ヘリコニア過去ログ1403


Re: 寺山修司と舞茸と戸舞賛歌

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月31日(月)22時35分20秒
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  > No.5292[元記事へ]

トマトさん
>実は私もダーウィンが来た、が好きではないんです
 おお、お仲間(^^)。
 そのうち日本でも「進化論は間違っている」と言い出す人が出てくるかもしれませんね。「トサカレンカクの行動パターンから、鳥類にも夫婦愛、親子愛があることが確認された」とか(^^;

 それで思い出しました。進化論に関して、SF作家のラファティが面白いことを言ってまして、爬虫類から進化して鳥類が生れたのですが、翼が次第に発達していって立派になり空を飛べるようになるまでには、空も飛べないし走って逃げるにも邪魔な、帯に短しタスキに長し状態の、中途半端な翼の時期があったはずで、そんな中途半端な存在では逆に天敵の格好の餌食となり、絶滅したに違いない。したがって鳥類の翼は、時間をかけて今みたいになったんじゃなく、あるとき突然一斉に、にょきにょきと生え、飛べるようになったに違いない。でなければ、今日まで生き残れたはずがない、と主張しています(笑)。
 冗談みたいですが、実は今西錦司も同じことを言ってるんです→ラファティ進化論vs今西進化論
 考えたら確かにそうですよね。進化論て間違っているのでしょうか(>おい)(^^;

>よく明星や平凡なんかに載っていましたねー
 そんな雑誌を知っているところから推察するに、トマトさんは女が多い家族の中で育ったか、お姉さんがいらっしゃったんじゃないですか? というかオハナシではお姉さんが登場してましたね。

追記。改稿版拝読。ああ、ぐんとよくなりましたね。しかも30枚!

 

Re: 寺山修治と舞茸と戸舞賛歌

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月31日(月)19時50分55秒
返信・引用
  > No.5291[元記事へ]

実は私もダーウィンが来た、が好きではないんです。
やはりあの、なんかナレーションの「臭さ」というか、あの髭じいのダジャレなんででてくるんだって感じで嫌です。(笑)


原田真二、いましたね。
よく明星や平凡なんかに載っていましたねー。




 

Re: 寺山修治と舞茸と戸舞賛歌

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月30日(日)22時15分10秒
返信・引用 編集済
  > No.5290[元記事へ]

 ううー、新しいストリートビューは、酔いますねえ・・(重くなったし)

トマトさん
>当時の価格で二千円から三千円
 わ、今は10分の1ですね。というか、天然モノと栽培モノの違いですか。「本しめじ」と「しめじ」みたいな感じでしょうか。

 さて拝読。さっそくありがとうございます。なるほど、そういういきさつですか(笑)
>何かが色あせていった。
 という描写、妙にリアリティがありますなあ(>おい)(^^;

 ところで、嫌な気分になるのがわかりきっているので、見ないようにしているNHK「ダーウィンが来た」ですが、今日はついうっかり見てしまい、また嫌な気分に。
 今回はトサカレンカクという鳥の話で、この鳥、一妻多夫制と放送では紹介していて、一羽のメスのテリトリー内に、数羽のオスが、そのテリトリー内の小さなテリトリーで子育てをしている。ところが、はぐれメスというのがいて、それが子育て中のオスの、そのヒナを攻撃しに来る。オスはそれに抵抗し、そのうちメスも駆けつけ、はぐれメスを退散させる。なんとうるわしき夫婦愛、子を思う親の愛情。めでたしめでたし、というストーリーになっています。
 この擬人化が、私には腹立たしいのです。
 なぜはぐれメスがそういうことをするのかといえば、当然自己の遺伝子を残そうという本能です。ヒナを殺されたオスは、そこでスイッチが切り替わって、はぐれメスと交尾することができるようになるのです。
 番組は、むしろこっちの、はぐれメスが勝ったシチュエーションを放送すべきだと思うんですよね。
 ヒナが殺されるまでは抵抗していたオスが、殺された途端、(人間的表現をするなら)平然とはぐれメスと交尾するようになるはずです。
 その映像こそ、鳥類には意識というものがなく、したがって親子愛とか夫婦愛とか言うものではなく単に本能で行動しているだけであることがはっきり視聴者に理解できるはず。表面的には同一に見える行動が、実は全く違う機制によって発現したものであること。それを教えるのが本来のこの種の番組の存在意義ではないんでしょうか。
 科学番組のくせに「嘘」を教えているわけで、こんな番組を見て育つ子はどんなおとなになるのかと考えると、つまるところ物語で世界を理解しようとするおとなになってしまうんじゃないですか! というのは言いすぎですね。失礼しました(>おい)m(__)m
 

 

寺山修治と舞茸と戸舞賛歌

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月30日(日)16時38分52秒
返信・引用 編集済
    舞茸っていうのはかつては山あいの温泉地や繁華街にあるデパートの地下でザル一つ(イチゴパック一つ)が確か当時の価格で二千円から三千円かそれ以上で売られていて、ほとんど料亭行きでマツタケかそれ以上に以上に庶民とは無縁な存在でした。


 寺山修司というのは北東北の青森で生まれ奇しくも杉並区阿佐ヶ谷のしかも私が住んでいた下宿すぐそばの河北病院でなくなったのですね。
 そういえば阿佐ヶ谷という町には寺山的な「どことなく母親の子宮内部の羊水に満たされた」という擬似的な感覚を思い出させそうな、独特の時間と空間が流れることがありました。アングラ=擬似母性、擬似的なグレートマザーの子宮の蜃気楼といった感じはあけました。
 阿佐ヶ谷あのヘンは「C核派(W大系)バーサスKマル派(H大系)の乱闘の舞台にもなるところですが、ともに自分の居た学校に対する反発心、敵対心という意味では共通するものです。それを寺山的にいえば、寺山と唐十郎との乱闘騒ぎとも共通しともにアングラでありながらなぜか衝突してしまう・・・というところに「豊穣なるグレートマザー」から離れて荒野を放浪し、その荒野に空中楼閣的なグレートマザーの蜃気楼という舞台を作り上げたのではないかと感じます。


  そうそう、静岡ナンバーの白いブルーバードが来て、そして奥さんとお嬢さんそれに乗って静岡にいってしまったんですね・・・。 (^_^)v

以下はさーっと書いて読み直していないものです。(^_^;)
リンク先が読み直してあれこれ着色したのです(*^^*)

http://porcini.web.fc2.com/bistoro001.html

  浮世離れした戸舞賛歌、実は勤務する北関東県立博物館の事務に四方山妙子という若い事務員がいた。
  北関東県立第一女子高等学校、国立の北関東大学文学部卒歴史学科の四方山は髪が長くほっそりとした体系のいかにも文学少女といった女性の女性だ。ちなみに友達も少なくもちろん男性経験もない。そんなん彼女の数少ない「世界」というのは戸舞賛歌の著書「西洋史への招待シリーズ」や「モーツァルト心の旅シリーズ」だった。
  こうして二人は戸舞賛歌の家族の知らないところで親しげにマロニエ通りのコーヒー店、「カルチェラタン」なんかで話し込んでいた。もちろん四方山は戸舞賛歌に妻子がいることだって知っている。だから自分の気持ちを抑えてはいたものだ。一方の戸舞賛歌もかつてはあれだけ夢中になっては強引に村木沢という男性から奪い取った詩織だが、最近はどうも陳腐に感じられて仕方ない。事実上戸舞賛歌にとって妻詩織は「女中」か「使い走り』に過ぎない・・・そういう感覚だった。
そこに四方山妙子という初々しい女性が現れたのである。今時の若い女性にしては多分ジーパンを穿いたこともなさそうな、そんな如何にも戸舞賛歌好みの女性だった。
「悪いこと。」だとはわかっていた。しかし自制する自身というものは戸舞賛歌自身にはあった。それでも戸舞賛歌は時折四方山妙子をコーヒーに誘うのが楽しみになってしまった。
二人は戸舞賛歌の著書の話で盛り上がる。そして二人きりでマロニエ通りのレストラン「カフェ ドゥ ヴィエナ」のクラシックコンサートにも出かけた。
 そういう事実を隠し通すためにも戸舞賛歌は家では妻詩織をよく強く束縛し、詩織が自分の権利を自覚しないようにプレッシャーを掛けつづけた。そんな状態に詩織はたまらなくなり、静岡に居る母麗や兄良樹、そして東京の町田に居る妹綾香に自分のおかれている状況を打ち明けていたのだ。そして少しづつ荷物を運んでは戸舞家を出る準備をしていた。

 そしてついに詩織は娘香織を連れて兄良樹の車で戸舞家を脱出したのだ。
 この日、戸舞賛歌は単独登山で合図磐梯山に出かけていた。実は戸舞賛歌、単独で登山に行く人ではなくも誰かを強引に相棒として連行するのだがこのときは妻詩織に
「一人で合図磐梯山に行ってくる。」
と話していた。が実は一人ではなかった。先ほど話した四方山妙子が登山の格好をして、北関東駅で待っていたのである。
 そして登山を終えて急行あぶくまに二人で乗ってかえってくると、なんと戸舞家は家の中が火が消えたように沈まれかえっていた。ついに妻詩織と娘香織は裏切ったのである。 そのとき、戸舞賛歌はそれはショックだった。途方にくれた。どうしたらいいのかわからなかった。当然夕食の準備が出来ていると思っていたから・・・。
  そんな戸舞賛歌の脳裏にふと四方山妙子が浮かんだ。しかし彼女は自宅の両親とともに居る。電話するわけにも行かない。途方にくれた戸舞賛歌はその晩は近くのスーパー「ヨークベニマル」で幕の内弁当を買ってわびしい夕食過ごした。が夜がふけるにつれて淋しさがひしひしと募ってくる。どうしても四方山に電話せずには居られない。ついに「明日の仕事のことで」と四方山妙子に電話した。当時はケータイなどない時代だ。が四方山妙子の親御さんは戸舞賛歌を信用して電話をとりついでくれた。
「はい、もしもし、お電話変わりました。」
そういう四方山妙子の声を聞くと、戸舞賛歌は胸に火が灯ったにほっとした。
「うん、たいしたことはないんだが、明日、休み明けだからと思って電話したんだ。」と妙にぎこちない。翌日、戸舞賛歌は
「実は資料整理なんかで君に手伝って欲しい。、今晩家に来て欲しいんだが…。」
と四方山妙子を家に誘った。
そして戸舞家、火の消えたようにひっそりとしている。
「実は、女房が娘を連れて出て行っちゃったらしいんだ・・・。」
と戸舞賛歌は四方山に打ち明けた。その言葉を聴いて四方山は胸が弾む想いだった。「やったー。」と声を出して喜びたいところだった。そのぐらいうれしかった。そのうれしそうな気持ちは隠しようがなかった。彼女にとって初めての男だ。
「だったら私がお部屋の掃除やお料理、しますね。」
そううれしそうに言うと、張り切って料理を作り始めた。
「よかったら今晩、停まっていってくれないか・・・。」
と戸舞賛歌はいう。
「でも・・・。」
「そうだったね。君のご両親が・・・。」
ということでその日は四方山は自宅に帰った。

がその翌日、仕事が終わると二人は戸舞家に帰った。急いで買い物に出かけ、奥さん気取りの四方山は文字通りルンルン気分だ。そして別々に風呂に入り、そして別々の床にその晩は寝た。
そしてその次の晩も同じように四方山は戸舞賛歌の家に帰る。四方山の体に暑く火照るものを感じた。どうしても戸舞賛歌に抱かれたくて仕方ない・・・。風呂上り、パジャマ姿で戸舞賛歌とともにお茶を入れる。最初は父親と娘という関係のつもりだったが、四方山はすでに戸舞賛歌と未知の関係に入ったことに気がついた。もう後戻りできない・・・。胸がどきどきと高鳴る・・・。
「ねぇ、戸舞さん、わたしのこと、抱いてもいいのよ。」
とふとそんな言葉が口から漏れた。風呂上りのぱパジャマ姿の戸舞賛歌は両腕を四方山の方に絡めた。そして食堂の隣の和室の、敷かれた布団の上で二人の体は熱く絡み合った・・・。
  ついに四方山は男に体を許してしまった。避妊具はつけていなかった戸舞賛歌だが、さすがに中年の域に達し、外での射精に成功していた。戸舞賛歌ももう子供はうんざりという気持ちだったのだ。
 そして戸舞賛歌と四方山妙子の体液のにおいが妙にきつく鼻を突く空間が広がった。何かが色あせていった。あたりは漆黒だ。その真っ暗な中でふと四方山は不安になった。自分が戸舞賛歌とある運命の中に投げ出されてしまっていることに気がついたのである。
「これから私たち、どうなるんだろうね。」
と戸舞賛歌に訪ねる。戸舞賛歌は無言のままだ。
  そして翌朝、早くも何か二人の間に荒涼とした重苦しい空気が漂い始めた。義務的に朝食の準備をする四方山はようやく戸舞賛歌とのことが周囲のうわさになっているかもしれないということに気がついた。それと同時に自分の親に対してすまないことをしたという罪悪感にも襲われた。トースターでトーストを焼き、そしてホテル流の朝食にした。
「ボクはご飯に味噌汁のほうがいいんだけどなぁ・・・。」
そういう戸舞賛歌が今度はどうしようもなく鬱陶しく感じられた。出来ることならこの戸舞賛歌という男の前から逃げ出したい・・・そんな気持ちだ。しかしもう二人はある運命で括られていることに気がついた。
 その次の晩、四方山は自宅に帰った。自宅では案の定、彼女が男の子のところに泊まってきたのではないかと勘ぐった。戸舞賛歌と一緒に居るとあれだけ鬱陶しく感じたが、離れると今度は会わずに居られない自分に気がついた。そして晩は再び戸舞家に止まった。また二人は夜が待ちきれないとばかりに体を絡めあったが、この前のような「強烈な感覚」はなかった。
  そしてその次の日、四方山は自宅に帰る。自宅の親には無言のうちに
「いいじゃない、もう大人なんだから、男の人のところにいっていたって・・・。」
と親の視線を跳ね返す。親は
「もう妙子もそんな年頃になってしまったんだなぁ・・・。」
と寂しさが胸を掠めていく。
 そしてその日四方山妙子は再び戸舞家に停まる。実際に戸舞家は四方山妙子が居なければ回転していかなかった。
  そんなある日、静岡ナンバーの白いブルーバードが停まった。
「・・・なんだかんだいってもお父さんを一人で置いては行けない・・・。」
それが詩織と香織の気持ちだったが家に入るとそこにはエプロン姿の四方山妙子が居た。詩織は心臓が凍りつく想いだった。香織も「裏切られた」ということを実感した。「あの人ってそういう人だったの。」
もう弁護士を立ててでも出来るだけ慰謝料を高くとって別れてやる・・・そんな憤りでいっぱいのまま、白いブルーバードは静岡に向かった。
「やっぱり村木沢さんと一緒になるべきだったんだよ、詩織。お前は・・・。」
と後悔するように詩織の兄良樹はそういう。まもなく白いブルーバードは静岡に着き、ピンクレディの母校「常葉学園」ちかくの家に着いた。
「・・・そうだったの。そんな人だったの・・・。」
詩織の母麗はことの一部始終を聴いてくちびるを震わせて憤った。
「香織ちゃん、きよういからママとここに暮らしなさい。」
と麗はいう。
「香織の転校の準備もしなくちゃいけないわね。」
「オレのカミサンにやってもらうよ。詩織、お前はゆっくりしてろよ。」
静岡の明るく広々とした空気のなか、香織はもうこの町で自分が生きていくことになるんだなぁ・・・と実感した。

  さて、北関東市の戸舞家、戸舞賛歌と四方山妙子の関係は次第に冷え込んでいった。戸舞家ではお互いあまりにも気を使いすぎて息が詰まりそうだ。同棲とは要するに日常生活に赤の他人が入り込んでくるということを二人とも改めて知った。
「・・・もうわたし、ここに来ないわ。これから戸舞さんとわたしは博物館の学芸員と事務員という関係にしましょいう。」
そう四方山妙子から切り出した。戸舞賛歌は黙って首を縦に振った。

その日から四方山妙子は戸舞家に来なくなった。そして戸舞賛歌に寂しさばかりが襲い掛かる。一人での夕食、そして入浴・・・家がまったく火が消えたようだ。そんななか、戸舞賛歌の脳裏に浮かぶのは妻詩織と娘香織の屈託のない笑顔ばかりだ。懐かしくもいとおしい。しかしどうすることも出来ない・・・。
「そういえば舞茸ご飯だったなぁ・・・。」
あの舞茸は隣の杜鳴(となり)さんからもらったものだった。杜鳴さんはまったくつまらない市役所の役人だし、そこのうちの連中ときたらまったく学歴も教養もない下等な人間たちだ。そんな下等な人間と妻詩織が付き合うことは戸舞賛歌として許せなかった。少なくとも自分の書いたモーツァルトシリーズの最初の巻ぐらい読んでおけと馬鹿にするように見下げて応対したものだ。
しかし今となればと隣の杜鳴家の団欒がうらやましい・・・。

  一方静岡、戸舞賛歌と離れて日が経つにつれ、戸舞賛歌と家が心配になる詩織だった。村木沢さんの胸に飛び込めるものなら飛び込みたい・・・しかしそれは今となってはむりな話だ。たしかに戸舞賛歌とではなく村木沢さんと一緒になるべきだったし、村木沢さんとあのような別れ方をしたこと自体、村木沢さんを大きく傷つけてしまったことを改めて思い知った詩織だ。そしてそのことを娘香織にも打ち明けた。そして受話器をとった。ケータイなどのない時代だ。戸舞家に電話した。心臓がバコバコな詩織だ。

  北関東の戸舞家、火の消えたような虚しい静寂の中に電話のベルが響き渡る。
「はい、もしもしトマイです。」
と戸舞賛歌が受話器をとる。
「あ、お父さん、」
「ああ、ママか。」
二人の間に暖かいものが通じた。
「ママ、すぐに帰ってきてくれ。」
「うん。」
しばらく二人の間に言葉はなかった。がやがて詩織が
「今日はダメよ。あした新幹線で東京に行って、それから上野に行ってそこ急行ざおうかあぶくまに乗ってだから明日の午後になるよ。」「わかった。、本当に帰ってきてくれるね。」
「うん。香織もよ。」
詩織にはもう戸舞家にあの女がいないことはわかった。そしてその翌日、新幹線でなく、白いブルーバードは詩織の母麗と詩織の兄良樹夫妻とともに五人を乗せて東名高速に入った。

http://porcini.web.fc2.com/bistoro001.html

 

Re: 戸舞家の最高法院

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月30日(日)11時57分15秒
返信・引用
  > No.5282[元記事へ]

トマトさん
 遅くなりましたが拝読しました。
 まいたけを食べる習慣は、当地方ではスーパーに並ぶまではなかったですね(70年代末か80年代初め頃だったような)。ウィキペディアをみたら「人工栽培が盛んになる前は南関東の照葉樹林地帯以南では食習慣は一般的ではなかった」とあります。
 それはさておき、トマイ家から奥さんと娘が出ていったあと、一時居た若いお姉さんは、トマイサンカとどういう関係だったのでしょうか。そのオハナシも読みたいなあ(^^;
 

Re: 日本人は、科学の発展に寄与できないのか?

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月29日(土)23時00分7秒
返信・引用 編集済
  > No.5286[元記事へ]

w1allenさん
>私は個々の独立した案件
>であると捉える立場をとります。対して、管理人様は、それらを総合的に捉え、事件が
>起きた要因・病理などまでに遡って追及されようとしているのだろうと思いました。
 そうなりますかね。文化の差異というのは必ずあると考えています。したがって個々の人間は文化内存在として、程度の差はあれ、その影響を受けている、というのが私の考えの前提にありますねえ。やはり個人は、独立した自由人ではありえない存在なんじゃないでしょうか。この点がw1allenさんとの、根本的な相違点かもしれませんね。
 あ、しかし文化は超個人的存在物であってアポステリオリに身につけるものなので、生物的な日本人も外国で大きくなれば、その国の文化内存在者となる、もともと生まれてきた幼児は白紙というのが私の立場。嫌韓・嫌中みたいなアプリオリ(生得的)な区別を認める立場とは一緒にしないで下さいね(^^;

>一神教がそんなに科学に貢献したかな?
 これはまあ、前回も言いましたが、或る傾向(というのは在るというのが私の立場)を表象するラベルのようなものくらいに考えたほうがいいかもです。
 しかし、
>科学が盛んだったギリシアは多神教でした。
>また、科学が窒息しそうだった中世ヨーロッパのことも思い出す必要があります。
>(代わりに、発展したのがイスラム世界だと思います)
>ガリレオの宗教裁判も、そんなに昔のことではないと思います。
 これらは、なるほどなあ、と示唆されるところ大です。まず私の中では、科学といえば近代科学なので、そこまで広げて考えていませんでした。で、いま「近代科学」ってなんだろう、という疑問に逢着させられたところです(>おい)(汗)
 中世ヨーロッパのローマ教会はマリアをグレートマザーとする多神教という説があります(ギリシャ正教も)。進化論を教えない州は、記憶で言いますがカトリックの根強い南部だったような。そうなると真の一神教はプロテスタントなのかも。となると、一神教的なプロテスタンティズム(厳密にはピューリタニズム)が資本主義を育んだのと同じ機制が、近代科学をも育んだのかな、とか、いろいろ浮かんできて、大変楽しいです(^^;
 ゆっくり考えてみたいと思います。ありがとうございました。


 

Re: 寺山修司が見た袴田巌

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月29日(土)22時04分1秒
返信・引用 編集済
  トマトさん
>「豚箱の歌」昭和のあの世界の情景をよく表れていますね…
 昭和は昭和ですが、もっと絞れば、60年代の昭和でしょうね。70年代に入ると、安定成長期で日本も裕福になってきて、世相もすこし緩んできますよね。

>豊穣のグレートマザーから離れて不毛の荒野を彷徨う男性原理ということになるかも?
 おお、それまさに寺山修司の世界を言い得て妙です。
「書を捨てよ、街へ出よう」とか「家出のすすめ」とか、なぜそう言いつづけたのか、その根源にあるのは「母の引力」へのアンビバレンツ(愛憎背反)です(それは《故郷》へのアンビバレンツでもある→「誰か故郷を想はざる」)。
 もちろん、直接的には父出征後母が出稼ぎに出たため、6歳で親類に預けられ、父戦死のため10歳から母子家庭だった寺山の特殊条件なのですが、それが読者の広範な支持を得られたのは、《グレートマザーの引力》へのアンビバレンツとしての「男性原理」という《元型》が、読者の中にも存在するからかもしれないなあ、と思いました。

 荒巻義雄『空白の黙示録』(ノンノベル、82)
 荒巻義雄『空白の失楽園』(ノンノベル、84)
 読了。ひきつづき、『空白のメソポタミア』に着手。
 こうなったら、もうね、毒を食らわば皿まで、ですよ(どういうこっちゃ)(^^;
 
 

Re: 日本人は、科学の発展に寄与できないのか?

 投稿者:w1allen  投稿日:2014年 3月29日(土)19時28分22秒
返信・引用
  > No.5277[元記事へ]

管理人様

こちらから話題を振っておいて、ここ数日書き込めずすみませんでした。
雑然とした文章でしたが、丁寧にコメントして頂き、ありがとうございます。

あえて単純に白黒を付けてみて、近似解を求める手法は、自然科学でも見られる方法で、
とても有用なやり方だと思います。

バスの運転手の問題や二大科学ゴシップなどについては、私は個々の独立した案件
であると捉える立場をとります。対して、管理人様は、それらを総合的に捉え、事件が
起きた要因・病理などまでに遡って追及されようとしているのだろうと思いました。
そういった時に、日本人の宗教観や組織論などを援用して、論じられていますね。


書いていて思ったのですが、一神教がそんなに科学に貢献したかな?ということでした。
いや、勿論貢献した部分が多いと思いますが、科学が盛んだったギリシアは多神教でした。
また、科学が窒息しそうだった中世ヨーロッパのことも思い出す必要があります。
(代わりに、発展したのがイスラム世界だと思います)
ガリレオの宗教裁判も、そんなに昔のことではないと思います。

また、アメリカのある州では、進化論を教えないそうです。一方、進化論などを自由に学べる環境にある日本人は、大きなアドバンテージを持っていると思います。


いや、脇道にそれました。
日本の科学における捏造・偽造の要因、事件、マスコミとの関係、それらを追及される立場を取って、日本人の病理、思想、人事論をより深く見つめるということも大事であろうと思います。

一方、私は、まだ審議中であるので、一切合切がハッキリするまで、コメントは差し控えたいと思います。

多分、これらの相違は、事件に関する態度の違いということだと思っています。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/2459/novel.htm

 

Re: 寺山修司が見た袴田巌

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月29日(土)13時08分30秒
返信・引用
  > No.5284[元記事へ]

しかし「豚箱の歌」昭和のあの世界の情景をよく表れていますね…。

ユング派でいうと、豊穣のグレートマザーから離れて不毛の荒野を彷徨う男性原理ということになるかも?


