ヘリコニア過去ログ1309

「安部公房とわたし」

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月30日(月)22時44分51秒
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  山口果林『安部公房とわたし』(講談社 13)読了。
 面白かった。一気読み。本書が出るまで(ネットで感想を拾うまで)私はこのような事実を知りませんでした。著者は私も嫌いではない女優でしたが、私よりも上の団塊世代(つまり著者と同世代)に絶大な人気を誇り、そんなファンたちを指して果林党(かりんとう)と言ったらしい、とは、先日畸人郷で先輩氏から聞いた話。ですから安部公房スタジオ(さすがにその名前は知っていた)の看板女優だったということも、知らなかった。ま、青天の霹靂的な本でありました。
 著者はなかなか烈女なんですよね。読んでいて到る所でそれを感じました。これも事前に読んだネット知識ですが、先年出された、公房と真知の娘である安部ねりの『安部公房伝』には、この事実は一言も書かれてないらしい。となれば、それを読んだに違いない著者は、ねり許さん、と思ったんじゃないでしょうか。で、それまでは「ことの真相」は胸に秘めたまま墓場に持って行こうと思っていたに違いない、そして実際この20年間はそうしてきていたのを、これはやはり事実として明らかにしておかねば、と、決意したのではないか。その意味で本書は、いわば果林版「蜂のひと刺し」と言ってよかろうと思われます。
 となりますと性格的に、胸に納めていたことごとを全て吐き出してしまわずにはいられなくなり(言うまでもなく私の憶測です)、その結果、付随的に、これまで隠れていた関連事実が芋づる式にあげつらわれていく。それに関しても著者の烈しい気性は、固有名詞を濁しません。公房没後、芦ノ湖畔の旅館松坂屋の主人談話が週刊誌に載っていて著者を驚かせる。なぜならこの旅館の息子が事件記者で「ノーベル賞」の時期に公房の別荘のシャッターを乱暴に叩いた張本人だった。それで松坂屋は考慮の余地なく利用しなかった宿だったから、と著者は語るのですが、今更これを暴露された松坂屋も息子も困惑するばかりでしょう(^^;

 公房は癌がわかったとき、既に4期だったとあります。実はそれ以前におしっこが極端に近くなっていて、東大医科の同窓の友人に検査してもらったのだが誤診で発見できなかった。この時見つかっていたら、という思いが著者にあり、後に、「裁判に訴えようよ」と公房に迫っています。まさに烈婦。しかしこれも当の医者にすればなんで今頃、ではあるに違いないですね。
 ある時期から、公房は家を出て別荘に住み、同居はしなかったが著者と暮らし始める。ところが、財布は真知夫人が握っているのです。したがって公房が家族と別居してからは著者が公房を養うかたちになる。紫綬褒章の打診が来たとき、著者はノーベル賞以外はもらうに値しないと辞退させるのですが、公房は欲しそうだった。なぜなら年金が貰えるのではないかと思ったから、というのは、世界的作家安部公房にしてあまりにも哀しい逸話ではあります。

 公房の命がいよいよとなってきたとき、著者の母親も末期癌でいつ死んでもおかしくなくなります。著者はふたりの末期がん患者を同時に(しかも片方は隠密裡に)世話をしなくてはならなくなる。この辺りは地獄ですね。私も何はともあれ先に死んでいきたいと思います。
 「ノーベル賞」までは離婚を許さないというのが新潮社の意向だったのですが、結局ノーベル賞を取る前に公房は亡くなり、新潮社の公房担当者だった新田敞(当時常務)もその後すぐ病に倒れる。死ぬまで「最大の後悔は果林と結婚させなかったこと」と夫人に介護されながら言っていたとのこと。しかし著者にすれば恩讐アンビバレンツだったのではないか。
 実母の死と相次ぐように公房が亡くなり、新田敞も病に倒れる(亡くなるのは10年後)。8か月後には真知も亡くなります。なんか、つはものどもが夢のあと、のような読後感でありました。

 こうなったら『安部公房伝』も読まねばなりません。
 

眉村さん情報:朝日新聞9月24日夕刊

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月30日(月)01時33分20秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 朝日新聞9月24日夕刊文化面の切り抜きのコピー、昨日届いていました。いつもありがとうございます。
 朝日新聞デジタルのここで見つけましたが、読むことができません。有料のようです。
 前にも書きましたが、朝日のやり方は首を傾げてしまいます(他の大手新聞はここまでしていません)。紙版の新聞って、その日読んだらあとは捨ててしまうものですよね。一日限りの情報というのが原則といえる。ネットでも数日は有料でよいですが、或る期間を過ぎたら(新聞ではなく旧聞となるので)無料にして、だれでも検索できるようにするべきでしょう。
 ということで、私が代わりに公開しちゃいます。あんさんそんなことしたら怒られまっせ。責任者が出てきはったらどないしますん。あやまるm(__)m
 

 ところで、「SFの手法で組織や社会を描いてきたが、60を過ぎ、社会より自分を書くというところに行き着いた」というのは、ここまではっきりと言い切ったのは、なかなかショッキングで、これはひとつの境地というべきなんでしょうね。『自殺卵』の、就中「佐藤一郎……」「退院後」「とりこ」の三部作に、それがとりわけよくあらわれていると思います。

 

海文堂書店さん

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 9月29日(日)20時14分16秒
返信・引用
  残念ですね、閉店とは。我が社の帳合ではないのですが、海ものでは、さすが、神戸の書店を自信持っての品揃え、凄いんですよ。普通の書店では扱わないようなもので、一杯です。(海事もの、海上自衛隊もの、海軍もの、とか、なかなかな、おたくには絶品ものが並んでいます)
こうやって、独特なお店がなくなっていくことには、帳合を越えて、残念なことと思えてなりません。
 

Re:Re自費出版専門出版社

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 9月29日(日)14時45分38秒
返信・引用
  管理人様
失礼をいたしました。お許し下さい。
その、タイトルの出版社は、業界紙「新文化」に名指しで載ったそうです。
 

Re: Re:自費出版専門出版社

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月29日(日)14時32分0秒
返信・引用
  > No.4756[元記事へ]

 いや私が拙速な書き込みをしてしまったため、段野さんにも迷惑をかけてしまいました。お詫びいたします。
 

畸人郷例会(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月29日(日)14時20分57秒
返信・引用 編集済
  > No.4755[元記事へ]

承前。読書会は『黄金仮面』。各人の評価は、それぞれ7.5から6.5の間でしたね。全員再読以上でした(5回めとか6回目とかの猛者もいました)が、今回読み返して意外に面白く評価は上がったという方が多かったです。
 私もそうで、今回読んだのは春陽堂文庫版でしたが、初読は角川文庫版。
 表紙はこれだったはず↓
        
 なので、調べたら1973年刊のようです。わたしも多分その頃読んだきりですから、ざっと40年ぶり。もちろん黄金仮面が誰であるかは覚えていたのですが、それ以外は(エレベータトリックのような何度も使っているのは別にして)初読同然でありました。
 もっともだからといって新鮮だったかといえばそうではなく、いつもの乱歩世界なのです。もちろんそれが最大の評価ポイントなのでして、じっさい、乱歩の通俗長篇は何を読んでも同じ色調同じ肌触り同じテンポのよさなのです。それが私には実に心地よいのですよねえ。あたかも表現主義の映画を観ているような、そんな色調肌触りテンポなのです。ストーリーに必然性はなく(だいたい何故に黄金の仮面(^^;)ただ必然性がなくとも映像的にじつによくはまった構図になっている。そしてストーリーに必然性がなくっても、その講談めいたテンポのよいリズム感のある語り口調が、まるで秋祭りの太鼓の響きのように読者を高揚させ、陶然たる境地に連れて行くのです。いわばロックで縦揺れしている状態と同じ。
 そしてこのテンポが、読みやすさとなってもいる。読書会でも誰かが、たとえ本篇を初出誌の「キング」で読んだとしても(昭和5年から6年にかけての連載ですから当然正字旧仮名しかも最近の版は表現を現代的に直してあるそうです)、昨今出された小説よりも読みやすいであろう、といってましたがまさしくそのとおりだと思います。本篇は、名探偵対名怪盗の、現代でいうパスティーシュのはしりみたいな作品でもあるわけなんですが、現代作家の如何なるリスペクトされたパスティーシュ作品よりも、遙かに引き離して面白いということで全員一致(>おい)(^^ゞ
 リスペクトといいましたが、本篇の怪盗への、著者のスタンスは、しかしいささか含むところのあるような、アンビバレンツな感じがします。
「ちくしょうッ」明智は憤慨した。「きみにして、白色人種の偏見を持っているのか」「ぼくはきみをその義賊として、いささかの敬意を払っていた。だが、きょうただいま、それを取り消す」(春陽堂文庫版169p)
 どうやら殺人を犯さないはずの盗賊の原作群の中に、モロッコ人を三人射殺した作品があるようで、乱歩はかなりこれを根に持っているようですね(^^;。その原作が何であるのかは、残念ながら読書会出席者で知っている人はいませんでした。というかこの怪盗シリーズは、ホームズシリーズほどには熱心に読まれていないことがわかった(本格ミステリファンの集団だからでしょうか)。あるいはひょっとして、有色人種差別的なのはこのシリーズでは当たり前なのかも。有識者のご教示を期待します。

 ということで、江戸川乱歩『黄金仮面』(春陽堂文庫新装版 87)読了。

 さて二次会では、草なぎ版「日本沈没」がいかに「ダメ」だったかの話から、映画の話に発展。最近の韓国映画や中国映画が、ドラマの臭さはそのままながら、ミステリの映画化に関しては、いまや侮れないどころではなく、日本のそれを超えているのではないかということを、還暦を過ぎて映画を安く観れるようになり入り浸っている二人の先輩が、こもごも具体例を掲げて語ってくれました! とはいえ日本の映画関係者にミステリ者がいないということではなく、「わかりやすい」映画しか、日本では作れないということのようです。

 というような話に盛り上がっていたら、忽ち最終電車の時間。本を読んでいたら30分も読めば飽きてくるのに、不思議な事です(^^;
 最初から座れたので、本日ジュンク堂で購入した山口果林『安部公房とわたし』を読み始めたところ、めちゃくちゃ面白い(興味深い)。今読んでいる『SFマガジンベストbQ』は棚上げして、こっちを先に読んでしまうことに決定。

 

Re:自費出版専門出版社

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 9月29日(日)13時16分24秒
返信・引用
  管理人様
誤解を呼ぶ書き込みにて、管理人様、エレガントライフ社さんともども、大変失礼なことをしてしまいました。ここに、お詫びと、お許しをお願い致したく、存じます。エレガントライフ社さんは、全く良心的な会社だとの、管理人様のご紹介の通りだと存じます。また、「自費出版」の形式をとっておられないこと、これまた、当方の大きな間違いでございました。
何卒、お許しと、誤解をお解き願えますこと、切に思っております。
失礼しました。
 

畸人郷例会(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月29日(日)12時16分4秒
返信・引用 編集済
   昨日の畸人郷例会で、野村恒彦『探偵小説の街・神戸』(エレガントライフ刊)を、エレガントライフ社さんより頂戴しちゃいました。ありがとうございました。
 で、重大な事実誤認の訂正。
 本書は「自費出版」ではなく通常の出版形態、すなわち出版社が作者に原稿依頼し原稿料を支払ってそれを本にしたもの、でした。ですから著者は、制作費用を負担しておらず逆に本書出版で「印税」を得ているのです。ただし「些少ですが」とのこと(>もちろん社長の謙遜ですよ。念のため)(^^;
 確認もしないうちに適当な憶測を記事にしてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m。
 なお発売は10月1日ですが、海文堂書店には既に入荷しています。神戸の方は、「見納め」も兼ねて海文堂へGO! 営業は今日明日限りです。(昨日は海文堂スタッフのお別れ会だったそうで、野村氏も例会終了後、そそくさとそちらへ向かわれました)
  ↓画像は海文堂通信最終号(部分)。店頭で自由にもらえます。
 


 

読書会課題図書

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月28日(土)00時33分7秒
返信・引用 編集済
   『黄金仮面』は200頁。なんとか目鼻がついた。あともう少し読むかもしれませんが、いずれ、あした往路の電車で読み終われるでしょう。
 ということで、明日は畸人郷につき、書き込みはできないかもしれません。あしからず。
 

自費出版専門出版社

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月27日(金)19時58分34秒
返信・引用 編集済
  > No.4752[元記事へ]

 段野さん
 図書新聞の書評も、書評者の署名がないもので、実際はこの出版社が紙面を買い取っている一種の広告欄ぽいですよね。しばらく定点観測していたんですが、図書新聞には、ほぼ毎週のようにこの出版社の刊行作品が無記名で書評されていました。こういう紛らわしいことを許容する図書新聞もどうかと思いますが。
 とはいえ、他は知らね、『告発』のこの書評に限っては、きちんと読んで書評していて好感が持てますね。決してやっつけ仕事ではありません。少なくとも書評者は誠実な仕事をしていると思います。
 もっとも私自身は、書評者の「しかしそんな内面は描かれず、著者は軽いタッチで段野の日々を描いている」というのとは逆で、内面が描かれてないところが不満だったんですけどね。まあそれは観点の違いでしょう。いや口幅ったいことを申し上げましたm(__)m

 注記。検索したところ、図書新聞は、山野浩一がSF時評を連載していた日本読書新聞や週刊読書人とは全く無関係な書評紙のようです。でも歴史のある書評紙みたいですが。

 更に注記。このスレッドの「エレガントライフ社さん」というタイトルは、今や話している内容とはぜんぜん関係のないものとなっており、気づいたのですが、一見さんが見ると、まるで「エレガントライフ社さん」がブラックみたいに思われてしまいそうな懸念を感じました。ので、タイトル変更するとともに、それぞれの書き込みに注記を入れておきました。一見の方はどうか下の方まで目を通して頂きたいと希望します(このページの頭の「ヘリコニア談話室」をクリックすれば全体が見えるページに移行します)。
 

自費出版専門出版社

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 9月27日(金)15時31分59秒
返信・引用 編集済
  管理人様
ご想像の通り、ボラれました。他の知り合いに聞きますと、「ブラック」なところだそうです。私は、かなり値切りましたが。(その知り合いは、やはりボラれた、と言っていました)
しつこいですよ〜
 
    (管理人) こちらで注記しました通り、当書き込みで言及のブラック企業は、タイトルの「エレガントライフ社」とは無関係です。話しているうちに内容が変わってき、タイトルが不適当になってしまいました。ご注意願います。  

Re: 空想科学小説ベスト10

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月26日(木)22時43分55秒
返信・引用 編集済
  > No.4750[元記事へ]

