ヘリコニア過去ログ1302

「ふたりで宇宙へ」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月27日(水)22時23分2秒
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  > No.4271[元記事へ]

斎藤さん
>ラテンアメリカ文学特集とか、石川淳の追悼特集(「蛇の歌」一挙掲載)も買いました。
 あ、斎藤さんの読書傾向はそっちの方なんですか。私はラテンアメリカ文学は、ボルヘス以外は、全くといっていいほど読んでいません。いろいろ教えてきただけたらと思います(しかしボルヘスはラテンアメリカ文学なんでしょうか(^^;)

>もう死ぬほど期待してます。楽しみです。
 どうぞお楽しみに〜!

豊田有恒『ふたりで宇宙へ』(ハヤカワSFシリーズ 70)読了。
 『火星で最後の……』(66)全12編中2編
 『アステカに吹く嵐』(68)全15編中11編
 『ふたりで宇宙へ』(70)全17編中16編
 この数字は何でしょうか? 主人公(視点人物)が「ぼく」や「おれ」等の、一人称で語られる形式の小説の割合です。第2作品集で一気に増え、本集では遂に「降るアメリカに」以外すべてこの形式になってしまいました。この移行は、要するに宇宙SFから社会SFへの移行を反映していると考えてよいでしょう。福島さんの期待に添おうとして結局スランプに陥ってしまった著者は、この一人称社会SFのプロソディを会得したことで復活することができたのではないでしょうか。

 一人称社会SFといえば、一見、眉村さんの描く社会SFの世界とバッティングするように思われるかもしれません。結論からいえば、バッティングするどころか、かすりもしません。全然別の世界というべきです。
 眉村さんの主人公である「ぼく」や「私」は、私小説のそれとは当然違っていて、一心同体の存在ではありません。しかしながら主人公の思考や行動は、少なくとも著者の全面ではないけれども、ある面を必ず反映して小説内に存在している。著者自身と完全に異質なキャラクターが「私」や「ぼく」として小説内にあらわれることはありません(ただしだからといって小説世界が即自的かといえば決してそうではない。昨日の眉村さんのインタビュー記事で、「正義は決して一つではない、というメッセージも織り込んでいる」と語っているように、対自的な存在は必ず小説内に存在し、作品世界に奥行きをもたらしているわけです。

 対して豊田さんの社会SFの「おれ」や「ぼく」には、明らかに豊田さん自身は投影されていません。たとえば「家元時代」は一億総資格社会を風刺した作品で、一億総資格化の結果資格インフレを起こし無価値となった資格に変わって、「家元制度」が幅を利かすようになった社会で、家元制度でエリートになった主人公「おれ」が、その権威をカサに来てやりたい放題をする話なのだが、読者は誰もこの主人公に、反発は感じても、シンパシーは感じないでしょう。

「ザ・ガレージ・マン」も同様で、駐車場不足が深刻化した都心で、駐車場の駐車係が大会社の社長を凌ぐ権威を持っていて、実際、ラストはロールスロイスから降りてきた紳士が土下座し、「おれ」はこう言います「苦しうない。面を上げい!」。やはり読者はこの主人公に対して、苦々しい思いしか持たないはず。

 豊田の手法は、一種の価値の転倒で、今(もしくは過去)の権威者を、未来において地に引きずりおろしてみせるところにあります。が、同時に、新しい権威者も、結局過去の権威者と同様に権威をカサに着てのさばり出すものだ、という認識もあって、それが主人公の行為に投影されるわけです。

 この手法は、私には大変面白く感じられるものなのですが、主人公に同化して読むという旧来の読書行為をアプリオリに実行している読者にとっては、いささか受け入れがたいところがありそうです。正直なところ私にもその傾向があって、うっかりアプリオリを断絶せず自然的態度のまま読んでしまって、砂を噛む思いを味わわされる場合があります。その意味で豊田有恒は、ニューウェーブを読むように(もしくは新しい世界文学を読むように)読まなければならない作家なのかも知れません。

 さて、唯一の非一人称小説である「降るアメリカに」は、以上のような読書行為の意識化といった認識の座標変換みたいな事は全く不要な、いわば唯一「小説らしい小説」で、こちらは構えることなく楽しみました。傑作! こういう作品も、豊田さんはさらっと書いてしまうんですよねー(^^;
 

Re: 眉村さん情報「ねらわれた学園 正義は一つではない」

 投稿者:斎藤  投稿日:2013年 2月27日(水)21時53分1秒
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  > No.4270[元記事へ]

管理人様
>わ、必要のない朝刊まで買わせてしまって、済みませんでしたm(__)m
いえいえ、とんでもございません。
夕刊を買えて、眉村さんの記事を読めたことがとても大事なことですので、本当にありがとうございます。

>『六道遊行』の石和鷹の解説を読むと、作家にとって書いたものを安心して託すことができる出版社(編集>者)があるかどうかという信頼関係が、いかに大切かよく分かります。「すばる」があったればこそ夷斎先生も
>「狂風記」も「六道遊行」も書き得たのではないでしょうか。眉村先生もこの点は同じで、原田社長の出版芸術
>社という存在がありますから、まだまだ普通に新作を発表してくれることは間違いありません。果たしてこの夏
>には新作短編集が出ます。どうぞご期待ください!
そうです、そうです、「すばる」でした。
「すばる」は結構買ってました。
ラテンアメリカ文学特集とか、石川淳の追悼特集(「蛇の歌」一挙掲載)も買いました。
もう今では全く買っていないことに気付きました。懐かしい文芸誌です。

眉村さんの新作短編集、又々貴重な情報ありがとうございます。
もう死ぬほど期待してます。楽しみです。
 


Re: 眉村さん情報「ねらわれた学園 正義は一つではない」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月27日(水)00時45分21秒
返信・引用 編集済

  斎藤さん
 わ、必要のない朝刊まで買わせてしまって、済みませんでしたm(__)m
 眉村さんは来年の10月20日で80歳ですね。私が初めて眉村さんの本(『準B級市民』)を購入したのが1970年6月6日の土曜日、当時千里丘にあった毎日放送ではじめてナマ眉村さんを見たのが71年4月29日(木)でした(この日は海野さんや雫石さんもいらしてました)。してみるとその当時はまだ30代後半だったんですね。今でもよく覚えているのが歩き方で、腰からスッ、スッと歩かれる姿はいかにも柔道家という感じでした。それから40有余年、はるけくもきつるものかなですねえ(^^;
 『六道遊行』の石和鷹の解説を読むと、作家にとって書いたものを安心して託すことができる出版社(編集者)があるかどうかという信頼関係が、いかに大切かよく分かります。「すばる」があったればこそ夷斎先生も「狂風記」も「六道遊行」も書き得たのではないでしょうか。眉村先生もこの点は同じで、原田社長の出版芸術社という存在がありますから、まだまだ普通に新作を発表してくれることは間違いありません。果たしてこの夏には新作短編集が出ます。どうぞご期待ください!
 


Re: 眉村さん情報「ねらわれた学園 正義は一つではない」

 投稿者:斎藤  投稿日:2013年 2月26日(火)22時16分47秒
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  > No.4268[元記事へ]

管理人様、段野様、貴重な情報ありがとうございました。
私も朝刊と夕刊を買っちゃいました。
私は神奈川県ですが、夕刊にちゃんと掲載されていました。
眉村さんは間もなく80才なんですね。
良く考えてみれば当たり前なんですが、何か驚きです。
私が眉村さんの「ねらわれた学園」を始めとするSFジュブナイルものを夢中になって読んだいたのが、12,3才の頃で、今から36年前です。
当時眉村さんは40代で、単行本に写る著者近影や、秋元文庫の腰巻についていた眉村さんの似顔絵の印象で、私の頭の中では、眉村さんは永遠に40代のイメージだったのでした。
今更ながら、間もなく80才という文章を読んで、何となくショックを受けてしまいました。
私のイメージでは、80才で現役の小説家というのは、「狂風記」「六道遊行」の頃の石川淳で、当時、大変なお爺さんだなあと思いながら、読みづらい旧かな使いの文章を読んだことが印象に残っています。
眉村さんもそんな年になってしまったのかと、改めて思ってしまいました。
でも、眉村さんも石川淳のように80才を過ぎても、普通に新作を発表してくれると思っています。
 


眉村さん情報「ねらわれた学園 正義は一つではない」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月26日(火)19時31分6秒
返信・引用

  段野さん
 私もコンビニで朝刊を購入し、駐車場に戻って紙面を開いたときはアチャーと思いました(^^;
 が、すぐに、実は夕刊だったのに勘違いしていたかも、と気づき、コンビニのお姉さんに取り置きを頼もうとしたのですが(まあそれくらいの面識はあったのです)、コンビニでは夕刊を扱ってないことを思い出し、かくなる上はカコナールと(古っ)、夕方、朝日の販売所(ASA)に行って入手しました〜(^^ゞ

 掲載の写真がいいですねえ。長髪をやめられたのかな、ばさっと散髪されて、なんか精悍になりましたねえ。ハードボイルド映画の主人公みたいで格好良くないですか。エントラップメントなんかぴったりではありませんか(笑)。あ、(笑)をつけると冗談ぽくなりますね。ぜんぜんそんなことはありません。マジにそう思いました(笑)>おい(^^;
 「僕は、作品に自分の経験を投影したいタイプです」と語っておられます。最近のインタビューでは必ずこれを言っておられますね。そういう作風だから、読者に於いても、読者自身の「経験」が反応して、はっとさせられたりするんですよね。読者に経験が多ければ多いほど、眉村作品は豊かに読者に迫ってきますよね。
 


朝日新聞

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 2月26日(火)17時42分28秒
返信・引用

  管理人様
眉村さんのインタビューは夕刊でした。
明日、図書館に行きますと、前日の夕刊が見られます。ご参考に、よろしくお願いします。(お話は「ねらわれや学園」です)
 


朝日新聞

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 2月26日(火)14時29分38秒
返信・引用

  管理人様
本日26日の朝日新聞ですが、どうも大阪版にインタビューが載っているみたいですね。私の読むのは阪神版ですので、ありませんでした。残念。
眉村さんの人生相談は月2回ぐらいのペースでだされます。過去の記憶からすると、とてもまじめに答えておられましたが。ただ、ちょっとSFに奔りかねないところが見受けられますので、この答に納得できない方には受けないかもしれません。でもそんな場合でも、最後に、「こんな回答ですみません」という断り書きが必ずあるのです。そのあたりが、人柄を表しているようで、なんだかほっとする気分で読まさせていただいています。
 


Re: 眉村さんの「朝日新聞」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月25日(月)20時05分25秒
返信・引用 編集済

  段野さん
 読売の人生相談、復活されていたんですか? ちっとも知りませんでした。
 いや眉村さんが人生相談やっておられるのを読むのって、なんか気恥ずかしいやないですか。そんなことないですか? 一体どんな「それらしい」回答をされているのかと、なんかムズムズしてきそうで(>おい(^^;)、敬して遠ざけておったわけです。
 いま検索したら、それは私の思い過ごしだったみたい。
 こことかこことかを読むと、やっぱりカゴメはカゴメ、いや眉村さんは眉村さんですね、ずいぶんユニークな(ある意味辛辣な)助言をされているようです。
 ユニークすぎて合わない人もいるみたいですね。ていうか、そんな人は、通り一遍な甘々な回答を望んでいるんでしょうね。「よしよし」と言ってほしいんですかねえ。
 最初のリンク先の二人目のコメントに「いつも真剣で、適当な言葉でお茶は濁していないところは好感が持てます」とありますが、通り一遍な、聞く前から予想がつく回答がほしい人は、そこが合わないんでしょう。
 うむ、ちょっと興味が出て来ました。
 段野さん、ずっとスクラップされているんだったら、それも貴重な資料ですよ!
 あ、だからといって送ってくれなくていいですよ。男のポケットもまだ手つかずなので、もし必要になったら、こちらからお願いしますので、そのときはよろしく〜(^^;
 


眉村さんの「朝日新聞」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 2月25日(月)15時42分53秒
返信・引用

  管理人様、以前、読売新聞での眉村さんの「人生相談」が再開されたときには、私は図書館に走りました。そこには当日の各社新聞がおいてあるので、コピーした訳です。これなら10円ですみました。ご参考までに、よろしくです。(ちゃんと買え、と言われそうですけど)こんな使い方もありな、図書館です(本屋の敵かも)  


眉村さん情報「<捩子>掲載作品○完全リスト」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月25日(月)12時20分53秒
返信・引用 編集済

 



 


眉村さん情報「朝日新聞インタビュー」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月24日(日)21時45分35秒
返信・引用 編集済

   2月26日(火)の朝日新聞朝刊に、眉村さんのインタビュー記事が掲載されるそうです。朝日購読者はお忘れなく〜。私は朝、コンビニに走る予定(^^)

 さて、途中で眼の調子が悪くなって中断していました、眉村さん26歳のときの処女短編小説「くすぶっている」のテキスト化、ようやく完了しました!(「捩子」37号所収)

 いやこれは面白かった。前半はコンデンストノベルかと見紛う凝りまくった文体に驚かされましたが、初発表小説ということでか、眉村さんもかなり肩に力が入っています。前半は詩小説。後半は私小説。プロになってからの、つまり眉村卓になってからの小説とは、かなり趣を異にしますが、眉村さんが初期の硬質な短篇から、主に角川文庫で出た中期ののびやかな短篇へ変化していった、その運動曲線(?)を、過去へ伸ばせば、たしかにこの処女短篇に至るのは間違いないですね。(一部お見せしましょう↓)

