ヘリコニア過去ログ1507


アニメ「時空の旅人」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月30日(木)23時01分8秒
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   アニメ「時空の旅人」(1986)を観ました。
 おお、これは傑作! はじめて観ましたが、眉村さん原作の映像化アニメ化作品は数々あれど、本編はその最高傑作といっていいのではないでしょうか。眉村さんの意図が、全く歪められずに映像アニメとして表現されていると思いました。
 未来のある時点で、世界同時多発的に主要都市に核爆弾が落とされ、地球人口は4分の1に減少する。残された人類は新たに文明を築きあげるが、それは一種ロボトミー文明で、過去は否定され隠され、ものごとに疑問を持ったりするような、すこしでも平準からはずれる個性は精神改造で「牙を抜かれ」てしまう。みんな「幸福」ですが、退屈なユートピアなのです。
 主人公の少年は精神改造を怖れてタイムマシンを盗み、過去へ逃げる。その過程で、1980年代の中学生の男女と先生を巻き添えにしてしまい、コントロールの効かないタイムマシンの導くままに、東京大空襲を体験し、幕末の尊王佐幕の争いを目の当たりにし、関が原の合戦のさなかに不時着します。
 そこでは、歴史を変えようとして家康を暗殺しようとしていた未来人の陰謀が、時間局員によって阻まれていました。少年たちも脱出しますが、タイムマシン(化された20世紀の車)も限界で、ついに墜落。そこは信長の安土城の城内でした。ところが新しもの好きの信長に気に入られてしまい、客として逗留することになる。
 いまがいつなのかを聞いて、先生は絶句します。その日はなんと、本能寺の変の5日前だったのでした!?

 歴史を変えようとしていた未来人で、自身も時間局員であるクタジマ・トシトは、核戦争で破滅する未来へ至る歴史なのに、それを何の疑問も持たずに守っているタイムパトロールに疑問を感じていたのです。世界が破滅することになる歴史を、なぜ守らなければいけないのか。
 さて、日本の歴史上、ただ一人だけ、「まつろわぬ者」が時代の真ん中に居座ったことがありました。言うまでもなく信長です。クタジマは言う。信長を本能寺で死なせず生きながらえさせたら、核最終戦争に至らぬ歴史が始まるかもしれない、と。
 その意図は成功し、歴史は変更されるのでしょうか!?
 いやー面白かった。
 ところで、クタジマ、ってなんか聞き覚えのある音ですよね。あ、タクジマ(ユムラ)のアナグラムか(^^ゞ

 

村田和美版「ねらわれた学園」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月30日(木)00時05分55秒
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   また暑くなってきて、昼間外出していると目が回りそうになります。帰宅してもぐったりして一時間ほど仮眠してしまいます。これが気持ちよくて、昨日など、仮眠から覚めたときしばらく朝目覚めたと勘違いしていました。ぐっすり眠ったんでしょうね。しかしそのお陰で夜はなかなか眠くなりません。
 今日は何故か目がショボショボするな、と思って、ああそうだったと思いだしました。
 昨日、テレビドラマ版「ねらわれた学園」全9話(97、村田和美主演)を夜更かししてイッキ見してしまったのでした。
 このドラマを見るのは全くはじめて。面白かった(まあ面白かったから、イッキ見できたわけです)。
 ただしオリジナルストーリーとは完全に別物です。いちおう17年前(1980)に京極が起こした事件が遠因という設定ですが、塾が出てくるわけでもなくタイトルと作中人物の名前を借用しただけ。
 なまじオリジナルのストーリーを踏襲しなかったのが逆によかったように思いました。高校生の生態も、原作に比べてリアルで、白のルーズソックスが強調されていましたが、あれが流行していた頃だったんでしょうね。
 ただ、途中から撮影のアングル(?)がホラー映画になってしまい、だんだんリアリティがなくなっていきます(校舎もゴーストハウス化する)。面白かったんですけど、そのへんは、わたし的にはやや残念でした。必然性は全然ないです。視聴率的にはこういう視覚サービスも必要なんでしょうね。

 

Re: 「宇宙人は本当にいるのか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月29日(水)22時20分0秒
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  > No.6438[元記事へ]

 わ、橋元淳一郎さま、お久しぶりです。
『不思議の星のサイエンス』シリーズ、楽しく勉強させてもらっています。
>出来るだけ易しく書くということを心掛けています
 ありがとうございます。私にはちょうどよいレベルです。
 ところで私の感想は、ときに妄想化しますが、広い心で、どうぞご寛恕願います(>おい)(^^;
 全6巻ということで、続巻も楽しみにしております!

 

「タイムマシンは実現可能か」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月29日(水)22時13分41秒
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   橋元淳一郎『タイムマシンは実現可能か 不思議の星のサイエインス(第3巻)』(キンドル版、15)読了。

 タイトル作の第9話は、未来へ行けることは相対性理論が保証しているが、過去へは行けないというのが通説だった。ところがワームホール理論が出てきて可能かもしれないという人も現れた。著者は、仮に可能だとしてもそれは物質レベルであって、人間(及び生命)は不可能との立場。
 なぜなら生きるとは<崩壊していく秩序>(エントロピー?)に逆らうことを原動力(契機?)とするものだから、逆エントロピーの方向へは逆らう必要がなくなるので、生きるということ自体が無意味化してしまうから、とします。
 これもナルホド(この生きる意志は人間だけのものではなく、動物にも植物も、原生動物も、負のエントロピー系のすべてに根源的に備わっている契機だということを、橋元さんは別の著書で書いておられます)。
 ここで疑問。タイムマシンSFでは、過去に戻ってもタイムトラベラー自体は正の時間内存在であるとするのが一般的ですが、だとしたら(体内系と体外系を完全にシャットアウトできれば)、過去へ戻ることは可能とならないのでしょうか?

 第11話「音楽はなぜ生まれたのか」は本エッセイ集中の白眉。「社会集団を作って生きる霊長類にとって、もっとも重要な能力は(……)仲間うちのコミュニケーションをうまくはかる能力である。そのためには相手の感情を読むということがきわめて重要となる。人間関係を円滑に運ぶものは理屈ではなく感情である」
 そして、言語が開発されるまでは感情が支配する世界だった。その世界では「ハミング」が不可欠な能力だった。この「ハミング」が、やがて言語と音楽に分かれ、言語が音楽を凌駕していった、とします。
 このアイデアは面白い。意表を突かれました。
 で、ネアンデルタール人は言語を発達させなかった代わりに「ハミング」能力を洗練させていったのではないかというミズンの説を紹介します(『歌うネアンデルタール』)
 ナルホド。わたし自身は、ネアンデルタール人のイメージとして、職人世界によくあるような、無口でユーモアをあまり解さないが実直という、赤澤威さんあたりから受容したイメージで理解していました。正反対ですね。面白いです。
 いずれにしても、ツイッターを閲覧するにつけても、ガチガチの言語派ばかりで辟易とすることが多い今日このごろ、音楽の復権は大賛成です(^^;

 第12話「宇宙はどれくらい未知なのか」。いま私が一番好奇心をそそられているのがダークマター、ダークエネルギーです。それらが宇宙の彼方に存在しているのではなく、いま私が座っている部屋にも充満しているんですよね。これぞセンス・オブ・ワンダーです。私はダークマターはこの宇宙に重なって存在している並行宇宙の量なのではないかと、妄想しているのですが、もしそうなら、(無限に存在すると考えていた)平行世界は全部で24世界で打ち切りなのかも(^^; この24倍という数字は何なんでしょう。面白いです(^^)

 

Re: 「宇宙人は本当にいるのか」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年 7月29日(水)21時54分19秒
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  > No.6431[元記事へ]

管理人さま、ご無沙汰しております。
拙著、キンドル本『不思議の星のサイエンス』シリーズ、ご紹介、感想戴き誠にありがとうございます。
SFファンではなく、一般の人向けのエッセイですので、出来るだけ易しく書くということを心掛けています。全6巻の予定です。
どうぞよろしくお願い致します。

 

Re: 「短話ガチャンポン」発売予定

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月29日(水)21時09分42秒
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   段野さん
>ジュンク堂チェーンさんからきました。8月4日です。
 お知らせありがとうございます。
 さっそく双葉文庫のサイトに行ってみたら見つかりました→双葉社
 うん? 双葉社のサイトでは8月6日発売となっていますね。
 アマゾンではどうでしょうか→amazon やや、8月5日ですぞ。
 hontoはどうか→honto なんと8月4日です。
 こうなったらセブンネットも→セブンネット うーむ。8月6日ですか。

 あれ?

