ヘリコニア過去ログ1508

Re: Re:I Robot

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月31日(月)23時43分18秒
返信・引用 編集済
  > No.6524[元記事へ]

 斎藤さん
 読書家のなかにも、気に入った作家の本は、重版改版するたびに、あるいは文庫化されたら、さらにはカバー違い、帯違い等、追いかけていく人がいます。私には理解できない情熱です。作家によっては重版の際に誤植を訂正したり、改稿したりする人が居ないわけではありませんが、基本、本の内容(活字の文字列)は、どの版を読んでも同じものだからです。
 でも斎藤さんの投稿を読んで、CD(音楽の録音)を書籍と同じように考えてはいけないことに思い至りました。

>音質の向上や、音像の明瞭化、楽器配置の明瞭化
 録音技術は実際、日進月歩で進化していますよね(聴き分けられる高級な再生装置を持っていることが前提ですが)。同じ音源(内容)であっても、録音再生含めて器(メディア)の進化で聴こえる音は違ってきます。したがって気に入ったアーチストのCDやDVDを発売されるたびに購入するのは、たしかに理にかなっています。
>「その最新の状態で聴かねば!!」
 ということですからね。

 書籍ではそのような技術の進歩はもうありません。その点が本とCDを同一視できないところですね。(いやまあカバー違い帯違いなどは、本の「器」の部分に価値を見出しているわけで、一概に無意味とはは言えないのですが、少なくとも私にとって、本は単なる容器に過ぎず、工芸品ではないのですなあ)
 この違いには、気がつきませんでした。新たな視界が開けた感じです(^^;

>継続の気構えが出来たら、更新を再開したい!!
 日記とか腕立て伏せとかと同じで、継続している間はいいのですが、一回途切れるとなかなか復帰できませんよね。
 ところがひょんなことで簡単に復活できたりもする場合もあったりしますから、その時が来るのを気長に待つしかないかもですねえ(^^;

 

Re: Re:I Robot

 投稿者:斎藤  投稿日:2015年 8月31日(月)22時00分26秒
返信・引用
  管理人さん、段野さん

「Don't Anser Me」はアラン・パーソンズ・プロジェクトの中では私のNo.1ソングです。
こういうポップス路線が大好物です。
これがこのタイミングでラジオで流れて来たというお話自体がとても嬉しくなります。
アラン・パーソンズ・プロジェクトは、アルバムは全部、というか、各アルバムとも3~4枚ずつ(全てCD)持っていたりします。
最初の80年代のCD発売以降、リマスター盤、紙ジャケ盤、デラックス仕様、ボックスなどで、何度も買い増ししているせいなのです。
ダイアー・ストレイツと、ビリー・ジョエル、ブルース・スプリングスティーンも似たような状態です。
これだけ同じ演奏を何度も購入させられる一番の原因は、私の物欲以外に、やはりそのアルバムの各楽曲と演奏がとても魅力的だから、と言っておきます。
その魅力をさらに引き出そうとオーディオ的な音質の向上や、音像の明瞭化、楽器配置の明瞭化などの手が施されると、どうしても「その最新の状態で聴かねば!!」と勢い込んでしまうようです。

管理人さん、
私のブログ未更新は、完璧にサボリです。
CDの購入量は変わっていないし(年間約千枚ペース)、「これは良い」と思うCDの出現ペースも変わっていないのです。
なのに、更新・書き込み意欲がなかなか湧いてこなくて...
3.11震災時の計画停電等で、パソコンもオーディオも使えない状態が結構続いた時に、ブログ更新も途絶え、基本的にそのままなのです。
何度か更新を試みましたが、その時だけで後が続かないという、ていたらくな状態です。
継続の気構えが出来たら、更新を再開したい!! と思っています。
 

Re: Re:I Robot

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月31日(月)17時58分39秒
返信・引用
  > No.6522[元記事へ]

 承前。下のコメントを投稿後、車で外出したのですが、カーラジオからアラン・パーソンズ・プロジェクトの Don't Answer Me が流れてきて、びっくりしました。
 

 シンクロニシティでしょうか!
 いやいや、ひそかにAPPの人気復活してきているのかも。それはないですか(^^;

 

 ところでこの曲を聴くと、あの曲を思い出すんだよなあ、という方もいらっしゃるのではないでしょうか(^^;

 

 ちなみにAPPは1984年、あの曲は1990年の発売ですね。曲名をぼかしたのはパトリオティックなファンの乱入を防ぐためで、他意はありません(それともこれが他意なのか)(汗)。
 

Re: Re:I Robot

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月31日(月)12時57分57秒
返信・引用 編集済
  > No.6521[元記事へ]

 段野さん
 あらら、段野さんもお好きでしたか(^^)
「イブの肖像」は持っていません。いまyoutubeで「ルシファー」だけ視聴しました。
 いいですねえ。まさに日本人好みの甘い、というかソフトボイルドなマイナー曲ですね。これ、テレビの2時間サスペンスものなんかのBGMにぴったりではないでしょうか。というか実際使われていたのかも。使われていて当然な気がしてきました(^^;。
 今夜ゆっくり視聴してみます。
 
 

Re:Re:I Robot

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 8月31日(月)10時18分51秒
返信・引用
  アラン・パーソンズ・プロジェクトの「イヴの肖像」が好きです。ここで、アラン・パーソンズ・プロジェクトの話題がでるとは、驚きました。「ルシファー」とか、よかったです。〝プログレ〟で、よく録音していました。ン十年前の出来事でした。懐かしく思い、古いテープ(切れるかも知れない)を持ち出してきました。恐怖のテープ切れです。どうか切れませんようにと願いながらです。  

「レイコちゃんと蒲鉾工場」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月30日(日)22時35分40秒
返信・引用 編集済
  > No.6516[元記事へ]

 承前。ひきつづき後半の4篇を読みました。

 「消化」は、工場の制御を司る人工知能《蒲式自立型イオンチャンネル複合体自動危機管理管制システム――略称・ボッコちゃん》が、どうやら誤作動を起こしており、その解決のために《特殊事件調査検討解決係》の二人組が出動します。
 このAIのふるまいが、やはりそこはかとなく石原藤夫さんのロボットを想起させるんですね。面白かった。

「金管」 おお、これはある意味ジャズ小説ですね。真夜中に聴こえてきた金管楽器の音色に誘われて、レイコちゃんは家を抜け出し、裏手の堤防に向かう。堤防の側壁に開いた排水口めいた土管をくぐり抜けると、そこには(当然あるはずの狭い水路ではなく)運河のような大きな水路が広がっていた。そしてレイコちゃんが対岸に見たのは、奇妙な形の金管楽器を吹くヌートリアのような生物だった! レイコちゃんはトランペットの練習を始め、水路のこっちと向こうで、(束の間の)音の会話が交わされる……。これもよいです。

「残業」は、本篇の世界観の解説的作品。蒲鉾工場のあるこの町自体が、実はゾンビかもしれないことが暗示されます。

「暗転」 珈琲店の常連である劇団の演出家氏の頼みで、ぼくとレイコちゃんとお母さんは、くだんの映画館で催される芝居に、通行人の家族役で出演することになる。
 実はこの連作、ふつうだったら(こういう設定からして)お母さんとぼくが淡い恋愛感情になるものだけれど、まあそんなテレビドラマ的ゆくたては作者の好みではないわな、と思っていました。事実ここまでそんな気配は毫もなかった。ところが……。やっぱりなりませんでした。実はなる必要がなかった。なぜなら……。
 このラスト、小松左京ではありませんかっ!? ゾンビ世界での永劫回帰という哀愁に満ちた終幕。いやーよかった。

 以上、北野勇作『レイコちゃんと蒲鉾工場』(光文社文庫、08)読了。哀感とお笑いの面白小説でした。

 

Re: I Robot

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月30日(日)21時34分10秒
返信・引用 編集済
  > No.6518[元記事へ]

 斎藤さん

 おお、アラン・パーソンズ・プロジェクトが好きな人に、人生はじめて出遭ったような気がします。うれしいです(^^;
 いいですよねえ。プログレにしてはウェットですが、そこがまた心地よいのですね。SFでいえばマイクル・コニイのポジションでしょうか。
 ただ、その部分がしだいにウェイトを占めてきて(尖った部分がさらに消えていって)、ロックなのかポップスなのか区別できなくなってしまうので、アルバムは大体持っていますが、今でもたまに聴くのは、I RobotとEye in the Sky だけです(1枚目のポーは持っていません)。
 そういえば、斎藤さんの音楽サイトが更新されなくなって久しいですが、新しいサイトを立ち上げられているんですか?
 

 

Re: I Robot

 投稿者:斎藤  投稿日:2015年 8月30日(日)19時17分13秒
返信・引用
  アラン・パーソンズ・プロジェクトですね。
大好きです。エリックのソロアルバムも。
日本ではマイナーと思っていましたから、ここでお目に掛かれて妙に嬉しいです。
オーディオ的優秀録音盤の常連でもありますね。オーディオ雑誌の音質評価で10点満点をポップス・ロックのジャンルで獲得する希少なバンドでした。
なので、私も聴き始めはオーディオ的な興味からでした。
でも、気が付くと、楽曲と演奏・サウンド自体の魅力にもドップリとはまっていました。
アラン・パーソンズ流スペクターサウンドの「音の壁」に包まれて、とても心地良くなります。
いつもは、USインディーズ系のギター・バンドを主食にしていますが、久々にアラン・パーソンズ・プロジェクトを引っ張り出したい気分になりました。
 

I Robot

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月30日(日)00時37分9秒
返信・引用 編集済
   
 これ、トータルアルバムで曲と曲の間が連続的に変わっていくのですが、昨日聴いた時は、そこを無理やりぶった切って5秒CMが、それも頻繁に入っていたのです。
 ところが今聴いたら全くそんなことはなく、気持よく聴き終えた。CMは個別作品とは連動しておらず、別の基準で挿入されるということでしょうか。
 いずれにしろ人間がやっているのなら、そんな無惨なことはしないと思います。一種のロボットが行っているんでしょう。とにかくメイワクな話であります。

 

「レイコちゃんと蒲鉾工場」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月29日(土)22時11分52秒
返信・引用 編集済
  > No.6515[元記事へ]

 承前。全8篇中、4篇読みました。本書は連作短篇集で、蒲鉾工場に勤める入社したての新人である「ぼく」が、配属された《特殊事件調査検討解決係》で(部署は社員用娯楽室の片隅の元は掃除用具入れだった2畳ほどの部屋)、豚盛係長のもと、唯一人の係員として工場内に起こる摩訶不思議な奇現象・怪事件を、快刀乱麻に解決していくお話を集めた作品集です(>嘘ではありません)(^^;
 もうひとつ流れがあり、それは「ぼく」がひょんなことで知り合った珈琲店の娘でレイコちゃんという(名前の由来はレイコー)、これまたフシギな女の子との交流が描かれます。この二つの、いわばオンジョブとオフジョブの「ぼく」が交代交代に描かれていくようです。

 第1話「焼印」では研究開発中の「特製自走式特殊蒲鉾」が、品質管理部長を誘拐して逃走する。工場内に隠れているのは間違いない。さっそく「ぼく」と豚盛係長が、おっとり刀で解決に乗り出すのでしたが……(汗)
*このオンジョブパートは、豚盛係長との会話等に私はそこはかとなくヨコジュンを彷彿とさせられるのですが(もちろんもっと鎮静的ユーモアです)、本篇に関しては石原藤夫描くところの奇妙なロボット群を想起させられました(アプローチは全然違います。たとえば「ロボット工場自爆す」)。

 第2話「迷子」 レイコちゃんとの出会いが描かれます。これは傑作。連作中の1篇ですが、短篇小説として自立しています。ちょっとタルホ成分があって、私なら本書の表紙イラストは、珈琲店の二階の満月のような丸窓から顔をのぞかせている女の子という注文をつけますがねえ(^^;

 第3話「夜食」 工場内から資材が盗難される事件が発生する。コンテナ数台分の原料が一夜にして消えてしまい、例によって係長とぼくに出動命令が下る……。豚盛係長の天敵・魅夜キミコ飼育課長初登場(実は元夫婦)(笑)。
「なあるほど、そういうカラクリだったのかい」
 係長が突如岡っ引き言葉になったかと思えば、
「よし、わかった」と手を打ったり、翌朝「上半身は汚泥に突き刺さり、逆立ちするように両足をぴんっ、と天に伸ばした格好」の死体が発見されたり(>おい)(^^;
 それにしても魅夜課長も謎の人物で、蛇の化身なんでしょうか??

 第4話「銀幕」 日曜日、ぼくはレイコちゃんをつれて映画館に行きます。大昔のSF映画が掛かっていたのです。あの有名な、夜明け前の荒野のシーンで、忽然と巨大な蒲鉾板が出現し、それに触れることで、人類が進化の階梯をひとつ上がることになった、あの映画です。
 見終わって映画館を出たぼくは、レイコちゃんにひっぱられて裏道に入っていくのですが、そこでみた幻像は……
 ここ、ちょっとわかりにくかった。「堤防と鉄橋と水路で区切られた四角い枠の中」にレイコちゃんが見えているのですが(鉄橋は何路線も平行して走る巨大な鉄橋のようです)、レイコちゃんは堤防上ではなく、堤防から水路側に降りているんでしょうか。まあ些細な疑問であります。

 面白いなあ(^^)

 

「レイコちゃんと蒲鉾工場」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月28日(金)21時12分30秒
返信・引用 編集済
  > No.6514[元記事へ]

 承前。検索したら『エクソダス症候群』は火星の精神病院が舞台なんですね。なんか荒巻さんみたいで面白そう。早速前言取り消しで(汗)、こちらも読んでみることにします。

 ところで、実は昨日「最後の接触」も読んだのでした。初出はネオヌルです。今回読んで遅まきながら気づいたのですが、これって「決戦・日本シリーズ」ですよね。恥ずかしながら全然気づいてませんでした(当時はどうだったんでしょうか。SFファンの性向からして、きっと盛り上がったに違いありません)。
 もちろんページを上下に分かたなければならない理由は同じではありません。が、私の思うに、これをやりたくて堀さんは、上下に分かち書きすることが必要なプロットを思いつかれたんじゃないでしょうか。
 やはり堀さんは、根底でファンライターであり続けておられるんでしょうねえ。

 ということで(どういうことだ)、北野勇作『レイコちゃんと蒲鉾工場』に着手。
 北野さんあたりまでが(つまり第4世代?)、大体私の食指が反応する範囲ですね。
 ところでこのタイトル、「チャーリーとチョコレート工場」のモジリと思います(チョコレート工場は05年、蒲鉾工場は08年)。北野さんも堀さんと同じく、最深層にファンライターを棲まわせているんでしょうね(^^;


 

Re: 「暗黒星団」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月28日(金)12時14分2秒
返信・引用 編集済
  > No.6513[元記事へ]

 堀さん
 いろいろと情報ありがとうございます。
>「寄せ集め」云々
 速記録で確認しましたが、言ってますねえ。自社出版物に対してたいがいな言いようで、呆れました。
 それに「寄せ集め」を辞書どおりの意味で使用したのなら、事実でもありません。これだけハードSF 、宇宙SFで統一された作品集を「寄せ集め」というのは言いがかりですよね。当時、石原さんの作品集が既にあったと思いますが、石原ハードSFは、ちょっと主流を外れた独特の作風(海野十三の系譜?)ですから、日本ではじめて出版された純ハードSF(で統一された)作品集といって間違いないです。まあ法廷戦術の陳述なんでしょうが。

