ヘリコニア過去ログ1312



読了リスト訂正と年越し

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月31日(火)23時24分13秒
返信・引用 編集済
   さっき気づいたのですが、先日の読了リストに抜けがありました。《捩子》時代の眉村さんの盟友だった桜井節さんの清里随想『そよぐ風つむじ風』と篁はるか『告発』をカウントし忘れていましたm(__)m。
 それからもひとつ重大なミス。『《捩子》の時代――眉村卓詩集――』も! 眉村サイト管理人が、この特別な一冊を忘れていてはどもならんですな。大変失礼をいたしました。
 ということで、リストを訂正して再掲。

2013読了書 (72冊) 12/31現在

詩集(1冊)
1001)眉村  卓『《捩子》の時代――眉村卓詩集――』(チャチャヤング・ショートショートの会、13)

小説・日本(50冊)
1203)平谷 美樹『吉祥の誘惑 採薬使佐平次』(角川書店、13)
1202)高橋たか子『遠く、苦痛の谷を歩いている時』(講談社、83)
1201)上田早夕里『華竜の宮』(ハヤカワJコレクション、10)

1104)高橋たか子『人形愛』(講談社、78)
1103)眉村  卓『こんにちは、花子さん』(双葉文庫、13)
1102)戸川 昌子『夢魔』(講談社、69)
1101)横田順彌他『奇妙劇場 vol.1 十一の物語』(太田出版、91)

1002)平谷 美樹『将軍の象 採薬使佐平次』(角川書店、13)
1001)平谷 美樹『風の王国(10)草原の風の如く』(ハルキ文庫、13)

0903)江戸川乱歩『黄金仮面』(春陽文庫新装版 87)
0902)眉村  卓『自殺卵』(出版芸術社 13)
0901)小説宝石特別編集『SF宝石』(光文社 13)

0803)平谷 美樹『風の王国(9)運命の足音』(ハルキ文庫 13)
0802)眉村  卓『職場、好きですか?』(双葉文庫 13)
0801)丸山 健二『新鋭作家叢書 丸山健二集』(河出書房 72)

0702)篁はるか『告発』(日本文学館、13)
0701)筒井 康隆『聖痕』(新潮社 13)

0605)眉村  卓『たそがれ・あやしげ』(出版芸術社 13)
0604)平谷 美樹『風の王国(8)黄金の仮面』(ハルキ文庫 13)
0603)邦光 史郎『まぼろしの女王卑弥呼(下)』(集英社文庫89、元版82)
0602)邦光 史郎『まぼろしの女王卑弥呼(上)』(集英社文庫89、元版82)
0601)半村  良『軍靴の響き』(角川文庫74、元版72)

0506)日野 啓三『夢を走る』(中公文庫 87、元版84)
0505)河野 典生『デンパサールの怪鳥』(集英社文庫 81、元版 78)
0504)田久保英夫『辻火』(講談社 86)
0503)眉村  卓『駅にいた蛸』(双葉文庫 13、元版 93)
0502)今邑  彩『「死霊」殺人事件』(中公文庫 11、初刊 94)
0501)平谷 美樹『風の王国(7)突欲死す』(ハルキ文庫13)

0401)日本SF作家クラブ編『SF JACK』(角川書店13)

0308)平谷 美樹『採薬使佐平次』(角川書店13)
0307)小松 左京『日本売ります』(ハヤカワSFシリーズ 65)
0306)横山 秀夫『第三の時効』(集英社文庫06、元版03)
0305)小松 左京『影が重なるとき』(ハヤカワSFシリーズ 64)
0304)小松 左京『地には平和を』(ハヤカワSFシリーズ 63)
0303)高野 史緒『ヴェネツィアの恋人』(河出書房13)
0302)平谷 美樹『風の王国(6)隻腕の女帝』(ハルキ文庫13)
0301)眉村  卓『駅と、その町』(双葉文庫13)

0205)豊田 有恒『ふたりで宇宙へ』(ハヤカワSFシリーズ 70)
0204)豊田 有恒『アステカに吹く嵐』(ハヤカワSFシリーズ 68)
0203)豊田 有恒『火星で最後の……』(ハヤカワSFシリーズ 66)
0202)寺山 修司『さかさま恋愛講座 青女論』(角川文庫81)
0201)寺山 修司『さかさま文学史 黒髪篇』(角川文庫78)

0108)藤本  泉『地図にない谷』(徳間文庫82、元版74)
0107)石川  淳『おとしばなし集』(集英社文庫77)
0106)藤本  泉『呪いの聖女』(ノンノベル79)
0105)藤本  泉『針の島』(徳間文庫83、元版78)
0104)藤本  泉『呪者の殺意』(廣済堂文庫88、元版77)
0103)藤本  泉『時をきざむ潮』(講談社文庫80、元版77)
0102)平谷 美樹『藪の奥 眠る義経秘宝』(講談社文庫12)
0101)藤本  泉『呪いの聖域』(ハヤカワ文庫79、元版76)

小説・海外(11冊)
1201)F・W・ベイン『闇の精 フランシス・ウィリアムズ・ベイン作品集』松村みね子訳(盛林堂ミステリアス文庫、13)

1101)早川書房編集部編『SFマガジン・ベスト No.3』(ハヤカワSFシリーズ、65)

1001)早川書房編集部編『SFマガジン・ベスト No.2』(ハヤカワSFシリーズ、64)

0902)早川書房編集部編『SFマガジン・ベスト No.1』(ハヤカワSFシリーズ、63)
0901)クリフォード・D・シマック『中継ステーション』船戸牧子訳(ハヤカワ文庫 77、原書 63)

0701)コナン・ドイル『北極星号の船長 ドイル傑作集2』北原尚彦・西崎憲 編(創元推理文庫 04)

0601)S・S・ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』日暮雅通訳(創元推理文庫 13、原書 26)

0502)エリック・フランク・ラッセル『メカニストリア』深町真理子・他訳(ハヤカワSFシリーズ 69、原書 56)
0501)A・E・ヴァン・ヴォクト『拠点』早川書房編集部編(ハヤカワSFシリーズ 65)

0402)エリック・フランク・ラッセル『宇宙の深淵より』岡部宏之訳(ハヤカワSFシリーズ 69、原書 54)
0401)R・A・ラファティ『蛇の卵』井上央訳(青心社13、原書78)

非小説(10冊)
1101)レミ・エス『タンゴへの招待』尾河直哉訳(文庫クセジュ、98)

1002)野村 恒彦『探偵小説の街・神戸』(エレガントライフ、13)
1001)安部 ねり『安部公房伝』(新潮社 11)

0901)山口 果林『安部公房とわたし』(講談社 13)

0801)桜井  節『そよぐかぜつむじ風――八ヶ岳南麓風景抄――』(編集工房ノア 01)

0702)吉田 知子『鬼のすむ都 「今昔物語」の世界』(吉野ろまん新書 80)
0701)波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』(講談社現代新書 13)

0601)高野 史緒『ミステリとしての『カラマーゾフの兄弟』スメルジャコフは犯人か?』(ユーラシアブックレット181 13)

0502)岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書 08)
0501)村上 嘉隆『サルトル』(清水書院センチュリーブックス 70)

 なんだ、大台に乗っているではありませんか。だったら別にいま読んでいるの、あせって早読みすることもありません。明日に回せることは明日に回してしまうのがワタシ流(>おい)
 ということでいまからは、ユーチューブをチェーン・スモーキングならぬチェーン視聴しながら、ゆったり年越しすることに。まずは追悼特集で「ロングバケーションB面前半」と、『イーチタイム』より「レイクサイドストーリー」。ではみなさま、よいお年を!
 

 

少し早いですが、みなさん、明けましておめでとうございます。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月31日(火)21時45分19秒
返信・引用
  今年もよろしくお願いします。

http://boletusedulis.blog.fc2.com/

 

Re: 「屋根の上の魚」読み中

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年12月31日(火)20時43分11秒
返信・引用
  > No.5023[元記事へ]

びっくりしましたね〜
>大滝詠一さん急逝
>りんごを喉につまらせて
不謹慎かもしれませんがなんかちょっと素敵な死因のような。
もちろん大滝詠一さんは好きでしたよ。

僕の場合、今でも日常的に聞いて、新しいCDが出ると必ず買うのはあがた森魚さんですね。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

「屋根の上の魚」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月31日(火)17時08分55秒
返信・引用 編集済
  > No.5018[元記事へ]

大滝詠一さん急逝
 びっくりしました。最新のラジオのニュースでは、りんごを喉につまらせて、だったとか。なんと……。
 本邦男性ミュージシャンで私がコンスタントに聴き返すのは、大滝詠一と南佳孝のみ。ニューミュージック以降の歌手でカラオケでコンスタントに歌うのは、大滝詠一と村下孝蔵だけ。
 二重の意味で残念。後者に至っては生者ゼロに(>っておい)。合掌。
    ――――    ――――    ――――
<以下本文>

海野さん
 ぜひぜひお読みになって下さい(^^)

 ということで、「ブライトン街道で」「奇術師」「大芸術家」を読みました。
「ブライトン街道で」。ブライトンからロンドンに至る街道を、ロンドンに行けば何かいいことがあるのではないか、と歩いている浮浪者が、途中で跛の不良少年と同道することになるのですが……。ああよいですねえ。いちおうオチのあるショートショートなんですが、で、現在視点で見ればありふれた展開ではあるんですが、本篇を読んでしまいますと、そういう(SFやミステリが重視する)形式的な要素は、真の小説に於いては鑑賞にまったく影響しない、というよりもどうでもいいことが納得させられます。そのかわりに人生とはそういうものだ、という全的達観や、19C末〜20C初頭のイギリス労働階級のアレゴリー(悲哀)が加わっています。これは舞台はロンドン郊外の田舎ながら、イーストエンドの深田亨といいたいですねえ(^^;

「奇術師」、ああこれはよい! しまった「傑作」という言葉は使ってしまったな。なので「大傑作」といいましょう。わずか7頁に形而上と形而下が凝集された間然するところなき大傑作。我らが会員諸氏のなかに本篇に近い作風は見当たりませんねえ。しいて言えば私でしょうか(>言わせておいて下さい(^^ゞ)。ただどうしてもオチをつけてしまうんですねえ→http://okmh.web.fc2.com/kaze/oto.htm

「大芸術家」、おおこれは超傑作!(どんどんエスカレートする)(汗) 泣けますなあ。もちろん気持よく泣けるのは私がもはや実作者ではないからで、本篇の内省に対して、新旧問わずもの書きは(いや小説修行者も含めて)ぐさりと背中から心臓を一突きにされたような痛みを感じずにいられるものは少ないのでは? ha、ha! お大事に〜(>おい)(^^ゞ

 


 
 

Re: 「屋根の上の魚」に着手

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年12月31日(火)15時55分15秒
返信・引用
  > No.5021[元記事へ]

高井さん
>式さんの書簡を募集
そうなんですか?それに備えて僕も探しとこうかな。
虹星人さんのホムペとツイッターに気を付けときましょう。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: 「屋根の上の魚」に着手

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年12月31日(火)09時53分18秒
返信・引用
  > No.5020[元記事へ]

 海野さん。
> 式貴士さんには手紙を書いて、長い返事をもらった事があります。
『死人妻』の発行人さんが「式さんの書簡を募集しようかなあ」なんて言っておられます。その際には、ぜひ!(もちろん、内容に差し障りがなければ、ですが)
 私? どこかにあるはずなんですが、未発掘です。
 

Re: 「屋根の上の魚」に着手

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年12月31日(火)02時29分6秒
返信・引用
  > No.5018[元記事へ]

>イーストエンドの海野久実

それは読まないわけには行かないと言うわけで、早速注文しました。
ついでに高井さんご紹介の式貴士さんの未収録作品集「死人妻(デッド・ワイフ)」も勢いで注文しました。
式貴士さんには手紙を書いて、長い返事をもらった事があります。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

仕事納め

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月30日(月)20時42分24秒
返信・引用 編集済
   年末というのは29、30、31日という(思考以前の)思い込み・刷り込みがあり、ところが今年は27、28日が土、日で感覚が狂ってしまい、27日に銀行に行ったら閉まっていてボーゼンとしました。
 一瞬、銀行って年末休みあったんだっけ、と錯覚してしまいましたです。本日、朝からバタバタと銀行関係の各種払い込みや預け入れを済ませ、ようやく私も仕事納めとなりました。ホッ。
 今年の年末は、他にもいろいろ突発事件があって、本当に慌しかった。
 ああ終わったと一息ついていてふと、ぎゃあ深田亨さんの『てのひら怪談 癸巳』をうっかり注文し忘れていた! と気付き、あわてて発注。しかし大丈夫、いま私は暫定プライム会員という資格らしく、1月1日には届くとのこと。アマゾン素晴らしい。待たなくていいというのがリアル書店の利点だったはずですが、今やこの利点すら、ネット書店はおびやかしつつあるんですなあ。ということで、1月3日の大宴会でサインしてもらうのには間に合いそうです(^^;

 
 

「屋根の上の魚」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月29日(日)23時38分3秒
返信・引用 編集済
   下記は今年の読了書です。本日現在69冊。去年も確か60冊台だったんですよね。それまでは100冊は行かずとも90冊台はキープしていたのですが、がくんと落ちてしまいました。年齢的なものでしょうか。
 うーん。あと1冊で大台かー。これはなんとか70冊台に乗せたいなあ。ということで『深紅の碑文』は(到底今年中には読み終われませんから)一旦休止し、正味135頁で(不可抗事がなければ)本年度中に読みきれそうな『屋根の上の魚―リチャード・ミドルトン作品集―』に急遽着手することに。
 本書は先に読んだ松村みね子翻訳集と同じく盛林堂ミステリアス文庫の新刊です。初版250部とのこと。

 さっそく「屋根の上の魚」「ある本の物語」を読みました。
 前者は、村田基「貯水槽」とシチュエーションは同じですね(魚と人魚の違いはある)。村田作品は人間の暗部を直視し過ぎで、ちょっとしんどい作風の短篇でしたが、本篇はもっとリリカルで哀切で、そういう意味でよかった(だからといって村田作品がよくないと言っているのではありませんからね。為念)。子どもの世界の話ということも相俟って、イーストエンドの海野久実、といった雰囲気でした。
 そして前者が佳作だとしたら、後者は傑作! ああ共感するなあ。それは批評家時代の主人公と同じで私が実作者ではないからで、現役作家(それも新人)が読むとぞわっと冷や汗が出て、人ごとではないんじゃないでしょうか(>おい)(^^;