 定価も違うようですよ。ややこしいので表にしてみましょう。
 ジュンク堂チェーン8月4日 ?円
   双葉社    8月6日 593円 + 税(=640円)
   アマゾン   8月5日 630円
   honto    8月4日 640円
 セブンネット   8月6日 630円

 hontoがもっとも早く入手できますが、一番高い。アマゾンなら、1日遅れますが安く買えます。
 これは思案のしどころですよ、段野さん。あ、ジュンク堂チェーンが630円だったら言うことなしですが(^^;
 ※しかし10円の差は謎ですね。定価593円ならx1.08で640.44です。以前話題になった切り下げ切上げの処理の差ではありません。定価自体が違っているということになってしまいます。仮に定価592円なら、639.36円となり、切上げ派と切下げ派で10円の差が出るのは了解できるのですが。
追記。見落としていました。セブンネットは583円 (税込630円)となっていました。ついに出版業界まで1物1価原則が崩れてきたのでしょうか(再販制は維持されているのに?)

 

「短話ガチャンポン」発売予定

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 7月29日(水)17時24分34秒
返信・引用
  眉村さんの新刊お知らせが、ジュンク堂チェーンさんからきました。8月4日です。双葉文庫です。とりあえず、お知らせです。  

《ネオ・ベム》2冊拝受

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月29日(水)00時46分24秒
返信・引用 編集済
   高井信さんから手作り本を二冊、筒井康隆保存会『誰も書かなかった筒井康隆入門』と岡田正也『ニュー・アトランティス1658』をいただきました。どちらの表紙もYOUCHANさんのイラストがいいですねえ。
 高井さんは《ネオ・ベム》のブランド名のもとに自家製本を刊行しておられます。上記二冊は、先般発行されたジェイ・ウイリアムズ『宇宙生物SF こわがり屋』(朝露薫訳)につづく、《ネオ・ベム》シリーズの一環です
『誰も書かなかった筒井康隆入門』(解説は尾川健氏)は、まさに怪作。解説によると本篇は、筒井倶楽部の名古屋リージョナル組織内組織《中部皆》の会誌「ん?」6号に掲載されたものとのこと。いやもう怪作としか言いようがありません。一方尾川さんの解説は正反対、尾川さんにしか書けない事実に淫したトリビアリズムで、まさに対称の妙なんです。とはいえどちらも狂っている点は共通(笑)
『ニュー・アトランティス1658』は、岡田正也さんが広島SF同好会の会誌「アルデバラン」12号に掲載されたもの。ベーコンの『ニュー・アトランティス』を岡田さんは1658年発行の原書(7版)で読まれたんですね。で、それからの抄訳と内容の紹介風のエッセイです。解説は私です(汗)。本書は非売品につき、次の囲む会の時にでも持参しますね(^^;
 この二冊を続けて読み、ひとつ気がついたことがあります。それぞれ別々の作者の作品であり、解説であるのですが、全体としてみると、共通のトーン、雰囲気があって「高井信の作品」になりえているんですね(そうと知って既刊を振り返りますと、それらもまた「高井信の作品」を構成していることに気づかされました)。ネオベムシリーズで企図されているものが見えてきたような気がしました。
 まあ高井さん好みの作品のセレクションですから、ある意味当然なのかもしれませんが、コレクションから「編集者」あるいは「パブリッシャー」の個性が明確に読み取れます。将来まとまった全体で、高井さんの重要な「業績」になっているんじゃないでしょうか。続刊もたのしみです。
 
 



わからいでかい(^^;

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月28日(火)17時42分17秒
返信・引用 編集済
   元ツイート

 

冥王星

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月28日(火)01時01分3秒
返信・引用 編集済
   ニューホライズンズが撮影した冥王星による日蝕(厳密には日蝕ではありません。大気の層が太陽光を乱反射しているのでしょう)。
 

 私は、冥王星から見た太陽は地球から見た金星のように見える、と、昔なにかで読み、そう「暗記」していました。こんな光輪ができるんですから、金星程度っていうことはなさそうですね。
 ネットに説明がないかと検索したところ、わかりやすいのが見つかったのだけれど、ブックマークしておかなかったので、もう行方不明になってしまいました。
 どういう説明だったかといいますと、アルファ・ケンタウリは太陽と同じG型恒星で大きさもよく似ています。太陽系から4.3光年離れていますが、1等星です。金星ほどではないにしても明るい星です。
 逆に言えば、アルファ・ケンタウリから見た太陽も、1等星として見えているということですね。
 冥王星の軌道長半径は40天文単位。
 1光年は約63000天文単位。4.3光年は270900天文単位。
 270900÷40=6772。つまりアルファ・ケンタウリまでの距離は、冥王星までの距離の6772倍。
 それだけ離れていても1等星であるということは、冥王星だったら当然、金星なんかの比であるはずがないですよね。
 ただし冥王星から見る太陽の視直径は大きな恒星並みとのことです。見た目は星なのに、それがとんでもない光輝を放って、冥王星の昼を、薄暮くらいには明るませているんでしょうか。これは実際に体験しないと、ちょっと感覚的にわからないですね。
 下は冥王星の直径を示したもの。たしかにこれでは、惑星と呼ぶのはおこがましいですかねえ(^^;
 

 合成しますと、いかにニューホライズンズが近距離から撮影したのか実感できます。
 

 
 

眉村さん情報:「少國民の時代」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月27日(月)17時43分16秒
返信・引用
   産経新聞7月23日付夕刊に、眉村卓さんの連載エッセイ「少國民の時代」第4回「大阪大空襲」が掲載されました。



 

「宇宙人は本当にいるのか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月26日(日)20時11分48秒
返信・引用 編集済
   橋元淳一郎『宇宙人は本当にいるのか 不思議の星のサイエンス(第2巻)』(キンドル版、15)読了。

 橋元淳一郎さんのキンドル本、第2弾が早くも発売されたので、購入。即読了しました(→キンドル
 このシリーズ、全6巻のようです。読了記録にはそのまま記録していますが、一冊あたりのページ数は16頁ですし、第2巻となっていますが、第5話から始まっています。全6巻で一冊とカウントした方がいいかも。考慮中。
 表題作の第5話では、宇宙人(知的生命)の存在可能性に対して、天文学者と生物学者では温度差があること(ごくふつうなのか奇跡なのか)をその学問内容から説明していて、なるほどなあ、と納得させられました。著者は生物学者寄りですね。

 第6話「アダムとイブは誰なのか」では、祖先を遡れば皆親類になることがわかりやすく説明されています。これもナルホドひざポンでした。イブはミトコンドリアをたどって突き止められたわけですが、アダムはどうなのか。著者はまだ突き止める方法がないと書いていますが、Y染色体アダムというのを聞いたことがあります。これはまだ確立されてないんでしょうか。

 第7話「我々はかつて星だった」はセンス・オブ・ワンダー。我々の体を構成する元素は、もともとは超新星爆発した星々だったとは! アダム、イブどころではない、我々は皆、鉱物も含めて、星の兄弟なのですねえ。なんかM27世界になってきたぞ(>おい)(^^;

 第8話「ナノテクノロジーに未来はあるか」、ナノテクノロジーの進展で、未来の家庭には一家に一台、万能物質製造マシン(3Dプリンタの超未来形?)が常備され、望む物質を(食糧も衣料品も)製造して使用するようになる。ただし夫々にプログラムが必要で、それは(ネットで?)購入するカタチです。物流業は絶滅するでしょう(というか農業も製造業も要らなくなるんじゃないのかな。プログラマーだけ生き残るのか)。これまで存在しない新種のウイルスや新種の生命さえ、ナノマシンは吐き出してくるのです。それはユートピアなのかディストピアなのか。著者は悲観的です。

 

Re: 「寄港地のない船」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月26日(日)18時54分36秒
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  > No.6429[元記事へ]

 堀さん
 おお、ご教示ありがとうございます。

>オリヴァーについては触れられてませんね
 下に記した三作品名が列挙された「二 旅行」という節には、オリヴァーの名前も作品名もないです。
 ごくふつうに読めば、三作品のうちのどれかが「地中に埋まった宇宙船」の話と思ってしまう書き方なんですよねえ。
 しかしオリヴァーの「吹きわたる風」という作品でしたか。ぜひ読んでみたいと思います。
 調べたところ、府立中央図書館にSFMが所蔵されていました。
 ところが禁帯出。WEBで申しこめば複写して郵送してくれるようです。
 さっそく申込書に記入してメールしました。
 いつ頃届くのか分かりませんが、楽しみに待ちたいと思います(^^)

 

