ヘリコニア過去ログ1505


「すぺるむ・さぴえんすの冒険」と「皆勤の徒」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月31日(日)21時27分54秒
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  > No.6329[元記事へ]

 『ゴルディアスの結び目』より、「すぺるむ・さぴえんすの冒険」を読みました。
 ああ、これだったんだ!
 と突然叫んでも、皆さんには何のこっちゃ、ですよね。
 いや、実のところ、なぜ『ゴルディアスの結び目』を読み始める気になったのか、私自身よくわからなかったのです。
 ただ、『皆勤の徒』を読んでいる途中から、なぜか頭のなかに『ゴルディアスの結び目』がチラチラしはじめてきたんですね。でもその理由がわからなかった。
 その衝動というか違和感は、『夢みる旅を旅する夢』を読んでいる最中も持続し、決して弱まることがなかったのです。
 ああ、これはマジで読み返さなあかんな、という気になりました。私の意識は忘れているけれど、きっと何か関係があるからそう感じるんだろうな、という察しがついたのです。
 で、「岬にて」「ゴルディアスの結び目」と読んできてそれらしい感触は得られなかったのですが、「すぺるむ・さぴえんすの冒険」に至って、ああこれだったんだ! となった次第。
 要するに初読時はこの中篇集を、腹に嵌って読めてなかった、ちゃんと了解できてなかったってことなんでしょう。まあ理解力が本書のレベルに達してなかったのかもしれません。
「すぺるむ・さぴえんすの冒険」も「皆勤の徒」の世界設定と同様、一種の播種ものだったんですね。
 地球=太陽系が壊滅し、人類は一切合財を情報化して宇宙船地球号に搭載し、新地球を求めてあてのない旅に出る。220億の人類は、その生体情報が環境情報とセットで宇宙船地球号の「進化シミュレーション電子脳」内にストックされ、順番に再生されて電脳上の生活を送っているのですね。主人公はこの宇宙船の最高責任者であり、たったひとり目覚めている人間なのです。これなんか「皆勤の徒」の土師部とパラレルですよね。あースッキリした。
 ラストはちょっとひねくれた「太陽系最後の日」といえるかも(あんなにオプティミスティックではなく救助者も限定的)。でもいかにも小松SFらしいウェットなエンディングで、よかったです。

 

「ゴルディアスの結び目」と暗黒物質

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月31日(日)00時55分33秒
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   ふと思い立って、『ゴルディアスの結び目』から、「岬にて」と表題作を読み返したのですが、表題作に、「暗黒物質」が描かれていることに今更気がつきました。
 調べたら、中編「ゴルディアスの結び目」は野性時代1976年1月号掲載、てことは、前年1975年秋ごろ執筆されたものと推測されます。
 ええっ、そんな頃から暗黒物質って分かっていたの?
 ウィキペディアによれば、ヴェラ・ルービンが銀河の回転速度の問題から暗黒物質の存在を指摘したのが、1970年代(としかウィキペディアではわからない)。そこで同じく「銀河の回転曲線問題」を参照したところ、「1980年代に明らかになった天文学の問題の一つ」と書かれていました。
 つまり1970年代中頃は、暗黒物質なんてどこの馬の骨とも分からないアイデアだったんじゃないでしょうか。それをいち早く「ゴルディアスの結び目」は取り込んでいたんですねえ。

 

「高野山開創と丹生都比売神社―大師と聖地を結ぶ神々―」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月30日(土)21時12分16秒
返信・引用 編集済
   実は昨日、めでたく映画料金がシニア割引になりました(^^) やた! これを待ち続けて幾星霜。思えば学生割引が効かなくなってからは、めったに映画館に足を運ばなくなっていました(>おい)(^^;。なのでほんとうに嬉しい。これから観るぞー。まずは「セッション」だ、と、近所の岸和田のシネコンのサイトを見たところ、上映していません。じゃ、泉南のシネコンはどうだ。やっていません。
 どこでやってんねん。と調べました。鳳ならやっていました。鳳だったら車で30分。よし、と、上映時間を確認したら、なんと21時15分~23時15分のレイトショー一本だけ。
 そんな深夜はちょっと……。かといってわざわざ大阪に出かけて行ったら、映画料金よりも高い電車賃がかかっちゃいます。
 うーむ。他の映画にしようか、と上映作品を見直してみても、そもそも映画情報など仕入れていないので、ピンときません。
 出鼻をくじかれたこともあって、今日はとりやめた。
 しかし、久しぶりに出かける気満々だったので、なんか落ち着きません。
 そういえば和歌山で、高野山展だったか、空海展だったか、やっているというツイッターを見かけたな、と思い出した。
 確認しましたら、和歌山県立博物館で、特別展「高野山開創と丹生都比売神社―大師と聖地を結ぶ神々―」が開催されていました。
 そのとき卒然と、当地から和歌山までJR運賃550円だったはず、と思い出した。つまり往復1100円。シニア割引料金と同じではありませんか(^^;
 おお、これは和歌山へいけという天の声、と、私は確信しましたね。
 で、行ってまいりました。
 和歌山市内へは、仕事で時々行きますが、つねに車で、です。電車で訪れたのは10年ぶりくらいかもしれません。駅舎の上階は、昔は和歌山ステーションデパートと言ったと覚えているのですが、MIOになっていました(たぶん天王寺のMIOと同系列)。駅前の雰囲気もだいぶ変わっているようですが、記憶の方もあやふやで、どこがどう変化しているのか、はっきりしません。ただ時々利用した場末の喫茶店はなくなって、立ち飲みになっていた。3時頃でしたが満員でした(女性客も目立った)(汗)。
 などと書いていたら先に進みませんのでカットしまして……
 展覧会です。
 丹生都比売神社というのを、私は不勉強で知らなかったのですが、紀の川中流から高野山、そしてその裏側の有田川源流に蟠踞した丹生氏と関係があるようで、伝説では空海は、その地の山人を介して丹生の神様から高野山の霊地を譲ってもらったことになっているらしい。
 つまり丹生氏と空海の関係を示す伝説なのですが、山人が出てくるように、丹生氏は山の民だったのかも(既にこの辺、展示内容を逸脱していますのでご注意)。丹生というくらいですから「丹」つまり辰砂(水銀)の採掘民だったんでしょう。
 山の民と山岳宗教の関係はまだ勉強していないのでよく分かりませんが、とうぜん仏教以前に水神(龍神)信仰的な原始宗教があったはずです。それと空海の真言密教が習合して山伏的な山岳仏教が現在に至ったのだろうと漠然と考えていますが、もちろんそれについては密教という仏教がそもそも山岳信仰に親和的なものだったことが前提です。
 すなわち空海と丹生氏の親密な関係は、ある種必然的だったんだろうな、と、今日展覧会を見て思ったことでした。
 実は今度の神戸特集号に寄稿した作品では、空海の密教と中国道教が、その神秘的性格において親和的だった、というアイデアで書いたものなんですが、展示されていた『三教指帰』で、儒教・道教・仏教の三教の中で仏教が最善と説いていたことを思い出した。これはすでに豊田さんの小説で知っていたはずなのに、ころっと忘れていました。でも同じく密教である天台宗は、最澄の死後、後継者が道教を教義に組み入れた、と豊田さんが書いていますので、あながち的を外しているわけではないと思います。
 話はあちこちに飛びます。常設展で、紀の川下流の大豪族紀氏が、正確な文言は覚えていませんが、「その卓越した航海術で朝鮮半島と交易し、大陸的な遺物が多く出ている」と、さもあたりまえのように書かれている掲示があったのですが、いやいや、土豪である紀氏がなぜそんな航海術を持っていたか、全然あたりまえじゃないだろう、と思った。
 こういう書き方が当展示にかぎらず意外に散見するんですね。土豪とみなされている葛城氏や紀氏が大陸と太い絆で結ばれていた理由は、もっと考究されていいのではないでしょうか(もちろん渡来人説もありますが少数派ですし、記紀の記述はいかにも土着っぽいのです)。
 というわけで、「セッション」がやってなかったおかげで、今朝起きた段階ではまったく思いもしなかった楽しい1日を過ごすことができました(^^;

 

Re: 代々木のコロンボ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月30日(土)18時47分59秒
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  > No.6326[元記事へ]

 ムトウさん、お久しぶりです。
 いつもブログ拝見しています。無断引用お許し下さい(いちおう「拍手」はしたのですが)。ちょっと引用の範疇を越えているかなと思いましたが、とても簡潔で、しかも読者の興味を強く引く(ユーチューブに誘導する)良文でしたので、あえて掲載させていただきました。
 私もユーチューブを視聴して、志位さんすばらしい、と思いました。
 それにひきかえ、われらが宰相の答弁たるや、こういうのを「言を左右にする」というのでしょうか、おっしゃるように「議論になっていません」よね。しかもまともに答えてない自覚があるのか、冗談めかした口調です。
 おいおい、ちゃんと答弁しようよ、と、画面に向かって叫びたくなりました。
 リンクされたフェイスブック(ちゃんと読めました)に、「こんなに重要な法案をこんなにとんちんかんなうわっつらの言葉でごまかして平気な顔してる人間を、みなが結果的に放置して好きなようにさせてることに絶望するわ…」という発言がありましたが、まさにそのとおりで、本当の問題は、こんな宰相がそこそこ支持されている、という現実なんですよね。

 

Re: 代々木のコロンボ

 投稿者:ムトウ  投稿日:2015年 5月30日(土)12時00分24秒
返信・引用
  > No.6325[元記事へ]

ご無沙汰しております。
リンクありがとうございます。
映像で見ると法廷ミステリーのようです。
明らかに安倍首相は追いつめられていて、「安全」を繰り返すだけで議論になっていません。

昨日の志位委員長の元記事です。
志位委員長の答弁を一部書き起こしてくれています。
フェイスブックの記事なので、うまくリンクできているか不安ですが。
https://www.facebook.com/miyuki.kohara.7/posts/1098788013468827

http://www006.upp.so-net.ne.jp/mutoh/

 