>NULL10号(1964)に掲載の15枚の短編がベース
「濁流」ですね。こういう知識は、当時を知る第一世代ファンにとっては周知の事実でしょうが、それ以降のSFファンは知らないと思います。私も知らなかったので、一つ知識が増えました。
 また、インターネットに載ったことで、堀晃について調べている人の目に触れる可能性が生まれました。とても結構なことだと思います。

>もっと新しい方にもご注目を
 うーん。なんか最近、もう新しい作家はいいかな、という感じなんですよね。大体20世紀の日本SFに限ってさえ、半分も読めていないはずです。若い頃は諸般の事情で、読みたかったけど断念したという本が沢山あり、今それを見つけてきて読んでは、当時の怨念を解消している感じで、それが楽しい。なかなか新しい作家に関心が向かないですねえ。まあ老化なんですが。
 あ、でも谷甲州さんは同世代ですし、読んでみようと思います。

 

Re: 「暗黒星団」を読んだ

 投稿者:堀 晃  投稿日:2015年 8月28日(金)04時10分17秒
返信・引用
  > No.6512[元記事へ]

 わ、冷や汗が出てきますね。
 この作品が収録されている短編集は、当の出版社からは「新人の寄せ集め短編集」で「かなり習作らしきものも入っている」(細井恵津子)と法廷で証言されており「なかみは保証できない」代物らしいのです。
※「寄せ集め」とは、ある国語辞典では「とにかく数をそろえればいいという考えであつめた結果、さまざまなものがごちゃごちゃにまじっていて、なかみは保証できない、という気持ちが強い」と解説してあります。質はともかく、作者としてはそんな姿勢でセレクトしたつもりはまったくないのですが。
 ということで、申し訳ないというか、照れくさいというか、山田浩二が前科をあばかれる気分というか……ちょっとちがうか。
 ただ、アイデアのコアの部分(原子レベルの世代交番)はNULL10号(1964)に掲載の15枚の短編がベースになってます。合評会で小松さんに褒めてもらい、この線を続ければ面白いといわれたのはよく覚えております。設定を膨らます時に師匠を意識したのは確か。
 まあ、しかし、わが「習作」はともかく、もっと新しい方にもご注目を。宮内悠介『エクソダス症候群』とか谷甲州『コロンビア・ゼロ』とか。
 

「暗黒星団」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月27日(木)22時56分40秒
返信・引用
  > No.6510[元記事へ]

 承前。昨日は「迷宮の風」を読みましたので、今日は《加速度愛好者・タキ》シリーズの前作「暗黒星団」を読みました。
 最後の恒星間飛行士タキは、ワープ航法の実用化で働き場所を失います。カリフォルニアで自堕落な生活を送っていたタキのもとに、カリフォルニア工科大のヤマモトからとんでもないオファーが舞い込む。
 暗黒星団と呼ばれる、6個のブラックホールが結晶状に集まった(正八面体の頂点?)星団の中心に、惑星をともなった恒星が発見される。
 
 調査隊が赴き無人調査機を飛ばすも、ブラックホールの縁にそって潜り込んでいくのが無人機では大変困難で、燃料を使い果たして失敗に終わる。しかし唯一(地球時間で20年かかって)回収された映像は、惑星の生物たちが先を争うように集団自殺を遂げている姿を捉えていた。
 この謎を解くためには、やはり人間が宇宙船を操って潜り込むしか方法がないとなり、ブラックホールの高Gに耐性があり、ウラシマ効果を気にしない元恒星間飛行士のタキに白羽の矢が立ったのでした。
 久しぶりに高揚するものを感じながら、重力場の隙間を縫うように潜り込んでいき、多くの生体データを携えて、3か月の旅から帰ってきたタキを待っていたのは、20歳年取ったヤマモトでした。
 遺伝子データを解析した彼らが見つけたのは、惑星の生物が、そのきわめて特殊な重力環境に適応して、究極の世代交番を獲得していることでした。そしてその世代交番というのが、何と「物質と反物質の間での世代交番」だったのです!?
 そのときあたかも、月面の研究所では、生化学班が世代交番を誘導する実験を開始していた……

 面白い(^^)
 タキが加速度愛好者だった理由も明かされるのですが、これもなかなか面白いです。
 ところで「6個のブラックホールが結晶状に集まった星団の中心に囚えられた恒星」でただちに連想したのが、「青白く燃える十四個の恒星が、あたかも巨大な水晶のごとく配列された美しい星団。その中心部に存在する黒点、通称「謎の暗黒」の探査に乗り出した調査隊」(ハルキ文庫惹句)です(^^;。
 注目すべきは、ブラックホールと恒星の構図が逆転していることです。これは明らかに「挑戦」じゃないでしょうか! 私はそう読みましたが、如何m(__)m

 

眉村さん情報「少国民の時代」第五回

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月27日(木)18時28分50秒
返信・引用 編集済
   本日の産経新聞夕刊に、眉村さんの連載「少國民の時代」(第五回)が掲載されました。



 

Re: 「大阪の「地盤沈下」とその闘い」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月26日(水)21時20分4秒
返信・引用 編集済
  > No.6509[元記事へ]

 堀さん

>国道2号線陥没の事故、ぼくも翌日に野次馬として見物に行きました
 ああ、やっぱりそうでしたか。きっと小松さんとはその話題で盛り上がったんでしょうね。

>『崑崙遊撃隊』
 は、私も大好きな作品で、時代設定と言い場所設定と言い、山田さんの秘境冒険ものの最高傑作だと思います。

>「流体素子は気体か……水ではだめなんだ」
 ウィキペディアでは「水や空気を利用して」となっているんですが、これは流体素子にはなりえるという意味ですね。
 では「だめ」というのは、コンピュータに利用するには計算速度があまりにも遅すぎて使いものにならないということでしょうか(空気なら少なくとも音速にはなる)。

 ということで(『崑崙遊撃隊』は長篇なので遠慮して)「迷宮の風」を再読してみました。
>「地底に生き物などいなかったよ」
 ええ!?
 そして、
>「惑星ミノタウロス自体、一個の宇宙生物と考えられるわけだ」
 この言葉で、おお! とセンス・オブ・ワンダーでした(^^)

 妄想解説させていただきます。この惑星は自発的に危機を回避したわけで、自意識があるかどうかは分かりませんが、生存本能が備わっているのは間違いないですよね。その意味でマイナスエントロピー的存在であり、れっきとした生命と言えます。一種のケイ素型生命体ですよね(^^;

 

Re: 「大阪の「地盤沈下」とその闘い」を読んだ

 投稿者:堀 晃  投稿日:2015年 8月26日(水)03時32分46秒
返信・引用
  > No.6508[元記事へ]

 国道2号線陥没の事故、ぼくも翌日に野次馬として見物に行きました。
 なかなかの眺め。
 拙作「梅田地下オデッセイ」の表記は、正確には天満砂礫層の梅田部分ですから「梅田の砂礫層」にすべきでしょうね。昨年、有栖川有栖篇「大阪ラビリンス」(新潮文庫)に収録される時に、これが最終バージョンだろうと、細かいミスを直したのですが(一箇所「八番街」を「三番街」と書いてたり、地図の表記で「ホテル阪神」を「阪神ホテル」にしてたり)、この部分はまあいいか感覚でした。
 ところで、驚いたのが、

>大阪の地下水脈網が、ある日意識をもち……

 の部分。
 これは、もう書いてもいいと思いますので……
 山田正紀さんと初対面かその次にあった時だったか、こんな構想を聞かされました。
「黄河の源流、ゴビ砂漠の地下に細かい水脈が張り巡らされていて、これが水脈コンピュータとして機能して、知性を持ち、黄河流域を支配している。ある時、ゴビ砂漠に怪獣が出没しはじめ、それはバグの発現らしい。そこでバグ退治のコマンドが組織され、ゴビ砂漠の奥地へ向かうことになる」
 これが『崑崙遊撃隊』の最初の構想です。
 流体素子は大学時代に隣の研究室がやってましたから、資料のコピーを送ったら「流体素子は気体か……水ではだめなんだ」「拡大解釈していいと思うよ」などの結果、設定は別のかたちにシフトされたようです。
 それなら、おれも流体素子を使っていいかなと書いたのが「迷宮の風」という短編ですが、物語のスケールが山田さんのが桁違いに大きいです。
 ともかく40年前の話です。
 

「大阪の「地盤沈下」とその闘い」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月25日(火)21時11分30秒
返信・引用 編集済
   小松左京『わたしの大阪』より、「大阪の「地盤沈下」とその闘い」を読みました。
 本篇は或る印象的な場面から始まります。
 昭和50年9月。梅新交差点南西隅でタクシーを降りた著者は、異様な光景に遭遇します。著者から見て西、桜橋へと至る国道2号線の北新地側の舗装面がぐにゃりという感じで沈み込み、路面のタクシーやライトバンがななめに傾ぎつつ、ずるずると引きずり込まれていくではありませんか!?
 実はこのとき、2号線北側の、当時建設中だった大阪駅前第2ビルで、地下4階部分(地表下20メートル~23メートル)を掘削中だったのですが、コンクリートの土留壁の継手部分から地下水が吹き出し、やがて土砂混じりになって地下室に溢れていたのです。
 この辺りは地下23.9メートル付近に「天満砂礫層」というのがあって、ここには高圧の地下水がたまっているらしい。それが駅前第2ビルの地下階層に噴出したため、水圧が解放されたことでいわゆる「地層圧縮」が起こって、その上部の地面が沈下したのでした。
 そういえばこの砂礫層、『梅田地下オデッセイ』でもやはり駅前第2ビルの地下で噴出していましたよね。堀さんもこの地盤沈下事故をモデルにされていたのかもしれませんね(堀作品では「梅田砂礫層」となっていますが、同じものでしょう)。
 閑話休題。
 著者はそのとき、2号線の南側、現在のアバンザの北側の通りが、かつて存在した「蜆川」を埋め立てた跡であることを思い出します。この蜆川(を埋め立てた通り)はそのまま西流して、南岸に関電病院、北岸にジャズ住職のお寺を眺めつつ、先般かんべさんが交通事故を目撃された堂島大橋北詰あたりで堂島川に再合流します。
 著者はこの埋め立てられた蜆川が、実は地下でまだ生きていて、それが氾濫したのではないか、と思ったそうです。実際は蜆川はそんなに深くなく、川底よりさらに地底の、前述の天満砂礫層に横穴があいたのでした。
 いずれにせよ、大阪という都市が、八十島と言われた昔と何ら変わりなく、水の上に浮かんだあやうい立地であることを再認識させられます。
(大阪の地下水脈網が、ある日意識をもち、工業用水で吸い上げる人類の無体ぶりに怒って大阪の各地で水害を起こす、というアイデアを思いつきました。ちょっと田中光二風ですが(^^;)
 この体験から俄然興味を持たれたのでしょうか。著者は大阪の地盤沈下について調べられたようで、本篇がその報告と言えます。
 端的に言って、地盤沈下の主原因は、上述のように工業用水としての取水にあることが分かりました。「工場稼働」と「地下水位の変化」は関係していたのです。地盤沈下は戦前からあり、昭和13年が最初のピークで、17年に沈下が鈍る。これは太平洋戦争の軍需景気と、17年以降は戦局が悪化し、原材料もなくなって生産が低下したためです。
 この傾向は昭和23年まで続くが、それ以降、ふたたび地盤沈下がはじまる。もちろん日本の経済復興が開始されたからです。
 地盤沈下は二次被害をもたらします。それは大阪の街区が地盤沈下で海水が流れ込みやすくなった結果、台風の被害が極限化したのです(室戸台風、ジェーン台風、第2室戸)。
 二次被害といえば、これも著者が実際に目撃したことですが、著者が中之島図書館から出て公会堂の方へ歩いて行くと、公園のベンチでアベックがいちゃいちゃしていた。二十分ほどして戻ってくると、アベックはまだいましたが、折からの満潮で、なんとベンチの脚元まで水に覆われていたのです。アベックは夢中で気が付かなかったみたい。で、あわてて男が靴を脱ぎ、ズボンをまくりあげて、女性をおぶってジャブジャブ水をわたってきたんだそうで、著者の笑わなかったことか。これもまた二次被害と言えますなあ。
 冗談はさておき、その解決は地下水使用の禁止しかなかった。それは非常に困難なことでしたが(地下水はタダ)、結論として、大阪市(府もか)はやり遂げたんですね。
 ですから今日、台風の水害もほとんどありません。地盤沈下は止まったのです。
 ところで本篇は、地質上の「地盤沈下」と経済上の「大阪の地盤沈下」を掛けているんですが、後者の方はいまだに止まらない、どころか、さらに沈下が進行しているのですよねえ・・

 

Re: Re:ウインドウズ10

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月25日(火)21時04分48秒
返信・引用
  > No.6506[元記事へ]

 段野さん
 なるほど、どうやら大丈夫そうですね。
 でももうちょっと様子を見ようと思います。他の方から報告があるかもしれませんし。
 ともあれ、ご報告ありがとうございました。

 

Re:Re:ウインドウズ10

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 8月25日(火)19時49分35秒
返信・引用
  管理人さま
ユーチューブは、普通ですね。カクカクしませんでした。あと、私には懸案のワードでしたが、無事出てきました。違和感といえば、この掲示板を書いている時にも、「予測変換」してくれるので、楽というか、ワードを書いている時みたいな感じです。「無償」に引き付けられましたが、意外とうまくいったな、というところです。(私のような素人でもできました)
 

Re: Re:ウインドウズ10

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月25日(火)17時57分25秒
返信・引用 編集済
  > No.6504[元記事へ]

段野さん
>ウィンドウズ10にアップグレードしました。
 おお、それは蛮勇をふるわれましたね!
 でもうまくいったようですね。おめでとうございます!

