ヘリコニア過去ログ1402




アシモフ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月28日(金)00時38分14秒
返信・引用 編集済
   アモフ+ウー『脱走サイボーグを追え!電脳惑星3に着手。80頁まで。(角川はアジモフ派なんやね)
 これはハズレかも・・

 何を言ってるのか皆目理解できませんが、「アジモフ」ではなく、「アシモフ」と発音していますね。
     ↓

 

Re: おひさしぶりです。お元気ですか?

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月27日(木)21時20分58秒
返信・引用 編集済
  > No.5178[元記事へ]

 トマトさん、お久しぶりです。
 お仕事お忙しそうですね。なによりです(^^)
 久々のご投稿、拝読しました。
 おお、今回はかなり推敲なさったんじゃないですか? タイプミスがほとんどなかったように思います。実際、大変読みやすくなりました。ありがとうございます。
 一箇所だけ、ミスを見つけましたが、これくらいなら許容範囲です(笑)
 その調子で、今後ともよろしくお願いします〜(^^;。

>写真
 支那そば屋ですか。風情があっていいですねえ。支那そばという表現、大阪ではまず見かけません。東京ではどうなんでしょう。


 

おひさしぶりです。お元気ですか?

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 2月27日(木)16時54分24秒
返信・引用 編集済
  管理人さん皆さんお久しぶりです。


二度の大雪、そちらにはどうでしたか?

しばらく創作からは離れていましたが、久しぶりで創作できましたので、拙作を投稿いたします。

もちろんすべてフィクションであり、事実ではありません。





手紙〜拝啓〜十四の僕へ


 刑期を終えた聖香を出迎えるために私は山国刑務所へと出向いた。まだ肌寒さはあるものの春の柔らかな日差しがあたりを包み込んでいた。
 二人の女性刑務官に付き添われて聖香は私の前に現れた。
「お世話になりました。」
と女性刑務官に一礼する聖香。
「もう来ないでね。」
としかしでも名残惜しそうに応える刑務官。卒業の光景だ。

「お帰り。」
私は聖香に声をかけると聖香も
「ただいま。」
と応じた。懐かしい、そして新鮮な気持ちだ。



 聖香は私にとって魂の水先案内人だった。聖香との出会いはまさしく神の意志だった。私は刑事被告人となった聖香の弁護人として、聖香の親代わりとなって受け入れてきた。それは公園にたった一匹で捨てられて泣いている仔猫を拾い上げ、仔猫の親になると決心したような心境だった。



「さあ、行こうか。」
私は聖香を車に乗せた。
「どうだった、中は・・・?」
「なんか寄宿舎みたいで結構懐かしかった。」
「そうか・・・君は高校時代、寄宿舎で過ごしていたんだったね。」
  公的なそして究極な家庭でもある刑務所で日々を過ごすことは彼女にとって必要のではないか・・・私もそう思った。だから判決をもらったとき、敢えて控訴しなかった。「なにか食べようか?」
「うん。」
ファミレスの看板が目に入ったので、ファミレスの駐車場に車を入れた。



 彼女は戸舞賛歌という作家の娘だ。戸舞賛歌は図書館や博物館に務める傍ら西洋史を題材にした小説や歴史考証をいくつも発表し、それがある一定の評価を得たので彼女が小学校を卒業するかしないかのころ、博物館を辞めて自宅で執筆に専念していた。
  それが彼女にとって不幸だった。戸舞賛歌が執筆だけで生活していけるということは戸舞賛歌を「尊大な知的指導者」と信奉する読者がある程度いたということだ。戸舞賛歌は自分の本を評価しない人のことはたとえ娘であっても受け入れることはなかった。

  中学二年の秋、彼女は戸舞賛歌にこう決断を迫られる。戸舞賛歌間の本を読み評価をしない友達とはもう付き合わないか、それとも戸舞賛歌のを読まずにピンクレディの歌を聴くような友達と付き合うのならこの家を出て行くか、どちらかという決断だ。 中学二年、十四の彼女は戸舞賛歌の本を読まない友達とはもう付き合いを断ち切る決断をする以外なかった。

  そんな彼女はもう戸舞賛歌についていくしかなかった。 当時彼女の家はもう戸舞賛歌に私物化されていた。そこには戸舞賛歌のイエスマンが時折やってきては戸舞賛歌の本を絶賛していた。一番よくやってきていたのは戸舞賛歌と博物館で一年同僚だった長野肛作だ。気がつけば彼女の人生、戸舞賛歌の主催近所の里山散歩に長野肛作とともにただ黙ってついていくという人生をいきていたのだ。

 そして彼女は大人になり、このつまらない家から飛び出した。といっても彼女に行く当てなどなかった。場末に安アパートを借り、そこで印刷所の校正の仕事をしながら細々と生きていた。



そしていく歳月が過ぎた。
戸舞賛歌は体調を崩し、そして入退院を繰り返すようになった。
自らの死期が近いことを悟った戸舞賛歌はまず長野肛作に現金二百万の入った封筒を渡して
「自分の身に何かがあったとき、残された家と家族たちを頼む。」
といって遺志を託した。その後娘の聖香を呼び出し、
「長野には、もし自分の身に何かがあったら残された家と家族たちを頼むといって礼をしておいた。もし淋しくなったり保証人のことなんかで困ったら遠慮なく長野を頼りなさい。長野の家、わかるね。」
といって長野肛作の住所と電話番号のかいた紙をわたした。彼女にとって久しぶりで見る自分のお父さんの顔だった。その後ふたたび彼女は東京近郊の場末のアパートに戻った。



 そして戸舞賛歌は息を引き取った。家に戻ってみると、そこは長野肛作が家を実効支配していた。長野肛作は彼女を見ると
「お前はこの家を出たんじゃないか、なんだ今更のこのこと身内ヅラして戻ってきやがって・・・。」
と煩そうに睨みつけた。 そんななかでも彼女はなんしかこの家での自分の立場を保とうとしてきた。一方長野肛作は戸舞賛歌の名声とともにこの家を自分のものにするまたとないチャンスを逃してたまるか・・・という野心ギラギラの思いだった。長野肛作の家では戸舞賛歌のようにすべてを自分の私物化することはできなかった。よく長野肛作のカミサンが洋裁やお菓子作りの友達を連れてきては洋裁教室なんかが始まったりする。長野肛作は戸舞賛歌が「理解のある家族たち」を所有していることがうらやましかったのだ。



そして戸舞賛歌が死んで九日目、事件は起きた。キャメル色のベルベットのジャケット、派手なアスコットタイ、まいたらしいルイヴィトンモノグラムのバックを持った長野肛作は博物館から彼女の家へと向かっていた。
「今夜こそはあの家を何が何でも自分のものにしよう。あの小娘を追い出してやろう。」
そう決意して・・・。そして呼び鈴を鳴らすと、ずかずかと彼女の家に上がりこんだ。一方居間には彼女が居た。それを見て長野肛作は激しい苛立ちを覚えた。
「おい、お前、一体いつまでここに居るつもりだ。」
そう激しく怒鳴りつけた。彼女はあたまをバットで殴られた様な衝撃を受けたものの、なんとか自分を保ち続けた。その様子を見て長野肛作は
「戸舞賛歌は君にとってはお父さんかもしれないが、これから戸舞賛歌の本のこととこの家のことは僕に任せて君は身を引いてくれないか・・・。」
とややなだめるような口調でいった。しかし次の瞬間再び激しい苛立ちがこみ上げてきた。
「どこかから君のところにアクセスがあったら、次のように自分の身の程を相手に説明しなさい。『私は戸舞賛歌の娘でありますが、単なる長野肛作先生の使い走りに過ぎません。戸舞賛歌とこの家のすべての権利は北国博物館の長野肛作先生に譲り渡しましたから・・・。』と、わかったね。」
というとあれだけの嫌悪感をこめて彼女を家から追い払った。さらに長野肛策は居間に彼女が置き忘れた彼女のケータイからあちこちに電話を始めた。
「あー、北国博物館学芸員の長野肛作といいます。戸舞賛歌とこの家のすべての権限は僕にあります。戸舞賛歌の娘と称するものが何かいってきてもそのものには何の権限もありませんから・・・。
あ、『ここを教養の城、知識の御殿』にしますから、いつでもお気軽にいらしてください。」
そういう電話を彼女のケータイを使ってあちこちにしていた。



一方家から追い出された彼女は頭の中が真っ白になり、何も考えられなかったるやがて彼女は自分がたった一匹で公園に捨てられた仔猫のような境遇に投げ出されたことに気がつき、無限の絶望に襲われた。すると全身の血液が逆流するのを感じ、彼女の中に狼のような野生が目覚めていった。



 突然、居間のドアが開いた。そして
「長野肛作、殺してやる。」
という叫び声とともに彼女が電話中の長野孝作に突進していった。
「うわーっ。助けてくれーっ。」
という長野孝作の叫び声。彼女が手にした柳場包丁は長野孝作の背中に突き刺さった。肺が損傷され、長野肛作は激しく咳き込みながら真っ赤に鮮血を霧のように喀血した。 そしてサイレンの音が鳴り響いた。彼女はようやく我に返った・・・。



私が始めて彼女に接見したのはあの事件の翌々日、送検のときだった。今でも覚えている。私は彼女を一目見たとき、その彼女の天使のような姿から漂うオーラから感じ取った彼女は公園に立った一匹で捨てられた仔猫そのものだった。私にとっても彼女は必用な存在だった。それまでやっていた民事の、親族会社の資産と経営権分捕り合いの片棒を担ぐ仕事とはまるで違った世界だ。天使のように純粋でそして心が洗われる思いがした。
「もし私でよかったら、ぜひともあなたの弁護をさせてくれないか・・・。」
手弁当でもいいから・・・と思った。
「はい、先生さえよければ喜んで・・・。」
幸い彼女は笑顔で快諾してくれた。



 さて、彼女とファミレスに入った。彼女は細身だがしかし見かけ以上に小食だ。そういえば彼女があの家を飛び出して東京に出てきたとき、彼女を妹のように受け入れてくれた人が居たことを思い出した。古着屋の女店長で彼女とよく似た容姿、体型で、彼女同様に食が細いので、ミルクティを何倍も飲んで栄養補給をするという。



「手紙、よんだよ。君は本当に天使になんだね・・・。」
彼女からの手紙には彼女が十四からほとんど毎晩見ていたという不思議な夢の様子がつづられていた。その夢というのは彼女の居間の本棚の裏に、扉があることを思い出すということから始まる。その本棚というのかは彼女の父親戸舞賛歌が彼女に許した唯一の世界だ。もちろんそこには『世界の名著』『ロマンロラン全集』などしか並んでいない。彼女はこの家から追い出されたくなければ、この本棚の中からのみ生きる希望と居場所を探さなければならなかった。つまり彼女のそれのまでの人生はこの本棚捕らわれていたままだったのだ。
 が夢の中で彼女はこの書棚の裏に扉があったことを思い出すのだ。そして本棚の裏に回ってはその扉を開けてみるのだ。するとそこには天使のように美しいもうひとつの彼女が待っていてくれるというものだ。彼女は新鮮さと懐かしさでいっぱいになり、涙を流しながらに朝を迎えていたという。