 もう二時間あまり書き続けていた。彼が日記と呼ぶその文は詩の時もあり、小説の時もあった。何の報酬も無い行為である。すくなくとも現在ではそうだった。明日のための文であった。いつ来るかわからない明日のための。
 彼はペンを置いた。疲れていた。翌日の仕事が待っている。これ以上は身体の方が許さなかった。向いの家の(管理人註:読経の)声はまだ続いている。進軍に似た灰色の回転車を彼は見ることが出来るように思った。彼は振り返り、妻の方へ声を掛けた。
「あの声はいつ頃止むんだろうね」
 返事は無かった。寝息が聞えて来る。スタンドからこぼれた光を顔半分に受けて、読みながら眠り落ちたらしい文学書を枕のそばに転がして妻は眠っていた。


 眉村さんの「捩子」掲載作品は、眉村卓50周年企画の一環として、冊子にしてもよいとのご許可が出ましたので、今年後半の発行をめざします。お楽しみにお待ちくださいね! なお、「チャチャヤング・ショートショート・マガジン」と同じ判型で、70ページを超える(昨年発行したパイロット版とほぼ同じボリュームの)ものとなりそうです。
 


Re: 『日本SF短篇50』について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月24日(日)17時21分31秒
返信・引用 編集済

  > No.4260[元記事へ]

堀さん
 示唆的な例をお示しくださってありがとうございます。
 寡聞にして堀さんが推挙なさった5作品の内、私は山之口洋「最後のSETISSION」しか読んでいないのですが、「最後のSETISSION」は傑作でしたねえ! ここで紹介したばかりですが、半世紀の日本短編SF史を通観しても、ベスト5に余裕で入るのではないでしょうか。
 いやもちろん私個人のベスト5ということで、客観性を強弁することはいたしません(^^;
「収録作の違いを見るのが楽しみ」というのもおっしゃるとおりで、それは言い換えれば選んだアンソロジストの傾向を楽しむ面白さということにもなりますね。
 その意味で、『短編ベストコレクション 現代の小説20**』も文芸協会編となっていますが、団体名を選者にクレジットしますと、日下さんが使われた文脈とは違いますが、やはり「「客観的な評価」という錯覚が生じ」やすいように思います。堀晃・○○・△△編としておけば、堀さんの「眼」の確かさも読者によって検証され得るわけですから、すべからくアンソロジーの類は団体名ではなく、実際の編集者名をクレジットすべきと思いました。
 残りの4作品も、図書館でさがして読んでみたいと思います。

 話は変わりますが、ふと思いついて検索してみました。
 『短編ベストコレクション 現代の小説20**』は、別に日本文芸家協会員でなくても選んでもらえるみたいですね。最新の2012年版の収録著者を、協会ホームページ会員名簿で確認したら、以下となりました。
 ○浅田次郎 男意気初春義理事(おとこいきはるのとむらい) 天切り松 闇がたり
 X石田衣良 蜩(ひぐらし)の鳴く夜に
 ○大沢在昌 区立花園公園
 X大西科学 ふるさとは時遠く
 ○恩田 陸 台北小夜曲(タイペイセレナーデ)
 X海堂 尊 被災地の空へ――DMATのジェネラル
 ○角田光代 わたしとわたしではない女
 ○窪 美澄 星影さやかな
 ○今野 敏 監察 横浜みなとみらい署暴対係
 ○佐藤愛子 雨気(あまけ)のお月さん
 X篠田節子 トマトマジック
 ○谷村志穂 ストーブ
 X筒井康隆 つばくろ会からまいりました
 ○中島京子 妻が椎茸だったころ
 Xねじめ正一 ケーキ屋のおばさん
 X間瀬純子 揚羽蝶の島
 X三崎亜記 私
 X三島浩司 ミレニアム・パヴェ
 ○森 絵都 竜宮
 ○森 浩美 車輪の空気
(X印が非協会員)

 ほぼ半数が非協会員の作品です。SF作家クラブの選考基準とは前提が違うわけで、どっちがどっちということはいえない。文芸家協会のほうが候補を広く拾える分、より客観的とはいえます。しかし協会員にすればなんで非協会員の作品を選ぶのか、という反応はあるかも。その意味でSF作家クラブは会員に対してやさしく保護的ではありますね。

 さて、昨日は畸人郷例会。久々の出席で、楽しいひと時でした。巽さんの最近のツイートが難しくてよく分からなかったのを、解説してもらってちょっと理解できたかな(笑)
 うまく行けば三、四か月先あたりでオールディスを読書会の課題にできそう。ちょっとたくらんでみました(^^;

 ジュンク堂で、買いそびれていた、眉村卓『駅と、その町』、高野史緒『ベネツィアの恋人』、平谷美樹『風の王国(6)隻腕の女帝』、同『お化け大黒ゴミソの徹次調伏覚書を購入。
 
 


Re: 『日本SF短篇50』について

 投稿者:堀 晃  投稿日:2013年 2月24日(日)06時50分51秒
返信・引用

  > No.4258[元記事へ]

ついでだから、ぼくもアンソロジーの編纂について経験的なことをちょっと書かせていただきます。
ぼくが年間傑作選の編纂に関わったのは、文芸家協会編『短編ベストコレクション 現代の小説20**』のタイトルで徳間文庫から出ているものです。
ミステリーと時代小説はそれぞれ年間傑作選が出ているから、それ以外のジャンルの傑作選です。ですから、いわゆる中間小説全般です。そのうち、SF、ファンタジー、ホラーなどの担当がぼく。むろん他のジャンルの作品も読みます。リストアップされるのは500篇以上あり、そのほとんどを読みました。
編者は他に、清原康正氏、長谷部史親氏、さらに大河内昭爾、内海隆一郎、出久根達郎、村松友視さんらがゲスト的に参加されました。

ちなみに、この委員は長年、眉村さんが務められておられましたが、ご指名を受けてぼくが引き継いだもの。先世紀末ですから、理由はわかりますよね。
こんな機会がなければ、これほど大量の短編を読まなかったでしょうし、内海隆一郎さんと小説の議論をすることなんてなかったでしょう。貴重な経験でした。

で、SF(とその周辺)から収録されるのは2、3篇。10篇ほど推薦して絞り込んでいくわけです。他のジャンルのも読んでの上ですから、これは辛いところがあります。
で、以下が、ぼくが委員を務めた5年間の、SFでこれだけは外せないと主張したベスト短編です。

2001年 菅浩江「五人姉妹」
2002年 山之口洋「最後のSETISSION」
2003年 森岡浩之「光の王」
2004年 牧野修「電獄仏法本線毒特急じぐり326号の殺人」
2005年 かんべむさし「幻夢の邂逅」

これ、『日本SF短編50』とはほとんど重ならないんじゃないかな。
むろん優劣をいうのではありません。収録作の違いを見るのが楽しみな。

特にかんべさんの短編は発表誌がマイナーでしたが、氏の数多い短編の中でもベスト級の傑作。これを収録できたのは自慢してもいいと思っています。
 


ボーナストラックはいらない

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月23日(土)13時14分18秒
返信・引用 編集済

  「最近むかつくのがボーナストラック」(猫を償うに猫をもってせよ)

 私も、小谷野さんとはちょっと意味が違うかもしれませんが、CDのボーナストラックは要らんなと、いや、むしろ無いほうがいい、と、近頃思うことがありましたので、まさに我が意を得たり。
 ここのところキャメルを、「スノーグース」と「ミラージュ」と「ムーンマッドネス」の3枚を交代交代に聴いていました。3枚と書きましたが、正確にはyoutubeのフルアルバムです(ただしスノーグースは日本では視聴不可になってしまいました)。
 もちろんこの3枚ともLPでは持っています。が、昨今LPはやはり使い勝手が悪い。加うるにパソコンのスピーカーをレベルアップしてからは、むしろパソコンのほうが音が良くなったこともあって、いまやパソコンの前が主たる音楽空間になってしまいました。そういう次第でyoutubeにフルアルバムが存在する場合は、たとえLPを持っていてもそっちで聴いてしまいがちです。

 youtubeのフルアルバムはだいたいCDからアップされていまして、ところが昔のLPアルバムをデジタルCD化したものは、大抵の場合オマケのボーナストラックが入っています。
 これ、ありがたいようで全然嬉しくないんです。
 そもそもアーチストがオリジナルアルバムを制作するとき、当然アルバムとしてのトータルなイメージが頭のなかにあって、それを可能なかぎり実現するため、曲を作りアレンジし、曲順も考えたりして、アルバムを制作していることは間違いありません(お仕着せのアイドルは別です)。
 とりわけプログレッシブバンドは、デフォルトで組曲のようなトータルアルバムを構想して制作していて、全体で一曲というイメージですから、ラストは第一テーマが再現されていたり、壮大な終幕であったり、感動がそこでクライマックスになるよう作り手も凝りますよね。当然オーディエンスもそのようなものを全体として期待して聴くのです。
 ところがCD化されて、ボーナストラックが終章の後ろに付きます。聴いている方は、演者のコンセプトを理解してその流れにしたがって気持ちよく聴き、音が全て消えた所で、ああ聴き終わったよかったなという思いに浸っている――ところへ、また音楽が始まっては、あれれれ、となってしまう。直前の完了感クライマックスは何だったのだと。しかもボーナストラックってオリジナル盤に採用されなかった別テイクだったり、デモテープの音だったりする場合もある。壮大な組曲が終わったあとに、そんな半端な音は聴きたくない。ぶちこわしですらある。
 キャメルのこの3枚は特にひどくて(つまりオマケが充実していて)、「ミラージュ」はオリジナル38分弱のあとに、ボーナストラックが更に20分あります。一般的なLP片面分相当です。「ムーンマッドネス」に至っては、オリジナル39分に対して、ボーナスが32分! 初期のビートルズのLPだったらもろ1枚分ですがな(笑)。なんだかなあ、と思うわけです。
 もちろんこれはyoutubeの問題ではなくて(それは個人的な事情であって)、CDの販売戦略の問題ですね。詰め込んで量を増やして、お買い得だから買え、というものではないのではないでしょうか。トータルアルバムのボーナストラックは、ミュージシャンのトータルコンセプトを台なしにしてしまっていると思います。

 とかいいつつも、それでもやっぱりLPじゃなくyoutube(が利用できる場合は)で聴いてしまうんですがね(^^;

『ふたりで宇宙へ』は130頁。ちょうど半分。

 久しぶりに畸人郷に出席するつもりですので、今夜は書き込みできないかもしれません。

 
  
 


Re: 『日本SF短篇50』について

 投稿者:日下三蔵  投稿日:2013年 2月23日(土)02時08分57秒
返信・引用

  日下三蔵です。

雫石さん

実は平井和正さんの作品は私も入れた方がいいと思って「退会会員も対象にしてはどうですか」と提案しましたが、「現会員の作品だけでも入りきらない人が出てくるし、ご自分の意志で退会されているわけだから」と説明されて引き下がらざるを得ませんでした。

作家クラブには「死ぬと会員資格を失う」という規約はないですし、物故会員は退会してからあの世へ行かれたわけではないので、退会会員と同列ではなく、今回のアンソロジーではもちろん対象となります。正確には「(会員資格を有したまま)物故(した)会員」です。

どなたが該当するか判りませんが、仮に退会されてから亡くなった方がいるとすれば、その人は対象にならない理屈です。


また「このミス」などのベストテン本でもそうですが、投票結果を集計してランキングを作成してしまうと、どうしても「客観的な評価」という錯覚が生じるようですが、本来、小説の順位付けに客観などはありえません。どこまでいっても主観の集合なのです。

投票者が入れ替わればランキングもガラリと変わるはずだし、アンソロジストが入れ替わればアンソロジーの収録作品もガラリと変わるはずでしょう。

まったく読んでいない人にはランキングも参考になるでしょうが、ある程度ご自分でも読まれている方は、順位をどうこう言うよりも、個々の投票者のコメントを読んで自分と好みの合う人合わない人を見つけ、読んでいない本なら手に取るかどうかの判断材料にする、読んでいる本なら自分の評価とどう違うか確認して楽しむ、といった使い方をされるが吉と考えます。

「SFマガジン」も「ミステリマガジン」も集計などしていなかった「私のベスト3」の頃には、皆さんそういう読み方をしていたはずです。

順位としてのランキングは、「第○位!」と帯をつけて売上げアップを図りたい版元と、自分ではまだ面白い作品、好きな作家をそれほど見つけていないジャンル初心者にとってはそれなりに有用で存在意義は大いにありますが、ランクインしている作品の大半をきちんと読んでいるマニアにとってはあまり意味がないと思います。

そう考えると投票者は「玉石混交」でも別に問題はないのではないでしょうか。その人が玉か石かを客観的に判断できる人はいません。そこそこ読んでいるだろうと推定できる人にアンケートを依頼するしか手段はないのです。
 


Re: ラジオ深夜便

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月22日(金)22時29分39秒
返信・引用 編集済

  > No.4256[元記事へ]