流転さん

>荒地出版「空想科学小説ベスト10」
 へえ、こんなアンソロジーが出ていたのですか。知りませんでした。ご教示ありがとうございます。
 しかしあのハヤカワが、SFM掲載作品を掲載後1年以内に、他社から(同じタイトルで)出版した、出版するのを黙認したってのもなんかすごいですよね。
 東京創元社とのあいだでは、「幼年期の終り」:「地球幼年期の終わり」、「破壊された男」:「分解された男」、ルパン:リュパン、ヴォクト:ヴォークト、シェクリィ:シェクリー、など、子供の喧嘩かよ、みたいに角突き合わせているのにね。
 ていいますか、(当時の)ハヤカワ=福島と考えれば納得できます。ぜんぜん矛盾ではありませんね。

>(あと勘ぐれば、業界でも安い方だったという早川の稿料の補填を
>他の出版社を使って各翻訳者おこなったのでは?
 これは仰るとおりなんじゃないでしょうか。しかも一説では稿料は手形払いで、2階の編集部で手形をもらった訳者や作家は、それを持って1階へ下りていき、経理で割り引いて換金したというではありませんか。そんな状況に、福島さんも困っての窮余の一策だったんでしょうねえ。
 日本作家も同じで、ジュブナイルSFを積極的に育てたのは、未来の読者養成という意味はもちろんあったでしょうけど、それと同時に、SFMだけでは食っていけないSF作家たちに働く(金を稼ぐ)場を作ってあげるという意味もあったんですよね。福島さんの偉いところですね。政府の失対公共事業は親方を太らせるだけですが、福島さんの失対事業はちゃんと、いや充分以上に機能したのでした(^^ゞ

 

空想科学小説ベスト10

 投稿者:流転  投稿日:2013年 9月26日(木)21時09分39秒
返信・引用 編集済
  丁寧なご返事をいただき恐縮です。
じつは前回の投稿の時はあまりに文が長くなるため省いたのですが、「ベスト1」刊行以前に
早川以外の出版社から「プロトSFマガジンベスト」と言うべきアンソロジーが出ている事を
知りました。
1961年4/10発行の荒地出版「空想科学小説ベスト10」です収録作品はSFM60/2月号から
61/2月号までに掲載された作品ばかりで翻訳家も同一です。
収録作品は「SFMベスト1」との重複が三作(「太陽系」と「ヘレン」と「考える葦」)
「ベスト2」と重複が一作(「時を越えて」)残り六作品は
「無任所大臣」(F&SF・クリガーマン)SFM60/3
「草原」(サタデーイブニングポスト・ブラッドベリ)SFM60/8
「黒い破壊者」(アスタウンディング・ヴォート)SFM60/12
「クレイジイプラセット」(アスタウンディング・ブラウン)SFM60/12
「うそつき」(アスタウンディング・アシモフ)SFM61/2
「13階」(F&SF・テン)SFM60/8
です(「13階」はこの時は収録できたのですね)編集は荒地出版編集部となっていますが
福島正実の手になることはまず間違いないと思います。
面白いのは、すでにこの時アスタウンディング(50年代以前の)への偏重の傾向が露わな事
です、収録十作中七作を占めるというのは福島正実も自ら言っているように一冊の掲載作の
内「2/3を」F&SFからの翻訳が占めている十三冊の雑誌からのセレクションとすると異様
の感を禁じえません、もしかすると福島正実は60年のおわりか61年の初めにはF&SF
からの「独立」を考えていたのかもしれません。
この「空想科学小説ベスト10」には会社(早川書房)に迷惑(経済的損失)をかけさせないで
市場調査を行う観測用の「ゾンデ」にしたいという「社員」福島正実の「深謀遠慮」が
あるのかもしれません。(あと勘ぐれば、業界でも安い方だったという早川の稿料の補填を
他の出版社を使って各翻訳者おこなったのでは?とも疑えます)
 

Re: エレガントライフ社さん

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月26日(木)18時12分32秒
返信・引用 編集済
  > No.4748[元記事へ]

段野さん
 その書きっぷりから想像するに、多少はボラレた感があるんでしょうか(>おい)(^^;
 いえ社長の人柄は私が保証しますが、じっさいどれくらいで作ってくれるのかは、聞いてないので分かりません。
 週末、例会がありますので聞いておきます。囲む会でお教えしますね。メリットがあるんでしたら紹介はできると思います。
 
    (管理人) こちらで注記しました通り、当書き込みで言及のブラック企業は、タイトルの「エレガントライフ社」とは無関係です。話しているうちに内容が変わってき、タイトルが不適当になってしまいました。ご注意願います。  

エレガントライフ社さん

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 9月26日(木)16時31分44秒
返信・引用 編集済
  管理人様
そのような良心的な会社があったとは存じ上げておりませんでした。もっと早くに存じ上げておりましたなら、ボラれずに済んだかも知れません。(しつこく、柳の下のどじょうを、虎視眈々と狙っているのです、一度味をしめると、です)
いや、これでもか、とやってきます。
エレガントライフ社さん、素敵な会社ですね。
ISBNコードまでついているではありませんか。全国流通可能な出版物ではありませんか。
お付き合いできるのであれば、よかったんですね。(今となっては、残念なことではございますが)
 

野村恒彦さんの新刊

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月26日(木)00時47分23秒
返信・引用 編集済
   SRの会悪の大幹部にして畸人郷主宰の野村恒彦さんが、10月に著書を出版されるようです。藤原編集室の近刊案内で知りました。

 タイトルは、『探偵小説の街・神戸』(エレガントライフ刊)→こちら

【紹介文】日本の創作探偵小説の揺籃期から昭和の戦前・戦後を経て現代まで、神戸という街は、探偵小説を育む独特のエネルギーを持ち続けた。稀代の探偵小説愛好家・読書家である著者が多くの資料と体験に基づき、生まれ育った街の魅力と関連するミステリー作品を紹介する。
「新青年」、「ぷろふいる」など往年の名雑誌の紹介・再評価から始まり、懐かしの江戸川乱歩、横溝正史、西田政治らの神戸での逸話、山本禾太郎、酒井嘉七、戸田巽など神戸在住作家たちの活躍を描く。神戸のミステリー案内も兼ねる珠玉のエッセイ/書評を満載した貴重な記録。


 前著『神戸70s青春古書街図』(神戸新聞総合出版センター09)以来、4年ぶりの新著ですね。リンク先の目次を見ると、関西探偵作家クラブ(KTSC)の章が見えます。実は眉村さんも、会員だったのかどうかは分かりませんが、出席したことがあったようで、亡くなられた山沢晴雄先生が私に話してくださったのですが、会合の後、お二人で平野まで電車で帰って来たことがあったそうな。いうまでもなく、眉村さんが平野流町の業務住宅に住んでおられた頃の話ですね。そんなエピソードも載っているのかな。それはちょっと無理かな(^^;

 ところで、エレガントライフって聞いたことがないなあ、と、調べたら、おお、畸人郷でいつもご一緒している谷本さんの会社だったのですね!→こちら
 ときどき、自費出版専門の出版社を利用してボラレた話を聞くことがあるのですが、よく知っている人の会社だったらその点心配ありませんよね。しかも谷本さんて、どうみても善人そのものという人柄で、それこそ百円玉を拾っても警察に届けに行きかねない(^^)。安心して任せられますよね。

 さて、どんな本が出来上がってくるのか、楽しみです〜!
 

Re: SFマガジンベストNO1

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月25日(水)02時09分45秒
返信・引用 編集済
  流転さん
 お久しぶりです。

>アスタウンデイングの掲載作の多さでした
 そう言われてみれば、確かにちょっと不自然ですねえ。

>シェクリイの「危険の報酬」ディツクの「探検隊帰る」
 この二編は、あとがきに翻訳権の関係で収録できなかった、とあります。
 しかしそれ以外の、流転さんが挙げられた作品を見ると、確かに「アヤシイ」ですよね。

>SFマガジンがF&SF日本語版ではなくなった時期に何かF&SF側と
>もめたのかもしれません(福島正実の「未踏の時代」にはF&SFから小説や記事の掲載料の
>アップを求められそれを断ったところ、SFマガジンのレイアウトや編集方針にまで注文を
>つけられたせいでF&SF日本語版であることを辞めたとの記述がありますからここらへんが
>原因かも)
 あとがきでは、「二年間(F&SF誌と特約をやってみて)アメリカのSF界でも、特に高踏的な作品を掲載するMFSFが、現在の日本の読者に不向きな点が多いことに気づき、二年目で契約が切れたのを機会にMFSFとの縁を切りました」と書かれていますが、「未踏の時代」の記述の方がホンネでしょうね。あの福島編集長の性格ですから、よほど腹に据えかねて、意地でもF&S作品はベストには収録しなかったというのは、大いにあり得るのではないでしょうか。今読んでいる第2集でも、F&SF誌からの採録作品は12篇中たったの一篇だけなんですよね(^^;。

 流転さんの推理は真相を突いているのではないでしょうか。
 ご参考に、第1集のあとがきを画像にして添付しておきます。
   ↓それぞれクリックで拡大
 

「SFマガジン・ベスト bQ」(上)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月25日(水)01時20分56秒
返信・引用 編集済
  段野さん
>コピー、その他のご要望にはお答えいたします
 おお、ありがとうございます。ぜひぜひ、よろしくお願いします! 可能でしたらメールに添付して頂ければです。

 『黄金仮面』が到着したので、現在、『SFマガジン・ベスト bQ』を読み中なんですが、中断して、こっちを先に片付けてしまう予定。とりあえず、これまで読んだところを、忘れないうちに簡単にメモしておきます。

 ロバート・A・ハインライン「時を超えて」田中融二訳(アスタウンディング、41)は、異次元テーマ、というのには収まらなくて、人間は過去から未来へ不可逆的な線路上を一直線に進む列車に乗っている、というのは間違った思い込みで、実は時間は線よりも面として存在していて、意識をその思い込みから自由にすれば、簡単に、しかも遠近法を無視して線路を左右に外れてもいけるし、未来へも過去へも行ける、という世界観で作られた話。潜在意識を解放させることでそれが可能というのは、SFとして手抜きな気もしますが、ガチガチのスペンサー流の決定論者や教義に忠実なクリスチャンにはその操作が難しいというのは笑わされます(^^;。5人の学生がそれぞれ異世界に向かう(或いは跳べない)のですが、それぞれ描写される異世界は、のちのキース・ローマー風です。ローマーはその発展型なんでしょうね。

 エドモンド・ハミルトン「フェッセンデンの宇宙」稲葉明雄訳(ウィアード・テールズ、37)は、もう4、5回めですが、読めば読むほど面白くなってきますね。名作たる所以でしょう。これまたマイクロ・ユニヴァースもののはしりで、ラストで一段、レイヤーが上がるパースペクティブが、単一世界観(前作でいえば前後に一直線に伸びる線路)を相対化しているわけで、(No.1が人類至上観の相対化だったとしたら)この第2集は唯一世界観の相対化が裏テーマなのかも。

 筒井俊隆「消去」(NULL、60)は、ほんの半年前に読んだばかりなので、パス→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs/4236
 ただしリンク先の書き込みで、一種の電脳世界もの、と書いているのですが、そうしますと本篇もやはり裏テーマ的と言えそうです。

 C・A・スミス「プルトニウム」川村哲郎訳(アメージング・ストーリーズ、34) プルトニウムは冥王星で発見された物質という意味で、放射性元素のそれとは無関係(プルトニウムの発見は1940年)。このプルトニウムを服用すると、「イマココ」の軛から(意識が)すこし自由になり、自分の時間線の前後が、2、3時間ほど先ぐらいまでくらいなら見えるようになる。実は主人公は15分後に死ぬべき運命なんですが、主人公がプルトニウムの助けを借りて見る、その未来(死)の見え方が、非常に面白かったです。

 ウィルスン・タッカー「観光案内」川村哲郎訳(ワールズ・ビヨンド、51) これ、一種のドタバタ喜劇なんですが、娯楽SFとしてよく出来ていて愉快でした。未来からの20世紀観光団が、或るアメリカ小市民の家庭にどかどかと土足で上がり込んでくる。ツアーコンダクターが、また筒井のドタバタ物によく出てくるようなキャラクターで、しかもその説明が、アメリカインディアンと20世紀アメリカ人を微妙に混同していたりしているんですね。この傍若無人な観光団に、一家の主は敢然と立ち向かうのですが(笑)。

 高橋泰邦「宇宙塵」(SFマガジン、61)も、「消去」と同様、最近読んだばかりなので、今回はパスします→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs/4237

 ロジャー・ディー「いつの日か還る」稲葉明雄訳(スタートリング・ストーリーズ、52) 垂れこめる雲海の下に大海原が広がる金星世界。その海は屡々太陽黒点台風の暴威に荒れ狂う――。いいですねえ。古き良きスペオペ的世界観が横溢していて痺れます。
 そこに異星からの調査艇がやってくる。調査員は中レベルの文明を持つ居住民を発見する。しかも彼らが別惑星からの植民者であることを知るに至り、この文明レベルで惑星間航行を成し遂げている彼ら人類に、調査官の興味はいや増すのです……。
 そこで展開されるのは、まあ通俗ドラマなんですけど、しかもそれを描く筆致は訥々としているんですが(ひょっとしたら訳文のせいかも)、それでも、いやそれ故、それらの要素が相俟って、独特の古色蒼然たる世界が醸成されています(どっちかというと奇想天外に載りそうな話です)。そしてラストが、意外性があってよかった。愛すべき佳品でした。
 

SFマガジンベストNO1

 投稿者:流転  投稿日:2013年 9月24日(火)23時17分10秒
返信・引用 編集済
  「SFマガジンベストNO1」の記事面白く読ませていただきました。
収録作のラインナップを見てまず感じたことは、アスタウンデイングの掲載作の多さでした
それも40年代30年代の・・・SFマガジンが創刊からしばらくのあいだはF&SFの日本語版
として刊行されていたのは知っていましたので、何か不自然なものを感じ調べてみたところ
幾つか興味深いことが分りました。
初期の号は当然、F&SFからの翻訳が多く創刊号などは9本の翻訳作のうち7本までがF&SF
からの翻訳でした(それ以外の2本が「太陽系最後の日」と「愛しのヘレン」)それ以降の
号もだいたい翻訳作の3/4から3/5がF&SFからの翻訳です、作品の質も当時アメリカで最も
ハイブロウなSF誌と呼ばれただけあって現在でもアンソロジーの定番になっているタイトル
が頻出いたします、たとえば創刊号には当時の読者の人気を「太陽系・・・」と二部した
というシェクリイの「危険の報酬」ディツクの「探検隊帰る」ブロックの「地獄行き列車」
ブラッドベリの「七年に一度の夏」・・・とそうそうたる面子がそろっております。
それ以降の号でも60/3月号にミルドレット・クリーガーマンの「無任所大臣」また次の
4月号にはかのハインラインの「輪廻の蛇」とフィニイの「地下三階」5月号にはディツク
「パパに似たやつ(父さんもどき)」7月号にはエムシュウイラーの「ベビイ」・・・と
佳作秀作がそろっています。
なぜこれらの作品が「SFマガジンベストNO1」に一作品も載っていないのか?
理由はよく分らないのですがSFマガジンがF&SF日本語版ではなくなった時期に何かF&SF側と
もめたのかもしれません(福島正実の「未踏の時代」にはF&SFから小説や記事の掲載料の
アップを求められそれを断ったところ、SFマガジンのレイアウトや編集方針にまで注文を
つけられたせいでF&SF日本語版であることを辞めたとの記述がありますからここらへんが
原因かも)それはともかく、普通に考えればF&SF掲載作が収録出来なければSFマガジンの
ベスト集成など出来そうにないところを出版できたということは、SFマガジンの最初の時
からF&SFのみに頼るのではなくそれ以外の雑誌からも秀作を見つけ出して載せ続けた
福島正実編集長をはじめとした早川編集部の見識と努力のたまものではないかと考えます。
 