 「じゃあ行こうか。」私たちは彼女の生まれ育った家へと向かった。惨劇の舞台となった今はきれいに片付けられていたが、あの本棚はそのまま、「世界の名著」などが並んでいた。そしてた二人で本棚を動かしてみた。ほこりにまみれた中、古い青銅の扉が現れた。
「やっぱり本当に扉があったんだね。」
そして彼女は勢いよく扉を開けた。するとぱーっとひかりがさし込み、彼女とそっくりの天使が私たちを待っていてくれた。エメラルド色の瞳、黄金の長い髪、そんな彼女にそっくりな天使はわたしたちの手をつかむと、扉の向こうの階段を一気に駆け上がった。そして階段の踊り場から見る光景はエデンなの園そのものの美しい景色だった。
「思い出した?」
天使は私たちに言った。そう思い出した。わたしたちは前世できょうだいだったのである。彼女は私の姉だったのだ。彼女気は前世で私をかばって命を落としていたのである。



「ここだよ。」天使は階段の踊り場にある水色の扉を指差した。そこには『初夏への扉』とかいてあった。
「もう一度、最初から人生をやり直そう。この夏への扉は思春期の扉なんだ。」
その扉の向こうは放課後の教室だった。もう長野肛作も戸舞賛歌もいない。私たちは再びやり直すことになった。彼女はわたしの姉となったのだ。




本題とは関係ない東京四ッ谷のラーメン屋の写真をアップしてしまいました。ふと北山修が妹の自転車で加藤和彦のところを訪れた伝説(レジェンド)を思い出したので。
 

サイレントピック

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月26日(水)21時26分31秒
返信・引用 編集済
   左手のギター指は、完成に近づいていまして、ボールペンの先でツンツンつついたくらいでは、当たっている感覚はありません。おそらく指の表面にあった「触覚点?」の上を、かたい皮膚の層が覆ってしまい、新しい表面と「触覚点」の間に距離ができてしまったからではないでしょうか。その結果、もはや何時間弾き続けても指が痛くなることはありません(何時間も弾いたりはしませんけど)。
 今練習中の「ずっと好きだった」も、ユーチューブに合わせてのコードの指押さえは、ほぼ余裕でできるようになりました(ただし耳コピ・プラス・指の可動性に限界があるので、動画の斉藤和義の押さえ方とはだいぶ違ってます)。そこで次の段階で、右手のストロークの練習をしたいのですが(長年やってなかったので、これが意外に難しいのです)、大体やるのは夜中ですから、ピックでガンガン弾くと近所迷惑――とまでは(隣が離れているので)いかないのですが、下手くそなだけにやはり気を使います(なんや下手くそなギターが聞こえてくるな、みたいに思われていそうで)。それで弦に布みたいなものを貼りつけてみたりしたのですが、これだと響きがなくなってスカみたいな音になってしまうんですよね。なにかいい工夫はないものか、と考えていたら、アマゾンでこんなものを見つました。
 で、先日届いたのですが、たしかに音が小さくなります。ジャンジャカ弾いても大丈夫、とまではいきませんが、心理的な負担は格段に減少しましたから、購入して正解でした。ただし本当にペラペラなので、単音でメロディを弾くのは(たとえばこの曲のイントロ)、ピックが弦に当たった瞬間(多分)くにゃりとなってしまい、次のアタックに遅延が生じて、結局その用途では使えません。一瞬、ボンドで二枚くっつけちゃろか、と思いましたよ(^^;。まあストローク練習専用と考えるべきですね。
 ところでパソコンに音を取り込む場合、私はラジカセを繋いで取り込んでいたのですが、そのラジカセがついにお陀仏になってしまいました
(ーー;。で、イヤホンを入力装置にできないかな、と試してみましたが、音が小さすぎて使いものにならないことが分かりました。マイクも購入しなければいけないかも。別に聴かせてほしくないからいらないよですって? いえいえ、そんな遠慮なさらず(^^;
 

 

神と上

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月25日(火)21時07分9秒
返信・引用
   双葉文庫『発想力獲得食』を、著者代送で、版元様より拝受しました。ありがとうございました。
 このショートショート集を読んで、私と海野さんの間でかわされた感想のやりとりは、ここここここここです(^^)。

『幻想の未来』は115頁まで。
 昨日の続きですが、私が解釈するに、そもそも欧米人が拠り所とし、また畏れたところの「唯一絶対神」を持たない日本人は、明治以降の近代化で欧米的思考を受け入れさせられたとき、「神」じゃなくて「上」を拠り所とするほかなかったんじゃないですかね。日本の神様は八百万の神で、草木の一本一本にまでも宿っているわけですが、そのアニミズムが近代化の変形を受けて「上」が(欧米的な)「神」の代わりになった。「上」は「お上」です。お上はもとより人間であり、広くは「上司」と捉えてもよい(当然奥さん(カミさん)も含まれる)。戦争中の軍隊では上官が「上」と認識される。「上」の言うことは絶対(その点は「神」に対する欧米人と同じ)ですから、命令されたら躊躇なく突っ込んでいく。しかし一旦捕虜になってしまえば、命令してくる米軍の担当者が「上」として認識される。「上」の中身が変わるだけで、上を拠り所とし畏れる行動様式は確固としており毫もブレはないわけです。(もともと「私」は薄弱なのでそこに疑問は発現しない。無意識的)。ただ唯一神しかいない欧米人と違って、日本人は、それぞれ上さんを複数抱えています。Aという上さんの前で尻尾を振っていた日本人が、その直後、Bという上さんを前でも、また尻尾を振っている。それを見た欧米人からすれば卑屈以外の何物でもないかもしれませんが、欧化を受け入れた結果、そういう変な誤作動が、日本人の行動様式になってしまったんですね。以上は私の解釈で、著者がそう言っているかどうかは、各自お読みになってご判断下さい(^^;



 

なぞ転第7回

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月25日(火)02時48分54秒
返信・引用 編集済
   いよいよ原作のストーリーから離れてきましたね。とくに次元ジプシーが、D12世界人を躊躇なく奴隷化したりとか、原作の無抵抗非暴力主義者とは全く違ってます。いやそれが駄目だとか、そんなことは少しも思っていません。これはこれで十分面白く、この後どうなるのか、と、ワクワクします。
 しかし、D12世界の科学力が遅れている、とさんざんに言い募る次元ジプシーたちが、王女や王妃に平身低頭している図には、違和感を感じずにはいられないんですよね。そんなに科学が発達した世界に、まだ王族みたいな血縁に基づく特権階級がいるのか、と……。原作の次元ジプシーはどうでしたっけ。
<追記>や、しまった。そういう身分制をアプリオリに受け入れている人々だから、D12世界人を何の葛藤もなく隷属化できるわけですね。読みが達してませんでした。よく考えられたシナリオですね。原作の通りガンジー主義者のままで、あんなアプリを使わせたとしたら、そっちの方がよほど不自然ですよね(汗)。

『幻想の未来』は80頁。太平洋戦争中の日本軍の、死を恐れぬその頑強な戦いぶりに、米軍は驚いたそうですが、ところが数少ない(日本軍で部隊単位で降伏した例は一つもないらしい)捕虜の一部の「卑屈さ」も、米軍を驚かせたんだそうです。「捕虜の中には、聞かれもしないうちから日本軍の機密をペラペラしゃべったり、自分から申し出てアメリカ軍の爆撃機に乗り込み、日本軍の重要な拠点を教えたりした者が少なからずいたとのことである」。もちろん主義思想でそうしたのではなく、捕虜になるまでは死をも厭わぬ兵士だった者が、(「上司」が替わると)そうなるのです。
 著者は、それは特殊個人的な例ではなく、明治以降の近代化西欧化で、そもそも対神恐怖がないため、代わりに対人恐怖に依拠するようになった日本人の一般的な在り方なんだと言います。なるほど。納得させられます。詳しい説明はお読み下さい。こんなドラスティックなものではないですが、会社組織でも、上司が代わったとき、部下において、同じようなことが普通に起こりますもんねえ。でもそれを欧米人目線で「卑屈」と蔑んではいけません。それが我々日本人の、(近代以降では)ごく当たり前の、行動パターンなんですから。

 

「疑惑のロボット・シティ」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月24日(月)21時21分54秒
返信・引用 編集済
   I・アジモフ+M・マッケイ『疑惑のロボット・シティ 電脳惑星2黒丸尚訳(角川文庫89、原書87)読了。

 承前。昨夜――さすがに前日14時間半も寝ると、眠くならないのでありました。当然ですか。当然ですね。
 で、しばらく輾転反側するもすっぱり諦めて、眠くなるまで読書することに。
 とはいえ頭は疲れていますから、あんまり理屈っぽい本はねえ、ということで本書。
〈電脳惑星〉という、日本では4巻まで翻訳されたシリーズ物で、数年前、第1巻を除く3冊がブックオフに出ているのを見かけ、購入しました。そのうち第1巻も拾えるだろうと思っていたら、ぜんぜん見かけません。
 ネットで調べると、シリーズとしての謎は存在するようですが、各巻は、それぞれ完結しているらしい。じゃあ2巻から読み始めても大丈夫かな、と、完集は諦め、少し前、積読をくずして掘り出して前の方に移動させていたのでした。

 そういう次第で、日付が変わった頃から読み始めたのでしたが、これが想定外の面白さ。明け方までかけて一気に読んでしまいました。正味3時間半という、わたし的には驚異的なスピード。ハリイ・ハリスンやキース・ローマーのノリで読めちゃいました。
 著者クレジットにアシモフの名前が併記されていますが、アシモフはストーリーにはまったく関わっておらず、本篇の実質作者はM・マッケイ単独のようです。どうやらこのシリーズ、アシモフのロボット物の設定を借りて、当時の新進作家が競作するという趣向だったようですね(ということで、第3巻はW・F・ウー、第4巻はA・B・コーヴァーの名前が、アシモフの横に併記されています。ちなみに第1巻はキュービー・マクダウェル)

 さて内容―― 主人公は記憶喪失で、自分の身元を知りません。第1巻でいろいろあって、「鍵」という、行き先が予め設定された瞬間移動装置で、本書の舞台であるロボット・シティに、副主人公の謎の女と共に跳ばされ、実体化します。
 その都市は建設途上で、都市建設に従事しているロボットしかいない惑星なのです。
 ところが彼らが実体化する少し前に、別の人間の男がやってきていて、その男が死体で発見される、という事件が発生していた。ということで、二人が容疑者となる。なぜならロボットは三原則により人間を殺すことが出来ない。ところがこの世界には、人間は(死んだ男を除けば)当の二人だけしかいません。人間を殺すことができるのは人間だけですから、犯人は二人、あるいはその内のどちらか、ということに、ロボットの論理回路ではそうなってしまうわけです。
 二人は、この惑星への到着時間が男の死亡時刻より後であることを証明するか、もしくは真犯人を見つけ出すしか、容疑を晴らすことが出来ない。しかし前者は目撃者がいないので無理。となれば、真犯人を見つけ出す以外の手段はありません。二人は捜査を開始するのですが、そこに立ちはだかるのが、三原則に支配される、ある意味KYばかりの、ロボットだけの世界という特殊条件なのでした(^^;。

 副主人公の女がオーロラ出身とあるように(オーロラはアシモフ世界の宇宙国家の一つ)、この小説世界はアシモフのロボットものの世界観を踏襲しています。というか『はだかの太陽』のモロ逆設定じゃないですか!
 ということで、大変面白かったのですが、加えてシリーズを貫く「謎」があります。
 第一に、このロボットシティを建設させているのは何者か? 第二に、なぜ主人公は記憶喪失で、このシティに送り込まれたのか? またそれは誰によって?
 この二つは連動しているはずなんですね。しかも主人公より先に到着し、主人公が到着した時点では死んでいた男は、なんと主人公と瓜二つだったんです。こうなってくると、シリーズとしての謎の第一番目は《階層宇宙シリーズ》を髣髴とさせられますし、二番目の謎は《非Aシリーズ》が嫌でも重なって見えてくるわけです。
 いやワクワクしてきました。つづけて続巻に着手したいと思います。
 

