ヘリコニア過去ログ1304

Re: ファド版

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月30日(火)01時20分23秒
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  > No.4421[元記事へ]

高井さん
 あ、やっぱり仕事優先でしたか(>おい)(^^;

 この連休前半は、痺れるような首肩痛でなにもできませんでした。最初は単なる寝違えだったのですが、リハビリのつもりで無理やり首を回したりしたのが悪かったのか、余計にひどくなってしまいました。机の前に座ってパソコンの画面を見る姿勢が、いちばんつらい。細かい作業は何もできません。
 でもさっき風呂から上がって、動作を確認してみたらずいぶん良くなっていましたので、明日からの仕事に支障をきたすことはなさそう。とはいえ、休日を空費してしまったのはもったいなかった。

 『宇宙の深淵より』はのこり2編(但しそのうち一編は140枚の中編)。
 

Re: ファド版

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 4月29日(月)23時23分38秒
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  > No.4420[元記事へ]

>  おお。サインは貰わなかったのですか(笑)
 仕事の打ち合わせ中ですよ、あっちもこっちも(笑)。
 

Re: ファド版

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月29日(月)17時43分19秒
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  高井さん
 おお。サインは貰わなかったのですか(笑)
「異邦人」は詞も曲もアレンジも三拍子揃った名曲だと私も思います。

段野さん
「異邦人」の詞って、当時全盛だった少女歌手の歌謡ポップスの詞とは全く異質なんですよね。当時の少女歌謡ポップスの詞って、ぶっちゃけお花畑な日記みたいな内容じゃないですか。
 ところが「異邦人」は、「石畳の街角」「祈りの声、蹄の音、歌うようなざわめき」なんてわずか数行、いや数単語の選択で、中東の朝のバザールの映像がぱっと目の前に浮かんでくる、どころか、匂いまで伝わってくるように感じられます。「詩」としても大変すぐれた作品だと思います。ほかの詞もよい詞が多いです。
 また、音楽性もセンスがよくて、中東っぽさを表現したりファドを取り入れたりと、これまた歌謡ポップスの範疇をかるがると越境してしまいます。しかしそれも第3アルバムまで。第4アルバムは通俗的な歌謡ポップスに後退します。
 けっきょくファンがついて来なかったんでしょうね。
 まあ、レコード会社の売り込みも、一律なアイドル歌手のそれだったんでしょう。
 というか、あの時代、70年代末-80年代初頭では、それ以外の売り込み方は余り余地がなかった。若い歌謡ポップスファン自体がまだまだ未熟で音楽的にも画一的だったんですね。

 前稿で早すぎたと書いたのはそういう意味で、もう10年遅くデビューしていたら、ファンもかなり成熟していて、音楽観も広がっていましたから、その路線で生き残っていけたのでは、と思ってしまうのです。
 小野リサが大体10年後にデビューしているんですね。小野リサはボサノバですが、ファドでもああいうポジションを確立できたんじゃないでしょうか。
 教会音楽の活動は、引退してからのほとんどアマチュアとしての活動ですね。

 

Re:ファド版

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月29日(月)16時15分22秒
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  管理人様
久保田早紀って、ゴスペル歌手になったと聞きましたが、違うんですかね。
イメージが、当時と異なりますね。やはり、アイドルではなかったのでしょうね。
 

Re:「男のポケット」PDF化

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月29日(月)16時03分2秒
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  管理人様
ありがとうございます。
メールはやはり不達でした。
お仲間に入れて貰ってもよろしいでしょうか。
ちょっとご相談したいことがありまして、メールを送ってはいるのですが、だめなようですね。
今度お会いしたときにでも、お話させてください。
よろしくお願いいたします。
 

Re: ファド版

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 4月29日(月)12時26分57秒
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  > No.4414[元記事へ]

 その昔、CBSソニーの喫茶室で編集さんと会っていたとき、すぐ隣のテーブルに久保田早紀さんが坐っていて、おおっ! と感動したことを覚えています。
『異邦人』はやはり名作ですね。大好きです。
 

「宇宙の深淵より」より

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月28日(日)22時30分37秒
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  > No.4415[元記事へ]

海野さん
 久保田早紀さんは時代的に少し早すぎたのかもしれませんね。当時全盛のアイドル歌手というお仕着せを着せられて、不自由だったんじゃないでしょうか。
 CDが登場してきたときは、LPの深みのある音が出ないなどと貶され、そうなのかなあ、と思った記憶があります。今現在の感覚では、CDの方が音の分解能がずっといいと思いますね。ステレオセットが安物だっただけかもしれませんが(^^;

 そろそろ『風の王国(7)』に取り掛かろうと、テーブルの山を崩したのですが、どこにも見当たらない。見当たらないはず。まだ買ってなかった(>おい)(^^;
 そういえば畸人郷出席のため上阪する際購入するつもりが、今月は諸般の事情で出席できなかったのだった。あわててアマゾンに注文しました。4月30日到着予定。

 ということで、予定に隙間ができた。ここはテーブルに積まれた本から何か一つ、と、手にとってパラパラ見ていたら、E・F・ラッセル『宇宙の深淵より』の目次に「内気な虎」というのを発見。
 こりゃまたどこぞの球団みたいやん、とタイトルが気に入ったので、読んでみました。
 いやこれは拾いものでした。面白かった。
 熱帯密林の金星という昔なつかしい設定。これがまずよい。インディアン的な文化レベルの金星人がおり、地球人も少数やってきている。が、金星語を喋れるものは皆無に近く、金星人との窓口となるべき領事すらまだ存在しない。チェロキー族の血を少し引く主人公は金星語を解し、植物採集の仕事の傍ら、簡単な医療行為で金星人の信用を得ている(そんな地球人はごく少ない)。ある日、知り合いの金星人が彼を訪れ、地球人とトラブルになっているので調停してくれ、という。ところがその場所は徒歩で(徒歩以外に交通手段はない)片道6日かかる。そんな遠隔地の情報が近隣の金星人部落に伝わっているのです。
 で、調停は成功するのですが、SFとして面白いのは、金星人が、平時は各個人それぞれ意識(私)を持つ個人なのだが、一旦緊急事態がどこかの誰かに出来すると、それは全金星人の共通体験として知覚される。金星のどこかで地球人と不和になると、それはその瞬間に全金星人の地球人に対する心情となるのです。平時は地球人のような個人、ただし緊急事態になるとホモ・ゲシュタルトみたいな全体存在に切り替わってしまうんですね。ちょっと類例を思いつかない、面白い設定だと思います。
 

Re: ファド版

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 4月28日(日)20時51分30秒
返信・引用
  > No.4414[元記事へ]

お。
これアナログ盤持ってます。アイポッドにも取り込んでますよ。
この画像はCDなんですね。YouTubeの方が音質いいかも。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

ファド版

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月28日(日)19時07分25秒
返信・引用
   ポルトガルギターってスパニッシュギターと対みたいですが、ギターじゃなく、リュートの仲間らしい。
 もともとリュートはアラビア起源で、東に向かって琵琶となり、西の果てでポルトガルギターとなったのだそうです。
 哀愁があってよろしいなあ。琵琶とは音質が全然違いますね。
 
 

Re:「男のポケット」PDF化

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月28日(日)17時27分32秒
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  > No.4412[元記事へ]

段野さん
 風の翼大宴会のメールは届いていますか?
 5月3日午後5時紀伊国屋ヤンマー側(向って右側)入り口集合です。
 

Re:「男のポケット」PDF化

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月28日(日)17時15分52秒
返信・引用
  管理人様
ありがとうございます。
リストをご覧のように、ラストに近づくにつれ、未録音が増えていきます。
これでは、完璧とはいえませんね。申し訳ございません。
何にしても、壮大なリストです。時間と労力にお疲れ様でした、ご苦労様です。
話は変わりますが、またしてもメールが不達になっております。
(嫌われているのだろうか)
私信で申し訳かない話ですが、またOCNさんに相談してみます。
本当にお疲れ様でした。
 

「男のポケット」PDF

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月28日(日)13時22分55秒
返信・引用 編集済
  「男のポケット」放送リストをPDF化しました(画像データより訂正が簡単にできるので)。
 →http://okmh.web.fc2.com/pdf/otokonopoketto.pdf

 よって先にアップした画像データは削除しました。
 

Re: 「蛇の卵」補足

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月28日(日)01時20分21秒
返信・引用 編集済
  > No.4409[元記事へ]

承前。ところで、[人間/アクセルザル]と[アウストラロピテクス/パラントロプス]では、実は構造を担うポジションが逆なんですね。実際、現実ではパラントロプスが滅亡し、アウストラロピテクスが生き残り現生人類に至ります。そもそも霊長目は草食なので、パラントロプスのほうが正統(ゴリラは草食)。肉食を覚えた人類(チンパンジーも)のほうが異端なんですね。アウストラロピテクス(→ホモ属)は肉食を覚え狩猟(非定住)生活に移行したことで、草食=定住のパラントロプスに優越したというのが安部公房の論旨。
 だとすれば、構造上の関係性では、アクセルザルはアウストラロピテクスに比定さるべきなんです。
 しかし定着農耕の開始とともに現生人類はパラントロプス化してしまったといえるのではないでしょうか。農業は、暦の管理、水の管理、共同作業など、諸「管理」の体系です。そこで必然的に管理するものと管理されるものに分化されます。その二重構造が「むら」となり、「くに」になり、やがて「国家」となる。
「この世界では、定着があくまでも美徳であり、掟である。連帯と共同作業が不可欠なため、縄張の内側では比較的寛容な法の観念が、外に向かったとたん、手のひらを返したように、残忍性をむき出しにするのだ」「なんというあからさまな農民根性だろう」
 国境は「国家という次元の縄張」です。最近高史明氏のツイートを読んでいるのだが、私が興味を持ったのはちょっと本題から離れていて、フィフィ氏を支持するツイッタラーの愕然とする日本語力の劣化状況なのでした。高氏が「TLを読め、書いてあるだろう」とイライラしながら何度も繰り返すのですが、たぶん読んでも理解できないんですね。母語の習熟が未完成だと現実認識力もそれに対応したレベルにとどまってしまうんですね。
 というのはちょっとそれました。私がこれを持ちだしたのは、当のツイッタラーたちが、判で押したように繰り返す「この国から出て行け」という主張。これなど、まさに「国家という次元」の農民根性といえるのではないか。
 かかる例のごとく、 [人間/アクセルザル]:[アウストラロピテクス/パラントロプス]は、いまや [人間/アクセルザル]:[パラントロプス/アウストラロピテクス]に変換されてしまったのです。ラファティの比定は、だから正しかったわけです。
 とまれ、こんな低劣なツイートを目にしてしまいますと、同じくホモサピエンスながら「蛇の卵」の孵化を待ち望まずにはいられなくなってしまうのであります。
 
 

「蛇の卵」補足

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月26日(金)21時15分59秒
返信・引用 編集済
  > No.4408[元記事へ]

 本書を読んでいる最中、ずっとアクセルザルに既視感があり、それはたぶん安部公房だろうと当たりもついていた。で、安部のエッセイ集を引っ張り出してきてパラパラめくっていたのですが、ビンゴ! 『内なる辺境』(中央公論社71)に収録された「異端のパスポート」に、(現生人類につながる)アウストラロピテクスが出現した時、それより「少し遅れて」、別の二足歩行属で、アウストラロピテクスより「大型」のパラントロプスが出現し、しばらく併存していた、と記述されているのです。これってアクセルザルのポジションに似ていませんか。
 さらにパラントロプスは草食で、それゆえ臼歯が大きく顎が発達していて、面相はゴリラに近かったらしい。これまた、アクセルザルが、ガーゴイル顔だったという本書の記述と合っているように思います。
 ラファティはかかるパラントロプスを、アクセルザルのモデルにしたのではないでしょうか?
 そんなことを思いながら、ウィキペディアを引いてみた。ウィキペディアによると、パラントロプスの最も古い形質を示す骨が、ケニアで発見されます。1985年のこと。そしてこの新種の骨が、それ以前にエチオピアで発掘されていた骨と同定され、パラントロプス・エチオピクスと名付けられたのです。
 そういえばアクセルザルの故郷第2エデンは、まさしく「エチオピア」じゃないですか!
 訳者解説によれば、ラファティが『蛇の卵』を書き終えたのは、1982年末。出版されたのは1987年とのことです。パラントロプス・エチオピクスの発見は、丁度その間の1985年。このニュースを知ったラファティが、「あ、これ、イメージぴったしやん!」という感じで、アクセルザルの描写をこれに合わせて修正した可能性は十分ありえるのではないでしょうか(笑)。
 ←1985年発見のエチオピクスのレプリカ

 

「蛇の卵」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月26日(金)00時14分46秒
返信・引用 編集済
  > No.4407[元記事へ]

