ヘリコニア過去ログ1301

「スクラップ集団」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月31日(木)00時38分39秒
返信・引用

   最近、矢作俊彦のツイートをフォローしているのですが、先日幻の岡本喜八・クレイジーの「日本アパッチ族」関連で「スクラップ集団」という映画が面白いと呟いていました(下図参照)。
 調べたら、原作は野坂昭如で舞台は釜ケ崎。渥美清や小沢昭一や宮本信子など達者な役者が出ていて、たしかに面白そうなんですよね。ストーリーは「騒動師たち」っぽいのかな。
 ちょっと興味が出てきて、ツタヤの店在庫を調べました。するといつも利用する近所の店にはなかったのだが、ちょっと離れた店に在庫アリの◯印が。
 今日借りに出掛けました。しかし店頭にはなかった。店員にたずねたところストックに探しに行ってくれたのですが、結局見つけられなかったとのことでした。残念。
 ツタヤでも古い作品は、よほどの名作以外は次第に処分されていってるんでしょうかねえ。
 (クリックで拡大)↓
 
 


Re: 管理人さまへ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月30日(水)18時35分18秒
返信・引用 編集済

  >メールが次々と戻ってきています。OCNさんに調査を依頼していますが
 おやまあ。
 しかし、段野さんOCNでしたっけ。私はOCNですが、段野さんのメールアドレスを見るとOCNではないようなのですが。
 てことは、こっちに原因があるのかな、間違って着信拒否になっているのかな、と思いましたが、そうでもなさそう。となると、私もお手上げなのです(汗)。OCNが調べてくれているならこっちに問題があった場合もわかると思いますので、そちらの結果を待ちたいと思います。

 てことで、『さかさま文学史 黒髪篇』に着手。
 中也、啄木、藤村まで。いずれ劣らぬひでえ奴ら。ダメっぷりが半端じゃない(ーー;
 自尊心だけ肥大したコミュ障と申しますか。三者三様のダメ類型ですが、オタク世界にうじゃうじゃいそう。ダメ男に今昔はないということでしょうか。いかにも寺山らしい切り口ではあります。
 いずれにせよ作家として素晴らしい才能の持ち主が素晴らしい人格者かというと、往々にしてそうじゃない(むしろ逆比例)ということですなあ(>おい)(^^;


 プロコル・ハルム/フルアルバム
 
 


管理人さまへ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 1月30日(水)13時58分50秒
返信・引用

  (私信)メールが次々と戻ってきています。OCNさんに調査を依頼していますが、素人の悲しさ、全く分かりません。詳しくはクロネコメール便にてご確認くださいませ。お手数かけますがよるしくお願いたします。  


「地図にない谷」読了(下)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月29日(火)23時12分57秒
返信・引用 編集済

  > No.4213[元記事へ]

承前、前稿のとおり、著者が塩尻市域を上下転倒させたのは、本来境を接している岡谷下諏訪と松本市の間に、にょろりと人魂の尻尾を挿入し、鬼兵衛谷の場所を確保するためでした。つまり鬼兵衛谷は「どこにもない場所」だったわけです。
 わかりにくいので図示します(下図)。上下転倒というより軸対称移動になりますね。
 
 図で見ると一目瞭然なように、対称移動を戻せば、鬼兵衛谷は木曽谷と伊那谷を隔てる中央アルプスの山奥になる。そこで選考委員は『破戒』との関連を見てしまったのかもしれません。
 端的に言ってそれは要らぬ「先回りの配慮」だったと思われます。前回述べたように、著者は、文字どおり「地図にない谷」を存在せしめるために、対称移動という操作を行ったわけです。半村良が地図に切れ目を入れたのと同じ意図であります。
 むしろ著者は、現実の未解放部落を見てはいません。実際その成立には、色んな要素が交じり合っており、一筋縄でいかない。いま、未解放部落と一括りにされているものも、関西のそれと信州のそれでは、成立条件も成立過程もかなり違っていたのではないでしょうか(関西ではある距離ごとに整然と配置されているところから、江戸時代に或る目的を持って「意図的」に「作為的」に、部落が「作り出された」可能性があります)。
 むろん信州内部においても一様ではないのは当然で、ただ本篇で著者が見ているのは、いわゆる「ささら」が成立基盤にあるもので、明記されていませんが要するに「山の民」でしょう。著者は「日本原住民」と呼称しています。すなわち「蝦夷」と同族であると著者は見ているようです。この史観が、のちに「えぞ共和国」シリーズに発展するのは言うまでもありません。
「一揆といっても、内容は千差万別(……)時代をさかのぼるほど、それは貧窮の問題とは別に起っているようなのでね」「つまり、弱い者が強い者に抵抗する、窮鼠かえって猫を噛む式の考え方では処理できないケースが多い。そこでは地頭や領主はむしろ、後進勢力であってだね、もともと、その地域に原始的な共同体を営んでいた人たちを、中央から仕入れた文化で、押さえつけようとして、かえってやられてしまった。つまり鎌倉幕府も室町幕府も、それで苦労してつぶれてしまう。戦国時代を経て、江戸時代が出現しても、国内の基本的なラインはあいかわらずそこにあった。それは現代にも尾をひいている」
 として、日本の歴史を「中央対日本原住民(辺境)」の構図で捉えようとします。

 そして鬼兵衛谷の住人こそ日本原住民の末裔だったとする。この谷の連中を抑えこむため、谷からの出口に、地頭である帯金氏が居館を構え、谷の民を監視してこの方何百年。戦後の現代(小説内の現代。昭和30、40年代)までその構図は続き、ついに破局を迎えるわけですが、それは帯金家当主、静野のエキセントリックな「史観」によってほころびが一気に裂けたのでした。

 このストーリーは、したがって帯金静野の、マインドコントロールされた面があるとはいえ、エキセントリックな個人的動機、個人的所業に帰せられる面があり、それは小説構造的には瑕瑾というべきです。
 ところが本書の面白さの大半は、実のところかかる静野(と、春琴抄の佐吉を彷彿とさせる静野崇拝者の伊頭)の特異極まる存在感に依っているのですね。解説で中島河太郎も「作品を一筋貫くものは、由緒ある誇り高い血筋を守り抜こうとする(静野の)鮮烈な意地である」「かえって(主人公である)娘の方が分が悪いほどで」「この若い男女の恋愛を纏綿させているが、母親の生きざまの激しさにはとうてい及ばない」と指摘しています。
 結局、著者の志向した「観念小説」が、そのために登場させた一登場人物の異常な存在感にかき回されてしまった結果、逆にとんでもないオモシロ小説に仕上がってしまった。そんなふうな感じがしました。伝奇ミステリーの逸品で、堪能いたしました(^^)
 


みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月29日(火)00時21分23秒
返信・引用 編集済

  鏑木がグラスを磨いていると、男が二人、連れ立って入ってきた。
中年と若者。どちらも初めて見る顔だ。
中年の方は引き締まった体。苦み走った顔。黒のスーツをびしっと着こなしている。
若い方は肥満体型。ボサボサの髪の毛で眼鏡。よれよれのGパンにTシャツ。何が入っているのか、膨れ上がったズックのカバンを重そうに肩からかけている。
「何になさいます?」
「バーボンストレート。ノーチェイサー」と中年の方。シュポッと、ジッポでタバコに火をつける。
「シングルですか?」
「シングルだ。キミは?」と、スーツは若者に促す。
間髪入れず、若者は言った。
「ボクは、エースのダブル」
 


「地図にない谷」読了(上)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月28日(月)21時30分30秒
返信・引用 編集済

  藤本泉『地図にない谷』(徳間文庫82、元版74)読了。

 本篇は「藤太夫谷の毒」のタイトルで71年江戸川乱歩賞に応募され、最終選考に残るも、後述の理由で受賞を逃しました。しかし選考委員であった中島河太郎は、本篇の落選を残念に思い、このまま埋もれさせてしまうのは惜しいと考えていました。その後産報より小説シリーズが企画されたのを知り、中島は本篇を推薦します。かくしてタイトルを改め、サンポウノベルズより晴れて本篇が出版されたのは、落選より三年後の74年のことでした。
 ところで本書巻末の中島河太郎の解説によりますと、最終選考委員会で選考委員たちは、小説の出来はダントツであると皆本篇を激賞したのですが、扱う題材がタブーに障るもので問題ありとして授賞には至らなかった。と言うよりも授賞を控えられてしまったのです。
 私が解釈するに、要するに被差別部落を彷彿とさせるということで判断を避けられてしまったようです(実際はぜんぜん違う)。
 しかしながら私は(一読して)、そんな大層な話だろうか、と首を傾げざるを得なかった。実際サンポウから何の差し障りもなく出版され、回収騒動などもなかったわけですから。
 乱歩賞選考委員はブロッケン現象を見て自分の影に怯えたとしか考えられず、著者が受賞を逸したのはまことに気の毒としか言いようがありません(のちに『時をきざむ潮』でリベンジを果たされるわけですが)。

 本篇の舞台は諏訪湖の北の山岳地帯。架空の塩坂市に含まれるも市街地から何十キロも奥まった鬼兵衛谷です。塩坂は塩尻がモデルと思われます。
 塩坂は諏訪湖の西北から東北にかけて、頭でっかちな人魂(ひとだま)の形に広がっているとされます。人魂の尻尾が諏訪湖を巻くように東北に向かってだんだん細くなりながら伸びているようです。
 塩坂の鬼兵衛谷は、この東北へ伸びる人魂の尻尾の先の部分で、その東はもはや蓼科方面であり、鬼兵衛谷からだったら塩坂の市街地よりも和田町のほうが近い(医者も和田町に行く)。この和田町は現長和町(長門町と和田村が平成大合併で合併)の和田でしょう。
 一方現実の塩尻市も、人魂の形であるのは同じなのだが、その向きがまぎゃくで、人魂の尻尾は南に向かって伸び、ちょうど木曽谷と伊那谷を分ける山脈の尾根伝いに細くなって消えています。
 結局著者は、塩尻市を倒立させる操作で、半村良が地図に切れ目を入れて広げた部分に架空の土地を作ったのと同じ効果を求めたのだと思われます。
 余談ですが、では現実の塩尻市域に鬼兵衛谷を措定するとすればどこになるでしょう。当然、木曽谷と伊那谷を分ける中央アルプスの山岳地帯となります。と知ると、あっと思われるかもしれません。そう、『破戒』ですね。
 実は「破戒」はその不完全さを追求されたことがあるみたいで、著者も出版社も、後にいろいろ猪口才なことをしているのですね。
 そんなこんなでwikipediaによれば「1954年に刊行された新潮文庫版『破戒』も、1971年の第59刷から初版本を底本に変更している」とのこと。あっ、これってまさに、本篇が乱歩賞の最終選考に残ったのと同じ年のことじゃないですか。
 ひょっとしてそんなゆくたてが、選考委員たちの耳にも入っていて、心理に無用な構えを形成してしまった可能性はどうなんでしょうか?
(続く)
 


Re: Re: 追伸

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月28日(月)00時33分50秒
返信・引用 編集済

  > No.4211[元記事へ]

段野さん
 頂いたCDはすべて変換完了しました。ということで、残るは「NO7B」のみ。急ぎませんがよろしくお願いしますm(__)m
 この「男のポケット」放送リストは、今秋刊行予定の眉村卓50周年記念「チャチャヤング・ショートショート・マガジン創刊号(創作編)」と同時刊行予定の「資料編」に収録いたしますので、乞うご期待>皆様
 私の皮算用としましては、「資料編」の紙版は当然発行するのですが、ネット上にもおいてユーチューブと連動させ、作品名をクリックすれば、眉村さんの朗読が聴ける、そんな風にできないかと思っています。
 しかしこれは眉村さんの許可が戴けるか、それがまずどうなのかな、という面があると言う前に、私のスキルで可能かどうかが非常に危うく、とらぬたぬきの公算大ではあります。こういうのに強い協力者希望!

