ヘリコニア過去ログ1411

眉村さん情報:日経連載第22回

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月29日(土)19時25分4秒
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   日経新聞金曜夕刊連載中の眉村卓さんのエッセイ、22回めの今回は「キレる、キレさせる」です。

 クリックで全文
 
 

Re: 出版界のド演歌路線

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月29日(土)18時23分0秒
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  > No.5979[元記事へ]

段野さん
 返品本は、逐次そのたびに版元へ返すのですか。それとも(再配本されるまで)取次の倉庫で保管されるのですか。
 書店で棚確保のためだけに出版される本があると聞きますが、流通(配送)費、在庫負担、売れ残ることが最初から見込まれた本の出版とか、無駄としか思えませんねえ。
 そういう無駄は、けっきょく本の価格に乗せられているわけで、読者が負担しているのです。
 言い換えれば業界(システム)の存続のために消費者が施してやっているわけで、その消費者層が細ってくれば来るほど、一人あたりの消費者の施し額は増えていく一方なんですよねえ(それがまた負のループを回す)。いまや2000円の本は当たり前で、3000円台の本も普通に出回っています。3000円本は国書の専売特許ではなくなりました(>おい)(^^;

 供給サイドにおいても、本の単価に占める作家の著作権のパーセンテージは下がっていくことになるわけです。ただ見かけの割合が下がるだけで、もらえるお金が従来通りならばいいですが、実際は業界の危機だから我慢しろ、という感じで実入りも下がっていくはずです。作家自身もシステムに施ししているわけです。
(しかしこのシステムは箸にも棒にもかからない作家を温存してしまうシステムでもあるんですね。彼らにとってはよい制度です)
 こんな異常事態をいつまで続けるのか。読者と(実力ある)作家がそれを許容する間は続くんでしょう。
 作家も、ネット社会の今日、出版社なんか当てにせずともやっていけるんじゃないでしょうか。作家たちが出版社と縁を切って、自主制作で作品を発表し始めたら、一気にこのシステムは瓦解し、ぶっ壊れるんですけどねえ(本の価格は下がり、というか適正化し、作家モドキは淘汰される)。

追記。市場規模が達しないサブジャンルは同人誌的な世界に回帰する。それは一概に悪いことではなく、サブジャンルを先鋭化させるものです。
 

Re:出版界のド演歌路線

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年11月29日(土)12時53分13秒
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  管理人様
幻冬舎も、角川春樹事務所も、あまりいい印象がないのです。幻冬舎は、まるで読み捨てみたいな本をこれでもかと、沢山出版します。で、売れないものだから、返品の山です。春樹氏は、昔角川映画≠ニして、ばんばんヒットを打ち出しました。主演はもちろんティーンエイジャーのかわいい女の子です。週刊誌的にその頃話題になったのは、春樹氏が、主演の女の子をことどとく、かわいがったのでした。映画が変わるごとに、次々と新人の女の子をかわいがっていたので、本家から追放されたのでした。
確かに、管理人様のおっしゃるとおり、春樹事務所はSFを(文庫に限らず)たくさん出していました。やるな、と思ったのは、「小松左京マガジン」を書籍ですが月刊で出しておりました。幻冬舎には、そういったものはなかったように思います。(「前田建設ファンタジー営業部」なんかは、SFと言えるのかどうか? 扱っている題材は、マジンガーZ∞銀河鉄道999≠ナすが、あくまで建設屋のものです)まあ、私には、「大差ないです」かも知れません。
 

Re: 出版界のド演歌路線

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月29日(土)02時14分31秒
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  > No.5977[元記事へ]

段野さん
 ありがとうございました。幻冬舎社長は角川から独立したんですか。で、春樹氏と「大差ない人です」ということなんですね。
 私は春樹氏に悪感情をもてないんですよねえ。
 大昔聞いた話ですが、眉村さんが春樹氏と銀座だったか新宿だったかを歩いていて、ゴロツキ数名に囲まれたことがあって、ところが春樹氏はわずか数秒でそいつらを打ち倒してしまったそうです。そのとき眉村さんもあまりの強さにびっくりしたというのを聞いたことがありました。私にとって春樹氏は一種伝説的な人物なんです。
 また春樹氏と幻冬舎では、SFに対する向き合い方が全く違うように思います。ハルキ文庫はたくさんSFを出しましたが、幻冬舎からはほとんど出ていないのではないでしょうか。
 

Re:出版界のド演歌路線

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年11月28日(金)17時00分36秒
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  管理人様
失礼しました。
「この版元の社長は、角川書店(現・角川ホールディングス)の番頭で、同じころ、角川春樹氏は、本家より追放され、角川春樹事務所≠ニ、新たな出版社を設立しました。本家は、角川歴彦氏であります」
でも、書いていいんですか。もう書き込みしてしまいましたが。
 

Re: 豆本拝受

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年11月28日(金)09時37分54秒
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  > No.5975[元記事へ]

 気に入っていただき、嬉しいです。

>  伝説の室町書房《世界空想科學小説全集》ですね(^^;
 右下のは講談社のSFシリーズを模しています。裏表紙を見ないと、ぴんと来ないかも。

>  よくもまあ、ここまで小さくプリントできましたねえ。こんなフォントサイズはないですよね。あるのかな。縮小で対応しているのだと思うのですが、いずれにしても私のプリンターでは不可能かも。
 もともと画像データですから、どんなに小さくも印刷できます。ただ読むことを考えたら、これくらいが限界かと。

 いやあ、楽しいですね、手作りファンジン。
 

豆本拝受

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月28日(金)00時29分10秒
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   高井信さんから、自家製”豆本”をいただきました(^^)
 高井さんのブログで、豆本製作のあれやこれやはもちろん読んでいて、何となくわかったつもりになっていたのですが、現物を見て驚嘆。ぜんぜんイメージと違っていました。こんなに小さいものでしたか!
 いや、まいりましたねえ。これ、私の不器用な太い指では、絶対に製作不可能です(^^;
 表紙画像は高井さんのサイトで見てもらいましょう→こちら

 で、とりわけ私が感動(?)したのは、裏表紙の文字(の小ささ)です。
 オリジナルのハヤカワSFシリーズと比較してみました。
 左下のは、伝説の室町書房《世界空想科學小説全集》ですね(^^;

 よくもまあ、ここまで小さくプリントできましたねえ。こんなフォントサイズはないですよね。あるのかな。縮小で対応しているのだと思うのですが、いずれにしても私のプリンターでは不可能かも。
 ともあれ、紛失しないよう、送っていただいたビニール袋のまま保管することにします。高井さん、ありがとうございました。しかし、対抗して私も……とは思わないですなあ(^^;

 

Re: 出版界のド演歌路線

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月27日(木)20時46分20秒
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  > No.5973[元記事へ]

段野さん
>この版元の社長は、……で、同じ頃に、親元の版元を……されたH氏と、大差ない人です
 これ、知識がないので全く分かりません(汗)。
「……」と「H」に具体的な名詞を入れて再書き込みしていただけるとありがたいです(^^;
 そういえばソッチの掲示板は、大体において符牒のような文面ですよね。なんであんなにコソコソするんですかねえ。出典リンクも絶対しないですし(これはあかんでしょう)。端から防衛的ですよね。私はスキくないです。
 まあ他所の掲示板のことをとやかくいってはいけませんね。勝手におさらしになったらいいんですけど(by今喜多代)、少なくとも当掲示板では、責任は私が取るので(事実ならクレームが来ることは100%ありえません)、どんどん明示的に書き込んでいただいてかまいませんですよ(^^;

>1号針ですか
 えーと、0013(23/13)となってますね→これ
 1号針より幅は1ミリ狭く、足の長さは1ミリ長いようです。

 

Re:出版界のド演歌路線

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年11月27日(木)14時11分56秒
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  管理人様
>しかし、そもそも幻冬舎が版元だからなあ
私は、一冊も買っていません。読むことはありましたが、大抵週刊誌レベルの内容が多かったですね。(とゆーか、この版元の社長は、……で、同じ頃に、親元の版元を……されたH氏と、大差ない人です)
大体、「出せばええやんか」みたいなところがあって、返品が多かったです。
ところで、「ホッチキス」ですが、1号針ですか。個人で使う人は少ないでしょうね。会社では、使っていたので、針がすぐになくなり、庶務課に注文ばかりしていました。
 

Re: え?なんですか〜(聞いてなかった)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月27日(木)00時41分28秒
返信・引用 編集済
   ああっ。すみません。すみません。
 まあ、基本的にノンフィクションを小説家に書かせたらダメですよね。かならず虚構をいれて物語にしてしまうに決まっています。で、大衆は物語の方を好むのです。現実より分かりやすいですからねえ。
 そのへん版元は口には出さなくても暗黙の了解事項でしょう。出版不況というけど、自分で自分の首をしめている面があると思いますね。
 

 しかしカーソルが触れるだけで動画が動き出し音が出るCMは禁止してほしいなあ。
   ↓ わっ、と飛び上がってしまいますがな。
 

え?なんですか〜(聞いてなかった)

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年11月27日(木)00時25分13秒
返信・引用
  百田さんは「永遠の0」以外に短編集を2冊読んだだけで、あとは多分読まないでしょう。
百田さんのあのキャラクターが好きというか、興味深いだけで、たかじん本は全く興味がありませんね。
テレビで見たのですが、たかじんの若い嫁さんから取材して書いた本らしいですね。
内容が一方的で誰かさんから文句が出たらしいですが、全く興味がないのでその辺ウォッチングしていません。

http://marinegumi.exblog.jp/

 

出版界のド演歌路線

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月26日(水)23時05分23秒
返信・引用 編集済
   百田尚樹のたかじん本についてどう思うか、と聞かれたのですが、そもそもこのニュースを知らなかったのでした。
 それで二、三、ネットニュースを見ましたけど、何が問題になっているの? 「やらせ」ということ?
 しかし、そもそも幻冬舎が版元だからなあ。被害者どころか、これはもう版元からして同じ穴の狢、むしろ積極的に後押しして書かせたもののような感が強いです。
 百田ウォッチャーの海野さんのご意見を聞きたい(>おい)m(__)m
 ←あ、坂田さんがいる。
 