突然ですいません

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 9月24日(火)18時53分29秒
返信・引用
  今、朝日新聞の夕刊の5面を見たら、何と眉村さんの記事が載っているではありませんか。(実は、共同新聞社の配信があるとの情報を得ていました)是非とも、皆さまには、お読みになって頂きたく、書き込み致しました。扱われているのは、「たそがれ・あやしげ」と、「自殺卵」です。ご一読出来ましたら、幸いでございます。(夕刊は手に入れがたい、とのこと)
コピー、その他のご要望にはお答えいたします。取りあえずのご報告でございます。
 

youtubeでストーンズを概観

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月24日(火)00時30分55秒
返信・引用 編集済
   youtube上に、ローリングストーンズのフルアルバムが、いつのまにか充実していることに気づき、2週間ほどかけて以下のアルバムを聴取しました。(テルミーが入っていたファーストアルバムはアップロードされてないみたいです)。
 最初の三枚は初めて聴きました。さすがにシングルカットされた有名な曲はよいですが、まだ「アルバム」になっていませんね。ちなみにこの時代のめぼしい曲はベストアルバムで持っています。それで十分のようです。
 サタニック・マジェスティーズは、高校のとき友人に借りて聴いて以来。サージェント・ペパーズに対抗した(というより影響された?)トータルアルバムの試み、ですよね、そのように記憶しているのですが、それは、借りた友人からの受け売りを記憶しているのかも。今聴くとそれほどでもないです。ぜんぜん「らしく」ない。「2000光年の彼方」は好きですが。
 ベガーズ・バンケットから、いわゆるストーンズらしさが出てきます。それはレット・イット・ブリードで確立し、方向が定まる。この経緯はやはりブライアン・ジョーンズの影が薄くなっていく過程ですね。そしてミック・テイラーが招聘されてこの路線をがっちり支えていくわけです。(この間ストーンズも混乱していて、ミック・テイラーが参加した初シングル盤ホンキー・トンク・ウィメンはアルバムに収録されていないんですよね。70年はオリジナルアルバムも出なかった)
 ミック・テイラー在籍の、スティッキー・フィンガーズ、メインストリートのならず者、山羊頭のスープ、イッツ・オンリー・ロックン・ロールがストーンズサウンドの全盛期。(但しイッツ・オンリー・ロックン・ロールのみフルアルバムがアップされてなかったので、LPで聴きました)。
 で、イッツ・オンリー・ロックン・ロールを最後にミック・テイラーが脱退。ロン・ウッドが加入します。ロン・ウッドは人間的にはなかなかいいヤツみたいで、嫌いではありませんが、サウンドは一気に通俗的になって、「ふつう」のロックバンドになってしまいました。そういう次第で私のストーンズ愛もここで終わるのでありました。

 アウト・オブ・アワ・ヘッズ(US)'65
 アフターマス(US)'66
 ビトウィーン・ザ・バトンズ(US)'67
 サタニック・マジェスティーズ '67
 ベガーズ・バンケット '68
  レット・イット・ブリード '69
  スティッキー・フィンガーズ '71
 メインストリートのならず者 '72
山羊頭のスープ '73(7曲目Criss Cross ManはLP盤には未収録 )
イッツ・オンリー・ロックンロール '74
 

眉村さん情報:アニメ「ねらわれた学園」WOWWOWで

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月23日(月)20時19分27秒
返信・引用
   2012年に劇場公開されたアニメ映画「ねらわれた学園」が、10月20日(日曜)よる6時、WOWWOWでオンエアされるようです。視聴環境が整っている方はぜひ!→http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/102713/index.php
 私はロードショーで見ましたが、原作をちゃんと覚えてないと、ラストは一見ではなかなか理解できなかったです。まず事前に原作小説を再読されてから視聴されることをおすすめします。

 そういえば、それで思い出しましたが、「幕末高校生」の映画化はどうなったんでしょう。ということで、いま、ざっと検索してみましたが、5月以降情報は全く途絶えていますね。前回細川ふみえの役は今回石原さとみという未確認情報を見かけましたが、どこまで信ぴょう性があるのか。その前にポシャってなければよいのですけどね(汗)
 

畸人郷課題図書

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月22日(日)20時54分45秒
返信・引用
   今週末の畸人郷読書会課題図書が『黄金仮面』で、これなら楽勝、と高をくくっていて、でもそろそろ掘りだしておこうかなと、書棚など見当をつけて探し始めたところ、げげ、見当たりません。乱歩のかたまりは探し当てたのですが、そこにはなかったのです。ということで、あわてて昨夜、アマゾンマーケットプレイスに緊急発注しました。マケプレは下手すると1週間かかる場合があるんですよね。で、一日でも早く着くよう、『黄金仮面』は大阪の古本屋も出品していたのでそこにし、且つそこは午前7時半までの受注は当日出荷と明記されていたので、これ幸いと注文をかけました。最悪水曜に到着すれば木金で読みきれる。今日発送してくれれば、メール便のリードタイムは同府県内翌々日配達なので、火曜には到着するはずなのです。今日本当に出荷してくれるか、ちょっとやきもきしていたのですが、夕方、発送完了のメールが! 助かりました(^^)
 しかし『黄金仮面』、どこに消えたのか。とんでもないところに埋もれているのか、それとも娘が持って行ってしまったのかも。京極夏彦は全部持って行ったことは確認済みなんですが、あと何を持って行ったのかはよくわからない。新本格は持って行ったかもしれませんが、乱歩を持っていくかなあ。ということで、どこかに埋もれている可能性が高いと思うのですが、もはや探しだそうという気持ちはほぼありませんね。だって、注文してしまったのに、今更どこかから出てきてもがっくりするだけですからね。
 

「SFマガジン・ベスト bP」(下)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月22日(日)01時10分11秒
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  > No.4737[元記事へ]

 承前。
 エリック・フランク・ラッセル「衝動」川村哲郎訳(アスタウンディング、38) これはサスペンスSFの傑作。絶妙のプロットですね。『超生命ヴァイトン』(43)と同じく人類家畜テーマですが、一人の男の「能力」で、それは未然に防がれます。人間の思考を読んで先手を打ってくるインベーダーを倒すことができたのは……(^^;。

 ルイス・パジェット「黒い天使」福島正実訳(スタートリング・ストーリーズ、46) 外的には「ミュータントテーマ」といってもよいが、内的な面に着目して「人類を超えるもの」テーマとするのが妥当。日本SF的には「八百比丘尼」テーマでもあります。人類を母体として生まれる新人類は、理知が感情に優越していく方向に進んでいく、それが嵩じると、という今となっては定型パターンの一篇ですが、当時はどうだったんでしょう。「わたしもあなたを愛しているわ。ティム。でもわたしは恐ろしいのよ。わたし、チュー・リン(註。飼犬の名前)も、ちがう意味だけど愛してる。狆は劣等種族だからよ。これから――わたしが完全に成長してしまったら、あなたも、わたしにとっては、劣等種族になるかもしれない」。しかし新人類第一号のジョアナは、結局「木田福一」だったようですけれども。そういえば『ミュータント』(53)も発掘して読まねば。

 ジュディス・メリル「ママだけが知っている」小尾芙佐訳(アスタウンディング、48) これは放射線被曝によるミュータントの誕生を材にとった近未来の心理ホラー。いま日本人が読むと非常にリアリティがあると思います。これは母性として当然ですが、他面、母性が嵩じた狂気とも読める。実際はあくまでも正気で、ただし防衛的な機制のしからしめる態度なのかも。どちらにも読めるトロンプ・ルイユ性は、いささか前代感の強い本集の中ではきわだって現代的でした。さすがメリル。

 ロバート・A・ハインライン「犬の散歩も引き受けます」青田勝訳(アスタウンディング、41) まあ、小説技術は本集の他作品とはレベルがちがうという印象ですね。ハードSFっぽくいかにして地上の重力を消すかという議論をしつつ、実際の製品の原理はまったく説明なしで、議論と製品のあいだは巧妙に切れているのです。このへんのウソのつき方は半村良ばり。
 ところで本篇、私は眉村社会SFを想起させられました。このジェネラル・サービス社って、ビッグタレントや産業将校がいる近未来社会に嵌め込まれても違和感ないですね。意外にパイオニア・サービス社の元ネタかも(>おい)(^^;。

 以上、早川書房編集部編『SFマガジン・ベスト bP』(ハヤカワSFシリーズ、63)読了。早川書房編集部って結局は福島正実編というのと同じなんですよね。全体として超進化した宇宙人、ロボット、未来人、人造人間、ミュータント(超人類)を描くことで、人類という存在の「限定性」を明確化する編集意図を感じました。当時の福島正実の関心(SFマガジン掲載作品選定基準)はこの辺りにあったのだろうと想像されますね。
 

「SFマガジン・ベスト bP」(中)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月20日(金)23時04分5秒
返信・引用 編集済
  > No.4736[元記事へ]

 ひきつづき、『SFマガジン・ベスト bP』

 マレイ・ラインスター「考える葦」高橋泰邦訳(アスタウンディング、46) 大量のイリジウムを積み込んだ貨物宇宙船が、破壊工作で、とある孤立した未知の惑星に不時着する。その惑星は一種類の植物(葦のような茎のてっぺんに花が付いている)だけが繁茂し、他の一切の生物は存在しなかった。というのも、この植物は一種の知性を持っていて、他のすべての生き物を淘汰してしまってこの惑星に君臨していたのです。実はイリジウムを狙う盗賊が船を破壊したのですが、付近に不時着できる星はこの惑星以外になかった。盗賊は不時着した船からイリジウムを奪う算段で、あらかじめこの惑星に着陸して待ち構えていたのです。この辺スペオペ風ですが、筆法は現代SF的です。この頃にはニュー・ラインスターに変身を遂げかけていたのでしょうか。で、この惑星の支配種族である植物が、難破船に味方して盗賊をやっつけてしまうという展開になる。この植物の存在の仕方が、単に(スペオペ風の)植物の着ぐるみをかぶった人間ではなく、植物が知的進化を遂げればこのような思考形態を持つであろうな、という描かれ方をしていて、当時としては斬新だったのではないでしょうか。もっとも現時点より振り返って読めば「?」がついてしまうのですけど。

 チャン・デーヴィス「エレンへの手紙」林克巳訳(アスタウンディング、47) 本編で描かれる「人造人間」は「ロボット」とルビが振られています。今から振り返れば、とうていロボットではありません。生物学的な「人造人間」です。しかしルビは訳者がつけたのかもしれませんし、もともと原文は「ロボット」だったのを訳者が不適当ということでこのようにしたのかもしれません。どちらをとるかで反対の意味になります。ともあれ、意識や感情を持っており「人間」とまず変らない存在として措定されています。問題はラストで、いかに人間と同じでも、人造人間として生まれたものは人間と同等ではない存在であるという結論です。「愛しのヘレン」とは正反対ですね。

 ウィリアム・テン「生きている家」小尾芙佐訳(アスタウンディング、48) これは「葎生の宿」と同じような、家に好かれてしまう話。但しこっちは、家の中でなら主人公の願いを全部叶えてしまう、いわばドラえもんのポケットみたいな家なのです(主人公といつも社会観において意見が対立していた近代女性は夫唱婦随型女性に変えられる。この点「エレンへの手紙」と通底する無意識が)。家の願いはただ仕えたいという欲望と主人を持ちたいという欲望。しかし主人公の友人(上司?)の博士は想像して戦慄します。もしもそのうち家の外でその欲望を満たそうとし始めたら!? いやドラえもんののび太に対するスタンスが、そんな欲望でなくてよかったですなあ(^^;
 
    (管理人) 「エレンへの手紙」のラストは、結局『破戒』のそれと同じですよね。  

「SFマガジン・ベスト bP」(上)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月18日(水)22時05分2秒
返信・引用 編集済
   クラークつながりで『SFマガジン・ベスト bP』に着手。范文雀。

 アーサー・C・クラーク「太陽系最後の日」宇野利泰訳(アスタウンディング、46) 読み返すたびに思うのですが、がちゃがちゃしているんですよね。最初に売れた作品ということで、書き慣れてない感を随所に感じてしまう。とりわけ、視点人物からの描写(視界)に、作者の解説的描写(視界)が混入してくるのが煩わしい。地下鉄の場面なんか、車内放送を上手に使い、地理的状況は母船からからの視線で解説すれば、作者が出てくる必要はないんじゃないでしょうか。
 そうはいっても、遠い星雲状の一塊の霞が忽ち拡大して、何千という光点の整然たる格子構造に分解される場面は、何度読んでもセンス・オブ・ワンダーがあります。

 レスター・デル・リイ「愛しのヘレン」福島正実訳(アスタウンディング、38) 実は馬鹿にして読んでいませんでした。なかなかよいではありませんか(>おい)(^^;。主人公が開業して入居したビルの、階下の小さなロボット修理店、という舞台設定で、一気にひきこまれました。この頃(1940年前後)のロボットは、平気で擬似人間的な感情を付与されていたのでしょうか(同時代のグラッグもそうですね)。その結果、少なくとも本篇は、中国古小説の異類婚姻譚、狐魅譚の変形として読め、面白かった。鶴女房と似て非なる部分が、英米的要素ですね。

 エドモンド・ハミルトン「世界のたそがれに」小笠原豊樹訳(ウィアード・テールズ、36) 人類滅亡後の荒廃した地球を一幅の絵画のように定着させた一篇。ハミルトンはこういうバラードを歌わせても天下一品です。こういうの大好きなんですよね。実は、今度の『チャチャヤング・ショートショート・マガジン』(10月刊行予定)に、私もこのテーマのショートショートを寄稿しております。といっても私のはパロディというもおこがましい擽りなんで、期待されても困るのですがだれも期待していませんかそうですか
(ーー;。

