ヘリコニア過去ログ1308

「SF宝石」(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月29日(木)19時12分26秒
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  > No.4708[元記事へ]

『SF宝石』は、上田早夕里「上海フランス租界祁斉路三二〇号」を読みました。タイトルは戦前、<上海自然科学研究所>が所在した住所。<上海自然科学研究所>とは「日本の外務省が日中*友好政策の一環として」「義和団事件で清国政府から得た賠償金の一部」を資金として、「中国**からの協力も得て」1931年に設立された<国際研究施設>で、実在した研究機関です。
(*瑣末なことですが、当時「日中」という言い方はあったんでしょうか。「日支」か「日華」が妥当なのでは? 読んで違和感がありました。また**に就いても、1931年当時国共合作は解消されており、共産党が実効支配していた地域があり、また5月には広州国民政府が分離したりしていて、少なくとも統一的な中国国家は存在しなかったので、ここは「南京(国民党)政府」もしくは「蒋介石政権」とすべきではないか。あとで調べる)
「科学に国境はない」との趣旨(少なくとも所員はそう考えていた)で設立された同研究所の化学科の責任者である「岡田家武」は、その信念のもと、研究に勤しむ一方で、和平工作にも関与していました。戦後も自ら望んで残留し、中国での研究にその生涯を捧げていたのですが、文化大革命が起こり、スパイ容疑で投獄され獄死します。その後、岡田の妻子も同じ容疑で強制収容所に連行されます。

 以上は、現実の歴史。

 さて、この時間線の(たぶん)遙か未来、人工的に「並行宇宙」を作り出せる装置が開発されます。この装置を使って、過去のある時代を「時限的」に作り出す事が可能になっています。そしてこの未来世界では、「歴史にもしもはない」といわれるわけですが、この装置を使って、その「もしも」を起こしてしまい、そうして作った「改変並行歴史」を「事実である歴史」と比較対照する学問が行われているのです。
 ひとりの未来の歴史研究者が、その研究対象として第一次、第二次上海事変にターゲットを絞った改変並行宇宙を作り、観察しているうちに、「岡田家武」の存在に気づく。その高潔な人格を知り、且つ、そのあまりにも悲惨な運命を惜しんだ研究者は、彼が中国大陸にやってこず、日本で幸福な研究生活を全うするように、改変パラメータを操作します。これで「岡田家武」は、悲惨な運命を免れた。未来の歴史家はほっとする。ところが、その「空白」にいつのまにか、「岡田家武」とは見た目はまるで違うが高潔な人格が瓜二つの、「岡川義武」という化学者が、するりとはまり込んでいたのです!? そして本篇は、この「岡川義武」が主人公の物語なのです……

 いや面白い。昔、山田正紀が書いていて最近とんと見かけることがなくなった現代史SFです。しかも舞台が私の大好きな大戦間上海――とくれば、これは面白くなかろうはずがありません、と言うのは主観的な要素ですが、現代史に並行世界を、しかも「制御可能な並行世界」というオリジナリティあふれたアイデアを付け合わせてしまう大技は、まさにSFの醍醐味というべき。大傑作でした(^^)。

 

「SF宝石」(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月28日(水)22時29分42秒
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  > No.4702[元記事へ]

『SF宝石』は2篇。
 井上雅彦「アフター・バースト」は、『SFジャック』に収録されるほうがふさわしかったような心・身SF。人間の行動をシュミレートするために作られた、<意識>を持ったロボットが<死>に、次の瞬間、彼は上方から自分の体を見下ろしていた。臨死体験? そもそもロボットである自分に、幽体離脱などできるのか。実は<クラウド>領域への、データの全量退避だったのです。が、その事実は彼に、人間の幽体離脱の意味を推測させます。最後のオチは、この作家ならではのもの。しかしそこへ持っていきますか(笑)

田中啓文「集団自殺と百二十億頭のイノシシ」は、昔、筒井康隆が書いていて最近とんと見かけることがなくなったストレートなスラップスティック風刺SF。わはは、面白い。宇宙人の格安ツアー過当競争が招来した人類滅亡の危機に際し、強引に世界をリードしてきたニッポン国安倍野首相は病気を理由にさっさと退陣してしまうのであった(>おいこら!)。ラストは「第四間氷期」ばりのポスト人類「継ぐのは誰か」SFとなります(>いやほんま)(^^;
 

眉村さん情報、他「海底軍艦」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月27日(火)21時13分5秒
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  > No.4705[元記事へ]

トマトさん
>「海底軍艦」
 リンク先の青空文庫を閲覧しました。や、原文はこんな文章でしたか。私は子供向きに平易に書き直されたのでしか読んでなかったので、びっくりしました。ということで読みかけたのですが、すぐ諦めました(^^;

>映画ではムー帝国の儀式でスケスケの衣装で巫女たちが舞を踊る場面が
 おや、ムー帝国なんか出てきたっけ、と、ウィキペディアを確認したら、これは映画のオリジナル設定なんですね(ちなみに映画は見ていません)。「ロシアが敵役」という原作のままでは問題があったので架空のムー帝国に置き換えたとあります。なるほど。
 そこで、私が読んだ子供向き(小学館少年少女世界の名作文学)ではどうだったんだろうか、と、ふと気になりました。はたして原作どおりロシアだったのか。それとも、やはり不適切ということで変えられていたのか。覚えていませんが、ロシアがどうの、というストーリーではなかったような(孤島(?)の秘密基地から出撃するところで終わっていたような)。そういった政治的な部分はまるごと省かれていたような気がします。

 さて、毎度眉村さん情報をリンクさせてもらっています出版芸術社さんの今日のツイート
    ↓
 
 今回は、50冊投入されたそうです。サイン本の売れ行き、すさまじいですねえ! というか、眉村さんが大変。イラストも全部違う絵柄というのがすごい。絵を見繕って、3冊、4冊と買って行ったファンもいたんじゃないでしょうか(^^;
 

海底軍艦の原作

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月27日(火)14時17分21秒
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  青空文庫にありましたね。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000077/files/1323_32089.html

 

畑農照雄等

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月27日(火)13時29分43秒
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  もちろん畑農照雄です。最初にストリップ女優が裸で局部を両手で抑えているイラストがクラスのインタレストを集めました。その後本文を読んでいったら女優が舞台でオナ○ーをはじめて・・・と書いてあったので、おおいに沸きました。それから「夢書房」が人気が出てきたのですね。夢書房の著者石川喬司には「いつでも夢を」が登場してくる短編がありましたね。 私の生涯で最初にはまったSFは、国産SF古典の「海底軍艦」(かいていぐんくわん)の映画でした。ムー帝国の女帝が出来たり、洋物SFにはない和製SF特有の凄みを感じたものでした。映画ではムー帝国の儀式でスケスケの衣装で巫女たちが舞を踊る場面があり、当時同級生が学校で得意になって騒いだので、児童には不適切として視聴制限されたような?記憶があります。そして福島編集のSFMは押川の海底軍艦のDNAが脈打っているのではないか・・・と思います。  

Re: 夢書房の挿し絵

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月27日(火)00時43分56秒
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  > No.4703[元記事へ]

>挿し絵もまた魅力的でしたね
 夢書房シリーズというと、まず畑農照雄の切り絵っぽい絵柄が浮かんできます。ちょっとだけ調べたところ、山田維史も描いているようです。途中で変わったのか、それとも専門の画家はいなかったか、でも、思い出そうとしても山田維史の絵柄は浮かんできませんね。私の中では夢書房は畑農照雄固定なんですね。トマトさんが見たストリップのイラストは、誰の絵だったんでしょうかねえ(笑)
 

夢書房の挿し絵

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月26日(月)23時03分7秒
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  夢書房シリーズで盛り上がったのは、ストリッパー女優が舞台でオ○ニーしている挿し絵で、本文ではなかったかもしれません。SFMは挿し絵もまた魅力的でしたね。  

「SF宝石」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月26日(月)21時51分20秒
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  > No.4697[元記事へ]

 『SF宝石』は、小川一水まで読む。

中島たい子「中古レコード」、これは矛盾しているのではないか。生物の複写復元は法律で禁止されているから、ケンは秘密裏にクローンを作った。ところがケンの両親の会話には、脱法の意識が毫も感じられないのはなぜ? それから「成人サイズ」のコピーを作ったからといって記憶や自我まで復元されるはずがなく荒唐無稽(もしくは擬似科学説明が必要)。「遺伝子が、無意識にそれを求めてるんじゃないかって」>そんなアホな。

樋口明雄「遺され島」、これは面白かった。70年代流行ったアドベンチャーノベルズの感触。イギリスSF的な破滅後世界ものでもある。文章が、やはり70年代的にしっかりしているのにも好感。近頃の読者には古いと感じられるかもしれないが。高野和明や月村了衛系の作家ですね。

結城充考「ソラ」、これはなんだろう、シリーズ物の一篇なんでしょうか。ラノベ的世界観がやや私には合わないのですが、しかしまあ許容範囲。面白かった。文章はよい(ラノベ文ではない)。一つの確立した感性(感傷)を持っていますね。これは作家的に必須の要素。

小川一水「「いおり童子」と「こむら返し」」、最初はラノベ的な展開で嫌な予感がしたのですが、途中から気にならなくなり、小説世界に没入。読ませます! それは小説世界が自立しているからこそなんですよね。そうなってくると、ラノベ的要素など瑣末な話になってくる(逆にいえば、最後までラノベ的かどうかにこだわってしまう作品は小説世界が最後まで自立しなかったということ)。しかしSFではないなあ。小道具はこの作家らしくテクノロジー的なんですが、小説自体は骨太の物語。スリック雑誌(翻訳すれば中間雑誌)で十分通用するし、その世界で天下をとれる作家ですね。ハードSFは一旦棚上げし、本格長編を書いて、直木賞狙ったらどうでしょうか。いやマジで。

 

Re: また出先からのアクセスです。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月26日(月)20時50分35秒
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  > No.4700[元記事へ]

トマトさん
>「未来の記憶」「世界みすてりとぴっくす」「夢書房」はクラスの皆で盛り上がったものでした
 前二者はともかく、「夢書房」で盛り上がるなんて、どんな中学生ですか(笑)。よほど若年寄、あわわもとい粋人が集まっていたのですねえ。
 私は、狭いなあ、暗いなあ、湿っぽいなあという感想だったと思います。ひょっとしてこれって面白いかも、と思い始めたのは、ほんの20年ほど前くらいからです(^^;

>「クラスの多くが盛り上がる」文化
 というのは、たしかにありましたね。本の貸し借りは頻繁だったし、書いた小説の授業中回し読みも日常茶飯事でした。しかもそれはごく一部の間ではなく、殆どの、とはいいませんが、クラスの半分近くが参加していたと思います。時代が違うといわれればそれまでですが。
 ツイッターで、学校(の集団性)が苦痛だったというツイートを意外によく見かけるのですね。まあそのような資質の人とツイッターが親和的という面はあるでしょうが、全体で盛り上がる、という文化は私達の世代くらいでなくなってしまったのかもしれませんね。最近の「バルス」とは似て非なるものですよね。バルスはどこまでも並列で互いに目を合わすことはないですが、かつての私達は円環的で対面的な関係だったと言えると思います。
 