Re: 「寄港地のない船」読了

 投稿者:堀 晃  投稿日:2015年 7月26日(日)15時02分45秒
返信・引用
  「なかば地中に埋まった」スターシップ。
これは、チャド・オリヴァー「吹きわたる風」しか思い浮かびません。
『SF小説』が手元にないので確認できませんが、オリヴァーについては触れられてませんね。
ともかく『ノンストップ』を読まねば。SFスキャナーで伊藤典夫さんの紹介したのを読んでから何年になるのか……
 

Re: 「寄港地のない船」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月25日(土)10時11分30秒
返信・引用 編集済
  > No.6427[元記事へ]

 高井さん
 私も『SF小説』で記憶しているのは、くだんの部分と、フランス語版タイトルを直訳したシマック『明日は犬の世界』(笑)という題名だけです。『明日は犬の世界』とはなんともぶちこわしな訳題ですが、原作が何かすぐ分かるところは、『もう一つの大地へ』よりもすぐれていますよね(>おい)(^^;

>『目的地アルファ・ケンタウリ』でしょうか。
 私もそう考えて、昔購入し、とりあえず最後の方を摘み読みしてみました。この作品ではないようでした。添付していただいた上画像に書かれているように「タイムギャップ」がテーマのようでした。それがまた複雑奇怪な理論で、全然意味がわかりませんでした。はじめからきっちり読めばいいのですが、違うとわかったら読む気がうせてしまい、積ん読のままになっています(汗)

ジャック・ボドゥ『SF文学』は、出版当時注目していたのに、いつのまにか脳から漏れ落ちてしまっていました。購入することにします。このたぐいの本って、未訳作品への憧憬の気持ちを煽られますねえ。若い頃だったら英語で読めるようにならなきゃ、という気にさせられます。この歳で読みますと、諦念ばかりですが(ーー;

 

Re: 「寄港地のない船」読了

 投稿者:高井 信  投稿日:2015年 7月25日(土)07時04分45秒
返信・引用
  > No.6426[元記事へ]

『目的地アルファ・ケンタウリ』でしょうか。>ヴォークト

 それにしても『SF小説』とは懐かしいですね。私も読んだはずですけれど、な~~にも覚えていない(笑)。――と久しぶりに手に取り、ついでに同じく文庫クセジュのジャック・ボドゥ『SF文学』を眺めておりましたら、おお、80ページに!
 画像を貼りつけておきますね。
 

「寄港地のない船」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月24日(金)23時59分35秒
返信・引用 編集済
   ブライアン・オールディス『寄港地のない船』中村融訳(竹書房文庫15、原書58)読了。

 私は本書の邦訳を41年間待ち続けていました。すでに半分以上諦めていました。先般、とつぜん翻訳されると知ったときはまさかと思いました。大喜びで注文し、発売日の2日後には入手していたのですが、いろいろ忙しくてなかなか着手できず、ようやく数日前から読み始め、読了しました。
 41年間待ち続けたと書きましたが、この数字は何だと思いますか。
 41年前の1974年5月13日、私は旭屋書店の当時あった旧本店だったか、曽根崎の新本店だったかは忘れましたが、どちらかの店でジャン・ガッテニョ『SF小説』を購入し、数日で読み終えたのでした。
 そしてその中に記述された以下の文章に、まさにセンス・オブ・ワンダーを感じ、ノックアウトされてしまったのです。

「危険に満ちた星間旅行は(……)ときには――ハインラインの『宇宙』、ブライアン・オールディスの『寄港地のない宇宙艦隊』、あるいはヴァン・ヴォクトの『もう一つの大地へ』のように――その同じ閉ざされた世界に幾世代もとどまり、そこで後つぎをつくり、新しい人間社会をつくりあげまたつくりなおしていく」「この人間の旅は、そうしておくほうが都合のよい人々によって維持された幻影にすぎない。そこからの解放は、たとえば閉ざされたものとしてあらわされていた世界の周囲の外世界(空間)の発見であるだろう。あるいはまた、空間を移動しているものとされていた宇宙船が(なかば地中に埋まって)不動であることの発見であるだろう」
(※当書の翻訳者はSFは門外漢だったようで、タイトルはすべてフランス語版タイトル(しばしば原題とはかけ離れている)の直訳なんです。既訳の邦題との対照表があればよかったのですが、訳者にその能力はなかったようです)
 この「(なかば地中に埋まって)不動であることの発見であるだろう」に、まさにぶちのめされてしまったのでした。
 これ、すごいイメージですよね。世代宇宙船は出発に失敗し、地球に墜落する。しかしその影響で船のメインコンピュータは狂い、宇宙船内の人々は宇宙を航行しているものと思い込んだまま、何世代も重ねていく。地球は救助隊を派遣するのですが、狂ったメインコンピュータのために抵抗され撃退される。救出の試みは何十年も何百年も繰り返されているのです。
 そういうイメージが、パーッと脳内にひろがり、しっかり刻印されてしまったのでした。
 当時すでに『宇宙』(『宇宙の孤児』)は読んでいましたから、こちらが「外世界(空間)の発見」であることはわかりました。
 だとすれば――オールディスがひねくれた作家であることも知っていましたから、きっと「なかば地中に埋まって」いたのは『寄港地のない宇宙艦隊』(『寄港地のない船』)だったのだろうと、思い込みで決めつけてしまいました。
 爾来、原作(の翻訳ですが)をいつか実際に読みたいものだ、と思い続けて、41年が経ったというわけです。

 結論として、私の決めつけは違っていたのですね。本書『寄港地のない船』は地中に埋まってはいませんでした。でも「不動」は、見方によれば不動なんですけどね。
 この真相も、これまたオールディスらしい、圧倒的な徒労感をもたらす《アンチ・クライマックス》な結末で、悪くないのですが、私の想像していた結末とは違っており、やや肩透かし感を感じずにはいられませんでした(それはもちろん本書が悪いわけではなく、予断をもって読み始めた私の責任です)。
 としますと、私が求めていた「なかば埋もれた世代宇宙船」はヴァン・ヴォクトの『もう一つの大地へ』という作品なんでしょうか。この(フランス語版タイトルが)『もう一つの大地へ』という作品、これが確定できないんです。邦訳があるんでしょうか。原題の記載があれば簡単に確定できるのですが、そういう書誌情報皆無の本なんですね『SF小説』は。内容が素晴らしいだけに、画竜点睛を欠くといいますか、大変もったいない本でもあるのですよねえ。


 

「なぜ男と女が存在するのか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月24日(金)13時15分45秒
返信・引用
  > No.6424[元記事へ]

 橋元淳一郎『なぜ男と女が存在するのか』(キンドル、15)読了。

 ごく短い科学エッセイ4篇収録されています。どれも面白い。
 第1話の表題作では「闇の左手」が俎上に。
 第4話「コンピュータは自己意識を持てるか」が特に興味深かったです。大体私は、瀬名秀明のケンイチものは額面どおり読んではいけないのではないかと疑っているんです。注意深く読めば、ケンイチに意識があるとはっきりと言明した表現はなかったはず。でも瀬名さんの本意が、いまだに謎です。
 


(無題)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月23日(木)23時47分34秒
返信・引用 編集済
   シリル・エイミ
  
  

 ザーズ
  
  
 

耳の衰え

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月23日(木)21時25分4秒
返信・引用
   今日、カーラジオからマライヤ・キャリーが流れてきて、あれ、と思ったのです。
 マライヤといえば7オクターブの女。実際はG♯2~G♯7(lowG♯~hihihiG♯)の5オクターブだそうですが(ウィキペディアによる)、最高音部(ホイッスルボイスというらしい)がなんか頼りなく聞こえたのですね。
 多分意識して耳にするのは何年ぶりかで、記憶の中ではもっと鋭い音声だったような。
 で、はたと気づいた。
 老化で聴力が弱くなって、可聴域の上限が下がってしまったからではないか。
 やはりウィキペディアによると、ホイッスルボイスとはハープやフルートの最高音に匹敵する超高音域とのこと。
 いや、聴こえてはいるんですよ。でも、前後の普通音域より頼りなく聴こえるんですねえ。
 そういえば最近、といってもかなり以前からですが、聴く音楽が、若い頃ほど色鮮やかに感じられないのですねえ。高音域だけでなく、音全体に対して感受性が弱まっているのかもしれません。
 と、そこまで思って、はっと気づいた。
 小松さんが60代後半で意欲を失われたのは、阪神大震災もありますが、五感の衰えを意識されたからではないのか、と。
 私も最近、記憶力に自信がなくなってきたのですが、まあこれは年齢相応なんだと思います。だからそんなもんだろうと開き直っているのですけど、小松さんの記憶力(だけではないですが)は常人を超えていたはずです。
 ところが知っているはずの知識が(年齢相応に)咄嗟に出にくくなった。これはしかし常人には堪えられても常人以上であった小松さんには非常なショックで、ガマンできないことだったであろうことは想像に難くありません。そういうのが積み重なって、60代後半という、あまりにも早い時期にして生の意欲を失っていかれたのではないでしょうか。以前書き込んだように、常人がG型やK型恒星だとしたら、小松さんはO型恒星だったということでしょう。
 いやしかし私だって、これから先、さらに音の感受性が劣化していくんだとしたら、そう考えると、たしかに世界は灰色めいてきますなあ(ーー;
 