>立ち上がった画面も従来通りでしたので、不便さはありませんでした
 とのことですが、インターネット重くなったような感じはありませんか?
 たとえばユーチューブがカクカクしたりしません?
 昔はテキストを読めたらオッケーだったのですが、この頃はむしろユーチューブがメインです。しかもスキルが上がって、たまに映像作品の違法視聴もしますので(>おい)、そのへんとても気になります。
 しばらく使用されて、使い勝手の報告もよければお願いします(^^;
 

 

Re:Re:ウインドウズ10

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 8月25日(火)17時17分57秒
返信・引用
  管理人さま
メールの件は解決しました。私には「ウインドウズ・ライブ・メール」の機能があったのでした。この掲示版にも簡単にたどり着けたのですから。あちこちと、探しまくりました。アドレス帳も無事でした。立ち上がった画面も従来通りでしたので、不便さはありませんでした。ただ、アップグレートに時間がかかりました。まあ、やれやれです。ほっとしました。(泣きを見ずに済みました)
 

Re:ウィンドウズ10

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 8月25日(火)16時02分49秒
返信・引用
  管理人さま
ウィンドウズ10にアップグレードしました。メールに問題が出てきました。橋元さまのように、うまく問題解決できるまでには時間がかかりそうです。「エッジ」が難解です。アップグレードは1時間で完了しましたが、メールです。(泣きそうです)
とりあえずご報告です。
 

Re: 「古代のなにわ」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月23日(日)22時19分17秒
返信・引用 編集済
  > No.6495[元記事へ]

 承前、昨日このタイトルで書き始めたときの一番の眼目は、小松さんの大化の改新観だったのです。
 ところが書いているうちに、なぜかそれを失念してしまっていました。
 なぜかと書きましたが、私にはまあよくあることなのです。これはひとえに見取り図を作ってから書き出すのではなく、いきあたりばったりに書きだす私の書法に起因するもので、おそらく私が長い小説を書けないことも説明するものです。それは仕事にも言えて何か月も先を読むことができません。頭が緻密にできていないんでしょうなあ。
 というわけで、改めて書きます。
 著者によれば、大化の改新は、仏教国家か律令国家かという選択肢で後者が選択されたことを意味するとします。
 その辺は私も、「魔耶山の道教寺院」(「怪異居留地」所収)で記しました。しかしそれではなぜ天武はクーデターを起こしたかを説明できなかった(一応天武は在地系だからとしましたが)。
 著者によれば大化の改新は思想的には(プランは)軽皇子派(向唐開明派)が、実働部隊は中大兄皇子派(武断・公安系)が担当する二重体制だったとします。高向玄理や僧旻、南淵請安ら遣唐使を経験したブレーンは軽皇子派だった。彼らは隋滅亡唐勃興をその目で見ていた人々で、日本の新体制はそれを踏まえたものでなければならないと考えていた。ですから孝徳天皇が(外国への窓口である)難波に遷都したのもよく分かる(仏教国家体制における聖徳太子と同じポジションかも)。
 ここから私の感想が混じります(のでご注意)。遣唐使から話を聞いて外国情勢をよく知っている孝徳天皇は、唐が攻め込もうとしている百済の命運は既に見えていたに違いない。おそらく百済に対して冷たかった。
 そこで国内の百済系氏族は、中大兄の懐柔にかかった。軍人気質の中大兄は外国かぶれの孝徳が薄っぺらに見えていたかもしれません。実際信頼感では中大兄に負けていたんでしょう。で、中大兄は皆を(なんと孝徳の奥さん間人皇女まで)引き連れて飛鳥に戻ってしまう。結局天智は百済に深入りして唐に戦いを挑み大敗し、近江にまで逃げてしまう。
 無能天皇が定説だった孝徳にこのような役割を見たのは、少なくとも私は本論がはじめてです。
 これも中大兄に視点をおかず、大阪に視点を固定したからこそ見えてきた新解釈なんですね。
 それでは天武はなぜクーデターを起こしたのか。天智が百済系の仏教勢力である渡来人(漢氏ら)に取り込まれてしまったからです。それでも天智が存命ならばその強烈な個性で天皇親政の大目標は維持されるが、代が変われば再び仏教的氏族連合国家に逆戻りすることは火を見るより明らか、と天武の目には映ったんではないでしょうか。そして天武はその後ろ盾として、頭はいいが胆力はない開明派(現在で言えば官僚ですな)ではなく、大和に入らずその周辺に蟠踞した非百済系の渡来氏族や東大和(吉野・宇陀)以東の在地系豪族(山人系?)を選択したのではないでしょうか。
 おや、いつの間にか本論の内容から越境してしまってますね。上に述べたことがすべて本論に書かれているわけではありませんので、念のため(^^;

 

Re: スベントンシリーズの一冊を入手しまた。

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月23日(日)20時53分25秒
返信・引用
  > No.6500[元記事へ]

 斎藤さん
>本の場合には半分まで
 というのはいくらでも抜け道がありそうです。たとえば時間差で2回に分けて申し込むとか、二人で申し込むとか(その場合はもちろん私が喜んでお手伝いさせていただきます)。
 ただ複写に3000円(プラス送料)というのは、たしかに二の足を踏ませますね。
 まあ、表紙画像がネットにないそうですから、表紙だけカラーで複写してもいいかも知れませんね。

 私も一瞬、手作り本作ったらどうかな、と思いました。今はちょっとそんな余裕はないのですが、時間があればしてもいいかな、と(^^;
 で、作るとしたら、コピーをそのまま版下にするのが簡単ですが、OCRに通してテキスト化すればきれいなのが作れるんですよね。石原さんの『海洋未来物語』私家版はテキスト化して製作したのですが、OCRが実に微妙な(いかにもありそうな)読み取り間違いをしてくれるので、(国語辞典で確認したり)ずいぶん難渋しました。目もかなり悪くなりました。
 とか、いろいろ思い出して、やっぱりすぐには難しいなという結論でありました(^^;

 

Re: スベントンシリーズの一冊を入手しまた。

 投稿者:斎藤  投稿日:2015年 8月23日(日)19時06分31秒
返信・引用
  > No.6498[元記事へ]

管理人さん、貴重なリンク情報をありがとうございます。
ご推察通り、現物を自分の物にしたいという気持ちが強く、「借りる」ことが苦手な私なのですが、「WEB複写サービス」に興味津々で、早速、大阪府立中央図書館国際児童文学館のサイトを訪問しました。
なんか、検索でズバリ出てくるだけも嬉しい感じです。
WEB複写サービス、申し込んじゃおうと思い、ボタンを押してサービス内容を確認したら、本の場合には半分までという制約付でした。
しかも、1枚30円ですから、もし一冊丸々OKだったとしても、見開き複写でも3,000円以上になります。(本は200ページ以上です)
実物でないものに一冊3,000円以上はさすがに躊躇してしまいます。
物欲満点の自分としては、実物を手にして読みたいということも含め、今回は諦めることにしました。

スベントンシリーズですが、私が入手した2作目でも、表紙等には翻訳者名は表記されていませんが、ビヤネール多美子さんが翻訳者として巻末に略歴の記載がありました。
スウェーデン語で書かれた本の翻訳書や、スウェーデンの教育事情などを紹介した著作本がアマゾンでも多数ヒットしました。
眉村さんの解説によれば、シリーズは全部で7作あって、テレビ放映もされ、10か国に翻訳されていたとのことです。
ニルス=ホルゲルソン賞(一瞬、ん?、ニルス・ロフグレン?と見間違ってしまいました。有名なニルスの不思議な旅のニルスですね)という児童文学賞を受賞しているとも書かれています。
相当の名作でかつ、人気作なのですね。
是非、全作復刊して欲しい(もちろん新約などせず、現約のままで)ものです。
 

ウィンドウズ10

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月23日(日)15時13分14秒
返信・引用 編集済
   windows10にアップグレードするべきかどうか、について、この記事がなかなかよいです。
 http://hiroshi10010269.com/category/%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3/
 ずっと下の方まで連載されています。
 一番の利点はサポート期限が伸びること(7=2020年、8=2023年)とのことですが、今使っているPCを5年後まで使っているかどうかといえばきわめてアヤシイ気がします。前のXP機が8年使えましたから、ギリギリくらいか(現時点で2年以上使用)。

 

Re: スベントンシリーズの一冊を入手しまた。

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月23日(日)14時09分27秒
返信・引用 編集済
  > No.6497[元記事へ]

 斎藤さん

>「私立探偵スベントンシリーズ」の一冊を遂に入手しました。
>入手出来たのは、「北極怪人とさばくの怪職人」で、

 おお、ご入手おめでとうございます!
 この「私立探偵スベントンシリーズ」(文:眉村卓、訳:ビヤネール多美子)は、眉村さんのお仕事の中でも、唐突感のあるものですよね。どのような経緯でこのプロジェクトが成ったのか知りたいものです。
 私のリストが非常におざなりなのは、当時これだけしか調べられなかったのか、あるいは検索技術がまだ未熟だったのかもしれません。
 今検索したら、この程度まで簡単に分かりました。(「迷探偵」では、眉村卓、ビヤネール多美子竹俣共訳となっています)

  『迷探偵スベントン登場』世界の児童文学名作シリーズ 講談社 1971/09/12

  『私立探偵スベントン1 -ストックホルムのひまなし探偵』講談社 1973/02/28
  『私立探偵スベントン2 -北極怪盗とさばくの怪職人』講談社 1973/02/28/02/28
  『私立探偵スベントン3 -ねことり怪人と地下室ギャング』講談社 1973/02/28
  『私立探偵スベントン4 -デパート怪人はにおいなし』講談社 1973/04/20
  『私立探偵スベントン5 -おばけ屋敷と四つの怪事件』講談社 1973/04/20

>この「世界の児童文学名作シリーズ」に収録されていたのは一作目だけで、2作目以降は単独ものになったようです。
>それに合わせて、一作目も、単独シリーズものとして、タイトルも変更されて刊行されたようです。
 斉藤さんのご想像のとおりのようですね。『迷探偵スベントン登場』→『私立探偵スベントン1 -ストックホルムのひまなし探偵』ですね。

 このシリーズ、本国では児童ミステリの賞も授与されているみたいで、アストリッド・リンドグレーンの《名探偵カッレくん》に並ぶほどのシリーズのようです→こちら

 神奈川近代文学館に、『迷探偵スベントン登場』と『私立探偵スベントン』の1巻と2巻が収蔵されていて、閲覧できるようです。(註。なお前者はふつうに資料検索しても何故かたどり着けません。タイトル=迷探偵、出版年=1971と(だけ)入力したら出てきます)神奈川近代文学館HP

 あと大阪府立中央図書館国際児童文学館に、シリーズ全5作が収蔵されていますね。これもなかなかうまくたどり着けないのでリンクしておきます。リンク利いてますでしょうか→https://www.library.pref.osaka.jp/licsjd-opac/WOpacTifListToListAction.do (追記。あ、やっぱり利いていませんね。ここの書名の検索窓に、「私立探偵スベントン」と入れてエンターすれば出ます)
 児童文学館はWEB複写サービスがあります。まあご参考まで。でも斎藤さんは、やはり「現物」でなければいかんのでしょうけど(^^;。

 

スベントンシリーズの一冊を入手しまた。

 投稿者:斎藤  投稿日:2015年 8月23日(日)11時23分23秒
返信・引用
  眉村卓さんの児童向け翻訳作の「私立探偵スベントンシリーズ」の一冊を遂に入手しました。
入手出来たのは、「北極怪人とさばくの怪職人」で、シリーズの第二作目です。
巻末には、眉村さんによるスベントンシリーズの解説文も収録されていました。
スベントンシリーズは、その存在だけは知っていたものの、実物はおろか、ネットでも書影すらなかなかお目に掛かれなかった本です。
もう20年以上は探していたと思います。
講談社の「世界の児童文学名作シリーズ」の中の刊行物と思っていましたので、そういう全集の装丁を想像していました。
今回入手出来たシリーズ2作目は、単独刊行物の体裁でした。
どこにも、「世界の児童文学名作シリーズ」という銘は打たれていませんでした。
よくよく調べてみて分かったのは(想像ですが)、この「世界の児童文学名作シリーズ」に収録されていたのは一作目だけで、2作目以降は単独ものになったようです。
それに合わせて、一作目も、単独シリーズものとして、タイトルも変更されて刊行されたようです。
「世界の児童文学名作シリーズ」では『迷探偵スベントン登場』で、単独シリーズでは『私立探偵スベントン1 -ストックホルムのひまなし探偵』です。
本のサイズも1センチほど小さくなったようです。
私は、シリーズ全体が全集本に収録されていたと思い込んでいましたから、古書店で探す時にも、ひたすら講談社の全集本を探していました。
なので、なおさら見つけられなかったのだと思います。
今回、単独シリーズの本を実際に手にし、全体の装丁や、何と言っても背表紙の装丁が分かったので、古書店で探し易くなったと思います。
残りの4冊も是非入手したいと、勝手に鼻息を荒くしております。
あまりに嬉しい出来事でしたので、投稿してしまいました。
 

映画版「幕末高校生」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月23日(日)00時49分38秒
返信・引用
   映画版「幕末高校生」(14)を観ました。
 細川ふみえ主演のテレビドラマ版(04)のリメイク版といえるでしょうか。「名残の雪」→「幕末未来人」→ドラマ版「幕末高校生」→本映画というわけで、原作からは遠く離れてしまっていますが、タイムスリップした生徒のうち、ややニヒルな沼田慎太郎の役柄に、辛うじて原作の風味が残っていましたね(^^;
 一体におちゃらけた世界観で、最初は何だかなあ、と思っていましたが、だんだんと面白くなって(木村敏のいわゆる主客渾然たる境地になって)最後は満足して見終わることができました。
 これはやはり作品の力というべきでしょう。ダメな作品は最初の主客的距離がそれからも改善するどころか、さらに厳密化する負のループに陥っていく場合もままありますからねえ。
 ああそうだ、書き忘れるところでした。勝海舟妻役の吉田羊って、南田洋子の若いころにちょっと似てませんか。視聴しながらずっと誰かに似てるなあ、と思っていて、終盤になって、ああ南田洋子だ、と気がつきました。似てますよねえ(^^;
 

「古代のなにわ」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月22日(土)21時21分50秒
返信・引用 編集済
   小松左京『わたしの大阪』(中公文庫、93)より、冒頭の「古代のなにわ」を読みました。
 本篇は、「大阪」という地域に定点観測器を固定して、そこに興亡した人間(大阪人)をトレースしたものです。
 日本(列島)という視野での類書は多いと思いますが、はじめからおわりまで「大阪人」に視点をすえた記述はかなりユニークだと思います。
 しかも古代と言っても旧石器時代まで視野に入れたもので、日本列島の最古の旧石器遺跡は10万年前だそうですが、大阪に旧石器が現れるのは3万年から2万5千年前(河内国府遺跡や高槻枚方台地)。
 その時代はヴルム氷期のなかばで、少し温暖化したパウドルフ間氷期にあたる(伊丹海進)。
 ところがこの後すぐに寒冷化が始まり、世界の平均海水面が150メートル下がったヴルム氷期でも一番の厳寒期に入る。大阪湾と瀬戸内海が干上がって寒地性落葉樹や針葉樹の大森林地帯が出現する。古淀川などの流れを集めた大河「古大阪川」が南へ流れ、遙か田辺市の沖合で、太平洋に注いでいたそうです。この森林にはナウマン象や大ツノ鹿が生息し、それを追って旧石器人のハンターが入り込んでいた。
 1万8千年前をピークに、寒冷化が止まり、この第4間氷期に向かって温暖化が急速に始まります。海面が100メートル上昇し、大森林地帯は海底に沈む。今でも紀淡海峡や鳴門海峡で、漁民の網にナウマン象やオオツノシカの化石骨がかかる場所があるそうです。
 で、9000年前頃から縄文土器が発見され(交野市神宮寺遺跡)――と、いくらでも引用したいのですが、こういう調子で、大阪人の3万年の歴史が語られていく。
 いやー実に壮大で面白い。視点の取り方を少しずらすだけで、あるいは異なったくくりで統合するだけで(だけ、と言うのは語弊がありますが)、既存の知がパタパタと組み換えられていく快感があって、ちょっとしたセンス・オブ・ワンダーでした。
 本篇は大林組の広報誌(?)「季刊大林」に寄稿されたものです。なんか本篇掲載にふさわしい媒体だなと感じました。本書には「季刊大林」初出が本篇を含めて3篇収録されていて(本書の3分の1を占める)、あと二篇も「大阪の「地盤沈下」とその闘い」「日本埋立論」というタイトルで、いかにもという感じですね。

 

DVD「砂の器」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月22日(土)02時16分56秒
返信・引用 編集済
   DVD「砂の器」(デジタルリマスター版05、元版74)を視聴。

 内容については贅言は不要でしょう。間然するところない文字どおりの名作でした。面白かった。
 映画としての面白さに加えて、このような昔の映画の楽しみとして、製作当時の風物が見られることがあると思います。原作小説は昭和30年代が舞台だと思いますが、ロケされた映像は昭和40年代後半でしょう。大阪以外は行ったことも見たこともありませんが、それでも、ああこんな風景だったなあ、と(少し懐かしく)思い出しました。
 亡くなってまだ10年にならない丹波哲郎が中年(50代?)だった、つまり1世代前にもならない時代なのに、こんな風景だったんですね。若い人は、日本は昔から今のような風景だったように思っているかもしれませんが。
 古い映画はそういうことを思い出させてくれる効果もあります。
 いい映画でした。
 