取調べというのは要は、
「子供が、親が与えた覚えのないコアラのマーチを手に持って食べていた。」
ようなものですね。
親は子供が親の小銭入れからくすねて買ったのか、それとも誰か弱そうな友達から巻き上げたのか、またはだれかにもらったのか事実関係を確認なければなりません。
もし親の小銭入れからくすねたとして、子供がそれを認めて
「ごめんなさい。」
と謝ったら、
「もうそういうことは絶対にしないでね。もしコアラのマーチがほしかったら、言ってね。あなたは大事な子だから。」
といって信頼関係を確認します。基本的にはそれと同じですが…。

 とにかく逮捕状を執行されてしまったという時点でもう運命は司法警察員という公権力の許にいる立場の人にの手に委ねられてしまった…ということです。司法警察員は公権力の許にいるので被疑者に対して「親」の立場。司法警察員が「事実」だと思ったことを硬軟織り交ぜて「事実」と思い込ませようとするし、また被疑者の前で自分が事実だと思ったことを員面調書という文書にするんですが、司法警察員が被疑者の判断力を麻痺されて自分に同意させることはやはり赤子のひねるようなもの、と言わざるを得ない...ですね。そしてその「ノリ」で員面調書に署名させれば終わるのです。逆を返せば被疑者はとにかく員面調書に署名すれば「締め付け」から解放され楽になれる、自分のすべきことは員面調書に署名することと、思い込んでしまうんですね。どうしても。被疑者は人間という弱く不完全な生き物だから。しかし袴田氏は員面調書にも署名しなかったんですね。

  ところで司法警察員も人間という弱く不完全な生き物なので、公権力の「誤作動」が生じるのはどうしても仕方ないわけであり、誰にでも無実の罪で逮捕状を執行され、事実と異なる内容の員面調書に署名させられてしまうという可能性はあるわけです。

 で、どこの署でも日常的なヤンキーによるセコイ窃盗や傷害だったら適当にお灸を据えて帰してやればいいわけですが、強殺などのような事件ではマスコミや他署も注目されているわけであり、署全体がそういう視線に晒されているわけです。つまり署全体がそういう空気で、その署という母艦の搭乗員である司法警察員は母艦と命運を共にしているんです。よってそのマスコミや他署などの視線が、署という母艦の航路に影響し、そして母艦の搭乗員である司法警察員の判断力にも作用することは充分ありうることですね…。
 

寺山修司が見た袴田巌

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月28日(金)21時09分32秒
返信・引用 編集済
   そういえば、と思い出して、寺山修司の『スポーツ版裏町人生』を出してきました。やはりありました。袴田巌さんのことが書かれていました。
 この記事によれば、袴田さんは収監される以前からパンチドランカーだったのかもしれませんね。でも、もしそうだとしたら、認知症とよく似た症状である(とウィキペディアにある)パンチドランカーの方を、警察は、証拠捏造で罪に陥れようとした(のかもしれない)ことになるわけです。これはやり易いぞ、とほくそ笑んだのでしょうか。うわ−、イヤですねえ。





 

Re: 戸舞家の最高法院

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月28日(金)21時07分10秒
返信・引用
  > No.5282[元記事へ]

トマトさん
>(外部と情報のやり取りが遮断された)密室の中で捜査機関が作り上げた事実関係とかいう名前をつけられた「シナリオ」
 これはよく耳にしますし、絶対、実際にあったことのようですね。
 私の知り合いから直接聞いた話ですが、選挙運動で引っ張られたことがあって、とりあえず外部と遮断されてねちねちと責められるんだそうです。で、そのうちに「もうどうでもいい、とにかく早く家に帰りたい」という感じになってきて、警察の言うとおり供述書にサインしてしまったそうです。
 その点、袴田氏は終始一貫否定したようで、これは凄いと思いました。

 

戸舞家の最高法院

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月28日(金)14時13分13秒
返信・引用 編集済
  うーん、袴田氏の例、司法界の闇もからんでいるような?もしかしから、ですが?まあ、
まあ、司法界の人間も不完全な人間ですから、栄転や左遷がらみで判決が偏向するのは不可避でしょうね、どうしても、その上当時司法界は完全な完全な男権社会でしたから...。

警察や検察といった捜査機関が絶対的に支配する(外部と情報のやり取りが遮断された)密室の中で捜査機関が作り上げた事実関係とかいう名前をつけられた「シナリオ」というはオハナシを被疑者(被告人)が真実と思い込んでしまう…そういう可能性は大いにありますね。

   いわば戸舞家という外部と情報のやり取りが遮断された密室では戸舞賛歌が
「ピンクレディはアメリカの歌手」
といったら戸舞家の人々はアメリカの歌手だと思い込んでしまうようなものです。被疑者(被告人)の方は逮捕直後は警察に、送検後は検察に、そして起訴後は裁判所に運命を支配されるものです。だから警察検察の支配から離れて初めて警察or検察が施したマインドコントロールから解かれては、やってもいない罪を否認する場合もよくありますよね...。
しかし人間はまったく不完全で不可解な存在なので間違いが起きるのも当然なのですが、しかし人間と人間の集合体である社会というものの本質というのがますます不可解に感じられますね。とにかく人間はいくら頑張っても不完全で神にはなれないです。

  で、戸舞さんちの香織ちゃんがあまりに不自然な戸舞家に居るのに見るに見かねて第三者の村木沢さんが「香織ちゃんを自分のうちの子として受け入れ引き取ってあげよう。」としたら、戸舞さんちの香織ちゃんから村木沢さんちの香織ちゃんになりか、戸舞賛歌のマインドコントロールから解放され、もうピンクレディはアメリカの歌手なんて思わなくなるでしょう。


それで、オハナシですが...☆


六歳まで、「官舎アパート」にいた。家賃は安いが結局のところみんな同じ職場の面々が住んでいるわけで、親父の上司もいれば部下もいたりする。だから親父は一刻も早くこの官舎アパートから脱出したがっていた。
さてこの官舎アパートの西から二番目の四階(最上階)に、大学生に息子さんがいる親父の上司Aさんが住んでいた。まだ小学校に上がる以前の私はAさんの息子さんに『さなぎの食べ方』を教わった記憶がある。官舎の庭の花壇の土中に赤茶色の光沢のあるさなぎがあって、それをカラ煎りやてんぷらに擦るとおいしいのだという。多分ヨトウ虫のさなぎだと思うが、たしかなにAさんとこのお兄さんと一緒に七輪か何かでそのさなぎをあぶってアパートの子供たちと食べたらおいしかったっていう記憶はある。ちなみにビートルズのナンバーはこのAさんのお兄さんから教えてもらった。
それはさておき親父の悲願(?)でもある官舎を脱出できたのは私が小学校に上がる直前、姉が小学校三年生になる直前のことだった。つまり三月末か四月はじめで、私と父と姉は引越しトラックの荷台に乗り、母は日傘をさしてあるいて新居までいった。
  といっても官舎と引越し先の新居までは歩いても10分かせいぜい15分、官舎のある観音寺町はごちゃごちゃと住宅が込み合った町並みで、近くに魚屋と八百屋がある。一方新居の東松原は農地の中にポツリポツリと民家が建っているそんな感じの家だ。新居はもちろん中古住宅。前の持ち主は材木屋の息子だったということで木材だけはいい物を使っていた。ちなみに転じよう板はすべて正目だった。
  そして2年か3年か後に西隣の空き地に家が建った。大工さんがきて、そして材木を組み立てて、そして家が出来た。そして真新しい家にトラックが横付けされ、ある家族がやってきた。それが戸舞さんだ。変わった家だった。よく「トマイふう」の歌が流れてい来る。トマイ風の歌というのはクラシック音楽だか、本当によく聞こえてくる。しかもご主人平日昼間から家にいる。何か近寄りがたい独特の雰囲気のある人だった。この戸舞賛歌さん、博物館の学芸員だという。そして女の子が一人居る。香織ちゃんという子で、この子はテレビのことも何にも知らなかった。だから香織ちゃんと一緒に遊んだという記憶はほとんどない。そして何よりもびっくりしたのは香織ちゃんのお父さん、つまり戸舞賛歌がよく香織ちゃんだけではなく香りちゃんのママ(詩織さん)のことも怒っているのである。どういう理由で怒っているのかというと、やれテレビを勝手に見た、流行歌(「長崎は今日も雨だった」だったとか「恋の季節」だとか)を聴いた、さらには登山に同行するのを嫌がったとかそんな理由で大人である香織ちゃんのママをしかりつけるのである。
  これにはうちの親父もママも
「まったく隣のオヤジ、なんだろうね。奥さんも娘さんもかわいそうにね。」
と同情していたが、それは私だって同じだ。子供ながらに香織ちゃんや香織ちゃんのママを可愛そうに思った。
 しかし隣のトマイさん一家、いわゆる地元社会というものにまったく溶け込まなかった。東松原一丁目二丁目三丁目を「下東松原」というが、この下東松原の盆踊りといえば一大イベントだ。香織ちゃんのママは町内会の最低限のことは擦るけど、それ以上のことはしかった。青い「下東松原」と書いた法被を着るのが子供たちの憧れだったが、香織ちゃんはその盆踊りにも参加させてもらえなかった。
 一方で学校の先生たちには香織ちゃんのパパ、つまり隣のオヤジ戸舞賛歌の評価は高かった。何しろ天下の東大を出ていて、「西洋史への招待」「モーツァルト、心の旅」という本を書いていて、そしてそういう本を学校にプレゼントして…ときわめて高評価だ。 ちなみにウチの親父は市職員、香織ちゃんのパパは県立博物館の学芸員だから県の職員だ。実はかつて北関東市役所の人間と北関東県庁の人間とは結構仲が悪い。たしかに兼の職員のほうが市の職員に比べて品もよかったし一体に高学歴だ。それだけでも何か西隣のトマイさんとは火花を散らしかねないのだか、それはさておきうちのママとトマイさんちの奥さんとはそれは玄関先で立ち話なんぞもする。だから戸舞家に関するある程度の情報というものも入ってきた。それによると戸舞家もここに引っ越してくるまでは県職員住宅(つまり官舎)にいたということ。戸舞さんちの奥さんの実家は静岡で、かつて県の官舎に居たときは何度か静岡に帰ったということを話していた。
「隣の奥さんさぁ、静岡の事話す時、とっても懐かしそうで目がきらきらするんだ。きっと静岡に帰りたいんだろうね。あのご主人じゃあね。」
「そりそうだろう。あのオヤジじゃなぁ。いっくら東大出ていたってあれじゃあ俺だって逃げ出したくなるよ。」と親父が丸首にステテコ、ラクダ色の腹巻姿でそういう。ママは親父の服装がヤなのか「でもさぁ隣のご主人、アンタみたいな格好はしていないけどね−っ。」
とチクリと刺す。
 さて、当時はまだスーパーには舞茸は売っていなかった。売っているとすれば当時のうちの親父の勤め先である北関東市役所千歳出張所があるというかなり田舎の万屋の店先だ。しかし値段が半端じゃなくて高い。とっても高卒地方公務員の家族の口に入るものではなかった。つまり当時の舞茸というのはすべて山から取ってきたものばかりなのである。ところがある日、その貴重品である舞茸をもらった。もちろん日持ちがしないので、たまたまばったり出会ったお隣のトマイさんちの奥さんにうちのママが舞茸を分けてあげた。トマイさんちのおくさんはそれはとても喜んだという。その晩うちの夕餉は舞茸てんぷらだったが、トマイさんちでは舞茸炊き込みご飯にして、そしてトマイさんちの奥さんがうちにも舞茸ご飯をもってきてくれた。そこでウチも舞茸てんぷらを少し分けてあげた。
  こうして純北関東人であるうちのママと静岡人であるトマイさんちの奥さんとの交流が生まれたのだが、しかし例によってこの二人の仲に戸舞賛歌が割り込んできた。戸舞賛歌が自分の細君と隣の低学歴無教養な地方公務員のカミサンとが接点を持ったと知るやいなや二人の間に割り込んできて、そしてうちに自らの著書「モーツァルト 心の中の旅 第一巻 ザルツブルク」を持ってきたのだ。
「うちの家族と付き合うんだったらこのくらいの本は読んでおけ。」
という態度だったらしい。

 そしてついにある日、静岡ナンバーの白い車が停まって、そして香織ちゃんと香織ちゃんのママを乗せて去っていってしまったのだ。 その2.3日後、隣の戸舞家には若いお姉さんがしばらく来ていて、洗濯や食事の支度をしていたが、そんな最中、静岡ナンバーの白い組め間が来て、そこから降りてきた香織ちゃんのママは何も言わずにすごい怖い顔をしてまた車に乗ってそして去ってしまった。
 その後何日かは隣のトマイさんちにその若いお姉さんが来ていたけどもそのうち来なくなった。それからそれから…香織ちゃんはDNA鑑定の結果、香織ちゃんママが静岡で付き合っていた村木沢さんの子であることがわかり、村木沢家の子になった、というオハナシと、香織ちゃんママと香織ちゃんが戻ってきて戸舞家は香織ちゃんママと香織ちゃんの天下になったというオハナシとがあるのだ。
 

下から上へお読み下さい

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月28日(金)01時13分37秒
返信・引用 編集済
   巽昌章@kumonoaruji(ミステリ評論家ですが本職は弁護士さんです。為念)
 朝日新聞元記事
 元高検検事長ですら基準原則(判例)をその場の都合で簡単になしくずしにしてしまう八百万の神の国。
 

認知症なんですよね

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月27日(木)20時17分9秒
返信・引用 編集済
   袴田死刑囚の姉ら拘置所到着 「どうしても会いたい」
 袴田さん(78歳)は、30歳で収監されて以来、48年間の拘置所暮らしで、認知症になってしまったんですよね。
 現状、再審が認められただけで、刑の執行停止(釈放)はされましたが、静岡地検は、かかる刑の執行停止(釈放)に対して、即日不服申し立てをするとのことです。
 いずれにしましても、人の一生って、何なんだろう、人はいったい何のために生きているんだろう、と思ってしまいました。

 「この日の静岡地裁決定は弁護側鑑定について、「検査方法に再現性もあり、より信頼性の高い方法を用いている」と指摘。「検察側主張によっても信用性は失われない」と判断した。そのうえで、犯行時に元被告が着ていたとされる着衣は「後日捏造された疑いがぬぐえない」と指摘。DNA型鑑定の証拠が過去の裁判で提出されていれば、「死刑囚が有罪との判断に到達しなかった」と述べ、刑事訴訟法上の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」にあたると結論づけた」袴田事件の再審開始決定、釈放へ 証拠「捏造の疑い」

 これが事実ならば、そういう捏造をした警察官(ということになりますよね)は、いったいどういうつもりで、そんなことをしたのか、とても気になります。
「袴田が犯人なのは間違いないのだから、証拠は適当にそろえておけばええねん」という感じでしょうか。ひょっとしたら彼は、「正義感」にかられて、袴田さんが間違っても無実とならないよう、そんなことをしたのかも分かりません。
 もしそういうことなら、それは小保方さんの捏造と同構造というべきでしょう。これはその場その場で、原則や基準が簡単にないがしろにされてしまう、日本の八百万神的な特性の大変悪い面ですね。

 それはさておき、私が警察小説を重要視するのは、こう言う事例をフィクションのかたちで再検討できる形式だからにほかなりません。警察小説はすべからく警官個人の心の闇、また警察機構の人間関係の網の目(組織)の闇を顕在化してみせてくれるものであるべきです。間違っても警察が広報で取り上げてくれるような物語を作っては駄目なんじゃないでしょうか。そういうのは「警察小説」の名に値しないと私は思います。
 

 

Re: いろいろ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月26日(水)13時10分38秒
返信・引用
  > No.5278[元記事へ]

トマトさん
>役所は市民の親代わりになって対応するので大変ですね。
 1号機、2号機が所在する町は、現在まだ誰も居住することができないんですよね。しかし町役場は存在し、機能しているわけで、これは日本の八百万神的な特性の大変良い面ですね。アメリカだったら、とうに役所は解散してしまっているんじゃないかな。ハリケーン・カトリーナのとき、そんな感じだったんじゃなかったでしょうか。
 いま思いつきましたが、日本沈没後の行政組織も、「土地なき国家」ですからこういう在り方になるんでしょうね。

 帰宅が遅くなりそうなので、今夜は書き込みできないかもしれません。
 

いろいろ

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月26日(水)07時35分49秒
返信・引用
  管理人さん、雫石さん、どうもメルシーポーク(フランス語でどうもありがとう)です。
ヒロイックファンタジーの才女、いろんな名前がありましたね。
象印ヒントでピントにでていたあの人も同一人物なんですね。

福島の原発、フィジカルメディカルなもののほかに避難者たちの社会的問題もいろいろ山積みです。
地元市民と避難者との間、さらに避難者内部の確執などです。役所は市民の親代わりになって対応するので大変ですね。


 

Re: 日本人は、科学の発展に寄与できないのか?

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月26日(水)00時39分16秒
返信・引用 編集済
  > No.5276[元記事へ]

w1allenさん
 ご投稿ありがとうございます。
 私は最初から複雑なことが考えられないので、強引で粗雑かもしれませんが、思考の手順として、まず白黒二分して決めつけてしまいます。もちろん現実はそんなに簡単ではなく灰色であることは当然です。ですから、白黒二分した瞬間に、そこから矛盾が立ち現れます。そこで次の段階として、その矛盾を解消する解を求めます。これを繰り返して漸近的に接近していくという方法を取ることで、なんとか現実を理解しようと努めています。下の書き込みも、書き終わった瞬間から、二度ほど(矛盾を解消すべく)書き直したものなんです。
 その意味で、w1allenさんにかぎらず、疑問点をご指摘いただくことで、自分の書き込みの舌足らずな部分も意識させてもらえますし、思考の般化の助けになります。まことにありがたく、お礼申し上げます。
 さて、
>日本人は、これからも、科学に貢献することは可能と考えます
 これは私も疑っておりません。個々の科学者のレベルはおっしゃるとおり世界でも高い部類でしょう。
 ただ、科学者といえども社会から独立して存在してはいません。必ず(他者との)社会関係の網の目を形成しているわけです。(ただし科学者が発見した理論や事実は独立して存在しているはずです)
 で、朝日のこの記事をご覧下さい。
「あえて運転を中止せず、漫然と継続した」として、「人命を預かるプロとして許されない、非常識極まりない行動だ」との判断です。
 これは全くそのとおりなんですが(大げさですが真理と言ってもよいと思います)、もし私が当の運転手だとして、眠気を感じたとき、これはヤバイ、と思ったとしても、バスを停車させて、乗客に対して「申し訳ないが15分ほど仮眠させて頂きます」なんて、絶対に言えないなあ、と思ったんですね。はっきりいって、そう言える人のほうが圧倒的に少数派のはずです。
 これを言い換えれば「真理よりも人事が優先する」となります。
 でも、ひょっとして(一神教的伝統の)欧米ではそういう行動を取れる人は、日本人よりも多いかもしれないという「欧米人観」は私にはあるのです(というか「印象」ですね)。
 アメリカに住んでいる人(私の弟ですが)から聞いた話ですが、アメリカでは対向車線側に車が停まっていても、平気で同じ位置のこちら側に駐車して気にもしない(人が多い)んだそうです。日本ではまずありえないですよね。必ずずらして駐車します。そういう心的傾向の源泉を岸田は一神教に求めるわけですが、そのようなアメリカ人が運転手なら、裁判長がいうことを「合理的」と判断して仮眠するかも知れませんし、乗客も、それを合理的として容認するかもしれません。
 でも日本では、絶対ムリです。裁判長の言うことは「正しい」ですが、一般的な日本の状況では通用しない机上論だと思います。
 かかる構造が「二大科学ゴシップ」にも認められます。この二例もまた、「真理よりも人事が優先」した結果といえるのではないでしょうか。海外でもそういうことは皆無ではないでしょう。しかし日本ではとりわけ顕著に現れるような印象を私はもっているんですね。もっとも、これを「八百万神」に求める因果関係はおそらくないです。「一神教」も「八百万神」も単なるラベルくらいに思ったほうがいいかもしれません。しかし、欧米より日本的環境において現れがちな問題であるのは確かではないでしょうか。と思うのですが、どうなんでしょうか。私の偏見でしょうか。
 ここで私は、STAP細胞問題については小保方個人よりも理研という組織に問題が根深いと感じています。そういうわけで、「二大科学ゴシップ」は、科学者個人の問題というよりも、科学者の組織の問題として取り上げたものだったということを、改めて明記しておきます。
 そういう次第で、
>二大科学ゴシップをそのまま一般化する
 というのは、そこまでの意図は私にはなくて、むしろ日本的特質が、本来(上記したように)科学者が発見した理論や事実は、人間や社会の思惑とは、独立して存在していなければならないはずなのに、そういう真理を扱う自然科学の部面にも、人事が影響することもある(欧米よりも起こりやすい)例として取り上げた、というそっちの方に重点があったわけです。

 マスコミについても、これは教えていただけるようでしたらお願いしたいのですが、はやぶさの擬人化みたいなことや、学術的な内容よりもそれを為した研究者個人の物語がもてはやされるというようなことが、欧米のマスコミでも普通なんでしょうか? 理研もJAXAも、むしろそれを煽っていたように私には見えましたが、向こうでもそういう態度が当たり前なんでしょうか。どうなんでしょうか。もし向こうではそういうことがないのであれば、そこに日本的特質が介在していることになると思うのですが。
 以上、元の書き込みの舌足らずな部分を補足してみました。というわけで――

>結論:
>二大科学ゴシップをそのまま一般化するのは、待っていただきたい。
>日本人は、これからも、科学に貢献することは可能と考えます。
 これには私もまったく異論はありません。大いに期待したいと思っています(^^)
 

日本人は、科学の発展に寄与できないのか?

 投稿者:w1allen  投稿日:2014年 3月25日(火)22時37分2秒
返信・引用
  皆様

管理人様のぶった斬りに、胸のつっかえがとれるような思いをされている方も思います。
しかし、少しだけ異論がありますので、書き込ませて頂きます。

二大科学ゴシップについて:
原子力被災者生活支援チーム問題やSTAP細胞問題については、これはヒドいとしか
いいようがないですね。
特に、STAP細胞問題は、STAP細胞の真偽自体が疑われている現状は、かなりヒドいですね。

宗教について:
何故、宗教と岸田秀の考察を持ちだされたのかが、初見では分かりませんでした。
厳密性を重んじる科学と一つの神しか信じない一神教に親和性があったのかもしれませんね。
多神教や無宗教の人間が多いとされる日本人は、科学を受容し、理解、発展させることはできないのか?
私は、そんなことはないと思います。ノーベル賞受賞などによって、科学の発展に多大な寄与をした日本人は多数います。

研究環境、教育機関などについて:
私の指導教授は、民間会社で働いてから、アメリカの大学で学び直し、アカデミックの道に戻ってきた方でした。
大学でのカルチャー・ショックとして、「日本では、入るのが難しいが、出るのは簡単」
、しかし、「アメリカでは、入るのは簡単で、出るのは難しい」と。
「最初はあんなにいたクラスメートが、いつの間にか(笑)居なくなっていたそうです」
私は、中庸のレベルに正した方が、いいのではないかと思います。

マスコミについて:
科学分野でのレベルの低さは、歴然としたものがあり、問題だと考えます。
理系出身の科学部記者でも、対応できない分野だと、鵜呑みの記事になりがちです。
ですから、賞賛の後に叩きという図式しか、引けないのでしょう。

ABC予想について:
望月教授という方が、2012年にABC予想を証明したというセンセーショナルな発表をされました。
私は、またマスコミの賞賛の嵐の中に、研究者が立たされるのではないかと心配しました。
恐らく、これは発表内容が難解で、理解されないために、スルーされたのではないかと思います。
或いは、証明が真であったと認められれば、またフィーバーがあるのかも知れませんが。

結論:
二大科学ゴシップをそのまま一般化するのは、待っていただきたい。
日本人は、これからも、科学に貢献することは可能と考えます。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/2459/novel.htm

 

Re: (^_^;)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月25日(火)20時50分48秒
返信・引用 編集済
  > No.5274[元記事へ]

 昨日の続きですが――24日の毎日新聞の記事↓
    【<福島原発事故>被ばく線量を公表せず 想定外の高い数値で】

 これについて菊池誠さんの批判
 

 科学的事実によって設けられた原則すら右顧左眄で簡単に崩されてしまう、日本の科学(とりわけ組織)の在り方を端的に示している事例だと思います。と言ったら言いすぎでしょうか(笑)
 一神教的態度とは、唯一、神のみを畏れる態度で、神が没落したあとも、それは欧米人の思考の規範として残り、法や科学がその代替物となっている、と岸田秀は言っています。STAP細胞のアメリカ人の研究者が(完璧にそれが否定されるまでは)全く折れる気配を見せないのも、これが根幹にあるからでしょう(別の理由もあるのかもしれませんが)。
 一方日本では、畏れるのが唯一神ではなく、八百万の神なんです。それはどういうことかといえば、その状況状況で、畏れる存在が(無意識に)変わってしまうということ。STAP細胞の日本人側が、「手続きに問題はあったが内容自体をおびやかすものではない」という初期座標から、あっけなくもばたばたと(自ら)転がり落ち続けているのは、まさに上の記事の原子力被災者生活支援チームの態度と同じというべきでしょう。これはある意味日本の自然科学受容から当然の事態なのかもしれませんね。とすればこの二例は特殊個別的な例とはいえず、日本的に受容された科学の存在形態をそのまま反映しているということではないのかな。あ、だとしたら、小保方さんの研究態度も、「正解なんだから、途中の検証は多少不適当でもおk」というものだと想像されるわけですが、これも実は日本的科学研究に潜在する態度だったりして(>おい)(^^;
(ところで、予め言っておきますと、岸田はだから日本人はダメと言っているのではなく、こういう態度だから(その場その場でテキトーに神を乗りかえられるから)日本人は、キビシすぎる欧米的態度にくらべて、心の安定が比較的もたらされていると考えているんですね。)
 

Re: (^_^;)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月24日(月)21時10分2秒
返信・引用 編集済
  > No.5272[元記事へ]

雫石さん
 マスコミの取り上げ方が問題ですよね。おばあちゃんの割烹着とか。要するに《物語化》なんですが、論文とは全く関係ありません。しかもこれ、(週刊誌によれば)理化学研究所が仕掛けたものらしくて、まあこうすればマスコミが食いついてくるだろう、というわけです。
 それで思い出すのが、イトカワからのはやぶさの帰還です。マスコミのあの《物語》化には、勘弁してよ、と思った方も多かったはず。JAXAもそれに乗っかっていたわけで、マスコミと同衾してしまう日本の科学機関って、一体何なんだろうと思わずにはいられません。
 自然科学って、イスラム圏とキリスト教圏という一神教的環境から生まれ、発展してきたわけですが、それが日本に移植されるや、まさに岸田秀が洞察したごとく、八百万神環境によって変質してしまうんでしょうね。
 小保方問題も、小保方さん個人の資質に還元してしまうのは(おそらくマスコミ理化学研究所連合軍はそうしてしまうんでしょうけど)、問題の本質を隠してしまう一種のとかげの尻尾切りだと私は思います。

 ということで、荒巻義雄『空白のピラミッド』(ノンノベル、78)読了。
 面白かった。だがこの話、ストーリーにあまり関係しないうんちく部分を除けば、ストーリーラインは中篇小説のそれですね(^^;。とはいえうんちくがなければ、この小説の魅力は半減以下となるわけで、まさに作者にしか書けないオンリーワンなアラマキワールドというほかないのですよねえ。
 意外にイケたので、ひきつづき空白シリーズ第5巻『空白の黙示録』に着手。70頁。今回はインドとタイが舞台。
 

 

雫石さま

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月24日(月)13時54分34秒
返信・引用 編集済
  >某直木賞選考委員元コピーライター作家や、亡くなった長大ヒロイックファンタジー才女作家の容貌の方だと
某直木賞選考委員元コピーライター作家は、「化粧まわし」の作家だと、某直木賞選考委員作家に、わざわざと作品中で揶揄されていました。某直木賞選考委員元コピーライター作家は、着物が大好きなのですが、着付けると「化粧まわし」に映ってしまうのです。女性週刊誌にたまに「化粧まわし」を着付けた姿が載っております。まさに、「化粧まわし」であります。
(趣味悪ー)
亡くなった長大ヒロイックファンタジー才女作家も、着物が好きで、吾妻徳穂≠ウんに勧められた着物を着て、NHKの「邦楽特選」にゲスト出演したら、彼女の母の友人から「あら、いいものを着ていらしゃる」などと褒められて、有頂天になって自慢していました。
お二方とも、いい着物なのかもしれませんが、中身は? です。(ああ、長い言い回しの某、漢字で書けば、4文字と3文字なんですがね)
 

Re: (^_^;)

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2014年 3月24日(月)04時37分41秒
返信・引用
  > No.5271[元記事へ]

>  雫石さんが(立場上)ひとこと言っておきたかった気持ちもわかります。でも別に謝罪は求めておられないと思います。

そのとおりです。

山尾さん、やっぱりきれいですね。ものすごく幸いなことに、山尾さんがデビューしてすぐのころに、星群祭のゲストにきてもらいました。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/ba7f8680c095ec9495962b254cb433f3
新井素子さんも来ましたから、SF界2大アイドル両手に花でした。
男性は顔はあまり騒動の原因にはなりませんが、女性の場合はそうではないですね。このたびのSTAP細胞騒動、小保方晴子女史が、某直木賞選考委員元コピーライター作家や、亡くなった長大ヒロイックファンタジー才女作家のような容貌の方だと、こんな騒動になったでしょうか。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

Re: (^_^;)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月23日(日)22時14分21秒
返信・引用 編集済
  > No.5270[元記事へ]

 まあ、別に謝る必要はないと思いますよ。人それぞれ。人生いろいろ、人の顔もいろいろだ(笑)。
 雫石さんが(立場上)ひとこと言っておきたかった気持ちもわかります。でも別に謝罪は求めておられないと思います。
 たとえば熱狂的な阪神ファンの御仁が「わし、ナベツネの顔大きらいやねん」と書き込んだとしなんせ。それを読んだ通りすがりが「渡辺先生は巨人軍の発展に尽力しておられる神様のようなお方。私にとっては、大変に好感のもてるお顔なんです」とREで返してきても、きっとその御仁は「あ、そう。それがなんじゃい」と鼻クソをほじくっているんじゃないでしょうか。そんなもんです(^^ゞ
 私自身は、読むかどうかに作家の顔が影響することはないですねえ。山尾悠子さんは超美人作家ですが、たとえそのお顔が、もし万が一にもありえませんが、ヨモツシコメみたいだったとしても、その作品を愛する気持ちは毫も変化することはありませんね
(^_^;)。

 ということで見つけました→安部公房先生に最初に目をかけていただいた(平凡パンチ78年11月13日号より)
                     ↑
                  クリックで拡大

 

(^_^;)

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月23日(日)19時29分46秒
返信・引用
  管理人さん、雫石さん、どうもすみませんでした。失礼しました。
なにぶん中学時代のことなので(^_^;)
石川喬司と久野四郎は近所の優しいオジサン似でした。(^_^)
 

Re: 顔と作風?

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2014年 3月23日(日)16時54分33秒
返信・引用
  > No.5267[元記事へ]

> 荒巻義雄ってそういう作家さんなんですか。始めて知りました。実は私は顔写真をみてあの眼鏡が嫌になってしまいました。というのも意地悪な国語の先生にそっくりだったからです(笑) あとは田中光二も顔でだめでした。こっちも厳しい理科の先生似でした。

荒巻義雄さんと田中光二さんは私たち星群は、眉村さん同様、大変、お世話になった作家です。
田中さんは私が実行委員長をやった第3回星群祭にゲストで来ていただきました。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/099ab3d2b1d2bcb84e0ce59dc7f9b976
荒巻さんは第6回から12回まで毎年京都までおいでいただいて、熱心に創作指導をしていただきました。
http://homepage2.nifty.com/sfish/seigun/seigunsai.htm
ですから、私にとっては、大変に好感のもてるお顔なんです。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

Re: 顔と作風?

