ヘリコニア過去ログ1512


Re: 牡丹峰(モランボン)は平壌市内にある小丘

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月31日(木)23時03分18秒
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  > No.6785[元記事へ]

 
 さて上は、張成沢失脚(2013年12月)後、私の閲覧した限りでは直近の映像、2014年3月の公演の動画です。つまり「大激震」の直後です。
 まず目につくのは、バンドの中心的位置づけであった弦楽部隊が、後方に下がっています。しかもソヌ・ヒャンヒさんの姿はなく、バイオリン2、チェロ1のトリオ編成です。
 歌唱部隊では、リュ・ジナさん、パク・ソニャンさんが見えません(かわりにラ・ユミさんが入っています)。
 あと気づいたのは、シンセサイザーの二人のうち一人(キム・ヒャンスンさん)が別の人と入れ替わっています。
 おそらくここに姿の見えない人たちは、その頃「再教育」の真最中だったのではないでしょうか。その後シンセサイザーの方以外は復帰しています。この方は事件とは無関係の理由かもしれません→https://youtu.be/HwEtroTM5zU(5月「第9回全国芸術人大会」後の9月の演奏会)

 それから11分50秒あたりからの、将軍様お気に入りのキム・ソルミさんの独唱に注目。これは聴きものですよ(このページでは時間が出ないので、画面右下の「youtube」マークをクリックしてオリジナルページに移動して下さい)。ド民謡です! でもたしかに上手い(^^;

 ということで、それでは皆さま、また来年お目にかかります。よいお年を!

 

2015年読了書

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月31日(木)16時45分37秒
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  2015年の読了書リストを掲示しておきましょう。
今年は総計72冊でした(6冊/月)。去年が63冊だったので、1割増し。まあこんなもんでしょう。
もう100冊なんて、はるかに遠い数字になってしまいました。

【2015読了書】 (72冊)
小説・日本(44冊)
1203)かんべむさし『上ヶ原・爆笑大学〈新版むさしキャンパス記〉』(クリーク・アンド・リバー社15、元版98)*電書googleplay
1202)三輪 太郎『憂国者たち』(群像2015年9月号)
1201)姉小路 祐『署長刑事 徹底抗戦』(講談社文庫、14)
1107)姉小路 祐『署長刑事 指名手配』(講談社文庫、13)
1106)かんべむさし『決戦・日本シリーズ』(クリーク・アンド・リバー社15、元版76)*電書googleplay
1105)姉小路 祐『署長刑事 時効廃止』(講談社文庫、12)
1104)姉小路 祐『署長刑事』(講談社文庫、11)
1103)乾石 智子『夜の写本師』(東京創元社電書版14、元版11)*電書kindle
1102)乾石 智子『ディアスと月の誓約』(ハヤカワ文庫15、元版13)
1101)邦光 史郎『怨霊の地』(ケイブンシャ文庫、88)
1007)小杉 健治『絆』(集英社文庫90、元版87)
1006)佐々木 譲『警官の紋章』(ハルキ文庫10、元版08)
1005)半村  良『高層街』(集英社文庫93、元版90)
1004)かんべむさし『サイコロ特攻隊』(クリーク・アンド・リバー社15、元版76)*電書googleplay
1003)山田 正紀『弥勒戦争』(角川e文庫02、元版75)*電書ebook
1002)半村  良『幻視街』(角川e文庫02、元版77)*電書ebook
1001)小松 左京『明日の明日の夢の果て』(角川e文庫15、元版72)*電書ebook
0905)北野 勇作『ヒトデの星』(河出書房、13)
0904)宮内 悠介『エクソダス症候群』(東京創元社、15)
0903)谷  甲州『新・航空宇宙軍史 コロンビア・ゼロ』(早川書房、15)
0902)谷  甲州『航空宇宙軍史 火星鉄道一九』(中央公論電子書籍版10、元版88)*電書kindle
0901)豊田 有恒『崇峻天皇暗殺事件』(講談社文庫90、元版87)
0805)北野 勇作『レイコちゃんと蒲鉾工場』(光文社文庫、08)
0804)北野 勇作『きつねのつき』(河出文庫14、元版11)
0803)平谷 美樹『水滸伝(三)白虎山の攻防』(ハルキ文庫、15)
0802)北野 勇作『社員たち』(河出書房、13)
0801)眉村  卓『短話ガチャンポン』(双葉文庫、15)
0702)安部 公房『デンドロカカリヤ・水中都市』(新潮文庫)*澁澤龍彦編『変身のロマン』(立風書房72)と『安部公房全作品2』(新潮社72)より
0701)平谷 美樹『蘭学探偵 岩永淳庵 幽霊と若侍』(実業之日本社文庫、15)
0603)平谷 美樹『水滸伝2 百八つの魔星』(ハルキ文庫、15)
0602)折口 信夫『死者の書』(青空文庫03、初刊43)
0601)小松 左京『ゴルディアスの結び目』(徳間文庫90、元版76)*電書honto
0503)北野 勇作『夢みる旅を旅する夢』(パブー、初出05)*電書kobo
0502)酉島 伝法『皆勤の徒』(創元日本SF叢書、13)
0501)吉川 英治『新・水滸伝 全6巻合本版』( MUK production、15)*電書kindle
0404)平谷 美樹『水滸伝(一)九紋龍の兄妹』(ハルキ文庫、15)
0403)北野 勇作『大阪夢現地図』(パブー13〈?〉、初出98)*電書パブー
0402)豊田 有恒『聖徳太子の叛乱』(徳間文庫97、元版91)
0401)邦光 史郎『飛鳥残影』(徳間文庫88、元版74)
0302)逢坂  剛『裏切りの日日』(集英社文庫86、元版81)
0301)日本経済新聞社編『第二回 日経「星新一賞」受賞作品集』(日本経済新聞社、15)*電書日経ストア
0203)田丸 雅智『海色の壜』(出版芸術社、14)
0202)田丸 雅智『夢巻』(出版芸術社、14)
0201)平谷 美樹『でんでら国』(小学館、15)
小説・海外(14冊)
1201)ラーゲルレーフ『幻の馬車』(角川文庫59、原書12)
0701)ブライアン・オールディス『寄港地のない船』中村融訳(竹書房文庫15、原書58)
0601)リチャード・ヒューズ『まほうのレンズ』矢川澄子訳(岩波少年文庫、95)
0304)E・S・ガードナー『偽証するおうむ』宇野利泰訳(ハヤカワポケットミステリ58、原書39)
0303)E・S・ガードナー『万引女の靴』加藤衛訳(ハヤカワポケットミステリ56、原書38)
0302)E・S・ガードナー『掏替えられた顔』砧一郎訳(ハヤカワポケットミステリ55、原書38)
0301)E・S・ガードナー『カナリヤの爪』阿部主計訳(ハヤカワミステリ文庫77、原書37)
0202)E・S・ガードナー『危険な未亡人』高橋豊訳(ハヤカワミステリ文庫90、原書37)
0201)E・S・ガードナー『門番の飼い猫』田中西二郎訳(ハヤカワ・ミステリ文庫77、原書35)
0105)H・P・ラヴクラフト他『暗黒神話体系シリーズクトゥルー1』大瀧啓裕編(青心社文庫、88)
0104)コリン・ウィルソン「ロイガーの復活」荒俣宏訳(『ラヴクラフト恐怖の宇宙史』(角川ホラー文庫93)所収)
0103)コリン・ウィルソン他『古きものたちの墓 クトゥルフ神話への招待』増田まもる/尾之上浩司/立花圭一訳(扶桑社文庫、13)
0102)J・W・キャンベルJr他『クトゥルフ神話への招待 遊星からの物体X』増田まもる/尾之上浩司訳(扶桑社文庫、12)
0101)アレクサンダー・レルネット=ホレーニア『両シチリア連隊』垂野創一郎訳(東京創元社14、原著42)
非小説(14冊)
1204)橋元淳一郎『相対論の直観的認識について;物理学とリズムに関するエッセイ集』(Hassy World library、15)
1203)橋元淳一郎『物理の時間、生命の時間;時間の流れの起源をさぐる』(Hassy-World Library、15)
1202)宮岡 伯人『エスキモー 極北の文化誌』(岩波新書、87)
1201)本多 勝一『カナダ・エスキモー』(講談社文庫72、初刊63)
1101)足立 倫行『激変! 日本古代史 卑弥呼から平城京まで』(朝日新書、10)
0802)澁澤 龍彦『快楽主義の哲学』(文春文庫96、元版65)
0801)橋元淳一郎『不思議の星のサイエンス(全6巻)』(キンドル、15)
0602)竹前 栄治『GHQ』(岩波新書、83)
0601)澁澤 龍彦『エロティシズム』(中公文庫84、元版67)
0401)豊田 有恒『古代史を彩った人々』(講談社文庫、93)
0301)上田 正昭『渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か』(角川選書、13)
0201)原田  裕『戦後の講談社と東都書房』(論創社、14)
0102)澁澤 龍彦『秘密結社の手帖』(河出文庫84、元版66)
0101)澁澤 龍彦『黒魔術の手帖』(文春文庫83、元版61)

 

よいお年を!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月31日(木)01時30分2秒
返信・引用
  > No.6786[元記事へ]

 橋元さん
 こちらこそありがとうございました。
 おかげさまでたくさんヒントをいただきました。
 来年もよろしくお願いいたしますm(__)m

 

Re: それはイカんよ。

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年12月31日(木)00時11分43秒
返信・引用
  > No.6784[元記事へ]

管理人さま

漫才がボケとツッコミがなければ成立しないように、本も書き手と読者がいなければ成立しません。どんどんツッコミお願いします。
ぼくの書くものなど、さほどのものではありませんが、ツッコミを入れて下さることによって、存在価値が生じるのだと思います。

来年もよろしくお願い致します。良いお年を!
 

牡丹峰(モランボン)は平壌市内にある小丘

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月30日(水)23時59分25秒
返信・引用 編集済
   近頃、モランボン楽団の情報収集に勤しんでいます。
 当初、欧米のポップス風の斬新なアレンジが強い印象を与えた当楽団です。バックバンドは大変な技倆の持ち主の集団で、一流といって過言ではありません。一方、歌唱部隊は(私の感覚では)日本の70年代アイドル歌謡路線のイメージ。わたし的には、よく比較される韓国の少女時代などより、その点に懐かしさを感じてむしろ高評価です。
 13年12月の張成沢(チャン・ソンテク)粛清がモランボン楽団に激震を走らせます。
 歌唱部隊では一二を争う人気で、ソロを取ることが多かったリュ・ジナさんがチャン・ソンテクの愛人だったらしく、また第1バイオリンで、バンマスでもあったらしいソヌ・ヒャンヒさんにも同様の噂があり、とつぜん姿が消えてしまいます(パク・ソニャンさんも)。
 こうして楽団自体も、北朝鮮の最先端の音楽グループという立ち位置からすこし後退します。14年初頭は公演も控えめだったようです。
 どうやら消えた人たちは、地方で「再教育」を受けていたらしい。やがて復帰を果たすのですが、楽団自体、いわゆる欧米風が行き過ぎたという批判を(将軍様より)受け、衣装も新地のおねえさん風から軍服になり、それまで日本70年代アイドル路線だったのが、70年代演歌路線に変わってしまうのです(私の聴いた感じです)。
 でも、楽団はそもそも将軍様の肝いりで結成されたのです。最初のコンセプトも将軍様の意向でなかったはずがありません。
 大体この一家は、北朝鮮では特別にソフィスティケイテッドでデカダンなオタク一家であるというのが私の認識なんですね。先代は怪獣映画をプロデュースしていますし、長男は東京ディズニーランドにお忍びで遊びに来て見つかり、国外退去させられましたよね。
 当代は当代で、ドアーズとジミヘンのファンなんだそうです。ジミヘンはわかりますが、ドアーズというのがちょっと意外。いまどきドアーズが好きなんて、むちゃくちゃディープじゃないですか。逆にこの意外性がロック好きの確かさを示しているようにも思われます。どっちもスクエアじゃなくヒップです。為政者が最も嫌うタイプ!(笑)
 私の想像ですが、当代は自宅にロックやポップスの膨大な音源を所有しているに違いありません。一家の人々を北朝鮮の民衆と同じレベルと考えるのは間違いです。
 だから、楽団の後退は将軍様の本意ではないと思います。チャン・ソンテク粛清の理由として、個人的欲望のままに奢侈的生活に耽ったということが上げられていますが、楽団員にチャンの愛人がいたことで、何らかの指導を与えなければならなくなった。それで極端な欧米ポップス路線が(形式論理的に)槍玉に挙げられたと見るべきではないでしょうか。
 ですからほとぼりが冷めれば、また従来の路線に戻るんでしょう。団員たちも暫くは、意に沿わないかもしれませんが、民謡演歌路線に大人しく従っていれば、いずれ、元通りの音楽を演奏できるようになるはず。と私は予想しています。
 ところが、第1バイオリンのソヌ・ヒャンヒさんは我慢できなかったんでしょうね。「クソ演歌の伴奏を何でわたしがせにゃならんの?」てな感じだったんじゃないでしょうか。地方で再教育されたはずなのに(汗)。バンドマスターから降格された(らしい)ことも不満を募らせる要因だったかも(見るからにプライドの高そうな美人顔です)(^^;。
 2014年5月17日「第9回全国芸術人大会」において楽団の最終総括が行われました(参照)。
 楽団員たちは、登壇し自己(自団)批判する団員の話を神妙に聞いているのですが、ひとりソヌ・ヒャンヒさんだけは、投げやりな様子を隠そうとしなかったそうです(上記リンク)。彼女はその後、楽団のメンバーから外されたようです(→「ソヌが「モランボン楽団」メンバーから外された可能性がかなり高くなってきた(ほぼ100%だと思っている)」←コメント欄もご覧ください)。
 ただ、単なる腱鞘炎という説もあるので、復帰を期待したいのですが。
 下に写っているこの方(バイオリン・トリオの左端)がソヌ・ヒャンヒさん。
 

 

Re: それはイカんよ。

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月30日(水)00時28分57秒
返信・引用 編集済
  > No.6783[元記事へ]

 橋元さん
 いや滅相もない。私はチャチャを入れるのは得意なんです。ツッコミと言い換えましょうか。
 ツッコミは、ボケが前提ですよね。野球も、ピッチャーが投げなければバッターは打てません。
 このボケとかピッチャーが、私には向いてないのですねえ。それに相当するのが作家だと思います。
 作家はゼロから始めて、無から有を産出します。
 私にできるのは、産出された有を、産出した作家とは別の視点から見ることだけです。そのことに関しては、この歳になって、案外得意かも、と思えるようになりました。
 ただその認識を裏返せば、産出者の器ではなかったということでありまして、若い頃は小説を書きたかったのですが、けっきょくモノにならなかったのはそういう資質だったからなんですね。何にしても気づくのが遅すぎました。もっと若くして気づいていれば、別の道に進んでいたかもしれません(^^ゞ
 というわけで、橋元先生のオリジナリティあふれる論考に、せいぜいチャチャを入れさせて頂こうと思っております。
 とかいいながら、ホログラフィック宇宙の検証実験などとなってきますと、これはもうツッコミを入れる手がかりも見つけられないのでありました(汗)
 なにはともあれ、こちらこそよろしくお願い致します!