オリゴ党公演「ほにゃらら殺人事件」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月23日(日)18時22分48秒
返信・引用 編集済
   昨日は8時半頃、急に眠気に襲われ、もう矢も盾もたまらなくなって布団に潜り込んだら、今日の11時頃まで寝てしまっていました。14時間半? よく寝た(^^;
 途中、喉が痛くて7時頃目が覚め、水を飲みに起きたのですが、や、これは風邪かなヤバイかな、と、布団に入り直し、次に目覚めたのが11時だったという次第。喉の痛みもおさまっていました。
 おそらく風邪を引き始めたので体が睡眠を欲し、起きた時には快癒していたということなんでしょうな。休日でよかった。というか、休日だったから無意識が風邪を引いてもいいぞ、という指令を出したのかも。まあよくある話です(^^;

 お話替って、来月3月8日(土)、9日(日)の二日間、関西の小劇場「オリゴ党」の公演が、下寺町のシアトリカル應典院にて行われます。
 詳細は、下の画像をクリックするとオリゴ党HPにつながります。そのページの、やはり同じ画像をクリックしますと、詳細画面にとびますので、そちらでご確認下さい。
 
 私は土曜日の初回公演を観る予定です。オリゴ党の公演には、ここ続けて3回ほど欠席してしまっており、今回とても楽しみ。
 遊びでショートショートを書いたりしていたので、座付作者が脚本を書く楽しみは、類推で何となく分かるのですが、正直皆目見当がつかないのが、「役者をやることの楽しさ」なんですね。その辺を座長のイワハシ氏に伺ってみたいとずっと思っているのですが、なかなかチャンスがありません。今回も、観劇後、別の予定を作っちゃったので、難しそうです
(ーー;
 

Tibetans

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月22日(土)14時41分52秒
返信・引用 編集済
   朝日新聞のこの記事が不快→《米大統領「チベット族人権擁護を」 ダライ・ラマと会談》

「「チベット固有の宗教、文化、言語の伝統の保護と中国におけるチベット族の人権擁護を強く支持する」と表明した。」

 なぜにわざわざ「チベット族」と表記するんですかねえ。
 実際オバマはどう言ったのか、と思って検索してみました。ロイターのこの記事ではこうなっています。

”Obama reaffirmed his support for Tibet's unique religious, cultural and linguistic traditions and human rights for Tibetans, the White House said in a statement.”

「Tibetans」です。翻訳はふつうに「チベット人」でよいのではないのか。そもそも「族」なんて、歴史用語じゃないですか。
「族」とは、少なくとも日本語では、同じ祖先から別れたという神話を共有する血縁幻想に支えられた集団です。日本でいえば、源氏とか平氏がこれに該当する。ですから日本族とは言いません。その意味でオバマはTibetansを、日本人(japanese)と同じレベルで使っている。
 それに族なら族権擁護とすべきでしょう。そうすると擁護する当の存在の意味が変わってしまう。オバマはそんな意味で言ってないはず。きちんと訳せば「チベットの人々の人権擁護」( human rights for Tibetans)なのであって、これならチベットという地域内で中国が行っている強権統治への牽制というアメリカ本来の目的が読みとれるようになるわけです。

 いずれにせよ、この記事に朝日の記者の無意識の偏見が見えないでしょうか。すなわち記者は、「スー族」や「アパッチ族」に、チベット人を無意識に擬しているのです。あるいは「アイヌ人」ならぬ「アイヌ族」に。それは畢竟「物語」です。ひょっとして意図的なのか。意図的ならそれはさらに悪質。
 Tibetansをわざわざ「チベット族」と表記(翻訳)したことで、朝日の記者がチベット人を、無意識に、日本人より低位の(あるいは過去の)民族と認識している、差別意識の持ち主であることがわかるわけです。


 

「幻想の未来」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月22日(土)02時10分57秒
返信・引用 編集済
   先日、私の使っているメールソフトが、多数来る迷惑メールの件名の頭に、[SPAM]という文字列を付けてくれるようになったので、100パーセントブロック(サーバーから削除)できるようになり、とても助かっている、という内容の書き込みをしました。
 ちょっと勘違いしていました。メールソフトではなくて、「マカフィー・セキュリティ・センター」というソフトが、それをやってくれているのでした。
 なぜわかったかといいますと、[SPAM]が付き始めたのと、このソフトをインストールしたのが、そういえば同じ日だったよな、という想念が、今日、なぜかふいに頭のなかにひらめいたからなんです。
 で、ひょっとして、と思って設定を確認してみたら、たしかにそういう設定になっていました。
 うーむ。これはどういうことでしょう。無意識はその事実に気づいていたということなんでしょうか。まるで無から有が生じたような、不思議な感じでありました。

 ということで『幻想の未来』は60頁。
 面白い。自己主張する欧米人の一神教文化(神幻想)に対して、アニミズム的な日本人の文化(母子幻想)は互いに甘え合い、それを察しあうという正反対のものだった。明治以降の西洋文化受容で西欧価値観が入ってきて葛藤が起こる(対人恐怖症は日本独特の、しかも近代化以降にあらわれた神経症)
 甘えはよくないとされ、否定されるとなると、甘え文化の構成要素の中で、それを維持するために努力を要する要素が、まず否定されがちになる。要するに「自分の甘えを否定するより、相手の甘えを否定するほうが楽であるし、相手の甘えを察して、それに沿ってやるなんてことはめんどうなので、まずそのほうが否定される」。その結果、「相手の甘えは認めず、自分はとめどなく甘えようとし、そしてもちろん、相手も同じで、こちらの甘えを認めてくれないから、甘えようとしても甘えられずいつも不満な人たちで溢れることになる」
 本書は30年前の刊行なんですが、現在の状況を予見していますね。ネトウヨとか、ネットでの炎上なんてのも、まさにこの原理ですよね。
 で、欧米と日本を対比しましたが、著者によれば中国もインドもイスラムも、欧米に近い意識構造なんだそうで、唯一、韓国朝鮮が日本人に近いんだそうです。
 そういえばキム・ヨナ選手の採点について、本国で再審査を求める署名運動が始まったそうで、その行動パターンって、まるで日本人と同じじゃありませんか。笑っちゃいました。もし浅田真央選手がその立場だったら、確実に日本人は再審査を求める署名運動をするに違いありません。やっぱり共通の祖先からわかれた兄弟民族なんですかね。
 私の持論では、たしかに日本人は、朝鮮半島から2波にわたって列島に到着した人々(弥生人*、古墳人)と原住民の混血ですが、現在の韓国人の祖先は、空白になった半島に北から流入した民族なので、日本人とは別系統なんじゃないかと思っているんですが、こうも日本人と韓国人の行動パターンがそっくりですと、自説に自信をなくしちゃいますね(^^; *弥生人は長江・淮河もルーツのひとつかも。
 追記。韓国ではキリスト教信仰者が全人口の30%を占め、一神教的文化の侵食は日本の比ではありませんから、葛藤はより深刻かもしれません。

 

Re: 「発想力獲得食」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月20日(木)01時16分8秒
返信・引用
  > No.5168[元記事へ]

海野さん
 わ、気がつかなかった。訂正しました。ご指摘ありがとうございました。
 しかしなぜに「粕汁」が「豚汁」に? フロイトによれば書き間違い、言い間違いには無意識の理由があるそうですが、これも何かを意味しているんでしょうかねえ(笑)。

 ということで、精神分析関係の積読くずし継続で、岸田秀『幻想の未来』に着手することに。


 

「もぐら忌(公房忌)句集」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月20日(木)00時55分22秒
返信・引用 編集済
  《もぐら通信17号》より睡蓮/OKADA HIROSHI「もぐら忌(公房忌)句集」を読みました。
 作家の忌日というと、まず憂国忌、河童忌、桜桃忌などが思い浮かぶのですが、意外なことに、安部公房の忌日にはまだ特定の名称は付いてないのだそうです。
 ――と、ここまで書き込んで、ふと気づいた。こういう「文学忌」って、一体だれが決めるのでしょうか?
 検索してみましたがヒットしませんねえ。少なくとも公的なものではなさそう。自然発生的なものなんでしょうか。
 推理してみました。おそらくですが――そもそもは、自然発生的に複数の者が、それぞれに勝手に命名して言ったり書いたりし始めるのでしょう。しかし、あんまりキャッチーじゃない名称は、大衆の支持を得られず次第に淘汰されていくに違いない。で、最後に、いかにもその作家に相応しい、或る一つの名称が残るのではないでしょうか。
 そんなわけで、《もぐら通信》では一昨年から、公房の命日に「もぐら忌」を提唱しているのだそうです。一般大衆に支持されれば定着するかもしれませんね。ただ、もぐら忌ときいて安部公房を想起できる一般人が、一体どれだけいるか。そこがやや弱い気がします。
 実は私に腹案があります。<第四間氷忌>。いかがでしょうか。駄目? 失礼しました(>おい)m(__)m

 前置きが長くなりました。さて本篇ですが、その「もぐら忌」にちなんで、睡蓮氏とOKADA HIROSHI氏が、それぞれによまれた俳句が披露されています。俳句なんてぜんぜん分かってないのですが、それぞれ気に入ったのをご紹介。
 まず睡蓮氏の句。
 もぐら忌や合わせ鏡の孤独かな
 もぐら忌にじっと見つめる妻の顔 この妻は「他人の顔」の妻かな。
 看護師の微笑おそろし公房忌   病院で看護師が、作者に微笑みかけた。睡蓮氏忽ち「密会」を思い出し、慄然と恐怖にうち震えた――のでしょうか(^^;

 OKADA HIROSHI氏のは、忌日にアメ村で行われた「箱男」読書会に参加してよまれたもの。
 もぐら忌や公房偲び集い来る
 窟(いわくら)の奥に集へり公房忌 いかにもアンダーグラウンドな雰囲気。「大麻と箱男」に「この店はとにかく暗い」とありますね。
 箱男真贋論じて公房忌       箱男と偽箱男の描写は、昨今(SF界隈で)流行の「信用できない語り手」問題なのか(>違)
 もぐら忌やアメリカ村の夜は更けり 議論に熱中し気づけば終電車の時間が迫っていた!

