ヘリコニア過去ログ1510


発表されましたね

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月31日(土)23時13分21秒
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   最終選考25作品

 
 (神戸新聞)
  84歳! すばらしい。まだまだいけると励みになりますよね。心斎橋の第1期生ですか。入学希望者が一気に増えると見た(>おい)(^^;
 

「絆」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月31日(土)21時08分20秒
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  > No.6661[元記事へ]

 小杉健治『絆』(集英社文庫90、元版87)読了。
 感動した。社会派ミステリーでした。
 話り手は司法記者。しかし今日傍聴する裁判は、仕事を越えた特別なものだった。
 記者が子供の頃住んでいた墨田区墨田は、隅田川と荒川に挟まれた、いわゆる向島、墨東綺譚の舞台でもあったところです。当時は(SFファンには馴染み深い)多聞寺の周囲に家内工業の家がたちならぶ下町でした。
 夫殺害の容疑で起訴された夫人を記者はよく知っていた。その当時遊び友達であった市橋家の寛吉の姉で、記者が淡い恋心を寄せていた女性だったのです(だから被告が殺人犯とはとても信じられなかった)。
 寛吉は、軽度の知恵遅れでしたが、両親のしつけもよかったのでしょう、性格がよく、地域の皆から愛されていました。いわばムイシュキンのような人間でした。あるいは雁之助さん演じる山下画伯のような。
 同年齢集団では馬鹿にされることもあったようですが、陰湿ないじめを受けることはなかった(両親は彼を家に閉じ込めたりするようなことは一切せず、どんどん外で遊ばせたのです)。
 むしろ記者などは荒川でいかだ遊びをしていて溺れたとき、寛吉が岸から飛び込んで助けてくれたこともあった。体格がよいので、逆に友人が虐められているのを見かけたら率先して助けたり出来る人だったのです。
 地域の人々は、そういう寛吉の性格をよく知っていますから、たまに奇矯な振る舞い※をしても、そういうものだとして、了解して接していたのですね。一種の人気者でもあったのです。
 ※知恵遅れ者は自分の気持を伝えるのがうまくできなかったり、協調性にかけるところがある。健常者にはなんでもないことが困難なこともある。したがって周囲のあたたかい目が必要である、と小説内で更生施設の園長が語っています。むろんどれくらいの程度なのかによります(なお知恵遅れ(精神遅滞)と精神病(障害)は、別物です)。
 我々は、知恵遅れ(精神遅滞者)も精神病者も区別せず恐れますが、それは身近にそういう人がいないから知識がないせいです。異質と感じてしまうからですが、精神遅滞者と精神病者では異質は異質でもその質はかなり違うのですね。

 話がそれました。そんな寛吉が、姉の結婚が決まった頃、突然姿を消します。皆が両親に訊ねると、症状が急変(悪化)したので、施設に預けたとの答え。
 「よし、わかった!」
 いま、そう言ってパンと掌を合わせませんでしたか(笑)。きっとある予断に達したのではないでしょうか。
 いやいや、それは浅はかな推理ですよ。ここから話は思いもつかない展開を見せて、読者を引きずり回しますよ。面白い!!

 ところで、メインのストーリーの基層で、通奏低音のように鳴り続けているのが、両親は必ず先に亡くなり、知恵遅れ者は(精神疾患者も同じ)一人残されるという事実です。今の現実社会のありさまでは、親たちは死んでも死にきれないという悲観から逃れることはできません。著者はエンターテインメントな法廷ミステリーを執筆したわけですが、同時にそこには、社会のあり方は変わっていかなければならないというメッセージ(問いかけ)があります。
 精神遅滞者は隠されてはならないし、隠されたままでは一般社会の知識認識は全く深まっていきません(これは軽度の場合で、重度の場合は別の施策が必要になります。それも本書で指摘されています)。
 本書がそうであるように、昭和30年代の下町のような社会では、それはある程度可能だったのかもしれません。実際我々は子供の頃、あきらかに知恵遅れと分かる人が道を歩いており、(端仕事ではあれ)仕事に従事しているのを見て知っていたじゃないですか。
 しかしさいきん、少なくとも私は殆ど見かけなくなったような気がします(訓練所が近くにあって、夕方その辺を通りかかりますと、母親に連れられて帰宅する姿を見かけるくらいです。この母親が老いたら、どうなるんだろうといつも思います)。
 21世紀のグローバル化されて対面関係が極端に薄れてしまった(必要ではなくなった)社会では、なおさら対面的な了解(接触的了解)は不可能になりつつあるように思われます(というか近現代になってはじめて現れてきた新しい病理現象なんだろうと私は感じます)。
 だからといっていまさら下町的な濃密な人間関係に戻れるとも思われません。正しい解答というものがない問いかけなんですよねえ。いやどうしたらよいかはわかっています。その人をよく知ればおのずと未知であることからくる恐怖(排除)は消滅するのです。グローバル化の中で下町の良い面を生かすような、そんな環境はどうすれば作れるかが難しいのですよねえ。

 

「絆」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月31日(土)01時51分5秒
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   小杉健治かあー、そういえば一冊所持していたような。ゴソゴソ。
 ありました(^^)
『絆』(集英社文庫)。
 以前、警察小説からの流れで法廷ものにちょっと手を出した時期があり、そのとき朝日弁護士ものと一緒に、本書も購入したのだった。朝日弁護士ものは読んだのですが、こっちは結局、積読在庫となってしまいました。
 ということで着手。面白い。190頁まで一気。
 社長が殺され、最初強盗殺人かと思われたが、夫人が逮捕される。コンピュータ技術者から弁護士に転身したという変わり種の水木弁護士が、夫人を担当することに。
 ところが最初は犯行を否認した夫人が、逮捕後は一貫して夫の殺害を認めます。
 と、公判を前にして突然、水木弁護士が、後任に原島弁護士を推薦し、自らは辞任するという意外な展開に。
 原島弁護士は公正で優秀な弁護士として定評があった。かつて自分の家族を暴走車に轢き殺されているのですが、その加害者がある殺人事件で起訴され、一審で有罪になったのを、弁護を引き受けて二審で無罪を勝ち取ったことがあるのです。
 それほど有能で、且つ私怨に流されない公正な人間なのです。
 ところがそれが誤審だった。無罪となった男がやはり真犯人だった。それを証明したのが水木弁護士。そういう因縁が二人にはある。
 その誤審で原島は弁護士を辞め隠遁する。その原島を、水木は隠遁先から引っ張り出してきて今回の事件で自分の代わりに弁護を任せる。この裁判は原島弁護士でなければ勤まらない、と……。
 ところが被疑者の夫人は、一貫して罪を認めているのです。しかし原島は被疑者の無罪を確信し、無罪を勝ち取ろうとします。
 弁護士にはどういう勝算があるのか。またなぜ水木は、原島でなければ弁護できないといったのか。それは読了後に!
 いや面白い(^^)

 追記。いま230頁まで。面白いのですが、面白いという表現は不謹慎かも。ずっしりと重い。

 

「巡査の休日」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月30日(金)02時53分49秒
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  > No.6656[元記事へ]

 佐々木譲『巡査の休日』(ハルキ文庫11、元版09)読了。

 承前。道警シリーズ第4作。一気通読。
「あんな任務に就いたら、おれだってそこまでやるかもしれない。おれはあんなふうには絶対にならないとは、とても言えない。そうなるように組織が強要したんだし、やつは被害者だ。たまたまそのときその椅子に座っていただけの、現場の警官だった。その意味じゃ、おれはいまもあいつの側にいる。反対側じゃない」
 満足しました(^^)
 解説によると、「北海道警察シリーズ《第一期》の掉尾を飾る会心作」とあります。
《第一期》? てことは第二期があるのか。(※)
 でもこれ以上、何を書くことがあるんでしょう。いやまあ、レムだって『ソラリス』以後もSFを書いているわけですが。

(※)確認しました。7冊目まで出ていました(^^;

 

Re: 印税

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月29日(木)12時46分33秒
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  > No.6658[元記事へ]

>「織り屋おりん」の印税が出たとの知らせを貰いました。
 おお、おめでとうございます!
 キンドルと違って、海外から振り込まれるわけではないから、まるまる自分の懐に入るんですよね。今度おごってください(^^)


 

印税

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年10月29日(木)10時21分11秒
返信・引用
  「織り屋おりん」の印税が出たとの知らせを貰いました。売れたのですね。(まあ、プロ作家と違って、微々たるものですが)嬉しいものです。たとえ僅かなものですが、嬉しく思いました。販売延長を申し込みましたので、しばらく店頭にあるはずです。  

生頼範義挿画

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月29日(木)00時30分34秒
返信・引用
  .  

「警官の紋章」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月28日(水)21時42分57秒
返信・引用 編集済
   佐々木譲『警官の紋章』(ハルキ文庫10、元版08)読了。

 430ページを2日弱で読破。さすがのリーダビリティでした。
 本書は道警シリーズ第三弾。前作を読んだのが5年前(ここ)で、さすがにストーリーは憶えていなかったのですが、第三弾に至るまでの背景解説が要領よくばらまかれており、ああそうだったという感じで、読むのに困難は感じませんでした。
 しかし本書で初めて当シリーズに触れる方は、三人の関係に戸惑ったのではないでしょうか。なぜ(警察機構の中にいる)三人が折にふれて会い、情報交換するのか(今回は別々に任務についている)、納得しがたいと思います。私は通読してきているので、背景の経緯(要するに知識)さえ思い出せれば、その世界に行為する彼らの関係性は、知識のように忘却する性質のものではありませんから、何の問題も感じずに小説世界に没入できたわけです。
 本シリーズは順番に読んでいくのが正しい読み方でしょう。

 さて、第一作のわが感想→「笑う警官」。「組織が糊塗しようとして無実の警官を冤罪化することに利用される犯罪が、組織上位者の「個人的な嗜好」であった点」
 第二作の感想→「警察庁から来た男」。「警察組織の組織性自体が俎上に乗せられているわけではないのです。構造的な何かを摘出するのではなく、一回的、偶発的な腐敗が取り除かれるだけといえます」
 どちらも欠点として、組織(警察特有の官僚組織)由来の犯罪が、最終的に一回的個人的資質のせいに枉げられてしまった点を挙げています。
 実は本書は、この「欠点」を再び拾い上げて、その「欠点」の上部には、やはり「組織」があったというお話なんですね。
 著者が小説本有のテーマに気がついてやり直しを図ったのではないでしょうか。
 組織犯罪は、ひとりの悪人に回収されてはならないのです。その悪人も、その地位にいなければそんな犯罪に嵌まり込まなかったはずだからですね。
 警察機構という、上下関係が絶対的で、縦割り組織で横との風通しがきわめて悪いシステム自体が、その成立の必要不可決な契機(モメント)としてそもそも懐胎している「悪」を暴くものでなければならないとだめなんです。
 今回、それは果たされたか。やはり別の悪人(機構上の地位はずっと上位になったとはいえ)が、機構意志のスケープゴートとなっただけなのですねえ※。
 それでも、ここまで肉薄できた警察小説は、寡聞にして知りません。警察や自衛隊という独特の官僚機構を舞台としていながら、単なるお仕事小説の変わり種みたいなのも実際多いですから。
 面白かったです。

※つまりその悪人も、本来は温情家であったり、家庭に帰れば良き夫良き父であったりすることを描写しておく必要があったのですね。

 

Re: ごめんなさい

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月28日(水)17時06分29秒
返信・引用 編集済
  > No.6654[元記事へ]

 いえいえ、なにも迷惑なことはありません。おそらく誰かがリンクを張ったのではないでしょうか。
 全文検索したら、リンク元がわかるのではないかとやってみましたが、引っかかりませんでした。考えてみれば全文引用されていたら発見できますけど、ふつうは単にリンクを貼るだけでしょうから、そんな検索ではわかるはずがないのでした(汗)

>関心を持っている人がたくさんいたんですね
 段野さんの下の書き込みをされてから、私が書き込むまでの間(2時間半)に、すでに3アクセス(14アクセス中)ありますね(^^;

 

ごめんなさい

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年10月28日(水)14時36分55秒
返信・引用
  管理人さま
私の書き込みでご迷惑をおかけしております。こんなところにも影響が出ていたとは、思いもよりませんでした。すいませんでした。(でも、関心を持っている人がたくさんいたんですね)
 

「警官の紋章」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月27日(火)23時03分10秒
返信・引用 編集済
   某アリンコ賞関連でのアクセスが、また増えてきました。もうね。うちに来たって何も情報はないんですけどね。
 よくみたら、段野さんの投稿にピンポイントで来ている人が多い。ひょっとして某賞関係のSNSみたいなのがあって、そこで話題になっているのかもしれません。
 しかし来てもらって手ブラで帰っていただくのもなんですんで、さっき私が検索して知り得た情報を掲示しておきましょう。まあそんな方には旧聞に属するものかもしれませんけどね。
 引用元

 正式発表はまだですが、受賞者には既に通知が行っているようですね(そのわりには、ツイッターを検索しても「受かったよ」というツイートが見つからないのですが、箝口令が敷かれているのかも。もしかして当板を見てくれている方のなかにも、言いたくてウズウズされている方がおられるのでしょうか)(^^)。
 1003篇というのが多いのか少ないのか分かりませんが、今年の創元SF短編賞が510編(こちら)でした。

 そしてどうやら、受賞作で作品集が出版されるみたいです。12月発売で、すでに一部ネット書店で予約が始まっています。→エルパカ
 この情報は新刊ネットのツイートで拾ったんですが、リンクされているAmazonに跳んでみたところ、削除されていました。遅れるのかもしれませんね。
 しかし単行本が出されるってことは、少なくとも10編前後受賞していなければ本にできませんよね。(1編30枚平均として10編で300枚≒200頁)
 としますと、100編に1編の確率となります。そう考えると創元賞よりもかなり率がよさそうではありませんか。(受賞3編に、あと選外佳作が7編?)
 結果が楽しみですね(^^)

 ということで、佐々木譲『警察の紋章』に着手。260頁まで読みました(半分強)。道警シリーズ第三弾。

 

