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承前。前項で、「それを「統括」する作用が弱まれば、ナノマシンの結束が失われ(ほどけ)、簡単にもとの一個一個のナノマシンつまり極微小の積み木すなわち泥に戻ってしまう」と書きましたが、遺伝子改変されたヒトデの形態(形相)を担っているその中身(質料)が泥(ナノマシン)であるヒトデナシも、とうぜん例外ではありません。世界はヒトデナシの労働によって泥に崩れ去るのをなんとか防がれていますが(「こうやって皆で毎日のように形を与え続けてやらないと、いや、たとえ与え続けていても、いつ、何をきっかけにして突然、もとの泥に戻ってしまうかわからないのだ」40p)、ヒトデナシ自身は、基本的に自分でその傾きに抗しているのです。それはあたかも、ほっておけば必ずそうであるところの、エントロピー増大に対して、生命が逆向きの力でそれに抗しているのを彷彿とさせます。
というか、著者はそれを念頭においてこの世界を創造しているはずです。
生命の逆エントロピーの力を、橋元淳一郎さんは「生への意志」としました。というか生への意志の有無が生命の根源的な契機なんですね。
27頁、雨に打たれてどんどん形態をとろけさせ始めた「私」、「だから私は蕩けながら、それでもまだこうして歩いている。いや、歩いていることで、ようやく形を保っているのかもしれない。動かすことで、雨の中で曖昧になった境界が一瞬でもその輪郭をあらわす。それを頼りにして、もう一歩を踏み出す」(27p)
この描写、まさにエントロピーに抗する生の意志の表現はないでしょうか。世界も「私」も「質料」は同じなんです。ですからほっておけば簡単に融合してしまう。それを世界と切り離して存在させているのは(形相を維持させているのは)、まさに生への意志なのです。
さて、そのような「私」は、次に「他者」について考えます。他者すなわち自分以外のヒトデナシも、「この私のように、彼らもまた、自分のことを「私」と感じているのか」(41p)。
その思考は、彼自身が、いつから自分が「私」であると思うようになった(「以前の自分と違っていることに気がついた」(42p))かへと思考を引き戻します。
この描写は、彼が最初から「私」であったのではなく、ある時点から「私」となったことを示唆しています。
これは社会学では「自覚の後至性」といわれるもので、実際、発達心理学でもそれは観察されていますし、まずなんといっても我々自身、自分の過去を振り返ってみればわかること(体験的事実)です。自覚の後至性については、先日紹介したこの論文が簡明です。
本書では、「自覚」はテレビによってもたらされます。社会学的には、まず自他未分化な「われわれ」が先にあり、「私」の自覚はその後です。
「これが、私になる以前の私であれば、それに従うとか従わないとか、そもそもそんなことをいちいち考えたりせず、ただ与えられたシナリオに従って行動し、その役を全うしようとしただろう」(43p)という描写は、まさに前段階としての「われわれ」であった「私」を表現しているように思います。ついでながら、ラストで形成される宇宙エレベータとも見紛う「ツリー」は、全き「われわれ」的至福の極致を現しているんでしょう。
またこれは、「シナリオ」を疑わない(アプリオリとして信じる)態度でもあります。「シナリオ」とは、「経験」ではありません。「経験」以前に「社会」によって書き込まれるものです。「常識」とか「道徳」がその代表といえます。皆さんも私以前では、常識や道徳を疑わなかったと思います。ちなみにこのような態度を、フッサールは「自然的態度」と規定しました。
「われわれ」は、先の論文にあるように社会の「制」(organization)に根拠があり、それが「同」(communication)すなわち「全体の中に自分(役割)がある喜び」も結果するんですね。
「しかし、今は、そうではない」(43p)
ただシナリオのとおりに行動することに、疑問を感じます。自然的態度からの「超越」ですね。
あ、その前に、「他者」の問題に触れなければなりません。これについても「私」の思考は、きわめて明快です。しかしそれは次回とさせていただき、今日のところはこれまでとします。
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Re: Re:マイディア…
投稿者:管理人 投稿日:2015年 9月30日(水)16時49分34秒段野さん
おお、最近はそんな風になっていますか。ツタヤにはゲートというかセンサーが入口にありますが、当地のホームセンターはまだそこまでにはなっていません。それにCDやDVDには感応するタグが付けられているわけですが、ティッシュやボールペンや歯ブラシ一個一個全てにそういうタグをつけるのは、現状ではまだ難しいのではないでしょうか。
でも監視カメラは、多分あちこちに仕掛けられているんでしょうね。そして店の後方スペースの秘密の一室には、四方の壁面にびっしりとモニター画面が埋め込まれていて、店長(?)がそこに陣取ってモニターを監視しているのです。まさに『1984』ですね。未来の監視社会の縮図ではありませんか。『俗物図鑑』では音声盗聴だけでしたが、現代は映像でも監視されているわけです。
客はいうまでもなく、社員の行動も、このモニターによって常時監視されています。モニター室の主に生殺与奪の権利を握られている。
ところがこの部屋にも、実は監視カメラが設置されているのです。モニター室の男自身も、本社のモニター室から監視されているのですね。その本社のモニター室もまた………………