 

Re: それはイカんよ。

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年12月29日(火)13時12分41秒
返信・引用
  > No.6781[元記事へ]

管理人さま

いつもコメントを頂きありがとうございます。
楽しく拝読しました。
ぼくが書くより、管理人さんに書いて頂いた方が面白そうですね(笑)。
今後ともよろしくお願い致します。
 

何事も追われたら駄目。いらっしゃいと待ち構えているくらいでなければ。

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月29日(火)00時50分25秒
返信・引用
   本日、遅ればせながらようやく年賀状を購入し、いまデザインを完成させました。明日から宛名書きです。
 今年の12月は、なんかいつもの年よりも追われっぱなしでバタバタしていました。お歳暮もころっと忘れていて、今日店に出かけたらもう終了していて慌てました。いや品物は陳列されているのですが、送りのサービスが終了してしまっていたのです。
 そりゃあそうですわな。大体25日を過ぎたら「お歳暮」の表記も使えません。
 仕方ないので、のし書きは「お年賀」にし、自分でクロネコに持ち込みしました。ちゃんと期日内でやっておけば無料なのに、いらん送料がかかってしまいました。三千円程度のものに六百何十円もかけてまったく無駄なことです(この歳になれば、送り先の軒数などたかが知れてるんですけど)。

 

それはイカんよ。

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月28日(月)23時04分29秒
返信・引用 編集済
   本日のハッシー君のサイエンス・スキャナーはイカの防衛戦術の秘密について。今回も興味深く、いろいろ考えさせられました。
 これ、NHKの「ダーウィンが来た」だと、天敵サメに対してイカが考えた驚きの戦術!みたいな「賢いイカ」的な説明の仕方をするんじゃないでしょうか。そしてヒゲじいの「鰓を閉じて電波を遮蔽されては、さすがのサメも、イカんともし難いですな。チャン、チャン!」とオヤジギャクでしめておしまい。
 でも実際は、たまたま偶然に襲われたとき鰓を閉じるクセのある個体が生き残りやすかった。他の個体は全滅したのです。結果そのような個体群のみ一種ボトルネック的に生き残った。その個体群から生まれた子孫も、同じクセを持っている確率が高かった。その中から鰓を閉じるという新しい行動パターンをDNAに書き込んだ新しいイカが、独占的に数を増やしていったということでしょう。
 少なくともイカに意識や知能があるように受け取れる説明の仕方は、避けたほうがいいと思うのです。
 いま、そのような説明を受け入れてきた子らが大人になり、動物や植物に対して過度に擬人化して認識する態度を当然とし始めたことが、近年の「植物に毎日優しい言葉をかけるとすくすく育つ」類の謬見が一定の広がりを持って受け入れられる、その下地になっているように、私には思われてなりません。

 

「幻の馬車」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月28日(月)19時24分4秒
返信・引用 編集済
   ラーゲルレーフ『幻の馬車』(角川文庫59、原書12)読了。

『クリスマス・カロル』の大晦日版といった内容です。
 大晦日の夜、救世軍の女兵士エーディットが、自宅で今しも死を迎えようとしていた。彼女は有能な兵士で、貧民たちの救済に粉骨砕身し、彼女に接した人々はマリア様の再来かと伏し拝むほどであった。
 彼女の病は肺結核であった。ちょうど一年前の大晦日の日、救護所に食事を求めて現れた浮浪者ダヴィッド・ホルムに、その汚い(病原菌もいっぱい持っていたろう)、ちょっと近寄るのもはばかられる風体も意に介さず介抱し、その結果結核菌をうつされたのだった。
 その日以来、エーディットのホルムに対する献身は尋常一律なものではなかった(恋愛感情があったことを最後に本人も気づく)。が、そのたびにホルムはエーディットを拒絶する。その拒絶が逆にエーディットの、ホルムを真人間になさしめようとする熱情にさらなる火をつけるのであった。
 ホルムに虐待されていた妻子が、ホルムが刑務所に収監されたのをよいきっかけに逃げ出し、この町に住み着いていた。仕事も得てホルムと住んでいた頃より健康で安穏な生活をしていた。(この町にたまたま辿り着いたホルムはそれを知らない)。
 この町に現れたとの噂を聞いた妻が心配になって、確認のため救護所を訪れた。それでいきさつを知ったエーディットは、説得して再び一緒に住まわせたのだったが、そのせいで妻子は前以上に悲惨な境遇に陥り、子供らを養育院に預けなければならないところまで追い込まれる※。ところがホルムはその措置に対する委任状に署名しない。ホルムは妻子が救済されるなんてとんでもない。もっと悲惨になれとうそぶくのであった。

 このあたり一般の読者はエーディットに対してどんな感想を持つのでしょうか。私に言わせれば宗教者の独善的な自信家でしかないのですね。度を超えた性善説が現実を直視させない。ホルムを更生させようという意識に凝り固まって(しかもその一部は恋愛感情という利己的な感情によって)、その結果、周囲の人間を不幸に陥れてしまっています。

 さて、瀕死の床で、エーディットは一種の幽体離脱を体験する。魂がホルムの家(エーディットが斡旋したもの)に行き、家財道具が何もなくなった部屋で、上記の養育院云々の場面を目撃する。
 ここに至ってエーディットが反省したのかどうか、元の体に戻ったエーディットは、付き添っている別の女兵士に、ホルムをここへ連れて来てくださいと、半ば命令するのです。
 ところがホルムは家に帰っていない。どこで遊んでいるのか、行方がわからない。
 実はホルムは、浮浪者仲間と教会の庭で酒盛りを開いていた。そこで新年を迎えようと言うわけです。ホルムが皆を怖がらせようとある話を披露する。
 それは地獄に堕ちるような悪さをした人間たちのうち、年の一番最後に(大晦日に)に死んだ者が、次の年一年間、死すべき者たちの元へ馬車で赴き、かれらの生の糸を大鎌で切断して死へと送り出す、死神の馬車の馭者をしなくてはならない(年間の死者数は膨大で、それを一人でやらされるため、馭者の時間は限りなく引き伸ばされ、馭者の主観時間は殆んど永遠に近いという苦行)という話で、それをホルムに教えた男が、実は去年の大晦日に死んだのだと――
 浮浪者仲間は震え上がり、諍いが起こってホルムの胸を強打する。肺病やみのホルムが大量に喀血するのをみて浮浪者たちは逃げ去る。
 身を横たえたまま動くこともできないホルムの耳に、ギシギシと軋む馬車の車輪の音が聞こえてくる。

 ここまでで半分。
 ここから去年死んで馭者をやっている仲間に導かれて、ホルムは自分のなした悪行の結果を見て回ることになるのですが……。

 解説に善意の文学とあります(著者は「ニルスのふしぎな旅」の作者でノーベル賞作家)。確かに著者は、ホルムの悪行を、善意に曇った目で解釈し、結果的にそれを拡散してしまったエーディットも成仏(とはいわないか)させてしまうのですねえ(^^;
※エーディットがホルムに妻子のあることを知る場面。ショックを受けたはずなのに、逆に再度くっつけようとするゆくたては、読み方によっては面白い。宗教的倫理観と我執の相拮抗する場面で前者が勝ったとするのが普通だろうが、実はエーディットの内なる悪魔の所業だと考えると面白い。
 だとすれば善意の作家と言われるラーゲルレーフも意外に悪辣であります。ま、作家だから当然か(^^;

 

Re: ピットインの伝説

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月28日(月)09時36分31秒
返信・引用 編集済
  > No.6776[元記事へ]

《山下:そうそう。筒井康隆さんが床に座って森山威男のドラムを動かないように支えていてくれたこともあった。汗だくになってね》

 【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち第19回:山下洋輔さんが語る「ピットイン」の伝説と出会い<後編>

 

寿司と餅の思い出

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月27日(日)22時53分39秒
返信・引用 編集済
   昨晩は今年最後の忘年会でした。案外早く10時半に帰宅したのですが、ちょっと一休みと横になったら朝までぐっすりでした。これで今年の行事も全て終わり。生産的なことは何もできない一年でした。嗚呼。

 それはさておき、標記の件――。
 小学校の低学年の頃は、生家である母方の実家に住んでいました。庭のはずれに、おそらく父母が結婚したときに建てられたものでしょう離れがあって、そこに家族で住んでいたのですが、母親の晩飯がおいしくないと言っては母屋に行き、祖父母の家族にまざってご飯を食べたそうです。
 そういう、日常的なケの食事についてはあまり記憶してないのですが、家の女総出(祖母と母を含めた三姉妹と長男である叔父の嫁さん)で押し寿司をつくっていたのを憶えています。たぶん何か祝い事だったのかもしれません。木の押し型に酢飯を敷き、具をのせ、その上にまた酢飯をしき、具を乗せ、と言ったあんばいに二層構造にしていたと思います。それをフタでぎゅうと押さえつけて作ったのでした。ふわっと乗せるんじゃなくてぎゅーぎゅー詰めにするんですね。
 具は、卵焼きなんかがのっていましたね。穴子とかも。あとはあまり憶えていません。子供が好きなものを憶えているということですな。
 家で作る寿司といえば押し寿司か巻き寿司で、握り寿司は誰かがお土産で買って帰ってくるものだったようです。

 同様に女総出の作業で、搗きたてのペースト状になったのを、ちぎって丸めて餅をつくっていたのも憶えています。餅搗きをした記憶はありません。実家の裏口の通りに、餅屋さんがあったので、そこで搗いてもらっていたのではないでしょうか。あんこの入った餅も作りました。これはつくりたてのを即ほおばっていました。できたてのほやほやの餅は、当然ながらサトウの切り餅みたいではありません。やわらかくてほんのり温かくてウマーでした。
 ところで、くだんの餅屋ですが、店の入口に臼が据えられており、ご主人がいつもその前に座っていました。餅を搗くのは機械です。機械といえるのかな。ボクシングのグローブのような杵が紐で天井からぶら下げられていて、それがどういう原理だかもち米の入った臼の中にドスンと落ちてくるのです。すぐ巻き上げられて、またドスン。ご主人は、落ちて巻き上げられるその合間に、手でもち米に水をつけてこねるんです。当時は面白がってよく見物していましたが、今思うと大変危険で、機械に支配された労働だったんですねえ。

 

ミサイルの歌?

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月26日(土)01時34分21秒
返信・引用 編集済
   これはすごい。地球を破壊しちゃって観客大興奮。おいおい(^^;

 
 

ピットインの伝説

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月25日(金)22時48分59秒
返信・引用 編集済
  《佐藤:そういえば本誌27号で森山威男さんに出てもらったとき、山下洋輔トリオ加入前のエピソードを聞きました。貞夫バンドの山下さんに感激したあまり、国立音大で練習している山下さんのところに押しかけて、ドラムを叩かせてもらったそうです。なんでも山下さんは「だめだこりゃ」と途中で演奏を止めて、みんなでどこかへ行っちゃったとか。
山下:(爆笑)。森山もまたずいぶん話を面白くするなあ(笑)》

【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち第18回:山下洋輔さんが語る「ピットイン」の伝説と出会い<前編>


 

Re: 第1回招き猫文庫時代小説新人賞発表

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月25日(金)17時41分44秒
返信・引用
  > No.6773[元記事へ]

>版元のページには、まだ私の名前がありましたので、
 ありました。
 せっかくですから、記念に貼っておきましょう。
 

 創元SF短編賞も!
 