2013読了書 (69冊) 12/29現在

小説・日本(49冊)
1203)平谷 美樹『吉祥の誘惑 採薬使佐平次』(角川書店、13)
1202)高橋たか子『遠く、苦痛の谷を歩いている時』(講談社、83)
1201)上田早夕里『華竜の宮』(ハヤカワJコレクション、10)

1104)高橋たか子『人形愛』(講談社、78)
1103)眉村  卓『こんにちは、花子さん』(双葉文庫、13)
1102)戸川 昌子『夢魔』(講談社、69)
1101)横田順彌他『奇妙劇場 vol.1 十一の物語』(太田出版、91)

1002)平谷 美樹『将軍の象 採薬使佐平次』(角川書店、13)
1001)平谷 美樹『風の王国(10)草原の風の如く』(ハルキ文庫、13)

0903)江戸川乱歩『黄金仮面』(春陽文庫新装版 87)
0902)眉村  卓『自殺卵』(出版芸術社 13)
0901)小説宝石特別編集『SF宝石』(光文社 13)

0803)平谷 美樹『風の王国(9)運命の足音』(ハルキ文庫 13)
0802)眉村  卓『職場、好きですか?』(双葉文庫 13)
0801)丸山 健二『新鋭作家叢書 丸山健二集』(河出書房 72)

0701)筒井 康隆『聖痕』(新潮社 13)

0605)眉村  卓『たそがれ・あやしげ』(出版芸術社 13)
0604)平谷 美樹『風の王国(8)黄金の仮面』(ハルキ文庫 13)
0603)邦光 史郎『まぼろしの女王卑弥呼(下)』(集英社文庫89、元版82)
0602)邦光 史郎『まぼろしの女王卑弥呼(上)』(集英社文庫89、元版82)
0601)半村  良『軍靴の響き』(角川文庫74、元版72)

0506)日野 啓三『夢を走る』(中公文庫 87、元版84)
0505)河野 典生『デンパサールの怪鳥』(集英社文庫 81、元版 78)
0504)田久保英夫『辻火』(講談社 86)
0503)眉村  卓『駅にいた蛸』(双葉文庫 13、元版 93)
0502)今邑  彩『「死霊」殺人事件』(中公文庫 11、初刊 94)
0501)平谷 美樹『風の王国(7)突欲死す』(ハルキ文庫13)

0401)日本SF作家クラブ編『SF JACK』(角川書店13)

0308)平谷 美樹『採薬使佐平次』(角川書店13)
0307)小松 左京『日本売ります』(ハヤカワSFシリーズ 65)
0306)横山 秀夫『第三の時効』(集英社文庫06、元版03)
0305)小松 左京『影が重なるとき』(ハヤカワSFシリーズ 64)
0304)小松 左京『地には平和を』(ハヤカワSFシリーズ 63)
0303)高野 史緒『ヴェネツィアの恋人』(河出書房13)
0302)平谷 美樹『風の王国(6)隻腕の女帝』(ハルキ文庫13)
0301)眉村  卓『駅と、その町』(双葉文庫13)

0205)豊田 有恒『ふたりで宇宙へ』(ハヤカワSFシリーズ 70)
0204)豊田 有恒『アステカに吹く嵐』(ハヤカワSFシリーズ 68)
0203)豊田 有恒『火星で最後の……』(ハヤカワSFシリーズ 66)
0202)寺山 修司『さかさま恋愛講座 青女論』(角川文庫81)
0201)寺山 修司『さかさま文学史 黒髪篇』(角川文庫78)

0108)藤本  泉『地図にない谷』(徳間文庫82、元版74)
0107)石川  淳『おとしばなし集』(集英社文庫77)
0106)藤本  泉『呪いの聖女』(ノンノベル79)
0105)藤本  泉『針の島』(徳間文庫83、元版78)
0104)藤本  泉『呪者の殺意』(廣済堂文庫88、元版77)
0103)藤本  泉『時をきざむ潮』(講談社文庫80、元版77)
0102)平谷 美樹『藪の奥 眠る義経秘宝』(講談社文庫12)
0101)藤本  泉『呪いの聖域』(ハヤカワ文庫79、元版76)

小説・海外(11冊)
1201)F・W・ベイン『闇の精 フランシス・ウィリアムズ・ベイン作品集』松村みね子訳(盛林堂ミステリアス文庫、13)

1101)早川書房編集部編『SFマガジン・ベスト No.3』(ハヤカワSFシリーズ、65)

1001)早川書房編集部編『SFマガジン・ベスト No.2』(ハヤカワSFシリーズ、64)

0902)早川書房編集部編『SFマガジン・ベスト No.1』(ハヤカワSFシリーズ、63)
0901)クリフォード・D・シマック『中継ステーション』船戸牧子訳(ハヤカワ文庫 77、原書 63)

0701)コナン・ドイル『北極星号の船長 ドイル傑作集2』北原尚彦・西崎憲 編(創元推理文庫 04)

0601)S・S・ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』日暮雅通訳(創元推理文庫 13、原書 26)

0502)エリック・フランク・ラッセル『メカニストリア』深町真理子・他訳(ハヤカワSFシリーズ 69、原書 56)
0501)A・E・ヴァン・ヴォクト『拠点』早川書房編集部編(ハヤカワSFシリーズ 65)

0402)エリック・フランク・ラッセル『宇宙の深淵より』岡部宏之訳(ハヤカワSFシリーズ 69、原書 54)
0401)R・A・ラファティ『蛇の卵』井上央訳(青心社13、原書78)

非小説(9冊)
1101)レミ・エス『タンゴへの招待』尾河直哉訳(文庫クセジュ、98)

1002)野村 恒彦『探偵小説の街・神戸』(エレガントライフ、13)
1001)安部 ねり『安部公房伝』(新潮社 11)

0901)山口 果林『安部公房とわたし』(講談社 13)

0702)吉田 知子『鬼のすむ都 「今昔物語」の世界』(吉野ろまん新書 80)
0701)波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』(講談社現代新書 13)

0601)高野 史緒『ミステリとしての『カラマーゾフの兄弟』スメルジャコフは犯人か?』(ユーラシアブックレット181 13)

0502)岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書 08)
0501)村上 嘉隆『サルトル』(清水書院センチュリーブックス 70)

 
 

Re: 永遠の0

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月28日(土)01時08分24秒
返信・引用 編集済
  > No.5016[元記事へ]

海野さん
>禿頭の、思いっきり明るい大阪弁丸出しのおっちゃんです。
 へえ、そうなんですか。有名な作家さんなんですね。探偵ナイトスクープは(番組名は知っていますが)まだ見たことがないのです。
 ひょっとして、はしごを掛けて安倍さんが上ったら外してしまう深謀遠慮なのかな?(>おい)(汗)

『深紅の碑文』は185頁まで。ちょうど上巻の半分。
 

Re: 永遠の0

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年12月28日(土)00時51分18秒
返信・引用
  > No.5014[元記事へ]

百田さんは短編集を2冊読みました。何とこれがファンタジー。
「永遠の0」はこれから読み始めます。読んでから映画を見に行こうかと。
探偵ナイトスクープの作家をやっていたと言う百田さん。
禿頭の、思いっきり明るい大阪弁丸出しのおっちゃんです。
1956年生まれだったかな?
キャラクターはめちゃ好きなんですけどね。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: 写真アッブロードわすれました。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月27日(金)23時00分23秒
返信・引用 編集済
  > No.5012[元記事へ]

トマトさん
 1969年だったら眉村さんは35歳。そりゃ比較するのは不公平です(^^;。
 ちょうど『虹は消えた』が69年発行でして、下はその裏表紙に載っていた著者近影。当掲示板のお物見衆だけにこっそりお見せしましょう。若い!!
 
 (無許可掲載につき、眉村さんには絶対にご内聞にお願いしますね>おい(^^;)

> No.5014[元記事へ]

段野さん
>その原作者が、「あほなこと」を言っていたという報道を見て
 この記事 でしょうか?
 すみません。作家名も作品名も知りませんでした。新人作家みたいですね。いずれにしろ、安倍さんを支持する小説家って、かなり珍しいですよね。希少価値で売るつもりなんでしょうか(汗)。
 それよりもこの記事! アメリカにしては珍しくまっとうなことを言いましたね。ちょっと見直しました。アメリカ、いつもバカにしていてスマンかった(^^;。
 ついでに橋下さんの記事も。いや橋下氏のは正論です。
>「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない」
 なんてあいまいな言葉で本心を隠すのはいかにも日本腹芸的で姑息ですね。正々堂々と東京裁判は受け入れられないと拒否した上で、過去の戦争は侵略ではなかった、とはっきり宣言したらいいのです。そして押し付け憲法を非常事態宣言で無効化し、公然と再軍備に踏み切り徴兵制を施行して中国韓国に強硬姿勢で臨むべし(それが安倍さんの本音でしょう)。国会が逆らえば議事堂を焼き打ちしてしまえばよい。世界が非難したら、自ら国連へ乗り込み松岡洋右のように大演説をぶってカッコよく退場し、国連から脱退したらいいんです。ネトウが拍手喝采してくれるでありましょう。楽しみです。楽しみではあるのですが・・・
 現首相にそれだけのゴンズクがありますかねえ。どうも私は信用できないんですなあ。またボクちゃんお腹が痛いと言って放り出すんじゃないでしょうか。実際のところ、上記のアメリカの反応に震え上がって(多分ここまでの反応は予測してなかったはず)、もうすでに下痢になりかけていたりして。


 

永遠の0

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年12月27日(金)19時15分37秒
返信・引用
  まあこの場所では、話題にならないと思われますが、この本、今上映中ですが、ロードショーで観ました。その原作者が、「あほなこと」を言っていたという報道を見て、一気に熱が下がりました。
折角の映画が、台無しになりました。突っ込みどころは、あるのですが、(零戦のミニュツァを作成したのは、「海洋堂」だと思っていたのですが、違った、同じコンピュータグラフィックスを二回も使う、ばればれです)何か、がっくりしました。これでは、原作を読もうとする気力がなくなってしまいました。発言には、注意して貰いたい、作品でも、同じことでしょう。
 

突然ですいません

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年12月27日(金)18時57分15秒
返信・引用
  通りがかった奴さま
トマトさま
ミルトさま
管理人さま
眉村さんは、お写真でのお姿は、あのようになられましたが、今年は新作2冊お出しになられて、再版の文庫本もあり、それ以上に、日常的に「創作教室」を各地で実践されておられます。月一の創作教室もあり(それも複数教室)月二の教室などは、二週間のうちに、多い時には、五本以上を講評されます。それも、なまなかなおっしゃり方ではございません。きちんと内容を把握されてのこと、突っ込みどころは尋常ではございません。それくらい、精力的にご活動をなされておられます。ですので、お姿はお変わりになられたという印象を持たれましても、ご活動は、ご年齢を加味しても、相当なものであると、(身近でご拝見しまして)思います。来年も、新たな「なぞの転校生」のドラマが始まります。そのあとは、(上映時期不明)「幕末高校生」なども控えております。これからの、眉村さんのご活躍、大いに期待できましょう。来年は、どのような活躍をされるのか、興味津々なところであります。
失礼しました。
 

写真アッブロードわすれました。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月27日(金)17時01分7秒
返信・引用
  しかしこの未来の記憶はレアものだどおもいます。
未来の記憶の、となりの本は、今読書中の本です。

http://boletusedulis.blog.fc2.com/

 

昔の眉村さんの尊顔

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月27日(金)16時59分4秒
返信・引用
  私が例の古本屋で立ち読みしたSFMがに載っていた眉村さんの尊顔ですが、たしか福島編集で、例の聖書エゼギエル書は宇宙人飛来の事実を記述しだのだという法螺話の「未来の記憶」が載っていた頃のものだとすると、40歳前の尊顔です。そういえば深町真理子というSF翻訳者がいましたね。作家と違って翻訳者の尊顔がSFMに載っていないので、美人かどうか気になっていましたが...。


写真の早川版未来の記憶は1969年発行と巻末に記載あり。未来の記憶の隣の本とはただいま熟読中。

http://boletusedulis.blog.fc2.com/

 

Re: 「深紅の碑文」ですよ・・

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月26日(木)21時53分31秒
返信・引用 編集済
  > No.5008[元記事へ]

通りがかった奴さん
 や、お久しぶりです。いえいえ、ちゃんと憶えていますよ。その節はお世話になりました(^^)
 いやもう、全然気づいていませんでした。ご指摘感謝です。私はグーグル日本語入力なんですが、これの最大の長所は固有名詞に強いということで、信じ切ってしまっていました。悪いのはグーグルです(>って、おい)。さかのぼって訂正しました。ありがとうございましたm(__)m

 ということで、今日は125頁まで。
 このあたり(「救世の子」)まさに正統的なジュブナイルですね。そしていよいよ著者の根源的なテーマがあらわになってきたように思います。それは「倫理」。「倫理とはなにか」という考察こそ、おそらく本書の重要なテーマなんだろうな、と予感しております。89頁のリーはメフィストフェレスなのだ、と私は思います。では104頁の(社会的)倫理とは何でしょうか? ここでいう倫理が道徳ではないのは当然です。とはいえ倫理の倫はにんべんですから、まさしく「人間もそれでいいのか」(114p)という、つまりは「人間とはなにか」(人間の版図)ということになってくるんだろうと思うんですね。

> No.5009[元記事へ]

トマトさん
>わたしがしっている眉村さんの尊顔はまだ40才ぐらいの写真です。
 いやそれはちょっと極端すぎます。眉村さんは来年80才ですよ〜(^^ゞ

 徳田虎雄の理念は素晴らしいと思っています。同様に中内功も(奇遇にも今日、取引先で話していたんですが)、城山三郎の『価格破壊』を読んで傾倒したものです。どちらもどこで、というよりも何が、道をはずさせてしまったんでしょうねえ・・。


 

管理人さん、どうもありがとうございます。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月26日(木)19時16分27秒
返信・引用
  弊ブログへのご来訪など、ありがとうございました。

しかし眉村さん、おじいちゃんになりましたね。わたしがしっている眉村さんの尊顔はまだ40才ぐらいの写真です。


下は最近読んだ本てす。1575円ですが、図書館で借りてしまいました。
最近はこういう本が多くなってしまいましたね。

http://boletusedulis.blog.fc2.com/

 

「深紅の碑文」ですよ・・

 投稿者:通りががった奴  投稿日:2013年12月26日(木)10時41分13秒
返信・引用
  『真紅の碑文』はよくある変換ミスですね。

お久しぶりです。といっても誰も覚えていないでしょう・・。

眉村さんの健筆ぶりには驚嘆の一言です。筒井さんとお二人にはますますのご活躍を
お祈りするばかりです。
 

いよいよ開演

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月25日(水)23時47分56秒
返信・引用 編集済
   トマトさんの思い出せば、あの青空、開演しました!(^^)