 
 

「時間と自己」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月21日(金)21時49分46秒
返信・引用 編集済
  ◇先日、琉球新報に掲載された眉村さんの記事をご紹介しました→こちら
 この記事、共同通信配信とのことです。つまり琉球新報以外の地方紙でも、掲載したところがあるということで(但し本文は同じですが見出し等は各新聞の裁量で違っています)、7月下旬からお盆前にかけて、各紙さみだれ式に掲載したもようです。京都新聞に掲載されたのは確認しました。
 おそらく神戸新聞にも載っていたんじゃないでしょうか。古新聞をゴミに出す前に、チェックしていただけると幸甚です。

◇「windows10への無償アップグレードが可能になりました」という連絡がとどきました! さて、どうしましょうか(^^;

『時間と自己』の再読にかかっています。超難解なのは当然としても、学生時代のように集中して読む時間があるわけでもありません。それ以前に受容する脳がかなり老化しており、1日1頁分も咀嚼できません(ーー;
 ということで、気持ちとしては1年位かけて読んでいきたいと思っています(挫折する可能性はかなり高い)。
 とりあえず、10頁ほど読んだので、興味ぶかい部分をメモ。

 古来、西洋科学は「もの」を客観的に見ることを金科玉条としてきた。
 それは西洋哲学にもあって、「ある」とはどういうことかという「存在論」が考究されてきた。
 「ある」ということはそのままでは「もの」ではない。
 しかし従来の存在論は、それを「存在とはいかなるものか」という形で問題化してきた。
 そのような問題化は、「あるということ」をただちに「もの」化してしまう。
 ところでわれわれが世界を客観的に見ることをやめれば、この世界はものだけで成り立っているのではないことがわかってくる。
 それを日本語では「こと」と呼んでいる。
 これは日本語独特の用法で、少なくとも欧米語にはない。

 たとえば、私は読書中に、誤字や誤用等を発見する方だと思いますが、それは読み始めた直後に限られています。
 これはまだ読書を対象的に(客観的な視点から)ものとして読んでいるからです。
 ところが小説世界に没頭し始めますと、もはや文字を読んでいるという感じはなくなり(文字は消え)、本と目の間の客観的な距離もなくなり、作品世界の中に、作品世界そのものとして(一体化して)あるようです。
 こういう状態は、絵画鑑賞でも映画鑑賞でも自然観賞でも、ごくふつうに皆さんも体験していると思います。

「私が景色を見て美しいと思っていること、このことは私の側で起こっていることのようでもあるし、景色の側で起こっていることのようでもある。あるいはそのどちらの側で起こっていることでもなくて、私と景色の両方を包む、もっと高次元の場所での出来事のようでもある」(8p)

 とは言い条、私達の意識は、このような不安定さを好まないようだ。
 その理由は「私」が実は「私であること」といったことである事情から来ている。
 この不安定さをふだん我々は無意識に押し込めて生きている。

「だから私たちの自己は、ことの現れに出会うやいなや、たちまちそこから距離を取り、それを見ることによってものに変えてしまおうとする。
 自己自身の不安定さに耐えられない弱い自己は、ものことの間にある決定的な差異を認めたがらない」
(科学的態度に固執する)。

 このような人は、たとえばリンゴが木から落ちるということを、(没価値的に)「リンゴの落下」としてしか理解したがらない。
 ところが実際は、リンゴは向こう側、客観の側にあるものだけれども、それを見て、「リンゴが木から落ちる」ということを経験しているのは主観なり自己ですよね。そのような主観がなければ、
「木から落ちるリンゴというものはありえても、リンゴが木から落ちるということは叙述されない」

 「落ちる」というのは「落下」に矮小化単純化できないのですね。
 「リンゴが木から落ちる」をリンゴではなく、「落ちる」に着目して言えば、「試験に落ちる」「腑に落ちる」と共通する感覚である。
 試験に落ちるも腑に落ちるも、言うならば「比喩」です。我々はこういうのに「落ちる」を使うことに違和感を持ちません。なぜならこの感覚は人間を構成する(人間たらしめる)契機だからで、

 「この感性は、一切の言語の比喩的用法を可能とする基本的な感性であって、古来「共通感覚」(センスス・コムニス)の名で呼ばれてきたものである」(11p)
 こういう感覚は、客観的な自然科学の思考からは漏れ落ちてしまうのですね。むしろ意図的に締め出しているような気もします。

 

「スペース・ステーション76」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月20日(木)02時58分12秒
返信・引用
   DVD「スペース・ステーション76」(14)を観ました。
 面白いことをやっていて、昨年2014年製作の映画なんですが、いかにも70年代風の映像とシナリオなんです。
 これはちょっとしたアイデアですね。
 まったく事前情報なしで借りたので、見終わってネットで検索するまで、本当に70年代のB級映画かと思っていました。もっとも、ごくふつうに映画に関心がある人ならば、役者を見れば(主演リヴ・タイラー)、最近の映画であることはわかるんでしょう。
 音楽も70年代音楽でトッド・ラングレンの曲を主に使用。
 映像は70年代ウェスト・コースト映画風で、宇宙ステーション内なのに、みなタバコを吸いまくっています(大麻まで栽培している)。
 女性士官リヴ・タイラーが赴任してきたスペースステーション76は、倦怠に満ち満ちている。艦長はアル中。実はホモで、言い寄った男性隊員に逃げ出されてそれが原因での酒浸りなのです。その男の交代要員でリヴ・タイラーが赴任してきたのです。酒浸りの理由の中には、逃げた男が性癖をバラさないか(それを理由に降格されないか)という不安もある。しかもジョン・ウェイン的な男性像に囚われているので、カウンセリング室へも行けない(実は小心タイプ)。
 夫婦の隊員もいて(子供がいる)、夫婦仲は冷えきっている。夫が生きるのに不器用で昇進が遅れているのが我慢ならず、また子育てには強い不安を持っている。この母親はカウンセラー室に入り浸りで、カウンセラーロボットから精神安定剤をもらいまくっています(カウンセラーロボットに愛情転移を起こすギャグも)。
 子供はそういう環境を反映して神経質で、しかしリヴ・タイラーによって少しずつ明るくなっていくのですが、それに嫉妬した母親の邪魔が入ります。
 まあ、そういった現実社会でのあれやこれやが、宇宙ステーション内に凝縮されています。70年代はホモにしろ女性の自立にしろ、今よりはるかに風当たりがきつかった時代でもあり、登場人物もそのような規範を内面化しているので、より葛藤が夫々の内面で拮抗している。不安神経症の時代だったわけです。それも怠りなく表現している。
 いわば、当時のニューウェーブSFの映画化といった趣で、非常に興味深かったです。一種のコメディなんですが、あまり笑えないコメディで、当然ながら引きこまれて夢中で観てしまう映画ではない。ラストにいたっても何も解決しません。まあ現実もそういうものでしょう。

 

 

Re: ありがとうございます

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月20日(木)02時50分23秒
返信・引用
  > No.6490[元記事へ]

橋元淳一郎さんへのお返事です。

> そのうち詳しい情報が雑誌などで紹介されるでしょうから、それからでも遅くはないのではないでしょうか。
 そうですね。もっと情報を集めてみます。使い勝手の報告はまだほとんど見当たらないですし。
 でも無償供与の期限もありますからねえ。あ、予約しておけば期限は関係ないのでしたっけ。

 

Re: ありがとうございます

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年 8月19日(水)22時50分44秒
返信・引用
  > No.6487[元記事へ]

かんべさん、こちらこそご無沙汰の非礼お許し下さい。
管理人さん、何かとお世話になります。
いいかげんな情報しか提供出来ず恐縮です。
皆さん、慎重ですね。それがよいのではないかと思います。
そのうち詳しい情報が雑誌などで紹介されるでしょうから、それからでも遅くはないのではないでしょうか。
 

「きつねのつき」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月19日(水)22時27分58秒
返信・引用 編集済
   北野勇作『きつねのつき』(河出文庫14、元版11)読了。

 いやーよかった。なんといっても娘の春子がけなげで、もうまじ涙なしには読めません。全国の女性の紅涙を絞ること必定。
 ところがこの作品をお蔵入りさせていた編集者がいたっていうんですから(大森望解説による)、あいた口がふさがりません。編集者のセンスナッシングです。
 はっきりいって「表層的には」(後述)出版社的に「おいしい」小説じゃないですか。大方の読者はこんな家族(愛)小説を求めているんです。そこにつけ込まないのは編集として想像力が不足しているとしか思えません。しかも河出が手を上げたとき、くだんの編集者も、お蔵入りさせていたことを忘却してぜひ読ませてくださいと言ったらしい(汗)。健忘症なのか。そもそも読んでなかったのか。まあ実際に読まないで判断する編集者がいるらしいという噂は聞いたことがあります(それもすごいですけど)。そいつか?

 冗談はさておき、本書は長篇小説です。章題が、歌・隣・面・骨・暮・灰・線・花、というふうに漢字一字なのです。その目次を見て卒然と思いだしたのが古井由吉の『水』という連作短篇集でした。実は『水』も、影・水・狐・衣・弟・谷、と漢字一文字のタイトルなのです。
 そのせいか、もちろん思い込みによるところが大きいのかもしれませんが、内容的にも重なる部分があるように感じられました。というか、意外に古井と著者は、感性が近いんじゃないでしょうか。だんだんとそんな気がしてきました。
 たとえば妻というのは古井にとっても重要な小説装置ですし、妻にかぎらず女はふとした拍子に狐になってしまいます。しかもその女は男の視点から見れば「異形」です。『聖』三部作はそんな(異形の)妻と子がテーマです。
 けっきょく、古井も著者も、単純に(世間に合わせた・おいしい)家族愛小説を書いているわけではないのですね。上に「表層的には」と書いたのはそういう理由からで、実際に読めば、両者とも「不穏な」家族愛小説という以外にありません。
 このようなテーマ性は、著者の初期作品(たとえば『空獏』)にはなかったと思います。むしろ「自分が自分であることへの覚束なさ」の感覚をずっと凝視しているようなところがあった。
 本篇の主人公にはそれはもはやないです。世界そのものは従来と変わらず曖昧で不確定ですが、主人公自身ははっきりと核を持っています。それは家族と共に生きるという意思です。
 著者はツイッターに、本書に就いて「子供がいなかったら書けなかったし書かなかった」とツイートしています。
 そういう意味でも、本書(に限らず著者の小説)は、私小説であり、私ファンタジーなんですね。

 いや面白かった。ストーリーも単なる連作長篇ではなく全体を通した起伏があり(春子の成長も含めて)、堂々と「長篇小説」でした。堪能しました。

 追記。とりわけ「線」が面白かったのですが(これは短篇小説としても傑作)、フェンスで囲まれた配線予定地帯は、天下茶屋辺の南海平野線の跡地がモデルと見たのですが、如何(^^;

 
 画像元


 

Re: ウィンドウズ10

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月19日(水)13時13分43秒
返信・引用
  > No.6486[元記事へ]

 橋元さん、ありがとうございます。
>その分、メモリを食うのだろうなという感じはします
 そこが一番気になるところです。やはり(8に比べて)メモリーを食われている感じがするということですよね。
 私のは2ギガしかも7なので、しんどいかもしれませんね(8でも4ギガはほしいというネットの書き込みが散見されますから)。
 考えどころですねえ。
 

ありがとうございます

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2015年 8月19日(水)08時52分58秒
返信・引用
  橋元様。ごぶさたいたしております。
ウインドウズ10。う~ん。そうなんですか。
デスクトップ画面が出る云々は、当方、8でもそうしてますし。
メールの再設定というのが、難物みたいですねえ。
橋元さんが「面倒だった」とおっしゃるなら、私なんぞには……
8がいつごろまで使えるのか、それと自分の余命とのかねあいで……
などとも考えたりしてしまいます。ともあれ、御礼まで。
 

Re: ウィンドウズ10

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年 8月18日(火)23時24分20秒
返信・引用
  > No.6482[元記事へ]

Windows10 にアップグレードしたのですが、取り立てて見識があった訳ではありません。いずれは7も8も使えなくなるのなら、少しでも新しいバージョンにしておこうというだけの軽薄な考えです。
富士通のFMVは、何度も失敗の末、訳の分からぬままアップグレードされました。いろいろ問題があるようです。パナソニックの方はとくに問題なく、1時間ほどで出来ました。
バージョンアップして面倒だったことは、ネットに接続するのにインターネット・エクスプローラーではなくエッジという慣れないもので接続される点と、メールの再設定がちょっと面倒でした。
便利になったなと感じる点は、とくにありません。最初にデスクトップの画面が出るのは悪くはありませんが、8の画面からでもすぐにデスクトップに行けたので、さほど有り難いという気はしません。
使いこなせない色々な機能が付加されたとは思いますが、その分、メモリを食うのだろうなという感じはします。
そんなことで、あまりお役には立てない情報ですが、とりあえずご報告させて頂きます。
 

Re: windows10の件

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月18日(火)22時05分4秒
返信・引用
  > No.6484[元記事へ]

かんべさん

 承認されてから以降、まだ何も進んでいません。
「いつでもどうぞ」になりましたら、ネットで確認しながら進めていこうと思っていますので、しばしお待ち下さい(^^)
 しかしそれにしても、ヘルプや公式サイトよりも、一般市民のブログのほうが、はるかに分かりやすいというのは、一体どういうことなんでしょう(^^;

 

windows10の件

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2015年 8月18日(火)21時31分24秒
返信・引用
  もう、アップグレードされましたか?
当方、予約して、「いつでもどうぞ」状態になってますが、
初期トラブルでもあったらと、不安が残ります。
お済みでしたら、この欄でレポートのほど、
何卒よろしく、お願いいたします。万民の為、私の為!
 

眉村さん情報:琉球新報に取材記事

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月16日(日)21時39分9秒
返信・引用 編集済
   琉球新報に眉村さんへの取材記事が掲載されたようです。掲載日は不明。(中)となっていますが、(上)は俳人の稲畑汀子さんでした。

 元ツイート

              ↓拡大↓

 

 

ウィンドウズ10

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月16日(日)01時35分50秒
返信・引用
   ネットを巡回していたら、橋元淳一郎さんや北野勇作さんがwindows10にアップデートしたと書いておられたので、私も「予約」してみました。
 これ、内容がよく理解できないのでいままで放ってあったんです。今日改めて検索したところ、一年後に有料になるようなことはないとわかりました。
 あと、まだ不明なのが、私のPCで導入可能となっているのですが、私のはそもそも安物でメモリーが小さい。メモリーが圧迫されて挙動がぎこちなくならないかということ。
 これも、予約していても別にアップデートしなくてもよいし、7に戻すこともできるということなので、それなら、何はともあれ申し込んでみようと。
 承認されたようなので、数日から数週間の間に、自動アップロードされるようです。

 

平谷美樹版「水滸伝(三)」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月15日(土)22時54分47秒
返信・引用 編集済
   平谷美樹『水滸伝(三)白虎山の攻防(ハルキ文庫、15)読了。

 今回は、最初から最後まで合戦でした(^^;
 合戦と言っても、堂々と力と力でがっぷり四つに組み合う正攻法の合戦は皆無。けたぐり蹴返し裾払い、はてはねこだまし八艘飛びと言った具合に、もう奇策のオンパレードです(^^;。
 一方相手の耶律猝[火玄]も権謀術数では負けていません。そんな軍略の世界では、脳まで筋肉の史進など足手まといなだけかと思いきや、なんか史進までいつの間にやら賢くなっているではありませんか(汗)。
 そこへ、暫く顔を見なかった怪人・高俅も久々に登場。何やら思わせぶりな態度で史進を丸め込みかけます。さらに童貫まで現れる。この童貫がまたいつの間にか悪者なりに頭が働くようになっています。

 これはもう、作者の性格と趣味がもろに現れていますね(>おい)(^^;

 このような小説世界となりますと、オリジナル版で大活躍(?)する李逵など、どうも出る幕がなさそうです(宋江がほとほと手を焼いています。まあ宋江の性格からすればそうでしょう。最後の方ではもう戦に参加するなとまで言われています。ところが何故かいつの間にか加わっていて、宋江たちに迷惑をかけるのですよね)。たしかにまだ出てきていません。私自身は、オリジナル版において、最後まで賢くならない李逵はお気に入りのキャラクターなんですけどね。
 またその宋江が、独特の性格付けをなされているのも面白い。宋江と呉用の漫才(>違)はもっとたくさん見せてほしいところ。
 いやいや、それにしてもこの物語、いったいどう転がっていくんでしょうか。想像がつきません。次巻以降が楽しみ~!