 

Re: 第1回招き猫文庫時代小説新人賞発表

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2015年12月25日(金)13時41分43秒
返信・引用
  > No.6770[元記事へ]

段野のり子さんへのお返事です。

段野さん。来年はぜひ。
ところで、「織り屋おりん」
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/c4201f76f7c5fbea7f0df975bbfe8a14
続編、楽しみにしてます。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

Re:第1回招き猫文庫時代小説新人賞発表

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年12月25日(金)09時49分19秒
返信・引用
  管理人様
深田様
ありがとうございます。
来年用の作品は、ちょこちょこと取り出しては、手を入れています。
あと、版元のページには、まだ私の名前がありましたので、覗いて下さいませ(「招き猫文庫新人賞」で、24作品が載っています)
 

Re: 第1回招き猫文庫時代小説新人賞発表

 投稿者:深田亨  投稿日:2015年12月25日(金)00時59分41秒
返信・引用 編集済
  > No.6770[元記事へ]

段野さん、よかったですね。
管理人さんの指摘通り、段野さんの作品は推敲を重ねることによってどんどん良くなると思います。
時間はたっぷりあると思いますので、次回はぜひ入賞を狙ってください。
 

Re: 第1回招き猫文庫時代小説新人賞発表

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月24日(木)20時45分15秒
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  > No.6770[元記事へ]

 段野さん
>何と、一次選考24作品の中に、私の作品がありました
 おお、それは喜ばしい。おめでとうございます!
 版元サイトに見に行きましたが、一次選考の結果発表は見つかりませんでした。すでに削除されたのかもしれませんね。

 今年は深田さんも、創元SF短篇賞の一次選考を通過しましたし、良い年になりましたね。

>来年も頑張れよ、ということなのでしょうが
 そりゃあ頑張らなければいけませんね。精々精進して来年へつなげて頂きたいと思います。

>(来年用の作品は既に用意しています)
 おお早い(^^; いくらでも書けるのが段野さんの強みですねえ。
 まだ半年以上あるので、篋底にしまいこんでおかず、時間を措いて、2か月に一回くらい引っ張り出してきて読み返し、推敲されたらいいですね。自作を客観的な目で振り返ることができると思います。案外気づかず前後矛盾したことを書いているものです。
 特に文章。選考委員にうん? と思われてしまうと、いくら内容がよくても印象が悪くなってそこで振り落とされてしまいますから。
 同じ表現を同じ頁で繰り返し使用していないかどうか。していたら別の表現に置き換える。同一シーン内で視点が混在していないかどうかも要チェックです。
 この2点が段野さんの弱点なので、半年かけて研磨されることをアドバイスさせていただきます(^^;
 ご健筆を!

 

第1回招き猫文庫時代小説新人賞発表

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年12月24日(木)14時55分39秒
返信・引用
  白泉社の「第1回招き猫文庫時代小説新人賞」が発表されました。何と、一次選考24作品の中に、私の作品がありました。(結局、受賞しなかったので、大したことないのですが)24作品の中から3作品が受賞したのですが、24作品に選ばれていました。驚きました。もう、びっくりです。来年も頑張れよ、ということなのでしょうが、驚きました。(来年用の作品は既に用意しています)  

ポップス君が代

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月24日(木)00時22分28秒
返信・引用 編集済
 
 

 モランボン楽団、ボーカルのキム・ソルミさんという方が、将軍様のお気に入りだそうです(ウィキペディア)。
 この方です。
 

 ふーん。将軍様はこういう趣味なのか。私はキム・ユギョンさん※のほアワワげほんげほん……た、たしかにソルミさん美しいですなあ。さすが将軍様、お目が高い。あは、あは。
 しかしそれにしても、国歌をこんな風にポップス化してしちゃっても大丈夫なんですね。あべっち国では考えられないことです。
 君が代をポピュラー音楽の歌手が歌うことはありますが、あの鈍重なリズム感のない曲調が変えられたことはありません。将軍様のほうがよほど考えが柔軟であります。
※キム・ユギョンさんとリュ・ジナさんを勘違いしていました。訂正しました。
 

訪日客が「迷宮」と呼ぶ梅田地下街 本日も遭難者が続出

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月23日(水)12時52分56秒
返信・引用
 

 

「北極―イヌイット―」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月23日(水)02時19分8秒
返信・引用 編集済
   佐藤秀明『北極――イヌイット――』(角川文庫、93)読了。

 エスキモーシリーズ、本書も面白かった。著者は写真家のようです。カバー裏の略歴では何もわからないのですが、報道写真家という表現に即せば、自然写真家、地球写真家なのかも。
 本書に描かれているのはカナダ・エスキモーすなわちイヌイット※の、おそらく1980年代後半のありのまま姿と、それに付属するカナダ北極圏の美しい自然の画像です。(※カナダではイヌイット、アラスカではエスキモーと呼ばれる。これは先に読んだ『エスキモー 極北の文化誌』における東のエスキモーと西のエスキモーにほぼ対応するもの)
 つまり本多勝一『カナダ・エスキモー』に活き活きと描写された人々の、20年後の姿なのです。

『カナダ・エスキモー』でも解説で、その後イヌイットたちが欧米の文化に(良くも悪くも)急速に染まっていったことが述べられていましたが、本書を読むと、本多の予測した未来が、まさに実現していたことがわかります。
 犬ぞりはスノーマシンに変わり、鯨の骨(あるいは米軍基地の廃棄物資)でつくっていた家は、政府配給のツーバイフォーの建物に変わっています。
 すでに本多の時代、エスキモーの一部は、狩猟生活を捨て定住し、工場などで働き始めていましたが、定住者たちが「生きる意欲」を失っていくのを本多はまざまざと感じていた。

 それは本書ではさらに進行しています。そして政府の保護政策で働かなくても行きていけることが、自尊心や自立心、民族の誇りというものを失わせていったのです(アルコール中毒の蔓延、自殺率世界一*但し簡単に自殺するのは厳しい環境で迷惑をかけない民族的な伝統が基礎にはある)。
 また、奨励される近代的衛生的な生活と民族の伝統的な生活態度はなじまず、たとえば支給された家には住まず、庭にテントを張って住むというような、そんな齟齬が多く見られた。
 肉の生食をやめてしまえば野菜を摂取しなければならないわけですが、北極圏に空輸されてくるレタスは1個が千円以上もするのです。5人家族で狩猟に頼らない生活をするとしますと、年間1500万円以上かかるわけです。
 そんな矛盾がカナダ政府のエスキモー保護政策にはある。

「文明が一気に流れこんだ一時期、人口が激減したことがあった。厳しい自然と闘って生きてゆくことが生活の大部分を占めていたのが、文明が入り込んで比較的楽に生きていけるようになって、生きるハリを失ったことが原因だと言われている」「過酷な自然は、イヌイットに生存のための緊張感を与えてくれる偉大な存在なのだ」(96p)

 これだ、と思いました。アジアから渡ってきて、なにが更に厳しい北極圏の方へ向かわせたのか、と再三自問していた答えが、です。
 本多も工場労働者のエスキモーは目が死んでいると書いてあったと思います。自然が過酷であればあるほど、それに向かって突き進んでいきたくなる、ってのは分かるような気がします。
 ひょっとしてここにも、橋元説の、生物の発生の契機がフラクタルに現出しているんじゃないでしょうか。

 そんな状況に危機感を感じた一部が再び狩猟的生活に復帰し始めており、本書はそんな狩猟生活に戻っていった人々に密着したルポになっています。数ページごとに挿入されるカラー写真が実に美しい(アザラシの解体写真も含めて)。
 本書を読んでいますと、一気に欧米文化の影響を被って変容してしまったけれども、根ではやはり本多ルポで活写された人々と同じ民族なんだなあ、という描写が散見されて面白い。
 本多も本書の著者も、ちらりとイヌイットに残存する未開性への言及があるのですが、その未開性は、別の見方をすれば、生存の駆動力、生存本能がナマで現れている部分ではないか。
 本多ルポ→本書に活写される人々(イヌイット)こそ、正真正銘のエスキモーであって、西のエスキモーは(語族的には同族かもしれませんが)、むしろアイヌ――コリヤーク(カムチャツカ)――チュクチ等につらなるアジアの北方民の系譜なんだろうと思います。
 とてもよいルポルタージュでした。

 追記。元来エスキモーが子供を多く生むのは環境が厳しいため死亡率が高いからでしたが、町に住むことでその原因が取り除かれているにもかかわらず、エスキモーたちの子沢山はかわらなかったそうです。それは補助金目当てという面があるかららしい。
 その当否は別にして、日本では少子化対策が叫ばれているわりには効果が上がっていませんがカナダ政府のように国がどんと補助金を出せば一気に解決するんじゃないのか、とふと思いました。
 それを、子育てが困難などと言い訳するが、それはじいさんばあさんと一緒にすまないからその援助を得られないせいじゃないか、として、同居を奨励するようなあべっちの発想は、なんだかなあ、みみっちいなあと思わずにはいられませんねえ(>おい)(^^;

 

そぐわない表現

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月21日(月)01時43分58秒
返信・引用
   ネットで、「趣旨にそぐう選択だと感じ入った」という文章を見かけて???
 で検索してみました。→そぐう

 

「エスキモー 極北の文化誌」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月20日(日)19時12分33秒
返信・引用 編集済
   宮岡伯人『エスキモー 極北の文化誌』(岩波新書、87)読了。

 本多勝一『カナダ・エスキモー』は、カナダヌナブト準州、ハドソン湾にフタする格好で、バフィン島に向かって伸びているメルビル半島の東海岸、イグルーリック・エスキモーの一部落(バンド)が舞台でしたが、本書はアラスカ州南西海岸のユッビック・エスキモーが主に観察されています。
 実はエスキモーは、西のエスキモーと東のエスキモーに明確に区分されるのだそうです。
 で、エスキモーの生態として一般に認識されている(われわれがイメージする)のは、東のエスキモーのそれなんですね。
 というのは、欧米人が遭遇したのは、まずグリーンランドのエスキモーであり、カナダ北極海沿岸のエスキモーだったからです(西限はアラスカ州北部)。
 本多勝一が滞在したエスキモー部落は、まさにその典型的な、しかも当時は欧米文明にまださほど影響されていない生活習慣を保持していた(というよりそういう場所を事前に調査してから選ばれた)部落だった。
 一方、アラスカ南西部と南部、アラスカ半島の付け根、ロシアのチュコト半島のエスキモーが西のエスキモーです。かれらの文化は、東のエスキモーのような、これ以上もなく極寒の世界に適応した、あの独特な文化ではなく、むしろアジアの寒冷地諸民族の生態に近い。
 これは当然なのです。
 西のエスキモーの土地は、東のエスキモーの居住地帯みたいに、緑のないカチンカチンに凍りついた永久凍土の、そして食料といえばほとんど海獣しかない世界ではありません。夏には野イチゴ採集ができる、東に比べればずいぶん穏やかな土地なのです。
 ただ言語学的に西と東のエスキモーは同じ語族なんですね。南のインディアンの言葉とも、アジア側のチュクチやカムチャツカの言葉とも違う(アリューシャン列島のアレウトはかなり古くに別れた同語族)。
 しかし東西のエスキモーは、生態が違うように、言葉もかなり違っているのです(通じないことはないようですが)。
 また東のエスキモーが、グリーンランドからアラスカ北部まで広大な領域に広がっていながら、方言といえるほどの差異のない、均一な言葉であるのに対して、西のエスキモーはアラスカの南西部とアジア沿岸という、そんなに広くない地域にもかかわらず、かなり分化が進んでいる。
 ただ総体としての西の諸言語(諸方言)と、均一な東の言語の間の差異は、桁が違うというか、断絶的といってもいいくらいなんだそうです。
 著者によれば、西の言語の多様さは、いわばゲルマン語族が、中欧北欧という限られた地域でドイツ語やデンマーク語やスウェーデン語に分化していったのと同じような経緯だろうということです。
 一方東の言葉が広範囲に斉一なのは、東のグループが或る原郷から拡散したのが、そんなに古い時期ではなかったからと考えられるそうで、著者は、それはたかだか1000年前だろうと考えています。
 1000年前といえば藤原道長の時代です。
 そんなに新しいのなら、なぜ東西の言葉が隔たってしまったのか。1000年前に西から出発したのではないからですね。
 もっと遙かな昔、それこそエスキモーがアジアから渡ってきた直後から、アラスカに定着せず東へ向かった部族がいたのでしょう(たぶん何波も)。
 それはしかし、進んでは全滅の繰り返しだった。
 [以下は私の推理です]
 それでも、それなりに適応出来た者たちは少しずつは前進していたのですね。ただ進めないものは全滅したわけで、それが繰り返され、かれらと西の部族との間には、どんどん無人地帯が拡がっていったと思われます。
 その繰り返しの中で、任意のある部族が、1000年前に、極圏への高度な適応技術を獲得した(私は肉の生食の発見だと思います)。
 結果、その部族のみが、カナダの北極海沿岸からグリーンランド東岸まで一気に拡がることが出来た。また西へ引き返す連中も現れ、無人地帯を埋めていき、再びアラスカ北部へ辿り着いた。
 アラスカ北部へ辿り着いた言語は、西の言語からかなり変化していた。中間を埋める言語は絶滅しているので、連続性は失われてしまっていた。
 いやー壮大ではありませんか。
 ところで、上の説明が正しいとしたら、グリーンランド(東岸)にヴァイキングが入植したのは10世紀ですから、エスキモーのグリーンランド(西岸)到着もほぼ同じ頃ということになりますね。
 ヴァイキングはエスキモーを原住民と認識していたのかもしれませんが、エスキモーはエスキモーで、ヴァイキングを先住民と思っていたかのかも、と考えると、面白いですねえ。
 

進歩主義の生命的契機

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月19日(土)21時16分4秒
返信・引用 編集済
  > No.6762[元記事へ]