段野さん
 アドバイスありがとうございます。実際の放送日は3月31日でわかっているのですが、眉村さんのエッセイが朗読されるかどうかが、雑誌には記載がないのですよね。
 したがって録音を考えられている方がいらっしゃいましたら、朗読されない場合も想定して、溶かされる前に確保しておく安全対策は必要かもしれませんね。
 ところで、泉大津がターゲットならば、このエッセイはとことん読み込んで、頭のなかに叩きこんで、呼吸を会得してしまうことをオススメします。まさにエッセイはこう書くべし、という名エッセイだと思います(笑)。
 


ラジオ深夜便

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 2月22日(金)20時40分18秒
返信・引用

  今更こんなことを言うのはなんですけど、「ラジオ深夜便」のテキストをお求めの方、お早い目に手に入れて下さいませ。4月になりますと、NHKのテキストは全部返品扱いになりますので、ひょっとしたら入手不可能になるかもしれません。実際の放送がいつになるのかはわからない以上、早めに手をうっておく方が確実かも知れません。実際は放送を確実におさえられたら一番なのですが。念の為、ということです。
それから、雑誌は溶かしてしまいますので、後追いは非常に難しいです。
 


眉村さん情報「ラジオ深夜便」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月22日(金)18時03分50秒
返信・引用 編集済

   「ラジオ深夜便」3月号が届きました。
 さっそく眉村さんのエッセイ「十七音の風景」(24)を拝読。
 このタイトルは連載コラム(?)自体のタイトルみたいですね。(24)は回数でしょう(末尾に「次号は大岡玲さんです」と付記されていますから)。したがってエッセイそのもののタイトルというのは別にないようです。
 本文の前に、

  バスを待ち大路の春をうたがはず
   石田波郷(三月三十一日放送)

 とあります。
 この雑誌、NHKの深夜番組「ラジオ深夜便」の雑誌版なのですが、番組では毎日一句、朗読するコーナーがあるのかな、誌面では3月1日から31日までの朗読予定の句が掲載されています(「誕生日の花と今日の一句」)。で、その31日に、上記の波郷の句が挙げられています。
 想像ですが、月の最後の回のみ、著名人に選句してもらい、あわせてエッセイもお願いします、という話なのではないでしょうか。で、3月は眉村さんに、ということになったのではないか。ひょっとしてエッセイも朗読されるのかしらん、と思って、雑誌には番組表も掲載されているので確認したところ、放送時間はAM4時過ぎのようです。ちょっとキビシイなあ。早起きの方、まだ先ですが、覚えておられましたらひとつラジオをつけてみていただければ幸甚であります。

 さてエッセイの内容ですが、この句から一種意識の流れ的に思い出したあれやこれやを書き留めたもの。原稿用紙にして4、5枚でしょうか。マンガ家をあきらめた眉村さん、高校に入って文芸部を希望するも存在しなかった(実は勘違い)。そこで俳句部に入ったところ、波郷の句をこれでもかと叩きこまれます。その後ビジネスマンとなるが文学の虫が復活しSFを書くようになり作家になる。その間俳句は細々とながら続けていて、その関係で俳人仲間とヨーロッパ旅行に。イタリアのホテルに着くと、高校時代共に俳句をやっていた奥さんから手紙が届いていた。波郷の死を知らせる手紙だった。その妻も亡くなって今年は11年目である――

 うーむ。足すものも引くものもない、お手本のような名随筆でありました。

 


Re: 『日本SF短篇50』について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月21日(木)20時48分10秒
返信・引用 編集済

  > No.4252[元記事へ]

雫石さん
「SFが読みたい2013年版」について、編集者ではない日下さんに尋ねられても困惑されるのではないですか(^^;
 管見ですが、アンケートの集計結果は全く無意味ですね。たかだか百人余りの集計では客観性もへったくれもありません。またアンケート自体がSFを定義していません*から、たとえ何百人の回答を得たとしても有意な傾向は現れないでしょう(ただ、個々人の回答を愚直に掲載した「アンケート全回答」は意味があると思います。それぞれのSF観や興味の偏りが推測できて面白いです)。

 ちょうどうまい具合に、いま、えぞ共和国つながりで勉強を兼ねて専門書をつまみ読みしているのですが、全く同構造の問題点が指摘されていましたので、折角ですから紹介しましょう。
 以下明石書店刊『日本近代化と部落問題』第一章「部落差別の三層構造と部落解放への視座」(領家穣)より――

 戦後の、現代に至る同和行政の端緒は1965年の「同和対策審議会答申」なのだそうですが、それの基礎となった「調査」が1963年に実施されます。実はこれがトンデモナイ調査だったのです。
 まだ眼の調子が思わしくなく、写すのが苦痛なので画像にします。まあ目を通して下さい。私もビックリしましたが、ひどいものです。(下画像参照)

 追記。うーむ。ちょっと見づらいですかね。そういえばOCR化できることを思い出したのでやってみました。正解率7割くらい。残り3割を訂正するくらい訳ありません(^^;
 <引用始>
すなわち、全国基礎調査では、別掲「調査票」に示す各項目が調査対象として取りあげられているが、それらの各項目については以下のような説明が付されている。
一 同和地区とは、当該地方において一般に同和地区であると考えられているものをいい、その範囲も一般にみとめられているひろがりとした。
二 地区名とは、当該同和地区のもっとも一般的に用いられている名称をいう。
三 旧市町村名とは、当該同和地区が、昭和10年3月以降市町村の配置分合などによりその属する市町村に移動があった場合の昭和10年3月当時の市町村名をいう。
四 戸籍とは、同和地区内の戸数をいう。
五 世帯数とは、同和地区内の世帯数をいう。
六 総人口とは、同和地区内に常住する人口をいう。
七 ”地区”人口とは、同和地区内に常住している”部落民”といわれる人口をいう。
八 混在率とは、”地区”人口を総人口で除したものをいう。
(以下略)
このように、一九六三年調査では、「同和地区」や「部落民」についてなんら明確な定義が与えられていないのである。そのため、同和問題を「地区集団」として捉えようとする場合、特定の地区を「同和地区」として同定するための具体的な手続きは一切抜きにしたまま、実際に調査を担当した各市町村職員の主観的な観念が投影される形で調査が実施されることになる。(34p)

 <引用了>
 かくのごとく、定義というものは一切なく、ただ従前の観念が「自明」なものとされているばかりなんですね。まさにお役所仕事の典型。その結果、調査は個々の調査員の「自明性(主観)」においてなされます。結果はいうまでもなく明らかで、「SFが読みたい2013年版」の集計結果みたいなものが作られ、それがその後の同和行政の根拠となるわけです。
 もちろんこんなものが現実に対応するはずがなく、打ち出される同和対策事業は実施されるやいなや矛盾や不整合が指摘され、後追いの修正、修正となるわけですが、いくらやっても定義が不定なのですから、いたちごっこなんです。そこで結局、同和団体に対して、これこれの金額を渡すから内部で処理してくれ、という行政得意の丸投げが一般化し、同和団体自体がそれに安住し甘い汁を吸う場合があったのは周知のとおりですね。これも問題ですが、そうさせてしまったのは、行政特有の「本質的な点でいわば他人事ゆえの無責任さがあった」(42p)からといえるわけですね。
 この本は、主に神戸地区での調査がなされており(「明治期における神戸新川地区の屠畜業」「明治・大正期のミナト神戸」)、いわば「モダン神戸」が明なら、その暗部の研究となっていますので、雫石さんも興味があるのではないでしょうか。

*定義は不可能だと言われそうですがそんなことはない。どのようにでも定義は可能です。何種類かの定義を示して、それぞれに回答を募っても面白いかも。

  クリックで拡大↓
 


「アステカに吹く嵐」(下)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月21日(木)18時00分13秒
返信・引用 編集済

  > No.4251[元記事へ]

承前。長々と書いてきたのは他でもなく、本書の諸作品が、著者のテレビ業界体験と密接に結びついたところから発想されているように思われたからであります。これは言い換えれば、知識小説の外面が目立つ著者の創作が、その内奥で実は私的体験をベースにしているということです。生き馬の目を抜くテレビ業界、アニメ業界を通過してきた著者の眼差しは、意外にアンビバレンツです。
 ただし悪しき影響もあって、それはテレビアニメの筆法が混入しているということ。とりわけキャラクターの設定にそれは顕著で、私はアニメの筆法と小説の筆法はやはり違うと思うのですね(この観点が、私がラノベを小説として読めない理由でもあるのですが)。アニメは作中人物をキャラとして一面で割りきってしまいます(又そうでなければならないのかもしれませんが)、しかし小説でそれをやると薄っぺらくなってしまうように私には感じられるのです。かかる引っ掛かりは本集全体に感じました(先走りますが、第三短編集『ふたりで宇宙へ』所収の「ハイファイ・パトロール」も、同じ引っ掛かりがあったのですが、こちらは最後に「もちろん判ってる」という一語が入り、それまでを相対化します。これなら私は納得します。奥行きが出来たからです)。

 そういう欠点がありながらも、著者の知識をアイデアに結びつける才能は、やはり非凡という他ありません。
「ボーリング・ボーリング」は、一種私小説の部分があるような印象を持ちました。もちろん部分的、分割的にですが。そんな気がしました。本編は無意識に押し込められた葛藤の解消をめぐる物語ですが、この小説自体が、著者自身の葛藤の(小説的)明示による解消を密かに目論むものだったように思われました。
「地震がいっぱい」は、当時未解明だった松代群発地震ネタ。時間と空間はそもそも同じものの別の現れ。時空連続体の歪みの結果、地震は時震に変換され、日本中、いや最終的には世界中のあらゆる地域が時域に置換され、地球にあらゆる時代が併在してしまう。ラストが壮大!
「シナリオ製造します」は、著者が身を置いたテレビのシナリオ業界の、その安普請な作りへのアンビバレンツな思いが出ているように思われます。
 三部作(なのかな?)の「サイボーグ王女」「アンドロイド処女」は、設定とも相まって、テレビアニメシナリオの筆法の欠点がそのまま出て、設定も展開も安易極まるのだが、「アメーバ妖女」は宇宙のサルガッソー海に引き寄せられた主人公が、そこで巣を張って待つ蜘蛛のように難破船を偽装した宇宙船に潜んだ宇宙妖怪(人間の美女に化けている)に絡め取られそうになる、いわばC・A・スミスが書きそうな話の宇宙版になっていて、これは結構楽しめました。
「改体者」は、光瀬龍張りの宇宙小説が最終パロディになってしまう。その意味では相対性が導入され重層的なのですが……。
「植民者」は、コブラ的な宇宙アニメものを想起させられます。受動的にアニメで見ればなかなかよくできた佳品だと思います。が、小説では細かい矛盾が気になってしまいます。やはりこれは映像化されて自立する作品ですね。
「タイム・ケンネル」も、テレビシナリオへのアンビバレンツな否定と肯定がない混ぜにあらわれていて、表面を読むと散漫ですが、著者の主体的な営為(私小説)として読むと、なかなか面白い。もっとも作中の鎮西八郎為朝は、私の大好きな歴史キャラなので、こんな偏頗な扱いではなく、本格的な長編時間SFで読みたかった。それにしてもツツムラ・ヤスタークって(^^;
「針の重なるとき」は、15頁30枚以上ですが構造はショートショート。最後までオチ(トリック)に気づかなかった。無念。芦辺拓のミステリを想起しました。
「写らない女」は純然たるショートショートですが、逆に1ページ目でオチが割れます。今日び殆んどの読者が見破ることでしょう。当時はこれで通用したのかしらん。
「妙なヤツ」もショートショート。こちらは意外にわたし的にはツボにはまった。
「消す」もショートショートですが、形式オチというか叙述トリックのSF版といいますか。
「アステカに吹く嵐」は120枚の中編。これもミステリ的なアイデア(オチ)。タイムパトロール員が歴史改変を修復しているつもりが……という話で、なるほど! と膝を打ちます。ただ、中編としてのストーリーは、ややかったるい。それは二重の意味でそうで、まず第一に上記ミステリ的なアイデア(オチ)自体が切れ味鋭い短編に向いているものなので、アステカ王国の滅亡を辿る本編のような長尺を要求される小説とは相性が悪い(トリックがはらむ矛盾が出やすい。何故二人共互いに気づかないのか、とか)。逆に、この物語はアステカ衰亡史という意味で、歴史小説的で、本来長編のアイデアでありますから、これを120枚にしてしまうと、「退魔戦記」と同じ轍を踏んでしまうのですね。なかなか悩ましいところで、著者も長編化を考えなかったわけではないと思うのですが、オチにこだわれば、そういうわけにも行かなかったのかもしれません。

 ということで読了。ひきつづき第三短編集『二人で宇宙へ』に着手。
 


Re: 『日本SF短篇50』について

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2013年 2月21日(木)05時08分46秒
返信・引用

  > No.4249[元記事へ]