「高層街」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月26日(月)01時08分39秒
返信・引用 編集済
  > No.6651[元記事へ]

 半村良『高層街』(集英社文庫93、元版90)読了。

 承前。「淋しい町さ、ここは。誰の故郷にもなり得ない町なんだからな」と呟いたのを主人公と書きましたが、早とちりでした。
 実はその段階では、主人公はまだ登場していなかった。その言葉を吐いたのは、ホテルセンチュリーハイアットの開業直後から長期宿泊(自主缶詰)している頼永という小説家で、ストーリーの節目節目に現れる重要な役どころなのですが、どうもモデルは半村良っぽい。
 この作家、なぜ長期滞在しているかといえば、どうやら家庭に帰りたくないようなんです。そして銀座で愛人に店を持たせている。ただ愛人が女房気取りで何かと世話を焼きたがるのを鬱陶しく感じ始めてもいて、別に女をつくっています。
 生活態度は無茶苦茶で、一種の破滅型です。

 一方主人公の大町は医者。総理大臣の外遊の際随行する医師も勤めている。その関係で交友関係が広がる。高層街で活躍するトップクラスのビジネスマンたち、彼らは新しいタイプのビジネスマンで、海外相手に商売し、当時(1980年)開始されたばかりファクシミリなどの新しいツールも使いこなしてバリバリ活躍しています。
 この当時は西新宿が、日本のビジネス最前線だったのですね。ちょうど近年の六本木ヒルズ族のような感じでしょうか。
 そんないわゆる「高層街」族は、多忙をきわめ、夜は夜で接待と、健康を気にするゆとりもありません。しかも郊外の自宅に帰るのは深夜。近所の医者にかかるのもかなわない。
 大町は、そのようなビジネスマンのために、「都心型医療」というのを提唱し、その実践として高層街にクリニックを開業する。
 それはいわば医職密着型というべきもので、高層街にクリニックを開設することで、ビジネスマンが仕事の合間に気軽に寄れるようにする(比較的時間を作れる午前中集中システムの工夫)。そしてメインは「予防医療」でして、痛いから来たというのではなく、健康であっても気軽に足繁く通ってもらうことで、兆候を早期に発見する。というよりも、むしろ病気にならないよう管理してあげる。ですから「患者」という言い方は違うと大町は常々言っています。
 威圧感(恐怖感)を示しがちな病院のイメージではなく、サロンでありたいと考えます。
 そういうニッチ商法(?)が当たって順風満帆、クリニックはどんどん「患者」(支持者)を増やしていく。
 非常にいいコトずくめですが、けっきょくこのクリニック、仕事はきついがその分見返りも大きい裕福な「高層街」族のためにあるものです(定期的に患者ゴルフコンペが開催されているくらいですから)。余裕のない者には、「健保の効かない」予防医療なんてしたくてもできるものではありません。

 それに順風満帆なのも実は当然なのです。本書のメインストーリーは、1980年から1989年(平成元年)までの大町の物語で、クリニックの開業は1982年です。
 70年代の「繁栄」を継続した80年代は、その後半にまさに「バブル期」に突入するのです。
 つまりクリニックは、ある意味バブルに乗った人々を顧客としていたのですから右肩上がりなのも当然なんですね(後に韓国中国台湾の富豪たちもしきりにクリニックを訪れるようになります。この時代はグローバル時代の走りでもあったわけです)。
 そしてバブルが崩壊するのは1991年3月。1989年に終わったこの物語の、2年後のこと。
 実は本篇が公明新聞日曜版に連載されていたのが1989年3月から〜1990年3月までの間なのです。本篇は「バブル崩壊」のちょうど1年前に、すでに書き終えられていたのですね(本篇にも兆候はありまして、終章で大町は、地価の高騰で新しいクリニックの開業を断念するのです)。
 ですから私は、ある意味成功物語である本書の「バブル崩壊後」の物語をぜひ読んでみたい。このクリニックを支持した経営者やビジネスマンたちこそ、バブル崩壊の影響をモロに被った人々だったのですから。間違いなく本編の主人公には、モデルとなった人物がいたはずです。

 さて本篇は、作家頼永の物語でもあります。それは大町の物語の中に点描的に挿入されています。ここでのモデルは明らかに著者本人です。
 流行作家として一世を風靡していて、締め切りに追われているとはいえ、「あしたが好き」という口ぐせどおり、自由奔放に人生を謳歌しているのかと思いきや、作家の内面は決してそんなことはないようです。家庭はうまくいってませんし、愛人に店を持たせる蓄えがあるのかと思えば、借金があるようだし税金も滞納しているようです。心の中に「自己破滅」への衝動を抱え込んでいるのです。『燃えつきた地図』の失踪した主人公のように。
 そして最後には、よりにもよって「梅田地下街」で浮浪者となっています※。本人は小説の取材だと後に言いますが、大町は予防医療の医者としてはっきりこう断じます。
「僕には今度のことは、本気でこれまでの生活と縁を切ろうとしたように思える。それに失敗して戻ってきたんだ(……)言ってみればこれは自殺のやりそこないと同じことだよ」

 いや面白かったです。最後までSFにはなりませんでしたが、まさに「80年代と同衾した」(「太陽の世界」とか)小説家の一種の私小説で、堪能しました。

※前項で「梅田地下オデッセイ」云々と書いた時は、殆んど思いつきだったんですが、この記述で、著者が実際に「梅田地下オデッセイ」を意識していたことが(しかも高層街の対極的な象徴として)、はっきりしたように思われます。

 

「高層街」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月24日(土)02時50分33秒
返信・引用
   半村良『高層街』に着手。
 舞台は1980年の新宿副都心です。
 1960年に策定された「新宿副都心計画」に基づき、当時西新宿にあった淀橋浄水場が移転させられ、その跡地に70年代から80年代にかけて超高層ビル群が続々と建設され、西新宿は、まさに整然たる「超高層ビル街」として生まれ変わりました。
 これ、非常に象徴的です。
 同じ時期、大阪キタでは梅田地下街が、西新宿とはまるで反対に、上空にじゃなくて地下にむかって、アリの巣穴のように計画性もなく無秩序に拡張されていました。
 この迷宮化したウメチカを舞台にした「梅田地下オデッセイ」を堀晃さんがSFMに発表されたのが1978年でした。
 ですから半村さんがこの(高層街という)設定に着目されたのには、ひょっとしたら「梅田地下オデッセイ」からインスパイアされた面があったのではないでしょうか(但し新聞連載は89〜90)。
 ウメチカの下層には水分を多く含んだ梅田砂礫層が拡がっていて、小説のラストではその地下水が地下街に噴出したのでした。一方の西新宿「高層街」も、もともとは浄水場を埋め立てた場所に建設されたわけで、しかも高層ビルは、その一本一本が巨大な水の容器でもあるのだと著者は述べています。ここにも梅田への対抗意識が仄見えるようです(>ホンマか)。
 それは冗談にしても(>冗談かい)、高層ビル火災に際しては、消防車による消火活動が困難であることから、内部には(スプリンクラーから放出される)膨大な水がストックされているのだそうです(もちろん飲料用、トイレ・バス用も)。そしてどのビルの火災センサーも、すべて副都心の地下にある防災センターに直結しているそうで、これなども「チカコン」を連想させられるではありませんか。
 いや面白い。
 高層ビル街の中心部は西新宿二丁目なのですが、毎日何十万という人を吸い込み吐き出すこの町に、住民登録している人は一体どれくらいかといいますと、本書によれば、たった7人なんだそうです(主人公が宿泊しているホテルセンチュリーハイアット(現ハイアットリージェンシー)の部屋から見下ろせる熊野神社の、宮司さん一家のみ)。
 主人公は呟きます。(賑やかにみえても)「淋しい町さ、ここは。誰の故郷にもなり得ない町なんだからな」

 

DVD-Rの中の宇宙

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月22日(木)22時39分56秒
返信・引用
   本来、DVD-RやCD-Rは一度書き込んだら、書き換えや消去はできなかったのですが、7以降、新品のDVD-RをPCに挿入しますと、従来の使い方と、「USBフラッシュドライブと同じように使用する」のどちらかを選べるようになりました。
 私はずっと、この記述を、CD-RがUSBメモリーと(あるいはCD-RWと)同じように使えるようになったと理解していたのですが、最近、ようやくそうでないことに、つまり一見同じようにみえるのですが、CD-Rで何度も書き換えしますと、どんどん使える容量が減っていくことに、気づいたのです。
 で、調べたところ、CD-R上の書き換えは当該のファイルの上書きではなくて、別のところに新たに書き込まれるだけなのですね。で上書きしたつもりのファイルは残っていまして、ただ見えなくなっただけなのだと分かりました。
 だから書き換えを繰り返していたら、そのうちに容量を使いきって書き込めなくなってしまうのです。これがUSBメモリーとは(あるいはDVD-RWとは)全く違うところなのです。

 それを知ったとき、私、はっと気づいた。この見えない使用済み容量って、暗黒物質なのでは?
 そうです。神様はどうやら宇宙を、安直にもDVD-Rに保存しているのかも。安くあげようとしたんじゃないでしょうかねえ。
 過去に宇宙は、何回もビッグバンとビッグクランチを繰り返していました。これは言い換えれば過去データを消去し、改めていちからランさせるということです。
 ところがDVD-Rでは、消去したつもりの過去データが、実は消去されているのではなく、単に見えなくなっていただけだったわけです。
 すなわち、やり直すごとに、宇宙(DVD-R内)にはどんどん暗黒物質が増えていったのです。
 その結果、次第に宇宙は、あんまり膨張しないうちに収縮に転じるようになった。
 そこでようやく神様も気がついたのではないでしょうか。
 これはイカンということで、今のこの宇宙から、斥力を導入しました。これがいわゆる暗黒エネルギーですね。ところがあわてていたため、設定量を塩梅できず、かなり多めに入れてしまった。
 結果、宇宙は永遠に膨張することになっちゃったのですね。
 まあ、失敗作です。この今の宇宙は。やっぱり容れ物をケチってはいけなかったのです。
 今頃神様は、ちゃんとしたUSBメモリーを電気屋に買いに行っているんじゃないでしょうか。
 でも売り場で気が変わって、USBメモリーよりは安いDVD-RWを買ってくるような気がするんですよねえ(^^;

 

  

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月22日(木)22時11分22秒
返信・引用
   元ツイート

 「どーなつ」電子版がどこから出されたのか知りませんが、独立系(?)の電子書籍会社は、従来の紙版出版社ならば、代々受け継がれてきた、「暗黙の常識(商習慣)」が通用しないのではないでしょうか。ゼロから築きあげていかないといけないのかも。


 

「ハンドル」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月22日(木)00時55分23秒
返信・引用
   FM・COCOLOの今月のヘビーローテーション曲が、ビギンの「ハンドル」という曲で、基本、車のラジオはこの局に固定しているため、一日に何回もこの曲を聞かされます。
 いい曲なんですが、どうも詞の意味がくみとれません。描線がくるっているような。聞くたびにそんなことを考えるのですが、すぐに忘れてしまいます。
 さっき、なぜかふと思い出しました。忘れないうちに、とあわてて検索したところ、こちらが引っかかりました。
 このブログ主の方も、変だなあ、と思われたみたいです。それで歌詞を書き出して考察されているのですが、なるほど。おっしゃるとおりですね。非常に深く、行間を読んでおられて、私の疑問も氷解しました。
 曲もいいですが、詞も深いではありませんか。
 ところで、「いきます ですか」という独特のフレーズには、私も引っかかっていたのです。ブログ主さんは、奄美出身の人がしゃべっていた記憶があると言っておられて、ビギンは石垣島ですから、あっち方面の表現なのかもしれません。
 でも私は、宮沢賢治か誰かの童話に、こんなフレーズがあったような、かすかな記憶が。いやこれもそんな気がするというだけで、勘違いかも分かりません。

 

  

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月21日(水)23時06分15秒
返信・引用 編集済
   元ツイート

 まことに不謹慎ですが、これは小説になりますね。
 その女性は、なぜ大怪我をさせた老人をほったらかして逃げたのか。
 要するに、その日その時刻に、六本木にいたことが公になっては困る事情があったのです。
 いろいろなパターンが想像されますねえ。ウールリッチのサスペンス小説みたい。

 

  

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月21日(水)01時24分33秒
返信・引用 編集済
   http://blog-imgs-81.fc2.com/h/o/k/hokuseikouro/20151020f.jpg元記事

 キース・エマーソンもそういうところがあったんじゃないでしょうか。グレッグ・レイクと組んでないときのキースは、単にポピュラークラシックのピアニストに見えなくもありません。

 

電子書籍の光と影

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月20日(火)23時56分0秒
返信・引用 編集済
   この夏、橋元淳一郎さんがキンドル本を出されましたよね。そのロイヤルティ支払いの連絡があったと、ブログで報告されています→電子出版その後のご報告
 拝読しました。売れ行き好調だったそうで、よかったよかった(^^)
 また機会があれば、手頃な科学入門書を出していただけると嬉しいです。

 ところで電子本もいい事づくめではないようです。ロイヤルティが販売部数に連動するものであるのに(売上に対するパーセンテージ)、銀行手数料が固定では、少部数書籍は根こそぎ持ってかれる感じですよね。

 電子本って、紙の出版では少部数過ぎて、いわゆる「機械にかからない」コンテンツを書籍化できる、魅力的なツールなんです。またそういう新しい市場を創出できる可能性があるはずなんです。
 ところが、そんな手数料の形態では、せっかく電子本ためしてみるかと考えている人も、二の足を踏んでしまいますよね。
(しかも銀行取引でなければいけないんですよね。現金を賃金袋に入れて、はい、って手渡ししてくれたらベストですが、そんなわけにはいきません)。
 いまは、なんでもかんでも銀行を通しての取引ですからねえ。ある意味こんなラクな商売はありません。ほんと銀行ってひでえとこですねえ(^^;。

 

護摩の灰コーナー

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月19日(月)21時05分33秒
返信・引用
 
.
 

