閑話休題、そういうわけで16篇の未訳長篇のサマリーを読んだわけですが、どれも面白そうで困りました。困りましたというか、原語が読めない身として翻訳を待つしかないのがとても悔しい。らっぱ亭さんの口調を借りるならぎりぎりぎりぎりであります。
それから気がついたのは、既訳が、広がりのあるアイデア重視なものに偏っているのではないかということ。井上さんの所謂”歴史小説”も、ラファティがそんな話を書いていたこともはじめて知ったわけですが、梗概を読むと実に面白そうではないですか。私はOkla HannaliとかThe Fall of Romeとか、とても気になりました。そういう(ある意味地味な)方面のも、偏りなく翻訳を望みたいですねえ。
ということで、今回は非小説3本読みました。
「SFのかたち」は、たぶん聞き取りを構成したもの。大森望訳。
原タイトルの”Shape of S.F. Story”を、ラファティは気に入っていると言っていますが、これはやはりオーネット・コールマンの”The Shape of Jazz to Come”を踏んでいるんでしょうね。
但しここで専ら語られるのは既存のかたちである三節構造です。
SF(を含む芸術一般)の三節構造の効果を認めた上で、しかしラファティはその結果、「それがすべてを独占していることによって、新たな発展の可能性が阻害されてきました」と述べる。それは畢竟予定調和的な「舞台中央」即ち匣の中の「悦」楽にすぎず(「外部が存在することを理解しません」)、そこで演じられる物語は往々にして「物語には始まりと真ん中と終りがなければならない」という主張になり、それは「中央集権的な権威」であるとします。
ラファティは「箱」の外に出てみなさい、と言っているようです。それを或るフェイズに着目すれば「結末のあとに来るパートを聞くことを許されている物語」ということになる。安部公房をもじれば、〈終わったところから始まる物語〉ということでしょう。あるいは「おのれの地図を焼き捨てて、他人の砂漠に歩き出す以外には、もはやどんな出発も成り立ち得ない」(『燃えつきた地図』函書き)。
ここに到って、本篇の主題が、”Shape of S.F. Story to Come”であったことが明らかになります。
眉村さん情報:日経連載第22回
投稿者:管理人 投稿日:2014年11月29日(土)19時25分4秒クリックで全文