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月23日(日)14時57分56秒
返信・引用 編集済
  > No.5267[元記事へ]

トマトさん
>意地悪な国語の先生
>厳しい理科の先生
 それはキツイですね(笑)

>中古の文庫は一円なんですね
 空白シリーズは全8巻なので、2万かける8冊で、ひょっとして16万? と、ちょっと期待して確認しましたところ、他の巻は捨て値でした。いやまあそんなうまい話はないと思いましたけどね(>取らぬ狸の皮算用)(^^;
 

顔と作風?

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月23日(日)14時03分39秒
返信・引用
  管理人さん、どうもありがとうございました。

荒巻義雄ってそういう作家さんなんですか。始めて知りました。実は私は顔写真をみてあの眼鏡が嫌になってしまいました。というのも意地悪な国語の先生にそっくりだったからです(笑) あとは田中光二も顔でだめでした。こっちも厳しい理科の先生似でした。

しかしアマゾンって中古の文庫は一円なんですね。ほんと、びっくりですねー。
 

Re: 酒井勝軍とカルト教団

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月23日(日)00時50分8秒
返信・引用 編集済
  トマトさん
>世間では連休みたいですが
 なんか、聞くところによるとそうらしいですねー...(笑)

>中学時代、放課後よく同級生たちに法螺話をしていました。
 わかります。私はトマトさんの作品、授業中に後ろから回ってきた「回覧小説」の感じで読んでますよ(^^;
 私の場合は高校時代ですが、いろいろ回ってきました。リレー小説も盛んでしたね。

>私がSFM読んだのは1971年号ぐらいまで
 デビューが少し遅かったんですね。出版芸術社版『日本SF全集』をチェックしたら第2巻(1972-1977)収録されているので、丁度トマトさんと入れ替わりの感じですかねえ。

>今度機会があったらよんでみたいです
 ぜひぜひ。超本格的な作品もありますが、空白シリーズは、作者が趣味全開にして楽しんで書いた作品なので、オススメです。どんな趣味かというと、要するに「ムー」ですな。どんなお話かというと、「神秘之日本と東北秘境の旅」みたいなお話です(>おい)(^^;
 いま読んでいる『空白のピラミッド』にも、一種のカルト教団が出てきます。「アメン神団」といって、イシュタル様と呼ばれる超美人が教祖で、日本は、紀元前1600年頃、古代エジプト人が東遷して建てた国なのだそうです。なかなか面白そうでしょ。現在100ページ。
 アマゾンで古本が安く入手できますよ、と調べたら、わっ、こんな値付け!→Amazon。馬鹿ですね。
 あ、文庫だったら1円でした→文庫。ああびっくりした。
 

酒井勝軍とカルト教団

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月22日(土)20時09分14秒
返信・引用
  こんばんはです。
世間では連休みたいですが...(笑)

オハナシを執筆するって、おしゃべりをするみたいな感じです、中学時代、放課後よく
同級生たちに法螺話をしていました。(笑)SFとかラブストーリーとか、あとはギャグとか。

荒巻義雄って実はあまりしらなかったんです。
私がSFM読んだのは1971年号ぐらいまでかもしれません。今度機会があったらよんでみたいです。

酒井勝軍の神秘之日本って実は東京の地下鉄になんとかという毒ガスを撒いた某テロ教団の教義のベースになったんです。オカルト雑誌ムーに麻原が酒井の本を読んで酒井勝軍ゆかりの東北地方に旅して霊石を酒井勝軍と面識のある人物から譲り受けるという記事があり、美人弟子(後に女帝と呼ばれることになる女性)に霊石の効果を実証させるという記事で、1985年11月号なんですが、わたしはそれを杉並阿佐ヶ谷のおんぼろ下宿で大家と一緒によんでいたんですね。しかし麻原のその記事を読んでももう立派なSFだと思いました。やはりあの人、なにか才能はあったんですね。

最近は林真理子や森村桂も手を出し始めましたが、いろいろ作家によって感覚が違いますね。
 

Re: こんばんわ、です。

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月22日(土)01時33分49秒
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  > No.5263[元記事へ]

 そういえば荒巻義雄はユング派でしたね。トマトワールドと相性がいいかも。
 ということで、積ん読くずしですが、荒巻空白シリーズ第4巻『空白のピラミッド』に着手しました(3巻まで既読)。
 おお、巻末参考文献に、酒井勝軍『太古日本のピラミッド』(原本の入手は困難だが、「地球ロマン」復刊1号に所収されている)との記述が!!
 

Re: こんばんわ、です。

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月21日(金)23時24分12秒
返信・引用 編集済
  > No.5261[元記事へ]

トマトさん
>平凡パンチにも広告が載っていたなんかそういう時代だったんですね
 当時(70年代初頭)は、SFは若者の読み物だったんですね。いまでは中高年の読み物です。たとえば当時15歳だった若者が、いま60前になっただけ。集団の構成員は変わっていません。新しい読者の参入が殆どないジャンルなんですね。その意味で、これからのSF広告は、《わかさ》とか《健康》みたいな雑誌に載せるのが効果的かもですねー(^^ゞ

 拝読しました。半村良かと思っていたら、途中から荒巻義雄になりましたね!
 旅行によって(神秘体験によって)、神経系が覚醒し、意識が一つ階梯を上がって、世界の真相を垣間見るところ(意識の変革)が新機軸ですね。これまでも同じ世界観の話はありましたが、ただ単に「外部から与えられる」形式だった。今回は主人公が行為することで「獲得」されます。より小説らしくなり、よかったです。
 しかし、UFOにさらわれたり(アブダクション)、グレイ型宇宙人の死体が発見されたり、キャトルミューテーションされたりするようなドラマチックな展開にならなかったのが(期待していたので)残念でしたー(>おい)m(__)m

 追記。というのは冗談で、こういう展開は眉村作品でもよく使われるんですよね。電車に乗って出発し、旅館につき、そこで怪異に見舞われる、という形式は、全く同構造です(もちろん、申し訳ないですが、眉村さんの域には全然及んでいません。いやまあ比べられてもトマトさんが困りますよね(汗))。で、眉村作品でも、(短篇の場合は)その先ドラマチックな展開には滅多になりません。この作品と同じく、アンチクライマックスで終了します。それで納得させられるのは眉村さんの筆力だからでしょうけど。ドラマチックな展開は、必須とはいえませんね。

更に追記。まあ、そんなテクニカルな話、トマトさんにすればどうでもいいことかもですね。とりあえず今は、書きたいことがわっと頭のなかに湧き上がって、それを文字に書き取るのも追いつかない、という感じですよね。うらやましい限りです(笑)。
 

「われはロボット」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月21日(金)21時15分54秒
返信・引用 編集済
   アイザック・アシモフ『われはロボット』小尾芙佐訳(ハヤカワ文庫83、原書50)読了。

 すみません。読んでいなかったのでした(汗)。もちろんファウンデーション三部作やイライジャ・べイリ2部作ほか、初期のめぼしいのは既読なのです。が、本書にはちょっと先入観があって、読む価値なしと勝手に決め込んでしまっていました。しかし先日、本書の設定を組み込んだオマージュ的な《ロボットシティ》シリーズを読み、これはやはりオリジナルを読んでおかなければいかんな、ということで、掘り出してきました。
 いやー面白かった! 誰に吹きこまれた先入観だったのか、今まで読まなかったことを反省したのでありました。
 一読おもったのは、
「これって惑星シリーズやん!」。
 もちろん、オロモルフ先生こと石原藤夫博士の、《惑星開発コンサルタント社》のヒノとシオダのヒノシオコンビを主役に据えた《惑星シリーズ》のことにほかなりません。
 本書においても、収録9篇中「堂々めぐり」「われ思う、ゆえに」「野うさぎを追って」「逃避」の4篇で、《USロボット社》の実地テスト担当員、グレゴリー・パウェルとマイケル・ドノヴァンのコンビが主役を張ります(残りの作品の主役はスーザン・キャルヴィン博士。但し第一話を除く)。
 石原シリーズでは、直情型のヒノと沈着冷静なシオダという対称的な二人の漫才的な会話によってストーリーが進んでいくのですが、本書でも、直情型ドノヴァンと沈着冷静なパウェルという描き分けがなされています。
 ヒノシオシリーズは、二人が開発候補地探しで訪れた未知の惑星で遭遇する事件や問題を、科学的もしくは疑似科学的に解決するものでしたが、グレッグとマイクのコンビもまた、太陽系開発のため《USロボット社》が諸地域に貸与し送り込んだロボットが、主にロボット工学三原則の定義矛盾から引き起こした事件や奇妙なふるまいの謎を、解決すべく奮闘します(このコンビが活躍するのはロボット開発史の黎明期に当たります)。
 こういう類似があるわけですが、それ以上に、作品から受ける感触(「ファウンデーション」や「オロモルフ号」のようなシリアスな書きぶりではなく、もっとくだけたユーモラスな感じ)が非常によく似ていると私は感じました。とりわけ「逃避」のジャンプ中の描写、地獄八景かよ、と大笑い(たしか田中啓文にもあったっけ)(^^;。
 私は石原惑星シリーズの大ファンでありますから、このロボット開発史連作『われはロボット』が面白くなかろうはずがありません。いや楽しかった。と同時に、これまで読まずにいたことを、大いに後悔したのでした。
 それにしても、ヒノシオシリーズと本書の類似について言及されたことって、これまでにあったんでしょうか。私は記憶がないのですが。それから石原博士自身は意識していたのかどうか、とか、非常に興味がわいてきました。ご教示いただけましたら幸甚です(そういえば石原博士には『SFロボット学入門』がありました。当然アシモフへの言及がありそうですね。要探求)。
 黄金期の大家たちは、必ず初期に、名作と言われる短篇連作シリーズをものしています(ブラッドベリ《火星年代記》、ハインライン《未来史》短篇、光瀬龍《宇宙年代記》etc. etc.)。本書もまた、それらに比して決して引けをとらない連作シリーズの傑作でした! ああ何を今さら。言うまでもありませんでしたね。失礼しました。
 

こんばんわ、です。

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月21日(金)21時11分4秒
返信・引用 編集済
  そういえば、私の知っている眉村さんって長髪っぽかったです。中学のときに例の古本屋に置いてあるSFMのバックナンバーで見た写真ですが…。
でも平凡パンチにも広告が載っていたなんかそういう時代だったんですね。




神秘之日本と東北秘境の旅  後編

 酒井勝軍という人物はウィキペディアによると、ここ山形県上之山村の士族の家に生まれたという。キリスト教に自分の生きる道を求め、仙台の神学校を卒業したあと、アメリカの聖書学院に留学した。そして帰国後に賛美歌編纂などを行い、キリスト教会で歌われている賛美歌の中には彼の編纂のものが少なくないという。つまりよくいる「模範的なよい子風なキリスト関係者」だったわけだ。聖書風にいえば、イエスの四大福音書大好き人間ということになる。 が外国武官接待官として海外に従軍するにあたり、例の旧約聖書創世記の外典の存在をする。つまりイブ以前にリリトという最初の女がエデンに存在していたという話だ。リリトには翼があり、さらにヴァギナと乳房とともに男根も持っていた。けっしてアダムに従順ではなくも、アダムとケンカしてエデンを飛び出してしまったというリリトだ。  さてここ山形県上之山村の「ころべい旅館」の玄関から入った、いわゆるロビーいう空間だが、なんだかロビーというのはふさわしくない空間だ。しかし田舎の宿といったなんともゆっくりとアコースティックな時間がそこには存在していた。そこに辛うじてソファとテーブルか置いてあるが、これも古臭くてそれが却ってぬくもりというものを感じさせる。山あいは日が暮れるとスーッと涼しくなり、エアコンが効いているかのようだ。

「おーい、かあちゃん、リカにここに来いって言ってくれはー。」と白髪頭の店主が自分のカミサンらしいおばちゃんにいう。アッパッパ姿のおばちゃんは
「よー、リカちゃーん、おじいちゃん、あんたのことさ、呼んっかからここさ来ってば、」
と奥のほうに向かって声を掛ける。
「はーい、今行く。あの石、もっていくんだべー。」
と奥のほうから若い女性の声が返ってくる。
  そして階段から降りてきたお姉さんを見て、思わず息を呑んだ。例の青い旅館の法被の下はレモンイエローのプリントTシャツにスカイブルーのサテン生地製ジョギングパンツ姿だ。細くてきれいな脚がすーっと伸びている。そんな彼女から発散されるオーラは「魔都新宿の最奥」を髣髴させた。渋谷でも不池袋でもなく新宿の、というあの雰囲気だ。訛りさえなければまったくの新宿人だ。私はふと思い出した。新宿アルタ裏の、あの三平ストアなんかあるあの通りをもうひとつ奥に入ったところにあるあのコーヒー屋を…。まだローストする前の生豆だとかその生豆をローストするローススター、さらにはチョコレートの原料となるカカオニブまで置いてあるあの店だ。
わたしはコーヒーやココアを買うときはあの店と決めていたが、しかしあるとき、よくテレビで見かけるご一行がこの店を訪れた。このご一行はニュースキャスターとその番組の女性スタッフだ。この一行の一人よく見慣れたニュースキャスターは私を店員と間違いアレコレ聞いたことは覚えている。私はどう対応したら良いのか困ってしまったがすると店の奥から店主の娘であろうお姉さんが出来た。長い髪、大きな目と小さな口、鼻筋の通った端正な顔立ちのお姉さんだ。彼女は私にもむそしてこの有名キャスターにもまったく平等に対応してくれた。
「ごろべい旅館」の階段から降りてきたお姉さんは、なんとこの新宿のコーヒーや屋のお姉さんとよく似ているのである。姿かたちだけではない、放射されるオーラまでもそっくりなのだ。それで私は
「あの、新宿のコーヒー屋で働いて いませんか?」
と彼女にはなしたところ、
「あたし、よくいろんな人に間違えられるんだべー。きっとあたしにそっくりな人が何人か居るんだべー。」
という。なまりはあるものの、しかし店主ほどではなく十分聞き取れる。
「それであんた、この石を探しにこんな山奥まで来たのだべー。」
とにっこりと微笑む。彼女が持ってきた石はいわゆる「石英」という石で、白くて蝋のように半透明な光沢のある石だ。はたしてこの石が例の生きている石、非行石なのだろうか…。
「じゃあ行くべさ。今夜、産霊山のお祭りがあるんたべからよ。」
「産霊山?」
「んだ、産霊山だ。あんた、東京の人だべさ知らねべさ、今晩産霊山のお祭りあるんだべよ。」
ああ、なまっていなければいい娘なんだけどなぁ…とにかく東北にはこういう器量良しだけどなまり丸出しの娘がよくいる。ところで産霊山というのは「ごろべい旅館」の裏に続く山だった。見ると赤い鳥居があり、その向こうに石段か続いている。
「あんたも知っている酒井勝軍はな、ここさ帰ってき来て、そしてこの産霊山をピラミッドだって言ったんだ。日本さもピラミッドあったていったんだ。酒井勝軍は、この産霊山神社にいって、そしてご神体の石に手をかざして、その石を生きた石にしたべな。今夜はその昔、そのご神体の石が光った日だべさ。」

と店主も説明してくれた。

そして村の人たちが集まってきて、あたりはざわざわし始めた。例の美貌の娘は巫女さんのような白装束に着替えている。 そしてわたしたちは旅館の外に出た。あたりが明るいのに驚き、空を見上げるとそこには大きな楕円形の光が、聖白色の燐光を放って存在していた。
「おお、あんときみたいだべさ。すんごいすんごい。」
白髪頭の店主は興奮気味だ。

そして産霊山神社の石段を登る。「ぼーっ」という何か不思議な音が聞こえる。石段の両脇は大きな過ぎ間の大木が並んでいる。 石段を登っていくと、ますますあたりは明るくなる。そして石段を登りきり境内につくと、そこにあの大きな燐光を放つ物体が着陸していた…。とおもって頭上を見上げるとあの光り輝く物体は空中に存在している。
「あれがご神体だべ。」
と店主が説明したのは境内にある大きな光り輝く円盤だ。あの円盤こそ、霊覚を得た酒井勝軍が「生きた石」に還元した石だという。 そして境内にはまばゆいばかりの光があふれた。ふと空を見上げると、東の空から西の空にまでまたぐ巨大な白い大蛇が空中に存在していた。
「ああ、あの蛇が大地母神だべさ。あん時みたいだ。おらがここに帰ってきた酒井勝軍にあったときみたいだ。」
店主は懐かしそうにこう話す。

そしてそのまばゆいばかりの燐光の中から、金色のウエットスーツたみいなものに身を包んだ女性が現れた。黄金の長い髪、エメラルド色の瞳のその女性が現れた。この女性は店主の孫娘、リカさんや、新宿のあのコーヒー店の娘とそっくりだ。そしてわたしはわかった。この黄金の長い髪の女性は聖書創世記に登場してくるリリトであることを…そして店主の孫娘や新宿のコーヒー屋の娘はそのリリトの霊的な子孫であるということを…。われわれ人間が神とのつながりを失ったのはアダムに原因があった。アダムはエデンで自らが神のように振舞っていた。そしてアダムの子孫が人々を支配し続けてきた。そう北関東東原一丁目のあの戸舞家にいる戸舞賛歌のように、だ。あの戸舞賛歌はアダムの子孫だ。だから例によって受験勉強のノリでなんでもかんでもわかったつもりになり、ピンクレディはアメリカ出身の歌手だとかなたんどか勝手に物事をキメツケてはそのキメツケを絶対真理だと思いこませてきた。しかしリリトはそうではない、私たち人間の中の神経系を覚醒ざせ、そして神を見せてくれる。夜空に横たわる巨大な白い蛇も、そして空中に浮遊する燐光を放つ物体も、神のみ業だ。そこには新鮮さとともに懐かしさがともない、そして時間がまるで水の流れのように視覚化されていった。それは私が生まれ育った北関東の旧地蔵町にある「北関東市職員アパート」のあの一室に居たときに見た感覚だ。あの頃の私は時の流れというものを視覚的に見ていたのだ。そして私は似、三日、このごろべい旅館に滞在した。ほとんどの時間を産霊山神社で過ごした。ここは不思議と神と人間を結びつける葉所のように感じられてならなかった。もう大きな円盤型の石のご進退はあの晩のように燐光を放つことがなかったが、しかしこの石が生きている石であることは確かだった。何かある呪文をと帰ると非行石はあのように燐光を放つのだろう。そしてわれわれ人間の中にある原初の神経系を目覚めさせ、あのとこのような懐かしい感覚を取り戻すことかできるのだろう。

そして私は再び急行「ざおう」上野行きに乗り、杉並阿佐ヶ谷の下宿まで行かずに北関東駅で降りた。野暮ったい北関東駅前がなぜか懐かしくヴィヴィットに見える。 駅から東松原町の実家まで歩いていった。距離は四キロ。しかし何もなもみずみずしく美しく見える。途中私が六歳まですごした鉄筋アパートがある地蔵町にも立ち寄った。大通りのマロニエなき見はあの頃見たときのように美しく輝いている。

「ただいま。」
そう家に帰る。不思議と懐かしい。こんなに懐かしい気持ちになったのはほんとうに子供の頃以来だ。空の青さが「あの頃」のように輝いて見える。
 

ギター胼胝

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月21日(金)00時00分8秒
返信・引用
   そろそろ剥ぐか、ナイフで削るか、したくなってきました(^^;
 

Re: チャチャヤング関連切り抜き

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月20日(木)22時48分40秒
返信・引用
  > No.5258[元記事へ]

 あ、男性なのか。白地にチャチャヤングのロゴの部分、これをエプロンと認識していたのでした(^^;
 

Re: チャチャヤング関連切り抜き

 投稿者:和田宜久  投稿日:2014年 3月20日(木)22時42分12秒
返信・引用
  > No.5257[元記事へ]

> しかし―― このイラストのオバチャン、よく見ると、眉村さんではありませんか!(^^ゞ

おばちゃんと言うか、当時はナウかった長髪の男性なんでしょうけど、そう言えば眉村さんの似顔絵っぽい様な気もしますね。
まったく気が付きませんでした。
 

Re: チャチャヤング関連切り抜き

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月20日(木)22時18分3秒
返信・引用 編集済
  > No.5256[元記事へ]

和田さん
 おお、ありがとうございます! まさに掘り出し物ですね。大切に保管よろしくお願いします。
 しかし――
 このイラストのオバチャン、よく見ると、眉村さんではありませんか!(^^ゞ
 

チャチャヤング関連切り抜き

 投稿者:和田宜久  投稿日:2014年 3月20日(木)22時10分14秒
返信・引用
  式貴士さんの手紙を探している時に出て来たスクラップブックにあった「チャチャヤングショートショート」の広告と書評です。
手紙はなかなか見つかりませんが、副産物と言う感じでしょうか?
 

Re: 半村良とオボカタ細胞

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月20日(木)22時07分42秒
返信・引用
  > No.5254[元記事へ]

トマトさん
 お、超久しぶりに古本屋のおやじ登場ですね。
 しかし、物語も佳境に入りかけたところで、「ちょうど時間となりました」ですか!
 続き物の講談みたいですね。それもまたよし(^^; 後巻たのしみです。
 

半村良とオボカタ細胞

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月20日(木)21時04分3秒
返信・引用 編集済
  どうもこんばんは。
スタッフ細胞と割烹着のオボカタさん、なんとなくあの滑稽さが「綾小路きみまろ」っぽいですね。
そういえばかつてSFマガジンにコロッケそっくりの細胞を発明し、しかもこのコロッケ細胞は細胞分裂してたくさん増えるなんていうコミックが載っていました。たしか石森章太郎か手塚治虫のコミックだったとおもいます。だとするともコロッケ細胞を弱酸性の液体(ミツカンの純米酢など)に浸すと、その刺激でリプログラムされ、コロッケだけではなくハンバーグやメンチカツ、さらには並ばないと買えないない下北沢のカレーパンや四ッ谷のたい焼きなどにも変化できるSTAP細胞も出来るかもしれません(笑)



 ふと半村良の「我が故郷は黄泉の国」をまた読んでみたくなったのですが、いったいどこにしまったのかわかりません。「農閑期大作戦」「庄の内民話考」などがつまっている本です。しかしあれこれ探すのが面倒くさくなったので、仕方なしに自分で半村良風味の短編を作ってしまいました。


神秘之日本と東北秘境の旅 前巻


 酒井勝軍…多分この名前を知っている人はごく少ないのではないか…とおもう。戦前日本の神秘精通者だ。かずかずの予言をしているので日本のノストラダムス的な存在なのだがあまり知られていない。私がこの酒井勝軍のことを知ったのは例の北関東の東松原町バスどおりにある古本屋「夢書房」でのことだ。
  この夢書房、あの神経質そうな店主が居ることでも有名だ。何度も自分でも小説を書いてはあちこちに投稿しているらしいが、ことごとくボツになっている。このボツになった直後は大変機嫌が悪く、理由なく客に当り散らすのだ。だからこういう危険な時期に夢書房に行くと散々イヤミを言われていやな思いだけだ。夢書房とはそういう危険地帯でもあるのだ。
「虎穴にいらずんば虎児を得ず」のたとえの通り、この夢書房は他では絶対に手に入らない本がいくつもある。世界女優恥部図鑑、東証一部今年値上がり銘柄一覧集などもそうだが、私が気になっていたのは「神秘之日本」という本だ。これは戦前に出された本で、例の日本のノストラダムスで神秘精通者、酒井勝軍の数少ない著書のひとつだ
そんなわけで稀代の奇書「神秘之日本」を手に入れたくてしょうがなくなってしまった。しかしこの本は先ほど話した夢書房の、しかもあの神経質でぴりぴりしている痩せぎすオヤジの頭上の棚に並んでいる。とくに問題ないときであればそのオヤジに
「すみません、そこのあの本、見たいのですが…。」
といえば無愛想ながらも
「はいよっ。」
と例の甲高い女性的な声で応じて脚立を出してくれる。しかしオヤジの自信作を投稿してボツになった直後などにオヤジに何かいおうものなら、
「なんだって。」
と理由もなくあのヒステリックな甲高い声で怒鳴られ、もうただ急いで店からら逃げ出すしかないのである。がやはり「虎穴にいらずんば虎児をえず」、ここは思い切って夢書房に行くしかない、あたって砕けろ、玉砕すればそれでいい…。 そして、夢書房のドアを開けた。店内の空気はぴりぴりしている。どうもオヤジがつまらないオハナシを投稿してはボツになった直後らしい。。最悪のコンディションだ。オヤジの表情もブスくっている。 しかしそれでも勇気を出してオヤジに言ってみた。
「すみません、あのそこの本見たいんですが…。」
「あーん、なんだとっ、その本が、うねせぇなぁ・・・勝手に取れっ。」
案の定、オヤジは最新の「自信作」がボツになった直後だったようだ。オヤジに罵声を浴びせられながらも目当ての本を脚立で取った。値段は一万六千円というのももう確認済みだ。
「くそー、なんでオレがっ ばかやろう、こんなヤツがどうして入選するんだ。」
やはりオヤジの自信作は落選したらしい。そんな親父の居るレジ日本を持っていくのは火中の栗を拾うことだが、
「すみません。これください。」
「おまえ、本当にカネ、持ってんのか?この本、いくらするかわかってんのか?」
とこ憎たらしいことをいうオヤジに
「はい、一万六千円。」
と渡すと、目当ての本を持ってもう一目散に逃げるように店を飛び出した。店内からはオヤジが
「ばかやろう、何でオレが、選考委員、くそったれ。」
といって「文学界」(という雑誌)をびりびりやぶいている音が聞こえた。


しかし私はオヤジに怒鳴られてもやはり稀代の霊書を手に入れたというワクワクドキドキ感のほうが大きかった。 ようやく手に入れた「神秘之日本」は文語体で書かれていた。文語体、読むのが大変だがなんとかかんとか読み進めていく屋驚くべきことが書き記されていた。
 それによると、かつて日本は神仙民族によって統治されていた。神仙民族は超能力を得て悟りを開いた(霊的覚醒した)人たちのことで、神と意思疎通ができたという。もっとも人間は本来霊的覚醒を有し神と意思疎通できる神仙民族だったのが、何らかの理由によりか本来持っていた霊的確性を失ってしまったという。だったらどうしたら本来持っていた霊的覚醒を取り戻すことが出来るのか…そのためには生きている石「非行石」にを使うことで霊的確性を取り戻せるという。その「非行石」だ。が、酒井勝軍が霊的覚醒を得た後、郷里に帰って普通の石を覚醒させ、生きた石である非行石に還元したと記されている。酒井勝軍は自分が生を受けた地を神の意志が受胎した地とし、その証としてその地の石を生きた石としたわけだ。この生きた石、非行石ともよばれるがユング心理学では「賢者の石」と呼ばれるのらしい。


そういうことで私は酒井勝軍ゆかりの地、山形に行くことにした。大学三年の夏休み、杉並阿佐ヶ谷の下宿から北関東の実家に帰省していた盛夏のことである。幸い国鉄北関東駅からは山形行きの急行「蔵王」が出ていることを知っている。朝早く、町には新聞屋さんしかないない時刻に駅に行く。駅のホームで待っていると、まもなく上野からきた急行「ざおう」がホームに滑り込んできた。上野など東京方面に向かう列車にはよく乗るが、東北のほうに向かう列車に乗るのは初めてだ。北上する…というより「東北大陸」へと向かう列車には東北なまりが強く何を言っているのかわからない言葉を話す人たちでいっぱいだった。そんなところに「東北大陸」という神秘的なロマンを感じる。
そして急行「ざおう」は、のどかな田園地帯の中を通過し、そして「会津若松」「米沢」といった駅に停車する。さすかに空気が澄んでいる。そして山形に着いたのは正午を廻っていた。
  今度はここからローカル線に乗り換える。急行ではなく古い客車が機関車が牽引するというタイプだ。ローカル線はのどかな田園地帯ではなく、険しい山の中を通っていった。西荻窪、吉祥寺、三鷹、高幡不動とローカル線の列車は山の中にある小さなそして年季の入った駅に停まった。乗客だってもちろん完全に田舎の人だ。しゃべっている言葉が私にはまったくわからない。
  そしてようやく酒井勝軍が生まれた町、上山駅についたのはもう夕方だった。ここもふるいお寺のようななんとも趣のある駅舎だ。駅員がニコニコして何か私に話しかけてきたが、ひどいなまりのために何を言っているかわからない。がここで宿を探さなければならない。とりあえず駅前の駐在所で宿を聞いた。巡査は笑顔で応じてくれたが、やはり何を言っているのかわからない。しかし巡査は外を指差し、駐在所すぐ近くに「ごろべい旅館」があると教えてくれた。というより上山駅周囲に駐在所と小さな店とこの旅館以外後は何もなかったのだ。
  その「ごろべい旅館」・・・一歩踏み入れたとたんに何か暖かく懐かしいものを感じさせる旅館だ。白髪頭の店主は青い「ころべい旅館」とかいてある法被を着ているそういえば子供の頃、町の盆踊りのときこんな法被を着たなぁ…と思わず童心に返った。そしてもしかしたこの旅館に私が捜し求めているものがあるのでは、とそのときにピーンと感じたのである。
 白髪頭の店主もなまりがひどく何を言っているのかさっぱりわからない。すると息子さんが出てきて、通訳してくれた。すると驚くべきことに、この白髪頭の店主、生前の酒井勝軍と面識があるという。
「そしてどうでしたか?」
わたしは思わず身を乗り出してしまった。そう、この店主は生前の酒井勝軍にあっていたのである。そして生きた石、非行石による不思議な現象の話も説明してくれた。
それによると、空中にぼんやりと青い燐光を放つ楕円形の物体が飛来し、そして山や川にある石が突然同じように燐光を放ったという。どうもこの燐光を放つ石が酒井勝軍によって還元された非行石らしい。つまり空中にUFOのような飛行物体が飛来したときに非行石がどこにあるのかわかるわけだ。「その燐光を放つ飛行物体はまた何時来るのですか?」
と私は尋ねてみた。しかし店主はその飛行物体が来たのは一度しかないという。
「ああここまできて万事休すだ。」
とがっかりした。あの飛行物体がこなければただの石ころと非行石との区別が付かない。しかし店主はその飛行物体が来たとき、同じように燐光を放った石をたくさん拾っておいたという。しかもその石を旅館の中に保管してあるというのだ。
「ぜひともその石を見せてくれませんか?」
というと、老人は
「もし要るんだったらいくらでも上げる。」
といってくれた。私はうれしさで飛び上がらんばかりだった。これで霊的覚醒にいたることが出来るのではないか…。霊的確性、それは意識の初期化だった。つまりわれわれ人間が神の許から飛来したその時の澄んだ意識へと還元されることだった。



(続きは後巻へ…)
 

Re:小保方劇場番外編!