日下さん、はじめまして。
大変な、お仕事をお引き受けなさいまして、ご苦労さまです。
いや、ほんと、ご苦労さまです。心から思います。
かような、アンソロジー、私が何度かいってますが、読者全員を納得させることは不可能ですね。
必ず、アレが入ってない、コレがはいってない。ソレが入ってるのに、なんでアレが入ってないんだとの文句がでます。そういう仕事をやられることに、ご苦労さまといいたいのです。
日下さんの、説明を読み、堀さんの作品がくだんのアンソロジーからもれたのは、某軋轢にその因があるのではなく、純粋に編集上のことだと、とりあえずは堀ファンとしては納得しました。
平井さんが入ってないのは、やはり納得できません。故人の作品も入っているわけでしょう。故人はいわば退会者なのではないんですか。平井さんもかっては会員だったわけでしょう。入れてもいんだと思いますが。
話は変わりますが、「SFが読みたい2013年版」を読みました。高野さんのおっしゃるほどではありませんでしたが、良くはありません。
マイベスト5なんて読むと「読んでないんですが」と、言い訳しつつアンケートに答えている回答者がいます。かような回答者で選出されるベストはなんの意味があるんでしょうか。
早川がとりあえず、連絡のつく知り合いをかき集めて、なんとか形を作ったという感じです。
ここは、玉石混合の選出者ではなく、信頼のおける人たち。日下さん、大森さん、巽さん、岡本さん、水鏡子さん、といった限られた人たちで選出作業をやればいいと思います。あ、そうだと、なんでアノ人が入ってないんだと文句がでるでしょうね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 


「アステカに吹く嵐」(上)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月20日(水)23時10分5秒
返信・引用 編集済

  豊田有恒『アステカに吹く嵐』(ハヤカワSFシリーズ 68)読了。

 『SFマガジン・ベスト 4』(昭和39年12月31日刊)に豊田作品が収録されたことに対して、私は「解せませんね」と書きました。で、考えられる理由として、その時点(64年年末)で福島編集長は、豊田作品集はまだ先になるだろうとの見通しだったのではないか、と推測しました。
 その傍証を発見しました。
 こちらの豊田有恒雑誌掲載リストによりますと、「恋の鎮魂曲」《別冊宝石1964年127号》の後、その次の「殺人者」《SFマガジン 1965年12月号》まで、しばらく作品発表がありません。
 ちなみに《別冊宝石1964年127号》は、こちらによれば昭和39年(1964年)3月15日の発行ですから、単純計算で1年9か月のブランクがあったことになります。『アステカに吹く嵐』の石川喬司解説に「一年七ヵ月というもの、小説というものは、なにひとつ書けないというスランプ」という著者の言葉が引用されていますが、このブランクのことであろうと思われます(SFMは通例記載月の2か月前に出ますからピタリと合います。註>*も参照)。
 さて、福島正実が『SFマガジン・ベスト 4』(64年12月刊)のあとがきを書いたのは、出版の直前でしょうから、まさにこのスランプ期のど真ん中ということになります。ですから福島編集長にすれば、豊田有恒は、小松左京や眉村卓のグループではなく、筒井俊隆や高橋泰邦と同じ範疇で認識されていたとしても、あながち不自然ではないわけですね。

 ところでこのスランプは何が原因だったのでしょうか。テレビアニメの方で忙しかったようです。
 『あなたもSF作家になれるわけではない徳間文庫版143頁から145頁にかけて、眉村さんが、アニメ業界に行ったまま帰ってこない豊田さんに(心配したSF仲間の要請を受けて)ショック療法をかけたという話が出てきます。このときに眉村さんが、豊田さんに読めと強要した「還らざる空」は《SFマガジン 1964年9月号》掲載ですから、その日は7月23日頃だったと思われます。ですから1964年後半の豊田さんは、SF仲間からもSF離れを心配されていたことは明らかで、『SFマガジン・ベスト 4』に「火星で最後の……」を掲載した福島さんの判断は、この面からも了解できそうに思います。

*『あなたもSF作家になれるわけではない徳間文庫版143頁に、「(64年)5月号の『オール読物』の「右京乱心記」のほか、なにひとつ書いていません」と記されており、これがスランプ期前の最後の作品になるようです。このデータはこちらの豊田有恒雑誌掲載リストからは落ちているようです(64年5月から65年12月でも、やはり1年7か月になります)。
(つづく)
 


Re: 『日本SF短篇50』について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月20日(水)22時25分51秒
返信・引用 編集済

  > No.4249[元記事へ]

日下さん
 ご指摘恐れ入ります。日下さんが編者のおひとりでしたか。
 堀晃さんからもご注意いただきました。その時にも反省したのですが、堀さんが入ってないときいて、ついカッとなってしまったのでした。
 もちろんカッとなってしまったのは仰せの事実からの曲解でした。全く早とちりで日下さんを悲しませてしまい、申し訳ありませんでした。
 懇切なご説明をお聞きし、納得いたしました。ありがとうございました。

<補足>なんのこっちゃねん、と思われた方は、まずはこちらをご覧ください。(宇宙法廷ノート第1回が文字化けしていますが)
<再補足>ざっと見渡したい方はここを参照。

 

 
 


『日本SF短篇50』について

 投稿者:日下三蔵  投稿日:2013年 2月20日(水)22時09分39秒
返信・引用

  日下三蔵です。

ハヤカワ文庫の『日本SF短篇50』に関して、編者の一人として見過ごせない書き込みがありましたので、一言。

このアンソロジーに堀晃さんの作品が入っていないというのは「誤情報」ではなく事実ですが、その理由があたかも「堀さんと早川書房の確執によるものである」と断定するかのような書き込みは「誤情報」です。

編者4人は版元が早川書房に決まったとき、真っ先に「堀さんと小松さんを入れてもいいですね」と確認していますし、堀さんにも「決まったときには収録をご承諾いただけますか」とお尋ねして「お任せします」というお返事をいただいています。

結果的に堀さんの作品は入りませんでしたが、早川書房に対する遠慮から外したという事実は一切ありません。討議の結果、入りきらなかっただけのことです。「50もの席があるのに堀晃作品が入らないのはおかしい」というご意見ですが、その年度を代表するといえる傑作を10も20も書いている作家の方が稀で、3〜5年度ほどの候補に残っていれば立派な方なのです。

具体的に言いますと、堀さんは77年と78年の候補に残っていました。77年は堀作品は二つの短篇に票が割れて三票を集めた横田順彌さんの作品に決まりました。78年は二票から三票の作品が多い激戦でしたが評価の高かった堀さんの「梅田地下オデッセイ」はアンソロジーに収録するには長すぎるという理由で対象から外れ、二転三転の末に夢枕獏さんの作品に決まりました。

50しか席がない以上、雫石さんのいわれるような「全ての日本SF作家の代表的な作品が掲載される」アンソロジーになるはずがありません。80以上の作品を収録させていただく出版芸術社の『日本SF全集』ですら、入りきらなかった作家、収録の許諾をいただけなかった作家は何人もいます(広瀬正とか)。

われわれアンソロジストは、与えられた条件の中でベストの選択になるように努力することしか出来ません。その選択に対して異論が出るのは当然のことだと思っていますが、本を見ればきちんと書いてある作品選定の前提条件を無視して批判されたり、事実と異なる推測に基づいて非難されたりするのは、やはり悲しいです。

雫石さんのブログも拝見しましたが、平井和正さんが入っていないのは平井さんが現在は作家クラブを退会されているからで、会員の作品を対象にした今回のアンソロジーやブックガイドには入れたくても入れられなかったわけです。平井さんが「日本を代表するSF作家の一人ではない」などと思っているクラブ関係者は、おそらく一人もいないと思います。
 


学習雑誌のSF小説

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月19日(火)22時34分49秒
返信・引用 編集済

  『アステカに吹く嵐』は220頁まで。あとは中編120枚の表題作を残すのみ。

 昨日、柄にもなく書誌的な書き込みをしましたところ、高井さんがなかなか興味深いHPを紹介してくれました。→ここ
 ジュブナイルのリストですが、これはすごい。貴重ですねえ。豊田さんの「ふたりで宇宙へ」の初出は、「高三コース」昭和43年11月号だったんですね。

 私は中高6年間、ずっと旺文社の「時代」を定期購読していました。この雑誌で少年SFをたくさん読みました。私が購読中にどんな作品が掲載されていたのか、リンク先データで確認してみました。

【中一時代昭和43年4月号〜昭和44年3月号】
 福島正実 明日は――嵐     「中一時代」昭和43年4月号〜10月号
 豊田有恒 呪われた血      「中一時代」昭和43年10月号
 福島正実 光よ裂け、闇を!!    「中一時代」昭和43年11月号〜44年3月号
 光瀬 龍 調査員は北へ飛べ!  「中一時代」昭和43年5月号 ☆フォト・ミステリー
  〃   水上機発進まて!   「中一時代」昭和43年8月号 ☆フォト・ミステリー
  〃   エレベータが止まった 「中一時代」昭和43年11月号 ☆フォト・ミステリー

【中二時代昭和44年4月号〜昭和45年3月号】
 眉村 卓 還らざる城      「中二時代」昭和44年4月号〜(9月号)〜?
 豊田有恒 狂った日       「中二時代」昭和44年4月号付録
 平井和正 青い影の美女     「中二時代」昭和44年5月号別冊付録 ☆「美女の青い影」と改題

【中三時代昭和45年4月号〜昭和46年3月号】

【高一時代昭和46年4月号〜昭和47年3月号】
 半村 良 金魚ばちとコーヒー  「高一時代」昭和46年5月号
  〃   ビッグ・セブンへの挑戦「高一時代」昭和46年6月号

【高二時代昭和47年4月号〜昭和48年3月号】

【蛍雪時代昭和48年4月号〜昭和49年3月号】

 このデータでは、わたしの中一時代、中二時代はそこそこカバーされていますが、中三時代以降は抜けが多いみたいですね。いやそれはそうでしょう。ここに公開されたれデータを揃えるだけでも、大変なご苦労だったに違いありません。

 さて、わたしが鮮明に覚えているのは福島正実「明日は――嵐」。原子爆弾か何かが爆発した影響で時空が乱れ、主人公たちが未来に(過去だっけ)飛ばされてしまう話だったと思います。
 これは中学生になってこの雑誌を読みだした最初の号から連載開始されたものですから、記憶が鮮明で当然ですね(もっとも「時代」の前には小学館の「小学○年生」を取っていて、それにもSF的なマンガや科学記事は多かったのですが、小説があったかどうか覚えていません)。
 しかし、私の記憶が確かならば、なんか尻すぼみというか腰砕けの小説だったように思います。「え、これで終わり?」と想ったような。翌月からやはり福島が「光よ裂け、闇を!! 」を開始しますが、これは内容も覚えていません(タイトルも忘れていましたが、リンク先を見たら思い出しました)。豊田さんの作品や光瀬さんの作品にいたっては、掲載されていたかどうかも甦って来ません(^^;

 その意味では中二時代で始まった眉村さんの「還らざる城」は本当に面白かったですし、はっきりと、くっきりと、覚えています。
 主人公らと剣道の先生(稲田青年という名前まで覚えている)が、戦国時代の関東、扇谷上杉氏と新興の北条氏が対立している境界辺りにタイムスリップします。そこで稲田青年は、一生涯教師で終わったに違いない現代世界では到底考えられなかった一国一城の主という野望に燃え、人が変わったようになってゆくのですが、中二の私は、この心理が全く理解できず、(主人公の少年同様)稲田青年に反発を感じたものでした。大人になってから旺文社文庫で読み返したとき、はじめて稲田青年の心理に共感出来ました。
 先日眉村さんの「宇宙播種計画」評を紹介しましたが、環境変化と人間変化は表裏一体という考え方は、このようなジュブナイルでもきっちりと、ブレずに表現されているわけです。

 豊田有恒「狂った日」と平井和正「青い影の美女」は、これも高橋泰邦「宇宙塵」の感想の時にちょっと触れましたが、学習雑誌にたまに文庫の判型の小説が付録として挟み込まれていることがあり、それですね。「狂った日」は残念ながら全く記憶にないですが、「青い影の美女」はめちゃくちゃ面白かった。のちに「美女の青い影」と改題されて角川文庫に入りましたが、むべなるかな。一般文庫に入るようなレベルの作品が、おしげもなく付録についていた我々の時代は、本当に恵まれていたんでしょうねえ。

 付記。画像はネットで見つけた。上が、例の文庫版の付録です。岡本朝子・作「幸福の島」。中三時代昭和45年6月号とのことで、まさに私が購読していた号ですが、全く記憶なし。少女小説でしょうか。当然リンク先リストにもありません。リンク元
 下はおまけ。「星の組織と其事業」大正12年 編:大塚浩一 星製薬株式会社 リンク元
 


「ラジオ深夜便」注文

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月19日(火)00時37分23秒
返信・引用

   眉村さんのエッセイ(?)「17音の風景」が掲載されている「ラジオ深夜便」3月号が、今日(2月18日)発売になったはずなのですが、Amazon、またもやのっけから《この本は現在お取り扱いできません》の表示(ーー;
 ということで久しぶりにhontoに注文したら、ポイントが残っていたらしく300円で購入出来ました! ほくほく(^^;
 


豊田有恒の銀背版作品集

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月18日(月)22時45分52秒
返信・引用 編集済

   腰痛はなんとなく治ってしまいました。たまたま、仕事で重いものを運んだのがよかったのかも。腹筋や背筋の締め付けで、タガがずれかけたところがうまく元に戻ったのではないでしょうか。結局筋力が体を維持する最低限を割り込みかけているんでしょうな(>他人事みたい)。