 
 

「快楽主義の哲学」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月14日(金)22時41分33秒
返信・引用 編集済
   澁澤龍彦『快楽主義の哲学』(文春文庫96、元版65)読了。
 合間合間にぽつりぽつりと読みすすめて、半月ほどかけて読了。いうならば各駅停車です。その間に快速列車が何本も追い抜いて行きました。
 本書はカッパブックスで初刊。連載誌の記載はないのですが、どうも女性誌っぽい。あの超高密度な文体ではなく悪く言えば散漫。やや根気がいりました。ですが言っている内容は、いつもの澁澤で、傾聴に値します。
 傾聴に値するというか、この卑しい世界に取り込まれないように、ときどきは澁澤ワールドに戻って精神を賦活させるのは、私にとって必要なことです(もちろん寺山ワールドでもいいのですが)。
 また読もう。
 ところでアルフレッド・ジャリって、星新一みたいな性格だったようですね(^^;。もちろん星新一も、澁澤言うところの「快楽主義者」でありました。

 次の快速は平谷美樹『水滸伝(三)白虎山の攻防』

 

「時間と自己」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月14日(金)15時03分16秒
返信・引用 編集済
  《つまり、物理学が時間とみなしているものは、本性上、前後対称的であって可逆的な連続量のようなものだと考えざるをえない。
そこで、物理学の時間に前後非対称な不可逆性が、いいかえれば過去と未来との非互換性が導入されるのは、またそれによってエントロピー増大の法則が成立するようになるのは、けっして計測量そのものの一次的な性質によるものではなく、観測という行為が二次的に加えた操作によるものなのである。
二回の観測が前の観測と後の観測という順序を持っているという、ただその理由だけのために、そこで観測される「時間」にも不可逆な前後の方向が与えられてしまう。
いってみれば、物理学が時間とみなしている目盛りの数に前後とか、過去・未来とかの順序が生ずるのは、目盛りを読むという作業のためだけなのだし、また目盛りを読む瞬間においてだけなのである。
観測行為と観測行為との中間の時期において「時間」がどのような振る舞いをしているかについては、本質的にはなにひとつ言うことができない》(『時間と自己』34p)


 『不思議の星のサイエンス』に触発されて、木村敏『時間と自己』(中公新書、82)を引っ張り出してきました。
 びっくりしました。
 これをご覧ください。
 

 昔の中公新書は、ハヤカワ銀背と同じくビニールカバーが付いていたのです。
 本書もそうだったんですが、今日取り出してみたら、画像のような状態になっていました。
 ビニールカバーが経年劣化で縮んじゃって、本体の表紙が痛々しくもサバ折りにされてしまっています。
 実はこの現象、銀背でも発生していて、もう大分前になりますがそれに気づいて、状態の悪いカバーは全て剥ぎとってしまいました。問題ないのは残していますけど。
 中公新書なんか、読み返すことはまずないので、銀背より発見が遅れてしまったのですね。で、早速剥がそうとして、ふと気づいたのですが、こういうことが起こるのは、ビニールカバーの見返し部分が上下で表紙側部分に溶着されているからなんです。この溶着部分をカットすればいいんじゃないか。
 やってみました。おお、改善しました。
 
(*画像の色合いが違うのは、上はケータイのカメラ、下はタブレットのカメラで撮ったものだからです)

 カバーの折り目が5ミリほどズレたので、現状浮いた感じになっていますが(白線矢印)、段ボール箱に戻して押し詰め状態になれば、そのうちフィットすると思います(画像はケータイで重石をしている)。
 他の中公新書もチェックしなければいけませんが、それはまた暇を見つけてということに。
(*ああ、中公のマンボウシリーズのハードカバーも。ハードカバーなら大丈夫か)

 

Re: 「時間はなぜ過去から未来へ流れるのか 不思議の星のサイエンス(第6巻)」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月13日(木)23時10分45秒
返信・引用
  > No.6477[元記事へ]

 橋元淳一郎さま
 「不思議の星のサイエンス」全6巻大変面白く読ませていただきました。
 21世紀に入ったぐらいから、ポピュラー・サイエンスの概説書を読まなくなりました。その結果、進展著しい天文学や生物学や人類学の最新の知見をほとんどフォロー出来ていません。むしろそのような知識の獲得を諦めていたようなところがあります。
 今回、「不思議の星のサイエンス」を通読させていただき、また少し興味がわいてきました。これをきっかけにわかりやすい本を読んでみようかなと思っています。また先生の面白いエッセーや創作も期待しております。ありがとうございました。

 

Re: 「時間はなぜ過去から未来へ流れるのか 不思議の星のサイエンス(第6巻)」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年 8月13日(木)22時28分46秒
返信・引用
  > No.6475[元記事へ]

管理人さま

電子出版「不思議の星のサイエンス」全6巻をすべてご購入下さり、twitterでもご紹介下さり、さらに本談話室で全話についてご高評を賜り、誠にありがとうございました。はじめての電子出版だったので、このように好意的に取り上げて頂いたことは大変ありがたく、大いに励みになりました。元々月刊誌の連載であったため、1話1話の字数が制限されており、あまり深いところまでは書き込めませんでしたが、科学に興味をお持ちの一般の人々向けに興味深い話題を提供出来たのではないかなと思っております。
今後の電子出版については、まったく未定ですが、新しい企画が進みましたらまたご報告させて頂きたく思います。
今後ともどうそよろしくお願い致します。

橋元淳一郎
 

「社員たち」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月13日(木)22時28分44秒
返信・引用 編集済
  > No.6474[元記事へ]

 北野勇作『社員たち』(河出書房、13)読了。
 面白かった!
 先回書き忘れた、というか、投稿してから思いついたことがあって、まずそれを書いておきます。「妻の誕生」ですが、ある日主人公が家に帰ると、妻が「私は生まれ変わりたい」といって卵の殻をモリモリ食べています。妻はその理由を説明しようとするのですが、主人公は(疲れていたんでしょう)勝手にしろ、みたいなゆくたてになる。あとでちょっと冷たく突き放し過ぎたかなと反省し、話を聞こうとするのですが、もう遅い、始めちゃったので途中で止められないと言われる。翌朝目を覚ますと、妻は布団の中で卵になっています。
 これ、実体的に卵になっているわけですが、これってつまり「殻に隠る」ということで、言葉の意味では現実の拒否ですね。つまり何があったのか分かりませんが、いろいろあった結果、夫が腹に据えかねた。で、殻に隠ったと解釈できるのではないか。
 主人公は布団にくるんだ卵を抱いて温めます(抱いて温めるって、要するに仲直りのあの行為ですよね)。
 で、やがて殻が割れ、妻が生れます。生まれ変わった妻は、以前とそんなに違ったところはありません。むしろ変わったのは主人公で、「今のぼくは、あの頃のぼくとは違う。まあ、生まれ変わったと、とまでは言わないが」
 いや、精神分析したいわけじゃないですよ(^^;
 こういう解釈、著者が意識していたかどうか、多分してなかったと思います。つまりまあ、私の勝手読みです。スミマセン。面白かったです。

 著者の作品を全て読んでいるわけではないですが、いまウィキペディアで確認したところ、紙版で21作品あり、私は本書を含めて7冊読んでいるようです。というか7冊しか読んでいないというべきか(それも初期に偏っている)。
 ですから、これは読んだ限りでの話ですが、著者の作風は、夢の世界そのもののような、記憶が曖昧で、世界もそれに対応して曖昧なものが多かったと思います。
 本作品集は、それらに比べれば、リアルっぽいモチーフの比率がいつもより高めだったんではないでしょうか。
 夢のような世界観はそのままなんですが、そこにいつもより現実の社会が侵入してきているんですね(というかいつもは隠れていたそれが表層に浮かび上がってきていた)。その結果、私の感じですが、なんどか、安部公房の世界を想起させられました。もちろん真似をしているという意味ではありません。そういう世界を描く作家が最近はいなくなったので、とても嬉しく感じました。安部公房の主人公同様、本書の主人公たちは、「社員たち」にしろ「大卒ポンプ」にしろ(SF小説に多い)エリートではなく、むしろ選良に引っ掻き回されてそれを受容するしかない底辺サラリーマンです。
 なかでも「家族の肖像」は、本作品集中の白眉というべき傑作で、子供が保育園で新種の風邪をもらってき、医者で手当してもらう。請求書を見てたまげます。到底払える金額ではなかった。保険制度が変わったとの説明。代わりに紹介されたのが政府の推奨する「低所得者用未来改造プログラム」。(実はこれ低所得者層の未来を奪う・むしろ抹殺をはかるプログラムなのです)
 このアイデアがなかなか面白い。少品種大量生産性が崩れて多品種少量生産へとシフトしてきた。これは工場生産的には不得手な形式です。で、考案されたのが、自発的に応募してくる個々人それぞれの身体自体を、工場化しようというのです。アパッチがくず鉄を食って精錬した鉄を排泄するあの要領です。
 そのかわり食べるものは決められ自由に好きなものを食べることは禁止。当然「家族団欒」はなくなります。それでも子供の薬代を払うためには仕方がない。主人公はプログラムを受け入れるのですが……
 いやー面白かった。ある意味プロレタリア小説の極限型。私は本篇を巻頭に、巻末に酉島伝法「皆勤の徒」を配した『社長と社員』というアンソロジーを組みたくなりました(^^;
 ディストピアSFの傑作として、日本SF史に名を残してしかるべき短篇小説でした。

 

「時間はなぜ過去から未来へ流れるのか 不思議の星のサイエンス(第6巻)」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月12日(水)21時34分47秒
返信・引用 編集済
   橋元淳一郎『時間はなぜ過去から未来へ流れるのか 不思議の星のサイエンス(第6巻)』(キンドル版、15)を読みました。

 第21話の表題作では、客観的な(実体的な?)時間というものはないと書かれています。我々は時間は経過する(流れる)ように思っていますが、相対論にはそんなことはどこにも書かれていないそうです。
 時間の「流れ」は、宇宙の中にあるんじゃなくて、個々の全ての「私自身」が夫々作り出しているもので、つまり私の時間とあなたの時間は決して同じ流れではない。コミュニケーションする過程での「錯覚」に過ぎない。
 そしてそれは人間だけが作り出しているのではなく、すべての生命が夫々作り出している。つまり「生きる」というそのことにおいて、時間は作り出されていく。
 ベルグソンの時間はちゃんと理解していないのですが、生の意志が時間をくっきりさせるのは体験的事実でしょう。逆に何らかの原因で生の意志を失うと、時間は早かったり遅かったりとぐじゃぐじゃになってしまいます。
 木村敏によれば精神の病気は時間感覚を弱化させることがあるようです。
 このテーマ、もっと突っ込んだ話を聞かせていただきたいです。

 第22話「なぜ地球は青い星なのか」 海の存在と大気中の酸素のおかげだそうです。もともと金星、地球、火星はその形成時同じ条件だった。太陽からの距離だけが違っていた。ところがその距離が、今日地球のみを青い星となさしめているのですねえ。いやー不思議です。

 第23話「虹はどのように存在しているのか」 色は電磁波の波長で決まる。ところが電磁波は無色なのです。ですから色は客観的に存在するものではなく、目から脳に入って、はじめてそこで着色されて感じる。うーむ。
 赤の向こうに赤外線の範囲があり、紫の向こうに紫外線の範囲があり、どちらも人間の目には見えません。
 ところで、可聴域は人それぞれで、鋭い人もいればそれほどではない人もいる。年をとると狭くなっていくようです。
 では可視光の範囲の広い人もいるということになるのではないか。そのような鋭い人は、赤と赤外線(紫と紫外線)の境界より少し赤外線(紫外線)に入った色を、どんな色で感じているんでしょうかねえ。だんだん黒くなっていくのでしょうか。それともだんだん淡くなって最後に透明になるのでしょうか。そういえばレオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』に、人間の視覚の限界を超えた場所に存在する「喇叭赤」という色が出てきましたね。

 第24話「科学とはなにか」 プラトンは真なる実在をイデアと呼んだ。イデアは我々には決して見ることができない。この世界はそのイデアの影と説いたそうです。これは実証主義である科学とは相いれません。科学にとっては見えないもの感知できないものは、存在しない、とみなされます。ところが最近の宇宙論の進展は、ダークマター、ダークエネルギー等、見えない、感知できないものを扱わなければならなくなってきました。これからの科学はもうちょっと頭を柔らかくしなければならないのかもしれませんね。

 以上、全6巻読みました。1巻20頁そこそこなので、全巻合わせても120頁くらいです(読了ノートには6巻合本で一冊としてカウントすることにします)。こんなに短いのに、触発されるところ大変多かった。まさにアイデアの宝庫でした。楽しませていただきました(^^;

 

「社員たち」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月12日(水)00時55分13秒
返信・引用
   今日は忙しかった。明日からお盆休みという会社も多いんでしょう。道路が混んでいて大変でした。とはいっても渋滞という箇所はそんなになかったのです。それなのに何故か流れが悪いのですね。既に盆休みに入った日曜ドライバーが繰り出してきているのかな。
 信号が赤になって、私が先頭で停車しました。青に変わったのでアクセルを踏む。わ、とろい。
 クーラーをガンガンかけているので、速度がなかなか出ないのです。
 そういうことか。と、腑に落ちた次第。

 この頃は帰宅して二階の自室に入ると、必ず36度以上になっています。体の方も、車はクーラーを効かせているとはいえ、輻射熱をため込んで熱くなっています。
 いつもなら即座に部屋のクーラーを入れて冷やすのですが、今日は室温35度でした。体感的にそんなにつらくなかったので、今日はクーラーを入れませんでした。
 ところが次第にしんどくなってきた。それでも別に気にしなかったのですが、とつぜん、あ、これは熱中症? と気がついた。あわててクーラーをかけて水を1リットルほど飲みました。
 眠くて机に座っていられなくなりました。我慢できなくなり、隣の畳の部屋(ステレオのある部屋)で横になり、CDをかけながら目をつむっていたら、ようやく人心地がついてきました。
 ただ、CDの音がわずらわしく、聴くのをやめて、頭の近くに北野勇作『社員たち』があったので、ふと手にとり、読み始めたら、その時の状態とシンクロしたのか、80ページほど一気に読んでしまいました。
 これは面白いです。会社が潰れるとか失業中のアルバイトとか亭主に愛想を尽かした妻が卵になってしまうとか年金目当てで死者をゾンビ化して支給を受け続けるとか、そんなダウナー系の話ばかりで、丁度良い感じでした(^^;
 おかげで体調も、起き上がって再び机の前にすわることが出来るまで回復しました。
 ちょっと調子がいいからと、電気代ケチったら駄目ですね。帰宅したらしっかり体をクールダウンしなければ。そういう年齢になってしまったのですから。やれやれ。