燃え尽きた

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月25日(火)23時15分38秒
返信・引用 編集済
   左目の奥と左奥歯と左肩が痛む。で、気になって鏡を見たら、左目がちゃんと開いてないではありませんか。
 ちょっと秘密の道楽に入れ込み過ぎましたかね。
 でもなんとか目鼻がつきました。そうしますと、まだ終点ではないのに、憑き物が落ちてしまったみたいで、これくらいでええんとちゃうのん、これでええがな、という、一種のアパシー状態に一気に墜落して、いまはもう、べつに何をしたいということもなくなって、ぼけーっとなってしまいました。本も読みたいとは思わないし、音楽も聞こうという気になりません。
 しかしまあ、今週はこれくらいでいいのかも。週末から怒涛の忘年会シーズンが始まるので、少しテンションを下げておかなければ、最後までもたないかもしれませんからね(^^;。
 

Re: 散歩

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月25日(火)00時44分5秒
返信・引用
  > No.5967[元記事へ]

 たしかに100枚だと「本ッ!」という感じになりますね。それに比べるとチャチャヤング・ショートショート・マガジンは、残念ながら「冊子」ですね。
 だいぶ慣れてきました。先回の失敗は主に工程の順序を入れ替えることで回避できることがわかりました。
 ということで、三部限定本の製作にかかっております(^^;
 

Re: 散歩

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年11月24日(月)17時57分13秒
返信・引用
  > No.5966[元記事へ]

>  100枚の紙をカットするのって、想像以上に難しいです。
 それなのです! きれいにカットするのは至難の業。しかし、ある程度の厚さがないと見栄えが悪いし……。
>  カット面を減らすことも要検討ですね。
 最優先事項と思います。
 いいアイデアがあったら、教えてくださいね。
 

Re: 散歩

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月24日(月)12時48分52秒
返信・引用 編集済
  > No.5965[元記事へ]

高井さん
>ちなみに私が大型ホチキスを買ったのは30年前です。
>針は、2400本入りのを1箱。まだ7割くらい残っています
 おお。私はその倍なのか。
 届きましたが、意外にコンパクトでした。もっとかさばるのが来るのかと思っていたので、ほっとしました。

 いろいろ試し打ちをし、使い勝手がよくなるよう小細工もして、よしオッケー、さっそく使ってやろうと、100枚弱印字したのをカットしかけたのですが、そこで大失敗。
 100枚の紙をカットするのって、想像以上に難しいです。
 カットする方より、押さえる方の腕の力を、自分で思っている以上に使っているようで、4辺カットの、最初はよかったのですが、2辺目で既に汚くなり、4辺目はもうぐちゃぐちゃになってしまいました(押さえる力がなくなって)。
 また、カッターの刃は1辺ごとに新しくするべきでした。
 カッティングは一気でなく、分けたほうがいいのかもしれません。これまでは表紙を付けた後に、一気呵成でカットしていましたが、そのほうが狂いが少ないわけですが、分割してカットとなりますと、これまで以上に厳密にものさしで測ってカットしなければなりませんし、表紙と本文も別にしてカットしなければなりません。そこでも微妙な誤差が出てくるはずです。
 腕の力を考えると、一気に4辺よりも、休憩を挟んだほうがよさそう。その意味では、高井さんが書いていたように、B5紙を使ってカット面を減らすことも要検討ですね。

 これは製本キット?(クリックで拡大)↓元ツイート
 

Re: 散歩

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年11月24日(月)08時38分24秒
返信・引用
  > No.5964[元記事へ]

>  100枚止められる大型ホッチキスが届いたのですが、安価本位な中国製品だからでしょう、試し打ち用の針も入ってなかったので、専用針というのを追加発注しました。何も考えずに注文しましたが、1000本入り5箱パックだった。一生かかっても使い切れません(汗)。
 2500冊、作れますね(笑)。
 ちなみに私が大型ホチキスを買ったのは30年前です。針は、2400本入りのを1箱。まだ7割くらい残っています。
 

散歩

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月22日(土)21時42分32秒
返信・引用 編集済
   秘密の細かい道楽作業が楽しくてつい度を過ごしてしまい、睡眠不足に、肩が凝るのは当然としても、動いているのは指先だけという”不動”状態に全身が運動を欲して気持ち悪くなってきたばかりか、血が上るとはこういうことでしょうか頭がフワフワして、これはあぶない、と、久しぶりに海岸の防潮堤(の上に設けられた遊歩道)を歩いてきました。ちょうど30分。一秒二歩として3600歩。少し楽になりました。

 100枚止められる大型ホッチキスが届いたのですが、安価本位な中国製品だからでしょう、試し打ち用の針も入ってなかったので、専用針というのを追加発注しました。何も考えずに注文しましたが、1000本入り5箱パックだった。一生かかっても使い切れません(汗)。
 型番が同じなら、市販のMAX針でも使えたんじゃないのかな、と気がつきましたが、後の祭り。まあ一本あたり単価はかなり安いんですが、5000本はまったく不要。
 眉村さんのショートショート「発明チーム」(『C席の客』所収)を思い出しましたよ(^^;

 

眉村さん情報:日経連載第21回

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月22日(土)16時38分19秒
返信・引用
   昨日の日経新聞夕刊に、眉村卓さんの連載エッセイ第21回「過程と全体」が掲載されました。
 クリックで全文
 

Re: 日本アパッチ族シナリオ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月22日(土)00時44分2秒
返信・引用
  > No.5961[元記事へ]

 堀さん
 「日本アパッチ族」シナリオに関して、確かな情報を教えて頂き、ありがとうございました。
 そもそも小松さんが、(うろ覚えですが)テレビだったかラジオだったかを質入れしたため奥さんの娯楽がなくなり、かわりに毎夜、数十枚(十数枚?)書いて、その書いた原稿の束を、朝、奥さんに渡してから出勤した、というエピソードを何かで読んでいたので、それは違うんじゃないかなあ、と思っていました。
 でも出版から一年も経たずにシナリオを書く人が現れるくらいですから、当時注目を集めた作品だったことがわかりますね。
 矢作さんは何を参照したんでしょうね。映画関係者の一部でそんな誤った情報がずっと信じられてきた可能性があるのでしょうか。

 

Re: 日本アパッチ族シナリオ

 投稿者:堀 晃  投稿日:2014年11月21日(金)21時50分12秒
返信・引用
  > No.5960[元記事へ]

これは矢作氏の勘違いですね。
「日本アパッチ族」の出版は1964年1月。
その秋に山田信夫氏のシナリオが書かれ、「シナリオ」1964年11月号に掲載されています。
この号は所蔵しています。
シナリオ誌に映画化情報はなにも書かれていません。
これが出た直後、ヌルスタジオで筒井さんから「岡本喜八監督が撮るらしい」と聞いたことはありますが、クレイジー・キャッツの名は出ていません。
筒井さんとは、独立愚連隊のメンバーではないかと話したことを覚えています。
なお、小松さんからは映画化の話は、その後も、何も聞いていません。
当時、小生が聞いたのは、ここまでです。
 

日本アパッチ族シナリオ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月21日(金)12時24分58秒
返信・引用
   

 本当かなあ。何を参照されたんでしょうか?
 

荒野の渡世人日本語版

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月20日(木)19時01分40秒
返信・引用 編集済
  元ツイート

 荒野の渡世人日本語版(>おい)(^^;

追記>
 「国民栄誉賞を授与する(……)政府は健さんのヤクザ映画をどう評価するのでしょうか」村田基の逆転日記


矢作俊彦のちょっといい話

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月18日(火)20時12分30秒
返信・引用 編集済
   だよね(>おい)(^^;
 
 内にとんでもないパワーを秘めているのに、信号は青でなければわたらないというキャラは、日本人が最も好むところですね。
 とはいえ最後は自らしばった縛めを引きちぎって爆発するんですけど、観者は、自分ではそこにカタルシスを感じていると思っているかもしれないが、本当は、気づいてないだろうけど、自分で自分を縛めて堪えて爆発しないスーパーヒーローの部分に、「安心」して映画館を出るんですね。

60年代ムービースター

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月18日(火)18時25分22秒
返信・引用
   
 ギャング映画はいいけど任侠ものは認めないということなんでしょうか。まあ矢作さんらしいっちゃ、らしいのかな。でもwikipediaによれば、健さん自身、ヤクザものはイヤだったみたいですね。

 
 

SFMラファティ特集号(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月17日(月)23時31分14秒
返信・引用 編集済
  > No.5955[元記事へ]

 承前山本雅浩「ラファティのモノカタリ」を読みました。
 これはなかなか歯ごたえがある論考で、どこまで理解したか自信がありません。手探りで書いていきます。
 論者はラファティの長篇を30年前に初めて読んだとのこと(Aurelia)。それはあたかもソラリスの海のように(とは書かれていませんが)、論者の前に立ち現れ、まさにソラリスの海のようにそれと断絶していると感じます。「何これ?」
 そこで論者は、交通の通路をひらくため、自身の知識と感性と体験のありったけを、ソラリスの海にぶつけてみるのです。その格闘の記録が、公開された30年前の読書メモです。このメモの内容がまた異様に鋭くて、当時論者が何歳だったのか巻末の執筆者紹介を見ても記載がなく分かりませんが、まあ20歳前後でしょうから、その知識には驚くばかりです。
 そういう点はまったく及ばないのですが、ただその射程の距離はどうであれ、ラファティを読もうとするならば、そういう能動性は必須なのですね。たんに受動的に読んでいても、ソラリスの海に跳ね返されるばかりです(もちろんらっぱ亭さんや牧さんのようにやすやすとその作品世界に入り込める方もいます。しかし彼らはそもそも脳のプロトコルがそっちむきになっているのではないでしょうか)(^^;。
 その意味で、私自身がこれまで行なってきたラファティアプローチも、論者にぜんぜん及びませんが、同じ形式に則っています。
 論者はいいます。「ラファティの短篇がこの上もなく魅惑的な小宇宙、作品世界を作っている一方で、彼の長篇は(……)一個の世界になってしまうことを全力で忌避しようとしているということは確かなように思える」
 ここで使われている「世界」が私には難解ですが、山形さんが、短篇と同じ評価基準で長篇を読もうとしてもできない、と言っているのに対応するものでしょう。
 思うに「世界」はすでに完結し、ある意味死んだもので、ラファティの長篇は「世界」として完結したものとは思えない、生きたままだ、ということでしょうか。
 しかしそれもラファティなき現在、「その「わけのわからなさ」ごとアクリルの中に閉じ込められ」「世界化」させられてしまうことを、論者は惜しんでおられるように読めます。
 その一方で、書物は「一人の読者に読まれる」ことで「一個の世界として確立されてしまう」とも。
 この二種の「世界」が論者の中でどう繋がっているのか、私には不明なのですが、個別的には両方ともそのとおりだと思います。
 実際、私たちは任意の作品について、いろいろ感想を述べたり批評したりしますが、それは畢竟、書物から内容が全的に自身のなかに入射され、中を巡って屈折して反射されたものについての感想なんですね。それと小説それ自体とは微妙にずれがある。
 著者のいう「モノカタリ」とはそういうことでしょうか。(屈折して反射された物が作品世界?)
 たしかにそれが「世界」ならば、私自身の中で(少なくともその時点では)定着されているわけですから、前者の意味でも「世界」となりますね。
 さて、ここで再びわからなくなるのが、そういう風に成った「世界」を、(再び)綻びさせるものとして他者が措定されること。そしてそれにつづく文章でありまして、ここにおいて再びラファティは「わけのわからないもの」と化す――という論述。
 ここは螺旋構造を想起すればいいのかも。あるいは十牛図?
 私自身は、そこは「超越的」に乗り越えるしかないのではないか、と思っているのですが……。

