ヘリコニア過去ログ1303

Re: ラジオ深夜便

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月31日(日)18時12分57秒
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  > No.4341[元記事へ]

あ、段野さん、それはご愁傷様でした(違)。
私はすっかり忘れていました(汗)
 

風邪だった

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月31日(日)18時05分47秒
返信・引用 編集済
   朝起きたら、鼻水はさほどではなくなっていたのですが、かわりに咳がひどくなっていた。観劇に行って客席で咳を連発するのは、お客さんにも出演者にも迷惑千万でしょう。ということで、イワハシさんにダイレクトメッセージを入れ、今回は欠席とさせて頂きました。残念。これで二公演連続の欠席となってしまいました。哀号。次回公演は9月とのことで先になっちゃいますが、万難を排して観に行きたいと思います。

 ということで、夕方までこたつに潜り込んで、ひたすら養生にこれつとめ、と書けば殊勝ですが、事実は起きているでもなく寝ているでもない半覚半睡状態で無為に時を過ごしていたところ、夕方になって熱が出たらしく、ふと目覚めると下着がびっしょりになっていた。実はこれいつものパターンで、私の風邪は最後に熱が出て治るのです。つまりは花粉症ではなく普通の風邪だったようで、花粉症ではなかったのは幸いでありました。
 下着を着替えて顔を洗ったら、頭のどんより感もずいぶんましになっていたのですが、無理は禁物と再びこたつに潜りこんだ。ところがさすがに眠くもならず、持て余してテレビをつけてみました(何週間ぶりだろう。いや何ヶ月ぶりかも)。阪神戦をやっていた。なんか阪神に有望な投手が入団したんですかね、よく知りませんが、その投手の初登板の試合だったようで、それはいいのだが、テレビ中継はその投手を映すため阪神の守備の回ばかりの放送で、阪神の攻撃の回がすべてカットされていた。これ、ミーハーなファンはそれでいいんだろうけど、こんな放送されたって野球の試合を楽しみたいファンには全くつまらないのですよ。降板してからようやく普通の試合放送に戻りましたが、プロ野球も変質してしまったのだなあ。もうプロ野球中継は見ないかも。

 で、試合も終り、私も起きだして、今この駄文を連ね終わったところ。お目汚し深謝。

 追記。のど飴一袋を一日で嘗め尽くすと、ベロがやけどしたみたいにヒリヒリしちゃうのですね。実際試して知るトリビア。
 

Re: あすはオリゴ党

 投稿者:イワハシ  投稿日:2013年 3月31日(日)09時06分20秒
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  > No.4340[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。


>  明日のオリゴ党観劇、ちょっと危ないかも。朝起きて、鼻水にもうちょっと粘性が出てきていたら、もちろん行きますが。

無理なさらずに、しかしお待ちしております~。

http://iwahashiorigo@yahoo.co.jp

 

ラジオ深夜便

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月31日(日)05時10分36秒
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  3月31日放送とある「ラジオ深夜便」ですが、「誕生日の花と今日の一句」のなかで、作家の眉村卓さんがエッセイをよせられておられます≠ニの一言でありました。テキストのとおり、石田波郷の一句でありました。
これだけです。(-_-)zzz
 

あすはオリゴ党

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月30日(土)23時01分21秒
返信・引用 編集済
   昨日とつぜん(夜中に目が覚めるほど)喉が痛くなり、朝買ってきたのど飴一袋、一日で舐めつくした。そのおかげでか、喉痛はだいぶましになったのですが、今度は鼻水が止まらなくなってしまいました。顔を下向けると鼻水がボタボタ。屑籠がティッシュペーパーで溢れかえっています。
 風邪なのか、遂に花粉症に罹ったのか、まだ判然としません。
 明日のオリゴ党観劇、ちょっと危ないかも。朝起きて、鼻水にもうちょっと粘性が出てきていたら、もちろん行きますが。
 そんな次第で、頭もどんよりしており、『蛇の卵』を数行読みかけて、「あかん。ムリ!」。
 で、易きに流れて『SF JACK』から「チャンナン」「別の世界は可能かもしれない」「草食の楽園」を読みました。
 でも今日は下を向くと鼻水がボタボタ。感想は明日にします。
 

「SFJACK」より(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月29日(金)19時10分2秒
返信・引用 編集済
  > No.4332[元記事へ]

 上田早夕里「楽園(パラディスス)」を読んだ。
 本篇にはテーマが大きく二つあります。まずひとつめ。現在、電脳空間とのインターフェースは、パソコンや携帯端末(のモニター)を「目」で見るという(間接的)方法で行われます。本篇の近未来(現未来?)世界では、さらに進化していまして、耳にかけたプロジェクタから、直接、網膜にデータを投射する方式に変わっています。いま、直接と書きましたが、厳密にはこの方式も直接的とはいえない。
 この世界で、子供の頃からこの形式でインターフェースしている若者は、いちいちプロジェクタを着脱するのも不便に感じはじめています。主人公などもそのひとりで、出来れば通信デバイスを脳内に埋め込んでしまいたいと考えている。そういう近未来世界のリアルな描写。

 これって、本集中の新井素子「あの懐かしい蝉の声は」の「第六感」を人工的に作り出そうとするのと同じですね。新井作品では、環境の変化がその能力を自然に発達させたわけで、そのような第六感には、他の五感と同様、「パターン認識」が予め組み込まれているのではないか、というのが新井さんの想定です。
 当該作品を読んだ直後はうっかりしていましたが、新井さんがこういう設定を考えたのは、現在でもクズ情報の大海に紛れ込んで、本当に必要な情報がなかなか見つからない事態が問題となっているわけですが、人間は自前の第六感を獲得して初めて電脳空間を自在に扱えるようになるのではないか、という問題意識があったに違いありません。

 さて、主人公には想い人がいました。彼女(宏美)はメディカルプログラマで、人間と機械を接続する装置を開発する会社に勤めています。(どうでもいいですが、この部分でBMIなる略語が何の説明もなく出てきます。なんでこんなところに突然肥満指数が出てきたのか、とびっくりしましたが、バイオ−マシン・インターフェースの略なのかな(^^;)
 彼女はまさに、上述の脳内デバイスのソフトを開発している。

 ここで第二のテーマが出てきます。そういう近未来世界の風景において、彼女の願いは、人間(の意識)が他の人間から原理的に隔絶されている現状(これは現象学の命題でもあります)から、脳内デバイスを皆が埋設することで、解放されるのではないかという、その可能性を追求することなのです。脳内デバイスが、隔絶した二つの意識をブリッジしてしまうかもしれない、と宏美は考えています(厳密には電脳空間に共通の広場を設定する)。そしてそれが成就した世界を「楽園」と考えています。
 これに対して、主人公はそこまで楽観的ではない。

 実は私もそうで、人間を人間たらしめる「意識」は、(系統発生的にも個体発生的にも)他者(他の個我)との断絶を契機として成立する(構成される)ものなのですね。相手に他者を認めた瞬間がすなわち「意識」の誕生の瞬間なのです(自覚の後至性)。これは発達心理学的な事実です。
 で、その地点から、断絶した先を「思いや」ったり、(作中のチンパンジーにはない)利他的行動を発現したり、逆に騙したり裏切ったりする機制が生じる。よいことも悪いことも皆ひっくるめて人間なんですよね。
 もし、その断絶が取っ払われてしまったら、主人公がいうように「〈妄想の中の宏美〉を、心の中で、何度も何度も、ああしたりこうしたりしていることを」すべてあけっぴろげに知られてしまう。加川良がいみじくも歌ったように、「知らないほうがいい時だってあるでしょう」というわけです。「泣きもせで泣くふりするを見て泣いて泣かぬ顔する芝居見る人」という芸術一般の感興も消失するのは間違いない。
 こういう世界が「楽園」なのかどうか。

 もっとも以上は「人間」が今の人間と同質であることを前提としています。宏美の思考はもっと先を見ている。つまり(私のように)今の人間に人間を限定しません。「人間の本質がテクノロジーによって変質する未来に希望を見出そうとしている」(92p)。だから宏美にとって、私の反論は想定内のものであるわけです。どのようにでも変わっていけばよい、というのが宏美の立場です(私自身は(たとえば)「ホモ・ゲシュタルト」や「オーバーマインド」が楽園であるとはちっとも思えませんが)。

 おそらく主人公も、宏美のヴィジョンに対して100パーセント共感するものではなかった。そのように読みました。宏美の電子データとの会見後、主人公の中から憑き物が落ちたように思われます(書き忘れていましたが宏美は交通事故死し、電子データが残されているのです)。少なくとも生身の、電子データの、メモリアルアバターの、3種の「宏美」の共在を認めるところまでには客観的に後退している。
 だからメモリアルアバターの宏美が「(自分を)消さないの?」*と訊ねたとき、首を振るのですね。「本物ではない、だが、偽物でもない、そこに価値を見いだせるのは、私達が人間であるからだ」(113p)。ここの「人間」は、いうまでもなく、他我と切断された個我であるところの「人間」なんですよね。
 いやー、これは面白かった(^^)。本集随一の「問題作」ではないでしょうか。

 *ここは宮部みゆき「さよならの儀式」同様やや超越的。
 

「採薬使佐平次」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月28日(木)20時23分24秒
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  平谷美樹『採薬使佐平次』(角川書店13)読了。
 いわゆる《時代小説》かと思って読み始めたら、意外にも全然違いました。帯に「新解釈時代ミステリ」という惹句が付けられています。
 八代吉宗の享保の改革(とりわけ定免法と五公五民)は、生産力が右肩上がりなら庶民(農民)にも恩恵があるのですが、逆になると一気に民にしわ寄せが来る、そういう制度でした。
 亨保17年(1732年)、長雨による冷夏に追い打ちを掛けるウンカの大発生により、江戸四大飢饉の一つに数えられる亨保の大飢饉が発生してしまいます。
 このウンカ、本書で初めて知りましたが、毎年大陸からジェット気流に乗って飛来し稲に被害を与えるのだそうです。つまり大陸での発生状況や、ジェット気流がどのように日本に吹いてくるか、といったあなた任せの要因に左右される、予防対策のたてようがない厄介な虫害なんですね(ただし寒さに弱く死滅してしまい、「自然のままなら」子孫を日本に残さないらしいのですが……)。

 話は飛びますが、御庭番はもともとは紀州家の制度だったそうで、江戸幕府の御庭番(隠密)は、紀州から来た吉宗が幕府に持ち込んだものなんですね(てことは家康由来の伊賀甲賀はそもそも無関係?)。
 また吉宗は、当時薬の輸入で莫大な金銀が海外に流出していたことから、薬の自給体制の確立を企図し、本草学者を糾合して採薬使とし、日本各地に派遣して薬草の調査を開始します。と同時に、日本各地に赴く名目を有するこの採薬使を隠密につかって、各地の情報収集に当たらせます。
 本篇の主人公・植村佐平次こそ、吉宗に従って紀州よりやってきた、まさに隠密採薬使なのでした。余談ですが、この佐平次、実在の人物なんですね。採薬使を検索していて偶然発見した(^^;)。

 話は戻ります。冷夏に追い打ちをかける蝗害で、西日本の米作は壊滅的な被害を受けることが確実となりました。そこで幕府は、被害の状況を調査すると共に、蝗害への対処法を伝授する目的で、採薬使を各地に派遣しますが、焼け石に水。
 そんな状況下、何かを探っていたらしい江戸の隠密廻りの下っ端が斬り殺される。下っ端は不思議なガラスの管を握りしめていた。採薬使の元締めとして江戸に残った佐平次は、ひょんなことでこの事件に関わることになります。捜査の過程で佐平次は、この事件と、自然災害であるはずの蝗害との、奇妙な暗合に気づきます。しかも、それを辿っていく佐平次の前に、西日本に餓死者の山を築いたこの大飢饉を、いわば人質として江戸幕府に脅しをかける超絶奇計が、とんでもない大陰謀計画が、しだいにその全貌をあらわしてくるのでした!?

 いやー面白かった。ある意味江戸時代の科捜研もの・プラス・スパイ大作戦です! まさに設定の勝利というべき快作。これまでの平谷作品を玄人ウケするアルバム曲とするならば、本作はシングルカット曲です。ひょっとして本書、なにか賞取りするんじゃないでしょうか。そんな気がするなあ(^^)
 

Re: しかし驚きますな

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月28日(木)17時11分31秒
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  > No.4336[元記事へ]

かんべさん
>SFブームの時期だったからでしょうけど
 そうですね。それとやはりテレビの出現で一回死にかけたラジオが、トランジスタというパーソナルユースのラジオが開発され、深夜勉強部屋で一人こっそり聞く新しい市場が生まれて復活した時期で、若手落語家に新しい場を提供したということも大きいのではないでしょうか。あ、マスコミを専攻なさったかんべさんには、釈迦に説法孔子に論語マホメットにコーランでありました。失礼しました(^^;
 
 

しかし驚きますな

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2013年 3月27日(水)23時27分32秒
返信・引用
  各原作とも、ものすごい出演者を揃えてドラマ化してますやないか。
多分、SFブームの時期だったからでしょうけど、豪華絢爛贅沢三昧。
いまのラジオ局の力では、いかな朝日放送でも、これは不可能でしょう。
うん。米朝師匠の「ブリッジ」的な案内のなかに、人間のやることか、
日本人の本質か、とにかく、「ちょっとも変わってへん」もしくは、
「ちょっとも懲りてへん」という台詞があり、その言い方に、
ぷーっと吹いたことを思い出しましたな。では、この件、これにて。


 

Re: それは私です

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月27日(水)22時06分55秒
返信・引用 編集済
  > No.4333[元記事へ]

かんべさん、ありがとうございました。「当該ドラマは自作「通夜旅行」が原作である」との、かんべさんの「自供」により、めでたく事実が確定しました。
 ところが、凝りないのですねえ。その自供に信憑性はあるのか。かんべむさしの自供が虚偽のそれではないという証明は、まだではないか。などとミステリ者は言い立てるのです。
 ミステリの場合、そこまで詰めてはじめて、ミステリの要件を満たすことになるわけで そこを飛ばしてしまうと、読者に対して不正(騙し)になると考えるようです。要するに「捜査に参加している読者」というのを必ず仮定して小説を作って行かなければならない。『第三の時効』は、その点で読者を欺いて成立しており、見事にトリッキーではあるが、ロジカルなミステリではないということになるのか。なるほど(>と後半は独り言(^^;)。というか読者に対してトリックを仕掛けてはいけないということでしょうか。うーむ。SFには「信頼できない語り手」というのがありますが、これ、ミステリ的にはトンデモナイ話ということになるのかな。

 段野さんが「通夜旅行」の配役を書いてくれましたので、他作品の配役も記載しておきます。
「霧が晴れたとき」>入川保則、林美智子、他
「母子像」>中谷一郎、来路史圃(けろふみほ)
「トロキン」>安達治彦、小山乃里子、尾崎千秋、浅川美智子、浜村淳

「トロキン」の原作を読み返して、この作品、「宇宙人侵略」テーマの新機軸であることに気づきました。
 地球侵略に尖兵としてやってきた無定形生物が、まず団地のすべての女に入れ替わって工作の準備をするのですが、男が働きに出、女は家でのんびりしている(70年代までの)サラリーマン家庭の主婦に次第に慣れきって、侵略みたいな七面倒臭いことをおっぱじめるより、今のこの状態のほうが楽でいい、と考え始めるのです(^^;
 これは地球侵略テーマをオフビートにした佳作。今まで完全に見過ごしてしまっていました(恥)。地球侵略アンソロジーに収録したい作品はあまたありますが、本篇も忘れず収録して頂きたいと思いました(^^;

『採薬使佐平次』は200頁。あと50頁。

 眉村先生より、《捩子作品集》のゲラ直しが戻されてまいりました!(^^)
 

Re::それは私です

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月27日(水)13時22分9秒
返信・引用
  かんべさま、ありがとうございました。当方のメモには原作者の名前がなかったものですのでありがとうございました。
ちなみに、出演者は、ご指摘のとおり、露乃五郎、林家小染、桂文珍、笑福亭鶴瓶、明石家さんま、楠本美枝子、末成由美、前田五郎、坂田利夫、桂春蝶の面々でした。
道上さんの名前は見当たりませんでした。
 

それは私です

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2013年 3月27日(水)06時54分59秒
返信・引用
  「通夜旅行」は当方の初期の短編で、確かにラジオドラマにも。
当時まだ桂小春団治だったか、もう露の五郎になってたか、
とにかくあの師匠も出演者で、「かんかんのう」を歌ってはりました。
そうか。それが朝日放送だったのか。そういえば道上さんも出演者で、
サラリーマンの役をしてはったかな。録音してないので、記憶のみ。
 

「SFJACK」より(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月26日(火)21時48分2秒
返信・引用 編集済
  > No.4320[元記事へ]

高井さん
>かんべさんでは?
 おそらくそうでしょうね。いや、ほぼ間違いなくかんべ作品ですね。
 しかしこのドラマ「消える」に関しては、ネット上には情報が欠片も上がってないのですよねえ……。
 すると「それは状況証拠でしかなく確定ではない」とミステリの人はいうわけです。
 私なら、この空いたところに何が嵌るか、と見渡して、「かんべむさし・通夜旅行」あ、これや! とそのピースをパチリと嵌めこみ、やった完成したぞ、と快哉を叫ぶのですが(^^;

『採薬使佐平次』に着手し、7、80頁くらい。ところがうっかり本を置き忘れて帰って来てしまいました。

 仕方がないので「SF JACK」を手にとった。巻頭に戻って冲方作品を読みかけたのですが、めくるめく文体に目が回ってしまったので(>おい(^^;)中止。次の吉川良太郎「黒猫ラ・モールの歴史観と意見」を読みました。
 傑作! 「果しなき流れの果に(復活の日も入って)継ぐのは誰か?」という話を僅か25ページでやってしまう暴挙! 人類は滅び、「黒猫・死」の死体から「生」が発生し、ふたたび進化が開始されます!
 フランス革命のまさにその当日、伯爵家にメイドの働き口を得てパリに出て来た娘は、(当の伯爵一家が既に逃げ去ってしまった)無人の邸の前に呆然と佇んでいたところを革命派の軍隊に捕まりあっという間に死刑宣告を受け断頭台の露と消える。「パリに来てわずか一日の出来事である」。「世界の不条理」を残酷なまでに照射し浮かび上がらせるこのエピソードが実によいです。
「世界にとって人間とは何か?」「人間の存在に意味などあるのか」という身の程知らずな問いも、小松左京を髣髴とさせて頼もしい限り。小松左京の後を襲う作家としてはサイエンスの面では堀晃、テクノロジーの面では谷甲州がいますが、その哲学・人文科学的部面での後継者は、管見では見当たらなかった。吉川良太郎がこの空白を埋める作家に、ひょっとしたらなってくれるのではないか、そんな期待を抱かせられる快作でした。
 いやあ、わずか25頁の中に展がる無限の世界観を堪能しました。

 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 3月25日(月)22時56分12秒
返信・引用
  > No.4330[元記事へ]

>  たぶん「トロキン」のあとに(4)があり、段野さんのメモによりますと、原作者不詳の「通夜旅行」があって、
 かんべさんでは?
 

SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月25日(月)21時53分9秒
返信・引用 編集済
   段野さんから今日届いたCDを聴取しました(^^)
《第5回ラジオ月間特番 SFオムニバスドラマ「消える」》 制作・朝日放送。FM大阪・1979年10/26放送。ナレーションで「民間放送全国ネット」と言ってましたから、これは全国のラジオ局で聴けたのでしょうか。
 さて、構成はなかなか複雑です。
「ショートドラマ」(1) 桂米朝の朗読 2分弱
「霧が晴れたとき」(小松左京原作)約15分
「ショートドラマ」(2) 桂米朝の朗読 約3分
「母子像」(筒井康隆原作)約27分
「ショートドラマ」(3)桂米朝の朗読 約3分(途中からショートドラマ化)
「トロキン」(眉村卓原作)約11分+α
……………………留守録のためここでテープ切れ……………………

 米朝さんの朗読(ショートドラマ)は続きもので、一回目の冒頭は「それは美しい国でした」という言葉で始まります。
 その島国は素晴らしい国で山野は美しく四季があり、経済は発展し国際発言力も高まっていて、人々は「昨日に続く今日、今日に連なる明日の生活を何の疑いもなく謳歌していました」。そこは楽園だった。近い将来巨大地震の起こる可能性さえ除けば……
 となれば、どこにも記載はないしアナウンスもされないのですが、これは言うまでもなく「日本沈没」を元にしたシナリオだと思います(でも単なるシナリオ化ではないようです。月の引力のマグマへの影響を調べるため、地下5キロのマグマ溜まりまでボーリングしたとき大地震が発生した、というふうになっています)。3回目で大地震が発生し続いて大津波が押し寄せます。この朗読はどの回も2〜3分です。
 ただしテープ切れのためこのあとの展開は不明。
 たぶん「トロキン」のあとに(4)があり、段野さんのメモによりますと、原作者不詳の「通夜旅行」があって、そのあとに最終回の(5)となるのではないでしょうか。
 実は「トロキン」も、最後がちょん切れています。原作(『ワルのり旅行』所収)を読み返してみたところ、ストーリー自体は切れる手前で終わっています。切れた部分はわずかですね。
 ところで、米朝の朗読は3回めからドラマ風になってきます。メモによれば、ゲストとしてキダタロー・中村鋭一・末広真樹子・笑福亭仁鶴・桂朝丸・月亭八方・上田彰・上田ゆうぞうの名が記録されています。これだけ登場するのだから、最終回の第5回は、3分程度のものではなく、20分くらいのラジオドラマだったんじゃないでしょうか。と、そう考えるのは、切れたところまででだいたい1時間なんです。1時間半の番組と仮定すれば、「通夜旅行」が10分、残り20分を「ショートドラマ」に費やしたんじゃないでしょうか。
 念のため書いておきますが、これはすべて想像ですのでお間違いなく。実際のところをご存知のかたがいらっしゃいましたら、ぜひご教示いただければと思います。
 

「日本売ります」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月25日(月)01時18分1秒
返信・引用 編集済
  小松左京『日本売ります』(ハヤカワSFシリーズ 65)
 第三作品集は、下記初出情報のとおりSFマガジン初出は一本。宇宙塵初出も一本。という次第で、いろんな媒体に63年から65年にかけて発表された作品が収録されています。第2作品集では「雑多な媒体」と書きましたが、本集には雑多感はない。大体文芸雑誌での発表で、変ったところは《季刊エナジー》《人間の科学》《FIVE 6 SEVEN》くらい。これらの雑誌には(前集同様)やはりそれに見合ったものを書いています。

《季刊エナジー》の「海底油田」は、まさに、というところ。
《人間の科学》はたぶん哲学・人文科学系の雑誌ですね。ここに書かれた「正午にいっせいに」の”正午”はニーチェの「大いなる正午」ではないでしょうか(つまりこの雑誌の読者ならニヤリとしたんでしょう)。
「ぬすまれた味」掲載の《FIVE 6 SEVEN》については、ここに情報があった。一種のメンズマガジンみたいですね。

 あとがきによれば、収録作品は(発表自体は当時の直近ながら)「書いたのは、ずっと以前――第一作品集が編まれた時より、もっと前に、書いたものが大部分を占めて」いて、それゆえ「短篇集の基調は、ひどく暗いものになって」しまったとのことです。
 たしかに、青春の暗さにアンビバレンツな思いを抱く「哲学者の小径」の「私」が小松本人であるのは明白で、あとのふたりも、高橋たか子が「親友三羽烏」と書いたところの(『高橋和巳の思い出』61p)、「高木」は「高橋和巳」、「遠藤」は「近藤龍茂」がモデルでしょう。

「召集令状」ではさらに過去にむかい、小松自身は年齢的に(幸いにして)引っかからなかったが、「召集令状」の到着という戦中とりわけ末期の悪夢を追体験したもの。これは著者の狙ったところではなかったかもしれませんが、異次元で戦われている戦争にこの世界から徴兵されていくという世界観がなかなかよい。眉村さんにも似た設定があります。

「新趣向」「わびしい時は立体テレビ」はほぼ同設定。
「四次元トイレ」「忘れられた土地」はよくできたショートショート。特に後者はブラウンぽくて私好み。なるほどどちらも《漫画読本》読者に受けそうです。
「仁科氏の装置」は後半生かけた営為の不条理さがよい。
「適応」はシェクリイを想起。
「SOS印の特製ワイン」はロボットテーマの佳品。こういうのもよいですねえ。宮部みゆき「さよならの儀式」と並べてみてはどうでしょう(笑)。
「日本売ります」は、ハインラインの「月の軌道範囲(白道?)の直下の土地を買い占める」話を思い出した。「月を売った男」だったっけ。
「愚行の輪」はトリッキーな時間もの。こういうのを私はロジカルと感じるのですが、ミステリファンはトリッキーと思うんでしょう。
「物体O」のアイデアは何度も設定を変えて小説化されています。逆にいえば著者もこの作品だけでは不満だったのではないか。私の読後感も「小説として未完成」に尽きます。

「ホムンよ故郷を見よ」は本集中の白眉。小説として荒削りながら(あとがきによれば「物体O」も本篇もSFを書きだした62年に書いてあったのを改稿したものということで、荒削り感や未完成感はそのせいでしょう。逆にいえば改稿とは言い条、実際は殆んど手を入れてないということですな>おい(^^;)、それゆえに思想性観念性が顕著です。これは素晴らしい傑作。本篇のテーマはマイノリティと差別ですね。差別対策論で「寝た子を起こすな論」というのがあります。これは効果という面で、案外有効ではあると私も正直思います(現状を鑑みて)。でもそれは(正義の観点からみて)違うのだ、というのが著者の主張。「それは超越的な原理であり、文明がこれを見失う時、ついには相対化の中に、一切の倫理的指標を失う」「たとえ歴史の流れに当然押しつぶされることが明白にわかっていても、正義を立てなければならぬ」(296p)として、「この思想は弾圧を被ることは目に見えている。他の弱小種族へ、この運動が伝染したら、わが統一体は大混乱におちいるだろう」「だが(……)すでにパルファ系統一体の歴史観に巨大な一撃を与えたのだ。既存体制の崩壊は、もう始まっているのかもしれない」(305p)
 ここにいる著者は、後年の、「体制維持」の物語の作者とは異なっています。もちろん方法論の違いにすぎないということもできますが、やはり本篇のような原理主義者は影を潜め、既存体制をアプリオリに受け入れた「現実派」になってしまったのは確かなようです。

 ホムンよ故郷を見よ 宇宙塵    1963/09/00

 愚行の輪      別冊宝石   1964/03/00
 海底油田      季刊エナジー 1964/04/00
 哲学者の小径    オール讀物  1964/04/00
 日本売ります    週刊サンケイ 1964/04/06
 物体O       宝石      1964/04/00
 召集令状      オール讀物  1964/05/00
 正午にいっせいに  人間の科学  1964/07/00

 新趣向       SFマガジン 1965/01/00
 仁科氏の装置    新刊ニュース 1965/01/01
 ぬすまれた味    FIVE 6 SEVEN 1965/02/00
 四次元トイレ    漫画読本   1965/02/00
 忘れられた土地   漫画読本   1965/03/00

 SOS印の特製ワイン  不明   不明
 わびしい時は立体テレビ 不明   不明
 適応          不明   不明   (出典

 それにしてもこの(統一的な色調が濃い)作品集を文庫化に際しバラして分散収録させてしまったのは大失敗だったと思いますね。
 ということで、『採薬師佐平次』に着手。
 

「蛇の卵」購入

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月24日(日)21時20分44秒
返信・引用 編集済
   昨日は畸人郷例会。ちょっと早めに大阪へ出ました。というのは他でもなく、ラファティの新刊『蛇の卵』(青心社刊)を購入するため。
 実はネットで「「蛇の卵」手に入らないよーツイートばかり...。」というつぶやきを見かけ、さらに追い打ちを掛けるように「ラファティ「蛇の卵」は青心社には在庫があるそうなのでマケプレでプレミア品でても引っかからないようにねー(大声で) 」というツイート(笑)がされていたりで、これはひょっとしたら書店でも手に入らないかも知れないなあ。だったら青心社まで買いに行かなくちゃならんかもな、と、最悪の場合を想定したわけです(註:青心社は大阪にあります)。
 という次第で、とりあえず(梅田で一番残っている可能性が高い)西梅田のジュンク堂に行き、ドキドキしながら、海外SFの棚を見ました。
 「あった〜!(嬉)」
 というか、面陳で10冊くらい重ねられていた。
 で、反応が変った。
 「なんだ、あるじゃん」(>おい)
 その10冊をためつすがめつ吟味して一番きれいなのを購入しました(^^;
 私は思いますが、ネットで時折見かける「アオリ」は全くよくないと思います。別にほしいわけではない人が、あおられて買ってしまう危険があります(そして読まれず死蔵される)。はっきりいってマケプレの極悪非道値付けと50歩100歩。購入希望者も、ネット書店ばかり頼ってないで、「ないない」とつぶやく前に、実際に町に出て実態を確認するべきでしょう(もちろん都会在住者の場合です)。
 おかげで一時間ほど無意味に時間つぶししなければならなくなったじゃないか! まあそんなツイートをする人は、べつに本気で購読したいわけじゃないのかもしれませんが。

 さて、読書会は横山秀夫『第三の時効』。SF読者の読みとミステリ読者の読みは、ぜんぜん違うんだなあ、と、改めて考えさせられた読書会でした。ミステリ読者はいわゆる「論理的」解決の快感と、最後にぱちりと嵌って完成するパズルの快感を峻別するんですね。SF読者は、というか少なくとも私は、あんまり厳密には区別してなかったような気がします(そう指摘されたら私にも違いはわかりますが)。星新一のショートショートでオチが決まった作品、たとえば「おーいでてこーい」は、私の中では論理的小説という風に感ずるのですが、ミステリ読者的には、それは論理的小説とはいわないのか。今回の『第三の時効』は、そういう意味でパズル小説ではあるけれども論理的ミステリではない、という結論になったのでありました。これはしかしもう少し考えを煮詰めてみたいと思います。

 二次会はいつものように盛り上がり私はまたしても帰るタイミングを失って、電車に間に合うかヒヤヒヤだったのですが、安易に地下鉄に乗らず(居酒屋とJR大阪駅間は徒歩15分。その中間に地下鉄東梅田駅があり、地下鉄で天王寺まで行ってJRに乗り換える方法を取れば、7、8分短縮できるのだが、地下鉄はこのところ2回つづけて眠って乗り越しているのでした)必死の早歩きでJR大阪駅でなんとか電車に間に合い(阪和線直通なので、これなら寝てしまっても大丈夫なのです)、12時30分頃最寄り駅に無事帰着しました(もっともふくらはぎの前の部分がパンパンに張ってしまいましたが)(^^;

『日本売ります』読了。
 

寺山と澁澤

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月22日(金)23時25分58秒
返信・引用 編集済
   中井英夫ゆかりの歌誌《短歌研究》5月号(来月発売)は「寺山修司特集」とのことで、本多正一さんもエッセイを寄稿されるそうです。そのエッセイをフライングで読ませてもらいました(^^;
 15枚を超えるなかなかの力作でしたよ! もちろん内容は話すことはできません。ぜひ買ってお読み下さい。
 実は先月、ブックオフで『寺山修司青春歌集』というのを見つけ、短歌なんて全然わからないのですが、なんとなく買ってしまいました。で、ぽつりぽつりと読み進めているのだけれど、これがあんまりピンとこないのですねえ。エッセイは大好きなんですけどね。
 で、上述の本多エッセイに、中井英夫の寺山短歌評が引かれていまして、もちろん孫引きするわけにはいきませんが、それを読んで、わたしの感じた違和感がなんとなく納得できたのでした。
 その話を本多さんにしたところ、(これはエッセイの内容とは無関係なので書きますが)中井は寺山の後半の仕事についてはさほど買っていなかったらしい。要するに劇団やエッセイストとしての寺山ということだと思われます。初期短歌と、以後のシニックな作風とはかなり違っているらしい。私はその、以後の作風を、無意識に寺山の座標原点としていたはずで、その観点からは初期短歌はずいぶん異質ということになるんでしょう。
 そういえば中さんが、澁澤龍彦がエッセイストから晩年に小説家になってしまったことについて、剃刀の刃のような切れ味のエッセイが(加齢により)書けなくなったので小説に転身したのだろう、と、そしてそれは正解だった、と、言ってたのを思い出しました。
 エッセイに関しては正反対のベクトルですが、軌跡の構造は同じなのかな、と思ったのですが、全然見当外れかもしれません(^^;。

『日本売ります』は200頁。のこり100頁。

 明日は畸人郷例会(飲み会ともいう(^^;)につき、書き込みできないかも知れません。
 

Re: 男のポケットyoutube化計画

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月22日(金)20時41分3秒
返信・引用 編集済
  > No.4319[元記事へ]

 今日は動画に付け変えてみました。



 これはやや難しいですね。今回は目分量でやっつけましたが、きちんと仕上げようとしたらストップウォッチがいるかも。
 しかしまあ、動画を使うことはまずないでしょう。静止画像を朗読に従って並べていくのはやってみたい。一種の紙芝居ですね。
 その点、場面が固定している海神亭シリーズはなかなか適当ではないでしょうか。カウンターの止まり木の客の後ろ姿と横顔のアップ。カウンター内でグラスを磨いている鏑木を正面から捉えたのと、やはり正面からの顔のアップ。この4枚のやりくりで一篇作れると思います。むしろスケッチみたいな絵柄の方がよさそうですね。
 私に画才があればなあ(^^;
 