『アステカに吹く嵐』に着手。130頁まで。ほぼ半分。

 ここで銀背版で出た豊田有恒の三短編集、『火星で最後の』『アステカに吹く嵐』『ふたりで宇宙へ』が文庫短編集にどのように割り振られたのか、確認しておきましょう。
 ネットでは豊田さんの短編情報は皆無ですね。過去の文庫のタイトルくらいはわかりますが、収録作品は皆目わかりません。
 ということで、私が持っている文庫短編集を出してきてチェックしましたが、完集しているわけではないので不明が残りました。

『火星で最後の……』(66)
「火星で最後の……」(「絶滅者」に改題)→『改体者』(ハヤカワ文庫)
「帰還者」→『改体者』(ハヤカワ文庫)
「襲撃者」→『改体者』(ハヤカワ文庫)
「殺人者」→『改体者』(ハヤカワ文庫)
「黒いハイウェイ」→『イルカの惑星』(角川文庫)
「恋の鎮魂曲(レクイエム)」→『イルカの惑星』(角川文庫)
「ゲーム・オンザ・ロック」→『?』()
「便利な恋人」→『タイム・ケンネル』(角川文庫)
「パチャカマに落ちる陽」→『パチャカマに落ちる陽』(ハヤカワ文庫)
「奉納刀異聞」→『?』()
「右京乱心の記」→『?』()
「退魔戦記」→長編化

『アステカに吹く嵐』(68)
「ボーリング・ボーリング」→『タイム・ケンネル』(角川文庫)
「地震がいっぱい」→『タイム・ケンネル』(角川文庫)
「シナリオ製造します」→『タイム・ケンネル』(角川文庫)
「サイボーグ王女」→『サイボーグ王女』(角川文庫)
「アンドロイド処女」→『サイボーグ王女』(角川文庫)
「アメーバ妖女」→『サイボーグ王女』(角川文庫)
「改体者」→『改体者』(ハヤカワ文庫)
「植民者」→『改体者』(ハヤカワ文庫)
「タイム・ケンネル」→『タイム・ケンネル』(角川文庫)
「針が重なるとき」→『?』()
「写らない女」→『イルカの惑星』(角川文庫)
「良い名前」→『イルカの惑星』(角川文庫)
「妙なヤツ」→『イルカの惑星』(角川文庫)
「消す」→『宇宙塵傑作選U』(出版芸術社)
「アステカに吹く嵐」→『パチャカマに落ちる陽』(ハヤカワ文庫)

『ふたりで宇宙へ』(70)
「ハイファイ・パトロール」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「アイウエオのア」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「初仕事出世宇宙立」→『サイボーグ王女』(角川文庫)
「初手柄宇宙邂逅」→『サイボーグ王女』(角川文庫)
「異聞昭和元禄」→『タイム・ケンネル』(角川文庫)
「クーデカー」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「ザ・クラフトマン」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「ザ・ニュースマン」→『?』()
「ザ・サラリーマン」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「ザ・ガレージ・マン」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「月の神話」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「月世界ガイド」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「ふたりで宇宙へ」→『?』()
「家元時代」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「あゝにっぽん第二帝国」→『禁断のメルヘン』(角川文庫)
「プリンス・オブ・ウェールズ再び」→『タイム・ケンネル』(角川文庫)
「降るアメリカに」→『タイム・ケンネル』(角川文庫)
 


「火星で最後の……」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月17日(日)23時26分27秒
返信・引用 編集済

  > No.4241[元記事へ]

承前。今回読んだ「パチャカマに落ちる陽」「奉納刀異聞」「右京乱心の記」「退魔戦記」は、著者の分類でいう<歴史小説>です。もちろん歴史SFです。

「パチャカマに落ちる陽」の舞台は16世紀インカ帝国パチャカマ市郊外。最後の皇帝アタウアルパはキリスト教改宗の強要を拒絶し、既にピサロによって命を絶たれています。もはや帝国の滅亡は目の前。残された勇将チャルクチーナには、「もしもあのとき、ピサロを倒していれば」という思いが離れない。千載一遇のチャンスがあったのです。が、旧弊にまみれた神官階級のせいでそのチャンスは潰されてしまった。その時点が歴史の分岐点だったのでした。
 22世紀、タイムマシンが実用化され、人々は手軽に過去見物に出かけられるようになっています。主人公のインカおたく娘のゲルタは、チャルクチーナにぞっこんで、何十回となくインカを訪れ、やはり歴史の分岐点がこっちに来てしまうのを手を拱いて座視するばかり。もしゲルタが介入すれば、その時点で新たな分岐が発生し、ゲルタはそっちの時間線に乗ってしまい、たとえ22世紀に戻ったとしても、そこはもとの22世紀とは別の世界なのです。さすがにそんな危険は犯せないと思っていたゲルタだったが、自分に被害が及ばず歴史を分岐させる、とんでもないアイデアを思いつきます……が!?

 今回でもう、4、5回めの再読ですが、何度読んでも面白いし、よくできています。著者の短篇の代表作のひとつといって間違いありません。

「奉納刀異聞」は、江戸時代も四代目になると尚武の気風は薄れ、武士が携える刀も実用よりは見た目の華美さが重要視されてきます。そんな風潮に待ったをかけたのが八代吉宗、それまで江戸刀匠の見た目だけの鈍刀が山王日枝神社に奉納されがちだったのを、ここを吉宗ノミクス周知徹底のシンボルとすべく、審査基準を180度変えようとします。その方向転換にたまたま合致したのが、薩摩の刀匠主水正正清の鍛えた刀でした。
 正清が時代の風潮に逆らって実用本位な刀作りに精進するようになったのは、正清がまだ刀工になったばかりの頃に遭遇した、或る神秘体験によるのですが、その神秘体験というのが……実になんともトンデモナイ勘違いだったのでした(汗)
 大変皮肉なオチで私は面白がった次第ですが、しかしまあ、そこに持っていくかえ? という感じもしないではないのでありました(^^;

「右京乱心の記」では、綱吉生類憐れみの令発令の真相が明らかに!! なぜ名君だった綱吉がかく晩節を汚したか、まことに納得の行くストーリーで(>ホンマか!)、これも面白かった(^^;

「退魔戦記」、長編時間SF『退魔戦記』は本編を長編化したもの。長編版は著者を代表する傑作ですが、本編ははっきりいって長編版の下書きというかエスキースでしかないですね。残念ながら、自立した作品とすれば、いささか荒すぎました。

 ということで、豊田有恒『火星で最後の……』(ハヤカワSFシリーズ 66)読了。

 ひきつづきオリジナル第2短編集『アステカに吹く嵐』に着手。

 


眉村さん情報「ラジオ深夜便」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月17日(日)21時19分37秒
返信・引用 編集済

  『駅と、その町』(眉村さん最新刊)の検索語で当掲示板に辿り着かれる方が、これまでの同様な条件のときと比べて、ずいぶん多いように感じられます。読者の関心が高いことをあらわしているのだとしたら、嬉しいですね。
 版元HPで立ち読みができますよ!→こちら

 それはさておき、明日、2月18日発売の「ラジオ深夜便3月号」に、眉村さんのエッセイ(?)「17音の風景」が掲載されます→3月号の目次参照
 タイトルから想像するに、俳句の話でしょうか。

 目のほうが、まだもうひとつで、テキスト化止まったままなんですが、過敏な部分が眼球ではなく、瞼の裏側の、眼球の天辺と擦れ合っている部分であることが、段々と分かってきました。それだけ(特定出来るだけ)患部が縮小してきたということでしょうか。
 と思ったら、またしても腰痛が。実は年末に左後ろがビリっときて、それがなかなか治らず、漸く最近になって意識しないでいられるようになってきたところだったのに、今度はまうしろ側にきた。芬荼離迦獗詑離迦断捨離迦であります。
 


「火星で最後の……」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月17日(日)00時14分22秒
返信・引用 編集済

  > No.4238[元記事へ]

 承前。本書あとがきによれば、著者の作品には「ハードなSF小説」「軽いタッチの日常小説」「歴史小説」の3つのタイプがあるとのこと。実は本書もその分類でまとめられていて、昨日読んだ冒頭よりの4編は、いうまでもなく「ハードな宇宙SF」。
 で、今日読んだ、「黒いハイウェイ」「恋の鎮魂曲(レクイエム)」「ゲーム・オンザ・ロック」「便利な恋人」は「軽いタッチの日常小説」の範疇に入るでしょう。要するに「ショートショート」ですね。

「黒いハイウェイ」は、戦時中、戦闘機の緊急着陸用に作られた「十三間道路」(現・新青梅街道の一部)が舞台。十三間道路を走行中の主人公は、後ろにプロペラがある飛行機が着陸してくるのを目撃します。なんとそれは終戦直前に試験飛行を終え、飛燕とともに起死回生の期待の星となるはずだった先尾翼式戦闘機”震電”だったのです!
 この設定は案外第一世代が書いていますね。光瀬龍にもあったような。しかし本編の面白さは別のところ。
 十三間道路の制限時速は60キロだそうで、主人公の私は、自分はふだん制限時速の一割増ししかスピードを出さないようにしていると語ります。これはなかなかリアリティがあって、速度違反検問でも一割増しは見逃してくれるのです(教習所で教わった(^^;)。ところがその舌の根も乾かぬ7行先で、主人公は「この道路で100キロを超えるスピードを楽しんだものだった」と語って馬脚を現しています。要するにホンネがぽろりと出てしまったわけです。
 これで本編の主人公が、いわゆる「信用出来ない語り手」であることが確定します。となると、その後に語られる、8月15日に終戦せず天皇が松代大本営に疎開し本土決戦に突入した世界の8月25日からやってきた”震電”とは……!?

「恋の鎮魂曲(レクイエム)」は、音楽SFの秀作。音楽SFアンソロジーが組まれるときには、SFマガジンに発表されたまま埋もれてしまっている山之口洋「最後のSETISSION」とともに、ぜひとも収録してほしい逸品。

「ゲーム・オンザ・ロック」は、アイデアストーリー。いつのまにかESP教習所なるものができていて、妻のハンドバックから26教程中18教程まで指導員の検印が押してある教程表を見つけた夫は(^^;。眉村さんにテレポートの訓練所に通う「悪夢の果て」(銀背『準B級市民』所収)という話がありますが、比べて読むと、SFランド内で境を接している両作家の、資質の違いが浮かび上がってくるかも。

「便利な恋人」は、カーSFでもあります。或るいきさつでマイカーが意識(?)を持ってしまうのですが……。この手の話も、第一世代によく見かけるような気がします。でもひょっとしたらこの作品を昔読んだ記憶が残っているだけかも。(追記、思い出した、「お紺昇天」だ!)
 


みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月16日(土)22時26分58秒
返信・引用 編集済

  「えーと、クメは、ヒサしいコメだね」
 警官は調書を読み上げた。
「怪我がなくてよかったけど、あんなまっすぐな道、どうやったら道から飛び出せるんだ?」
「すんません。ちょっとわきみを」
 ずぶ濡れの体を毛布にくるんで震えながら、しかし彼は、何に気を取られてハンドルを取られたのか、それは話そうとはしなかった。
 


眉村さん情報「宇宙播種計画」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月16日(土)15時02分43秒
返信・引用 編集済

  > No.4238[元記事へ]

承前。眉村さん資料をあたっていて、「宇宙播種計画」に言及した文章を見つけました。なかなか興味深いので写します。

「(前略)こんな、多分わかり切ったことを書いたのも、実は、ブリッシュの「宇宙播種計画」を読んだためである。ここでは、人間が宇宙に植民するときのやりかたとして、環境を人間にあわせるか(その前段階は人間の生存可能な星だけを選ぶということになっているが)、または、人間のほうを環境にあわせるかの、ふたつが対置されている。
 しかし、問題はそう簡単には割り切れないはずである。どこかしこも自分の故郷と同じようにしてしまうことの不可能性はむろんのこと、人間をひとつひとつの異った環境にあわせるといっても、本人の意志の変革なくしてそんなことをつづけると無理が出てくるのも当たり前の話である。環境改善も人間変化もこれは表裏一体なのであって、純粋に片方だけで済ますわけには行かないのではないか?
 もともとわれわれはそれほど一般的とはいえない条件下に発生し発展してきた生命体なのである。宇宙に普遍的な生命体であろうとすれば、それに見合うだけのものは捨てねばならないのは当たり前だろう。(後略)」
(「新・SFアトランダム」(14)<宇宙塵1967年7月号>)

 「消去」は、人間変化ではありますが、同時に、電脳空間(脳髄空間)に「人間環境」を作り上げたのと同じわけで、人間は、原則、何も「捨て」ないでいられます。というか人間変化でありながら、何も変えずに済むように環境を作り上げたのです。
 一方、「帰還者」は、地球に生還したいがために、「人間変化」を受け入れます。その結果、地球に帰り着くことが出来た。しかしその結末は、というと、人間社会に受け入れられず、ふたたび彼らの新天地を求めて宇宙に出ていかざるをえない。
 眉村さんの疑問は、この二人の作家にも共有されていますね。
 ところが当時の海外の作家は(とはサイバーパンク以前どころかニューウェーブ以前ということですが)、まず殆どの場合、テラフォーミングに何の疑問も持っていないのではないか。
 「人間変化」を受け入れた作品というのもにわかには浮かんで来ません。ジェイムスン教授がそうですが、この作品に「意志の変革」(私は「意識の変革」というほうがよいと思います)は全く問題になり得ません。*
 このような観点からいえるのは、やはり英米作家のオールドSFは、白人中心のエスノセントリズムを拭いきれてない。あとで言及する予定の「パチャカマに落ちる陽」で描かれるスペイン人コンキスタドールの所業は、まさに「テラフォーミング」の原型ですよね。(サイバーパンク時代になっても、読んでませんが「レッド・マーズ」なんてどうなんでしょう。テラフォーミング自体は精密に描きますが、それと意識の変革との関係なんてのは全く等閑視されているのでは?)
 その意味では、眉村さんが否定的に反応した『宇宙播種計画』は、眉村さんに反応させるだけの何かを備えていたわけで、日本SFに拮抗しうる先進的なSFだったと言えそうに思いますね。むしろ人間が人間でなければならない理由はない、というコンティニュイティの否定として私自身は受け取りました。実際「表面張力」などでは(これしか覚えてないのですが)意識は変わってしまっていたのじゃなかったでしょうか。
*あ、『幼年期の終り』があるか!
 
