ヘリコニア過去ログ1601

Re: 「晴れた空」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月30日(土)22時18分41秒
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  > No.6850[元記事へ]

 道南さん

>立風書房のショートショート集『見えない壁』にも光瀬さんの体験記が収録されていた記憶があり、『光瀬龍 SF作家の曳航』収録のものとひょっとして同じものかもしれません。

『見えない壁』というショートショート集が出版されていたのですか。それは知りませんでした。
 光瀬龍資料サイト「SF辺境探査船」の書籍リストを見たところ、79年の出版で、収録作品に「ある疑惑」というタイトルがあるのが目にとまりました。
 はくえーさんがご教示下さった『光瀬龍 SF作家の曳航』所収のエッセイも、「ある疑惑」というタイトルでした。
 同書の初出情報には「新刊ニュース1973年1月1日号」としかありませんが、道南さんの睨んだとおりでしょう。その後『見えない壁』に収録されたものと思われます。いや、いろいろ繋がってきて面白いですね。

>少年期の記憶と中年期の記憶は木に彫刻刀で彫り込んだのと黒板にチョークで書いたのとくらい差がある
 という眉村さんのお言葉、初めて知りましたが、まさに言い得て妙ですねえ(^^;

 

Re: 「晴れた空」に着手

 投稿者:道南  投稿日:2016年 1月30日(土)21時15分32秒
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  > No.6846[元記事へ]

私も管理人さん同様でした。
『光瀬龍 SF作家の曳航』なら私も持っているのです。
しかも、実家のダンボールではなく、二度の転居を通じて荷ほどきしていなかったとはいえ、今の住まいのダンボール箱の中に。
光瀬さんが御逝去されるまで単行本に収録されていなかった論稿など収録された貴重本でした。
購入当時は拾い読み程度で、その後転居を繰り返したこともあって、通読できていなかったのでした。
うろ覚えなのですが、立風書房のショートショート集『見えない壁』にも光瀬さんの体験記が収録されていた記憶があり、『光瀬龍 SF作家の曳航』収録のものとひょっとして同じものかもしれません。
こうしてみると『消えた神の顔』の件といい、少年期に読んだものの方が記憶に残っていて、眉村さんがどこかにお書きになっていた、少年期の記憶と中年期の記憶は木に彫刻刀で彫り込んだのと黒板にチョークで書いたのとくらい差があるといった趣旨のことを思い出します。
はくえーさん、ありがとうございました。
 

Re: 「虹の裏側」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月30日(土)16時01分14秒
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  > No.6848[元記事へ]

 段野さん
 その情報、そういえば出版芸術社のツイッターで見たなあ(多分昨日だったと思います)と思って、ツイートを遡ってみましたが見当たりません。
 見たという私の記憶が確かなら、もしかしたらフライング情報だったので、いったん消されたのかもれません。
 念のためアマゾンも確認しましたが、そういう気配はありませんね。
 かすかに残っている記憶によれば、『虹の裏側』を含む夢の文学館シリーズが10冊くらいまとまって新装出版されるとか、されないとか……収録作品が一部入れ替わるとか追加されるとか、されないとか……何かそんな内容だったような、なかったような……
 ということで、はっきりしたことは何もわかりませんが、そんな動きがあるのは事実なんじゃないでしょうか。お役に立てずすみません。
 てゆーか、段野さんも出版芸術社をフォローしてるじゃないですかッ! (^^;

 そんな次第でネットを嗅ぎまわっていたらこんなの見つけました。
 元サイト
 来週の土曜日です。
 原作の「露呈の顔」は作品集『不器用な戦士たち』(講談社文庫、83)に収録されています。
 お聴き逃しなく!

 

「虹の裏側」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年 1月30日(土)10時19分27秒
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  管理人様
眉村さんが、1月22日に「虹の裏側」を出版芸術社さんから出されたそうですが、この本は同じ出版芸術社さんより、94年に「ふしぎ文学館」シリーズで出されたというふうに聞きました。同じ本なのでしょうか。また、中身に少々手をいれられたとか、そういうことなのでしょうか。私は2冊とも手に入れていませんので、違いが分からないのです。もし、ご存じでしたら、お教え下さいませ。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月29日(金)20時55分22秒
返信・引用 編集済
   カエルーランド

 

Re: 「晴れた空」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月28日(木)12時16分30秒
返信・引用 編集済
   はくえー様

 ようこそはじめまして。大変ありがたい情報をお寄せ下さり、感謝感謝です!

>「光瀬龍 SF作家の曳航」という本の16ページに収録されている、「ある疑惑」という記事に記載があります。

 あちゃー、私も持っている本ではないですか。しかもいま座っている座席から、1メートルも離れていない本棚に!
 さっそく当該ページを開いてみました。
 わ、本当ですね。小説では翌日の出来事となっていましたが、このエッセイによると、B25による奇襲が正午前にあった4月18日当日の、それより少し遅れて午後2時頃、著者によって目撃されたとなっています。
 また、B25来襲が、かんべさんに教えて頂いたミッドウェイ占領作戦の端緒となったことも、さらに、初空襲に参加したのはB25十一機だけで、「米海軍の単発の艦上爆撃機などは参加していない、というアメリカ軍の発表は技術的にも艦隊運用の面から言っても事実でしょう」とも書かれています。
 ではこの敵機(後方から九七式戦闘機に射撃されている)は一体何だったのか。
 著者は、当時、陸海軍とも同士討ちは日常茶飯事だったと「同士討ち」の可能性を挙げています。然し同士討ちだったとしても、当時日本には引込脚で中翼、単発としては大型な機種は存在していなかったとも。