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月20日(木)13時05分25秒
返信・引用
  トマトさま
ついに出た! 課題図書読書コンクール本が週刊セブンティーンに大変身。これも例の細胞が変化した、ということなのでしょうね。うまく、課題図書がオハナシになりました。トマトさまは、料理がお上手なのですね(今更なのですが)
また、こんども、あっと思わせるオハナシを待っております。
 

河童は尻子玉

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月19日(水)22時17分39秒
返信・引用 編集済
  > No.5251[元記事へ]

トマトさん
 拝読しました。おお、スタッフ(STAFF)細胞ってのには、そんな凄い効能があったですか! まさに万能細胞、ドラえもんの4次元ポケットも、これはかなわんと裸足で逃げ出しちゃうかも(笑)
>正直可愛そうですね
 甘いですねえ。甘い甘い(>おい)。どうも男は、割烹着にコロリと参っちゃってるのか、私の周囲でも同情的な人が多いですが、どっこいありゃあ、てえしたタマですぜ(>なぜか江戸弁)(^^;。まあ週刊誌を信じればですけどね。事実かどうかは別にして、あんなタイプっていますねえ。うっかりお近づきになろうものなら、尻の毛まで毟られちゃいます(>個人の感想です)(^^;
 

 

小保方劇場番外編!

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月19日(水)19時01分0秒
返信・引用 編集済
  しかし週刊誌連中は相変わらすですねー。連中の話も小保方論文がそれ以上にいい加減なとのでしょうが。
でもこれが連中の飯の種ですからね。
しかし小保方さん、正直可愛そうですね。
しかしこの週刊誌連中も多くは小保方さんの母校出てこの仕事、嫌だ嫌だとはいっていたそうですが。本当に責められるべきはマスコミと理研首脳部だとおもいますね。


オハナシですが。
オボカタ「STAFF」細胞を使用した読書感想文コンクール大作戦



 東松原町、今日は高気圧に覆われてどこも晴れだというのにどういうわけか一丁目の戸舞さんちだけが「気圧の谷」の影響で、寒気が流れ込み曇り時々小雨となている。なぜ気圧の谷が出来たのか…それは「全国読書コンクール課題図書」が決定したからだ。今年の課題図書は「靴屋のマルチン」という本。多くの人たちは「げっ」と見向きもしないが、ここ戸舞家では必ず購入する。そして戸舞さんちの香織ちゃんは課題図書を読むことを義務付けられる。そんなわけで北関東を含む関東北部東北南部が高気圧におおわれていても、ここ戸舞家だけは曇っているのだ。

そんな戸舞さんちの香織ちゃんは薄汚れたセーラー服で家に帰ってくる。家の中には「詰まんないなぁ…。」という空気が漂っている。まったくだ。香織ちゃん、父親戸舞賛歌に友達づきあいすることを許されなくなってから、余計「ああ、生きているの、いやになった…。」と思い始めた。ああ、もうこの人生灰色でいやだ、希望を来世に繋ごう…。」居間のテーブルの上には香織ちゃんが読むように…と読書コンクールの課題図書がおいてある。戸舞賛歌は半ば強制的にこの課題図書を読ませようとする。それはお腹いっぱいで苦しいのに、これ食べろあれも食べろと押し付けられているようなそんな気持ちだった。でも仕方ない、どうしようもない…と香織ちゃんは課題図書に手を伸ばす。その様子を見た戸舞賛歌は「ほーっ。」と感心する。ちなみに戸舞賛歌、中学生や高校生にこの手の「課題図書」をプレゼントするのが大好きだ。たとえば年賀状配達を忘れた高校生のアルバイトが戸舞賛歌のところに配達しなかったことを謝りに来るという話を聞いた。その話を聞いて戸舞賛歌は「そうだ。よいものをプレゼントしよう。」と気持ちがうきうきし始めた。良いもの…ここぞとばかりに例の金メダルシールつきの課題図書をわざわざ購入してきたのである。「これはとてもよい本だ。こういうときらもらった本は一生の思い出になるだろう。」と戸舞賛歌、張り切っていたのである。はたしてその高校生がそんな課題図書をプレゼントされどういうリラクションをしたのかは不明だが、少なくとも戸舞賛歌は「こういう時にもらった本の思い出一生のものになるだろう…。」と相変わらず自己満足の世界に浸っていたのであるが、それが戸舞賛歌なのだ。

そんな調子だから香織ちゃんは課題図書を読まないわけには行かない。これはもうこの金メダルシール付課題図書は戸舞家に居る以上は絶対に読まなければならない必読書なのだ。そして読書感想文を書いて戸舞賛歌に提出し、戸舞賛歌の批評を受けなければならない。 さて皆さんだったらどういう感想文を書くだろう。「金メダルシーツ付の課題図書、見るだけで
「けっ」読書コンクール、関係ねーよ。」
と正直な感想を書くことが正しいものだが、しかし戸舞家ではそれが許されないことになっているから本当に大変だ。

 そんなかわいそうな香織ちゃんが金メダルシール付課題図書「靴屋のマルチン」を手にとると、不思議なことに、香織ちゃんが読みたくても読むことを絶対に許されない「週間セブンティーン」になったのだ。理由は簡単だった。あのオボカタさんが作成に成功した「スタッフ細胞」というものを例の金メダルシール付の課題図書に移植したところ、なんと香織ちゃんの夢をかなえるように「週間セブンティーン最新号」へと分化したのだ。しかしどこからオボカタさんが…というと、それはよくわからない。スタッフ細胞は町の割烹着屋で買ってきたのかもしれない。

 そして戸舞賛歌が大嫌いな週刊セブンティーンを思い切り読んだ香織ちゃん、戸舞賛歌が押し付けてくる課題図書なんて
「うんざり、げろが出そう」
と思い切り言うことができた。さらに居間の本棚の裏にある扉をあけて、向こうの世界に行ってしまった。

何か様子がおかしいと感じた戸舞賛歌はドッドッドッと階段を下りて下の居間に行くと、もう居間の本棚は動かされていて、本棚の裏の壁にある扉は開いたままだった。さらにテーブルの上は「読書コンクール課題図書」の金メダルが貼られた「週間セブンティーン」が置いてあるではないか…戸舞賛歌が怒ったことはいうまでもない。しかしもう関係ない、あの本棚の裏の壁のドアの向こうに来た以上はあの戸舞賛歌とは一切関係ないのだ。

 そして香織ちゃんは隣の家を見た。隣の家からはクラシック音楽がいつでも流れていた。隣には戸舞賛歌というヘンなおじさんがいる。声ほ掛けられても無視しなければならない。でないと本を押し付けらる。つまりなそうな、あの課題図書の金メダルのシールがはってある本だ。そしてあの扉は、まったく別な人生を生きることが出来る扉なのだ。そうだ、オボカタさんにも教えてあげよう。オボカタ珍騒動をやらかさない別な人生を生きていけるように…。 一方戸舞産地には最近よく「鈴木さん」が来るようになる。北関東教育図書館という課題図書しか置いていない図書館の職員だ。鈴木さんも髪が長くてきれいなのだが、どうもウブで世間知らずな感じ。この鈴木さん、最近戸舞家によく出入りしている。そういえば戸舞賛歌夫人の詩織さんは郷里の静岡に帰っている最中だ。ウブな鈴木さんはそれでも戸舞賛歌に尽くして幸せそう。
「ああ、このまま静岡から詩織さんが帰ってこなければ…。」
と鈴木さんは思ったものだ。この鈴木さん、とくに課題図書を学校に届ける仕事もしている。このところ大量の課題図書を学校が購入し、無差別に子供たちに配っているという自体が発生している。鈴木さんもこの仕事をしている。地味なスーツ姿で…。そしてこう願うのだ。
「ああ、詩織さんが帰ってこなければ…。」
そうもう詩織さんが戸舞賛歌のところに帰ってくるはずはない。例の居間の本棚の裏の壁にある扉の向こうにいってしまったのだ。そして香織ちゃんの家に居る。
「となりの戸舞さん、変わっている人ね。」
と香織ちゃんと詩織さんはくすくす笑っている。戸舞賛歌と他人になる…その悲願はもう実現していたのだ。

 

Re: Celler Reprograming boutique OAVOCATA

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月19日(水)17時23分39秒
返信・引用
  > No.5248[元記事へ]

トマトさん
>マスコミでは鎮火してしまいましたね。
 第二幕バッシング編、各誌一斉に開幕ですよ!

    買ってきました(^^;
       ↓
 

 

Re:小保方SF劇場等

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月19日(水)15時39分3秒
返信・引用
  トマトさま
>読書コンクール課題図書騒動でオハナシができそうですね
ぜひとも、読ませて頂きたいものです。「世間知らずだけどウブできれいなお姉さん」が登場すれば、やんややんやで読まさせてもらいます。
 

Celler Reprograming boutique OAVOCATA

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月19日(水)12時56分53秒
返信・引用 編集済
  オボカタ珍騒動、マスコミでは鎮火してしまいましたね。
偽ベートーベンに比べて悪質度が少なく、あの程度が無邪気でかわいいという感じだったのでは?
彼女のチョンボはオネスティかつストレートで、ドラゴンボールのブルマを髣髴させます。

小保方ユニット公式ウェブサイト、シックでクラシックな雰囲気は渋谷じゃなくて銀座ですね…。 しかし理系研究者たちは彼女に怒り心頭。未熟だったじゃ済まされない!!だそうです。その理系研究員たちも最初に彼女のマスコミデビュー戦を見たとき、あの化粧品販売店員みたいな派手さに強い違和感を感じたものの、
「今は理系研究員もファション雑誌見てお洒落の研究する時代になったのか?」
と思ったそうですが…。

http://www.cdb.riken.jp/crp/index.html

 

モンロー・イン・コリア1954

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月18日(火)22時22分57秒
返信・引用 編集済
 
  (more:buff.ly/Nn8EG9)←動画もあり
 

トマトワールドに新展開?

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月18日(火)20時51分55秒
返信・引用 編集済
  > No.5245[元記事へ]

段野さん
>今回の案内にあるように、来て貰いたいのは来てもらいたいのかも
もちろんそうなんでしょうけれど、抽選でみんな落選しちゃったじゃないですか(市民でさえ)。今回も、第2回こそ600名ですが、あとは200名、150名と小じんまりしたハコみたいですよ。

トマトさん
>責任追求で第二幕?
 いやこれ、実はひそかに期待しているのです。あれだけ割烹着だのリケジョだのと、(研究とは関係ないところで)わっしょいわっしょい祭りにしたマスコミが、どのツラさげて手のひら返しし、小保方さんをイジメるのか、興味シンシンであります。
 だからといって本人も本人で、論文は、オロモルフ先生の書き込みから察するに、そうとう拙劣なものみたいですね。

「トマトワールドに割烹着リケジョ、あらわるあらわる♪」も楽しみにしています(>おい)(^^;
 

  段野さん、取次店、大変そうですね。
書籍の場合、岩波書店以外は「返本」というものがあったんですね。
大手電脳系、出版にも積極的に入っていますね。
しかし読書コンクール、罪ですね・・・。あの課題図書の証の金メダルもそんな迷惑ものだったんですか・・・。読書コンクール課題図書騒動でオハナシができそうですね。世間知らずだけどウブできれいなお姉さんも登場させたりして・・・。

小保方劇場、閉幕、責任追求で第二幕?でトマト劇場作ってみようかな・・・と思いつきました。ついでにカフェとビストロ、ホテルまで併設して雰囲気的にはフランス風にお洒落にしてしまいました。しかしまた内装工事中なのです。 しかし小保方的な学者さんの暴走、たまにありますね。でもまずマスコミは相手にしませんが・・・。

 

Re:「けっ」の読書コンクール

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月18日(火)14時13分14秒
返信・引用 編集済
  トマトさま
取次店勤務です。が、某大電脳会社に押し殺されて、今や青息吐息です。次は誰が怪しくなるのか、社員が探り合いをする状態です。侮るかな、某大電脳会社よ。
>オハナシの「素」はたくさんあります
もっと、オハナシくだされませ。おもしろいことに、少しずつ、オハナシが微妙に変化しているように思えます。それはそれで当たり前なのですが、変化したオハナシも、十分におもしろいので、待っております。

管理人様
>かんべさんの講演会はいつでしたっけ、もう2,3年前ですよね
はがきが来たのですね。ううむ、市民の税金を無駄遣いしているのかも知れませんね。しかし、管理人様のおっしゃるとおり、善意によることかも知れません。とにかく、今回の案内にあるように、来て貰いたいのは来てもらいたいのかも、です。
 

離せ、離してくだされー!

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月17日(月)21時30分15秒
返信・引用 編集済
  段野さん
「西宮文学案内」のハガキが届きました。かんべさんの講演はいつでしたっけ、もう2、3年前ですよね。市民でもないのに、いまだに届けてもらえるのはありがたい限りですが、過剰サービスでしょう。だいたい市民でもなかなか当選しないほどの狭き門であるのに、さらに市外からも広く募集するというのはどういう考えなんでしょうかねえ。いやいや、地方自治体のサービスはこれくらい善意にあふれたものであるべきなのかも。地方公共団体が民間会社みたいに効率を追求し始めたら、まず間違いなく市民は大迷惑すると思います。無駄には無駄の価値があるので、市のサービスは、これくらい緩くてちょうどいいんじゃないでしょうか。善意のまち西宮市に栄光あれ!(^^;

トマトさん
>「小保方激情」はあえなく閉幕してしまいましたが…
 どうなんでしょう。「周りの研究者からは「きっと間違いだ」と言われた。くやしくて、泣き明かした夜は数知れない」とはっきり言い切ってた人ですから、本当は反論したくてたまらないんじゃないでしょうか。割烹着姿で鉄砲玉のように飛び出して行こうとするのを、「話がややこしくなるから、絶対にマスコミの前に出さすな」と、皆で寄ってたかって必死に押さえ込んでいる、ってところなんじゃないでしょうかねえ(>おい)(^^;。

あ、キュベレー閣がTOMATO劇場に模様替えしていますね(^^)
 

「けっ」の読書コンクール

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月17日(月)19時07分41秒
返信・引用 編集済
  管理人さん、段野さんなるほど「けっ」の全国読書コンクール課題図書にはそういう裏話があったんですか・・・。

段野さんは書籍取次店か販売店にお勤めだったのですか?あの読書コンクールは、「全国学校図書館協議会」という組織がやっているようですね。
一方戸舞家のモデルになった某さんのところなどは課題図書を絶対視していましたね。オハナシの「素」になった事実はあるのですが、それにアレコレ尾ひれを付けたりいろいろバリエーションを作ってオハナシを空想するったいうのは楽しいですね。なんか小さな喫茶店でのケーキセットつきのトークショーみたいな感覚です。「小保方激情」はあえなく閉幕してしまいましたが…。(stap細胞も空想だったのかな…?)しかしオハナシの「素」はたくさんあります。
 

Re:偕成社等

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月17日(月)14時41分48秒
返信・引用 編集済
  >読書コンクールの課題図書になれば、ずいぶんと売れたのでは
いえいえ、そんなことはありません。それこそ、「けっ」といって、手をのばさない人で一杯です。
返品の山で、毎年担当者が返品交渉しておりました。あまりに多いと、出版社が受け取らない最悪の状態になりますので、苦労しておりました。
それと、課題図書には麗麗しく、金色のシールが貼ってありますね。これも、出版社を泣かせるはめになります。出版社に返品する、課題図書は大抵ロングセラーか、長く売りたい本(同じか)、高校生なら、今後も通用する(けっ)文芸作品などですね。この、シールがあるがために、再度販売するに当たり、この本そのもののカバーをかけ替えなければならないのです。勿論、出版社には、カバーの在庫があるので、付け替えますが、手間がかかり、大変です。(このカバーは、本屋さんがかけるカバーではありません)
売れてほしいのは売れてはしいのですが、現実には「けっ」という本が、毎年選定されているのです。
 

Re: 「もぐら通信18号」より

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月16日(日)21時26分48秒
返信・引用
  > No.5236[元記事へ]

 岡田裕志「『新潮日本アルバム 安部公房』」は、持ち本自慢をするコーナー《私の本棚より》に掲載されたエッセイ。
「「故郷喪失」も、喪失とは持っていたものを失う  のであって、最初から持たなかったとも言えるのでは」
 というのは全くそのとおりですね(「悪夢としての都市」も同じく)。
 単なる紹介(自慢?)で終わらず、当該書にまつわる個人的な思い出等が重ね合わせられていて、エッセイだからそれは当然なのかもしれませんが、当該書籍と著者の「ただならぬ関係」が実に興味深い。一種のシンクロニシティですね。
 そして「記憶問題」は、私も同じなので「そうなんだよなあ」と強く(切なく(^^;)共感しました。良エッセイでした。

 

Re: 偕成社等

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月16日(日)20時41分0秒
返信・引用 編集済
  > No.5238[元記事へ]

段野さん
 お知らせありがとうございます。
 うちには届きませんね。市内と市外で区別しているのでしょう。いやまあ当然なんですけどね。

トマトさん
>読書コンクールの課題図書になければ、ずいぶんと売れたのでは
 いやたしかに。私も、まず課題図書は、けっ、と言って選択肢から外してましたね。
 いま調べたら、高校でも課題図書があるようです→過去の課題図書。そうでしたっけ。記憶にありません。高校の教師も馬鹿にして紹介しなかったのかも(^^;

 さて拝読しました。いつものモチーフのヴァリアントですが、おお、今回は20枚の大長篇!(>おい) 私は20枚なんて長いの、ここ10年以上書いたことがありません(汗)。今回は長い分、ぷっと吹き出すところも何箇所かあって(まあオヤジの功績ですが(^^;)、20枚をあっという間に読み終わりました。
 眉村さんや大江健三郎も、ヴァリアントと言って(基本的には)同じ話を、少しずつ変えて何度も書くのですが、こういうのって、一つ書き上げた段階で、このストーリーでよかったのだろうか、そうじゃないストーリーがあるんじゃないか、という感じで、浮かんでくるんでしょうか?
 

偕成社等

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月16日(日)16時14分53秒
返信・引用 編集済
  偕成社とはなつかしいです。よく「読書コンクール」の課題図書の金メダルみたいなのが表紙に印刷されてしまいした。しかし読書コンクールの課題図書になければ、ずいぶんと売れたのでは…と思いますね。
しかし読書コンクール執筆のための読書を行う場であった「昔風の図書館」って絶滅してしまいましたね。杉並区立高円寺図書館が年季の入った昔風図書館だったんですが、今は今風図書館です。


そしてまた週末、ドラえもんにあって「どこでもドア」で北関東にトリップしてしまいました。



隣の戸舞さん


 昔、ウルトラセブンか何かで、
「隣の住民は地球侵略を企てる異星人だった…。」
なんていう話を見たことがある。
  舞台は東京山の手、東急東横線沿線っぽいごく普通の住宅地の一軒家。その隣の家には背広を着た30から40代の男の人が一人で住んでいるが、近所との付き合いをまったくしない人でどういう人なのかわからない。それであの晩、二階の窓から隣の家を覗いてみる。
  するとその背広を着た男の人が突然爬虫類みたいな異型の姿になった。さらに洋風の居間にはランボルギーニカウンタックみたいな異型の乗り物がおいてある。その異型の姿の隣人はそのカウンタックみたいな異型の乗り物に乗る。するとそのカウンタックの後ろから火が噴出し、夜空に飛び立つ。そして赤い不気味な天体へ向かって行く…。そのおじさんは毎晩、爬虫類になって例のカウンタックで赤い天体との間を毎晩往復している。もちろん赤い天体には地球を征服する企てをしている宇宙人が居る。確かそんな感じの話だ。


さて、中学時代のこと、時代は1970年代半ば。学校から帰って来ると、必ずといっていいほど隣の戸舞さんちからクラシック音楽が聞こえてきていた。かなりの音量だ。戸舞さんちからはいつでもクラシック音楽は聞こえてくるがしかし流行り歌やテレビの音なんかは絶対に聞こえてこない。大嫌いなのだ。とにかく隣のご主人、戸舞賛歌は騒音に相当神経質らしい。それでウチでも母が隣の戸舞さんちに配慮してはがテレビを見ていると「ほら、テレビの音、小さくしなさい。」という。


戸舞さんちはあれほど大きな音でクラシック音楽を周囲に流しているというのに、どうしてこっちはテレビの音なんかを小さくしなくちゃならないのか、不公平じゃないかと思ったこともある。
「隣の戸舞さんちは変わっている家だから…。」
と下手に刺激しないで距離を置いて摩擦を起こさないように、という気持ちもあっただろう。しかしやはりなんといっても隣の戸舞さんはあの「東大」を出ているのだ。そしてあの「横浜」の人なのだ。それだけでも「ウチラ北関東の田舎モノとは違い、すごくて偉いんだ。」という思いがある。さらに町の本屋に行けば隣の戸舞賛歌の本がたくさんおいてある。
「西洋史への招待シリーズ 4 神聖ローマ帝国 戸舞賛歌」
「モーツァルト 私の心の旅シリーズ 1 ザルツブルク 戸舞賛歌」
なんていう本だ。もちんウチラでそういう本を読んだ人は誰も居ない。でもそれだけで
「えー、すごいなぁ…きっとエライ人なんだなぁ・・・さすが東大出だけのことはあるなぁ…。」
と思ってしまう。ウチのとなりに東大出の人がいる、どうだ、参ったかっととついつい友達に自慢したくなってしまう…そんな気持ちすらあの当時の私にはあった。
 さて、ウチの二階から隣の戸舞さんちが丸見えだ。だから時々覗いてみたりしたものだ。本はたくさんあって本屋のようだ。二階はご主人戸舞賛歌の部屋で、クラシック音楽はここから発生している。二階も書店みたいにたくさん本がある。本だけじゃなくて飛行機のプラモデル?らしいものもたくさんあった。なにかすごい。うちとは違う。プラモデルの格納庫みたいだ…ふと好奇心に我を忘れて無防備に覗き込んでしまう。すると戸舞賛歌にキッと睨みつけられた。なんだか知らないけど、「怖い人」だった。


 一方で夏場などはうちの茶の間では夕食時の戸舞さんちの会話が筒抜けだった。例によってウチでは戸舞さんちに気を使っていたのでテレビの音量を絞っていたわけだが、そのりためか戸舞さんちの会話が手に取るようにわかった。それを聞いていて親父や母やアネキと顔を見合わせて「ぷっ」と噴出したこともあった。そりゃそうだ。
「…ピンクレディとか言うアメリカのウタウタイ(歌手)に振り回されているようだが…。」
なんて茶の間に聞こえてくるだもん。ウチラはお互い顔を見合わせては今にも吹き出しそうな笑いのオーラを押さえ込んむのに苦労した。もちろん派手に噴出したら隣の戸舞さんに聞こえるので堪えに堪えている。しかし堪えれば堪えるほど噴出したくてしょうがなくなる。そしてついに親父が
「ぷっはははっ。」
と堪え切れずに噴出し、同時に味噌汁入りご飯粒をちゃぶ台上に噴射してしまったこともあった。
「やーだ、きたない、オトーさん、やめて、あたしもういやだ。ご飯食べたくなくなったっ ほんとにもー、おとーさんったらっ。やだやだやだっ。」
とアネキが騒ぎ始めて食卓はもう大混乱だ。もちろんわたしだって目の前に親父の口から吹き出したご飯粒があるんじゃこれ以上この場で食事をする気になれない。
北関東の田舎の親父とはこんなものだが、しかしそれほどまで戸舞家の会話と言うことは傍から聞いてみて爆笑モノの場合があったのだ。ちなみに「ウタイタイ」という言葉だが、戸舞家独自の言葉でピンクレディや山本リンダのようなとにかくクラシックではない音楽の歌手をさす言葉だ。
.山本リンダって何者だ?。」と戸舞賛歌
「テレビのコマーシャルの歌を歌っている人。」 と戸舞賛歌夫人
「そうか、ウタウタイかっ。」と戸舞賛歌という風に使用されていた。どうも戸舞家では歌手というと、クラシック音楽のテノール歌手などのみに使われるらしい。そんな戸舞家の会話を盗み聴きして、我が家のちゃぶ台の前で笑いを堪えるのが苦しかった。そして誰かが(たいていは親父が)
「しかしウタウタイとはっ。ぷはっはっはっはっ。」
と堰を切ったように
「あっはっはっはっはっ。」
「ウタウタイとは傑作だっ。」
「あっはっはっはっ。異次元空間だーっ。」
と呼吸困難になるほど笑い転げてしまう。そしてふと
「あ、やぱっ。」
と戸舞家に聞こえないようにとピシャッと窓を閉めるのだが、しかしもうはっきりと戸舞家には聞こえているかもしれない。





一方となりの戸舞家ではテレビも自由に見ることが出来ないらしい。よく戸舞賛歌の
「うるさい、テレビ消せ。何度も言わせるな。」
という命令口調の声もよく聞こえてくる。また
「おそらく人類か発明した最大のものは音楽だろう。ベートーベンは…。そしてバッハは…。」
というお得意の「戸舞節」が聞こえてきたと思ったら、それを固唾を呑んで聞き入る
「はーっ。」
「はっはーっ。」
という家族たちの声も聞こえてくる。



とにかくそんなわけで
「戸舞さんちは変わっているから、触らぬ神に祟りなし…がいいかもね。」
それが戸舞さんちに対する基本スタンスだった。そしてウチラも次第に戸舞さんは宇宙人、奇人変人。というふうに見方も変わっていった。隣の戸舞賛歌はたしかにウチの親父など北関東の田舎者とは違う。しかしいくら天下の東大卒横浜出身者でも「ピンクレディをアメリカ出身のウタウタイ」と真顔で言えばへんな人にきまっている。ピンクレディはミーとケーで、そして「サウスポー」や「SOS」をうたっている。こっちも「北関東弁の丸出しの低学歴田舎オヤジ」VS「垢抜けした横浜出身東大卒」という一般的価値観を超越した変人ぶりだと判断せざるを得ない。



 そして中学二年なると、クラスの中に隣の戸舞さんちの香織ちゃんがいた。細身で長身なところは父親似、大きな目と目鼻立ちの整ったところは母親似だ。なにかお人形さんみたいな顔をしている。しかし存在感がまるでない。
「ああ、そういう人っ、居たんだっけ。」
という程度。学校の成績だって出来るほうでも出来ないほうでもない。つまり存在感がない。だからどうでもよかった。