 どの句も佳いです(^^)。

 

Re: 「発想力獲得食」読了

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 2月20日(木)00時36分37秒
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  > No.5167[元記事へ]

そうそう。なぜか異色ですよね。「念ずれば味」
この作品は書くのに時間がかかったんじゃないでしょうか?
他の作品の三倍ぐらい。

ところで、アマゾンの「発想力獲得食」の紹介文が間違ってますね。
「なぜか粕汁」が「なぜか豚汁」になぜか(笑)なってます。
それをコピベしたこちらでも間違っていますですよ。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: 「発想力獲得食」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月19日(水)22時26分7秒
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  > No.5166[元記事へ]

海野さん
 あ、4篇重なりましたね(^^)。
「深夜の料理」も好きです。なぜ選ばなかったんだろう。うっかりミスなのか。しかし現時点で選んだら、たぶん昨日の10篇とは違う結果になりそうです。まあそんなもんですよね(笑)
「アイスクリーム騒動」もいいですね。読んでいるとき「ペケ投げ」を少し想起しました。

>連作長編と言う印象も確かにあります。
 ですよね。
>他の短編集との繋がりも感じますね。
 そうそう。ある意味90年代以降〜現在までの作品は、すべて大長篇の一部という感じもしてきました(^^;

追記。「念ずれば味」からその夢が引き出されたのですか。それはなかなか難解ですね(^^)
 たしかにこの話、本集中ではちょっと異色な感じがします。小説らしくないような。案外この話、著者が見た夢をそのまま(但し一応辻褄を合わせて)写しとったものかも、という気がしてきましたが……。

 

Re: 「発想力獲得食」読了

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 2月19日(水)21時09分54秒
返信・引用 編集済
  「発想力獲得食」セブンネットで注文していたのが来ていたので今日取り行って来たんですが、休日だったので最後まで読めてしまいました。
それで僕もベスト10を選んでみることにしました。
というか、気に入った作品を選んで〇を付けて行くと丁度10編だったと言うことですが。

若い日の味 親子 まずくなれ 深夜の料理 ドタ 山口先生のうどん アイスクリーム騒動 発想力獲得食 同行者 G大学で

太字 管理人さんのベスト10と重なった作品。


連作長編と言う印象も確かにあります。
会社員だった頃から大学の講師をされている今までの眉村さんの体験が背景になっている作品が多く、そういうものが繰り返し出て来るので、他の短編集との繋がりも感じますね。



そうそう、「発想力獲得食」を半分ほど読んだところで眠くなって、1時間ほど眠りましたが、その時に夢を見ました。
こんな夢。

ある国(仮にA国)がB国を支配下に置こうと戦っているようです。
A国の人々がB国までやって来て銃のような物で何かを発射します。
それは銃弾ではなくて、空中で破裂すると白い霧状になって空気中に漂うものです。
それをA国の人々は何発も打ち続けています。
その霧状のものを吸い込むとB国の人々は自分の国の言葉を忘れるらしいのです。
そしてA国の感応力者がA国の言葉をテレパシーでB国の人々に植え込むのです。
そうやってA国はB国を支配下に置こうとしている場面の様です。
銃弾が飛び交うわけでもないので、戦争と言う感じはあまりありません。
僕はと言うとA国の人間らしくて、そんなさなか、一人の美少女を発見(笑)
まあ、少女とは知り合いのようなんですが、僕は彼女を抱いてキスをしようとするんですね。
ところが彼女はくるりと背なかを向けてしまい、僕は背中から抱きすくめます。
キスをするほどは好きじゃないけど、後ろから抱かれるほどには好意を持ってくれているんだなと、少々欲求不満を感じながら目がさめました。

眠る前まで読んでいたのが「念ずれば味」なんですが、この内容とはあまり関係ないような。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

「発想力獲得食」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月18日(火)21時52分57秒
返信・引用 編集済
  眉村卓『発想力獲得食』(双葉文庫14、元版95)読了。

 本書はおよそ20年前、1995年初刊の三一書房版を、一部訂正を加えたうえで文庫化したもの。今回が初文庫化だったんですね。意外でした。徳間文庫あたりから出されていたように、なんとなく錯覚していました。
 収録された30篇のショートショートは、92年から95年にかけて関西の食の月刊誌《あまから手帖》に連載されたもので、その関係でか、「食に関する話」というしばりがあるようです。
 私は14年前に読んでいます(こちらはそのときの感想)。今回再読して、やはり面白かった。いや今回のほうが、初回よりも面白く感じられたような気がします(理由後述)。
 ショートショート集と銘打たれていますが、1篇がほぼ10頁(17、8枚)で、ショートショートというよりは短篇の印象です。
 ところで星新一作品ですと、このくらいの長さになっても、やっぱり「ショートショート」なんですよね。SF作家の中でも、とりわけショートショートという形式にこだわったお二人ですが、意外にもショートショートの「構造」は、(私の見るところでは)まるで対称的といってよいのではないか。個人的には、同じ「ジャンル」とするのはちょっと違うんじゃないかな、と、最近そんなふうに思うようになってきました。
 具体的には、読了後振り返ったとき、星作品は一個一個の作品がくっきり浮かび上がって想起されます。言い換えれば、すべての個々の作品は、その作品で「完結」しているのです。ですから作品集として1冊の本になっていても、一冊の本としてよりも個々の作品が目立っています。変な喩えですが、金にあかせて一流プレイヤーをかき集めたかつての巨人や、そのミニ版である近頃の阪神のような感じ。個人技中心。
 一方眉村作品は、ヤクルトや広島のような全員野球です。個々の作品の印象は、スパッとオチて大向こうを唸らせる、という感じではないように思います。もちろん個々の作品は当然小説として面白く、スルスルと次から次へ読んでしまうのですが、読了後振り返ったとき、一篇一篇が立ち上がってくる、という感じじゃないんですね。小説として「外形的」には完結しているんですけど、「内的」には完全には完結していないといいますか、すべてゆるく連鎖しているような感じがするのです。あとで思い起こそうとしても、個々の作品の印象は意外にあっさりとしている。しかしその代わり全体で統一性のある何かを醸し出していて、その全体が全体として何かを伝えてくる。作品集なのに、むしろ一冊の長篇を読んでいたような、そんなふしぎな感じに捉えられることがあって、面白いなあ、と……。
 その伝で言えば、上に「短篇の印象」と記しましたが、「短篇」というよりは、むしろゆるく繋がった長篇の各章といったほうがしっくりしないでもありません。
 こういう感じは、そもそも眉村作品集には最初からあるのですが、とりわけ80年代後半以降に出たショートショート集に、より強く現れて来ているように、私には感じられます。本書もそうですね。食を介してつながった一個の長篇小説といえるように思います。
 14年前の感想で、「このショートショート集の「内的」テーマは<時>なのである」と書いていますが、これ、案外あたっているんじゃないでしょうか。長篇の《異世界》三部作前後から、著者は「過去」もしくは「過去のある時点で別の時間線にそれてしまった別の現在」を繰り返し描くようになっていくわけです。ちょうどキリコが「広場もの」のヴァリエーションを何枚も描いたように。キリコの「広場もの」のテーマは「時間」だと思います(もしくは永遠)。眉村さんの場合も、「過去」もしくは「過去のある時点で別の時間線にそれてしまった別の現在」を一言でいえば「時間」ということになるのではないか。そういう「関心」のありかたが、とりわけショートショートのような、枚数の関係で、無駄な描写を省いて本質をズバリ描く作品群においてとりわけ、そこに或る一定の連続感を、読者に感じさせるのかも。
 そうだとすれば、ベスト10なんかあんまり意味がないような気もしますが、14年前のひそみにならって選んでみました。以下です。

「有望な青年」、「若い日の味」「親子」、「胃の痛み」、「ドタ」*、「戦闘意欲」、「謎」、「山口先生のうどん」「おまかせ定食」、「貝柱もどき」

 あらまあ、はからずも14年前のベスト5がすべて入っちゃいました(太字は重なった作品)(^^;。そうしますと今回新たに入選させた残りの5篇は、私自身が14歳馬齢を重ねたことで面白さがようやく沁みてきた作品ということになるかもしれません。読者の年齢が、作品の評価にもろに関わってくるのも眉村作品の特徴ですね。星作品ではそういうことは(私の体験に照らして)あんまりない。眉村さんが時を好んで小説化するのに対して、星ショートショートはあくまで無時間的なのです。やはり対称的な作風というべきでしょう。

*「ドタ」は「わがパキーネ」系列の、星的な観点でも年刊SF傑作選級の傑作です(^^)
 

「大麻と箱男」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月16日(日)23時41分16秒
返信・引用 編集済
   《もぐら通信17号》より、柏木静「大麻と箱男」を読みました。
 公房の命日(もぐら忌?)の1月22日に、心斎橋で「箱男」読書会が開催されたそうで、筆者の柏木氏はその読書会の主宰者。
 ということで読書会のレポートなのかな、と思って読み始めたら、そうじゃなくて「箱男」をめぐる思索のメモという感じでした。
 柏木氏は「箱男を恋愛小説と思っている」とのことで、それに就いて「誤読の危険も感じなくはないが、読み方の多様性は作者自身歓迎してくれるだろうし、読みたいように読むのが小説だろう」と記しておられます。そのとおりだと思います。
 ところで、箱男の匿名性に就いて筆者は、「すごく、根本的な疑問だが……、そもそも箱をかぶる程度では、匿名になれないのではないか?」と、かぶる箱自体の個性という例を上げて、疑問を呈しています。
 一瞬、なるほど! と膝をたたきかけたのですが、いやいやそれでは解釈がリアリズム的すぎる、と思い直しました。発想としてはとても面白い。わたし的に思いもつかぬ切り口で、虚を突かれました。しかし公房がリアリズムとしてこの話を書いてないのは自明で、その意味で箱は一種「観念的」な小道具であり、読者は、読むにあたってまずそれを「見立て」として受け入れなければならないのではないでしょうか。
 たとえば「D坂の殺人事件」の、あの「棒縞の浴衣と格子」のトリックは、リアリズム的にはありえない、現実性皆無なもので、そう読んでしまった読者は、そこで本を投げ捨ててしまうほかない。観念的な「見立て」として読んで(受け入れて)初めて、読者はあの小説の独特のセンス・オブ・ワンダーを感取することができるわけです。
「箱男」も同様で、そこは「初期設定」として受け入れなければ、文字どおり「お話にならない」のでして、もとより読解の、著者からの自由は保証されているのでその解釈もアリとは言い条、これに関しては「読み方の多様性」を受け入れている(に違いない)公房としても、譲れない一点なんじゃないかなあ、と、愚考したのでありました(^^;

『発想力獲得食』は150頁。ちょうど半分。


 

「発想力獲得食」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月16日(日)03時32分17秒
返信・引用 編集済
   わがPCのメールソフトは「Windows Live メール」なんですが、最近、山ほど来るスパムメールの件名の頭に、[SPAM]という文字列が付いていることに気づきました。最初、なんだろうな、と思う程度だったんですが、先日卒然とその意味に思い当たりました。
 誘導したい業者が、わざわざそんな自爆的なことをするはずがありません。これはきっと、メールソフトの側の機能でそうなっているんですね。つまりユーザーへの警告として。
 だったら、この[SPAM]の文字列で弾くように、メッセージルールを設定すればいいのではないか。やってみました。
 いやー効果てきめんでしたねえ。今まで、開くたびにずらずら並んできたスパムメールが、一気になくなってしまいました。ここ数日様子を見ていたのですが、全く例外なく、綺麗さっぱりなくなっちゃいました。
 いまや、いつメーラーを開いても、「新着メッセージなし」の表示が出ます。でもこれってよしあしかも。ああ、私には友だちがいなかったんだなあ。なんだか悲しくなってしまうのでした。設定を戻そうか(>おい)(^^;

 先日、ギターの弦を張り替えた話を書き込みました。おかげでまだ機嫌よく触っていまして、ようやく指が、ギター指になってきました!
 
