ヘリコニア過去ログ1305

眉村さん情報「たそがれ・あやしげ」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月31日(金)22時24分1秒
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   眉村卓『たそがれ・あやしげ』(出版芸術社、6月下旬予定)がアマゾンで予約が始まっていました→【Amazon】

 出版芸術社のホームページにも→【出版芸術社】
 

「夢を走る」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月31日(金)21時18分27秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 あらら、かなり狼狽えておられるのではありませんか? 文法がメロメロですがな(^^;
 おめでとうという言葉の裏に、悔しさがおのずと滲み出ていますね。カーッ、キーッとなっている感じがよく出ていて、その意味ではなかなかよい文章ではないでしょうか(>おい)(^^;
 段野さんも海野さん同様、これを糧とし臥薪嘗胆、次回募集で会稽の恥を雪いで頂きたく、期待しております!

 さて、日野啓三『夢を走る』(中公文庫 87、元版84)読了。
 著者の初読みでしたが、うーん。
 著者がバラードに影響を受けたことはなんとなく知っているのですが、本書はその系列なんでしょう。バラードの「影響」は一目瞭然。しかしその結果としての作物は、つまり本書の諸篇ということですが、似て非なるものと言わざるを得ない。
 それはまず手法において感じます。要するに著者は、バラード的な世界(映像)を描こうとして、それを(主人公の視点からの)説明的な文章で行なっている。これがまず間違い。バラードは一切説明せず、描写のみで書き上げていることは言うを俟ちません。
 しかも本書の主人公たちは、純文学の視点人物としては当然ながら「現実離れ」からは程遠い、一種常識人(視者)なのです。一方バラードの作中人物は、みんな「ガイキチ」なんですよね。バラードランド的な風景だけ創りだしても、そこに配置さるべきガイキチを描かなければ、凄みみたいなものは現れてこないのですね。
 その意味で中途半端な感じを拭い切れない作品集でした。

 

Re:海野さん情報「フェリシモ文学賞」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月31日(金)15時11分50秒
返信・引用 編集済
  海野さま
遅まきながら、おめでとうございます。非常におめでたく思ってしまいます。
実は、私も応募したのですが、まあ、こういう結果になりましたので、余計におめでたく思ってしまったのでありました。
アマゾンでの売り上げ、ご期待しております。
おめでとうございます。これからのご活躍、お祈りいたします。(きっとそうなるでしょう、私とはレベルがダンチに決まってますもの)
 

Re: 海野さん情報「フェリシモ文学賞」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月30日(木)17時24分29秒
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  > No.4480[元記事へ]

海野さん
>アマゾンに予約受付中で出てました。6月7日発売だそうです
 あ、ここですね→【Amazon

>函入りも豪華でいいですけど、これがきつくって。
 これ、フィットさせるの難しいみたいですね。中さんが『乱歩文献データブック』を制作された時も、函と本体が合わず、函を作り直したそうです→【honto

>これをきっかけに何やらよい方向へ進むといいのですが
 ぜひよい方向へ進めて下さい。期待しています!

 

Re: 海野さん情報「フェリシモ文学賞」

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 5月30日(木)01時00分9秒
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  > No.4479[元記事へ]

高井さん、ありがとうございます。

> 『フェリシモ文学賞』はずっと買っています。

さすがですね(笑)

本の作りはそんなに変わっているんですね。
僕としてはハードカバーがいいですね。
函入りも豪華でいいですけど、これがきつくって。
取り出すのに一苦労です。

これをきっかけに何やらよい方向へ進むといいのですが。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: 海野さん情報「フェリシモ文学賞」

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 5月29日(水)22時24分45秒
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  > No.4478[元記事へ]

 海野さん、おめでとうございます。
『フェリシモ文学賞』はずっと買っています。最初はハードカバーで、続いてソフトカバー(カバーなしからカバー付きへ)になりました。今回は函入りなんですね。
 買ったら、まず海野さんの作品を読みます。楽しみです。
 

Re: 海野さん情報「フェリシモ文学賞」

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 5月29日(水)20時56分29秒
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  > No.4477[元記事へ]

「眉村さん情報」と同じ様に言ってもらえて、うれしい(笑)
さっき確認すると、アマゾンに予約受付中で出てました。6月7日発売だそうです。
まあ、賞金が出てれば、その分だけこの本を買って敷き詰めてもいいのですけどね。
次は賞金の有らん事を。

チャチャヤング作品は8月末締め切りなら大丈夫でしょう。
お盆過ぎれば夏の仕事も一段落ですからね。 

http://marinegumi.exblog.jp/

 

海野さん情報「フェリシモ文学賞」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月29日(水)18時30分48秒
返信・引用 編集済
   第16回フェリシモ文学賞の結果が発表され、海野久実さんが応募した「交通事故」は、惜しくも入選は逃したものの選外優秀作となり、第16回フェリシモ文学賞作品集 かわいい』(フェリシモ出版、6月刊行予定)に収録されたそうです! パチパチパチ!(こちら
 いやめでたい。海野名義では初めての商業出版とのこと。海野さん、おめでとうございます(^^)。
 アマゾンではまだ取り扱いが始まっていませんが、おいおい反映されることと思います。楽しみ!
 もっとも、海野さんの実力からすれば、大賞を取って当然なので、この程度でお祝いを言われても嬉しくないでしょう。
 海野さんには今回の結果を臥薪嘗胆じゃなかった臥本嘗本として、ベッドにこの本を敷き詰め、天井からこの本を吊るして寝る前には必ず舐めることを日課とし、日々その痛さにがさを思い出して、さらなる精進を期待したいと思います(>おい)(^^ゞ

追記。チャチャヤング・ショートショートマガジンの原稿も、よろしくお願いしますねm(__)m
 

「籠の中」訂正

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月28日(火)19時02分49秒
返信・引用
  > No.4465[元記事へ]

【訂正】眉村先生から、『駅にいた蛸』の「籠の中」に出てきた大川教授は、小川国夫がモデルではないよ、とのご指摘をいただきました(汗)→元記事
 この大川は、やはり芸大教授だった俳人の鈴木六林男(wikipedia)だそうです。お詫びして訂正いたしますm(__)m。
 うーむ、てっきり小川国夫だと思っていたんですがねえ。自信もあったんですけどねえ……。ただ、大川は大阪弁で喋っていて、そこが、あの読んでもさっぱり分からない藤枝弁で小説を書いた(>おい)小川とはちょっとそぐわないかな、と一瞬思ったことは思ったのです。でも、さすがに眉村さんもあの藤枝弁は再現できないだろうから大阪弁にしてしまったに違いない、と勝手に思い込んでしまったのが敗因でした(>すみません言い訳です)。
 ついでながら、「そりゃ暗いなあ」といった野口は、同じく芸大教授(現役)の阪井敏夫(葉山郁生)さんとのことです。
 ただモデルはその二人だけれども、それだけではなく、他のいろいろな人の要素も入っているようで、してみると小川国夫も少しは入っているのではないでしょうか(>すみません言い訳です)。
 ということで、該当の書き込み(と、チャチャヤン気分)の方にも、同じ断りを入れておきました。
 もちろんそんな瑣末なことを知らなくても、小説を読むのに寸毫の障りもありません。安心してお楽しみ下さい!(>すみません言い訳です)。
 

「カリフォルニア天国」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月27日(月)23時43分39秒
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 この曲は紹介するまでもありませんね。眉村さんのチャチャヤングで毎週のようにかかっていました。当時の曲では十指に入るマイフェイバリットシングルでした(ドーナツ盤持っています(^^;)

 ユーチューブでは殆ど見かけないですね。以前見つけたんですがいつのまにか消えていた。今日再び見つけたので、下の投稿に貼り付けるつもりだったのですが、まてよ、この投稿に貼り付けると、まるでナンシー・シナトラが十人並みだと、お前は言いたいのか、と言いがかりを付けられそうな気がしたので、別にしました~(>おい)(^^;

 で、このユーチューブ映像のテロップを読んでいたら、こんなことが書いてありました。
「ナンシー・シナトラは1965年から1969年にかけてトータル21シングルをビルボード100USチャートに登場させた」
 しかし、
「1970年リリースのこの曲は、ホット100シングルチャートに届かなかった」

 うーん。アメリカではヒットしなかったのか。いい曲ですけどね。そういえば、本国より日本でヒットしたという曲が、この時代ありましたね。マッシュ・マッカーン「霧の中の二人」! これは有名。
 あと、ショッキング・ブルーの「悲しき鉄道員」もです。ウィキペディアを見ると、「悲しき鉄道員 (1970年。ビルボード102位、オランダで1位、オリコン2位。日本では回転数を早めたシングルにより、1970年秋~冬に大ヒットを記録した)」 ビルボードは100位圏外。やっぱり日本盤のディレクターはセンスあったんですね(^^; (ちなみにこちらは4曲収録のコンパクトLP盤でもっている)

 それはさておき、「カリフォルニア天国」ですが、ざっと検索するもオリコン何位だったのか、わかりません。案外ヒットしなかったのかも。となると、嵯峨ディレクターが自分の好みでガンガンかけていたのかもしれません。
 実はそんな例が他にもあって、キャリー・ネーションズ「ジェントル・ピープル」。この曲も好きでした。眉村チャチャヤンではよく掛かりましたが、ほかのラジオ番組(チャチャヤンの他の日も含めて)ではかかったことがなかったらしい。もともと「キャンディ」系のフラワー文化風ポルノ映画の主題歌なんだそうで、やはり嵯峨さんだからこそかけまくっていたということになりそうです(このへんの知識はジャズ住職の受け売り)。うむ。嵯峨ディレクターも、「悲しき鉄道員」のディレクターに負けず劣らずセンスがよかったんですねえ(眉村さんのディレクターしていたのは、大学出てすぐだったっていうんですから、尊敬してしまいます)(^^)
 

ふつうにムズカシイ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月27日(月)21時02分43秒
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 そうだったのか。このごろ「ふつうに面白い」みたいな言い方がされていることには気づいていましたが、上記のように「中くらいに面白い」「面白いが想定内」のように解釈していました。いやー、てことは、これまで共通理解と思ってたのは勘違いで、実はすれ違っていたのか。相手は「非常に面白い」の意味で使っていたのかも(^^;

 それで思い出したのですが、「十人並み」というのも、(従来の用法で)「普通程度」なんですが、以前「あ、じゃあ美人なんだ」と反応されて、それは違うと否定しかけたのけれど、まてよ、十人並み?→十人の中に入る?→十指に入る? と思考が横滑りして、やっぱり美人ということなのか、おれは間違って覚えていたか? と、訳がわからなくなり、なんとなく曖昧に肯定してしまったことがあった。
 で、思ったのですが、近頃の人は「十人並み」をどのように認識しているのか、ひょっとして十指に入る美人という風に理解してしまうのでしょうか。うーむ。
 

「デンパサールの怪鳥」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月26日(日)19時21分31秒
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   河野典生『デンパサールの怪鳥』(集英社文庫 81、元版 78)読了。6篇収録。南アジアのインド、ネパール、バリに舞台を求めた4篇と、残り2篇は日本が舞台。しかし舞台にかかわらず、作中を闊歩する主人公たちは、殆んど皆、「横歩き」者たちです。横歩きとはなんぞや。その反対の立場は「縦歩き」の人生となる。つまりよい学校をめざし、よい会社をめざし、その会社のピラミッドを登っていく、そういう人生。できるできないにかかわらず、そういう人生をめざす態度を謂う。その意味で圧倒的多数派はもちろん縦志向(余談ながら、眉村作品は、そのような縦志向が個人に齎すストレスがテーマですね)。
 とすれば「横歩き」者とはどういう者たちか言うまでもないでしょう。社会のかくあれかしを否定して生きる者たちです。スクエアに対するヒップです。ただし縦歩きをめざして敗残し、自信(自尊)を失ってネガティブに殻に閉じこもるものとは違います。それは畢竟、縦志向に囚われたままの生き方。横歩きは縦歩きを否定し、かかる社会の成型圧力をしっかり受け止めて跳ね返していく強さを持つものです。したがってそういう者たちはおしなべて明るくポジティブで快活なのです。本書の主人公たちのように。
 集中の白眉は、原宿で「幻の女」を探し求める「やつらの棲む街」(いや港のヨーコ・ヨコハマヨコスカ・原宿版というべきかも)(^^;。原宿駅前広場で歩道にアクセサリーを広げて売っている主人公が、ふとしたきっかけで、失踪中の女の捜索を依頼される。ラストで判るファントムレディの正体がなかなか意外感があって、青春映画を見終わったような爽快感がありました。けっきょく「ファンタジー」なんですがね。
 その意味で本集自体が横歩きファンタジー集の趣きがあります。そのなかで表題作は、小説としてしっかり作られていて、一種の国際謀略小説っぽく完成している(あと「インター・コンチネンタルの客」も同系統)。しかしエンタメとして完成されている分、横歩き成分は、他作品に比して希薄で、小説としての出来は本集一番ながら、わたし的には印象がうすく感じられました。小説として出来がいいからといって、読者が感じる存在感も一番というものではないんですよねえ。