追伸。あ、それからテープが切れて復元できない「NO3AB」の作品名リストを、どうも私、紛失してしまったみたいです(ーー;。
 申し訳ありませんが、「NO7B」をご送付くださる際、いっしょにお送りいただきたく、よろしくお願いします>段野さま

 さて、『地図にない谷』はのこり50頁になったのですが、読み終わるのがもったいなくて困っております。明日にまわすか。しかし我慢出来るか、それが問題(^^ゞ
 


Re: 追伸

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月27日(日)13時35分54秒
返信・引用 編集済

 
段野さん
> No.4209[元記事へ]
追記。とりあえずカセットテープは明日にでも返送しますね。あとの処分についてはご指示下さい。

高井さん
> No.4210[元記事へ]
 検索してみると、大正13年生まれ説もありますね→こちら
 このHPの記述は流通しているのとはソースが違っているようで、本名も「芙美」としていてwikipediaとは異なっています。
 お父さんの名前も書かれていて、一見信憑性が高そうなんですが、これによれば泉は静岡県菊川市の生まれとなり、ずっと菊川にいて東京に出た気配がありません。
 同じHPに父とされる藤本一雄氏の記事もあるのですが、一雄氏が開いた幼稚園は現存しており(→堀之内幼稚園)、昭和29年の開園とのことで、泉が幼稚園を手伝っていたのだったら、その後上京して文芸首都同人となり昭和41年小説現代新人賞受賞に至ったことになります。その間12年。むろん時系列的にはありえなくはないですが、送っていただいた『一〇〇八年源氏物語の謎』あとがきによれば昭和33年以降35年年頃までに菊村到が所属した同人誌に入会とあり、その頃上京していたことは間違いなく、そうするとさらに時差は短くなって4年。うーんどうでしょう。
 wikipediaでは東京生まれとなっていますが、『針の島』の権田萬治解説では埼玉県生まれです。『時をきざむ潮』の中島河太郎解説には「私は関東出身」という著者の言葉が引用されています。菊川生まれ説はやや形勢が悪そうですね。
 おそらく75歳で亡くなった藤本芙美という人は実在し、しかしそれは藤本泉とは別人だったんでしょう。この記事の筆者は菊川在住で藤本一夫・芙美父娘のことを知っていた。のちに藤本泉という作家を知り、混同してしまったのではないか、というのが私の推理なんですが。
 結局大正12年生まれが正しそうですが、いずれにせよ謎めいた作家ではありますねえ。
 


Re: 追伸

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 1月27日(日)00時51分5秒
返信・引用

  > No.4209[元記事へ]

>  藤本泉『地図にない谷』に着手。まだ70頁ですが、のっけからぐいぐい引きずり込まれます。
 おお! 先日、サンポウノベルス版(1974年刊)を買ったところです。
>  考えてみればそれはある意味当然かもしれない。大正12年生まれですから星新一よりも3歳年上。
 買った本には、略歴は写真のように書かれています。調べてみると、大正12年が正しいようで……。
 2歳さば読んでいたのか(笑)。
 


追伸

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月27日(日)00時10分39秒
返信・引用

  > No.4208[元記事へ]

段野さん
 いただいた「男のポケット」WMAファイルのうち、ほぼ半分をMP3に変換しました。
 なぜMP3に変換するのか、といいますと、私も今回試行錯誤していて知ったのですが、WMAファイルでは、ウィンドウズPCのメディアプレイヤーでしか視聴できないんですね。一般のCDプレイヤーでは認識しないことが、いろいろ人から聞いて分かってきたのでした。
 それでMP3に変換して保存しようとしているわけです。

 ところが、その過程でまたまた一つ賢くなる事実に気づきました。
 実は私、去年後半からウィンドウズ7に機種変更しているのですが、変更して驚いたのは、CDRの使い勝手が格段に良くなっていること。
 これまでCDRは、「一度書き込んで完了させると、上書きも変更もできなくなる仕様」だったんですが、その同じCDRが、ウィンドウズ7上では、フォーマットしてまっさらにできたり、何度も消して入れ替えたり上書きできたりできるようになったのです。つまりはCDRWと同じ機能で使用出来るのです。

 そういう次第で、最近重宝していたのですが、実はそれに制限があることが分かりました。
 CDRWと同じように使えるのは、データファイル仕様にしている場合に限ることが、今日判明したのであります(実は非常に初歩的なことに私は驚いていて、読んでいる皆さんに大笑いされているのかもしれませんが)。
 オーディオファイル仕様にしてしまうと、従来と同じで「一度書き込んで完了させると、上書きも変更もできなくなる仕様」に留まるのですね。

 それに気づいて、段野さんから送っていただいたCDを、あらためて確認しますと、あらら、オーディオファイル仕様で録音されているのですね。
 私は、当初CDRはすべて初期化できると勘違いしていましたので、いただいたCDをお返しすれば、別の用途に流用していただけて経済的だなと思っていたのですが、オーディオファイル仕様だとしますと、お返ししても邪魔になるだけかもしれません。
 ということでさて、どうさせてもらいましょうかねえ。その必要はないと段野さんがおっしゃるのなら、こちらで処分してしまいますが。
 ご指示いただければ幸いです>段野さん

 藤本泉『地図にない谷』に着手。まだ70頁ですが、のっけからぐいぐい引きずり込まれます。
 一見横溝的世界観ですが、小説を書いている著者自身は、実はきわめて西欧的な知性の持ち主であることがうかがえる作品です。えぞシリーズでは複雑化されて見えにくくなっているんですが、本篇ではそれが極めて明確に見て取れます(というか本作以前は『オーロラの殺意』とか『東京ゲリラ戦線』とかを書かれているんですから、その流れから見れば繋がっているわけです)。
 考えてみればそれはある意味当然かもしれない。大正12年生まれですから星新一よりも3歳年上。そんな時代に女だてらに(という表現は不穏当ですがあえて使う)日本大学を卒業されている。ということは、才媛でなかったはずがなく、しかもそれなりに裕福で開明的な(西欧的な)家庭に育った方だったに違いないと想像されるわけです。
 


段野さま(私信)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月25日(金)20時38分57秒
返信・引用 編集済

  段野さん
 メールをお送りしたのですが、不達通知が返って来ました。で再送したのですがまた不達通知が返って来ました。Undelivered Mail Returned to Senderというヤツ。
 ネットで調べると、実際には届いている場合もあるようで、ひょっとしたら読んで頂けているのかもしれないのですが、しかしこちらでは判断しようがないので、掲示板を私信に使わせて頂きます。
 CD拝受。ざっと見た限りですが、ほぼ揃ったと思います。
 ただ、「NO7B」の中身が「NO7A」でした。つまり「NO7A」がダブリになっていて、「NO7B」の音源のみ、わたしの手元に届いてないということです。何度もお手をわずらわせ、まことに申し訳ありませんが、「NO7B」のみ再度お送りいただけると有難いです。
 あ、それから「NO4B」(ゲスト出演)ですが、聴きましたら、途中で終わっているような感じなんですが、これで全てでしょうか? 頂いた音源では、眉村さんがリクエストしたELPのナットロッカーが始まって切れてしまうのですが。
 それからこのゲスト出演は、なんという番組にゲスト出演したものなのか、放送の中では番組名の告知がないようなので、もしお分かりでしたらお教え下さい。

 ということで、たくさんCDを送って頂き、恐縮です。MP3に変換完了しましたら、すべてお返しします(カセットも。カセットは一個だけですよね)。可及的速やかに、と言いたいところですが、ちょっといま時間に余裕がなく、ご猶予をいただきたいです。
よろしくお願いします。

 


みちのく怪談コンテスト

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月24日(木)22時35分27秒
返信・引用

   みちのく怪談コンテストのサイトに、深田亨さんのショートショートが掲載されています→「鉄道ノ延伸セサリシ事」
 いやあ確かにみちのく怪談ですなあ。一行目で分かります(^^;
 本篇、わずか800字なのにすばらしい幻想画に仕上がっていて堪能しました。深田作品の民俗趣味は、みちのくの風土に合っているかも。
 しかし、なぜにみちのく怪談? と思ったら、荒蝦夷という東北の出版社が主催なんですね。
 


「おとしばなし集」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月23日(水)21時58分52秒
返信・引用 編集済

  > No.4202[元記事へ]

 承前、最初に戻って、「おとしばなし堯舜」「おとしばなし李白」「おとしばなし和唐内」「おとしばなし列子」「おとしばなし管中」「おとしばなし清盛」「おとしばなし業平」を読みました。「業平」以外は、昭和24年から26年にかけて中間小説誌に発表(業平のみ昭和31年<新潮>)。
 昨日読んだ児童文学のパロディは、私の感覚では後に興ったショートショートに違和感なくつながるものでしたが、今回のおとしばなし集は、形式的には落語の型をふまえた感じが強かったです。ただし落語そのものだったのは「若手落語会口演台本」との副題のついた「業平」のみ。

「堯舜」では、堯や舜や禹が、なぜか我が国のヤミ市に居ついているようで、昔はいざしらず手元不如意となった舜は(初期資金のかからない)豆腐料理屋を開店、娥皇女英のお色気サービスが人気を呼んで思わぬ儲け。ところが看板の二人が全て懐に入れて逐電してしまう。金づるに逃げられた舜は、これは大変と二人を捜してヤミ市に飛び出しますが……

「李白」も舞台は同じ、戦後日本の紅灯の巷。恍惚となれる薬が大流行し、昔は仙家の専売特許で水銀の昇汞のと狩り集めて秘密の調合で煉丹したものが、当節は便利安直に横町の生薬屋で手に入れられる。それをカストリと一緒に服用、ぶっ倒れる者続出。ところが李白先生がその金丹に当ってぶっ倒れたという噂。「なにぶんにもひたすら個性を重んずる当世の」「ひょっと身投げでもあるとうれしがって茶ばなしのたねにしてのけるあっぱれの美風」「詩伯病めりと聞いたぐらいでは」「さっそく酒のさかなに、げらげらばか笑いしながら」「後編の出るのを待ちかねた世間」でしたが、さすがに友達の賀知章だけはほんの少しばかり心配して、行方知れずの李白を探しに出掛けるも、お里が冥王星(本文読まれたし)なので365日の一年が慌ただしくて仕方がない。結局酔っ払って居酒屋で前後不覚になっているのを車屋の黄安が目的を思い出させる。では参ろうとなり、車に乗って行くかと聞く黄安に、「歩いたほうが早い」。それもそのはず、黄安は別名亀仙人ですから、当然車は亀なのでした(^^;
 で、ようやく楊貴妃の店にいるとの情報を得、来てみれば女の裸、裸の乱舞にまたまた目的を忘れ、あまつさえ車の亀までむくむく頭をもたげる始末、「あ、大変だ、3千年たっちゃった」(ここ参照)というクスグリも入って、ようよう見つけた李白は月で兎と遊んでいる。屋上にいる賀知章に李白のたまいく「オマエも上がってこい」。女はいるのか。もちよ嫦娥がおるぞよ。喜んで賀知章、墨子の梯子(雲梯ですな)を持ってこさせて登ろうとするも、足元ふらついて真っ逆さま。駆け寄る黄安に「あたった」。薬に当たったのかと聞く黄安に冥王星、「地球に当たった」。ちゃん、ちゃん!
 これは大傑作(笑)

「和唐内」とはいうまでもなく国性爺ですな。尾羽うち枯らして日本に引き上げてきた和唐内、手元不如意で一念発起、雑芸団を小屋掛して大当たりを取るも、三日後にライバル出現でつぶされる。どこのどいつだと敵情視察に赴くと、演し物は女の子の綱渡り。ただし客の目的は下から見上げる女の子のチラチラする赤いもの。ところがその女、なんと妹の錦祥女。夫の甘輝将軍と小屋掛していた。奇遇に和藤内が訊く。このごろ唐山は天下二つに分かれて昔の明清の如くらしいが、オマエはどっちや(笑)
 結局組もうということになり、がっぽり儲けるも、そうなると湧いてくる乱を好む虫。実は甘輝が「当地では毛嫌いされている北方の志士」であることを知り、よっしゃ兄弟のよしみ、組んで押し出そうと話がまとまるのですが……

「列子」がまた面白い。これの舞台は日本ではなさそう。中国の、無時間的な何処かでしょう。横町長屋の列子のところに、弟子の逢子が訪ねてくる。逢子はちと狂っていてすべてがさかさまに感じられる(夏の昼間は冬の真夜中)。連れ立って出かけると、華子が家から飛び出してきて逢子にぶつかる。華子は物忘れの病で、朝のことは夕に忘れ、夕のことは朝に忘れる。ところが治してと頼んだわけでもないのに、孔丘の弟子の道義節が治してしまった。と、忽ちに甦る忘れていたあれやこれやでゾッとし居ても立ってもいられない。「そういえば逢子よ、オマエに金貸していたな、返せ」「ひえー」。まあまあと列子が間に入り、まあ飲み直そうとなるも先立つモノがない。俺に任せろと列子、ちょうど真昼になり、うつらうつらし始めた逢子の、夢の中へ飛び込んだのだが……。

「管中」「清盛」は、舞台の飛躍がなく、その時代その世界の話で、前作を読んだあとではいささか物足りなかった。

 これらの作品、全体を通した印象として私が感じたのは、や、これは中間誌に登場した頃の筒井康隆だなあ、ということでした。やはり形式の根本に、かたや落語、かたや演劇という、それぞれ舞台芸術という意味で共通の土台の上に成立しているからでしょうか。
 また筒井が笑いのめしたのは高度成長期後の昭和元禄、本書では戦後の開放感あふれる焼け跡ヤミ市の世界。いずれも謹厳実直な道徳めいたものが引っ込んだ代わりに、軽佻浮薄が幅を利かせはじめた頃といえます。本書では、女は裸になることで自己主張し、夷齋先生もそれを目を細めて見ている風情なんですが、同時にそれが開放かい? という逆向きの視線も感じられます。

 ひきつづいて第二部である「鉄枴」「張柏端」「曽呂利咄」。
 これらは戦前の作。ということだからでしょうか、本集の特徴であった「」で括られる会話文が皆無。ぎっしりと文字が詰まって、おとし話と言うよりも中国の怪談の訳文の趣き。とりわけ「鉄枴」は聊斎志異の一篇であってもおかしくありません。
「張柏端」も最後はオチが付きますが、やはり主筋は怪談です。

「曽呂利咄」は光瀬龍の時代SF短編を思わせます。京の酒蔵に夜ごと不思議な光る物体が飛来します。それは巨大な盃で、蔵の樽から酒を汲み出し、満杯にすると何処へともなく去る。治部少輔光秀が曽呂利新左衛門に極秘に調査を命じます。飛び去る盃を追いかけた曽呂利が、嵯峨野の奥に見出した庵には……
 この作品、8頁にわたる最初から最後まで改行皆無で擬古文が! これが名調子で読んでいて気持ち良いことおびただしい。まるでジャズのインプロビゼーショナルなテナーソロを聴いているような心地になりました。声に出して読めばもっと夢心地になれそう。

 ということで、石川淳『おとしばなし集』(集英社文庫77)読了。面白かった!