 A・E・ヴァン・ヴォグト「遙かなるケンタウルス」高橋泰邦訳(アスタウンディング、44) 本篇自体は独立作品ですが、のちに『宇宙船ビーグル号』の第一話に書き直されたそうです(「ビーグル号」は、たぶんジュブナイルにアブリッジされたのでしか読んでいない)。個々の小道具は子供だまし(時代性?)ですが、それらを取り払ったストーリーというかシチュエーションの並べ方は、いかにもヴォークトらしい。と言うか、いつもながらの(?)強引な時間パラドックスに魅了されます。SFM初期に続々と掲載された光瀬クロニクルを、毎号待ちかねてむさぼり読んだリアルタイム読者と同じで、ヴォークト作品も当時のアメリカの読者に待ちかねるようにむさぼり読まれたのではないでしょうか。作品の(客観的な)実力以上のオーラが出ているんですよねえ。

 アイザック・アシモフ「AL七六号失踪す」田中融二訳(アメージング、42) 外は鋼鉄でも中は人間だったロボットに(「愛しのヘレン」はアンドロイドというべきでしょうが)、一定の枷をはめたのがロボット三原則だと思うのです。以降SFに描かれるロボットも、次第に(禁断の惑星のロビーのような)所謂ロボットらしいロボットに変わっていくと思うのですが、もっともアシモフ自身の描くロボットは、それでもまだ人間的です。過渡期的といいますか。本篇も月面用に特化したロボットが地球で駆動したため、プレインストールされた設定が地球環境に合致せず面食らうのですが、その面食らい方悩み方は人間そのものなんですね。前説でF氏がアシモフのロボットを「従来のフランケンシュタイン的ロボット」との相違に着目していますが、フランケンシュタイン型ロボットとアシモフ型ロボットの間に「ロボットの着ぐるみをかぶった人間」を置くべきような気がします。
 

Re: 「自殺卵」(番外)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月17日(火)00時23分9秒
返信・引用 編集済
  > No.4734[元記事へ]

 ネットに原文がありました。→こちら

   When the quiet knock came on the door, Robert Ashton surveyed the room in one swift,
   automatic movement. Its dull respectability satisfied him and should reassure any visitor.

 1)の訳はやはり直訳そのものですね。日本語としてはすわりの悪い表現で、翻訳しがたいのは理解できますが、直訳では芸がなさすぎる。それこそ翻訳者の腕の見せ所でもあるはずですよね。

 

「自殺卵」(番外)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月16日(月)22時07分56秒
返信・引用 編集済
  > No.4731[元記事へ]

 先日読了した眉村卓『自殺卵』のラストの一篇「とりこ」は、SF的にいえば主人公の意識が、通常の時間の流れから外されてしまって或る「一瞬間」に閉じ込められ、(そもそも身体はなく視点も固定されているので)ただ考えることだけしかできない状態に、(主人公の主観時間で)10年以上留め置かれた事態を扱ったものといえます。
 この状態について主人公は、かつて読んだ海外SFの「倦怠の檻」*を思い出します。調べてみるとリチャード・R・スミス著で『宇宙の妖怪たち』に収録されているようです。ジュディス・メリル編のアンソロジー『宇宙の妖怪たち』を、私は高校二年の時に友人から借りて読んでいると、記録に残っているのですが、ぜんぜん覚えていません。主人公が内容を要約しています。なるほど、似ているっちゃ似ていますが、これはどっちかといったら筒井さんの「しゃっくり」ですなあ。
 私は「時間がいっぱい」を思い出しました。といっても、時間牢へ閉じ込められる話、というくらいしか覚えていません。
 で、福島正実編『時と次元の彼方から』を出してきて、読み始めたところ、2行目で引っかかってしまいました。
1)「ドアが静かにノックされたとき、ロバート・アシュトンはすばやい機械的な動作でひとあたり室内を見回していた。その退屈なお上品さが、彼を満足させた。これならどんな客が来ても疑いを解くだろう。」
 下線を施した文が、文脈の中で浮き上がっているように思えたのです。これでは前後がつながらないように思われます。
 『中継ステーション』で、またぞろ訳文に神経質になってもいましたので、こころみに『天の向こう側』を掘り出してきた。こちらのタイトルは「この世のすべての時間」です。
 早速対照。「この世のすべての時間」ではこうなっていました。
2)「ドアが静かにノックされたとき、ロバート・アシュトンは、すばやい動作で無意識に部屋を見まわしていた。地味で見苦しくないことに満足だったし、どんな来訪者でも、これなら安心するだろう」
 うーむ。2)の訳文のほうが、意味がとおっていますよね。こっちを読んでいれば、私は「引っかから」なかったと思います。
 もっとも2)訳を見たあとで1)訳を読めば、わからんでもありません。実際は、1)訳が直訳に近いんでしょう。2)訳は訳者によって解釈され、ほぐされた訳文なんでしょう。でも私は、日本語として不自然な直訳文よりも、解釈されほぐされた訳文のほうがありがたい。
 ということで、山高昭訳で読んでみました。
 わ、なんと時間牢に閉じ込められる話ではなかった! そういえば本篇に触発されて、大昔、ある一瞬という時間牢に終身刑に処された囚人が、暇を持て余して、写真をとるためにポーズしたまま凍りついている人物の肩越しに、囚人の時間で数時間、じっと立ちつづける話を考えたことがあった。この(通常時間流にいる)人物は、出来上がった写真を見て、肩越しにぼんやりと写っている人間らしきものを見て、慄然とするのですね(^^;
 そういうわけで、いつのまにかクラークの小説自体が、そんな話のように思い込んでしまっていたようです。
 話を戻します。「この世のすべての時間」では、主観時間の一年が通常時間の一分なので、そこは少し違うのですが、それでも「倦怠の檻」よりは「とりこ」に近いと思いました。

 ところで、またクラーク作品に戻りますが、この結末、主人公にすれば「どっちもどっち」だったのではないんでしょうかねえ(^^;

*「記憶の檻」は、よほど著者にとって印象深い作品であるようで、エッセイ集『しょーもない、コキ』(出版芸術社刊)所収の「記憶の圧力」でも言及されていますね。
 

「中継ステーション」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月15日(日)23時22分4秒
返信・引用 編集済
  クリフォード・D・シマック『中継ステーション』船戸牧子訳(ハヤカワ文庫 77、原書 63)読了。

 いつ読んだのかも定かではないし、ストーリーも、もう完璧に忘れてしまっていたのですけど、読み始めたらほとんどすべてのシーンを「覚えて」いました。どのシーンも、「あ、そやった、そやった」という感じで思い出せたのです。ところが最後まで「このあと、どう展開していくのか」は甦ってきませんでした。こんなのは初めての経験です。読みながらずっと不思議でした(^^;
 面白かったです。ぐいぐい引きずり込まれて読みました。ただラストは蛇足だったかも。35章以下は不要だったと思います。書き終わってしまうのが名残惜しくて、ついつい引っ張ってしまったんでしょうか。ちょっとソニー・ロリンズを思い出しました(>おい)(^^;
 この作品自体は傑作というより佳品という感じですが(『都市』は傑作です)、こういう「SF」は、ほんと奇跡みたいによいですね。クラークやハインラインが先導した50年代SFジャンルに、こんな話を書く作家も一緒に加わっていたというのは、本当に奇跡ではないでしょうか(こういうSFとは、つまりシマック、スタージョン、ベスター、ディックetcですね。彼らはゲットー内では周辺的だったと思うのですが、60年代SFは、むしろこっちの方から出てきた連中が主流になっていったんですよね。ディッシュ、ディレーニ、ゼラズニイetc)

 たとえば、宇宙の精神存在と魔法装置を介して交流する感応者って、要するに、神と、鏡や水晶球を介して交信する巫女というのと同型なんですよね。アシモフの銀河帝国は、神秘性のかけらもない世俗的存在ですし(それはそれでなかなか良い)、クラークのオーバーマインドは精神存在みたいな感じではありますが、原理的には人間でも加われるわけですから、連続的な(つまり物理的な)存在なんでしょう。ところが神(god)と人間とは、あくまで断絶した存在なわけで、たぶんシマックのそれも、交信はできても一体化はできないと思います。
 この対立は「魂」の存在を認めるか認めないかの対立と相関的なんですよね。
 クラークやアシモフは「魂」なんて信じてはいないでしょうが、本書では「魂」の存在を肯定しているようです(今ページを捲り返していたのですが、該当箇所発見できず)。シマックってカトリックなんでしょうか(笑)。その意味ではラファティとも同類項で括れるかも。
 いずれにしても、SFとは空想ではあれ物理的な事象をテーマにするものですから、シマックの小説世界は、それとはかなり異質な世界であるのは間違いないと思います。

 しかし、この訳文どうなんでしょうねえ。こなれていない感じがしたのですが。
 

「自殺卵」まとめ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月15日(日)14時35分30秒
返信・引用
   眉村卓『自殺卵』(出版芸術社 13)の感想文、改稿しまとめたものを、ブログチャチャヤン気分に掲載しました→http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/253.html
 

「自殺卵」(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月15日(日)03時13分28秒
返信・引用 編集済
  > No.4730[元記事へ]

『自殺卵』、ラストの「とりこ」を読みました。
 冒頭の、「今回は、緑映一にしよう」は、もちろん「佐藤一郎」を踏まえています。だから「今回は」となるわけですが、となると、この「今回は、緑影一にしよう」とつぶやいているところの所謂「話者」は、一体だれなのか? 当然主人公である緑映一ではありえませんよね。いうまでもなく作者なんです。「佐藤一郎と時間」を書いた(語った)作者が、今回、本篇「とりこ」も書いた(語った)ということが、表現されているわけです。
 そうしますと、「私」が主人公の「退院後」も、形式の慣性で「私」が話者(視点人物)のように見えますが、やはり作者が視点人物として語ったもの、と見てよいのではないか。
「どこにでもいそうな名前でいいのだ。ある本によれば、日本で一番多い苗字は鈴木ではなく佐藤だそうである。なら、姓は佐藤で名も(今は少ないかもしれないが)ありふれた一郎でいいだろう」も、「今回は、緑映一にしよう」も、この二人の主人公を話者と考えると浮き上がってしまう一文ですよね。でも、なぜ著者がこうしたのかに思いを致せば、当然こうでなければならない仕掛けであったことに気づかない訳にはいかない。

 結局(「私」も含めた)この三人の主人公は、著者が演じている、もしくは著者が中に入っている着ぐるみと考えてよい。作品の冒頭で著者は、今から被る着ぐるみに、とりあえず仮の名前をつけたんですね。あ、それからもうひとつ、演じているわけですから、彼らは著者そのままではない、ということも念のため記しておきましょう。
 そうするとどうなるのか。この三部作は単なる私小説ではなく、「作者の内的世界を舞台にした、神の視点から描かれる一般小説」ということになるのです(いわずもがな、作者の内的世界における神の視点とは、つまるところ作者の視点に他なりません)。そのような二段階構造を採用することで、ようやく著者は、自身の状況という、ふつう目を瞑ってしまいたい、なかなか客観的に見るということが困難なものをテーマにしたこの三部作を完成させることができたのではないか。私はそのように受け取りました。

 さて、前作「退院後」は、文字どおり退院したばかりの主人公が、バスに乗っていて不思議なヴィジョンを見る話でしたが、本篇では、退院して1か月後の世界が舞台となります。もちろん前作とは別の話ですから、「私」と「緑映一」は別人格です。「私」が見たヴィジョンを「緑映一」は見ていません(というか「私」は共同幻想を失って、いつともどこともいえない場所をさまよい続けているはずです(^^;)。しかし着ぐるみの中の人は作者自身ですから、この三作は内的に連結しているのです。

 退院して一か月経ったけれども、まだ体力は戻らず、歩くと体がふらふらと傾いてしまうのですが、それでも緑一郎は、そろそろ物書きの仕事を再開しようと思いたち、デパートへ原稿用紙や消しゴムなどを買いに出かけます。そのデパートの特設売り場で「幸運をもたらす水晶玉」が販売されているのを見かける。ちょうど入院保険が下りたところだったので、少々高価でしたが、販売員に勧められるままに購入する。販売員は緑に、一週間したらまた来て下さい。幸福になっていますよ、というのでした。
 帰宅し、水晶玉を取り出し、机においてぼんやり見入っているうちに、緑映一は眠ってしまい、ふと目覚めると、目の前に自分の顔があってぎょっとします。緑映一の「意識」は水晶玉の中に取り込まれてしまって、その視点から、自分自身(いわば魂の抜け殻)を見ていたのです。
 見えている視界は、固定されたテレビカメラのように動かせません。なのでじっと自分の顔を見つめることしかできない。一方、抜け殻の方も微動だにしない(多分まばたきもしない)。凍りついている。
 そのうち過去のいろんなことが思い出されてきます。どんどん記憶が甦ってきて、それこそ意識がめばえてからの70有余年をすべてたどり直したのではないかと思われるほど。その間、眠ったりもするのです。思い出すのにもある程度時間を要しますから、どうやら自分は、10年以上こうしているようだ、と気づきます。一方、抜け殻の方はまったく変化がなく、時間の経過は認められません。
 で、ふと気づくと元の体に戻っていました。時計を確認すると、水晶玉を机においてぼんやり見つめた時間からほとんど経過していなかったのです。水晶玉の中で、自分は10年以上過ごしたという確かな感じがあるのに、です。

 ところで「魚服記」は「夢応の鯉魚」の元ネタですが、周知のように意識が鯉の中に閉じ込められる話です。ただし「魚服記」では抜け殻と意識の時間の流れは同じです。一方「邯鄲夢」は、主人公は夢の世界で20数年過しますが、夢から覚めれば、ほんの一瞬のうたた寝であったことを知る。どちらの設定も中国古小説にはよくあるパターンです。「とりこ」はこの両方の要素を持っています。その辺は中国古小説っぽいのですが、視点の距離感がちょっと違います。本篇の方がずっと近い。この視点距離の近さは、本篇の創作動機からの必然なんですね。

 話がそれました。この異様な体験後、またとり込まれては大変と、緑は水晶玉を仕舞い込んでしまうのですが、その一週間後、病院の検査で癌が再発していることが判明します。体力が落ちているので再手術が可能なものかどうか、抗癌剤治療にするか、様子を見ましょうということになり、病院をあとにする。
 緑は、水晶を購入したデパートに向かう。一週間前購入した際に、販売係の女性に一週間経ったらまた来て下さい、と言われていたのを覚えていたからです。
 特設売り場はまだあり、一週間前の販売係はいなかったけれども、ショーウィンドーの中にはケースに入った水晶玉が並べられ、そのうちの一つは、水晶玉が見えるようにフタを外されていました。
 それに見入った途端、緑の脳内に、わっと、水晶玉に閉じ込められていた10数年間に想起した無数の記憶や想念が、ふたたびとび込んできたのでした。
 が――そのとき緑が感じていたのは、「幸福感」といってよいものだったのでした……

 うーむ。この感覚(幸福感)、実はちょっとわかりづらかったのです。でもこれが著者の「実感」なんでしょうね。で、ふと「午後の恐竜」を思い出したら、なんとなく類推的に了解できたような気がしたのですが、しかしそれが正しいかどうか、よくわかりません。本当のところは私自身が、著者のように死を間近にしてはじめて、思い至ることなのだと思います。

 ここで書いておくべきだと思うのですが、著者が着ぐるみをかぶって演じた本篇は、当然小説ですから、小説の要請に従って誇張もあれば改変されたところもあります。緑映一は癌が再発してしまいますが、現実の著者の場合は、検査で腫瘍が認められたものの、精密検査でそれが良性のものであることが判明し、よかったよかった、ということになったのでした(^^)。現在の著者は、むしろ手術前よりも仕事量も増えているのではないでしょうか。事実今年になってからの出版も、本書で既に(復刊も含め)5冊目で、これは70年代80年代の、一番忙しくされていた時期に匹敵するのではないでしょうか。
 本書を読まれた方の中には、心配された方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう次第ですので、どうかご安心下さい!