Re: ラファティ「蛇の卵」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月22日(金)00時06分4秒
返信・引用 編集済
  > No.4323[元記事へ]

イワハシさん
 わ、ご無沙汰しております。書き込みありがとうございます。
 どっちの日にするか決めかねていて、返信していませんでした。申し訳ありません。
 今回書き込んで下さったのは、表面の文言はそのままにありがたく拝読しましたが、多分裏も読み取らなければならないんですよね、つまり「いつ来るのかはよ決めんかい、こっちにも都合があるんじゃ」という隠された意味を(^^;
 いやもちろん冗談ですが、遅くなってまことにすみませんでした。日曜(31日)13時からの公演にお邪魔いたします。よろしくお願いします。
>今回はコメディタッチでお送りしますー
 楽しみですー(^^)
 

Re: ラファティ「蛇の卵」

 投稿者:イワハシ  投稿日:2013年 3月21日(木)23時37分27秒
返信・引用
  > No.4316[元記事へ]

ありがとうございますー。
お待ちしておりますー。
今回はコメディタッチでお送りしますー。


>30、31の土日のいずれかで、オリゴ党の芝居「社会的な彼女――女王蜂は偉いのか」を観る予定。

http://iwahashiorigo@yahoo.co.jp

 

Re: Re:男のポケットyoutube化計画

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月21日(木)22時16分35秒
返信・引用 編集済
  > No.4321[元記事へ]

段野さん
 わ、めっそうもない! それは深読みしすぎですよ。私はジーン・ウルフではございません!(>ナンノコッチャ)。素直に表面の文字だけお読み取り下さい(^^;
 だいたい、今回頂いた分だけで、100話以上あるはずです。一日一話、ユーチューブ化したとしても、100日以上かかる計算です。実際にはそんなコンスタントにはできませんから、1年以上、ヘタしたら2年がかりの大プロジェクトになってしまうかもしれません。
 そういう次第で、焦眉の急というようなことは全くありませんので、どうぞご休心下さい。そんなにアセられると、むしろ逆に、こっちが急かされるような気になってしまうではありませんか。あ、それが狙いか!? そんなわけないですよね。ほんとにもう、私までウルフ読みしてしまいましたがな(^^ゞ
 追記。それ以前に先生のご許可を得られるかどうか(『鳴りやすい鍵束』で読めるものなので)。私は五分五分とみています。

『日本売ります』は、100頁。ほぼ3分の1。
 

Re:男のポケットyoutube化計画

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月21日(木)15時01分34秒
返信・引用
  管理人様
やばい、超やばい。カセットの修復を早くしろ! との御命令ですね。あと一巻残っていますので、何とかします。いや、やらなくては、と追いつめられています。
どうにか、失敗続きのラジオドラマを何とかCD化しましたので、お手元に届くように手配します。
カセットテープの修復をがんばります。それまで、お待ちください。(この残りのカセットさえ何とかすれば、計画は完成に近づくのですね)m(__)m
 

「SFJACK」より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月21日(木)00時47分49秒
返信・引用 編集済
  > No.4318[元記事へ]

 承前。「SFJACK」から、ひきつづき、宮部みゆき「さよならの儀式」。なんせベストセラー作家は読まないという方針なので、今回が実は著者初読みでした。いやー面白かった。宮部みゆき侮れません。ベストセラー作家だからといって、一概につまらないものを書いている作家ばかりじゃないんですねえ(>おい)(^^;。とはいえ、読みたい本は数限りなくあり我が余命は限られています。どこかで線引きしなければなりません。当然その線は恣意的なものとならざるを得ず、而して私の場合はベストセラー作家作品とラノベ作家作品をその線外にしたというだけの話。その結果出遭えなかった傑作は当然ありましょう。それは縁がなかったと諦めるしかありません。

 さて、本篇のテーマは「擬人化」。擬人化とは客観的には「心無き」対象に「心」を認めることです。飼い猫を我が子のように思い接するのも、愛車に名前をつけてペットのように扱うのも擬人化です。その根底には、他者認識構造(他者を自分と同じ心あるものとして認識すること)があります。現象学で言う我-汝問題ですね(もしくは山田正紀問題)。我(主観⊂主体)はなぜ他者も自分と同じ存在(他我=主体)であると確信しているのか。でもよく考えれば「他人の個性の深奥は我々の認識の彼岸にある」(ジンメル)。そこに「視界の相互性」という反復概念を持ち込んで説明したのがテオドール・リットですが、この志向性が人間以外の(意識を持たない)動物や、無生物に向けられると、「擬人化」という誤作動が発動するのではないでしょうか。(誤作動と書きましたが、客観的には誤作動でも当人にとっては真の関係)
 本篇の場合、老(?)ロボットの最後の動作はいささか超越的で、一見擬人化に与してしまったようにみえます。これをもってやっぱりベストセラー派やなというのはたやすい。でもそうでしょうか。猫でも歳ふれば猫又になる。器物も九十九年たてば魂を持つといいます。いかに平谷さんと親しくさせていただいているといっても、これを事実として受け入れることは私にはできませんが(>おい)、これらの例は要するに年齢を重ねて体験をつむことでヒトは人間になるというアレゴリー(の転化)なのではないでしょうか。
 とまれ、ロボットも百年たてば、それだけ社会的関係をつめば、心を持ってもおかしくないのではないか(本篇のハーマンは200歳)。昨日の山本弘作品の続きでいえば、少なくともヴァーチャル空間のAIが魂を持つ可能性よりも、現実に人間と社会関係を取り結ぶ(人間が誤作動とはいえ心を認めて接してくれる)ロボットのほうが、はるかにその可能性は高いように私には思われますね。

 いやー「パターン認識」(新井素子)、「ヴァーチャル空間における経験」(山本弘)、今回の「擬人化」(宮部みゆき)と、現代SF、豊穣ではありませんか。堀さんが危機感を持たれるのもむべなるかな。たしかに堀作品に劣るともまさらない、もとい、まさらずとも劣らない秀作が並んでいました。ひきつづき読み進めたいところですが、予定に従って、一旦小松初期作品に戻り、合間に余裕があれば、ポツポツと摘読していきたいと思います。
 

男のポケットyoutube化計画

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月20日(水)21時30分58秒
返信・引用 編集済
   ふと思い立って、というよりもここに触発されて(海野作品の朗読ドラマ化です)、youtubeを制作してみました↓

 

 画像はネットから適当にいただいたものですが、コンテンツはミディコンバーターで自作。もっとも5年以上前の作品です。
 意外に簡単に出来ましたね。
 いや、男のポケットの眉村さん朗読ショートショートのユーチューブ化を目論んでいまして、私のローテクでも可能かどうか、試してみたのでした。
 すでに朗読のMP3変換は終わっているので、ユーチューブ化は、やろうと思えば今すぐにでも可能ということが分かりました。
 それは分かったが、そもそもまだ眉村先生の承諾を得ていない、というか、そんな話をお願いもしていない――どころか、そういえばMP3化したことも報告していないのだった。
 そんなわけで、いつになることやら全く茫漠としたお話なのでした(^^;

 まずその前に、眉村卓青春詩集(嘘(^^;)の刊行に専心しなければ!
 

「SFJACK」より

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月19日(火)23時13分47秒
返信・引用 編集済
  『第三の時効』が意外に早く片付いたので、『SF JACK』をつまみ読みしてみました。
 まずは新井素子「あの懐かしい蝉の声は」*。おお、これは要するに「パターン認識」問題ですね。[*蝉は正字]
 人工でアポステリオリに獲得した受容器官は、パターン認識が機能せず情報洪水をもたらす。わが老父は補聴器が必要な体なのですが、補聴器はすべての音を「均等」に拡大する「だけ」なので、煩わしくなってほとんど身につけません。これはまあ我慢しているうちに慣れてパターン認識が働き出すんじゃないのかなとそう私自身は想像しているのですが(実際のところは判りません。本篇ではそういう風にはならないという立場なのかな)、年寄りは我慢しませんねえ。でも聴き取りレンジが縮小すると、コミュニケーションも断片化していくはず。ひいては脳の衰えを早める。負のループでそういう因果的理解力が弱化していくので、なおさら我慢しようとはしなくなっていくんじゃないかな。
 本篇はしかしそういう設定だけで終わってしまっていますね。いわば総論と結末だけ。本当はその間に各論を、つまり「物語」がほしかった。

 山本弘「リアリストたち」。面白かった。これはある意味「裸の太陽」ですね。こんな未来はありえないだろうと、20世紀後半人は思っていたはず。ところが、現実はどんどん「ソラリア」化が目前に迫りつつあるんですねえ。著者の筆致は、おおむねノーマル側で、リアリストを過去の遺物として否定しているように、一見、みえます。しかし、どうなんでしょう? 本篇の世界におけるノーマルは、まだ肉体人(心身人)という意味ではリアリストと同じなんです。今後存在することになるヴァーチャル人(?)はぜんぜん違う存在です。現象学的見地というよりもメルロ・ポンティ的見地からいえば、体験する肉体なしに精神は生まれない(発達しない)と思います。「読書による経験は、言葉の正当な意味で経験たりうるか」と問うたのは大江健三郎でしたが(cf『壊れものとしての人間』)、同じ意味でヴァーチャル空間における経験は経験たりうるのでしょうか? 「本当にそう思われます? リアルとバーチャルには違いがないと?」(294p)。ヴァーチャル人が(本篇の言葉で)「統合的精神活動」を有するに至るものなのかどうか。「今日のこの決断を、私は後悔する日が来るのだろうか」というラストの一行は著者自身の搖れでもあるように感じました。
 

「第三の時効」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月19日(火)20時41分47秒
返信・引用 編集済
  横山秀夫『第三の時効』(集英社文庫06、元版03)読了。
 今週土曜の畸人郷読書会の課題図書。読み終わるのに3日と見積もっていたのですが、読み出すや巻措く能わずで、昨日一晩で殆んど読みきってしまった。寝落ちして残した20頁ほどをさっき読んで読了。
 連作短編集なのですが、これがSFの短編集だったら一つ読むたびに必ず一服するようにと脳が要求します。本書の場合そういう負荷抵抗をまず感じませんでした。するすると、チェーン・スモーキングならぬチェーン・リーディング状態で読破してしまった。
 SFの場合、短編ひとつひとつで設定が異なっていたりするため、その都度脳に新たに設定を組み込まなければならないのに対し、一般的にいってミステリでは、設定は「このリアル現実」であるのがデフォルトなので、当然可読性は上がるわけです。が、たとえそうだとしてもつまらないミステリではそんな風にはいきません。やはり本書自身に、可読性を後押しする「力」が備わっているからでしょう。

 本編は警察小説です。F県警本部捜査第一課強行犯捜査係は、田畑課長のもと、朽木(一班)、楠見(二班)、村瀬(三班)を班長とする三班に分かれている。この三人の班長はそれぞれ極端に対称的なキャラクターと捜査理念をもっており、切磋琢磨――といえば聞こえがよいが、有り体にいえばライバル心丸出しで角突き合わせているのです。ヘタしたら互いに足を引っ張り合いかねないほど。これは多分に田畑課長の手綱さばきの面もあり、それが奏功してF県警本部捜査第一課強行犯捜査係の名は近隣県警にも鳴り響いています。
 本書はこの三班長をそれぞれ主役に据えた短編を集めた作品集で、「沈黙のアリバイ」は朽木班、「第三の時効」は楠見班、「囚人のジレンマ」は田畑を狂言回しに三班が、「密室の抜け穴」は村瀬班、「ペルソナの微笑」は朽木班と村瀬班が、投入された事件を活写します。

 ところで、たとえば佐々木譲の警察小説ならば警察機構内部の不正や汚職が、というかそういうものを懐胎せずには成立しない警察機構そのもののメカニズムへの批評の目が強く表現されます。管見ではこのような態度こそ警察小説のレゾンデートルを保証するものです。
 そういった視点からすれば、本編の楠見の(人倫にもとるといってもいい)捜査方法は、まず「警察小説として」槍玉に挙げられてもおかしくない。ところが著者の筆致にはそのような志向は皆無です。ただ「そんなものだ」という感じに、「あるがままに」描かれるばかり。
 本書が描くのは、トリックのめざましさでもプロットの妙でもなく、ただリアルな刑事部屋の刑事たちの生態なんですね。これが(もし今本稿を読んでいる皆さんがサラリーマンだったら)けっこう身につまされるんじゃないでしょうか。毎日自分がそこに身を置いて日々すり減らしている「無情の世界(組織)」のカリカチュアになっているからなんです。宮仕えそのものの本質がここには「あからさまに」描き出されていると思います。しかも、刑事なんてヤクザと同類の面があって、極論すれば人間の虚飾を剥ぎとった動物に近いレイヤーに生きているわけです。警察社会とて人間社会であるのは同じですが、私達一般的な市民が生きる生活世界がまとっている薄いヴェールは、この世界を覆ってはいません。したがってその本質は剥き出しに現れてきます。これが上述の「身につまされる」感を読者にくっきりと刻印すると同時に、佐々木譲流の警察小説とは違いますが、また別の意味で警察小説というジャンルの存在価値を保証する方法論になっていると思いました。
 ここに描写された如く、人間社会(組織)は本質的に食うか食われるかの競争社会でありゼロサムゲームの社会であります。能力がなかったり能力が老衰や疾病で衰えた者は必然的に退場させられてしまいます(七〇年代に一時盛んだった「社会政策」はそれを「英知」で補うものだったわけですが近年のネオリベはそれが人間の本質からは対症療法でしかないことを証明しました)。この社会はそういう無情の論理性に支配された社会ではありますが、その一方で、「囚人のジレンマ」では、去ってゆく老兵に対して、競争原理が一時的ながら後ろへ退く。これもまた人間社会なんですね。

 私の読みは、いわゆる共感読みでありまして、ダリに対抗して偏執狂的共感的方法と自称しているのでありますが(そもそも読書の原初形態は共感読みでありましょう。そこから学者読みみたいな態度も派生してきたわけですが)、本書は登場人物の誰にでも容易にその内側に潜り込めるもので、私自身はあの悪魔のような楠見にすら、共感することが出来ました(汗)。それは一にかかって著者の人物造形が、著者自身の「体験」に裏打ちされているからだと思います。それだからこそ、リアルな立体感(奥行き)を持ち得、読者がその内面に寄り添わせるのを妨げないんでしょうね。

 いやー、畸人郷読書会は、読書会の課題でもなければ一生読むことがないであろう、という本を読むのが眼目なんですが、本書はまさに、私にとってそのような幸福な出遭いとなりました。感謝感謝。
 

Re: ラファティ「蛇の卵」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月17日(日)21時18分16秒
返信・引用 編集済
  > No.4315[元記事へ]

 いやあマイッタマイッタ。我が家のPC環境では、ルーターやらなにやら、インターフェースというのかな、よう分からんのですが、その筐体が3つ、午前中までは机上に並んでいました。NTTさんが一個にまとめられると言ってきて、費用もかからないしモノも新しくなるので、じゃあお願いしようということになり、今日昼過ぎに来てもらって工事は無事完了。工事自体は30分もかからなかったのですが、ところが、設定は自分でしなければならないとのことで、しこしこやり始めたところ、これが全然うまく行かない。進退窮まってNTTに電話し、プロバイダーのOCNに電話し、と、もうてんやわんや。結局、私が認証IDたらゆーもんをタイプミスしていただけのことだったのでした。しかしタイプミスなんていう初歩も初歩、いや初歩以前の間違いは、誰もそんなことが起こりうるとは想定すらされていなかったんでしょうね。チェック項目にもなっていなかったんでしょう。最終的に、や、これ打ち間違いしてるやん、と自分で気づいたのが5時前。いやあ半日何も手に付きませんでした。

 ということで、今日は『日本売ります』を半分近くは消化しておくつもりのところが、着手も出来なかったのでした。

らっぱ亭さん
 お知らせありがとうございます。実は井上央さんから、ちょっと触れてますよ、とのメールを頂いてたのでした。当の解説も送っていただいていまして、読ませていただいたところ、これが実に、従来の我が国のラファティ受容に一石を投じる堂々たるラファティ論の力作で、寝転がってプリントアウトを読んでいたのですが、途中からむっくり起き上がり、正座して読了した次第です。
 いやこれは、私もしっかり肝を据え、十分に環境を整えてから臨まなければいけないな、と思いました。ところが毎月のことなんですが、仕事関係の月締めが20日から月末にかけて発生したりで、何かと精神的にも慌ただしく、また以下の理由もあって、落ち着いて読書する環境は得られそうもありません。
 で、私としては来月頭から読み始めようかな、と皮算用をはじいております。楽しみは後にとっておけ、と言うわけではありませんが、そのように漠然と予定しております。また本板でだらだら感想など垂れ流しますので、ご笑覧願えれば幸甚です。よろしくお願いします。