 

岡田正也「あの星の下で〈軽装版〉」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月10日(月)22時20分4秒
返信・引用
   高井さんから頂いていた岡田正也『あの星の下で〈軽装版〉』(ネオ・ベム、14)を読みました。
 本書はショートショート集です。〈軽装版〉となっているのは、以前に文庫版が発行されており、それを簡便な中綴じにして新書版で再刊したものだからです。
 実は更にその前の12年に、収録作品は同じながら、『正也君再び近鉄特急に乗る』のタイトルで、B5版で出されたのが初刊となります。
 以上は高井さんのブログのこちらから引き写しです。
 さて、岡田さんの創作集、楽しみに読ませてもらいました。
 うむ。これはまさにファン創作。かつてファンジンには、こんな感じの、ファンならではの創作(つまりプロを目指して精進して書かれたものではない、と言った意味です)が載っており、それを皆で面白がったものでした。本書にはそういうショートショートが集められていました。いや、こういうの懐かしいです。実はいま私が書きたいのが、このようなファン創作的雰囲気のものなんですよね(前号の「鏡面球体」や今回の「魔耶山の道教寺」はそのような意図で書いたものです。次号は冥王星を舞台に描くつもりで、いろいろ読んでいるのですが、ニューホライズンズの資料が出揃うまでは、新しい概説書は出ないんでしょうね)。
 私が面白かったベスト3は、透明人間の新解釈「トウメイニンゲン」、文語体で書ききった「『  』」と巻末の「正也君再び近鉄特急に乗る」です。
 なかでも「正也君再び近鉄特急に乗る」が、ショートショートというよりも短い短篇の味わいで、一等よかった。これ、実は中欧幻想小説のイメージがあるんですよね。著者が意識していたかどうか、多分してなかったと思いますけど。つまりまあ、私の勝手読みです。面白かったです。

 

うみねこ堂さんテレビ出演!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月10日(月)00時04分37秒
返信・引用
   BS11で毎週月曜日19時~21時放送の「とことん歴史紀行」という番組があって、明日(8/10)の放送は横溝正史の特集なのだそうです。
 で、横溝といえばこの人、神戸元町うみねこ堂書林の野村さんさんが、インタビューで映るそうです。みなさまお見逃しなく!

 
      とことん歴史紀行

 

Re: NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 9日(日)22時57分36秒
返信・引用
  > No.6470[元記事へ]

 高井さん
>今年は初回放送から40年。それでも面白いんですから、あと20年経とうが、同じでしょう、きっと。
 いやほんとそうですね。風俗的に古びてないこともないのですが(反核は逆に今日性を担ってしまいましたが)、ドラマ自体が永遠に通用するものなんですよね。
 たとえばラストで、今生の別れのような愁嘆場があります。実は東京郊外から大阪に転校しただけなんですよね。今ならツイッターとかでコミュニケーションは持続するものでしょう。その意味では現代の中学生は、大袈裟だなと思ってもおかしくない。しかしネット以前は、このシーンに近かったと思います。私も何人かの転校生と友達になりましたけど、転校後は没交渉になるのが常でした。せいぜい年賀状を交わすくらい。
 現代の中高生が感じてもおかしくない、そういう些細な違和感も、ドラマ自体の永遠性(原型構造)に引き込まれて全く気にならずに見てしまうのではないかと思います。
 また演劇的と書きましたように、かなりちゃちな大道具で、いまならこんなのは許されないでしょう。しかしこの物語の世界に没入してしまえば、殆んど気にならなくなってしまいます。
 すべて原作小説の「物語の力」に与っているんですよね。

>『NHKアーカイブス』の総集編、よくできていましたよね。
 そうそう。あれはよかったですね。私も総集編を念頭において、アブリッジ版という言い方をしました。週一放送を見るなら、オリジナル版で何の問題もありませんが、イッキ見するなら、いや一気に見させるのなら、総集編ですねえ(^^;

 

Re: NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」を観た

 投稿者:高井 信  投稿日:2015年 8月 9日(日)21時57分21秒
返信・引用
  > No.6469[元記事へ]

>  もっとも、中学校の視聴覚室で試聴するにはいささか長尺すぎるので、アブリッジ版を作ればよいと思います。オリジナル版は現時点からしますと、間とかが十分過ぎて、ちょっとテンポが悪い。アブリッジしてちょうどよいくらいかも。
『NHKアーカイブス』の総集編、よくできていましたよね。
>  良い作品は永遠に良い作品なんですね。20年後でもこのドラマは通用していると思います。
 今年は初回放送から40年。それでも面白いんですから、あと20年経とうが、同じでしょう、きっと。
 

NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 9日(日)20時12分38秒
返信・引用
  > No.6468[元記事へ]

 承前。少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」(75/11~12放送)を見終りました。
 テレビ放送時点でも見ていたはずですが、毎週必ず見ていたわけではなく(大体このドラマ枠、予告もなしに休止になることも少なくなかった)、見なかった回もあったと思います。たぶん通しで全部見たのははじめて。
 で、じっくり見ての感想。これは「テレビで見る劇」ですね。ときどき学芸会を彷彿とさせられました(^^;。
 テーマは現代でも通用するものです。というより永遠のテーマですね。科学の進歩によって、文明の利器に頼るようになったわれわれは、もはや原始人のような生活には戻れない。しかし科学の行き過ぎ(とりわけ核開発)には常に警戒を怠ってはならない、という感じでしょうか。
 全然古臭くありません。今でも十分通じる話です。かつて私は、次元ジプシーは神経質すぎると思っていましたが、福島原発後の現在、決してそうではないと認識を改めました。
 そういう意味で、中学校ではこのビデオを全生徒に鑑賞させるべきです。眉村さんの原作は教科書に準ずるものとして、全員に配布するようにしたらどうでしょうか。
 もっとも、中学校の視聴覚室で試聴するにはいささか長尺すぎるので、アブリッジ版を作ればよいと思います。オリジナル版は現時点からしますと、間とかが十分過ぎて、ちょっとテンポが悪い。アブリッジしてちょうどよいくらいかも。
 良い作品は永遠に良い作品なんですね。20年後でもこのドラマは通用していると思います。
 

 

NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 9日(日)01時30分8秒
返信・引用
   NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」に着手。全9回中、6回まで視聴しました。さすがにイッキ見は無理でした。残りは明日。

 .

 

「短話ガチャンポン」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 8日(土)19時40分53秒
返信・引用 編集済
   眉村卓『短話ガチャンポン』(双葉文庫、15)再読了。

 数ヶ月前、眉村さんから「いま、長さも内容もバラバラな、エッセイみたいのや断章めいたのもある短い作品を書きためていて、『短話ガチャポン』というタイトルでまとめるつもり」というお話を伺いました。ちょうど「或阿呆の一生」を読んだばかりだったので、すぐにそれが頭に浮かびました。そんな感じですか、と訊きましたら、「まあ形式的にはそうですが、あんなに深刻なものではありません」とのことでした。
 本書がそれです。タイトルが「短話ガチャンポン」となったのは、「ガチャポン」という言葉が権利関係で使えないのと、ガチャンポンというのもそれなりに通用しているからのようです。
 さて、一読私が感じたのは、当初エッセイめいた軽い作品集かと想像していたのですが、意外にきっちり小説しているな、ということでした。軽く読み飛ばせないのです。短い作品も含めてすべてそれなりにずっしり重い。
 ああ、これはやっぱり「或阿呆の一生」の著者版だ、と思いました。
 芥川のは三十代の作物ですが、遺稿です。「或阿呆の一生」を連載中に自殺したのです。著者は八十歳で、(本集中にも書かれていますように)大病されましたが、今は本復され、また以前のように精力的に東奔西走されています。まったく、二十歳下の私などが及びもつかぬバイタリティです。前者は若いが病んでいる。後者は高齢だが健康。と、両者の立ち位置は全く正反対です。
 しかし著者は、大病をされたこと、年齢(同い年である筒井さんが、自分より先輩は指折り数えられるようになった、という意味のことを日記に書いていらっしゃったと思います)などからいつかは訪れる死を強く意識されるようになったのではないでしょうか。それが本書には強く反映されているように思われるのです。
 あとがきで著者は、「何だかどれも、老齢に入り込んでしまった作者の心象が見えるようだ、と指摘する方があれば、そうなのだ、それがモチーフなのだと、白状するしかないのでります」と書いています。
 老人小説としての私ファンタジーには、すでに『いいかげんワールド』(07)あたりから着手されていましたが、それが前作『自殺卵』(13)収録作品あたりから(つまり大病を経験されてから)、もっと死を意識した作風に変化してきました。本作品集もその路線上にあります。
 つまり、「或阿呆の一生」を書いた芥川とは対称的なポジションから書き上げられたものながら、本作品集は、意外にも芥川作品に(表層的にではありますが)接近遭遇しているのです。
 「或阿呆の一生」には、著者の気分の浮き沈みが断章ごとに読み取れるのですが、本書も同様の明暗があります。
 たとえばほんとは自分はもう死んでいるのではないか、というモチーフが複数回出てきます(「杉田圭一」「生田川家」「大阪T病院」)。
 一方、年齢的な鬱感情が、ふとしたきっかけでおだやかに晴れる瞬間をとらえた作品もあります(「幻の背負投げ」「臨終の状況」「勧誘員」「思い出し笑い」)。「易者」では主人公は開き直ることができています。「エンテンポラール」では老いた肉体を脱ぎ捨て別次元のスポーツ選手になってしまう。
 これらは著者が、そのときどきの自身の感情を、素直に表現しているということではないかと思います。非常に自然なのです。
 私が特に気に入ったのは、「勧誘員」で、主人公は人生の経験者として蓄えた「世故」を、企業が営業に役立てるために、死後、脳から移植する契約を結ばないかと勧誘されるのですが、対価を聞くと案外に安かった。勧誘員は微笑して、「あなたは、あまり上手には生きてこなかった。むしろ不器用に、自分に誠実に生きてきた。だから金額も高くないんですよ」(私も実は同類で)「あなたのような人に出会うと、そうだそうだ、それでいい、という気になるんです」。いいですねえ。まさに眉村節。
「転倒」は、無駄な描写が全くない私(体験)小説の秀作。
「昔のコース」も私小説。本書集中の白眉。主人公は、結婚前両親と同居していた、両親亡き後の今は妹夫婦が住んでいるA通りの実家へ、届け物を届けにH町の自宅からぶらりと出掛ける。そしてふと、昔その家に住んでいた頃、通勤に利用したコースをたどってみようと思いつきます。景観は一変していますが、面影が残っている場所がなくもない。歩きながら過去を思い出す。岸ノ里から北向きの地下鉄四つ橋線に乗った主人公は、大国町付近で一瞬並行する地下鉄御堂筋線の車両が見えないかと期待する。そしてその車窓に、先月亡くなった弟の顔が見えたらいいな、と思う……。ああ、しみじみ、よいです。

 

Re: 橋元淳一郎「宇宙はどれくらい広いのか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 8日(土)13時05分35秒
返信・引用 編集済
  > No.6464[元記事へ]

 追記。たとえ中国語の部屋であるとしても、それを外から眺めて「心」を感じてしまうのも、それもまた重要な人間の契機ですよね。ペットがそうですし、テレビの動物番組は、動物の適応の結果である本能的行動パターンをまるで心があるかのように説明して、人間のそのような属性を巧妙に操作しますよね。
 心の形成に「体験」が必須であることは言うまでもありません。その意味でコンピュータのAIは心を持つための手段を最初から持っていない。しかし動きまわって作業をするロボットのAI(必ずしも人間型でなくても)は、ある意味日々体験しているといえるのではないか。その過程から、ロボットのAIにも「心」が生まれる可能性はゼロではないように思ったりもします。
 だいたい「心」をもっているはずの人間でさえ、よく観察すれば脳(心)を通さない脊髄反射的応答の形式を踏襲しているだけにすぎない例がたくさんあります。会話している相手が笑ったら、その笑いが移って自分も笑っていたりとか(おかしくもないのに)。検証もせず鵜呑みにするとか。オバちゃん連中の会話をはたで聞いていたら、互いに自分の言いたいことを交代交代にしゃべり合っていて、ウンウンとうなずき「そうやね」と相槌を打って交代していきます(頷き合うことでつながっていく)。会話になってないのですが、本人たちはそんな風には感じていません。
 実はそういう応答形式(ボッコちゃん形式)の連鎖で、大半の人間は生きているのではないでしょうか。人間とAIの間の距離は、意外に小さいかも。

 

橋元淳一郎「宇宙はどれくらい広いのか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 7日(金)22時36分13秒
返信・引用 編集済
   橋元淳一郎『宇宙はどれくらい広いのか 不思議の星のサイエンス(第5巻)』(キンドル版、15)読了。

 第17話「宇宙はどれくらい広いのか」 本書にかぎらず、ビッグバン直後の宇宙の説明で、私がいつも悩むのは、例えば本篇では「直径が一センチにも充たない」と書かれているわけですが、この「一センチ」ってどうやってわかったのか、ということなんです。(あとビッグバン後何十分でどうなった、と言った説明も)
 これ、宇宙を「外」から見た説明ですよね。
 でも私達は宇宙内存在であって、宇宙は膨張している、というのも、少なくとも私は、自分が内部にある袋状(風船状)の宇宙が膨張していくというイメージで、膨張宇宙を外から見る視点は考えられないんですよね。
 というか、外なんかあるんでしょうか。
 ビッグバン後何十分、という記述もそうで、そんな空間と相関しない孤絶的な時間なんて、思い浮かべるのは不可能です。
 というのは著者に対する不満ではもちろんありません。宇宙本では大概そういう記述になっています。読者はそれで実感できるのかしらん、と、その手の記述に出遭うたびに、思ってしまうんですよね。
 ところで光速だと時空の長さはゼロになるそうです。光速道路というアイデアを思いつきました。光速道路に入り口から乗り入れば、一瞬で(距離に関係なく、時間ゼロで)目的地の出口に着いてしまうのです(もちろん質量はご都合主義で無視する)。これはワームホールとは原理が違いますよね。同じなのかな。

 第18話「我々は人をどのように認識するのか」 著者は、他者認知の精神疾患として、失顔症(相貌失認)とカプグラ症候群を挙げます。失顔症は他者の顔を区別特定して記憶できない。後者はたとえば外見は妻だとわかるのだが、中身は妻ではない他の何者かだ、と信じてしまう(ちょっと安部公房っぽいですね)。
 この二例からわかるのは、人間は外見だけで他者を認識しているのではないということ。それに加えてもっと内面的な何かが他者認識の契機となっているはずと著者は言います。
 こういう考え方をする所が、著者が単なる理系の人ではないところです。いわば科学と現象学の合体ですね。
 ところで私も、何十年ぶりかで開かれた同窓会で、少し離れた席にものすごい美人が座っていて、あれだれやろ、と気になってチラチラ見ていたのですが、全然思い出せません。ついに、向こうの席に座っていた知り合いとトイレだったかで出会い、あれだれ? と聞きました。○◯やがな、と教えられた途端、見る見るその見知らぬ顔が、よく知っている(当時から美人でしたが)○○の顔に変貌したのでした。もちろんその数十年後の顔にです。つまり連続性でつながったのです。それまではつながらなかった。多分コンピュータは2枚の写真を食わしたら別人と判定するんでしょう。それに連続性を与えたのは、内面的な何かだったんだと思います。