 ということで、眉村卓『自殺卵』(出版芸術社 13)読了です。
 

「自殺卵」(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月14日(土)02時05分0秒
返信・引用 編集済
  > No.4728[元記事へ]

眉村卓『自殺卵』より、「退院後」を読みました。
 先回読んだ「佐藤一郎と時間」と本篇「退院後」、そして次の「とりこ」は、三部作ということになるかと思います。
 これまでも著者は自己を小説の基底に据えるのが特徴だったわけですが、しかしそれは小説世界が、著者がこれまで生きてきた、そのことにおいて必然的に遭遇し決断し処置して来た、来ざるを得なかったところの、現実世界(歴史)への対峙(格闘)の仕方と重ね合わせて、納得できなければならない、納得できないことは書けない、といった、一段階高次のレベルでそうだった。
 著者のリアルな、具体的な体験がそのまま小説の素材となることは少なかったはずです。たとえば小説世界が、固有名詞を隠しているだけで大阪南部の土地を知るものには自明であるとか、朝が極端に弱いので目覚まし時計を何個も枕元に置く(というのは私の著者に抱くイメージだけれども、それに類する描写は著者の作品に枚挙にいとまがないはず。「あの真珠色の朝を…」はオブセッションでしょう(^^;)とか、いかにも著者を彷彿とさせる図ですが、前者は主体性に関わってくるものではなく、後者はある意味小説家一般のイメージともいえます。

 今回の三部作はそういうレベルではなく、まさに「著者の現実」が小説の核となっている(傍証として「佐藤一郎と時間」では主人公の職業の記述はないのですが、後二者でははっきり作家であることが、それもどうやらSF作家らしいことが分かるようになっている。本集収録作品中で主人公が(SF)作家となっているのは、この2篇のみ)。まさに、「私小説」そのものです。もっとも、そうはいっても単なる私小説に終始してしまわないのがこの著者らしいところでありまして、最終的にはやはり想像的な領域へと拡大していくのですね。

 さて本篇です。主人公は「私」。名前の記載はないですが「佐藤一郎」ではないと思います(ああ、先に言っておきますが、小説内人物として別人という意味です)。が、その世界設定は引き継いでいます。「佐藤一郎……」のラストで、主人公に進行癌が発見されました。それを引き継ぐ本篇では、すでに入院手術は成功しており、主人公「私」は5日前に自宅に戻ってきている。というところから話は始まります。しかし長期の入院生活でまだふらふらの状態。こんなことで回復するのだろうかと「私」はあやしく思っています。
 また主人公は、自分が世の中から遅れ始めていることにも(これは既に10年ほど前から)気づいている。「外の世界」に対する興味も、それに関わっていこうという意欲も、減退してしまっている。 橋元淳一郎的に言うならば「生への意志」が希薄化しているのですね。あともうひとつ、それと同時に現代社会の「棄老」傾向に嫌気がさしているせいでもあるのです。

 話はそれますが、前者に関してはこれは多分に老化の一般現象で、実際私も、近頃とみに「外の世界」への関心は減退していまして、新聞もしっかりとは読まなくなってきました。テレビも別に見たいとは思いません。50代も後半になれば、誰でもそうなのではないでしょうか。違うのか。
 いや政治家をみなはれ、ぜんぜん「生の意志」は希薄化などしてませんがな、ですって? たしかにそうかもしれません。しかしそれは忙しすぎて、実は惰性なのに、それに気づく暇がないだけかも。というのは、仕事関係で、(オーナー)社長を引退し息子に譲った方が、複数、引退した時点では元気だったのが、数年たたず亡くなっているという例を私は知っているからで、「仕事一筋」でやって来た人が、あるいは「社内抗争」に明け暮れていた人が、とつぜん、というか、「生まれて初めて」走るのをやめたとき、一気にそれがやってくるのではないか。

 閑話休題。要するに外界への関心の低下は、老齢化の一般的現象でもあるということを言いたかったのでした。いまひとつの社会の「棄老」傾向も、次の「とりこ」で、客観的に看破されているように「社会」の本質的契機にほかならないので、これまた社会が老齢者から「生への意志」を奪っていくという一般現象の面がありますね。

 さて、退院して5日目の「私」は、ふらふらしながらバスに乗っています。と、とつぜん視界が真っ白になり、バスの中ではないようです。そしてその白い霧の中から、過去の知り合い達がぼんやりと現れ、次第にはっきりとした姿を持ち、近付いてきては、「私」の横を通り過ぎ、通り過ぎると同時に消えていくのでした。そしてその知り合い達は、何ほどか、「私」が記憶しているその人達のイメージとは違うのです。
 そのとき、頭の中で、だれかの声が聞こえてきたのです。声は言います。そもそもあんたの記憶が怪しいんだよ……

 その後も主人公の視界は何度も変化し、そのたびに自分が知っている現実とは少しずつ異なったものが見えてくる。
 その理由を、声の主が言う。「あんたは、あんたたちの共同幻想である世界に生きている」「その中であんたは、その共同幻想からこぼれ落ちようとしている。老化や病気で、もはや共同幻想*のうちにとどまっていられない人だ」
 *この「共同幻想」というのは、おそらく(吉本隆明のでも岸田秀のでもなく)松井孝典が説く共同幻想です。例の東京堂書店のフリーペーパー「眉村卓が選ぶ10冊」に松井氏の『我関わる、ゆえに我あり』が選ばれており、私も読みましたが、基礎素養が達してなくてよくわかりませんでした。課題とします。
 でも要するに、私の知識内解釈でも、世界に参加してこそ生の快感が実感できるというのは社会学の根本命題なので、その視点からしても、上記の理由で「生の意志」が減退すると引力よりも斥力が勝ち始めて、最後には振りほどかれてしまうというのは妥当性があるように思いますね。

 やがて、脳内に言葉を送ってきた当の存在が姿を現す。それはこんな姿。「高さ20センチか30センチ、太さ直径10センチばかりの指サック状」「ちゃんと小さな目が二つと、裂け目のような口があった。両腕もあった。その裾の下からは二つの足が見えている」。……えと、それって眉村さんが描くおなじみの「タックン」とか「卓ちゃん人形」と呼ばれているキャラクタでは!?
 
 こいつが、あんたらは自分たちが現実に存在していると思い込んでいるが、そして共同幻想の中に生きているが、実はそもそも、あんたらはわれわれ(タックン)の想像の産物、われわれが「あんたらを生み出した存在だよ」、だからあんた(主人公)を消去することも簡単にできるのだと、のたまうのです。
 ああそうでっか、と主人公、(そもそも生の意志が薄れていますから)じゃあ消してもらって結構と売り言葉に買い言葉。
「そうかそうか」「じゃ、そろそろそういうことにしよう」「消えてもらうよ。さらばだ」
 そのとき主人公は重大なことに気づきます。実は……!?
 ――いやだいたい、「共同幻想」なんて言葉もそうですが、そいつが「タックン」であることからも当然の帰結なのです(笑)

 ということで、「私」は消滅していない様子ですが、すでに共同幻想から離脱しているからでしょう、世界は確固たる相を失っており、視界は像を結ばず、輪郭のないぼんやりした異空間として現前している。主人公はその流動的な流れの中を漂流するばかりなのです。

 ところで、興味深い記述がありました。「私」が現在の「私」に至ったのには、来し方における重要な分岐点で、こちらに来るように曲がってきた結果なんです。そういうことですよね。
 ところが、上記の白色空間に現れる、自分の記憶とは異なった映像の一つとして、そのような結節点で、別の道を選択しようとしている「過去の私」が現れます。そしてそのことによって「私」を戦慄させるのです。
「かつて私の書いたものを読んで、この筆者は幼児回帰願望を持っていると決めつけた者がいたけれども、それは錯覚である。過去を語る人間がみな幼児あるいは少年的回帰願望を持っていると思うのは、私に言わせれば文学中毒である」
 として、
「少なくとも私の場合、過去は、そこからうまく今のコースに抜け出せた記念碑なのだ。そこからもしも別の道に行っていたなら、今のおのれはない。今の道を来たから自分は助かっているのである。私はそう信じる。だから過去は、私が憎み恐れる対象なのだ。現在の自己を肯定できなければ、おのれを信じるのは不可能である。現在の自己を肯定するには、過去、自分が選ばなかった方向につながる過去を憎悪すべきなのである」
 だから、白色世界に浮かぶ、過去の「自分」達の「間違った」決断に、主人公の「私」は恐怖したわけです。言われてみればそのとおりですが、ちょっと独特の観点でもありますね。
 いうまでもなくこの部分は、主人公というより、著者自身の生の発言というべきでしょう。本篇の「私小説」性が最も際立った部分です。そういえば著者は何かのインタビューだったかで、人生をやり直せるとしたらどの時点に戻りたいか? との質問に、やり直したくない、と回答していたのではなかったでしたっけ。

 結局、本篇は何だったのか? 老齢化と社会の棄老傾向でいいかげん社会(共同幻想)からの斥力が働いていた主人公の「私」が(もちろんその頃からうすぼんやりと半自覚してはいたのでしょうが)、大病を患ったことで(手術の結果は成功だったけれども)、年齢からしても病気からしても、いつ死んでもおかしくない、いつ死んでも想定内だということをはっきり自覚し、客観的に見られるようになり、ある意味開き直った、その軌跡を定着させたものといってよいのではないでしょうか。
 

西日本新聞の村上芳正展記事

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月12日(木)23時32分30秒
返信・引用 編集済
   弥生美術館にて好評開催中(〜9月29日まで)の「三島由紀夫の最後の装幀画家 村上芳正展」ですが、西日本新聞朝刊文化欄に、本多正一さんの「忘れられた装幀画家ーー村上芳正」が、今日から3日間、連載されているようです。私は読ませていただきましたが、これ、とてもよい紹介文というか解説になっています。村上芳正という画家のことをよく知らない方は(私もですが)、三島由紀夫との交流とか、必見だと思います。で、西日本新聞のサイトを見ましたが、まだ反映されていませんね。残念。掲載されましたらまたお知らせします。私はPDFにして保存しましたので、もしご要望があればメールに添付してお送りできます(連載中なので今こちらで公開することはできません)。
 しかたがないので、8月31日に信濃毎日新聞夕刊に載った記事を貼り付けておきましょう(笑)

 

 あ、もっと良いサイトを見つけました→インターネットミュージアム。展覧会場の動画が見られます。

 

「自殺卵」(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月12日(木)02時07分16秒
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  > No.4727[元記事へ]

 眉村卓作品集『自殺卵』より、「佐藤一郎と時間」を読みました。
 いわゆる小説の常識的な筆法の拘束から、第2グループの作品群は何ほどか自由になってきていると書きましたが、本篇はそれを批評的(再帰的)に行っているように思われます。冒頭からして異色です。
「どこにでもいそうな名前でいいのだ。ある本によれば、日本で一番多い苗字は鈴木ではなく佐藤だそうである。なら、姓は佐藤で名も(今は少ないかもしれないが)ありふれた一郎でいいだろう」
 なんというテキトーさ。ラノベの命名法とはまぎゃくですね。端から虚構構築を拒絶しています。

 その、主人公である佐藤一郎は、春の或る日、散歩中に不思議な現象に遭遇します。突如、行く手の空中に半透明の物体が現れ、忽ち透明さを失って黄緑色の塊となり、草むらの向こうに落下したのです。恐る恐る首を伸ばして覗きこむと、その物体は人間に変身する最中だった! 変身を完了しどこから見ても人間の男そのものになった「それ」は、逃げ出そうとする主人公に「待たれよ」と声をかけたのです……

 鈴木二郎(!)と名乗った「それ」は、自分は人類の歴史を過去から未来へと時間を飛び越して進んでいる旅行者で、いま、この時代に辿り着いた。ついてはお話を聞かせてもらえないか、と佐藤一郎に言うのです(おそらく「待たれよ」なんて古風な呼びかけをしたのは、江戸時代あたりから跳んできたんでしょうね(^^;)。そして鈴木二郎は、人類は老年期にさしかかっていると思いますか、などと訊ねるのです。確かに、原発やバイオ技術やコンピュータなどは、人類の活力を維持するための、副作用も毒もある(生活習慣病の)薬のようなものなのかも、佐藤一郎は漠然と思います。
 鈴木二郎が未来へ去っていったあと、佐藤は不思議な夢を続けざまに見ます。それはケイ素型生物の、その始まりから終焉までを、ピョンピョン跳びながら、七夜で体験してしまう、というものでした。そして卒然と、これは鈴木二郎と同じ体験をしたのではないか、と気づく。おそらく鈴木二郎も、地球人類の終焉のときを、その目で見届けたんでしょう。それが遙か遠未来なのか、ほんの数年先の事だったのか、それはわかりませんが。
 その後佐藤は、検査で進行性の癌である事を知る。入院しなければならないことになる。医師の雰囲気から、余命はそう長くないようだと感じる。お話は、佐藤が検査の結果を聞いたあと、病院の階段を降りてくるシーンで終わります。「銀杏は次々と黄葉を降らせていた」

 本篇は主人公である佐藤一郎が遭遇した怪現象(夢を含む)の顛末を記述するもので、これは中国古小説でもっとも一般的な「伝」という叙述形式なんですね(例えば「南柯太守伝」)。その意味で、本篇は「佐藤一郎伝」ということになる。