代々木のコロンボ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月29日(金)20時30分54秒
返信・引用
   武藤の大冒険より
 

 (5/27)
 (5/28)
 

眉村さん情報:産経連載第二回

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月28日(木)19時11分19秒
返信・引用 編集済
  > No.6282[第1回へ]



 

神戸特集号のこと

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月28日(木)01時38分26秒
返信・引用 編集済
   今日は、とりあえず暫定的に、現時点まで到着済みの玉稿(皆さんそれぞれに頁設定されているの)を、先日申し上げましたハヤカワポケットの判型(24字x18行x2段)に流し込んでみました。

 キヨモリの鍵  25頁(26頁*)
 帰還      18頁
 ヤング氏のメイド19頁(20頁*)
 梅川      15頁(16頁*)
 流れついたガラス15頁(16頁*)
 近道      15頁(16頁*)
 魔耶山の道教寺 14頁
(巻頭)うろこの家 4頁*1段組

 今回、全作品奇数頁開始で決めていまして、記載の頁数は、タイトル作家名で1頁、その裏側(偶数頁白紙)、本文奇数頁開始、での頁数です。
 (*奇数頁で終わる作品は、最終ページが奇数となるのでその裏が白紙となり、1頁プラス)
 あと、見返しや扉や前付や目次、奥付などを加えると、現時点で正味140頁になるようです(計算間違えてなければ)。
 これで背の厚みが8ミリ位です。(フランケ『思考の網』と同じくらいですね。いま見てきました)
 うーむ。もうちょっとボリュームがあったらいうことないんですが。
 もちろんまだ締め切ってませんから、大丈夫でしょう。
 とりあえず締切後、皆さんにはこの判型のワード文書(と確認のためPDF)をお返ししますので、それで見映えの調整等して頂いて、返送して頂くようにしましょうか。(ワードがPCで使えない方はPDFで確認していただくか、必要なら校正用のプリントアウトをお送りしますので、お申し出下さい)
 ああ、わくわくしてきました(^^)

 *ところで、ハヤカワSFシリーズは書棚の一番下の段なんですが、どうも床に近い分、汚れがひどくなっていることに気が付きました。『思考の網』なんか40年ぶりにさわったと思うのですが、さわるの躊躇するレベルでした(汗)。計画して掃除しなければ。




 

「夢みる旅を旅する夢」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月26日(火)20時39分44秒
返信・引用 編集済
 
北野勇作『夢みる旅を旅する夢』(パブー、初出05)読了。

 面白かった!
 5枚から10枚くらいのを36篇収録したショートショート集です。タイトルどおり、夢の中で見かけた風景(が核になったもの)なのでしょうか、奇妙で、少し懐かしくもある異郷譚集でした。堪能しました(初出『週間アスキー』2005年4/5号~7/12日号)。
 最初は、一般的に旅の常ではあるのですが、主人公(といっても全て話者です)に、非日常を愉しむ(何かを期待する)という意識が読み取れて、ちょっと眉村さんの旅ものを想起したのでした。
 けれども回を追うごとに、話者が向こうの世界に馴染んでというかこちらが忘れられていく感じで、私の感覚だけかも分かりませんが、夢の世界がしだいに非日常ではなくなっていくんですね。
 主人公は旅人ではあるのですが、日常・非日常というリアル現実的発想が希薄になっていき、単にその世界の旅人みたいな立ち位置になっていく。それにつれて各話の世界が、幻想小説っぽくなっていきます。
 たとえば「影」は、町で一番高い塔に登ると、荒れ地の彼方にヒトの形をした巨大な黒い影が立っているのです。主人公は興味を感じ、そこに行ってみるのですが……。
 これなど、ダリの「ミレー晩鐘の考古学的回想」の、あの絵柄がパッと浮かんできて、もうそれだけで、わっ、となっちゃいます(^^)。わずか5~6枚のショートショートに永遠が詰め込まれて、まさに幻想小説の極致といいたい。そしてそのあたりからは、たとえば、最初から存在した地下通路網、海中都市、壁のレリーフの天使と悪魔の戦い、水に沈んだ町、泥に沈む町、都市ほどの大きさのスーパー銭湯、等々、幻想絵画の展示室めいた様相を呈していくんですね(^^)
 実は電子書籍の機能を活用して(KOBOで購入)、気に入った作品には栞を付けていたのですが、このあたりから栞の付かないのがなくなってしまい、こりゃ意味がないな、と、やめてしまいました(^^;
 ところで、私が、昨日とつぜん本書を読みたいな、と思いついたのは、単になんとなく思いついたのではなかったのです。『皆勤の徒』で山尾悠子を思い出してしまったからなんですね。
 そもそもパブーの立ち読みで、本書がどういう傾向の作品集であるか、大体わかっていたのです。ちょっと山尾悠子みたいな感じかな、というあたりがあったんですね。
 で、山尾悠子みたいなの、読みたいなあ、と考えたとき、一種必然的に、本書を思い出した次第。
 そのあたり、ハズレていませんでした(^^;
 いやーよかった。著者は、「かめくん」みたいな傾向のはちょっと違うのですが、もっと夢をあからさまに出してくる短い話は、意外に山尾悠子的な幻想小説なんですね。現在活躍中のSF作家で、いまもっとも作風が山尾悠子に近いのは、北野勇作ではないでしょうか。この傾向の作品、もっと読みたくなりました。

 

「皆勤の徒」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月25日(月)22時56分1秒
返信・引用 編集済
  > No.6320[元記事へ]

「皆勤の徒」再読。なるほど、本篇が巻頭に置かれなければならない理由が分かりました。
 再読するまでは、この難解なのをなぜド頭にするのか。読者に対して不親切なんじゃないか、と思わないでもなかったのですが、たしかに本篇を読んでから残りの3篇を読むほうが、実は了解しやすいんですね。私も後回しにしようと思わないで、初読後すぐ再読すべきでした(まあ本篇を後回しにしても、薄々分かりはするんですけどね。でも確信が持てないので一抹の不安感を以って読むことになるわけです)。
 さて、としますとこの連作集に対して、「第153教区物語」と副題を付けてもいいわけですよね。
 あ、でもしかし、「そう、彼がいまもひとり航行機で恒星間を漂っているからだ」(58p)となっているなあ。この4つの世界がそれぞれ播種された世界の可能性もあるのか。そうなると「宇宙播種計画」ですが。
 うーん。やっぱりこの4作品は同じ世界で、見え方が違うだけのように思うんですけれどねえ。土師部が運航する航行機の中に蔵されて、まだ射出されていない(土師部が時々巡回して保守する)一つの世界のお話のような……。
 これはもう一度読み直すべきかも。
 しかし何はともあれ、この連作集、個々には山尾悠子へのオマージュ等を含むように、一見幻想小説的な結構があって騙されるのですが、実は全体を通してみればこれ、まさに小松左京的な堂々たる本格SFなんですねえ。もっといえば、堂々たる《日本的》本格SFの傑作――と言って、少しも過言ではないと確信させられました。(もちろん幻想小説として読んでもいいのです)
 いやすばらしい連作集で、大いに楽しみました。
 とはいっても、上述のように全てが腹に嵌ったわけではなく、まだ私には謎の部分が残されています。次読むときは、さらに視界が開けて、もっと自由に妄想しながら読めそうです。が、それはまあ近い将来の楽しみにとっておくとしまして、まずは、酉島伝法『皆勤の徒』(創元日本SF叢書、13)の、第一回目の読み了りとします。

 酉島作品を読んでいたら、なぜか北野作品を読みたくなってきました。ということで、『夢見る旅を旅する夢』をダウンロード。次はこちらに着手します。

 追記。いま、前項で描写がくっきりしていると書いているのに、この項では謎が残っているとはどういうこっちゃねん、というクレームが来ました(^^;
 なるほど。言っていることは分かります。でもこういうことですねん。
 ダリ「燃えるキリン」のあの抽斗人間ですが、実に細密にくっきりと描かれていますよね。ではこの人物、一体何であるか、分かりますでしょうか? ――と、そういうことなんですねー(^^;


 

果しなき「百々似隊商」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月25日(月)01時40分5秒
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  > No.6318[元記事へ]

 「百々似隊商」を読みました。これは感動した!
 なんとこれ、「佐世子と野々村」ではありませんか(>おい)(^^;。
 ガチガチハードな「皆勤の徒」の作者だとばかり思っていたら、こんな浪曼派のプロットも書いちゃうんですねえ。そういえば「泥海の浮き城」の禄・南無絡繰のパートもそうでしたね。いやもう「果しなき……」と同じくらいあざとくてマイリマシタ(もちろん褒めています)。
「泥海の浮き城」も「百々似隊商」も、100頁前後の長さのある中篇です。長くなればなるほど小説世界が展開されて、著者の物語作家の資質が現れてくるのだろうと思われます。
 ハードなイメージ造形力だけでなく、このような物語造形力が二つながらに備わっているのが、この著者の魅力ではないでしょうか。それがあるからこそ、ある意味難解で単純にはイメージしにくいこれらの物語を読者に伝えることができているのですね
 それは一にかかって、著者の優れた映像的描写力の賜物です。どの描写も非常にくっきりしていて(ある意味どぎついくらい)、山水画のような烟った描写はまずありません。読む方に少し負担をかけ過ぎるくらいクリアーなんですね。読んで脳内に形成されたイメージに酔ってしまう読者もいるんじゃないでしょうか。
 でも前三作では、それは静止画のつらなりでしかなかった。ところが(一番長尺の)「百々似隊商」では、それが動画的に見え始めました。もはやアニメ(かCG実写)なんです。
 それを支えるのが映像的な視座の使い方で、たとえばうまいなーと思ったのが284p「陽の暖かさが薄れ、薄目を開ける。門の穹窿が真上を過ぎっていく」。怪我をした主人公が百々似の背中に乗せられて運ばれていく場面で、それまでも主人公視点ではあるのですが、実質的な視座は読者だったのが、この段落で完全に主人公視座に転換しているのです。なかなかこういう視点移動はできないものです。どうしても読者視点のまま描写してしまうのではないでしょうか。このような優れた描写のセンスが、本書の物語をいきいきと読者に伝えてくるんですね。
 さて、そうなってきますと、いつか書かれるのであろう長篇が、とても楽しみになってくるわけです。それとも、もう書いているのかな。著者の長篇が期待されるのであります。

 ということで、だいぶ著者の小説世界にも慣れたと思いますので、表題作に戻って再読したいと思います。

 

護摩の灰コーナーに強い味方!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月24日(日)16時20分14秒
返信・引用
   

 運転中、FMでこの曲がかかりまして、私は(意識して聴いたのは)たぶん初めてなんですが(どうもCM曲らしい)、サビの部分で、「あ、これ護摩の灰」と(笑)
 でも何の護摩の灰なのか、ちょっと思い浮かばなかったのでした。で、わざわざ曲名タイトルをメモして(好きやねえ)(^^;、さっき帰宅して、ユーチューブでまた聞いたのですが、やはり似ているという思いは強まりこそすれ、何に似ているのかが全然出てきません。
 そうだ、こういうときにはメロディ検索だ、と検索したらこういうのがありました。

 ためしてみた。
 おお、3曲ヒットしました!
 