 しかし初夏、中体連の応援のときに県営競技場の芝生の中に香織ちゃんが笹原先輩といっしょにいた。笹原先輩、長身で美人で、カラフルなスポーツウェアの部活着がよく似合う。ある種カリスマ的なところがある笹原先輩、姉御肌というか少年のような輝きを持っていて、同姓の後輩からモテるタイプだ。
そんな笹原先輩が香織ちゃんを「カオリン」と呼んでいた。
「カオリン、スタイルもいいしきれいな顔しているんだから、お洒落しなよ。」
そういって笹原先輩は香織ちゃんに自分の羽織っていたジージャンを肩に掛けてあげた。下を向いて少しはにかむような香織ちゃんだが明らかにその表情は何か恋人にあったようにうれしそうだった。香織ちゃん笹原先輩に恋情にも似た憧れを持っていたらしい。
「なんだカオリン、似合うじゃん。」
同級生ユミも目が力強く強く輝く。
「ほんとほんと。香織ちゃん、かわいい。」
香織ちゃんは笹原先輩と同じく同姓にもモテるタイプらしい。いままで「ネクラー自閉症―」といった感じの荒涼としたオーラしか放っていなかった香織ちゃんだが、突然超新星のようにきらきらと輝くまぶしいオーラをまとい始めた。そしてその日はずっとの筆舌しがたいオーラの花が咲いた。1970年代後半の麦秋、北関東県立競技場の芝生の上でのことだ。巷では
「恋人よ、ボクは旅立つ♪東へと向かう列車に♪」
と、太田裕美とかいう「ウタウタイ」が「木綿のハンカチーフ」とかいう「流行歌」が歌っていた。



 そして香織ちゃんは変わった。「異次元空間」的な隣の戸舞家にはほとんどいない。学校が終わると友達のところに行き、遅くまで帰ってこない。あちこちの友達の家にいって、夕食もそこで食べていた。この町でもさすがに戸舞さんちは「テレビもクラシック以外の音楽は一切禁止の家」「ピンクレディをアメリカの歌手と洗脳するヘンな家」として認知されてきたのである。だからどこの家でも香織ちゃんを受け入れてあげていたのである。その上香織ちゃんは細身で小食なので、どんぶり飯を何杯もおかわりされるという心配もない。さて、もともと細身で長身、顔立ちの整っていた香織ちゃんはお洒落に磨きがかかり、
「アイドル?」
「モデルさん?」
といってもおかしくないほど輝き始めた。もう香織ちゃんに心を開かせたあの笹原先輩同様に、香織ちゃん自身がウチラの学年ではなくてはならない存在になった。
一方戸舞さんちでは香織ちゃんの気配がしなくなった。香織ちゃんが帰ってきても夜の八時とか遅い時間になるか、でなかったら友達や先輩のところにお泊りするようになった。そういえば戸舞賛歌の様子もどことなく淋しげだ。しかし香織ちゃんが戸舞賛歌と一緒にご飯を食べたくない気持ちはよくわかる。もっとも香織ちゃんは戸舞賛歌だけではなくウチのオヤジとも一緒にご飯を食べたくないと思うが…。
 香織ちゃんを北関東大学近くの笹原先輩の家なんかでよく見かけるようになった。ピンク色のティシャツにスカイブルーのショートパンツは笹原先輩が香織ちゃんにプレゼントしたものだった。そんな格好の香織ちゃんを見れば戸舞賛歌は怒るだろう。しかし戸舞賛歌は市街地を外れた山中にいくことはあっても街中に行くことなんぞまずない。ましては大学生たちがうじゃうじゃいる北関東大のそばなんかに行くはずもない。そこには戸舞賛歌が大嫌いな財津和夫の「心の旅」やイルカの「名残雪」などといった「流行歌」が流れているからだ


 さて、夏休みが終わり、月光連山麓の北関東市は東京よりも早く涼しい風が吹く。そんななか、通称「東松原銀座」というバス通りの石黒酒店の店頭に貴重な情報源「週間セブンティーン」がならぶ。香織ちゃんは友達とそれを立ち読みしている。あの恐ろしい戸舞賛歌はこのバス通りにくることはまずない。戸舞賛歌が行くところといえば、にんじん畑を越えたところにある里山「あらあら山」などだ。



 さて、そんなある日、その日は珍しく香織ちゃんが戸舞さんちに夕方の六時ごろにいた。しかし様子がおかしい。香織ちゃん、なにかビビッて居るらしい。そしてまもなく
「おい、運動靴履いて待っていろ。何度も言わせるな。」
と戸舞賛歌の怒鳴り声が聞こえた。
「黙ってついて来いっ。」
という戸舞賛歌の命令口調の声が聞こえたので、隣の戸舞さんちの方を見ると、暗いなか戸舞賛歌が香織ちゃんを連れて「あらあら山」のほうに歩いていった。そして二時間ぐらいしてから戸舞賛歌と香織ちゃんが帰ってきた。家の中で香織ちゃんは戸舞賛歌にひどく怒られているようだった。



そしてその日を境に香織ちゃんはまたネクラで自閉症の香織ちゃんに戻ってしまった。
「ねぇどうしての、あの時のカオリンになってよ。」
とみんながいっても香織ちゃんは石のお地蔵さんのように何も言わなくなってしまった。
「ねぇカオリン、なにがあったの、あたしたちにだけ話して。誰にも言わないから…。」
といってもやはりリラクションがない。それどころか何か諦めのようなオーラが彼女に漂っている。完全に戸舞賛歌ら「洗脳」されているのだ。 そして香織ちゃんは完全に戸舞参加のロボットになった。その端正な顔には表情というものはない。いつでも戸舞賛歌に何か怒鳴られないようにと自分を殺して上目遣いだ。それは香織ちゃんだけではなく香織ちゃんママのおなじだ。こうしてとなりの戸舞さんちは香織ちゃんを「拉致」したまま、どんどん不可思議な異次元空間へと変容していく…。



「まったく北関東市の人間は市役所や農協に務めるのが一番幸せだと思っているんだから、まったく視野が狭いなぁ…。」
と聞こえてきた戸舞節に、北関東市職員でもあるウチのオヤジが
「あんにゃろう…。」
と怒り出すこともあった。また
「となりのあの頭が空っぽそうなオネーチャン、どの高校行っているの?せいぜい城南高校だな。あそこじゃろくな大学にいけないな。」
という戸舞節が聞こえてくりゃそりゃ、アネキも
「余計なお世話でしょ。」
と不快感をあらわにする。こうして隣の戸舞さんちのオーラは徐々にうちにも侵攻してきた。



「はーわかったぞ。どうも隣のオネーチャンの声紋には特徴があるようだ。」
だのなんだのって他人のとこを勝手にアレコレとキメツケてくる。そんななキメツケ戸舞節がなんだかウチラに聞こえがしに隣の戸舞さんちから聞こえてくる。戸舞賛歌、ウチラを馬鹿にしているらしい。ウチのオヤジもアネキも嫌悪感をあらわにするようになった。 さらに隣の戸舞さんには頻繁に来客が居るようになった。一人は「コーサク」というオジサン、もう一人は「シュージ」というオジサンで、ふたりとも戸舞賛歌と同じオーラを放っている。このコーサクやシュージが時折観察するようにこっちを見ているのだという。
「ほー、オネーチャン、赤いセーターを着ているな。それは心理学では反発心の表れだという。どうも反抗期のようだ。」
なんぞと一般的にアネキをキルツケ批評しているのが聞こえてくまるのではたまらない。
「やだ、それって覗きじゃん!!警察に言って、もうっ!」
とアネキはマジでブチキレる。ウチラの茶の間の雰囲気もおかしくなる。そして明らかに戸舞賛歌とそのヘンな仲間たちの「侵攻」が始まっていた。

 「戸舞っんとこではコーサクとシュージが威張ってんだよっ。」
なんてコーサクが大きな声で歌いながら言っているのが聞こえてくると、こっちまでおかしくなりそうだった。というよりマジでおかしくなった。戸舞さんちはコーサクとシュージという援軍を得て、ついにウチラ近所に侵攻を始めたのである。
「ねー。おトーさん、どこか引っ越そう。あたし、ここにいると頭おかしくなりそう…。」
「なんでウチラが引っ越さなくちゃならないんだ。出て行くのは向こうの戸舞のオヤジのほうだろ。」
「ナントカしてよ。」
「オレだっておかしくなりそうなんだから。」
とウチの茶の間の雰囲気もわるくなる。すると戸舞さんちの連中はちゃんと監察して
「どうも隣では親子ゲンカが勃発しているらしい。これは見物だ。」
なんぞという戸舞節が流れてくる。戸舞さんちは「失礼」とか「配慮」という感覚は無いのだろうか…。そしてウチラは一体何時までこの戸舞家の侵攻にさらされるのだろうか・・・。
どうも戸舞賛歌のところに来る「コーサク」と「シュージ」は戸舞賛歌の信者らしい、そしてウチラにも戸舞賛歌を神様だと思い込むように押し付けようとしているらしい。あいつらはナントカ真理教だ。自分達と同類項にならないと粛清するつもりらしい。


 そして事態は急変した。ある日、突然静岡ナンバーの白い車がやってきた。そして香織ちゃんと香織ちゃんママが「どうも永らくお世話になりました。いろいろご迷惑おかけしまして済みませんでした。私と香織は静岡に帰ります。」
といい、白い車に乗り込んだ。そして白い車は静岡に向かって走り去っていった。

香織ちゃんと香織ちゃんママが居なくなって、そして隣の戸舞さんちは火が消えたように静かになったし淋しげになった。戸舞賛歌のとこに例の覗き魔「コーサク」も「シュージ」も来なくなった。そして我が家にも平和が戻った。
「…よくわかるね、香織ちゃんと香織ちゃんママの気持ち…。」
「オレもわかるよ。」
「前々から準備していたんだね。静岡に戻る準備を…。」
「でもしずかになってよかったね。あの戸舞賛歌って香織ちゃんママがいないと何も出来ないんだね。」
今度はウチラがわざと戸舞賛歌に聞こえるように言ってやった。


 それからどうなったか…というと、実はまた静岡ナンバーの車が来て、香織ちゃんと香織ちゃんママが戻ってきた。ただし香織ちゃんのおばあちゃんも一緒に来た。
「あたしはアンタがあの子を幸せにすると約束したからあの子をお嫁に上げたんだからね。ちゃんと約束守りなさいよ。」
と香織ちゃんおばあちゃんに言われれば、戸舞賛歌は何も言えなかった。



こうして隣の戸舞さんちは「地域侵略を目論む異次元星人のアジト」から、どこまでもある普通の家になった。そして香織ちゃんの目は再び輝き、ウチラの中にまた溶け込んだ。というよりウチラの中に帰ってきてくれた…という感じだった。
  放課後、先生に内緒で持ってきたジージャンを羽織った香織ちゃんは私にやはり先生にこっそりと袋菓子「ブルボンルマンド」をにこっと笑って差し出してくれた。
  そんな香織ちゃんはウチの茶の間によく来るようになり、おかげでウチの親父も少しは垢抜けしてきたものだ。意識して標準語をつかうようになった。そして何よりもオヤジの食後恒例だった、
「あー腹きつい。げっぷ(←大音量)」
という下品極まりない儀式が無くなったという事に、誰もが喜ばしく感じた。
そういえばよく香織ちゃんおばあちゃんは静岡名物「黒はんぺん」をウチに持ってきてくれる。これは衣を着けて揚げるとおいしいのだ。それでウチの茶の間でみんな(ウチラ全員と香織ちゃん、香織ちゃんママ、香織ちゃんおばあちゃん)でたべた。
「戸舞賛歌さんはどうしたの?」
と尋ねると香織ちゃんも香織ちゃんママも
「ああ、あの人、知らない、ナガノさんちかミナトさんちか博物館でしょ、」
と涼しい顔。それでいいんだと私は思った。
 

西宮文学案内

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月16日(日)13時40分11秒
返信・引用
  まあ、こちらでは、話題というものになるのか、分からないのですが、紹介文に、おや、と思う人の話がある、とのことで、一応記させてもらいます。

タイトル「ラ・パボーニ≠訪れた作家たち」5月17日土曜日、西宮夙川公民館にて。講師、蓮沼純一

「かつて、夙川に、画家大石輝一が自ら設計・装飾したラ・パボーニ≠ニいう喫茶店がありました。そこを訪れた野坂昭如、小松左京、山下清らとの秘話など映像を交えてその文化的意義を紹介します」

だそうです。
(このお知らせが来るようになったのは、いつぞやのかんべさんの講演会に応募して、見事に外れてから以来ずっとなのです。ああ、かんべさま)
 

「もぐら通信18号」より

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月16日(日)02時42分9秒
返信・引用 編集済
   最新号より、長与孝子「安部公房氏との打ち合わせ記録(2)〜「長与日記」より・NHK放送番組関連〜」を読みました。
 相変わらず面白い。公房が長与氏にいろんな場所(主に酒席)で語った発言がメモされています。とりわけ「私小説は求道精神である」とか「テレビのホームドラマの身震いの出るような愁嘆場」なんてのは、いかにも言いそうで、公房がそのときどんな表情で、どんな身振りでそれを言ったのか、というその姿さえありありと目の前に浮かんできて笑っちゃいました(いやもちろん想像なんですが、最良の聞き手を得て、おそらく大仰な表情身振りで前のめりで喋っていたんじゃないかなあ(^^;)
 また、長与氏の公房への「入れ込み」もビンビン伝わってきます。同僚の人が「安部公房とはすごい人を発見したものだ」と評したのが記録されていますが、長与氏自身、「宝の山を掘り当てた」という手応えを感じていたに違いありませんね。

 つづけて、山本奈緒「「精神の自由の限界」について――ブルトン的「シュルレアリスム」批判として安部公房『バベルの塔の狸』を読む――」を読みました。
 当該作品を私は、いまから40年前、中学生のとき一度読んだきりで、ほとんど忘却していたのですが、本稿を読み、当時、小説の結構はどうみてもシュールレアリズム風なのに、内容ではブルトンを批判しているのが(ブルトン=シュルレアリスム派総帥と思い込んでいる中学生だったので)ちょっとよく判らなくて、困惑したことを思い出しました(^^;
 本論文によれば、「『バベル』で安部公房が主張しているのは、「純粋な精神」を求めるようなブルトン的シュルレアリスムは、一種の空論であり、つまり「精神の自由」というものは、「肉体的」また「物質的」なもの抜きには成り立ち得ないという決定的な限界をもっているということ」だとします。これは客観的にそのとおりで、たしかにブルトンの主張は楽観的というか空想的すぎます。40年ぶりに中学生の困惑が解消されました(笑)。
 ただ野暮なことを言うようですが、そのような「主張」をするために、この小説が書かれたわけではない。着想したこういう世界を表現したいという意思がまず公房にあった。そしてそれ以前から公房の頭のなかにひっかかっていたブルトン的シュルレアリスムへの批判が、その構築の材料(のひとつ)として利用された、というのが実際のところではないでしょうか。もちろん論者もそんなことは先刻承知の筈で、というかそんなことは自明とした上で、材料の一つを分析してみせたのが、本論文なのだろうと思いました。
 追記。一晩寝て起きたら、次のように考えが変わっていました。やはり公房は、ブルトンへの違和感を整理しているうちにこの小説を思いついたのかもしれません。だとしたら小説そのものの成立の核にそれがあるわけで、単に材料として利用したというのは違います。本論の考察は重要です。
 しかし多分睡眠中も無意識は考え続けていたんでしょうな。夢の中の思考おそるべし(^^;
 

Re: 「決めるのは本人だ」

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年 3月15日(土)23時42分38秒
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  > No.5231[元記事へ]

 海野さん

> ところで、式貴士さんの手紙ですが、入っていると思っていた古い手紙を入れている段ボール箱には見当たらず。
 お手数かけます。――って、私が言うことでもありませんが(笑)。
> ところでこの段ボールの箱の手紙には、今、漫画家として活躍している人が数名。
> アニメキャラデザインの大御所1名おられます。
> もちろん探偵小説家さんも1名ヾ(=^▽^=)ノ
 うちのダンボールもなかなかなものです。ただ、故人が多いのが、なんとも(悲)。
 

「スポーツ版裏町人生」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月15日(土)16時20分49秒
返信・引用 編集済
  寺山修司『スポーツ版裏町人生』(角川文庫83、元版82)読了。
 一年で文庫落ち? 私の所持本も、初版と同じ83年刊なんだけど3版となっていて、売れっ子だったのがわかります。でも多分90年代(70年代生まれが二十代)には顧みられなくなっていったんですね。寺山的な感性が受け入れられなくなったのだと思います。

「勝とうとしながら勝てず、怨念のうちに燃えつきていったヒーローたち。たとえば、甲子園の花形選手からプロ入りし、引退後、消息不明になった藤尾。生活保護法に頼って老後を送った昭和初期の名物力士、新海。さまざまなジャンルのスポーツの世界で、転落の人生を送った選手たちにスポットライトをあて、同時にその回りに吹き溜まりのように群らがる賭け屋、情報屋などの裏街紳士たちの人生をも、作者自身の人生と重ねて描く」(カバー見返し惹句)

 先日河出書房版『高橋和巳作品集3憂鬱なる党派』の本多秋五の<巻末論文>を読んでいましたら、高橋の<破滅好き>が再三再四述べられていて、面白かったのですが、その心理をさらに遡れば自己否定に行き着くと思います。寺山の敗者への思い入れも、やはり同じで、結局は自己否定の外部投影(共感)にほかなりません。
 かれらの自己否定、自己抹消願望(埴谷のいわゆる「自同律の不快」ですね)は、しかしある意味60年代の文学的精神構造を特徴づけている要素のようにも思われます。ようするに「自分という存在が一番嫌い」なんです(もちろんそれはナルシシズムが抑圧変形しただけなんですが)。
 この点、現在は180度倒立していまして(それは80年代以降、70年代生まれの読者が徐々に旧世代と入れ替わっていったことに相関しているように思います)、ナルシシズムは自己否定に韜晦されず、そのまま素直に表出されるようになった。自分へのご褒美、なんてのはその典型的表出ですね。「いま在る自分」が肯定されます。それに対して、たとえば眉村さんの初期の主人公は、「いま在る自分」が何も持っていないことを認識し、それを否定し、それを撥条に上へ上へと競争的世界に入り込んでいくわけです。
 ところが、どうも近年では、「何も持っていない自分」がそのまま肯定されているらしい。たとえばこのまとめを信ずるなら、最近の若い読者は、小説という虚構世界の中においても、「特別な存在だと感情移入出来ない」、「努力するのは物語の中でもイヤ」なのだそうで、ただし「努力も根拠もなしに棚ぼたパワーアップ」する展開は受け入れられるのだとか。面白いですなあ。
 いずれにしろ、寺山や高橋的な作風は、いよいよ振り向かれなくなっていくんでしょうね。つまり「敗者としての寺山文学」。この現状を、もし寺山が生きていたらどう感じるのか。自己否定の産物である自己の作品に、つよい愛惜と共感を抱くのでしょうか。
 闘犬の世界を描いた「牙」は、ラストがよい。おそらく八割がた虚構でしょう。もはや小説であり、私がもし動物文学傑作選を編むなら、冒頭に置きたい佳品でした。

追記。本書を読むと、亀田兄弟みたいなボクサー、60年代だったら裏町にふつうに存在していたわけで、ある意味かれらは、日本のボクシングの正統派の復権と考えてよいのではないでしょうか。あ、オモテを堂々と歩いているのが違うか(^^;
 

Re: 「決めるのは本人だ」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月15日(土)00時27分29秒
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  > No.5231[元記事へ]

海野さん
 38字14行で118ページですが、各作品3ページずつ挿絵があるので、正味100ページとして、単純計算で133枚です。10巻で1330枚。普通の文庫本で600枚位? とすれば上下巻で収まりそうですね。

 タイムストーリーが同じ判型だとしたら、そうですね、6本くらいでしょうね。6本x5巻で30本。上位30人に入ればいいんだったら、楽勝じゃないですか?(>おい)(^^;
 

「迷宮ヶ丘六丁目 不自然な街」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月15日(土)00時08分53秒
返信・引用 編集済
   先日、創作に於いて「推敲」という最終工程を疎かにすべきでないことの説明に、かんべさんがHPに書かれた記事から「盛りつけ」という表現を援用させてもらったのでしたが、今回、「「擬する」で思い出しのだが」と、さらに具体的なエンターテインメント小説のストーリー構成に焦点を絞った説明がアップされていました。創作講座で話された内容らしいです(こちら)。
 今回の内容は、ある意味すべての工程を「盛りつけ」という視点から確認するものといえるように思います。ただし(かんべさんも注意を促していますが)ある程度書き慣れて感覚を掴んでいるレベルの人には丁度よいチェックリストで(一種「塩梅」感覚?)、まあ海野さんクラスになれば、「ああわかる」という感じでしょうが、私のように「推敲」を問題にするレベルでは、当面篋底にしまっておくしかなさそうです(^^;
 また、エンタメ小説の最も基本的な構成の解説なので、これを「ラムダ構成」だとしますと、プロの作家の実作は、この工程には収まらないものになっているはずで、必ず工程のどこかで「破」を入れているんじゃないでしょうか。かかる一段上位の構成を、私は「ミュー構成」と命名したいと思います!

 ということで、日本児童文学者協会・編『迷宮ヶ丘六丁目 不自然な街(偕成社、14)読了。

 や、面白かった。子供向きの小説集ということで、ちょっとなめてかかっていたところがあったのですが、これはよかった。それどころか、一般小説のアンソロジーに比べてもレベルで決して引けをとりません。大人が(つまり私ですが)読んでも十分に楽しめるものでした。いやー児童文学あなどれません。

濱野京子「しあわせな家族」は、家族の中で自分だけが体型も性格も違うことで、疎外感を味わっていた主人公の女の子が、神隠しの森のなかの(廃屋のはずだった)家に住んでいる家族と知り合い、こっちのほうが本当の自分の家族のように感じ始める。その家の者達もうちの家族の一員になりなさいとすすめるのですが……
 というストーリーは、つきつめれば、クラーク・アシュトン・スミスのファンタジーと同じ。森の中の魔界の存在が人間を取り込もうとする。ラストは(バラしますが)結局元の鞘に収まる。これはしかし「現状肯定」「変化の否定」ですね。かんべさんの工程表で言えば「お疲れ様でした」の声に送られて、「ああ面白かったねえ」と言い合いながらドアから降りていく感じです。大変面白く読んだのですが、これは従来の児童小説ですね(いや否定しているんじゃないですよ。このような機能は児童小説の重要な要素の一つだと思います)。

伊藤美香「不自然な街」は、これまでの人生、ずっと逃げ続けてきた主人公のサラリーマンが、出勤のため嫌々通勤電車に乗り込もうとした瞬間、そういう意識につけ込まれて人形の世界に取り込まれる。で、その(人形の)世界でのセルフイメージが小学生なんです(つまり退行願望)。
 これはさすがに表題作になるだけあって、形式的にも児童小説の枠を破っています(主人公は大人なので本来児童小説のカテゴリーではない筈)。ラストも安定の現状肯定とは全くかけ離れていて、ちょっと謎めいています。

如月かずさ「教科書の精」は、未来への希望と友情の芽生えという、児童小説のコードに沿った作品。

次良丸忍「奇跡の子」も、親の愛情と友情というコード小説。

眉村卓「決めるのは本人だ」については、すでに書きましたが、表題作と並んで、児童小説のコードを破っている作品だと思います。というか、著者の最近の作風そのまま。ナイフで刺した子がどうなったか(心の問題)、などという小説的回収は一切なく(物理的には転校していく)、異常な体験をしてきた主人公にしても、それによってどう変わったか、ということには、著者はまったく関心がない感じです。「自殺卵」の主人公が書いた小説、といったイメージをもちました。

 いや、児童小説と言っても、私が子供の頃のそれよりも、ずっと自由に書けるようになっているんだなあ、そんな感慨をもちました(単に知らなかっただけかも)(^^;。

 

Re: 「決めるのは本人だ」

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 3月14日(金)23時45分4秒
返信・引用
  > No.5229[元記事へ]

>児童書で字が大きいので

ああ、そんな感じなんですね。
文庫本にすれば全10巻まとめて1冊に出来る?
タイムストーリーは原稿用紙20枚でしたから全5巻と言っても、1巻に5〜6本ぐらい入るのかな。

ところで、式貴士さんの手紙ですが、入っていると思っていた古い手紙を入れている段ボール箱には見当たらず。
雑多な手紙と一緒にせずに他の場所に大事にしまってるのかもしれません。
大探しすることになるかも。
ところでこの段ボールの箱の手紙には、今、漫画家として活躍している人が数名。
アニメキャラデザインの大御所1名おられます。
もちろん探偵小説家さんも1名ヾ(=^▽^=)ノ

http://marinegumi.exblog.jp/

 

サハリン三部作

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月14日(金)01時17分37秒
返信・引用 編集済
   
 いうまでもないですが堂チカの歌ではありません。為念。
 

 
 

「決めるのは本人だ」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月13日(木)22時39分10秒
返信・引用
   日本児童文学者協会・編『迷宮ヶ丘六丁目 不自然な街(偕成社)より、眉村卓「決めるのは本人だ」を読みました。
 20頁の作品ですが、児童書で字が大きいので、正味25枚くらいでしょうか。しかし文体はいつもの著者。ですから児童書を読んでいるという感じはしません。主人公が中学1年生というだけです。
 中学生になり、新しいクラスには、別の小学校からきている生徒もいます。主人公の一輝は、自分の前の席に座っている、別の小学校から来た翔と、そりが合わない。翔の行動すべてにイライラさせられるのです。授業中、翔が後ろを向いていった一言にかちんと来た一輝は、衝動的に、シャーペンの先で翔の背中を突っついてしまう。二度目に強く突いたとき、「何をする!」と翔が後ろを振り返り、カバンから素早くナイフを引き出し、それを一輝の胸を突き立てたのです!
 と、その瞬間、一輝は、自分が教室ではない、どこか不思議な空間に移動していることに気づく。そして一輝は、これから君に、いろんな死の瞬間を体験してもらう、と宣告される……

 うーむ。あらすじを書いていて、これは児童文学の範疇に収まらない、不安でおそろしい話じゃないか、という気がしてきました・・

 しかし偕成社の本を購入したのは、半世紀ぶりかも(^^;
 

Re: 高原列車と伝奇ロマン

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月13日(木)21時45分16秒
返信・引用
  > No.5227[元記事へ]

トマトさん
 わざわざ調べていただき恐縮です。リンク先も見ました。もう今は存在しない鉄道なのですね。地図で確認しますと、磐梯山の東、猪苗代湖の北あたりになりますね。軽便鉄道だったということで、まさに高原列車のイメージですよね。ありがとうございました。

>八ヶ岳も十分に「高原列車」のイメージにぴったりのようですね。
 そう思います。また伝奇ロマンという面でも、八ヶ岳にも、国枝史郎の『八ヶ嶽の魔神』がありますね。高原列車の走るところは、また、伝奇ロマンの地なのかも(笑)
 

高原列車と伝奇ロマン

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月13日(木)20時00分20秒
返信・引用 編集済
  高原列車のモデルですが、検索してみたら福島県内を走っていた磐梯急行電鉄(沼尻鉄道)らしいです。ヴィキペディアにありました。
夏は観光客、冬はスキー客を乗せていたとのことです。ラーメンで有名な喜多方に近いところのようですね。
五色の湖というのは猪苗代湖かもしれません。さらに半村良のお話の舞台になりそうな会津若松や山形県の米沢などもちかいですね。

しかしそれとは別に山梨と長野の県境にある八ヶ岳も十分に「高原列車」のイメージにぴったりのようですね。



http://www.pref.fukushima.jp/bunka/kindai/page_05.html

 

高原の大衆歌謡は形式を再考する

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月13日(木)01時48分54秒
返信・引用 編集済
  トマトさん
>あの時代というと、高原列車も印象的です
 高原列車って、具体的な存在ではなく、(ヨーロッパのアルプス的な)イメージで歌われたものかと思っていたので、トマトさんの書き込みを見て、あれっと思い検索してみました。小海線のことなんですか? 愛称が八ヶ岳高原線というのですね。グーグル地図では、小海線じゃなくズバリ八ヶ岳高原線と記載されていました。
 歌詞を読み返すと、たしかに「牧場の乙女が 花束なげる 明るい青空 白樺林」とか、それっぽいのですが、「五色のみずうみ」は、地図で見てもそれらしい湖は見当たりません。「五色の湯」はあるみたいですが。

 しかし昨年、私たちが『《捩子》の時代――眉村卓詩集――』(チャチャヤング・ショートショートの会)を制作したとき、《捩子》の主宰者だった方に大変お世話になったのですが、実はこの方が現在、清里に住んでおられるんですね(清里の森通信)。そんなわけで去年、ちょっと土地に興味を持ち、いろいろ調べたりしたことがありまして、『風立ちぬ』の舞台であるサナトリウムの所在地が、西八ヶ岳の富士見高原だったことを思い出したり、笠井潔が清里在住であることを知ったりとか、いろいろ知識を得たのでした。
 で、偶然にも今日再び、小海線が視野に立ち現れたわけで、なにか因縁めいたものを感じずにはいられません。ひょっとしたら私は近い将来、この地を訪れることになるのかも(^^;