また出先からのアクセスです。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月26日(月)16時09分32秒
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  管理人さん、お手数おかけしまして恐縮です&ありがとうございました。 確か中二のときですが、初めて近くの古書店に入り、その薄暗くかび臭い棚に、ずらりと並んだSFMを見つけました。当時一冊50円ぐらいだったと思いますが、とくに印象的だったのは聖書の内容が宇宙人飛来を書き記したものであるというイラスト入りの「未来の記憶」、奇談を集めた「世界みすてりとぴっくす」、世界女優恥部図鑑などが登場する石川喬司の「夢書房シリーズ」などでした。少しつづ使いそろえて学校に持っていき、「未来の記憶」「世界みすてりとぴっくす」「夢書房」はクラスの皆で盛り上がったものでした。つまり一般受けした・・・ということでしたね。久野四郎の「ガラスのわら人形」などもリアルな性描写や男女のもつれなど生々しいアパート内の人間模様などが描かれ大人の世界を覗きたい当時の中学生受けのよかった短編でした。そういう「クラスの多くが盛り上がる」文化は後にハヤカワSF文庫の主流的なポジションとなるローダンやサーガとは別なものであると感じます。70年代後半のことですが、高校にローダン愛読者が3人ほど居て、この人だけが休み時間にローダンネタで盛り上がりそれ以外の人たちはこのローダンネタにまったく話に入っていけないという光景がありました。 かつては成人男性、主に会社勤めホワイトカラー向けの編集から、修学層へとシフトして、その就学層がずっと「あまり読みもしないに購入し続けている」というのはなんとなくわかるように感じます。福島さんの文章で、将来的には人類の性にたいする羞恥心がなくなるとか、あるいは性分化(♂♀)かなくなり、両性具有者になるとかそういう内容のものを読んだ記憶があります。あくまで記憶ですが・・・。たしかに福島さんの文章には迫力がありますね。   

Re: レス

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月25日(日)23時57分58秒
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  > No.4698[元記事へ]

高井さん
 あ、おふたりともSFMに連載されていましたか。そうでしょうね。私も書き込んでから、しばらく考え込んでいました。ちょっと検索すればよかったのですけどね(いま[草下英明 SFマガジン]で検索したらぞろぞろヒットしました)(^^;。
 ご訂正ありがとうございましたm(__)m。
 

Re: レス

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 8月25日(日)23時23分15秒
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  > No.4696[元記事へ]

>  SFMに科学解説を連載していたのは日下実男のほうですね。草下英明はSFMにはあんまり登場していなかったんじゃないかな(>自信なし)。草下英明は学習雑誌の方で私は記憶しているのかも。それとやはり「4つの目」ですね。
 お二方とも「SFマガジン」で長期の連載をされていますよ〜。
 

創刊号用作品拝受

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月25日(日)21時28分15秒
返信・引用 編集済
   家ではどうも本に集中できないので、夕方喫茶店に行ってきました。非常に無駄なことをしている気がするのですが、確実にページが進みます。
 『自殺卵』から「月光よ」『中継ステーション』は2章分、読み進みました。これらに加えて『SF宝石』にも着手していて、前二者は、もともとゆっくりじっくり読み進めるつもりなので、これでよいのですが、3つ目はさくっと読んでしまうはずだったのに、東野作品のあとに読んだ二篇が続けてがっかりで(どちらも内容よりも書法に引っかかった)、しばらく読み続けるモチベーションがなくなってしまっていたのでしたが、ようやく今日、小林泰三「シミュレーション仮説」に手をつけ、これは面白かった。さすがにプロパー作家の作品は勘所がわかっていますね。気分よくして次の作品に取り掛かったら、ラストでがっくり。コントかよ。今日はここまでにしましたが、次の作品もノンプロパー。不安だなあ。やっぱり前から順に読んでいくべきだったか。

 思いがけない方から、チャチャヤング・ショートショート・マガジン用原稿を拝受しました。なんと40年ぶりの創作! 全く予期してなかったので、本当に嬉しいです。野田さんとは雰囲気が正反対ですが、あんな感じのノンフィクションフィクション。SFコンベンションに携わった経験がある方は涙なしには読めないかも(>ほんまか)(^^;
 ご期待ください!!

 

レス

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月25日(日)14時48分6秒
返信・引用
  トマトさん
 へえ、草下英明がSFも書いていたとは、知りませんでした。あ、なんか日下実男とごっちゃになってます。
 SFMに科学解説を連載していたのは日下実男のほうですね。草下英明はSFMにはあんまり登場していなかったんじゃないかな(>自信なし)。草下英明は学習雑誌の方で私は記憶しているのかも。それとやはり「4つの目」ですね。

 ここで訂正。SFMを中二で初購入と書きましたが、これも記憶がまざってしまっていました。
 初購入は高一で、SFMを友人から借りて読み始めたのが中二なのでした。ああどんどん記憶がボロボロと崩れ去ってゆく(ーー;

段野さん
 恩師の偲ぶ会を前に、発作的にというのは、物語として筋が通っていますね。こちらに五木寛之の談話があって、いまだに怨歌といってます(リップサービスでしょう)。
 それよりも「遺体は引き取り手が決まらず未定」というのが、生き様を感じさせられます。

 

Re:藤圭子

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 8月25日(日)13時58分44秒
返信・引用 編集済
  管理人様
どうも空気読むのが遅すぎまして、度々申し訳ございません。
藤圭子の恩師、石坂まさを氏はすでに亡くなっておられたとのこと、昔、石坂まさを氏の自伝的な「きずな」を読みまして(やはり芸能本、今では入手不能とでてきました。10何年か前の本です)藤圭子のデビュー時代、まるでマネージャーのごとく、彼女とともに営業をしていたとの記述がありました。日々二人で行動をともにしていたと、記されております。
そんな藤圭子が、恩師のあとを追うような自死、なにか因縁を感じさせられた気がします。
それも、石坂まさを氏を偲ぶ会を前にしてのこと。まさに「きずな」があったのでしょうか。
「きずな」ですが、歌手前川清とのことにも言及の記述がありました。石坂まさを氏と藤圭子とのきずな、作詞家と歌手以上のものがあったのではないでしょうか。
ところで、とつぜんですが、女性向けの官能小説募集、というのはあります。「女性のための女性向きR18」というのがあるようです。枚数が私に向いていないとみて、諦めたものです(おいおい、ならば内容はできるんかい、といわれそうですが)ま、難しいものです。
 

草下英明など

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月25日(日)12時08分55秒
返信・引用
  出先からのアクセス投稿です。
私の説明不足でした。

SFM1966年4月号に
「草下英明著 暗殺者」
という短編が、久野四郎「五分前」のすぐ後に掲載されていていました。
草下英明は「四つの目」の解説者で有名でした。

SFMを私がはじめて見たのはも中学2年のころ、近くの古書店でのたち読みです。
その後、町の新本屋で新刊をみましたが、
「なにか深みがないな。」
と中学生ながらに感じました。

中学生のときの学校の
「有害図書」
にSFMも入っていました。福島編集時代の性描写のせいですかね。
 

Re: 早朝失礼します。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月25日(日)10時28分33秒
返信・引用 編集済
  > No.4690[元記事へ]

トマトさん

>自分でも気がつかないで管理人さんに対して失礼な書き込み
 え? そんなことがあったっけ、全く思い当たるところがなかったので、過去ログをみましたが、やはりなかったです。トマトさんの思い過ごしかと思います(というか、思い過ごしかと推定できるような文章も見当たらないのですが)(^^;
 もし私のレスに、そのように感じさせるようなところがあったのでしたら、ごめんなさいです。私の筆が未熟なせいです。いずれにせよ、どうかこれからも自由に書き込みしてくださいね。よろしくお願いします。

>ネットで探すのとは違った感動がありますね。なにか出合いといった....
 おおっ! と思いますよね(^^)

>裏表紙に車の広告があるのが時代をを感じます
 読者がまだ若く、若い人にとって車が憧れの最たるものだった、という当時の文化を強烈に感じます。ただ、若いと言っても、車を購入しようかというくらいですから社会人ですね。何かで読みましたが(雫石さんのショートショートだったか)、今の同年齢者は車に対して魅力を感じていないのだそうです。

>70年代に入るとペリーローダンやグインサーガといった文化が主役になり、読者層も変わってきたのではないかと感じます
 ハヤカワ文庫SFの創設で一気に変わりましたね。

>よりマニアックかつ局所的になったという感想です。
 私は、70年代に入ってSFMの読者層の年齢が、更に低下した結果だと思います(若い社会人に加えて、就学層である中高大学生が新たに参入した)。森編集長に変わってはっきりとその方向性を打ち出した結果、というか相関関係ですね。事実私が初購入したのは中学2年生高校1年生*でした。 *すみません訂正します。初めてSFMを友人に借りて読み始めたのが中二で、初めて自分で買ったのは高一のときでした。m(__)m
 そんな、若かったSF読者が、その後新規参入がなくて、平均年齢が毎年一歳ずつ上がっていくという具合に、いまや熟年老年に達し、読まないのに定期購入してSFMを支えているというのが今の状況ではないでしょうか(>おい)(^^;

>草下英明の「暗殺者」とも掲載されています
 すみません。これ、ちょっと意味を取れないのですが。久野四郎の作品なのに作者が「草下英明」と誤記されているということでしょうか? 『夢判断』には、「暗殺者」という作品は載っていませんが、単行本未収録作品なんでしょうか。
 

度々失礼します。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月25日(日)09時21分50秒
返信・引用
  画像アップロードしていませんでした。  

五分前掲載のSFM 1966年4月号

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月25日(日)09時19分31秒
返信・引用
  草下英明の「暗殺者」とも掲載されています。イラストはともに中島靖かんです。  

早朝失礼します。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月25日(日)06時37分41秒
返信・引用
  管理人さん、以前私が自分でも気がつかないで管理人さんに対して失礼な書き込みをしてしまっていたかもしれません。すみませんでした。

古書店で発見したSFMのバッグナンバーですが、ネットで探すのとは違った感動がありますね。なにか出合いといった....という感じで...。
あの時代のSFMは裏表紙に車の広告があるのが時代をを感じます。あとは銀行や腕時計の広告など。真鍋博や中村靖かん、岩渕慶造などのイラストも印象的でした。
70年代に入るとペリーローダンやグインサーガといった文化が主役になり、読者層も変わってきたのではないかと感じます。よりマニアックかつ局所的になったという感想です。
福島時代のSFMは男女間の甘い誘惑とそのあとの泥沼を描写されているものがかなりあり、福島さんがいわゆる児童文学界と壮絶に戦っているそのオーラを感じます。性描写もあの時代のものはかなり生々しいですね。
 

Re: ご無沙汰しております。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月24日(土)21時18分31秒
返信・引用 編集済
  > No.4688[元記事へ]

雫石さん
 最新回の1972年11月号 No.166を見ました。
 海外作品がすごいですね。
 凶運の都ランクマール、つぎの岩につづく、デス博士の島その他の物語、どんがらがん――それぞれ作家の代表作ではありませんか。すばらしい! まったく文句なしのラインナップですね。ですよね。ね。(^^;
>SFマガジンは昔の方が良かったですね
 同感!(^^)

 眉村卓『自殺卵』(出版芸術社)に着手しました。
 

Re: ご無沙汰しております。

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2013年 8月24日(土)18時46分23秒
返信・引用
  > No.4687[元記事へ]

私、こんなこともやってます。
http://homepage2.nifty.com/sfish/seigun/archives.htm
月に1冊づつ古いSFマガジンを読んでおります。
最新のSFマガジンも必ず読みます。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/90477ff329d339ef25ef2c6207086776
で、結論ですが、SFマガジンは昔の方が良かったですね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

Re: ご無沙汰しております。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月24日(土)09時56分54秒
返信・引用 編集済
  > No.4686[元記事へ]

トマトさん、お久しぶりです(^^)。
>ワム、グルルンガ ジタ、獏喰らえ等です
 てことは、60年代のSFMが一挙に出ていたということですね。それはラッキー。いや値段によりますが(^^;