Re: 御参考までに

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月19日(月)18時34分27秒
返信・引用 編集済
  > No.6642[元記事へ]

 参考資料ありがとうございます。きちんとそういうのを踏まえているからこそ、小説にリアリティがあるのですね。

>当時の日本がどう見られていたか、想像がつこうというものです。
 その辺を、あまり知識のない者をネット右翼に洗脳している連中は隠してしまうのです。先日、ある掲示板を閲覧していましたら、日中戦争で日本は、中国を欧米植民地から解放しようとしたのだということを示す地図を掲載していたのですが、なんとその地図では、満州国のあった地域がソ連植民地として色分けされていたのです(つまりその部分だけ日露戦争直前の地図を貼り付けてあったわけです)。のけぞってしまいました。こんな子供だましに引っかかる方も問題ですが、とりあえず彼らは歴史的事実などどうでもいいみたいです。

 ところで、今後中国人が更に豊かになり日本人が貧しくなったら、かつて日本人がやってきたように中国人もセックスアニマル化して日本へ買春ツアーでやってくるかといえば、そうはならないように思うのですね。
 というのは現在、かつての日本人がアジア人に抱いた尊大な優越意識は、現在の(日本を訪れる)中国の富裕層にはあんまりないと思うのです。国家や民族という縦割りに基づいた偏見や蔑視はもう時代遅れかもしれません。
 彼らは国家や民族に規定されていないと思います。むしろ国家の垣根を越えて富裕層たちは富裕層たちで互いにシンパシーを感じ、付き合っている。民族主義や国家主義的自己規定よりも、同じ金持ち同士という連帯意識が強いと思います(かつてのヨーロッパの貴族たちと構造は同じかも)。
 ところが貧者はまだその世界観から抜け出せていません。いまどき嫌中嫌韓を叫んでいたり逆に嫌日を叫んでいるのは、夫々の国家で経済的に閉めだされた連中で、そういう彼らがお互いに他国民を憎みあっているというのが実情でしょう。
 中国の富裕層は、ホンネでは国家や民族など屁とも思ってないと思います(まあ華僑がそもそもそうなんですけど)。日本人の金持ちにお友達は多いけど、中国人でも貧民層は同じ仲間とは考えていません。日本はそこまでドラスティックではありませんが、近々そうなっていくに違いない。
 それにしても貧者が縦割りに分断されて、ところがその縦割りにしがみついているという構図では、かれらは永遠に救われないのですけどねえ。

 このグラフはOECDの資料に基づいて作成されたもののようです。元サイト
 
 これは最低賃金が賃金中央値の何パーセント下かを示すものです(実数ではありません)。
 日本はアメリカよりも低い。アメリカの最低賃金あたりは黒人が多いはずですが、そうしますと日本人の最低賃金者は、いまやアメリカ黒人の貧民層より相対的には低い水準にあるということです。
 私が電書代40円うかせて喜んだり、それがために1000円いらん出費させられたと大騒ぎしている一方で、金持ちは2トントラックで書店に乗り付け、ごそっと根こそぎ買っていくような時代ですからねえ。上と下では話も合わなくなってきています(ちょっとオーバー)。
 外に向かって愛国心を発露している場合ではないんですけどねえ。

 

御参考までに

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2015年10月19日(月)10時45分35秒
返信・引用
  「サイコロ特攻隊」 詳細な紹介と推薦をいただき、恐縮です。
紙の本のあとがきはカットされてますが、そこに参考資料も
列記しており、「反日感情の構造」「日貨排斥」「激動のアジア」
「世界の異端児ニッポン」などという書名が並んでおります。
あとは軍事、防衛、神風関係の書籍ですが、反日、排斥、異端児など、
当時の日本がどう見られていたか、想像がつこうというものです。
後年、韓国や中国が似たことをやりだし、現在に至ってるわけですが。
 

護摩の灰コーナー

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月19日(月)02時32分56秒
返信・引用 編集済
 
.
 

 

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月19日(月)00時43分22秒
返信・引用
   元ツイート

 

「サイコロ特攻隊」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月18日(日)21時15分1秒
返信・引用 編集済
  > No.6635[元記事へ]

かんべむさし『サイコロ特攻隊』(クリーク・アンド・リバー社15*電書、元版76)、読了。

 面白かった〜。こんなに面白いとは思ってもいませんでした。実は未読だったのです。いやSFマガジンに載った中篇版は読んだのですよ。ただそのときはそんなに強い印象がなかったんです。で、その長篇化である本編に、食指が伸びなかったんですね。[追記参照]
 それと、むしろこっちのほうが比重が高いかもしれません、加筆改稿されたものとはいえ同じ作品ではないか。話の内容(ストーリー)は分かったし、読まねばならない本はなんぼでもある、同じ作品を二度も読む余裕はない、という感じだったんですね(本篇にかぎらず、それがその頃の私の基本的な態度でした)。
 当時は世にあるSFを可及的速やかに、全て、読んでしまわなければならない、みたいな強迫観念で、ガツガツ焦ったように本を読んでいました。それこそ1日1冊くらいの感じで。
 そんなんでいっぱしに分かった気になっていたんですからね。今からするとまことに恥ずかしいかぎり。でも読書人生の中で、こういう時期って、誰にもあるんじゃないでしょうか。

 さて、本書は刊行当時(70年代なかば)からすれば少し未来(現未来)の日本を舞台にした、一種のディストピア小説です。
 70年代――すでに日本は経済復興を遂げ、復興から繁栄へ、米国に次ぐ世界第二の経済大国にのし上がっています。ターゲットは東南アジア。悪名高い商社が「インスタントラーメンからミサイルまで」売り込みに狂奔し(本書には消防設備一式(化学消防車からヘルメットまで)インドネシアに売り込もうとしている商社マンが登場します)、駐在員は、女中兼現地妻はいうまでもなく、カネにあかせてやりたい放題(チェンマイハーレム事件というのもありましたね。あれも1970年代前半)。
 さらに70年代も後半になれば、一般的な日本人が「パックツアー」「農協ツアー」で大挙してやってきて、好き放題、札束で頬をはたく振る舞いで現地の人々のヒンシュクを買っていました(買春ツアーなんてとんでもないのもありましたよね)。それと比べたら近頃の中国人の「爆買い」なんて、日本にとって歓迎すべきことであっても、困ることは何にもありません。声がデカいくらいええやないですか。中国は広大なので、あれくらい声を張りあげんと、相手に届かへんのですよ(>ホンマか)m(__)m
 ※それはそうと、本書を読んで気づいたのですが、日本の海外進出(経済侵寇)はまず東南アジア圏だったのですね。中国はまだ共産体制でしたから。日本企業が中国に進出していくのは1980年代に入ってからでしょうか。
 そんな日本人の傲慢さに、ついに東南アジア諸国が対日に的を絞った国家連合を形成し、反旗を翻します。鎖国通告です。
 読んでいて認識を改めたのですが、これ、なかなか効果的なんですよね。最大の輸出市場にモノを売ることができなくなるばかりではなく、原料も入ってきません(マラッカ海峡も封鎖され、石油も届かなくなる)。
 戦争状態ではありませんが、事実上の東南アジア諸国による兵糧攻めです。しかもこの事態に、同盟国であるアメリカは動こうとしない。どうやら東南アジアの行動は、米ソ中欧の暗黙の了解と支持を取り付けての行動らしい、と次第にわかってくる。
 数ヶ月とたたず、日本は第二次大戦末期以上にひどいモノ不足に見舞われます。
 一方、それ以前から防衛庁・自衛隊は、国民の気がつかないところでこっそりと、ナチスの手口に学んだのかどうかは書かれていませんが(>おい)、どんどん法律を改正して、国防省・国防隊に昇格しています。そして制服組の連中さえ警戒していた一人の人物が、そのたぐい稀な水も漏らさぬ弁論術で制服組トップにのし上がる。かれは事実上のクーデターで国家の実権を握ると、何ともトンでもない(しかし論理的には鉄壁の)奇策をもって、開戦に踏み切ったのでした……!?

 以上の要約は、かなり私の主観が入っており、客観的とは言いがたいところがあります。もちろん嘘というか逆さまのことは書いてないつもりですが、ぜひお読みになって、著者の論旨をご確認下さい。読み終えてきっと、今現在の状況が、なんと本書に描かれた世界によく似ているかに驚かれることと思います。
 そして(これは余談になりますが)本書は捏造史観を疑問なく信じている、いわゆるネトウヨと言われる人々に読んでほしいです。本書は小説ではありますが、本書で言及された資料はすべて裏付けのある事実なのです。日本は(たぶんノーキョーさんやパリで高級ブランドバックを買い漁って失笑されていたそんな時代を体験していないからなんでしょうが)彼らが考えているような有徳の美しい国ではなかったという事実に(当然現在もそうではありませんが)思考の一端を向けてほしい。日中戦争が中国を欧米の植民地から解放をするための戦争だったなんていう、どう考えてもありえない美辞麗句に取り込まれない目を養ってほしいと思うのでした。

[追記]『みだれ撃ち涜書ノート』を参照してみました。「この長篇はかんべむさし自身があとがきに書いている如く、「ポコポコとぬけていた」書き込むべき部分に、どんどん饒舌を加えていったからこそ面白くなったのであり」と書いてあって、腑に落ちました。文庫版に著者あとがきはないので、ここでのあとがきとは単行本のそれなんでしょう。つまりSFM版では「ポコポコとぬけて」いたところを、長篇版で書き込んだ(それでよくなった)ということでしょう。私がSFM版を読んだ際、強い印象がなかったのは、あるいはそのせいかも。私の読解力が不足していた(のも否定しませんが)そればかりではなかったということですなあ(>おい)m(__)m

 

Re: 電購御礼

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月17日(土)22時47分58秒
返信・引用
  > No.6637[元記事へ]

 かんべさん
 『サイコロ特攻隊』>面白いです! そしてマジ、今読まれるべき作品だと思います。

>訂正は最小限というより、用語ですね。
 ああそうでしたか。そうしますと、どの用語をどう言い換えたか知りたくなってきました。でもそういう読み方は(対照しながら読むのは)今の眼の状態では辛いので、やめておきます(^^;

>「背で泣いてる」は、いやまあ、ひでえもんっだった。
 そっちも気になりますねえ。「背で泣いてる」は私の大好きな作品で、でも「これはまずいだろう」という用語が使われていましたっけ。ということで『決戦・日本シリーズ』楽しみにしております。もちろん『上ヶ原・爆笑大学』も(^^)

 

電購御礼

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2015年10月17日(土)21時58分16秒
返信・引用
  そんな略語はないだろうけど、電子書籍購入御礼のことです。
訂正は最小限というより、用語ですね。時代の変遷とはいえ、
いま読むと自分自身、「これはまずいだろう」と思う言葉が間々あります。
それを訂正したわけで、「サイコロ」はまだましだったけど、
「背で泣いてる」は、いやまあ、びでえもんっだった。
またどちらも、というより初期の作品はすべて、全体訂正するのなら
書き直した方が早い。しかし、それはルール違反なんですよねえ。
このあと、「上ヶ原・爆笑大学」(キャンパス記の改訂版)も
やらなければいかんので、気が重いのでございます。
 

近くて遠いは男女の仲だが

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月17日(土)20時30分35秒
返信・引用
   美味そう。こんなのも花巻蕎麦っていうのか。
 元ツイート
 

「サイコロ特攻隊」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月17日(土)16時08分36秒
返信・引用 編集済
   昨日あたりから眼の調子がきわめて悪いです。常時シバシバしていて、ときに、目の中に異物感があったりしています。ドライアイってこういう症状なんでしょうか。と書いて、あっと気づいた。
 ここ数日来、小松左京『明日の明日の夢の果て』、半村良『幻視街』、山田正紀『弥勒戦争』と、電子書籍をあたかもチェーン・スモーキングのように読んでいたわけですが、それが原因ではないでしょうか。
 たしかに電子書籍は、字が大きいですし、天井灯をつけた部屋で寝転んで読んでいますと逆光ですが、バックライトのおかげで快適に読めます。その意味で目に優しいと感じているのですが、目自体は、実は紙本を読書するよりも消耗しているのかもしれません。

 それで、ちょっと電書は休もうと、かんべむさし『サイコロ特攻隊』が電書化されたばかりですが、こちらは紙版で読もうかと。
 しかし「訂正」したと書かれていたなあ。
 ということで、とりあえずグーグルプレイブックスから無料お試し版(冒頭から10数ページ試し読みできる)をダウンロードし、ハヤカワ文庫版とざっとですが対照して点検してみました。逐語的に比較したわけではないですが、違いはわからなかった。
 わずか10数ページの比較でこういうのもなんですが、これは「必要最小限」の手直しなのだな、と決めつけ、少し安心して紙版に着手したのでしたが……忽ち困難に逢着。
 文字が小さすぎて、苦痛で読めません。目が電書のサイズに慣れてしまったのかも。
 
 こらアカン。
 ということで、結局電書を購入してしまいました。キンドルではなくグーグルブックスで購入したので、292円。しかも、なんとここは内税でした。292円ポッキリ。
(ただし不満もあって、原則グーグルブックスはダウンロードではなくて電脳上のクラウドにアクセスして読むという形式なんですね。つまりネット環境でなければ読めない。私のアンドロイド端末は電話契約していませんので、外ではネットに繋がりません(公共WIFI環境があれば別ですが)。ただしアプリを入れたらダウンロードできるとなっています。ところがそのアプリはPCに設置されなければならず、PCのそのアプリにダウンロードした文書データは、そこからさらに端末に回線を繋いで送られるのです。アプリをPCにインストールするまではやったのですが、そこではたと、端末とPCをつなぐコードを持ってないことに気がついた。ということで、コードを電気屋で購入してこなければ、外出先では読めないのでした。やれやれ。数十円節約した結果、おそらく1000円前後の出費が必要となってしまったのでした。チャン、チャン。)

 閑話休題。なんやかんやで、3章の頭あたりまで読む。
 いや本書、じつに今現在こそ、読まれるにふさわしい時代はないのではないでしょうか。当時(初刊76年)における近未来小説ですが、使用されるデータはほぼ裏付けのある事実と思います。著者の目論見のひとつに、当時の日本と日本人をマジックミラーに映してみせることが確実にあったと思います。それがこの現代に通用するとは……。
 本書は77年にハヤカワ文庫化されて以後、版元を変えて復刊されることもなくずっと入手困難だった理由は分かりませんが、ここにきて著者が復刊を認めたことについては、やはり今読んで欲しいという動機が大いに与っているように、私は想像したのでした。