 さてさて、本日読書ができなかったので、ちょっと予定が狂いました。実は今週末の土曜(23日)が畸人郷読書会なので、上述の『日本売ります』を今日明日、遅くとも明後日くらいでカタをつけ、水木金で読書会の課題図書『第三の時効』(横山秀夫)を読んでおくつもりだったのですが、一日狂ったことで読書会までに『第三の時効』を読み終われるか、少し心配になりました。
 よって予定を変更し、先に『第三の時効』を読み、24(日)、25日(月)、26日(火)で『日本売ります』。27、28、29の水木金は、これまた平谷さんの新刊で、まだ読めてない『採薬使佐平次』(既に大好評重版とのことで楽しみ!)を読み、あと30、31の土日のいずれかで、オリゴ党の芝居「社会的な彼女――女王蜂は偉いのか」を観る予定。で、月明けからラファティということに。まあ予定は未定ですがね(^^;

 いやあ忙しくなりそうだなあ(「せわしく」とお読み下さい)。
 
 

ラファティ「蛇の卵」

 投稿者:らっぱ亭  投稿日:2013年 3月17日(日)17時44分27秒
返信・引用
  ラファティ「蛇の卵」(青心社)が発売されました。
訳者の井上央さんによる解説には「ヘリコニア談話室」での大熊さんによる「翼の贈りもの」レビュウにも言及がありますよー。
 

「影が重なるとき」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月16日(土)22時43分44秒
返信・引用 編集済
  小松左京『影が重なるとき』(ハヤカワSFシリーズ 64)読了。
 うーむ。前著『地には平和を』に比べて、全体に小粒感が否めませんな。第一作品集が11編だったのに対して、本集は19編と、作品の長さが相対的に短いというのもその理由の一つでしょうが、それとは別に、著者が、手抜きとまでは言いませんが、才能にまかせて手先で書いてしまっている部分があるように感じられた。
 それで、ふと思い立って、初出を調べてみた。(ここを参照しました)

サラリーマンは気楽な稼業……  宇宙塵61号/19621100
さんぷる一号          宇宙塵57号/19620700
遺跡              浪花のれん/19630400(NULL10号/19640100)
三界の首枷           SFマガジン増刊号/19630800
影が重なる時          SFマガジン/19631000
火星の金            すずらん4号/19631000
御先祖様万歳          別冊サンデー毎日/19631000
ダブル三角           週刊サンケイ/19631104
カマガサキ二〇一三年      世代/19631100
花のこころ           現代插花/19631200
恵みの糧            文芸朝日/19631200
さとるの化物          洋酒天国61号/19640200
自然の呼ぶ声          SFマガジン/19640300
墓標かえりぬ          NULL9号/19630500
痩せがまんの系譜        SFマガジン/19630800
女か怪物(ベム)か       別冊宝石/19630900
恥               日本/19631200
お召し             SFマガジン/19640100
墓場での会合          新刊ニュース43号/19640201

 全19編中、SFM初出は、4分の1の5本。あとは同人誌を含めて雑多な媒体での発表でした。なるほど、全体に妙に軽いのはこのせいかも。ちなみに『地には平和を』では、11編中、6本がSFM掲載作品です(「お茶漬の味」「易仙逃里記」「蟻の園」「時の顔」「失格者」「終りなき負債」)。しかもこの中に「地には平和を」は含まれていません。宇宙塵初出なのです。SFMには載らなかったんですね。これは意外でした。先投稿でこの作品に就いて「結局未完成に終わった作品」との感想を述べましたが、福島編集長の評価もそんな感じだったのかも。
 ところが、今度は逆に視点を変えて、掲載誌の方から作品を眺めますと、また面白いものが浮かび上がってきます。
 サントリーの「洋酒天国」掲載の「さとるの化物」は、バーのカウンターで隣り合わせた二人の男の話。
 北海道拓殖銀行の「すずらん」掲載の「火星の金(かね)」は、幕末の銀交換比率のように、火星人のルビーを「紙幣」と交換してうまい汁を吸おうとする話。
「現代插花」掲載の「花のこころ」は、とある惑星原住の植物を「イケバナ」する話。
「恥」掲載の「日本」は、調べると講談社が嘗て出していた雑誌のようで、誌名からして(過去の美しいニッポンを賞揚する)オピニオン誌ではないでしょうか。そこに発表された「恥」では、24世紀の日本人が、宇宙人の観光団によって、まことに真っ当にも「知能的、道徳的に退化」した、「全銀河系の、知的生物の恥だわ」とケーベツされちゃうのでありました(^^;。
「遺跡」掲載の「浪速のれん」(産報)も廃刊誌で、ネットに情報は皆無でしたが、ここに画像がありました(稀少本と有り)。メモを読みますと、大阪文化がテーマの雑誌のようで、なるほど「大阪城の真田の抜け穴」めぐる本編が載るにふさわしいものですね。
 こういう小器用さが小松にはあって、なんでもクライアントのよろこびそうな話がさらさらと書けちゃうんでしょうね。
 一方、SFM掲載作品は、さすがに腰を入れて書かれています。とりわけ「お召し」は集中の白眉で、前集の「紙か髪か」は、紙が消えた世界はどんな風になるか、でしたが、本編では「大人(12歳以上)が消えた世界」で子供たちがどのように生き延びてゆくかを活写し、感動があります。「日本沈没」は「日本列島が消え去ったら日本人はどのように行動するか」でしたし、「こちらニッポン」は「主人公以外のすべての人間が消え去ってしまった日本」の話でした。「いま在る世界」からなにかを「引き算」することで、世界の本質を暴き出す、というのが、小松SFの思考実験の基本型といえそうです。
 あと、「影が重なるとき」は、小松にはめずらしく無駄な描写や饒舌が殆どない、ひきしまった秀作で、それゆえでしょう、40年ぶりでしたが、結末をはっきり覚えていました。

 ということで、ひきつづき『日本売ります』に着手。
 

Re: 「宇宙縫合」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月15日(金)19時38分6秒
返信・引用 編集済
  堀さん
 ご教示ありがとうございます。そうだったのですか! 実は『影が重なるとき』を今日から読み始めるつもりでいました(で、読み始めました)。これこそシンクロニシティでは、と、一瞬思ったのですが、いや、一日遅かったのでシンクロニシティではありませんね。昨日読んでいれば、まさにシンクロニティだったと思います。
 冒頭一行目から、泉州と河内が登場してくるんですものねえ。昨日昼過ぎに「宇宙縫合」を読んだのですが、そのあとで、「カマガサキ2013年」をもし読んでいたら、冒頭の一行目でびっくりし、わっと叫んで本を放り出してしまったかもしれません(^^;

「宇宙縫合」の、未来から戻った主人公(野村)が西成で二人に出遭って募金機を改造するというゆくたては、「カマガサキ2013年」と全く同じ。ただ、描写のリアリティは全然違います。「宇宙縫合」では場面や景色が目の前にくっきりと浮かんできます。

>「未来から来た乞食」というのは、姿を変えた野々村ではないか
 なるほど! とすれば、ミンテレと野々村ではキャラクタが全然違いますが、野々村がミンテレに化けて、抵抗の一環としてカマガサキに工作を仕掛けにきた、ということになるのでしょうか。
 うーむ。
 だとしたら、そのように「直観」した堀さんの「根拠」と言うか手がかりは何だったんでしょう(たぶん私に見落としがあるのでしょうね)。それを念頭に置いた上で、また、『果しなき流れの果に』を読み返して見ましょうか(笑)
 

Re: 「宇宙縫合」

 投稿者:堀 晃  投稿日:2013年 3月15日(金)07時56分57秒
返信・引用
  > No.4310[元記事へ]

管理人さん、どうもありがとうございます。
「SF JACK」は傑作が並んでいて、拙作は見劣りがし(欠点もよくわかっておるのです)ちょっと落ち込んでおりました。
葛城山については「取材」に協力していただいたおかげです。
作者が出てきて発言してもいいか迷うところですが、小松作品についてはもうひとつあって、じつは「カマガサキ二〇一三年」に出てくる「未来から来た乞食」というのは、姿を変えた野々村ではないかというのが、半世紀ほどの疑問であったのです。
 

「地には平和を」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月15日(金)01時55分27秒
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  小松左京『地には平和を』(ハヤカワSFシリーズ 63)読了。
 何故にまた今頃!? と思われたでしょうか(笑)
 著者の短編は系統的(時系列的に)に読んで来なかったので、一体自分は何を読んでいて何を読んでないのか、ぼんやりとしか憶えていません。読んだという記憶があるものでも、内容がすっと浮かんで来ない場合が多い。まあ私の頭が悪いせいなんですが、しかしこういう事態となった原因の一端は、出版社の文庫の出し方にも問題があったのではないか、というのが私の認識なのです。
 たとえば最初の文庫化である新潮文庫『地球になった男』(71/12刊)を、私がわくわくして購入したとしませい。いや実際面白かった。満足しました。当然、翌年出た角川からの初文庫『ウインク』(72/10)も、当たり前のように購入するわけです。ところが。
 ホクホク顔で家に帰って、しかしよくよく見てみれば「地球になった男」がダブって収録されているではありませんか(註:ちなみにその間に単行本『怨霊の国』(72/05)を購入している)。
 お小遣いの少ない(そして少なからず、いや大いにリンショクな)高校生の私はフンガイしたわけです。フンガイしますまいか。「小松左京、ガメツイぞ」と。ここでいささか不信感を持ちました。
 その次の『アダムの裔』(新潮文庫73/04)は、重複がなくてホッとしたのもつかの間、二ヶ月後の73年7月に、ハヤカワ文庫から『御先祖様万歳』『時の顔』が同時発売(だったのかな)されたときは、私は目を疑いましたよ。
『御先祖様万歳』の収録13編中、その3分の1にあたる「御先祖様万歳」「紙か髪か」「痩せがまんの系譜」「日本売ります」の実に4編が、『時の顔』では「地には平和を」が、『地球になった男』とダブっていたのです。
 逆にいえば、『地球になった男』全11編中半分以上の6編が、その後出た文庫で読むことができるということで、ここに至って私は完全にキレ、今後未来永劫小松の短編集は買うまいぞ、と決心したものでした。
 だってそうでしょう。ほかの第一世代で、こんな杜撰なことをやっている作品集なんてありえないのですから。
 しかし後年になって、私も多少知識がついてきまして、これはどうも小松左京がガメツイと云うよりも、出版社に問題があったのではないか、と、気づきました。小松さんは、性格的に文庫化作品選定作業には、面倒臭がって加わってないのではないでしょうか。まかせた。よきに計らえ、という態度だったんじゃないでしょうか。文庫化に際して作品に手を入れたりもしていないようですし(荒巻さんなんか、手を入れまくってますよね)。
 というようなことに気づいたときは後の祭りで、その後、単行本をそのまま文庫化したものは買いましたが(正確には買ったり買わなかったりしましたが)、そんな次第で、系統的に読まなかったため記憶がネット状にならず、他の第一世代に比して忘却度がとびぬけてひどくなってしまっており、それがずっと気になっていました。
 今回、それを補うべく一念発起し、ハヤカワ銀背の最初の三冊『地には平和を』『影が重なるとき』『日本売ります』を、あまり間を開けず読むことにした次第なのであります(こういう読み方をすると記憶がネット状になって意外に忘れにくいのですね、経験上)。

 さて、本日読了の『地には平和を』は、さすがにどれも面白かった。駄作は皆無。これらをSFマガジンでリアルタイムに読んだSFファンが狂喜した(に違いない)のもむべなるかなです。

 まず、紙が突然、全て消えてしまったら社会はどうなるか、それをリアルにシミュレートして、具体的に活写してみせる「紙か髪か」が面白い。この作品こそ、小松SFの真骨頂ではないでしょうか。後の長編群は、ほぼすべてこのパターンで作り上げられていますよね。とりわけ本篇では、科学者の科学者たる所以である「超倫理性」に警告を発していて、それは現在でも有効どころか、現在においてこそそれが問われているのではないでしょうか。

「お茶漬けの味」も力作。宇宙が舞台となるハードSFっぽいパートがあるのは本集中本編のみ。しかも本編にしてもプロローグ的な前半にのみなんですね。つまり小松の第一作品集に、ハードSF宇宙小説と言い得るものは一作も含まれていなかったのです。これは案外重要な指摘といえるんじゃないでしょうか。
 さて本編の肝は後半で、前半は浦島太郎を地球に戻すためだけに用意された設定といってよい。浦島太郎は120年後の地球で何を見たのか? ここが作者の最も書きたかった部分で、しかしそれが老人の演説でお茶を濁してしまっているのはやや残念でした。著者は、官僚制度の本質こそこの未来社会の姿であると言っているのだと思います。

「ホクサイの世界」はオールディス的な辛辣ショートショート。

「時の顔」は、これはよく出来た時代SFです。タイムパラドックスを効果的に使っています。いや、タイムパラドックスは起こってません。パラドックスを全く起こさず最後まで通した巧緻の一作。

「失格者」は、シェクリイを想起しました。しかしそれはラストで、実はそれに至る前段にこそ著者は重心を置いているはず。完全なるコミュニケーションが確立すれば(できれば)、世界はおのずとユートピアになる、という一つの試案が提示されます。完全なるコミュニケーションすなわち嘘や隠し事が存在できない、心の中がガラス張りになった社会ですが……それに私たちは耐えられるのでしょうか? 耐えられないのが旧人類ということになるのかな。この辺著者の筆も両義的な気がします。

「コップ一杯の戦争」では、身に降りかからない限り傍観者であり続ける人間の、一種「鈍感さ」を、スポットライトに浮かび上がらせたショートショートの佳品。

「蟻の園」は、斉一的な視点に取り込まれてしまうと、死角までも共通化してしまう、これまた人間の人間たる所以でもある問題点を、ニュータウンの斉一的な団地群を背景に抉った力作。

「釈迦の掌」はトリッキーなショートショート。

「易仙桃里記」も面白い。明代を舞台にした歴史SFと思いきや(いやこのパートが実によいのです)、一転、「果しなき……」を彷彿とさせる時空の壮大な広がりを読者に感じさせる物語が立ち現れます。「数万年の歳月にわたってかけわたされた三角関係」

「終りなき負債」は未来社会テーマ。よくできています。三代にわたって返済をしなければならない高価な買い物とは? 主人公は、祖父がいったい何を、何故、そんな借金をしてまで購入したのか、調べ始めるのでしたが……!? ミステリのようにきれいにストンと落ちます。

「地には平和を」は、上記の次第で、今回が三読めか四読め。なんですが、やっぱりモヤモヤとしたものが残った。内的論理性が、どっちを向いているのかよく分からないのです。こっちを向いているのかと思っていたらあっちを向いていたり。結局未完成に終わった作品なのかも。

 ということで、ひきつづき第二作品集『影が重なるとき』に着手。
 

「宇宙縫合」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月14日(木)19時12分56秒
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  段野さん
 申し訳ないので、今度お会いするときで結構ですよ。次は黄金週間かな。その前に、まだ私の頭のなかだけの話ですが、囲む会ができるかも。というかできたらいいなあ(^^;

 巷間話題の『SFJACKより、堀晃「宇宙縫合」を読みました。
 おお、なんと舞台は和泉葛城山ではないですか! 10年前に行方不明になっていた男が、《スイスのフィンステラルホーン雪渓》で倒れているのを発見される。男は記憶を失っており、名前も覚えてなかったが、身に着けていた《砂時計》もとい腕時計が決め手となり本名が《野々村》もとい野村であることなど身元が確認され、帰国します。帰国後野村は、運命の糸に操られるように《葛城山》へと誘なわれ、造成中に出土した《古墳》で、《あるもの》を見、そこで現在と未来のエネルギー差を修復すべく、「宇宙縫合」の針と糸となって時空の綻びを縫い付ける往還の旅を繰り返すのです……!?