承前。本章の冒頭で、動物が喋り始めるという、人間の終焉を告げる新たな「予兆」が、この「浮いた世界」に顕現したことはすでに述べました。
 しかしその一方で、人間の「実験」が、アクセル、イニアール、ロード・ランダルの三人組(ザ・スリー)のだけではなかったことも明らかになる。彼ら三人組以外にも、三人一組の実験グループがあと三組(合計四組)存在していたことが。つまり3人x四組=12人の子供たちが、四組に分散して、この10年間育てられてきていた、それが10歳の誕生日を目前に、全員が一ところに集められたのでした。
 さて、12名は皆、10年前の大体同じ時間に生まれており、彼らが10歳の誕生日を迎える当日は、実にアクセルザルが「眠りから覚める日」と同じ日だったのです。
 ここで不思議なのは、人間の「実験」であるはずなのに、育てられた12名の中に、人間の子供はふたりだけしかいいない。あとの子供たちは、アクセルザル、AMH、天使、悪魔(半分クズリ)、アシカ、ニシキヘビ、クマ、チンパンジー、オウム、そして母ゾウの体内に10年間いてもうすぐこの世に生まれる予定の、胎中天皇ならぬ胎中ゾウがそれぞれ1個体ずつ。

 ちょっと先走るのですが、この12人は、それぞれ驚異的な知能や超能力を持っていて、「カンガルー」はその力を脅威に感じ、「ドロフォノス」に命じて身辺を見張らせています。もし「カンガルー」にとってそのうちのどれかが彼らの体制を危うくする潜在力を持つものであることが判明すれば、その力が完全に備わる前に「だからこそあいつを蛇の卵と見なし……殻のうちに殺してしまうにしくはなし」(ジュリアス・シーザー、シェイクスピア)と命じているのでした。
 本篇はこのあとしばらく、12人それぞれがその特技を開陳する描写がつづく。一種の「列伝」と読めます。この辺は「水滸伝」というか「梁山泊」を彷彿とさせられます。彼らは「カンガルー」と戦うべく、この世界にあらわされたのです。

 さて、ここで「カンガルー」「ドロフォノス」という新しい名前が出て来ました。
「カンガルー」とは、「浮いた世界」を実質支配する者たち。この「浮いた」「全世界をコンピューター化し登録管理下に」おいて実効支配し、「浮き世」を「憂き世」にしてしまった者たちです。
 「人はかつて”平等化”とは、てっぺんを摘み取って、でこぼこのない平らな状態にすることだと考えていた。ところが今回の平等派たちは、人間、コンピューター世界、世界全体の底を摘み取ったのだ。それぞれのグループの下層にいたものが取り除かれたのだ」→アベノミクスなんて立派にカンガルーですな(>おい)(^^;
 要するに20世紀後半以降、情報化グローバル化の急速な進展によって地球は「全にして一の管理社会」となってしまったわけですが、その人格化といってよい。つまりこの「浮いた世界」って、「エシュロン」がその耳目を働かせて人間を管理する世界だったのですね。「ドロフォノス」は「カンガルー」が耳目(そして頭)だとしたら、その手足となって働く、一種の警察機構といえるでしょう。
 ここにいたって本篇、いよいよ「現代SF」の様相を呈して来ました(汗)。著者ラファティにとって、彼の目に映る20世紀後半世界は、まさにエデンの林檎を食べた最終結果のごとくに見えていたのではないでしょうか。
 最終結果とは何か。とうぜんこの世の終わり(末世)、人間の終焉ということになる。

 元に戻ります。なぜ人間の「実験」なのに、人間の子供以外のあらゆる種類の「別人間」も集められたのか。
 著者は「人間」をふたつのカテゴリーに分けています。ひとつは現体制カンガルー(とドロフォノス)。いまひとつはカンガルーによって管理され憂き世を生きる人間たち。
 カンガルーは、人間が堕落して生み出した文化の負の部分であるテクノロジーの、直接の後継者といえる。人間が神の被造物なら、神ががっかりしたのはカンガルーが現れてしまったことではないでしょうか。実際(第2カテゴリーの)人間もまたカンガルーの被害者なのです。しかし人間は「いまの魂のままでは」、よしんば今在るカンガルーを掃除してしまったとしても、いずれ第2、第3のカンガルーを発生させることは必定と言わざるを得ません。
 人間による実験は、実は人間を介して神が企図したものと考えるべきでしょう。或る深謀を以って……。

 本稿の第一回で述べましたように、12人の子供たちは、実は「或る者」を戴いて「カンガルー」とたたかうべく、神によって遣わされた「12使徒」なのではないでしょうか。いわば伏姫を戴く「八犬士」のような役回りだったのではないでしょうか?

 とすれば、「カンガルー」は最初から後手を踏んでいた。もし上に述べたことを認めるならば、12使徒の中に「蛇の卵」が含まれているはずがない。12使徒は「カンガルー」から「蛇の卵」を護るために「ドロフォノス」とたたかう者たちなのです。
 この辺の著者のプロットは冴えに冴えています。12人の中に蛇の卵がいるというのは、カンガルーだけではなく読者にも一杯食わせるひっかけだったんですね。実際は、「最後の日」に胎生である(筈の)ニシキヘビが生んだ(ことになっている)光り輝く「卵」こそが、カンガルーが殻のうちに潰しておかなければならなかった当の「蛇の卵」でした。そしてこの卵から、殻を破って出てくる者がいるのです。12使徒は(すでにこれまでの闘争で死んだものも、今後「復活」するようです)、その方を戴いて「カンガルー」とたたかうことになるのでしょうが、それはまた「別の物語」――となるはずだったんじゃないのかな。いやいや、その物語、私が知らないだけで実はもう語られてしまっているのかもしれません。ラファティの長篇は殆んど読んでないので。

 とまれ本書は、かくのごとく新しいメシア物語の前日譚なんですね。要するに「革命前夜の物語」なのです。ここには「既存世界」(出来上がってしまった世界)に対する著者の違和感、これはどこかで(と言うかそもそものはじめから)道を誤ってしまったという「大文字の人間」としての悔恨の意識が、批評性を伴って語り尽くされています。テーマ的には高橋和巳『邪宗門』に非常に近い。神話的物語めかしていますが、プロットは述べてきたように理路整然としています。びしっと一本筋が通っており、まさに「長篇小説」というべき。いわゆる短篇の積み重ねとは一線を画すものです。そしてそこには、ホラ吹きラファティならぬ「真言」を語るラファティがいます。『翼の贈り物』にひきつづき、ラファティのこれまで紹介されなかった(等閑視されていた)一面に光をあててみせてくれた編訳者井上央氏に、深甚の敬意を表します。

 ということで、最後駆け足になってしまいましたが、これでR・A・ラファティ『蛇の卵』井上央訳(青心社13)の読み終わりとします。
 

「蛇の卵」2-5-3

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月24日(水)21時54分30秒
返信・引用 編集済
  > No.4403[元記事へ]

承前。ストーリーに戻ります。すでにAMHは、第3章で「人間なんて、そんなものもいたかと、思い出す程度でいいだろう」、第4章で「ではいま私たちは人類に対して、どのような態度をとるべきか? それは完全な否定以外にない」、と、交替は既定の事実のように語っていました(なんか『第四間氷期』のコンピュータみたいですな)。
 本章ではさらに、それに加えてアクセルザルたちが蠢動を開始する。猿洞窟の瞑想館から「ついに大いなる”時”が近づいた」との言葉が。この”時”とは何か。いうまでもなく「第2の人類が目覚める時」です。「第2の人類」とは人類より30年遅れてあらわれたアクセルザルに他なりません。
 でもアクセルザルは現に目覚めて活動してるではないか。それは物質界での話。目覚めて活動しているアクセルザルの身中で、アクセルザルは「眠っていた、今もなお眠っている」のです(=魂?)。それが目覚めるとは、これは現人類と交替するという暗意に違いありませんね。事実、「その時にそなえて」、猿洞窟にはどんどんアクセルザルが集まってきています(もちろん時が至れば、故郷の第2エデンにも、世界中に散らばっている”離散の民”にも、シグナルは届く)。
 しかもなお次章では、人類誕生後9000年間、話すことをやめていた動物たちが、再び話し始めます。これまた何かの「兆し」なのでしょうか。「話す」ことは、動物にはない、人間のみが持つことを許された「特権」です。動物が話し始めたということは、その特権を「取り上げられてしまった」ということではないでしょうか(いわゆる神話的な説明法ですね)。
 ということで、いよいよ状況は不穏騒然としてきました(いや描写はのほほんとしているのですが)。

 人類はついに窮まって、AMHか、はたまたアクセルザルか、それとも動物たち? いずれかにその座を明け渡すのでしょうか。いやいや、そうではなかったのです(^^;

 *ところで、”イニアールの海”北岸の地下に広がる”猿洞窟”、とりわけそのメインストリートである”おサルの小道”の描写が実に魅力的でよいのですねえ。いわば乱歩の大密室をリゾート化したような感じで、なんとなく「ヴァーミリオン・サンズ」のリゾートを想起させられます。あ、高野史緒「白鳥の騎士」のミュンヘン地下階層都市も思い出した。なんとも想像力を刺激されるんですよねえ。
 
 

Re: 殊能センセーの手から水がもれる。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月24日(水)09時59分58秒
返信・引用 編集済
  > No.4405[元記事へ]

らっぱ亭さん
 や、そうでしたか。リアルタイムに読んだ口ですが、そんな趣向だったとはすっかり忘れていました。
 要するに上手の手から水がもれたのではなく、私が掌で遊ばされてしまっていたわけですね(^^;
 で、アニマソラリスを読みました(これも読んだことがあることを思い出しました。なんでもどんどん忘れていきます)。
「ナポリ」が映画そのものというのは本当にそのとおりですね。「ナポリ」という文字を見ただけで、路地に張り渡された物干し綱にワイシャツがはためいているあのシーンが、まざまざとよみがえって来ました。これだけは記憶の中にくっきり焼き付けられてしまっていますねえ。
 

Re: 殊能センセーの手から水がもれる。

 投稿者:らっぱ亭  投稿日:2013年 4月24日(水)05時22分9秒
返信・引用
  > No.4404[元記事へ]

あ、ちょっと誤解があるようなので。

自作自演と言うのは、私が種明かしをしている訳では無く、
当時、このインタビューをリアルタイムで読んだ方には、読めばわかるネタだったので、私もツイートで「自作自演(笑)」と書いたのです。

アヴラム・デイヴィッドスンのファンサイトSPPAD60(The Society in Praise of the Potboilers of Avram Davidson in 60s)は、当初は殊能センセーの本名で主催されていたのですが、やがて殊能センセーが自サイトでデイヴィッドスンの60年代の作品を褒め称えるサイトを作ったよーと告知して、自分がサイト主催であることを明らかにしました。(この時点では、当初サイト内に記載されていた本名は削除されていたと思います)

従って、このインタビューはサイト管理人である殊能センセーが、「どんがらがん」編者の殊能センセーにインタビューしている、というまさに自作自演を前提としたものだったのです。

ですから、センセーの手から水がもれた訳では無く、ギャグの一端として書いているのですね。

ただし、この前提となる情報なしに、このインタビューだけを読めば管理人さんのような感想を抱くのも当然ですし、
センセーも、それもまた良し、と考えられていたものと思います。
センセーがお好きだったデイヴィッドスンのある種の作品や、ジーン・ウルフの大部分の作品と同様に
「よく読めば解る」、けど「わからなくても、それはそれで良し」というスタンスでのお遊びでしょうから。

ちなみに私がインタビューしたのはこちら。Anima Solaris内のコンテンツです。
http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/060301.shtml
 

殊能センセーの手から水がもれる。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月24日(水)03時09分34秒
返信・引用 編集済
   らっぱ亭さんのツイートを閲覧していたら、先般亡くなられた殊能将之さんの「どんがらがん」インタビューへのリンクが貼られていました。行ってみたら、昔読んだことがあるやつだった。このインタビュー、実は当掲示板の記事に言及がなされていて、当該記事へリンクも貼って下さっているのです(「編者に聞く(4)」)。
 で、さっきクリックしてみたのですが、なぜかリンク切れになっていた。おかしいなあと思ってURLを見て思い出した。当掲示板の過去ログはもともとはインフォシークの無料ホームページスペースに格納していたのです。ところが何年か前にこのサービスがなくなってしまった。で、仕方なく現在のFC2のホームページスペースに移し替えた、というそんな経緯があったのでした。
 インタビューがなされたのは、この移行以前だったようです。それで今は無効になったインフォシークのURLにリンクされていたわけです。繋がらないのは当然なのでした。
 ということで、こちらが正しいリンク

 でもこのインタビュー、らっぱ亭さんのツイートによれば、殊能さんの自作自演だったとのこと。そうだったのか。私は今までずっと、らっぱ亭さんが聞き手をつとめているとばかり思っていました。そうと知って読み返せば、たしかにおかしい点があります。

《引用始》
――永遠の傑作ということですか?
殊能 ちがうよ。発表された時点ですでに古くさかったからだ(笑)。
 きみがやった「眠れる乙女ポリィ・チャームズ」("Polly Charms, The Sleeping Woman")のインチキ翻訳を読んで、どなたかが「プリンス・ザレスキーを連想した」と感想を書いてらっしゃっただろ? M・P・シールがザレスキー物の第1作を発表したのは、1895年だぜ。そんな小説を1975年に書くってのは、時代錯誤以外のなにものでもないよ。