 今度の「スターウォーズ」は、スクリーン上のドラマに連動して、椅子が動いたり、ヒュッと風が吹きつけてきたり、匂いまで漂ってくるらしい。
 体験もせず言うのもなんですが、それはもはや、映画とは別物じゃないでしょうか。
 むしろ遊園地のアトラクションに近い。
 私の予想ですが、もしかしたら、そんなサービスは不要だという意見が、意外に多く出てきそうな気がします。
 一般の映画ファンは、そんな付加価値は求めていないと思うのです。いらんお節介だといわれてしまうんじゃないでしょうか。
 われわれは映画を見たいのだ、と。
 そういえば、最近の映画の画質の鮮明なことも、映画の魅力を損なっているような気がしないでもありません。あれではテレビドラマと変わらないです。
 昨今の映画からは、ムービーフィルムのあの粗い粒子感がなくなってしまいましたよね。
 あのザラザラ感、不透明感が映画を映画たらしめている契機の重要な一つだったと私は思っています。「カサブランカ」がもし現代の技術で映画化されていたら、がっかりするに違いない。
 もちろん製作者は、よりよいものを作ろうと日夜努力していて、それがために技術の進化をいち早く取り込もうとするわけです。
 しかしどうも、白黒よりカラーが、画質は粗いよりなめらかな方が、濁っているより透明感のある方が良いはずという、無意識の思い込みがあるのではないか。そんな簡単な話ではないんですよね。
 ひょっとしてこれは、人間の(と言わず生物の)根本原理である、エントロピー増大に対して立ち向かっていかずにはいられない本能に原因があるのかも。
 映像は粗いより細かいほうが、不透明より透明な方が、エントロピーは低いですよね。
 つまり人間は、エントロピーが低いのをよしとしてしまう、無意識の傾向がそもそも備わっていて、だから漫然と深く考えないでいると、それを当然として、その方向に進んでしまうからではないでしょうか。
 そう考えますと、文明の進歩なんてすべてそうかもしれません。進歩とはエントロピーを下げようとする営為なのかも。
 クーラーや冷蔵庫は温度を下げますし、掃除機は部屋をきれいにします。
 でもそこが人間の浅はかなところで、クーラーは部屋を冷やしますが、その熱を戸外に排出しているだけで、実際は(系を広くとれば)エントロピーは低下していません。掃除機も部屋をきれいにしますが、吸い取られたゴミや塵は世界から消えるわけではなく、ゴミ箱に移っただけです。
 工場では原料を加工して製品を作りますが、工業廃棄物も生産しているのです。
 それが全部悪いと言っているのではないですよ。何も考えないでただ漫然としていると、そういうことになるという意味です。
 小松さんが言われた「人類の英知」とは、そこに関わってくるんだと思います。
 たとえば映画では、はたしてアトラクション化することが映画にとってよいことなのか、そこは昔の技術を維持するほうが良いのではないか、とか、つねに再考する必要があると思うのです。
 いや旧来の映画もあってよいし、新しい映画もあってよいじゃないか。それは私も同意見です。
 とはいえ、いまどきムービーフィルムで撮られた映画がありますかね。ことほどさように、人間というのは多様化するよりも、ほっておけばレミングのように一方向へなだれをうって進んでいく生き物なんだと思います。

 

「相対論の直観的認識について;物理学とリズムに関するエッセイ集」追記

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月18日(金)20時42分2秒
返信・引用 編集済
  > No.6761[元記事へ]

 その後思いついたことを列挙します。
 なぜ空間を認識できないか。それは空間が「非因果領域」に含まれているからですが、それはどういうことかというと、こういうことだと思います。
 ミンコフスキー時空のx軸は、座標原点に位置する視者の「今現在」の空間を表している(真横から描いているので図では見えませんが、実際はx軸は360度に広がっている)
 ところが、空間は光によって目に届けられるのですから、どんなに近接した空間でも、光の速さで到着するからには、常になにほどか過去の映像ということになるはずです。
 だから「今」私が見ている、私の目から50センチ先のパソコンのモニター画面は、実は6億分の1秒過去の映像なのです。(0.5m/3億m:3億m=30万km)
 それが目の前0.000……1mmでも同じです。現在の映像ではありません。
 それを見ようとすれば、光速を超えなければなりません。それは(一応)不可能です。「非因果領域」とは、このように光速を超えないかぎり見ることができない領域です。
 ついでにいえば、教室の前の席と後ろの席では、ある時点で(例えば今現在)、見えている黒板は同じではない。後ろの席の学生は、前の席の学生の見ている黒板よりも、もう少し過去の黒板が見えているわけです。

 一方、時間の流れですが、私たちは「いま現在」にずっと閉じ込められているように思います。
 ただ、その「いま現在」が刻々と前方(未来方向。エントロピーが増大する方向)へ進んでいるのは、後ろ(過去方向)に刻々と過去が生まれ置き去りにされ続けていることでわかります。
 しかし、それは空間を移動するようなのではない。今現在を飛び出して未来へ行くことも過去へ行くこともできません。
 私たちは未来へ進んでいきますが、「いま現在」の全宇宙も一緒に前へ進んでいるので※、やはり閉じ込められているという方が妥当ではないか。「いま現在」という乗り物が(刻々と過去を排泄しながら)前に進んでいくだけなのです。
 もちろん今現在の宇宙は見えないのですが、非因果領域の世界線から刻々と過去が現れてきますから、それでわかります。
 そういうことからも時間は外ではなく、内を通っているのが実感として分かるんですね。

※追記。
>「いま現在」の全宇宙も一緒に前へ進んでいるので
 といっては不正確ですね。今現在の私が見ている全宇宙は、私の目に届いた(いろんな過去の混じった)宇宙なので、観測主体が前方に移動すれば、全宇宙も一緒に進んで当然なのです。「私の観測している」全宇宙なんですから。
 「次の瞬間」を、ミンコフスキー時空図のy軸を上方に移動すると考えるより、「次の瞬間」の私はやはり(次の瞬間の)座標原点にいるというイメージが正しいような。

 

「相対論の直観的認識について;物理学とリズムに関するエッセイ集」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月17日(木)22時54分3秒
返信・引用
   橋元淳一郎『相対論の直観的認識について;物理学とリズムに関するエッセイ集』(Hassy World library、15)読了。

 前著はもろ、論考!でしたが、本書はごくおだやかな(?)科学エッセイ集でした。
 本集を通して繰り返し強調されていたのは、通説の「時間は虚数、空間は実数」よりも、「時間は実数、空間は虚数」とする方が適切だということ。
 本書によれば、我々は「純粋な空間」というものを認識できない。我々が空間としてみているそれは、「時間という衣を纏った擬似空間」なのだそうです。
 なるほど、私たちの見ている空間は、光が目に届いたことで「見えた」わけですが、どんなに近いところから発せられた「光景」であっても、秒速30万キロという有限の速度でやってきたものなんですね。つまり我々は空間を、時間の経過を伴わずに「直接的」に見ることはできない。時間を通した「間接的」なものである。だから「時間という衣を纏った擬似空間」という表現になったのですね。
 いっぽう時間の経過の認識については、それは何の媒質も通さず「直接的」にやってきます(内観)。これは体験的事実と言ってよいですよね。
 このように、時間の認識は直接的ですが、空間の認識は間接的であり且つ時間を媒体としてはじめて認識できる。
 この体験的(直観的)事実こそ、「時間」は実数であり、「空間」は虚数であることの端的な証左だとします。
 たしかに。言われてみたらそのとおりですよね。
 以上はまた、空間は「外」にあるのに対して、時間は「内」を流れている、ということでもあります。
 私達は音楽にかぎらず、あらゆるものにリズムを感じて生きていますが(小説の文体のリズムもそうです)、この体内に発生するリズムも、時間が「内」を流れている、そのことに起因する。逆に言えば、リズムの存在が、時間の直接性(実数性)を証明しているといえるのかも。

「生命は、この一つの実数軸に沿って脈動することから、時間の流れを創り出した。それだから、我々は時間というものを、体内のリズムとして体験するのであって、それは既知なるものなのである」

 

Re: 「物理の時間、生命の時間;時間の流れの起源をさぐる」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月17日(木)02時59分34秒
返信・引用 編集済
  > No.6759[元記事へ]

橋元さん

>修正されたファイルを使って、再度、登録すればよいようなので
 古いファイルの上に新しいファイルが上書きされるという感じでしょうか。
 こういう素早さは、電子本の紙本にまさる利点ですね。
 また紙本だと訂正版が出たとしても、既に購入している旧版を交換してくれることはありえませんが、電子本なら、いま端末に入っていたりクラウドに保存されている旧版を削除して、再度電子書店からダウンロードすれば、改訂版が入手できるのだろうと思います。
 本書も、改訂版に置き換わった時点でその手を使って、改正版を手に入れようと思います。

>親方日の丸のお役所。エントロピーの嵐と闘い生きるという意志は、ほとんど退化している。
 植物=公務員説!(^^;
 そうしますと、植物は(ほとんど)無時間の世界に住んでいるといえるかも。うーむ。ぼーっと生きている感じか。具体的にはあまりかわりばえのしない日々が続いていくんでしょうね。そういう一日は、長いんでしょうか短いんでしょうか、どっちなんでしょうね(笑)

 

Re: 「物理の時間、生命の時間;時間の流れの起源をさぐる」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年12月17日(木)00時19分16秒
返信・引用
  > No.6757[元記事へ]

管理人さま

さっそくの書評ありがとうございます。
この本ではあえて植物の意志について触れていませんが、ぼくは次のような比喩で捉えています。

単細胞生物→個人商店。生きるか死ぬかは、もっとも切実な問題。それゆえ、生きる意志はもっとも強い。
動物→大企業。頑張っている細胞もいるが、多くの細胞は生きる意志そのものよりは、自分に与えられた役割を果たすことを優先する。
植物→光合成という手段によって、ほとんど努力せずとも生きられる。親方日の丸のお役所。エントロピーの嵐と闘い生きるという意志は、ほとんど退化している。

それゆえ、生きる意志と時間の創造ということをもっとも強く感じているのは単細胞生物だと思うのです。

橋元淳一郎
 

Re: hassy-world library発売!

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年12月17日(木)00時17分23秒
返信・引用
  > No.6756[元記事へ]

管理人さま

ご指摘箇所、修正しました。
kindle出版の詳細はまだよく分からないのですが、内容を修正する場合は、修正されたファイルを使って、再度、登録すればよいようなので、やってみました。変更が反映されるのは新規登録と同様、少なくとも数時間はかかるようです。
慣れるまでは、まだまだ時間がかかりそうですね(笑)。

橋元淳一郎
 

「物理の時間、生命の時間;時間の流れの起源をさぐる」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月16日(水)23時31分12秒
返信・引用 編集済
   橋元淳一郎『物理の時間、生命の時間;時間の流れの起源をさぐる』(Hassy-World Library、15)読了。

 前半はけっこう苦しみましたが、後半はセンス・オブ・ワンダーにゾクゾクさせられました。
 といっても、理解できたなどとはとてもいえません。ただ、著者の論述をとりあえず正しいとして読めば、その論理の帰結にゾクゾクさせられた、という次第。
 しかし考えてみますと、(物理学の素養のない)私は、光速が秒速30万キロで、それは地球7まわり半です、ということを知っていますが、だからといって自分で検証したわけではない。ある意味無根拠に信用しているだけなんですよね。ただそう習ったのを憶えていて使っているだけにすぎません。
 ですから、わざわざ「とりあえず正しいとして読めば」なんていうエクスキューズをことさらする必要はなかったのかもしれません。それをいえば世界の殆どの事象は無根拠な信頼の上に成り立っているんですから。

 さて、本書の論旨は、相対論が示すように、時間の流れは客観的に共通なものではない(ひとつの時間の流れの中に我々全員が含まれているのではない)。それは個々人(いや全ての生命体それぞれ)においてそれぞれの内部に流れているもので、(私の理解が間違ってなければ)地上に固定しているA者の時間とB者の時間でさえ、決して共通のものではなく別々である(それを共通と錯覚している)。
 ということを手がかりに、生命体以外のすべてのものがエントロピーを増大させていくこの世界で、生命体のみ「エントロピー増大に抗して」その体を維持して(オートポイエーシス)、存在しているのです。言い換えれば「生きる意志」によって生存しえているということになる。

 余談ですが、私は、生物の生存本能は「生きる意志」の現れだろうと思います。どんな小さな虫でも、いや原生動物でさえも回避行動(生存本能)は認められます。
 著者の時間論は、動物植物以前の単細胞生物において既にその発生に時間の流れが関わっているというものですが、単細胞生物のそれ(生きる意志)を生存本能と言っても、あながち間違っていないと思います。
 先日読んだ『カナダ・エスキモー』に、著者が寝袋から出てパンパンと体をはたくと、シラミがパラパラと落ちてくる。するとそのシラミたちは、さーっと(まだ温かい)寝袋めがけて走っていった、という記述がありましたが、これも(意識などあるはずがない)シラミの生存本能(生の意志)のしからしめるところなのではないでしょうか。

 話がそれましたが、さらにつづけます。
 ところでそうしますと、植物はどうなのか。植物に生存本能ってあるのか。著者も植物に関しては「植物にも外界の認識があるかどうか」はここでは触れないとしています。

 閑話休題。
 生命体に「生きる意志」がめばえた(というか生きる意志が生命体を発生させた)のは、生命体の外環境がエントロピー増大世界だからです。
 もし外環境がエントロピー減少世界だったら(つまり時間が未来から過去に流れているのだったら)、それに抗して「生命体」である必要がないわけです。
 エントロピーは時間の流れが前提条件です。

 ところで、物理学では、時間の流れは、別に過去から未来に流れているとはいえないそうです。
 実は時間は、ミンコフスキー時空図に線で描かれているように、流れではなく、単に絨毯模様のようなものだそうです。
 でも生命体が生まれたのはエントロピー増大に抗するためですから、すべての生命体(の内部に流れる時間)は過去から未来に向かって流れている(逆はない)。だから我々(人間)は、時間を過去から未来の方向に流れるものとして認識するのです(人間以外に認識している生命体はない)。

 物理学的には(ミンコフスキー時空図のしめすとおり)絶対過去と絶対未来は対称的なのに、実際は未来は(過去のようには)見えていません(非対称)。
 なぜならば、生命体(内)の時間の流れは、上記のように過去から未来へと進みます。すると(ミンコフスキー時空図の)非因果領域も、それにともなって未来へ移動する。そうしますと原点の「私」に向かって未来からやってくる光は、常に非因果領域によって隠されてしまう。だから未来は私に対して不可視なんですね。
 なるほどひざポン! この部分、なんかイーガンみたいでコーフンしました(^^)

 

Re: hassy-world library発売!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月16日(水)01時00分24秒
返信・引用
  > No.6755[元記事へ]

 橋元さん
 あ、やっぱり。そうですよね(と言いながら実は全然わかっていない)(^^ゞ
 というか、そもそも虚数ってなんだっけ。負の数じゃないよね、というレベル。実感的にイメージできません(泣)

>修正の方法があればいいのですが……
 モノが関わらない電子上のデータですから、簡単に修正できそうに考えていましたが、そういうものでもないのですね。

 

Re: hassy-world library発売!

