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> No.4271[元記事へ]
斎藤さん
>ラテンアメリカ文学特集とか、石川淳の追悼特集(「蛇の歌」一挙掲載)も買いました。
あ、斎藤さんの読書傾向はそっちの方なんですか。私はラテンアメリカ文学は、ボルヘス以外は、全くといっていいほど読んでいません。いろいろ教えてきただけたらと思います(しかしボルヘスはラテンアメリカ文学なんでしょうか(^^;)
>もう死ぬほど期待してます。楽しみです。
どうぞお楽しみに〜!
豊田有恒『ふたりで宇宙へ』(ハヤカワSFシリーズ 70)読了。
『火星で最後の……』(66)全12編中2編
『アステカに吹く嵐』(68)全15編中11編
『ふたりで宇宙へ』(70)全17編中16編
この数字は何でしょうか? 主人公(視点人物)が「ぼく」や「おれ」等の、一人称で語られる形式の小説の割合です。第2作品集で一気に増え、本集では遂に「降るアメリカに」以外すべてこの形式になってしまいました。この移行は、要するに宇宙SFから社会SFへの移行を反映していると考えてよいでしょう。福島さんの期待に添おうとして結局スランプに陥ってしまった著者は、この一人称社会SFのプロソディを会得したことで復活することができたのではないでしょうか。
一人称社会SFといえば、一見、眉村さんの描く社会SFの世界とバッティングするように思われるかもしれません。結論からいえば、バッティングするどころか、かすりもしません。全然別の世界というべきです。
眉村さんの主人公である「ぼく」や「私」は、私小説のそれとは当然違っていて、一心同体の存在ではありません。しかしながら主人公の思考や行動は、少なくとも著者の全面ではないけれども、ある面を必ず反映して小説内に存在している。著者自身と完全に異質なキャラクターが「私」や「ぼく」として小説内にあらわれることはありません(ただしだからといって小説世界が即自的かといえば決してそうではない。昨日の眉村さんのインタビュー記事で、「正義は決して一つではない、というメッセージも織り込んでいる」と語っているように、対自的な存在は必ず小説内に存在し、作品世界に奥行きをもたらしているわけです。
対して豊田さんの社会SFの「おれ」や「ぼく」には、明らかに豊田さん自身は投影されていません。たとえば「家元時代」は一億総資格社会を風刺した作品で、一億総資格化の結果資格インフレを起こし無価値となった資格に変わって、「家元制度」が幅を利かすようになった社会で、家元制度でエリートになった主人公「おれ」が、その権威をカサに来てやりたい放題をする話なのだが、読者は誰もこの主人公に、反発は感じても、シンパシーは感じないでしょう。
「ザ・ガレージ・マン」も同様で、駐車場不足が深刻化した都心で、駐車場の駐車係が大会社の社長を凌ぐ権威を持っていて、実際、ラストはロールスロイスから降りてきた紳士が土下座し、「おれ」はこう言います「苦しうない。面を上げい!」。やはり読者はこの主人公に対して、苦々しい思いしか持たないはず。
豊田の手法は、一種の価値の転倒で、今(もしくは過去)の権威者を、未来において地に引きずりおろしてみせるところにあります。が、同時に、新しい権威者も、結局過去の権威者と同様に権威をカサに着てのさばり出すものだ、という認識もあって、それが主人公の行為に投影されるわけです。
この手法は、私には大変面白く感じられるものなのですが、主人公に同化して読むという旧来の読書行為をアプリオリに実行している読者にとっては、いささか受け入れがたいところがありそうです。正直なところ私にもその傾向があって、うっかりアプリオリを断絶せず自然的態度のまま読んでしまって、砂を噛む思いを味わわされる場合があります。その意味で豊田有恒は、ニューウェーブを読むように(もしくは新しい世界文学を読むように)読まなければならない作家なのかも知れません。
さて、唯一の非一人称小説である「降るアメリカに」は、以上のような読書行為の意識化といった認識の座標変換みたいな事は全く不要な、いわば唯一「小説らしい小説」で、こちらは構えることなく楽しみました。傑作! こういう作品も、豊田さんはさらっと書いてしまうんですよねー(^^;
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Re: 眉村さん情報「ねらわれた学園 正義は一つではない」
投稿者:斎藤 投稿日:2013年 2月27日(水)21時53分1秒管理人様
>わ、必要のない朝刊まで買わせてしまって、済みませんでしたm(__)m
いえいえ、とんでもございません。
夕刊を買えて、眉村さんの記事を読めたことがとても大事なことですので、本当にありがとうございます。
>『六道遊行』の石和鷹の解説を読むと、作家にとって書いたものを安心して託すことができる出版社(編集>者)があるかどうかという信頼関係が、いかに大切かよく分かります。「すばる」があったればこそ夷斎先生も
>「狂風記」も「六道遊行」も書き得たのではないでしょうか。眉村先生もこの点は同じで、原田社長の出版芸術
>社という存在がありますから、まだまだ普通に新作を発表してくれることは間違いありません。果たしてこの夏
>には新作短編集が出ます。どうぞご期待ください!
そうです、そうです、「すばる」でした。
「すばる」は結構買ってました。
ラテンアメリカ文学特集とか、石川淳の追悼特集(「蛇の歌」一挙掲載)も買いました。
もう今では全く買っていないことに気付きました。懐かしい文芸誌です。
眉村さんの新作短編集、又々貴重な情報ありがとうございます。
もう死ぬほど期待してます。楽しみです。