おまはん」も今は使われなくなったと書きましたところ、段野さんがメールで、なんと身近も身近、眉村さんの『妻に捧げた1778話』(新潮新書04)で使われてますよ、とのご指摘をいただきました。
 や、そうでしたか。早速引っ張りだしてきました。
 ありました。121頁です。

「手帳のその文字を見たとき私は、妻の病気に対する姿勢を突きつけられたような気がして、「おまはんの勝ちやなあ」と呟いたのであった」

「おまはん」、こんな身近でしぶとく生き延びていたのですね(^^;
 段野さん、ご教示ありがとうございました。

 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟2』(光文社古典新訳文庫06)、読了。
 第2部第6編「ロシアの修道僧」を読んだわけですが、この部分、ゾシマ長老がいかにしてその思想を得たかが語られていまして、ちょうど第5編のイワンの思想と対置させられる形になっています。この部分、イワンの部分がするりと頭に入ったのに比べて、なかなか苦しかった。(動物や植物と違って)人間のみが罪を背負って生まれてくるというのはよくわかる。罪とは何か。いうまでもなく「言葉」の獲得ですよね。言葉を獲得し意識を持ったことが罪なんです。しかし、そのあとの部分は了解が難しかった。イワンの哲学は、きちんと一般化されていると感じたのですが、長老のは一般化が不十分なような。それもまた、著者の思惑通りなのか、とまれ、ひきつづき第3巻に着手します。
 

再び、あなたの選ぶ短編ベスト3

 投稿者:らっぱ亭  投稿日:2012年 9月 3日(月)19時40分33秒
返信・引用
  「とりあえず、ラファティ」のらっぱ亭です。
ひとつ、企画の告知をさせてください。

2002年3月にラファティが逝去し、SFマガジン8月号の追悼特集で催された作家・翻訳家・評論家による「短編ベスト3」。拙サイト「とりあえず、ラファティ」でも勝手に連動企画として、「あなたの選ぶ短編ベスト3」を企画しました。

あれから10年、今年2012年はラファティ再発見の年とも言える盛り上がりをみせており、9月に早川書房から短篇集「昔には帰れない」発売予定、本年から来年初頭にかけて国書刊行会から初期の傑作長篇「第四の館」、青心社から後期の集大成的長篇「Serpent’s Egg」の刊行が予告されています。
そこで、10年ぶりの企画復活です。題して「再び、あなたの選ぶ短編ベスト3」
http://hc2.seikyou.ne.jp/home/DrBr/RAL/newbest3.html

前回はメールで投票いただいたのですが、今回はtwitter、mixi、google+でも受付けます。
〆切は9月30日です。一人三篇まで、一篇につき一律一点で集計します。
みなさん、たくさんのご応募お待ちしてますので、よろしくお願いします。

また、先日Twitterで告知されましたが、今年の京都SFフェスティバルの本会企画でラファティ企画が予定されており、名だたるラファティアンのお三方、井上央さん、牧眞司さん、柳下毅一郎さんが登壇されるとのこと。
詳細は京フェスのサイトで近日公開です。
http://kyofes.kusfa.jp/cgi-bin/Kyo_fes/wiki.cgi?

http://hc2.seikyou.ne.jp/home/DrBr/index.html

 

おまはんとしての自分

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 3日(月)00時34分49秒
返信・引用 編集済
   承前。大阪弁といえば、最近ウルフルズが「河内のオッサンの唄」の「ワレ」を「自分」に変えた替え歌で歌っていますよね。たしか「大阪のオッサンの唄」。残念ながらユーチューブにはまだないようです。

 この、自分自身ではなく、「you」を「自分」と呼びかける大阪弁は、上記のように河内弁の「ワレ(我)」から来たか、あるいは同根だと思っていたんですが、ところが、10年ほど前でしたか読んでいた新書に、尼崎から福島区あたりの、すなわち大阪市域北西部の狭い範囲の方言と書いてあるのを見つけ、たしかに私は、昔は福島区に住んでいたので、やや不審ながら、そうだったのか、と無理矢理自分自身を納得させていたのでした。

 ところが――

 つい先日、眉村さんの『眉村卓コレクション異世界篇U傾いた地平線』を読んでいたら、52頁に、主人公の(第二並行世界の)奥さんが主人公に向かって「それなら、壁にかかっているでしょう? 自分、いつもそこにかけるやないの」といっている場面を見つけた。この「自分」は、文脈からして当然「you」です。