 ああそうそう、私が思い出せなかったのは、これでした↑
 しかし下の二つは、こうして並べられると、なるほど、と納得しますが、個々に聴いたら、私の耳では気づかないかもしれませんねえ。
 メロディ検索ソフト、おそるべし(笑)。

 

 でも私はまだモヤモヤしてるんですよね。スピッツの曲になかったでしょうか。


 

「泥海の浮き城」と「遠近法」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月24日(日)02時54分18秒
返信・引用 編集済
  > No.6317[元記事へ]

「泥海の浮き城」を読みました。これ、最初の数ページにとんでもなく時間がかかりました。なかなか城の(というよりも裂溝の)設定がイメージできなかったのです。この部分、何回読み返したことか。しまいには紙と鉛筆で絵を描きながら確認し、なんとか理解できました。
 理解できてしまえば――なんだ、そういうことか(^^;
 なんのことはない、「遠近法」の円筒宇宙ではありませんか!
 いや、もちろん異なる要素のほうが多いのですが、「洞の街」を「夢の棲む街」に比定した目で見れば、本篇が「遠近法」であることは自明となるのです。
「遠近法」の筒抜け宇宙は、上下に無限でした。本篇の浮き城宇宙は、上下が定まっています。その階層も何十階もあるわけではなさそうです。あまつさえ底は大通りになっている。そういう意味ではぜんぜん違うのですが、絶壁が階層で区切られた居住空間となっており、垂直な空間(裂溝)を挟んで、対岸の絶壁にも、同じく階層区画がある、という構造は、まさに「円筒宇宙」と同じなのです。
 ただし「遠近法」の世界観が、いかにもオリエント的幾何学的であるのに対して、本篇の浮き城はまさにぐじゃぐじゃと繁茂するモンスーン的世界で、その意味ではこれほど対照的な小説世界もありません。しかしその対称的であること自体が、そのことにおいて本篇のオマージュとしての一面を、おのずと示しているように思ってしまうですね。まあ、壁の3つの点に人間の顔を見てしまうようなものかもしれませんが(^^;
 浮き城の構造がイメージ出来てしまえば、あとは比較的わかりやすいストーリーで、一気に読めてしまいました(特に後半)。
 というのも本篇、ハードボイルドなんです。禄・南無絡繰との出会いから死までなんて、これぞドラマというべき盛り上がりで、よかったです。甲貨として再会するところなんぞ、くーっとなります。
 ただ主人公が遡行して見るヴィジョンが、もひとつよく分からなかった。しかしそれもこちらに問題があって、終盤、ストーリー読みになってしまい(それも小説の力ではあるのですが)、すこし走ってしまったからからかもしれません。要再読。
 いやー「洞の街」におとらぬ面白小説で、堪能しました(^^)

 追記。書き忘れました。紋々土族は百々似から進化したのでは? 「被食者の時代が長かったからだろう」(142p)


 

「洞の街」と「夢の棲む街」の構造

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月22日(金)21時41分58秒
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  > No.6313[元記事へ]

 「夢の棲む街」にひき続いて、「洞の街」を再読しました。
 やはり共通項がけっこうあって、私の印象はそんなに的外れでもなかったことが判明(^^;
 もともとはバクっとした全体的なイメージとして、なんとなくそんな感じがするなあ、という程度で、個々の類似を指摘できるほどクリアーに「夢の棲む街」が浮かび上がってきたわけではありません。読み返してみて、おお、と自分でもびっくりしたのでした。

 まず、この2つの街は、ともに「漏斗状」なんですね。
「街は、浅い漏斗状をしている」(『夢の遠近法』8p)
「漏斗形をした洞街の全体は薄暗く翳っていたが」(79p)
 もちろん前者はモデルのない空想上の都市で、後者は月のクレーターの内側のようですから、その一致に実質的な意味はありません。
 だいたいこういう形状の幻想小説の都市は、いわゆる元型としての《物語素》の一形式に他ならないもので、たとえば「エーリッヒ・ツァンの音楽」(1921)もそうなんですが、《物語素》は前後関係・影響関係で説明できるものではないのです。

「エーリッヒ・ツァンの音楽」の実質的な*本邦初訳は1976年8月の創元文庫『ラヴクラフト全集2』ですから、SFM1976年7月号(1976年5月発売)に掲載された「夢の棲む街」が、当該短篇を参照しているはずがないのです(*実質的なと書いたのは宝石1955年11月号に訳出されているからですが、1955年生まれの著者がこの雑誌で読んだ可能性は絶無ではないですがまずあり得ないと思われます)。
 つまり独立的に想像されたのです。なのに似てくるから《物語素》なのです。

 ですから「洞の街」の洞街も、都市の形状だけならば、同様に偶然の一致(無意識の物語素の共有)というべきでしょう。
 しかし、それだけではないんですねー(^^)

 あと、思いつくままに挙げますが、前者に登場する奇妙で不気味な生物たち、作り出された生物「薔薇色の脚」、ほっておけばどんどん生殖で殖え、且つぐじゃぐじゃと互いに癒着してしまう「天使」、水から出されるや忽ち分解し干からびてしまう「人魚」などは、後者の「復命者」の多様な形態を想起させられます。
 いずれの世界も(形態的な意味で)「人間や人間でないもの」(43p)が雑居する世界といえます。

 そういう者たちの棲息する漏斗状世界に、間欠的に天から降り注ぐ物体(現象)があります。
 それは後者では「埜衾の天降り」であり、前者では「降り積もる羽根」とラストの「浮遊生物の落下」です。
 街の上空も同じで、前者の夜空は「プラネタリウムの偽の夜空のよう」で、「これらの星々や星座があくまでも宇宙に属するものではなくて、街を中心とした巨大な半球型の空の平面上に属するものだということは誰の目にも明白だった」(29p)
 に対しては、
「我々のいる月を中心に、地球や星々を映し出す天球が回転し、見せかけの地動説を作り出している」
 という天文学者頭椎の言葉が対応します。

 実際、最終のカタストロフ場面で、それはほぼ同じ局面(描写)をむかえます。
「漆黒の硝子天井の頂点から発した白い亀裂は」「見る見る広がって最後に大ドームの縁に達し」「硝子の砕ける破壊的な轟音が場内にとどろき渡り」(51p)。「そして後には、星の姿の欠落したひとかたまりの暗黒が、奥深い口を開けていた」(52p)

「騒乱の最中、天空に巨大な罅割れが生じたことに、襲撃者の誰ひとりとして気付かなかった」「罅割れが稲妻形に拡がり、気圧が急激に下がっていく」(130p)。「闇黒の中、土師部の頭上では、鮮やかに発光する空の一部が、天球の巨大な破片が、ゆっくりと回転しつつあった」

 それよりなにより、<夢喰い虫>のバクと、<百々似>の形態が、そっくりではありませんか(いやバクの形態はそんなにはっきりとは描かれていませんけど、だれだってそう感じると思います)(^^;

 両作品とも素晴らしい幻想小説の傑作であって、ケチを付ける気は毛頭ありませんが、「洞の街」は意図的に、その世界観に「夢の棲む街」のそれを(オマージュとして)こっそり忍ばせたとしか、私には考えられないんですよね。というか、あえてどうにもそう考えたい、というのがホンネのところです。実際どうなのかなんてどうでもいいのです。いやホンマ(笑)

 

恩師の傷嘆

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月22日(金)13時38分40秒
返信・引用
   元ツイート
       つまびらか宰相の恩師のブログはこちら→澤藤統一郎の憲法日記

 

オランダ坂は長崎と思い込んでいた神戸知らず

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月21日(木)19時17分14秒
返信・引用 編集済
   それは私です(>あかんやん)(汗)

 和田宜久さんより、待望の短篇(27枚)と掌篇(3枚)が届きました!
 まずは短篇から拝読。幼児の頃から、ある場所を通ると必ず起こる意識のショートカット。ふっと気がつけば、家。いつものように窓からポートタワーが見えている。でも街並みが違う。阪急ブレーブスはオリックスブルーウェーブに変わっている。主人公はショートカットの理由を知る……
 ああ、よいですねえ。丁寧にしっとりと描かれた力作――いや、この場合、佳品というのがふさわしいですね。
 掌篇の舞台は異人館。誰も住んでいない筈のうろこの家で、主人公は少女を見かける……。和田宜久というよりも、むしろ石清水和人らしい詩情あふれる幻想譚。これも好い!(追記。なぜうろこの家なのか、いま分かった)(ーー;
 和田さん、お疲れ様でした。