 

「弥勒戦争」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月16日(金)22時21分11秒
返信・引用 編集済
  > No.6632[元記事へ]

 山田正紀『弥勒戦争』(角川e文庫02、元版75)読了。

 承前。後半駆け足になってしまいましたね。しかし本気ですべて摂り込んで行ったら終わらないのも事実で、さすがにそれは25歳の筆力では無理とわかったのではないでしょうか(半村さんが言っていたように伝奇小説に結末はありませんから。半村伝奇も無理やり終わらせているか未完のままか、どっちかです)。あれもこれも、となるところを切っていったらこうなってしまうのもむべなるかな。

 広島に落とされた原爆で、弥勒が目覚めます(正確には自分を弥勒と認識する)。弥勒とは釈迦入滅56億7千万年後に現れて人類を救済する者です。
 釈迦が起こした仏教は人々を救済する(悟りを開くための手伝いをする)ことで自分も悟りが開ける(仏になれる)とする宗教です。これを大乗仏教といいます。これに対して小乗仏教は、他人を救うなんておこがましい。せいぜい修業によって自分だけ悟りが開ければ(仏になれれば)よしとするもの。そのような小乗の悟りを開いたものを”独覚”といいます。※ただしこれは本書の説明(を私が解釈したもの)でして、ネットで調べますとそんなに単純なものでもなさそうです。しかし本書は小説なので、作者によってそう規定された独覚を、この小説世界の独覚として認めていけばいいわけです。
 ところで釈迦の弟子の調達は、悟りを開ける者は定まっており(正定聚)、それは遺伝子を持っているか否かで決まる(もちろん遺伝子なんてものを調達が知っていたわけではない)。修業は全く意味がない。つまり大乗の意味である人々すべてを救済する(解脱に至らせる)なんていう釈迦の教えは全くの詐欺であると言って、釈迦から離反します。(調達一派によれば釈迦もまた一人の独覚にすぎないということになります)
 実はこれが正しかった。悟りを開いて仏になれるのは、その遺伝子を持つ一族だけだったのです。では本書でいう悟りとは何か。有り体に言ってそれは超能力者だったのです(作中で主人公は一族をアメコミのヒーローに比定しています)。
 ではいま私たちがその中であがいているこの悲惨な世界から救い出されることはないのか。ないのです。というか人間という進化形態そのものが、進化の袋小路に陥ったこの先どうにもならない種だったのです。
 ならば独覚たち超能力集団はどうか。彼らこそ(旧)人類を地上に置き去りにして次なる高次の階梯へと超越する新人類なのではないのか。
 これも違うのです。たしかに独覚たちはその能力でなんでもできます。この世界において可ならざるものはありません。それは逆に言えば、この世界に「完全適応」しているということなのです。
 進化とは何か。環境への適応です。環境が生存に不適だから、それに適応しようとして変化する。それが進化です。ところが独覚にとっては、もはや環境は敵対的ではない。進化していく必要がないのです。それは人類が進化の袋小路というのとは別の意味で、やはり進化の袋小路なんですね。
 そこで調達は、独覚は人類に何も貢献し得ない。いてもいなくてもどうでもいいものだから、できるだけ子孫を残さずこの世から消えていこう、と、それを実践します。
 まず全世界に散らばって血を薄めようとする。
 と同時に、世界各地には、自らが独覚一族であることに無自覚なまま生きている同族がおり、その中には自分の超能力に気づいて(あるいは無意識に)、それを行使しようとするものも必ず現れる(釈迦のように勘違いして救済を目指すものもおれば、ジンギスカンやヒトラーのような大量殺戮者が出現することもあり得る)。各地に散った独覚は、そのような者を早期に発見して事前に屠り去ることも、調達は独覚に掟として命じます。
 日本には、平安時代に密教の移入に紛れて渡来します。そして日本史の裏面で暗躍したようです。
 実は調達は、かかる超能力が桁外れに強い大量殺戮者を「弥勒」と呼んだのでした。ジンギスカンもヒトラーも、弥勒であった可能性が高い。
 その独覚の一人である主人公、T大生の結城は、日本の独覚の総元締めの老人から、同じくT大生で光クラブ社長として目下飛ぶ鳥落とす勢である山崎晃嗣の殺害を命じられます。山崎はどうやら自身の出自を知らない傍系の独覚らしいというのです。
 山崎なんて、ヒトラーに比ぶべくもない小物をなぜ、と結城は首をひねる。老人は、そんな(これまでは見逃していた程度の)小物も、見逃すことができない状況が生まれたからだ、という。強力な独覚が出現したのだと。山崎がその独覚の手先になると厄介なので、予め手を打つのだと。
 山崎を自殺に追い込んだ結城に、次の指令が下る。GHQの一部局を裏で操っている日本人がいる。その男の目的は朝鮮戦争の開始と米軍に原爆を使用させ第三次大戦を勃発させること。これを阻止せよと。そいつが強力な独覚なのかと問う結城に、老人は違う、それも手先なのだと答えます。
「弥勒じゃよ」
「え?」
「弥勒が現れたのじゃ」 


 原爆投下後の地獄の広島に現れた弥勒とは? その正体は何者? それは只今割引セール中の本書にてご確認を!!

 

「サイコロ特攻隊」電書化

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月16日(金)13時41分17秒
返信・引用
   かんべむさしさんのHP「玉石混淆・ふりーめも」に、『サイコロ特攻隊』が電子書籍化されたことが書かれてありました→◎しみじみと、そしてつくづくと、自省する
 キンドルで確認→サイコロ特攻隊[Kindle版]。(キンドル以外では、イーブックはまだのようですが、コーボーとグーグルブックスで確認できました。コーボーがキンドルと同じ324円、グーグルブックスが292円で少し安いです。)
 ひきつづいて『決戦・日本シリーズ』も電書化されるとのこと。
 どちらもチョー長い期間入手困難だったので、これは嬉しいですね。『決戦・日本シリーズ』なんか、古書店がウハウハ大儲けしているような状態でしたから。

 さて、同じ記事の後半で、西さんの思い出も語られています。
「そこに「当時大学生だった」と書いているごとく、自分よりぐっと若いと思っていた西氏が、先般直腸癌で亡くなった。そのことはやはりショックであり、彼が一連の作品の舞台としていた神戸の各所には、題材として書き残した場所も多かっただろうと考える」
 まさに……。
 

「弥勒戦争」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月15日(木)21時46分14秒
返信・引用 編集済
  > No.6631[元記事へ]

 わ、ebookjapanの角川文庫割引セールが10/21までに延長されているではありませんか。
 好評につき、ということでしょうか。善き哉。また何か買ってしまいそう。1週間あるのでじっくり考えます。

 ということで、『弥勒戦争』は半分。いやこれは面白い! どんどんページをめくらされてしまいます(>もちろん比喩です(^^;)。やっぱり山田正紀は面白いなあ。本書はデビュー2冊めの本。初刊1975年ですから、著者25歳! 天才という以外にありません。
 誰もが悟りを開けるわけではない、というのは当然にしても、悟りを開けるのはあらかじめ定まっていて、修業は関係ない。それは遺伝子を持っているか否かで決定されるのだというのは、徹底したニヒリズムですが、そういえば『妖星伝』も、遺伝子が重要な要素になってなかったでしょうか。調べたら『妖星伝(1)』も本書と同じ1975年に単行本が出ていますからどっちがどっちということはなさそうです。当時は分子生物学が脚光を浴びだした時期で、どちらもそっちからの影響かもしれません。
 昨日読んだ半村良「獣人街」では、神が地上へ引きずりおろされました(天上性の剥奪)が、本書では弥勒が同じ目に合わされるようです(^^;。こういうアプリオリな自動的思考に切れ目を入れて解体しようとするSFが、70年代は勃興したのでしたね。天城一さんが密室トリックを分類して、《意識下密室》(つまり脳内密室)を至高の密室トリックと定義しましたが、SFでは神(超越存在)SFこそ至高のSF分野ですよね。

 

「弥勒戦争」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月15日(木)01時40分4秒
返信・引用 編集済
   角川文庫割引セールの締め切り直前、すべりこみで山田正紀『弥勒戦争』を購入。やっぱり買ってしまいました。150円に負けた(^^;
 というのは半分冗談です(つまり半分真実)。昔の文庫の小さい文字が、本当に辛くなってきたんですよね。読書用眼鏡が目に合わなくなってきたのかもしれません。5、6年前に作ったものなので、老眼も進んでいるんでしょう(ーー;
 ということで、早速読み始める。そうか光クラブ事件か。GHQの変質。朝連=在日朝鮮人連盟のジャンヌ・ダルク etc、etc。いやー全然憶えてませんなあ。楽しめそうです(>おい)
 朝連のジャンヌ・ダルクって初めて知りました。ぐぐったけどヒットしませんね。事実? それとも完全な創作?

 

「幻視街」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月14日(水)21時49分23秒
返信・引用 編集済
  > No.6629[元記事へ]

 最後に残った中篇「獣人街」を読み、半村良『幻視街』(角川e文庫02、元版77)読了。

「獣人街」は象徴的な作品でよくわかりませんでした。いや、ストーリーは大変分かりやすいのです。
 ――嵐の夜、能登の海岸に素っ裸の男が打ち上げられる。男は助けてくれた漁師の家で、夫婦と長男の三人家族を皆殺しにし、東京へと向かう。
 男は自分自身が誰か覚えていません。しかし何をしなければいけないかははっきりわかっている。いやその「体の本人」は何もわかっていません。何者かに突き動かされて行動しているのです。東京へ向かう理由も、自分自身ではわからない。ただ東京へ行かなければならない、という、揺るぎない衝動があるばかり。
 途中、同じ列車に乗っていて、軽井沢駅で下車した若い女の後をつけ、音楽好きらしいその女を絞殺してしまう。それもまた自分ではない何者かの意志なのです。
 やがて男は、自分は《神》によってこの世を浄化するために遣わされた、神の獣なのだ、と確信するようになっていきます。
 東京で、男はわざと下っ端のヤクザと悶着を起こし(といっても自分自身はそんなことをした理由がわからない)、親分の老人の前に連れて行かれる。老人はある新興宗教の熱心な信者だった。その宗教というのが、やがてこの世に救世主が生まれる、という予言を信じるもので、救世主は能登の漁師の男と音楽好きの女の間に生まれる、とされていたのです。
 その暗合に打たれた老人は、男を伴って、教団本部のある御殿場へと車を走らせる。
 教団本部で、男は教祖(自分は神ではなく予言者であると規定しています)と対峙するのでしたが……。

 教祖は男によって殺されてしまうのですが、そのとき教祖がはなった言葉。
「神がいることは予測していました。信じはしませんでしたが存在する可能性はあり得ると思っていました。ですが、神がそのような権力を欲するものだとは思ってもみませんでした(註。男を使嗾している神が、将来自分のライバルとなるかもしれない救世主を、あらかじめなきものにしようとしたこと)。人間とはなんと夢多い生き物なのでしょうね。神を徹底的に清らかなものと考えていたのですからね。きっとあなたに取り憑いている神は、今の体制の中での神なのでしょう。すべての時代を支配する唯一無二の神であるなら、どんな変革もいとわぬ筈です。だがその神は変革を嫌って(註。世直しのために生まれてくる救世主を葬り去ったこと)、自分にとって不都合なものをとり除いてしまったではありませんか。でも予言は取り消しませんよ。ただ一部を修正するだけです。時代は移り、社会は変わり、新しい文明が育つでしょう。それは確かなことです。絶対に予言通りになります。でもこの予言がいくら正しくても誇りにはできません。あなたの神はいずれ滅びるとしても、次の時代には同じような神が現れるからです」 

 つまり著者は「神」に二種あるとしているようです。ひとつは男を操っている、いわば「利己的な神」と、いまひとつはその上の階梯にある「神」です。
 それが本篇を読んだ限りでは、あまり具体的には了解できないのです。本篇を字義どおりに読めば、エホバなんて「利己的な神」の典型ですよね。あっ。イエスはエホバ的宗教観のアンチテーゼとして生まれたのだったか! でもそれをなぞっている(だけなの)でしょうか。だけなんだったら、案外皮相的ですよね。
 どうも私は、そうは思われないのですねえ。著者には『妖星伝』という《革命小説》の大傑作があるわけで、本篇もその視野において解釈するべきだと思います。著者のかかる「神観」は、後の作品で発展させられているのでしょうか。うーむ。半村良も体系的に読み直さなければいけませんねえ(ーー;

 いやー面白かった。短い作品は、ほぼ一人語りの形式。描写じゃなく、話芸です。とりわけ「顔」「失われた水曜日」「幻視人」「黙って坐れば」「赤い斜線」は、その究極形態というべき、作中の話者が誰かに喋っている、その部分だけで出来上がった作品です(相手の返事は省かれる)。この手法、眉村さんもショートショートでは多用されますが、20枚前後の作品では、あまり記憶がありません。その意味で、半村短篇の一大特徴と言っていいのではないでしょうか。と言いたいところですが、半村短篇を読みこなしているわけではないので、ここはおとなしく本書の短篇の特徴と言っておくほうが無難かも。うーむ。半村短篇も体系的に読みたくなりました(汗)

 追記。あ、神が二種あるなんて書かれてませんね。神は一種で、神的な押さえつけに抗して、人間は変革していくといっているわけで、結局、無神論なのかも。「すべての時代を支配する唯一無二の神であるなら、どんな変革もいとわぬ筈です」という記述もありますが、単に対位的な観念論とも考えられます。

 

「幻視街」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月14日(水)01時22分15秒
返信・引用
  > No.6628[元記事へ]