    (追記) 私はサイパンは全く読んでないので、人体の改変が意識の変革を射程に捉えているのかどうかは知識がないので、ご教示いただけたらと思います。  


「火星で最後の……」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月15日(金)20時18分43秒
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  > No.4237[元記事へ]

承前。気がついたので前項にも補足しておきましたが、「火星で最後の……」は、「絶滅者」と改題されて、文庫版短編集『改体者』に収録されていたのでした(私が持っているのは角川文庫版)。記憶力が老化劣化したせいで偽記憶を発生させていたんじゃないことが分かって、ホッ(^^;(あ、でも弱化しているのは間違いないですな)(ーー;。

 しかしまあこれも何かの縁、ということで、オリジナル作品集であるハヤカワ銀背版『火星で最後の……』(66)を手に取りました。
 収録作品の殆んどは文庫版で読んでいるとはいえ、なんせ何十年も前の話、殆ど覚えていません(だから上記のような錯覚も起こるわけです)。冒頭の表題作は昨日『SFマガジン・ベスト bS』で読んだのでパスし、「帰還者」「襲撃者」「殺人者」を読んだ。いやー、もう全然新鮮に読めます(^^;

 これら表題作(改題して「絶滅者」)を含めた4編は、再編集された文庫版『改体者』に収録されています(同書収録作中、この4編以外の「改体者」「植民者」は、オリジナル第2作品集『アステカに吹く嵐』が元版)。
 『改体者』には、著者の「ハードな宇宙小説」(本書あとがき)が集められています。いわば前項の高橋泰邦「宇宙塵」と同系列で、著者のエッセイで読みましたが、福島編集長が、著者に対して期待していたのはこの系列だったみたいですね。で、半ば強制的にかくことを命じたそうで、逆に著者の反発を招いてしまうんですよね(もっとも福島編集長の思い描いたSFランド構想のそのパートは、すぐに石原藤夫の登場で満たされるのでありました)(汗)

 閑話休題。実は文庫版『改体者』を読んだ時の(個々の作品については覚えていませんが全体としての)印象は、あまり感心しなかったのでした。「やっぱり豊田有恒は歴史SFだぜい」と思ったような(笑)。でも今日読んだら、「意外に面白いじゃん」という感じでした(^^;。

「帰還者」は、筒井俊隆「消去」同様、一種の「宇宙播種計画」テーマで、宇宙空間で遭難した宇宙船の乗組員は、生きて地球に生還するために植物人間に自己を改造します。

「殺人者」では、完全密室たる宇宙船内で連続殺人事件が発生。犯人は誰か。幼児の言語障害が解明のヒントになるのだが、読者が先に解明してしまうこと必定、というか、乗組員たちすぐ気づけよ(^^;。でも犯人解明が最終目的ではないので無問題。スーパーロボットにとっての究極の願望は何か。それがテーマ。
 ところで作中に気になる描写が……。引用します。
「大男のタクは、この機会を逃さなかった(……)手刀でナリタの手から光線銃をうばいとり、太い腕でクビを締めあげた。柔道三段のタクの腕にぐっと力がこもった瞬間、ナリタの体から力が抜けた。タクは自分のしたことにびっくりしたような表情で、ゆっくりかがみこんで、動かなくなったナリタの死体を床におろした」って、誰ですか(^^;

「襲撃者」>われわれ三半規管形生命体を継ぐのは誰か? それは四半規管型生命体なのかも(笑)
 


「SFマガジン・ベスト」bQ、bS

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月14日(木)23時01分9秒
返信・引用 編集済

  > No.4236[元記事へ]

承前『SFマガジン・ベスト bQ』より、高橋泰邦「宇宙塵」を読む。
 著者に就いては、略歴の引用は不要でしょう。現在では翻訳家としてのほうが有名ですが、この当時は海洋テーマに特化した小説を書いていて、いまパッと思い出すのは、学習雑誌の「時代」(中学か高校かも覚えてませんが)の、文庫本形式の付録に入っていた海洋小説ですね。そのような作風が珍しくて、わくわくして読み終わった記憶があります。

 さて本篇は、いうならば真空サスペンスです。地球高軌道上を遊弋していた4人乗り宇宙船に小さな宇宙塵が衝突、貫通します。その結果、主人公の居る制御室以外は空気を失い、他の乗組員は一瞬にして真空被曝で死ぬ。一人だけ残された主人公ですが、艇の破損は次第に制御室へ迫ってくる。そんな絶体絶命的状況下での主人公の心理劇です。
 本篇は、前項の「地球エゴイズム」とは正反対な作風です。回転擬似重力、真空被曝等、宇宙空間で人類が遭遇するシチュエーションがかなり正確に描かれます。
 実のところ、私の「SF素養」は、小学生の頃図書館で読んだ、このようなタイプの作品から、徐々に積み上げ形成されていったような気がします。福島正実が児童文学にSFを持ち込もうとした意図は、このような「教育効果」にあったのだと思います。不肖私は(私の世代は)さしづめその一期生といえるのではないでしょうか。

 閑話休題、本篇の結末はかなり謎です。おそらく宇宙船は、実は宇宙塵衝突の瞬間に、破砕しているのではないでしょうか(ラストのシーン)。ところが何らかの事情で、主人公の意識だけが、その瞬間(パノラマ視現象とは違いますが)をひきのばされ、その特殊な時間内で幻視したものと解釈しました(「だけ」と書きましたが、描写されたのは主人公の意識だけということで、小説内事実としては乗組員全員がそれぞれその一瞬に幻視しているのかもしれません。それを描写するとディックになりますね(^^;)
 サスペンスフルで密度の濃い佳作でした。作者にとって「宇宙空間」は「海洋」の延長上にあるものとして(連続として)認識されているのかもしれません。

 ところでこの『SFマガジン・ベスト』シリーズは、要するに年度別SFマガジン掲載作品のベストアンソロジーで、全4巻、すなわち60年ベストから63年ベストまで継続したようです。ただしベストと言い条、近々に出版予定がある作品は除外され、近い将来作品集の期待ができないような作品を優先的に拾ったようです。日本作家が採られているのはこの「bQ」と、あと「No.4」のみ。小松左京や光瀬龍や眉村卓が収録されていないのは、そういう次第だからではないでしょうか。

 さて、第4巻収録の日本人作品は、半村良「収穫」(第2回SFコンテスト入選第3席)と豊田有恒「火星で最後の……」(同コンテスト佳作)。どちらも押しも押されもせぬ第一世代。上記方針と合わないような。
 ところがさにあらずでして、半村良は、70年代に入ってから『石の血脈』でニュー半村として華々しく再デビューするのですが、この頃は沈黙していたのです。(いまウィキペディアを見たら、沈黙の理由は福島正実の方針と合わなかったからと書かれていましたが、どうなんでしょうか)。
 豊田有恒の場合は、66年に作品集『火星で最後の……』が上梓されています。解せませんね。あるいは64年時点*で福島とすると、それから僅か二年で一冊分の短篇を書くとは想像してなかったのかも。二年間で急成長を遂げたということでしょうか。しかし豊田有恒も、福島編集長とは反りが合わなかったんですよね(汗)。
 *追記。本書は63年ベスト集ですが出版されたのは64年12月でしたので、数字を訂正。リードタイムが更に短くなりました。

 ということで、「bS」の二作品、半村良「収穫」、豊田有恒「火星で最後の……」も読みました。どちらも再読ですが、殆んど忘れていて初読同然でたのしみました(^^;
 前者の初読はハヤカワ文庫版『およね平吉時穴道行』。今回、なんか小松左京作品みたいだな、と思いました。平凡さが人間の証明というところは、庶民派の著者らしいところか。
 後者の初読は何だったっけ、ということで、蔵書を確認したのですが、「火星で最後の……」を収録した文庫本が見当たらない。少なくとも初期の文庫作品集は漏らしてないはずなのですが。ひょっとして著者の意志で文庫化されなかった作品なんでしょうか? ということは――おそろしい想像ですが――読んだ筈という記憶が偽記憶なのか。でも火星蛙が出てくるのは覚えていたんですよね。うーん???

 ○目薬を左目にさすと、眼球に突き刺さるような痛みが走る。まぶたの上から押さえても違和感はないのですが。ということで、テキスト化はお休みしました。
 
    (補足) 「火星で最後の……」は、「絶滅者」と改題されて
   短編集『改体者』に収録されていました!
   記憶力劣化したわけじゃなくてよかった〜。ほっ。
 


「SFマガジン・ベストbQ」より

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月14日(木)00時22分11秒
返信・引用 編集済

   『SFマガジン・ベスト bQ』より、まずは山田好夫「地球エゴイズム」を読みました。
 いうまでもなく、第一回SFマガジンコンテスト佳作第一席入賞作品です*。初めて読みましたが、うーんこんな感じだったのか。
 プロローグが伏線になったラストという風に、シナリオは大変うまく作っていますね。エイリアンの造形もよい。なかなか迫力があって見映えします。これは映像化すれば面白いものになったんじゃないでしょうか。と書いて思い出した。実はこの第一回コンテストはSFMと東宝の共同主催で、私の記憶に間違いなければ、映画化も視野に入れて選考されたはず。だから、のちに第一世代を形成する、下に記した錚々たるメンバーを差し置いて、この作品が第一席に入ったんじゃないでしょうか。
 確かにシナリオもビジュアリティもよいのですが、「SF小説」として見た場合、世界設定にかなり難がありますね(例えばエイリアンが地球に来てしまうシナリオはよいのだが、第一号艇を爆破する「位置」がおかしすぎます。これはSF小説としての根幹に関わる問題なんです(ただし映像作品のシナリオとすればじゅうぶん許容範囲です)。著者は「SF素養」はあまりなさそうです。
 予めことわっておきますが、私がハードSF信者ではないのはご存知と思います。その私が首を傾げるレベルと言う意味です。もちろんサイエンス・ファンタジーのようなものも当然ありなんですが、それは「わかっていて外している」か「ただの無知」なのかは、読めば分かります。まあ要するに、そのような描写は避ければよかったんじゃないでしょうか。SFコンテストということでムリしたのかもしれませんね。勝手なこと言ってますね(>おい)(^^;
 これでは福島編集長のSFマガジンには、ちょっと合わなかったでしょうね。今みたいに「SFでない非リアリズム小説」の受け皿が何か所かあったらよかったんですが、当時はSFマガジン以外にそのような小説を発表する場所はなく、同じ理由で柴野拓美も認めなかったでしょうね。著者の作風は時代的に不運だったのかもしれません。
 本篇に付された作家紹介を写しておきます。
「山田好夫(1930〜) SFマガジン第一回SFコンテスト佳作第一席入賞者。現在、静岡県掛川市で商店を経営するファン・ライターの一人である。異常な環境と、異常な生命体との遭遇とを、ここまでサスペンスフルに盛り上げた本篇は、海外ものと比較してもけつして劣らない。(F)」

*ちなみにこの時の入賞者は
入選    該当作なし
佳作第1席『地球エゴイズム』  山田好夫
  第2席『下級アイデアマン』 眉村卓
  第3席『時間砲』      豊田有恒
努力賞  『地には平和を』   小松左京
SF奨励賞『宇宙艇発信せよ』  野町祥太郎
     『殺人地帯』     平井和正
     『宇宙都市計画』   小隅黎
     『行くもの』     平田自一
     『第三の天才』    篠原靖忠
     『十八年後』     淵上襄
     『死者還る』     徳納晃一
     『ナポレオンの帽子』 小野耕世
     『何かが後からついてくる』宮崎惇
     『アミーバ作戦』   加納一朗
     『私は死んでいた』  島内三秀
     『シローエ2919』 光瀬龍


 つづけて筒井俊隆「消去」を読みました。
「筒井俊隆(1941〜) SFマガジン1961年2月号でデビュウした最年少の新人。大阪のSF同人誌<ヌル>の同人――というより、大阪のSF一家として知る人ぞ知る大阪自然科学博物館長筒井嘉隆氏の三男。本篇はその<ヌル>二号に掲載された作品である。(F)」