 


Re: 「おとしばなし集」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月22日(火)00時48分13秒
返信・引用

  > No.4203[元記事へ]

高井さん
 パロディと言いますか、ほとんど設定と登場人物を借りただけのような気もしますが(汗)。
 しかし面白いのは間違いないので、どうぞお楽しみに〜
 


Re: 「おとしばなし集」着手

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 1月22日(火)00時35分51秒
返信・引用

  > No.4202[元記事へ]

>  石川淳『おとしばなし集』に着手。順番的には第三部にあたる児童小説のパロディ(?)から読み始めました。「小公子」「蜜蜂の冒険」「乞食王子」「アルプスの少女」「白鳥物語」「家なき子」「愛の妖精」の7編。すべて8ページ(15枚)程度のショートショート。
 おお! 私の大好きな『乞食王子』や『家なき子』のパロディもあるのですか! これは読まなければ!
 と本を取り出してきました(持ってはいるのです)。今夜はもうすぐ寝ますので、明日にでも読もうと思います。
>  「小公子」などは星新一作と言われても信じてしまいそう。
 これは楽しみ。
 興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 


「おとしばなし集」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月21日(月)23時13分58秒
返信・引用 編集済

   石川淳『おとしばなし集』に着手。順番的には第三部にあたる児童小説のパロディ(?)から読み始めました。「小公子」「蜜蜂の冒険」「乞食王子」「アルプスの少女」「白鳥物語」「家なき子」「愛の妖精」の7編。すべて8ページ(15枚)程度のショートショート。
 まさにショートショートでありまして、昭和26年から30年にかけて《文芸》に掲載されたものということで星新一以前なんですが、ショートショートという以外にない。なんとも洒落たお話が並んでいるのでした。
 「小公子」などは星新一作と言われても信じてしまいそう。設定が同じなので雫石鉄也<海神亭>を彷彿とさせなくもない。でも基本はモダニズムですね。ちょうど星新一と渡辺温を繋ぐ感じでしょうか。
 私は「蜜蜂の冒険」と「乞食王子」が、著者のアナキズムがほどよく効いていて、特に好み。「アルプスの少女」は筒井康隆を先取りするポストモダンな仕掛けもあり、これも好いですね。「家なき子」は海野久実風です(^^;。とすれば「白鳥物語」は深田亨ですなあ(^^ゞ。「愛の妖精」は原作を読んでないのですが、ちょっと牧野信一っぽいです。
 ひきつづき第一部に戻って読むのですが、こっちは原典が漢籍なんだよなあ。
 


Re: 巨人大鵬卵焼き

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月21日(月)20時57分3秒
返信・引用 編集済

  > No.4200[元記事へ]

堀さん
 ご教示ありがとうございました。なるほど、もともとは「子供が誰でも好きなもの」という文脈だったのですね。
 これはよく分かります。
 たしかに子供(児童)は、絶対的に強いものを好みますよね(同一化しちゃうんですよね)。当時の巨人大鵬はまさにその代表。私の世代だったらウルトラマン、猪木でしょうか。
 しかし中学や高校くらいになると少々ひねくれてきて、常敗球団阪神とか、猪木に反抗してはその都度跳ね返された長州とか、古くなりますが心が弱くてここぞという時に力を出せず、優勝からも綱からも見放され、あんた生きているのがそないに嫌か、みたいな顔をして土俵に上がっていた初代豊山*とかが、心の琴線に触れてくるようになるんですよね。それこそ何とかの酢の物の世界です。
*いま気づいたですが、琴欧洲は豊山の再来ですな(^^;
 つまり中学高校に進むに従って、中心で輝く太陽よりも、その影に隠れる月見草みたいな存在に判官びいき的なシンパシーを感じるようになってきます。これはやはり成長だと思います。
 ちょっと飛躍しますが、その意味で前世紀の浮動票層は、判官びいき的な投票行動を取っていたというのが、こちらの分析なのですが、そのとおりだと思います。言い換えれば拮抗力として作用していたのです。
 それが小泉あたりからちょっと変わってきた。リンク先のタイトルのとおり「判官びいきから勝ち馬側へ」という変化です。
 今回の選挙ではそれが如実に現れました。ツイッターでも(情報元が消えているのでうろ覚えですが)自分の一票が自民を勝たせた、という一種の自我膨張感を感じたいというのが浮動票層にあったという分析がありました(実はこれは逆で、自分の票が死ぬことに対する不安感の裏返しではないでしょうか)。
 これって結局、子供が巨人大鵬を好む心理と同じですよね。かつては中学高校あたりで卒業した心理を、投票権を与えられる歳になっても、まだ持ち続けているのでしょうか。
 判官びいきとは要するに、いま在る支配的体制への反抗心なのであり、もとよりそれは井の中の蛙の自信に過ぎず、実際に社会に出て鼻っ柱をへし折られ、甘い水ばかりではないことを知る(自信が鍛えられる)わけですが、負けるの嫌さに勝ち組ばかりを選んで渡り歩いていては、いつまでたっても真の自信は獲得できず、所謂「大人」にはなれないんじゃないでしょうかねえ。そればかりか、いまこの世界をコントロールしているもの、言い換えればアプリオリなもの、への批判的な視点というものがまったく身につかず、それを絶対化してしまう弊害がありそうな気がするのですよね。
 あれ、卵焼きはどこへ行ってしまったんでしょうか(^^ゞ

 


Re: 巨人大鵬卵焼き

 投稿者:堀 晃  投稿日:2013年 1月21日(月)12時30分48秒
返信・引用

  > No.4197[元記事へ]

一説によると「巨人大鵬玉子焼き」を言い出したのは『油断』を書く前の堺屋太一で、通産時代に卵を「物価の優等生」として並べたもので、「子供が誰でも好きなものは」という前句があり。
これに関連して(ぼくは好きではありませんが希にいいことをいう)渡辺昇一が、子供が本能的に栄養価の高いものを好む代表例として玉子焼きが並べてあるのであって、たとえば「なんとかの酢の物」が好きだという子供がいたら気味が悪いと書いていたことがあって、妙に感心しました。
ぼくは『菊江仏壇』で「私は水貝の酢の物を」という番頭が好きですねえ。
 


「呪いの聖女」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月20日(日)21時07分26秒
返信・引用 編集済

  雫石さん
 確かに生産物ですよね。それにしても日本人一億人が、毎朝卵を一個食べるとして、少なくとも無慮一億個の卵が毎日生産されているわけで、一体そんなに沢山どこに生産工場があるんでしょうねえ。ひょっとして大阪の地下ふかくに、ニワトリとも機械ともつかない異形の産卵装置によってびっしり埋め尽くされた、巨大生産工場があったりして。

かんべさん
 はじかみという名前がよくないですよね。いじめられやすい名前じゃないですか。語源由来辞典によりますと、「はにかむ」は「恥かむ」から転訛したものだそうで、いつも赤くなってはにかんでいるから、卵焼きに付け上がられちゃうんですね!

 ということで(どういうことだ)、藤本泉『呪いの聖女』(ノンノベル79)読了。
 五部作最終話。いやこれはシリーズの掉尾を飾るにふさわしい大傑作で、満足しました。
 今回の舞台は、意外や意外、東京なんです。首都東京にエゾ軍ゲリラが侵入、破壊活動を行うのです!
 のとはちょっと違いますが、まあ大意としては当たらずとも遠からず(>ホンマか)。

 今から一万年前、直径6メートルの真球の大隕石(隕鉄)が、岩手県二戸郡の架空の網代町の奥地、大字山神(やまのかみ)の一神(いちのかみ)に墜落しました(同時にパラパラと、その周辺にも大きさはずっと小さいが、同じく真球の隕鉄が落下)。これは考古学者によって確認され、二戸市の郷土館に模型が展示されている。
 で、山神の民はほぼみな神(じん)姓でして、彼らは隕石から生まれたとの伝承を持ち、実に三千年前から隕石を神として祀って現在に至っている。
 ところが18年前、隕石の鎮座する土地の持ち主の次男坊が事業に失敗し、当座の資金ほしさにハンコを持ちだしてその土地を売ってしまう。次男とすれば金繰りがつき次第、利子を付けて返して取り戻すつもりだった。ちょっと甘いですが田舎では通用する行為だったんですね。
 しかし土地の買い手は岩手出身者ながら東京の遣り手商売人で、投機目的で購入しているから聞く耳持ちません。村の神様の土地を無断で売ってしまったということで村人からは責められ、最後の手段の裁判でも負け、遂に一家心中してしまう。
 これが事件の発端なのでした!
 ここから神一族の、20年になんなんとする聖地奪回作戦が開始されます。主人公の刑事は一族に疑いを持ちつつも、あまりにそれぞれの事件が時間的にかけ離れて起こるので、当初は確信が持てなかった。しかしながら三千年の歴史を誇る一族にとって、20年など須臾の時間でしかなかったのでした。

 本編の面白さは、当然上記伝奇ミステリの興味なんですが、その一方で、主人公の刑事の設定が作品世界に別の面白さを導入しています。主人公は50代、刑事一筋でやってきた一種のモーレツ社員なんですが、先が見えてきている。もう一花咲かせて散りたいと思っていたところ、不注意で右足のアキレス腱を切ってしまい休職中。実は上司の娘の婿養子の立場なのだが、父上司との折り合いが悪く、上司の娘である妻も父親に付いて夫を見下しています。息子も大学を出て警官になっており、既に階級では主人公よりも上。
 つまり家では何にも面白いことがなく、仕事だけが生きがいだった。ですから休職中は身の置き所がない。そんなときに遠い親戚である、上記遣り手商売人が変死を遂げる。主人公はリハビリを兼ねて(半分遊びで)勝手に捜査を開始し、瓢箪から駒でしだいに真相に迫っていくのです。ところが、その過程で、アキレス腱を切った足が意外に重症で、杖なしには歩けなくなることが明らかになる。杖をついて刑事はできません。つまり「もう一花」なんて希望は完全に潰えてしまう。それどころか早晩警官もやめなければならない。警察一家に婿養子で入ったのに警察官を辞めなければならない。半ばヤケになって主人公は自分勝手な捜査に没頭してゆくのです!

 この二番目の興味が、私には一番目の興味よりも面白かったのでした。前作の若手刑事があんまりで不評だったので、その挽回を狙ったのかも、というのは読み過ぎでしょうか(^^;

 表紙カバー折り返しの著者のことばに、「主人公の足跡が、自然に謎絵になるように構成しました。この謎絵は二重になっていて、ひとつはすぐにわかりますが、もうひとつはちょっとわかりにくいはずです。解読してお知らせくだされば、わたしの著書の、どれかをさしあげます」とあって、宛先が明記されているのですが、応募しようかしらん。もちろん戻ってきてしまうでしょうが(著者は公式には行方不明中)、もし万一本が送られてきたら……これもまた怖いですねえ(^^ゞ

 


なるほど!