 第19話「孫はなぜ可愛いのか」 3万年前に人類が爆発的な文化的発展を遂げたのは、平均寿命が伸びて、「孫」「祖父母」が現れたから、と著者は言います。これは面白いです。3万年前から、つい100年前まで、この定式は機能していたに違いありません。
 現代はどうでしょうか。文明の急速な発展は、祖父母の知識を時代遅れにしてしまいました。わからんことは爺さんに聞け、が機能しなくなってきたのです。今日の老人軽視の根本原因だと思います。

 第20話「コンピュータは人間を凌駕するか」
 ゴッホの贋作は素人には区別が付きません。実は専門家も物理的な証拠で鑑定しているそうです。では贋作者はゴッホと同じ才能を持っているのか。それは違う。表現テクニックがゴッホ並というだけ。というのが著者の考え。
 コンピュータが進化すれば、名人並みの表現テクニックを獲得するに違いない。しかしそれは超精密な贋作者でしかない。なぜなら心がないから、と著者は言います。
 模倣はできても創造はできない、ということでしょう。
 でもその超絶テクニックに、我々はついコンピュータに心を見てしまう。
 これは第一巻の「中国語の部屋」と同じ錯覚ですね。
 瀬名さんの「ケンイチ」ものは、瀬名さんがAIに熱心に関わっているので迷うのですが、あれは壮大な「中国語の部屋」なのだと、最近思い始めています。
 ところで、バッハはどうなんでしょう。ある音列を与えれば、コンピュータはバッハと同等の曲を「創造」してしまえそうに思うのですが素人考えですか失礼しました(汗)。


 

「神 岡田正也翻訳コレクション」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 6日(木)21時41分15秒
返信・引用 編集済
   ジャズ住職のHPで知ったのですが、オーネット・コールマンが6月に亡くなっていたのですね。そういえば数年前、東京JAZZを体調不良でドタキャンしたというニュースが流れましたから、ついに来るものが来たという感じです。享年85歳。合掌。

 高井信さんから送って頂いていた『神 岡田正也翻訳コレクション』(ネオベム文庫、15)を読みました。この本の制作の経緯については高井さんのブログをご覧ください。私の頂いたのは淡桃色の第2刷です。

 ヘンリー・スレッサー「神」は、わずか2ページほどのショートショート。まさにショートショート。私の感覚では、これぞショートショートです。オチが世界に開かれているのも(風刺的ということ)、この意味のショートショートの要件ですね。こんなのを生涯一篇でいいから作ってみたいものです。なお本篇は、『字宙塵』創刊号で既読でした。

 ジェイ・ウィリアムズ「こわがり屋」は最近読んだばかりなので、今回はパス→感想はこちら(コメント欄)。

 コニシ・ガク「ソンジョラーモ」 著者は日本人ですが、エスペラント語の雑誌に発表されたもの。それを岡田さんが日本語に翻訳。岡田さんはエスペラント語もできたんですね。本篇は12頁20枚弱で、ちょっと眉村さんをほうふつとさせる企業ものです。追記。検索したらウィキペディアに掲載されていました。何と眉村さんと同い年で元関学教授!

 SÁNDOR SZATHMÁRI「完全なる臣民」も、エスペラント語からの翻訳。著者はハンガリー人で、64年時点でエスペラント語の著書が2冊あるようです。大君主皇帝が名匠に命じたのは、理想的な臣民・臣下としてあらゆる嗜みを備えた機械人間の製作だった。名匠が献上したのは……。一種の論理寓話で、「完全なる臣民」は生身の(魂ある意識存在である)人間を措いて他ないというビターズ・エンドが効いています。


 

Re: 「アルファ・ケンタウリへの十三人」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 6日(木)01時00分14秒
返信・引用 編集済
  > No.6460[元記事へ]

 堀さん
>「砂の檻」のインパクトが大きくて、他の作品は印象が弱いですね
 ああ、たしかにそうですよね。でも堀さんはパッと当たりが付けられるんですから、やはりきちんと読んでおられるわけです。
 私は堀さんに示唆していただくまで、まったく記憶が甦ってきませんでした。『永遠へのパスポート』と言われれば、「あ、アルファ・ケンタウリ……だ」となりましたが。
 実はこの短篇集は74年4月に買っていました。そしてそのひと月後の5月に、ガッテニョ『SF小説』を購入しているんです。当時は積ん読など殆どしなかったので、購入後数日中に必ず読み終わっています。
 その頃私は御多分にもれずNW少年だったので、しかも思い込みが強い性格だったので(それはいまもそうですが)、この作品集は「バラードなのにオールドウェーブっぽい」と、いささか軽んじていたかもしれません。
「アルファ・ケンタウリの十三人」もOWと決めつけてちゃんと読まなかったんじゃないでしょうか。
 でなければ、ガッテニョを読んだ時点で、「アルファ・ケンタウリ……」を関連付けて記憶していなければおかしいです。時差ひと月もないのですから。

>バラードもオールディスもスターシップものを書いていて、やっぱり根っからのSF少年だったような気がしますね
 それは言えますね。そして既存のSF作品に対して、熱狂しつつも「ここが気に入らん」とか言っていたタイプだったんだろうと思います。そういえば大学のSF研には、そんなタイプがごろごろいましたよね。「これはSFではない」とか言いながら。だったら読まなければいいのに、熱心に読むんですよね(笑)
 バラードのSFマインド溢れる作品を、素直に鑑賞することができました。ありがとうございました。

 

こもりうた

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 6日(木)00時52分19秒
返信・引用 編集済
   .


 

Re: 「アルファ・ケンタウリへの十三人」を読んだ

 投稿者:堀 晃  投稿日:2015年 8月 5日(水)22時45分6秒
返信・引用
  > No.6456[元記事へ]

バラードのスターシップもの、「アルファ・ケンタウリへの十三人」でしたか。
朝目覚めて5分くらいで書いたもので、半分寝ぼけてましたが、あとになっても思い出せませんでした。
『永遠へのパスポート』は「砂の檻」のインパクトが大きくて、他の作品は印象が弱いですね。
しかし、
「エイベルは知っていたのだ!」
とういラストの一行は覚えておりました。
バラードもオールディスもスターシップものを書いていて、やっぱり根っからのSF少年だったような気がしますね。
 

Re:「××新人賞」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 8月 5日(水)15時05分24秒
返信・引用
  管理人様
気を悪くなど、してはおりません。クロネコメール便がなくなったので、一番近い郵便局を利用したまでです。その郵便局は常日頃から利用しているので、局員が覚えていたのかも知れません。まあ、今後も利用するでしょう。きっと。そこしか、利便性がないところなので。
 

Re: 「××新人賞」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 5日(水)13時27分55秒
返信・引用 編集済
  > No.6457[元記事へ]

段野さん
 ああ、そのケースはオッケーです。なぜならこのような声掛けは、中身が原稿であろうとなかろうと関係なく、郵便局員として当然してしかるべき配慮じゃないでしょうか。一応は。
 一応は、と書いたのは、もしこの郵便局員が(ふだんそういう配慮はしておらず)、原稿在中を見て、段野さんにのみそのような注意を促したのならば、それは余計なお世話です。ぶちきれませんが不愉快になります。この局は今後一切利用しないぞと思いますねきっと。
 どっちだったかは、文脈的に当事者には自明でしょう(段野さんのケースはどっちだったんでしょうか)

 あ、そうか。段野さんは、原稿送付を常に同じ郵便局からされているんじゃないですか?
 ちょくちょく応募原稿を送りに来局するお客さんとして、局員の脳にインプットされている、個別認識されている、つまり一言二言声を交わすくらいには知り合いになっているのならば、段野さんのように気にならず、むしろアドバイスを好ましく感じたりすることは当然です。
 私自身は、そういう関係に極力なりたくない。あの人、今日また応募原稿送りに来てはったよ。へえ精が出るこっちゃね。なんてウワサ話を後方でされているかと思うと、わなわなと体が震えるのを抑えることができません。思わず振り返って「ほっといてんか!」と叫んでしまい、一人でぼんやりカウンターの向こうに立っている局員さんを驚かせてしまいます。そうです。脳内妄想であるのを忘れて、大声を挙げてしまったのです。全く恥ずかしいじゃありませんか。そんなことは醜態は絶対に晒したくありません。揶揄しているのではないですよ。私の正味の本心です。局員の、何の底意もない声がけが、私の場合、そこまでつながっちゃうのです。
 もちろんこれは原稿送付の場合ですよ。ですから普段仕事で利用して顔なじみになっている郵便局はでは、原稿送付は、できるだけ避けますね。
 これはまあ、日常的に応募している人と、十年に一度するかしないかの者の温度差というべきかもしれませんね。気を悪くされたのでしたらごめんなさい。

 

「××新人賞」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 8月 5日(水)10時58分26秒
返信・引用
  とある郵便局にての会話。(台風が近づいてきたとある日)
(封筒の宛名を見た局員。またまた)「雨が近いようですが、大丈夫ですか。こちらでは、濡らしたりはしませんが」「はあ(ビニール袋に入れればよかったか)」「配達先で、もし濡れたものと一緒になったら、濡れるかもしれませんよ。(中身は大丈夫なのか)」「とりあえず、このままでいいです」「では、お送りします」「お願いします」
管理人様なら、ぶちぎれますか? (もっと早く教えて欲しかった。いや、気が回らなかった当方が悪かったか) 失礼しました。
 

「アルファ・ケンタウリへの十三人」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 4日(火)23時19分5秒
返信・引用 編集済
   J・G・バラード「アルファ・ケンタウリへの十三人」を読みました。
 読んでいるうちに少し思い出しました。
《船》からドクター・フランシスが降りてくる場面は、たしかに「吹きわたる風」に類似していますね。ですから私が「思い出した」のは、堀さんのご示唆どおり、「吹きわたる風」じゃなくてこっちの脳内映像だったんでしょう(しかし映画的な、映画向きのシーンですよね。今でこそこういうシーンは割とありふれていますが(カプリコン1とか)、本篇雑誌初出当時(62年)は、こういうオフビートはきっと新鮮だったと思います。まあ「吹きわたる風」は57年なんですが。
 本篇は「吹きわたる風」ほどリーダビリティはありませんが、それは「吹きわたる風」ほど一直線ではなくアイデアが輻輳しているからですね。
 「吹きわたる風」同様、現状に固執する人間がいます。「吹きわたる風」の主人公サミュエル少年は一種の「ユニーク」で、そういう保守性に敢然と反抗するので(成り行きもありますが)、読後感が爽やかです。
 いっぽう本編の主人公エイベル少年は、そもそも「知っていた」のですね。それは最後の最後でフランシスによって推測されて読者にわかるのです。それまでは読者にすれば、サミュエル=エイベルなんです。
 ところが最終行のフランシスの言葉「エイベルは知っていたのだ!」を読んだ読者は、そういえば、と、あわててページを捲り戻します。
 そして第一行が「エイベルは知っていた」であることを再発見して驚く訳です。
 エイベルは、サミュエルのような新しいものを恐れない人間ではなく、自分はどこに居るのが一番自分にとってよいかを考える人間だったのですね。
 いやおそろしい小説でありました。

 このゆくたては、当然「吹きわたる風」のプロットに不満を感じたバラードのレスポンスであったのは間違いありません。と同時に、「寄港地のない船」(57)の結末に対するレスポンスであったかもしれません。なぜなら船が四分五裂して船の住民は地球に帰還するしかなくなったとき、コンプレインとヴィアンは、何の不安も感じていないどころか、希望すらもっているようなのです。
 ブライアンそれは違うやろ、とバラードは思ったに違いない。それを作品で示したのが、本篇なのではないでしょうか(^^;。

 ところで、「寄港地のない船」では船の住民は体が小型化し、動作が早くなり、その分寿命も短くなっています(プロキオンで感染した新種のウイルスのせいもありますが)。本篇も船の住民の寿命はせいぜい40年位となっています。
 これ、意外にあたっているんですね。
 日本人はどんどん大型化してきたように思われているかもしれません。実は日本人の身長は江戸時代、最低になるんです。もっと詳しく言えば、古墳時代にひとつの頂点に達した身長は、それから漸減していき、江戸時代で底になる。それから再び高身長化が始まる。
 古墳時代人が高身長なのは、大陸からの渡来民が多く入り込んで交雑したからなのです。これは現代でも言えて、たとえば同じ村内で結婚した者より、地理的に離れた住民同士が結婚したほうが、子供は大型化するのです。
 ところが古墳時代以降、異なる血が入り込むことが少なくなり、江戸時代は遂に鎖国してしまいます。日本人の血が均一化してしまった。それが小型化の原因の一つになっています(江戸時代に小型化が進んだのは、3000万という人口が、日本列島が養えるマクシマムだったため、進化論的に小型化が進んだという説があります。フローレス人もその例かも)。
 世代宇宙船も、ある意味鎖国社会であり、人口マクシマム社会といえるでしょう。だから宇宙船内の人間が小型化する(あるいは短命化する)のは、理にかなっているんですねえ。

 

Re: 「吹きわたる風」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 4日(火)20時32分33秒
返信・引用
  > No.6453[元記事へ]

 堀さん
 ご教示ありがとうございます。『永遠へのパスポート』所収の「アルファ・ケンタウリへの13人」ですね。早速これから読んでみます。

> No.6454[元記事へ]

 段野さん
 おお、7月31日が締め切りでしたか。としますと、検索での来訪者は、おそらく発送後にいろいろ情報を集めたくなったんでしょうね。
>とある郵便局にての会話
 嫌ですねえ。郵便局員が封筒の但し書きを見て、自分の好奇心を満足させようとする、これが嫌なんですよねえ。見て見ないふりをするべきです。というよりもそれが当然の態度ですよね。
 私が応募というのを殆んどしないのには、こういう事態を想定してしまうから、というのが何%かあります。
 で、応募するときも、「応募作品在中」みたいな但し書きは付けません。はっ。してみますと私の応募作品は、行方不明になってしまっている場合が多いのかも。だから受賞しないのか(>違います)(^^;

 

「藤本義一文学賞」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 8月 4日(火)09時45分8秒
返信・引用
  とある郵便局にての会話。
(封筒の宛名を見た局員)「まあ、藤本義一さんですか。確かお亡くなりになられましたよね」
「はあ」「おしゃれな方でしたね」「ええ。ですので、テーマは帽子なんです」「そうですか。で、締切には間に合いますか。このままですと、明日には届くと思いますが」「はい、大丈夫です」(実は7月31日が締切)「では、お送りしておきます」「お願いします」
こんな感じでした。
 

Re: 「吹きわたる風」を読んだ

 投稿者:堀 晃  投稿日:2015年 8月 4日(火)04時00分7秒
返信・引用
  > No.6452[元記事へ]

>同じアイデアの別の作品を読んだのかもしれません。

これ、ぼくもまったく自信がないのですが、バラードの短編にスターシップものがありましたね。それではないでしょうか。
タイトルも細部も思い出せない。嗚呼。
「時の声」か「永遠へのパスポート」か、あの頃の短編集に入っていたように思います。
少年が最後に、自分の住む世界が遠心力から生じる人工重力で支えられているのではないことに気づく……そんな場面であったような。
これも記憶があいまいですが。
 

「吹きわたる風」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 4日(火)01時27分15秒
返信・引用 編集済
   というわけで、チャド・オリヴァー「吹きわたる風」を読みました。
 半分結末を知っていたので、あっと驚くことはなかったですが、これは名作ですね。というか、これ、読んだことがあるかも。ラストに記憶があります。偽記憶かもしれませんが。
 で、頭のなかを走査してみました。もし読んだとしたら、世界SF全集しかありえません。これは中学のとき、中之島図書館でつまみ読みしたことがあります。そのとき、ひょっとしたら読んだのかも。

 というのはさておき、半分結末を知っていたと書いたのは、私がそうではないかと期待したストーリー(ここ参照)ではなかったからです。
 ネタバレしますが、本篇も「地中になかば埋まった宇宙船」ではありますが、目的地に到着して、そこで埋まっていたわけです。このプロットはたしかに読んだ記憶があります。いままで完全に忘れていましたが。
(*もっとも、同じアイデアの別の作品を読んだのかもしれません。ラスト以外は全く記憶がないので)

 本篇の肝は、到着しているのに、未知の世界に出て行く勇気がなく(主人公の同期は皆「乗務員」になったとありますから、宇宙船の住民に事実が隠されていたわけではありません。大半の者は知っているんですね)、住み慣れたせせこましい世界にとどまる、いわば「前例主義」といいますか、生まれる前から決まっている(アプリオリな)決め事を、それを破ることで悪化することを怖れて新しいことに手を付けない「保守的態度」が断罪されているわけです。
 こういう態度は、実際本当によく見かけますよね。役人が典型ですが、一般企業にも多いです。自分がその役職にある間は絶対にそれまでのやり方を変えない人がいます。確かに変えれば良くなるかもしれない。でもひょっとしたら悪くなるかもしれんじゃないか。これまでそのやり方で問題がなかったんだから、あえて変える必要はない、というやつです。
 昨日も定年まで残るタイプの話をしましたが、これはたしかに、利己的遺伝子的に自己の生存性を高める戦略としては正しいんですよね。でもそれが集団の生存性も高めるかといえば、それはそうとはかぎらない。むつかしいところではあります。

 ということで、私の妄想はオリジナルということになる? それとも先行する作品が他にありますでしょうか?