 ということで、以上SFMラファティ特集読了。SFMの個人作家特集史上、屈指の特集ではないでしょうか。牧眞司というこれ以上もないラファティアンを監修者に据えたことが最大の勝因だったと思います。同時にこれは牧さんの最良の仕事(のひとつ)となりましたね。読むことができてよかったです。感謝。

 本特集で明らかになったことのひとつに、短篇と長篇の質的な相違ということがあると思います。短篇は、この日本では30年前から本国以上に好まれています。
 ところが長篇は、短篇のように、短篇と同じ構えで読んでしまうと、まあ普通の作家ならそう読んでオッケーなんですが、ラファティはそれでは汲み取れず零してしまうことが、今回明らかになったのではないでしょうか。
 そうであれば、次なるラファティ・プロジェクトは必然的に、”長篇全集”の刊行となるのではないでしょうか。牧さんたち「ラファティ友愛団」のメンメンに期待したいと思います。

 

SFMラファティ特集号(12)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月16日(日)22時59分27秒
返信・引用 編集済
  > No.5954[元記事へ]

 承前牧眞司「ラファティの終末観」を読みました。
 ラファティの物語(長篇?)は、強大な何か(の迫害)に対する抵抗のかたちをとり、往々にしてそれは殆んど勝ち目のないそれなのだが、しかし登場人物たちにはまったく悲壮感がなく平然としている。それはまさにキリスト教の聖人列伝で語られている殉教者と同じであって、読者は自ずと応援したくなる、とします。
 私も全くそのとおりだと思います。
 ラファティの小説を構成しているうちの何ほどかは、殉教者物語のSF的設定での再話の面があるのではないでしょうか。

 ところが著者は、「ラファティは敬虔なカトリック教徒だが」
1)「カトリックがラファティを産んだのではなく」
2)まずラファティ独自の世界観があってそれがカトリックとなじんだと考えた方がいい」
 とも言います。
 1)はそのとおりだと思いますが、2)はどうなんでしょう。「ラファティ書簡」によれば「私の家族は60ないし70世代に遡って、全員カトリックであった」とあります。そんな家系に幼少期を過ごしたラファティが青年期に確立した世界観(自我)は、もちろんラファティ独自のものであることは間違いない。しかしその基礎には幼少期に刷り込まれたカトリックの気風が染み込んでいないはずがないのではないでしょうか。少なくとも2)が、ラファティが価値自由な地点から手を伸ばして、外にあるカトリックを取り入れた、という意味なら、それは少し違うのではないか。(「20代の中頃、信仰に関してあまりまじめでない時が」あったとありますが、それこそ幼少期にカトリック的な考えが刷り込まれていた逆証拠です)

 したがって著者の、「ラファティを語るうえでカトリックを参照するのは有効だが、あくまで補助線にすぎない」という立場は、キリスト者としてのラファティを必要以上に軽視しているように思います。
 それに実際のところ、そういう著者自身が、後半の101頁の記述は、まさにラファティ作品のカトリック的特質の分析になっています。つまり著者は、実際には「軽視」していないのですね。この後半も、私はほぼ同意するものです。

 そうなりますと、なぜ、著者は上のような「軽視」するような記述をしたのかが気になってくるわけです。(ここからは余談です)
 これについては、
「ラファティの小説は感情移入を拒否するような小難しいものではなく」
も同じ根から出てきた発言です。山形さんをはじめ、殆んど全員のレビュアーが「わけがわからん」と言っている中で、きわめてユニークです。私自身も一般的な意味での感情移入は拒否されていると感じます。そんな世俗的な論理で書かれた小説ではないからです。だからこの発言も、「事実」を述べていない。
 この二つの発言は、ラファティ未体験読者へラファティを近づけようとするための、一種「ためにする」ものなのではないでしょうか。ラファティってそんな特殊な作家じゃないんだよ、少し変わっているけど、我々と同じ常識が通ずる普通の作家なんだよ、という……。
 つまり、たぶんに戦略的な発言なのです。
 実際のところは、柳下氏のような特殊翻訳家が訳すような、訳すべき、”特殊”な小説なんですね。
 したがって「ラファティの小説は感情移入を拒否するような小難しいものではなく」に対して、山形氏なら、バカにするな、ラファティをそんじょそこらの十把一絡げと同列におとしめるな、と思ったかもしれません(>個人の想像です(^^;)。(追記)と他人をダシにしてはいけませんね。山形さんすみません。私がそう感じたということなのでしたm(__)m
 この筆法は、一般的受けしにくいSF作家作品を紹介する際、昔から使われているレトリックだと思います。著者にかぎらずSF紹介者でこの筆法を一度も使わなかった人はいないんじゃないでしょうか。SFという特殊な小説を、ごく一般的な読者層に紹介することを課せられたSFレビュアーの、苦肉の筆法で、レビュアーのサガとしてそれが自動的に出てしまったものであろうと思っています。実際のところ、本論を虚心に読めば、ほぼ私は同意見なのですから。

 

SFMラファティ特集号(11)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月15日(土)22時24分33秒
返信・引用 編集済
  > No.5950[元記事へ]

 承前山形浩生『アーキペラゴ航海記』を読みました。
 著者は、短篇と同じノリで楽しめる初期三作以外のラファティの長篇に就いて、「心底好きで愛読書に間違いなく挙げるという人は、たぶんいない。一人も」といいます。
 その理由として、まずひとつは「それがわけがわからんから」。ただし柳下毅一郎は論理的に理解できている、と書いていますから、そのわけのわからなさの理由が、単なる荒唐無稽な作物だからではなく、論理が通っているのだけれども、それがみえない、という意味だと思われます。
 そしてもうひとつの理由として、「それが人を不安にさせるから」。ラファティ作品は「何か世界の成り立ちや本質に関する漠然とした示唆――それも異様な――を背景としている」、それが読者に不安を与える、とします。
 そうしてみますと、この二つの理由は底で繋がっていて、ラファティが開示する世界はわけがわからんのだけど、少なくとも根源的な何かを(確信を持って)提示していることは分かる。それが読者を不安にさせる、ということかと思います。

 その点は、私もそのとおりだと思います。

 しかしながら、その理解が、「ある意味でラファティは狂信者だ」以下羅列される項目とどう繋がるのか。それが私には分かりません。
 ただ、羅列された内容は、柳下前稿の「ホントは怖い」とされた内容に重なるものですよね。前稿の感想で述べたように、それらは物質世界(社会)における人間の要件です。
 だいたい私自身、民主主義は信じられないし、人間には器の違いがあると思うし、そもそも生まれ落ちた瞬間から不平等で、世界は弱肉強食の世界だと、ごく普通に認識しています。しかしそんなことは、お花畑人間以外は、皆そう思っているはずです。
 ラファティだってそれは同じでしょう。客観的な思考をする人間として、当然の認識ですよね。別に不思議ではありません。ことさら列挙することでしょうか。
 そしてキリスト者であるラファティにしてみれば、極端に言えば、現世のあれやこれやは、基本的にどうでもいいことなのではないでしょうか。
 いま読んでいる『鮫』連作は、一向宗の話ですが、念仏を唱えれば極楽浄土に行ける(と信じている)からには、門徒にとって、現世がどんなに不条理であろうと、どうでもいいわけです。そんな人々を主人公は、現世での世直しに向けさせようと苦心惨憺するわけです(そのかわり死を怖れない、むしろ死を歓迎する、最強の兵士となる)。
 『蛇の卵』は、一種世直しめいたストーリーですが、あれは現実の革命とは無関係です。そこにラファティの関心はありません。魂のレベルにおける、闘争と見るべきでしょう。

 柳下氏も山形氏も、まあどちらも無神論者なんでしょう(私もそうですけど)、魂という面への考察が少し欠落しているように思われました。

 

今日はもう死んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月15日(土)16時02分50秒
返信・引用 編集済
   うわあ。私がここ1週間、トータル20時間ほど行っていた作業が、きれいさっぱり、パソコンから消えてしまっているではないですか。
 あやまって削除してしまったのだろうか。
 うん?
 しかしファイルは残っていますね。中身の文字というか文書だけが消えてしまっている。
 空ファイルだけ残っているのって、ヘンですよね。最後の作業分が上書き忘れで消えているのならよくあることですが。
 これって、私の誤操作なのかな。中身だけ消すためには、全文反転させて消去とか、そんなことをする必要があるわけで、少なくとも私はそういう特別な操作をした憶えはありません。
 てことはパソコンの誤作動なのか?
 うわあ、こんな理不尽なことがあっていいのか。神はいないね(>おい)(^^;。
 いずれにしろデータは戻らない。作業の40パーセント以上進捗していたので、しかもかなり辛気臭い作業なので、また最初からかと思うとがっくりです。

 

眉村さん情報:日経連載第20回

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月15日(土)15時27分12秒
返信・引用 編集済
   日経新聞に眉村卓さんの連載エッセイ第20回「栄枯盛衰」が掲載されました。

 クリックで全文

 私が思いますに、近い未来では、前世紀後半に流行したハードボイルドや冒険小説の新たな版には、
《本文中に暴力描写、性描写、喫煙描写、等の過激な表現が頻出するが、時代性その他を勘案して原文を尊重した。》
 みたいな但し書きが、末尾に付けられるようになるのではないでしょうか(^^;

 