 

観念が現実を押さえ込む夏

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月23日(木)00時18分45秒
返信・引用
   暑いですねえ。この季節になるといつも思うのは、昔はこんなに暑くはなかったぞ、ということです。
 私の記憶では、中学高校時代、いくら暑くても33度までで収まっていたように思います。
 で、ここで調べてみました。
 下図は抜き出しです(各年度8月の東京の日別最高気温)
 
 1980年度8月の東京は、30度を超えたのはわずか5日。32.2度というの一番高かった気温です。
 うむ。これはまさにわが10代の実感です。
 90年になってはじめて(といってもこの図ではということですが)35度を超えた日が出てきます。
 95年の8月は、なんと35度以上の日が8日あります。
 この辺りから急激に気温は上がっていったようですね。
 2000年代に入ると、37度なんて数字がちらほら出てきます。

 こうしてみると、やはり70年代~80年代初頭と現在は、気候が違っていますね。夏の甲子園という言葉は同じでも、その意味内容は劇的に異なっています。40年前と同じように開催しているのがどだいおかしい。現実が観念に押さえこまれてしまっています。
 わしの若い頃は、とか、老婆心なんていうのがそれなりに尊重されるためには、環境値が同じでなければならないんですね。
 でも、去年はとつじょ、35度以上の日はゼロだったんですね。これは最近言われ始めた小氷期の影響なのでしょうか。
 あと5~10年で地球は極寒に? 最新の太陽研究が予測

 年々歳々、老化で日本の夏が堪えられなくなってきました。早く小氷期に入ってほしいものです。


 

非農耕民力士

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月21日(火)01時20分59秒
返信・引用 編集済
   白鵬・逸ノ城戦を観ましたが、いいも悪いもなく、ごくふつうに見かけるシーンではないでしょうか。
 こういうのって、スポーツをしていたらざらに経験もすることです。見苦しい、と言ったらしい武双山は、世論を気にしたのでしょうが、チキンですね。今場所休んでいる千代の富士なら当然だどこが悪い、というに違いありません。
 だいたい、そういう事になったのには、伏線があるのですね。
 逸ノ城って、稽古しないんですってね。舞の海が口癖のように言ってますよね(^^;
 こういう記事がありました→稀勢の里が“プチ鬼”逸ノ城をかわいがりの洗礼!
 その場にいた横綱鶴竜も「ちょっと太りすぎ。やせないと、自分で自分を壊しちゃうよ」と苦言を呈したとのこと。
 ちょっと記事が見つからないのですが、同じくその場にいた琴奨菊も、土俵の外から叱咤(罵倒?(^^;)していたらしい。
 そういうことがあったのを、当然白鵬も知っているはずです。
 そもそも逸ノ城が角界に入るにあたっては、白鵬が仲介したんじゃなかったでしたっけ。で、白鵬は宮城野部屋に入れたかったんですが、外人力士規定でそれができなかった。宮城野部屋で毎日白鵬に鍛えられていたら、照ノ富士にここまで差をつけられることはなかった、と白鵬は思っているんじゃないでしょうか。
 そんなこんなで、今日、対戦したら案の定土俵際で抵抗しなかった。それが白鵬に火をつけた、と私は想像しています。
 そういう伏線があることを知らない、相撲を観戦することもない人が、ニュースであの映像だけ見て非難しているのでしょうきっと。見た目同じ行為だからといって、内包する意味まで同じとは限らないんですよね。
 しかし、モンゴル人の古き商業民族の血を色濃く受け継いでいるのが逸ノ城なんです。商人は、農耕民のように精励恪勤はしないのです。負けるのがわかっているのに力を出すのは馬鹿だ、と思っているのです。ところが農耕民族である日本のスポーツはそういう態度を嫌います。で、遠藤みたいに大怪我をしても出場する力士に拍手を送るんですね。
 時天空も旭天鵬も、長持ちしているのはぶちかましをしないからです。旭鷲山が現役時代、テレビで解説の北の富士山さんが、こういう相撲を取っていれば長持ちするね、と言っていたのを覚えています。
 やはり、基本的にモンゴル人力士には商業民族の血が流れているんでしょうね。
 逸ノ城も、その意味では省エネ長持ち型ではあるんですが、それが自分への甘えとなって体重を減らせないのだったら、鶴竜のいうように自壊してしまうかもしれません。弱小部屋で大型力士だった把瑠都の二の舞いになりかねません。
 逸ノ城のそういう非農耕民的な性格が、私は好きなんですけどねえ(^^;

 

コモン君の罪と罰

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月19日(日)22時02分11秒
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  > No.6418[元記事へ]

 読書会のユーストリーム、昨日は前半分だけ見て当板に記事を書き、それから寝ちゃったのでした。今日、後半を視聴しました(これ、読書会自体の前半だけみたいですね。これに収録されていない後半で、「水中都市」が検討されたのでしょうか)。
 今日視聴した部分で腑に落ちたのが、自殺者が植物化する、という表現でした。私はよくわからないのでスルーしていました。
 「自殺者」を言葉の一般的な意味でイメージするからわからなくなるのでした。この「自殺者」とは、「自分の心を押し殺して、大勢に順応して生きる者」だったんですね。つまり内面の自殺者。ナチスに国家を委ねたドイツ国民がまさに「自殺者」です。そうしますと、かかる自殺者がこの世の人間の大半であるわけです。(それが「快感」であることも公房はしっかり書いています)
 ちょっと先走りました。自殺者が植物化する、は、そもそもダンテを引用して、(地獄篇の植物化がそうであるように)植物化を自殺者が受ける罰とコモン君が認識したところから出てきたのでした。つまり「植物化」は「罰」だというわけです。では罰をもたらした「罪」は何か。「自殺」したことです。
 ここ、ユーストリームのある方の解説を聞いていて、なるほど、と膝を打ったのでした。
 ラクだからといって大勢(=体制)に順応して生きていること、それ自体が「罪」だと安部公房は言っているわけです(「すべての人の病気である」とも書いています)。
 羊飼い(とその牧羊犬)の誘導に、ただ従順な「羊」であること、それ自体が「罪」なのです。
 どうやら私には、罪と罰という(キリスト教的な)発想自体がなかったようです。
 以下思いつきメモ。これって、昔よくいわれた「傍観することが既にして加担しているのだ」という中核派たちの殺し文句と同じなんですよね。全共闘はキリスト教原理的だったのか! というよりも共産主義とキリスト教は双子の兄弟なのかも。

 

JR壊滅

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月19日(日)01時30分13秒
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   今日は、京都で定期的に開催されている安部公房読書会に、初めて参加するつもりで出かけたのでした。

 じつは当地ではあんまり今回の台風の影響はなかった。出発した当初は曇っていた空も、最寄り駅まで歩くわずか10分弱の間に、見る見る日が差してくるといったあんばいで、(播州地方は別にして)近畿地方は大したことなかったんだろうな、と漠然と考えていたようです。私が乗った電車も定刻にやってきましたし、駅でも何のアナウンスもされていませんでしたし。

 ところが、乗換駅で快速に乗替えるや、環状線は動いておらず、大阪駅まで行くはずの当の快速も天王寺までしかいかないというアナウンス。
 おいおい、それは駅でもアナウンスしないとアカンやろ、と思ったのですが乗ってしまった後の祭りで、とりあえず天王寺まで行きました。
 それにしてもアナウンスするのがめんどくさかったのでしょうか。いくら何でもそれは通用しませんよね。アナウンスしていたら出掛けるのをやめた人が絶対いたはずです。そんな人は駅員ではなく大学の教員になればいいのに、と思ったことでした(おい)(^^;

 さて天王寺に着きました。案の定、環状線は不通のままで地下鉄で振替輸送とのこと。ここでもとりあえず地下鉄に乗り大阪まで行ってみました。大阪も穏やかな天気なんです。環状線が全滅なんて信じられません。
 ところが、環状線だけではなく東海道線も寸断されていて、吹田までしか行かないとのこと。振替はないのかと駅員に聞きましたら、阪急も不通。京阪は繋がっているとのこと。