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年12月16日(水)00時06分36秒
返信・引用
  > No.6754[元記事へ]

管理人さま

>「物理学の多くのテキストは、時間軸を実数、空間軸を虚数として表現しているが」
>  は、
>「物理学の多くのテキストは、時間軸を虚数、空間軸を実数として表現しているが」
> の書き間違いではないでしょうか。

ご指摘の通りです。すみません。
修正の方法があればいいのですが……。なかなか万全とはいきません。
ご容赦のほどお願い致します。ペコリペコリ。

橋元淳一郎

 

Re: hassy-world library発売!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月15日(火)22時39分1秒
返信・引用
  > No.6753[元記事へ]

 橋元さん
>2冊の定価を逆に登録してしまい、
 そうでしたか。両方購入しましたので無問題です〜(^^)

>前回エッセイより少し物理っぽいかも知れません
 いやー歯ごたえ満点です(^^;
 しかたがないので、先生の『時間はなぜ取り戻せないのか』(PHP新書)の第4章「相対論とミンコフスキー時空」を読み返しているところです。
 ところで
「物理学の多くのテキストは、時間軸を実数、空間軸を虚数として表現しているが」
 は、
「物理学の多くのテキストは、時間軸を虚数、空間軸を実数として表現しているが」
 の書き間違いではないでしょうか。
 当然ながら科学的な知識から言うのではなく、論述の形式からそうじゃないかな、と思ったんですが。間違っていたら済みません。よろしくお願いしますm(__)m

 

Re: hassy-world library発売!

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年12月15日(火)21時24分11秒
返信・引用
  > No.6752[元記事へ]

管理人さま

拙著電子本、早速にご紹介下さり誠にありがとうございます。
じつは2冊の定価を逆に登録してしまい、変更にもたもたしておりました。
現在は、訂正された定価になっていると思います。
(2冊まとめてご購入頂いた場合は、合計同じなのですが(笑))
今回は、前回エッセイより少し物理っぽいかも知れません。ご容赦下さい。

橋元淳一郎
 

hassy-world library発売!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月15日(火)01時36分51秒
返信・引用
   先日お知らせいただいた橋元淳一郎さんの科学エッセイ集が、キンドルにアップされていました。さっそく購入しました!

 『物理の時間、生命の時間: 時間の流れの起源をさぐる』kindle
 『相対論の直観的認識について: 物理学とリズムに関するエッセイ集 』kindle

 明日から読み始めます(^^)

 

「憂国者たち」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月15日(火)00時33分22秒
返信・引用 編集済
  > No.6748[元記事へ]

 三輪太郎『憂国者たち』(群像2015年9月号)読了。

 主要登場人物は三人。とある総合大学の文学ゼミの指導教員の私(峯岸)。そのゼミ生で、三島に心酔し卒論にする予定の橘アカネ、同じゼミ生で、右翼嫌い(三島嫌い)にしてネトウヨのウォッチャーでもある鷲見恭一朗、
 物語は、卒論の切り口として三島とカラジッチを対照させることを思いついた橘(三島論)が、夏休みを利用して自費でボスニアに飛び(現地在住のOGに通訳を頼み)、カラジッチについて調べるうちに、かの地の歴史の重みに打ちひしがれていく話と、大久保通りでヘイトスピーチを吐く集団をウォッチしているうち、ひょんなことで「右翼をやめた右翼」の指導者と知り合った鷲見が、その指導者に三島(『豊饒の海』)について教えられ(三島論)、その団体に加わっていく話(『セヴンティーン』を想起させられました。著者も多分意識している)と、その二人の物語(二つの三島論)を聴く立場にある峯岸の話が、順番に交代々々に回っていきます。
 そのすべてのレベルで面白いのですが、ここでは教員・峯岸に焦点を当てたいと思います。
 峯岸の役割は、二人の学生の間で狂言回しをすることなんですね。
 まず読んで驚いたのは、近頃の大学の先生は、ここに描写されているのが一般的な姿なのだったら、大変だな、ということ。昔はゼミ生といえどもほったらかしでしたが、今は高校生並み(いや私の高校時代でもここまでではなかった)のアフターケアを学生に対してしなければならないようです。ある意味小心翼々としている(ゼミ室で橘と二人でいるとき、突然橘が泣き出す。峯岸は誤解されるのではないかと、慌ててドアに鍵を掛けに行くのです(^^;)、それを自嘲的に語ってはいるのですが、その時点ではまだ余裕がある。
 ところが、ゼミ生の二人は、それぞれに(わずか半年ほどの間に)社会と出会い、急速に成長していく。
 橘は三島の行為を「運命」として「法」などの範疇に解釈できないとする。一方鷲見は、「法」をアプリオリと無意識に認識していて、三島の行為は許されざることとする立場。
 峯岸は、「法」は運命に似ているが、実際は人間の作ったもので変更可能なもの。それを絶対としてしまうのは、いかにも現代の若者であるけれども、それは違うと考えていて、心情的には橘の方に寄っています。
 そして二人の学生は、その立場の延長線上に進化していく。
 卒論発表会で、橘の発表に対して厳しい質問しようとした鷲見を、峯岸は遮ろうとする。それは高校生教員並みの学生たちに心の傷を作ってはならないという教員としての行動なのですが、逆に橘に「先生、邪魔しないで」と規制される。ちなみにここで橘の三島論に鷲見を通して右翼指導者の三島論がぶつけられるんですね。
 それはさておき、鷲見は鷲見で、その質問の中で、峯岸から得たものはないが、団体指導者から多くの示唆を得たみたいなことを言う。
 峯岸にすれば、二人から撥ね付けられて、「えー、何でだよう」となっちゃう(笑)。上に狂言回しと書きましたが、狂言回しどころか、実はもろ道化役そのものなのでした。
 著者も大学教員のようですが、本篇の峯岸パートは、確実に著者の自己戯画化が入っていますね(^^;
 「さようなら」で終わった本文のページをめくると、そこには夕景にがっくりと肩を落とした峯岸の背中が見えます(笑)

 面白かったー!

 

Re: 人類の南米移住は18500年前?

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月14日(月)02時04分51秒
返信・引用 編集済
  > No.6749[元記事へ]

 橋元さん
 私が測った4万2000キロですが、下の地図のオレンジの線を通った場合です。
 この地図によれば、実際はソ連国境線(シベリア方面)じゃなくて、もっと南側、インド−ビルマを通過し中国を北上していったようですね。
 つまりオレンジ線と赤線でできる三角形の2辺を通って行ったわけで、4万2000キロよりもさらに5万キロに近い数字になりますね(^^)

>南緯41度30分で、かなり南の方です
 ちなみに北緯40度は岩手県北部を通っているので(北緯40度シンボル広場ってのがあるようです)、それからの類推でいえば、そんなに南という程でもないですね。
 Monte Verde遺跡からフエゴ島まで1700キロです。終点着は、そこからさらに340年後ということになりますね。ただの数字合わせですけど。
 まあ340年なんて、2万3000年と比べたら須臾の間ではあります(^^;

>今週中には2冊、刊行する予定でおります
 楽しみにしています!
    ↓クリックで拡大↓
 

Re: 人類の南米移住は18500年前?

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年12月13日(日)22時44分20秒
返信・引用
  > No.6746[元記事へ]

管理人さま

サイエンス・スキャナーの紹介と感想をありがとうございます。
5万キロというのはまったくの勘で、アフリカからベーリング海峡を経て南米までだと、地球1周より少し長いかなと思っただけです。地球儀で計測頂いて4万2000キロということで、当たらずと雖も遠からずでした。ありがとうございます。
遺跡の Monte Verde は、南米の最南端ではありませんが、チリの太平洋岸、南緯41度30分で、かなり南の方です。
連載、引き続き少しずつ掲載していきますので、よろしくお願い致します。
電子出版も紹介頂き、ありがとうございます。
今週中には2冊、刊行する予定でおります。

橋元淳一郎
 

「憂国者たち」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月13日(日)21時52分35秒
返信・引用 編集済
   山田正紀さんがツイッターで褒めていた、三輪太郎『憂国者たち』に着手。主人公の一人である女子大生による三島由紀夫論(?)が(一旦)終わり、三島ファンだったというセルビア人共和国元大統領カラジッチについて知るためサラエボに飛んだところ。
 三島の徴兵検査誤診逃げ去りの解釈がなかなか興味深い。ありふれたものなのか独自解釈なのか門外漢の私にはわかりませんが。
 ということで、「幻夢の邂逅」の当該部分を再読。
 横浜の大学のことはよく知りませんが、この大学は横浜市大がモデルではないでしょうか。学部構成が合わないけれど、横浜市内で医学部があるのは横浜市大だけ(たぶん)ということと、偏差値で。

 

「フィルシー!」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月13日(日)16時03分50秒
返信・引用 編集済
  「パパ・ブルース」も漸く飽きてきました。車BGMをこっちに切り替え。

  
 

人類の南米移住は18500年前?

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月12日(土)17時31分2秒
返信・引用 編集済
   【ハッシー君のサイエンス・スキャナー】第4回「人類の南米移住は18500年前?」がたいへん面白いです。
 ところで人類の南米到達って、どの地点に到達したことを指すのでしょう。南米大陸の入り口のコロンビア? それとも人類の最終到達地点であるフエゴ島?
 ハッシー先生は「アフリカから南米まではシベリア経由で5万キロくらいはあるのだろうか」と書いておられます。
 測ってみました。
 ただ地図帳では球面を無理矢理二次元にしていますから、大陸規模の距離は不正確。なので、地球儀に紐を当てて測ってみました。
 私の地球儀で、
 人類発祥の地アフリカ東海岸南部から、ユーラシア大陸は旧ソ連国境線をとおり、ベーリング地峡を渡りきったところまで、45センチ。
 アラスカからパナマ地峡をわたってコロンビアに入ったところまで、22センチ。
 コロンビアから人類の最終到達地点フエゴ島まで、17センチ。
 でした。
 ところが地球儀に縮尺が示されていません。
 地球の円周は約4万キロですから南極−北極は2万キロです。測ったら40センチでした。
 ということはこの地球儀、1センチが500キロです。
 アフリカからフエゴ島まで84センチですから、42000キロとなります。
 合わない? そんなことはありません。
 紐で測ったのより、人類はもっと(人間の腸のように)ウロウロしたでしょうからです。5万キロというのは妥当だと思います。
 ハッシー先生がどこを終点と考えたのか不明ですが、ここではアフリカからフエゴ島まで5万キロと考えておきます。
 さて、ハッシー先生は1年5キロという数字を推定されています。
 北米の端から南米の端まで、とは即ち、地球の円周の半分とほぼ同じです。つまり2万キロです。
 18500年前にフエゴ島到達と仮定しますと、人類が北米に進入したのは、その2万キロ前、つまり2万÷5=4000年前となります。
 18500年+4000年=22500年。
 おお、「人類がシベリアからアメリカ大陸へ渡ったのは、早くとも23000年前だとされている」という記述とほぼ合いますね(^^)
 面白い!!