逸ノ城天晴

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月14日(金)19時28分57秒
返信・引用 編集済
   いや逸ノ城惜しかった。しかし基礎力は横綱級であることが証明されましたね。
 ところでテレビで見ていてふと思ったのは、逸ノ城の体の色。同じモンゴル人の鶴竜との対戦だったので気づいたのですが、鶴竜が日本人と同じ黄色系の体色なのに対して、逸ノ城は赤みを帯びた白色。これはほぼ栃ノ心と同じです。
 栃ノ心はグルジア人あわわもといジョージア人、すなわち白人コーカソイドです。
 ひょっとして逸ノ城の家系に、いつの時代か、コーカソイドの血が混じったことがあるのではないでしょうか。
 これはそんなに驚くことではなくて、モンゴル人、というよりも遊牧民(商業民)は、すぐに民族の純血とか言って仲間でかたまり、韓国人や中国人を排除するベチャッとした農耕民の日本人とは正反対でオープンで、来るものは拒まないところがある。チンギスハンのモンゴル帝国が、優秀であれば色目人やイスラム教徒も区別なく登用したのは、そういう気風があったからです。
 だから日本人みたいに、合いの子といって差別することは考えられない社会で、だいたいそれ以前にモンゴル人には家のアイコンである苗字が(第二次大戦以前までは)なかった。
 そういう意味で、モンゴル民族はありますが、モンゴル人種というのは拡散しきって実体的存在物としてはないのでしょう(いや日本人も実際は相当混血していて、単一人種説なんてとんでもない虚構なんですけどね)。
 逸ノ城がコーカソイドっぽい肌の色だからといって、ことさら騒ぎ立てることはない。
 そう気づいてみれば、私がそんなことが気になったのも、まさに私が《みんなと同じ》意識にまみれた日本人だからですね。哀号(ーー;
 しかし逸ノ城の先祖に、どこでコーカソイドの血が入ったのか(いや事実がどうなのかは分かりません)、気になるっちゃなるわけです。もっともモンゴルに西隣する新疆地区、かつてのシルクロード国家のなかには、桜蘭やホータンなど、コーカソイド系(アーリア系)の国家も少なくなかったので、普通にありえるはず。
 そういえば逸ノ城の故郷であるバットツェンゲル郡って、鶴竜がど田舎と言ってましたけど、どのあたりなのか。おそらくモンゴルの西端あたりではないかな、と思って検索してみました。
 すると意外や、モンゴルの中央部ではありませんか。
 
 ウランバートルから500km位? 500キロといえば、だいたい大阪-東京間の距離と同じ。鶴竜は大げさだなあ。ということで、航空写真にしてみました。
 

 

SFMラファティ特集号(10)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月13日(木)23時09分40秒
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  > No.5949[元記事へ]

 承前柳下毅一郎「ホントは怖いラファティ」を読みました。著者は、流布しているラファティのイメージ「やさしいホラ吹きおじさん」は違うのではないか、といいます。それは本特集によっても明らかで、というか、本特集はそのようなラファティ像をぶっ壊すために組まれたものでしょう。実際、ここ数年で、旧来のイメージはかなり揺らいできたように思われます。

 では著者は、ラファティを、どのようなイメージで見ているのでしょうか。「危険な作家」と言っていますね。危険、というのが、実は私にはよくわからないのですが、ともあれ著者は『第四の館』のバグリーにラファティ自身が反映されている、とみます。
「バグリーは「たまさかのお気に入りを除いて、全人類を徹底的に嫌って」いるという。圧倒的な厭世観と人間嫌い。人を人と思わぬ部分がラファティの小説にはある」
「ラファティの中には決定的な、現代文明と現代人への呪詛、あるいは侮蔑があるように感じる。ラファティは間違いなくヒューマニストではないし、人類の可能性を信じてもいない」


 ラファティをまだ数冊しか読んでいない私には、その当否を判断する資格がありません。そうなのかなあ、と思うしかないのですが、でもこれって危険なんでしょうか。
 ただしタイトルはそのとおりで、こういう思想信条の持ち主が、いわゆる「衆生」(善男善女=一般ピープル)にとってみれば「怖い」人間であることはたしかです。ひょっとして「ホントは怖い」人間なのに、表向きの「やさしいホラ吹きおじさん」のイメージにダマされてしまうことが「危険」だという意味でしょうか。

 まあそれはさておいて、上記のとおりで、ラファティを読み込んでいる筆者のラファティ観は尊重するのですが、私の(少ない読書体験における)感じでは、そうとも言えないのではないか、という気がするんですよね。
 キリスト者としてのラファティという面に着目するならば、「魂」を忘れてはいけないと思います。
 ラファティに「現代文明と現代人への呪詛、あるいは侮蔑」があるのはたぶんそのとおりなんだと思いますが、それはむしろ「魂」を汚すものだからです。前稿で若島さんが言っている「バランス」、偏りを逆向きに戻すベクトルが、ラファティの小説にはあり、それはもっと重要視するべきではないでしょうか。(若島氏は「卑しい人間が全面的に肯定されるのがラファティの世界だ」と書いています。ここでの卑しい人間は、その分魂を比較的穢されていない人間だという含意があるはずです。「貧しき者こそ幸いなり」)。

 歪み偏った、堕落した肉体(=物理世界)に閉じ込められている「魂」は、これはなんとしても救済されなければならない。一種の世直し願望。ラファティの発想の原点にはそんな契機(宗教的倫理)があるのではないか。少なくとも私にはそれがはっきりと感じられます。私がラファティを好むのは、実にこの”斗うラファティ”が見えるからです。ラファティはニヒリズムを峻拒しています。
 そしてこれは(私の誤解でなければ)井上央氏のラファティ観に近いのではないかなあ、と密かに考えているのですが(^^;

 

SFMラファティ特集号(9)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月12日(水)22時47分56秒
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  > No.5948[元記事へ]

 承前若島正「乱視読者の小説千一夜 出張版 次の連載につづく」で著者は面白い試みをします。即ち他の寄稿者はラファティの素晴らしさを語っているに違いないから、ここは逆視点でラファティのつまらなさについて語ろう――というのです。
 これは「ピー・アイ・マン」的になかなかよい思いつきで、ラファティにかぎらず汎用性があると思います。一種のバランス感覚で、その場の勢いで一方に偏っていくベクトルをもとに戻す効果がある。

 で、著者はラファティの「つまらない」小説を捜し、昔読んでつまらないと思った或る短篇を思い出して再読してみるのですが、(かつて)つまらないと感じた小説(あるいはその要素自体)が、「これはやはり、ラファティらしい、ラファティにしか書けないたぐいの」小説(要素)だったことを、逆に再確認してしまうのです(^^;

 これはよくわかりますね。たとえばラジオで聞いたシングルヒット曲がよかったのでLP(というのも古いか)アルバムを買ってきて、ひととおり聞いたけれど、当のヒット曲以外はピンとこなかった、という経験があります。
 ところが惰性でアルバムを聴き続けているうちに、爾余の曲もしだいによく感じられてきて、最終的にはヒット曲よりもそっちのほうがよくなってしまう、そんな経験はないでしょうか。
 私は大いにあります。これは、聴きこむことによってアーチストの意図(何をしたかったのか)や方法論(どう表現したかったのか)が無意識に内在化されるからですね。
 と同時に、往々にしてヒット曲は、ヒットを目的としてそれなりの衣装を纏わせられるので、アーチストの純粋な意図からは何ほどか離れたものとなってしまっているからでもあります。

 同じことが若島氏にも起こったと思われます。若い頃は(まだラファティを2冊しか読んでなかった頃は)当の短篇はつまらなく感じた。しかし、その後数十年ラファティを読み続けた結果、若島氏の裡に、ラファティの勘所(意図や方法論)がいつの間にか内在化されてしまっていたのです。その結果、かつてはつまらなかったはずの作品が、今読み返したら、まさにラファティらしい作品だったことを発見してしまった、ということだったのでしょう。
 ヒット曲ということに掛けて言いますとこれは半分以上冗談ですが、ひょっとしたらかつて楽しめた「九百人のお祖母さん」こそ、編集者(デーモン・ナイト?)によって、一般受けするように衣装を纏わせられていたのかもね(>おい)(^^ゞ

 それはさておき、”The Ultimate Creature”という作品を取り上げて、なぜそういう因果を超越した結末(一般的には「なんでそうなるの?」)になるのかについて、「それはそういうことがないと「全世界は永遠にバランスの欠けたものになる」から」と看破しているのはさすがに鋭い。全くそのとおりだと思います。
 ラファティの裡に「世界は理不尽(不条理)である」という基本認識があることは間違いありません。またそれは事実です。そしてそれを言い換えれば「世界はバランスが欠けている」ということになります。そう気づきますと、ラファティの小説は(特に長篇において)、つまるところいろんな局面で「バランスの回復」がはかられる物語(ただし三節構造に従うわけではない物語)になっていますよね(最後の審判も含めて)。きっとそれが、ラファティの渇仰する世界の在り方だったんでしょうねえ。
 

SFMラファティ特集号(8)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月11日(火)22時55分43秒
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  > No.5947[元記事へ]

 承前井上央「知られざるラファティの長篇世界 未訳長篇総まくり」を読みました。表題を読んで字の如しで、未訳長篇をざっと紹介しているのですが、その数の多いこと! 数えたら16篇あるようです。対して既訳長篇は7篇。意外にもあんまり翻訳が進んでませんね。
 意外にも、と書いたのは他でもありません。1984年発行の『世界のSF文学総解説増補版』で、岡本俊弥は「一部の批評家を除けば、(ラファティの)わが国での人気が本国を上回るという奇妙な現象が起こっている」(『子供たちの午後』レビュー)と書いているからです。ここ日本においては、ラファティは30年前から、本国アメリカよりも人気があったんですね。それなのにこの現状はどうしたことか。
 1984年以降、何らかの理由でラファティ人気がアメリカ本国並みに下がってしまったのでしょうか。
 もしそういうことが起こったのなら、その原因としてひとつ思いつくことがあります。それは1990年代後半にSF読者層に起こったボトルネック現象なんですが、本稿からは外れますので、またいずれ別の機会に。

 閑話休題、そういうわけで16篇の未訳長篇のサマリーを読んだわけですが、どれも面白そうで困りました。困りましたというか、原語が読めない身として翻訳を待つしかないのがとても悔しい。らっぱ亭さんの口調を借りるならぎりぎりぎりぎりであります。
 それから気がついたのは、既訳が、広がりのあるアイデア重視なものに偏っているのではないかということ。井上さんの所謂”歴史小説”も、ラファティがそんな話を書いていたこともはじめて知ったわけですが、梗概を読むと実に面白そうではないですか。私はOkla HannaliとかThe Fall of Romeとか、とても気になりました。そういう(ある意味地味な)方面のも、偏りなく翻訳を望みたいですねえ。