 私は、『深紅の碑文』を75頁まで。
 

眉村さん情報:人生案内

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月25日(水)21時45分12秒
返信・引用
   当掲示板でも何度か紹介しました読売新聞人生案内ですが、先の日曜日(12/22)は、「人生案内2013年」と題した一年回顧の回答者座談会が掲載されていました。長寿社会を反映して、70歳以上の相談が増加しているそうで、それについて出席者が語っています。僅かな紙面に11人の回答者が発言しており、そのため眉村さんの発言も2回しか掲載されていません。まあ2回分くらいなら引用しても構わないでしょう、てことで引用します(^^;。

○眉村 昔の年齢の7掛けになっている。今の70歳は昔で言えば50歳手前。そう考えると従来の年齢の感覚とは違った相談が顕著になったことに説明がつく。

(インターネットは情報取得を容易にする一方で、自分の関心事以外の情報ははいらない。また言葉ですべてを伝えるアメリカ型コミュニケーションでもあり、日本人が使いこなすにはスキルが必要、というのを受けて)
○眉村 情報やデータを重視して、相手の気持を考えない人が増えた。相談を読んで自分なりの回答を考えて。答えは一つではないのだから。

  
 

Re: 夢でも現実でもなく

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月25日(水)09時41分36秒
返信・引用 編集済
  > No.5004[元記事へ]


>このような形でお目にかかろうとは、想像しておりませんでした
 眉村先生はお元気ですよ。まあ、去年大病なさってずいぶん痩せられましたからね。昔の眉村さんのイメージしかなかったら、見た目はたしかに「年老いられました」とうつったかもしれません(ひょっとして10年以上リアルではお会いになってないのではありませんか)。しかし、わざわざ東京に出向いて75冊もの本にサインされ、しかもなお一冊として同じイラストはないということからもお分かりになると思うのですが、活動力、粘り強さは以前と全く変わっておられません。そのバイタリティたるやもう驚くばかりで、引き比べて私など内心忸怩たるものがあるくらいです(汗)。という次第ですので、どうぞご安心ください(眉村さんの活動については当掲示板で随時上げておりますので、たまにご覧いただけましたら幸いです)
 なお、眉村先生はネットをやっておられませんので、この掲示板をご覧になっていません。あしからずです。
 

夢でも現実でもなく

 投稿者:ミルト  投稿日:2013年12月25日(水)03時30分43秒
返信・引用 編集済
  眉村先生、このような形でお目にかかろうとは、想像しておりませんでした。先生は年老いられました。叡智に満ちた大碩学の峻厳な相貌で、わたくしたちを見つめ、叱責されておられます。  

Re: はじめまして

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月24日(火)20時59分10秒
返信・引用 編集済
  > No.5000[元記事へ]

ミルトさん
 ようこそです!(^^)
 なるほどねえ。たしかに西洋とわが国では幽霊というか超自然現象の在り方が異なっていますよね。
 おっしゃるとおり、文化の相違というのが大きいのかもしれません。だいたい「幽霊」って、彼の地にはいるんでしょうかねえ。「亡霊」はいるように思いますけど(^^;
 「亡霊」というのは、私の感じではもともとは人間だった存在という感じが強いのですが、「幽霊」はもっと広くて、人間以外の幽霊ってのもありえそうな気がします。やはり草木一本一本に魂やどる八百万の神の国と、一神教の国の相違なのかも、と、いまふっと思いました。いやまあ単なる思いつきで、何の根拠もないのですけれど(汗)。
 またお気軽にご来信いただければと思います。よろしくお願いします。

> No.5001[元記事へ]

トマトさん
>アッブロードした以上は責任が生じるので
 紙媒体と違い電子メディアですから簡単に書き換えできるので、軽い気持ちで始められたらいかがですか。
 私など、書き込んだ内容を何十回と訂正することもあります。海野さんも、アップした自作に何度も手を入れられているみたいですよ。
 いずれにしろ、楽しみにお待ちしております!
 

みなさん、メリークリスマスです。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月24日(火)19時27分5秒
返信・引用
  イブをいかがお過ごしてすか?
ブログとウェブサイトを確保したもののコンテンツアップロードが年内に可能かどうか微妙なところです。
北関東の大母閣シリーズなどおはなしはUSBメモリのなかなどに沢山あるのですがアッブロードした以上は責任が生じるのでいろいろ吟味してアップロードしようと思います。

http://boletusedulis.blog.fc2.com/

 

はじめまして

 投稿者:ミルト  投稿日:2013年12月24日(火)10時12分5秒
返信・引用
  はじめまして。さる場所から、このような掲示板が存在することを知りましたが、宜しくお願い致します。ごく少しの記事を拝読させて頂きましたが、みなさま、凄い方々のようですね。
なお、何故怪談は日本では夏なのかということに興味を覚えました。
西欧の万聖節は晩秋ですし、幽霊や亡霊なども、秋から冬です。ゲルマンの文化か、クリスマスの起源のミトラスの誕生日に関係しているのかも知れません。冬至は、この季節以降は、光明の太陽の生命が復活し、善の勢力が強くなるので、やはり晩秋・冬が「怪談」の季節と思えます。日本の「夏が怪談」というのは、盂蘭盆が夏であることで、死者の霊がこの頃に地上に戻ってくるということに関係しているのかも知れないと思いました。日本固有の古代からの文化もあるいは影響しているかも知れませんです。
 

宛名書き

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月24日(火)01時14分18秒
返信・引用 編集済
   年賀状の個人分の宛名書きがようやく完了、投函しました。そうです。1週間前に印刷は終わっていたのに、全然やってなかったのでした(^^;。しかし会社分がまだ手付かず。やる気が……。着手したら一気なんだけれど。

 イーガン『白熱光』をゲット。しかし、はたして読むのだろうか(^^;。なんか前評判ではハル・クレメントらしいですよ→岡本さんブログ
 もちろん超絶ハードなクレメントなんでしょうけど、いまさらクレメントはねえ。いくらイーガンとはいえ。いやイーガンだからこそかな・・(汗)

 『深紅の碑文』にようやく着手。まだ30頁。
 

Re: 印税

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月23日(月)15時35分31秒
返信・引用
  > No.4997[元記事へ]

>実は、著者取り分は、あまり残ってはいないのです。
 おお、版元在庫分だけなら完売も夢ではありませんね。もちろん年単位の話ですが。全部は無理としてもある程度回収できれば、自費出版としては御の字ですよね。
 となれば、あとは安倍政権を打倒しインフレ政策を見なおして、極端なデフレにすれば、ひょっとしたら実質トントンに持ってこられるかも(>おい)(^^;

 すみません。今から外出します。

 

Re:印税

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年12月23日(月)15時25分4秒
返信・引用
  管理人様
実は、著者取り分は、あまり残ってはいないのです。
単品返品パーセントから見れば、また、特定店に出せるものだと、判断しますが。恐らく、その場合は、アマゾン主体にするでしょう。特定店に再度の配本は、経費が掛かります。アマゾンなら、リクエストに対応する方が、経費が掛からずに済むからです。自費出版会社としては、在庫をなくしたいはず(ちょっと前にも申し上げましたが、返品の多さは、自費出版本は、群を抜いて、山のごとくであります)再度の売り上げで、巻き返したい、そういうことは、ある、と思います。それと、これは別の自費出版社ですが、ネットだけで商売しているところもあります。(うちのアルバイト君が、ネットでしか売らないところから、出版しました。宣伝効果が見えてこない)
彼の本、売れたのかなあ。(実は、よく分からないサイトだった)
 

Re: 印税

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月23日(月)14時59分15秒
返信・引用 編集済
  > No.4995[元記事へ]

段野さん
 おお、営業を別にすれば、なかなか良心的な出版社ではありませんか。
 版元在庫を売り切ったあとは(版元とすれば当然こっちが先でしょう)、著者在庫分も取次ぎの流通システムに出してくれるんですか?

 追記。 しかしアマゾンは未だに[一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です]状態ですね→「告発」
 

Re:印税

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年12月23日(月)14時46分44秒
返信・引用 編集済
  管理人様
>「著者取り分」を完売すれば
そうです。初期投資費用は回収できる計算になります。やたらと、あるところで「告発」本を配りまくりましたが(いや、無理から押し付けた?)これらを正規に売りまくり、版元残を無くしてしまえば、回収できることになります。版元残の冊数から見ますと、「売れた」本という感じがします。これは驚きでした。(だからと言って、「告発」が傑作だ、と自慢しているわけではございません。はい。大阪弁丸出しの内容が、関東以北でも受け入れられた、ということが、まずもって驚き。多分、設定とかが、目を引いたのかも)(普通のプロ作家でも、売れることには、苦労があるように見えます。もの凄い量の返品を目の当たりにしてきた当方です)ですから、売り切っちゃえば、「自費出版本」としては、上出来、と言う結果になります。(よーく、売れ残りの某自費出版社作成本を、毎月毎月山のように見ていた当方としては、「からくり」が見えていました)(この、某自費出版社は、当方が出版したところではありません)
 

Re: 印税

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月23日(月)14時15分33秒
返信・引用 編集済
  > No.4993[元記事へ]

段野さん
 ちょうど閲覧中でした(^^;。又すぐ外出しますが。

> 確実に売れ残った分は、出版社のものです。作者には「著者取り分」が与えられます。
 てことは「著者取り分」を完売すれば(完売せずとも一定数売り切れば)初期投資費用は回収できる(さらに出版社分の印税で利益も出る)ということですか?
 

Re:印税

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年12月23日(月)14時07分35秒
返信・引用 編集済
  管理人様
レス遅くなりまして、空気読めずにすいません。
>(在庫が)出版社のものならば
確実に売れ残った分は、出版社のものです。作者には「著者取り分」が与えられます。
>故紙業者が買い取る場合
(当然、お金のやりとりとしての、伝票処理が発生します)=u冷静」なのは、倒産版元の行く末をかなりな頻度で目にしてきたからです。この伝票処理では、業界でいう所の、「歩安」という、いわば買いたたいた値段になります。それでも、当方には、何も起こりません。出版社と、故紙業者とのやりとりになるからです。現状、版元残を売りきってくれたのならば、万々歳なのですが。
海野様
>その印税だけでも生活してみては
プロ作家と違いまして、「印税」の計算方法が違いますので、……。
>岩井俊二の脚本
あるところで、脚本を覗くことができまして、そうですね、九月の終わりでしたか、全部の回の脚本がすでに出来上がっていまして、やたらと付箋が張られておりました。しかし、原作者でおられる眉村さんは、「変更はない」(但し、辻褄の合わないところが、その付箋だったのでしょう)とのことでした。初め、脚本家の名前を聞いて、思わず「スワロウテイル」のタイトルが浮かびました。どんな風に脚色するのか、興味津々です。
 

Re: なぞ転予告編

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月22日(日)12時51分24秒
返信・引用
  > No.4991[元記事へ]

高井さん

>あの名作をどのようにリメイクしているのか、すっごく楽しみ。必ず観ます!
 楽しみですねえ。私も期待しているのです(^^)

>岩井俊二
 ウィキペディアを見たらすごい仕事量ですね。たしかに今をときめくという感じです。が、私の関心ジャンルとはぜんぜん重なってないのですねえ。そうなると、いかに大物でも「だれ?」となってしまう。これ、私の関心がタコツボ化してしまっているんでしょうね。良くも悪くも。というか、この歳になればそれで良いかと思ってしまいます。
 

Re: なぞ転予告編

 投稿者:高井 信  投稿日:2013年12月22日(日)07時56分17秒
返信・引用
  > No.4990[元記事へ]

 あの名作をどのようにリメイクしているのか、すっごく楽しみ。必ず観ます!

> > 「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」は好きでしたね。
> > 「スワロウテイル」「四月物語」「リリイ・シュシュのすべて」いいですね〜
>  ぜんぶ観ていません〜(>あかんがな)m(__)m
 私も「あかんがな」仲間です(笑)。
 

Re: なぞ転予告編

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月21日(土)22時38分58秒
返信・引用 編集済
  > No.4988[元記事へ]

海野さん

> きゃ、脚本が、今を時めく映画監督の、あの岩井俊二さんではないですか!!
あ、そんな大物が脚本なんですか。それは期待が持てますねえ。しかし――

> 「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」は好きでしたね。
> 「スワロウテイル」「四月物語」「リリイ・シュシュのすべて」いいですね〜
 ぜんぶ観ていません〜(>あかんがな)m(__)m

 明日から『深紅の碑文』に着手の予定。
 
 これのコメントが言い得て妙ですねえ(笑)→Somebody stop that woman! :O
 

「吉祥の誘惑」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月21日(土)22時26分48秒
返信・引用 編集済
  平谷美樹『吉祥の誘惑 採薬使佐平次(角川書店、13)読了。

 採薬使佐平次シリーズ第3弾。面白かった
 吉宗の目安箱に、奉書紙に包んだ丸薬が投函される。調べるとそれは阿芙蓉(阿片)が入った刻煙草の玉で、煙管に詰めて吸引するものと思われた。
 同じ頃、吉原では遊びに来ていた商家の主人が床入り直前に急死するという事件が発生する。宝相華文をあしらった、ちょっと変わったデザインの薬包が落ちており、死因はそれに包んであった薬を服用したせいであろうと推察された。床入り前に飲む薬とはなんだろう。毒薬だったのか。事件を担当した南町奉行所同心長坂省吾は、例によって薬草の専門家である採薬師の佐平次を駒場薬園に訪ねる。かすかに薬包に付着していた複数の匂いの中から、忽ち佐平次は、芫青の匂いを嗅ぎ取る。マメハンミョウという虫をすり潰して作られる芫青は、適度な服用ならば強壮作用を期待できるけれども、量を誤ったり体質によっては命にかかわる薬でもあった(前作『将軍の象』の、長崎で死んだ雌象はこれを盛られて殺されたのでした)。
 調べていくうちに、吉原でも河岸女郎や切見世女郎のような低位の女郎の間で阿片中毒が蔓延していることが明らかになり、どうやら阿芙蓉の丸薬の販売組織と宝相散の販売組織が、無関係ではないことがわかってくる。
 しかもさらに、この阿芙蓉は、当時阿片の産地であった津軽のそれとは製法が違うこと、宝相散に使用された芫青の原料であるハンミョウも、日本に生息する種ではなく、中国種でもなく、西班牙あたりの種であることも判明。それらの判明した事実から、どちらも抜荷(不法輸入品)の可能性が急上昇。
 両組織の後ろに、陸奥国の日本海側海岸で出羽国との国境の小国・萩野家の存在が浮かび上がり、佐平次以下いつものメンバーがスパイ大作戦よろしく隠密裏に、鎖国状態のこの小国に潜入します。そして彼らが海中の隠れ小島に見つけたのは、停泊中の巨大艦船でした。しかもそのマストには、なんとユニオンジャック旗が翩翻とひるがえっていたのであった!
 面白い!
 ところで現在のユニオンジャックは、1801年にアイルランドと連合王国を結成したとき、白地に赤いX印のアイルランド国旗(聖パトリック旗)がデザインに加えられたものですが、吉宗の治世は1700年代前半ですから、アイルランド国旗は入っていません。つまり佐平次たちが見たのは、白地に赤十字のイングランド国旗(聖ジョージ旗)と紺地に白いX印のスコットランド国旗(聖アンドリュース旗)を掛けあわせたデザインだった。で、まさにこのグレートブリテン王国の国旗こそ、薬包の意匠の宝相華文の元だったんですねえ。いやーこれははっきりいってわかりにくい。図解がほしかったところ(^^;。
 副筋として花魁・杜鵑花の心意気。同心長坂省吾の純情など、今後シリーズの展開を広げていくと思われる要素も盛り沢山。ただしこの紙幅に収めてしまっているので、全体として書き込み不足は否めずやや物足りなかった。また、永遠のライバル鬼頭匡篤も登場しているのですが、今回はちょっといじられキャラになっていて、鬼頭ファンとしてはいささか残念でありました(笑)。
 

Re: なぞ転予告編

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年12月21日(土)16時35分3秒
返信・引用
  > No.4987[元記事へ]

きゃ、脚本が、今を時めく映画監督の、あの岩井俊二さんではないですか!!