『幻視街』は、あと中編「獣人街」を残すのみとなったのですが、どうも全体に既読感があるのですね。読んだことがあるのかも。
 で、かなり丹念に持っていないかどうか、調べたのですが、見つけられませんでした。当掲示板の過去ログにも読了の記載はなく、それじゃインターネット以前なのかも、と蔵書記録や購読メモもチェックしました。ないのですねえ。
「顔」と「赤い斜線」はラジオドラマ(朗読)化されているので、その音源を聴いた残存記憶かもしれませんが、「ボール箱」はどうだったか。ざっとネットで確認した限りでは、朗読等された様子はありません。あ、筒井編『75年日本SFベスト集成』に収録されているのか。それで読んだのかも。でもこれ、持っていたかなあ。新書類は取り出しにくいところに入れてあるので、すぐには調査できません(ただこの本なら友人に借りて読んだ可能性も高い)。しかし今回読んで、甦った印象が非常に鮮明だったところから、比較的最近読んだような感じがするんですよねえ。かといって本篇、もとより大傑作なので、何十年前に読んだものだとしてもイメージが鮮明に残っていて不思議ではないです。
 あと「巨根街」の後半が平板化してしまうところも憶えている(分かる方にだけ書きますが、私が初めて書いた30枚弱の短篇「黄昏祭」が、同じ轍を踏んでいるんですよね。だからより記憶に残っているんでしょう)。これを批判した文章を書いた記憶も。小説的には破綻していると思います。長さは半分以下になりますが、走り去るパトカーを追いかけて走る妻のシーンで終わっていたら、緊密な不条理小説なっていたのでは? でも今回読んで、著者は小説の結構を破綻させても後半を書きたかったのだろうな、というのが伝わってきました。著者にとっては、これはこれでなければいけなかったんでしょうね。つまり拙作とは一見同じ短所とみえますが、それはらせん構造を上から見ているだけで、レベルがぜんぜん違うのですね。あ、言わずもがなでしたか。失礼しました(>おい)(^^ゞ

 

「幻視街」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月13日(火)01時18分22秒
返信・引用
   角川文庫電子書籍のセールも明日まで。ということで、半村良『幻視街』を購入しました。
 200円です。嬉しいねえ。200円て、私が文庫本を購入し始めた中学時代の値段ですよ。
 当時は200円という線引が私の中に厳然とあって、スカイラークシリーズは170〜180円だったから購読しましたが、レンズマンシリーズは200円以上していたのです。だから今もって未読(後にシリーズは全部揃えましたが)。いや理由はそれだけではなく、当時クラスにレンズマンシリーズのファンがいて、いっぱしの通きどりでした。創元文庫の順番は物語の時系列どおりではない。これから読め、といって貸してくれたのがなんでしたか、グレイレンズマンでしたか。とにかく設定もよく分からないところにそれを読まされて、チンプンカンプンだった。それも買いそびれた理由でした。
 お話し戻して、そんな当時の値段で、たとえ電子版であれ文庫本が購入できるのですから、うたた感慨を禁じ得ないのも当然というべきですよね。

 という次第で、あっという間に到着。(この瞬時性が電子本の最大の魅力ですね)
 作品集なんですが、最初の2編、「獣人街」と「巨根街」で全ページの半分占めています(前者は180枚くらいで後者は50枚くらい)。残りの半分に、短い短篇が12篇入っています(つまり大体20枚弱)。
 長いのは後回しにして、ぱらぱらと読み始めたら、面白くてその半分の6篇をつづけざまに読んでしまいました。いやこれ、半村良ひとり<世にも奇妙な物語>です! そして次に思ったのは、まさに話芸だな、ということです。この分だと、ひょっとしたら寝るまでに残りの6篇も読んでしまうかもしれません(^^;

 

「ヒトデの星」再読(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月12日(月)20時42分14秒
返信・引用 編集済
  > No.6626[元記事へ]

 承前。「シナリオ」は、「道徳」などもこれに含まれます(だからといって私はシナリオを否定しているのではありません。それは社会生活の基礎には不可欠なものです。まず人はシナリオを内面化しなければなりません。でなければ《私》も発芽しません)。
「シナリオ」という言葉の定義に立ち返れば、シナリオは「行動」の教科書です。我々は内面化したシナリオ(良しとされる行動様式)にもとづいて日常生活を送っている。
 卑近な例で言えば、信号が赤ならストップするというのも、内面化したシナリオによって、ほぼ無意識にそうしています。そこに基本《私》はいません。
 ただ、間に合わないので、ええい渡っちゃえ、というのはあります。しかしこれとて、先回引用した「シナリオにはない予想外の事態が発生することのほうが多く、それがさらに予想外の事態を引き起こす」の範疇内ですが、ここでは《私》が多少は介在している。一般的に子供は信号をよく守りますが、大人はそういうわけでもないのは、《私》の有無(というよりも形成過程の時差)が関係しているといえます。
 その意味の「シナリオ」は、概して「模倣」からも形成されます。赤信号で渡らないのは、現に他の通行者が信号を守っているのを模倣したからでもあります。

 ちなみに19世紀の心理学的社会学者でバジェットという人が社会の残存原理(個別社会が滅びず残存していく条件)として、社会の残存条件は、結局団結と変化の二つであり、団結は模倣を基礎とし、変化は発明と討議を基礎とする。前者の模倣は習慣を生じ、習慣は一体意識を生じ、一体意識は団結を基礎づける、としています(蔵内)。
 最近の日本人ノーベル賞フィーバーが不可解なりというツイッターを見かけましたが、なに全然不可解ではない。日本という観念をアプリオリに受け入れた(模倣)人々が、その一体意識にノーベル賞を取り込んだきわめて当然の帰結ですね。
 してみますと、我々人間は、ある年齢に達したからといって、皆が皆、《私》を十全に発達させるわけではないことが見えてきますね。

 

「ヒトデの星」再読(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月12日(月)19時44分30秒
返信・引用
  > No.6625[元記事へ]

 さて、《私》を備えていなくても、我々は社会生活を営めます。
 それが本書でいう「シナリオ」です。
「シナリオの作業工程通りにやっても、それが必ずうまくいくとは限らない。むしろ、シナリオにはない予想外の事態が発生することのほうが多く、それがさらに予想外の事態を引き起こす。それが普通だ」「しかしもちろん、それが普通であることもまたシナリオには書かれているから、そういう意味ではすべてはシナリオ通りと言うこともできる」(39p)
 このシナリオは、「外」から注入されたものです。人間の話に戻せば、シナリオはまず家庭と近隣から注入され、少し遅れて「学校」から内面化させられます。たとえば他人の物を盗んではいけないというのは、常識以前の当然のことですが、我々は普通その理由を意識しません。ある年齢に達すれば、それを「反省」によって了解できますが、小学生くらいだったら、単に「念仏」だったはずです。小学校で、「A君はBさんを殴りました。いけないと思います」みたいな告発がなされたと思います。皆さんもそんなことを言った記憶があるはずです。そのときそれを言ったあなたは「人を殴ってはいけない」というお題目に現実を合わせているだけだったのではないでしょうか。
 このようなお題目のリストを内面化することは、もとより社会生活上必要なことです。これ(シナリオ)をちゃんと脳の中に注入されていれば、基本《私》など必要ないのですね。
 ヒトデナシたちは《私》を持ちませんが、だからといって社会生活に不都合は起こっていないようです。むしろ《私》を発生させた「私」こそ、社会的生活においていろいろ困難を生じさせているのではないでしょうか。

 

「ヒトデの星」再読(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月12日(月)16時39分52秒
返信・引用
  > No.6591[元記事へ]

 承前。ようやく『ヒトデの星』に復帰。間が空きましたので、何を書こうとしていたのか忘れてしまいました。整理しておきます。
 前回、
> ここにおいて「私」は二重の意味を持ちます。あらゆるヒトデナシは、「私」と同様「心ある者」ですが、…………(1)
>テレビを通して「私」が「私」を獲得したようには、彼らは獲得していない…………(2)
>という問題です。
 と述べました。
 (1)より、「私」にとって《ヒトデナシ》という存在は、他のいかなる存在とは違って「私」と同じ存在である、ということが、「私」によってほぼアプリオリに認識されている(その存在性を信頼している)ことが推測できます。
 つまり、ヒトデナシは、例外なく皆、《私》を獲得できる存在なのだが、(2)より、何らかの理由で、「私」のように獲得できていない、と「私」が考えている、ということですね。

 ここではっきり、「ヒトデナシ」が、我々「人間(ヒト)」のメタファーであることがわかります。そして、なぜ「ヒトデナシ」と(著者によって)名づけられたかも。
 我々は(1)の意味において「人間(ヒト)」なのですが、(2)の意味においては(ある段階までは)ヒトになってない=「未・人」すなわち「ヒトデナシ」なのです。
 本書は、我々人間が、「ヒトデナシ」から「ヒト」になっていくその変容の部分を拡大して捉えており、ヒトデナシをヒトたらしめていった(契機となった)ところのもの、それはいったい「何」なのかを明らかにしようとしているように思われます。



 

「明日の明日の夢の果て」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月11日(日)20時48分57秒
返信・引用 編集済
   電書にて小松左京『明日の明日の夢の果て』(角川e文庫15、元版72)読了。

 全22篇収録の短編集。期待以上に面白かった。初刊単行本の発売直後に読んでいるはずなのですが*、先日も記したように記憶は殆どなし、但し読後感はよかった記憶あり、ということで着手しました。
 全体に著者の作品集は、個々の作品のレベルとは関係ない意味で、統一感がない、悪くいえば雑多な印象が強く(もひとついえばダブリが多くて)あんまり好きじゃなかったのですが、本書は統一感があり、その編集(セレクション)は好感が持てました。いわゆる社会SF集です。オリジナル版がそのまま文庫化されているのもよい。
 社会SFと十把一絡げにいいましても、豊田さんの世界とも眉村さんの世界ともやはり違っていまして、その近未来社会の描写は、まさに今現在のこの社会を見透したものになっていて、さすがだな、と思いました。
 もちろん豊田SFも、眉村SFも、現代社会と内的には通底していることは言うまでもありません。ここでいうのはテクノロジー的にという意味です。その意味では石原藤夫さんの社会SFの方により近いかも。

「ふかなさけ」は今でいう「AI」(まあこのアイデアは筒井さんも豊田さんも書いていますが)
「月のしのぶ」は「グローバリズム」。その明の部分。60年代末70年代初頭にグローバリズムを、観念的はいざしらず、具体的に見透していた日本人がいたでしょうか。
「人魚姫の昇天」は、人体改造による海中人という設定による「人魚姫」の再話。これは石原さんや田中光ニさんも描いており、そのうち必ず実現するだろうと70年代には考えられていたテクノロジーですよね。ところがこれが実現しなかったのですねえ。
「空のゆきずりに」は航空機時代の羽衣伝説。いま読むと、執筆当時はそんな情報もなかったはずのスカイフィッシュの類が想起されます。
「告白」は、人工長寿時代の皮肉なシチュエーション。
「プライベート・マネー」は、キャッシュレス社会の未来。キャッシュレス社会はそのことにおいて既に管理社会なのですね。
「こちら”生きがい課”」、こちら〇〇課シリーズは、松戸市が始めた日本初の「すぐやる課」のパロディではなく、それよりも少し前とのこと。解説ではすぐやる課の発想のもとになった可能性を指摘されています(但し不明とのこと)。
「こちら”アホ課”」は日本特有の「同年齢同質教育」が暗に否定されていると見ました。小松さん自身も、子供時代それで苦しめられたのでしたよね。
「こちら”二十世紀課”」は昭和時代のどまんなかで書かれた昭和へのオマージュ。つまりこのような時代は稀有だったという認識が、(まだ70年代を通り抜けてもいないのに)既に小松さんにはあったのでしょう。
「持ち出し通貨」は71年のドルショック(〜変動相場制)にインスパイアされたもの。いま読むと通貨の仕組みがわかりやすく解説されていることがわかります。高校生だった私は、話の世界が遠すぎて??だったかも。
「黒いクレジット・カード」も、いま読むと面白い。当時は「クレジット・カード? なに?」という感じだったはず。全体の印象は「笑うセールスマン」を彷彿とさせられました。もちろん当時まだ存在しない漫画です。
「おみやげブーム」は「月の石」をアイデアの核に発展させた「ブーム」論。大衆社会を動かすのは「ブーム」であることが、70年代から顕在化してゆき、いまや役所ですらブームに乗ろうとしていますよね(ゆるキャラブームとか)。
「おちてきた男」、『果しなき流れの果に』の階梯構造をまず思い出して下さい。この我々の世界より階梯が上の世界が(この次元とは別の何処かに)ある。そこで男が罪を犯し、地獄に落とされます。その落とされた地獄というのが……(^^ゞ
「レジャー地獄」は「レジャー論」。70年代顕著になったレジャー社会、当時は繁栄の謳歌と、我々は考えていましたよね。それが70年代に完成した高度産業社会による人間管理であることを、コメディタッチに描く。
「公明選挙」は、発想は投票率の低下でしょう。近年はツイッター(という大衆装置)でごく一般の人が、投票に行かないのは罪だみたいな発言を選挙のたびにツイートしていて、みなそれがアプリオリに正しいと思い込んでいることが分かります。本当にそうなのか、と小松さんは問うている。今の選挙制度が疑問の余地なき無謬な制度かと。
「土地と土」は、高度成長期の土地価格の高騰が揶揄される。その行き着く果てにバブル崩壊があったわけです。
「セックス・プレイヤー」は、通信手段の発達で「対面関係」が限りなく必要なくなった未来の話。行き着く先は一億総ひきこもり(もちろんひきこもりという言葉は、まだありません)。まさに現代を見透しています。
「ハレンチの果て」は、今後予想される超高寿命社会=多世代混在社会に、当時顕在化しつつあったフリーセックス的な風潮を掛けあわせた思考実験。
「ZOTV騒動記」は一種の知能進化もの。京大人文研SFかも。
「キチガイ日本」は超高能率化した社会は人間に深刻なダメージを与えるが、それを回復するに「レジャー」の充実が必要というのが70年代のよくある観念で、休日の増加などでそれを後押ししたわけですが、今度はその「レジャー」が人間を損なってしまうことが明らかになってきました。それは畢竟「レクリエーション」の中に「クリエーション」が入っていることからも明らか(消費創出)。そこで提唱されたのが「レクレイジェーション」(レクリエーションからクリエートを抜きクレイジーを入れる)。要するに常識のたがを外してとことん馬鹿騒ぎをすることで回復しようと言うわけ。しかしその「レクレイジェーション」すら、企業は金の種としてしまい、レクレイジェーション「ブーム」が起きるのでした。
「明日の明日の夢の果て」は、本書の中でこの一作だけ雰囲気が違っており、一人の老人の夢(前世記憶or後世記憶)のなかをたどるという設定で、縄文時代から現代を通りすぎて未来まで概観されます。そしてどこまで時間を下って行っても、老人とその家族が幸福に暮らすユートピアはなかったのでした。