>福島時代のSFM、迫力がありますね
 こちらでSFマガジンのリストを今みているのですが、おっしゃるとおりですね。タイトルを見るだけで興奮してきますねえ。奇跡なんて言葉、最近はインフレで暴落してしまいましたが、まじで奇跡と言いたくなるラインナップです。
 私自身は、初めて購入したSFMが71年12月号ということで、すでに森優時代なのです。福島は69年8月号で辞めたようです。
 で、リストを見ていて、面白いことに今気づきました。辞めて2か月めの69年10月臨時増刊号から70年2月号まで、5か月というか5号連続で、福島は小説をSFMに発表しているんですね。編集に傾注されていたエネルギーが、一気に創作に向かった、という感じでしょうか。それとも編集担当として掲載を遠慮していた作品を、この際と、吐き出させたのかな(笑)。


 

ご無沙汰しております。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 8月24日(土)08時04分44秒
返信・引用
  最近開店した古書店で福島正美編集時代のSFMを発見しました。
久野四郎の作品も掲載されていているものです。ワム、グルルンガ ジタ、獏喰らえ等です。また角川文庫「超自然の謎シリーズ」で有名なデニケンの「未来の記憶、太古の宇宙人」も1960年代のSFMに掲載されていているのですね。

福島時代のSFM、迫力がありますね。
 

Re: 最終30作品

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月23日(金)21時36分48秒
返信・引用 編集済
  > No.4684[元記事へ]

海野さん
>「どこまでも遙香」が角川ツイッター小説の最優秀作品候補30作品の中に入ってますよ〜
 おお、おめでとうございます。というか、海野さんの実力からすれば、上位30位以内は当然の結果でしょう(この先が正念場ですね)。このコンテストは賞金10万円なんですよね! 嬉しいな〜(>って何がだ)(^^;。
 最終結果発表、楽しみですね。期待しております!

 投稿といえば、チャチャヤング・ショートショート・マガジンの原稿、海野さんからは既に1本お預かりしており、さらにもう1本、戴けることになっているのですが、私も昨日、完成して清書しました(^^;。みじかばなし16篇。殆んど当板で公開済みの作品なのですが、かなり手を入れており、全く逆の結末になったのもあります。で、書式に流し込んでみたら、あらあら、9頁にきっちりと収まっちゃいました(厳密には2行あまった)。なので、ばらして分散するんじゃなく、このままで掲載するかもしれません(もちろん今後の状況次第です)。ということで、現時点ではやくも49頁分埋まってしまいました。前回創刊準備号のボリュームを超えるのは確実な状況です。うーむ。やはり大型ホッチキスを購入しなければなりませんね(>嬉しい悲鳴)(^^)

 後記>調整して最後の行まで使いきりました!
 

最終30作品

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 8月23日(金)18時44分21秒
返信・引用
  「どこまでも遙香」が角川ツイッター小説の最優秀作品候補30作品の中に入ってますよ〜
意外や意外。
http://www.commucom.jp/ktn/
こういう事ならもうちょっとちゃんと書いとけばよかったかな。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

藤圭子

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月22日(木)23時01分16秒
返信・引用 編集済
 
 

 「できるだけ暗く持っていこうとしてるんですがね。ちょっと目を離すと、すぐ明るくなっちゃう」

 デビュー作「新宿の女」が一番よかった。すでに「夢は夜ひらく」になると虚構が透けて、ちがうんだよなあ、と思ったですねえ。中学生でしたが(>おい)(^^;
 ご冥福を祈ります。
 

Re: 選考

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月22日(木)19時23分23秒
返信・引用 編集済
  > No.4681[元記事へ]

段野さん
>実は去年の年末締切の「マドンナメイト」(!と思われるかも知れませんが)に応募しまして
 ! (^^;
 いま調べましたところ、マドンナメイト社の「新人作品大募集」がヒットしました。これに応募されたのですよね。だとしたら締め切りというのはないのではありませんか? 要項内に「常時募集中」と記されていますね。
 つまりここのシステムは、編集部の担当者が(おそらくひとりで)投稿原稿を読み、その都度、選考しているのだと思われます。したがって2作品を同時期に郵送されたとしても、担当者が続けて読むとは限らないわけです(おそらくこの人の机は投稿原稿が山のようになっているはずです)。まずA作品を読み、「選考」し、落選通知した。その後(原稿の山の中から)B作品が掴み取られ、読まれ、「選考」された。半年のタイムラグはそういうことではないでしょうか。
 いずれにしろ残念でしたね。
 とはいえ――
 しかしまた特殊なジャンルを選ばれたのですね。特殊すぎます(^^;
 ここを読みますと、当然求められているのもかなり特殊でなようです。リサーチも必要で、ニッチを狙わないと相手にされないみたいです。最大の難関は「男の感覚」(ぼやかして書いています(^^;)がわかってなければ駄目という点ですね(この一点で「誰かさん」の方がはるかに有利でありましょう)。女性の官能小説家っているんでしょうか。ペンネームが女性名でも実際は男でしょう。
 このジャンルはなかなか難しいと思います。と言うか女性読者向けの官能小説ジャンルってのがあるんじゃないのですか? 寡聞にして私は知りませんけれど、狙うならそっちでしょう。
 SFでもミステリでも同じですが、まずジャンルに対する愛情があってはじめてスタート地点に立てるのだろうと思っています。SF夏の時代に他ジャンルから多く流入がありましたが、結局読者に受容された人は僅かでした。ジャンル読者は独特の嗅覚(例えばジャーゴンの使い方)でジャンル愛の有無を嗅ぎ分けてしまいます。
 

選考

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 8月22日(木)13時33分2秒
返信・引用 編集済
  管理人様
突然ですが、実は去年の年末締切の「マドンナメイト」(!と思われるかも知れませんが)に応募しまして、
一本目は今年に一月にあえなく撃沈、忘れていたこのつい先日、撃沈ではありましたが、お知らせをもらいました。年末から今までかかって、どんな作品と競り合っていたのでしょう。今頃のお知らせとなると、かなりな選考時間だと思われるのですが。それとも、単に忘れられていただけなのかな。文芸雑誌の新人選考も、時間がかかってますよね。それと同様に誰かさんと競り合っていたのなら、おもしろいことです。
 

「自殺卵」情報

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月21日(水)22時35分47秒
返信・引用
   『自殺卵』(出版芸術社)のサイン本が東京堂書店神保町店に入荷した模様です!

 

 1階と3階で展開ということは、サイン本、大量に入荷したのですかね。
 今回も特設コーナーを作ってくださっているのでしょうか?(^^;

 

眉村さん情報「ラジオ版学問ノススメ」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月21日(水)20時54分23秒
返信・引用 編集済
   「ラジオ版学問ノススメ」というFM局番組があるそうです。→HP
 HPの冒頭に「世の中をもっと楽しく生きていくために、あなたの人生を豊かにするために、知の冒険に出掛けよう!学校では教えてくれない、でも授業より楽しく学べるラジオ版課外授業プログラム。各分野に精通するエキスパートをゲストに迎えて、疑問・難問を楽しく、わかりやすく解説していく。」とありますが、要するにまあ、ゲストを招いてのインタビュー番組ですね。週一回、一回55分の番組で、最新回は堤未果さんがゲスト。7月には、荒俣宏さんや筒井康隆さんが出演されています。

 この番組に、眉村卓さんもゲスト出演されることが決まりました! というか収録はもう終わっているそうです。

 なのですが、この「ラジオ版学問ノススメ」、地方のFM局に配信される番組とのこと。ちょうど共同通信とか時事通信をイメージすればよいかも。とりあえずOAと配信スケジュールを掲げます。
 □FM群馬 9月1日(日)19:00〜19:55
 □FM新潟 9月2日(月)12:00〜12:55
 □FM広島 9月4日(水)4:00〜4:55
 □FM山口 9月1日(日)9:00〜9:55
 □FM徳島 9月1日(日)9:30〜10:25
 □FM大分 9月1日(日)18:30〜19:25
 □FM沖縄 9月1日(日)8:00〜8:55

 あれ、大阪がないじゃん。
 ご心配なく。実はインターネットでも配信されているのでした。

 眉村さんの回は、9月3日(火)お昼頃に、アップロードされるそうです。

 つまり、ネット環境があれば、誰でも、どこからでも、もちろん無料で、聴取できるということです。そしてネット上にアップされている限り、いつでも、聴けるわけです。ですから7月放送済の筒井さんのインタビューを、今、聴くこともできます(>聴きました。正味36分でした)(^^;
 聴取サイトへは、上記リンクから入れます。
 36分もあると、かなり深い所までインタビューできますね。筒井さんの面白かったです。なので眉村さんのも期待大。ポッドキャスト配信、楽しみです!
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月21日(水)13時23分1秒
返信・引用 編集済
   先般ご紹介しました朝日新聞の『たそがれ・あやしげ』書評が全文ネットに公開されていました→人生顧みる時、迷い込む異界
 評者はSF作家の川端裕人さん。

 「各掌編ごとにそれぞれ視点の妙があり、新たな発見をさせてくれる。また、胸に滲(し)みる」
 

『自殺卵』速報

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月21日(水)12時39分8秒
返信・引用 編集済
  眉村卓『自殺卵』(出版芸術社)がネット書店各店で在庫になりました。
アマゾン12点在庫あり→http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%AE%BA%E5%8D%B5-%E7%9C%89%E6%9D%91%E5%8D%93/dp/4882934515
リアル書店も店頭在庫アリ→紀伊國屋、ジュンク堂確認済み
 

「SF宝石」(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月20日(火)21時10分34秒
返信・引用 編集済
   これって書籍分類であることは承知しているのですが、号数のたぐいが一切表記されていない。てことは単発企画なのかな?

 前のほうはなんだかしんどそうなので、後ろから遡ることに決定。まずは東野圭吾「レンタルベビー」を読みました。これは読みやすい。すらすら読める。
 いわゆる「未来のスリック雑誌に載るような」話ですね。「未来の中間小説誌に載るような」と意訳しましょうか。こういう近未来テーマのストレートな話は、最近とんと見かけなくなりました。変にいびつかこねくりまわしたものが、最近は多い。著者は非プロパーなので、ゲットー内のトレンドからは自由なんでしょう。
 テーマは「レジャーとしての育児」。産もうかどうか悩んでいるひとが一度体験してみるという場合もあれば、「30分間の宇宙旅行」と同レベルの「体験レジャー」の場合もある。これは突き詰めたらスペキュラティブで面白そうです。但し本篇ではその辺さらっと流してあって、主人公もレンタル期間が終わったら、あっさり返却してしまう。そんなものなのかなあ。もちろんそんなものであってもいいのですが、その心理過程をもう少し腑分けしたのを読みたかった。まあ50年代の未来社会テーマは概ねそんなものだったような気もしますが。
 バラエティが必須の雑誌SFとしては、近未来社会を具体的に見せる(だけの)こんなのもあっていい、むしろ必要かも、と思いました。
 

