ヘリコニア過去ログ1405

Re: 眉村さん情報:囲碁新潮掲載作品リスト

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月30日(金)21時48分51秒
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  > No.5500[元記事へ]

林芳隆さま、はじめまして。
 このたびは大変お世話になり、ありがとうございました。
 5月10日発行の貴誌《宇宙気流》87号に、眉村さんが囲碁新潮にショートショートを連載されていたことを伝えるバックナンバーの記事が再録されていたのを、87号を読まれた高井信さんが目ざとく発見され、私にご連絡下さったのが、このたびの件の、そもそもの発端なのでした。
 そしてそれを知った尾川健さんが、わざわざ国会図書館へ出向いて調査して下さいました。
 その結果、眉村さんの埋もれてしまっていたショートショートが、29篇もまとまって発掘され、日の目を見ることになりました(高井さんによりますと、眉村さんご自身もなかば忘れておられた作品群のようです)。
 わたし的にはまさにあれよあれよという感じで、これもすべて、林さまや宇宙気流の皆さま、高井さん、尾川さんのおかげです。じっさい奇跡的で、ほんとうに感激しております。感謝の言葉もありません。

>そのうちいつか読んでみたいです
 ぜひぜひ、読んでいただきたいです!
 眉村さんにご許可いただければ、たくさんの方に読んでいただけるようにしたいと、私は考えているのですが、しかしそれはまだ先の話になります。
 もしよろしければ、コピーしてお送りさせて頂きます。実は今日、高井さんにもメール便で発送したところです。

 ということで、またお気軽にお立ち寄りいただければと思います。このたびは本当にお世話になりましたm(__)m。

 

Re: 眉村さん情報:囲碁新潮掲載作品リスト

 投稿者:林 芳隆  投稿日:2014年 5月30日(金)20時30分11秒
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  > No.5496[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

初めまして。宇宙気流の編集人です。

昔の「宇宙気流」で囲碁新潮の事を知って、どこかで読めるのかどうか高井さんにおうかがいしたら、こちらにたどり着きました。
散逸せずに残っていたのですね! 素晴しい。
そのうちいつか読んでみたいです。

林 芳隆
 

Re: ガラワラ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月30日(金)20時12分29秒
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  > No.5498[元記事へ]

トマトさん
 ここ二週間くらいで、一気に夏めいてきましたね。仕事がら車で走り回ることが多いのですが、はや右腕が日焼けしそうです。

>耐火レンガの会社(ヨータイ)の社員だったことしかしりませんでした
 そうですね。眉村さんは大阪の耐火レンガの会社に入社され、まず岡山の日生工場に配属されました。そのときの体験が、のちに日生ものと私が呼んでいる、なかなかノスタルジックな作品群を生み出しました。
 お父さんの村上芳雄さんは、明治33年(1900年)生まれで、もともとは夕刊新聞の記者だったそうです。戦後はダンスホールの支配人もされたことがあったとか。エッセイか何かに書かれていたと思います。
 いまパラパラっと探してみたら、芳雄さんのこんな歌が見つかりました。

 三四回妻と踊りてホール出づかかる所業も思ひ出とならむ『しょーもない、コキ』50p)

 当該エッセイには、この歌の背景説明はなかったのですが、ひょっとしたら芳雄さんがダンスホール支配人をやめられた日に詠まれたものかもしれないな、と思ったんですが、どうなんでしょう(^^;

>望遠鏡欲しかったので
 子供の頃、私も望遠鏡が欲しかったです。でも結局買ってもらえませんでした。それで、自分の子供に(誕生日だったかクリスマスだったか)買ってやったのですが、なぜか子供は興味を持たず、今は私の部屋にあります。でももう5年以上のぞいたことはないですねえ。
 眉村さんも望遠鏡が好きだったようですね。『大阪の街角』というエッセイ集には、2回も望遠鏡の話が出てきます。『しょーもない、コキ』にも、小6のとき、親に買ってもらった望遠鏡で太陽黒点を観測した話が載っています。

 ――と、なぜそんな細かいことを書くのかといいますと、次、調べるときラクだからなんです。最近はすぐ忘れてしまうので(^^;
 
 

Re: ガラワラ

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月30日(金)17時55分48秒
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  > No.5497[元記事へ]

暑い!

毎年毎年暑くなりますね。

眉村さんのお父様は歌人だったんですか!! 私は耐火レンガの会社(ヨータイ)の社員だったことしかしりませんでした。そういえば「路傍の石」とかで有名な山本ナントカの子孫が、年がら年中作文やら読書感想文やらで金賞とかをもらって、巨大な反射望遠鏡(木星の赤いおできや土星の輪も見えるという。)をプレゼントされていたことを思い出した。(望遠鏡欲しかったのでチクショウと大いに嫉妬したことはいうまでもありません。)
 

Re: ガラワラ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月30日(金)01時19分6秒
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  > No.5491[元記事へ]

トマトさん
 拝読しました。今回はめずらしく(?)オチがつきましたね(^^;
 でもまあ、現実はそういうもんでしょうね。
 たとえば、眉村さんのお父さんは歌人でしたが、眉村さんは俳句でした。しかして娘さんはふたたび歌人なのであります。こういうのって、たぶん正常な反動形成ですよね。あべちゃんみたく親の職業を踏襲するのは、いや臆面もなく踏襲できるというのは、エディプス・コンプレックスがなかったんじゃないでしょうか(>おい)(汗)
 
 

眉村さん情報:囲碁新潮掲載作品リスト

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月29日(木)22時04分32秒
返信・引用 編集済
  > No.5446[元記事へ]

 先般、関西棋院の機関誌だった《囲碁新潮》に、眉村さんが囲碁ショートショートを連載されていたという情報をお伝えしました→眉村さん情報:囲碁新潮
 その後、私は何もアクションしてなかったのですが(いつものことですm(__)m)、尾川健さんが、国会図書館に調査に行って下さり、掲載ショートショートをすべてコピーして送って下さいました!
 これもまたいつものことながら(>おい)、本当に尾川さんにはお世話になりっぱなしで、感謝の言葉もありません。ありがとうございました。

 結局、眉村さんは《囲碁新潮》に、1963年12月号から1966年5月号まで、29篇のショートショートを連載されていたことが判明しました(この間雑誌は30号出ているのですが、1回だけ別の著者の作品が載っています)。
 1回3枚程度、丁度雑誌1頁に収まる分量なんですが、65年1月号と66年1月号のみ増量で、見開き2頁掲載(6枚)となっています。正月特集だったのかもしれませんね。
 ですから合計90枚ほどになり、けっこうなボリュームです。
 このなかから単行本収録作品があるかどうか、タイトルで調べたところ、「災難」(C席の客)と「執念」(ぼくの砂時計)が見つかったんですが、現認したら別作品でした。もちろんタイトルを変更して単行本に収録された作品がないとは言い切れません。
 とりあえず第1作「この一手」を読んでみました。
 碁好きの技師が、電子計算機に囲碁の定石を覚えこませ、仲間の天狗たちと戦わせたら連戦連勝、そこである新聞社が専門棋士と勝負させようと企画したところ……という、まるで21世紀の現在を予見したようなオハナシ(^^)
 で、その結末なんですが……囲碁は並べ方くらいしか知らない私は、最初、ナンノコッチャという感じで呆然としましたね。数分長考(>おい)の末、なるほど! と膝を叩きました(^^;
 少しだけ囲碁を勉強したことがあるという尾川さんは、どれも面白かった、と言っておられました。
 つまり、そういう具合にテーマが囲碁という特殊条件に偏向しているようで、まあ私の想像ですが、テーマがテーマだけに一般的でないと、単行本収録を見送られた可能性も高そうに思われます。
 つまり29本90枚、丸々単行本未収録ショートショートが発掘されたわけで、これは何とかしたくなってくるではありませんか(笑)。

 この連載のほかに、
◯長野県警察本部教養課発行《旭の友》1977年11月号に掲載された「10年後の昼食風景」というコント(と、雑誌ではそうなっています)。
◯小学館の学習雑誌《小学3年生》1966年1月号掲載の「ミサイル発しゃせよ!」黒川康雄/え(冬休みのSF読み物 小三空想科学げきじょう)
 のコピーも頂きました。
 長野県警察本部教養課発行《旭の友》って、きわめて特殊な媒体ですよね。むしろ一体どういう経路で注文が来たのか、そっちが知りたいくらいですね(^^;
 「ミサイル発しゃせよ!」は絵物語。実はこの作品、高井さんからデータで頂いていたもので、そのままになっていました。よい機会なのでこちらも何とかしたいです。

 とりあえず、ちゃちゃっと「眉村卓《囲碁新潮》掲載作品リスト」を作りました。表サイト「とべ、クマゴロー!」にアップしましたので、ご覧いただけたらと思います。→こちら


 

「ジョー」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月28日(水)22時49分19秒
返信・引用 編集済
  『鳥の影』の感想、時間とともに記憶がぼやけていくので、早く書かないといけないのですが、いろいろ(精神的に)バタバタしていて、どうも集中することができません。物理的に時間がないわけではないのですけどねえ。
 ということで、今日も『立ち盡す明日』の話題。こうしてズルズル引きずるのは、やはり良い作品だからかもわかりません。
 読み終わって思い出した映画があります。「ジョー」というアメリカン・ニューシネマです。内容もずいぶん忘れてしまっているので、検索したんですが、日本語では全くヒットしませんでした。日本では評価されなかったんでしょうか。
 英語版ウィキペディアがありました。しかも、ユーチューブにはハイライトムービーがありました。ですからアメリカではそこそこ評価されたのだと思います。
 たしかにあまり面白くはなかった。でも、妙に記憶に残る映画でした。
 ウィキペディアから内容をかいつまみますと、NYのアッパーイーストサイドに住む金持ちにして社会的名士であるコンプトンの娘で、麻薬売人のボーイフレンドと同棲していたメリッサが、ヤクの過剰投与で幻覚症状を起こし病院に緊急搬送されます。コンプトンが娘の衣類を取りに同棲先に行き、BFとばったり出くわし、怒りのあまり殺してしまう。
 気を静めようと入ったバーで、コンプトンはジョーという工場労働者と隣り合わせになる。ジョーはアメリカが大好きな、そしてヒッピーやジャンキーを蛇蝎の如く嫌う男なのでした。つい気を許して、うっかり殺人をしゃべってしまうのですが、ジョーはそれを賞賛します。
 意気投合する二人。コンプトンが自宅で、なぜ下層階級の工場労働者と仲よくするか問う妻に、実は、と殺人について告白しているところへ、病院を逃げ出したメリッサが戻ってき、それを聞いてしまう。メリッサはそのまま失踪する。
 コンプトンとジョーはメリッサを探し回り、ヒッピーのコミューンの場所を聞き出す。二人はコミューンに向かい、ライフルで全員撃ち殺す。その中にはメリッサの姿が……
 という話。
 『立ち盡す明日』はこんな派手な話ではありませんが、この映画を思い出したのは、やはりヒッピーとフーテンが重なってみえたからでしょう。コッチとアッチに一線が引かれる構造であるのも同じです。
 ただ映画は、アッチもコッチも、ドッチもドッチでして、(他のアメリカンニューシネマのようには)アッチに感情移入できなかったのが、面白くなかった原因。日本で受けなかったのもその辺ではないでしょうか。というかそんな簡単な話ではないというのがこの映画の主張なのかも。アメリカではドラッグはもっと身近な問題になっていたので(銃の問題も)、それなりに問題作として支持されたのでしょうか。
 小説は1970年《新潮》11月号掲載。一方映画は1970年7月アメリカ公開ですから、日本公開はたぶん1971年になってからでしょう。ネットでは調べが付きませんでした(私が見たのはたぶん大毎地下)。ですから柴田翔が映画にインスパイアされた可能性はありません。別々に発想されたものに間違いないと思いますが、やはり時代を共有しているので、こういう接近遭遇じみたことが発生するのかもしれませんね。
 

 柴田翔『われら戦友たち』にも着手。積読くずし。
 おう、これは全共闘小説のようです!

 追記。ハイライトムービーを観ました。40年前の私は何も分かっていなかった。この映画、ジョーが主人公なのでした。そらそうやろ。タイトルがジョーなのですから。でも高校生の私には分からなかったんです。この映画は、アメリカが大好きで銃が大好きで、常識まみれで想像力のカケラもなく実直で曲がったことは大嫌い、汚らしいジャンキーやヒッピーは大掃除してアメリカをきれいにしてしまいたい、単純で愛すべき哀しい男を描いた作品だったんですねえ。そしてそれはまた、ごくふつうの一般的な保守的アメリカの善男善女のアレゴリーでもあったわけで、高校生にはちょっとムズカシかったようです・・

 

Re: もしもご存じでしたら

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月27日(火)23時44分10秒
返信・引用 編集済
  > No.5493[元記事へ]

fanさん
 ご来信ありがとうございます!
>30年来の眉村作品ファンです
 おお、それでしたらファン歴、私とそんなに変わりませんね。嬉しいです(^^)

>いつか、眉村さんにお手紙を差し上げたいなと…思いつつ
>お手紙の宛先(受付窓口になっていらっしゃる出版社さんなど)ありましたら
 出版芸術社にお送りになられるのがよいと思います。
 眉村さんがもっとも気やすくお付き合いされている出版社です。
 それにまたちょうどタイミングもよく、来月、同社より『歳月パラパラ』というエッセイ集が刊行の予定で、出版芸術社の編集さんはいま、頻繁に眉村さんと連絡を取っていると思いますので、スムーズに眉村さんにお手紙を渡していただけるのではないでしょうか。

 出版芸術社の住所は、こちらをご覧ください→出版芸術社
 宛名は《出版芸術社気付 眉村卓様》で大丈夫と思います。

 ということで、よろしければまたお気軽にお立ち寄りください。fanさんの眉村さんバナシ、お聞きしたいです。お気が向いたらぜひ! (^^;

 

もしもご存じでしたら

 投稿者:fan  投稿日:2014年 5月27日(火)23時08分18秒
返信・引用
  恐れ入ります。30年来の眉村作品ファンです。

いつか、眉村さんにお手紙を差し上げたいなと…思いつつも、ずっと書けないままで現在に至っています。

もしも、ご存じでしたら、お手紙の宛先(受付窓口になっていらっしゃる出版社さんなど)ありましたら、どなたかお教え頂けませんでしょうか?
 

Re: ガラワラ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月27日(火)20時58分19秒
返信・引用 編集済
  > No.5491[元記事へ]

トマトさん
『アシモフ自伝』というのがあって、分厚いのが4冊というシロモノなんですが(もちろん未読です)、その第一巻(1(上))のまえがきの書き出しはこうです。

「29歳になって、いよいよ老齢への入り口にさしかかったと感じはじめた頃、自伝を書くべきだろうかと生まれて初めて思いかけたのを覚えている」
 何ともヒトを食っていますが*、それから10数行後には、さらにこう書かれています。

「29歳のとき、私は一冊も本を出していなかった」
 おい!(^^;
 とんでもないオッサンです(^^;
*でも早熟だったアシモフにすれば、それがホンネだったのかもしれませんね。

2千年を超える時を経て、きょうという日を迎えたということに深いご縁を感じています
 うーむ、ちょっと盛ってますなあ。これをもって2千年の時を超えて成った大国主と大和朝廷の和解と捉える向きがあるのなら、それは間違いですからね。
 そもそも千家氏の出雲国造家は、アメノホヒの子孫。系図的にも神別・天孫、つまり天津神であって国津神ではありません。要するに大和朝廷の家来です。
 書紀崇神紀にあるように、大和に対して独立勢力だった出雲の王は、出雲大社を管掌していた出雲フルネでした。
 吉備を押さえ込んだ大和はつづいて出雲を狙い、まずフルネの弟のイイイリネ(実体はフルネに従っていた別の有力豪族)を甘言で(たぶん出雲の王にしてやるとか)寝返らせたのですが、フルネに返り討ちにされる。
 そこで大和は、東部意宇(オウ)郡に基盤を持つオウ宿禰に、一緒にフルネを倒そうと声をかけます。
 古代出雲は出雲大社のある島根半島の西岸(宍道湖より西側)が中心地なんですね。一方意宇郡は中の海の南側で、古代的にはややはずれた、別の文化圏です。
 あるいはひょっとして、オウ宿禰と記述されている人物は、在地勢力でもなく、オウに陣を張った大和の占領軍の司令官だったのかもしれません。私はそっちの可能性が高いと思います。
 いずれにしても(在地勢力であれ司令官であれ)、出雲フルネを滅ぼしたあと、オウ宿禰は出雲大社の管理権を獲得(ということは出雲国の管理権を獲得)し、出雲氏となり、出雲国造家となる。それが千家氏なのです。
 という次第ですから上記の発言、2千年というのは嘘にしても(5世紀の話ですから)、オオキミの命で出雲に進発した征討将軍の子孫が、1500年後になったけれどもその功績を嘉され降嫁賜り、余は満足じゃ、という風に、めでたい話でありますし、そこは好意的に取ってあげましょうか(>おい!)m(__)m
 
 

Re: ガラワラ

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月27日(火)15時56分21秒
返信・引用
  > No.5489[元記事へ]

 アシモフさんはもともとニューヨークの下町ブルックリンの駄菓子屋(キャンディショップ)の息子さんですね。下町のキャンティ屋のせがれが飛び級でオバマさんの母校でもあるコロンビア大学に15歳進学したわけで・・・(アメリカではかつて名門アイビー大に行くのはまず毛並みのいいワプスの家で、しかもプレバラトリースクールという東部にある良家の指定が通うハイスクールにいかなければまずアイビー大学には進めないというのが当時の一般論だったらしい。)



それでオハナシです。

  しばらく堅気の世界から離れていたMさんは、意外や意外、大学教授のご子息だった。

Mさんの父親はロシア文学者としてそこそこは有名な人らしい。たしかに書店に行けばMさんのお父さんのM教授の著訳書があった。お堅い岩波や新潮の文庫本だけど…。
が実は大学教授…とくに文科系の家というのはなにかとトラブルが多い。有名な仏文学者の家で惨劇が起きた事は知られているが、有名なドイツ文学者のご子息とご令嬢がともに成田空港で違法薬物所持で逮捕起訴されたという例もあった。一方理科系の家ではそういう家庭内トラブルはあまりきかない。あのノーベル賞の山中教授にしても不調の洗濯機を修理していたりしてとにかくどこにでもいる「ウチのお父さん」なのだ。そういう「ふつうのおとうさん」がノーベル賞をもらっただけという感じなのだ。
  その一方で人文科学系の学者という○○文学科だけではなく、東洋史西洋史哲学科のは「普通のおじさん」だとか「普通のおとうさん」といった感じではない。何か厳つくてよく言えば威厳があって、そしていうなれば「いかにもロシア文学者」「いかにも仏文学者」「いかにもドイツ文学者」「イカにも東洋史西洋史哲学学者」とわざとらしくて息が詰まりそうなのである。そういうオーラをしているという事は服装にしてもそうで、間違ってもジーンズははかないとかそういうこだわりがあるらしい。
  さてMさんのお父さんのM教授は有名なロシア文学者だという。やくざ渡世となればその自分の生まれ育った家に縁を切って親分さんの家にすべてをささげて生きてきたというわけだがいろいろ事情があり、カタギに戻ろうと決意してなんとかかんとかカタギに戻りかけた。そんなとき、ロシア文学者の父親が他界した。それで家に帰ってみると、家はロシア文学の弟子のN教授に実効支配されており、N教授はMさんに遺族としてのすべての権利を放棄しN教授に需要としますと書面を突き出し、Mさんに署名させようとしたというわけだ。そこでMさんはN教授を殴打し、そして傷害事件となったというわけである。 Mさんのお父さんのロシア文学史教授は自分の遺志を次のようにN教授に託していた。
「自分の身に何かがあったら残された家と家族たちを頼む。」
これを口頭と書面で行っていた。N教授はこれをロシア文学者M教授の残した資産はすべて自分に権利があると都合よく解釈してしまったのである。N教授の言い分はこうだ。
「ながらく家を出ていた不肖の息子なんぞ残された家族ではない。なにをいまさらのこのこと身内面して帰ってきやがって…。目障りだ。出て行ってくれ。」
実は生前M教授はこのやくざ渡世の息子のことで悩んでいた。強引に自分と同じロシア文学の道を歩ませようとして失敗してしまったこともM教授はわかっていたのである。一方自分の弟子のN教授の事は信頼していたから後のことをN教授に委ねたというわけである。法的に見ればN教授にも落ち度はあるがそれ以上にM教授に落ち度があるといわざるをえない。 さて、Mさんだが折角堅気…一般市民に戻ろうとしたところ、とんでもない仕打ちを受けたというものだ。私はエムさんがN教授を殴打して負傷させただけでよく済んだと思ったものだ。N教授は殺害されてもおかしくないのではないか…。
さて、Mさんがやくざ渡世を生きなければナラならない原因となった出来事が、Mさんが十代初期におきたある出来事だった。Mさんの父親M教授は地方の大学に席を置いていたから、Mさんの首都圏ではなく田舎で育った。田舎には当然M教授と話のあうような人はほとんどいない。ロシア文学なんてまったく関係ない人たちがほとんどだし、地方の大学ほど農学部などが主で文学部などに重きをおかないらしい。
 そんなM家のある町に「課題図書などお堅い本好きの少年」がやってきた。彼の名前を仮に蚊台都所夫(課題図書をよく読むのでこういう名前なのだ。)とする。蚊台少年はマンガ本を読まないしテレビもみない。いうまでもなくSFマガジンも読まないだろうし久野四郎の「ガラスのわら人形」なんかは軽蔑するだろう。とにかく山本有三の「路傍の石」だとかそういう課題図書などの良書ばかりよむ。父親は金融機関に勤めているが家の厳格でキリスト教系団体に入っていて規則正しい生活を送っている。とにかく難しい文学作品をよく読む蚊台都所夫少年にMさんの父親も母親もやたら感心した。そして蚊台少年に「いつでも家に来て好きなだけ本を読んでいいよ。」といって自宅を解放したのである。当然蚊台少年はM家をじぶんの家のように我が物顔でふるまった。それでもM夫妻はやたら蚊台少年を厚遇した。いっぽう読書が好きではないMさんは冷遇した。このとき、Mさんは本気で家出を考えたという。蚊台少年はM家でお貸しをつまみ食いしたり、M夫人の財布からお金を盗み出したりしてはすべてMさんに責任を擦り付けていた。Mさんは濡れ衣を着せられたままなすすべもなく無実の罪を見つめて謝っていたという。しかし金融機関は転勤が早く、まもなく蚊台少年はどこかへと引っ越した。ロシア文学者のM教授はそれを聞いて
「蚊台さん、引っ越しちゃうのか…。」
と淋しそうにつぶやいたという。
 さて、法廷でM夫人にも証人として出廷していただきこのときのことを証言してもらったことは言うまでもない。あらためてM家というのは良書さえ読んでいればえらくて、間違ったことをしても目をつぶる家、勉強が出来て偏差値の高い大学に入りさえすればそれだけで偉くて間違ったこともしても責任は問われないという考えから抜け出せないでいるということだった。さらにM教授M夫人ともに母親は尋常小学校教諭だった。Mさんが求めていたのは「息が詰まりそうなロシア文学者の家」ではなく、「ごく普通の家庭」だった。逮捕起訴され、そして身柄を拘留されて看守さんたちの世話になりも、ようやく「普通の家庭のぬくもり」を知ったという。という事はロシア文学者の家はすくなくともMさんにとっては留置所拘置所以下だったということだった。
そしてその後Mさんは執行猶予付きの判決をもらい、一地元の産直スーパーで働き、そこで知り合った人と結婚してささやかな家庭を築いているが、なぜかMさんのご子息は成績優秀でT大に合格しそうなことがMさんの悩みと不安の種だという。それはわかりますね。今度はご子息がロシア文学者なんかになってしまわないだろうか…という不安ですね。?
 