雫石さん
 いや本当によいですねえ。歌謡曲って、ベタッとした印象があるのですが、彼らが歌う(演奏する)これらの、当時の歌は、テンポもよくリズム感があり、勝手に手足が動いてしまいます。つまり「ポップ」で「グルーヴィー」なんですよね。なのに70年代の歌謡曲は、多分これらの歌の直系の子孫だと思うんですが、なぜにあんなにベタッとなってしまったのか。何なんでしょうねえ。大衆小説が中間小説になってしまったように、大衆歌謡がしめった自意識に捉えられ中間歌謡になってしまったのが70年代歌謡曲なんでしょうか。

 笠井潔で思い出しました。笠井の《探偵・飛鳥井》シリーズは、ハードボイルドらしく<私>である主人公飛鳥井の視点で描写される(語られる)「一人称」小説なんですが、ここで笠井は面白い試みをしていまして、一人称小説なのに、文中で、「私」(「俺」)という言葉はヒトコトも使っていないのです。それは徹底していまして、地の文だけではなく、台詞ですら、私という自称代名詞は一切出てきません。
 これは、例の虎の穴の「変な小説」の課題に合致する趣向と言えますよね。つまり「盛り付け」にこだわった小説ということができそうです。で、読みますと、ぜんぜん違和感がない。こんなことができるのか、と驚かされるのですが、いや待てよ。むしろこの形式が当然なのではないのか、とさえ思えてくるのです。だって、実際のところ、私たちは視界の内のものを見取るとき、「私は見た」と意識しますか? 脳内で考えるとき、「と、私は思った」と意識しますか? そんなことはしていませんよね。そのような意味で、小説(プロジェクト)において自明として踏襲している形式ですが、そのアプリオリを一旦棚上げして疑ってみると、いろいろ「変な小説」のアイデアになりそうな気がします。
 と、自動的に書いているうちに思いもしていなかった結論に至ってしまいました(>おい)(^^;
 言いたかったのは、「私」を使わなくたって一人称小説は書け、違和感なく読んでもらえることができる。「形式」においても「常識」を疑ってみることは大事なんだなあ、ということなのでした(^^;

 

Re: 東京大衆歌謡楽団

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2014年 3月12日(水)20時25分47秒
返信・引用
  > No.5223[元記事へ]

いいですね。
私も1時間ほど聞き惚れてしまいました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

♪憧れのハワイ航路♪

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月12日(水)20時18分20秒
返信・引用
  あの時代というと、高原列車も印象的です。

拙文、料理でいえばブイヤベース?ですね。
まったくよくある離婚調停現場のスッチャカメッチャカドタバタ劇を、ローダン風味スペオペ仕立て、サーガ風味ファンタジー仕立てに「料理」してビストロSFで出しても新鮮かも(笑)



 

東京大衆歌謡楽団

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月11日(火)22時19分7秒
返信・引用
   オロモルフ先生の掲示板で知りました>東京大衆歌謡楽団
 ああ、これはよいですねえ。1時間ほど聞き惚れてしまいました。
 ということで、オロモルフ先生の選曲とは別のを。さすがにオロモルフ先生とは違って、どちらも戦後です(^^;。
 ←私のカラオケ持ち歌です(^^;

 
 

盛り付け

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月11日(火)20時52分40秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 しばらく「寝かせておく」というのも、よい方法だと思います。

海野さん
>盛り付けですよね。
 考えてみれば、「変わった小説」という課題自体が、結果として「盛り付け」を競わせることになっていますよね。「単身赴任戦記」の17文字一行にしろ、「ありげまじら」のワンセンテンス小説にしろ、「準備する女」*の視点人物(?)がパソコンというのにしろ。
 なるほどこの虎の穴、名前に偽りなしで、いろいろ勉強させてくれるようになっていますね。感心しました。毎月応募していれば、小説講座なんかに通う必要ないですね(>おい)(^^;

 ジャプリゾ云々は、[あなた=彼=僕]という盛りつけが[犯人=被害者=探偵]という盛りつけを連想させたのでした(^^;

トマトさん
 おお、さっそく「料理」を作品に「盛りつけ」てくれたんですね。素早い!(笑)

 *ただ純粋に読者としての好みをいえば、「変わった小説」としてはありきたりですが、「準備する女」はよかったですね。この作品には主体性が感じられるからです(まあシチュエーション的にそうなるのは必然ではあるのですが)。本篇で、パソコンによって観察されている女は、なにほどか著者が投影されています。そしてそこには自己を肩越しに見つめる、いわゆる再帰的な視線があって、ナルシシズムもありつつも、自己を客観視しており、それが作品にユーモアを付加していて、こういうのはよいですねえ。
 

創作は料理人だ☆

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月11日(火)18時55分27秒
返信・引用 編集済
  創作は料理・・・
新しい料理に出会うと、そこで一ストーリー出来てしまいそうですね。山梨産ポルチーニ茸(イタリアで好まれ茸)と米沢牛を使ったパルサミコ風味のフッェチトーネ(パスタ)、下北沢(世田谷区の町)という町を舞台にしたおいしそうなストーリーが出来そうです。



 少なくとも1970年代、家庭には必ず「茶の間」という場があった。茶の間は家族全員の共有の場であり、また来客があるとまず茶の間に通し、家族の「輪」の中に受け入れた。この茶の間には「団欒」という暖かく明るい雰囲気が存在し、この「団欒」こそが家庭の家庭たる由縁とになっていた。 そしてこの茶の間には必ずテレビが存在していた。大型の家具調のテレビで、当時テレビは一家に一台の時代だから家族が共通のテレビ番組を見る。この家族共通番組の最たるものが大晦日の紅白歌合戦だ。 こうして茶の間には従姉妹だとか姉の友達、私の友達などが出入りする。そこでたとえば姉の友達と従姉妹がであったりすると、そこで初対面なのに仲良くなっては部活着などを譲ってもらったりする。茶の間にはそういう何かがあった。



 しかし茶間の間がない家が町内にあった。戸舞家のモデルになった某家だ。この家は庭に大きなメタセコイアがあるので遠くからも見えた。背の高い細身のオジサンが住んでいる。この某家、周囲から憧れととともに異質なものとして見られていた。うっそうとジャスミンの生垣が茂り、何か西洋骨董の店のような雰囲気だ。 何時だったか私はこの某家にいったことがある。やはり茶の間はなく、そのかわりにテーブルとイスがある食堂兼居間があった。当時としては珍しいフローリングでテレビは…とても小型で本棚の中に納まっていた。この家は壁一面、床から天井までびっしりと硬そうな本が並んだ本棚があったのである。そして何よりも家の中の雰囲気がほかの家と違っていた。何か石膏で出来たベートーベンなどの胸像や肖像画が不気味に存在する学校の音楽室のような、そんなヒヤッとした空気だった。



 キャンディーズが「あなたに夢中」を茶の間のテレビの中で歌っていたあのころ、東京と東北との中間に位置する北関東市東松原市の戸舞家では、その家庭の実質というものが変容し始めた。

戸舞賛歌のカミサン(夫人)、詩織の実家では詩織の母、麗がこう諦めきった表情でつぶやいた。
「もう北関東のあの人たち、静岡には帰ってこないわね。2.3年で静岡に帰ってくるって言っていたのに…。」
こうして麗は静岡のこの家を引き上げ、次女綾香のいる東京近郊の町、町田へといく決心をしたのだ。

そしてこのことはもう詩織が戸舞賛歌に
「香織を連れて静岡にいきます。」
とは言えなくなってしまったことを意味した。
詩織は何かしら不安を感じた。
「これからはあの人のわがままにつき合わされるのかな…あの人、どこまでわがままになるのだろう…。」
詩織はわかっていた。戸舞賛歌がまもなくこの家を「クラシック音楽以外一切厳禁の家」にするということも…。居間の小さなテレビではキャンディーズが「あなたに夢中」をうたっている。この歌もここで聴くのも今のうちかもしれない…。

  一方戸舞賛歌は
「これでようやく自分の好きなように出来る。」
となにか喜びを感じた。それまでは静岡からの影響力が何かと邪魔だった。しかし静岡の家がなくなるということはもう義母の影響もなくなるということだ。そしてこの北関東市東松原町の戸舞家は戸舞賛歌が詩織と香織に
「いやならこの家から出て行ってくれ。どこでも好きなところに行け。」
といえるようになった。

  そして突如、戸舞賛歌の独裁制は始まった。詩織や香織がテレビを見ていると、
「おい、うるさい、消せ。」
と怒鳴る。いやならこの家から出て行けといえばいい。また香織がピンクのティシャツにジーンズのショートパンツを穿いていれば、
「そういう格好はするな。」
といえば香織は自分の気に障らないようにと白いブラウスに紺のつりスカートに着替えてくる。妻である詩織がマガジンラックに「LEE」という雑誌を入れていれば
「そんな雑誌は見るな。捨てろ。」
と言えばいい…。こうして詩織と香りは何時しか戸舞賛歌に何か言われないように、と常に戸舞賛歌の顔色を伺うようになってしまったのである。つまり戸舞家は戸舞賛歌の私物となってしまったのである。詩織と香織は戸舞賛歌に頭を下げてこの家に居させてもらっているのだ。

  そんな中、戸舞賛歌は自宅に同僚長野肛作をよく連れてくるようになった。長野肛作は戸舞賛歌のイエスマンだ。その一方で香織はもちろん詩織も友達を連れて来れない。というより戸舞賛歌は詩織と香織の対人関係をすべて自分経由にしてしまったのだ。香織、小学校六年生のときの「災害」だった。



しかしまもなく転機は訪れた。香織が中学二年になると、同級生や先輩に友達ができた。すると香織は戸舞賛歌が一日中居る自宅にはとても寄り付く気にはならない。学校が終わると直接友達や先輩の家に行く。時には夕食も済ませてきたりする。
「香織ちゃん、なんで家に帰らないの?」
「だって詰まんないんだもん。おとーさんがクラシック以外ためだっていうし、いちいちうるさくて…。」
「へー。香織ちゃんのおとーさん、そんなに厳しいの。でもヘンね。」
「ヘンでしよ。」
たしかにヘンだ。こうして香織は極力自宅に寄り付かなくなった。 この状況に寂しさや危機感のようなものを感じたのが戸舞賛歌だ。戸舞賛歌は香織が自分の世界から離れていくことを感じた。そして夏休みになればますます香織は家に寄り付かない。朝早く友達の家に行き、そして夜遅く帰ってくる。部活だというが…はたして本当だろうか、しかし部活とはそんなに価値があるものなのか…。


「うちにはうちのやり方があるっ。香織に余計なことはしてくれるな。」
戸舞賛歌は次第にそんな気持ちがこみ上げるようになった。

  そして夏休みが終わったある日、久しぶりに町に出た。そして目撃してしまった。娘香織が「ジージャン+ネイビーのサテンショートパンツ+ピンクのパーカー」という戸舞賛歌にとっては耐え難い格好でやはり同じような格好をした友達と一緒に歩いているのを…。これには戸舞賛歌は大きなショックを受けた。
「ショックだ。これは一体どういうことだ…。」
戸舞賛歌は自宅に帰ると、二階の書斎で考え込んだ。 やがて香織も帰ってくる。しかし服装はジージャンとかではなくてなぜかセーラー服姿だ。先ほどのジージャンとかは友達の家で着替えたらしい。
家の中には重苦しい空気が包む。夕食時も戸舞賛歌はなにもしゃべる気にはならない。いつもだったら朗読するように新聞記事を読み上げ、それについてのあれこれの批評を聞かせるところなのだが…。

「おい、運動靴履いてジャージに着替えて待っていろ。何度も言わせなっ。」
夕食後、戸舞賛歌は香織にそう命じた。まもなく香織が運動靴に学校指定青ジャージ姿で玄関に出てきた。
「黙って付いて来いっ。」
そういうと戸舞賛歌は香織を連れて近くの里山「会津磐梯山」へと連れて行った。会津磐梯山は神社があり、石段が下から上まで通っている。戸舞賛歌は香織を率いてその石段を登る。そして山頂の境内で、香織にこういった。
「さっき一緒にいたのはお前の友達かっ?」
香織は震え上がった。しかし今更どうすることも出来ない。
「うん。」
「ああいう連中とは付き合うな。わかったな。それからああいう格好もするな。いやなら家から出て行け、」
十四才の香織には何も言うことはできない。香織は諦めるしかなかった。 そして家に付く。戸舞賛歌は香織をやさしく受け入れ、そして今の本棚を指差してこういった。
「ここにはこんなによい本があるじゃないか。」
そしてその中から一冊、ロマンロランのジャンクリストフを取り出し、香織に渡した。「これでも読んで見ろ。これを課題と書とする。いつかは読み切るように。」
と指定した。そして戸舞賛歌は香織にはこの今の本棚以外に関心を持つことを禁じた。いやならこの家から追い出す…。
  このときから香織は友達を失った。そして戸舞賛歌に黙って付いていくしかなかった。戸舞賛歌はよく同僚でありイエスマンの長野肛作を伴った例の里山、会津磐梯山へと散歩に出かけた。そこに香織も同行させた。


 時が経ち、香織はこのつまらない家を出た。そして東南アジアのたいのバンコク、アメリカ西海岸のシアトル、フランスのシャルトル、ドイツのミュンヘンやイタリアのフィレンツェ、火星のタコ星人集会所や木星の大赤斑レストランまで廻って来た。観光ではない。あのつまらない家から逃げ出すための宛てもない放浪の旅だ。しかしどこに行こうとも香織は戸舞賛歌が支配するあの居間の本棚から抜け出すことは出来なかった。そこには「世界の名著」「世界大百科事典」などはあるが、「SFマガジン」や久野四郎「砂上の影」はなかった。「岩波文庫」はあるが、「週刊明星」や「暮らしの手帳」はなかった。香織は世界中どこに行こうともあの北関東の戸舞家の居間の本棚から逃げ出せなかったのである。
  そして失意のうちに帰国した。北関東に帰るか、でなかったらおばあちゃんの居る町田の家に行くしかない。そして小田急線に乗って町田へと向かった。


 町田の家には香織のオバ綾香とおばあゃん麗がいた。その晩、綾香と麗はは香織にこういった。
「ねぇ 香織ちゃん、あなたあの北関東の家、出る?」
香織にはその綾香と麗の言葉の意味がわからなかった。しかし綾香と麗が自分の人生を変えてくれそうなことだけはわかった。
「とにかく、明日、私と一緒に来てっ?」
こうして翌日、香織は綾香につれられて、都内に出てきた。
「小田急ママさんバレー法律事務所」
というドアを潜ると、髪が長く、まるで仲間由紀恵のような弁護士、真間山馬鈴(ままさんばれーと読む)がいた。相当の美人なのだが実は香織も詩織も綾香も相当の美人なので、とくに美人と驚くことではなかった。いっぽう弁護士、真間産馬齢は香織を見て自分の分身のような懐かしさと新鮮さを感じた。そしてなんとしてでも香織を救い出そうと決意した。
  それはまず真間山が香織の親代わり身内代わりになることだった。同時に香織も自分の運命か大きく動くなく何かを感じた。香織本人の同意さえあれば弁護士真間山馬齢は香織に対する人生保護請求の申し立てを新宿地方裁判所伊勢丹支部へと出すことも出来る。 一方香織の祖母麗は、香織をこの町田の家に引き取り町田の家の子として受け入れることを考えていた。できれば香織だけではなく詩織も引き取りたい…。そのために麗は静岡の家を売却した資金を残していた。そしてこれを香織と詩織のために使おうと…。

  町田では香織のおばあちゃん若菜麗、オバ四野綾香、綾香のダンナ四野久郎などが全員で香織と詩織を応援していた。つまり詩織と香織の母娘を受け入れる体制は着々と出来ていたのである。


 そんなことは何も知らないのが戸舞賛歌だ。戸舞賛歌はイエスマン長野肛作幸作を自宅書斎に招いてはクラシック音楽談義に明け暮れていた。博物館学芸員も資料整理という名目で自宅で仕事をしていることにも出来る。もちろん妻詩織や娘香織は自分のアシスタント兼献身的奉仕者になってもらうという魂胆だ。実際に戸舞賛歌は西洋史舞台にした「ハイデルベルクの石畳」シリーズや、クラシック音楽批評「モーツァルト、私の内的宇宙の旅」を全国紙「毎晩新聞」に発表している。自分は灯台を出ているんだ、こんな田舎の博物館員で終わってたまるか、そういう思いが日に日に戸舞賛歌に強まった。そして灯台を二回滑って川崎国立大学にいった長野肛作もそんな戸舞賛歌の夢を後押しした
?

 世の中、こうして離婚調停とやらが始まるのだ。しかし離婚調停では決して解決しない。本当に解決するのなら、本屋にいって、そして早川や創元のSF文庫のところでタイムマシンを使用することだ。
 この場合、タイムマシンで1950年代末の静岡市、美人の少ないといわれる静岡で一際きれいな若菜詩織は戸舞賛歌を突き放して、それまで付き合っていた村木沢啓との愛を育むべきだった。実際にDNA鑑定したところ香織は戸舞賛歌ではなく村木沢さんの子供だった。 そういうことで、例によって新宿家庭裁判所紀伊国屋書店地下一階支部スパゲッティ屋「ジンジン」調停室に「不思議カルボナーラ」を食べに今日も出かける。「ジンジン」のオヤジさんに
「戸舞家の中で、愛が育み戸舞家に団欒がともることはあるか?」
とたずねる。するとオヤジは
「トマトが入っていたらカルボナーラじゃないなんて、誰が言った。トマトの入ったカルボナーラたべれば、戸舞家だって愛が育むよ。団欒だって生まれる。肝腎なことは、にんにくをオリーブオイルでいためることだ。後はベーコンだなっ。」
という。さらにオヤジはこうつけ加えた。
「モランボンのロールキャベツのスープで煮込んだロールキャベツだな。それをみんなでたべることだ。」
「そうか、だったら帰りに駅前のスーパー、小田急OXで買っていこう。」
するとオヤジは更にこう付け加えた。
「そう、モランボンの…ただデミグラソース味じゃだめだ。クリームシチュー風味じゃなくちゃ…。」
そうして帰りに小田急OXに立ち寄る。店員に尋ねると
「デミグラソース味ならありますが、クリームシチュー風味はもう「絶版」になりました。」
ということだった。こうして厚木基地の飛行機がうるさい神奈川県大和市はたそがれに包まれた。


 

Re: 創作は料理だ

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 3月11日(火)18時31分44秒
返信・引用
  > No.5218[元記事へ]

管理人さん、段野さん、お言葉ありがとうございます。
これっきりーこれっきりーにならないように頑張りますね。
セバスチャン・ジャプリゾ?
誰ぞ彼。
なんて思って検索すると「さらば友よ」の作者?
この本たぶん持っています。
「シンデレラの罠」面白そうだな。

盛り付けですよね。
盛り付けがうまく自然に行くときは楽に作品が出来上がります。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re:創作は料理だ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月11日(火)13時36分24秒
返信・引用
  管理人様
なるほどなるほど、料理の盛り付けですか。一流シェフになるには、当然盛り付けにも気を付けねばなりませんね。確かに、一気書きをすると、それらの作業な雑になってしまう、そこのところを、気を抜かないでやることが、肝心なのですね。ありがとうございました。
 

創作は料理だ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月10日(月)21時37分12秒
返信・引用 編集済
  海野さん
 拝読しました。
 おお。これはまたセバスチャン・ジャプリゾもびっくりの超絶技巧作品(^^;。
 さすがでありました!
 そういえばこの作品、ある意味「盛り付け」の巧みさで勝負した料理といえるのではないでしょうか(>下記)

段野さん
>料理されちゃいましたね
 料理しちゃいましたーm(__)m。
 いやおっしゃるとおり! 創作ってたしかに料理なんですよね。良い言葉を挙げて下さいました。
 実は、まるではかっていたかのように、かんべさんがふりーめもで、仕事の進め方(プロジェクト)は料理と同じである、と喝破されていて、いや全くそのとおりだなあ、と思ったのです。その伝でいけば、当然創作もプロジェクトであり、料理に擬するのは当を得ていると思います。
 段野作品の場合、私が思うに、かんべさん謂うところの「盛りつけ」に、あまり考慮が払われてないんですよね。きれいに盛りつけられていたら、同じ料理でも、印象はぜんぜん違ってくるものです。これを創作に戻すと、すなわち「推敲」という作業が軽視されているため、折角よいアイデアの作品であっても、そのアイデアなら得られるであろう評価より低く見積もられてしまう可能性が高いということです。非常に勿体ないと思います。

トマトさん
 小手指ってどこだよ? と地図で調べました〜!
 所沢駅から、二駅先ですね(^^;
 

乗り越し等

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月10日(月)18時17分9秒
返信・引用
  段野さん、新幹線の乗り越し、心理的な動揺、たいへんでしたね。

しかし新宿で飲んで上野から柏の自宅に帰るつもりが、目が覚めると昼間になっていて場所は仙台だった、なんてファンタジー久野四郎っぽいですね。1970年前後の話らしいですが。
池袋から西武池袋線で所沢に帰ろうとして、うたた寝して目が覚めると小手指だった、ではファンタジーじゃないですね。










 

Re:「迷宮ヶ丘六丁目 不自然な街」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月10日(月)16時10分2秒
返信・引用 編集済
  「決めるには本人だ」
タイトルは知らなかったのですが、昨年11月あたりか、ゲラを見せて頂く機会がありました。依頼されてのことだと思います。シリーズものだとは知りませんでしたが。(何か、イラストもあったような……気がします)
管理人様
実は、新幹線で、乗り過ごしたことがありまして、(新幹線です。超特急列車です)あっ、と気が付くと、新大阪でのホームが離れて行くではありませんか。
やってしまった、次は、新神戸駅、引き返す新幹線があるのか、夜の時間帯、戻れるのか、めっちゃ不安になりました。(新神戸からタクシーで、何でもいいから私鉄に乗れば、戻れた)
幸にも、新大阪に向かう新幹線があったので、無事戻れましたが。
恐ろしや、侮れぬ新幹線でした。
 

Re:いろいろ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月10日(月)13時23分40秒
返信・引用
  管理人様
ありがとうございます。管理人様風に、料理されちゃいましたね、見事です。感服しました。勉強になりました。
海野さま
ついに「最優秀賞」をゲットされたのですか。おめでとうございます。なんだか、いつも海野さまの入選、佳作、受賞のお知らせばかりで、羨ましいばかりです。今後もご活躍下さいませ。
トマトさま
安西マリアは危篤状態にあるそうです。トマトさまワールドでは、元気でいて貰いたいものです。
 

Re: 眉村さん情報:「迷宮ヶ丘六丁目 不自然な街」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 9日(日)23時08分42秒
返信・引用 編集済
  > No.5213[元記事へ]

海野さん
>ついに「公募ガイド・小説虎の穴」で僕の作品が最優秀賞に
 おお、おめでとうございます。講評が載っている4月号に掲載されているのでしょうか?

>「迷宮ヶ丘」も募集があったんでしょうかね?
 このシリーズは募集したものとは違うんじゃないでしょうか。注文があって書かれたものと思います。
 5丁目に藤野恵美さんが寄稿しています。忙しすぎて親知らずを抜きにいく暇もない(笑)藤野さんが、作品を応募するってのはちょっと考えられません。それに三田村信行みたいな超大物も寄稿していますし。
 1丁目から6丁目まで確認しました。収録30作家中、藤江じゃんと伊藤美香の2作家以外は、全員、アマゾンで著作が確認できました。

 

Re: 眉村さん情報:「迷宮ヶ丘六丁目 不自然な街」

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 3月 9日(日)22時03分51秒
返信・引用
  > No.5212[元記事へ]

これは「日本児童文学者協会」というと、この間僕が応募した「タイムストーリー」と同じシリーズなんでしょうか。
「タイムストーリー」は全5巻らしいですが、こちらは10巻。
応募規定にプロアマ国籍問わずとなってましたね。
「迷宮ヶ丘」も募集があったんでしょうかね?
それともぜんぜん別物なのかなあ。

ところで、雫石さんから教えてもらって気がついたんですが、ついに「公募ガイド・小説虎の穴」で僕の作品が最優秀賞になったと言うことです。
「公募ガイド発表ブログ」を見に行くとちゃんと名前がありました。
http://seisaku.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/25-7f3a.html
作品は著作権が公募ガイドなので、ブログには載せられないので、買って読んでくださいね。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

眉村さん情報:「迷宮ヶ丘六丁目 不自然な街」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 9日(日)21時37分56秒
返信・引用
   偕成社から、今月中に発売される、日本児童文学者協会編『迷宮ヶ丘六丁目 不自然な街』に、眉村卓さんの新作「決めるのは本人だ」(20枚)が収録されているそうです。[偕成社]
[Amazon]で予約受付中です!
 この「迷宮ヶ丘」は、全10巻のシリーズみたいですね。

 それから双葉文庫は、次は『疲れた社員たち』で、5月刊行予定。双葉文庫、まだまだ続きます(^^)



 

Re: オヤジ、アゲイン

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 9日(日)21時01分48秒
返信・引用
  > No.5209[元記事へ]

トマトさん
>一駅でまだよかったですね。
 実は、さらにもうひとつ先の駅が、快速も停まる、そこそこ大きな駅でして、そこだったらタクシーが待ってたはずなんですね。歩いて戻りながら、しまった、そっちで降りたらよかったかな、と臍を噛んでいたのでした。なにせもうフラフラ状態だったので(^^;

>目が覚めると東北は仙台の一歩出前
 関東は東北と地続きですものね。やっぱり広大ですねえ。こちらはせいぜい乗り過ごしても和歌山が終点。一時間ほど。ちまちました地域です。そのかわり、昔の会社の同僚の話ですが、天王寺から乗り込んで目が覚めたら和歌山で折り返していて、次に気がついたら、また天王寺で折り返していたそうです(笑)。
 

「ほにゃらら殺人事件」観劇

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 9日(日)12時46分28秒
返信・引用 編集済
   いやー、昨日はそこそこ運動量をこなしたせいか、朝の目覚めもバッチリでふつか酔いもありませんでした。もし「この様子じゃ、明朝はふつか酔いかな」と思われたら、一駅手前か後で降りて、自宅まで歩かれることを強くおすすめしたいと思います(^^;

 さて昨日は、天王寺駅改札を出た中央コンコースの大混雑に、まず驚かされました。誘導員が「ハルカスへはこちら」とマイクで叫んでいて、そうか今日が開店日か、と知ったのですが、このあと観たオリゴ党でも、芝居の中で話題にされていていました。「今日が開店か、じゃあ見に行ってこよう」とかけ出した自称名探偵に向かって、「昨日から開店してるよ!」。あらら、そうでしたか(^^;

 ハルカスの展望窓から見ハルカス地上は唯ハルカスミなり

 地下鉄谷九で降り、松屋町筋を少し南下してシアトリカル應典院。オリゴ党のホームグラウンドですが、私は二年ぶり? 三年ぶり? とにかく久しぶり。
 タイトルが「ほにゃらら殺人事件」なんですけど、観終わって、「ゲラゲラ殺人事件」のほうが妥当ではないのか、と思いました。四国の山奥から出てき、ドサ回りしている家族劇団「鬼頭一座」(だったっけ)の舞台の最中に、座主の鬼頭祖母が殺害される事件が発生するのですが……
 本芝居は本格探偵ものにつき、公演終了までは犯人や謎解明を、ブログなどで行うことは強く自制を要請されましたので、あらすじはここまで。
 で、「ゲラゲラ」ですが、どうも四国の方言らしい。鬼頭の家族のみでしゃべる時は四国方言でなされるという設定で、これがもう何を言っているのかサッパリサッパリなんです。ただ「ゲラゲラ」という言葉が発話の頭に来ることが多く、私は「解(げ)ら」ではないかと推測しました。すなわち「わかった」とか「うんうん」といった感じの接頭語なのかも。言葉はサッパリサッパリですが、外国映画を素で見るのと同じで、身振りや口調などから大体の想像はつきます。どうせなら全セリフ方言でやってほしかった(>おい)(^^;
 そんなわけで、あんまりこの劇団の特徴であるオタク的、サブカル的なくすぐりもなく(気がついてないだけかも)オリゴ党としては新機軸な感じを受けました(いやまあ数年ぶりなんでアレですが)。
 いっぽう、(劇団員の平均年齢が年々歳々上がっていくにもかかわらず)客層は相変わらず若どまり(?)しているので、「あざみの如く棘あれば」とかコロンボの形態模写とかはどこまで伝わってるのかなあ、との危惧も感じた次第。
 あ、それで気づいた。この芝居は、やはり横溝正史へのオマージュですね。
 ということで、毎度のことながら面白くイワハシ劇を楽しませて頂きました。イワハシさん他みなさん、お疲れ様でした(まだ公演が残ってますが、とりあえず)。