 そこで淀屋橋まで戻る。しかし京阪で京都まで行ってもそっちの状況がどうなっているのか、駅員に訊ねましたら、京都市内のJRは全滅しているというではありませんか。目的地の花園は山陰線なので、更に聞きますと、やっぱり、Xになってます、とパソコンの画面を見せてくれました。
 うーん。ここに至って、最寄り駅がXだったら読書会も開催されているかどうか怪しいぞ、と不安になってき、結局断念したのでした。

 後刻、読書会の主催者からメールがあり、地下鉄を利用すれば到着できたということを知ったのですが、わたし的には、え、地下鉄があったの?という知識のレベル(^^;。いや地下鉄があることは知識としては知っていましたが、利用したことがないので体が覚えてないので咄嗟には思い浮かばなかったのですね。調べたら1981年開業とあった。学生時代は、おもに美術館に頻繁に出かけていましたが、当時は地下鉄はなかったのでした。

 ああ残念。ユーストリームで見られるとのことで、早速見ているところですが、いやこれは参加したかったなあ(ユーストリームアドレスは一般公開していいのかどうかわかりませんのでリンクしません)。
 なぜ植物化が「顔が内側に向く」で表されているのか、という議論がなされており、これは私自身は思い至りませんでした。でも即座に、顔が他者との通路(つまり社会性)だとすれば、顔が内を向くとはその否定ということになるのではないかなと思いました。つまり社会に対して積極的にアンガージュしていくことを忌避する暗喩ではないでしょうか。それは取りも直さず、ディストピア小説の大衆の存在形式ですよね。ラクなんです。

 ところで、断念したからには、昼飯を食って即帰宅しようと思ったんですが、梅田に戻って昼飯を食い、書店を覗いているうち、でもせっかく久しぶりに都会に出てきたからなあ、このまま帰っててしまうのもなあ、と、気が変わりました。
 ふとみれば環状線も復旧しているではないですか(でもその時点では東海道線も山陰線もXのままだったので、京都へ向かうという選択肢はなかった)。

 なんとなく環状線に乗り、福島で降りたのでした。ジャズ住職のお寺の前を通ったけれど、どうせ仕事中だろうと連絡はせず、そのまま進んで堂島大橋北詰へ。先般人身事故があったらしい現場を確認。
 いや、どうもその接触の状況がピンとこなかったのです。現場を見れば一目瞭然でした。けっきょく私の堂島大橋北詰の「記憶映像」が、歳月により実際よりも単純化されてしまっていたようです。これ、ミステリのトリックに使えないかな(^^;

 写真上は、未だに残っている、空襲で焼けた大日本紡績工場の煉瓦塀(キタの大火(通称天満焼け)の火災延焼を食い止めた塀としても有名)。下は野田藤の碑。これは私が住んでいた頃は存在しなかった(拡大したら1976年と読めます)。あ、肝腎の藤棚を撮るのを忘れた。
 野田駅まで記憶をたどりながら歩き(全然変わっていて道を間違えた)、環状線で大阪に戻る。たよしで腹ごしらえして、ニューサンでラスカルズを聴いて帰ろうかな、と考えていたのですが、久しぶりに歩きまわったせいでしょう、、酔いが急激に回ってきて聴ける状態ではなくなったので、今回は諦めて帰途に着きました。
 二万歩くらい歩いたんじゃないでしょうか。明日は筋肉痛です(^^;
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トレーン49回忌

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月18日(土)01時33分23秒
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   今日は(と言ってもすでに昨日ですが)コルトレーン命日。今年は「クルセ・ママ」で追善しました。
 亡くなったのは1967年ですから、なんと来年は50回忌ではありませんか。
 私は7回忌から命日にレコード(→CD→youtubeと、媒体は変わりながら)を聴くのが習慣となりました。
 以前は普段の日もよく聴いたものです。が、最近はとんと聴かなくなってしまいました(楽なBGMめいたものばかり聴いている)。今日だって、直近に聴いたのはいつだったかと思い返してみたのですが、ぜんぜん記憶がありません。まさか一年ぶりということはないと思うのですが。いかんなあ。
 
 

「水中都市」再読

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月17日(金)20時35分23秒
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   明日の安部公房読書会にそなえて、「水中都市」を再読しました。
 映像的な傑作、文字で書いた超現実派絵画との印象は変わりません。
 しかし、前半は北杜夫のユーモア小説を彷彿とさせられますね。そこから「闖入者」と同じシチュエーションとなり奇怪さが一気に増して、超現実的な水中都市の圧倒的な描写に移行していきます。
「水中都市」は1952年6月雑誌初出ですから、「闖入者」(1951年11月)の半年後の作品。「闖入者」とは主人公の運命は、受動と能動の差があります。「闖入者」のカフカ的な結末に、著者自身倦たりないところがあったのでしょうか。
 それにしても、なぜ水中都市であり、魚人間なんでしょう。これに類するイメージが、『第四間氷期』も覆っているわけで、そっちに着想が向かう安部公房の内的無意識が何かあるんでしょうか。非常に興味を感じます。

 

「米朝? 知りません」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月15日(水)00時22分23秒
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1行ショートショート

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月13日(月)21時58分41秒
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「デンドロカカリヤ」再読

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月12日(日)23時36分53秒
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  > No.6411[元記事へ]

 「デンドロカカリヤ」を再読していました。
 この作品に寓意が籠められているとしたら、それは何でしょうか。
 まず、この植物化現象が、主人公コモン君のみに出来した個別偶然的なものではないことを確認しましょう。
「現に植物になった沢山の人が、私のところで一番平穏に暮らしています」
 ここで主人公名「コモン」の意味が明らかになります。辞書によれば「コモン」とは、[ふつうの、ありふれた、平凡な、公衆の]と言った意味があります。つまり主人公は、我々一般大衆のメタファーです。
 つぎに、主人公は、植物化について考えをめぐらし、ギリシャ神話に、ゼウス(一族)によって植物にされた人間の話が多く存在することに思い至り、その一つ一つについて検討を加えます。その結果、
「結局、植物への変形は、不幸を取り除いてもらったばっかりに幸福をも奪われることであり、罪から解放されたかわりに、罰そのものの中に投込まれることなんだ」
 コモン君の場合、ぼんやりしていたりふっと気が抜けていたりすると、すぐに植物化が始まります。これを一般化するなら、自我をしっかり持っていなければ簡単に体制の思うがままに操られてしまうということを現しているのかもしれません。(安部公房のいう「微視的連続感」に囚われた状態)
 実際、『1984年』にしろ『すばらしい新世界』にしろ、作中の一般の人々は実に安穏な生活を送っているといえる。変な自我さえ発揮しなければ。
 このありさまこそ、まさに「不幸を取り除いてもらったばっかりに幸福をも奪われる」状態と言ってよいでしょう。
 これに対抗してコモン君は、「これは人間の法律じゃない。ゼウスの奴隷たちの法律だ。新しい、もっと激しいプロメテウスの火がほしい!」と強く希求します。
 さて、ここでK子の名を騙ってコモン君の前に現れて以来、ずっと付きまとう黒服の男のポジションが明らかになる。コモン君はその男をアルピィエ(ハルピュイア)になぞらえます。アルピィエはネプチューン(水神)の女であり、コモン君によってプロメテウスの火に水をかける者として認識される。

 話は跳びますが、「イソップの裁判」が、実は本篇と同型なんですね。
 サモス島はそもそもゼウス一族の征服地だったのですが、のちに商業民族ゆえに貨幣経済の倫理をもち、唯物論的な世界観を作り出す方向に向かったイオニア人の支配するところとなる。そんな自由人に支配されていた奴隷たち(原住民)もまた、しだいに自由を獲得していきますが、第一次神聖戦争の結果、イオニア人が追い出され、旧勢力(すなわちゼウスの一族)が復活してアンシャン・レジームとなります。そんな世界で、すでに自由に目覚めた奴隷たちは……という話なんですが、本篇の主人公プリストスは、まさにプロメテウスの火を掲げる者です。そして彼に身の安全と引き換えに裏切りを教唆するポリクラテスは、ですから、「デンドロカカリヤ」のアルピィエと同じポジションなのです。