「立ち盡す明日」再考

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月26日(月)22時36分59秒
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  柴田翔『鳥の影』(河出書房、71)読了。

 これは積読くずしで初読。《人間として》1号から4号に連載された短篇四篇を収録しており、いずれも秀作。柴田といえば青春ロマネスクというイメージですが、この四篇はずいぶん印象が違います。小説としてぐんと深化していると思いました。

 ところで、本書を読んだ目で『立ち盡す明日』を振り返ってみたら、そんなに悪くない。
 独断と偏見でざっくりといえば、この小説、スクエアなコッチから脱スクエアしてアッチへ行ってしまう人と、行かずに踏みとどまってしまう人の話なんですね。いうまでもなく前者が由希子で後者が主人公(と、妻)。
 アッチとコッチの境になっているのが新宿です。伏線として、主人公の妻が新宿のデパートの八階のレストランから見下ろす場面が中盤に。
「都電の通る道路をへだてた向こう側に、歌舞伎町の方へ入っていく比較的広い路地が見え、その先に、コマ劇場らしい建物の片隅がのぞいている」(110p)
 そこで妻は、大学時代、夫も含めたグループの仲間だった男を待っているのですが、その男自体が、妻にとっては「かつて自分が住んでいて、いまは永遠に追放された土地からの、遠い遠い信号であるかのように思えた」(114p)
 つまり著者は、歌舞伎町の奥に「アッチ」を空間的にイメージしている。
 そしてラストでは、家出した由希子が、新宿のフーテンたちの群れの中にいたという噂が伝えられます。
 この空間構造はとてもよいのですね。
 ただアッチへ行ってしまう前の、スクエアだった由希子が、あまりにも60年代的で、ちょっと苛立ったのでした。もちろんいかにも女性らしい、好きな人以外は何も見えなくなるというのは、いまでもごくありふれた女性のあり方なんでしょう。しかし文学風景としては、もはやそういう女性が描かれることはないんじゃないでしょうか。そこのところが、21世紀のいま読み返すと、ひっかかってしまったのでした。

 あらら『鳥の影』について書くつもりがいつのまにか(^^; 時間がなくなったので、本書の感想は別項で。



 

Re: ガラワラ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月26日(月)22時32分24秒
返信・引用
  > No.5488[元記事へ]

トマトさん
 そうそう。久野四郎のまぎゃくがアシモフですねえ。でも実際のアシモフは、あれでけっこうヒヒ爺さんだったみたいで、何に掲載されたのだったかタイトルも覚えていませんが、好色心全開の短篇があるんですよ(^^;

 上原ひろみの新作! ELPぽくてよいですねえ(^^)
 

 

Re: ガラワラ

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月26日(月)17時15分59秒
返信・引用 編集済
  > No.5487[元記事へ]

ホントに上品とか清潔とかから離れた世界ですねー。

この「がらわら」の載っていたSFマガジン(1969年一月号 116巻)は大御所アシモフ特集で、アシモフの「真空漂流」など「これぞSFの真髄」的なものも載っていました。
ちなみにアシモフのミステリー「その名はバイルシュタイン」というのもあり、これは大学の研究室を舞台にしたものでした。
この「がらわら」のように気に食わない人を次々と呪い殺していくオハナシ、たとえば「その名はバイルシュタイン」のように大学の世界を舞台にして人事や論文などを廻る呪殺、あるいは名門企業創業者一族を舞台にした華麗なる一族的の内紛での呪殺でも成り立つのですが、吹き溜まりのようなアパートという舞台がなんともいえない魅力ですね。セリフも最高で、65ページの
「もういいわよ。おっぱいから手を離してよ。」
なんかいいです。パンスケはどんな顔しているんでしょうね。
大人の世界を除き始めた好奇心旺盛な中学時代にこれを見つけたので、それは大いにハマってしまいました。それに祈祷師のご祈祷というのはたぶん
「アーギャーロンギー アーギャーロンギー」
なんて発音するのかもしれません(笑) それに「ガラスのわら人形」というこの意味不明のタイトルも何か気に入っています。しかし人気カウンターでは1969年1月号で「がらわら」が最下位だったようです。まあSFマガジンらしくないですからね…。
 

Re: ガラワラ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月25日(日)22時09分57秒
返信・引用 編集済
  > No.5486[元記事へ]

トマトさん
 頂いた「ガラスのわら人形」読みました。たしかに「SFマガジンらしくない」SFで、面白かったです。こういう「清潔」とか「上品」とかとは正反対な作風は大好きですね(^^)
 タイトルの「ガラスのわら人形」の意味が不明なんですが、これは「ガラスのように壊れやすい」器物を藁人形替わりに使っていることを指しているんでしょうね。
 いやー久野四郎、いですねえ。出身は成蹊大学ですから、安倍さんと同じ。ところがスクエアな安倍さんとはまったく正反対ですね(^^;。


柴田翔『立ち盡す明日』(新潮社、71)読了。
 40年ぶりの再読。うーん。読み返さないほうがよかったかも。
『されどわれらが日々』よりも気に入っていた作品で、由希子が好きだったんですけどね、いま読むと、苦悩の条件が既に社会から解消されてしまっているような。良くも悪くも60年代の風景でした。
 とかいいながら、『贈る言葉』に着手。
 見つからないので、『鳥の影』に変更。
 

ガラワラ

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月25日(日)07時00分13秒
返信・引用 編集済
  おはようございます。


段野さん、出版界大変みたいですね。みたいですね。K応やT立大出ていても人員削減の対象になる一方、要領のいい人はさほど偏差値が高くない大学卒でも大学教授に転身したりといろいろ聞きました。

「がらわら」(ガラスのわら人形)は中学時代、何気なく立ち寄った近くの古本屋某書房のSFMのなかに見付けたもので、この「作品」でSFMに目覚めてしまったのですね。当時の早川書房は多分ペリーローダンシリーズが稼ぎ頭のころで、同期の○君も「まるぺ化」(もう死語だっ!)しつつあった頃です。○君は当然ながらという感じで「『がらわら』はSFではない。」「『がらわら』がSFMに載っていること自体がおかしい。」というスタンスでした。「がらわら」はとにかく人を呪殺する術を身に付けた女祈祷師がアパートの住民たちを次々と呪殺していくというオハナシですが、実際に銃を構えてパーンとやってやりたいという相手はだれにでも一人や二人いるでしょう。もちろんそんなことをすれば殺人罪や銃刀法違反になるし、民事では損賠賠償義務が生じるのでよくよく思いつめなければやりませんが、自分の今の生活や地位というものを維持しつつもムカつくヤツをポア(これも死語、古い響きだ…)してやることが出来たら…そんな「よこしまな願望」を具現化したのがこの「がらわら」かもしれません。当時中学時代のわたしにもポアしてやりたい人がいて、それは「ゴリ」という石頭体罰校則厳格教師だったりしたのですが…。?しかし昭和ムード歌謡と福島編集のSFM、何故か時代が同じですね。鶴岡義弘と東京ロマンチカ「小樽の人よ。」なんて。中国でも日本のムード歌謡が人気があって、尖閣や靖国と関係なくムード歌謡の舞台小樽には中国の人でいっぱいだそうです。
 

I am a Queen

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月24日(土)22時32分21秒
返信・引用 編集済
   Lilo DeLima Feat. Jah Maoli lyrics
 日本未発売みたいですね。
 

Re:本、売れていないみたいですね

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月24日(土)19時30分18秒
返信・引用
  トマトさま
売れていません。某社は、今春、160人の従業員をカットしました。
(残りの従業員で、やっていけるのか? カットされた従業員が、ハローワーク付近で、よく目撃されます。あな恐ろしや)
 

「バベル」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月24日(土)16時59分33秒
返信・引用 編集済
  福田和代『バベル』(文藝春秋、14)
 面白かった。ただし一種のパニックサスペンスとして。SFとして読むと失望します。
 感染すると脳の言語野が侵され、失語症*を発現するウイルスが突如日本列島に蔓延する。政府は感染者(非発症者含む)と非感染者を隔離する政策を取り、それは一応成功して、日本は二重構造国家としてとりあえず独立を保ちます。*失語症についてはここを参照。
 このへんの設定は非常に面白く、ワクワクしました。
 ただSFとしてみた場合、この二重構造は、言語的コミュニケーション社会と非言語的コミュニケーション社会との二重構造でなければ意味をなしませんし、ツイートなどを見ますと、それが著者の狙いでもあったようです。
 しかし実際のところ、発症者の描写は、単に「発語能力を失った」健常者(という言い方はちょっとおかしいかも分かりませんね。要するに「唖者」です)にしか見えないんですよね。おもに描かれる発症者は例外なくそうです(長城外の警官の発症した家族が少しだけ描かれていて、その描写はたしかに失語症者のそれです。でも現実の失語症者も同じなんですから、読者に不可知をしか示しません)。
 重要な登場人物である「渉」は、発症して、ブローカ失語に、軽いウェルニッケ失語も併発しているのですが、主人公が再会した渉は、なぜかウェルニッケ失語は改善しており、主人公がしゃべった言葉を十全に理解できるようになっています。なぜ改善したのかの説明がないので、ストーリー的に問題です(単にパニックサスペンスならこれでもいい)。
 <補記:ついでに言っておけば、ウェルニッケ失語では、聴覚心像の鋳型が壊れるだけではありません。壊れて別の音列に変わっても、それが一対一対応関係にあれば、新しい辞書を作成すればそれで解決する。一対一対応も壊れて、日々刻々違う音列にずれていくので、言語的コミュニケーションは「絶対的」に不能となるのです>
 このように、後半になればなるほど、発症者は、失語症者ではなく、単に「発話する手段を持たない」だけの、いわゆる「唖者」と違いがなくなってしまう。唖者は発話する手段を持たないだけで、内的には言語活動しています。
 テロリストのリーダー(発症者)の言わんとする事を「了解」して他者に伝える役割の少女が登場しますが、その原理の説明はなく(それこそ本書の「あるべき」最大のテーマです)、これなら従来のテレパシーでしかない。唖者の内的言語を読み取っているだけにすぎないのであって、言語的コミュニケーションは健在ということになってしまう。
 私見ですが、このテーマは本書のようなサスペンス小説の形式では取り扱いは不可能ではないでしょうか。ソラリス的な書き方しかできないと思います。ラストで「第二世代」の「内感」が描写されていますが、これは「言葉を持つ以前」の幼児にもあるものでしょう。問題は抽象的科学的な思考や記憶は、非言語的に可能なのか。可能だとしたらどう可能なのか、という《ヴィジョン》なんです。それが全く見えてこない(もちろん正解などはないので、ここは著者の大風呂敷でよく、その大風呂敷の大きさで読者にマイッタと言わせなければいけません。ex山田正紀)。

 さて、パニックサスペンスとすれば(言語SFとして本書のテーマが持っている可能性を気にしなければ)なかなか良い、と書きましたが、個人的には、敵役の総理のアレはないんじゃないでしょうか。あの体たらくはストーリーとしてダメでしょう。もちろんこれでいいという人もいるとは思いますが、私はがっかりしました。総理は最後まで、冷徹な愛国者として描かれるべきでした(いうまでもなく愛[国家]者という意味です)。サスペンスとしても、ここで緩んでしまいました(敵役が薄っぺらいのは、著者の小説に一貫する弱点ですね)。
 あ、そうだ。ついでだからもうひとつ。中国史における「長城」とは「夷狄の侵入を妨げるための防壁」なんです。そういう価値観を含有する言葉を政府が使うだろうか。また、長城外の「国民」はそれを容認するものだろうか、と考えますと、これってもっともリアリティのない命名なんですね。こういうのも、読者を冷ましてしまう方向に働きます。たぶん発想の段階で思いついた言葉なので愛着があり、他の名前で以って変更しがたかったんだと思いますが、そこは冷静になるまで寝かして読み返すべきだったかも(この前の大宴会で深田亨さんが言ってはりましたが、そういう発想の原点に関わる言葉は消去しがたいのですが、実際は消去したほうがすっきりするものなんですよね)。

 という次第で、SFとしてはわが期待値に達しませんでしたが、エンタメサスペンスとして十分楽しめました。そういえば、ラストで「ルナ」が消えてしまい、不思議な状況になっています。これはきっと、続編で説明されるんでしょうねえ(^^;

追記。パラパラっと見返していて気づいたのですが、第二世代はテレパシーでコミュニケーションするみたいですね。ですがこれがバベルウイルスの結果獲得したものだと、もし著者が考えているのなら、それは論理的に違っているように思います。
 まあテレパシーをどう設定するかにもよりますが、この描写だと、内的思考は言語で行われているようにしか見えません。「――ウィリアムとテッド。/のばしたこころに、すうっとなじむその名前」
 《名前》こそ、音声コミュニケーションを基礎づける、言語そのものじゃないですか。失語症はもっと根底的なところで壊れてしまっているので、そういう因果関係はありえないように思います。
 けっきょくこの物語は、発話能力を失った人類は、音声言語のかわりに、テレパシー言語を獲得した、という、SFとすればありふれた話ということになってしまい、失語症ウイルスという、レムに匹敵する魅力的な「SF的設定」は全く意味を失ってしまうのですね。
 
 

Re: ご返事ありがとうございます

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月24日(土)11時36分31秒
返信・引用 編集済
  > No.5481[元記事へ]

トマトさん
 「ガラスのわら人形」のPDF、ありがとうございました。

> ガラスのわら人形、短編集「夢判断」にのっていたのですね。久野四郎ては短編集「砂上の影」は知っていたのですが「夢判断」は知りませんでした。
 わ、すみません。私の勘違いです。『砂上の影』『夢判断』の文庫化なので、収録作品は同じです。したがってどちらの本にも「ガラスのわら人形」収録されてはいません。
 この作品、トマトさんのお気に入りなんですよね。当掲示板でもときどき言及されている作品で、そういえば、単行本未収録なので、あらすじを書き込んで下さっていたのでした→久野四郎の醍醐味。そんなこんなで、読んだ気になってしまっていました。大変失礼しました。

 ということで改めて言いますが、単行本未収録の久野四郎作品を頂戴してしまいました。
 トマトさん、本当にありがとうございました。ちょっと今はバタバタしていて読めませんが、読んだら感想など書きますので、ご笑覧いただけたらと思います。よろしくお願いします。
 

 

Re: ご返事ありがとうございます

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月24日(土)07時04分53秒
返信・引用
  > No.5480[元記事へ]

ガラスのわら人形、無事に到着して何よりです。

ガラスのわら人形、短編集「夢判断」にのっていたのですね。久野四郎ては短編集「砂上の影」は知っていたのですが「夢判断」は知りませんでした。

 

Re: ご返事ありがとうございます

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月23日(金)19時04分42秒
返信・引用 編集済
  > No.5478[元記事へ]

流転さん
>正式な反論はSF作家クラブから朝日新聞誌上においてなされるのがベストだと思います。
 そうですよね。私もそう思います。そういうことなら朝日も当然紙面を提供するでしょうし。
 それにしても、SF作家クラブに対する事実誤認(悪意ある捏造?(^^;)を、なんで入会していない(できなかった)大森さんが糺さなければならないのか、どう考えてもヘンですよね。

>「ていうか、オレがSFマガジン来月号のコラムに反論書くのか・・・」
 という引用のニュアンスからして、要請されて(イヤイヤ)書くみたいな感じがしますね。編集長の要請でしょうか。売ることにかけては機を見るに敏な、一流の編集長ですから、大いにあり得ますな(>おい)(^^;


> No.5479[元記事へ]

トマトさん
>売れている本というと、ワードエクセルアクセスの解説書とか、健康法の本とかばかりですね。
 いわゆる「ハウツーもの」ですね(>死語?)。役に立てるために読む本。
 小説でも、一般ピープルは「実話もの」を好みますよね。この傾向は江戸時代からずっとそうみたいです。要するに虚構を虚構として楽しむ*ためには、ある種の知的余裕が必要なんでしょう。SFの場合、その余裕の容量が他の小説ジャンルより多く要求されるので、なかなか読者数は広がらないのですね。
*もちろんその虚構は絵空事ではだめで、リアリティある虚構でなければいけません。

 福田和代『バベル』読了。

 

本、売れていないみたいですね。

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月23日(金)14時44分44秒
返信・引用
  SFMもかつて久野四郎画のっていた頃の雰囲気は、ないですね。といっても最近のSF.Mはぜんせんしらないのですが(^_^;)
たしかにSFに限らず本は売れていないようですね。売れている本というと、ワードエクセルアクセスの解説書とか、健康法の本とかばかりですね。

 

ご返事ありがとうございます

 投稿者:流転  投稿日:2014年 5月23日(金)02時31分30秒
返信・引用
  大森氏ご自身のツイッターの5/21の書き込みの中に「ていうか、オレがSFマガジン来月号のコラムに反論書くのか・・・」という文言がありますので、どんな内容かは不明ですが「反論」を書かれるようです。わたしも正式な反論はSF作家クラブから朝日新聞誌上においてなされるのがベストだと思います。  

Re: 顔文字/昔に比べれば・・・

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月22日(木)21時52分40秒
返信・引用 編集済
  > No.5474[元記事へ]

トマトさん
>片山被告、全面的に起訴事実認めましたね
 もともと素直な性格なんでしょうね。顔を見ていてそんな気がしました。
 保釈金一千万円も母親が掻き集めてきたものだといいますし、保釈以来この2か月あまりも、無職ですから母親が食わせていたんでしょう。
 就職なんかできませんから、母親に迷惑をかける状態が、今後ずっとつづくかもしれない、ということがだんだん認識されてきて、また一方で嘘をついてだましているという気持ちが負担になっていたようですし、これじゃあ自白して収監された方がまし、という気持ちに傾いたとしても不思議ではないように思います。
 しかし突如罪を認めるというのもなんだかなあ、ということで、ああいう狂言をやったのかな、と私は思いました(刑期を終えて出てきた人が、食うに困って刑務所に戻るために再犯する、というあのパターンです)。
 だって尾行がついてないなんて考えられないじゃないですか。「まさか尾行されているとは・・・」と言ったそうですが、話を合わしているだけでしょう。本当にそう思っていたのなら、片山被告、ミステリの読書量が全然足りてませんね(>おい)(^^;

 しかし誤認逮捕したのは、直接的には警察の失態なんですよね。警察のサイバー能力が一市民よりお粗末だったわけです。今回の自供でその事実が曖昧にされてしまいそうですね。まあ警察は当然そう持っていきますわな。しかしだからといって、警察のサイバー対応力の不備が改善されたわけではありません。「自分をだましたところで、事実までだまされてくれるとはかぎらない」(by安部公房)。
 そうだ、警察庁のサイバー部隊は、片山被告をスカウトして、徹底的にシステムを見直してもらったらどうでしょうか(^^ゞ


> No.5476[元記事へ]

流転さん
 お久しぶりです。

>「一頃に比べれば現在はずつとまし」とは思うのですが
 結局、根拠のない先入観で書いているんでしょうね。しかし記者は、この記事で何を言いたかったんでしょうね。大森さんが入れなかったことへの義憤からの執筆でしょうか。

>反論を次号(というか701号)のSFMに
 あ、てことはやっぱりこの記事について、SF界で話題になっているんですね(批判的に)。まあそれはそうでしょうね。ちょっとミスが多すぎますよね(ひょっとしてミスを装った「悪意」?)(^^;。
 しかし大森さんが反論を書くってどういうことなんでしょうか。一読する限り、大森さんを非難したものではなくむしろ同情的です。ツイッターを見ましたが、何も言われてませんよね。
 というか、反論するなら、それは言いがかりを付けられたSF作家クラブがするべきでしょう。よくわかりませんね。
 
 

続昔に比べれば・・・

 投稿者:流転  投稿日:2014年 5月22日(木)18時07分35秒
返信・引用
  あとそれから、この朝日の記事に対する、反論を次号(というか701号)のSFMに大森望氏が書くようですが、そういうものは出来れば朝日か少なくとも別の新聞でないと意味が薄いようにおもうのですが、こういう場合にSF界の外に対して強力な発信力を持っていた故小松左京氏のような存在を現在欠いているのはSF界にとって大きな損失というきはします。  

昔に比べれば・・・

 投稿者:流転  投稿日:2014年 5月22日(木)17時43分16秒
返信・引用
  朝日の記事、いろいろな意味で「オカシイ」ですね。SFに限らず、「本」が売れないというのは事実なわけですが、SFは「一頃に比べれば現在はずつとまし」とは思うのですが
まァ、かの江戸川乱歩は「探偵小説は本来純文学よりもさらに少ない固定読者しか持たない」ジャンルという認識をもっていたそうです、SFの場合も当たらずといえども遠からずの様な気はします。
 

Re: 顔文字

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月22日(木)16時47分2秒
返信・引用
  > No.5473[元記事へ]

朝日の記事、傍観者の立場で読みました。

私自身も最近のSFM全然立ち読みすらもしなくなってしまいました。
あの頃のSFMはよかったという感じです。

話は変わりますが、片山被告、全面的に起訴事実認めましたね。一方飛鳥涼容疑者はいまだ否認ですね。





 

Re: 顔文字

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月21日(水)23時09分24秒
返信・引用 編集済
  > No.5472[元記事へ]

トマトさん
>今朝の朝日新聞三十五面に「日本SFの厳しい現実、海外で受けても本が売れない。」
>というタイトルの記事がありました
 お知らせありがとうございます。へえ、と思ってさっそく検索したら、ネットにありました。
 読みました。うーん。ずいぶん杜撰な記事ですね。たとえば、
「クラブの創設当初は「SFの浸透」を掲げていたが、70年代に入ると小松左京や星新一らの作品がブームに。SFが浸透するにつれて、「親睦団体」の側面が強まった」
 これは全く事実ではありませんね。この組織はそもそも「親睦団体」として発足したもので、なので、星新一(178cm)より背の高い者もしくは小松左京(85kg)より体重が重い者は入会できないという、冗談みたいな会則が唯一の会則だったはずです。(ここに傍証が(^^;。) 発足の会合の様子がテープに残っていて、聞いたことがあるのですが、福島さんだけが真剣で、他の人は星さんを筆頭に揶揄しまくりで、もともとそんな程度の、集まって酒を飲む大義名分のために始まった会というのが大方の会員の認識だったのではないかと思います。
 また「SFの浸透」を掲げたこともないはずです(SFの浸透(と拡散)は筒井さんが1974〜5年頃言い出したもの)。
 朝日もぼけてきましたね。というか、ネットで確認くらいしろよ、と思いました。それに論旨が大袈裟。もともと日本SFサッカークラブと間違えられたほどのごく私的な集まりを、天下国家を論じるみたいに言われてもねえ。大袈裟なのも老化の一徴候です(>おい)(^^;
 いずれにせよ、昨日引用した山野さんのいうとおりで、「あらゆる集団は、その中の人間一人一人を一つのワクにはめはじめたときに解散しなければならない。政党も、宗教団体も、国家も、君たち記者クラブもそうだ。一人一人が自分の信じることを書けなくなったら解散したまえ」ということですね。しかし、解散てのはひとりではできませんから、不満を感じた会員は、やめればいいだけの話ですよね。残りたい人は残ればよい。それだけの話ではないのでしょうか。
 以上、何の関係もない部外者の無責任な妄言でした(^^;
 この記事、例によって登録していないと読めないようなので、下にコピペしておきます。
      ↓
 
 

Re: 顔文字

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月21日(水)16時32分59秒
返信・引用
  > No.5471[元記事へ]

のういえばLSDがインスタント禅などどアメリカで言われていたことがありましたね。
幻覚剤というのはかならずしも快感をもたらすとは限らず、ひどい目に会うとい体験の場合も少なくないようです。
しかし医療目的で使用してアルコール依存症などに劇的な効果があった例もあるので、どういうものなのでしょう。


今朝の朝日新聞三十五面に「日本SFの厳しい現実、海外で受けても本が売れない。」というタイトルの記事がありました。 まあ時代なんでしょうね。ということで四谷のおいしいたい焼き「若葉」の様子をアップしました。ここは並ばないと買えません。時代に関係なくよく売れていますね。かなり前にとった写真です。今はもう引退した与謝野さんの選挙ポスターが張ってあります。





 

Re: 顔文字

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月20日(火)21時36分35秒
返信・引用 編集済
  > No.5470[元記事へ]

トマトさん
>LSDやマジックマッシュルームなど
>薬物依存や習慣性にはなりにくい
 60年代はかなり肯定的に認識されていて、フラワーレヴォリューションはマリファナやLSDなしには語れませんね。その時代は直接には知りませんが、70年代でもまだフラワーレヴォリューションの残像が残っていましたから、マリファナやLSDは依存性が少ないから規制の必要なしという意見はそこそこ目にしました。
 SF作家では田中光二がよく利用してましたね。あ、小説に利用していたという意味ですよ。本人が使っていたという意味ではありませんので念のため(^^;
 海外作家では、今パッと思いつくのはジョン・ブラナーですね→『幻影への脱出』
 幻覚作用で別次元の扉を開いたり、吸引者そのものが超人化したり、いろんなシチュエーションがありました。