《引用終》

 ところが、「眠れる乙女ポリィ・チャームズ」の翻訳者は殊能さんご自身なのです。これではインタビュアーの方が翻訳したようになってしまっています。上手の手から水が漏れると言いますか、あきらかに自作自演のケアレスミスですね。まあ今頃気づいても、時すでに遅しなんですが……。
 

「蛇の卵」2-5-2(間奏)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月23日(火)21時22分39秒
返信・引用 編集済
  > No.4401[元記事へ]

 前回、前々回の書き込みを読み返すと、わが解釈、ふらふら揺れていますなあ。つまり欠陥は「魂」にあったのか、それとも「意識」を発生させたことにあったのか、あるいは意識が生み出した「文化」(一種のテクノロジー)にあったのか、という点なのですが、これはそもそもキリスト教就中カトリックの「魂」というものに対するデフォルトな信念が腹に嵌って分かっていないからに違いない。
「何を迷っておるのか、そんなん決まってるやろ」と、カトリックなら鼻で笑うのかもしれません。彼らからすれば、私は魂を物象化しすぎているのかも。意識などという身体相関作用と同列に扱う事自体、不遜なのかも。
 いかにも創世記を素直に読めば、林檎を食べたこと(意識を発生させたこと)で堕落したとしか読めません(魂は悪魔によってのみ堕落させられる)。
 しかしラファティが聖書の記述を無批判に受け入れているとは思われません。というか一般的なカトリック信仰者と同じレベルであるはずがない、と思うのです。
 本書をここまで読んだ限りでは、AMHの神話にあるとおり、人間を創りあげる過程でキズモノとなったとラファティは本書において設定しているのです。これは肉体がキズモノになったと読めなくはないが、それでは辻褄があわない。やはりこの記述は、魂に小さなキズがついてしまったと読むべきではないか。だから交替すべき「第二人類」とか、人間の「終末論」なんてのが出てくるわけです。
 既述のように魂に問題がないとすれば、意識が発生してしまったことに問題があったことになる。だったら人間は意識を持たない動物のままであればよかったわけで、しかしそれならばなぜ人間が創りだされなければならなかったのか、神の根本動機と矛盾します。
 またテクノロジーに欠陥があったのなら、人類を交替させるまでもないのです。
 う−む。さらに読み進めれば、もっと分かってくるのでしょうか?(いや、ラファティ自身がふらふらしている可能性もあるぞ>おい(^^;)
 

「蛇の卵」2-5-1

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月22日(月)22時15分45秒
返信・引用 編集済
  > No.4398[元記事へ]

承前。「意識」は「魂」なのか。深く突き詰めていくとよく分からなくなってしまいます。「魂」は「心」と考えてよいのでしょうか。心は意識よりも範囲が広そうな気がします。我々のごく一般的な日常レベルの思考では、ほぼ同じものとして認識しているのではないでしょうか。昨日書いたように、少なくとも私は無意識に混同していました。
 「心」は、身体的器官を持ちません。いうまでもなく心臓や脳ではない。物理的実体を持たないのです。それが証拠に「心身二元論」という概念があります。
 同様に、といいますかそれとは別に「霊肉二元論」という言葉がある。第4章で人間とは何かについて「身体と魂からなる被造物」という定義が出されました。
 一義的に私たちは、その表層的日常的思考において、これらの二項対立を、いずれも二元論であるということから逆算的に混同してしまいがちではないでしょうか。
 しかしながら「心身二元論」は、(50年代以前に既に)現象学的発達心理学やメルロ=ポンティにより退けられました。身体なくして心は生じない(相互内在的。但し心が後)。この場合の心はほぼ自我の謂ですが、これは確定的事実です(当然ラファティは知っている)。一方「霊肉二元論」と「身体と魂からなる被造物」は同じことを言っているようです(一応そうしておきます)。
 そこで、もし霊-肉が、心-身と同じとしますと、身体活動が心を構成したように、魂もまた身体活動から生成されることになる。そうなのでしょうか。
 本書を読む限り、ラファティはそういう考え方ではなさそうです。ラファティにとって魂は、あくまで(誰かによって)肉体に投じ入れられるものなのです。したがってそれは自我(意識)や心とは別の存在とするべきでしょう(我々の日常思考は杜撰だったのです)。
 例えば、前章61pの「どうやら人間は、人間の内側にいるので、人間の姿がよく見えないらしい」の内側の人間とは、「意識」(自我)のことです。第5章扉で著者が「私はわが魂とともに彷徨った」とポーを引用するのは、明らかに理由があります。この引用中では、私(意識)と魂が並在している。つまり、同じく心として同一視しがちの、意識と魂が、厳密には別存在であることを明確に示しておきたかったのではないでしょうか。
 こう考えますと、神が自分に似せて特注し、それに見合う魂を入れて地上に送り込んだ人間が、知識の林檎を食べて意識を獲得し文化を発展させはしたのですが、しかしその結果は、神の思いとは異なって地上を憂世としてしまった。これは神が創った当の人間が、いまだ「完全」ではなかったからということになる。要するに失敗作だった、と、これが本書の前提的設定であります。ではこれからどうなるのか。その夏の終わり、「世に言葉が届いた。ついに大いなる”時”が近づいた」「第二の人間が目覚める時」が!
 

Re:「男のポケット」録音と文庫チェック

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月22日(月)20時37分21秒
返信・引用 編集済
  > No.4399[元記事へ]

段野さん
 エリック・ドルフィーが「When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.」という名文句を残していますが、ラジオの放送もオンエアすればそのまま消え去る運命です。そんな一回こっきりのものを(足掛け4年分も)ストレージして下さっていたというのは、これはもはや殆んど奇跡的です。ほんとうにありがたいです。
『最後のポケット』あとがきによりますと、「男のポケット」最終回は昭和60年(1985年)3月末のようです。テープは82年6月分までですから、さらに3年続いたのですね。
 第一回目からすれば実に6年あまり続いたわけで、大長寿番組だったのですねえ。残念ながら、私はその間一度も聴いたことがなかった。否、そんな番組があったこと自体知らなかったのだったと思います。
 私は79年春から社会人で、その頃は前年の10月ヨーイドンで就活解禁でしたが、10月中に内定が出、冬休みから就職した会社にアルバイトに行ったり(強制ではなかったのですが、立場上行かないわけにはいかんでしょう)、学生最後ということで春休み(とはもう言わないのかな)はスキーに行ったりで何かと慌しかったですし、4月になり正式に就職すればしたで、帰宅即寝る生活で、ラジオなど聴いている余裕は全くなかったですねえ。
 しかしそう思い出してみますと、見聞する最近の就活状況は、とんでもないですなあ。
 
 

Re:「男のポケット」録音と文庫チェック

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月22日(月)12時55分58秒
返信・引用
  管理人様
「最後のポケット」がオンエアされていたと考えられるころは、ぴたっとラジオドラマの録音をしていないのです。
記憶もとんでいるし、記録もありません。
何ともお答えできなくて、すいません。1981年の8月ごろから他の録音もないのです。
仕事が忙しくなって、残業も重なったとかの理由でも、毎日毎日何もできていない、ということでもないと思います。
その頃の自分に戻って聞けるものなら聞いてみたいものです。
すいませんです。
 

「蛇の卵」2-4

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月21日(日)23時35分25秒
返信・引用 編集済
  > No.4396[元記事へ]

 ここまで第2章でアクセルザル、第3章でAMHについて述べられてきましたが、第4章ではいよいよ「人間」が俎上に乗せられます。まあ予想通り辛辣な意見ばかりです。いろいろ言われていますが、要するに人間の「両義性」に焦点が当てられる。いわく「中間状態」「パラドクス、矛盾の束」「イカしてキタナイやつ」「堕ちた天使、高く上げられた動物」「どっちつかずもの」。且つ、「身体と魂からなる被造物」。
 そもそも人間は、[自然/文化]のカテゴリーでは「文化」に属します。それは人間が唯一「意識」を獲得した存在だからです。意識が文化を生み出します。ところが、人間の「身体」は「自然」から地続きなんですね。(cf:野生の思考)。人間は自然であり文化でもある。実にヌエ的、両義的な存在です。
 「身体と魂からなる被造物」とはこの状態(構造)を言っているんでしょうか? だったら魂とは意識ということになるのですが。

 さて、人間は唯一文化を生み出すように造られたのですが、その人間が生み出した文化は、どうも神の意に沿うようなものではなかったんですね。知識の果実であるエデンの林檎はその意味で「文化」(あるいは意識)の表象となります。それを「蛇にそそのかされて食べた」とされたのは、「彼のために特別に作られた世界に生まれた。それなのに、その世界で期待されるように振る舞わなかった」からといえるでしょう。この意味で、文化とは堕落(原罪)です。

 AMHの伝説では、神は完全な被造物を作ろうとして、いちおう完成したのだが、ろくろから出す時、うっかり小さな引っ掻きキズをつけてしまう。いまは小さな傷だが、時が進むにつれてそれがどんどん大きくなっていくていの傷だったので、神はそれを捨て、また新たに完全なものをめざして、ろくろの点検から始めるのですが、捨てたはずの不完全なそれがいつのまにか世界に満ちてしまった。これが人間。AMHの神話でも、人間は完全とはなれなかった欠陥品。中途半端な存在。だから人間の営為は何をやっても最初が一番完全に近く、それからどんどん「崩れて」いく。ここで書いた「日本語」は、まさにその例ですね(^^;

 要するに人間は「一番初めから不適応者だった」とされます。そしてどうやら、ほっておけば「最後の時までこのまま」のようです。「人類に変化する力があるとは思えない」。だったら俺たちがとって変わってやろう、とAMHは意欲満々です(アクセルザルも同じ考えのようです)。
 このあたりは著者の人間観と考えて間違いない。繰り返しになりますが、そもそも林檎を食べるとは、「意識」を獲得することで「文化」を生み出す能力を授かったということ。それが堕落とされたのは、文化のもたらすものが、神の意に沿うものではなかったからですね(この世が「浮いた世界」=憂き世になってしまった)。[文化/自然]:[魂/身体]の図式からすれば、魂イコール堕落ということになってしまいます。そうなのでしょうか?
 実は私は、これまで無反省に、魂=意識という風に考えていたようです。だったら魂こそ堕落したものとなる。それはしかし、本書の物語とは相容れないような気がするんですよね。おそらくラファティはそう考えていないのではないか。

 先に書いたように、意識がなければ人間は「動物」(自然)のままです。それはそれで幸福しょう。しかし神はそんなものを(特別仕様で)作るはずがないですよね。ラファティもそう考えたんじゃないでしょうか。
 神は魂を持つ人間を創り、そのように造られた人間は意識を獲得し、文化を生み出す。そこまでは神の思惑通りなんです。ただ「現代人(他の種類の人間がいたためしはない)」すなわち現生人類は、その文化を神が考えていたようには使いこなせなかった(=堕落)。それはだれの目にも明らかで(憂世)、だからAMHもアクセルザルも、その後釜に座ろうと野心を見せますし、人類は人類で、一部の有志が「実験」を開始する。ついでにいえばかかる「実験」への着手こそ、「終末論」を持ったということにほかならないわけです。

追記。ところでラファティはレヴィ=ストロースを読んでいたのでしょうか。60年代の著作ですから、読んでいて不思議はないわけですが……ラファティの蔵書目録って作られているのかな。
 

男のポケット録音と文庫をチェック

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月21日(日)21時03分59秒
返信・引用 編集済
   「男のポケット」録音を、角川文庫版と突き合わせていたのですが、頂いた録音は『ぼくたちのポケット』『ポケットのABC』『ポケットのXYZ』分で、『最後のポケット』分はカバーされてないことが判明しました。

 表にしてみました→こちら

 『ポケットのXYZ』分まではきっちり録音されていますから、『最後のポケット』分開始まで、すこしお休みの期間があったのかも。あ、録音できてないことを非難しているのではありません。これだけでも十分すぎるほどです。為念。

 まだ聴き合わせはしていないので、不明な部分は不明なまま記録しました。適宜訂正してゆきます。
 

「蛇の卵」2-3-2

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月21日(日)00時45分11秒
返信・引用 編集済
  > No.4395[元記事へ]