 ということで、既に届いている作品をご紹介しましょう。
  雫石鉄也、47枚(長田若松公園~甲子園)
  西 秋生、31枚(トアホテル~山手雑居地)
  深田 亨、35枚(旧居留地~三宮神社)
  岡本俊弥、27枚(1973年神大SF研)
  篁はるか、30枚(尼崎近松記念館)
  大熊宏俊、25枚(摩耶山~摩耶観光ホテル)
  和田宜久、27枚(上記)
  和田宜久、  3枚(上記)
    ――以上8本、合計225枚

 締め切りはいちおう5月末ですが、多少の遅れは問題ありません。まだまだ大丈夫です。力作をお待ちしてますよ(^^)

 さて、今日は山尾悠子「夢の棲む街」を読み返していました(いや傑作ですねえ。言うまでもないですが)。今夜は「洞の街」を読み返します。

 

2021年問題

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月21日(木)00時48分52秒
返信・引用
   いつもはユーチューブの、外人さんが作っているダイジェストで大相撲を観戦するんですが、今日は帰宅が間に合って、最後の数番は生で見られました。今日は残念でしたが、あと最低2勝2敗で10番勝っておきさえすれば、来場所10勝で33勝ですから、昇進がひと場所遅れるだけの話ですね。
 それよりも生中継を観ていてふと思ったのは、拓郎さんが定年の後は、次郎さんが立て呼び出しなんでしょうか。それはちょっとマズイんじゃありませんかね(^^;
 いや次郎さんのキャラは嫌いじゃないのですが、さすがに立て呼び出しはねえ。

 
 

「皆勤の徒」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月20日(水)22時39分2秒
返信・引用
   『皆勤の徒』は、表題作と「洞の街」を読みました。
 表題作は、あまりの高温多湿な文体に途中から目が上すべりしてしまいました。読了後再読します。
 一方「洞の街」は、これは(これもよく分からないながらも)とんでもない傑作!! これって「夢の棲む街」ではないでしょうか(汗)。いやホンマですって。私は読中、ずっと「夢の棲む街」が念頭から離れませんでした。ひょっとしてマジでオマージュなのかも。


 

Re: まぼろしの湾岸区

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月19日(火)23時44分21秒
返信・引用 編集済
  > No.6310[元記事へ]

 市井の映画見巧者ルシフこと村田耿介さんの「セッション」評
 これ、気になっているんですよねー。
 ところが、音楽系の人からは、ジャズじゃねえ、セッションでもねえ、という声も(^^;
 但し映画としては良く出来ているって言うんですが、なんかイヤ系みたいですよね。私、イヤミステリはあんまり肌に合わないのです。ラスト9分19秒がさかんに喧伝されているんだけど、最後にカタルシスはあるんでしょうか(^^;

 『皆勤の徒』に着手。うわっ!

 

「新・水滸伝」合本版(9)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月18日(月)22時31分30秒
返信・引用 編集済
  > No.6307[元記事へ]

吉川英治『新・水滸伝 全6巻合本版』( MUK production、15)読了。
 本書は電子本。底本は初刊本の講談社版全6巻(60~63)と思われますが、この電子本自体には書誌情報に相当するものが一切なく、キンドルのHPの記載やウィキペディアで確認しました。本書にかぎらず電子本は書誌情報が不十分です。電子本も書籍なんですから、紙の書籍なみのクレジットは必要だと思います。
 さて、本書は吉川英治の絶筆でありまして、未完。ただし108星が揃うところまでは書かれており(120回本で73回あたり)、水滸伝の原典には120回本、100回本、70回本の三種類あるんですが、したがって70回本とみなせば完結していると言えます。
 元々70回本がオリジナルだったのですが、人気が高くどんどん書き足されていったようです。
 しかし、書き足されたストーリーは、このあと宋朝に懐柔されて、というより宋江の方針で、官軍となって北狄の遼(契丹)と戦ったりするようで、不満を持つものも現れ内部から崩壊していくようです(すでに本書でも宋江の性格に、皇帝をアプリオリに無条件に崇敬する面が描かれています)。
 ですから痛快話を読みたかったら70回本でやめておくのが正解なんですね。私自身は瓦解していくさまにも興味があるんですけど(^^;

 しかしさすがに中国三大小説の名に恥じない面白小説で、大いに楽しみました。
 と同時に、私自身は、日本の面白小説とはやはり異なるところが大変興味深かった。
 それは日本人のように、危機に瀕しても頑張るような悲壮感はなく、こりゃかなわんと思ったら、三十六計逃げるに如かずと、尻に帆かけて逃げ出すことをまったく当然とするようなところ。
 それから、日本人的にはそれはないやろ、というようなだまし討ちも、まったく恥じるところがないこと。
 そんな風に、(近代の)日本人的な物の見方からしますと、合理的といいますかドライといいますか、ある意味「儒教精神」に欠けているんですね。いやほんとです。日本人の方がなんぼか儒教的なのです。(でもひょっとしたら日本人も江戸時代までは同じだったかも)
 ですから金で買収するのは当然で、それは何も疚しいことではないんですね。
 或いはこれは水滸伝の特徴であって、三国志演義や西遊記では又違うのかもしれません。しかし上記の心的傾向は、たしかに現代中国人の心性に深く根付いているような、そんな感じがしてなりません。
 これは貶しているのではなくて、良いとか悪いとかの価値観をはなれて「事実」として、認識論ではなく存在論としてそう感じたということです。実はアメリカ人もそういうところがあるんじゃないかな、と私は睨んでいるのです。イギリスやヨーロッパにはあまりなさそうな感じがします(もちろん私の偏見かもしれません)。ですから(他人ばかりの)広大な国土という条件が、(いたるところに顔見知りがいる)郷土的な儒教精神とは合わないのかもしれません。
 というようなことを、読みながら考えたりしたのでした。

 

まぼろしの湾岸区

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月18日(月)00時11分29秒
返信・引用
   あー面白かった。投票結果も出たことだし、安心して此花区のあの方の本を読むとしましょう。

 

Re: 不扱い

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月17日(日)21時53分13秒
返信・引用
  > No.6308[元記事へ]

 段野さん
「歴史人」という雑誌は、私も知りませんでした。取次の事情はわかりませんが、一般論として、いまどき「我が家の近くの本屋さん」に特殊な歴史雑誌を期待するのはもう無理だと思います【※】。
 ネット書店を利用しなはれ(^^)。
 今は1冊から無料で配達してくれますから、目的買いするんだったらネット書店が絶対便利です。
 カード決済とかの登録が気に入らないんだったら、コンビニ受け渡しで現金で買えます。もちろん送料なし。
 セブンネットなら、近所のセブン-イレブン(指定できる)で購入できます。これは便利です。勤務先の近くの7-11を指定することもできますし、発注時点で到着日が分かりますから、出張先の7-11を指定して受け取るという離れ業をやったこともあります(^^;。
 最近はアマゾンもこのサービスをしているようです。私は利用したことがありませんが、ローソンとファミマで指定できるようです。
 いずれにしろ、梅田の巨大書店以外のリアル書店に、過大な期待をすることはもはや無理だと思いますねえ。

【※】「我が家の近くの本屋さん」てのが、西宮球場跡地の書店を指しているのなら、利用したことがないのでなんとも言えませんが。

 
 

不扱い

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 5月17日(日)15時41分20秒
返信・引用
  唐突で申し訳ございません。
業界ではない皆様には、「なんのこっちゃ」の話ですが、あまりのことに、思わず、お知らせすべきかと思いました。
とある方に「歴史人」(ベストセラーズ)という雑誌を勧められました。私の記憶にはない雑誌でした。そこで、某取次のお客様サポートのページを開けました。やはり、そのページには「歴史人」の情報がありませんでした。次、版元のベストセラーズのホームページを見ました。「歴史人」の発行の情報がありました。
なんだこりゃ、と思い、別の某取次のページを見ました。すると、しっかりと、「歴史人」のデータがありました。
なんじゃい、「本の問屋さん」は、「歴史人」を〝不扱い〟にしていたのです。我が家の近くの本屋さんには、なかった訳です。それで、私の記憶になかった雑誌だったのです。
「オーマイゴッド」です。参りました。まさか、ベストセラーズの雑誌を不扱いにしていたとは、信じられなかったです。ベストセラーズの雑誌は、他にもあり、扱っていました。ですが、「歴史人」を不扱いにしていたとは思いもよらなかったのです。
まあ、本屋の話は、ご興味ひかないことだと思いますが、ちょっと記させて頂きました。
(書籍には〝不扱い〟がやたらとあります)
 

「新・水滸伝」合本版(8)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月17日(日)02時56分24秒
返信・引用 編集済
  > No.6304[元記事へ]

 下の投稿、どっちがパクリだとかいいたいわけではありません。作品数とストーリー数はイコールではない。作品は日々生まれて限りないですが、ストーリーは有限ということですね。

 『新・水滸伝全6巻合本版』は85パーセント。
 <剣と魔法>的展開は高廉の段だけだったようで、またふつうの展開に戻ってしまいました。しかしやはり変化はあって、これまでは百八星たち各人の、それぞれいかにして梁山泊の一員になりしか、という加入譚であったのが、陣容も整ったということでしょうか、その連中がまとまって「梁山泊軍」となっての戦闘譚になってきました。
 それに伴って、これまでの加入者は、槍にしろ鎖鎌にしろ剣にしろ、武芸に秀でた「戦士」ばかりだったわけですが、軍団としての活動が開始されたことで、一種の忍者(有り体に言えばドロボー)とか鍛冶師とかいった「技術者」――後方部隊の加入者が目立ってきました。
 こういう人も軍団には必要なわけですから、当然ですね。まあ百八星揃えようとすると戦士だけでは追いつかないから、というのもあるのではないでしょうか(^^;

 平谷美樹『水滸伝(2)』も、6月13日発売に決定したようです→2015年6月期文庫 新刊発売情報



 