「とにかく走った。とにかく走り続けたのだ。横へ横へと!」「ロング・イエロー・ロード」

 

「辻火」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月26日(日)01時13分23秒
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  田久保英夫『辻火』(講談社 86)読了。
 著者の名は、芥川賞を庄司薫と同時受賞しているので昔からよく知ってはいたのだけれど、実際に読んだのは、15年ほど前、当時新刊で読んだ『木霊集』一冊のみ。ストーリーは全く忘れてしまっています。ただこの連作集、最後にポジがネガに変わる仕掛けがあってあっと驚いたことはまざまざと覚えています(ああ読み返したくなってきた)。
 したがって著者の履歴等の知識は全くない。とわざわざ断るのは、本集収録四篇のうち最初の二篇、「辻火」「菖蒲」が純然たる私小説だと思われるからです。両作品とも、著者が子供の頃住んでいて、今も親戚縁者が多く暮らす隅田川のほとりが舞台。その地へ、(その地と繋がっていた82歳の母親が衰えたため)久しぶりに母の代理で叔母の家を訪ねてやって来た主人公は、最初道に迷う。なぜなら全然景観が変わって高層ビル群が建ち並んでいたからです。しかし叔母の家を始め、親戚が住まう古い民家がごちゃごちゃと軒先を並べ、辻が交差する界隈は、変わらずに残っていた。でもそれは、高層ビル群に四囲を囲まれて、まるでロストワールドのようにして在ったのです。
 人間関係的にもそうで、「菖蒲」では、大叔母の法事で親類が一同に会すのですが、出席者全員、叔母の死んだ夫の妹、その妹の息子夫婦、息子の嫁の両親その他が、皆この狭い地域に肩を寄せ合って住んでいる(つまり婚姻関係もこの界隈で完結している)。プライバシーなど存在しない世界なのです。著者はおそらく、執筆当時(83年、84年発表作)ですら、タイムスリップ感横溢するこの世界を、まるごと描きたかったんだと思います。それは成功しています。
 でもこの二篇、気になったのは、主人公の態度で、実際のところはこの世界の狭さ濃さから起こるトラブルを、それなりに親身に解決しようと動きまわるのですが、それでもなお、私は主人公のなかに、「部外者」的な、傍観者的に眺めているような冷たさを感じてしまったのですよね。主人公は、都心の高層アパートに仕事場を持っているということなのですが、まさに構図的にも(著者は気づいているのかどうか)、高い所から川沿いの古い因習的な世界を見下ろしている(おそらく気づいていたのです>後述)。そういう次第で、作品世界自体はたいへん面白かったのだが、いかにも私小説の伝統を受け継いだ主人公の傍観者的態度には、違和感を抱かざるを得なかった。

 ところが――

 後半の「檜垣」「浮標」は、実は前二作より古い作品で(72年、73年発表作)、こちらは私小説の形式ではない。いわゆる内向の世代に共通するテーマで書かれています。すなわち60年代高度成長期の都市と地方の二重構造。都市のサラリーマンの生活の光と影(と言うか光はあまりない(^^;)。
 「檜垣」は、妻の田舎の祖母が「山おくり」という「生き葬式」をやることになるのだが、妻が心因性の顔面麻痺を患い、先延ばしにしていた。それがほぼ治ったので、夫婦で妻の田舎である信州恵那へ向かう。田舎の人々の生活は主人公には異質で厭わしい。そこへ妻が帰郷したとたんいきいきと行動を始める。民俗的世界観に東京的近代人が放り込まれ、最後は嫌がる妻を無理やり連れ帰る。ここでは60年当時の都市と田舎の二重構造の影の部分が描出されていると同時に、家族という「濃い」関係を忌避する主人公が描かれています。
 「浮標」は、当時を象徴する分譲地の現地抽選会が舞台。60年代の工業化の進展で東京の人口は膨れ上がり、宅地がどんどん造成されますが、全然間に合わない。何十倍、何百倍という倍率になり、黒山のように現地に押し寄せる。大阪万博はその最後の残景といえるのではないでしょうか(笑)。
 ここでも主人公は、家族というものを無意識に疎ましく感じていて、妻と子供を邪険に扱い、二人を現地に残して一人だけ、行きたかったところへ行ってしまう(あとで後悔はするのですが)。

 という後半二篇を読んで前半を振り返りますと、前半二篇の傍観者的態度が、著者の無意識がはからずも出たものではなく、意図的な描写であったことに気づくわけです。前半二作は私小説、後半二作は内向世代の文学風景、と、舞台は異なりますが、一貫しているのは主人公の家族的空間への嫌悪、とまでは行かないか、違和感なんですよね。面白かった。

 ところで、後半二篇の、妻の描き方は、非常に古井由吉の、あの独特の神経的な女描写を想起させます。それは非常によいのだが、古井のようには、それが最後まで一貫しない。その点では古井由吉のほうが優れていると私は思います。
 また、「檜垣」はやはり「聖」を連想しないではいられませんし、「浮標」は「妻隠」が浮かんできました。しかし「檜垣」は「聖」より先なので(「浮標」は「妻隠」より後)、前後関係よりも資質が近いということなんでしょう(ただ田久保のほうが普通に近代人なんでしょう。それが弱点)。
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月25日(土)21時09分0秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 御高評ありがとうございます。しかし漠然としていますなあ。うむ、よくぞ、の、その後に続く省略された文章はなんぞや?(^^;。しかし斜め読みは掲示板にはちょっとですよ。もちろんきちんと読まれるつもりだと思いますが。段野さんの書き込みは正直すぎて時々ハラハラします。この掲示板を他の受講生の方が見ていないとも限りませんので老婆心ながら。ちなみに私は二回通読した後、感想文を書きながら必要な部分を三読しました。

 昨日の神戸新聞(5/24朝刊)に、眉村さんの三回連載エッセイの第二回分が掲載されたとのこと、深田亨さんより切り抜きのPDFを添付したメールでお知らせいただきました。深田さん、ありがとうございました。
 第一回と同じく「こころの森」というコーナーに、「手帳片手に電車乗り」「あちこちに思考を広げ…」という見出しです。
 アイデア拾いのための散歩のことは、いくつかのエッセイにも書かれていますし、小説でもモチーフとしてよく利用されています。この8月に、出版芸術社より刊行されます新作短篇集『自殺卵』に収録される「佐藤一郎と時間」も、散歩の途中、大和川の河原でおかしな人物(?)に遭遇したことが物語の発端でしたね。
 ――と、ここまで書いて、虫の知らせで当HP掲載中の「佐藤一郎と時間」を確認したところ、散歩は散歩なのだが、アイデア拾いのための散歩ではなかった。危うく恥をかくところでした。しかしまあ、近刊の宣伝にならんとも限らないと思い直し、このままにしておくのであります(>おい)(^^;(それでふと思ったのですが、『自殺卵』掲載予定作品で当HPに現在公開中の「佐藤一郎と時間」「自殺卵」「ペケ投げ」のリンクはそろそろ外しましょうか)。
 閑話休題。アイデア拾いの散歩ですが、最近(大病され快癒されたばかりということもあって)体力が落ちてしまったので、このごろはアイデア拾いは電車乗りで、とのことのようですね。で、散歩と電車乗りでは、得るアイデアに違う傾向があることがわかったそうです。すなわち「歩行がもたらす思考は身辺的で、生理的で、地に足がついているが飛躍にとぼしく、電車の中での思考は、遠くに行き、観念的で、とんでもない案が出てくるものの現実味がない」ただし「片方だけの感覚に偏ってしまうのは、何かが欠落してしまうのではあるまいか」、とのことですが、今後電車乗りが優越していくとしたら、新たに書かれる作品は、現実離れしたとんでもない大空想小説になるのかも。いやこれは藤枝静男や石川淳が達した境地と同じではありませんか! 期待が膨らむのであります。
 本エッセイは眉村さんにはめずらしくオチがついていて、アチャーという感じなのですが、いやいや、すでにその境地に達しられた証左なのかもしれませんぞ(^^;

 下は中国翻訳本です。尾川さんに購入して頂きました!m(__)m
 何の翻訳だかわかりますか? 1)と2)は、表紙イラストで分かりますね。どちらも北岳文芸出版社刊で、「日本講談社独家授権」とあります。1)は05年刊。印数1-10000冊とあります。2)も05年刊。印数は1-15000冊。
 3)は何でしょう。「太空」を中和辞書で引くと「宇宙」のこと。宇宙少年? ジュブナイルで宇宙少年に該当する作品てあったっけ。『地球への遠い道』かな? と思っていたらハズレでした。正解は『なぞの転校生』。判るはずないがな。出版社は海洋出版社。82年刊。「日本講談社独家授権」の記載はなし。但しこの本、図書館の放出本なんです。昆明市十六中学図書室の判が押されていて、わたし的にはこの本が一番興味深くうれしいものでした。80年代に雲南省の中学生に読まれていた本が、はるばる日本に渡ってきて、いま、私の手にある。昆明といえば滇池。鳥越憲三郎の説に従えば滇池は日本人(弥生人)の故郷です。そうと考えると、その茫漠たる時間と距離に感動すらしてしまうのでした(^^)

 
 

Re:「駅にいた蛸」まとめ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月24日(金)19時31分41秒
返信・引用
  管理人様
「第二社会」だけ斜め読みしました。おおよそのところをつかんだ評であると思いました。詳しことはここでは述べることはできませんのですが、管理人様の読みは素晴らしいものであると、私には思えました。「なかなかな」読みであるとだけ、今は申し上げておいた方が、よかろうかな、と、思うのでありました。うむ、よくぞ、といったところですね。
 

Re:「駅にいた蛸」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月24日(金)18時35分27秒
返信・引用
  管理人様
この「駅にいた蛸」をお買い上げの際、アマゾンと紀伊國屋の価格の違いを述べられておられましたが、私も遭遇いたしました。買上書店はブックランドとおの西宮店、きっちり600円でした。紀伊國屋の内情は詳しくはありませんが、ブックランドとおのの計算方法は取次店に従い、伝票の各行で小数点まで計算して、一枚の伝票合計の四捨五入となります。そこで、ブックランドとおのでの店先価格は600円となる訳なのです。一円を笑う者は一円に泣きました。(と言って紀伊國屋で購入する予定はありませんが。いや、これでは紀伊國屋さんにお世話になる可能性があるかも知れませんが)(いやいや、本屋の血が騒ぐかも)
 

「駅にいた蛸」まとめ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月24日(金)09時50分2秒
返信・引用
   眉村卓『駅にいた蛸』(双葉文庫版)の感想を一部改稿し、一本にまとめてブログ「チャチャヤン気分」に掲載しました→http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/248.html

 

「駅にいた蛸」(最終回)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月23日(木)22時01分27秒
返信・引用 編集済
  > No.4466[元記事へ]

承前「第二社会」は、59歳の作家が主人公。本業の傍らカルチャーセンターで文章講座の講師をしています(初刊本のための書き下ろし。本篇執筆時点の著者も59歳)。
 となりますと、一見(「薄曇り」「籠の中」のような)私小説を予想させますが、むしろ作品内主人公と著者の距離は「滑落」の方に近い(でもそれともすこし違うのですが>後述)。講師をしているのも、上記二篇のような意味合いではなく、「生活に異質感を持ち込み、気分転換を図り」たいがゆえ。大体「SFのことはよくわからない」という設定。もっともこちらの設定は、一義的には作中で要旨が述べられる受講生の書いたSF作品についての価値判断を避けるためのものでしょうが、同時に主人公を著者と同一視されることを避ける意味があったと思います。
 こうして主人公≠著者とすることで、著者は自身の「本音」を、自由に書き込む余地を設けたのだと思います(間接性の効用という意味では表題作と同構造です)。

 まずは卑近な例を。満員電車の座席の前に立っていて、もし席を譲られたら、と、主人公はぞっとします。そんな気配を感じるとドアの前へ移動します(^^;。
 余談になりますが、実際これは私も切実なんですよね。どう考えても席を譲られて当然の年齢なのです。でももし譲られたら、これは困るのです。まず第一に、そんな歳に見えるのか、とがっくりします。でもその逆もあって(疲れているときは)俺は譲られて当然の年齢なんだけどなあ、前で座ってケータイをいじっている姉ちゃん気づけよ、とか思わないこともないではないこともない(汗)。50代後半て、そんな微妙なお年頃なんですよね~(>おい)(^^; 追記。ちなみにまだ譲られたことはない!