承前。本篇の革命(メシア)志向性の傍証として、イニアールの次の発言を挙げたい。
「わたしにはこんなひどい世界をどうすることもできない。小さい女の子コンピューターのわたしに、こんなひどい世界をどうすることもできない」
 ちなみにこの(いかにも口承文学的な)繰り返しは、前段の「わたしには意識がない」の繰り返しに対応し、前段の「わたしに意識がないなんて、どこのだれが言ったの!」に対応する「私がこの世界に手足が出せないって、どこのだれが言ったの!」という否定をもってくるためのものです。イニアールにとっていま在る既定世界は、「変更可能な」「変えられてしかるべき」世界として把握され、それは著者自身の反映であり、実際そのように実践されるのです。
 意識がないはずのコンピューター・イニアールが意識を持っているのはなぜか。読み進めると、意識を持っているのはイニアールだけではないみたいです。しかしコンピューター一般の「根本的性質」でもなさそう。コンピューターの中でも、どうやらAMHsすなわち「歩行型人間模倣タイプコンピューター」だけが意識を持ち始めたんですね。
 AMHsはなぜ意識を獲得したのか? (神が自らの姿に似せて人間を創りだしたように)人間が自分の姿に似せて創ったからです。それをさせたのは「人間の虚栄心」だったと語り手(著者)は説明します。
 その結果AMHsは「模倣」を行動原理とし、機械の性質上、人間以上にそれを押し進めた。「彼らの模倣知性は、模倣のもととなった人間の知性より適応力があり、視野の広さ、速さ、記憶保存性、再生力、容量、そして創造能力において人間を凌いだ」
 それはしかし、「意志」ではなく「慣性運動のもつ執拗性、ある物事を(特別に遮断されない限り)最後まで押し進める機械的な強制力」ともいえた。(だからここまではコンピューター一般の性質なんですね)
 それを「意志」(意識)にまで進化させたのは「可動性」と「会話能力」でした。
 コンピューターの最大の武器である「記憶容量」においては、「固定設置式」コンピューターのほうが、AMHsよりはるかにすぐれている。そのかわりAMHは「歩き、話す」ことができる。その結果、「刺激の量」は、設置型よりも飛躍的に増大するわけです。「刺激の量と関係があるのではないかな。することが増えれば増えるほど、受ける刺激の量も増え、私達が作り出す連結の”種類”も増える。設置型コンピューターの記憶容量の大きさが持つ強みは過大評価されてきた。情報量のバラストが軽い方が、決断の速度が向上するのさ。私たちは定置コンピューターより即断力があるんだ。私たちがすべてにおいて他のコンピューターの先を行くようになったのはそのせいだ」
 これは言い換えるなら、AMHは「可動性」と「会話能力」によって、「体験」するコンピューターとなったということ。人間は生まれ落ちた瞬間から体験的空間(間主観世界)に放り込まれ、ある時期に「私」(意識)を獲得します(自覚する)。だとすれば、(人間同様に)「体験する」コンピューターが、「意識」を獲得しないと考える方がありえない。事実イニアールは意識を持っているので、コンピューター一般に就いて言われるところの「意識がない」との規定に反発したわけです。ついでにAMHsには「常識(コモンセンス)」がないと言われますが、逆に言えば人間が常識にがんじがらめにされているということ。常識とは言うまでもなく前代に作られたインフォーマルな制度なんですよね。
 かくのごとく、このへんの論述には哲学や現象学や精神分析等の知識が正しく援用されおり、著者がデタラメに思いつきで書いているのではないことは明らかです。
 さて、そんなAMHですが、AMHは霊的には「からっぽ」なので、精霊や亡霊が入って来やすい。事実大抵のAMHは7種類のそれを住まわせている、という人間の悪口は(小説内)事実なのですが、しかしここで表明されている重点は、人間は「詰まって」いるということです。何が詰まっているのか。いうまでもなく「魂」(霊の一種)であるわけです。これは語り手の人間観の表明でもあるのですね。

 追記。本篇の「(下級)霊」認識(著者の解釈)は、非常に合理的です。
「幽霊って、みんな一人っきりでいるものなのよ。あいつらの夢はみんな、混乱した意識のかけらみたい。彼らは笑いこける。でもちっとも楽しそうじゃない。私の中に住んでいるつまらない幽霊たちに本当の友達はいないのよ」
 間主観世界から排除されてしまうと急速に劣化してしまうんですね。
 

「蛇の卵」2-3-1

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月20日(土)00時36分49秒
返信・引用 編集済
  > No.4394[元記事へ]

 本篇は、そもそも「語り物」でありますからして、ストーリーを語っているうちにふと派生的に思いついた別のテーマへ、語り手の興に任せて余談風に(ストーリーをしばし棚上げして)逸れる事があります。語り物とはそういうものでしょう。
 同じく語り物芸である落語の「胴切り」は、試し切りで上下真っ二つに別れた男の噺ですが、カジシンの「時空連続下半身」が、上半身と下半身が空間的には同じながら時間的にずれてしまうのに対して、「胴切り」は、同一時間内で空間的にずれてしまう設定と考えられます。枝雀さんの「胴切り」は、子供の刃物を試したい心理をマクラにして入っていくのですが(この部分は、いわば枝雀さんの理解であり、その意味で人間観です)、これを胴切りの本筋の中に挟み込めば、一種の余談となり、ラファティの筆法と同じになります。
 第3章は、そういうストーリーから派生的余談的に逸れる展開が多い。
 イニアールは叫ぶ。「わたしに意識がないなんて、どこのだれが言ったの! だれが”既に決まっている”って決めたの!」
「コンピューターに意識がないのは”既定の事実”だったからだ」と、著者は地の文で説明します。
 ところで「既定の事実」は、アプリオリに(世界の発生以来の)既定の事実なのでしょうか。もちろんそうではない。それは「前代」に(いずれの前代かは別にして)「定まった」事実なんですよね。
 しかし人は往々にして、「既存」なるものは「萬古不変」で今に至っていると思い込んでしまう。そもそも(いずれかの時点で)「発生」したものであることを忘れてしまいがち。余談になりますが、そんな意味で我が国で金科玉条にされる最たるものは「天皇」や「民主主義」ではないでしょうか。
 閑話休題、イニアールの叫び自体は、この後のストーリーに直接関わっていくものではありません(だから余談なんですが)。しかしここには(枝雀さん同様)著者の人間観・世界理解が現れているようです。
 管見ではそれは、世界(制度)は萬古不易なものではなくいずれかの時点で存在を始めたものであり、したがってそれは永久に不滅ではなく、いずれ後代に後を譲る、もしくは「変えられる」、という信念だろうと思うのです。
 そんなことが引用のわずか一、二行で分かるものかねと言われれば、むろん分かるものではありません。しかし本書を通読し、本書が既存の「この世」(浮いた世界=浮世)を変革しようという「革命」(もちろんメシア的な意味で)の物語の「前日譚」であったことを確認した目でこの部分に立ち戻ればどうでしょう。それはかなり確実な印象を持つのではないでしょうか。(続く)
 
 

「蛇の卵」2-2

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月18日(木)20時59分35秒
返信・引用 編集済
  > No.4393[元記事へ]

 第2章はアクセルザル縁起。アクセル・グラインドストンは「超越的諸存在」の声に促されてアクセルザルを「再発見?」します。その前にアクセルGは天地創造主義者で、彼の信ずるところによれば、人類は誕生してまだ9000年(世界誕生はその倍)ということなのですが、著者が何に拠った数字なのかは、残念ながら私には見つけられませんでした。読んでいる最中はジェームズ・アッシャー説の踏襲だろうと踏んでいたのですが、後で調べたら、アッシャー説では天地創造自体が紀元前4004年、つまり6000年前なのでした。
 AGによればアクセルザルは人類誕生(アダム誕生)の30年後に生まれた「第2の人類」で、かつ(林檎を食べた人類とは違って)「堕落せざる人々」なのです。アクセルザルは、アフリカの「第2のエデン」に隠棲していたのだが(ただし著者は石の民や製鉄民としての漂白の民をイメージしていますね。ロマはその弟子筋)、AGによって再発見された結果、アクセルザルは第2のエデンを後にし(出アフリカ)世に出てきます(動物園に入る(^^;)。
 しかし、そのきっかけとなったAGは再発見のその時点で死ぬ。AGはその役割を全うしたので死ぬのです。
 ところがAGが死んだ後、はじめて「アクセルザル」という言葉が現れる。「青い目をした金色の堕落せざる人々」は、AGの死を契機に「アクセルザル」へと(厳密に)指示語を換えられます(そもそもアクセルG以前に第2人類は居たわけで、アクセルザルの命名に因果的根拠はない)。このへんはまさに神話の論理(換喩)を、著者は意図的に採用しているわけです(決して適当に恣意的に使ったり使わなかったりしているわけではないということです)。
 さて、父Gが言います、「神はこのものたち(管理人註:アクセルザル)を、私達と取りかえる時のために用意したのさ」「神がこの交代要員を使わなければならない時が迫る気配が深まるばかりだね」
 でも最後まで読めばわかりますが、神がほんとうに必要としたのは12人組のひとりである「アクセル」のみ。
 本章は、結局のところ、12人の「使徒」のひとりに「アクセル」が「召命」される(リン‐ランダル夫妻の「子供たち」の一人となる)、そのゆくたてをはるけくもアダム誕生30年後から説き起こした神話であるといえるのではないでしょうか。
 

「蛇の卵」2-1

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月17日(水)22時21分17秒
返信・引用 編集済
  > No.4392[元記事へ]

 第一章からしばらくは、この世界の設定が語られています。
「選ばれた三人」(実は3X4=12人)は、実験のため生み出されます。何の実験かといえば、「世界を見る新しい見方を探るため」(ただし「目がヤブニラミになるほど新しすぎてはならない」)。
 では誰によって生み出されたのか。それは直接的には述べられていません。
 しかし「もし空の上にだれかいるなら、合図をして送れ」には直ちに答えが与えられます。
 この事実からその「誰か」は、三人(12人)の存在を知っており、いやもっと積極的に「注視」している存在であることが推量されます。そしてこの「誰か」は、「この空の外側、はるか彼方にだれかいる。時おりこの地区を訪れて大小さまざまな手を加えてゆく不自然に無言なだれか」なのですね。
 このことから、この世界自体が、その「誰か」の被造物であると考えて良さそうです。
「誰か」は、この世界に何らかの関与する目的で、「十二人衆」を送り込んだのではないでしょうか。
 この「誰か」は、「自分たちが周りの目には見えない存在であろうと懸命に努めているあのものたちよりもっと重要なだれか」ということですから、「周りの目には見えない存在であろうと懸命に努めているあのものたち」もまた被造物であり、この世界内存在である。したがって「見えない存在」(直ちに想起される「個人」は姿なきアルフレッドです)が「十二人衆」の存在を知るのは、十二人衆が誕生して後、「探知スキャナー」の警報によってであります。そして「この警報は(……)何ものかの心に、しっかりと留めおかれ」たとなってますから、「見えない存在」とこの「何ものか」はイコールで、このあとの展開より、それが「カンガルー」であることは明らかでしょう。
 ところで「十二人」となると、誰でも「十二使徒」を想起せずにはいられません。「使徒」とは「遣わされた者」ということです。本篇の十二人衆は、「誰か」によって、この地上もとい浮いた世界に何らかの目的を持って派遣されたのだとしたら、彼らを十二使徒に擬するのは、あながち的外れでもないのではないでしょうか。
 原始キリスト教の十二使徒は、ウィキペディアによれば「12使徒の成員の条件としては、イエスの復活の証人であり、またイエスと生前をともにした者でなければならない」とのことですが、本篇の十二人衆もまた、「蛇の卵」から復活するもののための露払いとして、この地上もとい浮いた世界に遣わされたのだとしたら、どうでしょう。

 
 

「蛇の卵」一周目、了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月17日(水)00時03分57秒
返信・引用 編集済
  > No.4390[元記事へ]

段野さん
>絶対何かお言葉があるような気がして
 いわゆる赤入れですな。羨ましい。それは「光栄」なことなのではないでしょうか!
 大昔、某M氏が「(清書原稿を)真っ赤にされた」といってむくれた。それは違うやろと(こっそりと)哂ったことがありましたな(>おい)(^^;

『蛇の卵』一周め読了。
 面白かったー。終章は感動的!
 結末ですべての謎は解明されたとなっているのだが、しかし私はまだ半分も解明していません(汗)
 ヒエロニムス・イグナティウス・ズコルドが「古い宗教の”主教”」と言われているのだが、おそらく「イグナティウス」はアンティオキアのイグナティオス(アンティオキア教会3代目総主教)に由来し、その後分裂しているようですが、その一方の(非カルケドン派の)シリア正教会の方の総主教は、15世紀以降、就任に際し「イグナティウス」を、今なお襲名しています→アンティオキアの総主教系図
 このズコルドが石打ちの刑に処されるのは、「受難」。
 アクセルたちは、「もう一度生き返る」
 「一回目の訪れは(……)家畜小屋に仮宿する”放浪族”のたぐいの者たちのもとに生まれた。取り上げられたのちは薄汚れた飼い葉桶におかれた」
 ではこの「蛇の卵」の中にいるのは(訪れたのは)、誰なんでしょうか?(笑)

 ということで2周めに入ります。

 ↓「運命の3人の女神(クローソー〜ラキシス〜アトロポス)」
 
 

心斎橋大学

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月16日(火)15時20分1秒
返信・引用
  管理人様
やはり、「心斎橋大学」がターゲットではないでしょうか。
システムが分かれば、行っていたいとはおもいますが。(よく分からない)
今日、セミナー向けの次回講評作品を作成したのですが、絶対何かお言葉があるような気がして、対策を練っている次第です。(おいおい)
びびりながら、楽しみではあるといった、現状です。
 

「蛇の卵」読み中(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月15日(月)21時44分42秒
返信・引用 編集済
  > No.4388[元記事へ]