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2013年 1月20日(日)16時31分16秒
返信・引用

  いや。卵焼きが偉そうにしとるのは、よくわかりました。
こないだ、友達と小料理屋で飲んだとき、出し巻きを頼んだら、
皿に添えられてたハジカミが、真っ赤な顔しとった。
何かあったのかなと思ってたんやけど、卵焼きにいじめられて、
我慢しとったんですな。かわいそうなやっちゃ! 
 


Re: 巨人大鵬卵焼き

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2013年 1月20日(日)15時58分38秒
返信・引用

  > No.4196[元記事へ]

農家の庭先に放し飼いにされている鶏が産んだ卵ならともかく、料理の材料にする卵は無精卵です。
いくら待っても、ヒヨコにも鶏にもなりません。ですから、卵焼きにする卵は、生き物ではなく、鶏が作った、たんなる生産物です。
私も、週末料理人歴20年ほどになりますが、あらゆる料理の中で卵料理が一番難しいです。ゆで卵ですら、今まで満足に行くゆで卵を作ったことはありません。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/fde8abf011ed9eee9033297dd6d7b86a
ですから、卵料理は、ある意味料理の王ともいえるでしょう。その卵料理の中でも卵焼きは特に難しいです。ですから、卵焼きは料理の、王の中の王でしょう。卵焼きさえやっつければ、料理界にクーデターを起こして料理の支配者となれるのです。ですから管理人さんがおっしゃるように、卵焼きは、大鵬や巨人と同列に扱うべき存在なんですね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 


Re: 巨人大鵬卵焼き

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月20日(日)14時28分59秒
返信・引用

  > No.4195[元記事へ]

>ニワトリどころか、ヒヨコにもならせてもらえず
 うむ。なるほど。しかしそれだったら、目玉焼きもスクランブルエッグもロッキーの生卵も同じ立場じゃないですか。
 問題は卵焼きが他の(上記のような)卵料理に優越して発現することなんですね。卵の調理方法において、卵焼きは、可能性としては目玉焼きやスクランブルエッグやその他の調理法と同じ頻度で現れてよいはずなのに、なぜ卵焼きなのか、という問題です。
 それにはまず卵焼きに人格を措定しなければなりません。人格というよりもドーキンス的な「生存意志」というべきでしょうか。
 卵はまず、そのまま育ってひよこになるか、食用となるか、で選別されます(かんべさんのおっしゃるのはこの時点での話ということになります)。
 大半は食用に供されるために生産されるわけですが、ここで(その目的に特化させられた)卵の調理後の存在形態は、上記のように可能性では同じはずなんです(たとえば調理法が10種類あるとすれば、その発現確率はそれぞれ10%です)。それなのに実際には玉子焼きの発現頻度が高くなる。
 その理由を考えるに、卵料理の存在意志を仮定するとまことに都合が良い。玉子焼きの存在意志が他の卵料理の存在意志よりも桁外れに強く、それが調理者の無意識に働きかけて、他の可能性を無理矢理押さえこんでしまうから、とすればどうでしょう。
 どの卵料理だって、自分が実体化したいわけです。しかし圧倒的な存在意思を有する玉子焼きの前にはなすすべがないのですな。たまには負けてやればいいものを、それを絶対にしないのが卵焼きなんです。
 そう考えると、卵焼きが巨人や大鵬とまるで同じ存在であることが見えてくるわけです。9連覇のとき、たまには阪神とかパリーグに優勝させてやれよ、と、日本国民の誰しもが思いました(思わなかった人がいるでしょうか)。まさにそれと同じ構造ですね。
しかし卵料理なんて作ったらすぐ食べられてしまうんだから、全然生存に利してないではないかと思われるかもしれません。それは物理的な卵の運命の話であって、卵料理の生存意志はそれとは別と考えるべきでしょう。卵料理にとっては、いかに自分自身が物理的な卵に形を与えせしめたか、ということが大事なんでしょうね(^^;。

 


巨人大鵬卵焼き

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2013年 1月20日(日)08時08分1秒
返信・引用

  圧倒的な力で弱い者いじめをする、悪者の代名詞だと今日まで思っていたのですが〜。
巨人と大鵬は、そう見ればそう見えたけど、卵焼きって、弱い者いじめしますかあ?
物価の優等生なんておだてられ、ニワトリどころか、ヒヨコにもならせてもらえず、
液状の存在のまま世間に送り出されて、焼かれたり、茹でられたり、煎られたりする、
ひたすら「いじめられてる」存在だと、今日まで思っていたのですが。 
 


空の翼とはおこがましい

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月19日(土)21時11分47秒
返信・引用 編集済

   テレビで相撲を見ていたら、大鵬さんが亡くなったとのアナウンスが。72歳と聞いてびっくり。北の富士さんより二つ年上なだけだったのか。なんか一時代違うイメージでした。それだけ大鵬が、若くして横綱になり大横綱だったということでしょう。
 しかし、私の記憶に残っているのは晩年の大鵬。つまり調子が悪くなって休場を繰り返す大鵬なんですね。横綱って得やなあ、と思った記憶があります。
 と、あんまり好きなお相撲さんではなかった。それにつけても、巨人大鵬卵焼きというのは、圧倒的な力で弱い者いじめをする、悪者の代名詞だと今日まで思っていたのですが、なんか良い意味だったような報道のされ方。ホンマかなあ(>おい)(^^;
 とまれ、大鵬さんのご冥福をお祈りします(しかし北の富士さんは若いですねえ)。

 相撲放送の途中で、スカイツリーから見た富士山が映りました。少し向こうにある山みたいにしか見えません。やはり東京って富士山に近いんですね。スカイツリーは634メートルあるそうで(あ、ムサシと覚えたらいいのか)、そのどの部分からの映像かわかりませんが、たしかに高いところからの映像なのではっきり写っているという面はあったのでしょうが、しかしたまたま昨日の森下さんのブログにも富士山のステレオグラムがアップされていて、こちらは陸橋の上から撮影したものだそうで、そんな高さでも富士山が、東京では見られるわけです。
 昔は空気も澄んで、高い建物もなく、もっとくっきりはっきり見えたにちがいありません。天正18年(1590年)家康が駿府から江戸へ移封され、家臣団も家族をつれて江戸へ移ったわけですが、最初は慣れない土地で心細く、妻子たちは毎日のように西の方に屹立する懐かしい富士の姿を眺めては、故郷を想ったりしたんでしょうねえ。

 ところで上記リンクでかんべさんが甲山をスカイツリーと比較しておられますが、それではまだ頭が高い控えおろうでありまして、その前に東京タワーと比較しなければいかんでしょう。下には下があるのです(^^;。
 実際、甲山(309メートル)の山頂に東京タワー(333メートル)を乗せて、ようやくスカイツリーより8メートルばかし抜きん出る事ができるのですね(ちなみに甲山の上にスカイツリーを乗せれば、六甲山(931メートル)より12メートル高くなります)。
 こんな比較に興じるのは、何あろうスカイツリーの高さに驚くためではありません。甲山(及びその裾野)の低さに改めて驚いたからでありまして、あのへんの土地は、昔、西宮北口から今津線で通っていました。ずんずん宝塚へ向かって上っていくようなイメージがあったのですが、実際はそうでもなかったんですね。
 上ケ原からでも甲山はかなり高くそびえていて、100メートルくらいは有にありそうです。そうしますと上ヶ原は標高200メートル程度ということになり、上ヶ原とはおこがましい。下ヶ原とは言いませんがせいぜい中ヶ原ではありませんか。

 追記。検索したら上ケ原5番町で標高50メートル! やはり下ヶ原だった(汗)。



 
 


「針の島」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月17日(木)23時00分9秒
返信・引用 編集済

  藤本泉『針の島』(徳間文庫83、元版78)読了。

 五部作の第四部です。今回の舞台は日本海側、山形と秋田の県境から10キロの海上に浮ぶ離れ小島・羽里島です。現実の飛島がモデルかと思わされますが、この世界には飛島も存在しており、あくまで別の架空の島です(ただし鳥海山の噴火で山頂が吹き飛ばされ、それが海に落ちて羽里島になったという伝説は飛島のそれを借用しています)。
 主人公は、まだ20代なかばの、なりたてのほやほやの刑事。羽里島も管轄する飽海署に赴任してきたばかりで、所轄の羽里島を一度見ておこうと、休日を利用してフェリーで出かけたのでしたが、偶然にも山の上の神社に至る急峻な石段を、男が転げ落ちてくるのを目の当たりにします。駆け寄った主人公に、男は「だまされた。逆の薬だった」と言って息を引き取る。
 さあ、なりたて刑事で野心に燃えている主人公は奮い立つのでしたが……。

 今回は、あまり蝦夷共和国という感じではありません。この羽里島、孤島にしては珍しく67戸しかないのに姓の数が21もある。その中には西国由来の姓も少なくない。それは要するにこの島に、日本各地から人が流れ込んで来たということを示すわけです。一説では生国で謀反を起こし首を斬られそうになった連中が何波にもわたってこの島に逃げてきたとのことで、そういう意味では生粋の「蝦夷」ではないわけです。
 しかも、そもそも漁業の島ですから後家が多い。というか男が不足している。したがって島外からの流入者は一種の入婿となって、江戸時代は半独立国のような状態だった。つまりこの島でも実質的には母権制なのです。明治に入って東北地方の山林は(ざっくばらんに言えば中央政府に騙されて)ほとんど国有地に取られてしまったのですが(東北は国有地比率の高い地方とのこと)、この島では、当時女傑が島を束ねていて、入会地的な島民の共有地にしてしまい、その手に乗らなかった。その結果この島には国有地が皆無なのです。こうして、前三作と同様のシチュエーションが出来上がります。

 しかしながら、どうも前三作ほどの密度がないんですよね。今現在の実質的統率者である「イタコ」めいた女も、あまり小説内においては存在感がない。話自体は、東北日本海側は(規模はどうであれ)油田地帯なわけですが、そのような石油利権が絡み、島に入り込もうとする石油会社と排他的な島の住民の間でのトラブルが根底にある。それを拒絶する根拠が「蝦夷」という対立軸が希薄な分、ちょっと脆弱な感じがするのですね。
 筆も少し書き急ぎ気味で、世界が淡白ですし、それより何より、主人公の刑事が頭が悪すぎる。読者は皆わかっているのに、主人公だけ気がついてないという場面が多くて興冷めしてしまうのです。とりわけラストは、いくらなんでもそれはないだろうと思うわけです。ミステリのトリックとしては十分に及第点なんですがねえ。それならばもっとミステリの筆法で「単なるミステリ」を書くべきだったのではないでしょうか。そういう意味では魅力的な設定なんです。ちょっと中途半端でした。というか(構成の見直しや推敲も含めて)全体に書き足りてないように思いました。

 ということで、いよいよシリーズ最終話『呪いの聖女』に着手しました。
 


レス

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月16日(水)22時42分33秒
返信・引用 編集済

 
海野さん
 よく考えたら私も「かまびすしい」って声に出して使ったことはないかもしれません。いまためしにつぶやいてみましたが、「ま」「び」と両唇音が連続してしっかりと発音しにくい。会話の中では避けられがちな言葉ではないでしょうか。まあ早口言葉には最適かも(^^;
 「イン・ザ・ホットシート」を10年ぶりくらいで聴きましたが、「展覧会の絵」は15分くらいにまとめたアブリッジだったんですね。これでは全然面白くないはずですよねえ。この頃の作品では「ブラックムーン」が意外によいですよ。オススメです(^^)

段野さん
 段野さんのPCはウィンドウズだと思いますので、まず画面左下のスタート→コントロールパネル→ディスプレイをクリックして開いた画面に、文字を125%に大きくできるボタンがあります。これでデフォルトで文字が拡大されます(私のはWindows7ですが)。
 あと、OSが何かわかりませんが、インターネットエクスプローラだとしますと、当掲示板を開いたままで、右上の「X」印の下の「歯車」みたいなマークをクリックすると「拡大」ボタンが現れます。ここでは今開いているページの文字が拡大できます。
 グーグルクロームでも同じで、やはり「X」印下の「三」みたいな記号をクリックすると、拡大/縮小調節ボタンが現れます。
 それらで調整してみてはいかがでしょうか。

深田さん
 さっそく拝読。6編ともほぼ同じ色調で仕上げられていて佳いですねえ(この長さならこういうトーンに収斂するということかも)。中では「煙幕」が特に気に入りました。いちばんSFっぽいからかな。しかしこのトーンとこの濃縮度を維持して20編前後揃ったら、統一感で印象が増幅され、すごい迫力が出るんじゃないでしょうか! もうすでに20編程度ならありそうですね。