 閑話休題。こっちが著者の書きたかったこと。カルチャーセンターの受講者は、年齢もバラバラ(本篇のような70歳代の生徒も実際いても不思議ではない)、小説や文章への関心のあり方も千差万別、それをひとつの教室で指導するのは、芸大で(比較的同質な)学生を相手にするのとは全く違った難しさがあるのは想像に難くありません。
 本篇のタイトルは74歳の受講生が提出したエッセイに因むもので、高齢化が進み、気力も体力もまだ十分あるのに社会から退場させられてしまう現実に対し、「高年者」だけの「第二社会」の可能性、必要性を訴える内容。

 この説をめぐって、当の74歳の大久保氏、(サラリーマンなら定年目前の)59歳で、これから老人社会の仲間入りをしなければならない(まだ入っていない)主人公。若者代表として35、6歳の受講生の杉浦綾子が配置されます。
 ここで杉浦綾子が大久保氏に噛み付くのですが、その根拠が自身の世代性に囚われたものにすぎず、であるばかりか、エッセイのテーマを虚心坦懐に読み取らず、自身が追認する世代性の枠内で、一知半解に歪曲したものである点が強調されます。もちろん主人公はそれを不愉快に感じている。このへん、類似の事例を著者は経験したことがあったのではないか。それを上記間接性で迂回的自由を得たことで、かなり正直に描写しているように思います。

 一方、大久保氏の説に対しても、主人公は共感しつつも、完全には同意できないみたいです。理想論すぎるんですね。これは私の考えですが、かかる第二社会論は、高年者のうちの「選良」しか想定していないんですね。会社から帰宅しても、晩酌しながらプロ野球中継を見、風呂に入って寝るだけの生活をしてきて、それに充足して定年を迎えた高年者は考慮されていない。でもそっちの方が大多数なのではないでしょうか。定年退職したはいいが、そもそも趣味を持っていなかった者こそ、高齢化で引き伸ばされた退職後の時間をもてあましてしまうのであって、当該所論には、かれらを救い上げる間口の広さはない。
 ラストで著者が、主人公をして大久保氏から送られてきた第二社会の機関誌を、表紙を眺めただけで本棚にしまわせ、当面の生活に戻っていかせるのは、そのような暗意があったのだろうと私は解釈します。
 本篇は、純然たる私小説ではありませんし、「滑落」のような従来の作風とも少し違っていまして、主体性よりも客観性というか、一旦立ち止まっての現状確認的な意味合いの作品として書かれたように思いました。

 「真昼の断層」『あの真珠色の朝を……』からの再録で、著者30代後半、現役バリバリの、SF専門誌から中間小説誌ヘ日の出の勢いで進出していった頃の作品。これも実話を虚構化したものでしょう。主人公はサラリーマンをしながら小説も売れ始めている。ようやく最初の本が上梓された折りも折り、就職して最初に配属された岡山の工場に出張を命じられる。主人公はその本を手に出張します。つまり工場で「見せびらかそう」という無意識があったわけです。本社ではとてもそんなアブナイ真似はできませんから、工場の「田舎性」に対して一種「甘え」があっての行為です。で、見せびらかしたわけですが……(笑)。
 この辺、デビュー当時の自分への苦々しさが、執筆当時の著者にはあったのかも(だからしっぺ返しを与えた)。それが執筆のモチベーションの一つだったと思うのですが、同時に、工場勤務時代への親和的な感情(それはアンビバレンツな感情でもある)も見いだせます。それは日常生への埋没でもあるのですが、実は工場勤務時代は(あまりに居心地が良すぎて)そういう傾向に陥りがちな自分を戒めるため、しょっちゅう休みを利用して大阪に(つまり刺激の多い都会へ)帰ってきていることはいろんなエッセイに書かれているんですよね。

 今度、チャチャヤング・ショートショートの会から、眉村さん50周年記念企画として、眉村さんの全詩集『《捩子》の時代――眉村卓詩集――』という冊子を近々発行するのですが、これは眉村卓の筆名で作家デビューする以前、十代後半から二十代半ばにかけて《捩子》という同人誌に発表された詩と、ここ十年くらいに書かれた最近の詩を合わせて収録しておりまして、そのなかには工場勤務時代に書かれた詩も何篇かあります。その詩に表現された工場(のある土地)は、後年の日生もので甘美に窯変されたのとは違って、ずいぶん否定的に観念されていたりするんですよね。面白いです。
 詩集刊行の暁には、ぜひとも後年の《日生》ものと読み比べていただきたいものです。

 ということで、双葉文庫版『駅にいた蛸』読了。画期的な傑作短篇集でした。
 

「駅にいた蛸」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月22日(水)22時42分37秒
返信・引用 編集済
  > No.4465[元記事へ]

承前「滑落」は、従来の(といっても『あの真珠色の朝を……』あたりから始まった)路線に戻った作品。前三篇とは異なり、主人公と著者はイコールではありません。かといって全然別人でもない。「外側」は別人ですが、「内側」では著者自身が思考している。
 本篇の主人公は定年を迎えたあと、延長嘱託として会社に残るも、その期間もあと半年に迫っている(本篇執筆時、著者59歳)。まさに「退場」が目前に迫っている。小説世界はその気分が色濃く反映されていて、同期入社ながら役員になっている男から命ぜられて取引先のパーティに出席することになるのですが、その同期の役員の物の言いようにいちいちカチンと来るのは、役員がKYなのもあるが(主人公の意識ではそういうことになる)、やはり彼我の立場の差に主人公が過剰に反応しているのだと思います。そんなわけでいやいや出向いたパーティ会場で、いやに馴れ馴れしく男が近寄ってくる。どうやら知合いらしいのだが主人公には心あたりがない。そこは経験で如才なくやりすごすのだが(相手は「また会うかもしれんな」と言いながら去ってゆく)、今度は同じくパーティに招かれて来ていた別の会社のオーナー社長につかまり、一種疑似科学的な「霊魂の前世後世二段階説」(内容については本篇を読まれたし)を謹聴させられます。この説、人間の二類型を言い表していてなかなか面白いのですが、私自身は別の解釈をしており、それを開陳してもいいのですが、本筋から外れてしまいますので、今回はやめておきます(>おい)(^^;。
 いずれにしろ死に関係する話題で、そういえばこのパーティでは、自分は死に関する話題ばかり付き合わされたな、と、そんなことをぼんやり考えながら帰りかけた主人公の心に、だしぬけに、例の知合いらしき男の名前と、その若い頃の顔が浮び上がってきて、(ある理由で)主人公を愕然とさせます。そして主人公の前には光彩を極めた夕焼けが――ではなく、壮麗だった最盛期を既に過ぎてしまって、いまや暗い血の色に沈んだ、死にゆく夕焼けが、広がっているのでした。……
 うまい。ため息が出ますねえ。間然するところなき完成品。わずか20頁の紙幅の奥に「永遠」がピンナップされているように感じられます。まるでキリコの絵のように。

 

「駅にいた蛸」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月21日(火)22時54分31秒
返信・引用 編集済
  > No.4464[元記事へ]

承前「薄曇り」「籠の中」は、さらに私小説性が強くなっています。両作品とも、50歳代の作家が主人公。主人公たちはそれぞれ坂口圭吾、相沢映也という名前ですが、あきらかに(執筆時点の)著者自身に他なりません。
 もともと(デビュー当時から)私性の強い作風ですが、それは「体験を利用する」というレベルだった。この二篇の主人公は、著者ははっきり(モデルとするのではなく)自分自身のつもりで描写しています。当然使われる素材も自身の体験で、一例を上げれば「薄曇り」に、中学生の頃、近所の電柱をカメラで撮ったときの思い出が語られていますが(99p)、全く同じエピソードがエッセイ集『大阪の街角』(三一書房 95)に「電柱の写真」として収められている。もう一例、「籠の中」で描かれる造形大教授の「大川」は、大阪芸大教授だった小川国夫です(あとで触れます)。

 それはさておき、主人公たちは、それまで締め切りに追われるようにがむしゃらに働いてきたのだが、子供が自立して夫婦だけになったことや、東京のパーティに出かけても編集者たちの態度がよそよそしく、そろそろ彼らの意識の中で、メインの立場ではなくなってきているのかも、などと、外因内因絡んでモチベーションが低下している。それまでは新し物好きで好奇心の塊だったのが、そういう興味も空しくなってき、「余命」などということも気になりかけて、要は「意欲」が減退しているのです。で、人生設計も趣味も「縮小均衡」へといつの間にか舵取りしていたりする。
 私自身現在50代後半に入っており、主人公の心の裡は痛いほど分かるし、共感してしまうのですよね。頑張る気持ちがまったくなくなっちゃいましたからねー(ーー;

「薄曇り」では、そんな(過去と現在のギャップに)やや落ち込んでしまっている主人公ですから、どうも若者たちには、自分ら実年を過ぎた人間が、透明化して見えていないのではないか、と、いささか神経症的な疑いさえ感じてしまう。「縮小均衡」の一環で非常勤講師をしている短大で、同僚や先輩の教授たちに冗談めかしてその話をしたら、あろうことか納得されてしまい、逆に主人公の「胸の中にたしかに冷たい塊ができて」しまうのでした(^^;。
 そんな不安定な心理状態のまま、主人公は取材旅行に出かけるのだが、それが原因なのか、やることなすことうまくいかない。このあたりの描写が実に可笑しくて笑っちゃうのですが、旅行先の白浜の橋杭岩で、短大の卒業生という女から「先生じゃないですか?」と声をかけられる。やっぱり透明化してはいなかった、と、ほっと安心して主人公、(上記の)カメラで彼女を撮ってあげるのでしたが……。
 ある意味ホラーなんですが、よくよく考えれば、超自然現象ではない。すなわち本篇は、純粋にホラーでもSFでもないわけです。手ひどいしっぺ返しではありますが(笑)。あ、笑っちゃいけません。面白い。

「籠の中」の主人公も、モヤモヤした心境のままに、次のような物語を考えつく。
 リイ・ブラケット「消滅した月」のような無から有を作れる空間「造物部屋」を設定する。若い人々はロマンチックな王子王女や花や妖精を出現させて遊んでいる。そこへ男が登場し、それらにまことに日常的な物を加えてぶち壊しにする。
「王子や王女に汗を出させわきがを発散させ、生理的欲求を催させ(……)家来には反逆心を抱かせ、斬り殺された敵の内臓や血や体液をどろどろと出させるのである」
 例によってこのアイデアを(今度は造形大で)上記大川教授(小川国夫)らに話しますと、「そりゃ暗いなあ」と否定的な意見が出る一方で、大川教授は、
「わしは、それはそれでええと思うけどな」「それをまともにやろうとすれば、汚いところをこれでもかこれでもかと書かんとあかんのと違うか? もうええ、もうやめてくれと、読んでる者にも思わせんとあかんのやないか?(……)相沢先生にそこまでできるやろか。途中で放り出すか、自分でも嫌になってしまうのとちゃうかなあ。わしはそう思うけど」
 これに対して主人公も「自分はそこまで手前勝手で押しとおせるだろうか? そこまで徹底的に書き切れるだろうか? 怪しいのだ」
 と、なかば小川国夫の意見に納得してしまう。事実こういう会話が交わされたのでしょう。さすが小川国夫です。眉村さんの本質を見通しているんではないでしょうか。(追記。本篇も純然たる私小説です)

 さて、この地点から翻って「駅にいた蛸」を振り返ります。「駅にいた蛸」は「造物部屋」の実践と見ることができる。とすればこの小説は、本来「薬」などに頼らず「薄曇り」「籠の中」と同様に《私小説》として書かれるべきものだった。
 しかしそのようには書かれなかった。「駅にいた蛸」の間接的二重構造は、やはり小川国夫の洞察を証明している。著者はこのような間接的設定において、ようやく本篇を書き得た。このへんが芸のためには女房も泣かす類の、昔の私小説作家とは劃然と違う所で、良くも悪くも大人の社会人の小説家なのだと思いました。
 
    (5/28訂正)  眉村先生から、大川は小川国夫がモデルではないよ、とのご指摘をいただきました(汗)
 この大川は、やはり芸大教授だった俳人の鈴木六林男(wikipedia)だそうです。お詫びして訂正いたしますm(__)m。
 うーむ、てっきり小川国夫だと思っていたんですがねえ。ただ、大川は大阪弁で喋っていて、そこが、あの読んでもさっぱり分からない藤枝弁で小説を書いた(>おい)小川とはちょっとそぐわないかな、と一瞬思ったことは思ったのですが、さすがに眉村さんもあの藤枝弁は再現できないだろうから大阪弁にしてしまったに違いない、と勝手に思い込んでしまったのが敗因でした(>すみません言い訳です)。
 ついでながら、「そりゃ暗いなあ」といった野口は、同じく芸大教授(現役)の阪井敏夫さんとのことです。
 ただモデルはその二人だけれども、それだけではなく、他のいろいろな人の要素も入っていて、小川国夫も少しは入っているみたいです(>すみません言い訳です)。
 