 いずれにせよ、一時の低調期を脱けだして、ラファティ受容はここ数年、本特集に寄稿している方々のご尽力でずいぶん活性化してきたようです。今後の展開を楽しみに待ちたいと思います。

 坂永雄一「行間からはみ出すものを読む 邦訳全短篇を読む」は労作。全既訳短篇を設定とか背景とかの共通性で分類したものです。これは私のようにラファティに不案内な初心者が、不見転でラファティを読む際、足元を照らしてくれる灯りとなるもので、とても便利です。そして基本そういう風に使うべきものだと思います。なので今読むのではなく(実際読みかけましたが、未読短篇の項目は何が何やらです)、これからラファティ短篇にあたるときに、せいぜい利用させてもらおうと思います。

 松崎健司「ラファティ未訳オススメ短篇20選」は、実は坂永作品にもそういう面があるのですが、オレは全部読んだんだからねー、という「読める者」の一種の自慢なので、「読まざる者」たる初心者としてはいささか腹ふくるるところがあります。ぎりぎりぎり。松岡洋右の心情がよくわかった(違)。まあ2頁なのでいちおう目を通しましたけどね(>おい)m(__)m

 松崎健司「新世紀ラファティ結社」は、本国におけるラファティを世に知らしめたいと活動している人々のレポート。しかしローカスは逆走しているようにしか見えないのですが。一番よいのは著作権を放棄することではないんでしょうか。それはムリですか(^^;

 

SFMラファティ特集号(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月10日(月)21時33分38秒
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  > No.5946[元記事へ]

 承前井上央「ラファティ書簡1979―1993」を読みました。
 おお、井上央さんはラファティが亡くなる前年まで、手紙でやり取りを交わししていたのですか。すごい。
 そういうわけで、本篇は井上氏がラファティから受け取った返信からの抜粋集。たいへん興味深く、ラファティの”生の声”が見られるという、もうそれだけで眼福(^^)。ただ前後あるものからの部分の抜粋ですから、読者の眼前に現在している部分だけでは、なぜその言葉(文)がラファティの口から(もしくはペンによって)語られたのか、その含意を推測するのは、なかなかに困難です。
 きっと、文脈の中においてみれば自明に理解できる内容なのでしょう。しかしその条件が読者からは奪われているわけです(あと、私の側の問題として言及されている作品を読んでいないためにわからないという面が。ですから当該作品を読んでいる読者にすれば、了解は容易なのかも)。
 なろうことなら(困難なことは重々承知ですが)往復書簡集としてお二人のやりとりをそのまますべて載せていただきたかったと思いました。とりわけ「クリスチャンは、そしてクリスチャンでないものでも”精霊”の臨在を感じる時があります」が、意識と無意識の並在の説明として書かれているように見えるのですが、どのようにラファティにおいてつながっているのか。”精霊”とは無意識に棲むものだと言っているのか。大昔カトリック系の幼稚園で、人にはみな一人一人に、必ず行動を後ろから見守る天使がいるのだ、と聞かされましたが、そういう意味なのか。強く興味を喚起させられました。ラファティのもっと詳しい言葉を聞きたいと感じました。
 ハーンの怪談に対する「バケツの水漏れ」もよくわかりません。それはとりもなおさずラファティの観念する「幽霊譚」がくっきりと私には見えないことに起因します。
 もっとも、よく分かる部分も多少はあって、金枝篇のフレイザーについて「天才的はったり屋」はまさに至言(^^;
 ただ確実に言えるのは、編集後記で使われている「ぼくらのラファティおじさん」という表現から読者が読み取るイメージどおりのラファティであれば、こんな手紙は絶対に書かないだろう書けないだろう、ということ(次の長篇レビュウで、大野万紀も「第四の館」に就いて訳者あとがきを引くかたちで「ラファティがただの「気のいいホラ吹きおじさん」ではないことをつきつける」と書いていますね)。その意味で本ラファティ特集自体が、編集部のラファティ理解へのアンチテーゼとなっているわけで(もちろんラファティにそんな要素がまったくなかったとは言いませんが)、これはなかなかに愉快であります(^^;

 つづいて「ラファティ邦訳長篇レビュウ」では、岡本俊弥の「蛇の卵」の評言「まずは疑問なく、これらに酔いしれることが肝要であろう」に目からウロコが(^^;。なるほど。ラファティは苦手などという向きは、これができないんでしょうねえ(^^ゞ
 

SFMラファティ特集号(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 9日(日)21時00分57秒
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  > No.5943[元記事へ]

 承前マイクル・スワンウィック「絶望とダック・レディ」はラファティの(未訳)作品集の序文として書かれたもの。牧眞司訳。
 スワンウィックは『グリュフォンの卵』のみ読んだことがある。(→感想文(1)(2)(3)
 ゼラズニイみたいなスタイリッシュな作風の作家というイメージがありました。ラファティファンだったとは。
 書いていることは、いちいち納得させられます。
「ほとんどの作家は、さまざまな約束ごとを前提として執筆している」しかし「そうした約束ごとに従属しているかぎり、どうあがいても得られるのは先人の遺産がせいぜいだ」けれども、「ラファティが属するのは、自らの文学のために一から言語を創りあげる稀有な作家グループだ」といいます。まったくそのとおりで、これは「物語には始まりと真ん中と終りがなければならない」とする小説三節構造説を乗り越えるべきものとした「SFのかたち」の所論と響き合うものです。

 ディックに擬するのは違うんだという主張も、ラファティ主義者として苦くも誇らしげではありませんか(^^; 本篇の後半は、そういうラファティ作品を、営利を度外視して世に出そうとしている人々への讃歌。
 本論を書くほどにやるせなさを募らせたスワンウィックは、さらにディックと同様に死後評価され、いまやあまたの信者に護られているラヴクラフトに、そのあまりの懸隔に、センボーとフンヌの矛先を向けます。
「ラヴクラフトなど、ラファティに及びもつかぬ作家なのに」
 いやほんまほんまほんま!! 実際、ラヴクラフトで本当に評価できる小説って、五指にも満たないのではないでしょうか。と、私も思わず誤爆してしまいましたがな(^^;
 スワンウィックとは意見が合いそうです。未読の『大潮の道』を読もう(^^;

 

Re: 『織り屋おりん』拝受

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 9日(日)16時20分9秒
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  > No.5944[元記事へ]

段野さん
 京都本大賞って初めて知りました。本屋大賞の京都版みたいな感じでしょうか。
 検索してみましたところ、ここが一番詳しそうです。→京都本大賞
 リンク先によると、先般第二回目(対象は昨年)の大賞が決定し、『聖なる怠け者の冒険』が受賞したようです。
 書店員と読者の投票(1、京都府書店商業組合ホームページより投票。2、京都府下の書店店頭配布の専用投票用紙に記入)によって決まるみたいです。投票は、実行委員会で決定された最終ノミネート三作が示されて、そのどれかに投票するというもので、最多得票の作品に授与されるというシステムですね。
 結局のところ人気投票です。となると知名度がないのはキビシイですよね。しかしながら、わずかな希望がないわけではありません。
 今回は「昨年度出版された41編の中から最終ノミネート作品を実行委員会が選んだ」とありますから、篁作品は、今回の例ならば「41編」に相当するノミネートということです。ノミネート数が今年と同じと仮定して、41分の3の確率。岩田が37打数4安打ですからそんなに変わりません。最終ノミネートが4になり岩田が3安打だったら逆転です。そー考えますと意外に夢ではないかもですよ(>おい)m(__)m
 

Re:『織り屋おりん』拝受

 投稿者:段野のり子  投稿日:2014年11月 9日(日)14時09分18秒
返信・引用
  管理人様
掲示板に取り上げて頂きまして、ありがとうございます。
この11月11日の、毎日新聞朝刊一面サンヤツ″L告に載るそうです。
あと、気になる記事を、見つけました。
「京都本大賞」が、ありまして、この度、発表がありました。なんでも、京都が舞台になった小説≠ェ対象だそうで、まあ、まさかですが、この度の本が、対象になりそうです。まあ、しかし、まさか、ですね。
来年に、発表されるそうです。ま、どうなることやら、です。
 

SFMラファティ特集号(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 8日(土)22時28分34秒
返信・引用 編集済
  > No.5937[元記事へ]

 承前。つづいて「R・A・ラファティ インタビュウ」。インタビュアー:ダレル・シュヴァイツァー。橋本輝幸訳。1983年9月に雑誌初出。後出の井上央「ラファティ長篇の執筆期間と執筆年」によれば『蛇の卵』稿了が1982年11月ですから、それからわずか1年以内の収録であったことがわかります。これは意外に重要かも。たとえば「宗教は麻薬だっていう考えかたなんかもあるけど、たぶんそれは数十年遅れの考えだ」

「ファンタジィ作家は、暗黒時代の原動力を取り去り、調度と扮装だけを用いる(…)それじゃメインの部分が手つかずじゃないか」
 やんややんや。さすがラファティ、言ってくれますねえ。まったくその通り。SFだって、世に流通する大半はそうですよね。メインの人間の中身はこの21世紀初頭のそこら辺にいる人間そのまま。

「非宗教リベラリズム」ってなんでしょう? キリスト教で云うリベラリズムは、ある意味理性的な人々で、聖書をそのままには信じない態度です(進化論を許容する)。それと関係があるのでしょうか。ただし保守的であるのは間違いない。「過剰な反発は許されない。非宗教リベラルの流れに乗った人々は、それに立ち向かういかなるものも許容しない」。この時期の大統領はレーガンですが、レーガンはブッシュのような原理主義者ではなく、保守的リベラリストだったようです。そういう”潮流”を、ラファティは感じていたのでしょうか。
 一方、対置される《新生派》は、いわゆる福音派で聖書至上主義。この派と原理主義派との関係も私はいまいち分かってないのですが、リベラリズムも新生派も(原理主義も)いずれもプロテスタントです。著者は、プロテスタントであっても新生派は《宗教》たりえているが、リベラル派はもはや《宗教》にあらず、と考えたのでしょうか。
 とりあえずラファティの宗教観はもうすこし腰を据えて読み込む必要があります。その意味で「アーキペラゴ」の翻訳が待たれます。というのは、インタビュアーは、どうも「アーキペラゴ」を念頭にして質問しているようなんですよね。本インタビューは「アーキペラゴ」刊行(79)の4年後に行われたもの。つまり現在の私たちが『華竜の宮』に就いて議論するのと同じタイムスパンと考えてよい。インタビュアーにとって「アーキペラゴ」は《同時代》の小説であったことは意識する必要があると思われます。