 これは今風に言えば電脳世界ものですね。
 地球の人口増で、巨大宇宙船が建造され、数万人単位の移住民を乗せ、新天地をもとめて地球を飛び出します。と書けば明るい未来に満ちたSFを想像しますが、この船は一種の棄民船。目的の星目指して出発するのではなく、とりあえず人減らし優先で、決まった行き先もなく出発させられる。新天地は航行しながら自分で探せ、というわけです。
 ところが行けども行けどもニューアースは見つからず、燃料も乏しくなる。結局燃料切れでとある惑星に不時着するも、人類の生存にはとても適さない星だったのです。そこで指導者の博士が、こういう事態もあろうかと密かに研究していた手段が実行に移される。
 それは数万人の乗組員の脳髄を摘出して保存するという手段でした。人間の感覚は、視覚にしろ聴覚にしろ触覚にしろ、すべて脳を経由して感じる間接的なもの。それは脳の各部位をコントロールすることで同じ感覚を得ることが出来るわけです。各脳髄は宇宙船の電子頭脳に接続され、いわば電脳空間を与えられて、そこを「現実」と感じながら生きていく。これ、一人ひとりがそれぞれ世界を与えられているのか、数万人がひとつの共通な偽現実を与えられているのか、ちょっと判然としません。とにかくそのようにして、30万年が経過します(その間に人々は何度も死に、また新たに生を与えられ、主人公の場合ならば6250回生まれ変わっている)。

 この、いま在る現実は現実か、というテーマは、50年前の作品とは思えないほど「現代SF」っぽいですよね。

 ところで、実は死んで次に生まれ変わる、そのわずかな期間は、いわば「目覚めている」状態になるので、主人公もその期間に、この世界設定を知ったわけです(この時、この世界のエネルギー供給装置が「クァール」(!)に襲われるというクスグリも(^^;)。このクァールを退治したのが、たまたまそのときやって来た地球人だった。人口過密だった地球は、今では逆に過疎になっており、かつて宇宙に追いやった人々を地球に戻すために訪れたのでした。ということで希望者は地球に帰還できるのだが、脳髄だけの体で帰って大丈夫なのか。実は(今で言う)アバターが与えられるのです。この辺もイマっぽい。しかも山田作品とは正反対で、クァールあり、都市と星あり、宇宙播種計画あり、ジェイムスン教授ありと、SFマニアの心をクスグる要素満載(^^;
 エピローグがまたなかなかセンチメンタル。長兄氏の「時をかける少女」のエピローグをちょっぴり想起させられました。←追記。あ、映画の原田知世版のエピローグでした(^^;
 


「SFが読みたい2013」到着

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月12日(火)22時13分53秒
返信・引用 編集済

  「SFが読みたい2013」が届きました。まずは本誌の一番の読みどころ、「SF出版各社2013年の刊行予定」を開ける――

 おや、光文社は<SF宝石>を復活させるのか。ただし雑誌ではなく、オリジナルアンソロジーのようですね。アンソロジストは誰なのかな? 大森さん?? あ、だからNOVAをやめたのか。いやテキトーなことを言ってはいけませんね。単なる想像ですので念のため。
 つづいて角川書店は書きおろし短編集『SFジャック』ですか。これもシリーズ化されるのかな? まあ売れ行き次第でしょうけど。
 河出書房は、高野史緒初の短編集『ヴェネチアの恋人』。これはたのしみ!
 国書刊行会の今年はジーン・ウルフの年だそうだ。

 そして眼目の出版芸術社は――おお、発表されました〜! 眉村卓・未収録短篇集は書き下ろしの新作を加えての刊行。SFマガジンに掲載されたまま、ハヤカワから単行本化されなかった作品が4、5篇ある筈なのですが、これらも収録してくれるのでしょうか? 「夢まかせ」という作品が実に悪夢的世界の傑作なんで、ぜひともお願いしたいのですが。

                   ママ
 最後は東京創元社。「眉村卓『引き潮の』全5巻も刊行開始です」とのこと。嬉しいなあ。でも……あれ? なんか既視感が……。ということで、昨年の同書を引っ張り出しました。こう書かれていた。
         ママ
「眉村卓『引き潮の』全5巻も刊行を始めます」


>おい!(^^;
 
    (追記)  そういえば、青心社の刊行予定がないではないか。
  3月に、ラファティ『蛇の卵』が出るんじゃなかったっけ?
 


Re: ちょっとごめんなさい

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月11日(月)22時16分21秒
返信・引用 編集済

  > No.4233[元記事へ]

段野さん
 本日No7のカセット届きました。
 さっそくNo7BをMP3にして取り込み、これで(テープ切れ分を除き)全部揃いました。ありがとうございました。(カセットは明日にでも返送します)
 現在「捩子」にかかりきりのため、「男のポケット」放送リストの整理(聴取も)はすこしあとになりますが、《チャチャヤング・ショートショート・マガジン》掲載に向けて、徐々に進めて行きたいと思います。ご協力感謝します。

「捩子」テキスト化もほぼ終わり、残すは短篇「くすぶっている」のみ。もちろん付きあわせてのチェックをしなければならないのですが、こっちのほうが大変なんですよね。最近目の調子が悪いです(^^;

>バックナンバーを(版元に)おかなくなりました
とはどういうことなんでしょうか。一定期間が過ぎたら断裁処分にしてしまうとか? ゾッキ本にしてしまうとか? 後者だったら大歓迎ですが(>おい)(^^ゞ

 前項の「三丁目の夕日」で書き落としたこと、と言うか、さっき気づいたこと。
 私は、万年筆の少年のエピソードがとりわけ気に入ったのでしたが、あの少年、かんべさんと同い年(23年生まれ)なんですね。厳密には早生れのかんべさんは学年は一つ上になるのかもしれません。いずれにしても私よりも少し上の世代になるのですが、万年筆に対するあこがれは、これは私にも実によく分るのでした。サンタからクリスマスプレゼントでもらうシーンはもう滂沱滂沱ボタボタ。今この文章を書きながら、又、ジーンとしてきちゃいました。ちなみに私の最初の万年筆は、やはり小学校高学年の時で、安価な中国製の……えーと、なんて名前だったかな、ど忘れしてしまいました(汗)。今は新婚旅行でハワイで購入したモンブラン。でもインク壺が空っぽになってかれこれ10年近く(^^;。もう使うことはないでしょう。結局「三丁目の夕日」の世界が似合う「昭和の筆記具」だったんですね。
 あ、思い出した「英雄」でした!

 


ちょっとごめんなさい

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 2月11日(月)17時21分1秒
返信・引用

  ハヤカワ、体質がかわったようで、バックナンバーを(版元に)おかなくなりました。せっかくの読みたい人たちを切り捨てているような気がなりません。昔はバックナンバーをきちんと揃えていた版元でした。それがいつのまにか、なし崩し的になってしまったようで、少し悲しい思いがします。いつもバックナンバーを揃えている版元だったのに。(仕事的にはやりにくい版元でしたが、読者に親切ではなかったでしょうか)今時に変化したというべきか、何と申し上げたらいいのやら……。  


「ALWAYS三丁目の夕日」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月11日(月)06時56分11秒
返信・引用 編集済

  > No.4231[元記事へ]

堀さん
「どうしても収録されない作品があるのはしかたありません」というのはそのとおりですが、仮にも日本SF作家クラブから50周年記念企画アンソロジーの編集を委託されるほどの優秀な編集者が、50人もの枠内に堀晃を採らないということは、殆んど考え難いと思います。むしろ入れたくて仕方がなくて苦しんだのではないかと私は想像しますけれども、それは言っても詮ないですね。ま、いろいろあらーな、ということですかね(汗)。いずれにしてもつまらないことを口走ってしまいました。逆にお気を使わせてしまい、申し訳ありませんでした
m(__)m

> No.4230[元記事へ]

雫石さん
 リンク先拝読。雫石さんのご意見に完全に同意します。小松さんが亡くなってこのかた、ハヤカワは何かなし崩し的にことを進めていこうとしているような気がしてなりません。
「ベスト作品の選出方法」については、これまで全く関心がなかったので、よくわからないのですが、今回は(高野さんの指摘も念頭に置いて)しっかりチェックしてみようと思います。

 DVD「ALWAYS三丁目の夕日」(05)を観ました。感動した! 133分の作品をつづけて2回、計266分、徹夜で見てしまった! これまで思い込みで馬鹿にして見ずにいた不明を恥じるばかりであります。どうも私は思い込みが強すぎていけません・・

 
 


Re: あれもハヤカワ、これもハヤカワ

 投稿者:堀 晃  投稿日:2013年 2月11日(月)05時03分12秒
返信・引用

  > No.4229[元記事へ]

あのう、ぼくが発言するのが適切かどうか迷いますが……
『日本SF短篇50』は1年1短編でSF作家クラブ50年を振り返る企画ですから、どうしても収録されない作品があるのはしかたありません。
たとえば星雲賞国内短編部門の受賞作集(これだとさらに偏りがでますが)くらいに考えればいいのではないですか。
それでも、まあ何というか、もっと重要な作家(たとえばSF作家クラブの会長・事務局長を務められた方など)の作品が収録されないとなると問題かもしれませんが。
ともかくアンソロジーの編纂というのは、それぞれの立場で辛いものがあり、これは賞の選考に関わった経験から、よく理解できます。
こうした企画が通ったというだけで、いいのではありませんか。
いいではないか……と、これは眉村さんのセリフ。
そういうものだ……と、これはヴォガネット。
しゃんめえ……と、これは青木功。
まだあるかな。
 


Re: あれもハヤカワ、これもハヤカワ

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2013年 2月11日(月)04時48分30秒
返信・引用

  > No.4229[元記事へ]

この短編アンソロジー、私も危惧しております。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/bdd75b5a41d955a7faeb17f7ff35aace
管理人さんのおっしゃるとうり、この話、早川でやるのが間違いですね。
全ての日本SF作家の代表的な作品が掲載されるとは思えませんね。
それに、この「SFが読みたい」のベスト作品の選出方法ですが、あ、これは「このミス」も同じなんですが、選考方法を考える必要がありますね。
「あんまり読んでない」と思われる選考委員が多すぎます。
そりゃ、確かに出版されたSFをすべて読んだ委員ばかりを、取り揃えて選考なんて非現実的なことはいいませんが、もうちょとどうにかする必要がありますね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 


あれもハヤカワ、これもハヤカワ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月10日(日)14時21分58秒
返信・引用 編集済

  「SFが読みたい2013」が出たそうです。私は去年ここに記したいきさつで、買いたくもなかった同書(誌?)を購入せざるを得ない仕儀となってしまい、(実際当該ニュース以外は読むところもなくて)もう絶対買うまいぞと固く決心していたのですが、こんな記事(→「SFが読みたい!」 2013年版のブックガイドがヒドイ)を見てしまうと、読みたくなってきてしまったではありませんか(笑)
 てことで注文しました〜!
 この心理、何なんでしょうねえ。リンク先の記事をブックガイドに例えれば、「読む価値がないクズ本」であるとガイドしてくれているも同然なのに、それが逆に買いたくもなかった気持ちを購入する方向に曲げてしまったわけです。
「カラマーゾフの兄弟」は、人間がいかに不合理な生き物であるかをこれでもかと描いていたわけですが、私のこの行動も、典型的な不合理といえるかも。高橋昌一郎『感性の限界』を読めばそのメカニズムが分るのでしょうか(^^ゞ

 それはそうと、同じハヤカワから出る日本SF作家クラブ編『日本SF短篇50』(全5巻)に、堀晃(日本SF作家クラブ主催日本SF大賞の記念すべき第1回受賞者)が選出されてないという話が聞こえてきたのですが、本当なのか? 誤情報だったらあやまりますが、事実だとしたら、そもそもハヤカワに話を持っていった(もしくはハヤカワの企画を了承した)日本SF作家クラブサイドの大チョンボとしか言いようがありません。SF作家クラブの自己否定・自殺行為にも等しいのではないか。(要するに完璧な仕事を望めないことが予めわかっている業者を何故使うかね、ということです。これがたとえば東京創元社だったら、どうだったでしょうか)
 こういうのは、今ならその理由が「自明」なこととして流通しますが、50年後100年後には「もくじ」しか残らなくなってしまうんです。

 つい最近まで、矢野徹が「神戸三中」出身という誤情報がネットに拡散していました(事実は神戸二中)。殆んどが当時のウィキペディア(の誤記)を鵜呑みにして引き写したもので、私が気がつき、西さんから確証を得たので、掲示板に書きました→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs/2388
 その後 ウィキペディアは訂正されたようですが、まだまだ検索すれば「神戸三中」卒業という記載がうじゃうじゃ出てきます(極めつけはウィキペディアの「県立長田高校」の記事で、著名な卒業生一覧に名前が残っている)。

 このようなことが、とりわけネット空間では起こりやすい。当該日本SF作家クラブ編『日本SF短篇50』(全5巻)には堀晃が選ばれなかった理由が、きちんと釈明されているのかもしれませんが、そのうち品切れとなるでしょう。となると、上記のように50年後、100年後には「もくじ」しか残っておらず、「堀晃」はSF史上から抹殺されてしまう危険だって、ないとはいえないのですよね(同列に論ずることは不適当ですが、結果としてSFコンテストの川田武のような扱いになりかねないのです。川田武はSF史的(=ハヤカワ史的?)に過小評価、というよりも黙殺されています)。

 このような大変資料的価値の高い双書を、こともあろうにハヤカワから出すことにした(出すことを承認した)日本SF作家クラブは、一体50周年企画をなんと心得ていたのか、となってくるわけです。
 なーんも考えてなかったんじゃね、と中さんの口調が移ってもこようというものではありませんか(>おい)(^^;
 


「地球爆破作戦」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月 9日(土)21時16分35秒
返信・引用 編集済