 「南柯太守伝」というのはこんな話。ほんのひとときの午睡に主人公は夢を見ます。門の外に立つ櫂の木の根元の穴を通って行った架空の国で、王に信任され、めきめきと頭角を現し王に次ぐ権勢を得るも失脚し、尾羽うち枯らして故郷に帰ってきたところで目覚める。目覚めて不思議に思った主人公が、当の櫂の木を調べると、果たして穴があり、掘り進めると、巨大な蟻の巣になっていて、その配置が夢のなかの王国と同じなのでした。その後主人公は亡くなるのですが、それは夢の中で(現実には死んでいるはずの)父と再会を約束したその日だったのです。

 かくのごとく「南柯太守伝」は、夢と現実に相関関係を張りめぐらせた筋立てなんですが、「佐藤一郎と時間」も同じといえるのではないでしょうか。夢のなかで佐藤一郎は、或る文明の発生から終焉までを通観する。鈴木二郎もおそらく地球文明の最期を見届ける。夢から覚めた佐藤一郎は、現実の世界で、自らの生の終焉に突き合わされるわけです。そのゆくたてが、春に始まって銀杏の落葉する秋までの間に嵌め込まれています。

 以上は小説としての本篇の要約ですが、著者の小説の例に漏れず、本篇に於いても著者自身の体験が素材として利用されています。実は著者自身も、あとがきにありますとおり、検査で癌が発見され手術されたという事実があるのです。幸い手術は成功し予後も順調で、今現在著者は以前にもましてピンピンされていてお元気なんですが、執筆されたのは癌が発見された直後から手術前という時期で、いろいろ精神的にもしんどかったこともあったのではないでしょうか。本篇の色調にはそれが反映されているようにも感じられます(いまそれを何を憚ることもなく公言できることを、私はとても嬉しくありがたく思います)。ということで、次は「退院後」を読みます。
 

「自殺卵」(5)改稿済

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月11日(水)03時39分40秒
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 『自殺卵』より、「ペケ投げ」を読みました。
 本篇は、もろに「聊斎志異」です。いつからそれが始まったのかははっきりしませんが、いつのまにかそれは始まっており、またたく間に全国に波及しました。それとは「ペケ投げ」です。
 「ペケ投げ」とは何か。文字どおりペケポンのペケを投げること。「ペケ投げ」なんていわれますと、「自殺たまご」と同様、その語感に滑稽味を感じてしまうんですが、しかしてその実体はといえば、これまた自殺卵と同じで、人間社会にとってきわめて深刻な現象、事態なんですね。

 不正なことを目撃したり、許せないと感じたりしても、ふつう人間は、即それに対応して行動を起こすことはありません。余程のことがない限り胸のうちに押しとどめて、非難したりはしないものです。自制心が働きます。ところが「ペケ投げ」は、人間の自制心(理性)のコントロールが効かない不随意現象なんです。
 ペケ投げでは、許せないと感じた途端、その気持ちを制御するいとまもなく、その原因に向かって「X」を投げつけてしまっている、という行動です。その瞬間を、当人は自覚しません。とにかく無意識のうちに、当人は「ペケ投げ」をしてしまっているのです。投げつける格好をするというのではありません。不思議なことに、何も持っていない掌から、黒いX印が飛び出して、目標物(や人)にべっちゃりとくっついてしまうのです。

 そもそも人間社会は、曖昧な部分を残すことでギクシャクせずに済んでいる面があるわけですが、ペケ投げにはかかる「大人の理性」は働きません。白黒はっきりと分たれて灰色の余地はない(しかも感情という非理性的なものに立脚している)。
 要するにペケ投げって「ダメ出し」なんですね。これがとんでもない事態であることは、別に想像しなくても分かります。実際にこんなことになったら、共同幻想の上に成立している人間社会は、忽ちにしてバラバラになってしまうのではないでしょうか。そう「ペケ投げ」もまた、現在を断罪するために贈られてきたギフトなんです。

 「ペケ投げ」の原理はまったく不明となっています。怪異だとしても、人はそれをあるがままに受け入れるしかない。
 「アシュラ」はとりあえず工業生産品でした。「自殺卵」もその原理は不明ながら「宇宙の作用」と自称する半透明のトコロテン生物(?)が配って回っていました。けれども「ペケ投げ」には、もはやそういった(擬似科学)説明すら放棄されています。ただ「ペケ投げ」という奇怪な現象が、いつのまにか日本中(だけでなく世界中にも)に拡がっているのです。これはまさに、「伝奇」や「志怪」の筆法です。一般的なSFの疑似科学的説明とは一線を画すものです。

 管見では「怪奇」とはレ点を施して読み下せば「奇ナルヲ怪シム」となり、怪異現象を合理的に解釈するという意味に拡大解釈できます(奇怪ナリとはいっても怪奇ナリとは一般に言わないのではないでしょうか)。その伝でいえば、「伝奇」は「奇ナルヲ伝フ」であって、怪異を疑わずそのまま伝えるという意味です。「志怪」もまた、(「志怪」の「志」は「三国志」の「志」と同じく記述するという意味なので)「怪ナル志ス(そのまま記す)」となるはずです。つまるところ中国古小説の「伝奇」も「志怪」も、同じ意味内容を表現しており、それはともに「怪奇」とは対角的な態度といえる。(「聊斎志異」の「志異」も同様です。聊斎は蒲松齢の号)
 そのような意味でいえば、「ペケ投げ」は「奇ナルヲ怪シミテ」合理的解釈を目指す「SF」ではありえません*。「伝奇」「志怪」「志異」と筆法を同じくするものといえると私は思います。いささか強弁にすぎるでしょうか(笑)。(*但し言う迄もなく広義のSFではある)
 本篇は、「自殺卵」に比しても伝奇へ傾斜しており、著者のこのような作品群の頂点的な位置を占めているように思われます。

 さて――。ペケ投げ騒動が沈静化してしまってから、主人公はこうしみじみと述懐します。「白状すると、私は心のどこかで、ペケ投げのあった頃が、なぜか、懐かしい気がするのだが」。この言葉は、先回引用した「今の時代をそういうかたちにすることに快感があった」に直接繋がっていくものでしょう。何もかもオブラートに包み込んで、一見、平穏平安な現代ニッポンの虚飾を、剥ぎ取ってしまいたい、ゼロへ引き戻したい、という(ゼロ世界を体験した)著者の密かな(そしていささか無責任でヤブレカブレな)願望が、ここには表現されているように私には感じられてならないのですが。
 

「自殺卵」(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月10日(火)01時29分46秒
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  > No.4725[元記事へ]

 『自殺卵』、今回は表題作「自殺卵」を読みました。
 先々回、「アシュラ」が第1グループの中に挿入されているのが不審と書きました。本篇を読んで少しわかったような気がしました。本篇に比べれば、「アシュラ」はまだまだ構築のリアリティに配慮がなされているのです。つまり、ある意味第1グループ的な作品なんですね。アシュラという抗老サプリメントもそれなりに「あり得るもの」と読者に納得できる。そのように書かれています。
 本篇の「自殺卵」はどうでしょうか? あ、そのまえに「自殺卵」は「じさつらん」じゃなくて「じさつたまご」と読むそうです(表紙や扉の題字もそのようにかなが振られています)。「じさつらん」では、なんとなく生殖細胞の「卵子」に関連するものを連想されそうだし、「じさつたまご」なら、ちょっと「温泉卵」みたいでなかなかよろしいんじゃないですか、ということのようです(笑)。

 閑話休題。「自殺卵」も「アシュラ」同様(安部公房的に言えば)未来からのギフト、現代を断罪するために贈られたものです。ところがその(小説内での)存在のあり方は180度違います。「自殺卵」を贈りつけている当の存在は、彼らの言に従えば「あなたがたのいうエイリアンでも生物でもありません。あなたがたにも感知も理解もできない、宇宙全体の作用なのです」。宇宙全体の作用みたいなものが、「機嫌よく滅んで下さい」なんて文言をしたためているのです(汗)。なんかもうヤブレカブレで、リアリティを装う意志をはじめから放棄しているような設定ではないでしょうか! 前々回、「小説をかっちりと構築して虚構世界を作り上げていこう、という(小説家としては当然の)志向性というか呪縛から、解放されて来ている」と書いたのは、こういう意味なのでした。まことに自由闊達、融通無碍の境地で、本作(以下第2グループの作品)は書かれている。あとがきで著者自身が、「ここから先が、何だこれ、変なものを書くんだな、と言われるだろう作品が並ぶ」と言っています。

 変なものとは、読者が「近代的な小説概念」を(無意識に)念頭して読むとそうだということでしょう。つまり「近代小説」(一般的なSFも当然その範疇です)とは別の表現、別の筆法を、著者は「自殺卵」以降の作品で選択したということです。その別の表現法とは何か? それが「聊斎志異」だったのではないでしょうか。
(ちなみに「聊斎志異」は清代の作物ですが、そのスタイルは同時代の明清の長編小説よりも、唐宋の志怪・伝奇小説により近しい。要するに中国古小説の筆法ということで、遠近法的立体的で幾重にも上から塗り込める西洋の油絵ではなく、淡い淡彩画・水墨画的な世界表現に、著者は向かったといえるように思います)。

 さて、以上のごとく新しい文体(スタイル)で表現された本篇は、そのスタイルの要請と相俟って、独特の世界観(感)を私達に提示しています。一読感じたのは、「淡々と進行していく不気味」といった感覚でした。
 本篇は、分類するならば「破滅小説」です。「宇宙全体の作用」と自称するわけのわからない存在が(それがまた半透明でトコロテンみたいな姿をしている(存在そのものではなく使い走りなのかもしれませんが)というのがなんとなくアンバランスで可笑しい。クラーク描く(もしくはSFが描く)至高存在との落差!)ばら撒いた自殺卵で、どんどん人口が減っていき、それにつれて社会がだんだん回っていかなくなる様子が、淡々と、何の感慨(哀感)も交えずに描写されており、そこに私は不気味な何かを感じずにはいられませんでした。筆法に「生」への執着が稀薄なのです。
 「破滅小説」と書きましたが、それは描かれる世界の破滅であると同時に、それを描いている「視点」というか「視線」に含まれている何かでもある。世界は次第に、かつての戦後的世界・焼跡闇市を彷彿とさせる風になっていくのですが、語られる視点は、むしろそれを喜んでいる気配があります。そういえばあとがきで著者は、「今の時代をそういうかたちにすることに快感があった」と書かれていますね。(戦後のゼロから発して)今在る(このようにしか在りえなかった)世界への違和感は、戦後を知らない50代の私にもあります。いわんやゼロを知っている70代の著者には(私のそれと同じかどうかは別にして)当然あるはずです。本篇はそのような意味で、一種の「復讐」なのかも。
「なお、誤解しないようにして下さい。われわれの贈り物で消滅した人は、いわゆる死後の世界に行くわけではありません。消えてしまうだけです。妙な期待は無用です」(107p)

 イギリスSF伝統の破滅ものを中国古小説的な筆法で淡々と描いた異色の傑作といってよいのではないでしょうか。
 
 

「自殺卵」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 9日(月)01時10分59秒
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  > No.4723[元記事へ]

 『自殺卵』より、「アシュラ」を読みました。
 アシュラとは、市販されている抗老サプリメント。精力剤とかそういうものではなく、精神を賦活する作用があるとのことでよく売れているらしい。もちろん小説内存在物です。本篇は、この薬以外はすべて、いまここにある現実の世界が舞台です。ですから、ほとんど一般小説を読んでいる感じ。しかしながら、アシュラは未来に属しますから、本篇はやはりSFです。すなわち安部公房的な意味で、アシュラという未来からの贈り物が、現実世界を逆照射する物語だからです。

 主人公の「私」は70歳。アシュラを1か月前から常用している。どのくらい効果があるのかまだわからないが、とにかくきちんと服用している。そんな私が、ある日、電車で同じ歳くらいの男(老人)に、身に覚えのない因縁をつけられます。何が気に入らなかったのか、居丈高に謝れというばかり。とりあえず話をしようということになって、男と共に停車した駅のホームに降ります。しかし男は頭に血が上って前後見境つかない様子で、掴みかかってきたのです。しかし「私」は、老いたりといえども武道の心得があった。逆にその手首をひねってねじ伏せてしまう。と、突如男が戦意を喪失し、呆然とした面持ちで、まるで憑き物が落ちたかのように私に丁重に謝り、ふらふらと離れていったのです。
 どうやら、精神を賦活するアシュラは、飲み過ぎると賦活を通り越して、老人特有の立腹癖を助長するらしい。そんなことがだんだんわかってくるのですが、「私」は飲み続けます。たしかに元気になってくる実感があるからですね。
 それからさらに1か月が過ぎ、「私」はウオーキングの途次、同様にウォーキングしている50歳くらいの男が、こっちを見て笑っているように感じ、瞬間湯沸かし的に怒りの発作に襲われ、気づいたときには、その男に向かって歩き出していたのでした……

 未来からのギフトは、老化という存在形式が、その形式をかぶせられた人間に、どのような作用を及ぼすものであるかを、かなり冷徹に剔抉してみせます。
 たぶん、著者は、実際に電車の中で因縁をつけられたりしたことなどがあったのかもしれません。本篇は、そういう個人的な体験を元にした私ファンタジーであるのかもしれませんが、本篇ではそれが個人的体験にとどまらず、そこから出発しそれを突き抜けて、老人とか老化といった一般的な命題の考究にまで昇華されて、小説化がなされているのです。まさに未来が現在を断罪するという、安部公房的な意味でのSFの、小品ながらひとつの成果となり得ていると作品であると感じました。
 

夕刊記事はネットにアップされないのでしょうか?