 たとえば山野浩一の短篇「ロックで行こう」がまんまそれ。この作品、佳品なんですが、最近創元文庫から出た傑作選にはなぜか入っていないので、あらすじを紹介しましょう。
 ロックグループ、ザセンチュリーズと、メンバーのジョンの妻であるキョーコ、ザサティスファクションのリーダー、ティーンの6名が、録音スタジオで演奏を収録中、5曲めの途中で忽然と消えてしまう。室内には香の煙がたちこめ、マリファナタバコが数本残されていた。ところが録音テープにはLP1枚分の演奏が録音されていたことが、あとで判明します。そして6名も二日後に再び録音スタジオで発見される(その二日間のかれらのトリップ内容ももちろん描かれています)。そして記者会見で突如解散を宣言します。「よく解りませんな。つまり解散するってことですね」「その通り。おれたちだけではない。あらゆる集団は、その中の人間一人一人を一つのワクにはめはじめたときに解散しなければならない。政党も、宗教団体も、国家も、君たち記者クラブもそうだ。一人一人が自分の信じることを書けなくなったら解散したまえ」「そうすると、どうなるんですか」「旅へ出ることができるよ」(HSFS版134p)*

 最近は、こんなナイーブに肯定的なものは見なくなった気がしますね。どうも最近のSFは分別くさくなってつまら……あわわもとい、大人の小説に成長したんですよね(^^;

*写していて気が付きましたが、山野浩一と小松左京、最初は同じ思想だったんですね。小松は日本沈没で大人になっちゃうんですね。そうか、だから山野は日本沈没を目の敵にして過剰なくらい噛み付いたのかもしれませんねえ。

 『バベル』は300頁まで。あと100頁。
 

Re: 顔文字

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月20日(火)17時56分57秒
返信・引用
  > No.5469[元記事へ]

  アスカは確かに「ネクラーッ。」て感じでしたね。このネクラな性格を明るい正確にするために中枢興奮作用のあるメタンフェタミン(覚せい剤)を使用したというのは考えられることですね。
中枢興奮作用のある薬物はアンフエタミンやメタンフェタミンなどアドレナリン誘導体のほかに、コカインも同様の中枢興奮作用があります。
一方のヘロインなどのモルヒネ誘導体やアルコール(酒類)は中枢抑制作用があります。この両者は薬物依存を引き起こしやすく習慣性になりやすいとされています。
またLSDやマジックマッシュルームなどセロトニン誘導体はまた別な作用があって幻覚剤といわれていて、必ずしも快感をもたらすものではなく、不快感をもたらす場合もあるとされ薬物依存や習慣性にはなりにくいとされています。そんなわけでわたしはビールも含めて一切アルコールを口にしないことにしたのですが…。

  確かにアルコール依存も含めて薬物依存者というのはなにかしら「ネクラの性格」に形容される「不快な心理状態」の中に存在、その不快な心理状態からに気出すために薬物やギャンブル、無秩序なセックスなどに走ったり、あるいは「不快な状態から幸福な状態にされていってあげる」と吹聴するカルト宗教や自己啓発セミナーなどに依存するようです。この「不快な心理状態」の原因として考えられるのは一つに家庭環境であり幼少期に母親が他の男性の下に走り家庭内に母親不在のばあい、つまり「見捨てられ感」が強い場合、のちにやくざ組織に居場所を求める場合が傾向的に多いです。一方家庭内に常に母親がいて、一方的に「模範的な東大生」になることを期待し、母親から心理的束縛を受けた場合、家から逃げ出し本当に価値のあある生き方をしたいとしてオウム真理教のようなグループに居場所を求める例が傾向的に多いです。
 

Re: 顔文字

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月19日(月)20時48分26秒
返信・引用 編集済
  > No.5468[元記事へ]

トマトさん
 デビューしたての、「ひとり咲き」や「万里の河」の頃のアスカは、めっちゃ暗かったです。髪も長くていかにもフォークシンガーという感じで、見た目からしてポップじゃなかった。MCのノリも悪かったように記憶しています。チャゲの方が目立ってました。
 それが突然、髪型もナウい(死語)、オーバーアクションな歌手に変わったんですよね。「モーニングムーン」あたりからでしょうか。そのあまりの変貌ぶりにびっくりしたのを覚えています。それからブレークしたんでしたよね。
 今から思うと、ひょっとしてその頃から使用をはじめたのかな、と。
 いや滅多なことはいえません。単なる私の、なんの根拠もない憶測です。
 ですが、もともとネクラな性格を、クスリの力で無理やりハイにしているうちに、やめられなくなってしまった、というのはあり得そうな気がしますねえ。
 

Re: 顔文字

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月19日(月)19時49分53秒
返信・引用
  > No.5467[元記事へ]

ASKA容疑者、完全にラリっていますね。個人的にはチャゲアス、あまり好みではありませんでしたが、しかし「一人咲き」なんかが懐かしいですね。チャゲアスもポプコン出身ですね。あの時代つま恋ポプコンといえば…。
団地の中の「へんな団体のアジト」は実際にあった話です。1000所帯もある団地なので、いろんなことが起きても当然といえば当然ですね。
 

Re: 顔文字

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月18日(日)22時50分45秒
返信・引用 編集済
  > No.5466[元記事へ]


トマトさん
>オハナシ(というかオハナシの素材?)
 そうですね。オハナシの素材ですね。
 マンションに住む異様な一団! いいですねえ。ここからなんか事件が起こりそうじゃないですか?(^^;
 

Re: 顔文字

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月18日(日)15時33分51秒
返信・引用 編集済
  > No.5463[元記事へ]

かつては上野から山形や秋田などに向かう急行列車車内に入ったとたん、なんともあえないぬくもりとも懐かしさともつかない濃厚な雰囲気が満ちていて乗客の話している言葉も訛りが強く何を話しているかわからないし、男性の乗客は社内でズボンを脱ぎステテコになって酒を飲み始めるしおばちゃんは手を叩いて民謡らしいものを歌い始めるしそういう乗客からタッパに入った漬物やおにぎりなんかを差し出されたりしては人情味があるというお節介というか馴れ馴れしい有難迷惑というかとにかくどう対応したらいたのは解らず戸惑ったものでした。
しかし今現在は東北へと向かう列車車内でもみんな標準語で服装もお洒落で食べ物を差し出す人もなく、小田急線や東横線と変わらないようです。

  今思い出せばあの東北地方へと向う列車車内の濃厚な雰囲気、懐かしいですね。


オハナシ(というかオハナシの素材?)

T町のマンション群で…。

かつて都内ターミナル駅Iから某線にのること20分から30分のTという町のマンションにいたことがある。このマンション、マンションというより団地という感じで、ずらっと建物が並んでいる。このマンションの一室にいたのは私が大学を出ると同時に杉並の下宿を引き払い、当時お世話になっていた某さんの配慮でここに住むことになった。 つまり要するにここはファミリータイプのマンションというか団地ということになる。私が住み始めたときにもう築10年以上、だからかなり年季が入っているほうではないか…。


  当然マンション管理組合というものがあり、マンションの夏祭りなども開催される。こここにいる以上は管理組合の会合や夏祭りなどの準備もしなければならず、法被を着て金魚すくいの店主をやらされとこがある。男の子の南下は私の目を盗んで禁書を自分の容器に入れたりするような不正行為があり、かなりてこずった記憶がある。

ところで私のいた棟に「奇妙な人たちが出入りする」という不可思議な部屋があるという話題になっていた。住民というのが男性二人だったり女性二人だったり、外国人もいたりとよく解らないが、週末になるとこの団地の一室に人が集まり、20人近くもやってくるという。あきらかにわたしたち一般人とオーラが違うらしい。さらにその部屋から不可思議な呪文や祈りの言葉のようなものが聞こえてくるという。そこで管理組合では「○棟の○○号室にはちょっと理解できないような人たちが出入りしているので、子供がいる家庭ではその理解できない団体の人たちに子供が声を掛けられても絶対に関わらないように…。」という通達が出た。
「べつにやくざとかではないのですか?」
と私は棟長(私のいる棟のまとめ役)の婦人に尋ねると、
「やくざとかそういうのではないみたいだけど、とにかく管理組合の集会にも委任状だけ出して顔を出さないし、どういう人たちだかどういう団体だかわからないけど、なんだか薄気味悪いから関わらないようにしてください。」とだけいわれた。詳細は不明である。
  そんなある日、都心から都内ターミナル駅I経由にT町のこの団地へと戻ってくると、
「すみません。乗ります。」
と男性が2人エレベーターに駆け込んできた。一人は三十台半ば、もう一人は大学生ぐらいといった感じだ。三十台半ばのほうはカッターシャツにグレーのスラックス、大学生ぐらいのほうは半そでシヤツに短パンにサンダル履きだった。季節はかなり気温が低いというのに、だ。
「この人たちかな?」
と思い、私はこのエレベーターの中に私とこの2人の三人しか乗っていないことに何か恐怖や不安のようなものを感じた。
「…霊的に洗練されて…。」
「ナントカの霊がなんとかという天体から…。」
エレベーターの中で2人は突然こんな会話を始めた。やはりこの連中だと思った。確かに雰囲気も普通とは違っていた。出来るだけ関わり合いにならないようにしなければ…と思った。早速わたしはその晩、棟長のところにいってこの事実を報告した。
「別に特に女の子が悪戯されたりなんだかということもないけど、何か呪文みたいなものを唱えているし、自治管理組合の集まりなどには絶対に来ないし…気味が悪いね。出来るだけ関わり合いにならないようにするしかないね。」
という棟長の答えだった。
その後、夕暮れどきだったが、団地内の子供が遊ぶ公園で、大人の男女が20人ぐらいで手をつないで輪になってなにか祈りの言葉みたいなものを唱えているのを目撃した。団地の住民だし子供たちがいない夕暮れ時なのだからこういうことをするなとは言えないが、たしかに気味が悪かった。
 

「疲れた社員たち」感想を書き換えました

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月18日(日)14時09分33秒
返信・引用 編集済
   先日当掲示板に投稿しました『疲れた社員たち』の感想ですが、改稿し、確定稿をブログチャチャヤン気分にアップしました。
 大幅な変更になりましたので、当掲示板の書き込みの方も、確定稿と差し替えました。
 

「バベル」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月17日(土)20時41分59秒
返信・引用 編集済
  トマトさん
>東北南部まで準首都圏化しているようで東北地方の人たちもぜんぜん訛っていないので
 なんか寂しいですね、と感じるのは、部外者の傲慢なんでしょうけれど。
 そのうち、日本全土が首都圏化してしまうのでしょうね。ただし大阪圏は、その趨勢に最後まで抵抗しているんじゃないでしょうか。そう思いたいです(>願望)(^^;

 福田和代『バベル』に着手。80頁まで。
 突如、脳の言語野を損壊する新種のウイルス性脳炎が日本列島を襲い、人々は文字どおり「言葉を失う」……!?
 おお、これは失語症SFでは。

 ということで、本書の参考文献にも挙げられている、山鳥重『言葉と脳と心 失語症とは何か』 (講談社現代新書11)を、私も以前読んで感想を当掲示板に断続的に書き込んでいたんですが、おさらいのためにまとめてみました。
 皆さんも、もし『バベル』をお読みになるなら、参考にして頂ければ幸甚。

山鳥重『言葉と脳と心 失語症とは何か』 (講談社現代新書11)感想まとめ(2011/2〜3)

 ―――― -1 ――――
 『言葉と脳と心』は180頁まで。残り70頁。
 本書は<失語症>の解説書なのですが、私は失語症って、何らかの重篤なトラウマを被った結果、それに関連する言葉が抑圧されて出てこない、そんなイメージを持っていました。全然違いました。そんな生やさしいものではなかった。

 SFでよく、脳の内容をコピーし、それを別の場所(たとえばロボットのメモリー部分)に移したり、あるいはイーガンみたく、物理的なものを取り払って電子化しインターネットみたいなところへ移して電脳存在になる話がありますが、本書を読むと、そんな簡単な話ではないのではないかと思われてきます。
 ラカンじゃないですが、言葉なくして人間なし。人間って、ヒトの皮をかぶったコトバなんですよね。<脳>という物理的な容れ物が前提にあって初めて、思考(意識/心)は機能するんじゃないか。

 脳の存在と思考は不可分で、たとえばアインシュタインの脳からいわゆる「自我(私)」をコピーし得たとしても、脳から切り離したとたん、全く機能しないんじゃないでしょうか(本書で解説される、正しい意味での<失語症>状態にしかならない?)。一太郎で書いた文書をワードで開こうとしても文字化けするだけみたいな(その前に動かないのか)。メルロ=ポンティを読み直してみたくなるなあ。

 ―――― 0 ――――
山鳥重『言葉と脳と心 失語症とは何か』 (講談社現代新書11)読了。

感想を書こうとしたら、言葉がスムーズに出てきません。はっ、これは失語症なのか。いうべき言葉を見いだせないという意味ではそのとおりです。
 但し本書で扱っている失語症ではなく(なぜなら統語は狂っていないし、音読すれば連続的な音の日本語的区分け選択も保たれている。はず。
 なのだが、統語が失せていたらそもそも統語を認識できず誤っているとも感じない)、いわば未知の知識の貫入に対して、それを組み込むべき既存の知識体系の再編がうまく進んでいないからということではないか思われます。
 要するにまだちゃんと咀嚼出来ていない、読み足りていないわけで、そうと知れば読み返してみるしかありません。ということで再読に着手(>言い訳が長い!)。

 ―――― 1 ――――
 『言葉と脳と心』再読は一〇〇頁まで。

 失語症が興味深いのは、それが人間(心、自我)が身体内存在であることを明らかにするからです。
 第一章で、患者にいろんな色の糸を見せて、それが何色かを問う実験が紹介されているのですが、患者は答えられません。しかしそれは色が認識できなくなったからではなく、色のカテゴリがわからなくなったのです(抽象的態度の障害)。
 個々の色糸に対しては、それぞれ「桜の赤みたい」「オレンジみたい」「わすれな草みたい」という言い方でなら答えを返している。つまり具体的な色は認識できている。しかしそれらが、「ざっくりと」〈赤〉である、〈青〉である、ということに確信が持てないのだそうです。

 本板で何度も書いていますが、人間の認識できる赤から紫までの物理的な可視光はそもそも連続的で、それを十色なり十二色なりに、人間は「恣意的」に区切って認識している。
 だから健常者でも、これは青なのか緑なのかと迷う境界線上の色がある。しかしたいがいはざっくりと、「これは青」「これはピンク」と瞬時に判別します。

 じつはそう見なしただけなのですが(余談ですが、その認識の仕方・区切り方・に二次的に影響されるのは『言葉と思考』で触れました)、そういう認識の態度を抽象的(カテゴリー的)態度といい、これが障害されると、すべての色が別々に認識されて(情報量が過大になって)社会的生活が営めなくなる。上の患者がそうです。色が分からなくなったのではなく色の分類(きめつけ)ができなくなってしまったのです。そしてそれは脳の或る部位の損傷のせいなのです。

 この手の失語症の人に、家の部分(壁、床、天井など)がいえなくなるのも多いそうです。確かにこれらの呼称も、〈連続〉を恣意的に切り分けた名称ですね。やはり天井や床が何であるか判らないのではなく、図で書かせればこれは壁、という風に示せるとのこと。ところが現実の具体的な室内に立つと、どこまでが壁で、どこからが床なのか確信が持てなくなるんだそうです。著者の用語にはありませんが、要するに《パターン認識》(抽象的態度)の障害ですね。(つづく)

 ―――― 2 ――――
 第一章の補足。空の青、海の青、信号機の青、すべて厳密には違う色です(空の青に限っても千差万別の色合いがある)。それをすべて<青>と、我々は認識します。
 これから導かれるのは<青>が具体的な「事実」に属するものではなくて、事実とは一旦切り離された、「考えられたもの」だということではないでしょうか。
 あるいは日本人の<青>と、イギリス人の<blue>は完全に重なりあうものではない。ゆえに<青>や<blue>は「文化」であるといえます。

 さて、第二章では「発話できなくなるふしぎ」と題されて、第一章の失語症とはまた別の、失語症中の失語症といわれる「ブローカ失語」が検討されます。
 この失語は、まさに言葉が出なくなってしまう。で、いくつかの代表的な説明が検討されるのですが、結局、言葉を発するという行為は、図式的にいえば、発声(発語)するには、エイヤ!という気合がいるってことです。音じゃなく文字でも一緒。
 ネットで文章を書いている方は同意してもらえると思うのですが、最初のワンセンテンスが極めて重要。それがハマればワッと書けちゃいます。それがハマらないと、なかなか書き続けられず、また最初から書き直す事が多い。

 あるいは定型的な言葉や常套句は出やすい。普段はしゃべらない人が、営業の現場では流暢にしゃべれるというのは、いくらでも周囲に見つけられる。
 ブローカ失語で言葉をほとんど失った患者も、感情が高ぶると「クソッタレ」みたいな言葉がするりと出てくるらしい。常套句はエイヤ!の閾値を下げるんですね。
 要するに「発語」は一種のリズムに乗って表出されるものなのです。ブローカ失語の患者は、この、乗せるべきリズムあるいはリズムに乗せるための最初のエイヤ!が機能しないんだそうです(脳の損傷で)。(つづく)

 ―――― 3 ――――
 第3章は、「聞いた言葉が理解できなくなる不思議」と題して、《ウェルニッケ失語》が取り上げられます。この失語は、ブローカ失語以上に中核的な失語とのことで、特徴が二つあります。
 一つは言葉を理解できなくなること。もう一つは話す言葉が崩れてしまうこと。

 その前に、《プロソディ》について説明します。
 前回ふれた、思いを発話するにはリズムや定型に乗せる必要があるといいましたが、これが《プロソディ》です。
 具体的にはドンガバチョの藤村有弘の嘘外国語。……え、判らない? 判りませんか。それじゃあタモリのタモリ語にしましょう。タモリが発する中国語にしろ朝鮮語にしろ、いかにもその国の言語らしく聞こえますよね。
 でも、母国語の人が聞けば何を云っているのかさっぱりわからないはずです。ただリズムとかアクセントなどが「らしい」だけですから。この「らしさ」がプロソディなのです。

 プロソディは各言語によって特徴があります(だから嘘中国語でも、なんとなく私たちはそれが中国語だと認識しちゃいます。タモリの中国語を中国人が聞けば、何をいってるか分からないけれども、どうも中国語みたいと感じるはずなんです。

 実は《ウェルニッケ失語》もこのような事態になるらしい。患者は何か訴えるようにしゃべり出します(心のなかに思考がある)。しかし口から発せられるのは、外国人のタモリがしゃべるような嘘日本語(のようなもの)なのです。それが日本語であるのは分かるのだが、しゃべっている言葉(というよりも発せられる〈音〉)は支離滅裂なのです。(つづく)

 ―――― 4 ――――
 「言葉を理解できなくなること」と「話す言葉が崩れてしまうこと」、両者は同じ事態の表と裏だと思います。
 そもそも言語活動は、「思い」を「口に出す言葉」に変え、「耳で聞き取った言葉」を「思い」(意味)に変える、この繰り返しと著者は述べます(書き言葉でも同じでしょう)。

 ブログや掲示板で書いていて、何が大変かというと、まず、表現を欲する「思い」が頭の中に「ごちゃっ」と塊の状態であるわけです。それを「表現」(表出)するためには、塊を、時系列に線状にほぐしてプロソディに乗せなければならない。でないと相手に伝わりません。

 また、線状にほぐすことで自分自身も、自分が何をいいたかったのか改めてはっきり知ることができる効果がある(それは間違っていたことを自覚したり、いう必要のないことだなと気づいたりする効果でもある)。つまり「思い」が「厳密化」される。
 簡単なことですと、この過程も楽々クリアしますが、ちょっと複雑になると、私などは途端に呻吟してしまうんですよね。私のような健常者(一応そのつもり(^^;)でもなかなかたいへんです。

 この過程が、失語症では(脳の損傷で)阻害されてしまいます。単に阻害されるのが第2章の「ブローカ失語」だと思います。著者は言葉の生産の流れが悪くなるといっています。
 ところが、「ウェルニッケ失語」ではもっと深刻で、このプロソディが「壊れてしまう」らしいのです。(つづく)

 [ご注意] この辺から(以前もですが)本書の要約を越えて、私の理解(場合によっては妄想)が混じってきていますので、検索で来られた方(最近多い)は、正確なサマリーではない点充分ご留意の上お読み下さい。決して鵜呑みにしないように。コピペ論外。恥をかきますヨ(^^;

 ―――― 5 ――――
 先回、ウェルニッケ失語ではプロソディが壊れてしまうと書きましたが、勘違いでした。壊れるのは〈聴覚心像〉で、プロソディは正常です。
 また聴きなれない言葉がでてきました(^^;。

 我々が耳で言葉(音声)を聞くとき、たとえば[i・nu]という音が耳に入ってきます。すると脳は、現実の「イヌ」(の心的映像)を想起します。
 心的映像の「イヌ」は、〈視覚心像〉や〈触覚心像〉や〈嗅覚心像〉の合成であります。要するに現実の生体であるイヌの「像」が浮かんでくるわけですね。

 この、[i・nu]が、イヌの〈ナマエ〉すなわち〈聴覚心像〉です。このことから分かるように、〈聴覚心像〉は、具体的な〈視覚心像〉や〈触覚心像〉や〈嗅覚心像〉とは同列ではありません(文字情報も、視覚から入ってくるけれども聴覚心像と同じ)。
 〈聴覚心像〉も他の心像も、脳の中に貯蔵されている「記憶」ではありますが、上記に対応して、収納の場所が異なるのだそうです。

 図式化するとこうなります。脳の聴覚連合野にナマエ(音の連なり)の鋳型というか「抜き型」(音の鋳型ですけど)が貯蔵されていると仮定したらどうでしょう。
 外部から耳を通して入ってきた[i・nu]という音は、まず脳に所蔵されている「イヌ」というナマエ(聴覚心像)=抜き型と照合されます。
 合致すれば(正常なら合致します)[i・nu]は抜き型を通り抜けることができる。それがキイとなって〈視覚心像〉等の「合成心像」が蔵されていた扉が開き、意識にその合成心像が浮かび上がるという次第。
 我々が[i・nu]という音を聞けば即座にイヌをイメージしますが、そこには以上のような過程があったわけです(そういうことが失語の観察から分かってきたわけです)

 ではこの〈聴覚心像〉が壊れてしまうとどうなるでしょうか(文字でも同じことです)。
 それはこの(音の)抜き型が、何らかの理由で歪んでしまったと考える。
 [i・nu]という音が入って来、抜き型〈聴覚心像〉と照合されるわけですが、抜き型が壊れているので、正しい音にもかかわらず抜き型に引っかかって通り抜けられない。はねられてしまう。ゆえに[i・nu]という音は合成心像「イヌ」を引き出せない。キイが合わない。

 逆に、患者が「イヌ!」と言いたいとします。
 ところが患者の「イヌ」心像を表す抜き型〈聴覚心像〉が壊れていますから、発声されるのは[i・nu]という正しい音ではなく、歪んだ抜き型を通り抜けられる、歪んだ音の連なりになってしまう。でたらめな音が発声されるわけです。
 しかし「プロソディ」は壊れてないので、遠くから患者のしゃべるのを聞いている人には日本語のように聞こえる。つまりタモリ語みたいな状況が生まれる。

 「言葉を理解できなくなること」と「話す言葉が崩れてしまうこと」、両者は同じ事態の表と裏だと思います、と先回に書いた所以です。

 ところで日本語の母音は五つですが(古代は八母音)、中国語はもっと多いそうですね。英語も曖昧母音があります(もちろん日本語から見て曖昧母音なのですが)。
 赤ちゃんには、そもそも世界中のすべての母音を聞き分ける能力が備わっているのですが、次第に母語の母音しか聞き取れなくなります。
 これは以前色について書いたのと同じでありまして、母音と云っても連続的に変化する音を勝手に(恣意的に)切り分けているだけなのです。それはしたがって後天的に取得したものです。