これは絶対見なければ。

「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」は好きでしたね。
「スワロウテイル」「四月物語」「リリイ・シュシュのすべて」いいですね〜

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: なぞ転予告編

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月21日(土)12時42分48秒
返信・引用 編集済
  > No.4986[元記事へ]

 なぞ転30秒予告。
 
 

なぞ転予告編

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月20日(金)23時24分50秒
返信・引用
   

Re: 印税

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月20日(金)21時42分3秒
返信・引用
  > No.4984[元記事へ]

海野さん
>この際ですから一か月間、その印税だけで生活してみてはどうでしょうか?
 エメラルドマウンテン、1ケース30缶として、120円x30缶=3600円/ケース
 1か月を30日としますと、3600円÷30日=120円/
 印税を倍に見積っても、7200円÷30日=240円/

 ムリです!(^^;

『吉祥の誘惑』は210頁。あと60頁。

 

Re: 印税

 投稿者:海野久実  投稿日:2013年12月20日(金)18時48分46秒
返信・引用
  > No.4977[元記事へ]

段野さん。「印税」って、いい響きですね。夢見る「印税生活」なんて。
先行投資ありきの印税と、元手なしのジョージアと。

あ、そうだ。この際ですから一か月間、その印税だけで生活してみてはどうでしょうか?
気分だけでも印税生活が味わえるような気がします(笑)

http://marinegumi.exblog.jp/

 

王将偵察

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月19日(木)19時29分36秒
返信・引用 編集済
   「年単位の」久しぶりで、餃子の王将に行ってきました。厨房に心なしか人影が少なかったのは、幹部が京都に集合しているからかな、と、一瞬思いましたが、客もガラガラだったので、単にそういう時間帯だっただけかも。
 今日は、その直後に人と会う約束があったため、通常であれば必ず頼む餃子を避けて注文したら案配がわからなくなって、食いきれないほど頼んでしまいました。といっても、チャーシューメンと天津飯と野菜炒めの3品だけなんですけどね。天津飯の量を読み違えた。というか、昔はもっと少なかったような。もちろん頑張って食い切りましたが(笑)
 [パート1]
 [パート2]

 

Re: 印税

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月19日(木)19時14分43秒
返信・引用
  > No.4981[元記事へ]

段野さん

>「故紙業者」といいまして、
>その会社が、処理します。(当然、お金のやりとりとしての、伝票処理が発生します)
 うーん。冷静ですね。
 いま版元にある在庫の所有権(?)は段野さん? 出版社? のどっちにあるんですか?

1)出版社のものならば、すでに印税が入ったのですから、在庫がどうなろうと段野さん自身は腹が痛まないんですよね(でもそういうのは自費出版ではないような気がします)。

2)自費出版ということは、文字どおり自費で製作し出版したということだと思うのですが、そうだとしたら、在庫の所有権は著作者にあるんじゃないのですか? というのが自費出版というものに対する私の理解なんですが、その理解どおりだとしたら、在庫をすべて売り切ってはじめてトントンになるか、なにがしかの利益が出るよう売価設定しているはずで、それを故紙業者が買い取る場合、正価では買い取ってくれないでしょうから、そういうことをしてしまうと(売る物自体がなくなってしまって)結局、投資分を回収できなくなるのでは?
 実は知り合いが自費出版したことがあって、一定期間過ぎたら、版元在庫を全部自宅に引き上げなければならなくなったという話を聞いていたのです。この知り合いは、何年かかかって無事めでたく完売しましたけれども、故紙業者に売られてしまったら、そんなわけには行きません。

 この私の2)の理解が間違っているのでしょうか? 素人が頓珍漢なことを言ってます? ご教示いただけたら幸甚です(汗)
 あ、そうそう。以上は机上論でありまして、実際にこういうことが想定されるという話ではないことを、予めお断りしておきます(>おい)(^^;

『吉祥の誘惑』は120頁。范文雀。
 

Re:印税

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年12月19日(木)13時37分19秒
返信・引用 編集済
  管理人様
>その場合、版元在庫はどうなるのか
こういう場合、専門に扱う業者がいます。「故紙業者」といいまして、以前、映画「図書館戦争」にて、「調査」をしました時に実際に印刷された本を焚書した、その小道具としての本を扱う会社があります。その会社が、処理します。(当然、お金のやりとりとしての、伝票処理が発生します)
「ドヤ顔」はしておりませんが、機会がございましたら、奢らせて頂きますね。
トマトさま
次作、お待ちしておりまーす!
 

間章=松本勝男・往復書簡

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月18日(水)22時56分59秒
返信・引用
  マハヴィシュヌ・オーケストラ「黙示録」LP盤ライナーノート
「間章=松本勝男・往復書簡」→PDF

 

 

Re: 印税

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月18日(水)18時01分41秒
返信・引用 編集済
  > No.4977[元記事へ]

トマトさん
>ブログの場所は確保しました
>しかしまだコンテンツがありません。
 拝見しました。とりあえずアンテナに登録しましたので、いつ書き込みされても大丈夫です!
 書き込み、楽しみにお待ちしています(^^)

段野さん
>海野様のジョージアコーヒー分より、多いので、これまたびっくり
 やた! もうね、段野さんのドヤ顔が目に浮かぶようです(^^ゞ 今度ぜひ奢ってください(>おい)。

>版元残は、確実に減っていました。売れた、のですね。
 それは重畳。アマゾン確認してみました。や、[一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です]ではないですか(→Amazon)。当然売れたからでしょうけど、これはいけません。すみやかに版元に連絡して、尻を叩いて納品させなければ。
 この会社、営業には問題があったのかもしれませんが、アフターフォローはなかなかちゃんとしているように思います。心配は風評被害(いや身から出た錆)で倒れてしまわないかということですね。その場合、版元在庫はどうなるのか。どこかの同業者が肩代わりして引き受けて配本等の業務を続けてしてくれるのが一番なんですが。とりあえず資金回収完了するまではがんばってもらわないとね。
 ――と、以上は全部裏付けもなく想像(但し「井戸」から上がってきた記憶)で喋っております。実際は全然問題ないのかもしれませんので、確認もせずどたばた取り乱されないよう念のため申し添えておきます。あらかじめ検索で来られた通りすがり様へ(>心臓が止まっちゃいました?)(^^ゞ

『吉祥の誘惑』は50頁。

 

出先からです

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月18日(水)16時11分15秒
返信・引用
  皆さん、こんにちは。

ブログの場所は確保しましたので、よろしくお願いいたします。
しかしまだコンテンツがありません。コメントをいただいても不躾ならレスをつける余裕がなかなかできませんので(^-^ゞ

http://boletusedulis.blog.fc2.com/

 

印税

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年12月18日(水)13時28分30秒
返信・引用
  管理人様
夏ごろ、自費出版しました。(書評まで張り付けて頂き、感謝致します)
印税が発生したと、自費出版社から連絡がきました。まさか、印税が発生するとは、本人も驚いています。(但し、先行投資が……)
海野様のジョージアコーヒー分より、多いので、これまたびっくり。版元残は、確実に減っていました。売れた、のですね。
こんなことなら、店頭に並んだ本を写真に収めておけばよかったか、今となっては、後の祭りです。映画では、主人公の牧村朔太郎がロボット型のカメラで記念撮影してましたね。あの気持ちが、今となってひしひしと分かってきました。
(近場では、ジュンク堂千日前店に置く、ということでした)
自分宣伝で失礼しました。
 

「遠く、苦痛の谷を歩いている時」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月16日(月)22時09分23秒
返信・引用 編集済
  > No.4974[元記事へ]

高橋たか子『遠く、苦痛の谷を歩いている時』(講談社、83)読了。

承前
「甦りの家」を三部作の第三部と紹介しましたが、残る「病身」表題作の2短篇も、全く関係なしというわけではなく、「甦りの家」の変奏曲、もしくは「甦りの家」を回る衛星と言った体の短篇でした。

 「人形愛」の玉男、「秘儀」の澄生と同じく、「甦りの家」(群像80年9月号)でも、雪生という受動的な美少年が、主人公によって霊的開発され、そのことによって主人公自身もまた霊的に覚醒していき、むしろ雪生は主人公の進化(深化)に利用されている、という結構を同じくする話です。
 本篇のキイワードは「元型」(心理学用語とは無関係との注釈あり)で、個別雪生は、主人公の導きでどんどん元型である雪生を発現させていく。人間の身体は、空間的に他から隔絶して存在しています。この表層にいる限り、人間は孤独である。ところがこの人間、じつは「井戸」(存在の井戸)なんです。この井戸をどんどん降りて行くと、地下水が流れている場所に至る。個々の孤立する井戸は、地下水によって繋がっているわけです。また個々の井戸は、その生の営みの記憶をどんどん地下水に落としこんでもいるわけで、その意味で全人類の記憶が溶け込んでいる地下水ともいえます。つまり個々の人間はそこに繋がっているのですから、見方を変えれば「すべてを知っている」ということになる。ただし知っていることを知らない。だから本人は発見したと思っていることも、本当は「思い出した」だけかもしれないのです。
「ええ、想像力とはいわば記憶力のことなのよ。自分の体験しなかったことの記憶を、思い出す能力のことよ」(72p)
「一切が自分のなかにある。生れた時すでに、ある。私は思い出しさえすればいい」(122p)

 これは私にはよく分かる感覚ですねえ。もっとも一般的には、人はそのことに気づけない。ところが「夢」が媒介することで気づける場合がある。本篇でも夢が重要な働きをします。

「病身」(新潮78年6月号)も、こちらは固有名詞はありませんが、主人公「彼女」と受動的な「彼」の関係の構造は同じ。ただ本篇では「井戸」の存在に気づいていません。表層的な部分のみ描写されるのだが、すでに「甦りの家」を読んでいる読者は、そこに描かれてない井戸を勝手に想像しながら読んでしまうわけです。
「遠く、苦痛の谷を歩いている時」(群像83年7月号)はいささか趣きが違っていて、湿った作風がかなり乾いたものに変化しています。シュールレアリスティックな世界になっている。その分説明的でもあって三部作の解説編と言えなくもありません。それは本篇が半分戯曲的な筆法で書かれているからでしょう。安部公房の戯曲を想起させる感じがありました。

 いやー面白かった。こういう話は大好きです(^^)

 ということで、明日から『吉祥の誘惑』に着手します。採薬使佐平次第三弾です。
 

マクラフリン・チルドレン?

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月15日(日)14時08分1秒
返信・引用
   

 このソニックブルームというユニットのベーシストのトニー・グレイって、ジョン・マクラフリンの甥っ子なんですって。そして、ギターのフュージンスキーがまた、見るからにマハヴィシュヌを彷彿とさせるダブルネックギターで、ちょっと検索したらこんな映像がありました。

 
 なんとまあ、マハヴィシュヌ・オーケストラの「マイルス・ビヨンド」です。このことからも、フュージンスキーがマクラフリンの影響を受けていることは間違いないと思われます。さらなる傍証としては、ダブルネックの上のネックでの演奏では、あのリメンバー・シャクティのエレクトリック・マンドリンのような音を出しているんですよね。
 こうなってきますと、上原ひろみ自身が(かつてか今もかは別にして)ジョン・マクラフリンの音楽に傾倒していたことがあったんじゃないか、と想像してしまうわけです(このユニットの前のトリオのときはELPの影響が明瞭でしたが)。実際、速弾きのテーマをピアノとギターとベースが、音を揃えて演奏する(ドラムも同じ刻みをする)ところなど、いかにもマハヴィシュヌっぽいと感じます。ウィキペディアにはそんなことをうかがわせる記述はないのですが。
 ところでこのソニックブルーム、2枚アルバムを出しただけで、なぜか解消してしまっているんですよね。残念でなりません。
 

「甦りの家」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月14日(土)21時52分43秒
返信・引用 編集済
   今日は年賀状を作っていました。昼、年賀はがきを買いに行ってきてからパソコンでちゃちゃっとデザインをでっち上げ、印刷するところまで終わった。われながらやっつけ仕事ですなあ。もはや仕事と同じレベルで義務感。ひとり流れ作業(^^;
 これでも若い頃はもっと真剣に作っていて、手作り感に手応えを感じていたような気がするんですけど、プリントゴッコからパソコンに変わって手作り感の楽しさは薄れてしまいましたね。あっ。というのは多分勘違いで、今気づいたのですが、単に刷る枚数が少なかったからかも(^^;。
 明日、宛名書きして完成、投函の予定。

 高橋たか子『遠く、苦痛の谷を歩いている時』に着手。実は先日読んだ『人形愛』の、表題作と「秘儀」と、当作品集中の「甦りの家」とで、三部作になっていることを知ったので、急遽とりかかりました。作品集とは言い条、「甦りの家」だけで240頁中160頁占めています。純文学的には長篇と言っていい長さ。40頁まで。

 


 

「もぐら通信15号」(8)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月14日(土)02時40分36秒
返信・引用 編集済
  > No.4962[元記事へ]