 ところで、人類の最終到達地点はフエゴ島と書きましたが、本当に終着点だったんでしょうか。その先には進まなかったんでしょうか。

 先日私、本多勝一『カナダ・エスキモー』を小6か中1で読んだ、と書いたと思いますが、その今から50年近く前に読み終わったとき、北極に住む人類がいたのならば、南極に進入する人類がいたって構わないのでは? と空想したのです。
 で、調べたらフエゴ島にヤーガン族というのがいたことを知りました。
 このヤーガン族の分派が、ドレーク海峡をわたって南極パーマー半島(グレイアムランド)に渡っていた可能性があるのではないか。だってエスキモーはアラスカ到着後南へ向かわず、わざわざさらに極寒の北極海沿岸に拡がったのですから。
 きっと何波かにわたって侵入を試みたのではないか。ただ現実としてはその都度全滅したんだろうと考えたようです。
 で、南極に渡ったヤーガン族を、こんな空想図に残しているんですね(^^;
 凧の図は意図不明で、他の設定が紛れ込んで保管されていたのかもしれません。ただフエゴ島は狂風地帯で、時速50キロ位の強風がざらに吹いているので、それを利用したという設定だったのかも。もう憶えていませんが。
 検索していてびっくり。いまやヤーガン族は一人しか残っていないらしい。なんと(ーー;
 ヤーガン族が極寒の環境なのに裸族みたいな記事が散見されるのですが、エスキモーだって基本裸族。アノラックの下は素っ裸なんです。極寒に適応するのが裸というのは奇習でも何でもなく、合理的なんですねえ。
 
 
 

 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月12日(土)13時41分42秒
返信・引用
  > No.6744[元記事へ]

段野さん
 人の縁は面白いですね。ネット時代になって、それが以前と比べて格段に拡がっちゃいましたよね。といってもまだjapan onlyにとどまっており、worldwideまでは行ってませんが。

 それにつけても、浜村淳さんといい黒柳徹子さんといい、水際立った話術でいらっしゃった方は、その落差がとりわけ激しく感じられて辛いところがあります。

 

Re:SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2015年12月12日(土)10時49分52秒
返信・引用
  管理人様
私のつたない、それもテープ切れの録音のことが、このように、いろいろと波及しているんですね。不完全な録音でしたが、次々と新たな事柄に変化していきまして、色んな方へとつながっていくのですね。驚きです。それと、新しい事柄を教えて下さった方、嬉しいことです。今も関心をもって見ておられたことは、不完全なりにも情報を提供できたことを嬉しく思います。ありがとうございました。
 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月11日(金)22時36分6秒
返信・引用 編集済
  > No.6741[元記事へ]

 junさま
「消える」の録音漏れ部分についてのご教示、ありがとうございました。感謝感激です。
 実はあの書き込みの後、それをご覧になった方のご厚意で、完全版を入手することができました。ここ
 またこういう情報を下さった方もおられました→ここ
 jun様にしろ、他の方にしろ、掲示板をやっていますと、見ず知らずの方からのご厚意に感激することが多くあって、続けてよかったなあと思うことしきりです。
>明石家さんまさん初め、大御所の出演者の若い声には感動です。
 本当にそうですね。懐かしいです。少し前にも聞き直したのですが、浜村淳さんが本当に昔の声なんです(当たり前ですが)。現在よりも当時の声のほうがご本人らしかったです(>おい)(^^;
 なにはともあれ、本当にありがとうございました。

 

Re: 再読御礼

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月11日(金)22時17分59秒
返信・引用 編集済
  > No.6740[元記事へ]

 かんべさん
 楽しませていただきました。ありがとうございました。
 不思議だったのは愚行の数々(笑)がよく似ていることで(だからこそいろいろ思い出されたのですが)、よく似ているというよりも、むしろ関学生の行動パターンがだいたいこんな感じだったということなのかな、とも思い直したりしていました。伝統?(^^;
 グループの友人に一緒によく遊んだ女の子がいまして、帰り道が同じで(2年生のとき以外は自宅通学だった)、夜10時に上ヶ原を出発しないと終電に間に合わないのですが、毎日のようにふたりで坂道を駆け下りて今津線に飛び乗ったものでした(ギリギリまで遊んでいるので)。
 ところがその子が、3年のとき社会心理学のTゼミに入っちゃったのです。すると完全にあっちに同化してしまって、さびしい思いをしたものでした。ゴーさんとまったく同じパターンです。あそこの結束は半端じゃなかったですよね^^;

 

Re: SFオムニバスドラマ「消える」

 投稿者:jun  投稿日:2015年12月11日(金)20時54分36秒
返信・引用
  > No.4330[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

本日、昔のカセットの電子化を行っていて、この番組の全部が残っており(母子像だけは強烈に記憶してました)いつごろの放送か知りたく、ネット検索したら、ここがありました。米朝師匠の話は、調査ボーリングをしていたら、急に日本が動き出し、アメリカの軍艦が調査したら日本列島の下に大鯰が居て(と言うより上に日本があった)ボーリングの痛みで日本を乗せたまま動き出したというもので、昔のナマズが騒ぐと地震はこれだったと言う様なおちでした。
すでに情報を得られていたかもしれませんが、ご報告まで。明石家さんまさん初め、大御所の出演者の若い声には感動です。
 

再読御礼

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2015年12月11日(金)11時00分28秒
返信・引用
  「上ヶ原〜」、いろいろお書きいただきまして、ありがとうございます。
元町のガード下の怪しい喫茶店は、グリコの直営店でした。
初版時に読んだ知り合いが、「あれ、グリコやろ。すぐわかった」
と言ってましたから、それなりに有名な店だったんでしょうね。
「そごうへ、いそごう!」 言うてへん。言うてへん。
あの淡くも瑞々しい場面で、そんなアホなこと言いますかいな。
それにしても、青春は遙かに遠くなり、朱夏も白秋も過ぎて、
いまや玄冬でございますな。春はまた巡ってくるのでせうか。嗚呼。
 

Re: キュウリはユニセクシャル

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月11日(金)01時35分51秒
返信・引用 編集済
  > No.6737[元記事へ]

               ↓クリック↓
 

 橋元さま
 ご教示ありがとうございます。駄法螺話にご反応くださり恐縮しております。なるほどたしかに多様であることは生存にとって有利ですよね。
 ユニセクシャルの意味、私、間違って理解したかもしれません。
 単為結果(受精が行われずに子房壁や花床が肥大して果実を形成すること:wikipedia)によって雌だけで子孫を残していくものをいうのだと考えていました。(で、雌がデフォルトのところに突然変異で雄が生まれると思い込みました)

>自家交配よりは他家交配、さらにはユニセクシャルが断然有利なように
 他家交配は両性の存在が必須ですよね。ユニセクシャルが、それと同様に「自家交配」より有利ということは、ユニセクシャルとはバイセクシャルに対しての言葉で、雌雄があり空間的に離れているという意味で、結局他家交配と事実上同じということでしょうか。基礎的な素養がなく申し訳ありません。

 2冊の新刊も楽しみにしております!

 

「上ヶ原・爆笑大学」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月11日(金)00時11分12秒
返信・引用 編集済
  > No.6734[元記事へ]

 かんべむさし『上ヶ原・爆笑大学〈新版むさしキャンパス記〉』(クリーク・アンド・リバー社15、元版98)読了。

 承前。前回書き忘れたことがあります。前回、メモノートに記された瑞々しい青春小説のごとき記述から引用しましたところのそごう云々は、喫茶店での会話なのですが、その喫茶店が、日本では珍しい前金制だったんですね。それでちょっと戸惑った後の会話――

「何か変ですね。もしかして、秘密組織のアジトと違うかしら」
「あのウェイターが諜報部員かね……」


 これ読んだとき即座に思ったのが、サイモンとガーファンクルの「アメリカ」。
 詞の中に、バスに乗っている男女(恋人同士?)のこんな場面があります。

  Laughing on the bus
  Playing games with the faces
  She said the man in the gabardine suit was a spy
  I said "Be careful his bowtie is really a camera"

  バスの中では、笑ったり顔をくっつけてゲームをしたりしていた。
  彼女が言った。「見て。あのギャバジンスーツを着た男、スパイかもよ」
  僕は言った。「気を付けろ。彼のボウタイはカメラだぞ」

 喫茶店でふたりは、どちらも「アメリカ」の曲を知っており、歌詞を踏まえての ”高級な” 会話を交わしているのだと思ったわけです。
 これは(時系列から推測するに)著者が大学二年の冬休みのときのお話なんですね。ですから1967年12月です。
 で、このときすでに「アメリカ」が日本で発売されていたかどうか。それを調べようと思ったまま、うっかり忘れてしまって、書き落としちゃったのでした。
 調べました。「アメリカ」のシングル盤は1971年日本発売ですが、もともとはLP「ブックエンド]に収録されていたものです。「ブックエンド」は68年2月リリースでした。
 あらら、3か月も前の話でしたか。(でもこのエピソードが3年生の冬休みの可能性もあると思います。いつの出来事か明記されているわけではないので)

 以上まえがき、以下本題。

 その前に、電書版のOCR読み取りミスと思われるところ。
 矢野徹さんのインタビューからの抜粋ですが、「キャンパス記」では、インタビューの頭に「――」が付いているのですが、電書版ではなくなっていて、ふつうに一マスあけで始まるカタチに結果的になってしまっています。(――がないので、地の文が続いているように勘違いします)
 私が石原さんの『海洋未来物語』をOCRにかけたときも同じ現象が起こったので、読み取りミスだと思います。(こちら
 同じく「「傍観」者部分のメモを、数ヶ月分みつくろって並べてみることにしよう」(いま気がついたが、「数ヶ月」も元版では「数か月」ですね)として、列挙される部分、「・」が「*」に変えられています。これは意図的でしょう。技術的な問題で変更されたものでしょうか。

 ということで感想なんですが、初読時の『むさしキャンパス記』の感想と同じになってしまいますね。
 著者は、大学生活を謳歌したことにおいて後悔も何もなく甘美な思い出として記憶しているのですが、それを肩口から眺める(執筆時点の)著者がいて、その視線は冷ややかなんです。それが私にはとてもよく分かるんですよねえ。
 また卒業後念願の広告業界に身をおいた著者の、その業界――というよりも業界を成立させている(資本主義?)システム――へのアンビバレントな思いも。
 この感覚も、実は私にはたいへんよくわかるんです。私自身は卒業後、大規模小売業に就職して、著者のそれとは違いますが、同じように消費者をコントロールして利益を得る片棒を担いでいた。その仕事自体は(虫瞰的には)とても面白くやりがいのあるものでしたが、職位が上がって虫から鳥までは行きませんが、キリンくらいの視点を要求されるようになるにつれ、しだいに虚しさが増していったものでした。その感覚は、本書のイイザワ氏にもあったのではないでしょうか。
 だからといって、そこからここで結論を出そうというのではありませんけど。そんな場でもありませんし。
 なにはともあれ、本書を読んでいると、まざまざと自分の学生時代のいろんなシーンが過去から引きずり出されてきて、一種息苦しいほどでした。ヨイショでも何でもなく、すぐれた青春記の一冊であると思いました。


 

Re: キュウリはユニセクシャル

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2015年12月10日(木)22時32分29秒
返信・引用
  > No.6736[元記事へ]

管理人さま

サイエンス・スキャナーのご紹介ありがとうございます!
生物学は門外漢なので確かなことは言えないのですが、自家交配と他家交配を比べると、遺伝子の多様性という点では、断然、他家交配が有利なのではないでしょうか。自家交配というのは、内々の遺伝子を混ぜるわけですから、性のない単為生殖とくらべてさほど有利とは思えないのですが。
性を遺伝子の多様性の有利さによる自然選択の結果と考えるなら、自家交配よりは他家交配、さらにはユニセクシャルが断然有利なように思います(相手が見つかればの話ですが(笑))。
 

キュウリはユニセクシャル

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 9日(水)17時34分23秒
返信・引用 編集済
   橋元淳一郎さんのブログで連載が始まった「ハッシー君のサイエンススキャナー」ですが、今日アップされた第3回「キュウリはユニセクシャル」が想像力をそそられてたまりません。
 もともとキュウリはユニセクシャル(メスがデフォルト?)なのだが、突然変異でオスに性転換するのだそうです。
 これを人間に当て嵌めれば、女が先で男が後ということになります。
 つまり聖書の記述は逆だったわけです。
 しかしこうも考えられます。
 人間は一般的な植物同様、最初は雌雄同体、すなわち両性具有だったとしたらどうでしょう。
 両性具有体から突然変異で男が誕生した。としましょう。
 それまで自家受粉(自家交配)していた両性具有体に対して、男が他家受粉させる場合が出てくるはずです。
 他家受粉のほうが雌雄同体にとって、なにか有利な条件があるとしたら、自家受粉可能なのに、次第に他家受粉を受け入れる個体が増えてきます。
 それが一般化しますと、両性具有者の男性機能は使用されなくなって退化していくはずです。
 女は、こうして誕生したのではないでしょうか。
 ここで興味深いのは、両性体に自家交配より他家交配を選択せしめた契機であります。一体どんなよいことがあったんでしょうか。謎です(^^ゞ

 

セキュリティソフトが無効になっていた

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 8日(火)23時03分33秒
返信・引用
   マカフィーの週一のスケジュールスキャンが、ここ二週間ほど起動してなくて気になっていました。今日それを思い出し、開けてみたところ、20分後くらいから始まるという表示。それで安心していたら、ふと気がつけばその時間を過ぎています。で、また開けてみました。また20分後くらいから開始となっています。
 おかしい、と思い、手動でスキャンを起動してみました。動きません。
 ひょっとして、と思ってmsconfigから、システム構成→サービスに行ってみたところ、「無効」になっていました。
 実は思い当たることがあって、先月の後半、重くなる原因の、自動で立ち上がる常駐プログラムをばしばし無効化したんでした。
 そのとき、誤ってマカフィーも無効化してしまったのかもしれません。スタートアップを無効化しただけのつもりだったんですが。
 有効にし再起動してから、手動でスキャンをかけたら、無事走り出しました。ほっ。

 

「上ヶ原・爆笑大学」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 8日(火)20時58分37秒
返信・引用 編集済
  > No.6733[元記事へ]