 この二作は表裏の関係にあるようです。
 プリストスは死してプロメテウスの火を消さず、結果としてポリクラテスは自殺し(一時的ながら)サモス島は独立を果たす。
 一方、「デンドロカカリヤ」のコモン君は、アルピィエの甘言に遂に屈し、植物となって温室で育ててもらう(不幸を取り除いてもらったばっかりに幸福をも奪われる)。
 先回も述べましたが、本篇を含む当短篇集の諸作が構想されたのは、GHQが変質し旧勢力(旧思想)が復活したアンシャン・レジーム的世界が現出したことがその執筆動機として大きかったと考えられます。「デンドロカカリヤ」は49年ですが、いわゆる「逆コース」はそれ以前から始まっていました。
 本篇は、直接的には「逆コース」を何の疑問もなく受け入れていく一般大衆(コモン君)のコンフォーミズムへの著者のオブジェクションであります。コモン君とは、第一義的には日本人です。
 と同時に、そうして書かれた本書は、その根源性により、もっと一般的な広がりを持ちえた。結果として「1984年」や「新しい新世界」、あるいは(非小説ですが)「自由からの逃走」などと同じ位相に属する小説となり得ているように思われます。



 

プロジェクト終了。そして……

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月12日(日)21時56分2秒
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  > No.6410[元記事へ]

《チャチャヤング・ショートショート・マガジン別冊》『怪異居留地』三刷目の製本完了。明日、発送します。
 これにて、承った分はゼロになりました。
 作りも作ったり、総計54冊です(60冊くらい作った気になってましたけど)。
 もう、一般注文もないとは思いますが、まだ若干材料はありますので、ご注文あれば作りますよ(^^;

 しかし、みなさんの気分はすでに《チャチャヤング・ショートショート・マガジン3号》(通巻4号)ですよね。
 従来どおり枚数制限なしです。でも、ショートショートも読みたいですねえ。
 締め切りは11月末でいかがでしょうか。年末は忙しくて執筆している暇はないでしょう。それまでに書き上げていただいて、年始早々製作に入り、1月末か2月初旬に発行――という風に考えています。
 正式には、メールでお知らせしますね。

 

「デンドロカカリヤ・水中都市」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月11日(土)22時23分28秒
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  > No.6405[元記事へ]

 来週の安部公房読書会にあわせて、課題の新潮文庫版『デンドロカカリヤ・水中都市』収録作品を、先日来、ぽつりぽつりと読んでいたのですが、ようやく読了しました。
 新潮文庫版は所有していなかったので、収録作品中、「デンドロカカリヤ」は澁澤龍彦編『変身のロマン』(立風書房、72)で、残りは『安部公房全作品2』(新潮社、72)で読みました。(*ちなみに「安部公房全作品2」は新潮文庫版『壁』と『デンドロカカリヤ・水中都市』から「デンドロカカリヤ」を除いた作品が収録されています)

 今回読んだ諸作は、「デンドロカカリヤ」が『壁』の二年前の49年。残りの作品は『壁』より後、ただし同じく51年の雑誌初出で、安部公房が「小説家」として一定の地位を築いた初期作品といえます。
 「壁」同様、シュールレアリスム小説というべき作風で、非常に前衛的。この地点からすれば、のちの長篇は(『砂の女』にしろ『箱男』にしろ)かなり普通小説の方へ後退しています。なぜならそれらの小説世界では物理法則が守られているからです。(*『第四間氷期』は例外)
 その点、この時期の短篇は、たとえば「手」の主人公<おれ>は伝書鳩です(でした)。その<おれ>が、動かないよう剥製にされ、それをモデルとして造型された「平和の鳩」像に(内面が?)転移し、次にその像を溶融して作られた弾丸に移り、弾丸(おれ)は発射されて伝書鳩のもと飼育係で伝書鳩を「売った」男の体を貫通する。
「飢えた皮膚」では<保護色人間の恐怖>という一種の詐欺で一貫する(後の長篇群のように)かと思いきや、最後の一行で実際に皮膚の色が変わってしまう。
「詩人の生涯」では綿くずのようにくたびれ果てた老女が、糸車に巻き込まれて、文字どおり、綿糸に紡がれジャケットに編まれ、最後にむすこの体を覆うや、息子は自分の詩集の中に消えてしまう。これはもう、山尾悠子ばりの(前後関係が逆ですが)硬質の幻想譚。
「空中楼閣」は、張られたビラの<空中楼閣>という虚構とも実際ともつかない都市伝説めいた一種のデマを追い求めていくうち、主人公は最後にビラを張っている男に追いつく(但し一番最初のシーン)が、その男をナイフで差した切り口からはサラサラと白い砂がこぼれる(このシーンは小説内現実ではなく、主人公の幻覚かもしれませんが)。
「闖入者」は、これは後の長篇群と同じで、シチュエーションは奇妙ながら、現実世界と繫がった世界観。その分寓意が明らかで、(戦後多く見られたんでしょう)はきちがえた、過ぎた民主主義へのオブジェクションが発想の原点なんでしょう。筒井康隆的(前後関係が逆ですが)。
「ノアの方舟」は、聖書の物語の皮肉な再話。戦後精神からすれば、ノアって許しがたかったんでしょうか(笑)
「プルートーのわな」はオルフェウス神話の再話でイソップ物語の一話と合体させたもの。。但しこの小説世界のオルフォイスとオイリディケはネズミです(^^;
「水中都市」は傑作。父(と自称する者)が魚に脱皮するや、世界は水のような空気のような、不思議なエーテルに沈む。さながら一幅の超現実絵画でした。
「鉄砲屋」は「闖入者」と同様<非・幻想小説>。需要のないところに需要を喚起し雪だるま式に転がっていく資本の論理がえげつなく剔抉されますが、やや安易。こういうテーマは漫画が描くべきかも。
「イソップの裁判」は、戦後のGHQを変質させた力(レッドパージは1950年)のようなものに対するオブジェクションかも。

 というわけで、本作品集収録作品は、多分に政治的なんですね。やはりこの時期に戦後世界観を覆そうとする、反動勢力の復権の様相が強くなってきたことに、著者の創作意欲を刺激するものがあったんではないでしょうか。

 以上、安部公房『デンドロカカリヤ・水中都市』(新潮文庫版)の読了とします(実質的にですが)。
 意外に山尾悠子は、安部公房の初期作品に作風が近いことがわかって面白かった(影響を受けたのか偶然なのかはわかりません。山尾悠子さんに聞いてみたいかも)。とりあえず安部の山尾悠子を買っていた理由が納得できました。


 

3刷目に突入

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月11日(土)22時18分57秒
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  > No.6409[元記事へ]

 100円ショップで光沢紙を購入しました。100円ショップで売っているという話は聞いていて、何度か探してみたのですが発見できずにいました。今日ようやく売っている場所を見つけました。
 電気製品関係の売り場だったのですね。私は文具売り場しか頭になかったのでした。
 7枚入りでした。一枚換算14.3円。あれ、先日購入した50枚入りよりも安い。ちょっと薄いのかしらん。さわった感じではわかりません。二種類並べて触ればわかるのかもしれませんが、これで十分。これからは100均で購入することにします。
 つづいてコピー屋で3刷目のコピーを4冊分。今日明日で、献呈分の残りを完成させ、週明けに発送する予定。

 

ほぼ目鼻がつきました

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 9日(木)21時57分38秒
返信・引用 編集済
  > No.6408[元記事へ]

 今日は、献呈分の8割ほど発送できました。
 ようやく目鼻がついてきた感じです。
 一昨日の大口分、工程の抜けはなかったそうです。よかった。

 ところがまたまたミスの可能性が!
 ページ順にソートして、ホチキスドメはまだのが1冊分残っていまして、それをパラパラと見ていましたら、一枚天地逆さまに挟まっていたのです。
 ギョッとして心臓が止まりそうになりました。
 それは、本日発送したのと同じ作業分の残りでして、ということは、発送した分も一枚天地逆に製本されている可能性があるということなのです。
 もちろんホチキスドメの前工程でページ順になっているかを確認します。ただし目は、ページ番号を確認するだけなのです。ページの全面を見ているわけではありません。
 それで十分のはずなんですが、よくよく考えると、天地逆のが挟まっていても、その紙は、番号なしのページ(タイトルのページとか白紙のページはページ番号が入っていません)として認識し、見過ごす可能性があることに、遅まきながら気づきました。
でも、更に考えますと、ページ順にソートするとはどういう作業かといえば、コピーしてきた各ページの束を、1枚めから順番にトランプのように並べていき、つぎに2枚目をその上に重ねていき、and so onとやっていくわけです。その段階で、天地逆さまで全て配り終えることは、まず、というよりも絶対に有り得ません。
 したがって、私が発見した天地逆さまは、何かの原因で個別的に発生した偶発的な案件だったのだと思います。
 ですから、今日発送したぶんに、不良品があった可能性は、おそらくないはずです。
 そこまで考えて、胸をなでおろしたのですが、とはいっても100パーセント確実なわけではありません。
 私の主観では絶対にそれはありえないのですが、もし届いた1冊が不良品でしたら、交換しますのでご一報下さいm(__)m。
 しかし製作も50冊超となりますと、注意力集中力が一気に散漫になることが今回わかりました。
 いやわかってさえいればいいのです。次回からは50冊越えを目安に、あらためて注集中力切れに留意するというチェック項目を加えればいいわけですね。
 ところで、ついに光沢紙が品切れしてしまいました。注文しなければいけないのですが、しかし、もう数枚あれば足りるんですよね。100円ショップにないか、まずは明日行ってみてきます。