 以上、著者の思考はある意味ペシミスティックではあるのですが、それが(60年代末70年代初頭の)高度成長期のさ中で書かれたものだけに、全体に「あらえっさっさの時代」的な筆致で表現されています。それは時代性という他ないでしょうし、わたし的にはそれが好感度をアップしてもいます。
 結局本書の全体テーマは「70年代」ということになるでしょう。著者は70年代の入り口で、すでに繁栄の70年代を完璧に先取りして了解しており、それが永遠につづくものではないことも想定の範囲内です。70年代は繁栄の時代ですが、その行き着く先はユートピアではなくディストピアであることもわかっていました。むしろディストピアへの最初の一歩だった時代だったのです。いま本書を読むといちいち頷けるのはそれがためです。
 その繁栄の70年代を、著者は(まだ70年代を通過してもいないのに)愛おしんでいるようにみえます。その観念が「日本沈没」に繋がっていくのだと思います。著者の未来を見据える視線の、おそろしいほどの鋭さ、確かさに、触れることができる作品集でした。

*友人に借りた本なので読了日の記録がありません。日記に記載がないか、本書刊行直後の日記を調べましたが分かりませんでした。私は刊行すぐ読んだと記憶していたのですが、もっとあとだったのかもしれません。しかし調べている過程で面白いものが見つかったので、貼り付けておきます
 
 

 

Re: 《ネオベム》シリーズ

 投稿者:高井 信  投稿日:2015年10月11日(日)19時09分51秒
返信・引用
  > No.6622[元記事へ]

>  まあ半分冗談で書き込んでいるのですけどね。おっしゃっていることは了解しました。
 こっちは真面目にレスをつけていたのに……。
 ともあれ、気がついたことがあるので、補足します(真面目に)。
『エスペラントSF入門+』にはその元版『エスペラントSF入門』に私が書いた「あとがき」が載っていません。私は「あとがき」に、1960年代後半のSFファンダムにおけるエスペラント語のことを書きました。
 そのころ、私は全然知らない(そもそもSF自体を知らない)のですが、ファンダムではエスペラント語のブームがあったとのこと。エスペラント語とSFを標榜するSFファングループ(岡田さんとは別の方々)もあり、ファンジンも発行されていたのです。岡田さんはその先駆的な存在であったのだと推測しています。
 そういったエスペラント語に興味を持っていたSFファンたちの間では、おそらく小西岳は有名だったんじゃないかな、と私は思っています。
 そういう前提で見ると、管理人さんのはしゃぎ方(←失礼)が奇異に見えたわけです。誰かが小西岳の経歴をファンジンなどに書いたかどうかはともかくとして。
 で、真面目に書き込ませていただいた次第です。
 いやあ、森下一仁さんの「解説」、そして私の「あとがき」、削っちゃったのはまずかったですかねえ。
 申しわけないです。
 

Re: 《ネオベム》シリーズ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月11日(日)16時50分55秒
返信・引用
  > No.6621[元記事へ]

 まあ半分冗談で書き込んでいるのですけどね。おっしゃっていることは了解しました。

 

Re: 《ネオベム》シリーズ

 投稿者:高井 信  投稿日:2015年10月11日(日)16時47分57秒
返信・引用
  > No.6620[元記事へ]

 え〜と、発見でも報告でも、どうでもいいですが、ネット検索すれば容易にわかるようなことを「発見したのは自分だ」と誇らしげに発信するのは恥ずかしいのではないかと。
 それだけの話です。失礼しました。
 

Re: 《ネオベム》シリーズ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月11日(日)13時16分19秒
返信・引用
  > No.6619[元記事へ]

 高井さん
>岡田さんは小西さんと連絡を取り合っていたようですから、当然ご存じだったと思います。
 それは「エスペラント語界のSF」に記述されていて、私も知り得たのですが、その経歴を岡田さんがどこかで明かされていたかどうかなんですね。
>その事実を岡田さんがどこにも書いておられなければ、
 と記したのはそういう意味です※。
 これは『ニュー・アトランティス1658』の解説に書いたことですが、ヨーロッパ人(スペイン人)バルボアがパナマ(北岸)を「発見」したのは1501年。ところがパナマの南岸に広がる大洋が「太平洋」である(つまりアメリカはインドではない)ことが「発見」されたのは一干支回転した1513年なのです。パナマ地峡はせいぜい60キロ程度で、西宮ー京都間とほぼ同じです。時速4キロで単純計算して15時間。そんな距離を越えるのに12年もかかったはずがありません。実際は北岸到達後、そんなに日をおかず、それ以降訪れた探検隊によって「南海」は目にされているはずです(遅くとも1508年には植民地ができています)。史実が1513年なのは、上記バルボアによって初めて(スペイン王に)「報告」されたから。
 史実とはそういうものなんですねー(>そこまで言うか)m(__)m
※岡田さんにかぎらず、どなたかによってそういう記述が既になされていたのなら、もちろん発見者の栄誉は潔く取り下げます(>おい)(汗)。
 

Re: 《ネオベム》シリーズ

 投稿者:高井 信  投稿日:2015年10月11日(日)08時14分47秒
返信・引用
  > No.6618[元記事へ]

>  ちなみにコニシガク氏は、関学大理工学部の教授だった方です。その事実を岡田さんがどこにも書いておられなければ、SF界においては、私の独自発見ということになろうかと思います(>自慢)(^^ゞ
 私も冊子を発行するにあたってネット検索して知り、そうだったのか、と思いました。
 岡田さんは小西さんと連絡を取り合っていたようですから、当然ご存じだったと思います。
 残念でした。>独自発見(笑)

>  引き続き『SF雑誌99の謎』を読みかけたのですが、これ、オリジナル版の縮刷版なんですね。文字が小さい小さい。諦めました(^^;
 すみません。文庫サイズで全文を収録、さらに中綴じで発行しようとすると、文字は小さくなってしまうのです。
>  高井さん、どうもありがとうございました。『SF雑誌99の謎』はキャプテンフューチャーまで読みましたが、大変面白いです。あとは眼の調子のよいときに、少しずつ読んでいこうと思います。
 無理のない範囲で。
 

《ネオベム》シリーズ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月10日(土)22時31分52秒
返信・引用 編集済
   高井信さんから《ネオベム文庫》を三冊いただきました。
 
 《ネオベム文庫》は、ご存知のように高井さんが岡田正也さんの作品を復刻するために刊行されている手作り本のシリーズ。
 今回いただいたのは、『SF雑誌99の謎』『エスペラントSF入門+』『ニュー・アトランティス1658(カラー版)』
 高井さんは、いろんなバージョンを編集しておられて、今回いただいたのは、私が未読の作品が収録されているものです。(あ、『ニュー・アトランティス1658(カラー版)』は、私が解説を書かせてもらったものなので、とうぜん既読です)。
 残りの二冊のもくじを掲げます。
 

『エスペラントSF入門+』は、創作の翻訳は既読なんですが、本書ではまえがきに当たるエッセイ「エスペラント語界のSF」が未読でした。(ついでながら「編者なかがき」にあるように、本書はオリジナル『エスペラントSF入門』にエスペラント語ではなく英語から翻訳された2篇を「プラス」した、「岡田正也翻訳集成」作品集でもあります)
 ということで、エッセイ「エスペラント語界のSF」を読みました。エスペラント語SFは概して風刺性が強く、それはエスペラント語の成立と相関的である、というのは面白いし納得させられます。そして日本人作家であるコニシ・ガクを高く評価している。私も翻訳された「ソンジョラーモ」を以前読みましたが、一般的なSF読者の読みに十分に耐え得る良質の作品でした。SFMで兼業作家的な位置づけで活躍されていても不思議はないと思うのですが、SF界とは繋がりのないままになってしまったみたいです。
 ちなみにコニシガク氏は、関学大理工学部の教授だった方です。その事実を岡田さんがどこにも書いておられなければ、SF界においては、私の独自発見ということになろうかと思います(>自慢)(^^ゞ

 引き続き『SF雑誌99の謎』を読みかけたのですが、これ、オリジナル版の縮刷版なんですね。文字が小さい小さい。諦めました(^^;

 送っていただいた封筒の中に、もう一冊入っていました。
 
 先年、私が製作した西秋生『夢都傳説』(銀背と同サイズ)の豆本版です。
 西さんを偲んで製作して下さったようです(但し中身は白紙)。ありがたいことです。

 高井さん、どうもありがとうございました。『SF雑誌99の謎』はキャプテンフューチャーまで読みましたが、大変面白いです。あとは眼の調子のよいときに、少しずつ読んでいこうと思います。

 

いやまあ、ひでーもんだ

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月10日(土)13時59分21秒
返信・引用
  元ツイート  

Re: 『みだれ撃ち涜書ノート』

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月10日(土)13時07分57秒
返信・引用 編集済
  > No.6615[元記事へ]

 段野さん
>ひょっとして、「花街」の雰囲気もご存じだったのかも
 まあ筒井さんがタイムリーパーだったら(>おい)(汗)
 でもそんなイメージはありますよね。商家の若旦那といいますかボンボンといいますか。
 ただし生家の北堀江は父方の実家であって、戦前実際に暮らしてはったのは、母方の実家に近い住吉区東粉浜だったみたいですね。
 眉村さんが戦前住んでおられた岸里とは、現在の南海電車でいえば隣駅!
 ちなみに山野浩一さんが、生まれたのは港区八幡屋(朝潮橋と三十間堀川の間付近?)ですが生れてすぐ阿倍野区昭和町に転居されているのです。
 SF第一世代の関西出身作家のうち三人もが、大体半径一キロちょっとの円内で幼少期を過ごされていたのですねえ。
 

Re:『みだれ撃ち涜書ノート』

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年10月10日(土)10時49分40秒
返信・引用
  「土佐稲荷」とか、「あみだ池」など、今はもうない我が本社があった近くだったんですね。驚きです。筒井康隆さんの生家を東にぐっと行くと、今はない「新町花街」がありました。ひょっとして、「花街」の雰囲気もご存じだったのかもと、想像を膨らませています。(よくお調べになられたと、感心しています。お疲れ様でした)  

Re: 『みだれ撃ち涜書ノート』

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 9日(金)22時38分46秒
返信・引用 編集済
  > No.6612[元記事へ]

 堀さん
 お知らせありがとうございます。さっそく記事を拝読しました。
 おお、大発見ですね(^^)
 なんと図書館の西かと思っていたら南東筋向かいだったんですね。
 やはり周囲は阿波、藍と関係ありそうな建物ばかりですね。阿波銀行もありますね。
 そして堀江川! そうか堀江川ですね。阪栄橋の地名もグーグル地図で見ますと北西角のパレ阪栄橋というマンションに残っているようです。
 私は木津川の東岸に、このような感じで想像していました。でも先日環状線から見た木津川の岸は、水面から5メートル以上高く護岸されていて、これはちょっとイメージが違うなあ、と感じたところでした。三木産業倉庫や阿波藍倉庫には、船着場があったんじゃないでしょうか。
 当時の写真が見たいです。
 このような環境から想像しますに、筒井家は阿波の出なのかもしれませんね。三木商店と関係がありそうですね。家は嘉隆氏名義になっていますから、昭和15年頃(?)には、もう藍問屋は廃業していたのかな。(註。でも嘉隆氏は三男となっていますよね。三男が家を継いだのでしょうか)
 ああ、いろいろ想像力が刺激されて面白いです。感謝感謝です(^^)。

 『腹立半分日記』を引っ張り出してきて、堀さんの記されたページを見ました。ああ筒井さん、なんということを! きちんと保管しておいてくださったらよい資料になったのに〜(ーー;

 

電子書籍版角川文庫半額セール

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 9日(金)21時43分34秒
返信・引用
   いま、小松左京の電子書籍は角川文庫で統一する方向で進んでいるのでしょうか。
 実は私、『ゴルディアスの結び目』を、徳間文庫版の電子書籍で持っています。どころが、現時点で、各ネット書店のページから、この徳間文庫版が消えていることに気がつきました。
 電子書籍の廃版? そんなのありえないですよね。廃版にするメリットがありません。電脳上のデータに維持費など殆んどかからないはずですから。
 それでいろいろ調べていて、上述の角川文庫統一化の動きを知るにいたりました。どうもその過程で、徳間文庫版が消されたのではないかと想像しました。それならば、まあわからなくありません。
 で、ふと――私の購入したデータは大丈夫かな、真逆(まさかとお読み下さい)消されてはいないだろうな、と、そんなことはありえないとは思いましたが、その書店のクラウドを確認したところ――

 無くなっていたのです!

(と思ったのです)。
 あわててその旨を記した調査希望のメールを送ったのですが、その直後、ふと、あの本は別のネット書店で購入したのだったかも、という可能性に思い至りました。
 そこで他社を見てみました。

 ありましたがな!