 ユングの原型は、原型でも間違いではないけれど、元型と訳してほしかった。そもそも英語で両者は区別されてないのですけど。日本人読者的に違和感がありました。
 それはさておき、我々が良い小説を読んだとき常にそう思わせられる「これぞ自分が考えていたけど、一度も口にしていなかったことだ」を、集合無意識で説明しているのは、はたと膝を打ちました。なるほど! そういう風に考えたことはありませんでしたねえ。さすがラファティです(^^)。

 トールテールに就いて、私はほぼ酒場の法螺話と理解していたのですが、それはトールテールの矮小化であったことを知りました。トールテールはラファティにとって、根本に関わる切実なものだったようです。
「トールテールは無意識的なものに違いない。ひとつ話し始めると、たちまちその中で何かが起こりだす。ちょうど誇張のようなものだ。誇張も無意識的なものだ。方法を用いれば、考えかたもついてくる」
 要するに誇張とはジャズのアドリブに相当するものなんでしょう。ここでこう音を外すことによって、それからあとの部分が変わっていってしまうわけです。そういえば「聖ポリアンダー祭前夜」でも「物事に増幅しすぎるってことはない」と言ってますね。
「トールテールは話が作られるのと語られるのが同時になるんだ」
 まさにジャズと同じ。

 ホレス・ゴールドがよかった、というのも面白かった。穿って考えれば、おそらくデーモン・ナイトが煙たかったんでしょうね。ナイトの言うとおりに改稿すれば、万人にわかる佳作ができたんでしょう。だから無碍に拒否することはできなかった。でもそれは、ラファティにとっては本意ではなかったのかも分かりませんねえ(^^;

 いや、非常に示唆的で面白いインタビューでした。

 

眉村さん情報:日経連載第19回

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 8日(土)17時13分18秒
返信・引用 編集済
   昨日(11/7)の日経新聞夕刊に、眉村卓さんの連載エッセイ第19回「〈あの頃の自分〉とおのれ」が掲載されました。
「かつて暮らした土地や懐かしの場所を訪ね(…)感慨にふけるというのは、それなりに過去を持つようになった人間の楽しみ、あるいは悲しみの手段の一つであろう」
 というのは、そういう、年月を経て来た者の特権という風に考えたことはなかったけれど、確かにそうですね。但しそれが歳月に窯変されて自己愛フィクション化してしまうことを、眉村さんは戒めてもおられるわけですが、私個人的には、リアル昔の感覚は勘弁してよと思う気持ちも、正直なところありますねえ。眉村さんのようには強くなれないのであります(^^;。

 クリックで全文
 

Re: 実際に印刷してみたら

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 8日(土)02時17分29秒
返信・引用
  > No.5940[元記事へ]

 結局、一冊作ってしまいました。中身は反故紙です。
 
          ↑
 下部の白い部分は、ホッチキスの打ち位置を間違ったため(ーー;
 タテが長くなってしまいました。大失敗。
          ↓
 

 しかし光沢は抜群です。ただ折り目から剥がれやすそうです(実際すでに剥がれている)
          ↓
 
 

Re: 実際に印刷してみたら

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 7日(金)23時07分33秒
返信・引用
  > No.5939[元記事へ]

 ああーっ。プリンターの設定を変えなければいけなかったのでした。
 これならオッケーです(^^)

 
 

実際に印刷してみたら

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 7日(金)20時57分19秒
返信・引用 編集済
   昨日、西秋生さんの「神樂坂隧道」を10数年ぶりに読み返していて、あらためて感嘆。
 関東大震災からさほど経ってない、しかし次の戦争の予兆が忍び寄ってきている、そんな時代の帝都、田舎から上京してきた主人公は、下宿のある市ヶ谷に近い神楽坂の地下に(震災でできたのか、江戸城の秘密の抜け穴の名残なのか)巨大な隧道が存在し、そこで夜毎謎の芸人たちが秘密の演芸を繰り広げていることを知り、次第にその妖しい魅力に取り憑かれていくのですが……。
 いわば帝都版「神楽坂地下オデッセイ」です! そのあまりの完璧さに打ちのめされ、発作的にこんな表紙をデザインしちゃいました(汗)。

 
 昨日「取り込んでいる」と書いたのは、このことなのでした。(^^;
 小説はネットに上げられています。こちらで読めます→神樂坂隧道 ですから、別に製本しようというつもりはなくて、一種の練習、ノウハウの蓄積のためにいろいろやっているその一環なのですが、一度実際に印刷してみたくなり、今日、近所のヤマダ電機で「ELECOMきれいな光沢紙厚手」というのを、まあものはためしで購入してきました。
 で、実際に印刷してみたのがこれ。

 
 うーん。ケータイカメラで撮ったせいもあるかと思いますが、実際もこんなモノ。思ったとおりの色が出ていませんし、白い条痕があったりで、イマイチです(擦り傷は乾かないうちに触れたため)。
 この「ELECOMきれいな光沢紙厚手」、要するに”薄い写真印画紙”なんですね。ですから乾くまでさわれないので、いまのところ不明ですが、折り曲げた時どうなるかも心配。
 でもこんなものなのかもしれませんね。100均で”最厚模造紙”というのも買ってきたので、これも後日試してみるつもり。
 しかし期待が大きかった分、やや拍子抜けで疲れました(^^ゞ

 

『織り屋おりん』拝受

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 7日(金)18時09分28秒
返信・引用
   本日、篁はるか著『織り屋おりん』を、著者よりご恵投賜りました。ありがとうございました。
 昨年の『告発』につづく二冊目の単行本ですね。いやめでたい。今回は166頁の長編のようです。
 アマゾンでも、取り扱い開始されていました(→amazon)。10冊在庫あり。

 《時は江戸。京の西陣にはあちこちから規則正しい機織りの音が響いている。少し変わった意匠の帯を織る事で有名な織り子、丹後のちりめんの里で生まれ育ったおりんは、14の時に京の都へ上り、他に並ぶ者のない西陣の帯の織り子として名を馳せてゆく。おりんと彼女を取り巻く人々が織りなすヒューマンドラマ》

 ふーむ。ひょっとして、花登筺みたいなお話でしょうか。いや分かりませんが(汗)。まあ、お話の内容や出版に至るあれやこれやは、いずれ眉村さんを囲む会でお聞きできると思います。
 ということで、まずは御礼と当掲示板閲覧者へのお知らせでした。あ、囲む会参加者はあせって購入しないように。著者から戴けるそうですよ(^^;
 

 

SFMラファティ特集号(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 6日(木)21時30分37秒
返信・引用 編集済
  > No.5936[元記事へ]

 承前。ひきつづきラファティ特集。
 あらら、小説は3本だけだったんですね。なーんだ。でもせっかく編集部をだまくらかして(かどうかは知りませんが>おい(^^;)特集組んだんだから、せめてもう1、2本小説を読みたかったですねえ。殊にも井上央訳がなかったのが残念。既読三篇が、それぞれ訳者の料理の仕方が異なっていて楽しめたので、井上ラファティも楽しみたかったです。

 ということで、今回は非小説3本読みました。
 「SFのかたち」は、たぶん聞き取りを構成したもの。大森望訳。
 原タイトルの”Shape of S.F. Story”を、ラファティは気に入っていると言っていますが、これはやはりオーネット・コールマンの”The Shape of Jazz to Come”を踏んでいるんでしょうね。
 但しここで専ら語られるのは既存のかたちである三節構造です。
 SF(を含む芸術一般)の三節構造の効果を認めた上で、しかしラファティはその結果、「それがすべてを独占していることによって、新たな発展の可能性が阻害されてきました」と述べる。それは畢竟予定調和的な「舞台中央」即ち匣の中の「悦」楽にすぎず(「外部が存在することを理解しません」)、そこで演じられる物語は往々にして「物語には始まりと真ん中と終りがなければならない」という主張になり、それは「中央集権的な権威」であるとします。
 ラファティは「箱」の外に出てみなさい、と言っているようです。それを或るフェイズに着目すれば「結末のあとに来るパートを聞くことを許されている物語」ということになる。安部公房をもじれば、〈終わったところから始まる物語〉ということでしょう。あるいは「おのれの地図を焼き捨てて、他人の砂漠に歩き出す以外には、もはやどんな出発も成り立ち得ない」(『燃えつきた地図』函書き)
 ここに到って、本篇の主題が、”Shape of S.F. Story to Come”であったことが明らかになります。

 つづいて浅倉久志のエッセイ「ラファティ・ラブ」。古沢嘉通訳。本エッセイはカナダのラファティ専門紙に寄稿した(英文で書かれた)ものらしい。だから訳者がいるわけですね。
 一読膝を打ちました。浅倉さんはラファティ短編について、
「土俗的で、とっぴで、ユーモアたっぷりで、人生の喜びに充ちている」「CDでは再現不可能なアナログ録音の品質を持つサウンドを思い起こさせる」
 と綴っています。この一文を、主語を隠してジャズファンに「これだれのこと?」と聞いたら、十中八九いや十人全員が「アルバート・アイラーだ!」と答えるでしょう。いやまさにそのとおり! 私は「聖ポリアンダー祭前夜」の感想で「フリージャズの、テーマ演奏からインプロ演奏に入ったみたいな感じで、もう翻弄されまくりのグルーヴ感」と記しましたが、そのとき脳裏にあったのは、まさしくアイラーその人なのでした。浅倉さんはジャズファンでしたから、当然この一文はアイラーを念頭して書かれたものに違いありません。

 ちょっと取り込んでいるので、とりあえずここまでとします。
 

SFMラファティ特集号(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 6日(木)01時54分4秒
返信・引用 編集済
  > No.5933[元記事へ]

 承前。ラファティ特集号は「カブリート」を読みました。松崎健司訳。
 松崎健司って誰やねん。と思ったら、らっぱ亭さんでした(いやわかってましたけど)(^^;。訳者名はらっぱ亭のままのほうが断然よかった。もうらっぱ亭ですでに著名ですし、「らっぱ亭」って、北杜夫が「憂行」と号して、あとで恥ずかしい思いをしたのとは違って、ちゃんと号になっているのです。二葉亭という先人もおいでる。なぜ使わなかったのかなあ。「松崎らっぱ亭」、いいではないですか。改名はSFMの方針なんでしょうか。でも水鏡子はオッケーなんだよね。なんかダブルスタンダードだなあ。