 

大口分発送しました。しかし……

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 7日(火)23時20分47秒
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  > No.6407[元記事へ]

 昨日不調だったので、今日昼休みにがんばって、3冊仕上げました。
 午後から郵便局で発送完了。明日あたり到着すると思います。
 どうもお待たせしましたm(__)m

 ところが、さっき、はっと気づいたことがあって、時間がなかったのでクラフト紙で封筒を作ったり宛名書きをしたりして、あわてて郵便局にとんでいったのですが、1工程チェックを忘れたかもしれません。
 この部分、表紙と見返しを両面テープでくっつけるのですが、ひょっとしたらくっつけ忘れているのがあるかもしれません。
 

 チェックして頂いて、もしそういうのがありましたら、両面テープで修整していただけるとありがたいのですが、いやなに、くっつけていないからと言って、本がばらばらになることはありません。むしろ開けやすくて読みやすいかも。ただホチキスの針が丸見えになってしまうという美観の問題だけなんです。
 この工程、造本自体に何の影響もないので、一番抜けやすいところなんです。で、特にここだけ、最後にチェックするようにしていたのですが、今回、そのチェックを忘れてしまいました。
 お手数ですが、よろしくお願いします。

 それから、いま一般ご注文分も完成させました。こちらは明日、スマートレターで発送します。

 ということで、ようやく一段落。このあとは献呈分の製作に入るのですが、こちらは注文を承って製作するのではないので、気分的に楽です。出来上がったのから順次、さみだれ式にお送りしようと思っています。まずは眉村さんの分ですな。
 てゆーか、足りないことが判明したので、コピー屋で三刷り目コピーしてこなければ(汗)

 

第2弾発送しました

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 7日(火)02時13分54秒
返信・引用 編集済
   昨日書き込んだとおり、本日発送しました。
 また、今日は5冊完成させました。8冊作りたかったんですが、なぜか今日は調子が悪かった。なので、無理しませんでした。
 明日残りを完成させてお送りしますね。
 それから、一般頒布でご注文くださったお二人の方のぶんも、明日完成させるつもり。
 ところで、”保護用カバー”のオレンジの画用紙を使いきってしまいました。
 以降は黄色の画用紙に変更します。
 深田さんには2種類まじりますが、あしからずご了解下さい。
 到着したら捨てていただくものなので、かまいませんよね(^^;

     クリックで拡大
 

小松左京 私の履歴書

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 6日(月)00時11分58秒
返信・引用 編集済
   今日は、忘れずに見ましたよ(^^)
 小松さんが万博に関わったのは33~34歳頃からだったんですね。
 私が34歳の頃何をしていたかな……と考えますと、やはり小松左京ってすごかったんだな、と改めて思わずにはいられません。
 ところが、阪神大震災以降は、64歳以降は、引きこもりがちになるのですね。もちろん震災がなかったら、また違っていたのかもしれませんが、その生き方には、強い光を放って燃焼し一気に燃え尽きてしまうO型B型の恒星を、つい想起してしまうんですよね。

 さて、今日も今日とて趣味に淫しておりました。
 多少たまりましたので、会員諸氏の追加注文分(と斎藤さん分)を、明日発送しようと思います。
 ただし、大口の深田さん分は、申し訳ありませんが、あと2、3日ご猶予お願いします。

 

「デンドロカカリヤ」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 5日(日)11時52分26秒
返信・引用 編集済
   承前。中断によって空き時間が生まれたので、あのあと、読書会がらみで課題作品中唯一未読だった「デンドロカカリヤ」を読んでおこうと思い、澁澤龍彦編『変身のロマン』に収録された当該作品を、いわゆる自炊でタブレットに落としこむ作業をしました。
 この本は図書館で借りてきたのでした。
 実は新潮文庫版が簡単に手に入るだろうと近所の図書館を検索したところ所蔵していなかった。で、近隣の図書館も確認したのですが所蔵していないのです。
 というか短篇集は全滅です。かろうじて長篇は生き残っていましたが(ただし安部公房全集は揃っている)。
 で、仕方なく澁澤アンソロジーを借りだした次第なのですが、うみねこ堂書林さんが北杜夫が全然売れない、安部公房はそこそこ売れる、と言ってはりましたけど、いやいや、安部公房もアブナイんじゃないでしょうか(^^;
 この自炊に30分ほど費やし、それから読みだしたのですが、一瞬で眠ってしまいました(汗)
 せっかくの土曜ですから夜更かしするつもりだったのに、よほど疲れていたみたいです。おかしいなあ。私は阪神もTVアニメもまず見ない人間なんですけどねえ(>おい)(^^;
 腱鞘炎も疲れが遠因だったのかも(現在は大丈夫みたいです)。
 ということで、朝起きてから、あらためて「デンドロカカリヤ」にとりかかり、読了。
 うーむ。いかにも初期作品ですなあ(>あたりまえ)。
 関係ないけど筒井康隆「佇む人」を思い出しました。いや、いま読み返したら「デンドロカカリヤ」を意識した気配を感じ取れるかも。
 それはさておき、確認しますと、1949年雑誌初出ですから、『壁』(1951)以前のごく初期の小説なんですね。
 主人公が否応なく巻き込まれていくゆくたては、「S・カルマ氏」と似かよった構造(手紙を四角でくくって表現する手法も。語り口調のナラティブもそうかも)。
 最後に「dendrocacalia crepidifolia」とあるので、ひょっとして実在? と調べたら、小笠原母島にのみ棲息する種類でした。だから「母島列島以北」なんてのが出てくるのか。唐突に出てくるので面食らったまま読み進めてしまった。また読み返しましょう。
「コモン君」は、やはり「common sense」の「common」でしょう。江分利満氏ですな。
 全体像は頭に入ったので、しばらく寝かせて無意識に沈着した頃、読み返すことにします。

 

次回特集号テーマは?

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 4日(土)21時25分34秒
返信・引用 編集済
   昨日コピーしてきた4丁付けのを、4枚に切り離す作業をしていたのですが、なんだか右手の人差指の第2関節がどんよりと痛くなってきました。
 はっ。ひょっとして腱鞘炎?
 右手人差し指というのは、カッターを使うとき一番力を入れる部分なのです。
 さっそく検索して確認したところ、どうもそれっぽい(というかそれに至る手前くらいの感じか)。
 そうと気づいて、あらためてしげしげと眺めますと、心なしか腫れているようにも見えます。気のせいかもしれませんが。
 ということで、今日は大事を取って作業を中断し、明日に繰り延べることにました。少し予定が遅れるかもしれませんが、あしからずです。

 ところで、目次を見ていて思ったんですが、当神戸特集に、阪神神戸在住の会員はほぼ寄稿して下さっていますが、大阪在住者からは私だけなんですよね。
 やはりあまり馴染みのない土地がテーマでは書きにくいんでしょうか。
 次回特集号は、大阪にしましょうか。「幻の湾岸区」とか(>おい)(^^;
 でもそれだったら、今度は神戸方面の方が参加しにくいのか。
 全員がよく知っていて馴染みがあるものって、何かないですかね。
 あ。「昭和」か。昭和ならば全員経験してきましたもんね。
 いまは、思いつきで言っているだけですよ。今度の囲む会あたりで、相談するとしましょうか。

 それより何より、次回はレギュラー《チャチャヤング・ショートショート・マガジン》です。みなさんお忘れなきよう。締め切りは10月末あたりいかがでしょうか。近すぎますかね。



 

そろそろ到着しているようです

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 4日(土)00時20分35秒
返信・引用
  > No.6396[元記事へ]

 そろそろ到着報告が入り始めました。
 スマートレター分より半日遅れで発送したゆうメール分も、届いているようです。
 今度の判型、気に入って頂けているようで、ほっとしております。
 ということで、コピー屋で20冊分コピーしてきました。第2段の製作開始します。
 現在製品で8冊分在庫があるので、合計28冊。ギリギリですねえ。追加注文も入りましたので、足りないかも。
 表紙用光沢紙の残があと2枚しかありません。補充購入しておきましょう。
 嬉しい悲鳴であります(^^;
 