 主人公の名前は上村徳治。眉村さんの本名は村上卓児。おそらくご自身が反映されており、住んでいるところも同じ大阪市域南部。主人公の奥さんに、現実の悦子夫人の口調が反映されているのなら、悦子さんは生粋の大阪市域南部人でありますから、上記説は瓦解すると同時に、大阪市域南部を介して、福島区と河内が結ばれてしまうことになるわけです! まさに我が意を得たりな記述でよろこんだのでありました(ちなみに「自分」の範囲は「you」より狭く、「tu」に近い。目上の人には使わない。日本語なら「おまはん」くらいの感じか。しかし「おまはん」も今は使いませんね)。
 

書き言葉としての大阪弁

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 2日(日)22時55分59秒
返信・引用 編集済
   小説内で使用される話し言葉と実際の話し言葉が違うことはよくある話ですが(とりわけ女言葉)、小説内の大阪弁はさらに複雑な経緯があるように思います。
 眉村さんがどこかに書いておられたんですが、今ちょっとどこだったか思い出せません。それは大阪弁の表記についてで、一般的な大阪弁を実際に耳で聞いたら、「そやから」は「せやから」と発音されている。それをそのまま表記するんではなく、「そやから」と書くようにしている。それは関西以外の人間に違和感をもたせないため、というような内容だったと思います。

 そういう「配慮」(リアルの抽象化)は眉村さんに限らず、関西の作家は一般的にされていますよね。
 逆に大阪弁を強調して、今では誰も喋らない言い回しを喋らせる場合もあります。たとえば「〜でおま」とか。いやこれはさすがにないか(笑)。かんべさんが文章で使用される大阪弁もこの傾向があって、よく使われる「じゃによって」なんか、私は生まれて無慮半世紀に至りますが、現実の場面で遭遇したことはいまだかって一度もありません。これなんぞ「落語弁」というべきですわな。やはり「配慮」の一種(ただし逆向きの)でありましょう(豊田さんが日本人というとメガネをかけ出っ歯で肩からカメラを下げさせるのも同じ効果でしょう)。どちらもリアルには存在しない大阪弁。抽象化の操作を経た「想像的」な大阪弁。いずれにせよ「小説内語り言葉としての大阪弁書き言葉」という暗黙の了解事項があったように思います。

 ところが、最近の大阪出身の純文学作家、具体的には川上未映子と柴崎友香なんですが、その小説内大阪弁はかかる取り決めを完全に無視していて、「リアル大阪弁」なんですね。それも21世紀の大阪弁というべきで、たしかに、私の周囲の若い子が使っている言葉はこうやなあ、という感じ。私自身が常日頃使っている20世紀後半の大阪弁からもちょっと違っています。他地方の人に理解されようがされまいが関係ない、という(本人がどこまで意識しているかは別として)潔さというか考えの無さ(>おい)が実に新鮮。いやむろんそんなの、文脈でわかるわけです(たとえば私の経験では小川国夫の静岡弁)。従来の作家は(というよりもエンターテインメント系の作家はというべきか)その辺律儀だったということなんでしょうね。

「佐藤一郎と時間」は40枚。
 
 

メロディ検索エンジン

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 1日(土)22時22分1秒
返信・引用 編集済
   今日、喫茶店でかかっていた曲(有線?)があって、それはつい先日も耳にしていいなあと思った曲なんですが、今日聞いて、ああこれは手に入れて何度も聞きたいなあと思ってしまいました。女性ジャズボーカルなんですが、サビの部分が、私の頼りない耳の記憶ではこういう感じ
 曲名と歌手名、ご存じのかたはいらっしゃいませんでしょうか?
 うーむ。メロディの一部を入れたら曲を探しだしてくれる検索エンジン、って、ないのかなあ。ユーチューブあたりでそんなサービスしていないですかねえ。

「カラマーゾフの兄弟2」は400頁。

「佐藤一郎と時間」は30枚。

 

CYSM情報

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 1日(土)12時04分15秒
返信・引用
   昨日が《チャチャヤング・ショートショート・マガジン》の締切日でした! おかげさまで予想以上の本数が集まり、しかもどれをとっても力作ばかり。編集担当にとってこれ程嬉しいことはありません。皆様ありがとうございました。

 昨日は、西秋生さんより作品が二本届きました。早速拝読。これはまたモダニズム神戸・タルホ・オマージュというべき、いかにも西ワールドな作品で堪能しました。いいですよー(^^)

 現在のところ15本78頁。あともう一本、現在推敲中につきもう少し待ってね、との連絡を受けている作品があり、合計16本となります(まだ受け付けますよ)。

ということで、編集に入ります。といっても型に流しこむだけなので、別に難しいことは何もありません。作品の並びだけは私の恣意で決めさせて頂きます。どうかご了解を。
 とはいえド頭は自動的に決まってまして、深夜ラジオ金曜担当のパーソナリティMさんをめぐる掌篇集なんですが、これはもう当然というべきですよね(笑)

 ご期待下さいー。

過去ログ

inserted by FC2 system