 いやはくえーさん、当該記述が創作ではなく、光瀬さんは自分の目撃記憶として、実際起こったこととして認識していたことが、このエッセイで明らかになりました(もちろん記憶間違いである可能性を排除するものではありませんが)。
『紐育、宜候』の当該部分が、小説のストーリーからすれば木に竹をつなぐ感じで不審だったのですが、なぜそんな無理なことをしたのか諒解できました。ご教示ありがとうございました。

 あ、この本『光瀬龍 SF作家の曳航』には、「私のUFO体験」というエッセイも収録されていました。道南さんにご教示頂いた『消えた神の顔』所収の「私のUFO」とは別稿ですが、同じ体験を記したものだと思われます。

 それにしましても、ちゃんと答えが1メートル横で眠っていたのに、しかも既読のはずなのに……。噫。
 

Re: 「晴れた空」に着手

 投稿者:はくえー  投稿日:2016年 1月28日(木)06時04分30秒
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  管理人さんへのお返事です。

初めまして。その情報についてですが、「光瀬龍 SF作家の曳航」という本の16ページに収録されている、「ある疑惑」という記事に記載があります。

ここの冒頭において光瀬氏は「これはフィクションではありません」と断っており、氏もこの話をことあるたびに新聞や雑誌に書いて情報の提供を願ったようです。
そこでは状況、機体の特徴が細かく書かれております。
その中では「ブリュースター・SB2A」によく似ていた、と記されています。

参考になればと。
 

鳥瞰太郎

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月27日(水)18時27分32秒
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   人間だれだって、いつかは鳥瞰される側になるわけですが、あっちへ行ってしまったとき、あっちではどんな姿で暮らしているんだろうか、ということは、この年になりますと、たまに考えます。おそらくみなさんも少しは気になっていることと思います。
 死んだときの姿で、向こうに出現するのでしょうか。
 それはいやですよね。そんな老残は晒したくありません。その点若くして亡くなった方は、そんな心配をしなくていいのでうらめしい、もとい、うらやましい(>違)。
 何で読んだか忘れましたが、地獄八景でしたか、向こうでは自分の好きな(年齢の)姿が選べるとなっていたと思います。
 これは大変都合のいい解釈で、そうであってほしいものです。
 私は40歳前後がいいです。というか、今の私が、自分自身をイメージするときは、大体その頃の姿でイメージしているんですね。少なくとも60歳の今の姿ではありませんね。
 私は、髪の毛は(前額部多少上がってきたとはいえ)まだ維持していますので、はっきり劃然とは認識できないのですが、その点で言うと、ニーチェ系の方、つまり神は死んだ系の方はとりわけ明確に認識されているのではないでしょうか(>おい)m(__)m。
 誰であれ、自分自身が一番輝いていた頃の姿が、セルフイメージ像になっていると思います。それはやはり中年あたりなんじゃないのかなあ。
 でもわれわれ以後の世代ではそうじゃないのかもしれません。
 余談ですが、ひょっとしたら、今40歳から下の世代では、無意識の自己像が20歳前後でストップしている(そんな人の比率が拡大している)のかもしれないなあという気がしているのです。
 その傍証として、ラノベ読者がジャンルを卒業することなくずっと読者でありつづけていることを挙げたい(いま40歳はラノベ第一世代です)。
 私自身の体験では、共感できる作中人物は自己年齢と相関的で、この歳になると青臭い青春ドラマや中二的感性には辟易させられることが増えてきました(ただし懐しがることは可能です)。その意味でラノベは卒業していくジャンルなんですが、自己像が20歳でストップしていれば、卒業する必要がない。実年齢をどれだけ重ねようと、永遠にラノベを楽しめるわけです。
 だとしますと、(ストップしない)旧来の人は最終的に時代小説に行き着きますから、近い将来、小説はラノベと時代小説だけになってしまうかもしれませんねえ(汗)

 あれ、話がそれてしまいました。閑話休題。
 あっちでの姿が自己で選べるとして、たまにこっちに帰ってきたらそれは幽霊ですが、幽霊でもやはり自己イメージは維持できるのでしょうか。
 これは違うと思います。
 こちらに帰ってきた幽霊は、この世の人にはどう見えるか。
 それは見る人の主観によるという他ありません。
 もし小松左京さんが私の目の前に現れたら、当然その姿は日本沈没当時の姿でみえるはずです。
 小松さんの晩年しか知らない若い読者には、40代の小松さんはみえないと思うのですね。
 私と、私より30歳年下の人が一緒にいるところへ小松さんがいらっしゃったらどうなるか。
 私は40歳の小松さんを見るし、年下の人はその人のイメージに応じて例えば70歳の小松さんを見るのでしょうね。
 あ、今ふと思い出しましたが、同じことを山本弘さんも小説で書かれていたような。
 