「ナチスの犬」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月20日(火)01時46分5秒
返信・引用
   DVD「ナチスの犬」(12)を観ました。オランダ映画。
 ユダヤ人をこの世から抹殺するため、ナチはヨーロッパ各地からユダヤ人をアウシュビッツ等のガス室へと移送することを始める。オランダからの移送は先ずヴェステルボルク通過収容所へ送られ、そこから強制収容所(絶滅収容所=ガス室)へと移送させられるのです。この移送を実行していたのは誰か。ユダヤ人だったのです。ナチはユダヤ人の一部に移送を免除する代わりに、この仕事をさせた。主人公は家族を守るため、この仕事に手を染める。しかし彼は、その一方で書類を改ざんしたりする危険を犯して、子どもたちを匿ったり逃したりしていたのです。とうぜんそれは秘密裏に行われたので、ユダヤ人にすれば彼はあくまで軽蔑すべきナチの犬、ユダヤの裏切り者だった。この二律背反。
 自らを守るためにナチの協力者となったユダヤ人は多かったようです。ナチの将校クラブの娼婦たちもそういう者たちでした。彼女らは金髪のかつらを被ってナチの相手をした。思うに彼女らにとって金髪のかつらは、命綱であったと同時に、ユダヤ人としての尊厳を踏みにじるもの。彼女たちはかつらを憎みつつもそれを被ったんでしょう。ここにもアンビバレンツがあります。
 主人公におだてられ利用されたナチ将校は、本当に自分が利用されていることに気づかなかったのでしょうか。本当は気づいていて、目をつぶっていた(ときには上官に馬鹿なお人好しを装っていた)のではないでしょうか。ラストで主人公に、妻子が乗せられた移送列車の車両を教えてあげたのも、もはや自分の裁量ではどうしてあげることもできなくなった将校の、最後の好意だったのかも。ここにもアンビバレンツが。
 この映画は、簡単に善悪正邪の判断を許しません。人間には裏もあれば表もある。杓子定規な「ゲルマン風」(本映画中の言葉)では尻や足がはみ出してしまう。半か丁かの勧善懲悪でははみだしてしまう。本篇はそのへんをきっちりすくい上げていて、見応えがありました。
 

読売の書評

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月20日(火)00時32分44秒
返信・引用
   読売の『たそがれ・あやしげ』書評、大阪版も今日の掲載でした→画像
 執筆者の名前が載っていますが、『たそがれ・あやしげ』を担当してくれたのは本多正一さんです。ありがとうございました(^^)。
   ↓クリックで拡大
 

耳年齢を知る

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月19日(月)18時00分56秒
返信・引用
   最近、ステレオの左右のバランスが、つまり私の耳が聞き取るバランスが、不安定で微妙に中心からずれるときがあるんですよね。厳密には左の聞く力が不安定になっている。これって老化なんだろうなあ、と、思っていたところ、ツイッターで「自分の耳は一体何歳なのかが再生するだけでテストできるムービー」というのが紹介されていた→http://gigazine.net/news/20130819-how-old-are-your-ears/
 で、恐る恐る試してみました。50歳以下の耳年齢である12000Hzは余裕で聞き取れましたが、40歳以下の15000Hzは聞き取れなかった。つまり私の耳年齢は40歳台ということで、実年齢より10歳若いことが判明。ほっ。いやほっとしていいのか。昔聞き取れていた音が聞き取れなくなっているという事実を突きつけられたともいえるのです。
 そういえば昔聞いてしびれた曲を、いま聞いても、昔味わったあのビビッドな音ではないなあ、とずっと思っていた。「色彩豊か」だった音が、かなりくすんできているように感じられる。
 あのすばらしい音よ、もう一度……は、もうのぞめないのでしょうね。(ーー;
 

眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月19日(月)00時54分1秒
返信・引用 編集済
   本日(8月18日)の朝日新聞に、眉村卓『たそがれ・あやしげ』の書評が掲載されました。→こちら
 ただし全文を読むことが出来ません(ケチな商売をするんだなあ>朝日新聞)。
 朝日新聞を購読していて、見落としておられた方は、新聞を片付けてしまう前に、いま一度確認して下さいね。私は図書館で読むことにします。

 一方読売新聞では、明日(8月19日)の夕刊の新刊紹介欄で、同じく『たそがれ・あやしげ』が取り上げられるとのこと(ただし東京版。大阪版も同時掲載かどうかはわからないそうです)。読売購読者の方は、ぜひチェックして下さい。まあ読売は、朝日みたいなけちくさいことはしないと思いますので、後日ネットに全文アップされると思いますが(^^;

 『たそがれ・あやしげ』、なかなか好評みたいですね。
 

「ナチス・イン・センター・オブ・ジ・アース」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月18日(日)21時18分18秒
返信・引用 編集済
   DVD「ナチス・イン・センター・オブ・ジ・アース」(12)を観ました。
 実はナチスは、1945年の第3帝国壊滅に際し、その一部が南極に入り口が開いている空洞地球(いわゆるアガルタ)に逃れ、そこを拠点に第4帝国による世界征服の機を窺っていたのです。南極の地底世界をナチスが押さえていたというのはムー的分野でよく聞く話ですね。朝松健にも南極のナチスの話があったと思います。
 この地底基地の最高責任者は「死の天使」とおそれられたメンゲレ博士。彼は1992年逃亡先のブラジルで死に、その骨がDNA鑑定されて本人と確認されているのですが、それは骨が本人のものというだけの話。つまり本人の抜け殻でしかなかった。実はメンゲレは古い体をどんどん新しい他人の体や人工のそれと交換しており、オリジナルなのは首から上だけというサイボーグ状態で、南極のアガルタ基地を支配していたのでした。そういう次第で、この基地は人体実験の工房でもあった。そこで何を研究していたか。
 ナチスが南極へ逃れる際、ひそかにヒトラーの死体から首から上を回収していた。この首に人工の体を接続して、ヒトラーを復活させようとしていたのです。ところが、ヒトラーの首がどうしても再生しない。
 そういう次第で、ある南極基地の研究者グループが拉致されて来、協力させられる。それでもうまく行かなかったのですが、拉致された者の中に妊婦がいたことが判明。胎児の幹細胞の再生能力の強さに気づいた連中は……
 このへんスプラッタな描写が続きますが、基本的に主筋には不必要なんですね。こういうのを削れば90分が60分に短縮できたのではないか。まことに意味不明なことをしている映画でもあります(>おい)
 閑話休題、胎児の幹細胞が、ヒトラーの首に注射され、ついにヒトラーは覚醒する。
 画像元
 ここに第4帝国建設の時は至り、ヒトラーの乗った巨大空飛ぶ円盤は、地底世界から南極上空に飛び出したのだが……!?
 と書くと大変面白そうですが、上記は史実と想像で私がかなり補足しています(^^; 実際はスプラッタな描写がつづく上に、ナチ党員は、みな生体移植を受けた結果なのか、体組織がグズグズに崩れていてゾンビ状態。メンゲレの顔も崩れ始め、メンゲレは拉致者の男の体に乗り移る決心をする。その手術を拉致グループからナチに寝返っていた女性医師に命じるのですが、この女、当の男の恋人だった、というオソマツ(^^;
 まあ、そんな映画でした(>どんな映画だ)(^^;
 

フューラーはかく嘆きたまひき

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月18日(日)13時27分21秒
返信・引用 編集済
   (^^ゞ。


 

「アイアン・スカイ」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月18日(日)02時51分59秒
返信・引用 編集済
   DVD「アイアン・スカイ」(12)を観ました。
 実はナチスは、1945年の第3帝国壊滅に際し、その一部がロケットで脱出、月の裏側に第4帝国を建設して地球侵攻の機を窺っていたのです。それを担う巨大宇宙戦艦神々の黄昏号はほぼ完成していたが、動力回路に一箇所穴があり、それを解決できずにいた。
 ときは2018年、アメリカ大統領は再選キャンペーンの一環として50年ぶりに有人月ロケットを打ち上げる。着陸した飛行士がナチにつかまり、彼が持っていたスマホがその穴を埋めうることが判明。神々の黄昏号は駆動を開始する。しかしスマホの充電が切れてしまう。
 ナチはスマホよりも強力な通信機器を求めて円盤型宇宙船で(捕らえられた宇宙飛行士を案内役につれて)ひそかに地球にやってくる。やって来たナチ党員クラウスはアメリカ大統領の再選キャンペーン部隊に潜り込む。野心家のクラウスは、ここでアメリカの軍事力で月のナチ基地を攻撃し自分が総統になることを考えるが、クラウスを信用していなかった総統は、神々の黄昏号の完成を待たず、陣頭指揮の円盤艦隊で地球に来襲する。最初優勢だったナチ軍だったが、アメリカ軍の体制が整い、秘密兵器USSジョージ・ブッシュ号(!)が出動するや次第に劣勢となる。クラウスは総統を殺しその旗艦で月に帰還するのだが、そのときキャンペーンのオフィスにあったタブレット端末を持ち帰る。持ち帰ったタブレットが神々の黄昏号に搭載され、いよいよ神々の黄昏号が出動する。クラウスを追ってUSSジョージ・ブッシュ号が月にやってき、ナチ基地へ攻撃を開始。神々の黄昏号が浮かび上がり、ジョージ・ブッシュ号との対決が迫る……
 と書くと、なんか宇宙ミリタリー映画のようですが、その実体は基本的に火星人ゴーホ−ム系の風刺コメディ。アホなナチスと、これまたアホなアメリカが徹底的にしゃれのめされます(^^;。それもそのはず、本映画は、フィンランド、ドイツ、オーストラリアの合作映画なのでした。まあ見ているあいだは面白かったから(バカバカしくもあったけど)良しとしよう(笑)。
 追記。日本で、帝国陸海軍をここまでしゃれのめす映画を、いま、制作することができるでしょうか。たとえ製作できたとしても国民が拒否反応を示すかも。はだしのゲンでさえ受け入れないのですから。
 

お詫びと訂正とレス

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月17日(土)21時56分21秒
返信・引用 編集済
   まずお詫びと訂正。
 『職場、好きですか?』感想文の「必死の夏休み」で、
《それはさておき、ラストの、休み明けで出勤した主人公が同僚に向ける「ちらちらと馬鹿にしたような視線」こそ、上記「自己を高めたいという欲求と裏腹な内的エリート意識」の現れにほかなりません。》
 と書きました。完全に読み違えていました。原文は――
「出社した彼は、休暇のブランクを感じさせないスピードで、仕事を開始した。/女子社員たちは、もう全員出てきている。みんな、まだ仕事に身が入らず、お喋りしている。休みの間のことを、ヨーロッパがどうのこうの、ハワイがこうの、と、話し合っているのだ。そして、彼や係長やもうひとりの男子社員に、ちらちらと馬鹿にしたような視線を向けるのであった」(42p)
「ちらちらと馬鹿にしたような視線」は主人公が同僚に向けたものではなく、女子社員が主人公たち男子社員に向けたもので、全く反対でした。何でこんなミスをしたのか。理由は明らかで、私の中に「内的エリート意識」というものが予断としてあり、「ちらちらと馬鹿にしたような視線」が、それを証明する格好の記述である、ととびついてしまったわけです。お詫びして訂正します。ご指摘ありがとうございましたm(__)m ああ、これじゃあ麻生さんを哂えませんねえ・・

雫石さん
 「デンデラ」は面白かったですねえ。ただその面白さについては、観るものそれぞれがどこを観るかで違っていて当然でしょう。いろんな「デンデラ」理解や了解がありえるしあるべきです。
 小説にしろ映画にしろ、作品自体は、M27氏が言っていたように、マルチリフレクティブな存在物であって、読書や映画鑑賞は、読者や観者(の内部)が作品と接触することによって変化する過程と言えます。それを視線に例えれば(それぞれに違う)視座から発せられた視線は、作品にあたって再び視者に還ってきます。その意味で読者が読んでいるのは自分自身なんでしょう。ただそのとき微妙に入射角と反射角は変化しており、変化させたのは作品そのもの(の価値)ということになります。入射と反射の角度差が大きければ大きいほど、それは作品自体によって自分の内部が変質させられた(或いは加えられた)ものが多いということになります。加えて視者の視線には、強いのも弱いのもあるわけで、弱い視線(例えば速読)は表層ではね返ってまっすぐ戻ってきますが、強い視線(凝視)は作品内に深く入り込むことができ、と同時により作品の影響を被り、大きく屈折して戻ってくる。視座の座標の相違とは別に、視者自身の視線の強さの違いもそこには関わってきます。いずれにせよ読書や映画鑑賞は個人的体験なのであって、それぞれがそれぞれの立ち位置から象を撫でまわすしかない。群盲象を評すが実態なんでしょうね。めくら象に怖じずともいいますね(>いいません)(^^;
 