 と書けば誰でも気づくでしょう。本編は『果しなき流れの果に』へのオマージュであり、しかもなお、『果しなき流れの果に』が400頁かけた壮大な物語を、わずか30頁弱にぎゅうと圧縮してしまうという暴挙に及んだ快作であります。(ただし佐世子が登場しないのが画竜点睛を欠くか>おい(^^;)
 彼我とは時代が50年違いますから(あっ、だから《50年後の未来》なのか!)、本篇では《国道26号線》ではなく、(と言うか途中から)湾岸線を使いますし、葛城山周辺の描写も『果しなき……』よりもずっと正確になっています。
 もっとも当然ながらメインアイデアは全く違っていて、しっかりオリジナルですが(「熱の檻」と類似のモチーフではある。たぶん(汗))、地球時間で10年の、しかし「遠い未来と数万光年におよぶ」《闘争》は踏襲されています。
 その意味でまさに本篇は、『果てしなき流れの果に』へのオマージュでありながらも、それを素材としてパッチワークし縫い合わせて完成させた、オリジナルにしてパロディな、堀ハードSFの超アクロバティックな快作といって過言ではないでしょう! いやー面白かったです(^^)
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月14日(木)15時07分11秒
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  管理人様、「消える」のCD化がだめだったそうで、いつものことながら、申し訳ございません。もう一回チャレンジいたしますので、お時間下さいませ。
いつもいつもすいません。m(__)m
 

Re: 眉村さん情報:ドラマ「夏の朝、夢を見てしまった(B)」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月14日(木)11時40分57秒
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  > No.4307[元記事へ]

 わ、海野さん、ご教示ありがとうございました。
 早速『鳴りやすい鍵束』(徳間文庫83、元版76)を確認。すべて本書が出典でした。面目なし
(ーー;


1「雨の中のふたり」132p
2「ライターと灰皿」87p
3「ウイスキーとフラメンコ」32p
4「天の川」75p
5 ――


1「踏切と風船」93p
2「夏休み」124p
3「あと六十七日」192p
4「水の中」114p
5「夏の朝夢を見てしまった」129p

 B‐5を改めて文字で読んでみました(確かに副題が「――アインちゃんの出題にこたえて――」となっています)。うーん。やっぱり苦し紛れにひねり出した感が拭えませんなあ(>おい)m(__)m

 

Re: 眉村さん情報:ドラマ「夏の朝、夢を見てしまった(B)」

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 3月14日(木)11時02分58秒
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  > No.4306[元記事へ]

「夏の朝、夢を見てしまった」って聞き覚えがあると思ったら、「とべ!クマゴロー」で朗読された中にありましたね。
このタイトルは、「とべ!クマゴロー」のアシスタントのアインちゃんがタイトルを考えて、眉村さんが考えてくるということだったと思います。えらい凝ったタイトルを考えるなーと思った記憶があります。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

眉村さん情報:ドラマ「夏の朝、夢を見てしまった(B)」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月13日(水)21時56分41秒
返信・引用 編集済
  > No.4305[元記事へ]

承前。「夏の朝、夢を見てしまった(B)」を聴きました。放送日は1981年7/6〜7/10。(グレース・スリックの曲はソロアルバム「ドリームス」(80)からのようです)

 1本目は、一人旅をしている若者(?)、一日二本のバスを待ちきれず、麓の駅に向かって歩き始める。道は途中から、錆びたレールの廃線と並行する。その廃線は、かつて麓の駅と鉱山(今は廃坑)を結ぶ線だった。と、道が二つに別れ、一本は線路に並行し、もう一本は廃線を踏切で横切って伸びている。後者の道が駅へ続く道なのだ。渡ろうとすると、踏切の警報機がカンカンカンと鳴り始めた。廃線なのに! と、線路の彼方から、何かがこっちへやってくる。それは少女だった!?

 2本目は、気候コントロールされた未来都市。ところが夏の真っ盛りに、制御装置が壊れた?

 3本めは、自社製品の修理で修理係の男が訪れた町は、いたるところに「あと67日」との表示が。男はそれが何なのか、町の者に聞くが、はぐらかされる。帰ってからも気になって仕方がない。次第に日数が減っていく。

 4本目は、男が買ってきてグラスに入れた水中花のかげから、一センチほどの人魚が現れる。そのうち男は、毎夜、グラスの中で人魚とたわむれる夢を見始める……

 5本目は「夏の朝、私は夢を見てしまった」が前衛的な悪夢のように繰り返される……

 と言う次第で、最後のは苦し紛れというか、無理やりタイトルにかけてでっち上げた気もしますが(^^;
 これらのショートショートは、このままの形では、単行本には収録されていないのではないでしょうか。

 さて、段野CDはあと2枚残っています。一枚はFM大阪「あなたと夜と音楽と」と、MBS「ごめんやす馬場章夫です」へのゲスト出演の巻。
 もう一枚は、制作朝日放送、放送FM大阪の、「第5回ラジオ月間特番 SFオムニバスドラマ”消える”」で、こちらは第一話「霧が晴れた時」(小松左京原作)、第二話「母子像」(筒井康隆)、第三話「トロキン」(眉村卓)、第四話「通夜旅行」(留守録のためテープ切れ)
 とメモにはあるのですが、CDへのコピーが失敗しているようです。残念(^^;

 『地には平和を』は210頁。残り100頁。
 

眉村さん情報:ドラマ「夏の朝、夢を見てしまった(A)」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月13日(水)00時26分55秒
返信・引用 編集済
   段野CDより、「夏の朝、夢を見てしまった(A)」を聴きました。
 NHK-FM《ふたりの部屋》という番組のようです。1回10分程度の番組で、グレース・スリックの曲が一曲かかり(なぜにグレース・スリック?(^^;)、そのあと眉村さんのショートショートを、男女のアナウンサー(タレント?)がドラマ仕立てで朗読します。全10回で、本CDには最初の5本(1981年6/29〜7/3放送分)収録。
 各ショートショートにタイトルはありません。

 一本目は、怪談の秀作。アパートに住む新婚らしい夫婦。夕方雨になると必ず妻が夫のレインコートを持って駅に迎えに行く。傘は持たない。あいあい傘で帰ってくるのです。今日も雨となり、一階の管理人に冷やかされる。
 場面変わって管理人の独白。この夫婦がガス中毒で死んでしまったことが明かされる。で、それから夕方雨になると、ふたりの喋っている声が聞こえ、管理人室前を通って(声だけが)階段を上がっていくのです。今日こそは正体を見窮めようと、管理人が恐る恐る上がっていき、夫婦が住んでいた(今は空き家の)部屋のドアを開けると……!?

 二本目は、地球最後の男が、SFで読んだ地球最後の男の話(エホバになってしまうヤツ)を思い出していると、背中に女の声がし、振り返ると……!?

 三本目は雪の夜、彼がフラメンコを観に行こうと誘う。踊って帰途につき、ドアを開けて外に出ると、横の男が違う。男がフラメンコに行こうと誘い……。不条理ショートショート。

 四本目は、最終戦争後の荒廃した地球。退化した人類が部族間抗争している世界で、恋人同士(?)が星空を眺める……。ムード本位のファンタジックなショートショート。

 五本目は……残念、予約録音のためテープ切れでした(^^;

 後半の5本(「夏の朝、夢を見てしまった(B)」)は、また後日。
 
 

Re: Re:「青白い月」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月12日(火)18時24分52秒
返信・引用 編集済
  > No.4303[元記事へ]

段野さん
 いえいえ(^^;
 せっかくCDに焼いていただいているのに、なかなか聴取が進まず、申し訳ないです。ぼちぼち消化していこうと思っています。
>「青白い月」は1月28日放送でした
 これで確定ですね。すっきりしました。

> No.4301[元記事へ]

高井さん
 確認していただき感謝です。
 ここのところのめぐり合わせの妙に、不思議な気分になります。これがシンクロニシティなんでしょうか(笑)。

 ハヤカワ銀背版『地には平和を』に着手しました。
 

Re:「青白い月」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月12日(火)13時46分34秒
返信・引用
  管理人様
ごめんなさい。私のメモ間違いです。わーまことにすいません。「青白い月」は1月28日放送でした。(平に平に誠にすいません)
 

Re:「青白い月」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月12日(火)13時42分17秒
返信・引用
  管理人様
ラジオドラマ・文芸劇場は1977年1月7日「アルジャーノンに花束を」1月14日「ビーナスの狩人」1月21日「ハローグッドバイ」そして1月28日「青白い月」となっております。
何か特番でもあったのでしょうか。
大体週一回のシリーズものだから、1月23日では放送が早すぎないでしょうか。
そのあたり、何もメモがないのであくまで推測ですが。
 

Re: 眉村さん情報:「青白い月」

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 3月12日(火)09時36分46秒
返信・引用
  > No.4300[元記事へ]

>  ところで上野友夫『推理SFドラマ六〇年』(六興出版86)* に、このSF特集が記録されていまして、それによりますと、
>  1月7日「アルジャーノンに花束を」ダニエル・キイス
>  1月14日「ヴィーナスの狩人」J・G・バラード
>  1月21日「ハロー・グッドバイ」ウィリアム・テン
>  1月28日「青白い月」原作・脚色・眉村卓
>  となっていまして、段野さんのメモの1/23とは異なっています。両方併記致します。
 うちには「アルジャーノンに花束を」の録音カセットが残っていて、そこに記されたメモには「1977・1・7(金)」とあります。このデータから推測すれば「青白い月」は1月28日で間違いなさそうですが、地方によって放送日が違うとか再放送とか、その可能性もありますね。
 

眉村さん情報:ドラマ「青白い月」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月12日(火)02時18分22秒
返信・引用 編集済
   段野CDより、「青白い月」を聴きました。
 段野さんのメモによれば、NHK文芸劇場(NHK名古屋放送局制作)1977年1/23 21:05〜21:58(SFシリーズの4回目)とのこと。
 原作は眉村卓「青白い月」(『通りすぎた奴』(立風書房77年5月15日刊)所収)
 ところで上野友夫『推理SFドラマ六〇年』(六興出版86)* に、このSF特集が記録されていまして、それによりますと、
 1月7日「アルジャーノンに花束を」ダニエル・キイス
 1月14日「ヴィーナスの狩人」J・G・バラード
 1月21日「ハロー・グッドバイ」ウィリアム・テン
 1月28日「青白い月」原作・脚色・眉村卓
 となっていまして、段野さんのメモの1/23とは異なっています。両方併記致します。
 そういえば、原作収録作品集のリリース(77年5/15)よりもドラマ化のほうが先なんですね。

 さて、内容は大筋原作どおりなんですが、眉村さん自身が脚色を担当されているため、いろいろ遊びが付加されています。たとえば原作には記述のない地下鉄の駅名が、ドラマでは「昭和町」となっていて、もちろん昭和町は77年当時眉村さんが使っておられた仕事場(銀座ハイツ)の最寄り駅でありまして**、銀座会常連ならここでニヤリとなるわけです(^^; 逃亡先のW温泉が、ドラマでは具体的に大湯温泉となっているのも、私にはピンとくるものがありませんが、分かる人には分るんでしょうね。
 「心中」を拒否して女から逃げるシーン(女が追いかけるシーン)も、原作よりもかなりしつこくこってりと仕上げられていて、思わず小松左京の「葎生の宿 」の追いかけられるシーンを思い出してしまいました(笑)。小松作品はファルスでしたが、本ドラマは同じシチュエーションなのにホラーになっていて、追いかけるものが違うとこうなるのか、面白いなあ、と思ったことでした。

*本書を私は所蔵していません。例によって高井信さんが、本書の眉村さん関係記事を抜粋したコピーを、たまたま最近送ってくださっていまして、それで気づいた次第。

**あれ? 最寄り駅の隣駅だっけ(汗)
 

「お化け大黒」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月11日(月)23時09分14秒
返信・引用 編集済
  平谷美樹『お化け大黒ゴミソの鐵次調伏覚書(光文社文庫13)読了。

 シリーズ第2巻。ここまで、主人公(と周辺人物)は同じくする、しかし各作品同士は互いに独立的な、純然たる連作短編集だったのが(たとえば紋次郎シリーズのような)、本書も後半にいたって、シリーズとしての起承転結(「転」)が現れはじめ、各作品が連なったひとつの大きなうねりとしてのストーリー性も同時に楽しめる、いわゆるオムニバス長編としての結構を備えてきたんじゃないでしょうか。
 それはさておき、もともと著者は長編型作家なので、短編自体も、基本的構造は長編に準じており、総じて長ければ長いほど面白さもいや増すようです。ちなみに本集収録の各作品の頁数を数えますと、以下のとおり。

「梅供養」33頁(49枚)
「檜舞台」27頁(40枚)
「庚申待」49頁(75枚)
「下燃の蟲」35頁(53枚)
「飛鳥山寮」47頁(72枚)
「湯屋怪談」25頁(37枚)
「お化け大黒」49頁(75枚)
「辻斬り」51頁(78枚)

 そういうわけで私が一番面白かったのも、二番目に長い「庚申待」でした(その意味で私の希望は100枚から150枚の中編でのオムニバスなんですよね)。但しこの作品、不審な点がありまして、といっても枝葉の話なんですが、77p5行目から7行目の段落が、前後の段落とまるで繋がらない。この3行、本当は79p7行目と8行目の間に入ってしかるべきが、何かの加減で見当はずれなところにおさまってしまったのではないか、そんな気がするのですが。

 長ければ長いほど面白いと言いましたが、では短いのは駄目なのかといえば、決してそんなことはなく、「檜舞台」など短い方から二番目ですが、こちらもなかなか面白く楽しめましたので、結局長いのも、短いのも、よいものはよいのでした(^^; 本編の場合、作品の構成が短編型だからでしょう。また個人的には、本編の怪異が亡魂ではなく土地神であった点かもしれません。

 ところで、今回気づいて(今頃気づいて)なるほど面白いなあと思ったのは鐵次の調伏の原理で、一種の意味論(記号論)になっているんですね。
 つまり、「怪異」のあらわれを、(何かの)「意味(記号)」として捉え、それを「解読」することで、正しく「解読」できれば、「怪異」も消滅するというわけです。これは精神分析の「気づき」に近いもので、言い換えれば本シリーズは「怪異精神分析記録」と言い換えてもいいかもしれません(あきませんか失礼しました)(^^;。逆に「梅供養」では間違った解読をしてしまったため、鐵次自身が危なく怪異に取り込まれかけてしまいます。鐵次が作中再三「判じ物」という言い方をするもそういう意味ですね。
 という次第で、オムニバス「長編」としての今後の展開が楽しみなわけですが、こうなってくると、今はまだ分からない敵役の「企み」のスケールが気になってきます。「みみっちい」と嗤う鐵次に対して「小さい小さい」と嘯く惣助に、次巻では大いに期待したいと思います(笑)

 

眉村さん情報;ドラマ「もうひとつの時間」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月10日(日)21時41分34秒
返信・引用 編集済
   ちょっと一段落したので、段野さんから頂いたままになっているラジオドラマのCDから、とりあえず任意の一枚を手に取りました。
 NHKFMドラマ(NHK大阪制作)「もうひとつの時間」1977年8/20 pm10:20〜11:00
 原作は眉村卓「すべり込んだ男」(『万国博がやってくる』所収)

 早速聴取。語り手(主人公)は上岡龍太郎。これがなんとなく棒読みに感じられて、わたし的にはやや不満でしたが、ストーリーはほぼ原作どおりで、むしろ原作よりも具体的にふくらませてあってよくできていました。
 大企業に勤め、結婚して子供も生まれ、安定した生活を送っていた主人公を乗せた新幹線が、落雷のエネルギーで(原作は接触事故で)別の並行世界に跳ばされます。
 その並行世界では、その世界の主人公は中小企業に勤め、独身で借金取りに追われるすさんだ生活を送っていたのだが、偶然釣りに出かけて遭難死していて、主人公は好むと好まざるとにかかわらず、誰にもさとられず入れ替わってしまう。しばしのショックから気をとり直した主人公は、ゼロから始める決心をし、それが良い方に転がって、半年後にはナンバーワンセールスマンになってしまう。出張で東京に行く事になって乗った新幹線が、またもや次元スリップして、主人公は元の世界に戻る。確認のためにした自宅への電話は繋がって、妻が出る。そのとき主人公は何もしゃべることが出来ず、受話器を手から放してしまう。妻が何度も呼びかける声がリフレインして終わりとなります。
 この、主人公の無言は何だったんでしょうか? 元の世界に戻れてホッとしたのでしょうか?
 原作を確認しました。原作では、「もう一度やれというのか。」「が、すでにぼくは、美津子と赤ん坊と律儀さから作られた信用を背負ったぼくには、決してそんな冒険は許されないことを悟っていた」「危険を資本にして可能性に挑む、偶然を武器にしたあの暴走めいた突進は絶対にできないことを悟っていた」として、再び「受話器を持ち上げる」ところで終わっています。原作の主人公は、諦めの境地で自宅に戻っていくというわけです。
 翻ってドラマの主人公は?
 受話器を放したところまでしか表現されていない。私はこのあと、願わくは原作の主人公のようにではなく、そのまま「蒸発」してほしいと思ったのですよね。まあそうなると安部公房なんですが(^^;

 ということで、『お化け大黒』に着手。
  ソフトマシーン「サード」
 

「ヴェネツィアの恋人」読了(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月10日(日)15時06分50秒
返信・引用 編集済
  > No.4296[元記事へ]

承前「ひな菊」を読みました。

 本篇の舞台は1952年夏、レニングラード郊外の保養地レーピノ。ここにソ連作曲家同盟の保養所〈音楽家の家〉があります。グルジアの中学理科教師ニーナは、趣味でやっているチェロの演奏を、たまたま当地を訪れたショスタコーヴィチに(演奏よりもむしろ作曲を)みとめられ、作曲家同盟が開催する二週間の『才能ある市民音楽家のためのキャンプ』に抜擢招集される。
 このときショスタコーヴィチはレニングラード音楽院の教授ではなかったのですが(1948年ジダーノフ批判)、その後猫をかぶって社会主義リアリズムの称揚に邁進し、往年の地位を取り戻しつつあり、それくらいの「横槍」は可能だったようですね。
 だいたい、ショスタコーヴィチって、クラシックに疎い(中学高校の音楽の授業で止まっている)者には、御用音楽家のイメージが強いのではないでしょうか。ウィキペディアなどを確認すれば、それが今言った猫かぶりだった、それも極めて巧妙な猫かぶりだったことが分かります(1936年プラウダ批判からも復権している)。
 このへん作者も、「私のように、ソヴィエト市民の風上にも置けないろくでもない奴だと言われながらも、彼らの喜ぶ言葉遣いで話すすべを身につけている者(……)は、それでも生き延びることができる」と、作中のショスタコーヴィチに言わせていますね*。
 しかしながら、この(作中の)ショスタコーヴィチ、音楽の才はどうであれ、人間としてどんなものなのかといえば、もとよりそれと楽才とは相関するはずもないわけです。実際のところニーナが選抜された(ショスタコーヴィチの口添えがあった)理由も純粋に音楽的見地だったのかどうか。

 それはさておき、〈音楽家の家〉で主人公は、遠い親戚で、数年前に認められレニングラード音楽院に入ったマルガリータに再会します。主人公は、彼女の知っているガキ然としたマルガリータが、年齢以上に妖艶に成熟しているのをみて驚かされます。
 そのマルガリータをひそかに注視している男がいた。それも男女の関心のせいではなく、純粋に学術的な興味故に。
 男は音楽院の校医で感染症の専門医。彼は当時ソ連を席巻していた「獲得形質も遺伝する」とするルセンコ学説を、(監視国家相互告げ口国家であるがゆえに)誰もがそれに、(内心は別にして)異を唱えないなかで、あっけらかんと公然と批判してはばからないところがあって、主人公も少々腰を引き気味なのですが、彼はソ連の音楽関係者に、感染力は極めて弱い未知の感染症が、その弱さを補うためある種のホルモンを感染者に増大させ、音楽家という一種の孤島に住む人々のみに、広がっている可能性を予想していたのです。それはむろん、ウィルスの利己的行動なのですが……。
 かくして物語は、校医に好意を持った(感染者)マルガリータが、主人公と校医の仲を疑ったことから、予想もしなかった結末を迎えるのでしたが……

 ショスタコーヴィチ、ルイセンコ学説、スターリンソ連というお題が、きっちり一つにまとまるラストは見事。翌年の1953年は、そういう年だったんですねえ!