「駅にいた蛸」(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月19日(日)22時38分39秒
返信・引用 編集済
  眉村卓『駅にいた蛸』(双葉文庫 13、元版 93)読了。
 本書は93年に出た元版に、角川文庫版『あの真珠色の朝を…』から「真昼の断層」を加えた作品集です。
 以前、著者が(どこかに書かれてもいましたが)、ジュブナイルの注文がたまに来るのだけれど、自分は自分の経験したこと、知っていることしか書けない。その意味で自分が現在の中学生を描けるかと言えば、それは自信がない。として、新たなジュブナイルの執筆には否定的な仰言り方をしていました。
 なるほど当然だなあ、いかにも体験を重視する著者らしいなあ、と思ったのですが、その一方で、別に現在の中学生を描かなくてもいいのではないか、著者が中学生だった終戦直後の、その体験をそのまま描けば、それがそのままジュブナイルになるのではないか、とも考えていました。
 表題作「駅にいた蛸」は、中年になった主人公が、昔のことをはっきり思い出せる薬を試してみるという設定で、主人公(ほぼ著者そのもの)がかつての小学生から中学生だった頃を、文字通り追体験するという話です。
 何十年という歳月を経過して、時に窯変させられた過去は甘美ですが、而してその実態はどうだったのか!?
 本篇で著者は、一切の虚飾を剥ぎとって、赤裸々に自己の「ジュブナイル」を、これでもかとばかりに剔抉してみせています。ある意味すさまじい。
 これを書くことは、著者にとてつもない苦痛を課すものだったのではないでしょうか。上記設定で間接化することで、あと「蛸」という(唯一の)「虚構」を配置することで、ようやく描き上げた作品だったのではないか。
 主人公が本来もっていた(柔らかく傷つきやすい)自我は、傘三本を広げて作った防壁によって守られる「秘密基地」の内側でのみそれを保持し得た。その「秘密基地」の場所を「蛸」が占拠し、主人公はその場を追い払われる。それは主人公の境遇の暗喩であります。追い出された主人公は「現実」に直接晒される。したがって主人公にとって「蛸」を小さくしていくことは、故地回復運動(レコンキスタ)であるわけですが、実はそれは嘗ての自分を自己否定するという逆説でもあった。つまり「蛸」とは、内側から見れば三本の傘なのです。そこから追い出された主人公には、それが「蛸」として見えているのです。「蛸」の否定は傘三本でつくられた秘密基地の否定だったわけです。
 けっきょく、その自己否定は果される。しかしその闘争に勝利した主人公自身とは、嘗ての自己の否定の完成者であった。と同時に、それは外界が著者に強いたオブセッションの結果でもあった。本篇から一般化した命題を引き出す必要はありません。もともと鈍感な子供なら、こんな結末にはならなかったのです。本篇は、小中学校時代の著者自身の魂の遍歴が、いかなる糖衣も施されず赤裸々に描き切られています。かかる地点に到達してしまった著者にとって、かつてのジュブナイル小説の世界はあまりにも遠い世界といえるのではないでしょうか。その意味で本篇は「アンチ・ジュブナイル」小説なのかもしれません。(つづく)
 

安倍新秩序路線を寿ぐ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月19日(日)13時58分26秒
返信・引用 編集済
 
 いやー面白くなってきた。こうなってきたらわれらが安倍ニッポン国のゆくみちは唯一つではないか。
 すなわち戦後レジームの元締たる国連を脱退し(平成の松岡洋右はいづくに居りや)、同じく世界の嫌ワレモノ同士のよしみで北朝鮮とタッグを組んで極東極悪同盟を結成し、世界新秩序を求めてガンガン掟破りの反則技を繰り出してゆくしかないでしょう!!
 これは楽しみー。いっぺんヒールってのをやってみたかったのですよ(^^; なのだが、ひとつ懸念が。
 当然日本も軍備拡張徴兵制導入国民皆兵もとい皇民皆兵へ突き進んでいくわけですが、どう考えても実戦経験もなく訓練も甘いであろう日本軍は、たとえば少数民族弾圧で実戦経験も豊富で精強な中国軍とぶつかったりしたら、相手を見ただけで戦う前からションベンちびって逃げ出す者続出に違いなく、つまり国軍を挙げて大阪人化第八聯隊化しているわけです(>おい)(^^;。
 これは可及的速やかに北朝鮮軍からベテラン教育係の鬼軍曹を派遣してもらって、死の鬼訓練で鍛えあげて貰う必要があるのではないか。安倍さんのことですから、ちゃんとそこまでお考えになってはるとは思いますが、念のため申し添えておくのであります(^^ゞ
 追記。あ、徴兵制まで行かなくても、日本の場合、生産活動に従事していない(引きぬかれても生産活動を阻害しない)ひきこもりという秘密兵器を持っているんだった。ウィキペディアによればその数160万人から300万人! 現在自衛隊員は三軍(というのかな)あわせて30万人弱みたいですから、この人達を兵隊さんに仕立てるだけで十分人海戦術でも中国軍に対抗できるのではないか? そうなったらまさに引きこもり様さま、引きこもりこそ国家英雄と称賛されて、親も喜ぶ国家も喜ぶ本人も自信を取り戻しての、三方一両損どころか三方ウハウハ丸儲け(笑)。なるほどネトウが安倍さんを支持するはずですよねえ。
 

『「死霊」殺人事件』

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月18日(土)22時01分43秒
返信・引用 編集済
   今日は急な仕事が入ってしまい、畸人郷例会に行くことができませんでした。折角課題図書を読んだのに、無念。本格専読者たちがこの作品をどのように読んだのか、その読みを聞きたかった……
 私には、この作品のトリックについて言うべき素養がないのですが、「本格」的にはどうだったんでしょう。
 小説としては大変面白く、450頁の大部を殆んど抵抗感なく読了しました。まあこのへんは良質のミステリは全部そうなんですが。一時間も読めば休憩せずにはいられないSFばかり読んでいる者には、びっくり唖然とするリーダビリティです。雰囲気も70年代ぽく、文章だけならば第一世代を読んでいるような読みやすさなのは、作者が私と同い年で、それからくる(文学的な)バックグラウンドの共通性に因るのでしょうね。
 ただトリックではそんなに驚かされなかったので(といってトリックを見破ったわけでもない)、全体としてはテレビドラマのトラベルミステリーを字で読んだ感じ。いわゆる面白いけど面白いだけという類で、基本通勤時間や旅のお供に最適だとは思いますが、私のように残り時間を数え始める年齢となりますと、ちょっと時間を無駄にしたな、という後悔も(無論読書会に出席できていたのなら、他の読み方を聞くことができて有意義な読書となっていたわけです)。追記。ピースを寄せ集めて長編にしたという感じで、一本ビシっと背骨がある小説ではなかった。それもやや弱かった。
 しかしまあ、昨日うちに感想を書いていたらもっと肯定的なものになっていたはず。一日措いたら、読後感が冷めてしまっていました。読後感が、時間とともに評価が上がっていく小説もあれば、本篇のように逆に下がっていく小説もあるんですよねえ。
 

大相撲の出身地放送

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月17日(金)18時50分20秒
返信・引用 編集済
   いま、相撲放送を見終わったのですが、今日の結びの一番は、日馬富士対阿覧ということで、場内放送でそれぞれ「モンゴル・ゴビアルタイ県」、「ロシア・ウラジカフカス市」出身と案内されますと、なんだかアルタイ山脈とカフカス山脈の間の文明の十字路地帯がまざまざと浮かんできて、ちょっと感動しました。
 ただし「ロシア・ウラジカフカス市」という紹介には、以前から違和感を感じているのですよね。あそこをロシアというのはちょっと違うのではないか。ロシアでは茫漠とし過ぎます。何せカレリアからチュコトまで広がっているわけで、阿覧の出身地を知らない観客にはイメージ出来ないのではないか。ソ連と違ってロシアでは民族をイメージしてしまいます。
 やはり正確に「北オセチア共和国」とするべきで、「北オセチア・ウラジカフカス市」出身といってほしい。
 そうしますと、臥牙丸や栃ノ心との取り組みで「北オセチア」対「グルジア」となって、観客も、ああ、あの紛争地帯か、と、くっきりイメージ出来ます。そうなると今度は、ふだん阿覧と栃ノ心は喋ったりするのだろうか、やはり敵意むき出しなのだろうか、それとも国は国、人は人で、案外仲がよかったりして、とか、相撲を楽しむ仕方が広がってきたりもするんですよね。
 もちろん「モンゴル」国に対応する「ロシア」国であるのは確かですが、とはいえ、私の記憶では、高見山の紹介では「アメリカ」国とは言ってなかった。「ハワイ・マウイ島」出身と放送していたように記憶しています。
 要するに、そんなに厳密なものではないのなら、「北オセチア」でいいのではないか。そのほうがお客様に親切だと思うのですよね。まだまだ配慮が足りませんなあ。大相撲改革いまだし、というところでしょうか。
 

眉村さん情報 出版芸術社

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月17日(金)01時13分58秒
返信・引用 編集済
 
 

  たそがれ、あやしげ、ホテルの小部屋~♪ (>おい)(^^;

 出版芸術社さんツイートの短篇集『たそがれ・あやしげ』ですが、「SQUET」とかいう代理店の業界誌(?)に連載された短い短篇(ショートショート?)20編に、それだけでは本にできる量ではないので、各編の頭に、眉村さんが「TMいわく」という形式でエッセイを書き下ろされたものみたいですね。業界誌連載なので、テーマもそれ向きなのを選ばれたようで、ちょっとユニークな作品集になっているんじゃないでしょうか。楽しみです。

 同じく新作短篇集『自殺卵』には、とべ、クマゴローの方に現在掲載させて頂いている「自殺卵」「ペケ投げ」「佐藤一郎と時間」が収録されるそうです。あと書き下ろし新作も(^^)。新作の中には、「佐藤一郎と時間」の続編もあるそうですよ。こちらも楽しみ~。

 それにしても、会社に碁盤があるのですね。いい会社だなあ(^^)

 今邑彩『「死霊」殺人事件』(中公文庫 11、初刊 94)読了しました。 
 

Re: 一円を笑う者は一円に泣く

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月17日(金)00時13分16秒
返信・引用 編集済
  > No.4458[元記事へ]

海野さん
 あ、今はアマゾンも送料無料になっていますよ。カード決済手数料も無料。代引きは有料です。
 私は最近、アマゾンでカード決済が多いです。無料になる以前は、私もセブンネット派で、送料がかからないセブンイレブン受取りを利用していましたが、最近は専らアマゾンです。

>最近、めかどが悪うなって
 私も同じですよ。見落としが増えました。この掲示板の認証コードの打ち込みなど3回に1回はミスで撥ねられてしまいます(ーー;
 

Re: 一円を笑う者は一円に泣く

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 5月16日(木)22時02分20秒
返信・引用 編集済
  > No.4457[元記事へ]

アマゾンでも600円になっていましたね。
僕はもっぱら本はセブンネットで購入してます。
送料がかからないんだもん。
アマゾンは代引きだと315円いるでしょ?
クレジットカードだと決済手数料とかはどうなるんでしょ?

あ、そうか。
勘違いしてました。
紀伊国屋が599円ね。

最近、めかどが悪うなって。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

一円を笑う者は一円に泣く

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月16日(木)20時07分49秒
返信・引用 編集済
   大学の教養課程で取った「憲法」の授業は、(名誉教授だったのかな)一円一億(いちえんかずお)先生の教科書で行われたのだったが、憲法なんて暗記科目の最たるもの、余裕余裕と殆んど出席しなかった。で、試験の結果は惨敗で、単位を落としてしまった。これが一円を笑う者は一円に泣くの原義である。(嘘)

 双葉文庫版『駅にいた蛸』は、予定どおり本日発売できたようですね。アマゾンでも、「予約受付中」から「在庫あり」に表示が変わりました→Amazon
 リアル書店はどうなのかな、と思って検索したところ、紀伊國屋書店大阪本店にもちゃんと在庫されていました→梅田本店
 しかし――
 あれ? アマゾンは税込600円の表示ですが、紀伊國屋は599円なんですね。紀伊國屋のほうが安い!
 これはいうまでもなく税計算のマジックでしょう。
 版元の双葉社で確認すると「定価600円(本体571円)」となっています→双葉社
 実際に計算すると、571×1.05=599.55。アマゾンは端数四捨五入で、紀伊国屋は端数切捨てなんでしょうね。まあ一般的には切り捨てがふつう(うちも切り捨てです)。アマゾンさんはなかなか大名商売ですなあ。
 心理的にも600円台と600円を切っての500円台では、全然違います。これ小売店側の常識。店頭というものが存在しないアマゾンは、その点感性が鈍い。というか、この感覚は店頭でのみ通用するものなので、アマゾンの売り方では必要ないのか。
 でも一円を笑う者は一円に泣くのです。この意味を人一倍かみしめている私は、アマゾンに発注するつもりだったのですがそれはやめて、週末大阪に行きますので、そのとき紀伊國屋で購入することにするのであった!(^^;
 

Re:駅にいた蛸

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月16日(木)15時24分51秒
返信・引用
  管理人様
管理人様の言われる通り、体内磁気を持っているのかも知れません。(うう)メールは不達によくなるし、不可解な現象を頻発させますからねえ。(!)稀有な能力かもしれません(*_*)
何かに利用出来たらおもしろいんですが。
 

Re: 駅にいた蛸

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月15日(水)20時29分54秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 アマゾンではまだ予約受付中のままですね。

>見事に文字化け
 あらま。いろいろ不可解な現象が頻発しますねえ。ひょっとして段野さん、メスメリズムみたいな体内磁気でパソコンを狂わしてしまう能力の持ち主なのではありませんか(>おい)(^^ゞ
 そういえば銀座会で眉村さんが、強力な磁気をもった隕石(隕鉄)が、完全コンピュータ制御された未来都市上空を通過した結果、コンピュータがイカれてしまい、都市機能が大混乱に陥るというアイデアを披露され、「これ、どうですかね?」と集まったメンバーに訊ねられたことがあったのでしたが、某ダイジ氏が「市民の肩こりが解消しそうですね」みたいなことを言って、眉村さんがギャフンとした顔になられたことがありましたねえ。そのせいなのかどうか、今日に至るまで、このアイデアで書かれた作品を、眉村さんはいまだ発表なさっておられないのですよねえ(^^;

 畸人郷例会が今週末だったことを思い出したので、『文学入門』は一旦中断し、読書会課題の『「死霊」殺人事件』(今邑彩)に着手しました。
 

駅にいた蛸

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月15日(水)12時35分53秒
返信・引用
  すでにお持ちの方をお見受けしました。新刊見本だったのでしょうか。ですので、てっきり発
売済だとばかり思っておりました。(5月11日現在)
ホルストの情報、ありがとうございました。開けると、見事に文字化けしておりました。(泣)
 

とめてくれるなおっかさん

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月14日(火)22時25分46秒
返信・引用 編集済
  男日本語どこへ行く!  