 『上ヶ原・爆笑大学』は、文庫版でいうと190頁まで。
 なぜ文庫版でなのかといえば、電子版を読みながら気になるところを文庫版でチェックしているからなのです※。
 なぜそんなことをするのかといえば、あれ、こんな表現もともとあったっけ、新たに付加したんやろか、とか、思う箇所がたまにあるからです。で、文庫版に当ってみますと、ちゃんとあるんですなこれが(汗)。人間の記憶のなんと不確かなことでありましょうか。
 そういえば思い出しました。先に『決戦・日本シリーズ』の電書版を読んだとき、ミスを発見したんです。
 神戸市生田区(現中央区)に北長狭通という住所があるのですが、「まわる世間に」で、「神戸市生田区北長挾通スナック「トンボ]前の駐車禁止標識」となっていました。
 あ、これは明らかにOCRの読み取りエラーだな、と思いました。こういう微妙な読み取りエラーって、よく起こるんですよね。
 で、文庫版と対照してみたわけです。ところが文庫版も「北長挾通」だったのです。なんと元版の誤植が、そのまま電書版に残ってしまった例だったんですね。対照して読むと、こんな発見があったりして、タノシイですー(>おい)m(__)m
※といってもごくテキトーで、たとえば外読み中のように手許に文庫がないときはやっていません。

 閑話休題。不満をひとつ。「あわーい昔とひどーい今」の章に、まるで青春小説のワンシーンみたいな、瑞々しい記述があります。引用します。

「妹のおみやげ買うの、つきあってくれますか」
「ああ、いいよ。どこで買うの、地下街?」
「いえデパート。地下の上の」
「そごうね」


 惜しい。そこはぜひとも「そごうね。じゃ、いそごう。そごうだけに」と言ってほしかった。いやいや、ここシュッとした文章にしてますが、実際は言ったんじゃないんですか。そんな気がしました(^^;

 

「上ヶ原・爆笑大学」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 7日(月)23時18分57秒
返信・引用 編集済
   かんべむさし『上ヶ原・爆笑大学』(電子書籍版)に着手。ちょうど半分くらい。電書は今どの辺かを言うのが難しいですね。徳間文庫版『むさしキャンパス記』でいえば130頁あたりです。
 つまり本書(厳密には本書の元版)は『むさしキャンパス記』(79)の増補新版なのです。98年に別の出版社から再刊されるにあたって、書名を上記タイトルに変更し、若干の手直しと<新版追記>が加えられたそうで、当電書版は、その増補改訂版を電子書籍化したものです。
『キャンパス記』を読んだのはそんなに前でもないのですが、かなり忘れていました。忘れたというよりも、初読時に上滑りしてしまった部分かもしれません。
 私も一年のときは自宅から通ったのですが、著者と同じで、友人の下宿で遊び呆けているうち、その楽しさにとらわれてしまい、自分も下宿したくてたまらなくなり、ついに二年の時、下宿してしまいました。
 で、著者たちのたまり場となっていた下宿は、高等部から聖和女子大へ下っていく道沿いにあったらしい。ここ、初読時に読み落としていたようです。実は私も、その道沿いに下宿したのでした。
 我が下宿も、農家が下宿屋として庭(?)のはなれに作った2階建ての建物で、道路の、聖和方面に向かって右手にありました。その奥は田んぼだった。
 本書の記述では道の向こうが田んぼで、遠くに聖和や神戸女学院がみえるとなっていますから、著者らの下宿屋は道路の左手だったのではないでしょうか。
 いずれにせよ薄汚い4畳半でした。それで今、思い出しました。ときどき、乞食小屋かと思われる部屋に住んでいる夢をみるのですが(いやめったにないのですが見ると同じ部屋だと気づく)、あれは当時の下宿屋の変形イメージに違いない。今気づきました(^^;

 

老いの繰り言

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 6日(日)20時49分39秒
返信・引用
   最近は食が細ってしまって、マクドナルドのセットメニューは、食えないことはありませんが、ポテトは余分やな、という感じです。昼飯としてならこれくらいどうってことないのですが、3時頃おやつ代わりに食べることが多いので。
 ですからセットじゃなく、単品でコーヒーと、あとハンバーガー一個を注文します。ハンバーガーも、メニューの中ではカロリーが低そうな、白身魚のフィレオフィッシュか、レタスの入ったベーコンレタスバーガーを注文することが多いですね。ファミレスにはメニューにカロリーを書いてあるところがありますが、マクドもやってほしい。
 年寄り向けにもっと軽いメニューはないのか、と常々思っていたのですが、最近、新商品で、ハムレタスバーガーというのが発売されて、これは重宝しています。
 しかし全体に若者向けなのは否めず、最近の業績低迷にはいろんな原因があるんでしょうが、人口ボリュームのある団塊世代やその下の我々の世代が上記の理由でマクド離れしていっているのも、その原因の一つではないのかな、と思わないでもありません。
 そうしますと、これは出版業界と同じ問題なんですね。何となくの印象なんですが、時代小説文庫に力を入れている出版社は比較的元気そうです(双葉文庫とか)。一方、若い世代をアニメ絵やオタク的ストーリーで取り込もうとしているところは、苦しんでいるように見えます(ハヤカワとか)。
 その傍証になるかどうか、ブックオフの棚を見たら一目瞭然ですが、時代小説のコーナーがどんどん広がってきているではありませんか。いまや日本作家文庫棚の3分の1から4分の1が時代小説によって占められている現状です。いうまでもなく時代小説のメインターゲットは年寄り、具体的には団塊世代とその直下の世代です。この世代はもともと読書を習慣とする世代で、年々死亡により減少していってるといえどもまだまだ分厚い人口を擁しています。
 ウィキペディア日本の人口統計の図を加工したものです。(2013年現在)
 
 ヤングターゲットとして想定されるであろう15歳から24歳の人口は1225万人。時代小説がターゲットとしているであろう60歳から69歳の人口は1836万人。前者は後者の7掛けにも満たない。
 一目瞭然ではありませんか。(ちなみに前者を森優さんが初めてターゲットとしてSF文庫を立ち上げ大成功を収めたわけですが、人口構成比が今とはまぎゃくだったのですね。過去の成功例を真似るのは有効な手段ですが、これはダメです。国書が意外に成功しているのは、実質的に中年以上が反応する本を出しているからだと思います)
 アニメ絵をつけてオタク向けの物語を売ることのいかに労のみ多く実り少ないことか。
 ということで、マクドナルドも、もう少し老年世代に目を向けてほしい。鮭の塩焼きバーガーとか肉じゃがバーガーとか、考えてもいいんじゃないでしょうか(>おい)(^^;

 以上まくら、以下本題。

 まえがきがえらい長くなってしまいました。
 ああ、若い時にチャレンジしておくべきだった、と最近特に思うことがあって、それは王将の餃子10人前制限時間内に完食したら無料なんです。
 今でこそ上記のようなていたらくですが、昔は食いだめできるタイプで、いくらでも食べられました。眉村さんもよくうどん早食い競争のことを書いておられますが、私も結構大食いで早食いだったです。
 中学高校の頃、王将の餃子10人前制限時間内に完食なんて軽い軽いと思っていたんですね。
 実際、王将に行けばラーメンに餃子3人前があたりまえ。
 ただ10人前挑戦となると、とたんに餃子一個の大きさがデカくなるという噂は聞いていました。それでもなんとかなるような感覚は持っていたのですが、一人で挑戦する勇気はなかったんですねえ。誰かと一緒なら絶対にトライしていたはずです。でも、誰もその話に乗ってくれなかったのです(というか友人を誘ったこともなかったと思います)。
 30歳位までなら自信がありましたね。でも今となってしまえば、もう無理無理。
 一度くらい腕試ししておきたかったなあ、と悔やむことしきりなのであります。
 

 

西荻窪で中井英夫展

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 6日(日)01時24分38秒
返信・引用 編集済
   杉並区西荻窪は、『黒鳥館戦後日記 西荻窪の青春』という書名の示すように、戦後の数年間、中井英夫が住んだ町です。
 その西荻窪で、「戦後70年中井英夫西荻窪の青春展」が始まっています。
 この展示会、ちょっと変わっていまして、複数の場所で、開催期間も微妙にずれながら行われるみたいなんです。
 ややこしいので整理しておきましょう。

□杉並区立西荻図書館(杉並区西荻北2丁目33-9): 12/4(金)〜 2016/1/6(水)
□ガレリア青猫(杉並区西荻南2-21-8):12/5(土)〜 12/14(月)
□盛林堂書房(杉並区西荻南2丁目23-12):12/5(土)〜 12/31(木)
□西荻案内所(杉並区 西荻北3-18-10): 12/19(土)〜 12/26(土)

※ガレリア青猫では、12/13に東雅夫さんのトークイベントが行われるのですが、既に定員に達し〆切られたようです。ご注意。

 それぞれ特徴を出した展示がなされているようなので、興味のある方は、ぶらり散歩がてら、ひとめぐりなさってみてはいかがですか?
    ↓クリックで拡大↓
 

イーグルスのホテルカリフォルニアを翻訳して歌ったら何だか呪いの館のようだ!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 5日(土)18時03分12秒
返信・引用
 
 
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少年ドラマ「なぞ転」に採用された「デスペラード」

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 5日(土)00時31分54秒
返信・引用 編集済
   ユーチューブを行き当たりばったりに視聴していたら、カーペンターズの「デスペラード」が引っかかりました。
 それで思い出したのが、NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」です。その第一回(75年11月15日放送)、岩田宏一が自室のベッドに寝転んでいるシーンで、ラジオからこの曲が流れていましたよね。
 いうまでもなく「デスペラード」(邦題「ならず者」)はイーグルスのオリジナル曲。73年のLP「ならず者」に収録されたのが初出です(本国版73年4月17日リリース)。
 カーペンターズが「デスペラード」をシングル発売したことはないので、LPに収録されていたんでしょう。
 73年4月17日〜75年11月15日の間に、カーペンターズが発売したLP(スタジオ録音盤)は、ウィキペディアによれば、「ナウ・アンド・ゼン」(本国73年5月9日、日本盤6月25日リリース)と「緑の地平線〜ホライゾン」(1975年6月6日*リリース)の二枚だけです。(*本国発売日か日本発売日か記載なし。しかしオリコン週間LPチャート6月30日から7月28日まで連続第1位となっているので、同時発売だったのかも)
 収録曲を確認したら、「緑の地平線〜ホライゾン」に「デスペラード」が収録されていました(邦題「愛は虹の色 (デスペラード)」)。
 「なぞの転校生」第1回の収録がいつ行われたのか、調べていませんが、おそらくLP発売後数か月以内だったに違いありませんから、本当にホットな新曲を取り込んだわけです。スタッフにカーペンターズファンがいたのでしょうねえ。なかなかのセンスですね(^^;
 

 

「署長刑事 徹底抗戦」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 4日(金)21時32分20秒
返信・引用 編集済
  > No.6727[元記事へ]

 姉小路祐『署長刑事 徹底抗戦』(講談社文庫、14)読了。

 シリーズ完結編です。
 うーん。本書のテーマ(背景?)は、大阪地検内部の東京(中央)派と大阪(関西)派の派閥対立(という構図がある)ということなのかな。
 例の改ざん事件(09)をきっかけに大阪地検(と名古屋地検)特捜部を解散または東京に統合し、最高検察庁に移管再編成しようという案が、政府の「検察の在り方検討会議」(10)で実際に検討されたようです(wikipediaによる)。
 これに危機感を持ったのが関西派で、それは官僚組織特有の縦割り構造にまみれた感覚からいえば軍門に下る感覚だったんでしょう。

[ついでにいえば名古屋地検特捜部が96年に創設されたのも派閥対立が根本にあり、中核革マルと同じで2派拮抗だと対立が激化するんですね。それを憂えた検察有志によって出されたのが第3極案。つまり3派鼎立だと、今度は「三すくみ」になる傾向があるんだそうです(本書による)。そこで名古屋特捜が、第3極として、21世紀も間近に迫った96年に創設されたのだとします(なお古今堂の父親は元検事で、この第3グループだったようです)]

 閑話休題。関西派としてはなんとかして汚名挽回し、やはり大阪に特捜は必要という気分を醸成したい。そこで、最近強引なM&Aで悪名を馳せるばかりか、現役国立大生で才色兼備のアイドルタレント提さおりとの婚約発表し一般的知名度も急上昇したファンド会社社長金倉盛一をターゲットにする。
 創業以来の専務が、インサイダー取引を検察にチクったのです。この専務、金倉が自分を放り出そうとしていると気づき、それならと開き直った。特捜にすればこんなうまい餌はない。
 金倉とさおりが婚約旅行から帰国した空港で、さおりファンが大勢詰めかけている中、金倉を逮捕するというド派手なパフォーマンスをします。
 ところが――公判を支える証人である専務がとつぜん古今堂らの護衛を振りきって逃亡するのです。証人がいなければ公判を維持することはできない。検察は金倉を釈放し、公訴を取り消す。
 大失態です。大阪地検特捜起死回生の大捕り物だったはずが、さらに自らの首を絞めることになったのです。
 起訴しても負けてしまえば、後で新証拠が出たとしても「一事不再理」で再告発はできない。もちろん別件で告発することは可能ながら、一度そうなった案件に再チャレンジするのは、もう失敗は許されないという心理的抵抗感があってなかなか踏み出せない傾向がある。
 金倉は検察が自分をターゲットにしたことに気づき、あえて検察に起訴させようと企んだ可能性が浮上する。
 ところがこの急展開に、古今堂は、中央派による大阪派潰しの陰謀の匂いを嗅ぎ取る。
 古今堂に、大阪派からも中央派からも、派閥に加わらないか、との誘いが(府警にも、地検とゆるやかに連携する二派が存在するのです)……。