 
 


Re: 「花見幕」読みました

 投稿者:深田 亨  投稿日:2013年 1月16日(水)18時13分13秒
返信・引用

  管理人さま
拙作お読みいただきありがとうございます。
このほかにもウェブで読んでいただける作品がいくつかあります。
ここにべたべたリンクを貼るのもどうかと思いましたので、拙ブログ(FukadaMagazine)にリンク記事を載せました。
ここから お読みいただけます。みなさま、お気が向けばどうぞ。
 


Re.かまびす椎名林檎

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 1月16日(水)13時44分28秒
返信・引用

  海野さま、さっそくの解説、ありがとうございます。セミナーでいわれたのは、書き言葉にたいしてでありまして、この文体にはそぐわない、といったかんじでした。私のなかでは、場面によって使用してもいいのではないかと思うのですが。まあ、人それぞれの感想あり、ということだったのでしょう。
それよりも、うちのパソコン、急に掲示板の字が小さくなりまして、認証コードが非常に判読しづらくなってきました。メガネをかけて、認証コードを打っている姿は誰にも見せられないものです。(つらい)
 


かまびす椎名林檎

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 1月15日(火)23時51分10秒
返信・引用 編集済

  「かまびすしい」は本で読む事はあっても、自分では文章でも使わないし、まして会話でも使った事はないですね。
僕にとっては「死語」以前の「流産語」てな感じですか。
文章で読む場合はどうと言うことなく受け入れるんでしょうけど、会話の中に入ると「どこの方言?」となっちゃうかもしれませんね。
以前「うさんくさい」と言って、「どこの方言?」と言われた経験があります(笑)
「かまびすしい」を今、声に出してみたんですが、目で読んだ事しかない言葉を会話として耳にすると一瞬「え?」となってしまう様な気がします。

エマーソン・レイク&パーマーは管理人さんの言う通り、「恐怖の頭脳革命」までですね。
それ以後のレコードはぴったり買うのをやめています。
「イン・ザ・ホット・シート」はCDで、「展覧会の絵」が入っていたのでちょっと買ってみた感じです。



追伸

はっきりしないまま書いてしまいましたが。
>メンバーから「かまびすしい」を指摘されました。
と言うのは文章に書いたのを否定的に指摘されたのか、しゃべった時に「なにそれ?」的な事だったのかがわからないですね。
後者ならありそうですが、文章では普通に使われますよね。

http://marinegumi.exblog.jp/

 


「花見幕」読みました

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月15日(火)22時45分31秒
返信・引用 編集済

  尾川さん
 こちらこそ昨年は大変お世話になり、ありがとうございました。今年もよろしくお願いします。
 さっそく「対談「SFハチャメチャ大放談」」の情報、ありがとうございました。うーむ。私の推理ははずれていましたか。でもそれにしても、17歳になっているのに16歳と放送するのは、これがミステリ小説としたら反則にもほどがあるんじゃないでしょうか(>ミステリ小説ではありません)(^^;

段野さん
 うーむ。なかなか切実な問題ですね。あとで海野さんが懇切にお答えくださると思います(>おい)。私自身は会話としても死語ではないと思いますし、死語であろうとなかろうと、その文にその語がもっともフィットするのならば、使うにいささかもはばかる必要はないと確信していますが。海野さんが「意識する」を選択されたように。

 さて、いささか旧聞に属するのですが、昨年10月に刊行された『幽』編集部編『怪談実話系/妖書き下ろし怪談文芸競作集(MF文庫)に、深田亨さんのショートショート「花見幕」が収録されていまして、本日ようやく入手、読むを得ました。
 うーむ。見事な怪奇掌編ではありませんか。3枚弱ぐらいかな。そのなかに起承転結がきっちり収まった端正な作品。これだけ短くなると、上述の話ではないですが、語の選択が大変重要になってくるわけで、さすが名工のわざ、しっかり選びぬかれた言葉に、更に何回も鉋掛けがなされて美しい仕上がりになっています。
 この作品、結部で展望がひらけるのですが、この結部とそれまで語られてきた事実との間に直接的な繋がりはないんですね。それを繋ぐのは読者の読みの「残像」なんですね。こういうのは極めて難しく、大概は見るも無残になってなかなか成功しないものですが、さすがに本編ではビシっと決まって余韻があります。いや佳い掌編を読ませて頂きました(^^)。

 『針の島』は180頁。半分を超えました。
 


海野さま

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 1月15日(火)14時22分1秒
返信・引用

  エマーソン・レイク&パーマー、懐かしいですね。私もはまってカセットテープに録音ばかりしていました。いろんな場面で録音されていたと記憶しています。
ところで、眉村さんのセミナーに通っていたとき、メンバーから「かまびすしい」を指摘されました。これも会話ではでてこない言葉ですかね。私は文章では使っていますが、会話ではもう死語なんでしょうか。
とりあえず今年もよろしくお願いします(遅すぎた?)
 


Re: 「SFハチャメチャ大放談」

 投稿者:尾川健  投稿日:2013年 1月14日(月)23時56分29秒
返信・引用

  > No.4178[元記事へ]

ご無沙汰しています。
本年もよろしくお願いします。

「対談「SFハチャメチャ大放談」」,筒井さんの出演は
1978・2・19 MBSラジオ です。

筒井倶楽部機関誌「ホンキイトンク」4号に採録、内容的
には、「いんなあとりっぷ」1979年2月号「だから、想像
力の問題……」と似通っているとのことです。

とりあえず平石滋さん作成の筒井さん関連資料より調べて
みました。
 


オリビア八世とソーキソバ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月14日(月)22時04分40秒
返信・引用 編集済

  > No.4184[元記事へ]

海野さん
 「イン・ザ・ホット・シート」は私も持っていますが、おっしゃるとおりライブには全然及びませんね。これは何でしょうねえ。演奏力自体は全く変わってないのに。そして録音機材や録音技術はよくなっているはずなのに。やはり「たましい」とか「ソウル」の問題になってくるんでしょうか(その意味ではELP自体も「恐怖の頭脳改革」まででしたね)。

 「天童よしみ」はすっと出てきますが、「バンプオブチキン」なんて絶対出て来ませんね。というのは他でもなく、海野さんの投稿で今はじめて知った名前なんですから当然なのです。それって歌手の名前なんですか(>おい!)。いやまあ私はNMBとOSKの区別もつかないんですけどね(^^;

 ところで、作家って大概若い頃文体が晦渋だったりするわけですが、年を取ると平易な文体に変化してしまうのは、やはり想起力の衰えが原因じゃないでしょうか(笑)。

 「オデッセイ・ライブ/デヴィッド・ベッドフォード」フルアルバム
 
 


Re: 発声とソーキソバ

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 1月14日(月)20時35分22秒
返信・引用

  > No.4183[元記事へ]

おおー、エマーソン・レイク&パーマーいいですね。
嵯峨さんがチャチャヤングでかけた「展覧会の絵」ではまって、その後どんどんレコードを集めました。
「展覧会の絵」はライブでしたが、その後スタジオ録音盤も出てるんですよ。

ふと出てこない言葉。
この間ツイッター小説を書いている時にありましたね。恋愛感情を言う言葉なんだけど、「好き」でも「愛してる」でも「思う」でもなく「惚れてる」でもなし「ほの字」でもなく。なんかもっと遠回しな言い方なんだけどなー、といくら考えても判らない。その日は結局思い出せず、違う言葉で書いたんですが、今はきっちり思い出しています。
それは「意識する」でした。
「おいあの子、お前を意識しとんとちゃうん?」言う感じ。

僕の場合有名芸能人の名前がふと出てこない事が多いですね。この間は「天童よしみ」と「バンプオブチキン」でした。でもまあ、自力で思い出したのでまだまだ大丈夫?

「展覧会の絵」のスタジオ録音盤が入っているアルバム「イン・ザ・ホット・シート」
まあ、ライブには到底及びませんが。

http://marinegumi.exblog.jp/

 


発声と想起

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月14日(月)00時07分49秒
返信・引用 編集済

   こちらによりますと、テリー・プラチェットは若年性アルツハイマーであることを公表しているんですね。リンク先から映像が見られます。プラチェットが質問に対して的確な言葉が思いつかない様子が映しだされています(2つ目の映像)。
 実は私も、なかなか適確な言葉が瞬時に出てこず、ウンウンと唸ることが多いのですが、ちょっと心配になって来ました。
 で、つらつら考えてみるに、出てこなくなる言葉に法則性があることに気がついたのです。
 私の場合、それは概して声に出さない単語なんです。つまり書いたり読んだりするときには使っても、普段の日常生活ではめったに使わない言葉なのですね。
 要するに、生活のなかで体験的に身についたものではなく、書物から吸収したもの。おおむね抽象的な言葉と言えそうです。子供の頃から、声に出して使っている言葉は、今でもすぐに想起できるのです。
 わけても、使おうとして常に確実に出てこないものの筆頭が、(今も出てこず呻吟したのですが)「あなどれない」です。実際、この言葉を意識して使い始めたのは遅く、大学を出てからで(会社の先輩に、この言葉が口ぐせの人がいた)、しかも、というかそのせいでというか、普段の会話の中では、私はまず使いません(もちろん人によるわけで、上記の先輩のように普段ふつうに発話している人もいるわけです)。
 この言葉は書物のなかで読むか、自分が使う場合もパソコンのキイボードで打ち込む場合だけです。「発声」したことが殆んどない言葉です。「声」を介在させず「目」とか「耳」から記憶したものです。
 そういう言葉が、次第に想起しづらくなってきているようです。
 自転車乗りと同じで、体で覚えたことは一生忘れない、そういうことでしょうか。
 あるいは、「声」を用いるのはいうまでもなく「社交」的シチュエーションにおいてです。してみると物忘れの順番も、非社交的な獲得経緯と相関的なのではないか(ただしこれは個人によって異なります)。最近そんな仮説を立てたのですが、さて皆さんはどうでしょうか。

 えぞ共和国シリーズは第四部『針の島』に着手しました。まだ冒頭。

 「タルカス」フルアルバム
 
 


「呪者の殺意」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月13日(日)01時04分34秒
返信・引用 編集済

  藤本泉『呪者の殺意』(廣済堂文庫88、元版77)読了。

 承前。えぞ共和国五部作の第三部。いやこれは、前2作をはるかに凌駕する傑作でした。
 前作「時をきざむ潮」で77年度の乱歩賞を受賞した著者は、受賞者の義務で短編ミステリーを、受賞第一作として小説現代に発表しなければならなかったのですが、「長編一本で行こうと決心」していた著者は、「受賞第一作はどうしても長編にしたかった」(本書あとがき)として、出版界の巨人軍たる講談社の要請(命令?)を蹴ってしまうのです。
 これは当時とすれば身の程知らずな「暴挙」でありまして、「何かミスをして、おろされた」と思った人もいたそうです。
 かくして早くも同年、祥伝社ノンノベルから発表されたのが、実に本書(原タイトル「呪者のねぶた」)でありました。
 本書を読めば(乱歩賞受賞時点でほとんど書き上げてあったそうですが)、著者がおそらく、けっ、この長編の完成を棚上げして短編なんか書いてられるかい、という気持ちであったことは想像に難くありません。生涯の最高傑作を書いている実感があったのではないでしょうか。実際、シリーズ五部作のうち、あと二作まだ残していますが、小説の絶対的なレベルからして、本書がシリーズの頂点なんだろうと私にも感じられます。

 さて先回、ねぶた祭りがそもそも蝦夷征伐の「手段」から発展したものであることを本書から受け売りしました。現在の、扇ねぶた図案からしてそれは明らかで、だいたいえびすか大黒か桃太郎、あるいは三国志や水滸伝で、要するに中央から持ってきたもの。津軽にちなんだ郷土色ある図案というものは皆無なんだそうです。リンク先はグーグルのねぶた祭り画像ですが、たしかに。
 主人公夫婦はこうした図案(デザイン化が進んでいる面も含めて)に批判的です。一方父住職は、技術は一流なんですがそういうことには頓着しない。というか彼が率先して弘前ねぷたのデザイン化、規格化を推し進めてきたのです。
 本書には対立軸が輻輳していまして、まず原始共産制的な母権制(それが社会学的事実かどうかは小説には無関係です)に対して、父住職は入婿で入り込み、特異なキャラクタで一族をマインドコントロールして専制君主化しています。つまり母権制に対して父権制の突入というモチーフがある。ここで父権制は当然近代を表象しているわけです。近代の権化たる住職が、蝦夷を毛嫌いし、中央的な図案を好み、近代の契機である家内制手工業的な手法と思想をねぶた絵製作過程に持ち込んでいるのは、けだし当然というべきでしょう。
 一方、主人公夫婦は、父のねぶた絵の商業美術化に対して批判的で、例の蝦夷村の地蔵堂の住職が中央的ねぶたを意味論的に転倒させるねぶた絵を望んでいると聞き、賛同します。要するに津軽・土着に根ざした、定型的なデザインではないねぶた絵ということです。前回ふたりが地蔵堂に赴いたのはその話を詰めるためだったわけです。
 かくのごとく、近代-反近代の対立軸に寄り添うかたちで、芸術の在り方における対立軸が設定されています。その意味で本編は、「芸術小説」としても成立しているのです。