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月14日(火)20時57分11秒
返信・引用 編集済
   『駅と、その町』につづく双葉文庫の眉村卓シリーズの第2弾、『駅にいた蛸』ですが、アマゾンにようやく書影が出ましたので、↑の画像を差し替えました。
 16日発売予定ですが、一日二日、遅れそうとのことです。
 『駅にいた蛸』は作品集。今回が初文庫化です。93年刊。眉村作品としては、もっとも(既存の)純文学に近づいた作品が収録されています。97年から奥さんの看病で実質休筆されますが、そういうアクシデントがなければ、眉村さんの文学は、私はこの作品集の先に向かわれていたのではないかな、と、思ったりします。
 執筆再開後、帰ってきた眉村さんの書かれるものは、いわゆる「私ファンタジー」でした。それは『駅にいた蛸』の延長線上に私が想像していたのとは、微妙に違っていたように思います。といって、具体的には殆ど忘れてしまっているので、読み返してみたらやっぱり私ファンタジーだった、ということになってしまうかも(^^;。いずれにしろ今回の双葉文庫版の復刊が楽しみで仕方ないのであります(^^)

 さて、4月30日の神戸新聞に掲載されたエッセイについてはここに記しました。やはり共同通信配信の三回分載の第一回だったようです。眉村先生によりますと、第2回分はとうに、第三回分もついこの間、書き上げて送ったとのことなので、おいおい、この月末あたりに、少なくとも神戸新聞(他の地方紙も同じ日程かどうかは定かではありません。ご注意)に第2回分が載るはずです(最終回は6月末?)。私信ですが、深田さん、またよろしくお願いしますm(__)m

 双葉文庫の眉村卓シリーズは、このあともつづきますよ! とりあえず8月頃、『職場、好きですか?』が決まっているようです。とはいえこの卑しき資本主義社会は売上至上主義の世界。いま読んでいる桑原武夫『文学入門』は昭和25年刊なのですが、こんな文章が――
「「売れる」という言葉を発する、または聞くときの、出版業者の眼のきらめきを見たことのある者は、彼らに出版倫理を説く勇気を喪失するであろう。もちろん作品が良い、悪い、ということはいわれる。しかしそれはすべて「売れる」というワク内で発言されているのである」
 まだ敗戦から5年しか経っていない時期なのに、すでに出版業界はこんな調子だったのですねえ。いわんや現代をや!!
『駅にいた蛸』が「良い作品集」であることは私が保証しますが(え、お前の保証など当てにならないですって? 確かに>おい!)、それより重要なのは(嘆かわしいことではありますが)売れること。継続出版を確定するためにも、みなさん『駅にいた蛸』をぜひぜひご購入頂きたくお願いいたしますm(__)m

 また双葉文庫以外の他社でも、今年は(復刊新刊とりまぜて)あと三冊くらい出版されるようです。いやーまさに50周年ですねえ!

 追記。心斎橋大学へは、後期からの出講になるようです。最近心斎橋大学で検索して来られる方が意外にいらっしゃいまして、関心の高さを伺わせられるのですが、そういう次第ですので、いま心斎橋大学のHPを見に行っても何の情報もありませんのですが、夏休みあたりには告知がなされるのではないでしょうか。心斎橋大学入学を考えておられる皆さん、今しばらく、心斎橋大学のHPをたまに気にしつつ、お待ちくださいね。
 
 

Re: 昔のSP盤のピッチ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月14日(火)18時47分3秒
返信・引用 編集済
  > No.4450[元記事へ]

段野さん
 あ、検索してみたのは、昔のレコードの録音が実際よりもピッチが高くなるのは当時の技術的な限界だったのかどうか、ということなんです。で、そんな記事ががどこかに出ていないあなあ、とググってみたのでした。

>ホルスト自身の指揮したものは、もうないのかも知れません
 検索したところ、アマゾンで購入できるようです!→こちら

 それからこのHPでは「惑星」聴き比べしてます。このページの資料によると、ホルスト指揮盤は1926年録音のようですから当然SP盤。しかし「全体的に速いテンポで演奏している」と書かれていますね。ということは、機械的な問題ではなく、もともとホルストの指揮はテンポが早かったのかも。

 や、今発見。SPレコードのウィキペディアに「VG導入以前に、収録時間を伸ばす目的で回転速度を76 rpm以下まで落としている例も多く見られる」
 これを78回転で聞けば早回しになりますから、これが原因かも。つまり機械的な限界ではなく、つめ込み優先の結果ということですね。
 そういえば余談ですが、大学時代、友人がLPレコードからテープに録音していて、長さがたりず、最後がすこしちょん切れた。で、レコードの回転数をちょっと上げて録音し直して全部録音できたと言ってましたっけ。私の安物のターンテーブルにはそんな機能はなく、羨ましく思ったことを、いまだに忘れず覚えているのですが(>おい)、同じ原理ですなあ(^^;
 

Re:昔のSP盤のピッチ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月14日(火)16時30分44秒
返信・引用
  管理人様
相当昔のできごとなので、ホルスト自身の指揮したものは、もうないのかも知れません。
何せ、戦前のものですからねえ。
テープには残してありますが。
検索お疲れ様です。
 

Re: 昔のSP盤のピッチ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月13日(月)22時44分58秒
返信・引用 編集済
  > No.4447[元記事へ]

段野さん
 多分そうなのではないかな、と思っているんですが、検索の仕方が下手なのか、見当たらないんですよねえ……

 ところで、↓は懐かしいショッキング・ブルー「悲しき鉄道員」
 

 同一音源ですが、聴き比べると前者が音が高いです。これは前者が戦前のSP盤だからです。嘘です。もちろんそんなはずがありません(^^;
 実は前者、日本発売盤なんです。つまり眉村さんのチャチャヤングでかかって、われわれが耳にしたのもこっちです。
 なんでこうなったのか、意図的なものなのか、原盤の回転数をきちっと調節せず日本盤にコピーしたのか、よく分かりませんが、ここまで来るともう別人の声ですね。
 意図的に高くしたのなら、このプロデューサー(?)はすごいセンスです(^^)。圧倒的に前者のほうが良いと思いませんか。とくにマリスカが「ア~~~」と伸ばす部分、しびれます~(^^;
 

Re: 「蛇の卵」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月13日(月)22時06分44秒
返信・引用 編集済
  > No.4444[元記事へ]

井上さん
 本当は最初から読み返したかったんですが、ちょっと時間を捻出できず、第9章からしか読み直すことができませんでした。その意味では不全感が残っているのですが、それでもやはり再読は必須でしたね。いろいろ著者が仕掛けた伏線が見えて来ました。この事実は、本書が、その場の思いつきをリニアにつないでいく、いわゆる酒場のほら話ではなく、一から十まできっちりと作成された図面のもとに、極めて論理的に建造された構築物だったことをはっきりと示しています。きわめてテクニカルなプロット管理で、そのへんはジーン・ウルフを想起させられました。

 余談ですが、これも今回そうだったのかと思い至ったこと。イニアールの海はノアの洪水ですね。イニアールの最初の予定では(彼女の証言。これは最終虚偽であることが明かされますが)、この海は全世界を覆い尽くす予定だった(いや実際そうなるのでしょう。そしてクジラが(とりあえず・暫定的に)世界に君臨する。単なる記録者なのかも)*。
 一方、だとすればアナベラ・聖レッジャー号はノアの箱舟ということになります。「アナベラ・聖レッジャー号は全人類を表す”愚者の船”なのでしょうか?」「それとも”ヤブニラミの目の人類”だけを表しているのでしょうか?」 この問は根源的ですよね。(cf:大乗小乗、カトリック対プロテスタント?)
 *感想文で、安部公房との意外な親近性をのべましたが、このエピソードも『第四間氷期』を私に想起させずにはおかないんですよね。

 閑話休題、「黄金の“蛇の卵”」についてのご示唆をたよりに読み返したわけですが、そもそも私には「反キリスト」という観点がありませんでした。キリスト教文化圏外者ゆえの見落としです(弁解です。すみません)。これはしかし考えてみれば当然視野に入れておかねばならなかったものでした。「時の満ちる「前日」とは、反キリストが猛威をふるう時代にもなるはず」というのはまさにそのとおりですね。「十二人の冒険譚」のくだりが非常に錯綜していて読みにくかったのですが、「反キリストの巧妙な誘惑の手管をもしっかり重ねて書き込」まれていたからなのですね。その最終最大の誘惑が「「メシアのしるし」をニセモノとすりかえる」手管であるところの、「黄金の“蛇の卵”」だったのでしょうか? ダブをして「ふたりを眠らせ」させた、透明でしょっちゅうクックと笑っているおかしな二人組(初読では全くスルーしていました)というのが、いかにもそのように思わされます。昨日「な、なるほど……」と書いたのはその故でした。
 しかし、最後まで読みますと、「黄金の“蛇の卵”」は「謎」として「リドル」のまま宙ぶらりんに残されているように、私には思えるんですよね。そんなことを思ってしまうのは、「正統クリスチャンにとって、「将来の栄光」「見えざるもの」は(すでに訪れたキリスト、“希望の土台”の他には)「見えざるもの」のまま、その「影」を仰ぎみて待ち望む」という「観念のア・プリオリ」に、私が馴染んでないからなのかも知れません。ここはもう少し考えさせていただきたいです。もちろんさらなるご教示を頂ければありがたいです。

>たまたまポー、ウェルズ、ボルヘス、ディック(それらのごく一部…)を読み返す機会がありました。その時それら作品世界すべてに通底するする何かがあるような感触を得たのです。

 いま、桑原武夫『文学入門』を読んでいる最中なのですが、桑原はすぐれた文学と通俗文学の差異を「生産的、変革的、現実的」な文学に対して「(価値については)再生産的、(精神については)温存的、(性格は)観念的」な通俗小説とに分類し、通俗小説のそういった特徴は、一般読者(庶民)の「現状肯定的な生き方」の反映であるとします(道なき「初登攀」とルートがある「ハイキング」の差異とも)。
 おっしゃっている「通底する何か」は、「著者の「既存世界」に対して強く抱く「違和感」、「批評性」」のことだと思います。それらはまさに「すぐれた文学」の要件(生産的、変革的、現実的)ですから、ある意味通底していて当然ともいえそうです(安部公房にも通底しているはずです)。いずれも「初登攀」の文学という点で通底しているのではないでしょうか。
 ですからそれに付いていく読者もまた、初登攀の道なき道を行く苦しみ、と、(それを上回る)楽しみ、があるわけで(だから二回目はちょっと楽(^^;)、たしかに『蛇の卵』には、言うまでもなくそれが存分にありましたねえ(笑)。
 

Re:昔のSP盤のピッチ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月13日(月)15時51分24秒
返信・引用
  管理人様
空気読めなくてすいません。せっかく「蛇の卵」で盛り上がるはずだったのに、水を差すようで心苦しくてすいません。
昔、ホルストの「惑星」に凝りまして、いろんなオーケストラの録音をしまくりました。その中に、ホルスト自身の指揮で録音されたものがありまして、いやにテンポが速くて、初演はこんなにも速いのかとびっくりしたことがあります。勿論戦前のもので、現代の各交響楽団と比較して、速いと思いました。ピッチも勿論少し高かったのでしょうね。(当然冥王星はなし)楽団の演奏なので、楽譜どおりに演奏しても、今と比べると少し高めに録音されてしまったのではないでしょうか。(管理人様の推測どおりとして)
すいません。水差して申し訳ございませんでした。
 

Re: 「蛇の卵」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月12日(日)19時15分42秒
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  > No.4444[元記事へ]