駐屯地慰問

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月26日(火)22時04分50秒
返信・引用 編集済
    

 上は2013年4月11日、平壌の陸軍630大隊駐屯地(訓練学校?)をモランボン楽団が慰問に訪れたときの映像のようです。
 講堂みたいなところでコンサートが開かれたのですが、最初の10分間は、兵士たちが楽団を歓迎して日頃の訓練の成果を披露しています。
 これが面白い。いわゆる演武ですね。この日のために一生懸命練習したんでしょうね。よくわかります(^^;
 ところがそれがまるで劇画チックといいますか、ジェームス・ボンドが捕まって連れてこられた秘密基地の訓練風景そのままなんです。陸軍は007を参考にしているんじゃないか(>おい)。
 最初静かだった楽団員が次第に興奮し熱狂していくのがとらえられていて、それもなかなか面白い。
 コンサートには、いつもの勲章をつけまくったえらいさんではなくて、イガクリ頭の若い兵士が観覧しているのも珍しい映像。彼らにとってモランボン楽団は、朝鮮戦争でのマリリン・モンローの慰問に匹敵するんでしょうな。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月26日(火)17時58分34秒
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   拡大して読む  

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月26日(火)17時41分39秒
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琴奨菊優勝

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月25日(月)23時06分22秒
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   大相撲初場所は琴奨菊優勝。佐渡ヶ嶽部屋びいきの私としてはうれしいかぎり。
 日本人力士の優勝は十年ぶりということがマスコミを賑わせていますが、どうでもよい報道の過熱ぶりですね。守屋秀繁横審委員長が「インターナショナルな時代。日本人にこだわる必要はない」と言ったそうで、まったくそのとおり。

 ところで、琴奨菊優勝が意味するのは、大関にまで上った力士は、みな優勝するチャンスがあるということだと思います。

 怪我さえしなければ。

 それだけの地力が認められたから大関なのですね。でも怪我をしてしまうとその地力も十全には発揮できません。
 琴奨菊も大関昇進後、怪我に悩まされ、ずっと低迷していましたけど、去年の半ば頃あたりから肩のテーピングをしなくなっており、怪我が快方に向かっていたのは見て取れました。それがようやく今場所、開花したといえそうです。

 琴欧州も大関昇進のその場所前の稽古で、先を越された琴光喜にぶん投げられたのがたたって、結局万年大関で終りました。魁皇も千代大海も把瑠都もみな、大関昇進後、すぐにでも横綱になりそうな評判だったのに、なれなかった。
 怪我をしたら終わりということです。照ノ富士も気をつけなければ。

 ところで、この数場所で気づいたのですが、立合いのぶつかり合いの強さが、以前よりずっと激しくなっているのではないでしょうか。ぶつかったあとの展開も、土俵際も、数段きびしくなっているように思います。(昔のビデオを見て言っているわけではなく、記憶と比べてということなので、私の思いすごしの可能性もあります)
 でも私の感じでは、昔とはぜんぜん違うような気がするんですよね。
 もちろん見る方からすれば当然面白いわけですが、あんなにガチでぶつかっていては怪我もするだろうと思わずにいられません。確かに最近、怪我が多いですよね
 いつからそんなふうになったのか、定かではありませんが、思いつくのはやはり、八百長問題で本場所が中止された、それ以降ではないかと想像されます。
 馴れ合いずもうより本気の相撲のほうが面白いに決まってますが、今後怪我で廃業というケースが増えてくるのかも。力士生命は確実に短くなっていくのではないでしょうか。

 

新年会

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月25日(月)00時56分57秒
返信・引用
   ただいま帰着。
 実は恒例の小学校有志の忘年会に、今年(正確には去年)欠席したのですが、それで私のために新年会を開いてくれたのでした。
 いやー楽しかった(^^) この掲示板は教えてないので見てないと思いますが(あ、一名見ているのか)、ありがとうございました。
 今回判明したこと。それは私の(自分では隠しおおせていると思っていた真の)性格が、小学校時代から既にして見抜かれていたことです。結局私は、全然進歩していないのでした。哀号。
 ああ楽しかった(>おい)(^^;。

 

Re: 我が輩の思うにだな。

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月24日(日)16時20分23秒
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  > No.6837[元記事へ]

 かんべさん
 おお、スルどいツッコミありがとうございます。
 私の知識は受験の暗記知識なので、ドゥーリットルもミッドウェー作戦も知識としてはかすかに憶えていたのですが、その連環的理解がまったくだめです。
 当該の半村作品で、ドゥーリットル隊が中国へ逃げ去ったというのは書かれてあるのですが、なんで中国に? という疑問が残っていました。ご説明で納得しましたm(__)m

>艦上爆撃機や戦闘機が空母も退避した翌日、日本本土に飛んでこれるはずがない
 というのは、光瀬さんも分かってはったんやないでしょうか。
それで「当時の戦況から不審を感じた彼は、戦後、航空雑誌にその他を通じて、目撃した情景の解明に役立つ証言ならびに参考意見を求めたが、寄せられた解答は皆無だった」
 という記述になったのではないでしょうか(光瀬さんの創作ではないとしてですが)。

>人間の記憶は不正確、曖昧、変形しやすいものなのだという、その一例ではないでしょうか。
 というのが一番、確からしい客観的な解釈ですよね。
 ただ「ありえない空中戦」を見たという記憶が、その解釈として、それが実は別次元の空中戦の映像だったのではないか、というアイデアを思いつかせたのだと思うのです。
 『紐育、宜候』に限らず、このモチーフは光瀬SFによく現れるので、現実か記憶改変かにかかわらず、光瀬SFの原点になったもののひとつかもしれないなあ、と思いました。

 あ、そういえば私、九七式とか〇式(〇〇式)とか、当たり前に使っていて何の疑問も持たなかったのですが、皇紀だったんですね。『紐育、宜候』でそれを初めて知りました。これまた受験知識の悪弊であります(^^;

 なかなか興味深いご意見をご投稿下さり、ありがとうございました!