護摩の灰コーナー

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月16日(土)21時23分35秒
返信・引用 編集済
   たまたまFMでウーマン・イン・ラヴが掛っていました。この曲、メロディは耳の記憶には残っていたのだけれどバーブラ・ストライサンドの曲だったとは今日まで知らなかった。で、聴いていて、なんか似てるな、と、ふと思い出したのが、シルエット・ロマンスなんですね。でももっと似ている曲があったはず。という感じが拭えません。サザンになかったでしょうかねえ。

 

 追記。「woman in love サザン」で検索したらすぐ見つかりました。案外有名な護摩の灰だったんですね(^^;
 サザンの元歌はyoutubeになかったので、初音ミクで代用。
     


 

眉村さん情報 「司政官の世界」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月16日(土)13時30分19秒
返信・引用
  こちら


 

「新・水滸伝」合本版(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月15日(金)21時34分38秒
返信・引用 編集済
  > No.6300[元記事へ]

 『新・水滸伝全6巻合本版』は80パーセント。
 先回、ちょっとマンネリ化してきた、みたいに書きましたが、ここに来てとつじょ大変化が。
 高俅一門の異端児、高廉の登場で、物語は一気に幻妖大戦の世界に突入するのです!!
 この高廉、黒紗の帽に黒絹の長袍(但し金帯)、歯も黒く鉄漿で染めて、大阿ノ剣と呼ぶ長剣を背に負ったいでたちは、将軍か公卿か、はたまた軍属の道教僧かという得体の知れぬ姿で、あまつさえ道教の方術――すなわち幻術を習得した妖人なのです。
 それが「飛天神兵」という私軍を率いて、梁山泊軍に、幻術で挑んできたのですからたまりません。さしもの梁山泊軍もキリキリ舞いで、コテンパンに打ち破られる。
 そこで宋江と呉用は、幻術に対抗するには幻術しかない、と、その頃梁山泊を離れて郷里に帰っていた道士、公孫勝を急遽呼び戻して、幻術合戦が始まった!!
 という新展開。ところがこの後はあっけなくて、道士の階級では高廉のほうが上位なので、本来高廉の術のほうが強力なのですが、公孫勝は師の羅真人から「五雷天罡」の秘法を授かっていた。
 高廉の繰り出す幻術はことごとく公孫勝によって打ち破られる。すわこそと高廉、黒雲になって上空に駆け上り、口から火を吹いて(パライヴかよ>おい)地上を焼き払うも、公孫勝が呼んだ沛然たる雨に打ち消され、豪雨は電光を孕み、霹靂一声、黒雲に雷が落ちた。すると雲から何かが落ちてき、それが高廉の死骸だったのです。
 いやー、再び面白くなってきました(^^;
 ところで、ふと思ったのですが、この高廉、ひょっとして『風の王国』の耶律突欲のモデルじゃないでしょうか(^^;


 

Re: 「池田龍夫 今昔展」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月14日(木)23時27分1秒
返信・引用
  > No.6302[元記事へ]

hirokd267さんへのお返事です。

 お久しぶりです。
>ご覧になったのはたぶん絵巻の下巻で、私は上巻を拝見し、展示替えの後期にもう一度観に行きたかったのに果たせませんでした
 ああそうでしたか。私は上巻を見たかったですね。もっと早くにhirokd267さんのツイートに気づいていたらと残念でなりません(ーー;
 私が見た下巻の左端は、壊れた(?)機械の部品がうず高く積み上げられている風で、すごい終末感が漂っていました。物質文明の行き着く果ての終焉が暗示されていると感じました。

>作者の与り知らぬところです
 逆に鑑賞の自由が保証されているわけで、ありがたいです。

 ツイッターの再開、待ってました!です。今後も安部公房情報、よろしくお願いします。

 

Re: 「池田龍夫 今昔展」

 投稿者:hirokd267  投稿日:2015年 5月14日(木)21時46分36秒
返信・引用
  > No.6291[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

こんにちは。ご無沙汰しています。
池田龍雄さんの個展を観られてのご感想など、楽しく拝見させていただきました。私も4月25、26日の2回行きまして、池田さんともいろいろお話しをさせていただきました。池田さんとは安部公房・「もぐら通信」を通してお世話になっておりました。

>  私が見て、最も印象に残ったのは、絵巻物 「天地之間其猶藁籥乎虚不屈」(1988)。これは素晴らしかったです。何の説明もなかったのですが、私が妄想力で解釈したところでは、宇宙開闢から人間の機械文明の破滅(宇宙の終焉)までを、右から左へ時系列に描いた壮大な作品です(ホントかどうかは知らん)(^^;
>  とてもよかった。もっと早くに知っていたら、再度訪れたかったです。

ご覧になったのはたぶん絵巻の下巻で、私は上巻を拝見し、展示替えの後期にもう一度観に行きたかったのに果たせませんでした。内容については、同じように観ました。宇宙開闢から生命誕生と発展、共同体・都市の生成くらいまでは描かれていたように思います。

とはいえ、作品、ことに池田さんのような抽象的な絵画は観る者にそのとらえ方は任されていますよね。「どのようにご覧になったか、気にはなりますが、それは作者の与り知らぬところです。」と池田さんからのおハガキにありました。

なお、私の感想はtwitterに書いております。(この個展を広報するために書き込みを再開しました。)
 

ラファティ「今月の彼女」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月14日(木)21時20分49秒
返信・引用 編集済
   らっぱ亭さんから、ラファティの未刊行短篇で、ご自身が翻訳された「今月の彼女」を、PDFで拝受しました。ありがとうございました。
 13枚程度の掌篇で、先日行われたSFセミナーの合宿企画で配布されたものとのこと。
 早速拝読しました。面白い(^^)
 主人公の年齢は分かりませんが、おそらく私の感じでは上限30代後半の若者。少なくとも熟年以前ですね。独身のひとり住まい。仕事に就いている風には見えません。高等遊民じゃないでしょうか。あるいは自宅でできる商業翻訳のアルバイトで食っているのかも。とにかく殆ど自宅から出ない生活のような気がします。
 趣味は知識を蓄えること!
 人と喋ることはほぼないのですが、喋り出したらウンチクが止まりません。大抵の人はそのウンチクにうんざりとしてしまうことは、本人も判っているみたい。人と合うのは基本苦手なんですが、一人暮らしですから、たまには人と会話したいという欲求が潜在的に強くあります。
 でも、自分では会話したいと思っていますが、実はウンチクを人に話したいだけなんですね。
 そういう性格の人ですから、知識の獲得のため、多種多様なクラブ(主にブッククラブ)に入会しています。ある意味クラブに入会するのが趣味といえるかも。
 で、あるとき、入会しているアダルトブッククラブから届いた本に挟み込まれていた広告をちゃんと読みもせず、いつもの調子でホイホイ入会届を送ってしまう。
 主人公は知りませんでしたが、彼が入会したのは「今月の彼女」クラブだったのです!
 それは何か。要するに一種のデリヘルだったんですね(^^;
 で、ある日ドアにノックの音がして、ジンジャーという名のとびきり素敵な女の子がやってきます。
 主人公は思いもかけない話し相手(!)の登場に大喜び。薄手の黒いシルクに着替えた彼女をみて、主人公は、シルク織の生産が紀元前312年エーゲ海のコス島で始まったことを手始めに、ウンチクの絨毯爆撃を開始するのでしたが……(笑)

 このお話、らっぱ亭さんも仰言ってますが、多分に自虐的なんですね。でも内向するとげとげしさはありません。そんな自分をおおらかに肯定しながら笑い飛ばしている。そういえば、そんなところは、ちょっと北杜夫のユーモア小説に通ずるものがありますね。だから読んでいてホッとさせられるんです。
 でもそんな読後感が持てたのには、「今月の彼女」がジンジャーだったことも大きい。「今月の彼女」がオーガストやノーベンバーじゃなく、ジンジャーで本当によかったよかった(^^)

 追記。あ、お読みになりたい方はらっぱ亭さん(ツイッターHP)にお願いすれば、PDFをいただけると思いますよ。ぜひぜひ(^^)

 

「新・水滸伝」合本版(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月13日(水)22時17分15秒
返信・引用 編集済
  > No.6272[元記事へ]

 『新・水滸伝全6巻合本版』は75パーセント。
 この辺まで読みますと、ストーリーの構造が透けて見えてくるわけでありまして、実際のところ4つか5つくらいしかストーリーはないと思います。
 酒で失敗して官位を失うとか、新妻が間男をつくりそれを斬り殺してしまうとか、そういうパターンが交代交代に出てきて話が続いていきます。構造は同じなんです。ただ作中人物の名前が替わっただけにすぎない。
 これはおそらく、「水滸伝」の成り立ちに関係があるんですね。
 そもそも原作者として記載される施耐庵というのは、厳密には編集者なんですね。
 原ストーリーというのがあって、ウィキペディアによれば「徽宗期の12世紀初めに宋江を首領とする三十六人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されている」そうで、それを元に講談師たちが、それぞれに勝手に尾ひれをつけて、各地を講釈して回ったんでしょうね。
 そんな寄席があったのか、各地を回りながら大道で講釈したのか。それはわからないのですが、とにかく中国王朝の官吏の乱れは宋にしろ明にしろ甚だしかったらしく、それに楯突いた物語は大人気を博し、講談師たちは同じ話を繰り返しているばかりではあきられるので、どんどん新しいエピソードを創作していった。それが36人が108名に増えた最大の理由でしょう。
 しかしストーリーはそんなに沢山はないんですよね。
 たとえば初期の山田正紀も、手持ちのストーリーは片手くらいしかなかったと思います。それを背景を変え、メインのアイデアを変えて、読者の興味を逸らさなかった。というか、私の山田正紀の読み方はストーリーが同じなのは織り込み済みで、そのアイデアを楽しんでいましたね。
 話がそれました。
 そういう次第で、講釈師たちもそんなに物語原型を持っているわけではないので、過去に読んだ(語った)物語の、登場人物の首をすげ替えただけの話を増やしていくことになるわけです。寄席で、一回聞きっぱなしの講談なら、それでいいわけです。
 施耐庵が行ったのは、それを集成して80回本とか120回本とか、印刷物(本)として読者に提供するものでした。(*「水滸伝」の成立は明初14C半ば。中国での活版印刷の開始は南宋13C)
 こうなると、読者は非常に短期間に通読することが可能になります。そうすると、あ、この話、前にもあったぞ。あ、これもそうだ、となっちゃうんですよね。
 本当は前の話を忘れた頃に、次の話を読むようにするほうがいいのですけどねえ。
* あ、念のため書きますが、吉川水滸伝は、たしかに江戸風な言葉遣いとかに独自性を出していますが、ストーリーはほぼ忠実に原典を踏襲しているのです。