 こうなってくると、一体誰が犯人なのか、といったミステリー的興味は色褪せてしまいます。もちろん最後に犯人の告白で(主人公には)一切が明らかになるのだが、それも主人公が共犯ともいえるややこしいもので、小説世界的には有耶無耶になってしまうのでしょう。
 そういえば冒頭の印象的なシーンは、結末を予言していたわけですが、これも合理的な説明はつきません。もっとも老住職が死装束の僧衣を着て仰臥している部屋を埋め尽くす無数のおしらさまという構図も意味があるようで、東北ではそもそもおしらさまがひろく信仰されていたわけですが、そうしたおしら様を祀ったお堂や社殿に、あとから仏様が入り込み、おしら様を追い出してしまうのです。ちょうど老住職が婿入りし父権制を持ち込んだように。老住職が仰臥する部屋で、おしら様は何の支えもなく立っているのも象徴的ではありませんか。
 寺の女が幻視する「おしら様の部屋」は、仏によって追い出されたはずのおしら様が、土着する人々によって完全に見捨てられたわけではなく、隠れた信仰の対象となって、寺の、物理的には存在しないけれども、男には見えない部屋でかくまわれていたわけです。
 そうなってくるともはや、この殺人事件は個人が個人を殺めたという次元より上位の、土着の神々が今来の神々に復讐を果たす、その一環、その一部分の現象のようにすら思えてくるわけです。

 


眉村さん情報「NOVA9」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月11日(金)17時39分51秒
返信・引用 編集済

   1月9日発売の大森望編SFアンソロジー『NOVA9』(河出文庫)に、眉村さんの「ペケ投げ」が採録されていますので、お知らせします!
 いうまでもなく拙ホームページとべ、クマゴロー!掲載中の眉村さんの最新短編*です。(中篇「エイやん」が、『異世界分岐点』(出版芸術社)に採録されたときは、自主的にHPからリンクを外しました。今回もそのつもりでいたところ、そんなことは無用です、と、出版社さんの方から言って頂きましたので、じゃお言葉に甘えて、と、残してあります。あ、出版芸術社さんからもそんな要請はなかったです。あくまで自主判断)
 私はうっかりしていて、今日注文したところ。届いたらまた感想文を上げたいと思います。
 しかしツイッター上では、さっそくSFファンの落語家さんとして有名な立川三四楼さんが、「ペケ投げ」に就いてつぶやいて下さっています(^^)→ツイート
 残念ながら河出書房のサイトもアマゾンも、収録作品名が記載されてないので、楽天ブックスにリンクしておきますね→【楽天ブックス】

 *追記。最新じゃなかったですね。最新作は同じくとべ、クマゴロー!に掲載させて頂いている「佐藤一郎と時間」。こちらも面白いですよ。
 


えらいすんまセンター街

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月11日(金)09時25分41秒
返信・引用 編集済

  > No.4179[元記事へ]

わ、ホンマですね! 聴き直したら紀平さんがちゃんと言うてはりました。
テープの録音をMP3に変換しながら聴いてましたので、最後の方は終了の操作に気を取られて上の空だったみたいです(汗)
それにしても貴重な音源楽しませて頂きました。本当にありがとうございました。
 


何を言うてはりまや橋

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2013年 1月11日(金)09時07分59秒
返信・引用

  関西圏では聞けなかったのかなって、ラストでちゃんと
局名言うてますやないか。チャチャヤンの毎日放送でっせ。
東京で録音してたけど、関西でしか聞けませんでしたんや。
当時の筒井さんが、軽くて良い調子でしょう!
眉村さんも出てもらったはずなんやけど、音源残ってないんです。
あったら、さらに喜んでもらえたのに。申し訳ない。では、また。
 


「SFハチャメチャ大放談」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月10日(木)20時43分1秒
返信・引用 編集済

   こういう次第でバーター取引が成立し、かんべむさしさんより送っていただいた音源カセットが、本日届きました! かんべさん、ありがとうございました。

 さっそく拝聴。30分番組が2本収められていました。「SFハチャメチャ大放談」というラジオ(深夜?)番組です。
 この番組、私は全然知らなかったです。検索しましたが、ほぼ全くヒットしませんでした。スポンサーが「いんなあとりっぷ」というのが時代を感じますねえ。

 小松左京さんとかんべむさしさんがホスト役。ゲストにSF作家や漫画家を呼んで、30分しゃべり倒す番組だったようです。
 進行係のアナウンサーがいて(紀平真理子さん? この方は「走れ歌謡曲」の紀平真里さんと同一人物ではないでしょうか)、これは小松さんがあっちゃこっちゃへ行ってしまって帰ってこなくなるのをあらかじめ防ぐ布石でしょう。局としては当然の措置ですな(^^;

 頂いた2本の音源は、1本めは半村良さんがゲスト、2本めは筒井康隆さんがゲストです。いや超豪華!
 半村さんの放送のなかで、小松さんが「42年前の226事件」と言っており、また新井素子さん(60年8月生まれ)が17歳とのアナウンスがあって、そうしますとこの放送は、1978年2月初旬だったように思われます。一方筒井さんの回では、こちらでは新井さんが16歳と言われているので、77年8月以前の放送かもしれません。

 内容は、ぶっちゃけ小松さんが一人で喋りまくっていて、半村さんはほとんど喋らせてもらっていません(>おい)。筒井さんはそこそこ喋っておられました。口調がとてもクールで(クールに面白いことを言われるのです)、小松さんと好対称でした。かんべさんは今とぜんぜん変わっていませんね(^^;。

 いや面白かった〜。上に書きましたが、こんな番組が放送されていたとは。私は大学生だったはずだから、知っていたら聴いたと思うのですが、関西圏では聴けなかったのかな。もっとも大学時代はラジオ番組とは無縁の生活を送っていたので、断言はようしませんが。
 ともあれ、貴重な音源を本当に感謝感謝です。冀くは、堀晃さんゲスト編が存在するならば、聴いてみたいのですが。小松・堀・かんべが揃えばたぶんめちゃくちゃ面白い放送だったに違いないと想像するのですが。欲深すぎますか。失礼しました〜!

 


「呪者の殺意」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 9日(水)21時34分3秒
返信・引用 編集済

   えぞ共和国第三部『呪者の殺意』に着手。120頁まで。ほぼ3分の1。
 元タイトルは「呪者のねぶた」で、そのタイトルどおり、弘前市郊外の通称ねぶた寺が、今のところ舞台です。代々の住職がねぶた祭のねぶた絵の名人として有名な寺で、とりわけ(画才を買われて)入り婿の現住職は、全国的な名声を博しています。ところがこの男、大家族の一家なんですがその中でとんでもない暴君として君臨している。妻の妹達が寡婦となって出戻ってきているのだが*、それに手を付けたりもしていて、家族の誰もが(本堂の高縁から蹴落されて障害者となった妻も)内心ではその死を願っている。まさに横溝世界であります。
*訂正>「妻の妹達」ではなく、「主人公早子の、亡くなった兄達の嫁」でした。

 さて、本編の主人公早子は、実兄達が相次いで父住職との不和で家を飛び出したため(その後死亡)、やはり画才のある男を跡取りとして迎え入れているのですが(この夫婦仲はよい。そして二人共父親を憎んでいる)、冒頭で、長い長い百間廊下に、そこにあるはずがない戸口を見出します。あ、と思って早子はその戸口から中を覗くと、明るい光に満ちた部屋の中に、おびただしいおしら様の群が、何の支えもなく立っている。そしてその奥に、(現実には存命の)父の現住職が死装束をまとって(実際見た目死んでいることが早子には分かった)横たわっていたのです!!
 この冒頭のシーンが実に印象的。
 実はこの部屋は「おしら様の部屋」といって、早子の母親も祖母も大伯母も、つまり血の繋がった女はみな、一度はこの幻覚(?)を見ており、それを聞かされていた早子も、いつかは自分も幻視するに違いないと思っていた。したがって当然な気持ちも一部にあった。けれども奥に実父が死んで横たわっているというのは予想外で、これには驚いたのです。
 と、そのとき、別の廊下でものすごい落下音がしたのを早子は耳にします。その廊下を歩いていた(現実の)父住職の頭の上に、天井裏に担ぎ棒の両端をさし渡して保管されていた、昔乗用に使っていた駕籠が落下してきたのでした。住職は大怪我をします。
 幻想的なシーンと謎めいた落下事故。その関係は如何に? いやー続きを読みたい気持ちが急き立てられます(笑)。

 しかしここで一旦話が変わって、弘前市に隣接する岩木町(現在は平成大合併で弘前市に編入)の、弘前市内の飛び地である架空の大字磯村に舞台は移ります。
 磯村に地蔵堂があり、そこの住職は大の中央嫌いで、磯村は蝦夷村の転化。かつて蝦夷の一大拠点であったと持論を展開する。じつはねぶた祭の原型は、蝦夷征伐に難渋した坂上田村麻呂が、一計を案じ、大燈籠を作ってどんちゃん騒ぎをし、祭り好きの蝦夷が気を許したスキに乗じて奇襲をかけた(津軽版トロイの木馬ですな)のであって、そんな故事も忘れて津軽人がねぶたに浮かれるのはとんでもないことだと考えている偏屈爺さんなのです(笑)。つまりねぶた寺と地蔵堂は、本来敵同士といってもよい位置づけなのです。
 今読んでいるのは、その地蔵堂を、(或る理由で)早子夫婦が訪れたところ。いやこのあとの展開、どうなっていくんでしょうか。楽しみ〜。

 「スノウグース」フルアルバム
 

 


「時をきざむ潮」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 8日(火)01時03分17秒
返信・引用 編集済

  > No.4175[元記事へ]

藤本泉『時をきざむ潮』(講談社文庫80、元版77)読了。
 承前。いやあ面白かった。意外にも本編、きっちりとミステリーの形式を踏襲していました。あるいは乱歩賞選考委員を想定して構想されたのかも知れませんね*。トリック(というか犯行手段)も奇想天外で、でも案外バレバレなのでバラしちゃいますが、昨日も触れました天体の運行に規定される潮汐作用を利用するわけです。ただし潮の満ち干きが急激なリアス式三陸海岸という特殊条件が必要です。ラストのシーンはまさに先年、テレビで見た津波の映像をほうふつとさせられました。
 で、そのようなトリックを駆使できるのは、白蟹の入江を知悉した土地の者でなければなりません。犯行者も犯行の手口も予め明らかです(ただし動機は最後になるまでわかりません。犯行者の告白によって初めて判明する体の動機です)。
 これではミステリーとしてはいささか体が崩れているとみなされるかもわかりません。それでも読者をぐいぐい引っ張っていくのは、当該の犯行をもその一部と化してしまう、さらなる深い動機が存在するからなんですね。
 さっきから犯人と書かずに犯行者と書いているのもそこに理由がありまして、犯人である人間はいますが、その人間は、しかし近代の産物である「個人」とは必ずしもみなせないからであります。その意味で前作『呪いの聖域』の主人公に一種の好意を示した少女と同型といえるでしょう。
 前作同様、本作においても、警察機構に代表される「中央」を拒絶し踏み込ませない「まつろわぬ者たち」の共和国の存在が、影絵のように背景に浮かび上がってきます。
 しかも本編では、前作の雪花里のように、その者たちが自己主張することは殆んどありません。むろんその役目を担うものはいて、それが郷土史家である神社の老神主です。そういう形式性ゆえに本編は、第一部のような伝奇SFぽい風合いは後退しています。が、第一部からつづけて読めば、そのミステリーの衣装の下に骨太な観念小説が隠れているのが看取でき、その意味で紛れもなくSFであるといえるわけです。

*巻末の中島河太郎解説によれば、本編以前に乱歩賞最終候補に残った「地図にない谷」(の原型)が、選考委員の中では横溝正史(と中島)のみ支持したんだそうで、むべなるかなであります。
 