井上央さま
 力のこもったご投稿ありがとうございました。
 早速拝読しましたが、「黄金の“蛇の卵”」のくだり、愕然としました。
 その可能性は全く気づいておりませんでした。あわてて本を引っ張りだして確認しているところ。
 た、たしかに……

 しっかり読んで、また後でレスさせて頂きます。
 とりあえず、今はこれにて。
 

Re: 「蛇の卵」読了

 投稿者:井上 央  投稿日:2013年 5月12日(日)18時47分7秒
返信・引用
  管理人様

 ラファティ『蛇の卵』翻訳井上央です。談話室で作品に表れた“世界観”について切り込んだ読解をして下さいました。刺激を受けて何か応えたいと思いながら連休後にずれ込んでしまいました。(時を逸してKYにならないことを祈ります。)

 何よりスゴイと思ったのは、本作は「革命」の「前日譚」なのだとズバリ言い当てられた点でした。もちろん、起こるべくある「革命」は普通の意味(政治的・社会的)の「革命」ではありません。「メシア的なもの」です。本作で描かれるのは、この来るべき「変化」の前にいる者が、それぞれの行方を何と理解し、どんな態度をとるかだったのだ。これこそ著者が「終末論」と呼ぶものなのでしょう。では著者自身の「終末論」とは?ラファティはよく自分自身の考えは、自分の作品の中に現れる登場人物のものより、はるかにふつう当たり前のものであるという意味の発言をしていました。これは、彼が自分は正統的キリスト教の立場だ、と言っているのだと私は捉えました。「メシア的革命」とは「キリストの再臨」、「新しい天と地」の創造です。しかしその「前」にいる私たちは、その成就のさまについて何を知っているでしょう?何を語りえるのか?また時の満ちる「前日」とは、反キリストが猛威をふるう時代にもなるはずである。著者は『蛇の卵』の十二人の冒険譚の中に、この反キリストの巧妙な誘惑の手管をもしっかり重ねて書き込もうとしたのではないでしょうか。反キリストは「メシアのしるし」をニセモ?とすりかえる。その狙いは人々を欺いて、メシアをなきものとすること。「見えざるもの」に「見えるもの」の形を与えること(黄金の“蛇の卵”であれ、何であれ)こそ、反キリストの得意とする仕業ではなかったか。一方正統クリスチャンにとって、「将来の栄光」「見えざるもの」は(すでに訪れたキリスト、“希望の土台”の他には)「見えざるもの」のまま、その「影」を仰ぎみて待ち望む。

 もう一つ、談話室読解がはっきり指差されたラファティ作品のもつ重要な側面、そして多くの評者があまり語らない側面がありました。それは著者の「既存世界」に対して強く抱く「違和感」、「批評性」であると、大きな共感をもって述べたい。
 ラファティの作品に親しむなか、彼の作品には大きく二つ傾向があると分類したくなる時があります。一つは上のごとき希望の光に照らされた(もちろんそこにも“残酷”、ブラックな展開は不可欠要素として入り込んでくる)祝祭的な作品群。『蛇の卵』はこちらに含められるでしょう。もう一つは、ダークな側面が圧倒的に支配する作品群。『蛇の卵』に続けて出た『第四の館』はこちらの典型的な例(中期長編のNot to Mention Camels や Apocalypses収録2作なども他のよい例)でしょう。
 後者の作品を特徴づける性質は、前者とは対照的に「キリストの不在」(最終的にシャット・アウトしてしまう)と言い表し得る。その正体は「悪夢」であり、この「悪夢」が「現実」にすりかえられた世界(「現代世界」)を“恐怖の喜劇”として描きだす。
 たまたまポー、ウェルズ、ボルヘス、ディック(それらのごく一部…)を読み返す機会がありました。その時それら作品世界すべてに通底するする何かがあるような感触を得たのです。そうだ、もしかしたら彼らもまたラファティが“恐怖の喜劇”、“悪夢”として描いた方の世界を、いわば無意識のうちに執拗に追いかけていたのではないか。(なんと乱暴な言い切りと呆れ声が聞こえてきそう。)閑話休題。
 ラファティはその世界を、私たちを捕らえた悪夢、そこから解放されるべき“地獄”として描く。これが著者の作品にあらわれた「浮世」への「違和感」、「批評性」の来りたるところではないか。

 とりもなおさず、ラファティの物語の真の魅力とは、これもまた談話室の読解が余すところなく(ジャズ・ミュージックや落語の話芸にも喩え)説き示して下さったように、底から湧き出る“何か”の力に突き動かされ、とめどなく“横に突っ走り”ながら読者を歓びに酔いしれさせる、物語りの楽しみにあったのではないかと思います。
 

昔のSP盤のピッチ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月12日(日)14時18分3秒
返信・引用 編集済
   ユパンキ「インディオの道」ですが、ユーチューブには同一テイクの2バージョンあります。
 

 聴き比べると、ピッチが違います。前者が1音弱高い。私が持っているレコード(1929年発売の復刻版)も同一テイクですが、前者と同じピッチなので、つまり同一テイクであることが前提ですが、後者(の録音?)でピッチが変えられている。たしかに演奏の長さも、測ったら前者が2:58、後者が3:19ですからそれを裏付けます。

 これはどういうことか。私は、後者は正しい音程(と思われるピッチ)に訂正されたのだと思います

 この根拠は感覚的で、これまでも戦前のレコードのピッチは、現実のピッチより高いと感じていたからです(キンキン感がある)。つまり当時の録音技術では、何ほどかピッチが高く録音されたのではないでしょうか。

 で、確認してみました。
 

 前者は小唄勝太郎の1930年代前半と思われる録音。後者はSP版ではなく後年(戦後?歌い直したセルフカバー)。
聴き比べると、戦後盤はきれいなCメジャーですが、戦前盤は半音高く、つまりCシャープメジャーで、たぶんこんなキイはありえない(演奏しにくい。1オクターブに#が5個入る)。やはり戦前のSP盤は、半音から1音弱高めに録音されている(と言うかメカニズム上そうなってしまった)可能性が高そうです。*

 この仮説が当たっているのか、当たっているとして既に一般的に認められていることなのか、ざっと検索する限りでは分からなかったのですが、もしそうだとしたら、ユパンキの場合、ひょっとしたらユーチューブ投稿者によって、正しい(と想定される)キイに変換されたのではないでしょうか。たしかにキンキン感がなくて心地よいのです。

*但し喉が変わっていたら根拠は瓦解します。高く変わることはめったにないが、低くなることは往々ありえますからねえ‥
 

「サルトル」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月12日(日)11時38分55秒
返信・引用 編集済
  村上嘉隆『サルトル』(清水書院センチュリーブックス 70)読了。
 整理していたら出てきた。190頁中80頁辺りまでアンダーラインを引いていたりするのでそこまで読んでやめたのだろうか。あるいは後半には(下述のように)線を引くべき箇所がなかったのかも。
 前半は「嘔吐」や「存在と無」の「個の哲学者サルトル」について大変わかり易く、サルトルへの共感を再確認できた。
 しかしサルトルは変貌するんですよね。ロカンタンが金利生活者だったように(要するに高等遊民)、その基盤の危うさに気づいて変わってゆく。
 象徴的には「現在の闘争を、どちらも卑しい二つの怪物の、愚かな決闘としか見ることのできない人間は、すでにわれわれを見捨てているのだ」という親友カミュへの決別の言葉が転換点となる。
 これは直接的にはナチスとその抵抗勢力を、「外」からどっちもどっちと見下す(あるいは決断しない)態度を批判するものですが、階級闘争にもいえる(資本主義は悪だが無知な労働者も馬鹿にする立場)。けっきょく自己批判です。
 しかし今でもこんな「コップの外から見下す」輩はいっぱいいて(私も含めて)、この言葉はなかなかぐさりとくる。
 こうして個の哲学者から社会の哲学者へと思考を進展させる。それは取りも直さず、自己のそれまでの哲学の不備(と言うよりも社会性の欠如)を修正していく過程となるのですが、けっきょく弥縫策でしかなく、逆にほころびは広がり、ぐだぐだになってゆくわけです。要するに資質が、サルトルが批判したボードレール(やカミュが擁護したヴェルレーヌ)と同じだったということで、その限界に気づいたのがサルトルの誠実さですが、だからといって資質の限界を超越することはできなかった。
 しかし個の哲学としてのサルトルの思想はやはり素晴らしく視界がぱっと啓けます。果たせていない『嘔吐』の新訳版をはやく読まねばと思いました。
 

Re: 映画「図書館戦争」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月10日(金)21時41分3秒
返信・引用 編集済
  > No.4440[元記事へ]

段野さん
>ラノべを普通に読める人たちとはどのような人たちなのでしょうね。
 そらもう、これからのニッポンを背負って立つお人たちですがな(^^ゞ

 昨日書き込んでから思い出したこと。
「SFが読みたい2013年度版」のサブジャンル別ベスト10&総括の「伝奇アクション&異世界ファンタジイ」の執筆者が、中谷友香『黒猫ギムナジウム』について、「流麗な文体で綴られ」ていると書いてあって、この評者、一体どんな日本語感覚しているのか、と、読んだときあきれ果てたことを思い出しました。
 でもそれは、どうやら私の早とちりだったのかもしれません。今時の人達にとって、中谷友香のあの軽躁的なガチャ文こそ、「流麗」なのかも(笑)。
 たしかに明治の文豪の小説の文章って、ふつうに読みにくいじゃないですか。われわれ世代の使う日本語とはすこし違いますよね。
 つまり明治時代からみれば、昭和の日本語は変化しているわけです。そうと知れば、昭和の日本語からみて平成の日本語が変化していたって、それは当然なんですよね。
 いや、日本語の変化を追いかけもせず昭和古文の世界に安住し、考えもなく書評子を小馬鹿にしてしまったこと、これは謝らなくてはいけません。すなおに謝りましょう。しっつれーしました!(byぼんはやと)

 
 

Re:映画「図書館戦争」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月10日(金)13時06分19秒
返信・引用
  管理人様
他の、名前が挙がった人たちの作品は読んではいません。また図書館を使いまくることにしましょう。
有川浩は、地の文は普通なんですけどねえ、セリフまわしがちょっと気になるんですよね。、私的には。
ラノべを普通に読める人たちとはどのような人たちなのでしょうね。
 

Re: 映画「図書館戦争」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 9日(木)20時36分6秒
返信・引用 編集済
  > No.4438[元記事へ]

段野さん。
 私は読んでないのですが、この作者は文章が平易なので、わたし的にはラノベではないですね(^^;。
 私はジュブナイルだと思います。
 ラノベってのはもっと難読な、我々の世代が読んでも何が書いてあるかチンプンカンプンな小説だと個人的には考えております。
 その意味で大人を対象にした小説でも、たとえば長谷敏司や中里友香は、わたし観点ではラノベになるんですね(追記。内容は別)。先日の会で話題になった乾くるみもそうですね。
 読まれたことがないのでしたら、いちど図書館でぱらぱらめくってみてください。余人は知らず、少なくとも私は、読むのが非常なストレスでした。
 こういうのがふつうに出版されているということは、若い世代はこれを苦もなく読みこなしているということなんでしょうね。
 そう考えると、どこが分岐点か分かりませんが、その分岐点以前と以後では、日本語が劇的に変化してしまった、と考えるべきなのではないかな、などと最近愚考しております(^^ゞ
 

映画「図書館戦争」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月 9日(木)13時34分8秒
返信・引用
  この映画を観てきました。いやに女子が多いな、V6の岡田くんのファンなのかと思っていたら、レディスデーで1000円で観ることができたからなのでした。
文庫はラノべですよ。間違いなく。それでもエピソードをいくつかぶっとばして、戦闘シーンに時間を費やしていました。(男子用?)
のっけから、焚書(理由ありの本)されてしまうのです。小道具係が本当の本のように仕立てあげたのかもしれませんが、本屋関係者としては、焚書はいけません。
雑誌は溶かしてもう一度生まれ変われます。書籍は残念ながら裁断処理に回ることが多いですが、焚書はよろしくないですね。(華氏451でしたか、これは読めなかった)
あと、シリーズ化していますので、チャンスがあれば、読んでみたいですが、ラノべでしょうね。文庫本は(そう割り切って読めば)それなりにおもしろかったです。
ま、(ケーブルテレビの日本映画専門チャンネルで放送があれば、また観てみたいところです。これも本屋の血が騒ぐのかも)
突然な書き込みですいません。
 