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 8日(日)13時45分51秒
返信・引用 編集済
   この記事(8・6夕刊)、事実ならとんでもないことなので切り抜いたのですが、YOMIURI ONLINEの方には未だに登録されていません。夕刊記事はネットには載らないのかな。それとも引っ込めたということでしょうか。数字自体が間違っていたのか。しかしそれならお詫び記事が出るはずなような。もしかして圧力?
 この記事によれば、厚労省は「期限の限りなき常用工(正社員)」も「一日バイト」も、(平等に)人数を足しあわせて「就職」者としているわけで、こんな数字にどんな意味があるのか、ってことですね。
 日本の失業率が欧米先進国に比して低いのは、日本の統計が(欧米で範囲されるところの)失業者を「失業者」と「無業者」に分け、「無業者」(求職しない者。たとえばニートや諦めて家庭に入ってしまった者)をカウントしないカラクリなんですが、この記事は同じことがなされていることを示しているはずです。つまり失業者では分母が小さくされ、就職者では分母一定で分子が増やされている。いずれにしろ雇用者に都合のよい、美しい数字が捏造されているわけですね。
 と同時に、安倍政権は民主党政権が厳格化した派遣社員制度をふたたび緩和しましたよね。「限定正社員」なんていう抜け道も作るみたい(東京新聞8・18朝刊)。これらの労働条件の悪化条件が、上記の厚労省のカウントでは全く反映されず、トータルとしての増加のみが可視化されるわけです。
 かつて厚生省や労働省は社会政策の牙城としてマル経出身者が多い省庁だったように記憶しているのですが、昔日の感がありますねえ。
    ↓クリックで拡大
 

「自殺卵」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 8日(日)03時06分45秒
返信・引用 編集済
   眉村卓最新作品集『自殺卵』より、「月光よ」を読みました。
 順番で行くと、次は「アシュラ」なんですが、先にこちらに着手しました。というのには理由がありまして、本集収録作品全8篇は、執筆時期に於いて二つのグループに大きく分けることができます。「豪邸の住人」と本篇「月光よ」は98年の作品なのですが、それ以外の6篇は、2011年以降に書き上げられたもの。したがってこの2グループの間には、実に10年以上の開きがあるのです(この間に中篇「エイやん」が03年に執筆されている)。十年一昔というくらいですから、その時差というのはやはり大きなものがあり、その断絶の間に、著者の文体は少し変化しています。

 先回、本書は執筆順に配列されていると、うっかり書いてしまいました。ところが実際は、上述のように「豪邸の住人」の次に「アシュラ」がきており、本篇「月光よ」は3番目に並べられている。こうなった理由が、ちょっと私にはわからないのです。少なくとも、巻末の収録作品一覧では正しく執筆順に配列されておりますし、著者あとがきでも「豪邸の住人」の次に「月光よ」に就いて述べられているのです。先に書きましたように、文体(スタイル)が変わってきているので、本文も執筆順のほうがよかったのではないかなあ、という感じが私にはありまして、そういう次第で「アシュラ」より先に本篇を読むことにしました。

 前置きが長くなりました。
 主人公の「私」はフリーライターで、会社勤めを続けていたら一年前に定年退職しているという年齢。定期健診で異常が見つかり、精密検査をしなければならないということになる。それで精神的に落ち込んで、深夜、とぼとぼと路面電車の駅から帰宅の途次、(折からの満月の)月光が強くあたって「月光溜まり」のようになって青く浮かび上がっている場所に行き会う。と、その月光溜まりから、「男」の脳に直接、思念が届いたのです……

 非常に幻想的な、詩的で静謐な小説世界が展開されます。うっとりとして読みおわりました。まさに狂気月食――じゃなくて狂気月光なんですが、ピンクフロイドの幽玄なサウンドが聞こえてきそうな世界です。通常は(現代は夜でも光が溢れているため健康な人間には)届かない月光の呼び声が、主人公の落ち込んで弱くなった心には届いたのです。
 こういう詩的な世界表現は、第2グループには殆んど現れません。もっと即物的で乾いた簡潔な表現になっていくのです。また月光の呼び声と書きましたが、主人公と感応したのは月光そのものではなくて、実は何者かが月に設置した装置から月光にのってやってきた「?」としか言えない何かなのですね。こういうクラーク的というかSF的な趣向も、第2グループからは姿を消しています。「聊斎志異」的な趣向へと変化してゆくんですね。あ、「豪邸の住人」も聊斎志異なので、むしろ小説をかっちりと構築して虚構世界を作り上げていこう、という(小説家としては当然の)志向性というか呪縛から、解放されて来ていると言い換えましょうか(大家の境地?)。
 

Re: 突然ですいません

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 7日(土)17時39分5秒
返信・引用 編集済
  > No.4721[元記事へ]

段野さん

>小久保實氏との対談の冒頭、いきなり「捩子」の話から始まってきました。いきなり「捩子」ですよ
 というか、小久保實さんは「同人誌「捩子」の指導者的存在」(眉村卓「小久保先生のこと」ぜぴゅろす8号小久保實追悼特集号所収)であらせられた方ですから、対談となれば「捩子」から始まるのは順序として当然ではないかと。

>その号で、この私、インタビューをしているのでありました
 ああ、そうでしたね(^^)。昭和53年といえば西暦1978年ですか。今から35年前。北市民教養ルームも取り壊されましたし(マズラはありますが)、はるけくも来つるものかな、ですねえ(>つくづく)。
 

突然ですいません

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年 9月 7日(土)17時22分49秒
返信・引用
  何故か、突然SFアドベンチャーの、1983年11月号を取り出してきまして(!古!)眉村さんの特集号であるのですが、中でいろいろ特別記事がありまして、小久保實氏との対談の冒頭、いきなり「捩子」の話から始まってきました。いきなり「捩子」ですよ。相当に詩作につき、思い入れがあったと思われます。が、すぐに「現代俳句と並行させていた時期」とのお答えがありました。そして、対談の盛り上がるところで、「ぬばたまの……」が長編の極意、と語られました。後に、「私ファンタジー」の出発点とも言われる作品です(初版昭和53年3月24日付)ね。いや、また読み直して、改めて、眉村作品の凄さが、全開している対談でした。改めまして、恐れ入りました。今も同じお話をされるに違いありません。(蛇足ですが、その号で、この私、インタビューをしているのでありました。今考えると、恐れ多いことであると思いました)眉村さんのスタンスは、当たり前でしょうが、不変である、ということに、今更ながらに、突きつけられたような気がします。(今更、とか、当たり前やないか、と言われそうですが)
恐れ入りました。
 

「自殺卵」(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 6日(金)21時53分19秒
返信・引用 編集済
   眉村卓作品集『自殺卵』より、冒頭の「豪邸の住人」を読みました。
 あ、これは眉村版「聊斎志異」ではないでしょうか!? 一読、まずその思いが頭に浮かんだ。しかしまあ、そう思ったのには伏線がありまして、本書収録作「ペケ投げ」に、主人公が「聊斎志異」を愛読していたという記述があり、そしてこれは著者の小説では通例と言ってよいのですが、作中人物は何程か著者自身を反映している。とすれば著者自身が「聊斎志異」を子供の頃愛読し、その影響を受けたのではないかと考えるのは、さほど間違っていないと思われます。(後記:というか、そもそも東京堂書店の「眉村卓が選ぶ10冊」に、著者は「聊斎志異」を選んでおられましたね)
 ですから本篇について「聊斎志異」っぽいと気づいたのは「ペケ投げ」を読んでいたからでありまして、それ以前は気づいていなかった。でもそうと知って振り返れば、たしかに著者の(とりわけ怪異系の)小説に、その怪異の存在の形式に、「聊斎志異」がみとめられるのですね。
 とはいえそれは一見ではわからない。いわば「内在」しているのであって、上記のような「ヒント」を与えられてはじめて気づくという感じだったと思います。
 ところが、本篇はもろに「聊斎志異」を私は感じました。

 男がお屋敷町を散歩していると、空地だったところに豪邸が建てられていた。表札を見てびっくりする。記された名字が男のそれと同じだったのです。また何日かしてそこを通りますと、中に奥さんらしき女性の姿が見え、それがなんと、男の妻にそっくりだった。
 その後、男は自分がその豪邸に住んでいる、つまり豪邸の主人になっている夢を頻繁に見始める。その夢の中で、主人となっている男は、自分の身が、逮捕とかピストルで撃たれるとか、そんなふうに破滅する予感に怯えているのです。
 そしてついに或る日、男は豪邸の主人の姿を見かけてしまいます……

 これ、舞台を唐宋明清のどこかの都市の、栄えている役人とうだつのあがらない書生止まりに置き換えても十分通用する設定ではないでしょうか。本篇はSF的に解釈すれば並行宇宙が混在してしまう話ですが、中国古小説的にいえば夢とか生霊ということになる。以下は「聊斎志異」じゃなく唐代の伝奇ですが、「邯鄲夢」は夢のなかで権勢を体験してそのはかなさを知り、平凡な自分に不満を持つことをやめる。似ています。一方、生霊的には「離魂記」が想起されます(どちらも活動している点は違いますが)。
 そしてとりわけ重要だと思うのは、本篇の主人公を、「私」でも「彼」でも「佐藤一郎」でもなく、「男」としている点ではないでしょうか。ごく一般存在の「男」なのです。これは眉村作品としては、初期のショートショートを別にすれば珍しいと思います。視点人物を「男」としたことによる距離感――私はこれが決定的に本篇を「聊斎志異」(もしくは中国古小説)と感じさせる契機(Moment)となっていると思います。

 今まで著者が内在させていた「聊斎志異」的な志向性が、本篇ではじめて(かどうか検証してみないと断言できませんが、とりあえず)外面にまでその姿をあらわした。そしてそれは、どうやら本書『自殺卵』所収の、後続する諸短編*にも、引き続いているようなのです(主人公が「男」なのは本篇だけですが)。
 *本篇は本集中で一番早い時期に書かれた作品(本集は執筆順というか発表順に配列されています)。
 

Re: 大人の時間

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 6日(金)21時48分50秒
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  > No.4717[元記事へ]

トマトさん

>私は酒は飲めないのでコーヒーかココアで、甘党です
 あ、それがいいです(^^;
 私はどうも最近、これくらいの時間になると、口の中が乾いてきまして、しかしウィスキーを舐めると、直っちゃうのです。どうもアル中の初期段階なんじゃないかと(汗)

>古くてこじんまりとしたホテルのロビーなどで大人の夜を過ごしたいです
 おお、菊地秀行「古(いにしえ)ホテル」の世界でしょうか! まさに大人の世界ですね。
 

大人の時間

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 9月 6日(金)07時42分28秒
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  私は酒は飲めないのでコーヒーかココアで、甘党です。最近はアンティークな店が気に入っています。ヨーロッパにによくあるような古くてこじんまりとしたホテルのロビーなどで大人の夜を過ごしたいです。小柄な老人がいて彼の雰囲気が老成された魂という感じでなんともいい。そんなホテルです。  

Re: 大人の秋の夜長の読書

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 5日(木)21時56分0秒
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  > No.4715[元記事へ]

トマトさん
>ゆっくりと大人の時間を過ごしたいですね。
 いやホンマですよね。ゆっくりしたいものです。
 私は大体4時前後に、喫茶店で50分ほど、コーヒー飲みながら読書するんですが、今日は喫茶店で座った途端、ケータイが鳴り仕事モードになってしまい、結局読書はできませんでした。
 夜だったら、ゆっくりとお酒を飲みたいです。カウンターにすわって本を読みながら飲んでいる人がいますが、あれはできませんねえ。そういえば最近飲みに行ってないなあ。無粋でシャンソンもクラシックもわからないので、ジャズですね。それも騒々しいジャズを聴きながら酒を飲みたい。「プレイ・バッハ(プレイ・バック)」なんていうのもジャズにあるんですが、いまいちピンときません。耳を聾するテナーがいいです。ぜんぜん秋の静かな夜長とはそぐわないですね(^^;
 そしてまた私の場合、アズナブールは役者なんですよね。といっても記憶に残っているのは「雨のエトランゼ」の刑事役くらい(シャンソン歌手と知ったのはその後)。もっともこれも、中学の卒業式のあと、友人2人と3人で梅田へ出て、夜まで映画館をはしごして見倒したという、「もう中学生ではないぞ」という開放感とセットで記憶が鮮明なだけかもわかりません(笑)。
 いやー大人っぽい時間の話にはなりませんでしたね。失礼しました(^^ゞ
 

大人の秋の夜長の読書

 投稿者:トマト  投稿日:2013年 9月 5日(木)20時24分25秒
返信・引用
  ゆっくりと大人の時間を過ごしたいですね。
シャルルアズナールのラメールだとかバッハのブランデンブルグ協奏曲などを聴きながら、美味しいコーヒーをのみながら。
こういう環境というのはどこか喫茶店にいくほうがいいですね。



http://www.aozora.gr.jp/cards/000077/files/1323_32089.html

 

眉村さん情報:「『ラジオ版学問ノススメ」に出演

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 4日(水)22時50分25秒
返信・引用 編集済
   先日お知らせしました眉村さん出演の『ラジオ版学問ノススメ』、ポッドキャストに登録されたのはきのうだったんですが、余裕がなくて聞けなかったのを、いま、ようやく聴取しました→http://www.jfn.jp/RadioShows/susume
 いやー、眉村さんしゃべり詰め! 怒涛の56分間でした(^^)。『自殺卵』のあとがきで大病を告白されていましたけれど、まさに快癒されたことを証明する放送でありました!
 ちなみに堀晃さんや筒井さんのエピソードも、お話の中に出てきました。大変面白かった。
 みなさんも、ぜひお聴き下さい!
 