 ということで、高野史緒『ヴェネツィアの恋人』(河出書房13)の読了とします。

*というような知識は予め持っていないと、本編の面白さは半減すると思いますので(ショスタコーヴィチと校医の対比とか)、はばかりながら贅言を加えさせていただきました(^^;。

追記。あ、*註は、作者に「もっと説明しろ」と言ってるんじゃないですよ。逐一説明を入れられたら折角の小説の美しい姿が完全に消え去ってしまいます。これでいいのであります。念のため。
 

「ヴェネツィアの恋人」読み中(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月10日(日)00時15分14秒
返信・引用 編集済
  > No.4291[元記事へ]

「白鳥の騎士」を読みました。
 面白かった。白鳥の騎士とは、言うまでもなくローエングリン。
 言うまでもなく、というのは、ちょっと知ったかぶりでしたかね。実はワグナーも歌劇も殆んど知らないのです。ジャズ住職が最近、というか、もう1年以上前からずっとワグナーを聴きつづけていまして(→ここ)、何をトチ狂ったのか(だって志向性がジャズとはまぎゃくじゃないですか)と思う一方で、そんなにいいのん?ワシも聴いてみようかなと思っていたところ、そんなレベルです。

 本篇、筆法(スタイル)が本集中では異色で、いわば「ストーリー」本位で書き上げられています。要するにリニアな、長編小説の筆法ですね。他の収録作品は、一応時間の流れはありますが真のストーリー性はなく、一種「絵画」のように現前していて、読者は、絵画を鑑賞するとき鼻の先まで近づいて部分を見たり後ろに下がって全体を見たりするように、何度もふりかえって確認したり、それを頭のなかで全体の中での位置を確認したりしながら読み進めていく、そういう風に読むべく、作られているのに対して、いわば三銃士やああ無情のように、順々に読んでいけばよい。というかだれでも自然にそういう風に読むでしょう。
 したがって読後の印象は短い長編小説です(もっとも実際200枚以上あるわけで、純文学の通例ならばじゅうぶん長篇の範疇です。この作品一本で一冊の本だったとしても十分ありえます)。

 要するに本篇は物語なんですね。主人公はバイエルン王ルートヴィヒ2世。この王は多くの作品でそれこそいろいろな視座から描かれ、既に描き盡されているといってもよいですが、本篇の狂王はこれはまたとんでもない、一種オールディス的に涜神的なキャラクターに造形されています(本集中では「空忘の鉢」の主人公に近い)。

 舞台はルートヴィヒ王治下のバイエルン王国。政情的にはプロイセン主導の統一への潮流にさらされているのは史実通り。
 ところがこの国の存在する時間線では、19世紀末のこの時代、すでにテレビが存在し、さばかりか爛熟の極致の様相を呈しています。
 このテレビが、白黒の「ぱちりという安っぽい音の後に、低い唸りとともに画面が明るくなり始め」「硝子管が温まるのに数十秒」というシロモノ。昭和30年代後半の光景を想起せずにはいられません。客観的には進みすぎているテクノロジーなのですが、読者からすればなんとも甘美に懐かしくもあって、南ドイツの小国があたかも三丁目の夕日のとなり町あたりに錯覚されなくもなくて楽しい。

 放送される内容も、雑多な報道記事、醜聞、噂、憶測、そして茶化し、と、この時間線のテレビ同様なのですが、唯一異なっているのが、この幻想のバイエルン王国ではワグナーの楽劇番組が大変な人気で、新作が発表される一方で、異版、再解釈の別バージョンが同時並行的に作られたりしていて「貪欲に消費し尽くす視聴者たちにさえ目眩をおこさせる」ほど。ワグナー楽劇のテレビスタジオである「祝祭歌劇場」の消費電力は、実に首都ミュンヘンの消費電力の四分の一にも達する。幻想の都ミュンヘンは、幻映の都でもあったのです。
 当然ワグナーの人気は大変なもの。その筆頭がルートヴィヒ王でありまして、その熱狂的傾倒ぶりたるや、政務はそっちのけ、もはや狂気の域に達しています(摂政ルイトポルト公が実権を持って切り回しているのは現実どおり)。その結果、ルートヴィヒはかれこれ20年以上公式に姿を見せていません。若き日の映像だけが日夜テレビに映し出されていますが。

 そんなルートヴィヒ王、以前からネ申ワグナーに会いたくて仕方がない。しかし、なかなか叶いません。というか現実のワグナーに会うことが出来たものは、関係者でも一部の者以外全く存在しないというのです。
 そこで病膏肓に入った王様、遂に意を決して単身王宮を脱け出します。そしてミュンヘンの地底に展がる広大な地下世界の何処かに存在するという「祝祭歌劇場」めざして、いわば「ミュンヘン地下オデッセイ」というべき冒険行が開始されます!

 この地下世界が実によいです。地下世界は多層になっており、最上層は工場地帯で、そこでは教養人ルートヴィヒ王とは正反対な、文化の欠片も持ち合わせない工場労働者たちが働いていました。そしてそのさらに下層が、労働者たちの生活圏で、「電気の照明でかろうじて正気を保っている闇の世界」ながら、「入り組んだ迷路に小さな部屋や飲み屋が詰め込まれ、そこかしこにテレビが光っている」のです。
 まさに乱歩的風景が現出しているのです。

 さて「祝祭歌劇場」をめざすルートヴィヒですが、なかなかそこへ至る道が見つからない。持参した食料も食べつくし途方に暮れていたところ、与太者めいた男たちに袋叩きにあいます。そこに突如現れて与太者たちを剣戟で追い払ってくれたのは、凛々しい武者振りの男装の少女「聖杯の騎士パルジファル」でした。実は彼女も「祝祭歌劇場」を探していた。意気投合したふたりは共に「祝祭歌劇場」をめざすのですが……

 行く手に広がる闇の地下世界――ふたりは無事「祝祭歌劇場」に辿り着けるのでしょうか!?
 いやそんなストレートな話じゃないのです。最後に明かされる驚愕の真相は……実際に読んでのお楽しみということで。

 これはぜひとも、「ワグナーSF傑作選」にはイドリス・シーブライト「ヒーロー登場」と共に必ず収録して頂きたいですなあ(>あるのかそんなアンソロジー)(^^;。
 

認証コードについて

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 9日(土)13時08分6秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 認証コードは非常に面倒くさいですし、私も老眼が進んでからは3回に一回は入力ミスをしてしまいがっくりするのですが、たしかに防波堤にはなっていますね。
 特に機械で一斉に発信されるマルチポスト系は完全にシャットアウトできます。
 そちらの掲示板も認証コードを導入されたらいかがですか?

 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月 9日(土)12時59分24秒
返信・引用
  管理人様
管理人様が「心斎橋大学」のことで書き込まれた前に、「心斎橋大学」に問い合わせたことがありまして、その時には担当者は何も眉村さんのことは告げられなかったです。内緒だったんですね。
ここの講義の受けかたが少し変わっていたようなので、ちょっと今回は遠慮させて頂こうかな、と思っています。
お忙しくなるようなことは、言っておられました。「全員の作品を全員で講評することは難しくなるでしょう。(眉村さんご自身での講評のみになるということ)」
お忙しいのは、お元気になられた証拠、と受け止めさせています。
(それと、ようやく、掲示板がまとも、いや、うちのが悪かったんたと思いますが、認証コードがちゃんと読めるようになったので、嬉しい限りです)
 

北杜市

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 8日(金)20時23分15秒
返信・引用
   或る方からお借りしていた資料を昨日返却したのですが、コンビニでメモを見ながら宛先を記入しようとして、住所が山梨県北杜市という所であることを知った。
 一瞬、えっと思いました。北杜市なんて聞いたことがなかったから。
 帰宅して調べたら、案の定平成大合併で出来た市でした。wikipediaで索くと、市名は、「地理的・歴史的・文化的な由来が全くない完全な造語(瑞祥地名)」とのこと。合併した各町村が互いに譲らず、結局、歴史性を排除したこの市名が選ばれたみたいですね。
 こういう例、平成大合併で多かったですよね。静岡と清水の合併では、清水市民は「静清市」で最後まで抵抗しましたが、結局押し切られたんでした。
 また伊賀大合併では、伊賀市になるなんて死んでも堪えられんと、名張市は住民投票で参加を拒否したのでしたね。
 ことほどさように、合併市の命名はなかなか難しいものがある。全く架空の「北杜」などという市名を考案したのは、窮余の一策とはいえ、しがらみがなくてなかなかいいではありませんか。
 でも私は想像するんですよね。この名前を最初に発案した人は、きっと北杜夫ファンだったに違いない、と。そしていくつかあったはずの候補案の中からこの市名が選択されたのも、選考委員のなかに(もし住民投票だったのなら市民の中に)北杜夫ファンが多かったからだろうと。これはもう絶対間違いないんじゃないでしょうか。
 と思って検索してみたら、やっぱり私と同じ事を考えた人がいてはりました→こちら
 へえ、偶然とはいえ、北杜夫と北杜市、案外関係がなくもなかったんですねえ(^^;

 ということで、読書読書。わ、100頁もあるのか!

 モーニン・マンボ↓
 
 

「ヴェネツィアの恋人」読み中(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 7日(木)23時13分26秒
返信・引用 編集済
  > No.4289[元記事へ]

承前。表題作の「ヴェネツィアの恋人」を読みました。
 著者の作品にはめずらしく、SFのフレームで解釈しやすい話で、一読、想起したのは眉村卓『夕焼けの回転木馬』でした。
 本篇の起点はヴェネツィアの或る夜です。マルセイユの劇場で、まだ群舞を舞う踊り手の一人でしかなかったヴィオレッタは、客演に赴くプリマに帯同して行ったヴェネツィアの劇場で、若者ホルツァーと運命的な邂逅を果たす。
 この時一体何が起こったのでしょうか。翌朝、ヴィオレッタのもとからホルツァーは姿を消しており、ホルツァーのもとからはヴィオレッタが姿を消していたのでした。
 SF的には、ふたりの時間線がこのとき分岐したのだと私は想像します。その結果として、それぞれの時間線上の相手(ホルツァーの時間線上のヴィオレッタ。ヴィオレッタの時間線上のホルツァー)は、ヴェネツィアでの記憶を持っていません。それでも、直接の記憶はなくても無意識裡には相手を特別な存在として(予め)知っていて(この知っている者は、ひょっとしたらユング的な何かかもしれません)、あこがれを抱いているのです。で、再会して、否、再会ではなく憧れの人に初めて出会って、そこで聞かされた、自分の記憶にない「ヴェネツィアの運命的邂逅」が、たしかに無意識の奥底から事実のような確信を持って浮上してきます。
 そのとき、彼(彼女)の前に、(そこには確か何も存在していなかったはずの)占いの店が出現する。彼(彼女)は抗いがたい力に促されるように店に入っていき……

 ここからふたりの、無数の並行世界での出会いと別れが繰り返されていく。それが『夕焼けの回転木馬』の、別の時間流にどんどんはね跳ばされていく物語を想起させたのでしたが、又私はそれとは別に、占いの店の存在形式には人がそれを必要とした時にその人の前にひょいと出現するイシャーの武器店を重ねてみてしまいましたし、占い女の意図は判然としないながら、その結果、永遠に出会い、すれ違っていくふたりの関係は、時間シーソーとなって行ったり来たりしながら次第に遠く離れていってしまうマカリスターの運命を感じてしまったのですが、これはさすがに読み過ぎですなあ(^^;
 

誰やねん(怒)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 7日(木)20時23分52秒
返信・引用 編集済
   待望のキャラバンサライ フルアルバム!(でも、去年の12月にポストされているのですね)
 コメント欄に「Nice to hear the full album without interruptions」とありますが、いやホンマそうですよ。特に最近は、何をクリックしても夢枕獏さんが顔をのぞかせて、鬱陶しいことおびただしい。ところがあれ、夢枕さんじゃないっていうじゃありませんか。土田晃之? あやうく獏さんがキライになってしまうところだったじゃないか!

 
 

「ヴェネツィアの恋人」読み中(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 7日(木)01時23分43秒
返信・引用 編集済
  > No.4288[元記事へ]

承前「空忘の鉢」を読みました。
 いやー面白かった。本篇、まず言語SFとしての一面があります。舞台はアンドロポフ時代(1985)のソ連。カザフ共和国の首都アルマ・アタです。主人公はカザフ大学の助教授で、専攻は失われた古代言語の黄華文字。
 かつてシルクロード国家の一つに黄華国があった。中国とカザフの国境のアラタウ山脈の山中に存在したとされます。何の変哲もない小国というのが定説だったが、主人公はその国に独自の文字があったことを発見する。それは漢字に似た表意文字で、偏や冠などの部首を複雑に組み合わせることで、漢字6文字分をたった一文字で表せられる驚異の文字だったのです。しかも庶民が通常用いるのではないらしい(未解読の)太陽文字となると、一体どれほどの影響力があるのか!(読者は後で思い知るでしょう)

 余談ですが、おそらく著者は執筆中、ディレーニイ『バベル17』を間違いなく意識していたと思いますね。ディレーニイ何するものぞと(>おい)(笑)。たしかに黄華文字、いや太陽文字となりますと(あとで判明するのですが)ディレーニイが生み出した超言語バベル17以上のとんでもない威力を発揮します!