 さて私、今から今月最後の新年会(と書いたのは来月もひとつ残っているからですが)に出発します。わ、書き込んでいたら遅刻しそうな時間になってしまいました。今日は書き込みできないかもしれません。あしからず。

 

我が輩の思うにだな。

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2016年 1月24日(日)15時42分21秒
返信・引用
  1942年に空襲とはいくらなんでも早過ぎるんじゃないか、と思ったんですが、どうやら事実だったみたいですね。←とはまた、何を言うてはりまや橋。えら事実ですがな。その空襲あったがゆえに、それまで反対されてたミッドウエー作戦が了承され、それで決行したらあんなことになったという、曰く因縁があるのよ。それはともかく、その翌日の空中戦目撃談、これはどうもなあ。だってB25がやってきたのは、日本側からの反撃を受けずにすむよう、陸上用の爆撃機を空母に乗せ、遠距離から発進させての結果であって、だからB25は発艦はできても着艦はできなかった。空母はそのまま退避し、B25は中国大陸の蒋介石軍側の飛行場へと去ったんですわ。ただし日本軍占領地域に不時着した機もあり、搭乗員は捕虜になって、軍律裁判で死刑にされた。これが戦後、戦犯問題になったんやけどね。で、そんなわけで、航続距離から考えて、艦上爆撃機や戦闘機が空母も退避した翌日、日本本土に飛んでこれるはずがない。まあ、何かの記憶違いでしょう。しかし、こんな話は他にもあって、三遊亭金馬(昔の「お笑い三人組」←古いな! に出てた小金馬)師匠が模型マニア、飛行機マニアで、少年だった終戦時、当日だか翌日だかに、東京上空を海軍の二式大艇(飛行艇)が飛ぶのを見上げて、「あんな大きな飛行機があるんだから、日本はまだ戦える」とか思ったという。ところが後年、その経験を航空雑誌だったかに書いたら、マニア間で大論争になった。なぜなら、記録では終戦時、関東地方に二式大艇は一機も配備されてなかったから。戦艦「陸奥」の爆沈後、海軍の調査団がやってきたが、そのとき、山本五十六大将も視察に来ておられたという証言もある。山本五十六は、すでに南方で戦死してたのにね。てなわけで、ブリュースターと97式戦闘機の空中戦談も、人間の記憶は不正確、曖昧、変形しやすいものなのだという、その一例ではないでしょうか。想像をたくましくすれば、ブリュースターは捕獲された機体があり、日本の陸軍が飛ばして性能を検査したり、戦意高揚映画に敵機役で飛行して、日本軍機に撃墜されるシーンも撮らせたという。としたら、年月日は不明だけれど、その模擬空中戦を遠望した記憶が、変形したのかもしれませんな。97式戦闘機なんて旧式機が出てくるのも、それだとわからんでもない。いや。往年のプラモデル少年、「丸」少年として、ついつい延々と書いてしまいました。なんせ私、SFよりこっち方が詳しいもんで(いかんやないか!)




 

Re: 「晴れた空」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月23日(土)22時04分3秒
返信・引用
  > No.6835[元記事へ]

 道南さん、お久しぶりです。
>おそらく光瀬さんの実体験なのだろうと思います。
 やはり。

>UFO目撃経験と並び、繰り返しエッセイや光瀬作品中で扱われていたと思います
 そうなのですか。エッセイに書かれているのですね。エッセイは殆んど読んでいないのですが、太平洋戦争中、ラバウルあたりで空中戦のさなかに異次元に跳ばされてしまうという小説を読んだことがあったような気がしてきて、数日前、銀背の短編集4冊もくじに目を通してみました。で、それはどうやら「ソロモン一九四二年」だと見当をつけたのですが、 ざっと読んでみたところ、どうも違いました。

『消えた神の顔』は持っていたと思うので、探してみましたが、見つかりませんでした。幸いなことに、検索したらここで、かなり詳しくあらすじを紹介してくれていました(こういうのありがたいです)。
 で、おそらく道南さんが言っておられるには「私のUFO」だと思います。リンク先に「後半では光瀬さん自身が戦時中に目撃したという謎の飛行物体(言葉通りの意味でUFOですね)について語り、目撃情報を募っていますが、成果のほどはわかりません。」
 とあり、『紐育、宜候』の記述とほぼ一致します。ただし『紐育、宜候』では「謎の飛行物体」ではなく、「米海軍艦載単発爆撃機ブリュースターSBA-1あるいはカーチスSB2Cと思われる機体と日本陸軍九七式戦闘機との空中戦」と具体的です。
 『消えた神の顔』を入手して確認しようと思いますが、おそらく『紐育、宜候』の記述は、「米海軍艦載単発爆撃機ブリュースターSBA-1」云々は創作で、つづく「当時の戦況から不審を感じた彼は、戦後、航空雑誌にその他を通じて、目撃した情景の解明に役立つ証言ならびに参考意見を求めたが、寄せられた解答は皆無だった」という記述は、光瀬さんの実体験をそのまま援用したのかな、という考えに傾きつつあります。
 なにはともあれ、『消えた神の顔』を入手しなければ。