段野さん
 なかなか厳しそうですね。そういえば眉村先生が、レベルが上がりすぎて途中から入ってきた人はついて行けなくなってきているかも、と心配されていたことを思い出しました。それは、NHK文化センターを始められるときのお話で、その意味で、NHKでは初心者向きの講義をしたいと言っておられましたが、NHKも始まってずいぶんになりますから、今はレベルも上がっているでしょうね。そうしますとやはり、狙い目は心斎橋大学でしょうか(笑)

 さて、『蛇の卵』は220頁まで。一周目もいよいよ残り40頁。
 今日読んでいてふと思ったのですが、ラファティって、ジャズで言えばアルバート・アイラーかも。アイラーのフリージャズは、その根底にナチュラルでプリミティブなニューオーリンズ・ジャズのマーチやフォークソングがあって、それが解体的に素材として利用されています。フリーな演奏の中にとつぜんナマのままで前面に出てきたりします。
 同様にラファティの場合も、素材的に動物が喋ったり天使や妖精が出てきたりといったプリミティブな民話、神話、キリスト教説話的な類型やモチーフが利用されています。ただそれらが解体的に変形され、歪められたり誇張されたり圧縮されたりして使われるので、ちょっと見にはそう見えないかもしれないのですが。かと思えばとつぜんナマのままで前面に出てきたりもするんですよね。

 
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月15日(月)16時16分35秒
返信・引用
  管理人様
いつもありがとうございます。
ちょっと誤解のないように付け加えさせていただきますと、
「ミント神戸」の方々がお見えになったのは、それなりの理由があったのではないでしょうか。
人数が増加して、どうこう思っている訳ではございません。
(当日参加の方もおられましたし)受講者は確かに増加しました。
私の作品も講評していただけるか、分からない状態です。
それなりに、講評して頂ける作品を出さなければ、という状況です。(厳しい)
早速次の作品をコピー(人数分)しなければならない状況が襲ってきたという訳です。
結構厳しい様子になりそうです。常連さんも油断できない状況です。
でも、それなりに、勉強の場であると思えば、月2回のセミナーは楽しみであるともいえます。
 

「蛇の卵」読み中(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月14日(日)22時53分44秒
返信・引用 編集済
  段野さん
>「ミント神戸」で参加されていた方々がどっと来られて
 おや、KCCから移られたということですか?

 どうもやはり花粉症みたいで、風邪は治ったのに、目の痛みは継続しています。ことに調子が悪い日は眼球の奥から後頭部にかけてなんともいえない痛みというか違和感があります。
 で、あんまり本を読む気にならないのですが、とまれ今日は『蛇の卵』を180頁まで。
 いやこれ、物語ですねえ。いやまあトールテールなんだから当然なんですが。つまり語り物(^^;
 カフカも朗読が好きで、原稿は朗読を想定して書かれたみたいですね。だからたとえば「橋」では、叙述者の「私」は橋であるはずなのに、途中で「なんと、橋が寝返りを打つ!」という、ナラティブ的に矛盾した叙述が出てきて、ある意味(小説的には)異様です。でもこれは、この話がそもそも朗読を前提としていることに気づけば何の不思議もない。「なんと、橋が寝返りを打つ!」は朗読者であるカフカがびっくりした、という設定なわけです。
 それまで下を向いて原稿を読んでいたカフカが、ここで顔を上げて聴衆を見、「なんと、橋が寝返りを打つ!」と言ってニヤリ。そんな場面が目に浮かんできます(^^;
 本篇でも極端な描写やしつこい描写は、ラファティ自身が興に乗ってどんどん横に突っ走っていったものではないでしょうか(で、その横にはみ出したものが、あとから(ある意味思いつき的に)本ストーリーに戻ってきて重要な契機になったりしています)。
 ラファティが朗読を好んだ、というような情報はどこかにないんでしょうか? らっぱ亭さんはご存知ないかな。

 
 
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月14日(日)18時18分13秒
返信・引用
  管理人様
いつもありがとうございます。
「心斎橋大学」ですが、私も気になって、電話をかけて聞いてみたのですが、システムがいまいちよく分からなくて、断念したのです。(一応広告が出ていたので)
あと、また「西宮文学案内」が催されます。5月25日「手塚治虫と黒岩重吾」6月22日「西宮ミステリーアワー」7月28日「西宮スター千一夜」ということです。問い合わせは0798-33-3455でお願いします。(講師陣は多種多様)
セミナーは「ミント神戸」で参加されていた方々がどっと来られて、机の配置にセミナーの係の方々が応援に来られるくらいでした。(今までは自分らで用意していました)
いづれにしても、セミナー再開は喜ばしいことなのではないでしょうか。
 

眉村さん情報+有栖川有栖講演会

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月14日(日)16時40分4秒
返信・引用 編集済
  > No.4385[元記事へ]

 段野さん、ご報告ありがとうございます。眉村先生から直接、創作理論や実践的なコツを教えていただけるのが、文化センターの最高の特典ですよね。創作志望者は折角そんな場が用意されているのですから、積極的に利用されるといいと思います。
 ということで、眉村さんの講義を受講できる(実践指導も受けられる)講座を紹介しておきましょう。地理的条件、時間的条件などで選択されたらいいのではないでしょうか。今年から心斎橋大学でも始まるのが、大阪南部の方に便利になりましたねえ。

◯毎日文化センター大阪「眉村卓の創作教室」第2・4土曜15:30〜17:00 [最寄り駅:環状線 福島駅]

◯KCC神戸新聞文化センター三宮眉村卓の 物語・エッセイをこれから書く人のために」第3金曜 13:00〜14:30 [最寄り駅:阪急・阪神・JR 各三宮駅]

◯NHK文化センター神戸教室「眉村卓の創作のすすめ」第3日曜 13:00〜15:00 [最寄り駅:JR神戸駅]

◯今年から心斎橋大学にも出講されることになったようです。既に講師陣に名前が加わっていますが、ここはどういうシステムなのか、よく判りません。直接お問い合わせ下さい(TEL 06-6252-7000 [資料請求する] [説明会に参加する])。最寄り駅は、地下鉄 心斎橋駅。

 さて名張人外境ブログによりますと、来週の土曜日(4月20日)、名張市で有栖川有栖さんの講演会が開催されます→こちら
 講演会後、有栖川さんを囲んで宴会も予定されているようです。興味のある方はどうぞ(^^)
 

Re:人生案内

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月14日(日)14時38分23秒
返信・引用
  管理人様
それでは、記させていただきます。
「駅と、その町」をご本人から構成を含め、こういう具合になっている、と、創作者の現場からお話しをされ、非常に参考になりました。
受講者からなにかを問うという形式ではありませんでした。その分、講義内容を聞き逃すまいという雰囲気で、「緊張しました」と感想を述べさせていただいたわけです。
講義が終わってから、少しお話することができ、ありがたかったです。
この調子でこれからも続いていくのだと思われます。
 

Re:人生案内

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月13日(土)22時22分58秒
返信・引用 編集済
  段野さん
>内容について、ここに記しても差し支えありますでしょうか
 講義の「具体的な内容」についてという意味なら、段野さんを含め聴講者が授業料を払うことで伝授された内容ということになるので、それはあまりよくないですね。大げさに言えば文化センターからクレームが来る可能性もあります(この掲示板を見ておられるみたいですから)。
 創作において今後使えそうなヒントをもらえました、みたいな抽象的(非具体的)な報告ならば問題ないでしょう。久しぶりに仲間とあえて楽しかった。帰りにみんなで飲みに行った、みたいなことも全然かまいません。むしろ文化センターさんも宣伝になるので喜ばれるかも(^^;
 それから眉村さんのプライベートなことがらは、インターネット上にある公開の掲示板である本板に書き込むべきことではありません。以前にも言いましたが、対面的な場での会話の中やメールならばもちろんオッケーです。(先日再メールした眉村さんのプライベートな画像も、掲示板で公開するのではなく、特定の方にメールする方法をとったのも同じ理由ですね)
 眉村先生に久しぶりに声をかけて頂いた。喫茶店で少しお話しました、みたいなことは大丈夫です。

 その一方で、過日おっしゃってられた、著書の書評とか感想等は、講義で発表されたものであっても、公開することは何ら問題ないと思います。段野さんの「『駅と、その町』を私はこう読んだ」みたいな投稿は大歓迎、むしろ積極的に書き込んで欲しいくらいですね(^^;

追記。あ、そうそう。去年、全員ケッチンを食らった西宮文学回廊のかんべむさしさんの講座の講演録「小松左京の西宮マップ」が、こちらで見られるようになっていますよ(^^)→http://nishinomiya.jp/bungaku/guide/2012-s-kanbe.html
 

Re:人生案内

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月13日(土)19時55分10秒
返信・引用
  管理人様
ありがとうございます。
ほんと、いつもご迷惑をおかけしています。
今日、復活した眉村さんのセミナーに出席してまいりました。
緊張しましたー。
内容について、ここに記しても差し支えありますでしょうか。
(秘密という訳ではないのならば、ということです。
 

Re: 人生案内

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月12日(金)17時57分27秒
返信・引用
  > No.4381[元記事へ]

段野さん
 ここで読売の人生案内のタイトルが分かります。残念ながら中身は有料サービスなんですが、コピーされたのならタイトルで掲載日を特定することが出来ると思います。図書館へ行って確認する二度手間はしなくてすみますよ(^^;
 

人生案内

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月12日(金)15時40分38秒
返信・引用
  管理人様
眉村さんの「人生案内」のコピーを持っていたなら、ファイルすればいいのでは、と以前にアドバイスをいただきました。
そこで図書館に走りました。
2月、3月の掲載の分をコピーしました。
と、ここまではよかったのですが、やってしまいました。
それぞれの分が何日付だったのを記載するのを忘れていたのです。2月、3月とそれぞれは分けてあるのですが。
人力で探して、焦っていたようです。
もう一度、西宮北口図書館分室に走って、確認しなければどうしようもない、なんとも情けない話になってしまいました。
2月1日から復活されておられたようです。
半年前までの新聞はファイルされていますので、閲覧可能なのです。
しかしまあ、情けない話です^_^;
 

眉村さん情報「ぜぴゅろす」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月12日(金)00時41分35秒
返信・引用 編集済
  風立つ高原の文芸誌 ぜぴゅろす」第9号(2013・春)に、眉村さんの「杉山平一さんのこと」が掲載されました。また、昨年発行ですが同誌第8号(2012・春)にも「小久保先生のこと」が。どちらも追悼特集に寄稿されたもの。

 杉山平一さんは詩人・映画評論家。織田作之助らと「大阪文学」を創刊。眉村さんとは、30年前、当時帝塚山学院短大教授だった杉山さんから講師に来て欲しいとの手紙をもらってからのお付き合いとのこと。「自分がなりたかったのはああいう人だったのではないだろうか、との想念が、ときどきふっと頭に浮かび上がってくるのである。」
 小久保實さんは、帝塚山学院大学名誉教授。私は眉村さんの文庫解説(ハヤカワ文庫『EXPO'87』や角川文庫『異郷変化』など)でお名前を存じ上げていましたが、眉村さんの追悼文によりますと、眉村さんの中学校の恩師で、「捩子」の指導者的存在でもあったようです。

「ぜぴゅろす」は、「捩子」主催者であった方が山梨県清里で開いておられるギャラリー&サロン「清里の森・自在舎ぜぴゅろす」が発行する文芸誌で、今回9号をご恵贈いただきました(8号は少し前にお贈り頂いていました)。
 9号の寄稿者には色川大吉、下重暁子。8号には杉山平一、坂上弘という錚々たる名前が見えます。

 ちなみにネットで見つけたぜぴゅろす第9号の記事

 その眉村さんですが、来月(16日発売予定)、双葉文庫より『駅にいた蛸』が復刊されます→双葉文庫新刊発売カレンダー
 『駅と、その町』にひき続いて、双葉文庫からの復刊第2弾です。しかも『駅にいた蛸』は今回が初めての文庫化。買い逃していた方が多いと思いますので、これは朗報ですね。

 『蛇の卵』は125頁。半分弱。

  クリックで拡大↓
 

Re:「男のポケット」完集

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月12日(金)00時36分3秒
返信・引用
  > No.4377[元記事へ]

段野さん
 いえ、DVD化は単にレコーダーで録音するだけなので、チョチョイのチョイなのですが、問題だったのは、頂いたCDはWMAという形式(?)で録音されており、この方式ではふつうのCDプレイヤーでは認識しなくて聞くことができない(ウィンドウズ・メディア・プレイヤーの入ったパソコンでしか聞くことができない)。なので、これを汎用性のあるMP3に変換してCDプレイヤーやDVDプレイヤーでも聴けるようにしたかったわけです。ところが、この方法が最初皆目見当もつかなかったのでした。
 で、どうしたかといいますと、両端がプラグになったコードを買ってき、それでパソコンの出力ジャックと入力ジャックをつないでしまったわけです(つまりウロボロス状にする)。これがミソ(^^;
 そしてWMPから音を出しますと、コードを回って、パソコン内のWMA→MP3コンバータ(フリーソフト)に入り、MP3変換されるという寸法なのですね。
 これって、なかなか目のつけどころがシャープでしょ! と自画自賛しているのですが、実は非常に原始的迂回的な方法で、もっと簡単直接的な方法があるのかもしれません。
 