タクランケ「もぐら感覚17:笛」を読みました。
 この連載は、安部公房作品に登場する独特のモチーフに籠められた安部の意識や無意識を拾おうとする試みのようで、17回の今回は「笛」。ちなみに前回の16回は「贋の父親」、第5回は「窓」、第6回は「手」が俎上に乗せられており、次回は「部屋」とのこと。
 考えてみればこれは大変な労作で、なぜならこれらのモチーフは安部作品のいろんな場所にばらまかれて在るわけです。ですから論者は、当然ながらすべての安部作品を一望のもとに眺めながら論じているのです。
 本稿の「笛」の場合では、まず初期の詩の中に様々な形であらわれた「笛」の分析から、そこに共通する或る観念が抽出されます(副次的に「白樺」「手折る」というモチーフも考究される)。そしてその観念が、のちの小説作品の中においても、同じ意味を担って存在していることが検証されるのです(ただし変化した要素もある)。
 こうして、先回の岩田論文で考察されていた「牧神の笛」の「笛」には、あるいは「笛を吹くこと」には、「生命を取り戻し、復活し、恢復し、蘇生するという効果をもたらすもの」という意味が籠められていると解読される。(笛を吹く主体(牧神)はリルケ的死せる無時間的世界(≒神話的世界)に居るのであって、それが笛を吹くことで、生なる歴史的時間の世界に復帰する、というふうに私は解釈しましたが。とまれそれは牧神の自己否定であるわけです)。
『第四間氷期』のラスト「コンピュータの予言通りに殺される場面で」、主人公が一瞬過呼吸となり、「急に胸がふるえて、はきだしていた息が逆流し、喉の奥で壊れた笛のような音を立てた」に着目されたのは圧巻でした。
 この試み、レヴィ=ストロースの神話研究を彷彿させられますね。非常に興味深く読みました。

 ――ということで、これにて『もぐら通信(第15号)』読了とさせていただきます。
 

Re: 「もぐら通信15号」(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月13日(金)21時02分25秒
返信・引用
  > No.4971[元記事へ]

w1allenさん

> 著者に伺ったところ、「外国語」が正しかったとのこと。
> 訂正は、第16号にてさせていただきます。
 やはりそうでしたか。お役に立てて、私もとても嬉しいです(^^)

 
 

Re: 「もぐら通信15号」(4)

 投稿者:w1allen  投稿日:2013年12月13日(金)20時34分45秒
返信・引用
  > No.4952[元記事へ]

管理人様

ご指摘ありがとうございます。
著者に伺ったところ、「外国語」が正しかったとのこと。
訂正は、第16号にてさせていただきます。

> *ところで文中の「多国語という言語の体系」の「多国語」は、「外国語」の書き間違いでは?(あるいは「他国語」の変換ミス?)

http://www.geocities.co.jp/bookend/2459/novel.htm

 

Re: こんばんは。

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月13日(金)20時21分52秒
返信・引用 編集済
  > No.4969[元記事へ]

トマトさん
>かつて拙文の掲載を打診されたことがあったのですが、
 というのが、本を出しませんか、という勧誘だったのなら、断られて正解でした。いま、この商法が大問題になっています→http://www.mynewsjapan.com/reports/1904

>HTMLに変換するのも億劫…になってしまいます…
 そうなんですよね。弊サイトとべ、クマゴロー!がなかなか更新されないのは、まさにその理由なんですね。
 ブログだったら、HTMLタグは全く使わずにアップロードできます。しかしこちらも慣れていなければ、億劫かもしれませんね。
 それでしたら「掲示板」はいかがでしょうか? トマトさんも既にこの掲示板に投稿されていますから、アップロードのやり方は同じなので、戸惑うことなく作成できるのではないでしょうか。当掲示板を一番下までスクロールしますと、[掲示板作成]というリンクがありますから、そこから入って簡単に作成できます。無料です。

>「ビジネスとして発展させる可能性も排除しない方向」
 というのが、作品を販売するという意味なら、こういうサービスもあります。
 本業の仕事に使いたいという意味でしたら、やはりホームページ(HTML)を立ち上げなければ、ブログとかではなかなか難しいかもしれませんねえ。
 

こんばんは。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月13日(金)18時57分57秒
返信・引用
  弊サイトに関してはブログ形式とHTML形式双方ともスペースを確保しました。が実際にアップロード…というと、何か途方もなく面倒くさい倦怠感というものに襲われてしまいますね…。(苦笑)コンテンツのファイル形式がワードドキュメントやPDFなので、HTMLに変換するのも億劫…になってしまいます…。(苦笑)?
しかし一方では拙作品をアップロードする弊サイトに関しては「ビジネスとして発展させる可能性も排除しない方向」で検討しております。
じつはかつて拙文の掲載を打診されたことがあったのですが、「お金を払って買っていただく印刷物に掲載されてしまうことに対する怖さ」を感じてお断りさせていただいたことがありました。素人作家であろうともやはりそこには読者や世間に対する責任と『思い遣り』愛情というものの必要性を感じています。つまり読者の家族あるいは恋人、友達といって姿勢で筆を持つべきであるというのが私のスタンスです。SF作家の皆さんは理工系の方々が目立ちますが、私は法律畑の人間なので、ものを書くということはその向こうの読者の皆さんに何かをお届けする…読者への手紙というものかもしれません。拙文によって読者の皆さんが何かしら人生に充実したものを得られたり新しい世界が広がり、最終的には幸福な人生へと至ることができたら…という姿勢が私のあり方ではないかと感じます。

拙文ですが...

戸舞賛歌とその家族…。

 例の北関東の中学というと、『変な女の子、戸舞れい子」のことを思い出す。彼女に関する悪評というのは私の通っていたH小学校時代から効いていた。彼女はとなりのG小学校の児童だったが、とにかく変な子だという。変な子というより彼女の家戸舞家自体が周囲から「変な家」として見られていた。いわゆる高学歴なインテリの家ということなのだがしかしそれでも世間一般の常識的は感覚というものわ持ち合わせていれば特に批判されることはない。が戸舞家というのはそうではなかったのである。戸舞家のことでもっとも有名なのは大晦日恒例の紅白歌合戦を決して見ないということ、また見ないということを周囲に誇示しているということだった。戸舞家近くの人たちの話によると、大晦日ニュースが終わって紅白が始まる時間になると、道から「紅白なんて、見ないよー。」という大きな声が聞こえてくるという。戸舞家の主、戸舞賛歌が家族を『率いて」大晦日恒例の紅白を見ない会(?)の散歩兼行進だという。

さて、戸舞賛歌とは一体何者なのだろうか…? 地元の新聞「いわき日報」にときなり「日曜随想 モーツァルト、心の旅」というコラムがある。このコラムの執筆者が戸舞賛歌だ。もっとも彼の生業は北関東県立博物館の学芸員だが…。さてそんな彼は高田馬場大学で○安美智子についてルドルフシュタイナーというドイツの教育学者の教育学を学んできたという。つまり蒙昧な北関東の皆さん(教員も含めて)ドイツの正しい学問を教えてやるぞ…という上から目線だったらしい。とにかく「変わり者、いやなやつ」で有名な一家だった。
で私が中学に入ると、同じクラスに例の異端者戸舞れい子が入ってきた。髪はサザエさんのわかめちゃんカット、きちっとノリの効いているセーラー服を着て、いかにも「模範的な良い子」という感じだ。そんな彼女はクラスメイトとはまったくといっていいほど話さなかった。無口というよりむ自閉症だった。時に彼女はクラスの悪ガキどものいじめの対象になってが、しかし当時は学級内正義というものが健在で彼女に田呈する虐待というものは問題視されるものではなかった。がしかしじつは彼女は私たちクラスメイトが救い出してあげなければならない存在だったのである。どこから救いだす・・・というと、あの紅白を見ない主義の戸舞家、そして時に家族に対して暴君的に振舞う戸舞賛歌から救い出して上げるべき存在だったのである。



  中学二年の夏休み明け、ウチらが通う北関東市立第百中学校は『男子の丸刈り、女子のブルマー押し付け反対」運動でうちら生徒が団結していた。そのときのオーラというものはとても筆舌しがたいが、校舎内教室内に青く輝くオーラが渦巻いていたのである。もちろん教職員たちもこの青く輝くオーラに何か胸が熱くなるものを感じていたに違いない。うちらのことだからうちらの規則はうちらで作る、うちらの責任で…というコンセプトだった。
もっともこのような盛り上がりがおきたことには理由がある。それ理は新任してきたS教諭がまず女子にブルマー着用を強要したことだった。それに同調するようにT教諭も男子の丸刈りを頭ごなしに押し付けてきた。これにうちらは反発して団結したのである。結果うちらはいくつかの援軍としてくれた教師たちの力も借りて、S教諭とT教諭の「暴挙」を跳ね除けた。そしてこの一軒でうちらはクラスメイトである戸舞れい子もうちらの仲間として受け入れた。彼女の目もキラキラと輝いていた。うちらはクラスが一つになっていた。彼女もその一員だった。しかし彼女は二年生の二学期となっても一年生のときに買わされた紺ブルマ姿だったのである。ちなみに当時女子たちはみんなといっていいほど男子と同じタンパンで体育や掃除をしていたのだ。
  うちらはそんな彼女をある週末、繁華街に連れて行った。そこにはローティーンたちのお洒落の聖地であるフアションビルがあった。ちょうど渋谷の109のようなビルだ。もちろん109に比べると規模は小さいが…。そのとき、彼女は今までになく目が輝いて楽しそうだった。うちらはかつてれい子のことを異端な存在として色眼鏡でみていたことをすまないと思い、彼女に詫びた。彼女は笑顔でそんなことはまったく気にしていないようだった。こうして彼女は私たちの仲間になった。Y子が自分のお姉さんがはいていた男子と同じタンパンを彼女にプレゼントしたので彼女も紺ブルマーで体育に出ることはなくかった。太田裕美、イルカ、チューリップ、オリビアニュートンジュン…うちらは彼女に流行の音楽を教えた。

しかし三年生の二学期ごろから彼女がまた暗くしゃべらなくなった。いくらうちらが仲間に入れてあげようとしてもかたくなに自分を閉ざしている。また自閉症が始まったらしい。そしてわたしはこんなことをとなりのクラスの人から聞いた。彼女が戸舞賛歌たちとともに登山の格好をしてバスでどこかに行ったのを見たのだという。その後彼女はうちらの仲間に入ることはなく卒業していった。

  そしてわたしが彼女と再開のは大学生になったときだ。東京の大学に通っていた私が夏休みに帰省したとき、家にエホバのなんかとかいう宗教がやってきた。玄関先で連中に対応した私はわが目を疑った。そとの宗教の伝導員としてまわってきたのは彼女戸舞れい子だったのである。わたしは言葉を失った。そして彼女を救い出してやれらなったことに悲しさを感じた。
さてその晩、近所のおばさんが「ならたけ」を持ってきてくれた。なら茸というのは夏から秋に生えるキノコで一度に大量に発生する目から見つけた人は皆近所におすそ分けするのである。でその日の夕飯にはこのなら茸入り味噌汁がでた。しかしその後、おかしなことが起きた。というの葉眼を閉じると突然七色の電気回路みたいな中を私が飛んでいるのである。「なんかおかしい?」そう思った。その変な夢はまだ続いた。七色の電気回路を飛び回っていると今度は悪魔のような牛だか人間だかわからないものに出会った。怖くなった。そして思い切り逃げた。すると戸舞れい子の家の居間に居た。れい子は居間の本棚を動かしてくれと綿歳にいう。そこで私は彼女とともに本棚を羽後した。するとその向こうに誇りだらけの扉があった。私は「どうしてこんな所に扉があるのだろう?」と首を傾げたが、彼女は勢いよく扉を開けた。するとその向こうに中学生の彼女がいた。紺ブルマー姿ではなくお洒落なローティーンらしくむジージャンにショートパンツ、ピンクのポーチを持った彼女だ。 それが本来のローティーンの彼女だった。
そして不思議な夢は覚めてしまった。時計の針は9時をさしている。「なんか変な夢、見なかった?」父や母や姉もそう聞いていた。皆変な夢をみたという。よくじつ、なら茸を分けてくれたおばさんが謝りに来た。なら茸の中に毒キノコの一種であるシビレ茸がまじっていたらしい。夢中になってとったので、シビレ茸も混同してしまったということだ。実際になら茸とシビレ茸の誤食は多いらしい。ただしシビレ茸の味はすこぶるまずい。そういえばあの味噌汁、なら茸味噌汁にしてはまずかったなぁ…が幸いシビレ茸は毒性が弱かったので特に医者に行く必要はなかったが…。しかし今でもあの光景を見ると私は胸が熱くなる。それはエホバのなんとかなんぞいう宗教をやらなければならない戸舞れい子がじつは中学生時代の「本来のの自分」をあれほどいとおしく恋しく思っているあの光景をだ。

  しかし現実はあのころと変わらない。そしてまた戸舞賛歌は大晦日が来るたびに「紅白なんて、見ないよ。」と家族を率いて行進するのだろう。 
 

「華竜の宮」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月13日(金)01時56分34秒
返信・引用 編集済
  上田早夕里『華竜の宮』(ハヤカワJコレクション、10)読了。