 観劇のあとは、例によって某君と定員2名内容非公開のSF検討会を開催。こちらも一年ぶり。アシモフから始まってバラード世界三部作はやはり凄い。あれがよく中学生に理解できたものだなあ、という話に。そこから中学高校時代の回想に話は移り、大学に移り、某君が例の百田氏を、大学時代にいささか知っていることが判明。知っていると言っても知り合いじゃないそうです。百田氏、ラブアタックに出たことがあって当時学内の有名人だったらしい(そういえばわが大学の友人もラブアタックに出演して一躍有名人になったことがありましたな。各大学にひとりや二人はいそうですね)。で、某君いわく。あれは右翼でもなんでもない。そんな定見はない軽い人物で、誘蛾灯にふらふら集まる蛾みたいな存在で、いまは右翼に吸い寄せられているだけ。もし時代が動けば逆方向に簡単に流れていく人物とのこと。まあ、ラブアタックをきっかけに朝日にとりいってしまったところとか、世渡りはうまそうですよね。


 

オヤジ、アゲイン

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月 9日(日)12時14分37秒
返信・引用 編集済
  管理人さん、お疲れさまでした。一駅でまだよかったですね。
かつて(上野から東北まで伸びる)常磐線で寝過ごして、柏駅(通り魔で有名になった)で降りずに目が覚めると東北は仙台の一歩出前という話を聞いたこともありました。
  しかし保谷市、懐かしいですね。もう、田無市と合併して西東京市になってしまいましたが。

オヤジですね。
「おい、これ、おもしれーや。宇宙人の遺跡だってっ」
「とーちゃん、鼻糞ほじった手で「太古の宇宙人 定価1500円」見るのはやめてくれ!」

最近は奥さんや娘たちに
「おとーさん、鼻糞ほじるのやめてっ」
「そういう大きな音でゲップしないでっ。」
といわるまので、かつてのオヤジは絶滅してしまいました。もう「あー、カレー味のゲップ出た。」なんていうオヤジは絶滅してしまいましたね。

☆☆☆☆して

戸舞賛歌のオハナシです。


☆☆☆

戸舞賛歌物語 戸舞家黎明期



 それは戸舞賛歌が詩織と結婚して間もない頃の早春、まだ寒さ厳しい北関東市からぽかぽか暖かい横浜市神奈川区白幡町の家に帰ってきたときのことだ。
時代は1960年前後ぐらい。
♪ ジャジャーン ジャジャーン ぎーらぎーら太陽が燃える♪
茶の間からは戸舞賛歌には耳障り「流行歌」が流れている。家の茶の間には戸舞賛歌の妹、霊恵がたたみの上にジーパン姿で畳の上に寝転がり、「週間セブンティーン」を読みながらテレビの中で歌う安西マリアの「涙の太陽」を聞いている最中だった。それの光景を見て戸舞賛歌は目障りに感じた。
「ちっ、まったく、教養のないやつだ。良い本を読まないとこうなる…。」
とここの中でつぶやいたす。その気配に感じた霊恵はふと振り向く。
「あっおにいちゃん、帰ってきたの?」
「…詩織さんは霊恵とは違って流行歌なんて聴かないぞっ。ジーパンもはかないっ。僕の世界を解ってくれる人だっ。」
となんと軽蔑するように言った。これには霊恵はキレた。しかしケンカするのもいやだ。思い切り戸舞賛歌を睨みつけては「週間セブンティーン」を持って二階の自分の部屋に行った。
そんなことも知らない戸舞賛歌は茶の間を独占しテレビのチャンネルを変えた。幸いN響アワーがやっていた。演奏されているのは偽ベートーベン交響曲第一番「HIROSHIMA」。安西マリアに脅かされた戸舞賛歌の心が安らいだ。ポケットからは岩波文庫の「オヤツニ カール ブッセ詩集」を取り出した。
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人はいう。なんのことだかわからない。」
と朗読し始めた。思えば戸舞賛歌はこの家の二階で東京は本郷三丁目にある灯台大学を目指して勉強していたことを思い出した。灯台大学に夢見ていた教養の城、知識の御殿、理想の学び舎はどこにあるのだろうか・・・そう北関東の女体山や男峰山、合図磐梯山のその向こうにあるのだろう…そんな思いが戸舞賛歌の胸中に去来した。


 しかし実際には戸舞賛歌の新妻、詩織は戸舞賛歌が『期待』するように流行歌に嫌悪を感じるような人ではなかった。実は詩織が好きなのはシモンズの「恋人も居ないのに」やイルカの「名残雪」だった。詩織が戸舞賛歌の求婚を受け入れたのは戸舞賛歌が灯台大学卒だったからだ。灯台出ているんだから間違いない、幸せにしてもらえる…その思い込みが落ちと穴だったのだ。

  そして戸舞賛歌はまだ寒さ厳しい北関東市に戻った。西には雄大な…いうより目障りな女体山や男峰山が聳える。関東平野を北に外れればもう気候的には東北だ。一体に東北や北海道が北関東よりも寒いと思っている人が多いがそれは間違いで、冬の関東北部内陸は札幌よりも寒いのである。華厳の滝も凍りつく、この寒さが戸舞賛歌が好きだった。ぴりっとした寒さに頭が冴え、「山のあなたに…。」という詩の世界に入っていける。
  しかし未だこの頃はよかった。戸舞賛歌は昼間は博物館に居て、夜も資料整理で遅くなることが多い。それで詩織は友達と月間セブンティーンなんかを見ていたからだ。一方戸舞賛歌は博物館の上司、黒磯九尾彦に不快を感じていた。この黒磯は仕事中
「白樺、青空、みーなーみ風♪」
とよく流行歌を口ずさむからだ。そんな戸舞賛歌は家に帰るとよく詩織に黒磯の悪口を言っていた。
「ちっ黒磯、流行歌を歌っている。それに岩波書店のよい本なんか読まない。時たま本を読んでいるかと思えばSFマガジンか。ああいうのは本ではない。」
詩織は次第にこんな戸舞賛歌に嫌気がさしてきた。まだ香織が二歳か三歳のころだ。ふと温暖な郷里静岡の家が恋しくなる詩織だ。
「香りを連れて静岡に帰ろうか…まだ間に合う。」
詩織の心の中にそんな気持ちが芽生え始めた。



一方戸舞賛歌は博物館に来る学生たちを資料室に案内する。彼らが手にしている文庫本を覗き見する。
「もしや岩波文庫のオヤツニ カールブッセ詩集ではないか…。」
という期待をこめて…。しかし彼らの持つ文庫本の大半が遅川文庫の「キャプテン シャーシューメンシリーズ」や「凸レンズ ローダンマンシリーズ」といったパルプマガジンスペースオペラの文庫本だった。
「ちぇっ、」
と戸舞賛歌は舌打ちする。パルプマガジンというのはあの低俗文化を日本に持ち込んだ進駐軍たちがチョコレートとともに日本中に配っていたアメリカ発の低俗文化だ。そういう実態を見れば見るほど戸舞賛歌は妻詩織や娘香織こそは自分と同じく流行歌が嫌いで居穂波書店の「オヤツニ カールブッセ詩集」を読む存在だと期待するようになった。その期待を詩織も感じ始めていた。期待を裏切ったとき、戸舞賛歌は何をするかわからない…それが怖かった。


 

帰館

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 9日(日)00時39分35秒
返信・引用 編集済
   ひと駅乗り過ごし、(戻りの電車がもうなかったので)歩いてバックして、ただ今帰館しました。
 では、おやすみなさい〜。
 

Re: だんじり

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 8日(土)13時42分15秒
返信・引用 編集済
  > No.5206[元記事へ]

段野さん
 私なりの改稿例を作ってみました。これで474字(オリジナル497字)。「だんじり」使用6回(オリジナル12回)です。もうちょっと推敲したい箇所があるのですが、そろそろ観劇に出かけなくてはなりません。ご参考までに。


岸和田人には、忘れてはならない事柄がある。年に一度の「だんじり祭り」である。
祭りの当日、男たちは、気合を入れて引きまわす。
一台引き回せるかどうかの、町のせまい道を、引き回す。
やりまわしの辻に差し掛かった。スピードを落とさずに回るのが、引き回し衆の腕の見せ所だ。
よし! 回りきった!
見物人からはやんややんやの大喝采。
ところが、勢いが付きすぎた。
「あ、あれは何だ」「ロケットか」「飛行機か」「いや、だんじりだ」
そうです。勢い付いただんじりは、そのまま大空へ向かって飛び出していったのです!
しかし引手たちは、走ることを止めない。さらに勢いがつく。どんどん早くなる。地球自転速度に近づいていき――ついに「静止衛星」のように、見た目は同じ位置にとどまった。
日が暮れた。
だんじりには提灯がある。それぞれの町のそれぞれのだんじりに灯がともる。
見上げれば夜空にも一つ、星影ではない明かりが灯っていた――

翌朝。まただんじりは同じ天空の位置に姿を現した。
「疲れを知らない子供たちよ〜」布施陰明の「シクラメンの花」のメロディーが流れてきた。

 m(__)m

 なお、観劇のあとも、呑みの約束があり、今日は書き込みできないかもしれません。


 

だんじり

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月 8日(土)12時17分4秒
返信・引用
  管理人様
ご指摘、ありがとうございます。
勢いで書いたせいもあって、見落したくさんでした。すいません。訂正し、よりよいものにすべく、努力します。
 

オヤジとだんじり

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 7日(金)22時21分14秒
返信・引用 編集済
  高井さん
 おお、これは貴重なものですね。
 ところで、封書は50円だったんですね。いまは80円(来月から82円ですが)。当時と比べて1.6倍。
 一瞬、諸物価に比べて、上がり幅は意外に小さいなあ、みたいな印象を受けたのですが……。
 で、丁度手近にあった『ぬばたまの……』(講談社文庫)を確認したら、昭和55年刊で400円。今だったらいくらくらいでしょうか? 出たばかりの『発想力獲得食』は629円。1.57倍。
 へえ、あんまり変わりませんね。当時と比べて本の価格がバカ高くなっているという先入観があったんですが、そんなこともないみたいですね。
 追記。海野さんのも、楽しみにしています!

トマトさん
 今回、久しぶりに私の大好きな「オヤジ」が登場しました! しかしいつもより大人しかったような(笑)
 というか、全体的な印象として、書き慣れはったからでしょうか、お話もわかりやすく読みやすくなった分、最初の頃の、あの佶屈した文体(客観的には「悪文」なんですが)で繰り出されるパンチ力は少し薄れたような気がします。というのは私の手前勝手な無いものねだりで、なので今のほうが小説としてずっとよくなっていると思います。目に見えて上手になっていかれますね。今回もきちんと起承転結が付いていて、面白く拝読しました!

段野さん
 おお、今回は柊たんぽぽ風ですね(^^;
>翌日。まだだんじりは同じ天空の位置に姿を現した。
 佳いですねえ!
 ただこのみじかい話(497字=1枚ちょっと)の中に「だんじり」という言葉が12回出てきます。4x12で48字。ほぼ全体の1割です。使いすぎです。こんなに使わなくても書けるはずです。
 また「そのまま天空へとだんじりは向かって行った」と「だんじりは、空へと向かって行ったのである」、これも同じ表現で無駄だと思います。同じ表現が続くのは(とりわけ短い話では)避けたほうがいいです。
 この辺、手を入れはったら、もっと見ばえがよくなって、たぶん1枚以内におさまると思いますよ(^^;
 あと、
>「疲れを知らない子供たちよ〜」
は、「疲れを知らない子供のように〜」が正しいですが、わざと変えているんですよね。(同様に「シクラメンの花」→「シクラメンのかほり」)これでもオッケーですが、だったら「布施明」もちょっと変えたほうがよいと思います。
 とてもよいアイデアの作品だったので、逆に書き方の点で残念に思ってしまい、要らんおせっかいでありましたm(__)m



 

Re:Re: 「屋根の上の魚」に着手

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 3月 7日(金)22時11分15秒
返信・引用
  > No.5201[元記事へ]

高井さん。
> 昨日、昔の手紙のはいったダンボールを開けました。式さんからの手紙が2通、目につきましたので、出しておくことにしました。ちゃんと探せば、あと何通かあると思います。
> 画像は、最初にいただいた手紙です。「54.5.4」の消印付き。35年前ですねえ。しみじみと、遠い目をしてしまいます。

わ。そうだった。僕のも探さなくては。
きっと、たぶん、おそらく、保管しているはずです。
見つかれば画像を貼り付けますね。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re:夢と孤立

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月 7日(金)17時23分44秒
返信・引用 編集済
  管理人様
いつもレス遅くて申し訳ございません。
>この世界は、基本、夢の世界ですからね
そうです。私はトマトさまには、おもしろい世界を垣間見せて下さる方だと思っております。また、それを「おもしろがって」いる私がおります。
「岸和田だんじり」
岸和田人には、忘れてはならない事柄がある。年に一度の「だんじり祭り」である。男たちは、気合を入れて、祭りの当日、だんじりを引きまわす。だんじりが一台引き回せるかどうかの、町の道を、だんじりを引き回す。だんじりは、やりまわしの辻に差し掛かった。だんじりのスピードを落とさずに、辻を回るのが、祭り衆の見せ所でもあり、引き回し衆の腕の自慢である。やり回しで、勢いを落とさず、回ったはいいが、何と、勢い付いて、銀河鉄道999号がごとく、そのまま天空へとだんじりは向かって行った。
「あ、あれは何だ」「ロケットか」「飛行機か」「いや、だんじりだ」
何と、勢い付いただんじりは、空へと向かって行ったのである。だんじりの引手は、そのまま、走ることを止めない。走ったまま、速度は、地球自転速度と同じになり、まるで、「静止衛星」がごとく、見た目は同じ位置にいた。
日が暮れた。だんじりには提灯がある。誰が付けたのか、ほんのりと明るい、しかし、星影ではない明かりが夜空にあった。
翌日。まだだんじりは同じ天空の位置に姿を現した。
「疲れを知らない子供たちよ〜」布施明の「シクラメンの花」のメロディーが流れてきた。

失礼しました。
 

カントリーマーム、種類増えましたねー。

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月 7日(金)17時14分45秒
返信・引用 編集済
  リンク先、みました。色んな種類、ありますねー。でダージリンがあるのは、知っていましたが。
ずいぶんど進化、分化したものですね。IPS細胞はバニラですね。

で私の学区内には農地や洋服の縫製工場などの中に民家と社宅や官舎アパートが点在しするという転校生が多い学校で、思い出してみれば四人に一人ぐらいが社宅や官舎暮らしの転校生でした。
しかも金融機関の場合だと在校期間が二年から一年前後、最短では2ヶ月ということもよくありました。
そんななか転校生の中には転校してくるとすでにクラスにいる誰か適当な子供を孤立させ悪者に仕立てては自分が孤立させられないようにする場合も珍しくなかったです。ふと思い出したんですが、実は私もYという転校生によって糾弾され、孤立させられたことを思い出しました。このYも在校期間は半年ぐらいだったとおもいます。卒業アルバムにも載らない「なぞの転校生」ですね。

☆☆☆☆☆☆☆

でオハナシですが☆☆☆

夢の転校生   戸舞賛歌シリーズ


 うちの隣の「戸舞さん」のことだ。戸舞さんちのご主人、戸舞賛歌は博物館に務めているという。なんとも「天下の灯台」というすごい大学を出ていて、全国紙の「毎朝新聞」の日曜版に戸舞賛歌が「モーツァルト、私の内的世界の心の旅」というコラムを書いていた。
そんな戸舞さんちには「香織ちゃん」という女の子がいた。香織ちゃんとはクラスの同級生だ。いつでも白いブラウスに紺のつりスカート。でなかったら体操着の白トレシャツに紺ショートパンツ。この子は魔法使いサリーなどをまったくしらない。浅丘めぐみの「アルプスの少女」や南沙織の「17歳」なども知らない。隣の戸舞さんちではテレビは見ないからだ。そのかわりクラシック音楽は聴く。偽ベートーベン交響曲第1番「HIROSHIMA」などはよく聞こえてくる。
  とくに大晦日は絶対に紅白歌合戦は見ない。1970年代、紅白といえばそれこそ国民皆視聴番組であったあの時代、紅白を見ないということは考えられなかった。しかし隣の戸舞家では紅白をみない、ニュースか終わって紅白オープニングの入場行進のとき、外から
「紅白なんか、見ないよー。」
という声が聞こえてくる。窓からそとをみると隣の戸舞賛歌が大腕をふって家族を従えて街中を行進していた。また日曜日となると、よく戸舞賛歌の
「おい、登山靴履いてまっていろ、くずくずするな。何度も言わせるな。」
という怒鳴り声が聞こえる。戸舞賛歌が家族を従えてどこかに登山に行くらしい。香織ちゃんママと香織ちゃんは石像のように無表情でただ戸舞賛歌の命令に従っている。
そんな戸舞さんちの香織ちゃんはクラスでも孤立していて、よく悪ガキから寄ってたかってからかわれていた。外に一歩出ればこういう悪ガキからからかわれて石をぶつけられるので、香織ちゃんはいつでも家の中にいた。


そんなある日、クラスに真澄ちゃんが転校してきた。髪が長くエンジェルブルーやメゾピアノといった子供のブランド服をきて、AKB48のようなにおしゃれで垢抜けしていた。それが関東平野北部のダサいクラスには反感を買ってかシカト(無視)することがクラス内の暗黙の掟となっていた。 そして真澄ちゃんは同じく孤立していた香織ちゃんと仲良くなった。といっても隣の戸舞家に真澄ちゃんがくるということはなかった。戸舞賛歌がよく平日でも家にいて、二階の窓から見るとリナックス搭載のパソコンに向かってになにかを書いていたりクラシックのCDを聞いていたりする。一方の香織ちゃんが香織ちゃんママに
「真澄ちゃんのところに行ってくる。」
といっている声が聞こえた。香織ちゃんにもようやく友達ができた。だから今までになく目が輝き幸せそうだ。そんな香織ちゃんにも真澄ちゃん以外にクラスの中に少しづつ友達ができた。



そして五年生の夏休みになると、香織ちゃんは朝から晩まで真澄ちゃんところに行っていた。学校のプールで会うと、アグネスチャンの「星に願いを」やAKB48の「Give me ive」を覚えた香織ちゃんはみんなの前で歌って見せていた。そして次第にクラスに溶け込んでいった。
 そしてあの事件が起きた。香織ちゃんが
「ただいまー。」
と隣の戸舞さんちに帰ってくる。それから少しして戸舞賛歌が
「おい、香織、食事だ。」
と香織ちゃんを呼びに行く。そのときだ、
「お前もこんなもの、見ていたのかっ。」
とすごい戸舞賛歌の怒鳴り声。さらに
「こういうものはこうしてくれる。」
という怒鳴り声とともに紙を破く音。香織ちゃんの
「パパのバカ、大嫌い。」
という大きな叫び声、
「なんだとっ。」
という戸舞賛歌の怒鳴り声とともにピシャッと香織ちゃんを殴る音がし、火のついたような香織ちゃんの泣き声がくそ暑い北関東の夏の夕べに響き渡った。そのあと香織ちゃんママのすすり泣き、そんな香織ちゃんママを怒鳴る戸舞賛歌…。まさに修羅場の夜だった。
原因は香織ちゃんが真澄ちゃんからアグネスチャンやAKB48のことが載っている歌本を借りてきた部屋でこっそりと見ていたことだった。戸舞賛歌は家族にもクラシック以外の音楽に関心を持つことをゆるさなかったのだ。一方我が家では
「…隣の親父、ひでぇなぁー。」
とうちのオヤジが鼻くそをほじってそれを食べながら言った。
「香織ちゃんがアグネスチャンの本実借りてきただけでなんであんなに怒るの。香織ちゃんと香織ちゃんママ、かわいそうだよ。」
という会話がつづいた。 そして香織ちゃんはようやくできた友達も失った。また暗く一人ぼっちになった。真澄ちゃんは
「ねぇ、歌本返して。」
といっても香織ちゃんは下を見てうつむき、そして真澄ちゃん避けるだけ。まさかパパに破き捨てられてしまったとはとても言えない…。 その後秋の運動会を最後に真澄ちゃんはまた町田に転校していくことになった。



そしてうちに真澄ちゃんと真澄ちゃんママが来た。
「これ、隣の香織ちゃんに渡して…。」
そう手渡されたのはエンジェルブルーのジージャン、メゾピアノのショートパンツなどが入った紙包みだ。「香織ちゃん、とっても欲しがっていたの。うちに来て着せてあげたらとっても喜んで…。」と真澄ちゃんがいった。「…私が香織ちゃんに貸してあげた歌本、香織ちゃんのパパ(戸舞賛歌)に破られちゃったんだね。かわいそうに、香織ちゃん…。」
こうして真澄ちゃんは去っていった。



 我が家で預かったエンジェルブルーなどの服の入った包みだが、とても戸舞家にもっていけない。そんなことしたら戸舞賛歌がまた怒鳴りつけ、香織ちゃんや香織ちゃんママを殴るだろう。それでしばらくうちで預かっていた。



 そんなある日、隣の戸舞さんからこんな話し声が聞こえた。
「ねぇ香織、ママと一緒に静岡のおばあちゃんの家に行こうか。パパと一緒に居るの、もういやでしょ。」
「うん、静岡に行きたい。」
「このこと、パパには内緒だよ。」
「うん。」
そしてある日、その日、戸舞賛歌が朝から山登りに出かけていた。(実は愛人のあっていた)そしてまもなく静岡ナンバーの車がとまった。中から男の人が出てきて、香織ちゃんや香織ちゃんママと一緒に家の中から短ボールなんかを積み込みはじめた。うちの母も何がおきたのかわかった。そしてうちの母は例の真澄ちゃんか預かった紙袋をもって隣に向かった。
「これ、真澄ちゃんが香織ちゃんにだって、ほら、ご主人が帰ってこないうちに。」
と香織ちゃんママと話している。こうして静岡ナンバーの車は戸舞家を後にした。よく晴れた日のことだ。その晩、隣の戸舞家に戸舞賛歌が帰ってきた。
「おい、香織、おい、ママ、どこにいるんだ。」
戸舞賛歌はしばらく香織ちゃんと香織ちゃんママを呼んでいた。しかし食堂のテーブルの上には一人分のカレーライスがおいてあるだけで、家の中には香織ちゃんや香織ちゃんママの気配もない。家の中は祖日か消えたようだ。翌日、学校に行くと、香織ちゃんもきていなかった。先生は香織ちゃんは事情があって急に転校することになったとみんなに説明した。



 そして真澄ちゃんから手紙に来た。真澄ちゃんの町田と香織ちゃんの行った静岡は近い(ということにしておこう)ので、よく逢っているという。当時はlineなどというものはなかった。さて、香織ちゃんママは戸舞賛歌に強引に口説かれる前に付き合っていた村木沢さんと再婚した。香織ちゃんは実は村木沢さんと香織ちゃんママとの子供であることがDNA鑑定の結果わかった。ちなみに村木沢さんは高卒だ。 結局の間違いは香織ちゃんママと香織ちゃんおばあちゃんが戸舞賛歌が「灯台」というとてもいい大学を出ているので立派な人に違いない、すばらしい人生を送らせてくれるに違いないと思い込んでしまったことだった。
 

Re: 「屋根の上の魚」に着手

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年 3月 7日(金)10時27分5秒
返信・引用
  > No.5021[元記事へ]

>  海野さん。
> > 式貴士さんには手紙を書いて、長い返事をもらった事があります。
> 『死人妻』の発行人さんが「式さんの書簡を募集しようかなあ」なんて言っておられます。その際には、ぜひ!(もちろん、内容に差し障りがなければ、ですが)
>  私? どこかにあるはずなんですが、未発掘です。
 昨日、昔の手紙のはいったダンボールを開けました。式さんからの手紙が2通、目につきましたので、出しておくことにしました。ちゃんと探せば、あと何通かあると思います。
 画像は、最初にいただいた手紙です。「54.5.4」の消印付き。35年前ですねえ。しみじみと、遠い目をしてしまいます。
 

Re: 「派遣軍還る」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 6日(木)22時37分42秒
返信・引用 編集済
  > No.5198[元記事へ]

MKTさん、ご来訪ありがとうございます。
 光瀬龍は本当にいいですよねえ。今でこそこのような眉村ファンサイトを運営している眉村フリークですが、日本SFを読み始めた当初は、まず光瀬龍にハマっていました。というか、光瀬龍を読んで、日本SFに目覚めた、といったほうが正確ですね。
>ヴォークトか・・・なかなかなあれですね。
 光瀬SFのストーリーの解り難さは、ヴォークトに通ずるところがあると思っています。ということでお分かりのとおり、私はヴォークトも大好きなんです。どちらの作品も、何がなにだかよく分からんが、とりあえず凄い、という感覚を抱いてしまいます(^^;。
 そんな私も、光瀬の時代SFのストーリーだけは、なかなか腹にはまらなかったんですが、このごろ、ちょっとその意図がわかってきたような気がしているんですね(錯覚かも分かりませんが)。
 そんなわけで、実はこれまで手をつけかねていた(光瀬時代SFの最高傑作との評価が高い)『秘伝・宮本武蔵』に、そろそろ着手しようかな、と考えていたところに、まるで合わせたかのようなMKTさんのご投稿。これはなにか偶然とは思えません。背中を押されてしまった気がします(笑)。
 という次第で、読みましたら感想をアップしますので、よろしければたまに覗いて頂ければ幸甚です。よろしくお願い致します。

 

Re: 飯場...

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 6日(木)22時11分58秒
返信・引用
  > No.5197[元記事へ]

トマトさん
>70年代にアマゾンやスマホがあったとは(笑)
 いやいや、キャンディーズデビュー(1973)とピンクレディデビュー(1976)の間に広がるトマトワールドには、スマホどころか、不二家カントリーマームさえも存在しているのです(^^;(註:不二家カントリーマアムは、この「D15世界」では1984年に新発売![ネタ元])
 *ちなみにテレビ大阪「なぞの転校生」の広一たちの世界は「D12世界」ですね。あとで気が付きました。ショパンが存在しないのも納得です(^^ゞ。

>基本的に皆で仲間はずれにしてそして寄ってたかってバカにしたいという衝動が子供社会に渦巻いてしまいますね。
 そうですね。これも後知恵なんですが、そういうのって、実は親の価値観を、ただ鵜呑みにして反射しているだけなんですね。友人Kも、親が話しているのを聞いてそれを鵜呑みにして反射させていたんだと思いますね。
 一般的に言って子供にはそんな観念は独立では芽生えないと思います。現に小中学生のときは、金持ちの家の子も、私のような貧乏人の子も、いっしょになって遊んでいたじゃないですか。家が金持ちだからといって威張ったりも、貧乏だからといって引け目に感じたりもしなかったです。というか、そういう発想がそもそもなかった。たぶん高校でもなかったと思います。やっぱりそういうのは、大人になってからくっついてくる垢なんじゃないでしょうかねえ。
 
 

Re: 「派遣軍還る」読了

 投稿者:MKT  投稿日:2014年 3月 6日(木)21時58分13秒
返信・引用
  管理人さんへのお返事です。

>  光瀬龍宇宙塵版派遣軍還る』(ハヤカワ文庫81)読了。
>
>  初出が〈宇宙塵〉60年9月号〜61年9月号ということで、あとがきに著者自身も書いているように、習作というべきでしょう。習作とは言い条、十分面白かった。とりわけ前半はわくわくさせられました。
>
>  著者は、山野浩一が述べていて、私も同感なのですが、年代記シリーズの頃の作品にはブラッドベリとハインラインの影響が強く感じられます。ところが(年代記シリーズに先行する)本篇に私が感じ取ったのは、むしろヴォークトなのでした。
>  それは、たとえば1)主人公が(理由もなく、というのか、ごく当たり前に?)超人的な能力を発揮すること。2)通常の意味でのストーリーは破綻していること。3)背景(設定)も非常に適当なように見えること[註]、などに依るのですが、これらは一般的に言って、欠点として挙げられる要素ですよね。ところが、これらが欠点にならないどころか、むしろ作品を輝かせる方向に作用している。そういう点がとてもヴォークトっぽいと感じさせられたのでした。
>
>  でもよく考えたら、上記の要素は、光瀬作品には常に見いだせる要素なんですよね。しかしヴォークト的と感じたことは今までなかった。その理由は、おそらく光瀬SFを光瀬SFたらしめている「東洋的無常観」が、本篇ではあまり強く押し出されていないからではないか、と思いついたのでした。光瀬SFから東洋的無常観を除いたら、隠れていたヴォークト的資質が顕在化してきた。そんな感じでしょうか。そこで気になるのは1960年以前に著者がヴォークトを読んでいたかどうかということなんですが、元々社のラインナップに「スラン」があるので、少なくともこの作品は読んでいたのは間違いない。でも影響関係よりも、二人ともそもそも同じ資質を持っていて、一種の平行進化だったような気がしますね。本篇は、そういう意味ではむしろ後期の(連作「宇宙航路」以降の)作品群に直接繋がる面があるようにも思われます。
>  後期作に関しては、単純に本篇的要素の復活ではなく、他面、今日泊亜蘭との影響関係も気になるんですよね。私は、著者は或る時期以降、今日泊亜蘭の作風に賛同し近づいていったんじゃないかという気がしているのです。ただ私自身、今日泊がまだ腹に嵌って読めていないので、この辺は宿題とさせていただきます。
>
>  [註]これに就ては、本篇を読むと、昭和35年当時の著者はあまり天文学の知識がなかったのではないかとさえ思えてきます。でもその一方で、森優が「光瀬さんは叙情に流れるあまり科学的記述が不正確なときもあるんですね」と語っていまして(大橋博之編『光瀬龍 SF作家の曳航』177p)、たしかに正確さよりは雰囲気を重視したのは間違いないと私も感じます。いずれにしろ、そのような傾向から、私は本篇をSFではなくファンタジーとして読みました。
>
>  本篇を読んだら、むしょうにヴォークトを読み返したくなったので、『イシャーの武器店』を掘り出してきました(^^;
>

ヴォークトか・・・なかなかなあれですね。「東洋的無常観」の一節は、確かにわかりやすい違いですね。先年、カドカワのSFで「派遣軍・・・」復刻版が出てましたが、むしろ私は宇宙塵判が好きでw ぜひに山田ミネコさんに漫画化を希望するのが積年の夢なのですがw
山田ミネコさんも体調思わしくないそうで・・・。
 

飯場...