 

「宰相A」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月12日(火)21時50分8秒
返信・引用 編集済
   田中慎弥『宰相A』(新潮社15)読了。

 スランプに陥った主人公の作家が、切羽詰まって、亡き母の墓参りでも小説にしようかと、30年ぶりに墓のあるO町を訪れる。O町の駅で電車から降りて、ふと周囲を見回した作家は、あたりにいるのがアングロサクソン系の白人ばかりで、しかも全員、緑色の制服を身にまとっていることに気づいて驚く。
 そこは、前の戦争で負けたあとアメリカ人が占領軍としてやってきたのは、主人公が出発してきた「元の日本」と同じながら、そこから後は違っていて、占領軍がそのまま「日本国政府」となり、アメリカ人もそのまま居ついて「日本国民」となった、一種のパラレルワールドだったのです。
 従来の日本人はどうなったのか。「旧日本人」として「居住区」に押し込められ、人権を制限されて暮らしているのでした。
 これ、最初読んだとき、荒唐無稽な設定やなあ、と一瞬思ったんですが、よく考えれば、新大陸にやって来た白人たちが、アメリカ原住民に対して行ったのと、全く同じなんですね。アメリカにすればごく当然の行動様式といってよい。
 ところでアメリカ・インディアンが、居留地に押し込められるに至るまでには、いわゆる「インディアン戦争」が200年以上にわたってつづき、アメリカ・インディアンは殆んど絶滅寸前まで人口を減らされます。ジェノサイドです。そして最終的に居留地に隔離「保護」されてしまうのでした。
 いっぽう、「こちらの日本」の状況はどうだったか。旧日本人の反抗というのは一切なかったようです。「きのうまでの敵を無抵抗に受け入れた」(62p)のです。
(※ややこしいので、作家が出発してきた元の日本を「元の日本」、作家が迷い込んだ白人が支配するこの世界を「こちらの日本」で記述を統一します)
 しかも、「こちらの日本」では、国民全員が「緑色の制服」を着用する義務があって(だから作家が降車駅で見た通行人は皆制服姿であったのです)、これが高価なもので、居住区の旧日本人にはちょっと手が出せない。それで居住区ではこの義務が大目に見られている。その結果、居住区の旧日本人は、みな「私服」で暮らしているのですが、それに就て彼らは、そんな毛唐の制服なんぞ着られるかい、みたいな態度をとっています。
 ところがそれが大違いで、実は本心では、「制服」を着たくて着たくてたまらないのです。
「私は初め、偽物の日本人として君臨する敵の象徴である制服を、兵士の代りに痛めつけているのだと思った。憎悪の現れだと思った」(だが人々は)「細かく引き裂きも、床に叩きつけもせず、見入っていた。腕は震え、目は生き生きと輝いていた」「本物の日本人を虐げてきた緑色の布地は、今やその被虐者の手の中で、触れば功徳がもたらせる神からの賜り物よろしく、崇め奉られていた」(145p)
 後述のJがこう言います。「見るがいい、赤や旭日に群がったこの国の若者たちを! 抵抗や反抗にさえ論理と秩序と旗印と、何よりも、一緒に行動してくれる誰かが必要なのだ!」「この国で最も重要なのは、我々、という意識であって決して、私、ではないのだ」(62p)
 「制服」とは、畢竟「我々」なんですね。しかも自分たちではない「誰か」に、「善導」される(主体性を預託した)者たちなんです。

 こうしてみると、このパラレルワールドニッポンは、実はパラレルワールドでもなんでもなく、作家の「元の日本」すなわち私たちが現に生きている「この日本」にまったく他ならないことに気づかされます(その意味では、イフの世界テーマというべきかもしれません)。
 私は本書に就いて、当初はタイトルに引きずられて、どこぞの総理大臣を揶揄するパロディなんじゃないかなと予想していたのですが、そうではなかった。たしかに「戦争主義的世界的平和主義」を掲げるところなど、そういう面もあるのですが、そっちに主眼はありません。そうではなくて、この現実世界の「日本人」の隠された本質を、SFの基本的な手法である「マジックミラー効果」で顕在化させることを、まず眼目とした、堂々たるSF小説なのでした。
 ただ、娯楽SFではないのですね。そこが一筋縄では行かないところで、むしろそこにこそ本書の面白み独自性のあるところで、主人公を反抗のシンボルに奉ろうとする旧日本人の思惑に対して、主人公は徹頭徹尾拒否します。見る人によれば、手前勝手と見えるかもしれません。しかしそれは作者の意図したところでしょう。「我々」を拒否する主人公が、「我々」のリーダーになってしまっては本末転倒です。いやいや、リーダーがいてこそ、「我々」が構成されるんです。「我々」となって主体性を預託して、はじめてその命令一下、「我々」の中に埋没して「反抗」もできるようになる。「だから、奇跡のJ様が御降臨遊ばすのを待っているしか能がないんだ。いつまで経ってもやってこない、だからいつまでだって待っていられる」(98p)
 しかも(作者ならぬ)この小説の主人公は、どうやらそれを「意図」して行動しているわけではない。ただ亡き母の面影と小説を書きたいという本源的衝動に突き動かされているのみです。それでこそ、本編の主人公にふさわしいと私には思われます(ラストの解釈に悩むのですが、これもまた、主人公の本質を再現したのかも)。
 ところで、本書のストーリーは、客観性を保証されていません。ある意味非常にテキトーで行き当たりばったりです。その辺はちょっとP・K・ディックを髣髴とさせられます。
 同時に、この世界の「現実(存在)性」も不確かです。たとえばそれは、
「それから墓地だ。あんなふざけた墓地はない。きのうと今日とで墓石の並びがまるで違っている(……)」
 という記述がよく示しています。この叙述は、「こちらの日本」が、実は一種の夢の世界である可能性を疑わせます。主人公が見ている夢なんでしょうか。
 あるいは、橋の真ん中で、主人公が強要された性行為に、一体いかなる合理的な説明が可能でしょう。だいたい圧倒的多数のはずの旧日本人の「居住地」って、どういう風に存在しているんでしょう。極めつけは後日譚で、暴動*鎮圧後「旧日本人という呼称を捨てさせ、正式な日本人として受け入れ、N・Pを支給することとした」(198p)――って、それじゃあ何のためにこれまで隔離政策を取っていたのか、まったく意味不明ではありませんか。(* この暴動も、非常に皮肉で、主人公は拒否するも、状況が敵をして主人公をリーダーとみなさせてしまい、その事実性によって暴動は(だれもその責任を取らず)起こってしまったんですね。いつか見た光景ですよねえ)
 なによりも、主人公と瓜二つな顔かたちで、かつて「たったひとりの反乱」(我々ではなく)を試み、「元の日本」の事情もなぜか知っており、主人公の出現をハリ・セルダンみたいに予言したJとは、結局何者だったのか不明のままです。これらの非合理性、因果関係の混乱から帰結される存在の不確かさは、何を意味しているんでしょうか。
 私は先に「一種の夢の世界である」と書きましたが、それはどうやら「主人公」が単に「夢みている世界」ではなさそうです。ファーマーの階層宇宙の創造者のように、この奇妙に歪んだ日本を創造した「者」がいるのです。その「者」とは、まあ言うまでもありませんが、この世界を創造して日本人を放り込み、冷徹に観察した記録が、本書であるといえるのではないでしょうか。
 いや面白かった。今年のベスト5におそらく残るでしょう、傑作SFでした。

 

「宰相A」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月12日(火)01時37分18秒
返信・引用
   例の、田中慎弥『宰相A』を、昨日から読んでいます。最初の、母親の回想(?)のパートは、まだ全体の設定(意図)が理解できてなくて乗れなかったが、まるでセルダン危機みたいな(^^;、Jのパートあたりから、どんどん面白くなってきました。あと20頁。

 

神戸特集号四方山話

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月10日(日)17時50分5秒
返信・引用 編集済
   

 ちょっと、遊びで作ってみました。
 神戸特集号は、ショートショート・マガジンの「別冊」(あるいは別巻?)扱いにしようかと、今のところ、考えているのです。(というか、今日思いついた)
 で、それなら判型も変えてみようかなと。(*決定ではありません。従来のままでよい、とか、ご意見をいただけたら幸甚です)
 2段組にするか、1段組で行くかは、原稿の集まり次第です。
 いずれにしても、もう少し大きめのフォントで、誌面もゆったり取りたいと思います。
 従来のは、オリジナルを踏襲したので、それとマックス80頁だったので、キチキチ詰め込みすぎなんですよね。
 タイトルと作家名で、1頁使うつもり。
 ご覧のように、新書よりもスリムな、ハヤカワSFシリーズのタテ・ヨコでいきます。
 デザインは暫定です。
 表紙の色目はパソコンで出したもの。夕焼けっぽいのがいいかな、と思ったんですが、うーん。
 むしろ淡い空色か、薄緑のほうがよいかも。
 本当は、『海洋未来物語』『夢都傳説』と同じようにできればいいのですが、これがもう、プリンタのインクの減り方がハンパではなく、たった数冊作っただけで使い切ってしまいました。ちょっとムリですね。
 表紙タイトルも含めて、アイデアがありましたら、ぜひ。

 あ、写真は野村恒彦さんの本から無断拝借。もちろん使うと決まったら許可をお願いします(^^;


 

おお、懐かしい!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 9日(土)13時53分34秒
返信・引用 編集済
  「チャチャ・ヤング=ショート・ショート №1」の表紙画像が、オロモルフ先生の掲示板《日本の伝統文化を大切にしよう》に掲載されています!
 → オロモルフ号の航宙日誌6967『世相家事雑感』  

 

ビート・オン・プラザ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 9日(土)13時37分41秒
返信・引用
   おお、懐かしい!