 と、のっけからアッチへ行ってしまいました。閑話休題。本篇はまさに、ラファティの一般的イメージであるところのラファティらしさが前面に出た好篇。
 この世界は「見かけの世界」らしい。この世界とは別に「リアル世界」があって、主人公の空士ルンドクヴィストは、「見かけの世界」では二十年間空軍基地に勤務する軍曹ですが、「リアル世界」ではヴァイキングなのです。
 これは眉村さんの《異世界三部作》の世界を想起すればわかりやすい(あるいは石川喬司の夢書房世界)。ただし異世界三部作の各世界は分岐時間線であるのに対して、本篇はそういう因果関係は想定されていないようです。とはいえ「リアル」「見かけ」というくらいですから、本物と仮物くらいの前後関係はあるみたいで、その点は夢書房世界に近いのかも。眉村異世界三部作も、最初の二作は同じですが、三作目の『夕焼けの回転木馬』になるとナンバーワン世界は特権的な世界ではなく、同じ可能性を持って存在・並在する数ある世界のひとつとなってしまいます。
 「見かけの世界」でルンドクヴィストが活動している間、「リアル世界」ではどうなっているのか。それは書かれていませんが、やはり「リアル世界」のルンドクヴィストが(互いに別々に)活動しているんでしょう。この点、石川ワールドでは、夢書房世界にいる間リアル世界のぼくは眠っているので(活動していないので)、そこは大きく違うところですね。
 その意味で、「リアル世界」と「見かけ世界」のルンドクヴィストの関係は、本人とドッペルゲンガーの関係的とみなしてよさそう。

 さて冒頭の7人がスツールに横並びに座る酒場のシーン。両壁が鏡張りのせいで3倍の21人が座っているようにみえる、とあるのは不可解。事実は3倍どころか無限のはずですよね(^^)。しかしまあ、それはよしとしましょう。
 ここで左右の鏡の中の(二人の)ルンドクヴィストが、単なる鏡像ではなく、(互いに別々に)活動していることに注目したい。つまりリアル世界のルンドクヴィストのドッペルゲンガーである空士ルンドクヴィストの、さらなるドッペルゲンガーが出現したわけです。本文では「生霊」ともいっていますが、無問題。空士ルンドクヴィスト自体が、リアル世界のルンドクヴィストからすれば「生霊」だからです。著者もドッペルゲンガーと生霊を区別していないように思います(44頁に「生霊すなわちドッペルゲンガー」との記述あり)。
 いかにもラファティらしい、ひねくれた対位法ではないでしょうか。面白い面白い。

 この後の展開も、婆さんが孫娘でとか、三度吐かれるウソ話の、三回目がホントになるとか、いかにもラファティぽさ横溢で、シリアスなラファティが2篇続いたあとに、これはまたお気楽なラファティが愉しめ、構成もグットでした(^^)
 

Re: 式 貴士さんの手紙

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年11月 5日(水)21時50分8秒
返信・引用
  > No.5934[元記事へ]

> 行方不明だった式 貴士さんからの手紙が出てきました。
 おお、それは素晴らしい! よろしければ、五所光太郎さんにご連絡ください。
> この手紙の中に高井さんのお名前が出てきます。
 びっくり。悪いことでないといいんですが(笑)。
> すっかり忘れていました。
 30年以上前ですからねえ。私もそのころの手紙なんて、ほとんど記憶にありません。
 

式 貴士さんの手紙

 投稿者:和田宜久  投稿日:2014年11月 5日(水)20時03分47秒
返信・引用
  昔の漫画同人誌を高井さんにお見せしようと、段ボールをあれこれひっくりかえしていたら
行方不明だった式 貴士さんからの手紙が出てきました。
消印は昭和55年4月と9月です。
この手紙の中に高井さんのお名前が出てきます。
すっかり忘れていました。
 

SFMラファティ特集号(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 4日(火)21時39分52秒
返信・引用 編集済
  > No.5932[元記事へ]

 承前。ひきつづきラファティ特集より、「その曲しか吹けない――あるいは、えーと欠けてる要素っていったい全体何だったわけ?」を読みました。山形浩生訳。

 本篇は、小説世界の設定が比較的わかりやすい。この世界(社会)では、次代を担う構成員である若者は、クローンとしてこの社会に登場します。赤ちゃんでも子供でもなく、若者です。つまり有性生殖ではなく、構成員の人間(man)は、後継世代が必要となったとき、自分の遺伝子を(一片の肉を)「甕出し小屋」に預け、クローンを作ってもらうのです。甕出し小屋で作られたクローンは、「12歳」の精神身体に育成され(とうぜん12年もかからない。通常6日から6ヶ月)、この世界へ投入される。

 この「12歳」というのが示唆的です。小松左京「お召し」では逆に12歳になると当該世界から消えるのでしたね。消えて別の世界へ転生するということが暗示されていて、要するに彼らの行き先は「大人の世界」なのです。一方、本篇では子供は存在せず、12歳の「若者」が、「突如」世界に現れる。12歳いうのは、丁度その頃から自我意識の形成が始まる時期です。ラファティも小松も、それを踏まえているわけです。

 さて、この世界がクローニングで世代交代していくのは、女のいない世界だからです。どうやら小説の現在から140年前くらいに、なにか革命的な出来事があって、男と女が社会を別々に生きていくようになったようです。
 そのことは、「覚えている最後の人」の最後のひとりが存命している、という事実から導出されます。この「最後のひとり」は、現在140歳で、その年齢に「与えられた12年は含まれておりません」とされていて、要するにこの老人こそ、有性生殖世代の最後の生き残りなのです。

 ところでこの世界では、以前は少なからずいたかかる(男女が一緒に暮らしていた時代を)「覚えている最後の人」たちは、ある一定の年齢(140歳)に達すると、お祭りをしてもらって次の世界(?)へ旅立つことが定められているのですね(露払いと太刀持ちを付けてもらって。ああ露払い太刀持ちという言い方は私が勝手に名づけたものです)。ここでも「お召し」との類似に気づかないわけには行きません。

 さて主人公は、12歳でこの世界に投げ込まれ2年経過した若者ですが、他の者達とは少し異なっている。それは彼には「オムハカ要素」が生来備わっている点です。備わっているというのはちょっとまずい言い方で、本篇の副題「あるいは、えーと欠けてる要素っていったい全体何だったわけ?」とあるように、「オムハカ要素」とは備わっているのではなく欠けているのです。欠けた半分を求める引力なのです。

 これは、単性生殖の完全無欠であるクローンのレゾンデートルからすれば、有るべからざる欠陥なんですよね。クローン社会的に、原理的に存在を許されない「ユニーク」ということになる。
 その結果、彼を知るものは皆、あたら若いみそらで(「若者が男にすらなれない前に切り倒されるのを観るのはいつも嫌なものだなあ」)と同情はしてもそれに実効力はない。男性原理社会*ですから、原理原則に例外は認められません。
 結局主人公は(ペットのブタと共に)、最後の「覚えている最後の人」の門出に、露払い太刀持ちとして同行させられるのでした(つまり死出の旅路に)。

*という言い方は本篇にはありませんが、かつての両性社会に就いて、「覚えている最後の人」が辞世の言葉として、「ヘッヘッヘ、奴らは忘れられた方がマシじゃよ。あれも楽しみの一種であったが、連中がこの世にいては得られない楽しみが実にたくさんあったでな。だってやつらがまわりにいると、ブタ殺し大会すら開けないんだから」と言っています。つまりこの社会は、基本残酷で、情状酌量というのは忌み嫌われる社会なのです。

 ここからは思いつきメモ。周知のようにラファティの創造する世界はこのように残酷な世界が多い。これはラファティ自身が、論理よりもその場の感情が優先し例外を増殖していく女性原理的な社会(たとえば現代日本のような)が好きじゃないからなのでしょうか。後出の山形浩生の評論では、ラファティは異様な女嫌い、と書かれていますね。

 女嫌いと関係するのかどうか、山形評論から引用しますが、「かれは民主主義なんてものは信じていない。人間には器があり、平等などではないと確信している。人種などではなく、ひたすら弱肉強食の生命力至上主義にもとづく格がある」という指摘も、見方を変えれば男性原理の優越ということでしょう。そういう意味からしても、ラファティがきわめて論理的な作家であるというのはいえそうです。そのあまりにも厳格な論理性を基礎に持つ小説世界が、読者に不安を生じせしめるのは当然なのかも。

 ただ、そういう面とラファティのカトリック信者である面はどのように結びつくのか。私たちがカトリックが持っていると通常考えているマリア信仰的な母性原理的な面は、ラファティのカトリック信仰とは別種なのでしょうか。いや、ますますラファティへの興味がわいてきました。

 

SFMラファティ特集号(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 3日(月)22時43分8秒
返信・引用 編集済
   秘密の細かい作業をしていたら、根を詰めすぎたか、肩が凝って、あまつさえ歯も痛みだしたので、中断して外出してきました。帰宅したら、SFMラファティ特集号が届いていた。
 ということで、まずは特集冒頭の「聖ポリアンダー祭前夜」を読んだ。柳下毅一郎訳。
 読み始めてすぐ、登場人物が混乱してきました。そこで登場人物表を書き出しかけたのですが、まてよ、と思いつき、とりあえずラファティを覗いてみた。
 案の定ありましたね。→アウストロと何でも知ってる男たちシリーズ
 いや便利便利。まさにファンサイトの鑑(^^;。わが「とべ、クマゴロー」を見たって、眉村さんのことはな〜んにも分かりません(汗)
 ということで、いっぺんに視界がひらけて忽ち読了。
 いやこれはすごい。読中思っていたのは、山野浩一「ロックで行こう」との形式の類似。山野作品ではロックバンドのメンバーがドラッグでマインドトリップし、奇妙な体験をするのですが、本篇では、「三階の僧房」のメンバーが、肉体は僧房(実はバーナビイの書斎)に残したまま、精神が一種の電脳存在となって「芝居」(電脳世界での芝居と二重写し)の劇中人物となり、不思議な体験をする。(但し現実の肉体も影響を被るみたい)
 その形式が似ているなあ、と思ったのでした。ただし内容は本編のほうがずっと濃密かつ細密かつ複雑で、こっち観点で見ると山野作品は上っ面をなぞっているだけのようにすら感じてしまいます。
 どれだけ濃密かといいますと、それはもはや芝居に入った時点からは、フリージャズの、テーマ演奏からインプロ演奏に入ったみたいな感じで、もう翻弄されまくりのグルーヴ感。そしてところどころ、案外冷静な話者(私≒ラファティ)の思想が開陳されていて、それがなかなかに21世紀的に的を射ていて、それも興味ぶかいのです。
 ラストもフリージャズの最終フェーズめいた感じで、テーマ(僧房)に還ってきているようで、実は還ってなかったりして、ラファティらしい終り方が決まっていました。
 本篇は、上記らっぱ亭さんのサイトによると連作(アウストロと何でも知ってる男たちシリーズ)の一篇らしい。何篇か既訳みたいですが、これはやはり全部をまとめて読みたい。でなければ理解も深まらないし面白さも中途半端なんじゃないのかなあ。連作集「Through Elegant Eyes」として翻訳出版してほしいものです。
 追記。ところで聖ポリアンダー祭ってなに? 言葉自体知らないわ(^^ゞ 実際にあるキリスト教の祭事なのでしょうか。