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月 6日(木)09時24分46秒
返信・引用 編集済
  管理人さん段野さん、ありがとうございました。
70年代にアマゾンやスマホがあったとは(笑)

飯場から通っている女の子が転校してくれば、基本的に皆で仲間はずれにしてそして寄ってたかってバカにしたいという衝動が子供社会に渦巻いてしまいますね。
飯場が丸見えでそこにクラスに転校してきた女の子がいるとなると好奇心旺盛な男の子にとってたまらなく面白いものかもしれません。大人の感覚では、飯場から通わなければならない境遇の女の子がかわいそうだなとかんじますが。

戸舞家のモデルも近所にあったかなり風変わりな家です。そこにKちゃんという女の子が居て学校でも孤立していました。
 

「天才は殺される」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 5日(水)21時26分26秒
返信・引用 編集済
   I・アジモフ+A・B・コーヴァー『天才は殺される 電脳惑星4黒丸尚訳(角川文庫90、原書88)読了。

 まえがきでアシモフが、自作のジョークを開陳しています。要約しますと――
 《ジムがバーに行くと、一番の親友のビルが深刻な顔で飲んでいる。「どうしたんだい?」。「家内が一番の親友と駆け落ちしたんだ」。「おいおい、一番の親友は僕だろう?」。「そうじゃなくなったのさ」》
 あはは、面白い。
 これは「受けるジョークに欠かせないのは突然の視点転換である」の実例として挙げられているんですが(ショートショートも同じですね)、この可笑しみを、ロボットは理解できるでしょうか。というか、小中学生でも理解できるかどうかですよね。私なら上のやりとりのあとに「乾杯!」と付け加えたくなるのですが、それはやり過ぎというものですね(笑)
 かくのごとく、人間は、言葉に言外の意味をかぶせる場合があり、というか大抵かぶさっているわけで、上記の「視点転換」には想像力が要求され、その想像力は、アシモフは言ってませんが(自明だからでしょう)体験の量的積み上げが基礎となる。小中学生にはそれが不足しています。あ、昨日のダブルベッドにトラウマを受けた男なら面白がったかも(^^ゞ

 というわけで、今回のお題はロボットとユーモア。
 何者かが何かの目的で建設した、ロボットしかいないロボットシティに、偶然(なのか)主人公の男と副主人公の女が流れ着き、それがきっかけでロボットたちは、建設者の意図を超えた変化を示し始めます。それが「創造性」であったり「芸術への目覚め」であったり「ジョーク」であったりするのですが、なにせロボットですからそれが何とも珍妙なドタバタ的事態に発展していきます。ユーモアに目覚めた(というよりもその体得を目指している)ロボットが、いみじくもこう言います。「つまり言葉は文字どおりにはわかるけれど、意味のニュアンスがわからない存在ですね」。ロボットは、論理的に「笑い」を突き詰めていくのですが、この辺枝雀的でもあるなあ。
 このロボットが、192pから195pにかけて話すジョークが絶品(しかも下品)(^^;
 アリエルが笑いをとめられず、「あんな――莫迦莫迦しい話、初めて聞いたわ」
 ロボット、調子に乗って「地球最後の男が、ある部屋にひとりすわっていました……」(>おい)(^^ゞ
 ――と言った具合に、ロボットたちの変化を感じ取った主人公は、それをさらに活性化するためロボットたちを役者に仕立て、「ハムレット」の上演を企図するのですが……

 面白い! 第2巻について傑作と評価しましたが、本篇も(別の意味で)傑作と言うに躊躇する理由は何もありません。第2巻は本格SFとしての評価でしたが、本巻はむしろ風刺文学的な意味で傑作です。つまりロボットたちは、(私たちの周りによく見かける)頭の固い人間のパロディになっているんですね(実際アシモフは、自分の父親をこう見立てています)
 このコーヴァーという作家、なかなかセンスありますねえ。SF作家じゃなく、主流文学の素養がある作家ではないでしょうか(残念ながら翻訳はないみたいです)。

 ということでいろいろあって、主人公たちは、ロボットシティの創造者(本篇で明らかになったのです)のロボット三原則使いのさらに上を行く三原則使いで、創造者の宇宙船を掠め、宇宙に飛び出します(と、ロボットシティから音声信号が船に届く。何事ぞ、と耳をすませば、聞こえてきたのはロボットジャズトリオ「吹きつのり三人衆」の送別の演奏、エリントン「バウンシング・ブーヤンシー」(邦訳「飛んで行けー」)なのでした!)。

 こうして本篇では、創造者が誰かは分かりましたが、その意図はまだ不明です。また主人公の記憶喪失の理由も解明されていませんし、二巻で死んだドッペルゲンガーも謎のまま。シリーズとしてはぜんぜん終わっていません。
 英語版ウィキペディアによれば、このシリーズは6巻まで出ているみたいですね。つまりあと2巻あるのですが、残念ながら角川文庫版は4巻、つまり本篇限りで打ち切りになったみたい。おお、ナンタルチヤ。サンタルチヤ!!

 

夢と孤立

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 5日(水)21時11分10秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 この世界は、基本、夢の世界ですからね。夢書房の隣の世界。丁度広一が見る夢の中で妹が成長した姿で現れるのと同じですね。

 トマトさん
>孤立転校生
 そうですね。それで思い出しましたが、あるとき、女子が転校してきました。校区に変電所があるのですがそこで大規模な工事があったんでしょうね(子供だったので詳しくは知らない)、飯場が組まれ、女の子はそこから通っていたようです。一人だけ友人がいたのですが、全体としては余りクラスになじまなかった。ある日友人Kの家に遊びに行ったら、その二階から飯場が丸見えなんですね。で、Kが、飯場の建物にいた女の子になんか侮蔑的なことを叫んでいたのを思い出しました。私はどういう態度をとったのか思い出せないのですが、まあ、あいだに入って調停しようとはしなかったので、Kに同調していたんでしょう。それは後味の悪い記憶としてずっと残っていたんですが、ひょっとしてKの行動は見下すとかそういうものではなくて、ツンデレのツンだったのかも、と、今ふと思いついたのでした。昔から(今に至るまで)鈍感なのであります(^^ゞ。
 その子は(工事が終わったからでしょう)、すぐにまた転校して行っちゃいました。
 
 

もてもて転校生と孤立転校生

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月 5日(水)13時52分15秒
返信・引用
  こんにちは。

私がいたところも社宅やな官庁の官舎があり、転校生も多かったです。
殆どホワイトカラーの子です。金融機関だと一年が二年で転校でした。やはり、もてていましたが、方言がわからないと孤立する場合も少なくありませんでした。関東北部では埼玉、栃木、福島と北上はするにつれて次第に転校生や異邦人を受け入れにくい雰囲気は強くなるようです。
関東北部東北南部語族(言葉の訛りが千葉埼玉から福島山形ぐらいまで同じで異邦人を受け入れにくい。)とは関西とは転校生への扱いもちがうみたいですね。

もてもて転校生といえば、東京南西部で神奈川と隣接する町田市からきたエムちゃんでした。
ジーンズの上下が似合っていて、髪が長くて。
町田はもう神奈川静岡語族ですね。もててはいたものの彼女も孤立してエトランゼ同士で付き合っていました。










 

Re:肉体管楽器と転校生

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月 5日(水)13時13分29秒
返信・引用
  管理人様
>口の前で歌う歌い方はあんまり好みではない
私も同感です、というより、何を歌っているのか、分からない、これは、「思いを伝える」やり方としては、あまりいい方法とは思えません。(但し、例のオープニングテーマ曲は、有名になって欲しいですが)
トマトさま
またもやおもしろくなってきました。このお話の中では1970年代に、ブック・オフや、アマゾンがあるのですね。おもしろい設定です。次は、何が登場してくるのでしょう。楽しみです。
 

肉体管楽器と転校生

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 4日(火)21時46分50秒
返信・引用 編集済
  段野さん
>オープニング曲は有名になっているのではないのでしょうか
 そうですね。そうだったらいいですね。
 私自身は、最近の傾向の、この歌手もそうですが、口の前で歌う歌い方はあんまり好みではないですね。
 大体ヴォーカルって管楽器の一種じゃないですか。人間の体内の管を全部使ってこそヴォーカルだと考えているので全部使い切ってほしい。
 私は、音楽は肉体労働でなければだめだ、という偏見の持ち主なので、それを軽くやられるのは、ちょっとね、という感じ(^^;。
 とかいいながら、演歌歌手が朗々と歌い上げる場面で、ことさらマイクを体から離して、声量を誇ってみせるじゃないですか。ああいうのは、あざとくて嫌なんですよね。客は勝手なのであります(>おい)(^^;
 

トマトさん
>堀君は某金融機関の社宅に住んでいた。つまり転勤族である。
 転校生ですね。転校生ってなぜかモテるんですよね。うちの小学校の校区に、東京に本社がある某水産会社の社宅があって、ここの子らは、堀くんと同じで、転校してきても数年でまたどこかに行ってしまったりするんですが、モテてましたねえ。やっぱり東京弁で喋るからでしょうか。生活も、われわれ大阪の下町の家とはちょっと違って優雅なんです。その子の家に遊びに行った者がいて、同窓会で言うのです。「あいつの家はダブルベッドがあったぞ。ダブルベッドやぞ」(汗)。同窓会で、その子が話題になるたびにこれを言うので、よほどカルチャーショックだったんでしょうね。しかし小学生のくせにダブルベッドでショックを受けますか。マセてたんでしょうねえ(汗)。

 

初夏への扉

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 3月 4日(火)18時05分5秒
返信・引用 編集済
  管理人さん皆さんこんばんは。
今週は天気が大荒れなようで、まだ雪が降りやしないか心配ですね。


拙作ですが

初夏への扉




 時代は1970年代半ば、キャンディーズはデビューしていたがピンクレディはまだデビューしていない。

  堀君がT木県宇都沼市東原町に引っ越してきたのは聖香が小学五年生のときだ。堀君は某金融機関の社宅に住んでいた。つまり転勤族である。
この子、あまりほかの子とはなじめない。いつでも良書や課題図書といった本ばかり読んでいる。漫画本などは決して読まない。テレビも見ていないので、アニメの話も通じない…。
そんな堀君のうわさを聞きつけたのが戸舞賛歌とその夫人美香だ。
「堀君、偉いわね。聖書などのよい本をよく読んで。」
「はい。ボクは良い本が好きだから。」
「そうだ、うちにいらっしゃい。よい本がたくさんあるよ。いつでも自由に見てよいよ。」
こうして堀君は聖香の家に来るようになった。
聖香は当然面白くない…。聖香の父、戸舞賛歌(本名星宮清治)は博物館学芸員。テレビは当時のNHKと教育テレビしか見ない主義だ。だから山本リンダを上野動物園のパンダと勘違いしている。さて、戸舞邸にやってきた堀君は戸舞邸のあらゆるところにある本を読み漁る。戸舞賛歌は特に西洋史や比較文化論などの本が多く、SFマガジンなどはおいていない。もちろん週間セブンティーンなどがおいてあるはずもない。戸舞賛歌は娘聖香に社会思想社の「ポケットサイエンス」を課題図書と指定していたが聖香は一向に見ない。
そんなところに指定された良書が好きで良書以外は嫌いな堀君がやってきた。だから「教養」と呼べる本以外認めない戸舞賛歌と美香の厚遇ぶりは著しい。一方聖香は必然的に冷遇される。
「…。」
聖香は面白くない。
「あんたっ おねーちゃんなんだから。」
と年中美香に言われる。
「ちきしょー。」
聖香の心は次第にすさんでいく。
一方堀君は連日やってきて、そして可能な限り戸舞邸にいた。戸舞邸には戸舞賛歌が古本屋やブックオフやアマゾンなどで買ってきた良書がたくさんある。洗面所や台所、しいては聖香の部屋にまで「世界の名著」といった良書がたくさんある。一方で「教養」とみなされないサーガやローダンなどはない。
  そして堀君は聖香の部屋まで領海侵犯してきた。聖香の部屋には戸舞賛歌の「世界の名著」があるからだ。そしてついに聖かの国語や社会の本まで手を出しはじもめた。聖香はもう限界だった。しかし父戸舞賛歌も母里香も堀君を神童のようにあつかっている。とうてい聖香には勝ち目はなかった。そのうち堀君は美香がイトーヨーカ堂に買い物に行っている間に戸棚の中の不二家カントリーマームをつまみ食いし始めた。聖香はそれをただ見ているだけだった。
そしてあるとき、美香がカントリーマームの袋が空っぽであることに気がつき、びっくりした。
とそうしたら堀君は、聖香がカントリーマームをつまみ食いしていたのだと美香に言いつけた。もちろん聖香は反論したが受け入れられなかった。美香は堀君がカントリーマームを食べたと決め付け、聖香を厳しく叱った。たまらなくなった聖香は
「もうとこの家にいたくない。」
と家を飛び出した。そして玄関の前で泣きべそをかいていた。すると隣のセーラー服を着たお姉さんが聖香を優しく受け入れてくれ、隣の家にいれて、チョコ饅頭をだしてくれた。聖香にとって救いの天使だった。まもなく堀君はT木県宇都沼市から新幹線ですぐの福形県山島市へと転勤になった。
「堀君いっちゃうのか…。」
それを聞いてと戸舞賛歌は淋しそうに言った。



そして月日がたち、聖香は聖ミッション女学院高校から早慶大学第三文学部に進学し、西洋史専修を卒業した。これも戸舞賛歌の敷いたレールの上のものだ。がそののち彼氏ができてそしてものの見事に彼氏に捨てられた。そして復讐に走った。


荒れ狂った聖香は宇都沼市に帰ってきた。そして家の中で暴れまくり戸舞賛歌も美香も手がつれられなくなった。聖香は堀君のことを思い出し、がんがん怒った。聖香は美香の髪の毛をつかみ振り回し、戸舞賛歌に包丁を突きつけた。「堀君なんか、殺しちまえ。」
「堀君、どこにいるの、今でも福形県山島市にいるの?殺してくるから。」
「・・・そんなに堀君が憎たらしいか…すまなかった。お前のことを忘れていて・・・」
「何を今更っ。」
戸舞賛歌と美香は聖香から逃げ出したかった。しかしどうすることもできなかった。
「タイムマシンがあったらなぁ…。」
と誰もがそう思った。戸舞賛歌は学位論文を書いていたが、それどころではない。



  そして居間に不思議な扉があることに気がついた。あの「初夏への扉」だ。
「そうだ、まだやり直せるかもしれない。とうだ、やりなおそう。」
戸舞賛歌、美香、聖香はその扉を開けた。するとそこにはあの頃の、家の前で泣きべそを書いている聖香が居た。泣きべそをかいている聖香は
「ねぇ、うちから堀君を追い出して。あいつを殺して。わたしだけをかわいがって、。」
と泣き叫ぶ。
「…まちがいだった…。」
あらためて戸舞賛歌と美香は自分たちの間違いに気がついた。まだ小学生の頃の聖香の牛には天使が立っていた。「堀君、帰りなさい。」
戸舞賛歌は堀君を追い出した。
「堀君も、聖香に罪をなすりつけたでしょ。どうしてくれるの。あんたがカントリーマーム食べたのに。」
と美香も堀君をどなりつけた。そして聖香は堀君にラリアートを食らわせた。



 ♪ とても大きな間違いが、愛を傷つけた♪ ♪この降り注ぐ、雪のように、聖香だけを愛すれば、よかった♪

とチューリップのサボテンの花が流れた。

そう戸舞賛歌と美香は思った。聖香だけを愛し続ければよかった。だれだって自分が一番かわいい。

 

Re:なぞ転第8回

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月 4日(火)15時10分47秒
返信・引用
  >有名な曲しかリクエストできないのか
というか、オープニング曲は有名になっているのではないのでしょうか、と思ったのです。絶対的に、複数の、それも大勢の人が視聴している(はずです!)番組のオープニングテーマ曲ですから、聞き覚えがあって、当然だと思います。有名曲、いいんじゃないでしょうか。
歓迎します。
 

なぞ転第8回

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 4日(火)01時32分47秒
返信・引用 編集済
  > No.5188[元記事へ]

段野さん
 有名な曲しかリクエストできないのか、という意味でしたら、そんなことはないと思います。たぶん、CDかレコードが有線の放送室(?)にありさえすれば(というか、いまは音源データですかね)、どんな無名曲でも受け付けてくれるのでは。そういえば、大昔、スナックで客が店の人にリクエストを頼んでいるのを見たことがあります。まだカラオケ設備(それも歌詞カードで歌う形式!)のある店が限られていた時代の話です(^^;。
 ということで、検索しました→リクエストについて
 そんな制限はなさそうですね。但し同一曲一日5回までとのこと(^^;
 ラジオで演歌歌手が、宣伝で自分でリクエストすると言っていたような。いやいや、なぞ転もそうだと言っているわけではありません。くだんのオープニング曲、ひょっとしたらすでに有名曲になっているかもしれませんぞ。

 ということで、第8回め観ました。王妃の病気、プロメテウスの火によるものとなっていますが、要するに、原子爆弾による放射線被曝ですよね。遺伝子が侵されると言ってますから。しかしなぜそんな言い換えを、わざわざするのでしょうか。原作には、原爆とはっきり書かれていたと思います。曖昧にする意味が分かりません。この時期だからこそ、よけいしっかりと明示すべきだと思うのですが。
 はっ。ひょっとしてそういうのは好ましくない、避けるように、というお上からのお達し……はさすがにないでしょうが、暗黙の圧力があるのかも。放送局自身がみずから先回りして規制してしまう雰囲気が、すでに醸成されているのかも。つまりNHKだけではなく、もはや民放にまで手が回ってしまっているのかも。そうなのか!?(あくまでパラノイアック・クリティークです)(^^;
 でも村田基さんのこういう意見を目にしますと、あながち妄想とは言い切れないような
(ーー;

 
 
 

「なぞの転校生」主題歌

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 3月 3日(月)14時29分26秒
返信・引用 編集済
  先日、いつも行く店で、店内にBGMが流れていまして、多分有線放送だと思うのですが、「うん?」と思い、一旦立ち止まって耳を澄ますと、「なぞの転校生」のオープニングテーマ曲「今かわるとき」が流れていました。えっ、有線、ってリクエスト中心じゃなかったっけ、では、今流れているのは、誰かがリクエストしたの? リクエストがあるのは、有名なのでは、などと、しばらく立ち止まっていました。店から見るとめっちゃ変な怪しい客と思われたかも。(有線放送にはチャンネルがたくさんあるので、ランダムにその曲を流したのかも知れませんが)買い物の途中で思わぬことに遭遇しました。リクエストなら、有名、ってことなんでしょうか。(有線放送を使わなくても、ユーチューブで手軽に聞けますが)
おおっと、か、と思ったのでした。
などと言っているうちに、もうすぐ、「なぞの転校生」はラストへと突入するのですね。期待を持ってのスタートから、早くももうこのオープニングテーマ曲ともお別れになろうとは……。一気にラスト、さびしくも、おもしろかったことが、心の中にあります。
 

「天才は殺される」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 3日(月)01時16分48秒
返信・引用 編集済
  『天才は殺される 電脳惑星4に着手。100頁。
 うむ。盛り返しました(笑)。
 それはそうと、電脳惑星というシリーズタイトルが意味不明。日本で勝手に付けられたもので、原シリーズタイトルは、ISAAC ISIMOV'S ROBOT CITY。電脳って、インターネット(あるいはサイバースペース)みたいなのを想起するのですが、この世界はそういうのではありません。翻訳された時期(90年)は、まだ「電脳」という新造語の範囲が定まっていなかったのでしょうか。それとも訳者が黒丸尚だから?(^^;



 

TV局の深謀(辛抱)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 2日(日)20時39分27秒
返信・引用 編集済
   オロモルフ先生の掲示板より夫婦の会話と了解度の記事。
 うちの父親がこれですね(母親はまだそこまでではない)。ぜんぜん話を聞いてないのかと思っていたのですが、「何を言っているかを了解」していないということなのですね。客と話していても、私などが傍から見ていて、ほとんど話の筋を逃しているなあ、と分かるのですが、適当に相槌を打ったり、笑ったりして相手にそのことを悟らせません。そこが文字どおり「老練」なところで、感心させられます(ある意味「ボッコちゃん」ともいえる)。
 テレビは、(これは母親もですが)たしかについて行けてませんね。大体アナウンサーやナレーターの話す速度が、昔より格段に早くなっています(宮田輝さんくらいだったらついていけるかもですが)。
 これは私、以前から思っていたことですが、テレビもデジタル化しているんだから、速度をテレビ受像機側で調節できるようにすればよいのではないでしょうか。当然、1時間番組を(たとえば)2時間かけて観ることになりますが、ぼんやりと、何が何やらわからんうちに番組が終わっちゃうくらいなら、そっちのほうがはるかにマシではないでしょうか(となると、一種の追っかけ再生になるのか)。
 そんなことでは、他の家族が迷惑する、というのは現実を見ない机上の空論で、いまどきテレビが家庭に一台なんてところはありません。それ以前に若い人はテレビを見ません。
 あ、となると、なぜテレビの放送はあんなに早口なのか。もし若者対策だとしたら、これも対象視聴者が現実には存在しない机上論の具体化ですね。テレビの視聴が専ら老人世代なんだったら、むしろ現在こそ宮田輝さんが望まれているわけです。
 あ、そんなことはテレビ局は先刻承知で、視聴期間が短い(老い先短い)老齢者は見捨て、若い視聴者を取り戻そうとする、いわば先を見据えた遠大な計画を、現在実践しているのかもしれませんなあ(汗)
 

 

《チャチャヤング・ショートショート・マガジン》在庫についてお問い合わせ下さった方へ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 2日(日)03時26分30秒
返信・引用
   昨日(3月1日土曜)、当掲示板の[管理者へのメール]フォームより、《チャチャヤング・ショートショート・マガジン創刊号》についてお問い合わせのメールをくださった方にご連絡いたします。
 私のミスで、いただいたメールを誤って削除してしまいました。そのため、メールで返信することができません。
 まことに申し訳ありません。
 在庫はございますので、もしよろしければ、お手数ですが、いま一度、[管理者へのメール]フォームから当方へメール頂けないでしょうか。
 せっかくお問い合わせいただきましたのに、こちらのミスでご迷惑をおかけし、本当に申し訳なく、お詫びいたします。よろしくお願いいたします。

 

「脱走サイボーグを追え!」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 2日(日)01時40分10秒
返信・引用 編集済
  I・アジモフ+W・F・ウー『脱走サイボーグを追え! 電脳惑星3黒丸尚訳(角川文庫90、原書87)読了。

 100頁過ぎたあたりから、もうやめようかどうしようか、と考えながら読んでいたのですが、サイボーグが登場して持ち直しました(^^;
 それまではグルーブ感ゼロなライトノベルまがい品で、そもそも主人公たちがティーンエージャーとなっているところで吃驚しました。実は前巻読み中私は、主人公たちは二十代後半か三十代のイメージで読んでいたのです。
 それがですよ、本巻では、主人公は副主人公の女より少し背が低いのを気にしていて、俺はまだ身長が伸びている、などと希望的観測を思い浮かべたりしているのです(つまりちょっとホレている)。大体100頁越えあたりまで、(お互い)相手が自分をどう思っているか、みたいなヤキモキ感を描くだけで終わっていると言って過言ではない(すぐ顔が赤くなったりする)*。それ以外は、いったい何がしたいのかわからない、グダグダ行動を繰り返すばかりなんですね(アメリカ版ウィキペディアによればパソコンゲーム化されているみたいで、確かにそんな感じでもあります)。
 とんでもないもの読み始めたな、と、後悔するのもむべなるかな、とご理解いただけるものと思います。
 それが、ページ数も半ば近くまで来て、「サイボーグ」が登場し、ようやく話が動き始める。宇宙船事故で、ロボットシティに墜落し、身体を重度に損傷した人間を、ロボット三原則に支配されるこの市のロボットたちは救助しなければならない。ロボットは、最後の手段で人間の脳をロボットの体に移植し、つまり脳を生かすことでその人間を「死なさなかった」のでしたが……
 サイボーグって、ロボットなのか、人間なのか。という一種のパラドックスをうまくストーリー化していて、それまでのグダグダはなんだったのか、というぐらい復活します。中学生の恋愛感情みたいなのも描写されなくなって、まあ、それなりに面白く読み終わりました。
*でも、この感覚って、意外に日本人のメンタリティに近いかも。むしろ私がウザく思った部分で、日本ではウケる可能性があるかもです。
 

《ベストSF2013》

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 1日(土)20時27分51秒
返信・引用
   森下一仁さんのサイト恒例《ベストSF2013》が決定しました→こちら
 私も投票しております。わがベスト5は――

   上田早夕里『深紅の碑文(上下巻)』
   高野 史緒『ヴェネツィアの恋人』
   平谷 美樹『風の王国(全10巻)』
   眉村  卓『自殺卵』
   R・A・ラファティ『蛇の卵』(井上央訳)
    (あいうえお順)


 上記リンク先に、簡単な推薦理由とともに載せてもらっています。

『脱走サイボーグを追え!』は200頁。残り100頁。今日中に読んでしまうつもり。
 

Re: お変わりありませんか?

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 3月 1日(土)00時12分18秒
返信・引用 編集済
  トマトさん
>本当に肺門損傷したの?
 そこはぜんぜん気になりませんでした(小説内事実として自動的に受容していました)。
 むしろこの小説の肝は、私見では「私たちは再びやり直すことになった。彼女はわたしの姉となったのだ。」だと思いますね。これをどう解釈するかですが、やはりユングが気にかかってきます(^^;

>支那そば
 全共闘くずれが(かどうか知りませんが)、「支那そば」を選択したところに興味をそそられました。
 もちろん「支那」という言葉にマイナスの意味はありません。Chinaの当て字に過ぎず、歴史性もあります。ただ日清戦争以降終戦までの日本の中国劣等視の時期の中国呼称が支那だったので、それを気にして使用を避けるのが、左翼の新旧に関わらず所謂進歩派のトレンドだったように思うのですけど、むろん「支那そば」というのはそんな文脈とは離れていますから、気にしなかったのかも。そもそも当時の新左翼と言っても、ひと皮むけば軍歌を高歌放吟する男権主義者と心性は異なりませんからね(1世代前ですが、高橋たか子が、小松左京や高橋和巳ら京大作家集団の連中の男権主義を厳しく批判してました)。実際、フォークなんて浪花節ですからね。三味線がギターに代わっただけで(>おい)(^^;。

 



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