 ウェルニッケ失語も重篤になると、この母音(当然子音も)が崩れてしまう。こうなったら聞き手は聞き取った音を文字に記すことすらできなくなります(というか聞き取れないのですが)。
 文字は音韻体系と相同ですから、音韻体系を外れた音は写すことができなくなる。本書は明確には書いていませんが、音韻が崩れるとはプロソディが崩れるということではないのでしょうか。

 ―――― 6 ――――
 聴覚心像(抜き型)が壊れてしまったからといって、ウェルニッケ失語患者に意識障害や精神錯乱があると考えることは出来ません。
 たとえば先生が患者に対して「○○さん?」と改まった調子でしゃべりかけると、拝聴する姿勢を示すそうです。これはプロソディは正常なので、先生の態度の視認と、改まった口調(リズム)や語尾を?で上げる、その疑問の形式は分かっており、先生はなにか自分に言おうとしているのだな、と察するということのようです。

 ただしこの場合、○○が本人の名前と故意に違う名前を言っても関係なく姿勢を改める。それは聴覚心像が壊れているからです。
 着衣、洗面、食事などは全部普通にできることからしても、患者の頭の中での活動は基本正常とみなしうる。

 それなのに、重篤症例では、自分が相手の言葉を理解出来ていないことに気づかない(病態失認)。あるいは自分の発話内容に異常があることに気づかない。本人は言いたいことを伝えているつもりで疑いもしない。
 この辺になるともはや共感的な理解了解(察し)が効かなくなってきます。
 著者の説明も、いまいち腑に落ちません。もっと聴覚心像の壊れに着目してもいいのではないでしょうか。

 本人の中で「イヌ」のイメージ(概念=視覚心像+触覚心像+嗅覚心像)の聴覚心像(ナマエ)は、もはや[i・nu]ではない別の音列なんです。しかも壊れているのだから都度変わるのかもしれません。であればその都度々々の「音列」を、患者はその都度正しいものとして認識するのではないか。[in・u]という記憶(聴覚心像)が失われてしまっているのだから、患者はそれをもって比較して判断することが不可能になっている。だから気づかないのではないでしょうか。

 この辺は大半私の妄想ですので、ぜひ本書に直接当たって、検定していただきたいとご注意申し上げておきます。もっとも私自身は正確な学説の吸収よりもSF的な認識の揺さぶりを求めている部分が大きいのでぜんぜん困らないのですが(>おい)(^^;

 ―――― 7 ――――
 著者は〈聴覚心像〉(ナマエ)と、〈視覚心像〉などの他の心像(概念)とを、区別するのですが、よくよく考えたらそうともいえないと思えてきました。
 たしかに人間の、コトバの発声に限ってはそうなのですが、ではスズムシの音色はどうなのか。[suzumusi]と発語された音を聴いたとき、まず想起されるのはあのリーンリーンという音色ではないでしょうか。或いは木枯らし。これなんぞ視覚心像はないに等しい。あるのは冷たい風の当たる触覚心像とひゅーひゅーとなる聴覚心像のはずです。
 或いはコルトレーン。[korutore-n]という音列を耳にした私は、写真でしか見たことがない視覚心像とともに、まず浮かんでくるのは、コルトレーンのテナーの音です。ただし個別的な何がしの曲のプレイが浮かんでくるのではなくて、コルトレーンの「テナーの音」の聴覚イメージが、漠とした音の塊として浮かんできます。

 このような、言語ではない「音」は視覚嗅覚触覚味覚と共に五感のひとつとして概念に含まれると思います。
 で、元に戻って、コルトレーンの「テナーの音」の塊からの類推ですが、コルトレーン自身が、表現したい「音」の塊を、内部(脳内)に貯蔵していたのではないでしょうか。
 最初からメロディやフレーズがすっかり出来上がって蔵されているのではないはずです。それは表現を待つ混沌たるマグマのような塊として、いわばごちゃっとトレーンの中にある。
 それを表出するために、トレーンは、いわば言葉を発するように、混沌を線状にほぐし整理して、しかしてサキソフォンを息と指先の連動で操り(運動性)、表出しているのだと思います。
 まさに言葉の発語と同じで、やはりプロソディがあって、たとえ音質が判らない極端にチャチなトランジスタラジオで聴いたとしても、そのスタイル(文体or文脈)やフレーズ、すなわちプロソディで、トレーンだと分かります。

 コルトレーンの事例を思いついたことで、先回よく分からないとかいた著者の仮説がするりと腑に落ちました。
 著者はいいます。ウェルニッケ失語は脳のウェルニッケ領域の損傷によってブローカ領域が自走(暴走)するために起こると。
 ブローカ失語はブローカ領域の損傷のため発症するのですが、ブローカ失語とはなんだったでしょうか。それは言葉を表出する「出力」装置の機能障害でした(単純に言葉が出なくなる)。

 ウェルニッケ失語ではこのブローカ領域は正常なのです。だからウェルニッケ失語の患者は流暢に、自然にしゃべります。ただ何を言っているか分からないのでした。ウェルニッケ領域の損傷で何が起こるのか。聴覚心像が壊れてしまったのでした。

 すなわち整理すれば、健常者は、ウェルニッケ領域で入力した言葉を理解し、入力情報に対応した妥当な反応(思いの塊を線状に解きほぐしたもの)を、ブローカ領域で運動に変えて出力するのです。
 かかる健常者に対して、ブローカ失語ではブローカ領域が機能しないために、言葉が出なくなる。

 一方ウェルニッケ失語ではウェルニッケ領域がちゃんと機能しないために、ブローカ領域が自走して発語運動を行ってしまう(プロソディに乗せて発射してしまう)。ただしプロソディに乗せられているのは、無意味な音でしかない。

 で、この無意味な音というのが、著者によれば上述の「塊」なのです。ウェルニッケ領域が機能しないために、ブローカ領域は、ウェルニッケ領域で解きほぐされないままの塊を、勝手にプロソディに乗せて発射してしまっているというのです。

 これをジャズに引き戻してみればわかりやすい。ジャズマンの頭の中の混沌たる音の塊が、線状に解きほぐされずに、息と指の運動で出力されてしまった状態と考えてよいのではないか。
 それはつまり、ニュージャズがそうなのか? 違います。いっけんフリージャズのプレイは塊がそのまま表出されているように聞こえます。しかしよく聞くとそこには各人特有の反復(フレーズ)があることに気づくはず。
 山下洋輔の肘打ちは、あれは塊ではないのか。違うのです。なぜなら肘打ちは反復され、その反復が効果を計算してのそれであることが明らかに看取されるからです。
 なかなか理解できなかったことが、ジャズに当てはめてみたらするりと了解できてしまいました(笑)

 ―――― 8 ――――
 第4章は「言い間違いのふしぎ」として、「伝導失語」が取り上げられます(ただしこの病名は著者の考えからすれば不適当なのですが)。
 ブローカ失語ではプロソディの発火が極端に鈍くなってしまいます。
 ウェルニッケ失語ではブローカ領域に障害はない。ただ〈言語性心像〉(初めて出てくる術語。聴覚心像より正確ですね。初めからこれを使えよ>著者(汗))が壊れたため、入力されてくる〈音の連なり)を同定できない。逆に「思い」(塊)を表出しようとしたとき、〈言語性心像〉の壊れでちゃんとほぐせない。ブローカ領域は問題ないのでそのときほぐされてない塊(母音子音も崩れる)がそのままプロソディに乗せられて発射されてしまう。しかも当人は対照すべき〈言語心像〉の壊れでそれが間違っているとも認識できない状態。

 一方、本「伝導失語」は、「カラダ」を「カダラ」とか、「クルマ」を「クマイ」という風に、言い間違いをしてしまい、本人も間違ったことが分かっています。つまり伝導失語では「正しい単語の心像は浮かんでいるのに、実際には間違った単語が出てきてしまうのだそうです。
 〈言語性心像〉は壊れてなく、入力されてくる言語〈音〉はちゃんと理解されているわけです。要するに出力の障害なのですが、ブローカ失語とは違って〈プロソディ〉の発火は正常です(だから一応「流暢に」しゃべれる)。
 著者の仮説は次のようなもの。

 健常者では、表現したい思いの塊(観念心像)が、〈言語心像〉の校正を受けて解きほぐされ、線状に精密化され、ブローカ領域でプロソディに乗せられ発射(発話)されます。本失語では、観念心像を想起する能力は正常です。問題は言語心像のほうにある。

 著者の説明を私流に言い換えるならば、こうなります。まず、表現したい思い(観念心像)が心に浮かぶ。するとそれがナマエ、この場合は単語ですが、それを引き寄せてくる。ただしこの単語(音声心像)は、この段階では未だ「塊」の状態であるわけです。
 いわば「カ→ラ→ダ」という風に線状に、通時的に不可逆的に並んであるんじゃなく、「カ」と「ラ」と「ダ」が(場合によっては、それ以外の音も含んでいたりするような、きわめてざっくりした塊として)、順番もなく「共時的」に、並列した状態で固まりを形成している(音韻塊心像)。

 それを通時化(分節化)するのが〈言語心像〉なのですが、この分節化(校正)がうまくいってないのではないか。
 かかるメカニズム(音韻塊心像の展開)の障害ではないか、というのが著者の仮説。
 これは中枢処理に関わる障害で、「領域」の障害といえるものではなく、言語表出過程の、きわめて限られた部分がうまく働かなくなっているようなのですが、それゆえどこが責任病巣であるのかという同定は、未だはっきりしていないようです。

 ―――― 9 ――――
 第5章は「脳の右半球と左半球のふしぎ」と題されて、脳の両半球をつなぐ神経連絡路(脳梁)が切断されてしまった場合と右半球が損傷を被った場合の二つの場合に起きることで、明らかになったことが解説されます。
 その前に、一般的に人間は、左半球に言語領域があることを確認しておきます。これまでの4種の失語はすべて、左脳の、それぞれ関連する部位の傷害によって引き起こされたものでした。ならば右脳の損傷は失語とは関係ないのではないか、と思われるかもしれません。ところがどうも、そうではないらしいのです。

 著者は上記二つの場合に分けて説明していますが、本稿ではひとつだけ、前者の単純化した例を紹介することにします。
 左脳と右脳が遮断された患者に、(右脳が支配する)左目でものを見させたり、(目隠しをして)左手でものを触らせたりして、その名前を答えさせる実験をします。すると頓珍漢な答えが返ってくるのです。ところが逆の場合、右目でものを見させたり右手で触らせたときは正確に答えられるのです。

 これはつまり、左右間が遮断されたため、左脳の言語領域は右脳の経験を認識できなくなったからなのだそうです(で、勝手な発語を暴走させる)。
 ところが、そもそも触覚や視覚は正常なので一般的な意味で認知はできている。いま見たり触ったものはどれですかと指差させれば、正しいものを指差しできる。言語に拠らなければ正しい反応が返ってくる。でも左手で触ったものを言葉で言わそうとしても言えない。分かっていて言えないのではなく、(言語的には)認知できていない。なので意識もされていないのだそうです。

 要するに右脳と左脳が遮断されているので、左脳にある「言語性心像」に入力情報が届かないわけです(故にその空虚を補填するため空語が発せられる)。

 こうした事実は、「認知」と「言語」と「意識」という三種の心理過程は三位一体でなく、それぞれ分離しうるものだということを示していると著者は言います。
 なるほど。で、私はまたもや妄想を始めるわけです。

 クラークの昔からイーガンまで、意識を身体から分離して(複写したりして)保存したり、電脳空間に住まわせる話は枚挙にいとまがないが、実はそんな簡単な話ではないのかもしれない。
 意識が外界を認知するためには(脳も含めた)身体という容器が不可欠というか、身体があってこそ意識は機能する、「絶対的前提条件」なのだとしたら、身体と分離しても意識は保ちうるといういう設定は、少なくとも現実性にはかけるアイデアというべきなのではないでしょうか(そのことはまた霊魂(幽霊)の持続性も否定するものであるわけですが)。

 ―――― 終 ――――
 本書もいよいよ「エピローグ」。この章は一種のまとめになっています。「まとめ」をまとめても仕方ないので(興味ある方は直接当たってください>おい(^^;)、ここでは私の理解(誤解)と感想(妄想)のみを記します。

 著者は「心」のなかはどうなっているのだろうと考え、心の大部分を占めるのは「感情」だろうといいます。
「感情」とはこれまで述べてきた「塊」のこと。それは「連続的で瀰漫的な経験の塊」であり、切れ目のない一本の流れのように、もしくは古事記神代の「混沌」のように、個別化以前の「全」的な状態で心の中を占めていると考えられます。

 「思い」(観念)は、そこから浮き上がってくるものです。あたかもイザナギがかき回して引き上げた天の沼矛の先からボトりと落ちて凝ったように。但しいまだ混沌が局所的に凝ったものにすぎず、「全」的なものから「一」化はしましたが、そのウチとソトの区別というか境界領域は曖昧です。

 この「思い」が(言語心像のチェックをうけて)言語化され(ほぐされ)、初めて我々はその「思い」を対象化できるようになります。
 言語化(命名)とは、連続に(恣意的な)切れ目を入れて、いわば直線を破線状にすることです。このような操作をして始めて我々は「意識化」できる。

 ということは逆にいえば、心内感情を、我々はそのすべてを言語化して把握しているわけではないということになります。
 たとえば(今では少なくなりましたが)剃刀でヒゲを剃るとき、何も考えず手に任せたほうがスムーズに事が運びます。ところが一旦「意識」してしまうと、途端に手が硬直して剃り損ない血だらけになる。ということはどなたも経験的に了解されるでしょう。
 これは特殊例かもしれませんが、私の場合、車の運転も意識はあまり介在していないような気がします(要所要所以外は)。

 我々の活動において「意識」の占める割合は、存外小さいのではないでしょうか(それは発話が、常にプロソディという定型に切れ切れに表現したいことを乗せて発射されるのと同型)。非言語的に、体が勝手に動いて処理する場合のほうが実は多いのです。

 以上を敷衍するならば、我々の意識は《遍在》するといった体のものではなくて、むしろ部分的局所的に《偏在》しており、意識は、必要なときその都度都度に言語化され意識化させられるものといえそう。
 意識は常に立ち上げられているわけではなく、我々は認知活動のすべてを意識しているわけではない(著者の発想は、意外に精神分析のそれに近いように感じました)。

 そういう意味に於いて、先回も書きましたが、SFにおける自我の複写・電脳化、あるいはAIの自我問題は思索を進化させる余地があるように感じられるのです。
 世評高い『あなたのための物語』を読んだとき、いまいちのれなかったのは、出てくる(身体を持たない)AIが、あまりにも「人間的(心身存在的)」過ぎてリアリティを感じられなかったからだなと、いまさら気付かされたのでした。

 ということで、山鳥重『言葉と脳と心失語症とは何か』(講談社現代新書11)の読了とします。

 

Re: 顔文字

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月17日(土)16時23分3秒
返信・引用
  > No.5461[元記事へ]

  上野はかつて東北への玄関口で、上野に行くと、独特のアコーステックな雰囲気がありました。昔は東北地方から出稼ぎや集団就職でどっと人が流れ込んできて、そして上野駅では別れを惜しんで涙を流す様子なんかも良く見られました。

  でも今は東北新幹線が東京駅から発着するし、東北南部まで準首都圏化しているようで東北地方の人たちもぜんぜん訛っていないので、かつての雰囲気はなくなってしまいましたね。石川啄木の歌の世界はもうなくなってしまいました。
  東北のみに限らず寅さんの町の葛飾もウィーンと姉妹都市になってはモーツァルトホールだとかいうものができたりウィーンの町並みにありそうな天使像が道に並んでいたりとまったく変わってしまいました。向田邦子的な東京の下町の世界はもうないようですね。

東新宿に居場所を求める家出少女やニューハーフなども寺山修司と同じところにいる人たちのように感じます。元バリバリヤンキーのニューハーフが意外にも良家の出で名門進学校卒だったことを思い出しました。なんとなく寺山修司っぽいですね。新宿に居場所もとめる人たちが住んでいるのがたとえば新宿から近い中野という町のアパートです。こういう人たちが意外にも教会に通うクリスチャンだったり共産党だったりすることもあるんですね。私が実際に付き合っていた女性も新宿で出合ったのですが、彼女も準家出少女でしたね。二年半の付き合いの中で彼女は少しつづ故郷への道しるべを見つけたようです。という事はある意味大人になる、というか落ち着くという事でもあったのですが・・・。??
 

Re:顔文字

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月17日(土)13時11分34秒
返信・引用
  管理人様
>危ないのがここ一年くらいの記憶なんですよねー
わっ、おもしろいことを考えつきました(誰か、もう書いてるかも)。
パソコンのなかに、まるで「靴屋のこびと」みたいなのがいて、しこしこと顔文字≠書いているのです。
なんか、おおしろくて、でも、怖いかも知れません。(短いお話にしてしまおうか、と考える私です)
 

Re: 顔文字

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月16日(金)22時58分54秒
返信・引用 編集済
  > No.5460[元記事へ]

トマトさん
>故郷から離れた…という印象があるのは北に歌舞伎町を控える東新宿のほうで
 なるほど。私はなんとなく上野あたりに「故郷から離れた場所」をイメージしてたのですが、むしろ上野は、故郷の”東京出張所”的存在なのかもしれませんね。
 そういえば「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の停車場は、たしか上野駅でしたね。
 その意味で、上野は故郷とつながっているんですね。新宿や渋谷は、もはや完全に切れてしまう。
 故郷をユートピアと捉えれば、新宿はアンチ・ユートピアですが、故郷をアンチ・ユートピアと捉えれば、新宿はユートピアとなります。寺山修司は、後者を是とし前者を否としますが、その内実はアンビバレントです。
 先日書かれた身近話、「新宿という町」の主人公は、寺山ほどメンドクサクなくもっと素直で、最初は後者だったのが、挫折しては故郷に帰ったりしている内に、いつしか前者派になっちゃいました。そうしますとユートピアとしての故郷には、やはりグレートマザーを措定したくなりますね。
 グレートマザーは、故郷の地下巨大銭湯に棲んでいるのでしょうか(^^;

 

Re: 顔文字

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月16日(金)18時17分35秒
返信・引用 編集済
  > No.5458[元記事へ]

段野さん、管理人さん、ありがとうございました。



  副都心西新宿もかつては木造公民館だとか銭湯があったりしてアコーステックな町だったようです。今はスクエアで無機質的な世界ですね…。

  故郷から離れた…という印象があるのは北に歌舞伎町を控える東新宿のほうで、家出少女なんかが安レストランのウェイトレスなんかをしていたりします。彼女たちはみな一様に髪が長く、ショートパンツが好きですね。ニューハーフが多いのはそこから南のほうにいった二丁目界隈で、ニューハーフはもとヤンキーの人が多くて、はっきりいって怖いです。ニューハーフの町の近く、新宿御苑そばに過激派の聖地「模索舎」という本屋&スナックがあります。ここにはケバルトローザがいました。髪が長くて細身でそれこそマハーケイマみたいな人いましたね。

  渋谷は新宿とは違ったまたディープさがあるみたいですね。渋谷パルコのところのスペイン坂は若者の聖地ですが、もっと奥には(今では取り締まり対象になる幻覚キノコ、マジックマッシュルーム)入りのオムレツを出す店もあったそうです。この幻覚キノコを出す店は下北沢にもあったそうです。幻覚キノコですが、日本にも生えていてしかも関東北部などでよく食べられる「ならたけ」とよく似ていて、ならたけとまちがって幻覚キノコを食べて救急車を呼んだなんていう話がよくありましたね。幻覚キノコだけではなく幻覚サボテンというのもあり、こちらはペヨーテと呼ばれていて、なぜか園芸店ではなくなぜか渋谷の書店で売られていました。

  こういう故郷と大きく離れた新宿や渋谷の奥地に対するのが「地元の銭湯」かもしれません。私の生まれ育った東日本の町にもかつては銭湯があり、家に風呂があっても銭湯に言ったりしたものでした。かわりにスーパー銭湯などが出来たり、昔ながらの銭湯があっても観光目的の欧米人が多かったりして、かつての昭和の銭湯といった雰囲気はなくなってしまいましたね。
 

トマトさま

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月16日(金)16時39分52秒
返信・引用
  オハナシが浮かばない時は、そこで、! で結構ですよ。
私も、何も浮かばない時があります(お前は、しょっちゅうやないか、と言われそうですが)
また、オハナシが浮かんできましたなら、! お待ちしております。
(ああ、新宿の有様が、分からない、大阪人の田舎もんです)
 

Re: 顔文字

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月15日(木)18時39分1秒
返信・引用 編集済
  > No.5456[元記事へ]

段野さん
>いつの間に、「顔文字」が登場したのでしょう。謎です。
 それは私もよく経験しますよ。ある年齢に達すると必ず現れる現象です。昔のことは意外と大丈夫ですが、危ないのがここ一年くらいの記憶なんですよねー(^^ゞ

>「顔文字」があると、印象ががらっと変わるんですね。
 そうなんです。たとえばリアル場面では、多少皮肉やキツイことを言われても、表情が見えますので、ニコニコしながらだったりだと、それがクッションになってさほどコタエませんが(キダタロー先生はその達人ですね)、ネットだと文字情報だけしかないので、同じ言葉でもグサグサと突き刺さって来る場合があります。顔文字はそれを和らげる効果がありますよね。
 そういえば前段の文章も、(^^;が付いていたからよかったですが、なければ段野さんもムカッとしたかもね(^^;。あ、付いていてもムカつきましたですか。それはひつれーしました!(>をい)(^^ゞ

トマトさん
 西新宿と東新宿があることを初めて知りました。ご教示ありがとうございました。
 で、その東新宿の方が、あの何とも怪しげな、昭和のディープ新宿につながっているのですね(^^;

 

段野さん管理人さん、ありがとうございました

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月15日(木)14時42分40秒
返信・引用
  新宿という町はいまでもディープであり続けています。
副都心は西新宿で、新宿本体からは少し離れています。

今日は全然オハナシが浮かばないのです(^_^;)
 

顔文字

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月15日(木)13時23分25秒
返信・引用 編集済
  管理人様
探し物をするため、掲示板をほぼ一年前までさかのぼって見てみました。すると、私の書き込みに「顔文字」が! 「顔文字」はパソコン変換できるのですが、使ったことがなかったのです。いつの間に、「顔文字」が登場したのでしょう。謎です。
不思議ですね。「顔文字」があると、印象ががらっと変わるんですね。驚きました。
(結局、探し物は、見つかりませんでした。どなたかが、「オンデマンド」について書き込まれていたら、参考にしようと、探したのです)
失礼しました。
 

「ネット資本主義と日本の敗北」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月15日(木)01時00分2秒
返信・引用 編集済
 

 
引用元→YOMIURI ONLINE

 これっておかしくないですか。
 この会社が221万円で落札したかったということは、他の業者も100万円単位での入札だったと考えるべきで、というか、中学校武道場の耐震工事に伴う実施設計の入札に、221円なんてありえないことは、中学生にだってわかるじゃないですか。
 市の担当者は、各社の入札額が判明した時点で、ああこれは入力ミスだなと気づかないはずがないと思うのです。で、気づいたら問い合わせて確認するか、少なくとも落札させずにハネるでしょう。
 担当者が数字を全然見ていなかったとしか考えられません。お役所仕事だなあ、と呆れたのですが、別の解釈を思いついた。
 実は、担当者は気づいていて、わざと知らん振りをして落札させた可能性もあるぞ、と。一種の見せしめで。
 わあ。もしそうだとしたら、それこそ「悪意」以外の何者でもありません。理研の調査委は報告書で「悪意とは加害目的の有無ではなく、故意かどうかだ」とした上で、「悪意は明らか」と改めて不正を認定しましたけれど、こっちは正真正銘、加害目的の悪意と言うべきです。
 マスコミはこれについて、オボちゃんに意見を聞きに行ってほしいと思います(>おい)(^^;。


 岸博幸『ネット資本主義と日本の敗北 搾取される金と文化(幻冬舎新書、10)読了。

 【自治体、SNS発信の時代に】(YOMIURI ONLINE)
 「フェイスブック(FB)や簡易投稿サイト「ツイッター」といったソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を使った自治体の情報提供サービスの活用が進んでいる」
 以前から、フェイスブックもツイッターもアメリカの私企業のサービスなのに、そんなに信用して公共的なものに使っていいのかな、と思っていたのですが、本書を読むと、やっぱり危ういですねえ。
 他愛もないイベント情報は許せるとしても、災害時の情報提供など、可能性の話をすれば、(アメリカがその気になれば)いくらでも誤情報や誘導情報を紛れ込ませることが可能みたいです。地方公共団体の役人て、そういうことが全然見えていませんよね。危機管理力ゼロというか、疑うことを知らないというか。
 おそらくSNSの何たるかも知らないおっさんが、「ツイスターたらゆーもんが、最近また流行っとるそうじゃき、世の流れに乗り遅れんよう、市でも積極的に導入せんといかんぜよ。ただやりすぎると腸捻転になるらしかよ」と、見境もなく導入しているのが現状ではないでしょうか。てゆーかツイストとフラフープの違いも分かってないのよ。
 自治体だけじゃないですけどね。政府も50歩100歩でしょう。もっといえばインターネット自体がアメリカ企業によって担われているのです。本書ではFBIが挙げられてましたが、日本の秘密情報なんて、アメリカにだだ漏れなんでしょうね。本書は4年前に出た本です。


 

Re: 身近話ですが...