 閑話休題。主人公は文献考証で、黄華国の比定地を割り出します。中ソ国境という場所が場所だけに、現地調査は端から許されるとは考えられません。そこで主人公は、ソ連の軍事衛星が当該地域を撮った写真の閲覧を、党と軍に懇請します。現在なら10センチ、20センチ単位の解像度らしいですが、1980年代当時の解像度でも、遺跡の存在の有無くらいは簡単に識別できそうですね。いや、実際できたのです。ただし・・・(えーはっきり書きたいところですが、さすがにこれを書いてしまうわけにはいきません。よって以下略!)(^^;。
 ともあれそういう経緯で、参謀本部情報局が興味を示します(スパイの暗号に格好の言語ですものね)。主人公は戦略ミサイル軍の高級将校に呼び出されます。

 ――このような設定だけ見れば、幻の超表意文字をめぐって中ソのスパイが暗闘する、あたかも山田正紀の書きそうな冒険SFが想像されるわけですが(実際主人公の周囲には中国スパイの影が……)、もちろんそんな展開にはなりません。著者はここで、第二のアイデアを投入します。

 主人公を呼び出した黒髪の将校は、主人公自身が驚くほどその研究成果に通じていたのです。将校は主人公が発見した、漢語と黄華語が併記された古文書を話題にします。それは「空忘の碗」というべき物語(史実?)で、明の宣徳帝によって幽閉されていた黄華の陶工が、「空忘の碗」によって脱出し故国に逃げ帰ったという内容。そうして将校がおもむろに取り出したのは、うっすらと翠色を帯びた、おそろしいほど薄く美しい碗でありました。主人公はその碗を見つめているうちに、すっと気が遠くなりかけ……。

 この古文書に記された短い物語が大変良いのです。まるで「聊斎志異」のなかの一篇。そういわれても違和感ありません。そしてこのあと、小説世界は一気に確固たる輪郭を喪い幻想性を帯びて、本篇そのものが「聊斎志異」のなかの一篇であるかのように、変容していきます(冒険SFとは全く異なる世界観が開示されます)。
 冒頭でも言いましたがもう一回言います。いやー面白かった。しかもなお、本篇、10年後のラストシーンがこの作者には珍しくハッピーエンドに(ハッピーエンドでしょう!)大団円に収まってゆく。スパイ衛星のカメラにも捉えられない不可視の国の人情に、心地よく頁を閉じたのでした。
 ↓はアルマ・アタ(アルマティ)の戦没慰霊碑と〈永遠の炎〉→画像リンク元
 

「ヴェネツィアの恋人」読み中(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 5日(火)23時25分37秒
返信・引用 編集済
  > No.4285[元記事へ]

《追記。ひょっとして以下はネタバレなるものに該当するものかもしれません。気になる方は先に当該作品を読了してからお読み下さい》

承前「スズダリの鐘つき男」を読みました。
 今回の舞台はロシア平原のど真ん中。モスクワから東北に4時間半の町、スズダリ。実在する町です。(→この画像はネットで見つけたスズダリ全景。まさに著者の描写どおりのたたずまい)
 なのですが、主人公は「車」でこの地に到着して、本篇は開始されるのです。幻想小説の定義(笑)に照らして、著者の誘うこの地が、トラベルミステリーのごとき、現実のスズダリではないのは言うまでもありません。
 というか、この小説世界自体が、「この現実世界」とは何ほどか異なっている。モスクワ南郊のヤスナヤポリャーナには宇宙港が存在するらしく、スズダリでも明け方には「ヤスナヤ・ポリャーナから軌道上に打ち上げられる貨物定期便の光芒と軌跡」(66p)が望めるようです。ではこの世界は未来のロシアなのか?
 どうもそうではないらしいのです。この世界では、ソ連が依然として続いているらしい(例えば65p「党の意向」、70pの宗教を偉大に見せるわけには行かない党の苦悩、82p「政治犯」「西側」、83p「この無神論の国」等から判断)。つまりSF的にいえば、本篇の作品世界は別の時間線ということになり、未来なのかどうかは確定しません。

 だからかどうか、きわめつけは主人公で、彼はスイス人(65p、90p)で医者(精神科医?)。スズダリの北のはずれのスパソ・エフフィミエフ修道院(→修道院の画像。イワンが自転車を立てかけたのは、一番上の画像(案内図)の(1)の位置でしょうか)に付設された精神病棟に、治療と自説の研究のためにチューリヒからやって来たのですが、元型などと口走り、チューリヒ湖の畔に「自ら石を積んで造った別荘」(94p)を所有しているというのです。とくればこの男、誰あろうC・G・ユングその人じゃないですか(^^;。まさに手術台の上のミシンとこうもり傘。
 宇宙基地がすでに存在し、遺伝子工学の発展が国際紛争を巻き起こすほどになっている(77p)この近未来的世界において、ユングがやって来た中世的な修道院の精神病棟は、19世紀生まれのユングですら驚くほど、前近代的なままの隔離政策が取られている。それは逆にいえば、ユングにとって、理想的な研究環境だった。自説に都合の良い結果がどんどん出てきてウハウハのユングでしたが、その意味するところにはっと気づいたときには……既に魔の手が背後に忍び寄っていたのでした!?
 追記。スイスの山国育ちのユングがロシアの大平原のただなかでアゴラフォビアに罹るのだが、これはひざポンでした(<おい)(^^;

 いやあめっちゃ面白いです(^^)。本篇に至って、高野史緒の近作に連なるモチーフが現れはじめましたね。しかしそれにしても、よくもまあ、こんなヘンテコな話を思いつくものですなあ。そのイマジネーションに脱帽。

 
 

見学

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 5日(火)18時20分50秒
返信・引用 編集済
  > No.4286[元記事へ]

段野さん
>よろしければ、センターの見学ということで
 いやーそれはちょっと、おそれ多いので遠慮しておきます。先生もやりにくいでしょうし。かんべさんの講義なら、よろこんで冷やアワワもとい見学に行かせてもらうのですけどね(>おい)(^^;
 なんか今年は、心斎橋大学にも出講されるみたいですよ。去年よりも忙しくなるのでは。
 あ、これひょっとしたらまだ公表したらあかんかったのかな。どうかご内聞に(汗)

 モーニン伊勢佐木町ブルース↓
 
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月 5日(火)17時28分45秒
返信・引用
  管理人様
よろしければ、センターの見学ということで、来所して頂いてもいいんですよ。
結構、見学者さんたちが来られます。
知らん顔して「見学です」と言っても通じるんではないでしょうか。
よろしければ、4月13日土曜日、午後3時30分からですので、いかがですか。
聴講だと言えば、許して頂けるのではないでしょうか。(あくまで推測の域は出ないのですが)(「駅と、その町」についてですけど)
 

「ヴェネツィアの恋人」読み中(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 4日(月)23時12分8秒
返信・引用 編集済
  > No.4281[元記事へ]

『ヴェネツィアの恋人』は、2番めの「錠前屋」を読みました。
  レシ
 お話は、マリー・アントワネットが断頭台の露と消えてから2か月後、フランス革命共和暦2年フリメール20日(1793年12月10日)に開幕します。
 パリの法学校を卒業し、6年ぶりにセーヌ川沿いのノルマンディーの鄙びた田舎町に帰郷したヴィクトールは、安酒場で錠前屋の男を見かけて驚く。なんとマダム・カペーより早く一年近く前に処刑されたムッシュー・カペーにそっくりだったからです。
 聞けば錠前屋は、半年ほど前、どこからともなくやってきて町はずれにひっそりと居ついたのだそうで、町の人々とは殆んど交際がなく、ただし腕は一流で、町民は不気味がりながらも重宝していたのだそうです。そのときヴィクトールの脳裏に「身代わり」という言葉が浮かびます……
 ヴィクトールが「身代わり説」を思いついたのは、たまたま手に入れた青本(当時のフランスでは大衆向きの小説の類(青本)を行商する商人がいた)が、不思議な青本で、発行年が2000年となっており、その内容といえば、脱出未遂に終わったヴァレンヌ事件の際、ルイ王のみ身代わりと入れ替わることに成功します。実は彼を救出したのはチェス人形「トルコ人」(「デカルトの密室」にも出てましたね)で有名なケンプラン男爵らで、錠前屋などに身をやつして田舎に隠れ潜み、密かに制作した機械人形軍団「神の援軍」をもって共和派に復讐してゆく……そんな話を読んでいたからです。
 しかもヴィクトールは、町で3か月前から埋葬者の皮が剥がされるという猟奇事件が起っていることを知ります。このふたつの状況証拠が、彼の頭のなかで一つになったとき……

 いやー本篇も非常に面白かった。あまりに面白すぎて、私の妄想はさらに展開していくのです。なぜ主人公の名前はヴィクトールなんでしょうか。この小説世界の年から26年後の1816年(ヴィクトールは46歳です)、レマン湖畔のディオダティ荘で語られたお話に登場する重要人物の名は、一体何という名前でしたっけ(笑)。本篇は幻想のフランス第一共和国の田舎に起ったお話。その世界が、四半世紀後にジュネーブに現出した幻想世界と通底していても、ちっとも不思議ではないんじゃないでしょうか(>おい)(^^;

 
 

Re: 再び管理人様

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 4日(月)18時16分16秒
返信・引用 編集済
  > No.4283[元記事へ]

段野さん
 おお、ご本人を前にしてそれは大変ですね。
 どんな発表をされるのか、私も出席して聞かせていただきたいです〜!

 ところで下は矢作俊彦さんのツイート↓

 

 この筒井さんは、あの筒井さんなのでしょうか?(^^;

 

再び管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月 4日(月)15時16分45秒
返信・引用
  管理人様
しつこいと思われましょうが、「駅と、その町」で「片割れのイヤリング」について、多分時間が許せば、センターで発言(講評)するつもりなのです。
非常に興味深かった作品だと思っているのですが。(そんな時間を許して頂けるかどうか)
偉そうなことを申し上げて失礼いたしました。
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月 4日(月)15時05分12秒
返信・引用
  管理人様
大変失礼申し上げました。
「ペケ投げ」でしたね。失礼いたしました。
ご教授ありがとうございます。おっしゃるとおりでございます。
呆けた頭に喝を入れて下さいましてありがとうございます。
今、何かをやらかしたのか、掲示板が普通に戻って来ました。喝を入れて下さったおかげでしょうか。ありがたいことです。
しっかり勉強し直して、「駅と、その町」に対応させていただきます。
 

「ヴェネツィアの恋人」に着手(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 4日(月)00時44分55秒
返信・引用 編集済
  『ヴェネツィアの恋人』に着手。高野史緒初の短篇集――なのだが……あれ、これだけ? もっと書いてるはずよなあ。二分冊という形なんでしょうか。
 とまれ、まずは冒頭の「ガスパリーニ」を読みました。
 うーん。いいですねえ。というか、劈頭から超傑作をバシンとぶつけられた感じ。
 音楽小説です。音楽小説にして芸術家小説というべきか。「楽器はね、人を見るんです。自分にふさわしい弾き手を選んで、自分からその人のところにやって来るんです。不思議でしょう? 人はその命令に従わなければならない」(18p)という、前半に出てくるこの言葉が、本小説を語り盡しています。その意味で、主題は「運命」といってもよいかもしれません。

 主人公は日本人女性でヴァイオリン弾きの音楽家(の卵?)。それなりの自負心を持って東欧の音楽院の講習会に参加するも、井の中の蛙であったことを思い知らされ、放心状態で帰途に着く、というよりも急いでその地を逃げ出す。
 物語は、そんな次第で鉄道に乗ってパリまで来た主人公が、なんとなくふらふらと(おそらく)東駅で降り、メトロ(おそらく4号線)でモンパルナスの駅に降りたところから始まります。
 この発端のシーン、(当板で何十回となく唱えて耳にタコができておられるかもしれませんが)まさに「幻想小説」の開始を意味する「シグナル」ですね。「城」しかり。「クレプシドラ・サナトリウム」しかり。本邦でいえば「神聖代」がそう。
 主人公の女性と一緒に、我々も又、鉄道を降りて「幻想のパリ」に迷い込みます。

 それにしても、なぜ主人公はふらりとここに来てしまったのでしょうか? それはいうまでもなく上に引用したとおり。定まったことだったのです。「私が流れ者のようにこの街にやって来たのも、すべてはガスパロのヴァイオリンが私を選んだが故なのだ」(27p)。タイトルの「ガスパリーニ」は、このガスパロのヴァイオリンのこと。ストラディバリのそれのような名器なのでしょうか。
 主人公は(おそらく)リュクサンブール宮殿の近くのホテルを宿とするのですが、これも定まっていたこと。そして又、ホテルのオーナーが、最近、このガスパリーニを(もう一軒所有していたホテルを売却してまでして)購入していたというのも、オーナーは自分の意志だと思っていますが、実はガスパリーニが、そう仕向けさせたのだったのかも。

 楽器とは音楽家にとって何でしょうか。「それは異世界の生命体の一部だ」「ヴァイオリンとは何処とも知れぬ世界からこの世に突き出されたそれの器官なのだ。それが放出する音楽という毒液を私の体内に注入するための手段なのだ」(23p)。このイメージがいいですねえ。そしてそれが一般論ではなく、具体的な事実を述べたものであるのも、この小説世界が「幻想のパリ」なのだからでしょうか。
 これを異空間から触手をのばして音楽家の魂を絡めとるために、はるけくも「16世紀の半ば頃からずっと私を待っていた」(このイメージもよいです)「古きもの」の眷属とみれば、本篇はたしかに、あの邪悪な神話の一エピソードともみなせるわけで、そういえば、ふと「エーリッヒ・ツァン」を思い出したのも、あながち故ないことではなかったのかもしれません(^^;
 

Re: 「ふたりで宇宙へ」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 3日(日)22時14分15秒
返信・引用
  > No.4279[元記事へ]

斎藤さん
 ご投稿ありがとうございます。これはまた興味深いお話ですねえ。
 『都市への回路』は読んだことがないはずですが、そういえば安部公房がマルケスを褒めていたなあ、と思いだしました。エッセイは数冊しか持っていませんから、すぐに判明。
 『死に急ぐ鯨たち』に収められた「地球儀に住むガルシア・マルケス」という講演録で、やはり大絶賛していました(カネッティも褒めていますね。斎藤さんが紹介されたイギリスでのエピソードも(^^;)
 私は、短編集を一冊だけ読みましたが(「エレンディラ」だったっけ)、結局それだけで終わってしまい、長編にまでは手が伸びませんでしたね。タイミングが悪かったのでしょうか。「百年の孤独」を安部公房が絶賛しているので、今度挑戦してみます。
 挙げられた作家ではカルペンティエルが、むかし山野浩一が「この世の王国」を大絶賛していたので読んだのですが、この作家もそれでストップしています(汗)。
 リョサは「世界終末戦争」を読み、これは傑作でした。でもこれ、魔術的リアリズムなのかなあ、と首をひねった覚えが。
 そんなところですかねえ。
 そういう次第で、マルケスの次はSF的とおっしゃるコルタサルを読んでみましょうか。

 ともあれ、大変面白いお話で、ありがとうございました。またいい忘れたこと、思い出されたりしたことなどがありましたら、ぜひぜひ!
 

Re: 「ふたりで宇宙へ」読了

 投稿者:斎藤  投稿日:2013年 3月 3日(日)21時02分44秒
返信・引用
  管理人さん

>斎藤さん
>あ、斎藤さんの読書傾向はそっちの方なんですか。私はラテンアメリカ文学は、ボルヘス以外は、全くといっていいほど読んでいません。いろいろ教えてきただけたらと思います(しかしボルヘスはラテンアメリカ文学なんでしょうか(^^;)

「はい、私の読書傾向は実はそっち方面なんです」と胸を張って言いたいところなんですが、ラテン・アメリカ文学にはまって集中的に読んでいたのは、今から30年以上前の高校、大学生の頃(1980年代)でした。
きっかけは安部公房のエッセイ「都市への回路」でした。
この中で、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」について語っていて、「こんなにすごい作家がいるのになぜ新潮社はもっと宣伝をしないんだ」みたいなことを言っていました。
更に、「木につながれてずっと野ざらしにされているおじいさんが、死んでいるのに、でも死なないで、誰にも見えないようになって、でもずっとそこに存在し続けている」ことが書かれていることを紹介していました。
これを見て、安部公房がこれほどベタ褒めしている小説を読んでみたいと思いました。
それ以降は、はまり易い私の性格で、ガルシア=マルケスの翻訳本は全て読みました。
又、本の巻末に書かれている解説から、実は世界的には60年代に「ラテン・アメリカ文学ブーム」が巻き起こっていたことが分かり、そのブームの中心的存在として紹介されていた作家達の本にも手を出して行きました。

管理人さんから触れて頂いたボルヘスはこの「ブーム」の代表格の作家の一人で、間違いなくラテン・アメリカ文学の立役者的作家の一人です。
SFマガジンのブック・レビューの中で、川又千秋さんが「砂の本」を取り上げていたような記憶があります。

私がラテン・アメリカ文学にはまった時には、日本では多分全くと言って良いほど話題にはなっていなくて、新潮・現代世界の文学シリーズに収められた作品が中心でした。
でも、国書刊行会から「ラテン・アメリカ文学叢書」が全15巻だったかが出ているのを見つけ、嬉々として大学生協から一括購入したりして読みました。
82年にマルケスのノーベル文学書受賞をきっかけに、日本でも一気にブームが訪れ、集英社から「ラテン・アメリカ文学全集」が、国書刊行会からは「文学の冒険」シリーズが、更には、「書肆風の薔薇」という聞いたこともない出版社から「アンデスの風叢書」として何冊ものラテン・アメリカア文学が出版されました。
そして、「すばる」「ユリイカ」「カイエ」などの雑誌で特集が頻繁に組まれて嬉しい悲鳴状態となりました。
とにかく、ラテン・アメリカ文学という肩書きの付いた本は片っ端から買ったという感じです。