 ちょっと茶変色している部分が皮膚の厚くなってきたところ。もっとすすめば角質化してきて、昔はそれが気になって剥いてました。するとまた角質化してきて、それを繰り返しているうちに、角質化ではなく、皮膚が弾力性をもったまま、しかし硬いという風になって、そうなるとしめたものなんですが、そこまで飽きずに続けられるかどうか(笑)。やめてしまえば、直ぐに元に戻ってしまいます。
 今練習中はこれ↓ コードもかなり楽に押さえられるようになってきました。
 


 

「家庭のない家族の時代」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月14日(金)22時40分12秒
返信・引用 編集済
   小此木啓吾『家庭のない家族の時代』(集英社文庫86、元版83)読了。

 面白かった。元版83年だから、今から30年前の本なんですが、まさにイマココの現代日本社会の状況が適確に予見されていて驚かされました。著者は、下手な小説家が読んだら慙愧に悶絶しかねない文章力の持ち主なので、一見平易な読み物記事的にみえますが、論考は最初から最後まで一貫して積み上げられていて、きちんと要約しようとすれば最初から順々にしていかなければ不可能。
 そんなことはしてられませんので、途中から書きます。
 日本においても米国(及び先進諸国)においても、モラトリアム化が進行するのは共通なのですが、日本の場合、基層に母性社会があるため、断絶(断念)原理が弱く、特殊化する。すなわち「今ここにいるのは本当の自分ではない」という意識が優越していく(アメリカではミーイズム化)。
「そもそも日本人の自己愛は、自分の権利を主張したり、自己中心主義を公然と主張することによって自分個人のナルシシズムを能動的にみたす形をとらない。もともと母性的な日本的な人間関係の中で、相手本位に暮らすわれわれはむしろ、相手のナルシシズムをまず尊重し、相手に対する思いやりや配慮や気遣いを先行させる対人関係のパターンがある。このことを逆に個人個人のナルシシズムのあり方について考えてみると、つねにわれわれは、自分がそれを主張しなくても、相手によってナルシシズムをみたしてもらうというパターンをもっている。つまり、われわれのナルシシズムのみたし方は受動的である」
 こうした傾向が「日本独特のマイホーム主義」(定義省略。通念とは異なる)を生み出す。そのマイホーム主義の家で生れた子供は「赤ん坊陛下」という母子関係で成長する。
「それだけにこの中で育つ子どもたちは、とても従順でおとなしい。同調的で素直な子どもたちが多い」。逆に言えば(アメリカの子供と比べて)「無気力で無意欲で、能動的な生活意欲に乏しい」「彼らは周りから支えられて、大事にされないと生きていけない。自分の中から自家発電して、能動的な人生や活動性を発揮することがむずかしい子どもたちである」
 こういう子どもたちは、「実際の社会の現実とか、一人の個としての人間関係のトラブルを経験したり、山アラシ・ジレンマに堪えたりして暮らすことができない」
「なぜならば、彼らの生育環境である家庭そのものが、こうした山アラシ・ジレンマを微妙に回避した幻想的な生活の場になってしまったからである。人間的な情念・闘い・傷つき・それらに耐える能力を学習すべき家庭が、まことに幻想的なカプセルになってしまっているからである。」

 このような子どもたちの自我は、当人たちにとっても自信を持てるものではない。そこに「断念」回避の機構(「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」)が効いてくる。「今ここにいるのは本当の自分ではない。本当の自分は別なところにいて、ここにいるのは自分のすべてではない」(青い鳥症候群?)。
 私見では、日本ほど異次元テーマや並行世界テーマのSFが好まれる国はないんじゃないかと思っているんですが、ひょっとしたら、以上のような「日本的特質」と関係があるのかもしれませんねえ(^^;

 

 

「『方舟さくら丸』読書会報告」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月14日(金)02時26分20秒
返信・引用 編集済
   《もぐら通信17号》より、ホッタタカシ「東京・安部公房・パーティ『方舟さくら丸』読書会報告〜方舟はいまだ発進せず?〜」を読みました。

 「東京・安部公房・パーティ」では定期的に読書会を行っているそうで、本稿は、去る12月に開かれた『方舟さくら丸』読書会の報告です。
 私もたまに畸人郷読書会に参加しますが、読書会の醍醐味は、なんといっても他者の読解に接することができること。一人でチンタラ読んでいても自分の中にあることしか出てきません。孤独ならぬ孤読では絶対に気づけない、思いがけない解釈に出遭って、膝を打ったり呆然としたりするのは、自分の読解を一人よがりから救ってくれます。
 報告者のホッタ氏も、「読書会とはテキストを大勢で読むことで、個人で楽しんだ部分を共有し、また自分一人では気づけなかった見方や解釈、さまざまな情報を教えてもらいながら、作品の「読み方」を鍛える楽しみです」と述べておられますが、全くそのとおりだと思います。
 本稿には、そのような参加者たちの解釈(の一部)が列挙されていて、興味深い。
 まず、ああそうだったなあ、と頷いたのが、安部の文体の変化の指摘。「言葉が過剰で安易になった」とか、「会話が多く戯曲みたい」とか、あるいは「ずいぶん平易で読みやすい」「キャラクターが平面的」「ワープロの悪弊か推敲不足」(大意)というのは、肯定否定の違いはあるにせよ、すべて、それまでの作品とは文体が変わっていることの指摘ですね。私も、『密会』までの文体とはちょっと違うなあ、軽いなあ、という印象を、読んだ当時感じたことを憶えています。多くの方が同様の変化を感じ取っていたことが分かって、我が意を得たりでありました(笑)。
 フーコー『監獄の誕生』(翻訳、77)の影響の指摘には、虚をつかれ、つづいて、はたと膝を打ちました。で、即座に思ったのは、『密会』はどうだったんだろうか? 調べたら『密会』は77年発行。ということは、原書を読まない安部が影響を受けたはずがない、と一応いえそうです(ただし翻訳以前に出ていた解説書を読んでいた可能性はありうる)。とすれば、病院と監獄と、対象は違いますがどちらも近代管理社会のアレゴリーとしては同構造。安部とフーコーは、同時期に、それぞれ独立に、並行的に思索を深めていたということになる。
 いずれにしろ『監獄の誕生』の翻訳を手にした安部は、自身の思考の方向性に大いなる援軍を得たと感じたのではないでしょうか。それを更なる撥条として『方舟さくら丸』へと進んでいった姿が、私の脳裏にありありと浮かんできました(^^)。
 読書会って、案外、皆で渡れば怖くないではないですが、勢いに任せて作者の意図を超えた解釈が出てくるように思います。でも、それこそ読書会の効用、愉楽というべき。なぜなら上梓された書物は、作者の手を離れて独立物なのであり、書物を挟んで、読者と作者は対等なんですから(^^;

『家庭のない家族の時代』は200頁。本書の上梓は30年前(1983年)。その予言性に驚かされます。残り50頁。
 

「もぐら通信、池田龍雄先生に会いに行く」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月13日(木)02時38分20秒
返信・引用 編集済
  「もぐら通信、池田龍雄先生に会いに行く」(w1allen/岡田裕志)を読みました。
 池田龍雄(85歳。光瀬龍と同い年)は、安部や埴谷らの「夜の会」「アヴァンギャルド芸術研究会」にも参加していた前衛画家で、安部とは懇意だった由(《もぐら通信》にも何度か寄稿されているそうです)。今年の1月、梅田で池田氏の講演会があり、そういう関係で、編集のお二人(w1allenさん、岡田裕志さん)が聴講されました。本稿はその報告です。
 まずw1allenさんの報告ですが、冒頭、短編の実験映画が映されたそうです。黒子衣装の男が、梵天の塔(ハノイの塔)に延々と挑戦している映像で、円盤が何枚だったのかは記述がないので不明ですが、wikipediaによれば「n枚の円盤すべてを移動させるには最低 2のn乗−1回の手数がかかる」とあります。同じくwikipediaにはブラフマーの塔(64枚の円盤)が紹介されており、「(2の64乗−1)回 = 18,446,744,073,709,551,615(1844京6744兆737億955万1615)回かかり、1枚移動させるのに1秒かかったとすると、最低でも約5,845億年かかる(なお、ビッグバンは今から約137億年前に発生したとされている)」とあり、映画のあと池田氏が「宇宙の年齢137億年よりも時間がかかってしまう」と語っているのは、このブラフマーの塔を念頭におかれているのかもしれません。
 w1allen氏によると、講演の内容も「現代物理学を引き合いに出すなど、とても科学的でわかりやすいもの」だったそうです。w1allenさんは池田氏の無人称志向に、安部文学の匿名性に通じるものを認められたそうですが、禅問答めいた現代宇宙論への関心に着目すれば、埴谷雄高とも共通するのではないか、と思いました。

 次に岡田裕志さんの報告ですが、岡田さんの「時間については安部公房も触れていますが、時間を表現するのに、文学と絵画ではどのような得失がありますか」という質問に対して、「文学では時間を追って順に書いていくことが出来るが、絵画ではそのようにはいかない」というお答えだった由。なるほど小説は通時的、絵画は共時的ですよね。
 それに就いて岡田氏は「確かに絵画での時間を言葉で表現することは難しい、でも先生の絵には確かに時間の流れを感じ取れるものがある」と書かれています。私は池田氏の絵を知らないので、池田氏のお答えを一般化させて考える他ないのですが、岡田さんとは逆方向に、「文学で、絵画のように時間を描くという方法もありうるのではないか」と考えました。私たちは絵画鑑賞で、当の絵を、遠くから全体を見、つづいて近づいて部分を、右から左へ、上から下へ、また後ろに退いて全体を、という具合に見ているのではないでしょうか。だったら、小説もそのように書いたっていいのではないか。たとえば物語を否定した小説、時間の流れ通りには配置されない小説とかですね。そのような小説では、一回通読で分かるものではなく、最初に立ち返って再読し、あるいは章や段落ごとに遡って読んでいって、はじめて読んだという了解に達しうるはずで、それは、絵画の鑑賞に近い読書といえそうに思うのです。ジーン・ウルフなんかそういう感じではないでしょうか。あとパズル的ではありますが本格探偵小説もそうかも。
 ――などと、短い報告ながら、いろいろ考えさせられる、大変刺激的なレポートでした。
 これは池田龍雄で画像検索したもの→画像検索結果。おお、こんな感じなのですね。好いですねえ(^^)

『家庭のない家族の時代』は170頁まで。
 

Re: 発想力獲得食

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月12日(水)21時18分48秒
返信・引用 編集済
  > No.5158[元記事へ]

段野さん
>親本表紙を取り込もうとしたのですが、スキャナーの扱い方・取り込み方が分からなくて
 そうか。プリンタを買い替えられたのですよね。私も2年前に買い替えたとき、いろんな機能が付加されていたのにびっくりしました。最近のはもっと多機能化していることでしょうね。要は慣れなので、どんどん画像を取り込んで当掲示板にアップして頂けたらと思います。

 名張人外境ブログで知ったのですが、眉村さんを囲む会皆勤賞の上田豊太さん(乱歩蔵びらきの会)が、全国紙の毎日新聞に登場されました。ヤンヤヤンヤ!
     ↓毎日新聞
 


 地方紙の神戸新聞には、たまに知人が載ったりするんですが、全国紙(5大紙)は初めてかも(もちろんプロの作家さんは別です)(^^)
 ところで、フェルトアートってなに? 全然イメージできないので、展示場である旧細川邸やなせ宿HPを見たんですが、2月度イベント情報のところに、下の画像が一枚ポツンとあるだけ。これだけじゃさっぱり分かりませんがな。すでに9日から始まっているというのに。さすがお役所仕事ですなあ(^^;



 