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月14日(水)20時28分25秒
返信・引用 編集済
  > No.5452[元記事へ]

トマトさん
 おお、ハードボイルドですね!
 昭和の新宿は、まさにハードボイルド・ワンダーランドだったのでは?
 副都心化で、今は清潔でスクエアな街になってしまったようにみえますが、ディープ新宿は、まだ残っているのでしょうか。
 セリフもいいですねえ。
「すまないが、一人にしておいてくれないか」

 ところがこの主人公(探偵ではなく法曹関係者のようです)も歳をとってしまいます。
「家庭が一番落ち着くと感じ」始めたら、もうおしまいなのです。
 で、「新宿のこのカフェに来る気がほとんどしなくなった」
 しかしこれは逆かもしれません。家庭が落ち着く場所になったり、捨ててきた故郷が懐かしく感じられるようになってしまった人間を、《新宿》という街自体が、異物として排除してしまうのです。
 本篇は、ハードボイルドユートピアから追放された男の物語と読みましたが、如何(^^ゞ

 

トマトさま

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月14日(水)16時11分2秒
返信・引用 編集済
  今度も、「北関東篇」ではないのですね。
いや、東京篇もおもろいですがな。
一体、「オハナシ」が、どのように湧き出てこられるのか、いつも、興味津々です!
次、! です。
 

身近話ですが...

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月14日(水)15時14分25秒
返信・引用 編集済
  身近話

新宿という町

最近は新宿という町にさすがに行きたいと思わなくなった。
考えてみれば新宿という町は最も故郷…家庭から離れた場所だ。それだけにわくわくどきどきする魅力があり、刺激的でそして神話や伝説が存在していた。

  東京に出できて間もない私は新宿のスパゲッティ屋でエム姉さんに声を掛けられた。私とエム姉さんは初対面だったが、エム姉さんは私に自分が食べきれないスパゲッティを食べないかと声を掛けてきたのだ。当時のエム姉さんは新宿の街をショートパンツで闊歩するような、そんなカッコいいお姉さんだった。 新宿の街にはいろんな、私の郷里、関東北部の地方都市では想像も付かないような人たちが居た。もと過激派のライター、もとヤクザのニューハーフ、家で少女の成れの果ての飲食店店員…そういう連中には当時の私には無かった野生というものがあった。だからはっきりいった怖かった。そんな私をエム姉さんは見るに見かねて声を掛けてくれたのだという。

新宿のもっともディープなところに「むらさき」(仮名)というカフェがある。シャンソンが流れるそのカフェに一人身を置いているのは不思議と充実した。やや疲れた感じの年増のギャル服屋店員の元家出少女、そろそろ引退時期の二丁目のニューハーフの一団、路地裏ブティックの売り子らしい女性…ニューハーフも女性だとすると、この店にはほとんど男性のお客はいない女性だけの城だ。法律屋かけだしだった頃の私は息が詰まりそうな法律屋の世界から逃げるようにこのカフェへと足を運んだものだ。そして彼女たちはこのカフェでみんな今の生活に終止符を打って、そして次の全うな生き方を生きようとしているがどうしたらいいのかわからないで要るとい会話を交わしている。もちろん私は一人でコーヒーを飲んでいる。路地裏の化粧品屋の美容部員だとかのニューハーフだとかそういう連中が声を掛けてくることもある。
「すまないが、一人にしておいてくれないか。」
ということもあるが、時には彼女たちの質問に答えることがある。すると私は東京に出てきてまもなく、この町でエム姉さんという古着屋の女店長に声をかけられ、以後2年半付き合っていたという話をすることが多い。エム姉さんがギャルからお嬢さんファションへと変化し、そしてついに古着屋店長を辞めて外国に一人旅に出かけたという話だ。そしてエム姉さんは帰国した。帰国直後のエム姉さんは質素な水色のワンピースで、そんな彼女を見て私は若き日の母を思い出したものだった。そして彼女は郷里の新潟に帰り、そして結婚した。
 私のその話を元家出少女の路地裏化粧品店美容員のお姉さんと、ニューハーフのお姉さんの二人が聞いてくれたことがある。そして彼女たちがポツリポツリと自分の身の上話を打ち明けてくれたことがあった。つまりこの2人にとって帰るべき家は「自分の帰るべき家」とはいえないような、そんなふんいきなのだという。家出少女のほうは母親が「友の会」という厳格な収容団体に入っていて、その上学校の成績がいいか悪いか、いい学校に入ったかどうかでしか人を見ることの出来は無い人だという。ニューハーフの方の家庭も大体そんな感じだった。そして家出少女かニューハーフかどちらかは忘れたが、父親は大学教授、ロシア文学かなにかの教授だという。

  私が何人かの女性と付き合い、そして自然の別れを迎えて分かれたとき、必ず郷里に帰っていた。そして六歳まで過ごした官舎アパートのある町に足を運んでいた。そのたびに子供の感覚というものがよみがえったのを思い出した。しかし家出少女とニューハーフにはわたしのように帰るべき故郷がないことに気が付いた。逆を返せば私のように平凡な地方公務員の父と平凡な田舎のおばさんの母が築き上げた語句普通の家庭というものがこの2人は知らないということだった。しかし所帯を持っていないこの二人には私が憧れてやまない自由というものを持っていて、それが私にはたまらなく魅力に感じた、が自由と孤独とは紙一重だ。次第に私に距離を置き始める娘たち、家庭内を実効支配しているカミサンと娘たち、あきらかに地位が低下していくパパ…そんな愚痴をこの2人に零すわけには行かなかった。このカフェに来るときは家庭人であることを忘れにやってきているのだから…。
 がこのところ、新宿のこのカフェに来る気がほとんどしなくなった。家庭が一番落ち着くと感じたからだ。同時に子供の頃の…あの官舎アパートに居た頃のあの感覚が時折よみがえるようになった。


 

平谷美樹様

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月14日(水)12時53分37秒
返信・引用 編集済
  「歴史小説作家クラブ賞」受賞おめでとうございます。
昨年に、「この歴史小説がすごい 2014版」の三位にランクインされた風の王国(全10巻)≠ナすよね。昨年、今年と、評価されるなんて、すばらしいことですね。
採薬使≠ヘ興味深いものがあります。(採薬使≠ノついては、この板にて記させて頂きました)今後とも、楽しい作品を、お待ちしております。
 

ありがとうございます!

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2014年 5月14日(水)00時51分42秒
返信・引用
  ご紹介、ありがとうございます!
歴史・時代小説の分野では新参者ですので、評価していただけたのは望外の喜びです。
これからも「書きたい物を書く」というスタンスで、より多くの方々に楽しんでもらえる作品を書いていきたいと思います。
 

平谷美樹さん、歴史時代作家クラブ賞受賞!

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月14日(水)00時17分12秒
返信・引用 編集済
   平谷美樹さんが『風の王国』シリーズ全10巻で、第3回歴史時代作家クラブ賞《シリーズ賞》を受賞されました→歴史時代小説クラブ公式ブログ
 やんややんや!(^^)
 平谷さん、おめでとうございます。
 この受賞がきっかけとなって、平谷ワールドの面白さが、もっと多くの読者に知られるようになってほしいものです。今後の更なるご活躍を祈念いたします!

 

「疲れた社員たち」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月13日(火)00時56分40秒
返信・引用 編集済
  眉村卓『疲れた社員たち』(双葉文庫14、初刊82)読了。
 本書は短篇集で、まさにタイトルどおり年齢も境涯もさまざまな<疲れた社員たち>が描かれています。ただ全8篇中半分の4篇が、50歳前後の社員を主人公に据えた話であるのは特筆すべきでしょう。

 実は読了後、なんとなく全ての作品の主人公が50歳前後のように錯覚していました。この感想文を書こうとパラパラと見なおしていてそうでないことに気づき、自分の錯覚にちょっと驚きました。
 つまりそれだけ、上記50代を主人公にした作品の印象が強かった、というよりも、その4篇に「共通する特徴」に、強く印象づけられたということだろうと思います。その理由としては、私がいまその年齢だから、ということがあるでしょう。
 でもそれだけではなさそうです。やっぱりこの4篇と、それ以外の(比較的若い主人公を扱った)残りの4篇とでは、「疲れた」感の質が違うように、私には思われます。著者の、主人公を見つめる視線にあきらかに温度差を感じてしまうのです。

「ふさわしい職業」の主人公は、50過ぎの、出世コースから外れたサラリーマン。体調が悪く病院に行ったら即入院を言い渡される。なんとか言い繕ってその場を逃げ出し、藁にもすがる思いで友人の病院を訪れるも、そこでも入院を言い渡され、観念して入院する。が、どうやら手遅れらしく、友人が奇妙な提案をする。もし手術の甲斐なく死亡した場合、冷凍冬眠実験の被験者となることを了承してくれないか、未来の医療技術で完治する可能性もあるから、と。
 どうでもよくなって了承した主人公、目覚めるとそこは130年後の未来だった……。

 未来で、主人公は健康を回復しますが、そこでの生活は、いわば生きている考古学資料、ある意味動物園の猿のそれだったのでした。しかし主人公は、今の生活、以前のそれよりも「ずっとまし」だ、とつぶやくのです。

 このつぶやきの中には、当然自虐も入っているわけですが、ラストの一行を勘案すれば、やはり本音であることが読み取れると思います。
 従来の著者の作風ならば(ショートショートは別にして)かかる境遇への安住は、「まやかし」として否定される筋立てになるのではないでしょうか。
 それをこのようなゆくたてにしたところに、(ちょっと先走りますが)私は当時40代後半だった筆者が、自分がこれからそこに入っていくところの、「50代」という年齢集団に対して、何を感じていたのかが、表現されているのではないかな、と思いました(後述)。

「知命・五十歳」の主人公も、表題から分かるとおり知命の50歳。出世コースとは無縁で、今度の異動でも平社員に据え置かれたばかりか、自分より若い連中が主任や係長になっていた。
 不機嫌な顔で馴染みのおでん屋で呑んでいたら、おでん屋の常連で、同様に不遇のまま定年をむかえたのだけれども特殊技能者ということで引き続き嘱託で雇われている男が、どうしたんだ、と声をかけてくる。この人物、主人公と似た境遇のはずなのに、なぜかいつも表情が明るいのです。主人公が、かくかくしかじかと愚痴ると……。

 男のアドバイスで、主人公は「現在の境遇をあるがままに受け入れてしまうことで発現する能力」を獲得します。そしてその結果「たのしく」生きられるようになるのでしたが……。

 本篇も構造は上の作品と同じで、逆説的な結末にされています(と私は思います)。やはり著者の「50代」観が、このような結末を選択させたのではないでしょうか。
(と書いてきて、ふと「暗い渦」も同じ結末であることを思い出しました。確認したら主人公のイマイは40過ぎという設定。そして本篇執筆時の著者は丁度30歳でした。ふーむ)。

「授かりもの」の主人公は50手前。歳を取るにつれ時間の流れが早くなる(主観時間が遅くなる)ことは、ある年齢に達したものは誰もが知る事実。
 ところが本編の主人公は逆で、なぜか主観時間がまた早くなり出し、若い連中以上の思考速度を獲得(回復)する(但し体がついてこない)。それは社会的会社的に有利に働くものと思われたのだが……。

 せっかく獲得した超能力が、ゲームセンターとか昼休みの将棋とか、そんな瑣末なことにしか適用できないという、しかしある意味、社会集団的には必然かもしれないオチが、(主人公と同世代読者である私には)がっかりさせられると同時に、納得もさせられるのでした。

「社屋の中」は前三作と比べると構造的にも少し異色で、話者である「ぼく」は、ほぼ視点人物の位置づけでしかなく、真の主人公は「ぼく」の元上司です(年齢の記述はないが話的に50代でなければ合わない)。

 会社の近くで、偶然、うしろからポンと肩を叩かれ振り返ったら、元上司だった。営業所長で失敗して本社に戻され、窓際族の大部屋入りを命じられたと聞いていたのに、思ったよりも元気でいきいきしている。あまつさえ、お茶に誘いたいのだが近頃忙しいので、と大股に去っていく後ろ姿に、「ぼく」はちょっと悲しくなります。忙しい? 窓際族の大部屋付きで忙しい? しかし元上司は本当に忙しかったのです。たぶん……。

 窓際族の課では、タイムレコーダーで出退勤時間がきちんと打刻されていれば、その出退間の時間は、別に課の部屋にいなくてもなんら不都合はない、という記述に、膝を打つとともに、これにもなんとなく(同世代として)がっくりもしてしまうのでしたが、本篇は(むろん元上司の作り話の可能性は残されていますが)、逆説ではない結末なので、共感的に読了できました。本集中のマイ・ベストワン。

 残りの4篇は、入社したての新人から3、40代くらい会社員が主人公で、これらは上記4篇のような主人公の態度への違和感(?)はあまり感じず、いかにも眉村卓の小説らしい作品世界で、楽しめました。

「まぶしい朝陽」の主人公は、「3丁目の夕日」的な過去に逃げ込むナルシシズムを嫌悪しますし、「従八位ニ除ス」の新人は、最初違和感を持った会社の体質に、いつの間にか馴染んでしまう(それの当否は別にして)。

「思いがけない出会い」『眉村卓異世界コレクション』にも再録された秀作ですが、都度都度無限の可能性がひとつに確定しながら延びていくはずの時間線が、なぜか収束せずふたつの時間線に分岐したまま存在してしまったのを、ひとつに収束させようと(正しい秩序の回復)やってきた次元修正員を、ふたつの世界に分かれた二人の同一主人公が、協力して殺し、その結果二つの時間線はそのまま別々に延びていきます。

「ペンルーム」の主人公は、自由業者たちの共同仕事部屋での奇妙な体験の後、次のように少し変化します。
「自分の勤めている大企業がきわめて堅固であり、ひとつの世界ではあるものの、その世界はどうやら有限であり、一歩外へ踏み出したり放り出されたりすれば、そこはどうにも手のくだしようのない化けものの領域なので……そんなところに踏み込みたくないため、小さく小さく生きるようになりだしたことである。/そして彼が、必ずしもそうしたおのれに満足しているわけでないことも、またたしかなのである」(下線、管理人)

 こう見てきますと、主人公が50代の作品とそれ以外の作品では、私には有意な違いが感じられます。著者の50代へ向ける視線には、いささかどうも辛辣なものがあるのですね。
 ちなみに本書の初刊は82年。著者48歳です。初出誌の記載はありませんが、収録作品は、おそらく40代半ばから後半にかけて書かれたものでしょう。すなわち50代が指呼の間に迫ってきた、ということを意識し始めた時期の作品といえるのではないでしょうか。この事実はけっこう重要かも分かりません。

 一般的に言って、40歳台といえば、まかされる仕事も責任のかかるものになりますし、人生においても、社会的にも、最も充実する時期だと思います。事実、会社を実際に動かしているのは40代です。
 ところがそんなさなかにあって、ちらりと心をよぎるのが、自分もそのうち50歳だ、という怯えにも似た思いではないでしょうか。40来たりなば50遠からじ。10年なんか、あっという間です。

 40代にとって、50歳というのはどんなイメージになるのか。それはやはり(一握りの選別された者以外は)、後進の40代に道を譲って退場していくというイメージではないか。
 じっさい、(本書執筆当時はまだ少なかったと思いますが)最近はどの会社も50歳役職定年制が導入されています。そして大方の50代は、それに楯突くこともなく、従容として受け入れ、流されていくんですよね。
 まさに人生の最盛期である40代にとって、50代は先が見えて反抗心を失った情けない存在、と見えるのではないでしょうか。ただしやがて自分もそうなってしまうかもしれない存在とも。ある意味アンビバレンツな思いがそこにはあるように思われます。

 本書の4人の50代には、50歳を目前に控えた著者が感じていた、50代のイメージが表現されているように思われてなりません。そしてそれは、決して肯定的なものではありませんね(「社屋の中」の元上司は、ちょっと違うかもしれません)。
 少なくともこれら4篇には、自分はこんな風にはならないぞ、という暗黙の決意が隠されているように、私には感じられたのでしたが、どうなんでしょうか。
 

トマトさん

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月13日(火)00時36分8秒
返信・引用 編集済
   図書館の司書ですか。優しそうなイメージでいいですね。
 なんとなくビブリア古書堂の栞子さんが思い浮かびました。読んでませんけど(>おい)(^^;
 

眉村さん情報:囲碁新潮

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月12日(月)21時56分59秒
返信・引用 編集済
   眉村さんのショートショートが、63年頃から65年にかけて《囲碁新潮》*という関西棋院の機関誌に連載されていたらしい、という情報を頂きました。(*79年廃刊。《囲碁関西》が後継誌)
 例によって高井信さんからの情報です。いつも本当にありがとうございますm(__)m
《宇宙気流》というSF同人誌は皆さんご存知と思います。その最新号(87号)が、つい先日の5月10日に発行され、その中の記事に、バックナンバーの29号(65年3月号)からの引用として、眉村さんが「ここ二年間位「囲碁新潮」にSFショートショート(それもすべて碁に関係のあるオチがついている)を掲載している」ことをダレソレさんが発見したという、たぶん「インサイド」というコーナーに載っていたものと思われますが、それが再録されていたんだそうです。

 ですからまあ、厳密には、その記事だけでは二次資料なんですね。
 本当に存在するかどうかは、一次資料である《囲碁新潮》を(少なくとも目次を)閲覧して、連載が確実になされていたかどうかを確認しなければならないということです。でないと、またもや理研に悪意ありと論難されてしまいかねません(>ワタシはオボちゃんか)(^^;。

 で、国会図書館にアクセスしてみました。幸い東京:新館書庫に収蔵されていて、必要な63年頃から65年頃のバックナンバーも揃っていることはわかったんですが(ここ)、スキル不足で、目次まで行き着けませんでした(ーー;。
 時間を措いて再チャレンジしてみます。


 

Re: 「疲れた社員たち」落掌

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月12日(月)19時44分37秒
返信・引用 編集済
  > No.5444[元記事へ]

パパとしての切ない願いです。
区の職員にでもなってくれて、区立図書館に配属されて...勉強嫌いのギャルじゃ無理でしょうね。(苦笑)

しかし三女のニャーニャが無事でなりよりです。
 

「疲れた社員たち」落掌

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月12日(月)01時20分47秒
返信・引用 編集済
  > No.5443[元記事へ]

トマトさん
> 以下かなりの部分創作です。
 もちろん全創作として読んでますヨ(^^)。
 あきらめていた愛猫が戻って、嬉しくなった「私」がスイーツを買ってしまったのはよく分かるのです(嬉しくてハイになっているわけです)。しかし娘が、それを機にファッションを大人しくしたり、カレシと別れようと決心をした、という「謎」は、なかなかムズカシかったです。ハイになって更に派手になったというなら分かるのですが。
 ということでしばし黙考。
 そうかわかってきたぞ。
 つまり娘は、そういう(浮かれた)生活から足を洗いたくなっていたのでしょうね。ところがなかなかきっかけを掴めなかった。ずるずると今までの生活を続けていた。
 そこへこの事件が起こった。娘は、これは丁度よい機会だ、ということで、無理やりかこつけたのではないでしょうか。如何?
 でもこれ、実は父親の願望なのでは(^^ゞ(>おい)m(__)m

 眉村卓『疲れた社員たち』(双葉文庫)を、著者代送で版元様から拝受しました。ありがとうございました。
 本書は短篇集で、82年実業之日本社で単行本、84年ケイブンシャ文庫化。そのケイブンシャ文庫版を底本にして、訂正を加えたものとのことです。
 5月15日刊行予定で、すでにアマゾン他ネット書店で予約受付中です。
 ということで、さっそく着手。范文雀。
 

いろいろ

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月11日(日)18時06分2秒
返信・引用 編集済
  赤だのピンクだのそういう格好している人ってどこか挑発的攻撃的ですね。よくヤンキーの人が着ていますが…。


  以下かなりの部分創作です。

昨日愛猫がいなくなり、下の娘が、車の急ブレーキとネコの悲鳴のようなものを聞いたので
「もしやうちの愛猫が。」
とあわてて愛猫を呼んだところ、いくら呼んでもまったく反応なし、轢かれたのではないか…と心配して家族総出で一晩集自転車や徒歩であたりを探し回っていました。しかし一向に愛猫は帰ってきません。みんな徹夜です。愛猫がいない朝迎え
「しょうがないよ、これがあの子の運命だったんだ。」
「あきらめるしかないよ。」
「二年ちょっとだったね。」
「せめてなきがらだけでも葬りたい…。」
と沈痛な雰囲気だったものの、朝、新聞を取りにいくと、ガレージの中から愛猫の鳴き声が…もしやと思ってガレージのシャッターを開けてみると、愛猫が出てきたではないか…。私が愛猫を出してダイニングに行くと、一挙にあたりの空気は明るくなり、
「この子がいてくれたことが何よりもの贈り物だ。」
「よかったよかった。」
と今日は奮発してスィーツを買ってしまいました。私がガレージにゴミ袋や古新聞を持っていってシャッターを閉めてしまったのが原因ですが、しかし愛猫の無事を切に祈った下の娘ももうギャル系の赤だのピンクだのといったファッションしては渋谷あたり歩くのをやめて、医療や介護関係の資格をとるといってくれました。下の娘のいつまでもギャルぶりでまた今年の夏もぴちぴちショートパンツで新宿アルタ裏あたり闊歩するのかなぁ…と心配悩みの種でしたが、やはり何よりも可愛がっている愛猫が一晩いなかったことが彼女自身の心境に大きな変化をもたらし、今日は地味の紺系の服装をしていて、今日、彼女と話をしても何かしっとりとし、まるで別人のようです。そして派手なピンクだ赤だのといった服やらぴちぴちショートパンツを袋に入れて、リサイクル店に持っていくのだそうです。もっとも彼女がリサイクル店で108円で買ってきた洋服なんですが…。同時に付き合っているカレシとも分かれることを決意したようです。 今の時代、学校出ても仕事もしないで家にいてちょこちょこバイトしては女遊びしている若い兄ちゃん、多いですからね。ギャル系の服着ていると、どうしてもそういう兄ちゃんとしか付き合えなくなるようで…。わたし自身もずっと前に買ったロレックス、これを処分して家族サービスに使おうと思っています。娘がはじめて地上に生を受けたあの日に戻ったような一日でした。 
 

Re: うみねこ堂書林さん

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月11日(日)13時02分30秒
返信・引用 編集済
  > No.5441[元記事へ]

hirokd267さん
 その節は大変ありがとうございました。

>実は連合赤軍・森某は
 なんと!