Re:「男のポケット」完集

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月11日(木)13時37分10秒
返信・引用
  管理人様
大変お待たせ致しまして申し訳ございません。一体何か月かかったのか、呆れてものも言えません。m(__)m
情けない次第です。
DVD化、よろしくお願いいたします(私の技量では到底無理なことです)
自分で言うのもなんですが、よく残っていたものです。眉村さんの朗読、息遣い、声色、原稿をめくる音、すごいものがあります。
これを皆さまが聞けば、たちまちあの頃に戻っていくのではないでしょうか。
何だか、楽しみでもあります。(管理人様にはまたまたお手数をおかけ致しますが)
よろしくお願いいたします。
 

秀太復活

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月10日(水)23時02分24秒
返信・引用 編集済
   ほろ酔い加減の腕まくらで巨人阪神戦をながめていたら、酔眼のぼやけた視野に、なんと秀太がユニフォームを着て守っていた。それもセカンドを。あれ、復帰したのかな。でもその背番号、今岡のやん?
 はっと気づくと野球放送は終わっていて、別の番組をやっていた。夢だったのか・・

 今日は読書は進まなかった。今から少し読むつもり。
 

「男のポケット」完集

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月10日(水)18時13分31秒
返信・引用
  > No.4374[元記事へ]

 段野さん
>出来うる情報は管理人様のところにあります
 ありがとうございました。本日、最後のCDが届きました。
 早速ざっと(というかキセルで)試聴しましたが、2枚ともちゃんと録音されていました!(もちろん切れたカセットテープを張り合わせた部分の「決闘」以外は、ですけど)(^^;
 いやー大変なご負担をお掛けし、感謝の言葉もありません。振り返れば遙けき道のりでありましたねー(>おい!)(^^;
 このCDも、可及的速やかにMP3ファイルに変換し、すでに変換済みの分と合わせDVDに焼き(DVDなら一枚に収録できるみたいです)、皆さんにお配りしようと思います。段野さんにもお渡ししますからね。もちろん斎藤さんにも!
 楽しみにお待ちくださいね〜(^^)
  
 

Re::SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月10日(水)13時57分26秒
返信・引用
  管理人様
留守録で録音した一本のカセットテープが、このように話題が広がっていっていることに関して、非常な感慨を覚えます。きちんと録音して、その当時の記録をちゃんととっておけばよかった、と今頃になって思います。
出来うる情報は管理人様のところにあります。よろしくお願い申し上げます。
 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月10日(水)12時41分30秒
返信・引用
  > No.4372[元記事へ]

ムトウさん
「消える」に関して追加情報、また新情報をありがとうございました。
 おかげさまで尾川さんが提示してくださった資料のうち、FM放送にひき続いて中波放送においても、その記述の正しさの裏がとれたことになりますね(^^;。
 そして佐々木守さんが、番組の全作品における「構成脚色」担当者であったこともはっきりしました。
「地球漂流」の原作では、日本は旧大陸をぐるりと一周するわけですが、私の感じでは残りの6分あまり(3分x2回分)でそれはちょっと無理なのではないかと感じるのですが、実際聴かれたシナリオではどうなっていたんでしょうか。もし分かるのでしたらご教示いただけるとありがたいのですが。

>こちらの掲示板、前回が初めてですので空気が読めてない発言あったらゴメンなさい。
 いえいえ、そんなことは全くありませんのでお気遣いなく(^^;。どうぞお気兼ねなく当掲示板にお書き込みいただければと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:ムトウ  投稿日:2013年 4月10日(水)10時43分48秒
返信・引用
  > No.4364[元記事へ]

私が聴いたのはTBSラジオで恐らく、1979・10・21の夕方以降だと記憶しています。
原作である「日本漂流」についてはドラマ内では全くアナウンスされていませんでした。
ただ、当時の新聞の番組欄には書いてあった記憶がうっすらとございます。
>で、この作品のみ佐々木守脚色ということですね。
恐らく、佐々木守氏が全ての作品の脚色をされていると思います。
というのは、放送でアナウンスされた脚本家の名前は佐々木守さんだけでしたから
(エンディングで「構成脚色:佐々木守」とアナウンスされてました。)
因みにウルトラマンの「故郷は地球」と「怪獣墓場」は(当時子供だったこともあり)何度見ても泣けてしまいます。

こちらの掲示板、前回が初めてですので空気が読めてない発言あったらゴメンなさい。
 

「蛇の卵」読み中(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月10日(水)01時40分26秒
返信・引用 編集済
  > No.4368[元記事へ]

 FMCOCOLOのマーキー・ミュージック・モードを聞いていたら、このニュースを話題にしていて、「テレビ・アニメキャラクター」は職業なのか? というツッコミのあとでマーキーさん、自分らの子供の頃といえばアトムだが、もちろんアトムにあこがれはしたけれども、それを将来の職業に、という発想はなかったなあ、と述懐されていて、私も同感だったのですが、しかしその前に、アンケートだから選択式だったに違いなく、とすれば選択肢に「テレビ・アニメキャラクター」という項目があったということですよね。そもそもそんな項目を立てること自体が、ネタというかウケ狙いの「小細工」としかいいようがない。マスコミはよく「統計」を示しますが、電話回答率何パーセントなぞと謳われると、いかにも客観性を担保されているかのようにみえます。しかし実際は選択肢の項目の取り方次第で、いくらでも誘導可能なツールなんですね。騙されまいぞ。その手は桑名のナントヤラであります。

『蛇の卵』は110頁まで。「第6章 夏の終わり」(ことにその前半)は、”大洋の岸辺”の描写がよいですねえ。なんとなくブラッドベリ的な世界観を感じた。これって、著者の意図とは無関係な、私だけの感覚でしょうか。でもこの章題は(笑)。
 

段野さん

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 9日(火)14時16分1秒
返信・引用
  > No.4369[元記事へ]

 お手数をおかけしました。段野さんのところに届いてないということは他のメンバー(の一部)にも届いてない可能性がありますね。
 とりあえず段野さん宛に再送しました。届いていたら返信は結構ですが、不達でしたら、申し訳ありませんが、連絡下さい。
 なお、メールの内容は、掲示板等ネットではオフレコに願います。
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月 9日(火)14時04分44秒
返信・引用
  すいません、三度私信です。迷惑メールにもなかったし、ゴミ箱にも見当たらなそうでした。
teacupさんからのお知らせが突然復活しましたし、(三月二十五日から届いていなかった)またOCNさんに調べて貰っています。いつもご厄介をおかけしてすいません。掲示板はサボらずにきちんと見させていただいてます。
突然ですが、尾川さんとは同じ会社で、超有名人のお方です。二十数年前に堀晃さんに紹介して頂きました。(紹介していただいたことも、びっくりでしたが)
 

「蛇の卵」張り出し

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 9日(火)01時25分56秒
返信・引用 編集済
  > No.4367[元記事へ]

「人間の活動のどの部分をとっても、古い時代に戻れば戻るほどより洗練の度合いを増し、深みがあったということだ。複雑なものの前に単純なものがあったのではない。バラバラになる前に統一された全体があったんだ」(63p)

 例として言語が挙げられていますが、これは実感的に分かるなあ。
 日本語なんて、どんどん崩れていっているわけで(例えば「すごい楽しい」副詞の消滅)、どう考えても、源氏物語等上代の日本語のほうが文法的に(現在からみて)完成されている、というか崩れていない。*
 これを突き詰めれば、上代語をさらに遡ったらもっと完全な日本語があったことになるわけで、その「完全日本語」(完全言語)は、どのように成立したんでしょうか。
 (言語というものが不可逆的に崩れていくものなら)ある日とつぜん、(先史)日本人の口に(脳に?)完全日本語が宿った(そしてその瞬間から崩れていき始めた)、と考えなければ筋がとおりません(^^;

*そもそも「崩れる」という言葉自体が「完全」の先在を前提している。
 

「蛇の卵」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 8日(月)22時57分17秒
返信・引用
   70頁まで。「第4章人間たちに何が起こったのか」が圧巻。

「現代人(他の人間がいたためしはない)は後ろで鳴り響くファンファーレもなく世界に現れた」
「彼は”完全な創造物”であり、彼のために特別に作られた世界に生まれた」
「それなのに、その世界で期待されるように振る舞わなかったのだ」(59p)

 

段野さん

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 8日(月)14時06分11秒
返信・引用 編集済
  > No.4365[元記事へ]

一括メールで送ったものです。深田さんからは受けとったとの連絡を頂いているのですが。
もう一度捜してもらえますか?
迷惑メールとかゴミ箱の中に紛れ込んでいませんか。
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月 8日(月)13時24分45秒
返信・引用
  管理人様、私信です。
「画像」は届いておりませんです。
また、不達でしょうか。
 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 7日(日)21時04分39秒
返信・引用 編集済
  > No.4361[元記事へ]

尾川さん
 「消える」の情報、ありがとうございました。
 ショートドラマは「日本漂流」が原作でしたか(『ウインク』所収)。で、この作品のみ佐々木守脚色ということですね。
 原作の要約を見つけました→こちら
 ドラマがどこまで原作に忠実か不明ですが、原作では北海道は(ナマズの背に乗ってなかったので)取り残され、
それ以外は喜望峰廻りでドーバー海峡、ここで九州が海峡に引っかかって脱落、ほぼ本州と四国が陸路ユーラシア大陸を横断し、最終的にベーリング海峡の架け橋となったんですね。
 私は、ここで述べたように、ベーリング海峡なら本州島だけで十分なので、実はアリューシャン列島だったんではないかと想像したのでしたが、本州と四国ならベーリング海峡にピッタリと嵌ります。
 さすが小松左京、ベーリング海峡に間尺をあわせるため、日本列島をあちこち漂流させて、不要な部分を振り捨てさせたのですね!(>そうなのか)

>数年前シナリオがヤフオクで出品されましたが、落札は叶わず
 あーそれは残念。原作とシナリオの異同を確認して頂きたかったです〜。

段野さん
 フォローありがとうございました。
 尾川さんとはお知り合いだったんですね。

>またメールが不達
 当方がメールしました「例の画像」は届いてますか?

 『蛇の卵』>中断期間が開きすぎたので最初から再着手。40頁まで。のっけからめちゃくちゃ面白い(^^)

 
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月 7日(日)17時44分51秒
返信・引用
  私信。またメールが不達になって還ってきました。OCNさんに調べてもらっています。
不思議なこともあるものですね。
 

尾川さま

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月 7日(日)17時35分9秒
返信・引用
  すいません。良く調べていただきましてありがとうございます。
画像が存在しておりましたか。それは貴重なことであります。
当方が、きちんと録音さえしておれば、こんなことにはならなかったのでしょうね。
三十年が経ち、おんぼろカセットでも価値が生まれてきたということでしょうか。
留守録ですが、一部を管理人様に送っております。
さすが、尾川さまですね。びしっと必要なものを記して下さいました。
ありがとうございます。
大阪では、10月26日、FM大阪でオンエアありました。
 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:尾川健  投稿日:2013年 4月 7日(日)13時58分56秒
返信・引用
  > No.4330[元記事へ]

すみません。反応が遅くなりました。

SFオムニバスドラマ「消える」ですが、平石滋さん作成の資料に
よりますと、放送は次の3パターン(中波はオンエア時間不詳)

1979・10・21,ニッポン放送ほか中波民放各局
1979・10・22,1:00〜2:30,ラジオ短波
1979・10・26,13:30〜15:00 ,FM東京ほかFM各局

とのことです。

「おれに関する情報」No42からも少し書き抜いておきます。

第5回ラジオ月間(10月)の特別番組で制作/朝日放送。
「霧が晴れた時」小松左京/「母子像」筒井康隆/「トロキン」
眉村卓/「通夜旅行」かんべむさしをオムニバス形式でドラマ化
し、「日本漂流」小松左京をブリッジSFとして四話の間にはさむ。
脚色は佐々木守。