発想力獲得食

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 2月12日(水)15時30分13秒
返信・引用 編集済
  双葉文庫では、今日2月12日発売予定ですね。実は私は親本を既に読んでいまして、親本の表紙が、発売当時の世相を表したものだったのですが、文庫実物本の表紙も、なかなか、おもしろく感じました。内容で、特におもしろかったのは(今述べてもいいのでしょうか)「まずくなれ」です。めちゃくちゃおもしろかった。と同時に、完璧に(当たり前ですが、眉村さんなら)ショートショートの原則で話が進んでいきます。登場人物の少なさ、かつ、場面展開による語り口、管理人様から見れば私の感想など、当たり前やんか、と言われそうですが、おもしろかった。で、ちゃんとおちが付き、納得するのでした。「おまかせ定食」も、おもしろかったです。なるほどなー、こういう方向になるのか、(当たり前か)また別の納得のあったお話です。例えば、本社食堂で私が感じたこと、流通センターでの食堂で感じたこと、同じメニューでも、こんなに感じ方が違うのか、それに似た作品に思えました。
倒産する前の「あまから手帖」に連載作、今の「あまから手帖」にはのらないであろう作品ばかりで、おもしろかったです。皆様、文庫になりましたので、一度お手に取られること、お勧めいたします。
(実は、「おもしろかったです」をご本人の前で連発すると、「やめてくれ」とおっしゃいましたが、おもしろかったことをお伝えしたかったのですが、そのような仕儀に相成りました。おもしろかったんですが。ちょっと、そこら辺が、謎です)(親本表紙を取り込もうとしたのですが、スキャナーの扱い方・取り込み方が分からなくて、諦めました。情けない)
 

「うずめ劇場、ゲスナー氏へのインタビュー」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月12日(水)02時59分4秒
返信・引用 編集済
  「うずめ劇場、ゲスナー氏へのインタビュー」(聞き手・岩田英哉)は、2月7日に初演を迎えるという『砂女』(いうまでもなく安部公房原作)を構成・演出したペーター・ゲスナー(うずめ劇場主宰)に、編集部の岩田氏がインタビューしたレポート。(うずめ劇場HP
 なぜ「砂の女」なのか、という岩田氏の問に対して、ゲスナー氏は、勅使河原映画への違和感を挙げています。その視点はなるほどですね。
 それはさておきまして、私自身が興味深かったのは、演出のゲスナー氏が役者に対して、どのように演技するかというその解釈を、懇切に説明していたという記述でした。
 私の知人に、劇団の主宰で座付作家で、演出も担当している(つまりゲスナー氏と同じ立ち位置の)知人がいるのですが、実は今日、偶然にもツイッターで、演出家の解釈と役者の解釈が異なった時はどうするのか、という質問をしたところだったのでした。演出家が判断する、というのが知人の返事でした。この「判断する」は、演出家の解釈を優先するという意味なのか、役者の解釈が納得できるものならそっちをとる、という意味なのか、判然としないのですが、まあ、大概前者なんじゃないでしょうか。シナリオはその線で仕上げられているはずですから。
 で、思ったのは、芝居において、役者の主体性はどうなっているのかな、ということでした。役者というのは、ただ、役柄を(演出家の命ずる通りに)演ずる、そのこと自体に喜びがあるのでしょうか。
 しかし役者が役柄になりきったからこそ出てくる解釈というのが、あるようにも思うのですね。それを優先する演出というのもアリではないかと。
 その場合、所与のシナリオとはわずかに異なったセリフが役者Aによって吐かれ、当然、それに応答する役者Bのセリフも変わっていく。そのようにして舞台が進んでいく劇が考えられるのではないか(実際にそういう舞台ってありそうな気がします)。
 安部公房のメソッドはどうだったのでしょうか。役者を「手足」として考えていたような(役者も手足となるべく研鑽する)、そんな記述を読んだ記憶があるのですが、確認できませんでした。模造記憶かも(汗)。
 ――というわけで、何とも中途半端なまま、回収もせずこれで終わっちゃうのですが、まあいつものことです(>おい)(^^ゞ

 

Re: 「安部公房氏との打ち合わせ記録(1)」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月12日(水)00時13分32秒
返信・引用
  > No.5155[元記事へ]

w1allenさん
 獅子文六は、私もまったく興味がなかったのですが、安部公房が評価していると知れば、やはり読んでみたくなりますよね。いったい獅子文六のどこが「やはり芸術だ」なのか、この目で確認したくなってしまいました(^^;。
 ところで新潮文庫は品切れですね。マーケットプレイスがバカみたいな値付けをしています。図書館を利用しようと思います。いますぐ取り掛かるのは難しいので、そのうちに(^^;
 

Re: 「安部公房氏との打ち合わせ記録(1)」

 投稿者:w1allen  投稿日:2014年 2月11日(火)22時56分31秒
返信・引用
  > No.5154[元記事へ]

管理人様

結局、獅子文六氏のことを全く知らないまま、発行してしまいました。(笑)
でも、当時の息遣いが聞こえてきそうな貴重な資料でした。

『てんやわんや』が、『吉里吉里人』や『同時代ゲーム』を先取りした作品かも
しれないということは、スゴイですね。
『吉里吉里人』は喜劇調で、ハラハラ・ドキドキの展開で、抱腹絶倒しました。
『同時代ゲーム』は、同じ所をぐるぐる回りながら、違う景色を見せる、
マジック的展開が良かったです。(小林秀雄氏が、酷評したそうですが)
では、失礼します。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/2459/novel.htm

 

Re: 「安部公房氏との打ち合わせ記録(1)」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月11日(火)21時27分43秒
返信・引用 編集済
  > No.5153[元記事へ]

 「なぞ転」第5回視聴したこと書くのを忘れていました。いやー、いよいよねら学的展開がまさってきましたね。次回が待ち遠しい! しかし全12回中5回まできたわけか。まだ殆んど何も始まっていないような。あと7回分しか残されてないのですが(^^;

 さて昨日の続きですが、安部公房がほめた獅子文六は、私は未読なので文学史的知識からの推理ですが、たしかに文学に対して変なコンプレックスとは無縁で、当然しめったルサンチマンも抱いてなかったんじゃないでしょうか。そのカラッとしたユーモアが、安部的には好感が持てたんでしょうかねえ。
 これまで全く視野になかった作家でしたが、ちょっと興味がわきました。wikipediaを見ていたら、『てんやわんや』という作品について、「『てんやわんや』は四国南西部のある村の日本からの独立騒動を描いて、井上ひさし『吉里吉里人』の先駆をなす」という記述にぶつかって俄然興味を覚える。ひょっとして(同じく四国の森のなかに建設された国家を描く)大江の『同時代ゲーム』と同じ素材なのでしょうか? ということで、これは読んでもいいかな、という気分になってきました(『同時代ゲーム』も併せて)(^^;
 

「安部公房氏との打ち合わせ記録(1)」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月11日(火)01時26分9秒
返信・引用
   発行されたばかりの《もぐら通信17号》(PDF)より、長与孝子「安部公房氏との打ち合わせ記録(1)」を読みました。
 これはNHKラジオのディレクターだった長与孝子氏(昨年2月逝去)*が、自身の日記から、安部公房関係の記録を抽出してまとめられたものだそうで、長与氏の従弟中村武彦氏のご高配により連載の運びとなった由。
 これは面白いです。安部がNHKラジオに初めて書いた(と言うか、下に引いた井上ひさしの言葉にあるように、長与氏が安部の才能を見抜いて依頼した)ラジオドラマ「キッチュ クッチュ ケッチュ」制作の過程で、長与氏が接したところの、安部公房の素顔が記録されているのです。
 これが面白くなくて何が面白い(笑)。資料的にも貴重な記録でしょうが、まず、それ以前に面白い記録です。
「作家というものは、こう言う社会では、生活だけ考えていては、本当の仕事は出来ない。生活と仕事とは別のものではないのだ。しかし作家の場合は生活を考えては居られない。この点は逆だ」
 梅崎春生との遭遇の段も興味深い。この当時(57年頃)の中間小説の作家は、多かれ少なかれ純文学くずれなんですよね(時代小説は別)。そういえば純文学と全くかかわりない中間小説作家が出始めたのはいつ頃からなのかな(あ、そういう連中はエンタメ作家になるのかも)
 次号以降も楽しみです(^^)

*このページの下の方に、井上ひさしの紹介文が引用されていました。孫引きします。
「演出の長与孝子さんは演劇界では新人だけれど、ラジオドラマの世界では知らぬ人のない大立者である。安部公房さんがまだ新人作家のころ、いちはやくその才能を見抜いて、彼に連続ラジオドラマを依頼した。私はそのドラマを聞いて育ったうちの一人である」
 ここで言われている「連続ドラマ」というのが、おそらくこの日記抜粋の背景をなす「キッチュ クッチュ ケッチュ」のことでしょうか。
 

Re: 海野佳作入選

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 2月11日(火)00時32分26秒
返信・引用
  > No.5151[元記事へ]

段野さん。ありがとうございます。
そうですねー、こうやって気軽に投稿する場があって幸せなのかもしれませんね。
出版不況ですもんね。
でもせめて1000円ぐらいは……( ;ノ´Д`)ノ

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re:海野様佳作入選

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 2月10日(月)15時37分18秒
返信・引用
  海野様、おめでとうございます。
佳作、どんなにか難しいことか、我が身にとっては、憧れであります。
しかし、しかし、500円の図書カード、何ということか。あまりにも理不尽に思えてなりません。が、出版業界の不況、考えますと、次々に「公募」を無くしていく現状、まあ仕方ないか、などと思ってしまいます。出版が元気なころには、何と2000円の図書カードを頂きました。有難いことでした。使い倒しました。(いや、2000円じゃなかったかも。ひょっよとすると、5000円分だったかも。かなり、使い倒したかも。でも、自分は「社内売り」で賄っていたので、記憶が不鮮明だったかも)
佳作、おめでとうございます。佳作に到達するに、本当に難しいことと存じます。おめでとうございます。
 

Re: 海野さん佳作入選

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月10日(月)00時54分0秒
返信・引用 編集済
  > No.5149[元記事へ]

>「お答えいたします」の田中佐和さんですね。
 おお、ありがとうございます! そうでした。田中佐和さんでした。思い出しました。いやーすっきりしました。喉に刺さった小骨がとれたような(^^;
 それにしても不思議ですねえ。指摘されてみたら、田中佐和の名前「知っている」んですよね。知っているからこそ思い出せたわけですが、どっかからか出てくるんですよね。どっかからというのは、やはり無意識からなんでしょうね。
 ところで「見えます」は憶えていましたが、「お答えいたします」は忘却していました。もちろん、ああそやった、と思いだしたのでしたが、しかし、こんなふうに、昔の記憶は一日一個、かどうか分かりませんが、意識から消えて(無意識の中に落ち込んで)いってるんでしょうかねえ。どの記憶が消えてしまったのか、わからないのが辛い。歳をとるのは嫌ですねえ
(ーー;

追記。筒井さんが「急流」を書かれたのが45歳。私が、一年の過ぎるのが早くなったなあ、と感じ始めたのが大体そのくらいの歳でした。
 そして筒井さんが「残像に口紅を」を書かれたのが55歳。なんか納得しちゃうんですよねえ(>しみじみ)。
 

Re: 海野さん佳作入選

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 2月 9日(日)23時44分36秒
返信・引用
  > No.5148[元記事へ]

>「〜が見えます」っていう女性占い師(霊視者?)がいましたよね昔。名前は何でしたっけ? この前からずっと気になっているのですが、思い出せません。

「お答えいたします」の田中佐和さんですね。
僕も思い出せず、検索して見つけました。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: 海野さん佳作入選

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 9日(日)21時10分39秒
返信・引用 編集済
  > No.5147[元記事へ]

海野さん
 拝読しました。たしかにハードボイルドでした(^^)。
 さすがにうまいですね。山野浩一の造語で「ニヒ=センチメンタ・リズム」。私は光瀬龍のサイボーグものを連想しました。
 枚数の制約で、最後に説明になってしまったのは致し方ないところ。ハードボイルドですから最後まで描写に徹してほしかったですが、そのためには20枚弱必要でしょう。でも、この話はそのくらいにじゅうぶん膨らむんじゃないですか?