>同グループではなぞがなくていけませんね
 なぞって結局知らないことに起因する手前勝手な理想化ですよね。知ってしまうとがっかりするのが常です。具体例があるのですが、さしさわりがありここで公開はできません。あしからず(>おい)(^^;
 そういえば、とんでもなく謎めいた発端のミステリが、探偵に解明されて、逆に色あせてしまうことがありますね。アイリッシュ「幻の女」は名作ですが、女の正体はいささかがっかりでした。

>われらの弱小セクト
 ひょっとして第4? いやいやお答えは別に結構です。すみません(^^ゞ
 私はよくいる心情左翼の傍観者の一人にすぎませんでしたが、同級生にバリバリのがいました。授業中ゲバ文字を一生懸命練習していたのが印象的で、そんなことだけよく記憶しているのですが(笑)、そいつから傍観することが加担になっているのだと言われ続け往生しました。これは立脚点をそっちにおいてしまうと正論で、論破するのが困難なのですよねえ。

 

Re: うみねこ堂書林さん

 投稿者:hirokd267  投稿日:2014年 5月11日(日)00時30分6秒
返信・引用
  こんばんは。
うみねこ堂書林さん開店のニュースを古本サイトに紹介したことが、少しでもお役に立てたならうれしいです。古本ファンはきっと「ウブい」古本を期待して来店されたのでしょうね。また経過を詳しく書いて下さってありがとうございます。

ところで私は同じページの「ゲバルト・ローザ」に反応してしまいました(笑)。民青のあの女性(同級生)、中核派の超ボインの女性・・・思い出してしまったのです。われらの弱小セクトにもかわいい娘はいたのですが、どうも同グループではなぞがなくていけませんね。
重信房子の名もなつかしいです。実は連合赤軍・森某は同級生です。もっとも彼はまったく授業に出てこなかったので、新聞紙上で知ったくらい。

言葉を交わしていると、こんなこともつながってくるのか、と感慨をおぼえます。
 

Re: うみねこ堂書林さん

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月10日(土)19時59分26秒
返信・引用
  > No.5439[元記事へ]

トマトさん
 おお、重信房子! カッコよかったですねえ(^^)。
 娘さんも美人ですね。

 

 

Re: うみねこ堂書林さん

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月10日(土)18時19分30秒
返信・引用 編集済
  > No.5437[元記事へ]

ケバルト ローザ いましたね。

古くは重信房子ですね。
十五年以上年ぐらい前だけど、新宿二丁目に「模索者」という左翼系書店があるんですが、そこにもいらっしゃいました。マハーケイマことヒサコさんみたいな方が…。ほんとうにちょっと陰のある謎めいた美女っていう感じですね。私の郷里の関東地方北部の町に文学サークルというがありまして、メンバーは学校の国語の先生と地元紙記者、書店古書店店主などがほとんどなのですが、その文学サークルのマドンナ的存在の某子さんというのが鈴木京香にソックリだったのです。うわーっという感じ、お写真アップロードしたいところですが、本人に未承諾なのでできません。かわりにマハーケイマアップします。
ところでしかし思想的には「香山リカ」は左巻きですが、しかし間違ってもゲバルトローザーにはなれないですね。?
 

「小倫敦の幽霊」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月10日(土)16時50分42秒
返信・引用 編集済
  > No.5432[元記事へ]

      リトルロンドン
 平谷美樹『小倫敦の幽霊 居留地同心・凌之介秘帖(講談社文庫、14)読了。

 面白かった。傑作! 先日書き込みのとおりで、横浜居留地のイギリス人町リトルロンドンを舞台にした捕物帖です。
 時代設定は1867年の11月(以下すべて旧暦)から12月にかけて。すなわち10月に慶喜は大政奉還をしましたが、ただ将軍職は辞しておらず、いまだ幕府は不安定に存続していた(12月9日に王政復古の大号令)、という非常に微妙な時期で、それが本篇のストーリーに必然的な影響を与えています。
 攘夷派の浪人がきっかけあれば事を起こそうとジリジリしている。外国人居留地なんて、まっさきに標的にされかねない。
 そんな折も折、或る風の強い晩、リトルロンドンの(無人のはずの)空き家で女の悲鳴が響き渡って本篇の幕があきます。
 実はその家、今でいう「事故物件」でありまして、メイドが不審な死を遂げた後、前所有者は慌ただしく帰国していた。現所有者は前所有者から安価に譲り受けていた。というか押し付けられたのでしたが、そこで謎の悲鳴。現所有者は幽霊かもと慄きます。
 主人公・横浜外国奉行所同心の草間凌之介が、それは幽霊ではなく、ごく自然な物理的現象であることを見抜き、この事件は一件落着したのでした。ところがなぜか、幽霊屋敷の噂が居留地の外から広まり始める。そんな噂が広まってしまっては、いくら安価に手に入れた物件でも買い手はつかない。そう焦っていた現所有者のもとに、渡りに船のように、或る人物がその家を売って欲しいと現所有者に申し出たのでした……
 というのが本事件の発端であります。うむ。掴みは上々(^^;

 ところでこのイギリス人町リトルロンドンですが、調べていて興味ある事実に気づきました。面白いのでちょっと詳しく説明します。
 実は横浜は、その誕生からの変遷が、異例なほど地図などに詳細に残されているんだそうです。
 で、1)は1865年の地図。2)は本書に付された地図。ですから1867年の地図となります。3)は1870年の地図。4)は1889年の地図。
1)1865年
 
2)1867年
 
3)1870年
 
4)1889年
 

 1)の1865年の地図では、2)に記されたリトルロンドン地区は、沼地(maraisは仏語)となっています。
 この沼地を造成してイギリス人街ができたのかと思いきや、
 3)でもまだ沼地のままなのです。
 4)1889年の地図で、ようやく宅地化されています。

 結局、本篇の舞台リトルロンドンは、リアル横浜居留地には、実際には存在しなかった、作者の想像上の、仮想のイギリス人町だったのではないかと睨んだのですが、如何(^^ゞ
 いやー、いいですねえ! つまり本篇は、《幻想開化歴史小説》と言ってもよいかもしれません。
 要するに、19世紀後半のロンドンの下町を、幕末日本に地続きにしてしまったわけです。そういえばロンドンのイーストエンド地区もまた、(テムズ)川と沼地によって囲まれた地区でしたね。
 では、この設定にはどのような効果があるのでしょうか。ロンドンの下町で和服姿の同心が快刀乱麻の活躍をするという不思議な世界が現出するのです。
 しかも、この同心、いわゆる少年探偵団(!)も配下にしていまして、襟付きのベストと共布のニッカー、長い靴下、小生意気にキャスケットを斜に被った利発なイギリス人少年(まさに少年探偵スタイル)と、ふだんは動作が鈍くて亀というあだ名ながら、なかなかどうして小器用に立ちまわる日本人少年、どちらも居留地の新聞社の小僧なんですが、この二人組が、主人公の手足となって居留地内を縦横に駆け巡る(安いお駄賃で)(笑)。
 かと思えば、ふだんは居留地に付属する遊郭の遊女なんだけれど、それなりの格好で町中を歩かせれば、初々しい町娘にしか見えない。しかし一旦事あれば同心の密偵もつとめるという、いわば助手ですね。そういう明智探偵の文代さんに相当する美女もいたりします。
 遊郭といえば、遊女たちも同心に味方して、敵に灰をかぶせたりと大騒動です(汗)。
 ことにもこの同心、なぜかリトルロンドンの皆にも好かれていまして、この連中、基本的には日本人はみな同じ顔にみえる(つまり個人を識別しない→対等と見ていない)、同心仲間にいわせれば「まぁ、居留地の外国人のほとんどが感じ悪いけど」と、それを敏感に感じている。ところがそんなイギリス人も、なぜか主人公に対しては好意的なんですね。
 じっさい、最後の追跡劇では、リトルロンドンの住民総出で主人公に協力します(実は要らぬおせっかいだったんですけどね)。このあたりもはや、江戸の長屋の人情と、さして差はありません(^^;。はたしてイギリス人の共同体がそんな風なものなのかは、ここでは二の次でよいのです。そもそもリトルロンドン自体が夢の生成物なんですから。
 つまり本書は、まさに夢の世界の捕物帖でありまして、実際のところ謎解きミステリとしてはいささか緩い。本篇を成立させる肝心要である英吉利羊羹の謎にしても、拳銃の謎にしても、あるいは流星墜落の謎にしても、すべてこの小説の「系外」からもたらされる「知識」によって解決されます(幽霊の謎は物理トリックですし)。
 だから私は、帯にある「ホームズ脱帽の推理力」というのは違うと思うんですよね。
 というか、目次を見れば、犯人当てできちゃいますやん(爆)。このへんからしても、作者にミステリを書こうという意欲は希薄そうなんですよね。むしろ主人公同心の「人間力」が周りに作用して、解決がおのずと主人公のもとにやってくるという感じです。
 かくのごとく非常に独特な世界観と雰囲気を持った、他に類例のない捕物帖といえます。その(少年探偵団的な)ユルさも含めて、ふしぎな十九世紀末空間がひろがっており、十二分に楽しめました。

 

Re: うみねこ堂書林さん

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 9日(金)22時32分57秒
返信・引用 編集済
  > No.5436[元記事へ]

トマトさん
>仲間泉水 坂井京香
 セクトには大抵、どのセクトにも(民青にも)ちょっと影のある謎めいた感じの美人がいて、ぽっと出の素人はつい鼻の下を伸ばして、フラフラと集会に誘われたらついて行ってしまったものです。言っておきますがあくまで一般論ですよ。私のことではありませんので念のため(>おい)(^^ゞ
 私たちはゲバルトローザと言ってましたが(もちろんローザ・ルクセンブルクですね)、あれは何なんでしょうねえ。セクトは意識的自覚的に(最近の流行語でいえば「悪意」をもって)ああいうタイプを優先的にオルグしてはべらしておくのでしょうか。写真のヒサコさんも最初はそういう役割だったんでしょうねえ(汗)

hirokd267さん
 お知らせありがとうございます。
「関西古本屋マップ」というサイトは知らなかったですが、「古本屋タレコミ情報(雑談OK)」掲示板の方は、うみねこ堂書林開店前後に、大量の訪問者がそちらの掲示板から当掲示板へ来訪されていまして、気づいていました。
 そこで、リンクを逆にたどって閲覧に行きましたところ、なんとhirokd267さんが、うみねこ堂開店のニュースの記事を投稿して下さっていたことを知りました(ここ)。
 すぐにお礼のメールをするべきを、いろいろ取り紛れて忘れてしまいました。申し訳ありませんでしたm(__)m。
「古本屋タレコミ情報(雑談OK)」掲示板は、当掲示板などとは、おそらくケタ違いに、多くの方に閲覧されている掲示板みたいですね。それはリンクから当掲示板にいらっしゃった人数の多さで明らかなのですが、おかげさまで、開店時は、店内に入りきれない客で前の道路が溢れてしまったとのこと。本当に感謝感激です。
 と同時に、古書店を愛好する人々がネットワークを確立して、熱心に情報を交換していることにも驚かされました。
 ご紹介下さったnekokiti様の訪問記は、今日はじめて読ませていただいたのですが、「ヨキ・コトをキク」なんて、なかなかあなどれません(^^;。どんなお話をされたのか分かりませんが、店主の野村さん(正史コレクターでもあります。ペンネームの亜駆良人は悪霊島)も、同好の士に巡り合えて、きっと大喜びだったんじゃないでしょうか。
 古本屋マップにも掲載して頂き、有難いことです。hirokd267さんには本当にお世話になりました。店主の野村さんにも、メールで報告しておきますね(^^)
 

うみねこ堂書林さん

 投稿者:hirokd267  投稿日:2014年 5月 9日(金)17時54分4秒
返信・引用
  こんにちは。
ご存知かも知れませんが、京都・大阪・神戸を中心に「関西古本屋マップ」というサイトがあり、最新の古書店地図と情報の掲示板があります。
http://nekokiti.sakura.ne.jp/magazine/bookmap.html

ここに、こちらで拝見したうみねこ堂書林さん開店のニュースをお知らせしたところ、主宰者さんが訪問記を書いて下さり、マップにも掲載されました。
http://8803.teacup.com/nekokiti/bbs/2644

 

Re: いろいろ

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月 9日(金)16時50分16秒
返信・引用 編集済
  > No.5434[元記事へ]

管理人さん、どうもありがとうございました(*^^*)
性的エネルギーや性的衝動を抑圧しては「神の意思を地上に実現して」地上を聖化するという宗教、よくありますね。家庭訪問で有名なエホバのナントカもそうですが…。
  自慰などを覚えては性的関心性的欲望には必ず羞恥心というものが伴い、それが自他のプライバシーという概念に発達するものですね。

  で時代は1980年代前半、オカルト宗教「霊的進化集団チョウチンブルマ」のメンバーの一人にエム田君が居た。彼は輪稲田大学在学中で、輪稲田大学内で「新科学研究会」なるサークルを開催しているが、実はこれ、オカルト宗教「霊的進化集団チョウチンブルマ」のダミーサークルである。
  彼は白いカッターシャツ+グレーのオヤジズボンといった格好で吉祥寺にある井の頭公園にて「チョウチンブルマセミナー」のチラシを配っている。多くの人たちは「霊的進化」なんぞどうでもいいのでもらったチラシをゴミ箱に入れる。また彼は新宿紀ノ国屋書店のオカルト本売り場にて商品である本にこの「チョウチンブルマ講座」のチラシを挟んでいる。このとき彼のの格好というのが薄汚れた半そでシャツ、体育の紺短パン、合成皮革製紳士靴といういでたちだから驚きだ。こんな人が新宿紀伊国屋書店にいるのである。しかまるで誰かと話をしているかのようにぶつぶつと独り言を言いながら…。
  仲間泉水はこの光景を見て、「あたしはいああいうヘンな人とは同類項じゃない。」と思っていたし、実際にそう思いたかった。しかし実はそうではなかったのだ。それは仲間泉水が一人で週末の井の頭公園ら行ったときのことだ。
例によってエム田が「霊的進化集団チョウチンブルマ」のチラシを配っている。目を合わせないようする。しかし向こうのほうから
「こんにちは。」
と来てしまった。そして気が付くとエム田によって中野駅前のクラシック音楽喫茶「暗シック(シック=病気)」に連れ込まれてしまった。
「今の世の中は間違っている。多くの人たちが性の退廃に落ちている。世界中にポルノがあふれている。今われわれは性的エネルギーを正しく管理して精神的進化を成し遂げなければならない。」
というオハナシがはじまった。実はこの手のオハナシ、仲間泉水も心から渇望していて,こういう話かできる人を坂自邸他の田である。この仲間泉水、名前の通り仲間由紀恵と坂井泉水をまぜたような顔をしている。彼女は四谷にある情事大学という高偏差値難関大学の学生だ。大学では文学部に在籍し、フランス文学を専攻している。

こうして仲間泉水という美女は白カッターシャツにグレーオヤジズボンのエム田にずっとつき合わされた。さらに中野の荒井薬師にあるエム田の下宿まで連れ込まれてしまった。もちろんエム田は仲間泉水をナンパしたつもりではない。霊的なお話が出来る仲間として迎合したのだ。荒井薬師のエム田の下宿は輪稲田の男子学生専用の下宿で、一階が大家の居住スペース、二階が学生さんのスペースとなっている。部屋は四畳半ぐらい、そこにカラーボックスが並べられ、オカルト関係の本がたくさん並んでいる。そしてエム他はラジカセの再生ボタンを押した。例によってクラシック音楽が流れ出した。この雰囲気、実は仲間泉水もほっと感じたものだった。
「われわれは霊的進化をしなければならない。魂の故郷に帰らなければならない。」
「それでチョウチンブルマでは性的エネルギーを正しく管理することで霊的進化が可能であるというのですね。」
「まさにその通り。」
そういうエム田と仲間泉水との会話をこの下宿にいる学生たちは聞き耳を立てて聞いていた。だいたいあの変わり者のエム田がしかもあんなにいい女を連れ込んでくるなんて…。
「来週、輪稲田大学で僕のチョウチンブルマ講座がありますので、必ず来てください。」
といってエム田は仲間泉水を送り出した。
こうして仲間泉水は霊的進化集団チヨウチンブルマのメンバーとなり、性的エネルギー管理方法を学んだ。が゙一見はおしゃれな女子大生だ。がときに高円寺にあるインド屋「仲屋むげん堂」でエスニック風の服を買い、インド風美女に変身することもある。国際色豊かな情事大学でもそれでは目立ってしまう。

しかしやがて霊的進化集団チョウチンブルマの活動にのめりこむと、大学のほうの勉強はおろそかになってしまう。しかしもう彼女にとって大学の勉強なんてどうでもよかった。
彼女には霊的進化と霊的進化集団チョウチンブルマ内の地位がすべてだった。この霊的進化集団チョウチンブルマ内でようやく彼女に気のあう友達が出来た。一人は坂井京香、名前の通り今度は坂井泉水と鈴木京香をまぜたような顔の美女だ。彼女は広尾にある性腺女子学院大学を卒業後、日本航空の地上勤務をしている。もう一人は飯島セリナ、名前の通り、飯島愛と鈴木瀬理菜を混ぜたような感じのセクシーヤンキー系お姉さんだ。このタイプはオカルト宗教に珍しいが、結構したりするのである。以彼女、仲間泉水はこの坂井京香と飯島セリナという2人の親友とともにこまの霊的進化集団チョウチンブルマを生きていくことになる。

 さて、坂井京香のほうはいうまでもなく優等生タイプだ。まじめにチョウチンブルマの指導者クレゾールミツハシ女史の講演のテープ起こしなどを励行していたりするし、給料のうち多くを霊的進化集団チョウチンブルマに捧げている。一方の飯島セリナのほうはオカルト宗教には珍しくジージャンの似合うお姉さん、ショートパンツをはいているお姉さんだ。そんな彼女に霊的進化集団チョウチンブルマの指導者クレゾールミツハシが文句を言わないのか…というと、本当は言いたいのだろうが、しかし実はクレゾールミツハシの秘密を知っているので差しさわりのないようにしている。しかし飯島セリナはとくに男性メンバー中村ボンタンを中心とする中村軍団からは嫌われていた。飯島セリナも露骨に
「あたし、中村さん、大嫌い。」
という。そして日本で2.3人しかいない霊的覚醒者の一人
、オカダパンスケ少年が思春期を迎えた。するとクレゾールミツハシの柔順なよい子ではなくなっていた。
「こんなこと、やってらんねー。」
とヤンキー化していった。実はオカタパンスケというのは指導者クレゾールミツハシが別れた夫との間に出来た子供だったのである。このオカダパンスケはクレゾールミツハシに
「てめえ、ぶっ殺すそっ。この野郎。」
なんぞといって暴力を振るうようになった。オカダパンスケはクレゾールミツハシに何発も何発もお腹パンチを入れたりするそうだ。クレゾールミツハシはオカダパンスケに恐怖を感じ、あわてて別れたダンナにオカダパンスケを押し付けようとしたというのだ。さらに疲労困憊したクレゾールミツハシはオカダパンスケに罪を擦り付けては自分はチョウチンブルマとは無関係であることを装い、トンヅラしてしまった。トンズラしたというのではない。神奈川県内にある実家に出戻りして寝込んでしまったのである。この実家には神奈川県教職員の親御さんがいる。つまりクレゾールミツハシというのは小学校教諭しの娘だったというわけだ。

こうして霊的進化集団チョウチンブルマは世間に対して「高次元の霊たちの意志を実現する」という中村ボンタン司祭長をリーダーとする「中村精神世界塾」、魂の故郷へと帰ることを目的とする飯田香織をリーダーとする「星への帰還グループ」へと分裂した。ちなみにエム田君は中村精神世界塾の副司祭長となった。そして仲間泉水も坂井京香や飯島セリナとともにチョウチンブルマを飛び出した…という事は三人とも居場所を失ったということだ。
三人は早春の、まだ桜が咲く前の前の井の頭公園にいた。三人の前を中学生の女の子たちが楽しそうに遊んでいる。「もしできれば、あの子たちぐらいの年に戻って、あの子たちの友達一人になりたいよね…。」
といったのはジージャンが似合う飯島セリナだ。仲間泉水も坂井京香も
「うん。」
とうなずいた。そして仲間泉水は思い出した。自分の生まれ育った杉並区高井戸の家は次第に目黒に住む父方の祖母に支配されていったということを…それは彼女が中学に入ったときから始まった。祖母は彼女が私立中学に行かなかったことが不満だった。私立か公立かを選ばせたのは彼女の母親だった。が彼女の祖母は嫁が勝手に孫に好きなようにさせたことが面白くないらしい。そして目黒からやってきてはネチネチと自分の母親をしかっていた。学校から帰ってきて若草色の草履があるときは祖母がいるときだった。すると彼女はそっと祖母に見付からないように靴を持って二階の自分の部屋へと上がり、そして部活着に着替えて靴をもって屋根に上がり、洗濯物干し台の柱を伝わって庭に下りた。後は商店街中ほどにある友達の家に逃げ込むだけだった。
「あーあ、この家、ヤだなぁ・・・どっか遠くに行きたいなぁ…。」
中学二年の彼女は商店街をあるきながら、自分の家が祖母に実効支配されていることに気が付き、友達の家に生まれ変わるか、でなかったらどこか遠くに行きたいとおもっていたのだ。 がそんなある日、彼女は友達であるこの乾物屋の娘と一緒にいるところを和服を着た祖母に見付かった。
「やばい。」
と知らん顔をしたが、しっかりとバレていた。家に帰ると祖母は
「さっきあんたと一緒に居た子、あんたの友達?」
と尋問する。すると彼女は
「ウン、同級生だよ。」
という。すると祖母は
「おばあちやん、ああいう格好をする子とあんたがお付き合いするの、賛成できないわね。あんたはこの家の子でしょ。だったらおばあちゃんの嫌いな格好する子とともだちになるんだったらこの家を出て、どこでも好きなところにいきなさいっていうのよ。」
といったのである。ちなみにその乾物屋の子がジージャンを羽織っていたのだが、彼女祖母はそういう格好が大嫌いなのである。やがて目黒の祖母はよく彼女の高井戸の家に寝泊りするようになった。家は祖母に実効支配され、彼女は友達を作ることも許されず,ただ祖母にとっての都合のいい「模範的なよいこ」にならなければこの家にいることは許されなかった。そして祖母が期待するようないい学校に入ることだけを目的として生きていくしかなかった。しかしまもなくバブルがはじけ、目黒の祖母の家は人手に渡る。仕方なしに目黒の祖母は高井戸の彼女の家に転がり込む。祖母は高いどの彼女の家をふたたび実行支配するつもりだった。しかし結果は彼女にお腹パンチをたくさん入れられKOされてしまった。
 

Re: いろいろ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 8日(木)23時13分24秒
返信・引用 編集済
  > No.5433[元記事へ]

トマトさん
 拝読しました。「霊的進化集団チョウチンブルマ」とは、ネーミングも素晴らしい! トマトワールドの新展開でしょうか。
 しかし、芋山脳彦がチョウチンブルマでどんどん出世していき、霊的覚醒者オカダバンスケと対決してこれを斃し、やがて日本全国で同時多発テロ(一揆)を起こし、返す刀で国会を焼き討ちするのかな、と思っていたのですが、すぐにチョウチンブルマを追い出されてしまいましたね(また、オカダバンスケの正体もあっさりバレてしまいました)。とても残念です(^^;。
 ところで、精神分析家のウィルヘルム・ライヒは、性的エネルギーの解放を重視する学説でして、「ナチスに代表されるファシズムを、性的抑圧によるノイローゼ患者のサディスティックな表現」(ウィキペディア)と分析しました。
 チョウチンブルマも、まさに性的エネルギーを抑圧することで社会を良くしようとしているようですが、とは書かれていませんが、性的エネルギーの正しい使用による霊的進化とは、畢竟性の管理ということですから、その行き着く先は、やはりファシズムなのかもしれませんねえ(^^ゞ
 

いろいろ

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月 8日(木)16時09分10秒
返信・引用 編集済
  管理人さん、お悔やみ申し上げます。
無宗教、いいですね。

戦後マッカーサーが香典とかご祝儀とかお歳暮お中元はやめましょういう運動をおこしたそうてすね。なんでもマッカーサーのところにお歳暮お中元がたくさん来たのでビックリしたとか?
首都圏でも千葉の四街道市から神奈川県の大船市までというと、東京駅〜仙台駅よりもしんどかったりします。