とのことです。数年前シナリオがヤフオクで出品されましたが、
落札は叶わず、表紙画像のみ保存しましたが、それも見つかりま
せんでした。すみません。
 

ねこ耳少女vsねこ目の少女

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 6日(土)20時35分35秒
返信・引用 編集済
   ここ数日風邪をぶり返していました。先日述べたサイクルをまた一回転し今朝寝汗でめざめるも、大事を取ってうつらうつらしていたのですが、夕方、ようやく復活しました。
 本を読む気力がなくて、ここのところ専らテレビで野球観戦していました。民放テレビを見ること自体が久しぶりで(NHKはたまに相撲観戦していた)、CMを見るのも久しぶり。当然見るCM尽くが初見で、実に新鮮でした。昔は(多分見慣らされて)全然気が付きませんでしたが、なんという酷さ! 大半のCMが、CGとかを使って、まるで子供相手の作りなんですね。もちろん大人用の商品のCMです。これはどういうことなのか。親を攻むるにまずは子供よりということなのか。あるいは(恐ろしい想像ですが)いまの大人(の中の人)は子供なのか!?
 チョーヤのうめほのりというアルコール飲料のCMでは、モデルの子が猫まねをしていまして、どうみても10代にしか見えません。ところで先日猫のイメージの変遷について書きましたが、30年前以前では猫は気色の悪い動物の筆頭でした。それでは当時の人々にとって「猫まね」のイメージはどうだったんでしょう。「猫をかぶる」という表現は決してよい言い表わしではないですよね。ところが今や言葉の正統な意味で「猫をかぶる」猫コスチュームは、かわいいという意味内容を指示するシニフィアンではないですか。(今年はまだですが)テレビに映る甲子園球場では猫耳をつけたタイガースファンが映しだされます。*
 この変遷をあとづけた調査ってあるんでしょうか。誰かやらないかな。これ、大学生の卒論にちょうど良いボリュームだと思うんですがねえ。

*あ、あれは虎耳か(^^;
 

「小松左京のSFセミナー」より

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 6日(土)01時29分22秒
返信・引用 編集済
  《翌年、「ウルトラQ」の後を受けた「ウルトラマン」、手塚さん原作の「マグマ大使」が同時にオンエアを開始します。”巨大ヒーロー対怪獣”のパターンはこのときできあがり、現在まで続いています(……)
 1971年になると、それまでの”巨大ヒーロー”に変わって、”等身大ヒーロー”の「仮面ライダー」が出てきます。一方、アニメ界では”巨大ロボット”ものが全盛期を迎え、今日のテレビ界は、”等身大ヒーロー”と”巨大ロボット”によって占められています。どの番組を取ってきても、”等身大ヒーロー”と怪人の闘いで幕を開け、途中で”巨大化”し、”怪獣”となった怪人に対し、ヒーローも”巨大ロボット”を操って立ち向かう、というパターンに終始しています。かくて、毎日、毎日、太陽の照らない日はあっても、ヒーローが闘わない日はないのが、現在の特撮テレビ番組の状況だといえましょう。
 テレビSFにおける”西高東低”は、結局、「大人向け」の本格SFが作られなかったところにあるのではないでしょうか(……)いまの子供たちがスーパーヒーローの活躍から受けとれるものは、つまるところ「力は正義なり」といった、実に殺伐としたコンセプトだけとしか思えません》
『小松左京のSFセミナー』集英社文庫82)153‐154p
 

「現代の青春」より

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 5日(金)22時11分26秒
返信・引用 編集済
  「私は確かに人並み以上に読書に熱中しておりながら、自分自身では一向に本を買おうとしない自分に気づいた(……)かりに本を買っても、読み終わるやいなや古本屋に売りとばしてしまわないと何故か気がすまないのである。/それが私だけのことなら、それは個人的な性質の問題ですむのだが、交わった友人の多くが私以上に極端だった(……)おかしいほど本を持っていないのである。あるいは図書館を利用しあるいは人に借り、あわただしく読み終わるやいなやまた人にまわす」
 このあと、「ようやく最近(……)共感する作家の全集なども机辺にそろえ、また職業柄、少なからぬ参考文献を身辺におくようになった」(61‐62p)とつづくのですが、この文章からだと、高橋和巳もようやく所有することに対する気恥ずかしさから少し解放され、人並みに欲望を満たすことにめざめたのだな、という慎ましやかな人柄の印象を抱かされるわけです。

 その実態はどうだったのか。小松左京がそれを見ていた。
「彼(和巳:管理人註)は結婚後も高橋姓を名乗っていたけれども、いろんな関係が養子みたいなもので、財産は全部彼のところへ行くようになっていた」「彼にとっては養子に行けば生活に困らない、すごい古本が買えるというのが大きな魅力だったんだ。家に行ったら奥の部屋を見せてくれたんだけど、漢籍がいっぱい並んでて、どうだすごいだろうって言うんだけど、僕はイタリア文学だからわかりゃしない(笑)」(『小松左京自伝』

 なんだ、単なる蔵書自慢のおっさんではありませんか(笑)。いや実際は、今や自分がそんな生活をしていることを、かつて「哲学者の小径」の三学生の一人であった小松左京に見られることに、なんとも言えない羞恥を感じ、それが「どうだすごいだろう」という自己韜晦、自虐の言葉となったのだと私は思いますけどね。実際は小松だってその時点では、「哲学者の小径」を執筆した時点以上に、三学生との間は天文学的な距離に広がっていたはずですが、高橋にとって小松はいつまでも苦学生の小松だったわけです。

「かつて書物を慌しく読み捨てていた時、自分でもやや不思議なほど一度読んだもののことを忘れなかった。だが、いつでも読みかえせるように本を数多く身辺にそなえるようになったいま、年齢のせいもあってか、妙に読んだもののことを度忘れするのである」(62p)

追記。としますと、最初に引用した文も、実は原体験(からの乖離)に対する贖罪的な無意識があったのかもしれませんねえ。
 また小松の口調が辛口なのは、なぜこのオレに対して自虐的になるのか、という情けなさ、哀しさのあらわれなんでしょう。
 

Re: 「日本SFクラブと手塚治虫」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 4日(木)23時53分54秒
返信・引用 編集済
  > No.4356[元記事へ]

段野さん 雫石さん
 お知らせありがとうございます。
 今回のはネットで殆んど記事を見かけませんねえ。
 あんまり盛り上がってないのでしょうか。

「あまりアポロン的になると、創作とは縁が切れてしまうかもしれない。/もっともそれは杞憂にすぎず、目下、陳寿の『三国志』を演習に用いて、学生諸君とともに読んでいるが、正確な味読だけでは満足できず、中国の正史の体裁を借りた、虚構の現代史を書きたくなり、滅びゆく体制の本紀から、有力者や財閥や教育者の世家、不運な道を歩む革命家から、文人墨客、任侠の徒や娼婦の列伝にいたるまでを並列して、その全体を通じて、わが現代史を書こうともくろむに至っているしまつだから」(高橋和巳『現代の青春』旺文社文庫73)203p

 うーん。読みたかったなあ……。

 

Re: 「日本SFクラブと手塚治虫」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2013年 4月 4日(木)22時07分18秒
返信・引用
  > No.4355[元記事へ]

段> 手塚治虫記念館で次のような催しがあります。「関連ミュージアムトーク」というものです。
> 3月23日は終わりましたが、4月21日辻真先、5月18日豊田有恒、6月15日橋爪紳也という出演者でトークがあります。定員は各組50人先着順とのこと。
> ご興味ある方、どうぞよろしく。
> 連絡先は0797-81-2970と言うことだそうです。

私、4月29日と5月18日に行く予定してます。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

「日本SFクラブと手塚治虫」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月 4日(木)18時36分49秒
返信・引用
  手塚治虫記念館で次のような催しがあります。「関連ミュージアムトーク」というものです。
3月23日は終わりましたが、4月21日辻真先、5月18日豊田有恒、6月15日橋爪紳也という出演者でトークがあります。定員は各組50人先着順とのこと。
ご興味ある方、どうぞよろしく。
連絡先は0797-81-2970と言うことだそうです。
 

みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 4日(木)03時11分20秒
返信・引用 編集済
   私は、大地震から救い出してくれた大ナマズの背中に乗って、ここまでつれてこられ、冷たく硬直して酷寒の海峡にかかっていた。こちら側に北海道を、向こう側に九州を突きたてて、ポロポロ崩れていく土にしがみついていた。風にあおられ裾がはためく。私の腹の下ではアリューシャンの島々が、私に日を遮られて寒そうだったが、私にはどうしてやることもできない。
 ある日の夕方のことだ。足音を聞きつけた。やって来る、やって来る! さあ、おまえ、準備をしろ。おまえは手すりもない橋なのだ。旅人がたよりなげに渡りだしたら気をつけてやれ。もしもつまづいたら間髪入れず、山の神よろしく向こう岸まで放ってやれ。
 彼はやって来た。杖の先っぽの鉄の尖りで、私をつついた。その杖で私の上衣の裾を撫でつけた。さらには私のざんばら髪に杖を突きたて、おそらくキョロキョロあたりを見廻していたのだろう、その間ずっと突きたてたままにしていたが──ヒョイと両足でからだの真中に跳びのってきた。
 私はおもわず悲鳴をあげた。誰だろう? 子供か、幻影か、追い剥ぎか、自殺者か、誘惑者か、破壊者か? わたしは知りたかった。そこでいそいで寝返りを打った。――なんと、橋が寝返りを打つ! とたんに落下した。私は一瞬のうちにバラバラになり、いつもは海流の中から、のどかに角を突き出しているアリューシャンの島々の尖りに、刺しつらぬかれた。
 

猫に対して抱くイメージの変化

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 3日(水)23時28分9秒
返信・引用 編集済
   かつては、猫といえば、化けて出るとか、縁起が悪いとか、猫又になるとか、執念深いとか、あまりよいイメージはなかったのではないでしょうか。昭和57年の世論調査では、約半数がネコが嫌いという結果だったとのこと→ウィキペディア 「ねこ目の少女」なんて、夜中にトイレにいけなくなるような怖い漫画がありましたが、そういう一般的なイメージを踏襲していると思います。
 ところが最近はどうか。可愛いものの筆頭のようなもてはやされぶりではないですか。
 80年代に「ニャンニャン事件」というのがありましたが、あの時点ですでにそういう風潮になっていたのか。このニャンニャンは、いちゃいちゃする、というような意味ですが、昔は猫といえば人間に媚びない、独立独歩というイメージだったんですよね。
 いったいどの時点で、「パラダイムシフト」が起こったんでしょうかねえ。
 追記。ちょっと調べてみました。ニャンニャン事件は昭和58年だったようです。ところが、その一年前、昭和57年の世論調査では約半数がネコ嫌いという結果でした。ひょっとしたらこの世論調査以後、ニャンニャン事件の前に、パラダイムシフトは起こったのではないでしょうか。
 それは状況証拠であって、パズル的には辻褄が合うが、因果関係は証明されていない、と、ミステリの人ならいうのかな(^^;
 さらに追記。あ、「パラダイム」じゃなくてフーコー流の「エピステーメー」として捉えれば、因果関係は関係なくなるのか(^^ゞ

『蛇の卵』に着手。
 

Re: 「SFJACK」より(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 2日(火)22時39分48秒
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  > No.4346[元記事へ]

 冲方丁「神星伝」。ライトノベルって、結局、近代文学の成立がそれを振り捨てることだったところの、江戸大衆小説の復活なんじゃないのかな、というのが私の想像なのですが、本篇を読んで、意外に当っているのかも、と思いました。もちろん本篇がライトノベルを代表する作風ならば、という条件付きですが。
 近代文学が振り捨ててきたものって、何でしょう。大雑把に言って勧善懲悪、仁義八行です。要するに「八犬伝」ということになる。
 近代小説は帝大出の学士様たちが担い手だった。今の大卒の比ではありません。超エリートです。そんなエリートたちは忠孝とか仁義なんて鼻も引っ掛けませんからね。
 本篇を構成しているのは、近代小説が捨て去ってきたモチーフです。
 それは殺された母の仇討ち。義兄弟的な友情物語。高貴な娘への思慕。そして庶民だと思っていた自分が実は皇族の落し胤であったというご落胤伝説。
 これらが本篇にはすべて入っている。あまつさえ、舞台は木星の衛星なんですが、木星を統べているのは、なんと天皇家なんですと(汗)。つまり主人公は、最後に自分が皇族であることを知るのです。
 テーマがものすごく古い。私たちの世代以前の学生なら、あまりにナイーブすぎて薄ら笑いをうかべるそんなストーリーになっている。しかも結局は着ぐるみ兵器の戦闘物語に収束。そんな話が今は受けるというのは、心性が変化してしまったということなんでしょうかねえ。
 ただ、天皇家が支配する木星というのも含めて、設定がきらびやかで、それだけで一応最後まで退屈せずに読ませるのは作者の端倪すべからざる筆力の賜物でしょう。というわけで、まあこんなSFがあってもいいんじゃね? と、最後には思ってしまったのでした(^^;

 夢枕獏「隠態の家」は、山田作品とはまぎゃくのベクトルを持つ小説でした。山田作品は設定は優れていたが小説としての豊かさがなかった。本篇は小説としてとてもよく出来上がっていて、中編ですが、一気に読めてしまった。
 ただ、設定が安易すぎる。ここに出てくる設定の殆んどは、作者が恣意に(もっといえばその場その場の思いつきで)でっち上げたものです。主人公と人形を結ぶ陰極線陽極線然り。コロボックルがくっついてトロルになる然り。
「さっき、倒れていた臣子の瞼を押し開いて瞳孔を見た時、それが完全に開ききっていたのである。なのに呼吸も、脈も正常だった。これはつまり、魄が招魂されてしまった時の特徴であった」(440p)って、それ、何を参照して言っているのかということです。すべて作者の思いつきでしょ? 言い換えれば、主人公が自分だけが持っている情報を小出しにして解決していくわけで、読者はああそうでっか、というしかない。読者に推理の余地がないのです。これがミステリだったら大ブーイングですよ(^^; とりわけ後半は主観的な解釈の上にさらなる主観的な解釈が重ねられる展開で、実際辟易してしまいました。
 もちろん「それで何が悪い?」と問われれば何も悪くはないのです。ただそれはSFではない、なにか知らん別ジャンルでしょう、という話にすぎない。本集の収録作品では作者たちはそれぞれ「客観的な設定」苦労して考案し、競い合っている。それこそがSFだからですね。本篇も単品で読めば満足できたと思いますが、本集の中に他作品と並べられてしまうと、いささか異質で不満ばかり感じてしまいました。