キリスト教における魂と心の区別

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 9日(木)01時11分25秒
返信・引用 編集済
   カミュの文集『直観』をぱらっと開け、冒頭の随想「新しいヴェルレーヌ」を目で追っていたら、ヴェルレーヌのデカダンな行状からふたつの事柄を区別するべきだ、とありました。
 そのふたつとは何か。それは「すなわち、彼の魂と、心をだ」
 この随筆では、魂を定義していません。そんなことは一般的な西欧人*には自明だからでしょうね。一方、心は「意識」としばしば言い換えられています。 *カミュはアルジェリア出身ですが西欧文化人であることは間違いない。
 これは私には願ったり叶ったりの文章で、先に私は『蛇の卵』の読解で、ラファティにおいては(というよりもカトリックにおいては)魂と心(意識)は別物と考えられているのではないかという仮説を立てました(ここここも)が、カミュの文はその傍証になるのではないでしょうか。
 私たち非キリスト教文化に生きるものには、魂も心もおんなじやん、という感じですが、西欧キリスト教文化に内在する人々にとって、魂と心(意識)は、厳密にきっちり区別されているのでしょう。
 つまり、人間はもともと先天的に魂を持って生まれてくる(そもそも魂を持たなければ人間ではない)。一方、心(自我・意識)は、その人間が後天的に、(社会関係によって)獲得した(生じせしめた)ものということになるわけです。
 少なくとも(キリスト教文化の外にいた)私は、これまで(無意識に)魂と心を言い換え可能な概念として理解していたようです。それが今回ラファティを読むことで弁別意識化することができたわけで、私の世界認識は一歩厳密化が進んだ。それだけでも『蛇の卵』を読んだ甲斐があったというものです(^^;
 

「メカニストリア」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 8日(水)01時35分20秒
返信・引用 編集済
  エリック・フランク・ラッセル『メカニストリア』深町真理子・他訳(ハヤカワSFシリーズ 69、原書 56)読了。

 遠宇宙探検船マラソン号乗組員たちの冒険を描く中篇連作集です。『宇宙の深淵より』の感想文に、「中間派」と書きました。いうまでもなく古風なスペオペと現代SFの中間派という意味なのですが、本書は中間派でも、かなりスペオペよりになっています。
 第一話「非常パイロット」は、前日譚的作品で、まだ遠宇宙に飛び出してはおらず、金星-地球間の定期貨物船アプシィデイジー号に、本シリーズの主役、アンドロイドのジェイ・スコアが非常パイロットとして乗り組み、クルーが出来上がる。ほぼそれだけのための短篇といってよい(頁数も30頁と短い)。

 ただしクルーというのが、人間に上記アンドロイド、さらに火星人も加わった、普通ではないというか、凸凹部隊といった感じなんですね。原題の「MEN,MARTIANS AND MACHINES」にはその感じがよく出ています。
 船長は悪い人間ではないが、生真面目な中間管理職そのままで、地球のお偉方の意向を常に気にしており、そんなもの屁とも思わないチャランポランなクルーに手を焼きっぱなし(^^;。
 複数いる火星人が、また個性が強烈で、暇さえあればチェスに興じ、その技量は地球人など足元にも及ばない。常に地球人を見下し冷笑的、地球人も火星人に皮肉を言ったりするのだが、それは一種のお約束みたいなもので、ミッション遂行に際しては一致協力します。

 伊藤典夫の解説では、本書がジェイ・スコアの活躍するロボット物みたいな強調をしているのですが、実際はジェイは他のクルーよりもずば抜けて活躍するわけではない(視点人物もジェイではなく、武器庫管理者の「わたし」)。実効的には火星人たちの方が任務遂行に寄与しているわけで、端的に言って、本連作は、マラソン号クルーの物語というべきです。
 総じてクルーたちは、(ファーストコンタクトなのに)遭遇する宇宙生物と「やりあう」のですが(それが船長の頭痛のタネ)、その間もお互い憎まれ口を叩き合ったりして、全然統制がとれていない(キャプテン・フューチャーのクルーみたいな感じ)。著者はその名前からしてドイツ系みたいですが、その創造したクルーたちは、まさにナチス的(あるいは日本的)規律性とは正反対です。

 やはり表題作「メカニストリア」が一番面白い。「ハイウェイ惑星」を彷彿とさせる雰囲気。もっともヒノシオコンビでは戦闘場面は皆無なのに対して、本書はどの作品もほぼ戦闘場面が主。
 実は『宇宙の深淵より』でも、ちょっとアジア人を下に見ているなあ、と感じていたんですが、著者はすこし人種主義者の傾向があるような。大雑把に言ってどの話も、白人が悪いインディアンをやっつける古い西部劇と同じ構造です。
 で、この「メカニストリア」ですが、マラソン号が着陸してみるとこの惑星、機械たちの国だった。しかもジェイのように個体ごとに自立しているのではなく、全体で(あるいは同じ種類の機械で)一個の統一体だった。要するに個人というものはない。命令一下、個体としての自己など全く顧みず攻撃を仕掛けてくるのです。

「われわれは諦めんぞ(……)われわれはあんたらの言うように、従容として死におもむいたりはしないんだ」「そりゃたしかに地球にも、あんたらのような物の見方をする種族がいたことはいた。彼らはその屈辱を、いともあっさりと腹を切る事で名誉に転化する。しかしそれでは何の解決にもならんのだ」
「見たところ、やつらはあまりにもきちょうめんに条件づけられていて、異常なものに出会うと、とっさにそれに対処することができないようだ」
「かれらのものの見かたというやつは狂っている(……)が、なぜかそのとき、ある遠い遠いむかしにあったという戦争を思い出していたようだ。ニッポン人が一人の行方不明者も認めようとせず、冷酷に彼らを戦死者の列に加えていたという戦争のことだ」


 どうやらこの惑星「メカニストリア」、われわれニッポン人へのあてこすりみたいですなあ。いやまあ、当たってますが(>おい)(^^;
 英語版ウィキペディアによれば、実際、ラッセルは第二次大戦では英空軍で兵役に就いていたようですが、異説としてラッセルが現役勤務には年を取り過ぎており、情報局でドイツや日本に対して情報撹乱に従事していたという記述も。本篇を読むと、後者もなかなか信憑性がありそうです。

 第三話の「共生」は樹と共生する異星人との(やはり)戦闘の話。これがちっとも面白くない。戦闘場面はざっと流して読了。
 最終話「催眠惑星」は蛇が何十匹も絡まったような身体を持ち、催眠テレパシーで相手を意のままにしてしまうおそろしい異星人との戦闘の話。これは表題作並みに面白かった。
 ここではっと気づく。「メカニストリア」「催眠惑星」は深町真理子訳。あとの二篇は別訳者。ひょっとして訳文に問題があった?
 

「拠点」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 6日(月)17時16分0秒
返信・引用 編集済
  > No.4433[元記事へ]

段野さん>再送しました。

A・E・ヴァン・ヴォクト『拠点』早川書房編集部編(ハヤカワSFシリーズ 65)読了。
 収録作品の何篇かは他の作品集で読んでいるはずですが、「あ、これ読んだことがある……かも」くらいしか思い出さなかったので、実質初読でした。
 そもそもヴォクトは設定がトンでいるので、と書きかけたのですが、実はそんなにひねったものではない(確かにスケール感は独特ですが)。実は叙述が特異なのです。
 一般的なエンタメ小説の文体ではない。というか、創作教室だったら徹底的に直されてしまうと思いますね。デーモン・ナイトだったら真っ赤っ赤にしてヴォクトを腐らせることまちがいなし(>おい)(^^;
 でもその文体が、ヴォクト世界に特有の抽象的な感じをまといつかせ、それを好む人には何ともいえない悦楽をもたらすわけです。
 本集もそんな感じで楽しく読み終わったんですが、振り返ってみて、たとえば数日前に読んだ「拠点」、もうどんな話だったのか思い出せない(いわんや過去に読んだ短篇など、忘却の霧の彼方であるのは当然なのです)。
 要するに私は、ヴォクトを読む場合(とりわけ短篇を読む場合)、絵画を鑑賞するように読んでいるわけです。それも極端にデフォルメされた絵画を。

 そんななかで、「消されし時を求めて」は、100枚弱の中篇で、本集では一番長く、それだけに「小説」(ストーリー)として「も」楽しめた。要するに長い分、著者の叙述が「開かれて」、長篇に見られるような独特の壮大な世界設定が、その分読者に可視的になっているからだと思います(イシャーシリーズのワンシーン的な感じがしましたが、シリーズ中に組み込まれてはいないと思います)。
 内容的には、「果しなき流れの果に」を、かなり強く彷彿とさせます。調べたらSFM64年1月号に訳出されており、小松左京は読んでいたのかどうか。
 あと、「呪縛の村」は佶屈した文章を辿った果てにあらわれた光景の、脱力一歩手前のオチには呵々大笑させられた。
「野獣の地下牢」は、イーガンもかくやの数学SF(そりゃあ「かくや」でしょう)(汗)。
「音」は、叙述が開かれていて、長篇の一部分みたいな作品。この前にも後ろにもストーリーが広がっているはず。
「宇宙シーソー」は、武器店の冒頭部分にそのまま利用されています。だからその世界観を思い出しながら読むので楽しめましたが、やはり単品ではラストのイメージが弱い。
「果された期待」は非A的なプロットで、仕掛けはすぐに分かった。
「地には平和を」は光瀬龍「宇宙航路」みたいな話かと期待したのだが、竜頭蛇尾感強し。
「モンスター」は、設定が理解できませんでした。

 非常にアンビバレンツな感想文になってしまいましたが、結局、どの作品も厳密にはストーリーは破綻しているのです。それを補って余りあるのが特異な叙述形式を持つ文体のイメージ喚起力なのですが、専らエンタメ小説を楽しんでいる読者には、本集は(長篇以上に)難読であるかも。
 

Re:男のポケットDVD

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月 6日(月)13時13分24秒
返信・引用
  管理人様
またもや、全体メールが届いておりません。
お手数ですが、再度よろしくお願い申し上げます。
 

Re: 男のポケットDVD

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 5日(日)14時21分27秒
返信・引用 編集済
  > No.4430[元記事へ]

 段野さん
 あ、それは全然関係ないのです。パソコンにセットすれば大丈夫です。
 もし不都合があるようでしたら、CDRに入れ直してお送りしますので、ご連絡ください。

 追記。全体メールをお送りしています。また届かないようでしたらご一報ください。
 

Re:男のポケットDVD

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 5月 5日(日)13時56分56秒
返信・引用
  管理人様、海野様
もとをただせば、中途半端にウィンドウズ・メディア・プレーヤーで録音した私が、何も知らないまま、管理人様に送ったのが悪いのです。
お手数かけております。何卒ご勘弁のほどをお願いいたします。
 

Re: 男のポケットDVD

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 5日(日)10時23分47秒
返信・引用
  > No.4428[元記事へ]

海野さん
 ありがとうございました。お手数おかけしました。
 やはりCDRに録音すべきでしたね(2枚組になってしまいますが)。
 半端なDVDで申し訳ありませんが、御勘弁願います。
 使い勝手で適当に加工していただければと思います。
 よろしくお願いします。
 

男のポケットDVD

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 5月 5日(日)09時00分58秒
返信・引用 編集済
  ありがとうございました。
早速再生してみましたが、我が家の新旧5台あるDVD・BDプレーヤーでは、どれも再生出来ませんでした。もちろん、パソコンではだいじょうぶでしたが。
MP3形式のファイルには対応してないと言う事です。
DVDプレーヤーは発売時期やメーカーによって、再生出来るファイル形式が違いますからね。
たとえばパイオニアの最新のDVー2020というような安価なプレーヤーでも再生出来るものはありますね。http://pioneer.jp/dvdld/player/dv-220v/
うちのDVD・BDはCDのMP3は再生出来ます。と言う事は、このDVDをCD-RにコピーすればうちのDVDでも聞けるはずです。
メディアプレーヤーなどで音楽CDにすればCDプレーヤーでも行けるでしょうが時間が短いので(75分?)、何枚かいるでしょうね。
そういう事でした。

ぼちぼち少しづつ楽しみに聞いています。

調べてみるとDVー2020は3千円ほどで買えますね。安い。


あ、いやいや。
>うちのDVD・BDはCDのMP3は再生出来ます。
これはたぶん駄目でしょう。
再生出来たのはパソコンのMP3をメディアプレーヤーでCD-Rに音楽CDとして焼いたものでした。
ややこしや~

http://marinegumi.exblog.jp/

 

眉村さん情報「神戸新聞」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 5日(日)03時42分2秒
返信・引用 編集済
   昨日の風の翼大宴会で、深田亨さんから、眉村さんのエッセイが載った神戸新聞の切り抜きをいただきました。
 4月30日付神戸新聞文化面です。「こころの森」というタイトルなんですが、ひょっとしたらコーナー名なのかもしれません。
 以前に、共同通信配信で何回か連載が地方紙に載ると聞いていたので、それかもしれません。「月一回掲載します」とありますので。
 今回は、「今どきの書くこと読むこと」「おのれの中途半端さ思う」という見出しで、若い読者の読みが、「自分の思い込みで曲解」していたり、(明治という時代がデフォルトの)漱石作品ですら《イマココ》の視点からしか読まない(それは必然的に誤読となる)、要するに自己中心的な読みであることを「それこそ私の曲解なのかもしれない」と断った上で、「難儀」やなあ、と嘆じておられます。
 いやこの指摘は、グサリと来ました(^^;
 小説は小説内論理で読めばいいわけですが、それでもやはり、最低限その小説が持つ時間的空間的限界すなわち世界内存在としての座標は意識しなければならないし、それができる知識は身に着けていなければいけないということなんでしょう。
「博学多才な方々の著作を読みながら、こりゃとてもついていけないなあと首を振ること一再ならずなのだから、おのれの中途半端さを考えずにはいられないのである」
 身にしみる言葉です。