 ということで、貴重な情報をお寄せ下さり、ありがとうございました。またよろしくお願いします。

 

Re: 「晴れた空」に着手

 投稿者:道南  投稿日:2016年 1月23日(土)20時37分6秒
返信・引用
  おそらく光瀬さんの実体験なのだろうと思います。
UFO目撃経験と並び、繰り返しエッセイや光瀬作品中で扱われていたと思います。
光瀬さんの御著書は大部分が実家のダンボールの中で今は参照できないのですが、短編集『消えた神の顔』にもそうした作品が収められていたのを覚えています。
 

海を見ていた

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月23日(土)00時58分33秒
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 うーむ。これを読みますと、私の妄想するジョニちゃん像が、ますます確からしく感じられてきますな。
 ジョニーはギターが弾けるんですね。それも「その歌唱力と腕前を人民の前で披露するからには、相当な自信を持っているようだ」
 そういえば何で読んだか忘れましたが、モランボン楽団に直接指導もするそうで、そのときは自らピアノを弾いて、範を示してくれるらしい。
 やっぱり、ヨーロッパ留学中は音楽三昧だったに違いありません。本当は政治より自分のバンドを持ちたいんじゃないでしょうか。極太ズボンにみられる特別な自分というものへのこだわりも、ミュージシャンによくあるタイプ。
 この点、どっちかといえば、引きこもりオタクだったオヤッサンとは、オタクであることは同じとはいえ、対照的ですよね。
 しかも夜は、ベンツで平壌市内をぶっとばしているというのですから、これはもう、典型的な高等部持ち上がりタイプと同類項じゃないですか(>おい)(^^;
 高等部とは違うのは、その反ヒューマニズムというか、人を人とは思わない態度でしょうか。おそらく自分と趣味のあわないものは、生きている資格なしなんて思っているのでは(おそらく『幼年期の終り』は好みだと思います。もし読んでいれば)。
 その点で、同類項を捜すなら、私は澁澤龍彦だろうと思います。シブサワを読んでいると、大概差別的で、教養のないものは皆ブタ並みに思っているとしか考えられません。もしシブサワに権力があればアホ愚民はどんどん銃殺したんじゃないかなと――いやまあ、それはないでしょうけど(汗)
 その意味で、日本の出版界マスコミが、シブサワを称揚するのだったら、ジョニちゃんも同じ程度に好意的に記事にしなければ、公正じゃないですね。


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月21日(木)20時33分37秒
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「晴れた空」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月20日(水)23時40分39秒
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   半村良『晴れた空』に着手。

「1942年(昭和17年)4月18日の昼すぎ、東京は米軍機による最初の空襲を受けた。それは太平洋上に浮かぶ空母ホーネットから、ドゥーリトル中佐の率いるB25双発爆撃機16機が敢行した冒険的ロングショットであった」

 本書の冒頭部分を引き写したのですが、実は光瀬龍『紐育、宜候』にも、

「1942年4月19日。この前日、日本各地は、日本本土近海まで迫ったアメリカ航空母艦『ホーネット』から発進した16機のノースアメリカンB25爆撃機の空襲を受けた」

 とあります。
 光瀬作品を読んでいたとき、1942年に空襲とはいくらなんでも早過ぎるんじゃないか、と思ったんですが、半村良も書いているんですからどうやら事実だったみたいですね。
 と同時に、
 半村・光瀬両作家がこの空襲を作品に取り込んでいるということは、やはり彼ら(というか当時の日本人)にとって、このアタックは青天の霹靂であって、心理的ショックが大きかった証拠なんでしょう。事実半村作品では上記引用文に続けて、

「日本側の被害は僅かだったが、心理的影響は大きく(……)地方に疎開すべき縁故者を持つ者は、翌日から先を争って避難をはじめた」

 とあります。その頃はまだ、大本営発表は連戦連勝を伝えていた筈だからです(ミッドウェイ海戦は1か月後)。
 ところで不思議な事に、光瀬作品では翌日の19日も、主人公千葉少年によって、米海軍艦載単発爆撃機ブリュースターSBA-1あるいはカーチスSB2Cと思われる機体と日本陸軍九七式戦闘機との空中戦が目撃されているんですね。
 ただこちらは、どうも光瀬の創作ではないかと思います。

 それとも――光瀬少年は実際に見たのでしょうか。

「当時の戦況から不審を感じた彼は、戦後、航空雑誌にその他を通じて、目撃した情景の解明に役立つ証言ならびに参考意見を求めたが、寄せられた解答は皆無だった」

 この一文、実は本書のストーリーの中では浮き上がっているのです。なぜなら鏡像的並行世界へ跳ばされた千葉少年はこの世界の戦後に居たはずがないからです。この彼は著者でなければ辻褄が合いません。
 ひょっとして、このとき実際の千葉少年である光瀬少年(旧姓が千葉)は、異次元の太平洋戦争を垣間見たのではないでしょうか。
 そのような自覚があるからこそ、光瀬は、自身の(不思議な)体験の記憶を、この小説に秘かに滑りこませたのではないかなあ、と、そんなことを思ったりしたのでした。

 

Re: 「なぞの転校生」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月19日(火)23時00分12秒
返信・引用
  > No.6829[元記事へ]