>小学生じゃないんだからせめて2000円ぐらいは
 それは勝者の余裕。50円でもいいから入選したいと思っている人が、おのれ海野! と、地団駄踏んでいるところが、見えます(^^;

 「〜が見えます」っていう女性占い師(霊視者?)がいましたよね昔。名前は何でしたっけ? この前からずっと気になっているのですが、思い出せません。
 

Re: 海野さん佳作入選

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 2月 9日(日)18時17分40秒
返信・引用
  はーい。確定情報です。佳作入選。
今回は作品名と作者名が逆になるということもなく無事に名前がのりました。
わがブログにも加筆修正版を載せました。ロボットはO・B
でも、いつも思うんですが、佳作の商品が図書カード500円なんですが、小学生じゃないんだからせめて2000円ぐらいは欲しいかな(笑)

http://marinegumi.exblog.jp/

 

海野さん佳作入選

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 9日(日)02時27分44秒
返信・引用 編集済
   未確認情報によりますと、海野さんが、第24回「小説虎の穴」で佳作になったそうです。第20回に続いて二度目の佳作入選。おめでとうございます。パチパチ。
 テーマは「ハードボイルド」だったそうです。なになに? ハードボイルドと海野さん? 全然イメージが合いませんねえ(>おい)(^^;。一体どんな作品に仕上がっているんでしょうか。公募ガイド発表ブログへのアップロードが待たれます。(←あ、アップされてました!)

 久方ぶりの雪景色を眺めていて、とつぜん鼻の奥にツンと、スキー場のホテルの乾燥室の匂いとパラフィンの匂いが、甦ってきました。もう何十年もスキーに行ってないのに。またその何十年のあいだ、思い出したこともなかったのに。
 そしてその匂いがきっかけで、夜中に、薄暗いむっと温気が立ち込める乾燥室の質感とその前でスキー板の手入れをしている情景も、甦ってきた。はっ。これって、いわゆる「マドレーヌの味」?(ちなみに未読) 情景といっても、具体的な絵ではなく、ぼんやりした「感じ」なのですが、そしてその匂いや情景には、なぜか甘酸っぱい感傷的な雰囲気が付着していたのです。
 うーむ。甘酸っぱい感傷とはなんぞや。そんな感傷を惹起するような出来事は、何もなかったはず。でも、ひょっとして無意識が「抑圧」してしまった何かがあったのか。いやいやそんなこと全く考えられないのですがね。それとも、スポーツ店でワックス用パラフィンを買ってきて、嗅いでみたら、さらに無意識が開放されて何かがぞろりと出てきちゃうんでしょうか。お、おそろしや……
 なーんて、しょーもない妄想に捉えられてしまうのは、『家庭のない家族の時代』なぞという精神分析を日常に当てはめるものを読んでいるからですね。現在130頁。

 統計末法の世を生きる(前篇)
 統計末法の世を生きる(後篇)
 何たる杜撰!
 以前私も、世のアンケートなるものが、設問の選定次第で、どのようにでも、自分の思い通りの結果を「作る」ことができることを、例を上げて書き込んだことがありました。
 日本人は、統計結果として提出された数字に、なぜか神のごとき無謬性を受け入れてしまうのですが、絶対そんなことはありえません。大数観察に客観性はありますが、その前段階にはいくらでも人間の統制を紛れ込ませる余地があるのです(杜撰さも)。だまされまいぞ。
 リンクの例はもっとひどくて(或いはかわいくて)、杜撰以外の何物でもないのですが、昨今話題の東京大学データ改ざん問題とも、直接的には統計問題ではないですが、その態度に、同様の面が認められますね。
 

Re: ギターの弦を張り替える

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 8日(土)15時27分12秒
返信・引用 編集済
  > No.5144[元記事へ]

段野さん
> 音楽の時間がなくても、誰かしら何人かは、学校にギターを持って来ては、休み時間にかき鳴らしてました。
 へえそうなんですか。うちの中学では、そういうのはなかったです。
 高校ではあったかも。ただしそれも「中庭とかで数人集まって、しかも放課後」という感じであって、たとえば「教室で休憩時間に、ひとりで」というのは、ありえないです。「ひえ〜!」という感じ(笑)。
 少なくとも小説世界でそんなシーンが描かれていたら、リアリティゼロで本を壁に投げつけられてしまいますが(伏線としてなら可)、現実世界ではそんなこともふつうに起こっているんですよね。まさに「事実は小説より奇なり」ではあります(^^;。
*いま見返したら、段野さんも教室とは書いてませんね。でもそのくだりを読んだ瞬間、「休み時間に教室で、男子がひとりでギターをかき鳴らしている」図が、ぱっと頭のなかに広がったのでした。思い込みで、勝手に書き換えて読んじゃってるんですね。反省反省(汗)。でもさらに妄想するならば、その男子を中点とした周囲数メートル以内は、たぶん無人の空白地帯だったと思われますね(>おい)(^^ゞ

 『家庭のない家族の時代』は100頁。のこり150頁。こういう精神分析を日常に適用したのを読んでいると、まったくあたりまえのように、上みたいなヒネクレた解釈をしてしまいますね(>そうなのか)。

 

Re:ギターの弦を張り替える

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 2月 8日(土)12時42分21秒
返信・引用
  >中学の音楽の時間に、ギターを持っている者は持って来い、
音楽の時間がなくても、誰かしら何人かは、学校にギターを持って来ては、休み時間にかき鳴らしてました。ちょっと、ギターがうまい生徒は、羨望の目で見られてましたね。また、うまくなって、皆に注目を浴びようとしていたようです。(負けじと、コンパウンド弦に張り替えたのも、その頃だったかも知れません。でも、Fコードは苦手だった)
 

Re: ギターの弦を張り替える

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 7日(金)18時11分19秒
返信・引用 編集済
  > No.5142[元記事へ]

段野さん
 コンパウンド弦というのは知りませんでした。検索したら、このサイトに記述がありました。なるほど、「難しいコードフォームが押さえられないで苦労してる方々におすすめです」と書いてありますね。
 このコンパウンド弦とは、材質でのカテゴリーのようで、その伝で言えば、私の買ったのは「ニッケル弦」のようです。

>それよりうまく弦をおさえることができるのですか。
 コンパウンド弦は使ったことがないので比較できませんが、それまで使っていた金属弦(たぶんブロンズ弦)に比べれば、はるかにラクに押さえることができますよ。

>エレキ弦、と聞くと、硬そうな(おさえにくそうな)イメージがあった
 上のリンク先に、ニッケル弦の解説もありました(→ここ)。「金属の柔らかい弦」とあるので、そんなことはないようです。実際、弦を、押さえている指でぐいぐい(縦に)動かしてウイーンとピッチを揺らすチョーキングという奏法があるじゃないですか。あれはやはり、弦が柔らかくなければ無理でしょう。アコースティックギターでもやりますが、エレキギターの方がダイナミックな感じがするので、エレキ弦のほうが柔らかく作られているように思われますね。

>昔、皆が我も我もとギターを片手にしていた頃
 そうでしたね。私は両手で持っていましたが(>おい)m(__)m
 それで思い出しました。中学の音楽の時間に、ギター持っている者は持ってこい、という授業がありました。男子の大半が持ってきたように記憶しているんですが、冷静に考えてそれはないと思うので、模造記憶でしょうね。私の友人はみな持っていたのでそこからの拡大記憶かも。それにしても、そんな授業があったくらいですから、私たちの世代にとって、ギターが日用品感覚の楽器だったのは間違いありません。

 

Re:ギターの弦を張り替える

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 2月 7日(金)13時54分5秒
返信・引用
  管理人様
エレキ用のギター弦ですか。それは知りませんでした。昔、皆が我も我もとギターを片手にしていた頃、「コンパウンド」の弦を買いなはれ、と言われ、張り直したことがあります。それよりうまく弦をおさえることができるのですか。エレキ弦、と聞くと、硬そうな(おさえにくそうな)イメージがあったのですが、意外でした。もっと早くに聞いていたのならなー、と思ったのでした。
成果をぜひともお伺したいところです。
 

ギターの弦を張り替える

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 6日(木)23時11分6秒
返信・引用 編集済
   エレキ用ギター弦を買いました!→Amazon
 これを作成したとき、懐かしくなってギターを出してきたのでした。ユーチューブに合わせてぽろんぽろん爪弾いていたのですが、だんだん、コードをじゃんじゃか鳴らしたくなってきました。で、それじゃあ、と、簡単そうな「さすらいのギター」に照準を定めた。耳コピで大体押さえ方は確認できたのですが、いかんせん指がふにゃふにゃできちんと押さえられない。練習を積み重ねていれば、そのうち指先も適度に硬くなるんですが、いまの私の指先では弦に負けてしまうんですね。
 そんなとき、ネットで、初心者はエレキ弦を張るとよい、というアドバイスを見かけたのでした。今張っている弦は、もうかれこれ10年近く前に張り替えたきり(殆んど弾いてなかったので)だったので、よし、ものはためし! と一念発起して購入したのが、今日届いたという次第。
 さっそく張り替えて弾いてみました。おお、たしかに柔らかくて、「F」や「A#」も、前の弦だったらこすったような音しか出なかったのが、ふつうに響く音が出ました(あらかじめ言訳しておきますが、そのコードを単体で弾くのであれば、私だってふつうに音が出せますよ。ただコード進行中にこれらの難押さえコードに移行するとき、響く音が出せないということですので念のため(^^;)。
 具体的な例をあげますと、ここです↓

 

 このすばやいコードチェンジが、うまくできればきれいなところですが、昨日まではなかなかうまくできなかったのです。ところがエライもんです。エレキ弦に変えた途端できるようになりました(註:あくまで当社比です)
 そのうち成果を、ユーチューブにアップしましょうかね。ノーサンキューですかそうですか・・
 

 小此木啓吾『家庭のない家族の時代』に着手。積読崩し本。


 

高須が大須を救う

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 5日(水)22時07分9秒
返信・引用 編集済
   「大須演芸場を支援」 高須クリニック院長、席亭に申し出

 幽霊さんが一番ホッとしているのでは(^^;

 

 寺山修司『さかさま童話史 ぼくが狼だった頃』(文藝春秋、79)読了。
「名作童話に復讐してやりたい」「名作童話を涜したい」(あとがき)という、著者の子供時代からの欲望を実現させた本。大人が童話に篭める糞スクエアな読みを、180度転倒させた「さかさま」童話解釈。「裸の王様」は、挿絵のようにでっぷりした体型ではなく肉体美の持ち主だった。もっとあからさまにはアレにかなり自信を持っていたのだ、というところから読み直すのが寺山説(^^;。「アンデルセンおじさん、ごめんなさい」という名作書き直しも面白い。のですが、寺山エッセイの水準からすればいささか散漫だったかな。
 

地獄八景聴き比べ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 4日(火)21時08分45秒
返信・引用 編集済
   吉朝の地獄八景があまりに面白かったので、本家米朝のヴァージョンと聴き比べたくなり、昨晩の書き込みのあと夜更かししてそっちも視聴してみました。
 