チョウチンブルマという宗教


  時は1980年代半ば、東京は杉並、高円寺に一人の「東大生風の」青年がいた。彼の名は芋山脳彦。白いカッターシャツにグレーのオヤジザボン、銀縁めがねときたら「おっ、東大生」といった感じだ。
  しかし彼は東大生ではない。学生に暴走族がいることで有名な地方のドキュン私大「常磐ハワイアン大学経済学部」を卒業後、都内の東洋医学専門学校に再入学してきた専門学校生なのである…といえばだいたい解っていただけるのではないか…。
芋山脳彦、東洋医学系専門学校でハリ治療や漢方の技術をまなんでいたが、しかし彼が都内に来た実のところの目的は「自分の一生を捧げてついていくだけの価値がある」霊的指導者を探し求めているところにあった。
だったらどこで霊的指導者を探せばいいのだろう…ということで、彼は都内の大型書店のあちこちを歩き回っていた。そして杉並区役所向かいにある「書現」という書店で、かれは霊的進化を目的とする冊子「チョウチンブルマ」を見つけたのだった。
チョウチンブルマ…この冊子のお値段はなんと無料、しかもそこには霊的進化の必要性やら世俗に神の意思を実現して聖化していかなければならないといった彼が求めていることそのものが記述されていた。さらにマスターベーションを厳禁し、セックスのエネルギーを霊的覚醒と自己聖化のために使わなければならないというところにも彼は大きく惹かれた。こうして彼はチョウチンブルマに記載されている「霊的進化集団チョウチンブルマセミナー」に参加することにした。そして杉並区立成田図書館にて「霊的進化集団チョウチンブルマ 調布セミナーの講師、増田恵子に自分のスマートフォンから電話した。
「参加は自由ですので、ぜひいらしてください。」
とスマートフォンの向こうからなにかほっとするような女性の声が聞こえた。
 そしてその週末、京王線にのって調布へと行く。霊的進化集団 チョウチンブルマ」の会場は駅からスコシ歩いたところにある古着屋の二階だ。会場にはクラシック音楽が流れている。ベートーベンらしい。
「こんにちは。どうぞお入りください。」
そう彼を迎え入れてくれたのが「いかにも図書館員」のような、白いブラウスに紺のキュロットの女性だ。彼女が増田恵子だった。「なつかしい」「ほっとするような安堵」このとき、芋山脳彦はこの会場と講師増田恵子に出会ってそう感じた。
 その日の霊的進化集団チョウチンブルマセミナーのテーマは「音楽について。」だった。ここではベートーベンやモーツァルトなどのクラシック音楽は霊的進化を促進するものの、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」などは霊的に退化する音楽として教えられていた。実際にモーツァルトのアイネクライネナハトムジークと、AKBの「恋するフォーチュンクッキー」を聞き比べてこの霊的な影響力も体験した。
 そしてセミナー終了後、増田恵子は参加者一同を喫茶店に案内した。そこで芋山脳彦は大いに迎合された。今までどこに言ってもネクラ、変わり者としてつまはじきにされ、どこに行っても違和感ばかりかんじていた彼がようやく自分の居場所を見つけた瞬間だ。
「今の世の中は間違っています。マスターベーションは神に対する罪です。セックスのエネルギーは早急に霊的進化のために使わなければなりません。」
そう増田恵子に説かれて
「その通りだ。」
と感じた。
「まもなく裁きのときが来ます。そのときに正しい行いをしたものは救いの天使によって天上に救い上げられます。一方マスターベーションをやめなかったものは煉獄へと落ちて永遠に苦しみぬきます。」
「まったくその通りだね。」
こうして一同は喫茶店を出た。調布の駅前の車のテールランプがとれほど美しく見えた事はなかった。
「次回もぜひいらしてください。貴方にとってきっと大切な知識ですから。」
そう増田恵子が目を輝かせて芋山脳彦にいった。
「もちろんです。来週も必ず来ます。」
そう芋山脳彦は答えた。芋山脳彦がようやく見つけた救いと希望の光、そして自分の居場所だった。 その後、芋山脳彦は積極的に張り切って霊的進化集団チョウチンブルマの活動に参加した。
マスターベーションを行うことなく、怒りや嫉妬、憎悪といった自分内部の悪魔に由来する感情と戦い、模範的な霊的指導者として自らがあるように務めた。
また積極的に周囲にも正しいあり方正しい考え方などを教えるようになり、間違いは遠慮なく指摘しては正しい考えを教えた。その結果、多くの人たちに嫌われることになった。しかし嫌われてもかまわなかった。まもなく裁きのときが訪れる。そのとき正しい生き方を行ったものだけが救済されるのだから、だからショートパンツ姿のお姉さんなどを見ると、相手が見ず知らずの人でも積極的に
「こういう性的に刺激を与えるような服装はすべきでは無いよ。」
というように務めた。こうして誘惑にも負けずに不屈の意志で正しい生き方考え方を励行し、自ら模範的な霊的指導者となるべく務めた。
 そして三年の歳月が流れた。霊的進化集団チョウチンブルマはさまざまな神秘体験を重んじるあり方から、裁きの日に備えて正しい世の中を作っていくという建設的な方向へと進んでいった。だからこの時期になると、「布教」が大きくウエイトをしめた。
ところでこの「霊的進化集団チョウチンブルマ」は霊的覚醒者である天才少年「オカダパンスケ」の保護者であるクレゾールミツハシ女史によって指導されていたるクレゾールミツハシ女史はメンバーの前に滅多に姿を現すことは無い。時折姿をあらわし、そして霊的覚醒者天才少年「オカダパンスケ」の神託をメンバーに伝えるという役割を果たしていた。そしていつしかこの霊的進化集団チョウチンブルマはクレゾールミツハシ経由のオカダバンスケの意志を世の中に従わせることがその使命になっていたのだ。
 そしてスキャンダルが暴露された。実は天才少年霊的覚醒者「オカダバンスケ」などという天才少年はこの世に存在していなかったのだ。いたのはクレゾールミツハシこと三橋信子が別れた夫との間に出来た少年だった。この少年、最初はクレドールミツハシに柔順だったがやがてシンナーをやったりと手に負えないワルになっていたのだ。その他クレゾールミツハシに愛人がいたとか、こほ愛人に貢いでいたとかいうモロモロのボロが噴出した。そのボロを隠すためにさまざまな嘘が用意された。さらには誰か適当なメンバーを「悪魔の手下」だとして糾弾することで、クレゾールミツハシは自分の立場を死守しようとした。
そしてついに芋山脳彦も「悪魔の手下」として悪者にされた。
「芋山脳彦のせいでわれわれは霊的進化が出来ない。」
というわけだ。こうして芋山脳彦は失意のうちに霊的進化集団チョウチンブルマを追い出された。帰るところといったら福島県ワイキキ市の実家だけだ。実家には小学校校長の父と小学校教諭だった母がいる。家の中の雰囲気は息が詰まりそうだ。しかしそこにしか帰るところはなかった。そして地元教育委員会の口利きで市立図書館の職員として勤務することになった。この図書館の職員に高橋○子というか髪の長いきれいなお姉さんが居た。芋山脳彦はこのお姉さんに恋心を覚えた。遅ればせながらの思春期だった。ふたたび自分の親がうざったく感じられた。し旬に自分がうざったくかんじられたが,小学校教師の親は
「何だその反抗的な目はっ。だったらこの家から出て行け。」
といわれたので親をうっとうしく感じる自分の気持を殺して親に従順に生きてきた。親は芋山脳彦を「模範的なよい子」としてしつけた。芋山脳彦は親が指定した「模範的なよい子」として生きるしかなかったのである。芋山脳彦はあらたるめて図書館職員を辞めて、リュックサックを背負った外国へと一人で旅立った。

  さて、思春期には親の存在がうっとうしく感じられるものです。親を付きはしてそして親の干渉から自分の心を守りたいという気持です。親の何もかもうっとうしい。だから部活が終わると自分の部屋に閉じこもる。友達との話だってパパがうっとうしい、ママがうっとうしいという話が多かったものです。そうした中、自分が確立されそして自分がどのように生きていくかという道を歩み始めるものです。 一方の親の立場からすれば、子供が自分を避けるようになったら、親のほうから子供と距離を置いた家で見守り受け入れてー続けていきます。この時期うかつに子供との距離を縮めると猫のようによく引っ掛かれるものです。時には子供に腫れ物にされるように接する場合もあり、自ら距離を置いて付き合っていきます。
 

「小倫敦の幽霊」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 7日(水)23時44分27秒
返信・引用 編集済
        リトルロンドン
 平谷美樹『小倫敦の幽霊 居留地同心・凌之介秘帖に着手。第1章を読みました。
 ゴミソの鐵次シリーズが江戸時代小説ならば、本篇は《開化もの》です。
 上喜撰を無理やり飲まされて締結した日米修好通商条約にひき続いて、幕府は英仏蘭露とも同種の不平等条約を結び(安政五か国条約)、安政6年(1858)には横浜に於いて最初の外国人居留地が開設されます。
 居留地内には領事館付警備隊や、市政庁警察という外国人の自警組織があったようですが、幕府の警察組織としては「外国奉行所」があり、居留地を管掌していたとのこと。その横浜外国奉行所の若き同心・草間凌之介の活躍を描くのが本シリーズです。
 と言うとお分かりのように、草間凌之介は『薮の奥』の主人公ですね。
 ただし『薮の奥』では横浜居留地は主たる舞台ではなかった。その意味では、本篇ではじめて本格的に、横浜居留地を舞台にした物語シリーズが開始されたと言えるかもしれません。
 今のところ設定や地理を確認・把握しながら読んでいるので(謎解きミステリの可能性もあるので)、ゴミソの鐵次シリーズのようにスルスルとは読み進められません。ようやく80ページ弱。
 その第1章では、横浜居留地内のイギリス人町・小倫敦(リトルロンドン)の空き家で起きた幽霊騒動が、「合理的」に解明されます(後記。あ、まだ仕掛けた犯人は分かっていないのだった)。
 なのでひょっとして本シリーズ、ホームズものみたいなのになるのかな、とも思ったのですが、そういう意図もあるかもしれませんが、読んだ印象は「起承転結」の、まさに「起」以外の何者でもない。ホームズ的なのは一種の意匠であって、ジャブのようなものでしょう。 もっと大きな物語がこれから繰り出されてくるのではないでしょうか。いや楽しみです!

 

管理人さん、段野さん、ありがとうございました。

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月 7日(水)12時25分50秒
返信・引用
  取り急ぎ失礼、また後程。  

Re: 「丑寅の鬼」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 7日(水)01時29分5秒
返信・引用
  > No.5429[元記事へ]

 調子が悪くなって病院に行ったら入院させられ、1週間の入院で亡くなったそうです。
 ある意味理想的ですね。私もそんな風に去りたいです。

>「惣助だけではない」ということですね
 やはりそうですよね。気になります〜(^^;

>次は別の敵を用意しようと思っています
 楽しみにしております!
 

Re: 「丑寅の鬼」読了

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2014年 5月 7日(水)00時22分59秒
返信・引用
  > No.5428[元記事へ]

お通夜、お葬式でしたか……。
お悔やみ申し上げます。

> >「最終決戦」とありましたが、続く予定です
>  そうですよね。まずは巴戦緒戦で禁中あたりに勝利しただけですものね(>ちょっと違う)。
>  ところで惣助の背後関係が殆んど書かれてないのですが、もちろんヒ一族ですよね(>ぜんぜん違う)m(__)m

惣助の背景は、この先また語られることになります。
「惣助だけではない」ということですね(笑)
ひとまず「西」の人たちはしばらく潜伏してもらって、次は別の敵を用意しようと思っています。

 

Re: 「丑寅の鬼」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 6日(火)23時31分3秒
返信・引用 編集済
  > No.5427[元記事へ]

平谷さん
 ずっと小説が読めず苦しんでいたのですが、通夜の夜に読むならこれでしょう、ということで手にとリました。果たせるかな一気でした! 楽しませていただきました(笑)

>「最終決戦」とありましたが、続く予定です
 そうですよね。まずは巴戦緒戦で禁中あたりに勝利しただけですものね(>ちょっと違う)。
 ところで惣助の背後関係が殆んど書かれてないのですが、もちろんヒ一族ですよね(>ぜんぜん違う)m(__)m

 ということで、今日は葬式でした。で、面白いことに気づいた。3歳の子供は、まだ死を理解していませんね。棺の顔の部分が観音開きだったのですが、そこを開いて「死んじゃったよ、こっちこっち」とあっけらかんとしていました。一方その姉の、たぶん5、6歳の子になると、すでに理解していて、絶対に祭壇に近づかないのでした。焼香も完拒否。たぶんこわかったんだろうと想像しました。私も小学校低学年の頃は(それ以前は記憶がない)、今はもうないですが古い実家の、仏壇があってその上に額が飾ってある部屋は、一人で入っていくのがちょっとこわかったものです(でもそこを通らないと便所へ行けないのでした)。そのくらいの年齢の子供は、何かを感じ取ることができるのかも。現在の私には何も感じることができません。嗚呼。
 

Re: 「丑寅の鬼」読了

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2014年 5月 6日(火)18時06分8秒
返信・引用
  > No.5425[元記事へ]

拙著の感想、ありがとうございます。
楽しんでいただけたようで嬉しいです。
帯には「最終決戦」とありましたが、続く予定です(笑)
また、大仕掛けを用意して書きたいと思っています。
 

Re:身近話

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月 6日(火)14時13分22秒
返信・引用
  トマトさま
オハナシ読みまして、トンデモ話を思い付いてしまいました。それくらい、いつもインパクトのあるオハナシなので、当たり前といえば、当たり前なのかもしれませんが。

トンデモ話を書く人物が、何故か突然、トンデモ話を子供たちに「読み聞かせ」をするのです。また、それが、子供たちに大うけ! 次々にオハナシを「読み聞かせ」します。そして………

といった按配です。あとは、お楽しみに、です。
失礼しました。
 

「丑寅の鬼」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 6日(火)02時18分7秒
返信・引用 編集済
  平谷美樹『丑寅の鬼 ゴミソの鐵次調伏覚書(光文社文庫14)読了。

 シリーズ第3巻です。一気に読了。面白かった。
 本書では、鐵次と百夜の師匠”大先達”が初めて登場し、これまでほのめかされるばかりだった鐵次の使命が、遂に明らかになります。
 収録7話中の白眉は、「花魁道中」「三不動」「魔海決戦」のラスト3話。
 この3話で1個のストーリーが起承転結しており、事実上中篇小説となっているのです。
 登場人物もレギュラーメンバーが総出演しており、著者の力の入れ具合が伝わってこようというもの
 ストーリーの構造も、蝦夷・(蝦夷を「平げた」)大和朝廷・(朝廷を下した武士・を代表する)江戸という、3つの《観念》が相争う、この著者らしい結構雄大な力作で、堪能しました。
 本篇で《西》が脱落しましたから、いよいよ次巻では《東》と《東北》との一騎打ちになるのか。いやいや鐵次の煩悶を見ると、そんな単純な展開にはなりそうもありません。続編がたのしみ〜!

 

無宗教葬

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 5日(月)21時59分49秒
返信・引用 編集済
  トマトさん
 拝読しました。オヤジに負けない新たなるキャラ・社会的不適応富豪登場ですね。でも死んじゃいましたね(笑)。

段野さん
 意見は意見として取捨選択して下さいね。
 なんたって言っているのが私たちなんですからトンデモナイ話です。信じこむのはキケンですよ(>おい)(^^;

 親戚に不幸があり、老親を乗せてお通夜に行ってきました。無宗教の坊主を呼ばないあっさりしたもので、湿っぽくもなくてとてもよかったです。これでいいんだよなあ。
 老母の姉妹(義理含む)が4人集合したんですが、そのうち3人は膝が曲がらず椅子に座っての焼香となりました(焼香はあった)。高齢社会化をまざまざと感じさせられた夜でありました。
 

Re:GW吉例風の翼大宴会

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月 5日(月)14時23分54秒
返信・引用
  >主に、段野さんが持って来られた評論原稿の棚卸となりました
いやあ、「評論原稿」だなんて、お恥ずかしい限りです。評論の域に達していないと感じたので、あえて、「考察」としたのですが。わざわざと読んで下さり、ご意見も頂いたので、ありがたさもGWレベルです。(どんなレベルやねん)
>段野さんには気の毒なことでありました
いえいえ、十分に、手をいれさせて頂きました。ありがとうございます。
 

Re: GW吉例風の翼大宴会

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 5日(月)00時49分49秒
返信・引用 編集済
  > No.5420[元記事へ]

高井さん 海野さん
 読んでみて、どれくらい結構が雄大な作品なのか、確認してみたいと思います。
 今すぐはちょっと無理ですが(笑)
 なんか小説が読めない期に入っちゃってるんですよねー。
 

Re: サイエンスZERO再放送を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 5日(月)00時42分9秒
返信・引用 編集済
  > No.5418[元記事へ]

 堀さん、ありがとうございます。
 なるほど、あれかこれかを単純に決めつけられるような話ではないのですね。
 頓珍漢なことを言って、と思われるでしょうが、間違いを指摘され修正を繰り返して、少しずつでも正しい理解に近づいて行きたいと思っていますので、どうぞ宇宙よりも広い心でご寛恕下さいますようお願い申し上げますm(__)m
 でもいろいろ無責任に思いついちゃうんですよねえ(>おい)(汗)
「巻き込みのジレンマ」も不思議です。50回転もしているなら、渦状肢は千切れるか巻き込んでしまわれそうな気も確かにします。
 ただ剛体回転しているようにみえることについては、それの正否は別にして、ここを読み、下の動画を見て、アナロジーでなんとなくイメージできるようになりました(先に書き込んだ「渦巻状になる必然性はない」が間違いであることは理解しました)。
 
 この動画だと、たしかに水は動いていますが、渦の形状は固定しているように見えます。
 

Re: GW吉例風の翼大宴会

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 5月 5日(月)00時37分27秒
返信・引用
  > No.5419[元記事へ]

「結構が雄大な宇宙小説!」
「雄大な結構の宇宙小説!」
「結構 雄大な宇宙小説!」
なんだか、だんだん「結構雄大」で違和感がなくなって来ました。
発音の仕方ですね。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: GW吉例風の翼大宴会

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年 5月 4日(日)23時47分26秒
返信・引用
  「結構が雄大な」と書けば勘違いされなかったんでしょうが、キャッチコピーとしては「結構雄大」としたくなる気持ち、わかります。  

Re: サイエンスZERO再放送を観た

 投稿者:堀 晃  投稿日:2014年 5月 4日(日)22時15分49秒
返信・引用
  > No.5415[元記事へ]

サイエンスZEROに関する感想としては、管理人さんのご意見がきわめて良識的かつ冷静なものでしょうね。

ただ、小生が感覚的に信じる「古典的流体力学モデル」は単純すぎて、やはり「主流」とはいいかねるようです。あまり信用しないでください。銀河系が50回以上(1回転2億年として100億年ほど)同じ形状を保っているとしての話ですからねえ。

剛体回転か微分回転(回転角速度が中心からの距離によってちがう)か。
観測されているのは前者で、理論的には後者(でないと、銀河の再辺境は光速を超えかねない)。これは「巻き込みのジレンマ」といわれてきたやつです。
渦状腕は「実体」なのか「模様」なのか。
古典的流体力学モデルなら「実体」ですが、サイエンスZEROで紹介された「交通渋滞理論」は「模様(あるいは波形)」で、星が入れ替わって同じ腕の形状を保っている。後者の方は「密度波理論」といわれてきたもので、磁場から暗黒物質まで色々と変わってます。こちらの方が「主流」のような気がします。

ひとついえるのは「貝の化石の分析が銀河の回転速度測定のモノサシにはならない」ということですね。(番組でもそこまではいってませんでしたか/イスラエルの天文学者が自分の理論を補強する材料として注目したということでしたっけ)


 

Re: GW吉例風の翼大宴会

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 4日(日)18時04分56秒
返信・引用
  海野さん
>「結構雄大な」
 ああ、ほんまですね。
「結構雄大やったンとちゃう?」(思っていたよりも雄大)という感じですよね(笑)
 筆者は「構想雄大な」(構造や組み立てが雄大な作品)というイメージで使っているんでしょうね。ただ「構想雄大」では表現がありきたり。もっとよいキャッチーな表現はないか、としばし黙考、「結構! これや、これしかないわ!」と勢い込んで書き込んだに違いありません。しかし、すべりましたね(^^ゞ

>元町から大阪に向かったのが2時50分ごろで、まさにすれ違いですね
 髪の毛一本の差だったんですねえ。私がもう5分早く到着していれば、うみねこ堂は開いていて、海野さんとも出会えたわけですね。で、当然しばらく話し込むでしょうから、深田さんもやってきて4人勢ぞろいできたわけか。なんか面白いです(^^;。
 

Re: GW吉例風の翼大宴会

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 5月 4日(日)17時01分30秒
返信・引用
  >元町着が2時50分。
思い出してみると、僕が元町に着いたのが1時57分ごろで、ちょっと道に迷ってうみねこさんに着いたのが2時15分ぐらいでした。
元町から大阪に向かったのが2時50分ごろで、まさにすれ違いですね。
僕が店を出てすぐに休憩に入られたんでしょうか。

エフレーモフの本ですが、この帯の文章。
「結構雄大な」
こう言う言い方もあるんでしょうけど、なんだかそこそこ雄大なのかな〜と言う感じですね。

「結構」
 全体の構造や組み立てを考える事
 またその構造や組み立て
 優れていて欠点がないさま
 完全ではないがそれなりに十分である

構造や組み立てが雄大な作品?
優れていて欠点がない雄大な作品?
今ではたぶん、「完全ではないがそれなりに十分雄大な作品」と言うふうに取る人が多いかもしれませんね。
僕がそうでした。
「結構雄大」という四文字熟語があるのかと検索しましたがないですね。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

サイエンスZERO再放送を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 4日(日)16時15分12秒
返信・引用 編集済
  > No.5414[元記事へ]

トマトさん
>ロシアではなくソ連というのかなんとも・・・
 エフレーモフは、レムと併称された東欧圏の巨匠だったんですけどね、いまや全く言及されることもなくなってしまいました。

>「ダーウィンが来た」のダサさは勘弁して欲しいです。とくに「ひげじぃ」のダジャレが・・・。まああの番組見なけりゃいいんですが・・・。
 できるだけ見ないようにしているんですが、日曜ですからその時間茶の間に居ることも少なくなく、そしてチャンネル権は私にはないのでした(ーー;

 さて、サイエンスZERO「銀河系が寒冷化をまねく」です。
(結果的にですが)予習ができていたので、大変よく頭に入りました。
 頭に入ったということが、そのまま肯定したということではないのは、言うまでもありません。
 この番組のなかであたりまえ(自明)としてスルーされていた部分が浮かび上がってきました。
 こちらのブログが過不足なく番組のレジメになっていますので、これを利用させて頂きます。

>本間希樹准教授(国立天文台 水沢VLBI観測所)の観測研究では、
>銀河中心からの距離に関係無く、星は、240km/sの速度で動いている。
>これが正しければ、5億年程度でスパイラルアーム
>は無くなる計算になるが、現実には無くなっていない。
>という事で、現在、仮説として
>星は、スパイラルアームを出たり入ったりしている。
>と考えられるようになってきているようです。

 たしかにこのように放送されていました。
 で、一瞬なるほど、と頷きかけるのですが、
 まてよ。
 5億年程度でスパイラルアームがなくなるのならば、どうして、渦巻銀河は、宇宙いたるところにいま現実に(固定されて)見えているのでしょうか。というか固定されて見えている銀河の姿は、なぜ渦を巻いているのでしょうか。
 その説明がないのです。
 銀河の星の回転が中心からの距離によらず等速度ならば、番組のCGのとおりですから、そもそも渦巻き腕は、最初から形成されることはありえないのでは?