 私の思い違いなのでした。またまた大あわてで勘違いを詫びるメールを送るはめに。
 それにつけても、そんなメールを送る前に、なんで別の可能性に思い至らないのか。しかもなぜ送った直後にその可能性に気がつくのか。まるで無意識に弄ばれているような。
 いやー人間の無意識って摩訶不思議ですよねー(>おい)

 閑話休題。そんな過程で、たまたま現在角川文庫電子版がセール中だったことを知ったのでした。
 それを知ったのが数日前で、キンドルでセールが行われていることを確認しました。小松左京の角川文庫も、全部ではありませんが、半額になっているではありませんか。

 そうしますと当然、ロープライスゲッターの私としましては、これを利用せずして何を利用するかということになるわけです。
 しかしその前に、(ダブってしまっては何をしてるかわかりませんから)自分が所蔵している本を確認しておこうと、とりあえずその日はPCを切りました。

 翌日、蔵書も確認し、再びキンドル書店を開いたところ、なんたるちやサンタルチヤ、元の値段に戻っているではありませんか! セールは前日までだったんですね。がーん。
 そこで私、考えました。他の電子書店はどうか。と。
 おお。イーブックがセール中でした!(但し14日まで)
 とにもかくにも『明日の明日の夢の果て』を280円でゲット。
 あと、山田正紀『弥勒戦争』が150円で(『神狩り』『氷河民族』も200円を切っています)、その値段にぐぐっと購買意欲をそそられたのですが(というのは『弥勒戦争』読み返してみようかと最近考えていたので)、紙版を持っているのを買っても仕方がない、と、はっと正気に戻った。あやうく電子書店のおもわくに乗ってしまうところでした(^^;

 ところでこの『明日の明日の夢の果て』は、角川から(71年だったか72年だったか)新刊単行本で(『怨霊の国』のすぐあとでした)出たとき、友人に借りて読んでいます。『怨霊の国』より面白かったという記憶があるものの、内容がぜんぜん思い出せない。初読同然であろうということで、今回購入しました。

 で、早速読み始めたのですが、私はキンドル版を購読することが多く、イーブック版は久しぶりだったので、ちょっと気になったことが。
 イーブック版は付加価値が殆んどありませんね。付加価値とはつまり、辞書機能とかそういうものです。紙版をそのまま電子本にしたといった感じ。
 もちろん紙版自体、そんな付加価値は付いていませんから、別に困らないのですが、いま、自分はこの短編をどの程度読み進んだのか、というのが皆目わからないのですね。本自体の中で何%読んだのか、は分かるのですが、短編集の各短編の進捗率がわからないのです。紙版なら目で見て一目瞭然ですが、電子本はそういう感覚的な掴み方ができませんから。
 もくじに頁がついていたら、大体長いか短いか分かるわけですが、それもない。確かに電子本は、読者が文字の大きさを選べるので、ページ数は確定しません。だからもくじに頁は付けられないと言われたらそうなんですが、でも文字の大きいAさんは500頁だが、小さいBさんは400頁と言った具合に、個別的な頁番号は付いているんですね。それをもくじに連動させることは可能なのではないでしょうか。
 イーブックは、前にも書きましたけど、他の電子書店に比べて1割近く安いので、付加価値を求めるのは間違っているのかもしれませんが、最低限、もくじにページ番号ないし分量が分かる数値がほしいですねえ。



 

Re: 『みだれ撃ち涜書ノート』

 投稿者:堀 晃  投稿日:2015年10月 9日(金)20時52分38秒
返信・引用
  > No.6552[元記事へ]

ちょっと前の話題ですが、筒井康隆氏の生誕地について。
筒井商店の所在地、西区北堀江通5丁目20は小生の誤記で、北堀江通5丁目24番地でした。しかし、この表記もあてになりません。
地図その他を調べた結果、正確な位置がわかりました。たぶんこれが正解。
長くなるのでこちらにアップしております。
 

「魔天楼」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 8日(木)01時40分1秒
返信・引用
   ようやく『ネオヌルの時代』が発掘されたので、西秋生「魔天楼」を読むことができました。
 うむ。このバージョンでは、当該高層ビルへの地下鉄最寄り駅を訊ね訊ね行くのですが、訊くたびに路線の違う駅を教えられ、地上に出てみたら、どの駅でも600階建ての高層ビルは遥か彼方に聳えていて、結局行きつけないのですね。
 「Day Dream Bliever」版では、巨大な高層ビルは面積も広大で、地下鉄線がその建物の下を走っているのですが、敷地内に何駅もあるという設定だったと思うのです(私の捏造記憶でなければ)。ストーリーは全く覚えていないのですけどね。
 いずれにせよ、これはショートショートでは描ききれない話で、もっと膨らませたら、さらに面白いのになったのではないでしょうかねえ。

 

「時をかける少女」(2010)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 7日(水)02時10分29秒
返信・引用 編集済
  「時をかける少女」(2010)を観ました。
 やあ、これは「三丁目の夕日」の70年代版ですね。
「3丁目の夕日」が、60年代前半の風景、私が小学生だった頃の風景を再現していたのに対して、本篇は74年の2月から3月にかけてが舞台。
 実はこの74年の2月頃、私はあっちこっちの大学の入学試験を受けていたのでした(結局この年は浪人してしまったのでしたが)。
 作中人物の溝呂木亮太が大学何年生だったのかはさだかではありませんが、私より二、三歳上くらいでしょう。いずれにせよ同世代。
 下宿もこんな感じでしたねえ(笑)。バックに吉田拓郎も流れて、セットなのかCGなのか分かりませんが、懐かしい風景が現出していて楽しめました。
 ストーリーはだいぶ無理がありましたが(^^;
 

昨日は飲み会

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 6日(火)21時45分11秒
返信・引用 編集済
   きのうは、先月から参加している、前に勤めていた会社の上司クラスの人々の飲み会に、また参加してきました。
 既に何人か座っておられる場所に恐る恐る近づいたら、全社的に一種の「悪名」を喧伝されていて、名前を知らなかったらもぐりだという感じの、私自身絶対この人の下では働きたくないと当時思っていた有名人の方が着席されていて(前回は出席しておられなかった)、あちゃーと、できるだけ離れた席に座ったのでした。
 武勇伝は数知れずでして、私をこの会に誘ってくださった元上司も、髪の毛を掴んで引きずられたことがあったそうで、それを本人の前であっけらかんと披露されるのです。それもまたすごいですが、当の有名人の方も、それを全然気にする様子はなく、むしろ嬉しそうに頷いている。まあ純粋培養された人たちではないことは確かですな。
 この人達が活躍していた時期は、会社の勃興期で、システムも整ってなく、ボーナスの代わりに株券が支給されていた時代。当時は不満たらたらだったんでしょうが、今となってはそれが結構な資産となっているんですね(売ってなければ>おい)(^^;
 懐かしい名前がいろいろ話の中に出てきて、その中には亡くなっていたり、昔を次第に思い出したのでした。
 斜め向かいに座った方が、なんか見たことがあるなあ、と思っていたら、向こうもそう思っておられて、いろいろ話していたら、なんと私が新入社員で配属された店の、別系統の統括長でした。残念ながら、顔はかすかに覚えてくれていたみたいですが名前は覚えてくれていませんでした(^^;
 この辺の世代の、大体70代の方は、豪快で人情味がありました。
 問題はその下の、いわゆる団塊世代で、この連中は私の直属の上司であったり先輩社員に当たるわけですが、上に反抗する気概もなく、まじめなイエスマンが多かった。(会社はひと世代上のヤンチャな社員ではなく、世代が下のイエスマンの社員を重用し、その結果同業他社にしだいに置いて行かれたと言うのが私の偽らざる感想ですが)
 実は私の、ある店での直属の上司がまさに典型的なそれでした。上意下達はいいんですが、それを工夫して伝えることができない。やれというだけ。そんなのできませんよ、といえばそれを考えるのがおまえの仕事だ、というばかりの上司(たぶん自分自身にもアイデアがない人だったんでしょう)。愛想を尽かして、勝手にしなはれ、とばっくれて帰ってしまったことがあった。翌日は休みで、次の日に出勤したら別系統に配置換えになっていました。
(その上司はなんて名前やと聞かれて、Tさんですと言ったら、あいつかと全員納得されてましたが)(汗)
 それで完全にやる気をなくして(というのは職種が変わった事でそれまで10数年間私なりに培ってきた戦術的なノウハウが全く役に立たなくなってしまったのです)、組合の店の支部委員長になり、組合員に残業しないよう徹底的に監視して、定時になったら全員のタイムカードを回収して反抗したりしていた(これは残業手当頼りの組合員には恨まれたかも)。私を配置換えした店長も、そのことに関しては(つまり非は私にはないということ。本来喧嘩両成敗でなければならない)それなりに負い目を感じていたのか、何をやってもおとがめなしで自由にさせてもらっていました(残業を減らすことは会社の方針でもありなんらそれに関しては問題ないわけですが、それをきっちりやられて困るのも会社なんです)。まあ腫れ物にさわるような扱いだったともいえます。
 ちょうどそのとき、私をこの会に誘ってくれた元上司が、私の新しい職場の統括長で赴任されてきて、私は生き返ったのでした(たぶんその年は最低の評価だったはずなのに、次の年には管理職にしてくれた。同期ではトップではなかったけどかなり早い方でした)。今度は鬼軍曹になって、組合員をぎゅーぎゅー締め付けたものでした(>おい)(^^;
 とにかく上の機嫌を損ねても部下を絶対に守る人で、そういう態度が会社に受けの良いはずがなく、結局(資格はあるのに)店長になれずじまいだったんですが、昨夜の会は、類は友を呼ぶなのかどうか、そういう豪放で人情味の厚い(そのためある意味冷や飯を食った)先輩諸氏の集まりなのでした。
 最初に紹介したおそろしい有名人の方なんか、仕事を紹介するから名刺を渡せと言ってくれました。持っていたけど忘れたと言って渡しませんでしたが。まあ一晩寝たら忘れてはるでしょう。でも会社をやめてから本社に行ったら、あからさまに顔を背ける奴もいましたから(もちろんよく来たと歓迎してくれたのが大半ですが)、気持ちだけでも嬉しいものです。
 そんなこんなで、昨日は飲み過ぎた。というか年寄り連中なのでほとんど食べないんですね。本来私は、呑み且つ食うタイプなんですが、昨日は遠慮してあまり食べなかったら、お開きになって立ち上がった途端ふらふらとなってしまいました。
 で、楽しみにしていた韓国ラウンジも泣く泣くパスして帰ったんですが、地下鉄のホームで30分ほど椅子に座って酔いを覚まさなければなりませんでした。今朝は二日酔いで節々も痛くて、午前中はぼーっとしていました。今もまだ背中が痛い。やっぱり食べずに呑むのは体によくないですね。


 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 5日(月)14時35分55秒
返信・引用 編集済
  > No.6607[元記事へ]

 南山鳥27さん
 ご教示ありがとうございます。
 そうですか、「夏の碑」……。あ、そういえばそんなタイトルがあったような気がしてきました。模造記憶かもしれませんが(汗)
 いずれにせよ、貴重な手がかりになります。ひょっとしたらタイトル変更して発表済みかもしれませんが、篋底に残されている可能性もありますね。
 実は、ついさっき中さんの「名張人外境」をのぞきにいったら、更新されていて、「妹尾俊之」というエントリーが加えられていました。→http://nabariningaikyo.blog.shinobi.jp/Entry/3424/
 「乱夢譚」という創作が2000年に公開されていたことを知りました(いやこれも、そういえば、と思い出しました)。こちらもあとでリストに足しておくことにします。
 まだまだいろいろ出てくるかもしれませんね。また気がつかれたことがありましたら、よろしくお願いします。ありがとうございました。

 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:塚本紫苑  投稿日:2015年10月 5日(月)02時42分23秒
返信・引用 編集済
 
>> 管理人さんへのお返事です。

西秋生さんには、『夏の碑(なつのいしぶみ)』という作品があったはずです。
これは、非公開(出版されていない)のか、または題名を変えてどこかに発表しておられるのか、分かりませんが、このような名の作品があったということを記します。


ご冥福をお祈り致します。


_ 塚本紫苑 _

 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 4日(日)22時28分45秒
返信・引用 編集済
  > No.6605[元記事へ]

 海野さん
 リンク先見たら、講評では「燧道」に直していますね。燧道で検索したら中国語のサイトしか出ません。日本では珍しいですよね。選者のうちの誰かのこだわりかも。正字旧仮名使っておるくせに隧道かよ、みたいな会話が、講評の前の雑談で出たんじゃないでしょうか。私の想像ですが。
 選評が辛口なのは、どうもそれに引きずられているんじゃないでしょうか(^^;

 補足。協力者欄に深田亨さんと海野久実さんを追加しました。
 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 4日(日)22時02分43秒
返信・引用 編集済
  > No.6604[元記事へ]

 あ、言われてみて気がつきましたが、タイトルが違っていますね。
 で、ぱらぱらと対照してみたら、ところどころ語句修正されているようです。一例ですが、

「界隈」 「一寸火を拜借できないでせうか」
     思ひ掛けず大入道が聲を掛けてきた。


「隧道」 「火を拜借できないでせうか」
     思ひも寄らぬ事に大入道のはうから聲を掛けて來た。


 これ、西さんからデータをいただき、それを縦書きソフトにかけてアップしたのでした(アップ先は当時存在した「風の翼」HP。アップされたのは(過去ログから推定して)2000年10月と思われます)
 ひょっとしたらその短編部門応募用に「界隈」を改稿されたのかもしれませんね。

 とここまで書き込んでだところで、海野さんの投稿に気がつきました。
>第5回日本ホラー小説大賞(1998年)の妹尾俊之作品は短編賞候補になっていますね。
 ああ、やはり短編賞に応募した作品のようですね。

 私は「界隈」と同じ原稿だと思い込んでおり、リストに入れなかったのですが、別作品と認められますので、あとでリストに加えておきますね。

 深田さんと海野さんのおかげで、また新しい事実が分かりました。ありがとうございました。

 追記。データ追加しました。→http://okmh.web.fc2.com/cysm/nishiakiolist.pdf
 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:和田宜久  投稿日:2015年10月 4日(日)21時45分34秒
返信・引用 編集済
  第5回日本ホラー小説大賞(1998年)の妹尾俊之作品は短編賞候補になっていますね。

《長編賞》
「CENTURY OF THE DAMNED」 戸梶桂太
「夜に眠れぬ者たちへ」 柳原 慧
「バトル・ロワイアル」高見広春
「傀儡の悦び」 保科昌彦

《短編賞》
「お父さんと呼ばないでくれ」 永見功平
「神楽坂隧道」 妹尾俊之(複製者注:「隧」はママ)
「楽園王子」 多崎浩一
「落ちてきた歴史」 嶋田浩司
「相似形の夜」 紙谷皓一
「七日でできる」 田村 登