 初読時よりも評価が無限大にアップしました。SFとしてとんでもない高みにまで達した大変な傑作というべき! まずはこの長大な(580頁、1400枚近い)物語を、最初から最後まで、走りもせず遅滞もさせず、一定の速度で描き切った筆力。読みながらひたすら感心していました。この長尺を殆んど矛盾を生じさせず起承転結ここまでコントロールしきった構成力もすごい。余人の追随を許しません。あの半村良でさえ、前半と後半で密度や速度が変化してしまうのを制御できていません。初読時に何故そこまで気づけなかったのかと反省しきり。その理由は自分自身はっきりとわかっていて、要するに虚心坦懐に読めなかったからです。
 初読時の感想文に、私はこう書いています。「司政官にしろ日本沈没にしろ、アシモフ「ファウンデーション」に連なる世界観で、本書もこれを継いでいるものといえます。しかし小松には他面で日本アパッチ族があり、眉村は「原っぱ」の自由さへの郷愁を隠さない。本篇の著者はしかしかかるアナーキーな状態に対しては拒否的であるように感じました(たとえばポストホロコースト世界においても国家は存続しているという設定を選択する)。ここが小松や眉村とは違う面で、実はこれまでの作品においても微妙な違和感が私にはあり、それがなんだか分からなかったのですが、そういうコントロールの効かない世界への憧憬の皆無さが、私の感覚と微妙に合わななったのかも知れないと、思い当たったのでした。」(2010/12/12当掲示板)
 この違和感が、初読時、私にずっとついて離れなかった。そのため常に色眼鏡をかけて読んでいた。もちろん同じ本を読むわけですから、それは今回もあったのです。
『銀河帝国の興亡(上)』の解説で、石川喬司が「リシュリューばりの権謀術数」と評していましたが、本書にもそういう面がある。つまり本書は、官僚たちが、互いに相手を出し抜くために、築き上げた人脈を駆使し、前例を参照し尽して抜け道を見つけていく、それが重要なストーリーの要素を形成している。それは否定できないはずです。それが可能となる土俵はどこか。いうまでもなく国家というものが機能している世界です。国家という権力機構を前提としなければ不可能な話、ということができると思います。
 それと関連していると思うのですが、海上民が目上に対してものすごく丁寧な敬語を使うのも違和感があった。海上民の社会のようなフラットな社会に、敬語は発達するだろうか。私はしないと考えます。ではなぜこのような敬語を使って接しあう描写があるのか。意識的か無意識かは措いて、それは著者のなかに互いに敬し合う人間関係を希求する人間観があるからだと思います。倫理観と言ってもよい。それは取りも直さず青澄において形象化されています。
 せっかくゼロ世界を設定しておいて、なぜそっちへ持っていくのか。ゼロ世界という点では、『日本アパッチ族』も同じです。ところがその世界に展開される物語は180度違うんですね。かたやゼロ世界のアナーキーさを謳歌する。かたやゼロ世界に、なんとか国家を(国家の善も悪も認めた上で)維持していこうと努力する。この違いはどこから来るのか。
 小松も著者も、現実にゼロ世界を体験しています。小松は空襲で。著者は阪神大震災で。小松は瓦礫の山と化したゼロ世界に、重石を取り払われたような解放感を感じ取りました。一方著者はそうではなかったのではないか。震災のゼロ世界を経験したからこそ、世界は何があっても(たとえ悪の要素があったとしても)コントロールされていなければ、民衆は不幸になる。そのように感じたのではないか。自然災害はどうしようもないが、後の処置がもっとコントロールされたものであったならば、という体験的な思いが本書執筆の動機の一つであったというのは考え過ぎでしょうか。
 いずれにせよ、かかる両者の原体験の差が、本書とアパッチの世界を分けているのではないでしょうか。
 今回は再読ということでストーリーもわかっており、その分冷静に、そういう色眼鏡を外して読むことができたようです。で、自覚させられたのは、いかに色眼鏡が視野を狭くし、本篇の素晴らしいところを目に入らないようにさせていたかということで、それはもう呆れ果てるばかりでした。ゼロ世界への対処の方法は、アパッチだけではなかった。本篇のような「在り方」も、当然「小説」は深耕していかなければ、「小説」の存在価値がない。著者は「今一つの対処の在り方」を物語化し、この上もない傑作をものしてしまいました。これまでオールタイム・ベストは、つねに「果しなき流れの果に」と「百億の昼と千億の夜」の争いでしたが、今後はこの二作に、本篇が絡んで三つ巴になっていくんじゃないでしょうか(^^)
 このたび本篇の続編が上梓されるのですが、この傑作をどう継いでいく話なのか、期待で胸は高鳴るばかり。19日の発売をワクワクして待ちたいと思います。


 

Re: 深田さん 平谷さん

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月12日(木)22時13分0秒
返信・引用 編集済
  > No.4965[元記事へ]

深田さん
>怪談は欧米では夏というより冬がシーズンだという話も聞きますね
 そういえばあちらのお盆であるハロウィンは、ケルト由来だそうですが、寒さの開始を告げる季節行事ですね。
 そうしますと怪談は夏というのは、夏が高温多湿な我が国特有の発想なのかも知れませんねえ。超自然現象や幽霊まで、納涼の道具にしてしまうんですから(>おい)。ブリテンやアイルランドの人々にはちょっと思いつくこともできない発想かも(^^;



> No.4966[元記事へ]

平谷さん
>どんなに売れ行きが悪くても
 いや、お話の面白さについてはもはや(編集者の間では)評価が定まっていると私は思います。そういう信頼はあるはずなので、あとはただ知名度(認知度)の問題。もちろんジャンル内では平谷美樹の名を知らないものはいませんから、非ジャンル読者への浸透ですね。今回のランクインはその意味でもよかった。書評される機会もしだいに増えていくでしょう(既にその傾向は現れていますよね)。そういうことが相俟って、雪だるま式にどんどん読者がついてきます。もとより百戦錬磨の編集はそんなことは百も承知ですから、大長編への注文は今後確実に増えてくるんじゃないですか。あとは質を維持することですが、それに関しては平谷さんは多分自信がおありだと思います(笑)。私も全く心配しておりません。
 

Re: 「風の王国」堂々3位ランクイン!

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2013年12月12日(木)07時40分55秒
返信・引用
  > No.4964[元記事へ]

管理人さま

ありがとうございます♪
思い切り長いものの構想はあるのですが、書かせてくれるところがあるかどうか(笑)
どんなに売れ行きが悪くても最後まで書かせてくれるという約束をしてもらえないと、書けません(笑)
 

Re: 深田亨作品が文庫に収録されます!

 投稿者:深田 亨  投稿日:2013年12月12日(木)01時41分17秒
返信・引用
  > No.4959[元記事へ]

管理人さま

掲載予定本をご紹介くださいましてありがとうございます。

怪談は欧米では夏というより冬がシーズンだという話も聞きますね。
ディッケンズのクリスマス・キャロルの世界でしょうか。(読んでないですけど)
 

「風の王国」堂々3位ランクイン!

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月12日(木)01時36分44秒
返信・引用 編集済
   10世紀の沿海州・満州を舞台に雄渾壮大な伝奇ロマンが繰り広げられる、平谷美樹さん会心の大冒険歴史(?)巨編で、私もイチオシの『風の王国(全10巻)』が、『この時代小説がすごい 2014年版』<書き下ろし文庫編>で、堂々第三位にランクインしました!→こちら
 いやーめでたい。平谷さん、おめでとうございます。まあ順当な結果ではありますがね(笑)
 これをきっかけに、『風の王国(全10巻)』の知名度が上がり、多くの読者に読まれるようになることを期待します。とともに、またこんな物語を書いてくださいね(^^)

 
 

トマトさん

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月11日(水)22時33分44秒
返信・引用 編集済
  トマトさん
 ブログのほうが簡単で管理も格段にラクですよ。無料ブログがいろいろありますので、検討されてはいかがですか。

>「ビールを飲んでくれそうな不特定多数の一般人との会話」
 というのはそうだったのかもしれませんね。全く見えない読者に向かって書いているのではなく、ある程度絞って想定していると思います。
 そういえば柄谷行人は、自分の文章は常に特定のだれかを想定して書いている、と言っていたと思います。不肖私も、だいたい誰かを想定して書いていますねえ。

 新作ありがとうございます。久しぶりのトマトワールド、堪能させて頂きました(^^)

 さて、『華竜の宮』は、530頁。あと50頁。順調なら明日読み終われそう。
 

 

「もぐら通信15号」(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月11日(水)22時14分26秒
返信・引用 編集済
  > No.4955[元記事へ]

岩田英哉「安部公房の変形能力14:シュールレアリズム」を読みました。
 本論文は連載中の論考の第14回目なのですが、例によってこの感想文は前回までの連載を読まずに当回のみを読んでのものなので、OKADA論文にひき続いて群盲評象の類であることをお断りしておきます(^^;
 もともと詩を書いていた安部公房が、ある時期を境に小説家に転身します。本論考は、その転身するに至った契機に就いて考究したものです。と書いている私自身は、安部が詩人であったことも本稿で初めて知った素人ですから、論の内容に立ち入って感想を述べる知識も能力もありません。私がなし得るのは、ただ本論を要約整理することのみであることも、予めお断りしておきます。
 さて、リルケに耽溺し、無時間的な世界(繭の中=世界の外)で詩を書いていた安部が、戦後、ふと繭の中から外を見ると、なんと「時間が流れている」! そのことに気づき、安部は愕然とします。
 おそらく「詩」の方法論では戦後の現実世界を表現できないことに気づいた、ということなのでしょう。
 しかし、だからといって旧来の伝統的な小説形式では、安部が表現したいことを十全には表現できないことも、安部にはわかっていた。詩(リルケ)では駄目だとしても、それに変わる表現形式を、安部は探しあぐねていたのだと想像しました。
 そのとき、たまたま安部は「シュールレアリズム」に出遭います。
 安部は言う「リルケはぼくに、精神の死を体験させてくれた。死人の目でものを見る術から、シュールレアリズムまでは、比較的近い道のりだった」
 この「比較的近い道のりだった」という意味を、論者はブルトンの著作を引いて解説しています。知識のない私には非常に難解だったのですが、要するにリルケ的な「無時間」(死人の目=世界外?)でやってきた安部にとって、「時間の捨象がなされていて、空間的な造形性を有して、空間的にその関係が表されている」ところの「シュールレアリズムの言語世界」は、これまでの方法論と半分重なっており、とはつまり半分馴染みがあり、断絶的というより連続的で、ですから(ゼロから始めるわけではないので)比較的容易に移行可能である。しかもこの方法論を援用すれば、安部が表現したかったところの(「詩」でも「旧来の小説」でも表現し得ないと感じていたところの)、滔々と時間が流れる歴史的現実を捉えることができそうだ、との感触を得ることができた、ということではないでしょうか。
 かくして安部は「デンドロカカリヤ」を書き、「シュールレアリズム批判」をまとめます。
 しかし「デンドロカカリヤ」は、ショートショートとまでは言わないまでも短い短篇で、安部自身、「小説」を書いたぞ、という実感をもてなかったみたいですね。「「S・カルマ氏の犯罪」は、小説に対するぼくの姿勢を大きく変えてくれた作品である」と言っています。
 そしてこの「S・カルマ氏の犯罪」を書き得たのは、論者によれば、直前に読んだ「不思議の国のアリス」によって、書き方の天啓を得たからのようです。
 ここまでを論者は[リルケ→『牧神の笛』→シュールレアリズム→ルイス・キャロル→『壁』→小説家としての出発]とまとめていて、なるほどよく分かります。
 ここで論者は、安部がいつ頃「アリス」を読んだのかを推定していて、「1950年の後半から1951年の1月の時間の中のどこかで『不思議の国のアリス』に、それも「壁ーS・カルマ氏の犯罪」の執筆に極く近い時間の長さのあるところ、即ち執筆開始の40時間前に出逢ったことになります」と書かれているのですが――[註]で引用されている『安部公房伝』の記述と合わないところがあるように思われました。引用を整理します。
    1949年4月「デンドロカカリヤ」執筆
            6月「シュールレアリズム批判」
                               5ヶ月後
                   11月「壁ーS・カルマ氏の犯罪」執筆(「アリス」に触発された幻想的な作品で、40時間ほどで一気に書き上げたという)

 となっていて、安部ネリの記述を信用すれば、アリスを読んだのは1949年11月以前ということになるように思いました。
 またその数行あとで、「1950年5月に『牧神の笛』を書いて」とありますが、これもネリの記述を基準にすれば、1949年4月以前でなければなりません。調べたのですが、50年5月は<野生>誌に掲載月のようです。こちらでは1949年1月4日とあります。
 私の勘違いでしたらお詫びしますが、いずれにせよ本論考の論旨に係る問題ではありません。安部公房が、最初詩を書いていてのちに(25歳で)小説に転じたという事実、そしてそこにはシュールレアリズムとアリスが関わっていた、ということを、私は本論で初めて知ることができました。大変興味深く読ませて頂きました。
 余談ですが、眉村さんも若いころ詩を書いていて、25歳で初めて小説を書かれた(俳句は一貫して現在までやっておられますが)。小説家への転向が全く同じ年齢というのが、まあ単なる偶然なんですが、不思議なシンクロニシティめいたものを感じてしまいました(笑)。

 

管理人さん、段野さん、お元気でしたか?

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月11日(水)18時52分23秒
返信・引用
  この前は仕事のパートナーとして活躍してもらっているスマートフォン(ギャラクシー)が心肺停止となり、あわてました。診断の結果、どうということは無くデータも無事でしたが…。
ところでお話モードが仕事の領域まで進出してくると結構仕事の方に影響が出てきそうでした。

  開設を予定している弊サイトですが、プログ形式にするかウェブサイト形式にするか検討中です。
ところで久野四郎は宣伝課に在籍していたということですから、執筆は「ビールを飲んでくれそうな不特定多数の一般人との会話」というスタンスだったのかも?しれません。

  眉村さん、お洒落なシルバーですね。我々の世代では「謎転」で一種ローティーンの神格的存在でもあったのですが…。??

お話を一つ、アップロードさせていただきます。



回想のグレートマザーアパートメント?

気がつけばあの石造りの要塞のようなグレートマザーアパートメントから離れて久しい。が向こうに茂る森の中にそのグレートマザーアパートメントはあるのだから、愛車イタリアンレット(ロッソ)のアルファロメオジェリエッタを駆ければすぐに行き着くはずなのだが、しかしどういうわけか気がつくとあの森は私の視界から消え失せている。つまり「あの頃の子供の心」でなければあのグレートマザーアパートメントにはたどり着けないのである。
 そんなある日、わたしの前に久しぶりにYおねえちゃんが現れた。彼女はグレートマザーアバートメントのそばの一軒家に住んでいた美人三姉妹の一人だ。あの頃はよく自転車でアパートの前を通って学校に向かっていた。そんな彼女はあの頃と同じように凛と糊が効いたセーラーの夏服で私の前に現れた。そして子供の頃の私の手を引くようにあの森の中に入っていった。
  森の中にはすっかり忘れていた懐かしい光景が広がっている。大きく葉を伸ばすバショウ、棘だらけの枝にスイカブローチのような実をつけたスグリなんかが生えている。その向こうにあるのはあの厚化粧のおばさんが座っているタバコ屋だ。
  セーラー服姿の彼女はわたしの手を引き、あの石造りの要塞のようなグレートマザーアパートメントまでやってきた。例のアーチ型の入り口を入って階段を上る。発光する石英で出来た階段はとても明るい。そして例の部屋、301号室の前に立つ。意外にも木製のしかも絵が装飾されたドアだ。そこを開けるとその向こうは無限の星空の海だった。この星空、私が子供の頃はよく見たものだがここ最近は見ていない。彼女とともに私は星空の海を泳いだ。そこには『あの頃の記憶』が詰まった部屋への扉がいくつもあった。そうだ、あのグレートマザーアバートメントの中は星空の海だったのだ。


  Yおねえさんだけど、実は千葉県柏市の新興住宅地に住んでいるのだ。じつはすぐ近くなのだが…しかし私は彼女のところに尋ねていくわけにはいかない。どうしてなにが私と彼女との間にそんな遠い距離を作ってしまったのだろう??
 