 ということで、日本SF作家クラブ編『SF JACK』(角川書店13)読了。
 追記。堀晃「宇宙縫合」は別項目に立ててしまったので、リンクしておきます→(1) (2) (3)
 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 2日(火)21時28分0秒
返信・引用 編集済
  > No.4350[元記事へ]

 あ、キャプテンウルトラは面白かったです。これはコンセプトが全く違ってましたよね。「帰ってきたウルトラマン」が始まってすぐに見なくなったので、実質私も「ウルトラセブン」まででした。
 ゼットンは最終回ですね。でも今言われるまで思い出さなかったなあ。見なかったのかもしれません。
 ゴモラが30分では倒せず、2週がかりだったのは覚えているんですが(^^;
 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」について

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 4月 2日(火)21時12分47秒
返信・引用
  > No.4349[元記事へ]

>  ジャミラの回は、私はリアルタイムで見ましたが、ウルトラマンのやり方に強く不満をいだいたのを、今でも覚えています。まあ私は、大概怪獣側に感情移入してみていました。いつか怪獣の誰かがウルトラマンを倒してくれるのではないかとそれを期待して。結局それがありえないことに気づいて、帰ってきたウルトラマンで見るのをやめてしまいました(^^;。
 え? ゼットンを見ませんでした? 「うわあ、ウルトラマンが負けた〜」あのときの衝撃は忘れられません。
 ちなみに私は、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『キャプテンウルトラ』までは(ほぼ)欠かさず観ていましたが、『ウルトラセブン』の途中で飽きちゃったのか、あまり観なくなりました。『帰ってきたウルトラマン』もほとんど観ていません。
 どうでもいい箇所に食いついてしまいました(笑)。
 すみません。
 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 2日(火)16時44分7秒
返信・引用 編集済
  > No.4347[元記事へ]

ムトウさま
 「消える」に関しまして、私の疑問にご回答下さりありがとうございました!
>全体の構成脚色は「ウルトラマン」の「故郷は地球」などで有名な佐々木守氏でした
 おお、ジャミラの脚本の方でしたか。これは段野さんに頂いた当方のメモにはなく、私にとって新情報でした。
 ジャミラの回は、私はリアルタイムで見ましたが、ウルトラマンのやり方に強く不満をいだいたのを、今でも覚えています。まあ私は、大概怪獣側に感情移入してみていました。いつか怪獣の誰かがウルトラマンを倒してくれるのではないかとそれを期待して。結局それがありえないことに気づいて、帰ってきたウルトラマンで見るのをやめてしまいました(^^;。
 ところで、「全体の構成脚色」ということは、「通夜旅行」だけではなく「消える」全体の構成脚色、という意味ですよね。そう理解したんですが、もし間違っていましたら訂正お願いします。

>ベーリング海峡まで移動して東西の架け橋になったという落語のような落ちでした。
 なんとなんと! 私はもっと本格的な話になるのかと想像していました。で、それだったら3分程度では終わるはずがないと考えたのですが、そんな脱力ネタでしたか(笑)
 で、思ったんですが、ベーリング海峡の最短部分なら本州島だけで埋まっちゃうじゃないですか。これはアリューシャン列島のあたりで繋げたんじゃないですかね。アリューシャン列島なら2000キロで、丁度日本列島とほぼ同じ、しかも弓型であるのも同じなんですよね。
 そのへん、ドラマではどのような説明がなされているのか、もし何か説明があるのなら、お教え下さると幸甚です。また原作者は(段野メモには記載ないのですが)小松左京でしょうか。こんなお馬鹿なアイデアは小松さん以外にはありえないとは思うのですが(^^;
 ともあれ、おかげさまでいろいろ明らかになりました。ありがとうございました。

段野さん
 フォローありがとうございました。
>脚色構成は、そのとおり、佐々木守、と当方のノートにあります
 これは私が頂いたメモにはありませんね。というか、掲示板に公開された情報でもありません。ですからそれを言われても困惑するんですよね。これがミステリだったら大ブーイングの嵐です(>おい)(^^;
 またムトウさんは検索で来られたので、掲示板全体を見る画面に到達されたわけじゃないと思います。この画面にたどり着かれたんじゃないでしょうか。だったらかんべさんのレスも見ておられないと思われます。
 いずれにしても、ミッシングリンクがつながってよかったではありませんか。衆知を集めるのがネット流です(^^)

 

Re::SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 4月 2日(火)14時16分18秒
返信・引用
  ムトウ様
原作の出自はご本人様よりいただいております。
脚色構成は、そのとおり、佐々木守、と当方のノートにあります。
ただ最後のところがこちらでは、不明なこともありまして、管理人様のメッセージということになったのでしょう。
ともあれ、ラストの部分だけでも、様子が分かったのはありがたいことです。
 

SFオムニバスドラマ「消える」について

 投稿者:ムトウ  投稿日:2013年 4月 2日(火)13時04分46秒
返信・引用
  初めまして、「ラジオドラマ」情報を捜していてたどり着きました。
当方「消える」録音持っています。
>念のため書いておきますが、これはすべて想像ですのでお間違いなく。実際のところをご存知のかたがいらっしゃいましたら、ぜひご教示いただければと思います。
「通夜旅行」(原作かんべむさし)で間違いありません。
因みに全体の構成脚色は「ウルトラマン」の「故郷は地球」などで有名な佐々木守氏でした。
また、最後のショートドラマの方は3分程でして、日本が地下に住むナマズのような生物の力で移動して、最後にベーリング海峡まで移動して東西の架け橋になったという落語のような落ちでした。

眉村卓さんのラジオドラマではかつて「夜のミステリー」で放送された「通り過ぎた奴」が面白かったです。
(こちらは録音はしていません)

http://blog.livedoor.jp/mutoh1go/

 

「SFJACK」より(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月 1日(月)21時52分42秒
返信・引用 編集済
  > No.4345[元記事へ]

 瀬名秀明「不死の市」は、本集中の他作品とは、ずいぶん毛色が違っています。SF専門誌ではなく、むしろ<ウィアード・テールズ>に載ってこそ相応しいような作風なのです。まるでリイ・ブラケットやC・A・スミスが書きそうな、一種神話的作品となっていて、そういうのが大好きな私は、大いに楽しんで読みふけってしまった。
 神話的と書きましたが、それもそのはず、本篇は叙事詩カレヴァラをベースにしているのです。ただし舞台は、ホロコースト後の未来世界です。遺伝子を狂わせる最終生物兵器が使用されたのか、それは定かではありませんが、とにかく遺伝子操作技術の悪使用で世界は「がん化」しています。キメラの野生動物がいたり、植物も変異しており、人間自体も、体内に古い部分と新しい部分、進行する部分と逆転する部分を併せ持っており、つまり遺伝子の時計が狂っている。その人間社会は、中世的な様相を呈している(もっともホロコースト以前に宇宙空間に進出していた人間は、汚染を免れたようで、自分たちこそ純潔な人間の血統だと主張しているようです)。
 カレヴァラの登場人物の名を持つ主人公、クッレルヴォは、自身の生きてきた歴史が、神話の人物と同じではないにしても、その影響下にあることを感じています。その彼がとある酒場で出遭った女は、彼女もまた、カレヴァラ神謡を締めくくる役割を担ったマリヤッタの名を持つ女だった。
 ふたりは運命に操られるように、大陸の西の方に在るという「インモータル・フェア(不死の市)」めざす旅に出る。この世界では、かつて「スカボロー・フェア」として歌われてきた古歌が、歌詞を変えて、西の涯に在るという不死郷を恋うる歌として人口に膾炙しているのでした(ちなみにこの古歌が大昔流行した大陸は破壊されたということになっています(^^;)。
 うわさによると、大陸の西のはずれに在るとされる不死の市から、さらに船に乗って霧の海を渡った先に「常若の国」(ティル・ナ・ノグ)という島国が在るという。これはおそらく、いや明らかにケルトの島ですね(厳密には不死の市がスカボローならそこでも渡海しなければならないはずなんですけどね。煩雑なので省略したのかも)。
 観念地図的に言って、ふたりはカレヴァラの故郷から、ケルトの島へ、ヨーロッパ大陸の北海岸を旅しているとみなせそうです。
 途中、ふたりは断崖が続く海岸に至る。そこには(既に廃墟と化してはいるが)津波に備えた「救助塔」が、海岸線に沿って延々と並んでいたのでした。その近くにある(まだ機能している)都市で、クッレルヴォは人工知能から(AIなのかアバターなのか)主治医を呼出し、旅程で傷んだ体を処方する。ついでにマリヤッタの体も。
 そんなさなか、(神話の中に既に語られていたとおりに)北の魔女が放った熊が来襲します。著者の筆は方向の記述が曖昧なのですが、以前に「南の大陸側から航空機が着陸しようと」(250p)しているので、この都市は北に向かって開いている。つまり北は(救助塔の林立する)海でなければなりません。北の魔女が放った熊は、当然北からやってくる。熊は「海を渡って」やってくるのです。これは「大津波」のメタファーでもあるに違いないと私は思います。
 はたして、救助塔の上には(神話の中で熊を「丁重に葬った」人物と同じ名前の)ヴァイナモイネンが立っていました。ヴァイナモイネンとクッレルヴォは、共同して熊に立ち向かい、「鎮め」ます。
 ふたりは更に西をめざす。実はヴァイナモイネンはマリアッタの(処女懐胎で)生んだ子供によって追放される運命なのです。
 クッレルヴォとマリアッタはインモータル・フェアに到達し、さらに常若の国へと至るのでしょうか。神話のとおりに話が進むのであれば、ふたりは(少なくともマリアッタは)赤子と一緒に戻ってき、赤子はヴァイナモイネンを海の彼方へと追い遣ってしまうことになる筈なのですが……。

 いやあ面白かった。著者は人間を描くのが下手で、その物語は往々にして作中人物が自在に動き出すことなく、窮屈なまま、終わってしまうのですが、本篇は神話的筆法を援用したことで、この欠点がまったくあらわれなかったどころか、ぎこちない人物描写が逆に神話的世界にマッチし、とてもよい作品に仕上がっていました。妄想ですが、この作品がもし<ウィアード・テールズ>に掲載されたとしたら、C・A・スミスならきっと称賛の手紙を作者に書き送ったと思いますね。このような話をもっと書いてほしいなあ。傑作。

 追記。「神星伝」「隠態の家」読了。
 

「SFJACK」より(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月31日(日)21時40分27秒
返信・引用 編集済
  > No.4339[元記事へ]

 つまらない野球放送を見たせいか、風邪が少しぶり返しまた熱が出てきました。咳のし過ぎでか、脇腹から背中にかけて痛い。

今野敏「チャンナン」は、可哀想でした。いや内容じゃなくて、このアンソロジーに収録されたのが。
 野田昌宏のテレワークものと仕掛けは同じ、著者の私的部分を垣間見させる(垣間見ているように想像させる)もので、悪くはない。少なくとも野田作品ほどには面白いです。
 こういうのは小説誌構成的には、コーヒーブレーク的な意味で必須のアイテムなんですね。軽くて肩が凝らなくて、実際本篇も、主人公が沖縄の過去世界に転移した段階で、オチは割れます。でも、オチが割れるのもコミで、それなりに面白く読み終わったという満足があります。
 ただ、オリジナルアンソロジーとしての本書では、各作者が「これでどや!」とばかりに設定のアイデアを競い合っており、その中に含められると、比較やや(いやかなり)ワリを食ってしまいました。著者も本書を手にして「予め言っといてくれよ」とボヤいたかも。

山田正紀「別の世界は可能かもしれない」は、上述のアイデアにおいては、いかにも著者らしいのだが、いかんせん「小説」未満。私にはラフスケッチにしか見えません。これをあれこれ膨らませて、はじめて「小説」でしょう。

小林泰三「草食の楽園」も、この著者らしい身も蓋もない話。緩衝材は一切使われていません。さて内容ですが、本篇の「実験コロニー」って、現在の日本のアレゴリーなのかな、と一瞬思いました。が、よく考えれば日本は完全非武装ではなく、軍事力(軍隊)を放棄してはいません。ただその行使に制限がかけられているわけで、そうしますと、ラミアとミノキリが、これから建設しようとしている社会こそ、正しく現在の日本を反映しているようです。ひょっとして著者は「護憲派」なのかな(>おい)(^^;

 今回、ややシニカルな感想になってしまったのには各作品に責はありません。阪神が悪い(^^;
 追記。「不死の市」読了。
 


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