こちら http://motoken.na.coocan.jp/material/5horror.html

>(複製者注:「隧」はママ)
というのはなんなんでしょうね。

ウイキペディアでも確認できます。
「傀儡の流転」の方は長編賞ですね。
 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:深田亨  投稿日:2015年10月 4日(日)21時25分3秒
返信・引用
  > No.6601[元記事へ]

>  おっしゃっているのはこちらとは別?
>  こっちは風の翼10より転載したもので50枚程度ですから、それは気になりますねえ。
ああ、これですねえ。ではタイトルだけ「神楽坂界隈」→「神楽坂隧道」に変えてあるんですね。
50枚だと短編部門の枚数になるので、長編に膨らませたものもあるんでしょう。(参照した資料が間違っているかもしれませんが)
いずれにしても、候補作ですから未発表作品になるのでしょう。
 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 4日(日)12時42分13秒
返信・引用
  > No.6600[元記事へ]

 高井さん
 ご協力、ありがとうございます。
 この訂正版を、PDFにして、小サイトから閲覧できるようにしました。→とべ、クマゴロー!
 ご確認よろしくお願いします。
 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 4日(日)12時38分32秒
返信・引用
  > No.6599[元記事へ]

 深田さん
 ほんとうに残念です。
 ところで、
>1998年の日本ホラー大賞長編部門候補に残った「神楽坂隧道」も以前ネットで読めたようなおぼえがあるのですが……。
 おっしゃっているのは、こちらとは別?
 こっちは風の翼10より転載したもので50枚程度ですから、それは気になりますねえ。


 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:高井 信  投稿日:2015年10月 4日(日)08時06分15秒
返信・引用
  > No.6598[元記事へ]

 お疲れさまです。
 西さんの作家活動が一目瞭然ですね。こういうリストはありがたい。
 発行月の空白が気になるので、埋めさせていただきました。ご参考に。

 まとめて読みたいなあ。
 勝手に期待しちゃっております。
 

Re: 西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:深田亨  投稿日:2015年10月 4日(日)08時02分34秒
返信・引用
  > No.6598[元記事へ]

1998年の日本ホラー大賞長編部門候補に残った「神楽坂隧道」も以前ネットで読めたようなおぼえがあるのですが……。
西さんは1999年にも同賞長編部門に「傀儡の流転」という作品が残っているのですねえ。
すごいなあ、そして残念です。
 

西秋生全作品リスト(暫定版)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 4日(日)01時35分47秒
返信・引用 編集済
   とりあえず暫定版を作ってみました。
 誤りがありましたらご指摘願います。

 

 

Re: 西秋生同人誌掲載作品リスト

 投稿者:高井 信  投稿日:2015年10月 3日(土)18時58分54秒
返信・引用
  > No.6594[元記事へ]

 岡本さん。
 私の手抜きを補完してくださり、ありがとうございます。
> 時の獄、未来妖怪、2008
 あ、これもありましたね。忘れていました。
 それと、一点追加。
「いたい」は「小説現代」1980年5月号にも掲載されております。
 

Re: 西秋生同人誌掲載作品リスト

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 3日(土)18時08分30秒
返信・引用
  > No.6592[元記事へ]

 高井さん、岡本さん、雫石さん。
 貴重な情報ありがとうございました。西さん、たくさん書いてはったんですね。想像以上で驚きました。
 あとでゆっくり咀嚼して、検索もして、きちんとまとめようと思います。
 それでも不明なところは、個別にお問い合わせさせていただくかもしれません。よろしくお願いします。

 

Re: 西秋生同人誌掲載作品リスト

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2015年10月 3日(土)17時15分17秒
返信・引用
  > No.6593[元記事へ]

>  星群 17 塔 1976年2月1日
>     20 蝉 1976年11月1日
>  この2編が見つかりました(現物未確認)。(「ネオ・ヌル」略)

現物、確認しました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

Re: 西秋生同人誌掲載作品リスト

 投稿者:岡本俊弥  投稿日:2015年10月 3日(土)16時08分54秒
返信・引用
  > No.6592[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。


すでに高井信さんが返答されていますので、それ以上の情報はないのですが、念のため


魔天楼、ネオヌルNo.6、1976

マネキン、ネオヌルNo.7、1977

走る、ネオヌルNo.7、1977

マネキン(再録), 奇想天外(奇想天外社), 1977年08月

迷いの神の墓, SFアドベンチャー(徳間書店), 1984年02月

五番目のみずうみ, SFアドベンチャー, 1984年07月

翳の そしてまぼろしの黄泉, SFアドベンチャー, 1984年12月

傀儡たちの朧夜, SFアドベンチャー, 1985年04月

風の吹く街, SFアドベンチャー, 1985年07月

煙水晶, SFアドベンチャー, 1986年01月

夏土産, SFアドベンチャー, 1986年03月

月蝕の宴, SFアドベンチャー, 1986年08月

影踏み, SFアドベンチャー, 1987年01月

戯れの綾, SFアドベンチャー, 1987年05月

いない, SFアドベンチャー, 1987年09月

ますかれえど, SFアドベンチャー, 1987年10月

知らない, SFアドベンチャー, 1988年07月

百物語の夜, SFアドベンチャー, 1988年12月

幽霊屋敷の怪, SFアドベンチャー, 1989年05月

残照の木霊, SFアドベンチャー, 1989年09月

輪廻の沼, SFアドベンチャー, 1991年03月

淫戯の秘密, SFアドベンチャー, 1991年10月



いたい、ショートショートの広場2、1980

人形愛の夜、ホシ計画、1999

追ってくる、ホシ計画、1999

チャップリンの幽霊、ひとにぎりの異形、2007

時の獄、未来妖怪、2008

1001の光の物語、物語のルミナリエ、2011



高井信さんの2009年の記事


http://short-short.blog.so-net.ne.jp/archive/200906-1


こうしてみると、ずいぶん書いていますね。

まとめたいところです。


 

Re: 西秋生同人誌掲載作品リスト

 投稿者:高井 信  投稿日:2015年10月 3日(土)14時48分18秒
返信・引用 編集済
  > No.6592[元記事へ]

>  ということで、西さんの同人誌掲載作品をリストアップしました。上記の次第で「ネオヌル」掲載作品は分かりません。また商業誌掲載作品や単行本収録作品も、私の手には余ります。どなたか作って下さい。
 呼びました?(笑)
 とりあえず簡単に調査してみました。
 まずはファンジンですが、挙げられているもの以外に――
 星群 17 塔 1976年2月1日
    20 蝉 1976年11月1日
 この2編が見つかりました(現物未確認)。(「ネオ・ヌル」略)
 続いて商業誌です。石原藤夫さんのデータベースをチェックしますと、SF専門誌に掲載されたものだけでも19編ありました。(「奇想天外」1編、「SFアドベンチャー」18編)
 最後に書籍。これは私の記憶ですが、『チャチャ・ヤング ショート・ショート』、『ショートショートの広場』単行本(第2巻)と文庫本(第1巻)、『ネオ・ヌルの時代』2と3、『奇妙劇場[2]』、『ホシ計画』、異形コレクション『ひとにぎりの異形』『物語のルミナリエ』といったあたりを思い出します。ほかにもいくつかありそうですね。
 必要ありましたら、現物チェックいたします。
 

西秋生同人誌掲載作品リスト

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 3日(土)13時10分22秒
返信・引用 編集済
  西さんの最初期の作品に「魔天楼」という掌篇があって、たぶんネオヌルに掲載されたと思います(ネオヌルが発見できないので記憶ですが)。
 実はこのネオヌル版「魔天楼」には元になった作品があります。関学SF研機関誌の「Day Dream Bliever」に掲載された、タイトルも同じ「魔天楼」という作品です。私はネオヌル版よりこっちのほうが好きなんですねえ。
 いや、作品の完成度は当然ネオヌル版のほうが上なのです。
 ストーリーは最近完成した、巨大高層建築に引っ越しした友人から、転居通知に遊びに来てくれとあったので出かけた私が、結局たどり着けないという、一種「城」的な話で、大枠は同じなんですが、元作品では、建物が巨大すぎて、同じ建物の下を通る地下鉄が数駅あるという壮大な設定で、ここがもっと現実的に訂正されていたように記憶しています。ところが私は、元のワイドスクリーン・バロック的なむちゃくちゃさが大変好みだったのです。読み返したいなあ。
 その「Day Dream Bliever」も現在行方不明(だから上記は全くの捏造記憶である可能性も否定できません>おい)。ネオヌルの方は(たとえ出てこなくても)なんぼでも読む手段はあるのですが、こっちはもう不可能かもしれませんねえ。

 ということで、西さんの同人誌掲載作品をリストアップしました。上記の次第で「ネオヌル」掲載作品は分かりません。また商業誌掲載作品や単行本収録作品も、私の手には余ります。どなたか作って下さい。


  ■西秋生 同人誌 掲載作品リスト■(但しネオヌル掲載作品は含まない)

  北西航路 2 廃墟にて     75/10(妹尾俊之名義)
       3 湊        77/4(以下西秋生名義)
       4 <人草>の日々  78/10
       5 終着駅      82/10
        〃   朝         〃

  風の翼  1 蝉        77/summer
       〃 犬の死と      〃
       2 あの頃のこと   77/winter
       3 晩夏       78/summer
       4 星の降る夜の物語 79/summer
       5 霧        81/summer
       6 遠い秋      82/spring
       7 迷い神の墓    83/spring
       8 雨…       83/winter
       9 春の迷路     85/winter
       10  神樂坂界隈     87/spring
       11 しみ       88/winter
       12 こわい      90/spring
       13 遙かな潮騒    91/summer
       14 星の飛ぶ村    93/12
       15 年始の客     98/3

  チャチャヤング・ショートショート・マガジン
      創刊準備号   月光写真   12/秋
       〃      2012年の永遠 〃
       1       法師蝉    13/秋
       2       騒霊祭    14/秋
      別冊「怪異居留地」 帰還   15/7 (絶筆?)


 追記。ネットで読める西作品  「神樂坂隧道」http://okmh.web.fc2.com/kaze//nishi-kagurazaka.htm
                「夢都傳説」http://www.e-net.or.jp/user/stako/MA/M01-00.html



 
 

「ヒトデの星」再読(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年10月 1日(木)23時22分15秒
返信・引用 編集済
  > No.6590[元記事へ]

 承前。「この私のように、彼らもまた、自分のことを「私」と感じているのか」(41p)という設問は根源的です。
 実はこの設問の前に、問わなければいけない設問があります。それは
「この私と同じ姿をした他のヒトデナシもまた、私と同じように「心」があるのか」です。
 もし私たちが仮想的にたった一人で生きてきていたら(いうまでもなく意識を持った時からということです)、自分が何者か知らないはずです。

 ラカンの概念で、「鏡像段階」というのがあります。はてなキイワードが惹くラプランシュ/ポンタリス 精神分析用語辞典』によれば、
「人間形成の一時期をさす言葉。それは生後6ヵ月から18ヶ月の間に当たる。
この時期子供はまだ無力で、運動調節能力もない状態であるが、自分の身体の統一性を想像的に先取りして我が物とする。
この想像的統合は、全体的な形態として同じ姿をもった人間の像への同一化によって行われる。
そしてその同一化は、幼児が鏡の中に自分の像を見るという具体的経験を通して起こり、現実のものとなって行く。
鏡像段階において、将来自我となるものの雛型ないし輪郭が形成されると言えよう」


 鏡像というのはやや不適当に思えます。なぜならこの段階の赤ちゃんが皆、鏡を見るわけではないからです。ホモ・サピエンスの原始時代には鏡などなかった。ですから結局、鏡像段階と謂い条、現実的には「他者」を見て、自分もこんな姿をした同じ仲間なんだろうと知るわけです。
 ここで注意したいのは、母親を見て、自分も母親と同じ顔をしているとは思わない。母親も父親も兄弟も赤の他人も同じ「形相」を持っており、自分もそうだろうなと、「想像的に先取り」するんですね。これは原理的に「単独者」(仮想的にしかありえませんが)には不可能です。つまり「社会」の中に生れなければ獲得できない。
 ついでにいえばここで使った形相は厳密に本来の「形相」です。昨日使った「形相」に対して、指摘したくてウズウズしている方がひとりいらっしゃるかもしれませんが、そういう次第でご指摘は無用ですのであしからず(>おい)(^^;

 そういう意味で、この「想像的先取り」は、結局「社会のアプリオリ(先在)」が必須条件です。他者も自分と同じで存在者であることを、私たちは社会において知っているのです。
 長じて私たちは「私(自我)」を獲得し、自分に「心」があることを自明に感じます(一応そうしておく)。その自明性への絶対的信頼が、逆向きに他者にも心があり、私(自我)があることを「疑問の余地なく」想像させるのですね。でも畢竟想像なのです。

 というのが私の解釈で、蔵内論文でも「自分に心があるのと同じように、他人にも心がある、こういうことはどうして言えるのか」については「大体今日は他人が内的な存在であり、自分と同じように心を持つ存在であるということは、人間にとって本来的な認識である、とされています」(蔵内)と、ちょっと奥歯に物が挟まったような言い方になっています。

 実際のところ他者と自己は物理的に切れているという前提に立てば、そういうしかないのですね。「我にとって汝(というからには我と対等な存在と認めているわけです)という存在は自明的に内的な所与である」(蔵内)これが現象学の一番弱い部分です。
 いっぽう、ユング心理学では、この問題に対していとも簡単に「集合無意識」を措定しちゃうのでラクです(^^;

 そういう次第で、本書の「私」が「この私のように、彼らもまた、自分のことを「私」と感じているのか」と設問したそのことにおいては、まず大前提として、「私」が他のヒトデナシを自分と同じ形相を持つものとして、すでにいわゆる「他者(他我)」と認識していることを指摘しておきます。

 ここにおいて「私」は二重の意味を持ちます。あらゆるヒトデナシは、「私」と同様「心ある者」ですが、テレビを通して「私」が「私」を獲得したようには、彼らは獲得していないという問題です。

 



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