Re: 「デンデラ」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2013年 8月17日(土)16時58分5秒
返信・引用
  > No.4666[元記事へ]

 私もこの映画観ました。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/4cb8b094c910c313adb326c2ad0d1fbd
私は、2012年に観た映画の3位に上げました。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/d8af2c408e5026ec7d36c4f00f36c3cb
私は、ばあさんがアクションを繰り広げる、単純にばあさんアクション映画として楽しめました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

「デンデラ」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月17日(土)16時19分45秒
返信・引用 編集済
   DVD「デンデラ」(11)を観ました。
 面白かった。たしかに面白かったんですが、諸手を上げて認めるわけにはいきません。だいたいストーリーが破綻しています。自分たちを捨てた村へ復讐の襲撃をするはずが、途中から、襲ってくるクマとの戦いに変わってしまう。クマはCGと、剥製(?)に光を当てて効果を出すのと両方使っていると思うのですが、いかにもちゃっちい。CGのクマの動きも自在という感じではない。
 最初の、浅丘ルリ子(浅丘ルリ子とは最後までわからなかった。見終わってキャストを確認して喫驚しました)が息子に背負われて捨てられて来るシーン、ただぽいと置き去りにされる。そこはただ墓石めいた石があるだけ。浅丘ルリ子はしばらく手持ち無沙汰な感じで突っ立っていて、そのうち寒さで倒れこむ。するとカラスがついばみに来る。芸がなさすぎます。
 山の向う側にあるというデンデラも、どう考えても一日足らずの行程。冬はよいとして、春夏秋に、しかも30年間も、村人に発見されずにいられるとは到底思えません。
 最後の、浅丘ルリ子と山本陽子がクマに追いかけられ、なぜか山本陽子が囮になってルリ子を逃がそうとする。これって当初の役回りとは反対ではないのか。ルリ子もルリ子で、自分の目的を忘れたかのように全く陽子のことを気にせず突っ走って逃げていく。
 一方クマも、追っかけているのが陽子とわかると、襲いもせず方向転換してルリ子を追っかけ始める。あり得ません。さらに逃げるルリ子は逃げに逃げて、なんと村まできてしまう。クマが歩調をルリ子に合わしていない限り、これもありえない。これらは、クマが村までやってきて村人を襲い、ある意味デンデラの最終目的を代わりに行うという机上のシナリオをリアリズムに優先させた結果でしょう。
 でも、面白かったんですね。なぜかと考えて思いついたのは、この映画は本質的に「舞台」だったのではないかということ。 芝居なら背景は書き割りです。芝居ならクマはぬいぐるみか、もしくはあたかもそこにいるかのように「みなし」て演技する。本篇の、考証もへったくれもないクマとの戦い方も、それなら納得できる。
 出演者は舞台演劇のお芝居をしている。このそうそうたる女優たちはそれぞれみな、「舞台」のトップスターたちでもあります。
 本篇の書割のようなちゃちな設定は、演出家が上記のようなことを狙ったのかどうなのかはわかりませんが、役者たちは舞台の演技をした。だから本篇は、演劇として面白かった。そうことだったのではないか。
 ただ、映画の半ばで、とつぜん場面が変わって、うららかな春の山中を、ひとりで山本陽子が歩いている。この、ストーリーの流れを断ち切るように挿入されたシーン、その段階では唐突で何が何やらわかりません。しかし最後の、クマの襲撃を逃れた山本陽子がそのまま逃げてデンデラに戻らず、たったひとり春を迎えたそのシーンすなわち後日譚であることが、全篇を見終わった段階で、卒然と思い出されるようになっているわけです。この趣向はとてもよいです。先回で述べた「細かい疑問点は棚上げしたまま読み進めて(見続けて)、最後に至ってすべてが「了解」される」という私の理想が体現されているシーンでした。
 

Re: 「風の王国(9)」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月17日(土)12時41分9秒
返信・引用 編集済
  > No.4664[元記事へ]

平谷さん
>「風の王国I」は、あと10枚ほどで脱稿です
 ということは、最終のシーンでしょうか。どのように物語が閉じられるのかわくわく(^^)
 それにしても今年は月一冊のペースですね。9月も1冊出るのですよね→e-hon
 10月の最終巻、楽しみにしています!
 

Re: 「風の王国(9)」読了

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2013年 8月17日(土)00時34分26秒
返信・引用
  > No.4663[元記事へ]

あああ。ハードルが上がります(笑)
「風の王国I」は、あと10枚ほどで脱稿です。
 

「風の王国(9)」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月16日(金)21時52分44秒
返信・引用 編集済
  平谷美樹『風の王国(9)運命の足音』(角川文庫 13)読了。
 いよいよ次巻で完結となる伝奇歴史ロマンの第9巻。仕舞い込みに入っているはずですが、物語は更に広がっていっているようにしか見えません。北ではようやく須哩奴夷靺鞨と黒水靺鞨の連合が成り、東の定安国、南の南渤海とあわせて「盟約なき」高氏渤海包囲網が完成したばかりではありませんか。しかもこの世のすべての皇帝と国家を屠り去らんと政治の思惑を超越した暴走を繰り返す耶律突欲とその猖獗軍もまた、高氏渤海に照準を合わせました。いよいよ大明秀が両親の仇・高元譲と対決するときが指呼の間に迫ってきたらしい。しかし耶律突欲がそれを妨げようと動くことも火を見るよりも明らか。契丹では残忍な耶律堯骨皇帝に死相が現れ、二人の後継候補耶律李胡と耶律兀欲は、互いに違う志向から候補から外れようと考えています。これらの状況を、あと一巻でまとめきれるのでしょうか!(笑)
 本篇は、著者の国家論、帝王論でもある。突欲と兀欲の意見の対立が面白い。これにさらに須哩奴夷靺鞨の国家(?)観がある。兀欲の帝王論はたしかに突欲の言うとおり理想論すぎる。しかし突欲の方法論で国家や統治者なき世界が実現できるはずがない(前の戦争の空襲みたいなもので焼け跡を作るだけ。アナーキーな自由空間は数年だけで、地まわりが生まれ国家的なものが育ってゆく)。その間に須哩奴夷靺鞨があるのですが、これとて広大な原野と少人数の部族という条件があってこそ成立している。もちろん答えはないのであって、仮構世界にいろんな考えや思想が併置されればよいのです。これはある意味、第一次戦後派の「全体小説」に近い方法論ではないでしょうか。
 最終巻が待たれます!
 

「西部戦線異状なし」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月16日(金)00時18分57秒
返信・引用
   DVD「西部戦線異状なし」(30)を観ました。
 うむ。これこそ映画ですね。100分のカット版もでているようですが、私が見たのは131分の完全オリジナル版。その131分間、ただの一度もナレーションは入りません。つまらない見得や、お涙頂戴の演出もない。だからといって感動がないわけではない。大いに感動しました。「探偵はBARにいる」との決定的な違いは、画面と作品世界の「距離感」。「探偵はBARにいる」は画面のすぐ「近く」で演技している。これではスクリーンに映し出す意味がない。テレビの画面で十分です。2時間ドラマに感じられた所以でしょう。一方、本篇は画面の、ずっとずっと「彼方」でドラマが演じられる。クローズアップのシーンはごく少ない。その辺りが映画的に重厚に仕上がっていて、ちゃちなセンチメンタリズムではない、もっと大きな感動を観るものに伝えるのですね。
 そういえばこの「距離」の彼我の差は、小説にも認められて、日本のエンタメ小説で私ががっかりさせられるのもそういうところ。極端な話、ワンシーンしか出ない通りすがりの「内的独白」まで、ナレーションで説明されたりする(いわんや主要人物をや)。そういうのに慣れた目で本篇を見たら、きっと説明不足と感じるのではないか。細かい疑問点は棚上げしたまま読み進めて(見続けて)、最後に至ってすべてが「了解」される、というのが、私の考える理想的な読書であり映画鑑賞なのです。
 本篇は、まさに私の理想を体現した映画で、堪能しました。
 

「探偵はBARにいる」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月15日(木)00時20分10秒
返信・引用 編集済
   DVD「探偵はBARにいる」(11)を観ました。大泉洋主演。
 うーん。悪くはない。しかしあんまりよくもなかった。大泉洋は好きな俳優なんですが(石立鉄男のポジションですよね)。どこが不満かといえば、映画ではなく2時間ドラマだったことですかね。主人公の内的独白(ナレーション?)が多すぎる。ハードボイルド映画なのに探偵が饒舌すぎるということです(原作は未読なので、それが原作に由来するのかどうかはわかりません)。もっとバラードを見習うべきです(>おい)。それと、無駄な感情が多すぎて遅滞している点。たとえば、探偵が小樽から札幌へ戻ってくる場面で、窓をガンガン叩き、もっとスピードを出せと叫ぶシーン。まあフィリップ・マーロウに限らず英米の探偵なら、こんな無駄な動きはしません。日本映画の感傷過多はどうにかならないものか。そのような部分を省けば120分が100分くらいになって、引き締まったのではないでしょうか。

 『風の王国9』が届いたので、これから着手。
 

「推理作家ポー 最後の5日間」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月14日(水)00時10分41秒
返信・引用 編集済
   DVD「推理作家ポー 最後の5日間」(12)を観ました。
 ポーの最期(1849年10月7日)は謎に満ちていて、ウィキペディアで確認しますと、9月27日にリッチモンドから水路ニューヨークに戻る途中、なぜかボルチモアで船を降りる(9/29)。そして10/3泥酔状態で発見されるも、4日間の危篤状態の後、10/7に亡くなる。発見された時の状態も異常なのですが、9/27から10/3までの5日間、どこで何をどうしていたのかも、不明みたいですね。
 本映画は、この謎の5日間を描いたものです。
 まず「モルグ街の殺人」の手口を真似た殺人事件が発生。ちょうどボルチモアに居合わせたポーに嫌疑がかかる。もちろんすぐその疑いは晴れるのですが、つづいてやはりポーの推理小説を模した殺人事件が連続し、ポーへの挑戦状が送られて来るに及び、捜査に協力することになる。ポーの婚約者(これは架空)が「赤き死の仮面」どおりの舞台設定下に誘拐され、犯人から、この事件を小説化し新聞に連載すること、その間は婚約者の生存は保証されるという挑戦状が来、当時既に才能が枯渇してアル中だったポーは、必死に小説を執筆するのでしたが……

 これは面白い。ポーが死に臨んで発したとされる意味不明な言葉もダイイングメッセージとして使われていたりして、虚実取り混ぜた面白さ。殺人場面もなかなか残酷で(まあ、ポーの小説が下敷きですから当然か)、最後まで目を吸い寄せられていました。この映画では、ポーは変態作家みたいな世評だったように描かれていますが、実際そうだったんでしょうか(笑)
 

「職場、好きですか?」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月13日(火)15時44分18秒
返信・引用 編集済
  > No.4647[元記事へ]