とまとさま

 投稿者:段野のり子  投稿日:2013年12月11日(水)13時24分34秒
返信・引用
  お久しぶりです。次作、お待ちしております!
管理人様
先日、深田様にお会いした時には、さびしそうに「今年は終わりですなあ」とおっしゃっていたのに、ラストに素晴らしいお知らせです。楽しみにしております。
 

深田亨作品が文庫に収録されます!

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月10日(火)21時28分2秒
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  > No.4958[元記事へ]

トマトさん、ご来信ありがとうございます。
 貴サイトでの再開を楽しみにしております!

 さて、カドカワMF文庫から、12月24日に発売される『てのひら怪談 癸巳』に、深田亨さんの作品が収録されているそうです! 深田さん、おめでとうございます(^^)
 収録作品は、「みによんの幽霊」「お迎え」の2篇。たんまり原稿料が入るそうですよ(註:当管理人おこづかい比)
(ーー;
 こちら(しかし何ともクリスマスらしくない表紙ですなあ)(^^;。
 とまれ聖しこの夜は、恐怖と幻想の怪談ショートショートで涼しく過しましょうか(^^;

 

管理人さん、段野さん皆さん、ご無沙汰しております。

 投稿者:トマト  投稿日:2013年12月10日(火)21時19分9秒
返信・引用
  仕事との兼ね合いから突然、休筆させていただきました。申し訳ございません。
仕事中も「いろいろなオハナシ」が頭のなかを動き回っている状態なので、しばらく、筆を置かせていだだきました。
仕事とのバランスをとりながらオハナシを書き続けできれば私が管理するウェブサイトにアップロードする予定です。書きためたオハナシはHDDのなかにたくさんあるので、すこしづつアップロードさていこうどおもいます。
 

眉村先生近影2-2

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月10日(火)20時09分1秒
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  > No.4956[元記事へ]

 

眉村先生近影2-1

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月10日(火)20時07分44秒
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「もぐら通信15号」(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 9日(月)22時24分44秒
返信・引用 編集済
  > No.4953[元記事へ]

岩田英哉「『石川淳対談集 夷齋座談』」は、安部公房に関する言説を自分の本棚から引出してきて開陳する《私の本棚より》というコーナーに寄稿されたエッセイのようです。
 この石川淳の対談集の中に安部との対談も収録されていて、寄稿者によって紹介されるのは、小見出しで「文学の土着性と自然」と題された部分。これは面白かった。
 安部が「自分はローカルなものに興味がない」と言ったのを受けて石川が、「東京に育った者は殊にそうだ」という感じで首肯します。すると我が意を得たとばかりに安部が「反感はありませんか」と問うのですが、石川の答えは(多分安部は意外だったと思うのですが)「ローカルなものへの反感はないな。むしろ好奇心がある。抵抗があるとすれば、たとえば富士山のようなものはいやだ」
 この部分、安部に預けてしまったけれども、実は私自身が意外に感じたのでした。あとの部分を読んでその意外感は解消するのですが、私の中で、ローカル・田舎(とも安部は言っている)と富士山は、そのとき同一範疇に感じていたようです。
 しかしさすがに安部は私より賢くて(>おい)(^^;、すぐに石川がそう言った意味に気づき、そっちへ方向転換します。
安部「たとえば地方性、一般的な意味じゃなくて、日本的な意味での農本主義的文化観がありますね」
石川、そうそうと深く頷いて(というのは私の想像ですが)(^^;「それがいやなんだ。富士山に抵抗するというのは(……)日本的なものがいやということだな」
 ここにおいて富士山(に石川が籠めたもの)は、地方性とは対極的なものであったことが浮かび上がってきます。
 すなわちそれは「日本」という虚構なんですね。そんなものは伝統でもなんでもなく、いわんや江戸時代にはなかった。だからそれに対するものとして石川は「江戸文化」を対置させたわけなんですが、要するに「明治国家」が近代国家の要請によって作り上げた「日本」という「人工的な観念」なんです。愛国心はその最たるもの。日の丸も君が代もそうですね(そしてそれらはひっくるめて富士山によって代表させられる)。いわば上から押し付けられた中央集権的な観念で、当然江戸町人文化とは「まぎゃく」なものなんです。ところが私達は、愛国心(をもつこと)や富士山(を他の山と違う特別な山と感じること)を、土着的で自然な、つまり伝統からくる当然の感情と、何となく思い込んでいるんですよね。
 安部は、自分が持つ違和感を、石川も同じく持っているとの思いがあって、二人で意気投合しようという意図を持って、くだんの「ローカルなものに興味はない」と言ったのだ、と、私は想像するのです(ここでローカルとは「伝統」と言い換え可)。しかしそれはやや認識が甘かった。安部の「意識」とは違って、「地方性」(自然・伝統)とは対極的な「中央性」(人工・近代)にこそ、本当のところは安部は違和感を持っていたはずなのです。で、ここは大先輩石川淳が、安部の思考の足りなさを、サラリと指摘してみせた。安部もまた、石川の「富士山」の一言でそのことに気づくところが、やはりさすがでした。
 という具合にこのエッセイ、そんなふうに妄想をたくましくしながら読むと面白く、楽しませてもらいました。

 『華竜の宮』は、今日は読めませんでした。


 

ローリングストーンズ

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 8日(日)22時23分31秒
返信・引用 編集済
  来日公演決定

 おお、ミック・テイラーも帯同するのか! だったら観に行く価値があるな。
 なに! 東京のみ?
 チケットが8万円?
 交通費入れたら10万円超!
 ううむ。ロンドンの労働者階級のアイドルだったバンドなのに
(ーー;
 

「もぐら通信15号」(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 8日(日)18時45分32秒
返信・引用 編集済
  > No.4952[元記事へ]

HIROSHI OKADA「安部公房の愛の思想(5)」を読みました。
 本論は連載の第5回ということなので、背景的前提を把握していない私がこれだけ単独で読んでも、逆に読み違えてしまう可能性が高いのですが、本論は主に『密会』を俎上にあげており、先に読んだ嵐論文と重なる部分が多く、並べて読んでみるとなかなか面白かった。上記のとおりの問題はありますが、あえて感想を述べたく思います。
 論者は都市論として『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』を読むことで、「安部公房の愛の思想」は「都市論を通して、「他者への通路を開く新しい共同体」思想へと高まっている」とした上で、「ここでいう「他者」は、都市において孤独に耐えることができ」るところの「自立した精神を持つ、互いに対等な他者でなければならない」と、まず措定する(これは嵐論考で、「抽象的な人間関係を有する空間である「都市」に、自由(平等)への可能性を模索し」というのと対応します)。
 論者はかかる「対等」について、安部の「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」という箴言から(既存の)「弱者への愛」は「強者の施し」であると読み取り、そこには対等な関係はないとする。そして(安部独特の表現である)「逆進化」という人間固有の「進化」によってのみ、「対等」関係を構築しうるとし、安部はそのことを『密会』で表現したとします。
 この「逆進化」と、それに対置される「動物的進化論」ですが、もっと一般的に表現すれば「文化」:「自然」ということですね。人間のみが文化を持つのであり(ただし類人猿にはその萌芽が認められるらしい)、自然が生得的であるに対して文化は獲得的な様式で、昨日梅田を歩いていたら、若いオネーチャンが、下半身はスカスカの生足に短ブーツ、上半身はファー付きダウンジャケットに厚く着ぶくれした格好で闊歩しているのを見かけ、おいおい下半身を暖めず上半身だけあたためて馬鹿じゃないの、とあきれたのでしたが、これも「文化」の一様式で、人間は単純に生存に適した行動を選ぶわけではないのですね。安部の言う「逆進化」も同じで、社会進化論的な適者(強者)生存原理(本能=自然)を、知性の発達によって人間は「文化」という「生物学的目的を超越し、またはこれを否定するような目的設定をなす」(Aウェーバー)ことができるようになった存在といえる。
 といってもこれは(自発的にせよ教育的にせよ)獲得的なものであって、すべての人間が同じレベルで到達し得るというものではない。結局人間とは内なる「自然」と「文化」が相拮抗し戦っている場なのであって、誰もが「都市の抽象的な孤立する人間関係」に耐えられるわけではない。
 かかる文脈において嵐論文では『密会』は、安部自身の、「逆進化」に自分は耐えられないのではないか(木田福一の限界)という表明(後退)があるとしています。これに対して本論では、「今の社会では弱者に希望はないが、その希望のなさに希望をみるよりないように思う」という安部の言葉を引いており、これを対立的に捉えるよりは、まさに安部自身の中で、自然と文化が(過去と未来が)相拮抗し、揺れていたのであろうということを推測させるものであるように思います。

 『華竜の宮』は、450頁。あと100頁ちょっと。
 

  > No.4951[元記事へ]

稲垣健「『けものたちは故郷をめざす』と表現者 安部公房」を読みました。
 前置きの部分は、安部公房のクレオール言語への関心を念頭に置いたものと思います。書かれているように、他言語との接触が当該言語を活性化するのは事実ですが(クレオール言語は融合してしまった例。我々の使う日本語自体が、そもそもクレオール言語であった可能性は高い)、それ以外にも(論者の用法で)「生成」は起こりうる。その一例として、たとえば「誤用」がそのまま受容され体系に構造化される場合があります。「まったり」は本来味覚表現ですが、いまでは「今日は休みなのでまったりしている」という風に一般的に使用されています。じっさい、「まったり」は或る状態の表現として感覚的にしっくりしますよね。ですからたぶんこの新語は、後代まで残っていくだろうと思います。これなんかはまさに「誤用による生成」でありましょう(たぶん「ら抜き」言葉もそう)。「誤用による生成」は母語ががっちりしている社会では起こりにくいのですが、現代日本は、1)伝統の規制力が弱まっている(伝統的関係の弱化)。2)教育による規制力(効果)が弱まっている(多様化)。の二面から、言語生成が起こりやすい状況になっているように思います。
 この「誤用による生成」は、一般化すれば「パロール」が「ラング」を変形させたということになります。本論で「言葉そのものの新たな価値創出、創造という観点で見ると、やはり表現者(作家)の役割は大きい」と書かれているのも、やはり「パロール→ラング」的生成という点では同じで、この場合は「詩の言語」ということになるかと思います。
 以上は「前書き」への感想です。
 さて、かかる生成(「パロール→ラング」的生成)は安部公房という特殊個人においてもなされているわけですが、本論は、その様態を『けものたちは故郷をめざす』における主人公の満州脱出→故郷からの拒絶というゆくたてに重ねて考察したものといえる。しこうして論者は、「「けものたち」すなわち表現者たちは、それでも「失われた故郷」をめざし続ける」と結んでいるのですが、どうなんでしょう? 安部のベクトルは失われた故郷をめざしているのでしょうか?

*ところで文中の「多国語という言語の体系」の「多国語」は、「外国語」の書き間違いでは?(あるいは「他国語」の変換ミス?)

 『華竜の宮』は、345頁まで。

 なお、明日は「最後まで付き合う」忘年会なので、書き込みはできないと思います。
 

Re: 「もぐら通信15号」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 5日(木)23時51分23秒
返信・引用 編集済
  > No.4950[元記事へ]

w1allenさん
 未読のため、論旨をきっちりトレースできなかったのが残念です。
 公房は近々、再読も含め、通時的にまとめて読みたいと思っています。

>雑誌の締め切りが間近に迫って困っていた時に、戯曲なら
 そ、そんな理由!(^^ゞ
 でもそれ以降も戯曲を書き続け、安部公房スタジオまで立ち上げるようになるんですから、やはり小説とは違う何らかの魅力を見つけ出したということなんでしょうね。それは一体なんだったんでしょう。気になります。
 

Re: 「もぐら通信15号」(3)

 投稿者:w1allen  投稿日:2013年12月 5日(木)22時51分21秒
返信・引用 編集済
  > No.4949[元記事へ]

管理人様

拙文を読んでいただいてありがとうございます。
安部公房が最初に戯曲を書いたのは、「制服」(1954年)だったと思います。
きっかけは、雑誌の締め切りが間近に迫って困っていた時に、戯曲なら
書けるのではないかと思って書いたそうです。

http://www.geocities.co.jp/bookend/2459/novel.htm

 

「もぐら通信15号」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 5日(木)22時19分12秒
返信・引用 編集済
  > No.4948[元記事へ]

w1allen「『飢餓同盟』小論」を読みました。
 私は当該小説を未読なので、本論考を読むことで、『飢餓同盟』が私の中で「どのような小説」としてイメージされたか(その妄想を)を書きます(^^;。
 まず感じたのは、「田舎町で起こるドタバタ劇を描いた作品」「小さな町で起こるどこか滑稽でユーモラスな騒動」というところから、安部の戯曲みたいだな、ということです。事実論者も「『幽霊はここにいる』に繋がる」と感じていますし、著者自身、戯曲化を試みているそうですから、あながち見当外れでもなさそうです。
 安部の戯曲は、大抵、ごく日常世界的な舞台を設定し(舞台自体に仕掛けはないということ。小説では『砂の女』にしろ『方舟さくら丸』にしろ舞台に仕掛けがある)、そこにひとつだけ異物・非在物(たとえばウェー、幽霊)を置いてみるというのが安部戯曲の常套といえます。するとそれをめぐって登場人物がドタバタ右往左往はじめるわけですね。
 一方、『飢餓同盟』もまた、ルポルタージュ的な世界に「人間メーター」という非リアルな存在物が導入されてドタバタと回っていく話みたいですから、やはり「戯曲的な小説」と言ってよさそうに思うわけです。
 ところでそうしますと、安部がいつから戯曲に手を染めたのか、気になってきました。第一戯曲集『どれい狩り・快速船・制服 安部公房創作劇集』の出版は1955年のようですから(wikipediaによる)、『飢餓同盟』(54)のほうが1年早いのです。もちろん個々の戯曲の書かれた時期はそのデータからは確定できず、当然55年以前であるわけですが、それでも『飢餓同盟』と戯曲の開始が「重なっている」ということは言えるのではないか。
 ここで妄想をたくましくするのですが、本来『飢餓同盟』は戯曲で書かれるべき素材だった。ところが1950年代前半、安部の裡では戯曲の方法論はいまだ模索の段階だった。あるいは『飢餓同盟』の原型を書きながら、安部にはそこはかとない違和感があり、その違和感が、戯曲という方法論に気づかせた、というようなことはなかったのでしょうか? もとよりこれは無責任な思いつきです。でも、安部が戯曲を始めた理由というのはわかっているのでしょうか? 識者に教えを請いたいところです。

 『華竜の宮』は、290頁まで。
 

「もぐら通信15号」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 4日(水)22時38分39秒
返信・引用 編集済
  > No.4947[元記事へ]