 段野さん
>今のNHKなら、きっと映さない、ブランドロゴの入った服を着せたことです
 おお、それは気がつきませんでした。というかクレージュって知らないのでした(汗)
 大谷先生、美人でしたねえ(^^;

 

「闇市の蜃気楼」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月19日(火)22時33分17秒
返信・引用 編集済
  > No.6824[元記事へ]

 光瀬龍『闇市の蜃気楼』(実業之日本社、93)読了。

 これは面白かった。後半は頁を捲るのももどかしい感じで一気。
 連日空襲が続く東京。そんな中、西池袋椎名町の一軒家にいわくありげな連中が集まっている。実はいかがわしい裏フィルムの秘密試写(販売)会の真最中なのだった。市を開帳しているのは閻魔の吉太郎親分。客は関東各地からやってきたその筋の買付人達。映写技師を担当しているのが主人公半次郎で、閻魔組の若い者。組の若いものと言っても、閻魔組の実態は吉太郎親分と半次郎のほかは、若頭の土橋の辰の三人きりなんです。
 さて試写会も熱を帯びてきた時も時、突然空襲が始まった。焼夷弾が降り注いできて家は燃え上がる。周囲火の海の中、半次郎は親分を引張って逃げるも、兄貴分の辰とは別れ別れとなる。その親分とも別れ、半次郎は知人を頼って市川へと向かう。
 敗戦後、陸軍市川飛行場は占領軍に接収され、その周囲にはまたたくまにカマボコ型兵舎が何千棟も建設される。占領軍将校の家族もやってきて、PXと呼ばれる占領軍専用(日本人立入禁止)のスーパーマーケットにはモノが溢れ、基地の外(つまりニッポン)とは別世界だった。
 半次郎は基地内の雇われ仕事についていたが、偶然、土橋の辰と再開する。辰は最近流行し始めていたギャバジンのダブルのスーツにコンビの靴といういでたちで、指にはキラキラ光る指輪、42年型プリムス(但し計器の針はとれ、バックミラーはひび割れて半分無い)に乗って羽振りがよさそうだった。そしてなんと吉太郎親分も一緒に住んでいるという。半次郎は大喜びで辰の運転するプリムスに乗って、高円寺の辰の家へと向かうのだったが……!?

 ここからまさに巻措く能わずとなります(^^;
 しかし!
 本書、どこまで事実として信用していいのやら、少し警戒して読むべきかもしれません。なにせ喫茶店の娘にして三条美紀似の美少女がヤクザのアジトになぐりこみをかけ、二丁拳銃でぶっ放したり(猫柳ヨウレ?)、髪をアップにして珊瑚玉の簪でとめ、涼しそうな単ものに夏帯をきりりと締めた年増のいい女が、片肌脱いで蝶のように舞いながら匕首をひらめかせたり(青龍寺笙子?)――と書けば、ははあ、と思われるんじゃないでしょうか。そうです。本書、日活アクション映画(それも喜劇寄り)をなんとなく想起させられるんですね。まあ、一種の悪漢小説でしょうか。戦後24年頃までは、少なくとも大都市の一角にはアナーキーな無法地帯が存在していたんですね。
「それを虚脱と混沌の無秩序の時代だったという識者がいるが、そうではない」「あの時代ほど日本人の一人一人がバイタリティと自己認識を抱いて生きていた時代はないだろう」「昭和24年頃まで、日本はそういう時代に生きていたのであった」(後記)
 それで思い出したのが、梶山季之の『小説GHQ』。この小説でも、無学だが行動力にみちた姫野という男が、まだアナーキーだった戦後世界を精一杯才覚に任せて自由に生きていくのでしたが、本書の辰(これはまあ、薄っぺらですが。薄っぺらさがよく描かれていますが)や半次郎も、姫野のお仲間と言ってよい。
 ラストの舞台は新宿三光町(現・歌舞伎町付近)。赤線をひかえて戦前の上海のようだと称された町だそうです。主人公半次郎は、この町(一般市民からすれば魔都)をいたく気に入ります。なんの係累も、地縁も血縁も無化される(ですからファミリーも無意味な)この町のアナーキーさに染まってしまったようです。ポケットには《と金》の姐さんから借りた(ついさっきまで返さなければならないと考えていた)10万円がそのまま入っています。
「吉太郎親分も、辰も、姐さんも、遠い人になっていた。心も体も浮き浮きと、半次郎は新宿三光町のほこりとさわがしさの中へ歩み出していった」

 先にどこまでホントかと書きましたが、おそらくタイトルのとおりなのです。本書は終戦時17歳(多分半次郎と同い年)の著者が、戦後たった数年間だけ実在し消え去ったアナーキーな無法世界への愛惜の念に衝き動かされ、共感、思い入れを込めて幻視した蜃気楼――著者の内なるフリーランド(山野浩一)だったのでしょう。
 焼跡闇市派としての著者の面目躍如たるピカレスクでした!