 
 
 

Re: 「寄生獣」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 8日(金)21時45分3秒
返信・引用 編集済
  > No.6285[元記事へ]

 承前。結局あの日、漫画版『寄生獣』第2巻を購入してしまいました。
 ただしフルカラー版ではなく、オリジナル版で。
 フルカラー版第1巻を無料サービスしてもらったグーグルプレイで、第2巻を買うつもりで(まあ仁義を切って)サイトを見ていたら、フルカラー版とオリジナル版の両方販売されていることが分かりました。
 フルカラー版が864円に対して、オリジナル版が540円。
 別にフルカラーでなくてもいいので、オリジナル版にした。
 でも、まてよ。他のストアだったらいくらだろう。
 この前調査したとき、一番安かったイーブックを覗いてみたところ、フルカラー版が800円で、オリジナル版が500円でした。
 こんなに差があっては仁義を切っていられません(汗)。グーグルプレイには悪いが、イーブックで購入しちゃいました。
 で、一気に読み終わり、次は第3巻――となって、
 まてよ。
 その頃には既にネットで色々調べていて、テレビアニメ版が、漫画版のストーリーをほぼ踏襲していることがわかっていたのですが、ふと、アニメならユーチューブにアップされているんじゃないかな。
 ありました。でもユーチューブは全24話中、5話まで無料で、あとは会員登録しなければ視聴できない(つまり有料)ようになっていた。
 動画投稿サイトはユーチューブ以外にもあります。で、検索したら、案の定、全部視聴できる動画サイトが見つかりました。
 ということで、第3巻相当部分から以降は、アニメで視聴したのでした。

 以上、前置き、以下本論。

 大変面白くて、さすが皆さんが読んだり視聴したりしているはずだな、と大満足の内容でした。
 しかし唯1点、アニメ版に不満を感じるところがあった。
 アニメ版は、主人公の性格がかなり変えられていたのです。
 オリジナルのコミックでは、主人公は、少年漫画の王道主人公で、いわゆるヤンチャタイプであった。
 ところがアニメ版では、なんというか内向的な、いわゆる草食男子になっていたのです。
 これは非常に違和感がありました。
 原作版が1990年代、アニメ版はついこのあいだ、2014~15にかけて放映されたものなので、キャラは同時代に合わせたということなんでしょう。【註】
 つまりいまの若者は、このようなタイプでないと、感情移入できないのかも。おそらくセルフイメージ(自分自身についてのイメージ)が、あまり目立たず、引っ込み思案で、悪く言えばオドオドしている。そのかわり優しい、そんな感じになっている(そういうのを良しとする)のでしょう。
 これはガールフレンドの女の子にもいえて、私的にはイライラさせられっぱなしだった。この女生徒のうじうじとした依存的な性格は、考えて見れば、むしろ古いタイプなんですね(こういう性格が好まれた)。
 それで気がついたのですが、この草食男子キャラも、ある意味古いタイプなんです。我々の前世代(60年代)の理想的イメージは、俺は男だ(森田健作)的な一種バンカラではあるのですが、それは当時の、実際の一般的な社会的性格の裏返しで、当時は規則を順守するようなキャラが鋳型であった。だからその逆イメージが求められた。
 我々の同時代(70年代~80年代)は、この鋳型キャラの強制力が緩んだ時代であったのですが、どうやら近年はふたたび鋳型キャラが復権してきたのかも。
 でもそれなら、現在こそバンカライメージが求められてしかるべきです。そこが60年代と現代の相違点で、今の子は自分のセルフイメージと比べて、あまりにもかけ離れたキャラは、忌避してしまう。そこが60年代の心性とは対照的なベクトルですね。

 と、述べてきた比較論は、ただし漫画版を2巻読んだ限りでの推測なので、ちょっと足元が弱い。そのうち漫画版も全巻読んでみたいです。

【註】しかしこれはまあ、アニメ版の仕掛けでもありまして、肉体的に超人化していく過程で、心の方もどんどん強く「成長」していくんですね。それをあざとく表現したという面もあると思います

 

「ぜぴゅろす」11号読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 8日(金)01時16分2秒
返信・引用 編集済
   先般風立つ高原の文芸誌ぜぴゅろす』2015年・春/第11号(清里の森・自在舎「ぜぴゅろす」発行)を、主宰の桜井節さんより頂戴したことはご報告しましたが、ようやく読了しました。
 今号の特集は「《いま》思いめぐらすこと」。
 このテーマですと、ある年齢以上では、どうしても、そろそろ既定の事実として目前に迫ってきた「終り」を念頭に置いた「いま」について考えてしまいます。私ももうすぐ(と言うか今月末で)還暦ですから、私にとっての「今」は、やはり「終」を含んだものになってしまいますね。
 本誌の寄稿者はもう少し年齢が高くて、70代、80代の方が主体のようです。ですから本誌中の「それぞれの今」には、それがより切実に現れていて、共感することも多く、引きこまれて読みました。

 杉山平一「いま」は、巻頭詩。
「おくれて/行列のうしろに立ったのに/ふと気がつくと/後ろにもう行列が続いている」
 この感覚は、私も実感としてあります。私の世代では、「今」はやはり「定年」です。40代になった頃は、まだ前をたくさんの先輩が走っていましたが、いつの間にか皆いなくなってしまって、ふと気づけば、今や自分自身が先頭なんですよねえ。

 甘糟幸子「「今」がきた」
 大病を患い退院して、「殊勝」にも身辺整理をはじめる。小二のとき隣の席だった韓国人の男の子を思い出す。その子が失敗したとき聞こえた言葉「ザマーミロ、チョウセン」
 次の言葉、「あと50年、いや40年もすれば、日本はまた再軍備といい出しますよ。国民も、平和にも飽きるんです」「日本人は附和雷同の民なんです。目新しいことをいいたい。お先棒かつぎの言論人が愛国とか国防とかいいだす。時流はいっ気にそちらへ傾くなあ。そしたら、もう止めようがない」は、著者が疎開先で、復員してきた義足の教師からじかに聞いたもの。
 筆者の目に、「今、目に見えているのは」……

 藤田博「ロートレック 都市よ 駅よ」は、詩。
 これは好き。カッコイイ。ちょっと大上段なところは《捩子》時代の眉村さんの詩を思い出しました(笑)。

 久保島保「動いていく今を・小説」
 筆者は「今をとどめる」だけの<詩>では不満になり、「動いていく今」を追いかける<小説>を書き始める。
 「かくして私の小説は、いつになっても、「完」にならない」という言葉は、まさに小説の本質ですね。
 筆者が中学教師のとき受け持った女生徒のエピソードがよい。これこそ小説。女生徒は解釈されず内面は「不可知」のままです。筆者は女生徒の「動いていく今」をただ追いかけるのみ。それが読者に想像の余地を与えるのです。

 田口幸子「<今>思いめぐらすこと」は、詩。
 「誕生日の朝/目覚めると/満八十歳になっていた/何だか嬉しかった」
 なぜか、「三十代の熱い気持ちが甦って来た」
 「時の宰相の目指す道が/日本の国の危険だからか/何か恐ろしいことが起こりそう」
 今こそ「老体にムチ打って/声を上げなければならない時が来た/空威張りかも知れないが/今からでも遅くないと」
 この詩の基礎にも、「終」があるんじゃないでしょうか。

 桜井節「気になる今」は、詩。
 「ところがどうだ/戦後七十年/曲がりなりにも平和がつづいたが/武器をもたない思想を深めようとしなくなって/いつかみたいに勇ましいことに引きずられ/あやういあやうい」

 舟山逸子「《いま》思いめぐらすこと」
 矢のように飛び去る《いま》を、人は生きる。「私も膨大な《いま》を重ねてきた」。「足早に去っていった」親友Mとのいくつかの《今》が、スポットライトに浮かび上がる。「Mの《いま》は、永久に静かに立っている」

 木津川計「挽歌を聴きながら」
 80代に入る筆者は「どんな死に方を僕はするのか、それを考えることが多くなった」
 「余命」をではなくて「どんな死に方を」なのです。
 「有難い機会をいただいた。この一文が僕の終末に立ち会う医師や看護師へのお願いである」。皆、そう思っているんじゃないでしょうか。

 色川大吉「近ごろ思うこと……戦後七〇年に」は、まさに風のように生きた著者の「戦後」が概観されます。

 以上、気に入った言葉、気になった言葉を写しました。シャカリキになって走っているつもりはありませんが、「一歩退いた」感覚を確保でき、よい読書体験でした。


 

神戸特集号

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 7日(木)00時33分48秒
返信・引用 編集済
   岡本俊弥さんから玉稿(25枚)拝受。ありがとうございました。
 おお、静謐のニューウェーブ!
 1973年(SFファンには特別な年)に起きた未曾有の災害と、学生SFファンの懐かしい生態(ちょっぴり私SF)。少しだけ振動数の異なるふたつの音叉を鳴らしたように、ふたつの事態が奇妙なうなりを生じさせます。
 これは傑作ですよ(^^)
 

「池田龍夫 今昔展」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 6日(水)22時45分5秒
返信・引用 編集済
   今日が最終日だった「池田龍夫今昔展」に、ジャズ住職と行ってきました。
 場所は堂島大橋北詰の莫大小(メリヤス)会館一階のLADS GALLERY
 