嵐志保「安部公房『密会』論――絶望の書として――」を読みました。
 本論考は、論者が1998年に提出した卒業論文とのこと。
 1977年に出版された『密会』を、私は上梓されてすぐ読みましたが、それっきり一度も再読しておらず、ほぼ内容は忘却しています(殆んどポルノやな、と思った記憶は残っていますが(^^;)。したがって本論を作品に即して検証することはできません。ただあるがままの論理性を辿るばかり。
 論者によれば、舞台の病院は「現代の都市の縮図」であるとします。「都市」は、『燃えつきた地図』では旧来の関係を断って逃げ込める自由への可能性の世界として描かれていた。つづく『他人の顔』『箱男』でも都市はそのように捉えられていたが、しかし両作品とも、結末では主人公はその自由に耐えられなくなっているとします。そして『密会』において、ついに(副題とおり)都市への絶望が描かれるに至る。
 この点に関して、私自身は『箱男』に、都市の抽象性の世界の中にまさに安住するユートピアしか読めてなくて、本論のとおりならそこに芽生えかけた懐疑を読み逃していたことになります。『箱男』の楽天性を、たとえば高橋和巳の言説(*)を引いて批判していたので、まさに汗顔の思いでした。
 病院に監視社会(管理社会)を読み取り、しかも監視する側もまた「監視される人間」によって構成されているという近代社会の特質を、安部公房が喝破していたと解読しているのも、鋭い洞察力だと思いました(少なくとも私には判らなかった)。
 元来、都市をユートピアとみなせる人間は、旧来の人間から「断絶的」に進化した人間にほかならず、その新人間(=未来)から振り返ったのが『第四間氷期』なのですが、論者を敷衍するならば、『燃えつきた地図』ではその観念が疑いなく踏襲されていたのが、『他人の顔』『箱男』で、そのような新人間をオプティミスティックに描くことができなくなり(安部が自身のあり方を内観して、です。つまり自身に『日本アパッチ族』の木田福一を見つけてしまった?)、結局『密会』でその不可能性を認めざるを得なくなった、ということになるのでしょうか(単なる形式論理ですが)。
 これは安部公房、読み返して確認しなければ、という気持ちがむらむらともたげて来ました(^^;
(*)「すでに国家の恩恵に浴している国民の中の急進主義者にとって、国家はやがて消滅するものであっても、すべてがユダヤ人マルクスのように思想的国際性を獲得できるわけではない混血児にとっては、何とかして既成の民族に融け込み、国家の枠内にもぐり込むことが先決だった」(『堕落』講談社文芸文庫版70p)

 『華竜の宮』は230頁まで。

 

「もぐら通信15号」(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 3日(火)23時30分42秒
返信・引用 編集済
   w1allenさんたちがやっておられる安部公房研究会?(ファンの会?)がPFDで配信している「月刊もぐら通信」に登録し、第15号を送ってもらいました。→安部公房解読工房blog
 開いてびっくり。月刊なのに89頁もあります。また内容も、目次を見るとなかなか高尚そうで、読む前から圧倒されてしまいました。とにかく少しずつ読んでいこうと思います(1か月で読みきれるのか)。
 まずは冒頭の秋川久紫「『一角獣の変身』における1963年の安部公房」を読みました。
 銀座の青木画廊で1963年に開催された「池田龍雄・中村宏・山下菊二3人展」に安部公房が寄せた短い文章の考察で、この3人は当時気鋭のアヴァンギャルド芸術の表現者だったそうですが(中村宏って<NW-SF>に挿絵描いてなかったっけ)、自身アヴァンギャルドであった安部の口調が意外に辛口で、その真意を考察したものです。(短い文章なので要約や引用はしません。上記リンクより「月刊もぐら通信」ダウンロードできます。無料です)
 一読、私はなるほどと思いました。絵画にかぎらず、前衛と言われるものは常にその時点の自己(の作物)を否定し進んでいかなければ、前衛の名に値しない。その時点の作物がいかに鑑賞者によって受け入れられ、評価されようとも、です。つまり前衛は、常に「(現時点における)「美」の殺害者としてふるまう」者でなければならない。視点を変えれば、それは現時点の画業の理解者・支持者の否定でもあるわけです。
 ここで二つの問題が見いだせる。
 ひとつは「美の殺害者」として「鑑賞者」の拒否を行うその態度自体が、「拒絶の商品化」の面を持つということ。もっといえば前衛が、「拒絶の商品化」の元に安住してしまうということ。いわば「前衛の大家」(形容矛盾)としてこの世界に位置(ポジション)を確定してしまう、その危険性の指摘。その時点で、前衛は前衛たるを止め、ひとところに留まった一芸術(一芸術家)になってしまうのです。
 いまひとつは、受容の問題で、前衛者が立ち止まった地点が、あるいは前衛者は前進し続けているけれども、その自己否定して捨て去ったある時期の作品が(作者から離れて)もてはやされ、模倣者を生んでいくという問題。つまり前衛が「守るべきもの」として権威化されてしまう(イエスが死に、聖書が残る。聖書は固定化したもので、それ以降前進を続けることはなく、ただ訓詁されるのみ。それを行う教団が権威化していく。というのも同じ構造です)。
 この表現者、鑑賞者双方に起こる「停止」を、論者は「「発見」された後に、何ら検証もなされずに「反復」される過程に見られる「思想の喪失」「理念の軽薄化」」と書いていますが、まさにそのとおりだと思います。それを安部は「三人展」の展示に見てしまい、批判したのだ、と論者はいいます。
 これは論者の解釈であり、安部の真意かどうか、そんなのは永久に分からないわけですが、アヴァンギャルドにおいて常に起こりうる劣化の確認(自分への戒め?>論者は詩人)として、読んだ私は、目から鱗が落ちる思いでした。大変面白く読みました。

『華竜の宮』は150頁まで。
 
 

「華竜の宮」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 2日(月)17時56分12秒
返信・引用
   12月になりました。なんと、12月になっちゃいました。で、はっと思い出した。そういえば『華竜の宮』の続編が出るのが、12月中旬ではなかったか。
 確認のためアマゾンで検索してみたところ、ヒットしません。あれれ、と思って、ハヤカワのサイトに行ってみたら、「これから出る本」のところに、ちゃんとありました→『深紅の碑文』
 げげ、上下巻?(汗)。頁数の記載がないのがおそろしい(^^;
 とりあえず、今月中に出ることが確認できたので、復習で『華竜の宮』再読に着手しました。今日は70頁まで。初読はしんどかった記憶があるのだが、さすがに再読なのでするする読めますし、小説世界も初読時よりくっきり見えています。
 しかしこれでようやく10分の1強。発売までに読みきれるのか。いや別に間に合わなくてもいいんですけどね。マイペースでしっかり読みたいと思います。
 

「闇の精」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 2日(月)01時21分13秒
返信・引用 編集済
  F・W・ベイン『闇の精 フランシス・ウィリアムズ・ベイン作品集松村みね子訳(盛林堂ミステリアス文庫、13)読了。

 ちくま文庫版『かなしき女王』を、当時訳者の知識などなしに購入して読み、一読、忽ちその訳業に魅了された者としましては、本書の出版を知ったからには、手をこまぬいて売り切れを待つ手はありません(なんといっても250部限定出版なのです)。訳者名で購入したので、著者ベインについての予備知識なしに読み始めたわけですが、内容も、C・A・スミスを髣髴とさせられる私好みの世界で、訳文の素晴らしさと相俟って一気に読了しました。いいですねえ。ベインが、インド古詩の翻訳と偽って発表した純然たる創作神話。アラビアン・ナイトならぬヒンディアン・ナイトです(善渡爾宗衛解説に依る)
 収録作品は三篇。
「闇の精」(06)は〈心の花〉大正3年5月号〜8月号に訳出されたもの。第一部の砂漠での描写がすばらしい。第二部は、主人公アヂャ王子を、蛇王の眷属の美魔女があの手この手で誘惑する話が続くのですが、ややくどいように私には感じられた。
 実はこの「闇の精」は完全訳なのですが、以下の二篇は抄訳なのです。で、以下の二篇については、冗長な感じは全くない。言い方を変えれば、抄訳でストーリーが性急になった気配も見えません。ということはつまり、ベインの作風自体に駘蕩たるところがあったのを、蓋し訳者がハサミを入れたことでむしろよくなったとみなせるのではないか。ベインという作家は、解説によれば、松村みね子によって早くも大正年間に日本に紹介されていたにもかかわらず、その後を継ぐ紹介者がいなかったようなのですが、あるいはベインのそういう作風自体に、阻害する要因があったのかも。単なる思いつきで言ってます(>おい)(^^;。
 では、爾余の二編では抄訳を施したのに、なぜ本篇では完全訳としたのでしょうか。それについては長山靖生と井村君江の解説を読んで腑に落ちました。この第二部の(一般的には悪者である)美魔女にこそ、訳者は深い思い入れを籠めていたということなのですね。
 本篇のラストで、姫が死に、アヂャ王子が死に、それを発見した王も死ぬわけですが、発見者たちは姫と王子の死が蛇に噛まれたためであることをわかっています。何故わかったんでしょう。何も記述がありませんが、蛇も、王子に掴まれたまま、やはり死んでいたからではないでしょうか。そういう結末のほうがよいと思いませんか(^^;

「青いろの疾風」(05)は〈新家庭〉大正10年10月号〜11月号に掲載。この物語には魅力的な挿絵が何葉か挟まれています。画家の記載はなく、初出の雑誌からそのまま持ってきたのかな、と思っていたら、善渡爾宗衛解説に、今日泊亜蘭の父・水島爾保布の作品とありました。どこからの流用かは記されていませんが、いかにも大正モダニズムを感じさせる画風で、まさに本篇にぴったりな挿絵でした。
 本集中では、この作品が私の好みで言えば一等よかった。王が「思い出して」しまうラストが実にうまい。

「スリヤカンタ王の戀」(1899)は〈新家庭〉大正9年12月号。逸ってナァガ城をめざす王に従者ラサコシャが語る喩え話が苦笑を誘います。アナンガラガ王女の似顔絵に気を取られて聞いてないのかと思っていた王が、いよいよ城を目前にして、吐息を付くのもたいへんよろしい(笑)。

 いや面白かった。盛林堂ミステリアス文庫では、松村みね子訳で『完全版 かなしき女王』『船長ブラスバオンドの改宗』が、順次出版される予定とのこと、楽しみに待ちたいと思います。

 

「人形愛」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2013年12月 1日(日)00時33分28秒
返信・引用 編集済
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高橋たか子『人形愛』(講談社、78)読了。

 高橋たか子の短篇は、長篇よりも幻想性が増していて、いいですねえ。短篇だからこそ、そうできるんでしょうけれども。長篇はいささか重くなってしまいます(もちろんそんな長篇も好きです)。
 本書は作品集で、短篇3本と中篇1本の計4篇収録。表題作「人形愛」については既に書きました(初出〈群像〉76年7月号)。

「秘儀」(〈群像〉78年4月号)は、110枚の中篇で、本集中の白眉。
 主人公の私(女)は、1年前にこの市に移ってきたばかり。息子の澄生と暮らしている。澄生と主人公は親子みたいですが確定はできません(「澄生の髪は私の髪と、色がおんなじね。顔色も、おんなじね。誰だって、親子だと思うわ」〈63p〉)。
 主人公は狂っているのかもしれません(「狂ってるんです」/と、声が聞こえてきた。たしかに澄生の声である。〈127p〉
 いずれにせよ、小説世界の客観性は保証できません。
 この市の設定がまた魅力的。大部分を山が占める地形で、その直後斜面が切り開かれて分譲地となり、数年で新興住宅地に様変わりしてしまうのですが、越してきた当初はまだそうではなかった。私は(「人形愛」とのつながりで)三田市をイメージしましたが、著者と三田市の関わりはなさそうで、あるいはずっと住んでいた鎌倉市周辺がモデルなのかも。
 物語は一年後、主人公と澄生(このとき12歳)が、澄生が友達になったというドイツ人の音楽家、アマデウス氏の家を訪ねるところから始まります。まだ土地鑑のない二人は、初めて通る道の景色を物珍しく眺めながら歩いているうちに、不思議な洋館を見つける。それは既に廃屋となって久しい感じなのだが、なぜか惹きつけられて仕方がない。澄生が入ってみようと主張するのを、たしなめて(自分自身も後ろ髪をひかれつつも)、アマデウス氏の下宿へと向かう。下宿が見えたところで、二人の耳にクラヴサンの音色が聞こえる。確かに聞こえた。そう言えるのは、澄生がそのメロディを口ずさんだからで、それはラモーのガヴォットだった。
 ところが、招じ入れられたアマデウス氏の下宿に、クラヴサンはなかったのです……(「クラヴサンは?」/と、私はアマデウス氏に言った。(……)「ドイツの家にあります」/アマデウス氏は答えた。〈67p〉
 アマデウス氏の下宿には、「テオゾフィー」に関する書物が積み上げられています。主人公はアマデウス氏と、実在とは影なのだ、といった話を交わします。
 その帰途、結局二人は廃墟の洋館に忍び込む。階段を上がっていった部屋に、なんとクラヴサンが置かれていた。廃物で音も出ないだろうと思ったけれども、二人は連弾用の長椅子に並んですわり、ラモーのガヴォットを弾き始める。と、あにはからんや、素晴らしい音色で、自分たちが弾いているとも思われないほど。なぜか澄生がいつもの澄生とは違う人格をまとっているように感じられてくる。そして曲も佳境に入ったとき、
「死にたい、死にたい」/ふいに澄生が叫んだ。(……)「こんなに楽しいのに」(……)「死なせてくれ」(……)「そう、それじゃあ」/私は澄生に近づいた。〈81p〉

 というのが第一部。第二部はそれから三年後の話となります。圧倒的な傑作でした。

「見知らぬ山」(〈文芸展望〉77年冬号)は、カメラによる吸魂譚(いやホンマ)。後半、富士山麓のマンモス霊園に行く話となるのですが、レジャー地並みの雑踏。おそらく60年代の話として書かれていて、いわゆる内向の世代が得意とする典型的な風景といえます。

「結晶体」(〈文芸〉76年11月号)、本篇は二人の女と一人の男の奇妙な三角関係=結晶体(の解消がもたらす解体)が描かれているのですが、何の根拠もない私の直感なのだけれども、男は澁澤龍彦がモデルですね。『誘惑者』で描かれた澁澤(これは著者が、モデルは澁澤と明かしている)と同一人物にみえます。そうなると、鞠子はいうまでもなく矢川澄子(をモデルにした『誘惑者』の登場人物と同一人物)。静子は著者自身(がモデル)か。もちろん、ここに書かれているような事実があったわけではないですよ。為念(^^;。
 



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