眉村卓『職場、好きですか?』(双葉文庫 13)、読了。
 桜井節『そよぐかぜつむじ風――八ヶ岳南麓風景抄――』感想で、眉村さんはこのような生活にはきっと耐えられないだろうな、と書きました。
 眉村さんの小説を読み続けていると、自然とおのずから、著者自身はこういう人なんじゃないかな、というすがたが、なんとなく浮かんでくるのです。でもそれって、きっと私だけの感覚ではないと思います。というのは眉村作品の特徴として、基底に著者自身の体験がしっかり根づいている、そういう作風ですから、すべての作品を通して或る一定の一貫性がある。それは著者について何の予備知識のない読者にもはっきりわかるものなのですね。
 近年の<私ファンタジー>は、その基層がかなり表面近くにあって一部は露床している、そんな部分を掘り返したものといえます。しかしそれ以前の作品も、基本的に全て、表面からの距離に深浅はあっても、基層には著者がひそんでいるのは同じなのです。

「F商事」の主人公がF社の入社試験に合格したのは、主人公が挫折を経験せずにきたエリートではなかったからです。
「ペーパーテストをくぐり抜け、なんでも思いどおりになっておとなになった人間は、障害にぶつかると、とたんに自信を喪失して、人格まで変わってしまう。最近、そんな人が多いからね。だからうちは、挫折して立ち直った者だけでやっていく」
 この言葉、まるで東電社員に当てつけたみたいですが、本書の初刊は1982年なのです(^^;

 一方、「立派な先輩」の主人公が尊敬してやまない、頑張り屋の先輩が、とつぜん会社をやすむ。心配した主人公が様子うかがいに訪れると、
「わたし、いいOLになろうと思って、会社のことばかりやってきたわ」「一日会社で働いて帰ってくると、あと、何もする元気がなくなるのよ」
 それを何とかやり過ごすために、先輩はある薬を常用していたのですが、ここでの肝は、会社からの、もっと広く他者からの期待に応えようとすることに疲れ果ててしまう一つの類型です。それは誠実ということでもあるのだが、意地悪く言えば、自己を高めたいという欲求と裏腹な内的エリート意識(負けてはいけない)でもある。著者は自分の中にある、そのような傾向の負の部面もしっかり見据えているのだと思います。

「必死の夏休み」の主人公が夏休みをとる。
「正直なところをいえば、彼は、自分が夏休みをとれなければ、それはそれでやむを得ないと考えていた。休んだら、それだけ仕事が遅れるからである。もしも停滞恐怖症というものがあるとしたら、彼はその典型なのかもしれなかった。/何もせずに時間を費やすことほど、彼にとって、こわいことはないのだ。少しでも時間のゆとりがあれば、何かをせずにいられない。」
 さて、この主人公の三日間の夏休みは……(^^;
 この主人公が、まんま著者ではないにせよ、このような傾向が著者にあるからこそ生まれた作品であるのは間違いありません。そんな著者が、八ヶ岳南麓で花鳥風月を友に、「惑星総長」よろしく(笑)、悠々自適の生活を送られるはずがありませんよね*(>おい)m(__)m
 それはさておき、ラストの、休み明けで出勤した主人公が同僚に向ける「ちらちらと馬鹿にしたような視線」こそ、上記「自己を高めたいという欲求と裏腹な内的エリート意識」の現れにほかなりません。

「無人の住居」はアイデアストーリーとして秀逸。小松左京「葎生の宿」とともに、アンソロジー「家」にはぜひ収録したい!

「内海さん」もまた、仕事取りつかれ人間。しかしこの内海さんの場合は、上記「停滞恐怖症」とは、ちと違うみたいですねえ。むしろ銀行員とか教員のパロディか。

「仕返し」は、転職可能だったからこそ出来た仕返し。しがみつくしかない者には想像するだけしか出来ませんね。

「青木くん」は、才能も、それを使い切る名伯楽がいなければ、ただの変人という話。

 ふう。疲れたので以下略。そういえばこういう形のショートショートって、著者以外には書いていませんね。星新一流のショートショートとは、端から形式が違うものです。星SSが唯一の形式ではないことを、もっと理論化一般化しなければいけないかも。と言ってもそれは私の任ではないので要望するばかりですが。
 全26篇の”オフィスショートショート集”で、スラスラと読めて、頷いたり、考えこんだり、と、楽しめました。面白かった(^^)。

*「都会っ子の私などは、そうした小さな世界でのしがらみや、自然が残っているための不便さなどには耐えられないという気がするけれども」「上田くん」

【8/17お詫びと訂正】「必死の夏休み」で、
《それはさておき、ラストの、休み明けで出勤した主人公が同僚に向ける「ちらちらと馬鹿にしたような視線」こそ、上記「自己を高めたいという欲求と裏腹な内的エリート意識」の現れにほかなりません。》
 と書きました。完全に読み違えていました。原文は――
「出社した彼は、休暇のブランクを感じさせないスピードで、仕事を開始した。/女子社員たちは、もう全員出てきている。みんな、まだ仕事に身が入らず、お喋りしている。休みの間のことを、ヨーロッパがどうのこうの、ハワイがこうの、と、話し合っているのだ。そして、彼や係長やもうひとりの男子社員に、ちらちらと馬鹿にしたような視線を向けるのであった」(42p)
「ちらちらと馬鹿にしたような視線」は主人公が同僚に向けたものではなく、女子社員が主人公たち男子社員に向けたもので、全く反対でした。何でこんなミスをしたのか。いや理由は明らかで、私の中に「内的エリート意識」というものが予断としてあり、「ちらちらと馬鹿にしたような視線」が、それを証明する格好の記述である、ととびついてしまったわけです。お詫びして訂正します。ああ、これじゃあ麻生さんを哂えませんねえ・・

 

RT

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月13日(火)12時55分15秒
返信・引用 編集済
  .  

Re: Re:アンソロジー「雪」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月12日(月)19時14分30秒
返信・引用 編集済
  > No.4656[元記事へ]

段野さん
 出来上がっているのでしたら、早急に送って下さい。書式に流し込んだ形にしたとき、どのように見えているか、とか、いろいろ確認したいので。
 創刊準備号ではキャパギリギリだったので、キチキチに詰め込んでしまいましたが、創刊号では、各作品、頁のアタマからになるようにしたいのです。要は空白の処理なんですね。

 ハヤカワSFシリーズは、大好きな叢書なんですが、しかしこの叢書、見た目を全然考慮していないところが残念なんですよね。
 こんなふうに↓
 

 もちろん、こんな恥ずかしいことには絶対ならないように調整するのですが、それでも空白は必ず生じてしまいます。創刊準備号では、そこを詰め詰めで作ったんですが、今回はちょっと工夫したいなあ、と思っているのであります。
 でも結局無理だったら、詰め詰めで行くかもしれません(^^;。
 元々詩というのは(声で)読まれていたもんでしょ 耳から入ってそこから広がるもんだ
 

Re:アンソロジー「雪」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 8月12日(月)13時04分40秒
返信・引用
  管理人様
実は、作品は出来上がっておりまして、いつでも送れる状態だったのですが、何と気が付けばもう8月も半ば、!これは早速にお送りしてもよろしいでしょうか。
字数計算しておりません。字数のお話が書き込まれた時には既にパソコンのなかにおりました。
とにかく、暑い中、編集作業もたいへんだと思われます。お疲れ様です。よろしくお願いいたします。
 

Re: アンソロジー「雪」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月11日(日)21時14分2秒
返信・引用 編集済
  > No.4654[元記事へ]

深田さん
 「雪」、拝読しました。ああ、この作品も深田さんらしい民俗学的雰囲気がよいですねえ(^^)。しかし「岬」は準Aだったのですか。ちょっと驚きました。これは堂々たるAでしょう。眉村さん、評価キビシイですね(^^;

 下は岩井宏。かんけり、じんとり、ビー玉、コマ♪
 いま読んでいる『職場、好きですか?』に「カン蹴り」が出てきました。実は昨日読んだチャチャヤングショートショートマガジン用到着作品にも「かんけり」が出てきまして、不思議な暗合を感じたので(^^;
 

 それにしてもこの歌もそうですが、岩井宏って、凡庸ですよねえ。でもいま聞くと、この凡庸さが長所だったんですね。チャチャヤンでも、最初の頃は加川良もまだレコードを出してなかった筈ですし、フォーク歌手だという認識も私にはなかったと思うのですが(つまり無名として同等)、それでも加川良がメインで、岩井宏は添え物という風に認識していました。でもこの凡庸さが接着剤になって、加川良、高田渡という、さわったら切れるような才気走る両人がくっついていられた。岩井が引退したらすぐ喧嘩別れしてしまったんですよね。偉大なる大凡人というべきではないでしょうか。

 ところで話は戻って、上記チャチャヤン原稿に、「かんけり」と並んで「なかあて」というのが出てくるんですが、これ、私は覚えてないですねえ。どんな遊びだったのでしょう?

 

Re: アンソロジー「雪」

 投稿者:深田 亨  投稿日:2013年 8月11日(日)17時13分37秒
返信・引用
  リンクのアドレスが間違っていたようで

正しくは ここ かな?
 

Re: アンソロジー「雪」

 投稿者:深田 亨  投稿日:2013年 8月11日(日)17時00分35秒
返信・引用
  管理人さん。

ずいぶん懐かしい作品を引用いただきましてありがとうございます。

「雪」のアンソロジー、いいですねえ。

古い作品ですが、そのものずばり「雪」と題したのがあります。
ここ

もろ三好達治の「雪」に影響されています。
好きな作品なのですが、方言がめちゃくちゃなのがずっと気になっています。
東北ご出身のかた(あの方です)に方言指導をしてもらおうかしら、とふと今思ったりしています。
 

「職場、好きですか?」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月11日(日)16時20分15秒
返信・引用 編集済
  > No.4651[元記事へ]

高井さん
 力作とは、私が読ませてもらって、とても面白かった、楽しかった、という意味です。したがって「脱力の力作」というのもありえるのです!
 それに緊張と緩和も必要ですからね。どのように色んな意味の力作を一冊のページの中にならべるか、そこに編集者の存在の意義があり、また、私のみじかばなしが掲載される余地もあるのです(>そうきたか)(^^ゞ

>字数計算はしておりません
 ありがとうございます!(>おい)

 眉村卓『職場、好きですか?』(双葉文庫)に着手。ちょうど半分。
「ケイブンシャ文庫から刊行された作品に訂正を加えたものです」との但し書きあり。
 双葉文庫既刊2冊にはそういう記載はないので、かなり触っているのかも。確認はしていません。
 

Re: アンソロジー「雪」

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年 8月11日(日)00時16分0秒
返信・引用
  > No.4650[元記事へ]

>  締め切りは今月末です。いよいよせまってきました。みなさんの力作をお待ちしてます!
 私は何ヶ月も前に書き終え、ハードディスクのなかに眠らせてあります。
 でも、力作ではないですねえ。ふっと思いついて、ふっと書いただけの……。
 力を抜いて書くのがいいのですよ。とはいえ、抜きすぎかも(笑)。

 そんなわけですから、字数計算はしておりません。
 

Re: アンソロジー「雪」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月10日(土)23時40分52秒
返信・引用
  > No.4649[元記事へ]

海野さん
 今日は暑かったですねえ。一日死んでました。

>くそ暑い毎日にへばりそうです。
 今夏は特に需要が多くて大変なんでしょうね。私の知合いは、年取ってからは危機感を覚えるのか、このごろ夏前になると急に体力トレーニングを始めますね(笑)

>そんなときに雪の物語を考えると言うのもなかなかおつな物ですね。
 雪の物語を考えて、頭の中だけでもひんやりして下さい。雪物語、楽しみにお待ちしてます(>おい)m(__)m

返歌
 太郎はワラの家を建て、次郎は木の家を建て、何ごとにも慎重な三郎はレンガの家を建てました。
 大地震が来た。
 太郎は無事で、次郎は怪我をし、三郎は崩れたレンガの下敷きになって死んじゃったとさ。

 すみません。暑さでアタマがぼうっとしてます。

 閑話休題。チャチャヤングショートショートマガジンの原稿、今日新たに二人の方から届きました!
 拝読しましたが、どちらも力作。編集担当として嬉しい限りです。今回もよい雑誌になりそうですよ。
 それはいいのですが、私のお願いが効いたのか、今回のお二人もきっちり計算して作ってくれていて、書式に流しこんでみると、きれいにページの最後の行で終わるようになっていました。おかげで私は穴埋めにみじかばなしを掲載しないで済みそう。まあいいですけど(>いいのか)(^^ゞ
 締め切りは今月末です。いよいよせまってきました。みなさんの力作をお待ちしてます!
 