 昨日の大宴会で、眉村さんの詩集の編集作業、そろそろムチを入れねばと痛感したので、今日は半日その作業をしていました。ほぼ叩き台は出来た。タイトルは『《捩子》の時代 ――眉村卓詩集――』(眉村さんのお許しが出ればですが)。あす、刷り見本を作って、チェックしてもらおうと思っています。
 

風の翼大宴会

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 3日(金)14時03分29秒
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   昨晩、部屋の中にころがっている読了本を集めて、一階に運んでいたのですが、階段2往復で腰に違和感が。あわてて中断。体力低下が危険水域に。散歩がいいと思うのですが、外出が億劫。家の中でできるラジオ体操でも始めようかしらん。
 いずれにせよ下も満杯で、しばし考え、値段が付きそうな異形コレクションと日本SF年刊傑作選を(眉村作品掲載分だけ残して)処分することに決定。別により分けました(あと最近購入した日本作家ミステリ系も)。といっても完集しているわけではなくしれた量です。ブックオフの買取サービス期間に売りに行こうかな。
 ヴァン・ヴォクト『拠点』に着手。最初の2編読みました。
 本日は黄金週間吉例風の翼大宴会につき、もうちょっとしたら出発します。
 
 
 

「風の王国(7)突欲死す」読了。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 2日(木)21時55分10秒
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  平谷美樹『風の王国(7)突欲死す』(ハルキ文庫 13)読了。
 昨日の書き込み後、一気読了。すさまじいまでに面白かった(^^)
 堯骨の圧力で突欲が後唐に走ったことで、主なき東丹国は勢力を喪い、旧渤海国は三分(四分)するかたちで半自立状態となる。その三国の合従連衡が描かれる一方で、突欲を迎え入れた後唐(沙陀族=突厥、トルコ系)の内紛も。
 一代の奸雄李嗣源は突欲を後継者に望むも、突欲にその意志はなく辞退します(この辺は著者の、史実はそのままにその内襞に偏執狂的に分け入った共感的妄想=解釈でしょう。この李嗣源の造型がとてもよいです。私も触発されて妄想が膨らむ膨らむ)(^^;。
 結果李嗣源はなすがままにまかせる道を選び、はたして没後、後唐は李嗣源の養子李従珂と女婿石敬瑭が国を二分する内紛に。そして(突欲の仲介により)堯骨の後ろ盾を得た石敬瑭が後普を建国する。
 そのいきさつで後普の首都晋陽に移されていた突欲は、李従珂の遺臣にあっけなく殺されます。思えば突欲、なんと性格が変わってしまったことでしょうか。というか第一巻の突欲が、むやみにキャラ立ちしすぎていたといえるかも(>おい!)。
 冨先と阿孝廉のサブストーリーもよい。大長編なのだから、こういうサブストーリーはもっと挟んでもらえると楽しいかも。
 しかしこうなると、ストーリーは渤海国内中心(プラス対契丹)に戻っていくのでしょうか。では突欲亡きあと晋陽に残された芳蘭母子の今後は? 壱萬榮が掠めるように連れ去った道隠は今後どのように絡んでくるのか? 本篇では登場しなかった須哩奴夷靺鞨ゲリラの蠢動も気になりますし、いよいよ目が離せませんなあ(笑)。
 

下重暁子さんのエッセイ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 1日(水)23時18分7秒
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  風立つ高原の文芸誌ぜぴゅろす』2013年春号を頂戴した経緯はここに記しました。
 本誌、創作誌というよりも随想集です。毎回お題があるようで、この号は”風”。「特集・風があるから風景、あるいは……。」という掲題のもと、執筆者それぞれ、その掲題を自分なりに咀嚼、解釈した随筆を寄稿していて、その解釈の仕方がバラエティにとんでいて面白い。味わいがあります。
 そのなかで、下重暁子さんの「行方不明」というタイトルの文章が、一等屹立しているように感じられました。
 下重さんの山荘(軽井沢?)あたり、このごろ「お年寄りの迷子」が増えているそうで、今日も町の広報車が心当たりのある方は連絡を、と放送しながら通り過ぎていく。子供の迷子は(親が必死に探し回ったりで)すぐ見つかる。老人の迷子はいつまでたっても見つからない。「心当たりの人がいないのか、いてもすぐ駆けつけないか、無視しているのか」
 何度もアナウンスが流され、下重さんもいてもたってもいられず、探しに出かけるのですが……。

 これはエッセイなのでしょうが、何ともいえない不安感が色濃くその世界を覆っていて、空気にまで沁み込んでいて、ほとんど「小説」(掌篇)の感興があります。恐れいりました。こういうのを書きたいんですよねえ。いや無理なことはわかっているのです(ーー;

 『風の王国(7)突欲死す』に着手。120頁まで。
 

「宇宙の深淵より」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 5月 1日(水)03時34分49秒
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   エリック・フランク・ラッセル『宇宙の深淵より』岡部宏之訳(ハヤカワSFシリーズ 69、原書 54)読了。
 いや面白かった。こんなに面白いとは想定外。はずれ作品皆無。傑作選並みのレベルといって過言ではありません。

「証言」は法廷もの。ただし被告は宇宙人! 母星から逃げて来た宇宙人の単座艇が農場に墜落して、納屋と作物に被害。いわばそれは別件逮捕でありまして、検事のホンネは宇宙人を地球に入れないこと(後から大軍団がやってくるかもしれないではないか)。宇宙人は出て行け、ということで、スパイ罪で有罪を求める。対する弁護士がなかなか優秀で、検察側の証人の証言をばったばったと切り崩してゆきます。ここがなかなかにユーモラスで痛快。最後に呼ばれた弁護側の唯一の証人は、なんと自由の女神!!
 自由の女神像のスカート辺に銘文が刻まれていることは寡聞にして知りませんでした。
「来たれ われのもとに、疲れしものよ/自由の息吹にあこがるる群衆よ/豊穣の浜辺の悲惨なる落ち穂よ/来たれ われのもとに 家なきものよ 嵐に破れしものよ――/われは黄金の扉に灯火をかかぐ」
 どこぞの国で「この国から出て行け」とヒステリックに叫ぶ連中に読ませてやりたいですなあ(^^;
 ただし、ペリー・メイスンものと同じで、法廷戦術のテクニカルな面白さがメインで、深い意味は余り込められているようには見えない。上の証人も、陪審員(というか本篇では大衆投票で決められるので一般大衆)の心証めあての奇策なんですね。その心証に大きく寄与した、弁護人が最後の切り札に持ちだした、宇宙人が「女性」であるという「事実」も。
 しかし逆に読めば、大衆心理の浮動性を揶揄した作品なのかもしれません。

「最後の爆発」は140枚の中編。これは二部構成で、前半は、宇宙人が密かにまいたヴィールスで、地球はすべての植物が壊滅し(ここ、鳥インフルエンザの蔓延を彷彿とさせられる描写)、食物連鎖をたどってすべての生物も(人間も)絶滅します。月基地にいた七人は助かるが、食料を食べ尽くせばそれで終わり。その閉鎖状況がサスペンスフルに描かれる。いよいよという時に、宇宙人の宇宙船が月基地にやってくる。七人はその船で地球へ連れ戻される。
 後半は、七人が連れ戻されたのは、生き残ったごく少数の地球人が一箇所に集められている場所。そこでの地球人の仕事は、それぞれの専門知識を宇宙人に伝授すること。実はこの宇宙人、自分たちの持つ文明はかなり低い。しかし、例のヴィールスで高文明の星々を壊滅させ、残った当該星人から知識を掠めて(星間宇宙船の技術も得て)宇宙に広がってきたのです。地球に来るまで原子力を知らなかった。七人組の一人である主人公が原子力技師で、彼が宇宙人に原子力の原理等を教えることになる。
 ここで、そんな重大な技術を教える主人公に対して大多数の残存地球人が裏切り者として非難する。主人公も、なぜかわざわざ怒りを買う行動をとる。やがて宇宙人は(地球を征服したことを報告がてら)一旦母星に戻ることになり、土産に核燃料を積み込んだ宇宙船で発進するのですが……
 本篇も、ゲーム的な騙しや出し抜きをうまく使った話なんですが、何事にもシニカルな反応をする副主人公がなかなか存在感があって、そういうキャラクターの書き分けも手馴れた感じでうまい。

「人間やろう」は、火星の砂漠をはるばると、ラクダの隊商が進んでいく冒頭のシーンで、すでに勝ちは決まっています(^^;。火星の交通手段に地球から連れて来られたのですが、地球人の言うことはあまり聞かず、なぜか火星人には心をゆるしている気配。火星人はテレパシー種族で(発声器官は退化してしまっている。かんの鋭い人はここでオチに気づくかも)、なんとラクダもテレパシーを持っていたのです。もちろん地球人はそんなことツユも知らない。頭の悪いうすのろラクダと思っている。そんな思考内容も両者にはダダ漏れだったんですね。知らぬは地球人ばかりなりけり(笑)
 うまいのは、テレパシーでの会話は描写しない方法論。ラストのシーン――
「しばらくすると、ザグデンのヒトコブラクダが振り返り、すぐ後のラクダに乗っているミッチェルを、恐ろしい顔でにらんだ。ミッチェルはいぜんとして口を開かなかった。ゆっくりと、キャラバンは進んでいった」
 おそらくミッチェルは心の中で何か悪態をついたんでしょうな。それを書いてしまわない筆法が決まってますね。面白い。

「内気な虎」は、既述

「虹の彼方」は、これに似た話が星新一のショートショートにあったような記憶が。人類圏よりすこし外側の星に有望な鉱床を発見した宇宙船が、着陸してみると、そこには小人のような先住民がいた。そしてなんと地球の言葉で話しかけてきたのです。先住民は乗組員の心を読んで、一種ソラリスみたいな状況を作り出し、それに魅入られてしまうと、だんだん身長も縮んで、先住民と変わらなくなって、心も同化してしまうのです。乗組員の一人は、野原に石積み遺跡(ドルメン)を見つけます。それには四つ葉のクローバー*が刻まれていた。(*四つ葉のクローバーはドルイドの崇拝対象)

「すこしの油」は、三回目の星間宇宙船実験飛行の話。前2回とも、宇宙船は帰還しなかった。その失敗を踏まえ、選り抜きのメンバーを揃えて出発した今回は、四年の旅を終え、太陽系も間近に迫っている所まで帰って来た。帰って来ているはずだった。ところが、肝心のソルの姿がなかなか捉えられない。ひょっとして航路を誤ったのか。近くまで帰って来ているという気持ちが、よけいに乗組員の不安とあせりを生み、険悪な雰囲気になってきます。ところが、一人ドジな男がいて、そんな一触即発のシーンに限って、とんでもないヘマをやらかして、緊迫した空気をへなへなにしてしまう。それぞれ専門分野でエリートばかり集めたクルーの中に、そんなダメ男が加わっているのが、当初クルーたちも不思議だったのですが(コイツ何の専門家なんだ?)、次第にそのドジっぷりを愛するようになっていったのでした。ようやく帰り着いた基地で、計画責任者が明かした真相は……!?
 オチは途中でわれますが(その「職業」まではわからなかったが)、というかタイトルでバレバレなんですが、キャラクター書き分けの妙で最後まであきさせません。

「不定種族」は、地球軍の軍事宇宙船が未知の敵勢力内の惑星に不時着。敵軍があわよくばいけどってやろうと宇宙船を包囲します。八名のクルーが大活躍して切り抜けるのですが、まるで忍者部隊かという神出鬼没ぶり。読者はこれはいろいろ特殊な人体改変を加えられたサイボーグ集団かと想像するわけです。真相は、というかオチは・・・
 一種納得の脱力オチ(笑)。しかし敵将もトンマすぎる迷指示連発で笑っちゃいます。ユーモア編。

「第二創世記」、おお、これは拙作「雀」(チャチャヤング・ショートショート・マガジン創刊準備号所収)と同設定ですな(^^;
 船内時間で3年、客観時間で2千年の旅を終え、主人公は地球に帰還する。しかし地球は無人で、廃墟すら土に還っていた。「お茶漬けの味」の宇宙船のように、主人公の単座艇は世界中くまなく、他の惑星まで人跡を求めて飛び回るのですが、「お茶漬けの味」のように生存者を見出すことは出来なかった。ついに諦めた主人公が地上に降り、絶望の叫びを上げたとき、彼の前に……。タイトルどおりの話です(^^;

 どの作品もそれぞれに面白く、飽きさせません。巻末著作リストによりますと、本書はラッセルの第一作品集のようです(54年刊)。まさに中間派的な作風なんですが、現代の読者にも十分楽しめるものです。ストーリーがくっきりしていて、一種良質のマンガを読んだような印象がありました。「不定種族」など石森章太郎の絵柄で読んでみたいですな。面白作品集、堪能しました。
 


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