 

Re: 贋作『十八時の音楽浴』

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 3日(月)11時45分5秒
返信・引用
  > No.5930[元記事へ]

>キャプテン・フューチャーは銀背です。な〜んか違和感ありますね
 本当ですねえ。ジャック・ウィリアムスンは金背ですね。ハミルトンより四歳年下です。後期スペオペ作家という意味で同じようなジャンル内ポジション、というのが私の認識なのですけれど。
 

Re: 贋作『十八時の音楽浴』

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年11月 2日(日)20時16分44秒
返信・引用
  > No.5929[元記事へ]

 海野さん。
> 僕のは270円。
> 初版でした。(えっへん)
 そんなこと言う(笑)。
 ええ、うちのは再版です。
 ハヤカワSFシリーズに関しては初版だの再版だの全く気にしませんでした。とにかく読みたかったのです。>あのころ

 あ。管理人さん。
 キャプテン・フューチャーは銀背です。な〜んか違和感ありますね。
 

Re: 贋作『十八時の音楽浴』

 投稿者:海野久実  投稿日:2014年11月 2日(日)19時05分38秒
返信・引用
  『十八時の音楽浴』
高井さんのは、背表紙に320円と書いてありますね?
僕のは270円。
初版でした。(えっへん)


 

Re: 贋作『十八時の音楽浴』

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 2日(日)14時31分4秒
返信・引用
  > No.5927[元記事へ]

 あらまあ、本当にメチャクチャですね。現物にあたらず記憶で作ったリストなんでしょうね。
>とにかく私は、ネットの情報は信じません!
 いや、なかには信頼できるサイトもありますよ。たとえば「ショートショートの…」とか(>おい)(^^;
『虚空の遺産』は銀背なのですね。モダンスペースオペラだからでしょうか。ハミルトンが20世紀生まれだからでしょうか。
 (はて、キャプテン・フューチャー3部作はどっちだったっけ、と、これは持っているので探しに行ったら……見つかりません!(冷汗)20年前の引っ越しの際ずいぶん蔵書を捨てたのですが、そのとき誤って捨ててしまったのか? しかし最近(と言っても数年前くらい)何かの確認のため見たという記憶もあるので、きちんと元に戻さず紛れさせてしまったのかも。だったらいいんですが……(^^;)

 

Re: 贋作『十八時の音楽浴』

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年11月 2日(日)14時01分38秒
返信・引用
  > No.5926[元記事へ]

>  しかし金背だったんですね。ラインスターよりも1歳若いのに。そして戦後も活躍したのに。どういう基準だったのか調べたくなったので、リストを検索したところ、ここがヒットしました。したんですが、コーンブルース『クリスマス・イブ』が金背? ますますわからなくなりました(^^;
 リンク先、拝見しました。
 これはむちゃくちゃですね。下の画像をご覧ください。
 とにかく私は、ネットの情報は信じません!

>  はい。今のところは何をしたいとかいうのはないのですが、テクニックは蓄積しておこうという段階です。というかそれが楽しいんですねえ。
 よくわかります。私も実際に作るかどうかは別として、あれこれ遊んでいます。
>  もしなにか作りましたら、お送りしますね。
 わー。めちゃ楽しみ。
 

Re: 贋作『十八時の音楽浴』

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 2日(日)13時12分48秒
返信・引用
  > No.5925[元記事へ]

 おお、ご指摘ありがとうございます。さっそくやり直しました!
 しかし金背だったんですね。ラインスターよりも1歳若いのに。そして戦後も活躍したのに。どういう基準だったのか調べたくなったので、リストを検索したところ、ここがヒットしました。したんですが、コーンブルース『クリスマス・イブ』が金背? ますますわからなくなりました(^^;

>何か作られたら、また見せてください
 はい。今のところは何をしたいとかいうのはないのですが、テクニックは蓄積しておこうという段階です。というかそれが楽しいんですねえ。
 もしなにか作りましたら、お送りしますね。

 
 

Re: 贋作『十八時の音楽浴』

 投稿者:高井 信  投稿日:2014年11月 2日(日)08時31分13秒
返信・引用
  > No.5923[元記事へ]

 おお、仲間だ〜(嬉)。こういうの、楽しいですよね(笑)。
 素晴らしい出来と思いますが、ただ、惜しい! 『十八時の音楽浴』は金背なのです。
>  表野のタイトルが「18時の……」なので、ホンモノは背表紙のタイトルも「18」なのかもしれませんが、画像がないので確認できません。目次や作品タイトルでは「十八時」となっているので、ニセモノ背表紙タイトルは「十八」にしました。そもそも「18」が間違っているのです。というか横書きなので、算用数字にしたのかも。
 背は「十八」です。
>  200頁の厚みがどれくらいなのか見当がつかないので背表紙幅は適当にしましたが、実際に製作する場合は、幅を調整しなければなりません。また縦の長さも、カットの際あまり神経を使わずに済むよう、上下数ミリ長めにしておく必要があります。
 厚さは1センチくらいです。
 何か作られたら、また見せてください。
 楽しみです。
 

修正史観の元凶

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 2日(日)01時22分32秒
返信・引用 編集済
   これさー、あっちに投稿したらヤバイですかね?(>おい)(^^;
 先日、事実を知っている人が死んでいって修正史観(というより捏造史観)が幅を利かせ始めたと書きましたが(ここ)、それは論点を取り違えていました。元凶は事実をきちんと教えなかった中高の社会科かも。だいたい昭和史は三学期で、良くて駆け足、駄目な教師や教えたくない教師は読んでおけですからね、それが今みたいな事態を招いた、少なくともその一端を担ったことは間違いない。歴史は現代→古代と逆向きに教えるべきだといったのは石母田正でしたっけ。それが正解かも。時間切れで卑弥呼の時代が駆け足になるのと、太平洋戦争が駆け足になるのとどっちを採るべきか、考えるまでもありませんよね。
元ツイート
 

贋作『十八時の音楽浴』

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)23時28分56秒
返信・引用 編集済
   マハヴィシュヌを聴きながら、贋『十八時の音楽浴』の表紙カバーを作っていました。
 表紙と裏表紙の画像はネットでみつけたのですが、背表紙の画像が見つかりませんでした。
 そこで、手近にある任意のHSFSの背表紙をスキャナーで取り込み、タイトル作者名を書き換えました。
 工夫したのは背表紙の頭のシリーズ通し番号で、ちょっと変わった字体のためこんなフォントはありません。これも家にあるシリーズからコピペしました。具体的には『準B級市民』(3095)から「309」を。『SFマガジン・ベストbQ』(3060)から「6」をいただいて合成しました。
 表野のタイトルが「18時の……」なので、ホンモノは背表紙のタイトルも「18」なのかもしれませんが、画像がないので確認できません。目次や作品タイトルでは「十八時」となっているので、ニセモノ背表紙タイトルは「十八」にしました。そもそも「18」が間違っているのです。というか横書きなので、算用数字にしたのかも。
 左右の白い部分は折り返し部分です。
 200頁の厚みがどれくらいなのか見当がつかないので背表紙幅は適当にしましたが、実際に製作する場合は、幅を調整しなければなりません。また縦の長さも、カットの際あまり神経を使わずに済むよう、上下数ミリ長めにしておく必要があります。
 いや、製作しませんよ。いろいろ練習しているのであります(^^;
 でもせっかくこんなのを作ってみたので、公開いたします(^^ゞ





 

眉村さん情報:日経連載第18回

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)17時30分50秒
返信・引用 編集済
   日経新聞《あすへの話題》欄に週一連載中の眉村卓さんのエッセイですが、その第18回「雨の中」が、昨日の夕刊に掲載されました。

 クリックで全文
 

Re: SFマガジン「R・A・ラファティ生誕100年記念特集」

 投稿者:管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)17時27分9秒
返信・引用 編集済
  > No.5920[元記事へ]

 らっぱ亭さん、お久しぶりです。
「R・A・ラファティ生誕100年記念特集」(監修:牧眞司)のお知らせありがとうございます。

>拙訳「カブリート」を含めた短篇3作
 おお、ついにSFマガジンデビューですか。おめでとうございます! さっそくアマゾンに注文しました(^^)
「カブリート」は、先年頂戴した『らっぱ亭奇譚集』で読ませて頂いた短編ですね。あれは傑作でした。あとの二編も楽しみです。
 何はともあれ、愈々満を持してSFMに進出されたことでもありますし、らっぱ亭さんにはラファティ特化特殊翻訳家として、今後益々ラファティ普及活動に邁進していただきますよう、期待していますよ!
 上記の3作品、読みましたらば本掲示板にて感想などつぶやきますので、またご笑覧いただければと思います。まずはおめでとうございました。
 

SFマガジン「R・A・ラファティ生誕100年記念特集」

 投稿者:らっぱ亭  投稿日:2014年11月 1日(土)16時02分31秒
返信・引用
  ご無沙汰しております。
今月号のSFマガジンは「R・A・ラファティ生誕100年記念特集」(監修:牧眞司)ですが、
拙訳「カブリート」を含めた短篇3作を含む約100ページの読み応えのある特集となっております。
コラムも未訳短篇紹介など2つ寄稿しましたので、よろしければご笑覧ください。
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/721412.html
 




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