 

「なぞの転校生」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年 1月19日(火)16時53分34秒
返信・引用
  「なぞの転校生」、今日で、日本映画専門チャンネルで放映終わりました。
ううん、昔は、きっと、毎日ドキドキもので見ていたのでしょう。今も、ドキドキで見ました。
画像は、アーカイブスで、ものすごく修正したのでしょう。さほど画面荒くはなかったです。
ちょっと違ったのは、今のNHKなら、きっと映さない、ブランドロゴの入った服を着せたことです。(大谷先生役を演じた岡田可愛が、クレージュのセーターを着ていた)NHKは、特定のブランドを映すことに、こだわりがあったはず。(「のど自慢」で、素人に、ブランドものの服を着て出場するなと言っていました)クレージュというデザイナーは、この1月7日に亡くなりました。何かのつながりがあったと、そのデザイナーのことを思いました。
そうして、最後に、「岩田公一」が、視聴者に語りかけます。「(次元ジプシー)に会ったなら、よろしくと言ってくれ」と。
今でも通用しますね。今さらながら、時代を超えた作品だったのだと、改めて思いました。
 

Re: 「22世紀のプロフィール」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月18日(月)16時08分39秒
返信・引用
  > No.6827[元記事へ]

 橋元さん
 いえいえ、身に余るお言葉こちらこそ恐縮してしまいます。
 むしろ専門書でもないのに小説本があたりまえの顔で5000円で売られていたりする昨今、こんな面白い科学エッセイが、190円そこそこで読ませていただけるなんて、本当に感謝感謝です。
 とはいえ、
>一杯奢らせて頂きますので、
 そ、そーですか(^^)そう言って頂いているのにむげに断るのも大人げないですね。なにかの時はよろしくお願いします(>おい)m(__)m
 次回も楽しみにしております!

 さて今日は飲み会で、これから出ますので(5000円も要らないはずです(^^;)、今夜は書き込みできないかもしれません。

 

Re: 「22世紀のプロフィール」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2016年 1月18日(月)14時23分43秒
返信・引用
  > No.6826[元記事へ]

管理人さま

いつも感想を頂き、誠にありがとうございます(ペコリペコリ)。
印刷本の場合、高評下さったり宣伝して下さる方には、著者献本をさせて頂くのですが、電子版の場合、どうしたらよいのかが分かりません。
もし何かのオフでお目にかかれるような機会がありましたら、一杯奢らせて頂きますので、どうかご散財の段、ご容赦戴ければ幸いです。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。

橋元淳一郎
 

「22世紀のプロフィール」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月17日(日)17時25分13秒
返信・引用 編集済
  > No.6825[元記事へ]

 橋元淳一郎『22世紀のプロフィール CはConputerのC』(Hassy-World Library 003〈キンドル版〉、16)読了。【kindle

 本書は橋元版《未来のプロフィル》。「SF的発想で綴る22世紀の未来の風景」です。
 そういえば大昔、人類の進歩と調和の70年代には雑誌(とりわけ学習雑誌)や新聞でそんなテーマの記事をたまに見かけましたよね。
 私がいまでも憶えているのは、未来では、せいぜい2階建ての日本建築が並ぶ旧来の居住区は、土地面積の無駄遣いなのでぶっつぶして整地してしまい、それだけでひとつの町のような巨大高層居住ビルを一個建て人々はそこに住んでいる。残りの土地は、広大な緑化地帯になっており、その緑地帯を縫うように、幅10メートルも20メートルのある走路(ムービングロード)や何十車線もある高速道路や鉄道網が走っている、というヴィジョンです。その記事は矢野徹さんが書いていたような記憶があります。
 黄金の70年代が過ぎると、そのような稀有壮大な楽観的記事は、とんと見なくなりました。
 本書はどうやらその復活版かもしれません(但し単純な楽観論ではありません)。そしてその風景は、70年代の予測では脇役だったかもしれないコンピュータが主役の座についているようです。
 たとえば序章「進化する22世紀の恋愛」では、科学の進歩が人間の基本的感情である恋愛の感情に、どんな影響を及ぼすかが考察されます。
 著者によれば章題はアイロニーで、科学の進歩に反比例して恋愛の感情は消滅していくだろうとします。
 恋愛の感情は、そもそも恋する相手の心の中が分からないということが大前提なんですね(もっと大きく言えば、我と汝の間は直接的に繋がってはいない、分断されて在るわけです)。その前提から「秘密性」と「切なさ」が析出される。
 感情とは神経伝達細胞の興奮のことなのですが、脳科学の発展は 最終的にそれを解明してしまうだろう。そうして一種の携帯電話のように、他者の感情が、あたかも自分の感情のように感じることが可能となる。つまり脳科学の発展は、現象学の最大のアポリアをいとも簡単に解決してしまうのかもしれません。
 これは大変な「変化」です。
 いわゆる「秘密性」(謎)がなくなってしまうわけで、「未来の恋人たちは、「彼(彼女)もまた私を愛してくれているだろうか」と思い煩う必要がない。脳間携帯電話によって、彼らの心は文字通りひとつに結ばれるからである」
 これなら思春期の若者特有の苦悩は大半消滅しちゃいますね。私達の十代は一体何だったのだろう、という話ですなあ(>おい)。
 しかし待てよ。
 ということは、私が密かに恋しく思っていた異性のふとしたしぐさに、「ああ、あの人もなんか私に気がありそうだぞ」と、勘違いして、はりきって脳間携帯電話をかけた途端、相手から激しい拒絶の感情――だったらまだしも、屁とも思われてないことが即時的に分かっちゃってガーン。ということも起こりうるわけです。これもまた辛い、というか「切ない」ですよねえ(^^;。
 恋愛は、汝と我の間が切れているからこそ、文学にもなり得ているということです。とすれば22世紀の恋愛風景は、殺伐と乾いて明るすぎて、文学になり得ないのでしょうか。いやそうでもないか。SF作家にはそんな22世紀の恋愛者たちを描いてほしいものですなあ(^^;