 

 古風な建物で、 昭和4年(1929)の建築らしい(こちら参照)。当然私が住んでいた頃からありましたが、メリヤス会館という名前は今日はじめて知りました(汗)。

 さて、池田龍夫さんは1928年生まれの今年87歳。大学生の頃、岡本太郎、花田清輝、安部公房らのアヴァンギャルド芸術運動に参加し、とりわけ安部公房の知遇を得た前衛画家です(ギャラリーに詰めておられたお姉さんにいろいろ教えてもらいました)。本の装丁もされていて、島尾敏雄等主に幻想小説家の作品を手がけておられたようです。
 ルーチョ・チェーヴァの『テスケレ』の装画が池田龍夫さんだったんですね。今日はじめて知りました。
 展示作品は、最近の作品(2000年以降)が殆どだったんですが、それを見た限りの印象では、「髪の毛と目玉」(>おい)(^^;。画集を見せていただいたら、昔の作品はそうとばかりは言えないので、最近の傾向でしょうか。
 私が見て、最も印象に残ったのは、絵巻物 「天地之間其猶藁籥乎虚不屈」(1988)。これは素晴らしかったです。何の説明もなかったのですが、私が妄想力で解釈したところでは、宇宙開闢から人間の機械文明の破滅(宇宙の終焉)までを、右から左へ時系列に描いた壮大な作品です(ホントかどうかは知らん)(^^;
 とてもよかった。もっと早くに知っていたら、再度訪れたかったです。

 ということで、名残惜しくギャラリーを後にしました。
 梅田に戻って、ジャズ住職と久々一年ぶりに、定員二名内容非公開の「SF検討会」を開催。安部公房作品論、近年の創元出身新人作家の活躍、タブレットの効用など。あ、拙作を(特に仏教関係)査読してもらいました(^^;
 今年の連休は、なんやかやと慌ただしく、やりかけたことも全て中途半端に終ってしまい、明日から気が重いのですが、最終日、ようやく充実した一日となりました。明日は仕事か(ーー;


 

Re: 「寄生獣」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 5日(火)21時10分25秒
返信・引用
  > No.6289[元記事へ]

和田さん

>「寄生獣」は我が家には全巻そろっております。
 そうなんですか。皆さん読んではるんですね。私が知らなかっただけで、有名な作品だったのですね。

>というか、もう十年以上前からですよ。
 テイストが80年代ぽいですよね。というか、調べたら89年連載開始なんですよね。
 だから私にも合うのだと思います。

>わが作品で唯一神戸が舞台のあの(どの?)作品を元に書こうと
 おお、それは楽しみー!
 あまり具体的な設定を用いない和田さんが、一体どんな作品を書いてくれるのか、興味津々です(^^)
 締め切りは気にしなくて結構ですからね。
 まあ和田さんのことですから、軌道に乗り始めたらあっという間なんじゃないですか(笑)
 よろしくお願いします。

 

Re: 「寄生獣」

 投稿者:和田宜久  投稿日:2015年 5月 5日(火)17時38分34秒
返信・引用
  > No.6288[元記事へ]

「寄生獣」は我が家には全巻そろっております。
というか、もう十年以上前からですよ。
そろそろどういうお話かを忘れかけていました。

ところでショートショートマガジンの作品ですが、神戸特集と言うことで、
わが作品で唯一神戸が舞台のあの(どの?)作品を元に書こうと決めていたんですが、
最近なんだか小説を書くのが億劫なんですよね。
投稿もご無沙汰。
ブログ更新もめんどくさい。
ツイッター小説だけはぼちぼち、と言う感じです。

でもまあ、今日からなんとか書きはじめました。
文章の細かい言い回しとか、描写とかをいじくるのは結構好きな時間だったのですが、
それがめんどくさいんですよね。
だんだん調子が出てくればいいのですけど。
 

Re: 「寄生獣」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 5日(火)12時57分41秒
返信・引用
  > No.6287[元記事へ]

雫石さん
 リンクの読書ノート読ませていただきました。
 これは、過不足ない優れた書評ですね(>そっちかよ)(^^;。感心しました。
 いやいや、つづきも読みたくなってきましたです。
 図書館にないかな、と近所の図書館を検索してみましたが、ありませんねえ。手塚治虫は揃っているんですけどね。

 

Re: 「寄生獣」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2015年 5月 5日(火)08時54分54秒
返信・引用
  > No.6285[元記事へ]

「寄生獣」の原作の漫画、傑作ですよ。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/764df4b4eee3f8015138369d01eecd2c
お勧めです。ドロ沼にはまる価値はあります。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

「梅川」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 5日(火)01時38分3秒
返信・引用 編集済
  段野さん
 青空文庫に「冥途の飛脚」はなかったので、ウィキペディアのあらすじを読み、大体のストーリーを知った上で着手しました。
 うむ。なかなかよかったです(^^)。雰囲気はよく出ていますねえ。こういう雰囲気の出し方は、篁作品の特徴になりつつあるかも。篁さん独特のぐちゃっとした文体がうまく合ってるんですよね(>おい)(^^ゞ
 ところで、原文を読んでないのでアレですが、ふと気になったことがあって、それは地の文はどれだけ原文離れできているのかな、ということ。原文をそのまま現代語訳したんじゃないのかな、と感じさせられる部分がありました。雰囲気を出すためだろうとは思いましたが。
 したがってそれが全部悪いわけではなく、有名な言い回しや印象的な言い回しは使ってオッケーと思います。
 ただやり過ぎると、ストーリーに新解釈があるわけではないので、だったら現代訳を読めばいいじゃん、といわれてしまう可能性がありますね。どこまで許されるか微妙な話ですが。
 でも充分面白かったです。最近絶好調ですね(^^)
 急ぎませんので、テキスト文書をメールで送って下さい。OCRにかけてテクスト化もできますが、私のOCRはどうもタテ書きが苦手みたいなので。ワードでも一太郎でもメモ帳(txt)でも構いませんから(横書きでも可)、テキストデータを送っていただけると助かります。よろしくお願いします。

 

「寄生獣」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 4日(月)22時53分17秒
返信・引用 編集済
   最近、ラジオの映画評で「寄生獣」というタイトルを耳にしたのですが、知識がゼロなので、夢枕獏か菊地秀行の映画化なのかな、と見当外れなことを思っていたら、高井さんのブログでも取り上げられていました。それで興味が出て調べたところ、もともとはコミックで、近年、実写映画化されたことを知りました。
 へー、と思っていたら、Google playというグーグルの電子ストアからDMが来て、コミックの『寄生獣フルカラー版』第1巻を無料で配信してくれるとのこと。ふだんはそういうのは無視するのですが、それじゃまあ、ためしにとダウンロードしてみました→ここ
 早速読み始め、1時間位で読了したのですが、だんだん面白くなってきたところで、続きは第2巻で、となった。
 うーむ(汗)。どうすべか。面白い作品であることはよく分かったんですが、コミックにまで手を伸ばすのはねえ。なんか泥沼にハマりそうで(^^;

 

Re: 風の翼大宴会

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 4日(月)14時28分43秒
返信・引用 編集済
  > No.6283[元記事へ]

 昨日は、GW吉例風の翼大宴会でした。久しぶりで(正月以来)気のおけない方たちとの楽しいひと時でした。
 話題は当然、5月末締め切りの神戸特集号のあれやこれや。
 まずは篁さんより、玉稿(31枚)を落掌しました。ありがとうございます。末尾に9376字(23.5枚)と記しておられますが、これは改行や空白を含んでおらず、実際に400字詰めに直したら、31枚くらいだと思います。
 ざっと目を通しただけなので(というのは、私は「冥途の飛脚」のタイトルくらいは知識として知っていましたが、物語は読んだことも観劇したこともなく、とりあえず先に原典を読まなければいかんな、熟読は先送りしたわけです)見落としがあるのかもですが、内容は、浄瑠璃の「冥途の飛脚」の世界に語り手がタイムスリップ(?)して見聞するというお話でしょうか。見聞するだけで、ストーリーには関わらないのかな。とにかく原典を読んでから、しっかり読みなおしてみることにします。
 何はともあれ、これで雫石さん47枚、西さん31枚、深田さん35枚、篁さん31枚、私23枚25枚、現時点で合計ほぼ170枚。
 あ、昨日は柊さんから執筆の確約をいただきました(^^)
 これまでは240枚が限界でしたが、設備投資しましたので、300枚まで大丈夫です(多分320~30枚まで)。まだまだ十分に余裕があります。締め切りは今月末ですが、目安にすぎません。多少遅れても構いませんので、みなさまふるってご参加下さい!
 そういえば、柳生さんはなぜ書かないのか、との声があったことを思い出した。柳生さんもよろしくね。ジャンルは問いません。詩でも俳句でも川柳でもオッケーです。エッセーも可。編集担当者としては、むしろいろんな形式の作品を載せたいという野心があります。よろしくお願いします。
 というか、ショートショート作品がまだ一本も届いていないじゃないですか。これは問題ですなー(^^;

 午前0時前に帰着。梅田は意外に空いていました。連休でバラけたのかな。

 

風の翼大宴会

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 3日(日)15時04分22秒
返信・引用
   原稿を仕上げていたら遅くなった。とりあえず脱稿しました。
 いまから出発します。
 

眉村さん情報:産経新聞に連載エッセイ開始

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 5月 2日(土)17時02分59秒
返信・引用 編集済
   4月30日産経新聞の夕刊に、眉村さんの連載エッセイが開始されました。
 タイトルは「少国民の時代■70年目の記憶」
 第一回の今回は「戦時下の級長」――学級代表の重責 選ばれし統率者――
 次回からは毎月第4木曜日に掲載。
 どうも、かなりシリアスな内容になりそうですね。
 楽しみ!

 

 



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