 この地獄八景、吉朝も話のマクラで「どこから聴いても問題ない」みたいなことを言ってましたし、後にアップしている枝雀は、「旅もの」とカテゴライズしているように、とりわけ前半は地獄観光案内なのです。つまりオチに向かって伏線が張り巡らされているタイプではないので、全体の型をまもれば、その中に当てはめる内容はいくらでも改変できる。
 私は、吉朝が米朝元ヴァージョンをどのように改変しているのか確認したかったのですが、その意味では殆んど踏襲されていました(もちろん細かい改変はなされているのですが(昨日も書いた落語家形態模写とか)、大観すれば、ストーリーの順序にしろ、断絶ではなく連続的であったといえると思います。
 それがちょっと意外だったんですが、だったら枝雀はどうか。と思いまして、さっき視聴し終わりました。
 
 こちらは期待どおり、大きく改変されていましたね。米朝(吉朝)ヴァージョンでは、出だしはサバにあたって死んだ男と懇意の隠居のやりとりから始まるのですが、すぐにフグを食って死んだ若旦那のグループというか若旦那と幇間に視点が移ってサバ男と隠居はどっかに消えてしまう(三途の川の渡し船で一瞬復活しますが)。つまり視点(焦点?)が1)サバ・隠居、2)若旦那・幇間、3)閻魔の庁、4)地獄行き4人組と、順々に変わっていく。
 吉朝ヴァージョンを聴いたとき、このサバ男と隠居のエピソードは無しにして若旦那と幇間から始めても全然問題ないな、とぼんやり思ったんですが、枝雀ヴァージョンはそこが全く異なっていて、サバ男・隠居視点で閻魔の庁まで行ってしまうんですね(その代わり若旦那グループは遠景に退く)。小説的な見方からすれば、視点を固定している分、ストーリーに統一性が強まったように思います。つまり組曲じゃなくて長編になっている。(ついでにいえば、六道の辻での描写も大きく変えられている)
 三者三様のおかしさがあり、客観的な甲乙なんてのは存在しませんが、私個人の好みでは、構造的な強さで枝雀ヴァージョンがよかった。ただ枝雀版は、休憩を挟んでいるにしては後半の消耗ぶりが気になりました。
 そうそう、地獄に送られる4人組ですが、それぞれの特技を生かし協力してサバイバルしていくというその型は、まさに山田正紀ではありませんか。山田正紀の小説作法の元は地獄八景だったんですねえ(>違)(^^;


 ということで(どういうことだ)、寺山修司『さかさま童話史 ぼくが狼だった頃』に着手。120頁。半分超。

 

「なぞ転」第4話

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 4日(火)00時55分9秒
返信・引用 編集済
   第4回、視聴しました。いやー面白い。今回は完全に原作離れしましたね。というか「ねら学」要素が導入された? いいですねえ(笑) しかし釜中才蔵は絶対的後ろ盾があるんだから、冴木小次郎を押さえられないというシナリオは、やや甘いかも。親に言って転校させてしまえばいいだけだから。でも面白いです。次回が待ち遠しい(^^;

 
 はじめて聴きましたが、めちゃくちゃ面白かった。特に後半は、ひとりで「爆笑」してました(^^ゞ 客席で一番ウケていた落語家の形態模写の場面は、映像で見たかった。
 

「無意識の構造」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 3日(月)20時29分21秒
返信・引用 編集済
  > No.5136[元記事へ]

段野さん
>がんがん喋ってくる方がおられまして
 あ、その方、ユンギャン(と書くとなんか韓国人名みたいですな。フロイディアンに対するユンギャン)的には、段野さんに対して発現したアレンジメント(148p)なのかもしれませんぞ(>知ったばかりの言葉をすぐ使ってみるヤツ)(^^;。

 ところで昨日の補足ですが、理論的にはアニマ男性はペルソナの攻撃を受けるはず。ところが、草食男子において、そのようなことが起こっている、といったニュースを私は見たことがありません。で、あのような問いかけめいた書き込みをしたわけです。で、つらつら考えるに、草食男子は、日本社会の(元々弱かった)男性原理がさらに弱化してアニマが顕在化した現象だとしますと、その弱化によってペルソナ自体も弱化していると考えられます。実際は、男性原理が元々弱い日本的特殊性が主なのかもしれませんが、近頃の弱化もそれを後押ししているのは間違いなく、したがって、西欧では発生するであろうアニマ男性の神経症は、日本では起こりえないのではないか、と、本書を読んで思った次第。

 終章の、自我と自己の区別が、まだちょっと腹に嵌っていません。著者は「自己は世界」(169p)といってますから、現象学でいうジンメル的認識我とリット的全体我の区別を、最初思い浮かべていたのですが、その一方で、自己について「あくまで無意識に存在していて、意識化することの不可能なもの」(148p)とも言ってます。(世界と通底している)全体我は、意識には最初見えていませんが現象学的還元によって見えてくるものなので、そこは違うのかな。いや、メルロ=ポンティによれば現象学的還元は漸近的で、それを繰り返すことでどんどん近づいていくものという捉え方で、いわばアキレスと亀の関係に等しく完全な自覚には永遠に至らないとするので、その意味では同じものかも。などとウロウロ考えているところ。このへんのところ、ユングの「自己」についてもうちょっと突っ込んで知りたいと思いました。私にでも分かる解説書をご教示頂ければ幸甚。
 てことで、河合隼雄『無意識の構造』(中公新書、77)読了。

 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 2月 3日(月)13時44分55秒
返信・引用
  >「肩の荷が下りました」
ありがとうございます。本当に肩の荷が下りました。
実は、何も調べないで、がんがん喋ってくる方がおられまして、辟易しておりました。分からなかったら、ちょっと調べれば済むことなのに、「知りませんでした」を連発されるのです。調べれば分かることなんですけど。で、知らないことを武器に、がんがん喋る、まるで知らないことが有利と言う感じです。まあ、世の中、知らないことも、多々ありますが、それを武器にするのは……かな、と、思った次第です。(知らないこと多いですが)
 

アニマ男性

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 3日(月)00時32分24秒
返信・引用 編集済
  『無意識の構造』は145頁。あと40頁。
 ユングは男性性と女性性の相互作用で説明するようなのですが、著者によると、近年、アニマ男性が増えてきていたりと(草食男子を予見?)、人間の意識は「両性具有的な方向へと向かっている」のだが、「身体的に両性具有ということはまず存在しない」「実現は不能なのかもしれない」と考えているようです(草食男子ゆえの神経症ってあるのかな)。
 これは著者の時代(的限界)性ではないでしょうか。もし、著者(というのは河合ですよ)が今日のこの時代に生きていたらどうでしょう。医療的に可能化する日は案外近いような気がします。すでにSFでは可能となっている。ただし肉体と意識の両性具有的連関をシリアスに考究したSFは、寡聞にしてまだないように思いますが。ユング心理学的に面白い時代になってきたのかも。

 
 どっちのヴァージョンがいいですか? どっちもよろしおますなあ。
 

段野さん

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 2日(日)21時20分36秒
返信・引用 編集済
  > No.5133[元記事へ]

>雰囲気を出したかったのですが、逆効果だったかも。
 そんなことはありません。全然オッケーでしょう。くだんの前所有者氏の考え方が間違っていただけです。調べることほど楽しいことはありません。
 いずれにしろ、読書に地図帳と百科事典は必携ですよね。昔はやたら重くて難儀しましたが、いまはネットがあるので「肩の荷が下りました」。
 あ、小林泰三さんは、電卓片手に読書するらしいです。というか、電卓持たずに読書する奴がいるのか、信じられない、と驚かれていました(^^;
 

管理人様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 2月 2日(日)17時03分31秒
返信・引用
  >*追記。「言語連想検査」で被験者が言った言葉「へっつい」の横に「かまど」
>無駄な労力を使わされたのにキレての捨て台詞
とすれば、私は自分の作品で、京都弁「おくどはん」を連発しました。「かまど」のことを、京都、一部大津地域では、「おくどはん」と言います。とすれば、読まされた方は、キレてキレて読む気がしなくなった可能性が出てきました。ううむ、変にその地域の言い方を連発すると、やばいのかも知れません。(滅多に見ないテレビ「軍師・官兵衛」では、播磨地方の語り口はなかったです)
雰囲気を出したかったのですが、逆効果だったかも。心せねば、と思いました。
 

  > No.5131[元記事へ]

w1allenさん
 私はまだ15号しか完読していませんが、月刊つまりほぼ1年半弱、毎号あのボリュームと知的密度を維持してこられ、さらに継続していこうとされているのですから、これは壮大な企てというべきですね。編集氏(お三方の持ち回りでしょうか)の精神的消耗は察するに余りあります。w1allenさんもどうぞお気をつけて。

 さて、『無意識の構造』は100頁。半分きました。
 ところでこの本、もう忘れちゃいましたが、どうも古本屋で入手したんであったらしく、鉛筆で傍線が引かれていたり、書き込みがなされたりしてありました。実は私、こういうの嫌いじゃありません。なぜここに線を引いたのか、を考えながら読むと、前所有者の読解が少しだけ見えてくるんですよね。たまに「なるほど!」と教えられることもあったりして、これぞ古本読みの愉楽とさえ思われます。
 今回は残念ながら、そんな驚きは得られず、むしろ「いや、そこじゃなくて、引くならこっちでしょ」となることが多かったのですが*、60頁あたりからは当の傍線すらなくなっちゃいました。読むのやめてしまわれたのかも(^^;
*追記。「言語連想検査」で被験者が言った言葉「へっつい」の横に「かまど」と書き込みがあって、「舎田(ママ)出の人かもしれない」とも(笑)。へっついが判らなくて調べたんでしょうな。で、無駄な労力を使わされたのにキレての捨て台詞でしょうか(>おい)(^^;

 
 
  > No.5130[元記事へ]

管理人様

ネットと新聞の関係は、微妙ですね。新聞社の本音は、有料会員を増やしたいところ
なのでしょうが、なかなか上手くいかないようですね。
件の編集氏は、私ではないのですが、お気遣い誠にありがとうございます。
皆様の応援によって、成り立っているネット雑誌ですので。
では、失礼します。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/2459/novel.htm

 

Re: 本日の朝日新聞に

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 2月 1日(土)00時25分23秒
返信・引用 編集済
  > No.5129[元記事へ]

w1allenさん
 ああ、それです、それです。お知らせありがとうございました。
 それにしても(以前にも書きましたが)朝日はケチケチしていますね。読売もサンケイも毎日も、ここまでヒドくないです(日経は朝日と同じ)。
 さて、メール拝見しました。安部公房ファンのための無料月刊誌「もぐら通信」第17号の発行が、編集員の健康上の理由により少し遅れるとのこと(→twitter)、この編集氏がw1allenさんなのかどうか、判断する材料を持ち合わせていませんけれども(違っていたら申し訳ありません)、いずれにしましても、どうぞ無理をなさらず、くれぐれもご自愛下さいますよう。もっとも、個人的には少しくらい遅れてくれたほうがありがたいくらいです(>おい)m(__)m

 
 こうやってデュエットすると、和田アキ子の声、ずいぶんキレが悪くなっちゃってるのがまるわかりになりますね。これは老化じゃなくてトレーニング不足でしょう。せっかくの才能がテレビ業界に骨抜きにされてしまった点で、西村京太郎と同じですな。

 
 


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