 

「ニュー・アトランティス1658」軽装版その他

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 3日(月)21時17分44秒
返信・引用 編集済
   高井信さんから、先日頂戴した岡田正也『ニュー・アトランティス1658』の別バージョン(軽装版)を送っていただきました。
 前回はB7版の豆本でした。豆本はYOUCHANさんが表紙を担当した立派なものでしたが、私のように指先の不器用な人間は、小さすぎてページをめくるのに少し難渋しました。
 今度のは、文庫サイズで二段組の軽装版です。
 やはりこのサイズですと読みやすいですね。文字の大きさもですが、上記のように手にしたときの扱いがです。まあ文庫本に関しては半世紀になんなんとするベテランですからね。ページめくりの勘所も、体が覚えているのかもしれません。
 私の解説文には、古地図を5葉入れてもらっているのですが、地図も大きくなって、Iapan や Japon が判読できるようになりました(ベーコンの原文では日本が Iapan (ヤーパン?)と表記されているのです。では日本の呼称は、いつごろ、 Iapan から Japan に変わったのか、をトレースしているのです。だからそれが見えるほうが説得力が増すのですね)。うれしい。
 高井さん、ありがとうございました。
 

 府立中央図書館より、申し込んでいたチャド・オリヴァー「吹きわたる風」のコピーが届きました(こちら参照)。
 7月26日(日)にネットで申し込み、29日(水)に受付けたという返事と振込先等を記入したメールが届きました。30日(金)に郵便局から送金し、今日現物が届いたという次第です。
 ちなみに料金は、複写料金:20円x13枚=260円、手数料:100円、送料:82円、合計442円でした。
 封筒には、SFMからのコピーが折られることなくそのまま入っていました。しかもポリ袋に入れられて、郵送中に折り曲げられないよう二枚のダンボール紙に挟んでありました。ですから定形外のはずなんですが、82円なんですね。良心的(^^;
 ということで、早速読みたいと思うのですが、現在、眉村さんの新刊『短話ガチャンポン』を読み中につき、眉村さんのを読み終わったら着手します。
 

 実は『短話ガチャンポン』、数日前に、眉村さんから贈って頂いていました。当初、エッセイ風なのかなと思っていたら、予想外にしっかり小説していまして、一個一個が重い(その意味でも「或阿呆の一生」的)。さらっとつづけ読みできるものではなく、時間がかかりました。しかし今日中に読了できそうです。
 
   (この表紙に騙されてはいけません(^^;)

 

Re: 「幕末高校生」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 3日(月)19時45分12秒
返信・引用
  > No.6449[元記事へ]

 段野さん
>昨年7月26日上映された、石原さとみ主演の「幕末高校生」を見ました
 私も観ようと思いながら忘れていました。ちょうど1年前に上映されたんですね。だったらもうツタヤに入ってますね。今度借りてみます。

>まったく「名残の雪」とは別個のものだと思いました
 それはそうでしょう。この映画は細川ふみえ版「幕末高校生」を念頭に置いて作られたものですから。その細川ふみえ版は、NHK少年ドラマの「幕末未来人」が元になっており、そして「幕末未来人」にいたって、ようやく「名残の雪」の結構がうっすらと残っているという感じですからね。「原案・協力」はほとんどリスペクトといっていいですね。
別の作品と、最初から納得して観たほうが精神的によいでしょう(^^;
 私も「名残の雪」は頭から全く除外して観るつもりです。

 ところで、ここ数日、藤本義一や帽子の検索語で来る人が半端な数ではないのですが、そろそろ締め切りが迫ってきたんでしょうか。そういえば「藤本義一文学賞 傾向」ってのもあったなあ。今更傾向を調べてどうするの、気にしたってしかたがないのにね。まあ応募者の心理としては、そんなものなんでしょうね。自分が応募していたら同じかもしれません。

 

「幕末高校生」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年 8月 3日(月)15時37分54秒
返信・引用
  昨日(8月2日)に、日本映画専門チャンネルで、昨年7月26日上映された、石原さとみ主演の「幕末高校生」を見ました。細川ふみえ版とは違い、やはり時代の差があったりと、まったく「名残の雪」とは別個のものだと思いました。おたく高校生が持っているものは、スマホで、画面に「バックトゥーザフューチャー」とか出てきたりしますし、デロリアン号ではない軽自動車が登場したりして、何だか、全く別物に思えました。「原案・協力」とクレジットされていましたが。ラストは、またおたく高校生が、「明治時代」をスマホで選択してしまい、明治時代へ……となる、という塩梅でした。斬られ役、福本清三さんの出演があり、そこはおもしろかったです。こんなとこで、失礼しました。  

眉村さん情報:「銀座百点」8月号にエッセイ掲載

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 3日(月)00時01分8秒
返信・引用
 
 元ツイート
 この雑誌は「銀座百点会」加盟店舗で無料配布されているそうです→こちら

 

「超能力は存在するか」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 2日(日)21時18分27秒
返信・引用 編集済
   橋元淳一郎『超能力は存在するか 不思議の星のサイエンス(第4巻)』(キンドル版、15)読了。

 第13話「ダニはどんな世界を見ているか」 どんな単純な仕組みの生物でも、自分の死に繋がる行動は避けますよね。さっきも蚊を叩き潰そうとしたらひょいと逃げられてしまいました。このことからしても生物に生存意志があることがわかるんじゃないかな、と考えています(植物もこれで説明できるのかどうかは今のところ不明)。
 現在存在しているすべての生物は、そのような生存戦略で勝ち残ってきたもののみ。一番生存に適した行動を本能に組み込んだものたちといえる。
 その本能に組み込まれた世界把握が「環世界」(ユクスキュル)なんだと思います。取り巻く環境が変化すれば環世界の妥当性は弱まり、新しい環境に適合した新たな環世界を組み込んだものが生き残っていく。
 客観的と歌われる科学も、実は人間の環世界のひとつにすぎないというのが著者の考え。ひと昔前の大槻教授の言動が憎たらしかったのは、科学を万能至高と認識しているのがあからさまだったからだな、と思いました。

 第14話「美人の絶対基準はあるのか」 男はどういう顔を美人と認識するのか、をモンタージュを使って調査したら、沢山の顔から合成して作った顔が一番男から支持されたとのこと。つまりあんまり特化していない顔(個性のない平凡な顔)が美人の条件だったのです。著者は、これは平均的な個体のほうが生存に有利だからとします。
 実際会社でも、会議で自説を主張する人はいっときは評価されますが失敗した時の反動も大きい。結局最終的には意見を言わない事なかれ主義者が定年まで残っていますよね。

 第15話「生きるのになぜ酸素が必要なのか」 酸素はいろんな物質と結合して大きなエネルギーを発生するのだそうです。そのかわり扱いを間違うと大変危険でもある。酸素型生物は、20億年前に酸素が発生後、酸素の燃焼をコントロール(ATP回路)できるようになってはじめて地球に繁栄した。それまで繁栄していた硝酸塩をエネルギーとしてメタンを吐き出す生物を片隅に追いやった。なぜなら酸素を燃料としているので、行動がすばやいのです。
 これって哺乳類の世界で先に出現した有袋類が後発の有胎盤類に滅ぼされてしまったのと似ていますね。現在有袋類は、ほぼ、有胎盤類発生以前に絶海の孤大陸化したオーストラリア大陸にのみ残存しているわけですが、同様に、地球の何処かに、オーストラリア大陸に相当する無酸素地帯を存在させ得たら(どう存在させるかですが)、硝酸塩呼吸人類が存在し、それは当然酸素呼吸人類より古きものたちなので、人類より高文明を持っているかもしれません。クトゥルーの古きものたちのなかに、そういうのがいるかも(^^;

 第16話「超能力は存在するか」 科学事実と言われるものを、一般人である私達が直接確認できることはあまりありません。冥王星は太陽から40天文単位離れていると、私達は「知って」いますが、暗記しているにすぎない。
 とすれば科学もひとつの宗教なのかもしれない、と著者は言います。しかも「その力はかつてのキリスト教に勝るとも劣らないものであり、「科学教」と呼んでもいいかも知れない」と。ここでも著者は、科学も人間の環世界のひとつでしかない。そのことを常に念頭に置いて、科学万能的な傲慢に陥らないよう、戒めているようです。

 

国会は大阪弁で

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 2日(日)21時13分18秒
返信・引用 編集済
   山本太郎って、偏見を持ってましたが、いやなかなか政治家として優秀なんじゃないでしょうか。アベッチもタジタジ。ていうかこれくらいの弁論術は政治家とすれば当然習得していてしかるべきかも。日本の政治家のレベルが低すぎるのか。ヒトラーにあって残念ながらアベッチにないのはこの弁論術でしょう。

 あと、大阪弁の強みですね。政治は大阪弁でやればいいのではないか。官僚がのらりくらりと言葉を操って何も言わないでいるのは共通語の特質にも与っているかも。大阪弁で論戦すれば、いくら隠そうとしても、いつの間にか本音がでてきてしまうんじゃないでしょうかねえ(^^;

 
 

夏の夜の迷宮物語

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 2日(日)01時05分55秒
返信・引用 編集済
   去年の年末以来、夜中は飲まないことにしているのですが、あまりにも蒸すので、コンビニでジムビームのポケットボトルとチェイサー用の天然水を買ってきてしまいました。
 飲みながら、アニメ「迷宮物語」を鑑賞。前衛的すぎて酔いがまわるまわる。
 ウィキペディアを確認。このアニメは「時空の旅人」と同時上映の予定だったのが間に合わなかったとのこと。ところで、「英語題は Neo Tokyo で、これは1988年の大友克洋原作・監督映画『AKIRA』の舞台となる都市の名だが、内容に関係はない。」と書かれていますが、これは間違い。同時上映のはずだった「時空の旅人」で、アギノ・ジロが住んでいた未来の東京が「NEO・TOKYO」なのです。
 

↓ 補足

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 1日(土)20時52分5秒
返信・引用
  > No.6443[元記事へ]

  下の投稿、少し誤読していました。小松さんが漢字と漢語を区別して使っているのに気づきませんでした。
 漢字の使用の少なさは、センテンスの短さを説明するものではなく、漢語の使用を少なくすることで、文意の曖昧性を回避していると言っているのでした。
 それはまったくそのとおりです。星さんの文章は明快です。

 眉村さんでもやってみました。資料は角川文庫版『通り過ぎたやつ』から「通り過ぎたやつ」。
 
 A/Bのセンテンスの長さは、4人の中で一番長いです。
 ただ眉村さんの特徴は、会話文(「」)が頻出することですよね。今回は、(」)を句点と同一視するか迷ったので(上図がどう処理したかわからないので)、会話文の全くない頁(245p)を使用しました。
 まあ遊びでやったので、分析は控えますが、というかこれでは分析できません。
 本当は1作品なり1冊のすべての頁でこれをやって平均したものを比較しなければ、実体的なものを何も指し示さないと思います。
 あと、小松図で不審だったのは字数の675で、当時の主流だった17行とか18行だったとすると、字数が割りきれません。また当時の主流だった42字とか43字だったとしても、今度は行数が割りきれません。割り切れるのは15行X45字ですが、こんな細長い版組はないとは言いませんが珍しいと思います。
 角川文庫版『アフリカの爆弾』を取り出して調べてみました。17行X43字=731文字でした。『通りすぎたやつ』と同じ版組ですね。

 

昔はよかった

 投稿者:管理人  投稿日:2015年 8月 1日(土)10時56分0秒
返信・引用 編集済
   いやあ昨日も暑かったですね。大阪の最高気温は36度。てっきり37度を超えたのかと思っていました。実際に超えたらどれほど過酷になるんでしょうか、恐ろしくなります。
 先日もそうでしたが、こんな暑い日に限って戸外での作業が発生してしまうのは不可解としかいいようがありません。何の因果でしょうか。
 昨日もグロッキーになって帰宅。早々に就寝しました。
 こんな天気がこれからひと月(以上)続くのかと思いますと、昔の温帯であった頃のニッポンが懐かしく思い出されてくるのもいたし方ありません。
 ということで、先日にひき続いて、当時の8月の日別最高気温(但し東京)を調べてみました。
 今回は、私の高校三年間である71年~73年まで。高校三年間は運動部に所属していたので、お盆以外は毎日炎天下で練習していた。一番日光を浴びた時期です。
 

 ううむ。3年間で35度を超えたのはたった一日だけ(逆に25度未満は5日あった)。今日的観点からすれば、「炎天下」「過酷」という表現は当たりませんね。
 ニッポンが、本当に四季のある温暖な気候だった時代ですね。最近夏がキツく感じるのは、単に老化によるこっち側の問題ではなかったということです。
 ああ昔はよかったなあ。(2020年のオリンピックは7月末から8月初頭開催とか。まじか)

 小松左京『読む楽しみ語る楽しみ』(集英社文庫、85)をブックオフで拾ったのですが、面白い表が載っていましたのでご紹介します。
「*「話し」と「語り」の魅力――星新一」より
 非常に面白い。ショートショート執筆の参考になりそう。
 星さんのセンテンスの短さの理由に漢語の少なさが挙げられていますが、これは逆じゃないでしょうか。
 実際私の場合、ツイッターにつめ込まなければならないとき、漢語を多く使用しています。
 むしろ漢語をあまり使用しないにもかかわらず、それでも短い、というべきです。
 和語という意味では、私は筒井さんこそ和語の文体との認識でしたが、漢語の使用頻度は三者で一番多い。なかなか単純な話ではなさそうです。
 なお、このエッセイは初出が講談社文庫版『おかしな先祖』の解説ですので、お持ちの方も多いと思います。

 
 


過去ログ
inserted by FC2 system