 ということで、本書の主題は官僚組織特有の派閥抗争が、本来の職務に優先している現状を告発するものです。
 で、古今堂は最終的に一匹狼を貫くのですが、「もう出世は諦めなければいけないぞ」と脅される。もちろん古今堂は出世をしたくて警察官になったのではないので、全く痛痒を感じない。
 これはこれで一本筋が通っていますが、私が思うに、それでは官僚組織特有の腐敗に対しては、なにもよくする方向に影響をあたえることができないのではないでしょうか。
 その点がこのシリーズに対する私の不満なんですねえ。
 本来キャリアは、一年で警察庁に戻されるのですが、古今堂は、イルミネーションの輝く御堂筋を眺めながら、派閥に刃向かった自分はもう、「4月になっても、警察庁に戻ることはないかもしれない」と思う。
 そして「来年度も現場でいい。できれば、この中央署の署長に留任したい」と心の中でつぶやくのですが、あんさん、それは違うのやおまへんか。それだったらノンキャリアで(地方採用で)警官になればいいわけです。
 大山鳴動して鼠一匹とは、こういう場合には使えないんでしょうか(^^;

 

「署長刑事 徹底抗戦」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 3日(木)22時18分14秒
返信・引用 編集済
   同じテーマの本を集中して読みますと、相乗効果で記憶が強化されますよね。
 ということで、もう1冊くらいエスキモー関係の本を読みたいな。そういえば『エスキモー極北の文化誌 』という岩波新書があったはず。と探したのですが、出てきません。この本、1987年刊行なので、『カナダ・エスキモー』から25年後、エスキモーはどう変化したかがわかると思ったのですが。
 しかたがないので、諦めて『署長刑事 徹底抗戦』に着手しました。240頁まで。今回は村上ファンドのような株を買い占めて高値で買い戻させる方法で急成長した強欲投資会社の社長を、インサイダー取引容疑で大阪地検特捜部が身柄を確保するも、特捜にチクった同社専務が行方不明になる。カギとなる証人が行方不明では公判が維持できないと釈放される。ところが釈放された社長が殺されてしまいます。かの大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件で味噌をつけ、(かつて大阪警視庁が廃止されたように)組織存亡(東京へ吸収)の危機に立たされた地検特捜の、焦りが招いた失策か。面白い。

 

Re: (無題)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 3日(木)20時56分19秒
返信・引用 編集済
  > No.6725[元記事へ]

 雫石さん

>今回も面白く読めました。ご本人が意識するほどアラはきになりませんでした。
 私も再読する前は、ちょっと苦しいんじゃないかという先入観がありました。
 というのは、著者の初期の文体は、案外みちっと稠密なんです。かろやかというよりはリングの中央で足を止めて撲ち合っているイメージです。ギャグもそうなんです。ダジャレもありますが、ダジャレはヒットアンドアウェイなんですが、著者のギャグの本質は、理詰めに突き詰めていく過程で生まれる笑いですよね(実は北杜夫の笑いも(こちらは理ではなく文体ですが)同類項です)。
 北杜夫が一時の圧倒的な人気がなくなった理由の考えられる中の一つに、足を止めて撲ち合うスタイルが、ヒットアンドアウェイで育った近年の読者に(年寄りもそうで最近の作家のヒットアンドウェイ的スタイルに馴らされてしまって)受け入れられなくなったことがあるのではないかと思っています。
 としますと、同様の構造を持つかんべ初期作品もまた、(私も含めて)最近の読者には苦しいのではないか。
 そんな先入観をもちました。
 ところが再読してみたら全然そんなことはなかったです。
 その理由を考えてみるに、一見みちっと詰まっているのですが、さらに視点を近づけてみると、(純文的文体がそうであるように)構成要素が混ざり込まず、きっちり区分けされ整理されて並んでいるんですね。だから「読める」のですねえ。
 ※追記。ついでにいえば、この特質は、著者の文体が「非純文的」だということです。非純文的な文体なんですが、それに盛られる内容は「非SF的」なんです。と書くだけでは語弊が生じますね。つまり「主流文学的」(という言葉がいまも通用するのかどうかは知りませんけど)なのです。一方同じく落語の影響が強くユーモアSF作家と言われたヨコジュンは、内容も「SF的」です。両方並べて眺めると面白いです。
 閑話休題。このような文体は、やはり推敲を重ねて生まれるものだと思います。一気に書いて全然推敲しない作家もいるんでしょうが、著者はそのタイプではないのでしょう。理屈っぽい内容が、こんがらがらず、きれいに区分けされて時系列に並んでいるので、読者にストレスなく受け入れられるのだと思いました。その意味で北杜夫のスタイルは古びましたが(「さびしい王様」のまえがきは当時笑いすぎて死にかけましたが今の読者にはウケないと思います)、かんべスタイルは(当然時代に即して変化していますが)永遠に不滅ということですね(^^)


 

Re: (無題)

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2015年12月 3日(木)09時05分2秒
返信・引用
  > No.6722[元記事へ]

「決戦・日本シリーズ」ですが、私が星群の会ホームページに連載している「SFマガジン思い出帳」
http://seigunonline.web.fc2.com/archives.htm
次回104回目(近日更新予定)は1975年1月号です。「決戦・日本シリーズ」で、かんべさんがデビューした号です。このコラムを書くため、この号を読み直しました。もちろん「決戦・日本シリーズ」も40年ぶりに読み直しました。
かんべさん、今年の2月の大手前大学での講演
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/7b1ab470450b70e6dc36687293e95446
では、さかんに恥ずかしがって、嫌がっておられましたが、今回も面白く読めました。ご本人が意識するほどアラはきになりませんでした。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

Re: な、何と!

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 2日(水)23時08分35秒
返信・引用
  > No.6723[元記事へ]

 アメブロの通報フォームから削除依頼しておきました。

>「上ヶ原〜」 キンドルで公開されました。よろしく。
 お知らせありがとうございます。さっそくグーグルプレイブックスにて購入しました(こっちのほうが安かったので)(^^;
 いま読んでいるのが終わったら読ませていただきます!

 

な、何と!

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2015年12月 2日(水)21時38分52秒
返信・引用
  してへん。してへん。そんなの、了解してまへんで〜!
著作権法も何も、あったもんやおまへんな。
SFファンかもしらんけど、最低ですな。
あ。「上ヶ原〜」 キンドルで公開されました。よろしく。
 

(無題)

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 2日(水)13時50分35秒
返信・引用 編集済
   アメブロで「決戦・日本シリーズ」を、全文コピペして公開している人を見つけました。大胆すぎます。さすがにこれはあかんでしょう。
 日付を見たら2011年。当時は絶版状態だったので情状酌量の余地が(かすかに)あったかもしれませんが、電書で復刊されましたからねえ。
 ブログ主は当時の絶版状況への抗議の意味を込めているのかもしれません(「あとがき」(!)にもそんなことは書かれていないけど)。
 電書での復刊を伝えようか。
 しかし私が眉村作品をアップしているように(もちろん出版されたものは削除しています)、了解を得てなのかもしれないと思いとどまりました。

 

「カナダ・エスキモー」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 2日(水)00時28分54秒
返信・引用
  > No.6714[元記事へ]

 本多勝一『カナダ・エスキモー』(講談社文庫72、初刊63)読了。

 承前。前稿でも触れたように、著者とカメラマンの藤木氏(関学OB)が「住み込んだ」ウスアクジュ部落も、伝統的なエスキモー社会からすれば文明に晒され変質していたのです。
 住居は雪の家イグルーではなく、雪洞をテントで覆うものになっています。これは雪の家地帯に、「DEWライン」(distant early warning line)すなわち北極圏のレーダー基地前線ができたためです。基地と基地の間は近くても100キロメートル以上離れ、基地の人間はエスキモーとは没交渉なのですが、100キロメートルなんて犬ぞりを駆使して狩猟するかれらには庭みたいなもの。基地で不要になったドラム缶や古テント布が持ち去られ、あっという間に伝統的なイグルーは消え去ってしまう(但し長期の狩猟に出る場合、仮住居として作られる)。
 この段落を読んであっと思ったのですが、瀬名秀明の「不死の市」(SFJACK所収)は本書を参考にしたんじゃないでしょうか。話はそれますが、この瀬名作品、設定がなかなか面白いのでシリーズ化してほしいものです。
 閑話休題。ウスアクジュのような、それでもまだ伝統的な生活を保っているところでは、人々はこすっからく(?)活き活きと生きています。この当時でさえ、白人社会と接している(工場に雇われたりして伝統的生活を放棄した)エスキモーたちの退廃ぶりは目を覆うものがあります。
 こすっからく、と書きましたが、ちょっと言葉がすぎました。エスキモーは家族が基本単位なんですね。ウスアクジュ部落もいちおう部落ですが、村長がいるわけではない。そういう「社会」性はきわめて弱い。いつでも分離解体する可能性があります(事実脱退も加入もかなり自由に入れ替わっているようです)。
 エスキモー社会に原始共産制を見るのは幻想だと著者は言います。彼らは一義的に家族単位であり、狩猟のように共同でするほうが効率的だからゆるくまとまっている。著者が調査したところ、共同なのは食料のみで、あとはすべて(カヌーとかソリとか犬とかは)私有されている。親子でも子が一人前に生れば(同居していても)私有物は区別されるようです。(ポトラッチのような傾向があるのは、むしろ所有と所有との間の軋轢の潤滑油、不可視化するためだと思われます)
 これは納得できます。もともと人類は家族単位で所有していたのでしょう。ただそれで生存に不適な場合があるので、部分的に共有が発明された。それがひいては社会の基礎となっていったのではないでしょうか。原始共産制なんてそもそも存在しないのです。
 また話がそれました。
 著者は上記の文明社会と接触したエスキモーの退廃を見るにつけ、ウスアクジュ部落に代表される、まだ文明の悪弊に(さほど)染まっていないかれらの行く末を心配しています。
 巻末に付された「その後のカナダ・エスキモー」の筆者・宮本千晴氏は、69年から70年にかけてカナダ北極圏を調査した東海大学調査隊の隊長ですが、すでにウスアクジュ部落はなくなっていたそうです。いや伝統的な狩猟生活を保持していた人々自体が、カナダ北極圏の中にもはや数十家族程度しかいなくなっていた。著者のルポから、なんとわずか6年後の話です。著者本多氏の悲観的な予想は当たってしまったんですねえ。
 本書の末尾に、古老たちが歌う歌謡が再録されており、不完全ながら翻訳もなされています。この歌詞がほんとによいです。かつては吟遊詩人のような人もいたのでしょうか。でもすでに、家族の大黒柱の世代は、伝統的な歌謡に興味を示さなくなっていたんですね。

 

  

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 1日(火)12時56分13秒
返信・引用
  > No.6717[元記事へ]

  元ツイート

 

  

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 1日(火)02時08分16秒
返信・引用
    元ツイート

 

そのうちまた時間はおだやかに流れ始める

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月 1日(火)01時32分20秒
返信・引用 編集済
   いつものようにセルフサービスの喫茶店での読書タイム、すわっておもむろに本を取り出したところで架電あり。コーヒーも飲み切らないまま店を出なければならず、今日は読むあたわずでした。
 それにしても明日から12月とは、信じられませんねえ。年をとると時間の経つのが早いといいますが、そういうのではなく、物理的に時間の流れは早くなっているのではないでしょうか。
 たとえばポール・アンダースンの『脳波』では、突然人類の(いや動物も)知能が上昇するのですが、それは太陽系がそれまで知能を抑制する力場を通過していて、そこを脱けだした結果、知能が急速に上昇したのです。
 時間の流れにも、そんな力場があるのではないか。いままで太陽系というか地球は抑制帯を通過していたため、時間の流れは比較的ゆっくりしていたのが、そこを脱けだした結果、急に時間が早く流れ始めたとは考えられないでしょうか。もちろん地球上のすべての人類が同じタイミングで脱け出したわけですから、客観的な差異は計測不可能です。ただ主観的に、なんか早くなったなあと感じるだけなんですね。
 しかしこう慌ただしいと、抑制帯を通過していた頃が恋しいですよね。昔はよかったなあ。できるならば再び抑制帯に突入してほしいものです。
 その可能性は皆無ではないかもしれません。
 ひょっとしたら時間抑制場は、ダーク・マターと関係があるのかもしれません。ダーク・マターは質量のみを持つ物質です。宇宙の質量の22%はダーク・マターです。対して可視宇宙の質量はたかだか4%にすぎません。
 大質量の内部では光の速度は遅くなります。つまり、時間は遅れます。
 ということは、ダーク・マター内部を通過する物体の時間はダーク・マター外の時間より遅くなるということではないでしょうか。
 一説によればダーク・マターは銀河の回転軸とは垂直にディスク状に(銀河面に重なって?)広がっているらしい。銀河面とダーク・マター・ディスクが重なっているのなら、銀河面はおおむね抑制場内に存在しているということになる。
 ところで太陽系は、銀河面を垂直振動しながら回転しているのだそうです。すなわちある期間は銀河面より上部に出ており、次の期間は銀河面内、さらにその次は銀河面より下部に出ており、それを繰り返しながら銀河面を回転しているのです。
 この銀河面内部を通過中に、時間は遅れるのだとしますと、現在、太陽系は銀河ディスクの外側に出てしまったのかもしれません。
 しかし次の段階では、また銀河ディスク内に戻ってきて、時間は遅くなって、私たち人類にちょうどよくなるわけです。
 ではいつ頃戻ってくるのか。だいたい2000万年から2500万年の周期だそうです(>おい)(^^;
 



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