   DVD「地球爆破作戦」(70)を観ました。
 原作はD・F・ジョーンズ『コロサス』。いうまでもなくハヤカワ銀背の一冊。といいながら、原作は読んでいないのでした(汗)。
 冷戦下のアメリカで、スーパーコンピューター”コロサス”が開発されます。アメリカの防衛機能の一切がコロサスに移管され、もはや大統領は「決断」の苦しみを味わわなくてよくなります。
 ところが、コロサスのシステムが作動するやいなや、コロサスは、別の(自分と同じ)システムが存在することを警告したのです。なんとソ連においても、全く同じ機能を持つスーパーコンピューター”ガーディアン”が開発されていたのでした。
 やがて二つのコンピューターが勝手に同期し始めるに至り、米ソ両国は軍事機密の漏洩をお互いに危惧し、コンピュータに無断で通信回線を切断する。
 それがコロサスらの逆鱗(?)に触れてしまう。両スパコンはその管制下にあるミサイルシステムを人質に、かえって全人類制圧に乗り出すのでした!!
 ラストに驚嘆。お定まりの大団円かと思いきや!? こういう映画は、現在ではもはや(不自由すぎて)制作できないのではないでしょうか。なかなかの佳品でした。
 


「カウボーイ&エイリアン」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月 8日(金)22時03分33秒
返信・引用 編集済

   DVD「カウボーイ&エイリアン」(11)を観ました。
 19世紀アメリカ西部、ゴールドラッシュに湧くアリゾナ州。一攫千金を夢見て人が集まってきますが、なんと金が大好きなエイリアンまで引き寄せてしまいます(^^;
 いわば光瀬龍時代SFの西部版。最後はアパッチとカウボーイの混成軍がエイリアンの宇宙母船に襲撃をかけます。いやーSFマインド的には、この設定だけで勝ったも同然ですね。面白かった。
 光瀬と書きましたが、アパッチが記憶を取り戻す秘薬を持っていたり、アクション主体であるところなど、むしろ田中光二かも。
 こういうのを見るとすぐ妄想してしまうのですが、用心棒に雇われた素浪人がUFOと斗う時代劇を見たいと思ってしまいました。主演は三船で。レッドサンより面白いものができるんじゃないかなあ(笑)。
  
 


み〜ちゃん様

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月 7日(木)19時55分14秒
返信・引用 編集済

  > No.4225[元記事へ]

 はじめまして。ご来信ありがとうございました。
 眉村先生は、昨年後半少し体調を悪くされていましたが、いまは元気になって、新幹線をフル活用されていますよ(^^)。
 この3日の日曜日も、イラストレーターで、眉村先生のジュブナイル作品の挿絵を多く担当され、年末亡くなられた依光隆先生のお別れ会(?)に出席され、日帰りでとんぼ返りで帰阪されたんですが、実はその1週間前の土日も、打ち合わせやら何やらで上京されていたそうで、二〇歳年下の私などよりもずっとお元気というか頑健でいらっしゃいます。
 今年も、復刊中心ですが、隔月おきくらいで本が出版される予定で、新作短編集も一冊、遅れなければ今年中に上梓されると思います。
 実は、今年は眉村先生が勤めておられた会社をやめ(み〜ちゃんさんのお父上はこちらの会社で同僚でいらっしゃったんでしょうか?)、フルタイムライターに転向されてちょうど五〇周年に当たるのです。ちょっと特別な年で、私どもも少しお祝い企画などを考えています(^^;
 眉村さんの最新情報は、当掲示板で随時告知いたしますので、たまにのぞきに来ていただけたらと思います。
 今後とも宜しくお願いいたします!
 


管理人様

 投稿者:み〜ちゃん  投稿日:2013年 2月 7日(木)14時49分11秒
返信・引用

  はじめまして。眉村先生はお元気ですか。私の父が若いころ、お仕事でご一緒だったのですが昨年初めてお話をさせていただきました。その時に先生が 最新情報はここでと このサイトのことを教えてくださっていました。今も大阪の方で小説の講座をご指導なさっていますか。  


西宮さま

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月 6日(水)22時38分25秒
返信・引用

  了解しました。
ご投稿は(残しても仕方ないので)削除しておきますね。
ご丁寧にどうもでした。
この投稿も数日したら削除いたします。
 


眉村さん情報「捩子」全リスト

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月 6日(水)20時06分49秒
返信・引用 編集済

   ある方のご好意で「捩子」全巻(16号欠)お借りすることができました。で、眉村さんの(当然眉村卓筆名以前の本名や別筆名での発表)作品を、とりあえずリストアップしました(下記。ただしまだチェックしていないので誤記等あると思います。キチンとしたのを作って、こちらと入れ替えます)。
 その過程で眉村さんの初発表小説も発見しました(筆名の「高原俊児」はビッグタレントですよね)。なんと宇宙塵登場より3年前ですよ!
 これからテキスト化に着手します。発表してよいとのご許可は頂いております(ただし眉村さん検閲の結果日の目をみない作品もあるかもしれません(^^;)。
 期待してお待ちくださいね!!
 どのように公開するかは未定。私は50周年企画「チャチャヤング・ショートショート・マガジン」創刊号資料編への掲載がベストではないかと考えています。いわば「50年以前」という位置づけですね。
 50周年企画は、この他にも、まだ明かせないコンテンツを用意していますので、みなさんどうぞご期待ください!



◯眉村卓「捩子」掲載作品全リスト(仮)


(BN)(発行年月)(頁数) (判型)            (作品タイトル)
創刊号 27/08/15  24p (A4[A3更紙二つ折り]謄写版)
2号   27/09/01  24p (同上)
3    27/10/15  38p (同上)
4    27/11/15  34p (同上)
5    27/12/15  29p (同上)
6    28/01/15  23p (同上)
7    28/02/15  22p (同上)
8    28/03/22  70p (同上)
                 <捩子文学会>に加入
9    28/05/01  30p (同上) 「幻想」(散文)、「暗中模索」、「浜」 【註】( )ないものはすべて詩
10    28/06/15  38p (同上)
11    28/08/15  30p (同上)
12    28/09/25  52p (同上) 「泡」(散文)、「受験期以後(十五句)」(俳句)、「夜の影」
13    28/11/18  50p (同上) 「(手記)疲労は幻覚を生む事」(散文)
14    29/01/17  26p (同上)
15    29/04/01  42p (同上)
16    29/05/03 <現物未見>
17      29/06/13  20p (同上) 「或る脱出」、「自叙」、「バス待てば幻想」、「小駅にて」、「徹夜抄」
18    29/08/11  56p (同上) 「うららかなり」(散文)、「朝の景」、「虚無」、「渕」
19    29/08/31  34p (同上) 「月に詠う」、「酔語抄」

20      29/12/03  44p (B5両面 手書き印刷)「不安」、「木犀」(俳句<10句>)
21      30/01/29  44p (同上) 「ある種の手法による印象の字化」
22    30/04/25  36p (同上) 「分離」
23    30/06/30  30p (同上) 「不安な望み」、「云いましょう」
24    30/10/20  36p (同上) 「午后十時」、「編集後記」(編集後記)
25    31/04/02  24p (同上) 「砂丘と海」
26    31/10/03  30p (同上) 「夜明け」
27    32/08/18  20p (同上) 「遠い結像」
28    32/10/15  27p (同上) 「射手の座」
29      32/12/27  24p (同上) 「宙闇郷」
30    33/04/01  39p (B5両面 タイプ印刷) 「都市圏」、「うちわごと」(後記)
31    33/08/10  32p (同上) 「異郷への陥落」
32    34/02/20  21p (B5両面 手書き印刷)「マーチの記憶」、「ぼくの言い分」(同人寸評)
33    34/03/25  17p (同上) 「破局への挑戦」、「私の言い分」(同人寸評)
34    34/04/25  14p (同上) 「けもの」、「光芒都市」
35    34/07/01  18p (同上) 「空しい帰還」
36    34/12/05  25p (同上) 「灰色立体」
37    35/08/23  29p (同上) 「くすぶっている」(小説・高原俊児名義)、「眼」

「仲間同志でやっている同人誌をパラパラとめくった。ところが文章はいつ見ても変わらなかった。/「こんな馬鹿な事はない」と彼は呟いた。/実際、作品は時に応じて変化すべきで、永久に固定すべきものではないのだ。」(「捩子」13号「疲労は幻覚を生む事」より)
 


「さかさま文学史 黒髪篇」「さかさま恋愛講座 青女論」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月 3日(日)21時48分16秒
返信・引用 編集済

  寺山修司『さかさま文学史 黒髪篇』(角川文庫78)読了。
 ここのところ雑事に取り紛れて書き込み自体は滞っていましたが、とうに読み終わっておりました。
 ということで承前、中也、啄木、藤村のお次は夢二。この人の少女玩弄も相当で、前の三人に負けていません(著者は少女狩りのジル・ド・レ青髭公爵とまでいっている)。しかし似顔絵でほいほい釣れるなんて、絵が上手だとを得ですなあ(>おい)。ところが、そのあとは案外おとなしくなってしまいます。やや竜頭蛇尾の感。
 まあこの4人が突出し過ぎているということで、ぶっちゃけた話、この4人のことを描きたがために、寺山は雑誌に連載企画として売り込んだんじゃないでしょうか。もちろん想像ですが。それ以外の作家達もぼろくそなのだが、なぜか織田作には著者は甘いんですよね。太宰はクソミソですが(笑)。

 ひき続いて
寺山修司『さかさま恋愛講座 青女論』(角川文庫81)も読了。
 青女とは青年に対置させた著者の造語。どうやら女性雑誌の連載のようで、若い女性に向かって語りかける形式。しかしそれを超えて一般的な語りかけになっています。要するに著者は、「現状維持の思想」(187p)に絡め取られるな、と言っている。そのためには「らしさ」を疑えと。らしさ(たとえば「女らしさ」「母親らしさ」)とは取りも直さず前代から「与えられた」インフォーマルな「制度」でしかないもので、常に過去に発している観念であるわけですね(「現状」とは「過去」なんですね)。「らしさ」こそ現状維持の思想であって、それに絶対的な根拠があるわけではないことは、少し考えればわかる。その考えるためのヒントを、著者は本書で提供しています。非常に共感できるもので、私も頭のなかも少し整理できすっきりしました。
 


山沢晴雄さん逝去

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月 2日(土)21時23分34秒
返信・引用 編集済

   ミステリ作家の山沢晴雄さんが、昨日お亡くなりになりました。心よりお悔やみ申し上げます。
 山沢先生には、畸人郷の例会で何度かお目にかかりました。その温厚にして誠実なお人柄に忽ちファンになってしまいました。
 私が眉村さんのファンということを知られますと、山沢先生のお住まいは平野区なんだそうですが、KTSCの例会からの帰途、国鉄平野駅まで一緒に帰ったことがあります、というお話をして下さいました。眉村さんが平野の業務住宅に住んでおられた頃のことに違いありません。てことは眉村さんのデビュー前ですね。

 ご著書の『離れた家』を取り出してき、私の大好きな「宗歩忌」と「時計」を読み返しました。山沢さんは、天城一さんと並んで旧本格派の鬼として知られるわけですが、この二篇は、意外にもあやしの雰囲気横溢する幻想短篇で、とりわけ前者「宗歩忌」は中国の怪奇小説に引けをとらない傑作。後者の「時計」も、こちらは分身テーマの〈奇妙な味〉系の佳品で*、それぞれ54年、55年の〈宝石〉誌ですが、いま「異形コレクション」に収録されたとしても違和感ないどころか、きっと好評を得ることと思います。*そういえば後者における分身テーマの捌き方には、眉村さんの私ファンタジーにおけるそれとあい通ずるところがあるように思います。

 ネット書評では緻密超難解の本格という伝説に引っ張られてか、そちらにばかり目が行き、これらの作品を評価するものが皆無なのは片手落ちだと以前からずっと思っていましたが、今回読み返し、改めてその思いを確認しました。
 実は畸人郷で山沢さんの謦咳に接しられたのは、10回に満たないと思います。私が仕事の関係で参加できなくなったからですが、『離れた家』は、私が参加できなくなった以後に出版されたのでした。ですから上記幻想短篇を読んで感嘆した私は、山沢先生における幻想短篇の位置づけを、いつかぜひ伺いたい、と思ったのですが、ようやくまた参加できるようになったときには、しかし今度は山沢さんが足をお悪くされて参加されなくなっていて、結局そのままになってしまったのは、詮なきことですが返す返すも残念でなりません。ですからご著書への署名も頂けないままになりました。

 《曾根崎の狭くいり組んだラビリンスをどう間違えたものか、曾て、一度も踏みいれた覚えのない横丁につき当ってしまった。石畳をひいた三間ばかりの路地に、赤い大きな提燈が目につく小料理屋の粋な構えが並んで、その奥にグリーンの軒灯に『セコンド』とよめるのが、酔余のうつろな記憶にあるばかりで、ついぞ、私はいまだに其の店を探りあてることができない。》(「時計」)
    
 
    (追記) うっかり自動的に国鉄平野駅と書き込んでしまいましたが、眉村さんは流町、山沢さんは(私の記憶が確かなら)喜連だったと思いますので、最寄り性から言えば当時存在した南海平野線の平野駅だったかもです。いずれにしろ想像ですが。
 

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