眉村さん情報:「短話ガチャンポン」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 3日(金)18時54分17秒
返信・引用 編集済
   眉村卓さんの新作『短話ガチャンポン』(双葉文庫)は、8月6日発売で確定したようです!→新刊カレンダー8月
 久々の作品集、楽しみ~(^^)
 

 

Re: 「蘭学探偵岩永淳庵 幽霊と若侍」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 3日(金)03時52分58秒
返信・引用 編集済
  > No.6400[元記事へ]

 平谷さん
 《蘭学探偵》シリーズ、面白いです(^^)
>ホームズモノの江戸版という目論見はありませんでした。
 そうでしたか。なんとなくそんなふうに思い込んでいました。
 たしかに探偵小説としてのホームズ譚とは小説の”作法”が違いますよね。けれどもホームズものには冒険小説の一面があって、そこは雰囲気が近い気がします。
 ホームズもののこの一面は、ディケンズら19世紀イギリス小説の伝統につらなる要素で、そこが似ていると感じるのは、短篇連作とはいえ本シリーズには、平谷さんの長篇物語作家としての資質が(他のシリーズにもまして)よく現れているからなんでしょうね。
 事実、本シリーズの主人公淳庵は、オールマイティなヒーローではなく欠点も多くあり(ゴミソの鐵次と比較すればそう言えるでしょう)、それを周囲の善意の人々が暖かく支えていくというプロットに、他シリーズにはあまりみられない(他シリーズにもあるんですが、本シリーズはそれが他作品よりも前面に押し出されている)特徴があって、わたし的にはそこがとても好ましいです。
 また科学探偵という意味では、超自然を扱う《ゴミソ》シリーズとは、世界観がまぎゃくなんですよね。その対比も面白い。(ゴミソシリーズもどんどん人間関係が拡大していっており、しだいに長編物語化していっているようですが)
 しかしこの両シリーズは、本当に対照的な世界観ですね(九州対津軽、蘭学対呪術)。いずれにしろ、どちらも平谷時代小説の代表シリーズになっていきそうですね。期待しております(^^)

 

Re: 「蘭学探偵岩永淳庵 幽霊と若侍」読了

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2015年 7月 3日(金)00時20分7秒
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  > No.6399[元記事へ]

追伸
ホームズモノの江戸版という目論見はありませんでした。森堤蛙はほんの遊びです(笑)
あの時代に存在した科学技術で使えるものを探すのが大変で、準備に四苦八苦します。
もともと文系頭ですんで(笑)


 

Re: 「蘭学探偵岩永淳庵 幽霊と若侍」読了

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2015年 7月 3日(金)00時10分2秒
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  > No.6398[元記事へ]

管理人さま

感想、ありがとうございました♪
「重箱の隅」確認いたします。

 

「蘭学探偵岩永淳庵 幽霊と若侍」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 2日(木)22時20分7秒
返信・引用 編集済
   平谷美樹『蘭学探偵 岩永淳庵 幽霊と若侍』(実業之日本社文庫、15)読了。

 蘭学探偵シリーズ第2巻です。いやー面白い面白い。で一気通読しちゃいました(^^)
 第一話「蚕と毒薬」は、シリーズの設定(著者の狙い)がまだちゃんと甦っていなかったためでしょう、ややかったるかったのですが(もちろん設定が頭に入った今再読すれば、面白く感じたはずです)、あとは怒涛のリーダビリティで巻措く能わずでした。
 ホームズものの江戸時代小説版という目論見があるんでしょうけど、その点は全然違います。著者の目論見に反して、パスティーシュではなく、オリジナルな岩永淳庵ものになっています(当時には存在しない科学知見での謎解きは「本格もの」の定義からは外れます)。
 とはいえ森堤蛙(モリアーティ)が(実際にではなく名前だけでも)登場すると、一気に小説世界が引き締まるのも事実です。しかしそれは悪者科学者VS科学探偵という普遍的構図からもたらされるもので、森堤蛙=モリアーティという個別的モデル関係から導出されるものではありません。
 かくのごとく、本シリーズは18世紀江戸の不可思議事件が、19世紀以降の自然科学的知見の導入によって解決される、いわば《科学=時代小説》の試みであります。この世界観(⊃世界設定)が大変面白い。そして魅力的です。その感覚はスチームパンクの変種といってもよいような気がします。
 しかしながら、本シリーズの醍醐味は、やはり淳庵をめぐる(良質の)人間関係の、一種のドタバタ劇の面白さなんですね。その意味では、江戸時代小説の王道をいくシリーズといえるかもしれません。

 例によって重箱の隅。
「犬と砂」で栗林の懐にあった松茸の香り付きの十両ですが、いつ、どこで受け取ったのか。153頁で淳庵が身代金の受け渡しをしているとき、栗林にはアリバイがあり、それ以降はずっと尾行がついています。
「幽霊と若侍」、223頁で「昨日、今日。合わせて十両だ」は、実際は4日めで、2、3、4で十五両なのでは?
「球と箱」358頁一行目の傍点は、ずれているような……m(__)m

 

「吼える密林」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 1日(水)23時26分53秒
返信・引用 編集済
  > No.6380[元記事へ]

 ここ二三日、めずらしくゴンヅクを出したので、筋肉痛です(^^;
 なので今日は製作はお休みにして、すでに読みおわっている本の感想など。

 南洋一郎猛獣征服 吼える密林』(大日本雄弁会講談社、38)読了。私は初版を国会図書館近代デジタルライブラリーで閲覧しました。

 著者の南洋一郎はルパンの翻訳で有名ですが、戦前は少年冒険小説を書いていたようです。
 本書は著者の最大のベストセラーですが、少年ものではありません。いや実際は少年たちが読んだんでしょうが、主人公はアメリカ人の狩猟冒険家。相棒のアメリカ人と組んで、アフリカやマレーシア、インドネシアの密林で狩猟し、ときに猛獣を生け捕りにして、本国などに送って生計を立てているようですが、基本、金持ちの道楽のようです。ある意味、インディ・ジョーンズみたいな感じですね。
 いま読むと、世界の野生動物を減少させたのはお前たちだろう、という、やや複雑な思いも抱かせられます。しかし当時は密猟でもなんでもなく、まっとうな職業だったんでしょう。
 などというのは、トウの立った大人の今日目線での感想で、初刊の1938年といえば小松さんが小学校1年生、星さんが小学校6年生です。ちょうどそのくらいの子どもたちは目を輝かせて読んだことは想像に難くないです。
 お話は、一本の太いストーリーがあるわけではなく、主人公のコンビと忠実な現地人の老従者が遭遇するライオン、トラ、ヒョウ、ワニ、サイ、ゾウ、その他多数の野獣や猛獣と、どのようにして戦い、あるいはどんな策を弄して倒したか、という話が連なっていきます。非常にリアルです。
 それはある意味、我々の世代でしたら、ウルトラマンの怪獣たちが、入れ替わり立ち代り日本にやってきてウルトラマンと戦い、敗れ去るのと、まったく同じ構造といえる。
 面白くないはずがありません。当時の子どもたちにとって、アフリカのジャングルは、今の子どもたちにとってのそれより、何倍も不思議で魅惑的な世界だったはずです。
 本書に描かれる動物の生態がどれほど正確なのか、私には分かりませんが、かなり誇張されているように感じられます。著者に本書の下敷きとなる話をした冒険家たちは、迫真感を出すため誇張して話したのでしょう。
 私の何の根拠もない推理ですが、おそらく著者は、外国語の(つまり未訳の)そのような物語を参考にしたのか、実際にそういう冒険家からの聞き取りなのか、それは分かりませんが、とにかく下敷きがあったと思われます。
 なんたって、日本人がまったく登場しない小説なんです。すでに支那事変は始まっていた時期です。考えてみたら、よくもまあこんな小説が、出版され、ベストセラーになったものです。当時の少年雑誌は、すでに山中峯太郎のような軍国的冒険物語が主流だったはずなんですから。
 ところが本書には、そのような軍国的雰囲気は皆無です。今日的な視点から言えば、それが本書の特色ですね。
 あるいは、のちにルパンものの翻訳で一家を成す著者ですから、外国語に堪能な一種の国際人で、立場的に一般的な日本人よりも日本を客観的に見ることができた人なのではないかな、そんな感じを持ちました。



 

Re: 会員分完成。ご注文承ります

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 7月 1日(水)21時30分31秒
返信・引用
  > No.6395[元記事へ]

 斎藤さん
 注文メール確認しました。
 いつもありがとうございます。
 可及的速やかに発送いたします。
 お振込みは、到着後でけっこうですよ。
 それではお楽しみに!

 


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