このラテン・アメリカ文学の象徴と言えば「魔術的リアリズム」(最近は「マジック・リアリズム」と表現されていますが、雰囲気が軽い感じで好きじゃありません」)ですが、この文学手法で書かれた小説はSF的な、或いは幻想小説的な面白さを感じながら読むことが出来まました。マルケス以外に、アレッホ・カルペンティエール、ミゲル・アンヘル・アストゥリアス、カルロス・フェンテス等々、たくさんいます。
一番SF小説的な物語作家は、フリオ・コルタサルだと思います。
幻想小説的な味わいで楽しんでいたのは、ホアン・ルルフォ、レイナルド・アレナス、辺りです。
マルケスは別格です。
バルガス=リョサもノーベル賞作家で有名ですが、正直「魔術的リアリズム」的な面白さは感じていませんでした。
管理人さんが上げていたボルヘスは、「観念のコラージュ」といった感じで、小説的な面白を感じることは出来ませんでした。
でもこの人の相棒とも言うべきアドルホ・ビオイ・カサーレスの小説は「魔術的リアリズム」文学として面白いと感じながら読みました。
ホセ・ドノソ「ブームの履歴書」という本で、ラテン・アメリカ文学ブームのことがその内側の視点から書かかれていて面白かったです。

実は、マルケス以外に、安部公房が紹介していた作家に、エリアス・カネッティ(ずっとドイツの人だと思っていました)がいて、この人の事をとても興味深いエピソードで紹介していました。
安部公房の友人がユーロッパの飲み屋で貧しい身なりの老人と会話をして、さすがはヨーロッパ、乞食も博学だなあと関心し、名前を聞いたら「エリアス・カネッティ」と答えてくれて、のちにノーベル文学賞を受賞したことが分かった、といったような内容でした。
早速、本を探し求めて見つけたのが、法政大学出版局から出ていた「眩暈」でした。
これも実に面白い小説だった記憶があります。
他の本も探しましたが、評論集のようなものばかりで、小説はこれ一つだったと思います。

日本の作家でラテン・アメリカ文学の影響を受けた作家は、大江健三郎、青野聰 等多数いると思いますが、一番、魔術的リアリズムな面白さと感動を与えてくれたのは日野啓三「抱擁」(泉鏡花賞を受賞しています)でした。
これを読んだ夜は感動のあまり興奮して一晩眠れなかったことを記憶しています。
でも、何にそれほど感動したのか、もう20年以上前なので覚えていません。

現在は、「積ん読」状態のラテン・アメリカ文学が結構あるという情けない状況です。
管理人さんへの投稿を書きながら、久しぶりに「積ん読」を崩してみようかななんて思い初めています。
大変長々と失礼しました。
 

「駅と、その町」補足

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 3日(日)00時45分30秒
返信・引用
  > No.4277[元記事へ]

平谷さん
 そうですね。やっぱり旧仮名使いですよねー(笑)
>なにしろもう4巻しか残っていないので
 わお、それはいかにも勿体ない気が。せっかくここまで世界を作ってきたんだから、もっと巻を増やして欲しいです。編集の人、ここを見てませんかねえ(^^ゞ

 それはさておき――
 さっき、風呂につかっていて、アッと思わず立ち上がってしまいました。
 大変なことを失念していたことに、卒然と気づいたのです。
 『駅と、その町』の第一話で、駅のプラットフォームに、未来からタイムスリップしてきた男は、25年後の最終話で、プラットフォームから忽然と消えてしまった男ではないのか。
 風呂から上がって確認してみました。
 第一話の男は、出現時は背広姿。名前は「太田」。最終話で消える男は――残念ながら服装の描写はありません。しかし「ああ、タイムスリップが起こらんかなあ」が口癖だったとなっています。一方第一話の太田は出現時「まさか……いや、どうもそうらしい」「私はやり直しのチャンスをつかんだのだ」と、タイムスリップを全然不思議がっていません。それは常々それを望んでいたから、すぐにその事実を受け入れられた。そう考えていいのではないでしょうか。あ、そうそう、この消失した男、名前は「小田」。「太田」と「小田」。小田が本名で太田は偽名となるのでしょうが(なぜならオリジナル(?)の小田がその世界に存在しているはずだから)、偽名ってあまり本名とかけ離れていると、呼びかけられても咄嗟に反応できない、ということから、本名をちょっとだけいじったものを偽名とする事が多い、と、何かで読んだ気が……。眉村さんの小説だったかも(^^;
 これはやはり、小田と太田は同一人物ですね。

 さて、25年前にタイムスリップした小田は、すでに知っている未来の情報で、金儲けをし、土地を買おうとします。バブル絶頂期からタイムスリップしてきた小田は、土地が高騰することを知っていたからですね。しかし、この小田、二年後のバブル崩壊は当然知らないわけです(もちろん89年にこの話を執筆している著者も知らないのです)。
 第一話の太田である小田は死んでしまうので、結局金儲けの計画は潰えるのですが、もし生きていたら土地を買いあさり、結局バブル崩壊で大損してしまうはずなんですよね。うーむ。その話も読みたかったなあ(>おい)(^^;
 

感想ありがとうございます♪

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2013年 3月 3日(日)00時02分43秒
返信・引用
  読み本の体裁、おもしろいですね。
旧仮名遣いにしてみるのもいいかも(笑)

全100巻くらい余裕があれば、各国の風俗ももっと書き込めるのですが、なにしろもう4巻しか残っていないので、先を急いでいます(笑)
 

「風の王国(6)隻腕の女帝」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 2日(土)17時19分0秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 「佐藤一郎」ではなくて「ペケ投げ」の方ですね、出てくるのは。→「ペケ投げ」

 「実際私は、小学生の頃にその平易に書かれたものを読み、一時はほとんど耽溺したものであった」(3p)

 とありますね。作中人物が即眉村さんを反映しているわけではないですが、ここの部分は事実なんでしょう。ですから実業之日本社版が出るずっと以前から「聊斎志異」は眉村さんの裡で大きな部分を占めていたのだと思います。
 ちなみに拙作「冬への扉」も、聊斎志異なんですが(^^ゞ

高井さん
 や、ご指摘ありがとうございました。前記事を訂正しました。たしかに→http://okmh.web.fc2.com/i/mayu4.htm
 あれー、なんで徳間文庫なんて書いてしまったのかなあ・・
 やはり記憶で書いてはいけませんね。確認する労を惜しんでは(ーー;

平谷美樹『風の王国(6)隻腕の女帝』(角川文庫13)読了。
 渤海は滅び、その故地に契丹の傀儡国家・東丹国が樹立されます。けれども旧渤海の各地では叛乱が続き契丹はその討伐に手を焼いています。
 また傀儡国家たる東丹国も、ある事情で傀儡に甘んじてはいません。
 さらに今巻より、五代十国の後唐が小説世界に入ってくる、というのは逆で、小説世界が黄河以北まで拡大します。ただし後唐ったって元は突厥ですから厳密には中原国家ではありません。ここはぜひ契丹を描写する程度にはこの国も風俗等をもっと盛り込んでほしいと希望したいのですが、にしても、いやー壮大! 絢爛たる軍記物語の様相を呈して来ました(^^)

 で、話は飛ぶのですが、このような小説と云うよりも物語、なかんづく戦記物語と云いたい作品は、なんか文庫で読みたくないという気がして来ました。
 これはやはり、江戸の読本(よみほん)の体裁で読みたい!
 ということで、突然ですが、試作してみました(ついでに古色蒼然感も出してみました)(^^ゞ
 もちろん完璧な模倣は無理ですから、できるだけそれっぽい感じで、ということになります(むろん現物は見たことがありません)。
 まずは明朝よりもあの読本の書体(なんていうのか知りませんが)がよいのですが、そんなフォントはPCに入っていません。そこで次善で楷書体なんかどうでしょう。それっぽくなるのではないかな。
 両面印刷ではなく、いわゆる二つ折にします。判型は読本は頁数が少いみたいなので、それは真似せず、80頁くらい(中篇見当)。それも粗雑な更紙だったらなおよい(笑)。表紙も簡単なものにしてホッチキスで止めるだけ。80頁を隔週発売なら、320頁を隔月に出すのとほぼ同じペースです。
  クリックで拡大↓
 
 どうでしょう。なかなかいいと思うんだが……却下ですかそうですか失礼しましたm(__)m

 閑話休題、こうなってきますと、もはや私には、どこまで史実でどこから想像なのか、さっぱりわかりません。架空戦記になっていくと困るのですが、もちろん著者は「史実」の「枠組み」はしっかり守っているとは思います。そう信じています(笑)。遼史*という外枠は守られている筈。むろん当然、その「中身」は著者のおもうままに「改変」もとい「解釈」されていて構わないわけで、それはもとよりのぞむところ。その点はどんどん妄想を盛り込んでいただきたい。歴史「小説」としても当然のことですよね。

 それにしても、またひと月以上待たされるのか。嗚呼!

*もちろん遼史であって、間違っても契丹古伝ではないですよ。それとも入ってる?(^^;

 ということで、『ヴェネツィアの恋人』に着手。
 

Re: 「駅と、その町」読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 3月 2日(土)15時00分59秒
返信・引用
  > No.4273[元記事へ]

>  本書の初刊は実業之日本社89年の『駅とその町』。その後95年に、徳間書店から『魔性の町』と改題されて文庫化。
『魔性の町』は講談社文庫ですね。お、解説は江坂遊でしたか。すっかり忘れていました。
 

「駅と、その町」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 3月 2日(土)13時33分9秒
返信・引用
  管理人様
私も読ませていただきました。
再開されるセンターでの、最初のテキストでもあります。
64ページに「聊斎志異」とでてきますが、これって「佐藤一郎の時間」にもでてきませんでしたか? もうこの頃から眉村さんの頭のなかにはインプットされていたのでしょうか。
何やら不思議なことのように思えてなりません。
眉村さんがどのように話をもっていかれるか、楽しみであります。
それまでに、よく読みこなしておかなければなりませんね。
 

「駅と、その町」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月 1日(金)23時03分49秒
返信・引用 編集済
  眉村卓『駅と、その町』(双葉文庫13)読了。
 本書の初刊は実業之日本社89年の『駅とその町』。その後95年に、講談社から『魔性の町』と改題されて文庫化。今回、初刊のタイトルに(ほぼ)戻しての復刊。立身(たつみ)という町を舞台に、8編の短編を繋いだ連作短編集(オムニバス長編?)です。
 特定の主人公はいません。あえていえば立身という町が主人公。その立身の、1964年(昭和39年)頃から1989年(昭和64年)頃までが、8個のちょっと不思議な物語によって点描されます(数字は私の推理。本書には具体的な数字はありません)。
 つまり東京オリンピックを機に好景気に入ってからバブル絶頂期に至る25年間の、まさに「正接曲線」(『準B級市民』所収)を描いて一気に上り詰めた日本のある時期を「時間的舞台」とする物語でもあります。

 この立身(たつみ)、都心からかなり離れているようですが、しかし地方都市というほどではなく、じゅうぶん通勤圏内の、いわゆる衛星都市のようです。ちなみに地方都市は、小なりとはいえある程度自立した地方の主都市として文化的中心の位置を担っています。
 対して衛星都市は、地方都市ほど都心から離れていないため、独立の文化圏経済圏を形成しえず、たとえ地方都市より規模が大きくても都心の文化経済圏に吸収され、だから衛星都市なんですね。小惑星ベルトが木星の大引力に晒されて、結合して惑星となりえなかったのと同じで、ある意味非常に中途半端な場所といえます。これが「立地的舞台」。

 また、この立身の町の成り立ちですが、町の中心を、国鉄(のちにJR)と私鉄が並んで走っており、「立身」の駅も隣り合わせにくっついている。この線路によって町は、実質的に二つに分断されています。国鉄側に、昔の宿場町の頃から続く旧市街があり(表側)、私鉄側はいわゆる新開地(裏側)で、第一話の昭和39年頃は何にもないような状態だったのが、どんどん開発され発展していき、大スーパーもできて、ある時期からはこっちが「表側」となっていきます。
 線路によって分断されているため交じり合いにくく、両地域が二つの文化圏として併存し続けてきました(地理的舞台)。

 以上で立身という都市の、ある意味特徴的な条件がわかると思います。まず、地方でも中心でもないその境界的性格。次に、町自体性格の異なるふたつの文化が駅を境にして接しているという条件。
 日本の右肩上がり期は全体として急激でしたが、都心はもともと都心ですし、地方は(労働力供給地ではあっても)その土地自体の変化は緩やかだった。したがってバブル崩壊の影響も軽微だったんですね。その影響をもろに受けて大きく変貌したのは、実は都会でも地方でもない、その中間領域、すなわち立身のような条件の場所でした。

 ところで、民族学では「カテゴリー間の中間領域は神秘性・魔性を帯びやすい」といいます(吉田禎吾『魔性の文化誌』)。逢魔が刻は、普通に考えれば真夜中のような気がしますが、夕方の黄昏時のことです。夕方の薄明が、昼(光)と夜(闇)の中間、両カテゴリーの重複部分だからなんですね。キリスト教の悪魔は元来両性具有なんだそうですが、これも性のカテゴリーの重複部分を曖昧な領域として怖れたからのようです(いうまでもなく現実の話ではなく思考の傾向の話です。人間の思考構造が二項対立に基礎づけられているからです)。
 この視点から本書を眺めるならば、「立身」はまさにいろんなレベルで、時間的にも空間的にもカテゴリー間の中間地点に立地した町であることが明らかです。「立身」では不思議な現象が昔から時折起こる町という設定なのですが、この立身の立地条件なら、それはある意味当然というべきなのです。

 第四話「化身と外国人」の主人公の大学生の父親は「立身には、昔からの立身のあり方の化身みたいなものがいるらしいんだ」(141p)と言い、主人公も目撃します。実際そういう怪異現象が、昔から立身では起こっていたようです。
 しかし第六話「拝金逸楽不倶戴天」で起こった集団消失事件は、新しい立身の在り方に抗議する古い立身を体現する老人たちが消失してしまうわけで、上記の父親の説明とは矛盾します。
 そもそも第一話「立身クラブ」で駅のプラットフォームに未来からタイムスリップしてきた太田は古い立身側なのでしょうか。新しい立身側なんでしょうか。(なお本書最初のこの怪異の発生が駅プラットフォームだったのは、上述の理由で非常に象徴的です)
 第二話「片割れのイヤリング」で、この町に転入してきたばかりの、いわば「新住民」のはしりである主人公の、その硬直した思考や行動を、多元的な在り方を示唆してやわらげた不思議な女は?
 これらの例に、上記父親の説明はマッチしません。
 けっきょく、立身の怪異は、戦後日本の急激な変化がカテゴリー間の摩擦を先鋭化し、その結果カテゴリーの接点・重複点において怪異が発生していたといえます。だから怪異自体に方向性はないのです。

「立身クラブ」ではオリンピック景気(64年)が、「片割れのイヤリング」では万博景気(68年頃〜)が、背景に控え、裏の発展が停滞する表との境界線を鮮明化していきます。「親切な人たち」はオイルショック直前(73年)、オイルショック後の安定成長期に入った「化身と外国人」では立身の町にも外国人の住民が見られはじめ、「閉じていた窓」で旧住民も安閑としてられないことを自覚し、しかし「拝金逸楽不倶戴天」では「ノーパン喫茶」なる新文化が闖入者(安部公房)として旧住民を不安に陥れ(81年)、「亜美子の記憶」では、「片割れのイヤリング」で新住民のはしりだった主人公が、二十二年後(86年)、やはり旧住民側と相容れないと感じつつもその自分も又旧住民化しつつあることに気づき、町を出ようと考え始める――

 最終話の「魔性の町」は、本連作が上梓された89年が舞台で、ここにおいて作品世界が現実世界に追いつきます。その世界とはもちろんバブル絶頂期の世界です(2年後の91年にバブル崩壊)。その世界で、町の若者が立身の怪異を「魔性伝説展」として回顧するのですが、いかにもふさわしい終幕の引き方ではありませんか。
 この展覧会で、客寄せとして「魔性呼出しショー」が行われます。もちろん何も現れはしない。それも当然であって、すでに町は魔性が発現するメカニズムを失っているのです。本編の視点人物の新聞記者が、JRの駅(ただし私鉄駅と《統合》する新駅ビル建設工事中)を降りて見たのは、「末期の様相」を呈する駅前広場と、「閉じていた窓」で復活の意志を示していた「商店街は取り壊されつつあって、半壊の建物をいくつか残しながらも、全体としてはだいぶ後退」した姿なのでした。もはや「境界」は消失してしまったのです。

 かくのごとく本作品集は、日本の高度成長後半期からオイルショックを経て安定成長期に入るも、右肩上がりはずっと維持され、むしろ急激度を増していき、その極限であるバブル崩壊の一歩手前までを時間線として、その変化を最も鋭敏に受ける地方と中央の境界の町で、その町は又、新しい価値観と旧来の価値観が境界を接し侵食し合う町でもあるのですが、そこに発生する魔空間を、一種いとおしむような手つきで柔らかく捉えていて、不思議な感興を読者に残します。
 魔性は消え去って町は――日本は、やがて「無限大に達する寸前に」「振り出しに帰らされ」(「正接曲線」)、今度は浮上することもなく怒涛の(境界なき)グローバリズムに飲み込まれていくのですが、著者はそこまで見通していたのでしょうか。少なくとも作品自体は、いや作品自身は、はっきりと今日に至る世界を見据えているように、私には思われます。→追記
 


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