「時をきざむ潮」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 7日(月)00時18分34秒
返信・引用 編集済

   えぞ共和国五部作の第二部、『時をきざむ潮』に着手。160頁まで読む。ちょうど半分。本編は(これまでのところ)前作の横溝調とは違って、ごく堅実な警察小説風に進んでいます。ただし事件が起こった舞台は岩手県下閉伊郡の架空の漁村白蟹村で、そこは外部との接触を極端に嫌う原始共産村という設定。ということで、これから伝奇的展開になってゆくのではないでしょうか(目次を見れば、後半に「まつろわぬ民」の章題も見えますし)。

 それはさておき、この村の海岸に神域となっている干潮時に海の中道ができる場所があり、そこは地形の関係で潮の満ち引きが激しく急流といえるほど、との記述があるのです。実はこれ、多かれ少なかれ三陸海岸の特徴といえますよね。だからこの一帯は大津波の被害をうけやすい。現にこれまで何度も被害に遭っているわけです。3・11が突如起こった未曾有の事態ではない。地形や地質構造やらの諸要因が、津波の起こりやすさに向かって「揃って」しまっているのです。つまり日本全国の海岸がみな三陸海岸と同じ条件ではないということですね。たとえば日本海側で大津波が発生する可能性は、三陸海岸に比べればよほど低いのではないでしょうか。
 昨今地震津波対策の基準がぐんと上がりましたが、日本全国に同じ基準を当てはめているように見えるんですよね。これでは蓄積されたデータや理論の意味がないように思います。費用も莫大なものになります。全国に同じ基準を適用した備えは、ある地域では「過剰」になるだけでなく、三陸や紀伊半島では逆に「過少」になってしまうおそれはないのでしょうか。同じ費用ならメリハリを付けて運用すべきです。
 しかしそういうことをすると、可能性は低いとしてもゼロではないのだから、最大値に合わせなければならない、と言い出すんですよね。統計学や推計学の意味が、為政者には全くわかっていない。で、管掌する役人はエリートですから、それくらいの知識はあるし意味もわかっている。むろんどこであれ可能性はゼロではありません。そこで役人は、自らの意志と責任において「決断」し「説得」しなければいけないのです。
 でも合理的に費用を運用して、もし可能性を小さく見積もった地域で大津波が起こってしまったらどうしよう、と役人は考えるんですよね。自分が責任を問われる。ゆえにそのような揚げ足を取られる可能性のある施策は絶対行わない。総花に平等に手当しておけば、よしんば三陸で備えが「過少」ゆえに災害が発生したとしても、だから日本海側をもっと軽くして三陸に対策を突っ込むべきだったではないか、という人はまずいない。そのような処世を専らとするのが、また役人(官僚)なんですよねえ。

 「アイ・ロボット」フルアルバム↓
 
 


Re: CDありがとうございました。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 6日(日)16時05分9秒
返信・引用 編集済

  斎藤さん、おめでとうございます。
 ご感想ありがとうございました。お楽しみいただけたようで嬉しいです。
 眉村さんの語りといいますか、MCですが、私も意外に流暢やな、いや達者やな、と今回聞いて感じました。
 でも私の記憶では、ぼそぼそ喋っている印象が強いのですよね。私はチャチャヤング2年間(2年半?)の放送期間の内、主に聴いていたのが前半なので、あるいは担当されているうちにどんどんうまくなっていかれたのかも知れませんねえ。お送りしたチャチャヤンの録音はおそらく後半のものだと思います(後半になるほど嵯峨ディレクターの露出がふえていくので)。

>こんな放送を毎週聴けたのかと、改めて大阪(関西)地方の当時のリスナーの方が羨ましくなりました。
 これは意識したことはなかったですが、おっしゃるとおりかもわかりません。大変な影響力で、チャチャヤングに出遭ってなかったら、私の後半生は全く違っていたでしょうね。ほんと関西に住んでいてよかったです(よかったのだろうか?)(^^;
 ということで、今年も宜しくお願いいたします。
 


CDありがとうございました。

 投稿者:斎藤  投稿日:2013年 1月 6日(日)11時12分48秒
返信・引用 編集済

  管理人さん、あけましておめでとうございます(とても遅ればせながら)。
昨年、管理人さんからお送り頂いた眉村さんのラジオ音源のCD(「チャチャヤング」と「男のポケット」)で、この正月を楽しませて頂きました。
先ず、チャチャヤングでの眉村さんのD.J.ですが、予想とは全く反対に実に達者なシャベリに正直驚きました。
昔ですが、眉村さんの文庫本の解説(小説のタイトルは忘れてしまいました)の中で、豊田有恒さんが、「訥々とお話になる」ということを書かれていたと記憶していたので、あまり達者でないことを予想していたのです。
結構早口なのも驚きでした。
藤本統紀子さんの番組にゲスト出演された時にも結構早口で驚いたのですが、あれはあくまでゲストだったからと勝手に思っていました。
番組内で紹介されたショート・ショートの朗読は、これは予想通りというか期待通りで、上手いなあと思いました。
ストーリーに対する眉村さんの論評もシビアで興味深かったです。
こんな放送を毎週聴けたのかと、改めて大阪(関西)地方の当時のリスナーの方が羨ましくなりました。
あの頃のショート・ショート投稿と言えば、SFマガジンの豊田さん評者のリーダーズ・ストーリーしか知りませんでしたので、尚更感があります。
中学〜高校の頃で、投稿には至っていませんでしたが、いくつかショート・ショートを自分でも書いてみたりした記憶が蘇りました。
毎週の、しかも現役SF作家による朗読という紹介スタイルは本当に魅力的で刺激的ですね。
気持だけは、およそ35年前に遡って、意欲を掻き立てられてしまいました。

「男のポケット」ですが、これは朗読だけでなく、ラジオ劇もやっていたんですね。
これまた当時のリスナーの方が本当に羨ましい放送内容でした。
朗読の方も、チャチャヤングでは何度か噛んでいたりもしましたが、自作分ということもあってか、こちらでは実にスムーズな語りでした。
特に会話の箇所などは、朗読劇のような雰囲気で、芝居調で実に良かったです。
「消滅の光輪」が連載されていたころのSFマガジン誌の編集後記の中で、編集者の方(うっすらとした記憶ですが、「今」さんか「池」さんかどっちかだったと思います)が、次のような文書を書かれていたことを思い出しました。
「締切日が近づくと、作家の方に電話で進行状況の確認を入れるんですが、眉村さんの場合には別の楽しみがあって、出来たところまで電話口で朗読してくれるのです。特に今号では、マセとランのロマンティックな場面(確か、職務凍結中のマセに面会に来ていたランが、司政庁の庭に咲いていた花を「これは私からの勲章です」といってマセの胸に付けてあげた場面が書かれていた回だったと思います)で、思わずニンマリしてしまいました。これを作家の方の肉声の朗読で聴けるですから、編集者ならではの役得ですね」などという内容だったと思います。
この編集後記を読んだ時(およそ35年前です)、本当に心からこの編集者を呪わしいほどに羨ましく思ったものです。
今回、「男のポケット」の眉村さんの朗読を聴き、この語りで「消滅の光輪」のあの場面を朗読して貰ったのかと、改めて当時の編集者に対する呪わしさの念が沸き起こってしまいました。
でも、眉村さん自身による自作朗読を、対象作品は違えど、今回聴くことが出来たのは本当に幸せでした。
管理人さん、段野さん、本当にありがとうございました。

追記:投稿時に入力を要求される認証コードですが、まるで司政官の身分コードようでした。
 


「藪の奥」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 6日(日)02時48分56秒
返信・引用 編集済

  平谷美樹『藪の奥 眠る義経秘宝(講談社文庫12)読了。
 いやー面白かった。かのハインリッヒ・シュリーマンが平泉藤原氏の隠し財宝探しに挑戦します。ホンマか? ホンマなんです。事実シュリーマンは、世界漫遊の旅の途次、幕末の慶応元年(1865)に日本(横浜)を訪れているのですね。
 本書によれば、世界漫遊は世をあざむく口実で、本当は藤原氏の隠し財宝を発掘するのが最大の目的の旅だったんです!
 シュリーマンは伊達藩の蝦夷地開発にも関わっていた奥州出の陸奥屋という廻船問屋を引き込み、自らはアイヌのコタンコロクルに化けて(というのは当時は外国人は修好条約により横浜・長崎他数カ所の居留地から外に出ることは禁止されていたのです。しかしコーカソイドのシュリーマンが日本人に化けて通用するはずがない。それじゃ髭を伸ばしてアツシを着れば、現実のアイヌ人を知っているわけではなくイメージでしか知らない日本人には、アイヌ人で通るだろうとなったわけ(^^;)、平泉めざして出発します。
 横浜港到着、いやその前の北京から横浜へ向かう蒸気船の甲板からはるかに富士山を望む場面からすでにして、本編は幕末の日本の風俗風景をヴィジュアリティゆたかに活写しており(うんちくとも云う(^^;)、これも本編の魅力のひとつです。(広義の)スチームパンク小説といってもあながち間違いではないでしょう。横浜から奥州平泉まで旅する一種幕末観光小説という言い方もでき、これは映画化してCGで再現して見せてほしいと感じました。
 本編の魅力のもう一つは、藤原氏埋蔵宝物の在処の謎です。シュリーマンは、それを平泉の都市計画を貫く或る観念を抽出することでその謎を解明するのですが、ここでも藤原氏、義経、平泉に対する著者の博学多識(うんちくとも云う(^^;)が十二分に生かされます。この辺は荒巻うんちく小説の再来を思わせます。それは主に橘藤実景に反映されています。
「橘藤は得意げにまくし立てる。シュリーマンたちは苦笑を噛み殺しながら顔を見合わせた」(166p)/「橘藤の饒舌はあちこちに方向を変えていつまでも続く(……)そのまま放っておけばいつまでも話し続けるだろう」(242p)
 で、埋蔵のお宝ですが、これは薄々感じていたものでした。が、一般的には意表をつくものといってよいでしょう。その意味でミステリーの要件も整っています。ゆえに上記幕末観光小説は、幕末トラベルミステリーと言い直しましょう。作中人物もそれぞれ個性が立っており、最後まで面白く読了したのでありました!
 


Re: 「呪いの聖域」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 5日(土)20時03分1秒
返信・引用 編集済

  > No.4169[元記事へ]

かんべさん
 到着したとのことで安心しました。でも新世紀的感覚からすると、放送そのものがかなり緩いんですよね。特にCM。ただしショートショートコーナーは今聴いても有益で聴き応えがありました。お楽しみに〜。

高井さん 雫石さん
 高井さんがアップしてくれた藤本泉のSF短編によりますと、「10億トンの恋」のみが単行本に収録されなかったのですね。それは著者の作風からすると異質な話だったからかもと思いました。そう想像したのはアンソロジー『夢の中の女』の副題が「ロマンSF傑作選」だからなんですが。検索してもこの短編の感想は見当たらないですね。雫石さんの「SFマガジン思い出帳」を楽しみに待ちたいと思います。

 ところで私も色々検索してまして、『呪いの聖域』は76年度の直木賞候補だったのですね(受賞作はナシ)。で、同年出版された『ガラスの迷路』が翌77年に推理作家協会賞候補になっています。すなわち76年時点ですでに著書も数冊あり、いわば注目の新進作家であったんだろうと想像されます。(ちなみに66年「媼繁盛記」で小説現代新人賞受賞。71年「地図にない谷」の原作で乱歩賞候補)
 ところがそんな著者が、同77年『時をきざむ潮』で江戸川乱歩賞を受賞しているのです。乱歩賞は公募賞ですから、既に直木賞候補作家という金看板を背負った著者が公募に応じているのです。実は『呪いの聖域』も75年乱歩賞応募作品なんですが(それが祥伝社から出た経緯も知りたいところ)、時系列が微妙なところで、直木賞の結果が出る前に応募した可能性もあるとはいえ、直木賞なぞ屁とも思ってなかったのかも。
 では乱歩賞命の人かといえばそうでもなさそうで、乱歩賞を取ると受賞第一作は小説現代に短編を発表しなければならないという暗黙の義務が発生するのですが、著者はそれが気に入らない(長編を書きたい)と無視しているんですね(恐らく乱歩賞史上唯一の例)。そのせいか、講談社との縁はしばらく途切れるのです。出版社の囲い込みなぞ歯牙にもかけないのです。出版社の言うことなんか聞かないぞ、てなわけです。囲い込まれて羊になるくらいなら荒野の狼でありたい、と著者は考えるのです(これは私の想像(^^;)。いや実にさっそうたる快女ぶりではありませんか。まあそれだけ自作に自信があったんでしょうね。
 