 それが現にあることの説明が、すっ飛ばされているような気がするんですけどねえ。
 それとも銀河が形成されたその瞬間に、渦巻きも形成されたというのでしょうか。
 神を認めない限りそれはないでしょう。
 星の回転が距離によらず同じ(理由不明)を認めてしまったら、星の疎密は(例えできるとしても、それが)渦巻きである必然性はないように思います。
 だとすれば、剛体回転的に固定されるそのかたちも、いろんなかたちであってよさそうな気がします(それよりも疎密ができるものだろうか)。
 ところが現実には、渦状星雲が一番ありふれた存在です。

 となりますと、やはり堀さんがおっしゃった(暗黒物質を前提した)流体力学的説明が、しっくりと腹にはまります。
 銀河内の恒星の回転は従来どおりケプラーの第2法則に従っているが、観測可能な可視部分はほぼ中心点にくっついているので、みかけ剛体回転に見える(番組で説明されたアーム内と外での速度差を検出できないのと同じで、現在の観測精度を超えている)。
 しかし実際は可視部分も、第2法則は働いており、長年月をかけて渦を形成している。だから長々々々々時間のレンジでみれば、渦は巻き込まれてしまう。剛体回転は見かけの錯覚である。

 番組は、今現にある(ケプラー第2法則を認めない限り存在し得ない)渦巻き構造を、説明していないと思ったのですが、如何。


 

身近話

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月 4日(日)13時55分35秒
返信・引用
  管理人さん、やりましたね。世界SF全集。
ロシアではなくソ連というのかなんとも・・・。

  サイエンスゼロ、やっていましたね。かつては真鍋かをり、その次安めぐみ、今は南沢奈央ですね。そして竹内薫さん、頭髪がちよっと・・・というかんじですね。しかし「ダーウィンが来た」のダサさは勘弁して欲しいです。とくに「ひげじぃ」のダジャレが・・・。まああの番組見なけりゃいいんですが・・・。



  身近話
社会不適応者の乗り回す社会不適応車


  うちの界隈は金融機関に勤めている人たちや公務員などが多い。だからある意味安心して暮らせる。しかし学校は…というと、中学は私立受験…という場合が多く、どうしても学習塾に通わせて私立を受験させる。気が付けば私立受験組と公立組みとに別れてしまう。友達も塾で出来るので公立組との付き合いもなくなる。そしてそこそこの私立に行けば高校はところてん出て行けるし大学があればそこにも行くことができる。しかし公立…というと、公立高校に行くことになるし、するとよほどの進学校でないかぎり大学は地方大学ということになってしまう。
かつては地方大学でも国立大だったらこれなりに存在感はあったが、今はそうではない。首都圏に新設された専門学校上がりの大学のほうがいろいろな面であはるかに有利なのである。
 きがつけば「私立組」「公立組」ともに分けられ、私立に入れるとなればいろいろと出費も多いが出さないわけには行かない。上の娘を私立に入れれば下の娘も入れないわけにも行かない。私が自由になるお金なんてほとんどない。タブレットでも買いたいと思うのだが…。ちなみに同期で子供もカミサンも居ないヤツが最近超高級車を買った。しかし超高級車では行くことが出来るのがホテルのラウンジや高級洋品店などと限定されまったく自由が効かないという。ようやくわかったか。俺はずっと前にいやというほど思い知らされていたよ。

 学生時代、私は杉並阿佐ヶ谷に下宿していた。大家は私よりも十は年上の男で、一応W大の理工学部を出ているが仕事というのは大家業以外したことのない人物だった。があちこちに不動産を持っていて、かなりの収入がある。だから高級車を買ったり高価なプラモデルを買ったりとなんも優雅で無意味な人生を送っていた。

 そんな彼があるとき、真っ赤なフェラーリを買った。いうまでもなく度派手で阿佐ヶ谷という町には似合わない車だ。実用性もまったくなく、コンビに買い物に行くにしても不便だ。というのも一度エンジンを切るとエンジンが冷えるまでふたたび二、三十分はエンジンをかけられない。だからわたしが呼び出され、助手席に乗せられる。フェラーリは音がうるさくがたがた揺れてしかもシートが硬く膝を伸ばさないとならないので乗り心地は最悪だ。しかしひどいのはそれだけではない。そして大家が買い物をしている間、コンビニの外に停めたフェラーリの中にいなければならない。いうまでもなくこれがどうしようもなく辛い。周囲の視線、羨望とも嫉妬とも呆れ顔ともいえないそういう視線を浴びせつけられるのだ。そして大家が餃子を買って今度はふたたび阿佐ヶ谷の町のあちこちを廻る。お気に入りは熱帯魚屋やプラモデル屋だ。お店にとってはいいお客さんなので丁寧に相手はしてくれるが、内心は呆れているだろう。時たま観葉植物屋に行く。そこで観葉植物についての薀蓄話を始める。基本的に暇人の大家は「奇想天外」という珍奇マナ植物の栽培にハマっていて、自分の知識を自慢げに観葉植物屋の店主に聞かせる。ここでも大家はいいお客なので一応迎合はされているが…。 そして大家のところに帰る。
「これやってくれ。」
と大家に頼まれる。杉並○小パトロールだ。杉並○小パトロール隊というゼッケンやタスキを付けてママチャリで学区や通学路を廻るというもの。さっきまで真っ赤なフェラーリにのっていた私が今度は「杉並○小パトロール隊」の黄色いゼッケンを付けてはやり「杉並○小パトロール隊」という横断幕を付けたママチャリであたりを走りまわるのである。そして小学校についてゼッケンなどを返してくる。体育館にお茶とお菓子が用意されて「お疲れ様」と他の父兄や教師が労をねぎらってくれる。
この人たち、今さっき私がフェラーリと阿佐ヶ谷の町を走り回っていた事は知らないらしい。ほっと胸をなでおろした。大家の車は「社会不適応車」だが大家自身も「社会不適応者」だ。大家の部屋は珍奇な観葉植物などで一杯だ。亀甲竜、えびす笑い、竜卵窟、妖星閣…そんな変な植物の鉢植えがたくさん並んでいた。そんに大家も五十歳前に夭折していた。報せを受けた私は香典も供花も持たずに大家の家にいった。確かに仏壇の中に納まっていた。あれほど仏教が嫌いなヤツだったが・・・。?


 

GW吉例風の翼大宴会

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 4日(日)00時32分19秒
返信・引用 編集済
  > No.5412[元記事へ]

 あ、海野さん今日はお疲れさまでした。
 下にも書きましたが、ピッチを変えた繰り返しなので、パターンとして最初が決まればこうなりがちなメロディですね。たぶん捜せばGAOの前にも似たメロディラインが見つかると思いますね。

 ということで(どういうことだ)、本日はGW吉例風の翼大宴会でした。会は夕方からだったんですが、丁度よい機会なので、ちょっと早めに出て、神戸まで足を伸ばし、野村恒彦さんの古書店うみねこ堂書林をのぞいてきました。
 サイエンスZEROの再放送が12時半から1時まであり(この感想は明日にでも)、ギリギリまで見て12時55分に家を飛び出し、西九条から阪神電車で元町着が2時50分。正味2時間! やはり当地から神戸は遠いです。1時間30分くらいまではそんなに気にならないのですが、それを過ぎると、途端に電車に乗っているのが苦痛になってきますね。
 うみねこ堂は元町駅から5分程度。めちゃくちゃ一等地でした。GWだからもあるでしょうが、駅からの道筋は人が溢れ、警官が何人も出て整理にあたっていました。
 で、到着したんですが、ガーン。シャッターが降りていた。しかし張り紙が貼ってある。近づいて読んでみると、昼休み休憩中、とありました。ああよかった。しかしぼうっと突っ立って待っているのも見た目怪しい。ということで、2階のジャズ喫茶で待つことにしました。このジャズ喫茶も入ってみたかったのでした。ジャズ喫茶というよりも、ジャズを流す喫茶店でした。客も半分以上は女性で、スイーツを食べながらがやがやと会話しています。私が座った席のテーブルに注意書きがあって「居眠り禁止!」
 うーむ。私はジャズ喫茶では腕をくみ目を瞑って聴くのが常なのですが、その姿は人が見れば居眠りしているように見えなくもない。どんな格好で聴こうか、困ってしまいました。要するに旧来のジャズ喫茶ファンは来ていらんという意思表示ですな(^^;
 掛かっていたのは、LPのジャケットが私の位置から光って見えにくかったのですが、James Gray と読めました。しかし今検索しましたが、それらしきミュージシャンは引っかかりませんね。ごくまっとうなモダンジャズでした(ジャズ喫茶と言いながら別のジャンルをかけるところもあるので、そういう店ではなさそうという意味です)。
 で、ちょっと様子を見に降りて行ってみたら、ちょうど野村さんがいてシャッターを開けてはったので、喫茶店には30分もいなかったのでした。
 うみねこ堂の店内で、本を物色しながら野村さんと雑談していたら、今日の大宴会のメンバーである深田亨さんも来店されました。あとで(大宴会で)知ったのですが、やはり出席された海野久実さんもうみねこ堂に来られていたそうで、時間帯はどうやら野村さんが休憩に入る前だったようです。
 私が購入したのはこれ。
 

 で、大宴会ですが、今回は5名とこぢんまりしたものになりました。おかげで会話が二手に別れることもなく、主に段野さんが持って来られた評論原稿の棚卸しとなりました。段野さんには気の毒なことでありました(^^;

 帰途、環状線が人身事故で不通になっていて、丁度復旧したところでした。とうぜん超満員で遅れも想像できたので、私は振り替えで地下鉄を利用したのですが、空いていて座れましたから大正解でした。阪和線もうまいこと座れて楽ちんでしたが、またもや降りるべき駅で、(それまでずっと起きていたのに)一瞬目を瞑ってしまい、はっと気づいて飛び降り、事なきを得ました。これってなんなんでしょうねえ(^^;

 

Re: みじかばなし集

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 5月 3日(土)23時43分50秒
返信・引用
  > No.5411[元記事へ]

>しかし、この曲、第1テーマはGAOではありませんか(汗)

あ、そうなんですよ。
ネット上では話題になっていますが、作曲者同士で、盗作とかそういう問題には発展していませんね。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 3日(土)22時57分51秒
返信・引用 編集済
  > No.5410[元記事へ]

高井さん
>わが家で保護しております(笑)
 ああよかった。それなら安心です(^^;

海野さん
>ら抜き言葉撲滅にはきゃりーぱみゅぱみゅに頑張ってもらいたいですね
 ぜひお願いしたいですね。
 ところできゃりーぱみゅぱみゅという名前は知っていたんですが、現物を見たのはこのユーチューブが初めてでした! しかし、この曲、第1テーマはGAOではありませんか(汗)
 

 まあ、ソド、ドレ、まで思いついたら、あとは自動的に出てくる類のメロディではありますよね。

 

Re: みじかばなし集

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年 5月 3日(土)09時26分51秒
返信・引用 編集済
  > No.5409[元記事へ]

ら抜き言葉撲滅にはきゃりーぱみゅぱみゅに頑張ってもらいたいですね。

おとななこども(最後の2行)
http://www.uta-net.com/song/148433/
ゆめのはじまりんりん
http://www.uta-net.com/song/159845/

ゆめのはじまりんりんPV 1分45秒あたり

お皿から歌詞のアルファベットが飛び出してきます。
MI RA RE NAI

http://marinegumi.exblog.jp/

 

Re: みじかばなし集

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年 5月 3日(土)07時35分50秒
返信・引用
  > No.5408[元記事へ]

 わが家で保護しております(笑)。
 

みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 3日(土)00時32分45秒
返信・引用 編集済
 
私たちは、失くしたものを取り戻すために、探しつづけている。
それは、それがないと何とも座りが悪い、そういうものなのだ。
探しはじめて、もう相当な年月になる。
あそこにあるんじゃないか。それともこっちか。と、思いつくままに探しまわるのだが、いっこうに見つからない。
隠れていそうなところはあらかた探し尽くした。もはや、探し場所を思いつくことさえない。
そのうち、もう別に、なくてもいいではないか、と言い出すものも出てきた。
若い連中だ。
たしかに、それがなかったからといって、大勢に影響するものでもない。
でも、私たち年配者は、それがあるのが当然で育ったので、今の状態はやはり気持ちが悪い。
だから徒労とわかっていても、あいかわらず探しつづけている。
私たちはら抜き言葉だ。

 

Re: 身近話

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 2日(金)22時56分43秒
返信・引用
  > No.5406[元記事へ]

段野さん
 でも丸1年も離れているわけではないのです。
 1934年10月20生まれの眉村さんと、1933年10月27日生まれの半村さんは、ですから1年間に7日だけ、同い年です。 半村さんが亡くなったのが2002年3月4日ですから、7日x67年で469日!
 結構同い年だったわけですね(^^;

トマトさん
 おお、身近話!
 いいですねえ。ひらがなで書けばおんなじではないですか(^^;。
 今回のオハナシ、ちょっと久野四郎ぽかったですね。とはいえ典型的パンピーである私には、あんまり身近話ではなかったですが。
 ちなみにニコニコ大百科によればパンピーは死語だそうです(>おい)(笑)


 

身近話

 投稿者:トマト  投稿日:2014年 5月 2日(金)14時50分47秒
返信・引用 編集済
  身近話
 セレブ



皆さんは「富裕層」という世界とは別な一般の世界に生きていると思う。いわゆる「パンピーの世界」だ。
それに対して富裕層の世界というのはまったくパンピーの世界と接点がない。
市川市の国府台あたりのどこまでも高い塀が並ぶ豪邸街、そのガレージのシャッターが開き、ベンツSクラスがブィーと出て行って高級スーパー「K屋」などに向う。スーパーK屋はパンピーが入っていけない事はないが、しかしパンピーが店内に入ると警備員のおじさんやら店員のお姉さんやらがキッとにらみつけ、
「ここはあなたたちの来るところではない。用は速やかに済ませて退店するように。」
とガンを飛ばす。わたしもかつてパンピーとしてガンを飛ばされて歯ブラシと歯磨き粉だけ買ってそそくさと退店した。
その後、富裕層の某さんとともに来店したときの警備員や店員さんの視線がまったく違う。迎合されているのだ。某さんはカートの中に「静岡産メロン」だの「山形産米沢牛」だの「山梨産ポルチーニ」だのを入れて、レジで会計した。もちろんカードでの決済だ。そして某さんの運転する青のアストンマーチンに乗って某さんの邸宅へと向った。座席はふかふかはしている。が車にあまり関心のない私にとってはどうということはない車だ。
邸宅の前につくと、ガレージのシッャターがズズスーと開く。そのとき、庭の一部が見える。どういうことはない。公園のような庭だ。そしてアストンマーチンに乗ったままガレージに入る。そしてシャッターを閉めると外部との関係は一切遮断される。 公園のような庭は何か無機質的で冷たく、ひやりとしている。部厚いドアを開けて中に入る。中はホテルのようだ。やはり雰囲気も無機質的で冷たい。まもなく某さんの友達がベンツのCLSやベントレーミューザンヌなどでやってくる。
某さんは私に手製の「ポルチーニと米沢牛のタリアッテーレ バルサミコ風味」をご馳走してくれたがはっきりいっておいしくなかった。そしてこの富裕層たちの友達関係というのも何かよそよそしくそっけなく希薄だ。彼らはこんな友達関係、家族関係を送っているのだろうか…。その後某さんは邸宅内を案内してくれた。エジプトの遺跡から発掘されたものだとかそんなどうでもいいものがたくさんあった。
会話というのは高級車や美術品の話、高級陶磁器の話などなどだ。私はアルコールがダメなので、ワインはいただきなかったし、とにかく居心地が悪い。早くこの富裕層連中のよそよそしいパーティーから脱出したかった。そしてやっと解放された。某さんの友人が白いベンツCLSに乗せて送ってくれるという。
「どこでお降ろししましょうか。」
と尋ねられて、私は
「どこでも結構です。」
と答えた。某さんの友人は新宿伊勢丹に行くというので、新宿伊勢丹の駐車場まで言った。まるでホテルのボーイのような誘導員が某さんのCLSを誘導してくれ、私にも最敬礼でお辞儀してくれる。そして私はようやくこのセレブのパーティから解放された。一方会員制クラブでビジターとしてこういうセレブと接するのはかなり楽だ。彼らは礼儀正しく他人のプライバシーや権利を尊重してくれる。会話もなにか高級腕時計だとか高級食材、高級陶磁器の話などが出来れば十分間を持たせることが出来る。そして
「どうです。今度マイセン(高級陶磁器)、一緒に見に行きませんか?」
なんぞと誘われることがあるがおことわりしている。彼らとの付き合いがどういうものが良く知っている。彼らの家・・・豪邸はプライバシーとセキュリティのために世間から隔離されたあの息が詰まりそうな無無機質的でひやりとした空間だ。セレブからパンピーに戻り、地下鉄に乗る。この駅に銭湯があることを思い出した。ぶらりと銭湯に入る。
「何か落ち着くなぁ・・・そして充実するなぁ・・・。」
と銭湯で感じた。
この富裕層たち、とても穏やかで上品だが、自分の資産やプライバシー、セキュリティ守るためにはやくざまがいのことを平気でするのだ。

私の住んでいるところは金融機関の人、そこそこの会社の人などが住むエリアだ。豪邸街とまではいかないが、「隣は何をする人ぞ」だ。子供たちを公立に入れるばあいもあれば私立に入れる家も多い。敷地がないから高い塀などはないが、家のセキュリティもプライバシーも守られるように作られている。そしてお互いプライバシーを守るということが絶対の条件になっている。つまり二階のムスメの部屋などを故意にのぞく人などはいないということだ。私の書斎が下にあり、そこで仕事を持ってくる。書斎といっても北向きの狭い部屋で物置のような場所だ。ここで家に持ってきた仕事も片付けるわけだ。
一方わたしの育った北関東の町はみんな顔なじみで、姉は隣の家のお姉さんと窓越しに話を浴していたし、それは父も母も同様だ。窓から
「天気いいねー。」
「そうだね。大丈夫だね。」
なんていう会話だ。
「昨日さー、Jスポーツ店にいってアディダスのウィンドブレイカー見てきたんだけどさー。」
「なんだ、お前もそれ買いたいのか?で何色欲しいんだ。」
「やっぱ青かな。」
「紺でいいんじゃないか?」
なんていう会話を窓越しに隣のおじさんとしたものだ。しかしいつしか来た関東のこの町も赤いアウティなんかか行き来する「隣は何をする人ぞ」の町になってしまった。セレブ、パンピーホワイトカラー、パンピーブルーカラー、底辺層・・・やはりそれぞれ「住み分け」は必要だ。ブルーカラーの人はプライバシーに配慮するといあう概念があまりない。
 

歳月パラパラ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年 5月 2日(金)13時35分44秒
返信・引用
  各章が、「干支」になっているのですが、「戌」の章に、半村良さんがでてきます。(ちなみに、眉村さんは、干支が「戌」です)
「半村良さんも、戌歳ですか」と伺うと、「違います」と言われてしまいました。
ああ、恥かも。(お前は、半村さんの生まれ歳も知らんのか、です)
失礼しました。
 

みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 2日(金)00時23分21秒
返信・引用
  > No.5403[元記事へ]


私は本だ。
生まれて配本された書店で、すぐに今の主人に買い求められ、まっさらなまま、この本棚に住処を与えられた。
爾来50年、私はここにいる。
しかし私は、まだ一度も主人に開かれたことがない。
私は本だ。誰にも読まれていない、まっさらの、真っ白の、きれいな本だ。
真っ白だった私の頁が、黄色じみてきた。
今、主人は死の床にある。
 

みじかばなし集

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 1日(木)23時21分32秒
返信・引用 編集済
  私は名前だ。机に刻みつけられた名前だ。
式のあと、教室に戻った生徒が、自分の使った机に刻みつけた、その子の名前だ。
横には但し書き。

 イツノ日カ コノ教室ヲ訪レシ時 吾ガ机ヲ同定セムガタメ 吾ガ名ヲ刻ス ◯月△日 卒業ノ日

それはつい数日前のことだ。
同様の書き込みが、ほぼすべての机にあった。その名前ごとに、私のようなものの気配がした。
刻みつけたときは結構本気だったはずだ。でもおそらく、大人となって、この教室に戻り自分の机を探すものは皆無だ。
いやその前に、私たちは存在しなくなる。
ほら、教室の扉がガラガラと開けられた。
役目にあたった先生たちが入ってくる。手に紙やすりをもって。
さよなら。

 

Re: サイエンスZERO

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 1日(木)22時14分55秒
返信・引用 編集済
  > No.5401[元記事へ]

堀さん
 そんなに的外れでもないようで、ほっとしました。

>銀河の外側は暗黒物質で、アンドロメダとの中間当たりが「コーヒーカップの縁」で速度ゼロ
 なんと。てことは、銀河とアンドロメダは、すでに接触しているのですか!?(>素人の感想です)(^^;

 しかし、暗黒物質を想定しますと、宇宙はぎゅうぎゅう詰めという感じがしてきました。
 私もわかりやすい解説書が、一冊ほしいです。
 

Re: サイエンスZERO

 投稿者:堀 晃  投稿日:2014年 5月 1日(木)20時30分32秒
返信・引用
  > No.5400[元記事へ]

>銀河系の実際の質量は、ダークマターを想定すればもっと桁外れに大きいので、
>中心から1万光年〜5光万年なんて距離は(太陽系は2.6万光年)、円盤のほんの
>内側でしかなく、そのくらいの距離の差はないに等しい

これ、工学系で流体力学やった人間なら、感覚的にはいちばん理解しやすいパターンですね。小生もそう思ってます。
銀河の外側は暗黒物質で、アンドロメダとの中間当たりが「コーヒーカップの縁」で速度ゼロ。見えている「恒星が集中しているあたり」(カップ中心のミルク)は剛体回転に見える。

ところが天文学では、この考え方は主流でもないようですね。

ここに「交通渋滞理論」なんてのが出てくるから、何がなんやら。
松田先生か福江先生のレクチャーを受けたいところです。
 

Re: サイエンスZERO

 投稿者:管理人  投稿日:2014年 5月 1日(木)18時50分24秒
返信・引用 編集済
  > No.5399[元記事へ]


堀さん
 えーと。ちょっとこんがらがってきました。
 剛体回転するということは、中心からの距離の違いにかかわらず、1回転するのにかかる時間は同じということですよね。
 だとすれば、外縁へ行けば行くほど(円周の長さは伸びるので)、回転速度は上がっていくのじゃないのでしょうか。つまり剛体回転するディスク上の任意の1点の回転速度は、中心からの距離に対応した回転速度になるはずですよね。違うのかな?(汗)
 この図のように内側も外側も同じ速度(240km/s)なのだったら、よーいドンで回り始めたら、外側の星から遅れていって、剛体回転にならないと思うのですが。
 データ元

 あ、そうか! 自己解決しました。銀河系の実際の質量は、ダークマターを想定すればもっと桁外れに大きいので、中心から1万光年〜5光万年なんて距離は(太陽系は2.6万光年)、円盤のほんの内側でしかなく、そのくらいの距離の差はないに等しい(LPレコードの溝1個分くらいしか違わない)。だから回転速度も同じ、ということですね。
 つまり剛体回転は正しいとしても(ただしなぜ剛体回転しているかは、やっぱり不明なんですね)、その文脈で回転速度は不変なんて言い出すからややこしくなるわけです。わざわざややこしくしていると思います。
 そう思ってよく見れば、上図でも、右肩上がりの傾向は認められます。銀河系の大きさを半径5万光年と考えるから、回転速度が不変という風に見えちゃうわけですが、それって部分的現象の観測結果ですよね。叙述トリックですなあ(^^;。

追記。しかし銀河系の質量が実際はもっと大きいのなら、アンドロメダ星雲だってもっと大きいはずですよね。だったら衝突はもっと早まるのでは? 実はもうすぐそこまで近づいてきていたりして(汗)

さらに追記。しかしそうなると、銀河の巻き問題も、原理不明の剛体回転を措定しなくてもいいような気がしてきました。というか剛体回転に見えるのは部分現象だからで、銀河の可視的な部分が、LPレコードの溝1つ分のあいだに収まっているくらいだとしたら、巻きの進行は問題にならないような気が……。少なくとも今の形に見えるくらいには巻いているのだから、不変に凍りついているわけではなさそうです。始原から剛体回転しているのなら、今の形にはならないと思います。

 

Re: サイエンスZERO

 投稿者:堀 晃  投稿日:2014年 5月 1日(木)01時23分10秒
返信・引用
  > No.5390[元記事へ]

とんでもない動画?があるんですねえ。

これは放映された「コズミックフロント」そのものではなく、番組のもとになった論文?でしょうか。
視力が低下して、たどるのがしんどいです。
銀河の剛体回転(レコード盤みたいに形状が固定している)自体が謎ですが、これを「星の交通渋滞」みたいに(遠方から見たら渋滞しているベルトは固定しているように見える)と考える……このあたりは面白いのですが、恐竜絶滅や進化論の否定まで拡がりだしたあたりで、ついて行けなくなりました。
そのうち、視力(と根気)が回復したらリターンマッチ、とします。
 




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