Re: アンソロジー「雪」

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年 8月10日(土)17時47分6秒
返信・引用
  おお〜
いいですね『アンソロジー「雪」』
くそ暑い毎日にへばりそうです。
そんなときに雪の物語を考えると言うのもなかなかおつな物ですね。

前にツイッターでこんなのを書いたことがあります。

 太郎の屋根に雪降り積り

  二郎の屋根には雨降り続き

   三郎には家がない    #31文字の小説

http://marinegumi.exblog.jp/

 

アンソロジー「雪」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月10日(土)01時10分32秒
返信・引用 編集済
   『そよぐかぜつむじ風』で一等よかったのが「雪景色・雪模様」でした。このエッセイ、冒頭に――

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。


 という、三好達治の「雪」が引用されています。夜降り積もる雪の、すべての音を吸収し、しんと世界が静まりかえるありさまを、わずか二行に表現して読者に鮮烈な印象を喚起します。
 これを読んで、即座に想起させられたのはS・A(現・深田亨)の名ショートショート「岬」でした。「岬」の主人公は10年前、岬の村にやってきて住み付き、いまでは完全に村人同然に溶け込んでいる。これって丁度『そよぐかぜつむじ風』の著者と同じ状況なんですよね。さて冬が訪れ、そろそろ雪も降り出そうかという或る日暮れどき、長老が、そろそろ鳥の羽ばたきが聞こえる頃だなあ、と、さも当然のように主人公につぶやく。そうこうするうちに「ほれ、鳥が羽ばたいておる。雪が降ってくるぞ」。でも主人公には鳥の羽ばたきなど、何も聞こえないのです。ただ窓の外には、今年最初の雪が、ちらほら舞い降りてきているのでした……
 三好達治の雪は無音どころか音を吸収してしまう。S・Aの雪は羽ばたきのかすかな音とともに地上に舞い落ちてくる。どちらも鮮烈なイメージを、読者にもたらします。
 オリジナルアンソロジーを編みたくなりました。テーマは「雪」。もしくは「冬」。
 まず冒頭に「岬」、次に「雪景色・雪模様」を並べます。あとは未定(>おい)。みなさん、「雪」もしくは「冬」のテーマで、作品をお寄せ下さいませんか。きっとよいアンソロジーになると思います。
  
 

「そよぐかぜつむじ風」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月 9日(金)01時09分54秒
返信・引用 編集済
  桜井節『そよぐかぜつむじ風――八ヶ岳南麓風景抄――』(編集工房ノア 01)読了。

 著者は詩人、5冊の詩集を上梓されています。眉村さんの中学の後輩にあたる方で《捩子》の主宰者でもあります。『《捩子》の時代――眉村卓詩集――』製作にあたって、《捩子》全巻を貸していただきました。そのご縁で、本書をご恵贈下さったのでした。
 さて、本書によりますと、著者は50歳を過ぎた1987年、生まれ育った大阪から八ヶ岳南麓「清里の森」に移り住まれました。同地に芸術文化「心耕」の拠点としてのサロン、アートファーム「自在舎」を開設し、こんにちに至っています。
 そんな著者が、移住してから13年ほどして、丁度「当地での人びとの生活ぶりもようやく見えてきた」2000年6月から翌年4月までのほぼ一年にわたって、「毎日新聞・山梨版」に連載されたのが、本書の原型です。
 八ヶ岳南麓の四季折々の自然や人の情景、さらには八ヶ岳周辺を舞台にした文学風景が(昨日当掲示板で話題になった「風立ちぬ」もこの地が舞台)、著者自身も所属する、したがって著者自身のも含む、「四季」派の詩人たちの詩篇とともに「風景譚」として綴られていきます。
 著者の住まう八ヶ岳南麓の高原からは、西は釜無川の対岸に南アルプスの山容を望見でき、南は笛吹川の盆地のかなたに富士の稜線が、そして上空には日本で二番目に星の数が多い夜空があります。すばらしい景勝地なんですね(北は当然八ヶ岳)。その風景に囲まれて著者は「一日として退屈したことはない。一度退屈してみたいと思うほどである」と書いています。
 面白いな、と思いました。というのはそのとき眉村さんがよぎったからで、眉村さんなら、このような自然に囲まれ、自然と対話するような生活にはおそらく堪えられないだろうな、と、いや、そんなんこっちから御免被りますと、屹度言うだろうな、と想像したからです。根っからの都市人で、新奇な情報を求めてやまなかった(言い方を変えれば「遅れる」ことを肯んじなかった)眉村さんと、自然に囲まれて退屈しない著者が、年次は少し違うにしろ同じ地域の同じ中学だったというのがたいへん面白く思われたのでした。
 それはさておき、本書は単なる田園風物誌ではありません。地の人間にはアプリオリに当然過ぎて見えていない問題が、「来たりもん」の目には見える場合がある。地の人びとの伝統的な思考態度が、自然破壊に加担してしまっている場合があるのを著者は憂えます。観光化の功罪。その一方で、八ヶ岳南麓が、新しい文化創造の拠点となりつつあることも報告される(新南麓文化)。それはある意味「新しい軽井沢」の誕生なのかもしれない。しかし軽井沢の文化的イメージが戦前の特権階級や資産家にその一端を担われたものであるのに対し、新南麓文化は「来たりもん」の芸術家や趣味人、学識経験者が中心になっているとのことで、その点に著者は希望を持っているようです。
 かくのごとく本書は南麓賛美の風物詩でありますがそればかりではなく、外なる視点からの現状分析であり、未来へ向けてのビジョン提案の書でもあります。大変面白かった。
 私は、甲信地方は主に中央本線−篠ノ井線のラインの西側しか知らず、八ヶ岳・南アルプス方面はまだ行ったことがありません(富士市側から車でぐるりと富士急ハイランドまで行ったことはある)。旅行してみたくなりました。沼津に友人がいるので、誘ってみようか知らん。身延線利用になるのかな(身延線もまだ乗ったことがない)。
 

Re: 「風立ちぬ」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月 7日(水)21時24分36秒
返信・引用 編集済
  > No.4645[元記事へ]

段野さん
 ロードショー的な映画は全く不案内なのですが、堀辰雄の映画化ですか? だとしたら、松田聖子以来30数年ぶりなのでしょうね。
 「ひこうき雲」については、既に事実ではないことが(何十年も前に)明らかになっている「当時の」誤情報を、いかにもスクープニュースのように「女性セブン」が報道したのなら、まさしく「やらせ」同然の所業ですね。厳密には「やらせ」は映画の宣伝のために映画製作者が企むもので、宮崎駿がそんなことをするとは思われません。むしろ女性セブンが自誌の部数アップのために宮崎映画に便乗したものでしょう。いずれにせよジャーナリズムの風上にもおけません。先般の甲斐智陽の悪徳演劇商法に加担した光文社にひきつづいて、「女性セブン」の小学館よ、おまえもか、といいたいところですが、はたと気づけば、いったい風上に何社残っているのか、と心配になって来ました。(追記参照)

 そんななかにあって、眉村卓作品をこつこつと出し続けている出版芸術社は、間違いなくその数少ない風上出版社のひとつでありましょう。出版芸術社に栄光あれ!
 ということで、出版芸術社サイト(の『自殺卵』のページ)に、今月上〜中旬刊行予定の眉村卓最新作品集『自殺卵』の書影がアップされました! 今回も表紙は、北見隆さんです。↓
        

 さて困りました。本掲示板アタマには、同じく風上出版社である双葉社から、明日8月8日発売予定の『職場、好きですか?』の書影を掲げたばかり(双葉社に栄光あれ!)。どういう風に処理するか、書影を二つ並べるか、ちょっと考えてみます。

8/8追記。読売のサイトでインタビュー記事を見つけました。→こちら
 これって著書で明かされた事実とは異なっているんですよね。としますと、以前の自分の発言を、あたかもなかったことのように頬被りして、「物語」に寄り添ってしまっていることになります。なんとなんと。盗ッ人猛々しいとはこのことです。自分に対して報じられた一種の伝説を自ら取り込んでしまうことを盗ッ人と言えるのかどうか、よくわかりませんが。
 

「風立ちぬ」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 8月 7日(水)17時52分33秒
返信・引用
  管理人様
突然ですが、ここでは宮崎駿のアニメは話題にならないようですが、今回の「風立ちぬ」(このタイトルを見ると、どうしても松田聖子の曲を思い出してしまう、年代ですかね)の主題歌にユーミンの「ひこうき雲」が使われているそうで、女性週刊誌「女性セブン」でスクープのように「ひこうき雲」秘話が扱われておりますが、「ひこうき雲」発表当時のファンは誰でも知っていたことなので、これは映画に合わせたやらせ、かと思ったのであります。難病の同級生が亡くなった、それで曲にした、と、当時のファンは信じ込んでいたのですが、何と、ユーミン自著の「ルージュの伝言」によると、当時16歳のユーミンの自殺願望から来た楽曲だそうな。「風立ちぬ」の映画では、難病の子が主人公とのこと、うまいこと合わせた曲取りであったかと、感心する次第であります。(しかし、映画を見に行こうという気は起らない。静かにユーミンの「ひこうき雲」を聞くほうが落ち着ける、かと)
 

焼肉清原

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月 6日(火)22時38分58秒
返信・引用 編集済
   えーっと、私が読んで脳を馴化させるべきは、『中継ステーション』じゃなくて、『漂着物体X』なのではないか、という気が、だんだんして来ました。これはすっぱり切り替えたほうがいいのか、どうなのか、迷い中(笑)

 それはさておき、先日の中継で桑田さんも心配といってはりましたね→阪神・藤浪にクロスステップ論争
 体への負担のことはわかりませんが、背中越しに来るボールの恐怖は、私も経験があります。
 前にも書きましたが、小学校の一年上級に山中くんという投手がいて、これがサウスポーのスリークォーター。左のピッチャーって珍しいですから、私も山中くんが初体験だったわけです。私も左利きなので、本当にボールが背中に当たるように飛んでくるのです。それが途中から(体感的に)グンと曲がってベース板の上の方にくるのですが、わっと腰が引けるので打てるはずがない。しかも当時私は南海の国定選手の、あの極端なクローズドスタンスの真似をしていまして(子供の頃から真似しだったわけですな)、よけいに背中からボールがやって来るように見えていたんでしょう。
 左打ちには左投げのボールはたいへん打ちにくいということを、早くも私は小学校で体で覚えたわけです。
 で、あるとき、どういう状況だったのか忘れましたが、クラス対抗だったのか、相手チームに隣の組の担任が加わっていて、そのとき私がピッチャーだったんです。担任は左利きで、しかも大人げないやつで、小学生相手に本気で打ちに来る。私は左対左の投手有利を知っていた。で、こいつ打ちとってやろうと、(マウンドプレートなんてありませんから)かなり一塁側に寄って投げたのでした。で、これは無意識ですが、一球投げるたびにさらに左へ寄って行っていたんですな。そうしましたら担任が、マジ切れして、バットを投げ捨てて(近寄っては来ませんでしたが)もっと真ん中で投げろと注文してきた。やっぱり左に寄られると打ちづらかったんでしょうね。
 藤波投手は右ですが、インステップする上に、身長がありますから、ボールに上下の角度もある。右打者としたら背中から来ると同時に、上から落ちてくるんですから、これは打ちにくいと思います。フォームを変えろといわれても、なかなかそんな気にはならないのが人情でしょうね。でも桑田さんは、それでもすこしずつでも変えていくべきだといっておられましたね。よい指導者になれる方だなと思いました。ここ10年くらいの阪神は、若手ピッチャーをチーム事情優先の酷使で壊し続けていますから(つい最近では西村。榎田も危ない)、桑田さんにコーチに入ってもらったらどうでしょうか。