CD拝受

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2013年 1月 5日(土)18時12分49秒
返信・引用

  本日昼間は、SFとは関係ないけど、広告研究会同期の新年会。
一杯機嫌でもどったら、CDが着いておりました。ありがとうございます。
説明書によると、いろいろ由緒ある録音とのこと。心して聞かねば、です。
こちらの音源、小松・筒井・半村は、明日は郵便局が休みなので、
月曜に送らせていただきます。地蔵堂(←うぷっ)に宛てて。それにしても、
桂春蝶(父親)の「男と女でダバダバダ」のコピーも人からもらい、
あの頃のラジオはおもしろかったなあと、これは老いの繰り言慎一郎か。
ともあれ、とりいそぎ御礼まで。

 


Re: 「呪いの聖域」読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 1月 5日(土)09時10分39秒
返信・引用

  > No.4168[元記事へ]

> 「十億トンの恋」はSFマガジン1972年8月号162に掲載されています。
 あ、そうでしたか。ということは、私は中学3年ですね。「SFマガジン」読み始めて、間もないころです。
> この号は「マッドSFの作家ラファティ」ということで、ラファティ特集でした。
 これは覚えていないです。あのころ、まだラファティの魅力がわかってなかったような気がします。
 


Re: 「呪いの聖域」読了

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2013年 1月 5日(土)05時17分19秒
返信・引用

  > No.4166[元記事へ]

「十億トンの恋」はSFマガジン1972年8月号162に掲載されています。
この号は「マッドSFの作家ラファティ」ということで、ラファティ特集でした。
この号、4月ごろ、私の「SFマガジン思い出帳」
http://homepage2.nifty.com/sfish/seigun/archives.htm
で取り上げる予定です。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 


Re: 「呪いの聖域」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 5日(土)00時58分43秒
返信・引用

  高井さん
「10億トンの恋」は読んでないかもです。私がSFMで初めて読んだのは「引き裂かれた街」でしたね。日本が東西に分裂国家になっている世界での話。あと「紙幣は吹雪のごとく」も読みました。こちらは東京の都市ゲリラの話だったと思いますが、ビルの屋上から紙幣をまき散らすシーンだけ記憶に薄ぼんやりと残っています。
 今調べたら「日本SF全集」に藤本泉は収録されていないのですね。ほんと、もったいないですねえ。きちんと「SF作家」として評価してほしい作家だと思います。
 


Re: 「呪いの聖域」読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 1月 4日(金)23時50分29秒
返信・引用

  > No.4165[元記事へ]

>  昨日は地下鉄で眠り込んでしまい、気がついたら駒川中野。
 酔っ払って乗り越しちゃうのは、これまでに3回くらい経験したような……。焦りますよねえ。
 さて、本題。
 藤本泉さんの長編って、読んだ記憶がありません。
 印象に残っているのは「SFマガジン」に掲載された「十億トンの恋」です。中学生だったか高校生になっていたか。女性のSF作家が珍しい時代でしたので、「おおーっ」となりました。
 調べてみたところ、この作品は石川喬司・伊藤典夫編のSFアンソロジー『夢の中の女』ベストブック社(76)/旺文社文庫(84)に収録されているだけのようです。もったいないなあと思います。
 


「呪いの聖域」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 4日(金)16時32分28秒
返信・引用 編集済

   昨日は風の翼新年会。いや飲み過ぎた。ふつか酔いで午前中はこたつに逼塞していました。
 昨日は地下鉄で眠り込んでしまい、気がついたら駒川中野。あわてて飛び降りるも逆向きの電車はすでに終わっている。地上に上がりなかなか通らないタクシーをようよう捕まえて天王寺まで戻ったのでしたが、半分がた今夜はサウナで一泊かと覚悟しました。しかし奇跡的に最寄り駅に停車する最終最後の電車に乗ることができ、ことなきをえました。
 しかしどうも酒に弱くなってしまいました。
 実は去年の某忘年会でも、地下鉄を寝過ごし阿倍野で飛び降り、やはり逆向きはもうなくタクシーを拾ったのでしたが、こちらは一駅乗り過ごしのワンメーターの範囲ということで、ちょっと心配したのだが、いいドライバーさんで逆に猛然とふっ飛ばしてくれ一瞬に天王寺に帰り着いたのはとてもありがたかった。
 かくのごとく二回連続で乗り過ごしはちょっとやばいのではないか。まあ綱渡りで二度とも帰宅できたというのは運が強い証拠とポジティブに考えることにしましょう。

 ということで午後になってようやく頭も体も働き出し、藤本泉『呪いの聖域』(ハヤカワ文庫79、元版76)読了。
 私は、読む前は東北の道の奥にひっそりと隠れ存する蝦夷の国を「正義」とし、対して日本人の国を悪として断罪する、そのような話かと思っていたのですが、いやそんな単純なエンタメ小説ではありませんでした。
 その国、雪花里(つがり)は和人が進出してきた6、7世紀から頑として和人を受け入れず、江戸時代にいたっても年貢を納めず、ずっと密かに独立性を維持し続け現代に至っている。その制は古代以来の母権制でとてつもない超能力を有している(ようです)イタコによって率いられている。主人公はその地での近親婚によって生れ、母とともに八分に追い出されるも遣り手の不動産王の実子として跡取りとして育てられる。
 不審な死に方をした父が最後にやりかけてやり残した仕事は、雪花里の広大な土地の購入だった。その地が自分の故郷だとはつゆ知らずに主人公は、その仕事を引き継ぐが……。やはり横溝的なドロドロした血の土俗性、閉鎖性が色濃いです。

 平谷美樹さん描く蝦夷は、どちらかというと和人より合理的開明的だったりしますが(照天神社シリーズはちょっと違うかも)、こちらの蝦夷は、全く現代人の視点からは理解了解不能な異世界人です。ある意味、ブードゥーやカンドンブレのような呪術が実効性をもって作用するそんな世界です。
 しかし、だからといって、それを「前近代」「悪」として断罪する筆致ではありません*。そういう世界としてあるがままに受け入れているようなんですよね。すなわち「近代」だけが唯一の正しい世界観ではない、そういう感じを受けました。
 続編を読んでいけば、もっとはっきりしたものが見えてくるんじゃないでしょうか。しかし、昨日梅田で、買い忘れていた『薮の奥』をようやく入手しましたので、先にこっちに掛かりたいと思います。藤本蝦夷観に浸ったあとで、平谷蝦夷観に接するのも、また面白いのではないかなと思うので。

*でも浅く読む人はそう受け取ってしまうかも。
 


「呪いの聖域」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 3日(木)13時32分13秒
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   『呪いの聖域』に着手しました。いうまでもなく藤本泉のえぞ共和国シリーズ第1巻。これがなかなか入手困難で、他の4作はとっくに集まっていたのですが、本書は本当に見つからなかった。年末ようやく捕獲に成功しましたので、いよいよ読み始めた次第。
 現在180頁。もう半分読んでしまいました。面白い。面白いからすらすら読めるという面もありますが、それ以前に、文章や構成が練りに練られ削りに削られているからでしょう。それは先日の光瀬さんにも思ったことでしたが、やはり第一世代の表現力を基準にすると、最近の作家のそれは確実に緩んでいますね。そうかそれでこの頃読み終わらずに放り出す本が増えてきたんだな老化でこちらの集中力が低下したからではないんだな(>いやそれもある)(汗)
 閑話休題。出だしは横溝正史を彷彿とさせます。岡山ならぬ津軽の土俗的な雰囲気が濃密に立ちこめます(気味の悪い数え唄も同じ)。いや本土の岡山の比ではないですね。こちらは白河以北のドン突き、なにしろ(本文中に何度も出てくる)「神武天皇様より古い」人々の土地なのですから。と言う次第で、物語は、主人公がイタコの口寄せを受けに恐山にむかったところであります。

 今日は吉例風の翼新年会につき、もう少ししたら出発します(^^)
 


「ウォッチメン」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 2日(水)00時02分43秒
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  > No.4162[元記事へ]

高井さん
 昨年は大変お世話になり、ありがとうございました。今年もご一緒に色々楽しみたいと思います。よろしくお願いします。書誌情報ありがとうございます。かつてはショートショートアンソロジーみたいな本がふつうに出版されていたんですねえ。ショートショートの(出版サイドでの)衰退は、読者一般の読解力の衰退の反映であるような気がします。行間を読んだりアナロジーで飛躍して理解したりしなければいけない場合がありますから、書いてあることしか読み取れない読者にはちょっと難解なジャンルなのかも。

 さて、DVD「ウォッチメン」(09)を観ました。215分の大作。原作は比較的新しく、86年から87年にかけてDCコミックスから全12巻で出版されたもの。これは(もちろん面白かったのですが、面白いと云うよりも)傑作といいたいです。原作版が88年のヒューゴー賞(Other Forms Category)を受賞したというのもむべなるかな。
 話は複雑で、ちょっと要約できません。まず第一に、過去のDCコミックスのヒーローたちを知っている事が前提。そういう知識がない私は、頻繁に一時停止させてネットで確認しなければなりませんでした。
 で、物語は、ヒーローたちが実際に存在し活躍している平行世界が舞台。ヒーローたちはアメリカに協力してウォッチメンとして治安維持にあたっている(だから憎まれている場合もあるわけです)。ベトナム戦争はヒーローたちの派遣で勝利し、ニクソンは法改正し3期目に入っています。このニクソン役がそっくりさん(メーキャップでしょうが)。しかし国家が安定してくると、そこらへんの地回りと紙一重のヒーローたちは厄介者となってき、ヒーロー活動が禁止される法律ができ、殆んどのヒーローは一般人に戻り、過去の栄光との落差に神経を病んでいたりする。ヒーロー稼業をやめないものもいて、警察に追われながら不法ヒーローを続けていたりもする(このへんも苦い設定)。ひとり、事故で放射能を浴び、とんでもない能力を得てしまった者がいて、それは特別に政府によって囲い込まれている。彼の存在がソ連に対する絶対的な抑止力になっている。そんななか、かつてのウォッチメンが一人ずつ殺されていく。不審に思ったひとりの不法ヒーローが事実を探りに乗り出すのですが……
 いやこれは究極のヒーロー・ムービーにして、アンチ・ヒーロー・ムービーなのではないでしょうか。挿入曲としてボブ・ディランやS&Gが使われているところからもわかるように、制作者の立場はリベラルで反ニクソン(反レーガン)であり、ヒーローコミックを無自覚に愛読する層とは実は違うと思いますね。まさにSF必須の価値の相対化を体現した本格SF映画でした。堪能しました〜!
 


Re: 高井CD完聴

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 1月 1日(火)21時20分9秒
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   あけましておめでとうございます。

 ラジオドラマの感想をありがとうございます。
>  「眠れぬ森の美女」は出典わかりませんでした。
「小説推理」1987年5月号に「思いつき三番勝負」のタイトルでショートショート3編を寄稿しました。そのうちの1編です。のちに、小説推理編集部編のショートショート・アンソロジー『ショート・ショート劇場D』(双葉文庫/1987年6月発行)に収録されました。ラジオ局の方が読んだのは、おそらくアンソロジーと思います。私個人の作品集には収録されていません。(正確に言うと、ファンジン「通勤快速」第2号(1982年1月発行)掲載の原型がありますが)
 


「グリーンランタン」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 1月 1日(火)13時49分46秒
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   あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 さて新年早々、DVD「グリーンランタン」(11)を観ました。このヒーローは、マーベルコミックスと並ぶ人気を誇ったDCコミックス出身。グリーンランタン物語自体は1940年に開始されますが、本編の主人公ハル・ジョーダンは二代目で、1959年の登場。一代目と二代目の関係は希薄なようで、一代目は1951年でいったん終了します。8年ほど空白があったみたいですね。余談ですが必殺武器リングのエネルギー源がランタン(カンテラ)というところに、このヒーローの生まれた時代がしのばれます(^^;。
 本映画のハルがグリーンランタン部隊に加わるいきさつはほぼ原作どおり。ストーリーは銀河パトロール隊を思わせるもので、マーベルのヒーローものよりも、設定に奥行きがありますね。大変面白かったのですが、けっきょくハルはグリーンランタン(正義の組織ではありますが)に忠誠を誓い、組織の一員として働くのであり、これまで見てきたマーベルの一匹狼のヒーローたちよりも魅力では劣るのでありました。これはまあ銀河パトロール隊よりもスカイラークを好み、シートンよりもデュケーヌを好む個人的嗜好であり、作品の優劣とは無関係なので念の為。
 下は1959年二代目登場
 


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