「SF宝石」(最終回)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 4日(水)20時38分36秒
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  > No.4712[元記事へ]

 瀬名秀明「擬眼」を読みました。
 これって最終的に長編に組み込まれるのでしょうか。本編だけでは謎のまま残ってしまう要素がずいぶんあります。たとえば、なぜ少年たちが兵隊なのか、とか、誰と誰が戦っているのか、とか(それについては別の見解もある。後述)。

 小説は(最後の3行だけの7章をのぞけば)6章にわかれている。そのうち、1、3、5は、話者が「擬眼」で、「おまえ」に向かって語られるという形式。この「おまえ」はひとりの定まった者ではありません。(2、4,6章は(それぞれ別の)「戦争の現場」シーン)
 とりわけ1章では、あるシンポジウムのパネリストや裏方たちです。もっともそれは形式的で、その眼目は「擬眼」とは何かの説明のための設定というか趣向であります。
 舞台は、JRが出てきますから日本の、おそらく東京。「今のロボットは非力で、それに電源コードを引っこ抜けばおしまいなのです」という記述から、現代のようです。
 ところが「まだブリンクショットを取り出すなよ」と「擬眼」がいう場面があります。ブリンクショットも説明はないですが、「擬眼」にプレインストールされた機能でしょう。てことは彼らは「擬眼」を装着しているということになる。「擬眼」は未来に属する存在物ですよね。ではこの世界は未来なのか。
 しかしねえ、電源コードを引っこ抜けばおしまいの世界と、「擬眼」の存在する世界を、読者としては同じ世界と同定するわけにはいかないと思うのです。
 けっきょく上記のように、説明や解説をしたいがための章なので、小説としては破格になっていると了解するしかないわけですが、明らかに矛盾と感じられるので、私は著者は筆法を間違ったといわざるを得ません。もうちょっと構成というかプレゼンテーションを練る必要があったのではないか。

 さてこの章で「擬眼」は、虹について解説し、虹の所謂7色が本当に見えたかどうかを「おまえ」たちに訊ねる。これはその後の展開への一種の伏線なのですが、ちょっと気になったのは、瑣末なことですが「光のスペクトラムは段階的に少しずつ変わり」という記述。これは間違いでしょう。光のスペクトラムは客観的には「連続的」に変わっている。人間も「色」を現象学的還元で一旦棚上げすれば(もちろん目は情報量を減らすためパターン認識してしまうので身体的に不可能なのですが)、虹のグラデーションは原則的に連続的に見えると記号論理的には言い得る。
 それを区分けするのが諸文化の規定で、言語同様恣意的で、本篇の記載のとおり7色も6色も5色もあるわけです。ただし一旦概念化されるとそれに囚われてしまう。信号機の「青」は、実際には日本人の色認識では「緑」ですが、現実に交差点で私達は「青」じゃない、とは思わないわけです。
 もうひとつ、「何色をとりわけきれいだと思ったのか、いいか、はっきりその心で憶えておけよ」は当然伏線として理解されますので、私も覚えていたのですが、明確な回収はなかった(「紫」のことを示したいのかもしれませんが、誰かが「きれい」と思ったという記述はない。「今まで見たことない」はあっても)。先走っていいますと、眼と脳(その典型例としての色覚)について、いろいろ面白い解説があって楽しいのですが、あんまり本題とは関係ないのも出てくる。このへんちょっと小松的で、横に広がる割に意外に焦点距離は短いのですよね。

 2章は、一転、戦闘場面。この章は、はっきり、未来の地球のどこかの紛争地帯です。人びとは幼稚園くらいの年齢で「擬眼」を、ほぼ強制的に、ワクチンと同じ感覚で、装着させられる。その結果、人間の「外界認識力」は飛躍的に高まっているようです(「擬眼」をネット的につないで他人の「視界」を見ることも可能)。この章の世界では、政府軍と反政府軍が戦っていて、章の主人公の少年と少女は村から村へと逃げている。「敵」の部隊は「少年兵」らしい(しかも「ゲーム感覚」な面もあるようで、これも思いつきのように挿入されているばかりで発展していかない。一種の当世風刺か。後述する「クール」も)。上記のように、この「少年兵」も、なぜ少年兵なのか、その理由は(本小説内の記述のみでは)全く不明。とりあえず「敵」は、「擬眼」を兵器として使用しています。では味方の軍(直接的には出てこないが多分存在するのでしょう)はどうなのか。どうも使用してないっぽい。少年少女は逃げ惑うばかりですから。記述がないので、読者にはわからない。しかし「擬眼」を敵が利用しているのなら、味方側は装着を中止すればよいわけで、国連の医療団もそれを付けさせ続けているのも不審。かくのごとくリアリズム的には非常に不可解な世界で、まるで夢のなかの出来事みたいな印象です。
 ついでながら、「草むらを懸命に掻き分け、叫びながら走った」は、眉村卓へのオマージュですね(^^;

 3章は、ふたたび「擬眼」が話者となり、「おまえ」たちに語る。この章の「おまえ」は、1章のおまえたちのようですが、むしろ具体性がない、英語の「you」のような一般代名詞みたいな感じでもあります。
 ここで「おまえ」は、2章のシーンを「擬眼」によって「見せられている」ようです。3Dゲームの画面のように。ひょっとしたら2章は(4章も6章も)現実ではなく、「擬眼」によって作られた「仮想現実」なのかも。だとしたら上記の夢の1シーンのような不可解さも説明がつく。(ただし、見せられている当の「おまえ」たちが、1章の「おまえ」たちなのだったら、なぜ、そんなシーンを見せられているのか、さっぱりわかりません)
 ともあれ、この章で「擬眼」がいいたいのは、「おまえ」たちが見ている現実は本当に(客観的な)現実なのか。おれ(擬眼)によって操作された、それこそ仮想現実なのかもしれんぞ、ということです。(ここでも錯視の解説等があって非常に面白いのだが、本題と繋がっているとはいえ、ここまで詳述する必要はない。むしろストーリーの流れが損なわれており、私もちょっと退屈しました)
 ここで、ようやく「虹」に戻ります。「擬眼」は「おまえ」たちに訊きます。ここの「おまえ」たちは、はっきり1章の「おまえ」たちです。「ブリックショットを昔の虹の映像を比べるがいい」。つまりブリックショットに写っている虹の下端は、黒ではなく、「擬眼」によって操作され見えるようになった「真の紫」が写っていたのです。つまり人間には今まで見えてなかった紫外線の領域が見えるようになっている。これが人々をして、なんか虹、いつもと違う、と感じさせたわけですね。

 4章は、ふたたび戦闘地域の(ただしまた別の)話。主人公の少女は、敵軍の少年兵たちの強制従軍慰安婦となっていたのだが、飽きられて兵士に組み入れられています。ある朝、彼女は「夜明けの色が特別に感じられて」驚く。それがきっかけとなって(この動機もストーリー的に自発性がとぼしく弱い)、同じ境遇の、不潔な「擬眼」移植で瞳が化膿し盲目となった幼女をつれて脱走します。夜空は黒くならず、今まで見たことがない紫が、ずっと高空まで続いている(もちろん「擬眼」の操作によってです)。もうすぐ夜明けとなりそうだが、まだあたりは暗い。ところが、追手が迫ってくる。追手は目からフラッシュビームを発射して追ってくる。と、盲目の幼女も目からビームを発射する。これも「擬眼」がもたらした新たな能力であることは分かるのですが、それが何を意味しているのか、私にはわかりません。想定される長編小説のなかで、意味を持ってくるシーンなのかも。もうひとつ、「未来が見えない」、これも唐突で、どの文脈から来たのか、あるいはどの文脈につながっていくのか、全くわかりません(ひょっとしたら次章の安部公房オマージュの伏線かも。だとしても唐突すぎる)。

 5章は、「擬眼」が話者。「どこもかしこも戦争地域は、善いも悪いも関係なくレンズ移植を強行した」。一見筋が通っているように見えますが、主語が「戦争地域」はおかしい。だれが移植を強行したかを作者は隠してしまっている。一種の叙述トリックなんです。これ、あんまり上品じゃないです。あんまりはっきり書くと、あとで小説自体が瓦解しかねないからこういうほのめかしで逃げているんじゃないか(後述)。

 この章ではっと思ったのは、色相環が赤から始まって紫まで来、また赤に戻ることのふしぎです。色相環では紫の隣が赤。ところが虹のグラデーションでは赤と紫がその両端となる。つまり波長でいえば、色相環は赤から始まって連続的に波長が短くなっていき、紫へ至る。つまり赤と紫は波長差が最大となっている。ところが環上では赤と紫は隣どうし。じっさい、見た目にも青に赤がだんだんと加わって紫となっていき、最終全面赤になってしまうのは自然に感じられます。ふしぎです。

 閑話休題。「擬眼」の支配を逃れたかったら装着しなければよい。簡単なんです。実際、戦闘地帯の人間は、「擬眼」を自分の目からもぎ取ろうとしているくらい、「擬眼」の不利さは自覚している。少なくとも国連はワクチンと一緒に移植するのはやめて当然。だから上記の主語のない文章が出てくるのだと推察されるのです。その補填として著者が出してくるのが「クール」。「だがいずれ、おれを両眼に嵌めていることが、この上なくクールだと感じる奴らが出てくるんだろう。おれに支配されていることがたまらなくいかしていると思い込んだ奴らが」。戦争を彼岸の花火大会と傍観する富裕層があるかぎり(当然政治的影響力がある)、「擬眼」が排除されることはない、というわけです。なるほど、という気もしますが、そんなに単純な話か、という気もする。ここは史観人間観の相違ということにしておきます。
 結局、「擬眼」を施された者が世界の中枢にいる限り、「擬眼」は排除されないのは間違いない。眉村卓『幻影の構成』のイミジェックス装置と同じです。本篇で明言はなされませんが、この世界は「擬眼」によって、既に制圧支配されているんです。
「おれの人格をつくってウェブ上にばらまいた政治組織や犯罪集団がどこかに隠れているはずだって? ははは。」
 まさに「擬眼」が笑うとおりで、そんな段階はとうに過ぎているのがこの世界。

 先に述べた安部公房オマージュですが、これです。「そうさ、憶えておくといい。反乱は、おまえらが絶対に想像できなかったかたちでやってくる」
『第四間氷期』でのコンピュータの予言と同じではないですか。だから「未来が見えない」という言葉が、唐突ではありますが、伏線として挿入されたのだと思います。

 6章で、転回があります。この章も戦闘地帯の話ですが、「擬眼」を装着しないのに、「紫」が見える子供たちの存在が明らかになる。「擬眼」に対抗しうる「新人類」が誕生したのでしょうか?
「待っていろよ、おまえ(註:このおまえは擬眼のこと)。おれは負けない、絶対に」

 いやあ面白かった。いろいろ無理からな問題点がありますが、本集では上田早夕里作品とともに双璧として屹立する、まさに問題作で、堪能しました(^^)。

 以上、小説宝石特別編集『SF宝石』(光文社 13)の読みおわりとします。

 ふう、これで眉村卓『自殺卵』に戻れます(^^;。


 

「SF宝石」(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 3日(火)20時37分38秒
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  > No.4711[元記事へ]

新井素子「ゲーム」、これはつまらなかった。小説じゃなくて説教?
 新井さんが囲碁にハマっている理由はよくわかりました(>おい)(^^;。しかしその結果の「人類は史上初めて、ほんっとに結束しちゃいました」って、これってつまるところローダンというかK・H・シェールと同じ論法ですがな(汗)。
「もともと信仰を持っていた人達は、当然友愛と隣人愛に満ち満ちていますし」、これだって、熱烈な信心者は厳格すぎて逆に心が狭かったりする場合もあると思うのですが(ex.ホーソーンの小説など)、作者はそこまで踏み込む気はさらさらなく、要するにゲームの駒の属性(「銀は横と後に進めない」のような)としての意味でしか規定されていないのでしょう。
 説教と書きましたが、説教としてもオプティミスティックすぎますね。はっ、そういえばシェールも(フランケのペシミズムに対して)オプティミスムの作家といわれたのでしたっけ。
 

「SF宝石」(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 2日(月)20時40分10秒
返信・引用 編集済
  > No.4709[元記事へ]

 『SF宝石』は、円城塔「イグノラムス・イグノラビムス」を読みました。
 読んでまず想起したのは、服部誕の「藁半紙の大きさ」(『チャチャヤング・ショートショート・マガジン創刊準備号』所収)でした。テーマが(部分的にですが)重なっているのです。
 「藁半紙の大きさ」では、世界は我々には時間の中を流れているように見えるが、上位の次元者にはそれが、我々が見る絵画や写真のように見えている。実は時間の中の我々も、本当は最初から最後まで確定していて、つまり「静止」している。
「五次元にいてて、そこから四次元を見れる奴がおったら、時間は最初から最後まで全部みわたせるんや」と、主人公の友人の和彦はこう言います。「誰の一生かて、最初っから時間のなかに印刷されてあんねん」「その時間という紙のなかに、おれらははじめっから印刷されてあんねん」。

 これは、本篇のセンチマーニの「予定表」と同じですね。

 そして和彦によれば、我々が絵画を見るとき、近寄ったり遠ざかったり、右を見て左を見てまた右に戻るように、実は我々も、というか我々の「意識」は、時間の中を流れていってるんじゃなくて、定まった時間線を行ったり来たり繰り返しているのです。つまり「死」というものはない。決定された時間線を(比喩的にですが)「永遠に」さまようばかり。ただし「意識」は意識する時しか意識しませんから、時間内存在者である我々はそれは気づけない。一回限りの人生を死に向かって不可逆的に進んでいるとしか感じられないわけです。ただ何かの拍子にふとあれっと思ったりする。デジャビュとはそれなんです。

 実はこの「意識」のあり方も、本篇のセンチマーニの「意識」のあり方に似ています。ただしセンチマーニの場合は、空間的に拡がったセンチマーニ個体(複数)でそれが起こる。本篇でセンチマーニが否定しているように、超光速的もしくワープ的なものではない。この移動の仕方は、その意味では眉村卓『夕焼けの回転木馬』において、「意識」が並行世界(分岐世界)の当人を渡っていくのにも似ています。しかし眉村さんの立場は実存主義的なダイナミックな時間なので、服部誕と円城塔の「無時間性」とは一概に同視することはできません。

 かかる無時間性は、ワープ鴨のあり方(設定の仕方)にも現れていて、そもそもワープ鴨は、最初から宇宙にあまねく広がっているのです(背景輻射のように)。これも素晴らしいアイデア。
 センチマーニも同じなんですが、その筈なんですが、センチマーニはある一点から拡がったんですよね。

 渡り鳥 空の一点よりひろがる(眉村卓)

 意識のあり方自体はセンチマーニとワープ鴨は同じなのに、存在のあり方は違う。この相違の説明がないのはやや不満。とはいえセンチマーニもワープ鴨(この命名は形容矛盾ですね(^^;)も、実に魅力的な観念存在ですね。
 主人公がワープ鴨の味に対して生き生きとした実感を持てないのは、この主人公もまた、服部誕の静止した時間線の中で、何度も何度も繰り返しているいるからでしょう(特異な経験をしてきたので少しは感じられている)。
「同じ夜の同じ料理を今もここで食べ続けている」(89p)

 

チャチャヤング・ショートショート・マガジン創刊号

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 9月 2日(月)02時40分18秒
返信・引用 編集済
   『チャチャヤング・ショートショート・マガジン創刊号』ですが、8月末が(一応)締め切り日でした。(ひょっとしたら遅刻で到着する作品があるかもわかりませんが)今現在届いている作品でざっと割付してみました。あれこれ順番を入れ替えて、編集作業の最高に楽しい至福のときであります(^^;
 前号の創刊準備号より数ページ増えそうです。現在79ページで、あと編集後記を付けてるので80ページか81ページくらいになるかも。
 編集後記では、眉村さんの50周年は、いったい何を起点としたのかを書いておこうと思っています。筒井さんは去年を50周年としたようですが、眉村さんに就いて我々が採用した基準を当てはめれば、筒井さんは2015年が50周年なんです。ことほどさように、50周年なんて恣意的なものなんですよね。ある程度の幅でどこにでももっていけます。実際、作家さんにすれば、去年も今年も、どこに違いがあるか、というのがホンネなんでしょうが、色々区切りをつけたくなるのがファンというもの。意味を求めたがる人間のサガなのでしょう。
 今回も、前号に負けない力作が揃いました。寄稿者のみなさまに感謝です、前回寄稿者のうち2名がまだ作品未到着ですが、新たに2人の方から作品を送っていただきました。今後到着する作品もあるかもしれませんので、まだ詳細を公開することはしませんが、いずれもくじを発表いたします。お楽しみに〜。
 
 



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