 あ、桑田さんで思い出した。26号線沿いの焼肉小倉優子の前を通ったら、看板が清原和博に変わっていたのでした。今思い出した。で早速検索したら、「番長!清原和博の焼肉男道」。会社名が変わったのかな、と思って調べましたが、なんかややこしそうで、よくわかりませんね。(焼肉小倉優子のHPはなくなっているようです)
 グーグルマップはまだ小倉優子のままですね。
 (クリックで拡大)
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 8月 6日(火)16時52分35秒
返信・引用
  了解いたしました。ではこれにつき、ということで。  

「中継ステーション」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月 6日(火)00時52分57秒
返信・引用
   こう暑くては本なんぞ読んで居られんと読んでないのは、屹度私だけではありますまい。いちおう『中継ステーション』を手に取りはしたのですが。
 というわけでパソコンの前にすわって、ダレダレでyoutubeを聴いていたら、ふと「あ、そうだ」と思いつき、聴きながら拵えてみました。
 
 以前もやりかけたことがあって、しかし当時は掲示板と相性が悪かったのか、埋め込みコードがうまく反映されなかった。連続再生できなかったのです。今日こころみたらうまくいきました。
 ただし2曲め以降、私の環境では動画の上にタイトルリストがかぶさってしまいます。そちらではどう見えているでしょうか? もしかぶさっていて鬱陶しかったら、右下の「You Tube」をクリックすれば、通常の画面になります。
 ところで何故に『中継ステーション』なのか?
 チャチャヤングショートショートマガジン用のアイデアを思いついたのであります。で、プロットの参考にしようと引っ張り出してきたのでした。栗本薫も小説を書き始めるとき、同じジャンルの小説を読みまくって脳をそのジャンルに馴化させたと読んだことがあります。まあ同じかも。でもこういう書き方からは、平均的な(或いは平凡な)ジャンル小説は書けても、ジャンルを超越していく傑作は、たぶん生まれませんね。いいのです。傑作を書こうなんてそもそも考えていない。使い古されたプロットをなぞって、既視感のある話が書きたいのです。それこそ同人誌小説の醍醐味ではありませんか。なんて書く前から言い訳をしているのでした(^^;
 

Re: Re:マスゴミの王様

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月 5日(月)19時23分27秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 ああでも、麻生批判のはずが、流れでソッチのほうに行きすぎてしまいましたね。読み返して、セクト間抗争的に「物語り読み」(?)する人がいるかも、と、ふと思いました。これはもちろん気兼ねなく言い合える関係であることの証左なのですが、親しき仲にも礼儀ありで少し反省。麻生批判は今後も(当然また失言するに決まってますから)やるかもしれませんが、ソッチは打ち止めということで(^^;

 作家の西崎憲さんのツイート↓
 
 このご意見が最も正鵠を射ていますね。

 おまけ↓
  クリックでツイート本文→琉球新報記事リンク
 

Re:マスゴミの王様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 8月 5日(月)13時05分3秒
返信・引用
  管理人様
困惑しきっておりますです。全く困惑の一言であります。
 

マスゴミの王様

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月 4日(日)21時36分39秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 そのお方が大変信頼されているスーパーニュースアンカーですが、先般、BPO放送倫理・番組向上機構の放送倫理検証委員会が、去年11月30日の当番組で行われた「インタビュー映像偽装」について、「放送倫理に違反すると判断した」との意見を公表しましたね。→こちら
 かのお方は常々「マスゴミ」を非難されていますが、それだったらスーパーニュースアンカーこそ、マスゴミのなかのマスゴミ、マスゴミの王様と言ってちっとも過言ではないと思います。だいたい上記リンクによりますと、今年の三月には偽装が明らかになっていた。かのお方がそれを知らないはずがありません(放送内で釈明やお詫びが行われたはずだからです)。しかも関西テレビは、2007年『発掘!あるある大事典II』のねつ造問題という前科もあるわけで、またか、なんですよね。なぜそんなどうしようもないマスゴミテレビ局のマスゴミ番組を、その後今日に至るまで、変わらず信用しておれたのか、このダブルスタンダードが私には不思議で仕方がありません。かのお方の頭の中は一体どうなっているのでしょうか。ご存知でしたらご教示下さい(>嘘です。ご返事には及びませんのでご安心を)m(__)m。
 それにしても昔からあんな風でしたっけ。私の記憶しているイメージとは全く異なっていて、本当に同一人物なのかと、困惑しています。
 追記。しかし考えてみたら、かのお方とは20年以上会っていないのでした。20年という時間は思想信条が変化するに十分な時間なのかも。そういえば私も、高校のとき「俺は新右翼だ」と言って中核に哂われたことを、今思い出しました。まあその頃には既にピーアイマンだったわけですが(^^ゞ
 
 

Re:「我関わる、ゆえに我あり」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 8月 4日(日)17時41分20秒
返信・引用
  管理人様
ニュースアンカー青山氏の発言、……おられる方がおりまして、私としては、困っております。まあ、いろいろな意見もございましょうが、ここは、ちと困惑しております。(過去もいろいろあった)
管理人様のご意見、さすがなところを突いておられるのではないかと、思った次第でございます。麻生さんについては、今更ながらに、申し上げることもないでしょう。
 

「我関わる、ゆえに我あり」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月 3日(土)23時27分13秒
返信・引用 編集済
 
 麻生さんてほんとに馬鹿ですね。
 歴史に対する知識がないことは今回散々言われていますし、そのとおりですが(例えばナチス憲法なんてものは存在しない)、それ以上に問題なのは、日本語に不自由な人であることですね。1)「喧騒にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげた」と釈明していますが、この釈明の歴史認識は正しい。しかし、問題発言の方の全文を読んで、そんな風には読み取ることはできません。
2)「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。」
 これを素直に読めば、日本憲法もナチスの手口を学んで誰も気づかれないようこっそり変えてしまえ、といっているに等しい。全く正反対ではないですか。もし、1)の意味のつもりで、2)を喋ったのだとしたら、これはもう日本語能力ゼロというべきでしょう。弁論のプロである政治家が日本語に未熟でどうしますねん、むしろこっちのほうが大問題かも。また青山繁晴がそう理解したのなら青山氏の国語力もたいしたことない。というのは反語表現で、そんなはずあるわけがない。意図的な強弁であるのは明らかです。
 もっとも麻生さんは、発言撤回した会見で、「私の発言は(ナチス政権を)正当化していない」と言っておられるのは、間違いない本心でしょう。「あの手口」と言っておられるのですから(馬脚をあらわしたともいう(^^;)。いわずものがなではありますが、「手口」って悪い意味に使う言葉です(goo辞書)。
 つまり麻生さんの最初の発言をごく素直に読めば、ナチスのあの汚い手口を範として、国民やマスコミがごちゃごちゃ騒がないよう、「ある日気づいたら」変わっているように、こっそりと事を進めるべきだ、と言っているわけです(実際の歴史はそうではなく、ナチスがデマと恫喝で死者や拘束者を出しながらワイマール憲法を事実上停止して第三帝国となったのでした)。
 歴史認識に無知なのか(ここを見ているかもしれない知合いが)麻生発言を擁護する書き込みを見かけたので、一言書かせていただきました。

 松井孝典『我関わる、ゆえに我あり――地球システム論と文明(集英社新書 12)読了。
 うーん・・
 最新科学案内的には新味がないし浅いのは、当該新書ターゲットが文系読者だからかもしれないが、(哲学的にも)あたり前のことしか書いてない(科学を背景にして言い換えているだけ)と感じるのは、きっと私の知識が、本書を十全に読み取るには不足しているからなんでしょう。麻生さんを嗤えません(ーー;
 
 

「夏の流れ」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 8月 1日(木)22時29分24秒
返信・引用 編集済
  > No.4635[元記事へ]

 『新鋭作家叢書 丸山健二集』から「夏の流れ」を読みました。雑誌初出66年。著者22歳のデビュー作品で、これにより芥川賞受賞(但し芥川賞のお祭り騒ぎのバカバカしさハシタなさを身を以て体験したことで、以後すべての文学賞を辞退。このへんがかっこいいのですねえ)。
 舞台は刑務所。主人公は刑務官。ストーリーは、主人公が或る死刑囚の死刑執行を担当し、すべてが終了するまでが描かれます。ただし死刑は刑務所ではなく、拘置所で執行されるものですからちょっと不審。仮構の話なのでわざと間違えているのか、当時は刑務所だったのか、そのへんは内容とは関係なさそうなので未確認。「明日への楽園」の移民船と同じく、現実のそれというより、舞台設定として設けられた空間と捉えるべきでしょう。
 主人公は就学前の息子が二人居り、妻は三人目を身ごもっている。順番に死刑執行の役が回ってくるが、すでに慣れでなにも考えない。生活のための仕事と割り切っている。しかし子供が物心ついたとき、父親の仕事をどう考えるのだろうか、と、ふと考える。新人の看守が赴任していて、受刑者に舐められている(但し半分は被害妄想)。或る日新人が、死刑囚に携帯している銃を奪われかける。主人公が死刑囚を警棒で殴り昏倒させて事なきを得る。(どうも怪我をしたりすると刑の執行が延期される場合があるみたいですね。それを狙った犯行のようですが、刑務所側もそこはそれ、軽いいざこざのような始末書にしてそれを防ぐ)
 その死刑囚の刑の執行を、主人公と新人看守が担当することになるのですが……
 これは面白くて一気読み。まるでテレビドラマを見ているような、というか、このまま何も変えずにシナリオにしてもドラマ化できるでしょう。逆に言えば、著者のストーリーの通俗性が前面に出ているともいえます(賞取りにふさわしい派手な作品とは言えるかも)。その分ストーリーの奥にある丸山健二らしい成分があまり感じられないんですよね。
 「正午なり」でも述べましたが、著者は内面に表現したい、噴き出さんばかりの何かを持っているのですが、それをストーリー化すると、ちょっとずれてしまう(作家自身の意識がその無意識を勘違いしてしまう)ところがあるのではないか(少なくとも初期は)。その辺がややもどかしいのでした。
 解説で秋山駿が、「彼の文体が、スタイル自身の見出すものばかりでなく、形のないものに色彩を見出そうとあせって、性急に小説仕立ての絵を求めるようになると、スタイル自身から、深さというものが逃げていってしまうような気がする」と書いていますが、同じことを言っているのだと思います。萩原健一・桃井かおりコンビで「アフリカの光」が映画化されましたが、映画はこの(秋山駿が言う)部分が抽出された、いかにもこのコンビにぴったりの映像作品で、私は満足したものですが、逆に言えば原作には、そういう浅薄な要素も確かにあったということですね。
 いま読み返すと、秋山駿の言うことに納得するのですが、40年前はむしろかかる浅薄性の方にこそ、私は惹かれていたのかもしれませんねえ。すっかり忘れていましたが(^^;

 ということで、『新鋭作家叢書 丸山健二集』(河出書房 72)、読了。面白かった! さて次は何を読もうか。『火山の歌』にしようか、『黒い海への訪問者』にしましょうかね。

 


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