 本書ではコンピュータの「C」にかけて、「カンパニー」「コミュニティ」「商業(コマース)」「錯綜(コンプレックス)」など10のテーマで、22世紀の世界を切り取っており、大変興味深い。上記のように触媒となっていろいろ感想が湧き出てきたのですが、全て書いていてはラチがあきませんので、序章の「恋愛」だけにしておきます(あとは創作に援用させていただくかも。いつ書くのかって話ですが)(^^ゞ

 関係ないですが、『22世紀の酔っぱらい』が未読だったのを思い出してしまいました(笑)
 

「22世紀のプロフィール」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月16日(土)13時57分21秒
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「闇市の蜃気楼」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月15日(金)20時30分5秒
返信・引用 編集済
   光瀬龍『闇市の蜃気楼』に着手。

《 灰が汚れた雪のように絶え間なく舞い落ちていた。
 それは地面に落ちても崩れずに、またふわふわと舞い上がった。手に受けてみると、灰の表面にこまかい文字がならんでいた。
「なんだい?これは」
「親分。これは本のページですぜ」
「本?」
「神保町あたりの古本屋街の焼けた灰ですぜ。ほら、ここにもある。ほら、ここにも。この畑真白だぜ。これ全部本の焼けた灰だよ」 》


 追記。灰の上に文字って、ホンマかなと思って調べてみました。そして知った事実。神保町は空襲を受けなかったとのこと。作家の想像力が幻視した終末的イメージ? あるいは本書の設定が別の歴史ものなのか。続きを読もう。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月14日(木)23時15分41秒
返信・引用
 
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「波の手紙が響くとき」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月14日(木)21時56分36秒
返信・引用 編集済
  > No.6821[元記事へ]

 承前。第4話「波の手紙が響くとき」を読みました。
 昨日、引っかかっていたことを書いて外に出したことでモヤモヤが解消されたのか、残り100頁一気読了。いやー面白かったです(>おい)m(__)m
 第1話で紹介した、原因不明の特殊な難聴を患い、武佐音研の音響テクノロジーを駆使した超特殊誂えの補聴器で補填した女性ミュージシャン《KYOW》ですが、その難病とは、中耳の音を内耳へと伝える機能を受け持つ耳小骨が病変し、その機能を果たさなくなるというものでした。
 同じ耳小骨の病変が、彼女の周囲の人間に次々と発現します。
 この事実が差し示すのは、病気が彼女からひろがった可能性です。しかしそれを示す証拠は何も見つかりませんでした。
 ただ発病者に共通することがひとつだけあった。
 発病したものは全員、《KYOW》がつくった或る未発表の音源を聴いた者だったのでした!
 音楽が耳の病の原因だった? そんなことがありえるのか。とはいえ《KYOW》には、かつて聴いた者に水への強い渇きを喚起する殺人音楽を作った前例がある。
 武佐音研は調査を開始するのでしたが……!?

 アイデアがすばらしいです。実はSETIは、10年以上前に宇宙からの通信を捉えていたのです。予想されていたとおり、それは周波数 1420.4メガヘルツ のマイクロ波にのって、地球に届いていたのだが、気づかれなかった。
 というのは、それは「波から物質へのエネルギー遷移の流れを利用して展開され、プリオン蛋白質の合成プロセスというOSの上で走る――何かの組み上げプログラム」だったからです。単に電波を機械上で見ていたって分かるものではなかったのですね。
 ただこの電磁波(メッセージ)を、可聴な3キロヘルツの周波数に変換したものが保管されていた(ちなみに地震警報は3キロヘルツらしい)。
 天文学者だった《KYOW》の祖父は、それを聴いていました。この祖父こそ、第3話の「感音性難聴」の老人だった。
 つまり老人の難聴は、宇宙から届いた電波(に乗ったプログラム)が、内耳の蝸牛管上の蛋白質にぶつかり、そこで(誤)展開されてしまった結果、蛋白質がプリオン化したものだったのです。
 しかし《KYOW》たちの難聴は中耳の病変ではなかったか。そうです。実は《KYOW》は祖父から形見分けでもらったSETIの記録CD-ROMの中からそれを見つけたわけですが、上記のように周波数3キロヘルツは注意を喚起するような一種不穏な音なんですね。それで《KYOW》は、それをマイルドな音に変換して、自作の中に取り込んだのです。その結果、病変する位置も少しずれたという次第。
 なるほど!
 そしてさらに明らかになるのは、この宇宙からのメッセージは、10年前に初めて届いたものではなさそうだということ。
 このレベルのマイクロ波は、だいたい電子レンジと同じ。つまり水に対してエネルギー遷移を起こすものとのこと。「もしその信号が、水分子に対するエネルギー遷移を使って、そこで実行されるべきアプリケーションだったのなら」!?
「原始地球の海で、溶けた有機物をパズルのように組み上げ、アミノ酸のSOUPを作り出し、生命の元になったものは、はたして何だったのか」・・・
 おおっ!

 ということで、オキシタケヒコ『波の手紙が響くとき』(ハヤカワJコレクション、15)読了。
 いやーワクワクさせられました。森下さんの<ベストSF2015>、当確であります(^^)

 

「波の手紙が響くとき」読み中(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月14日(木)13時25分53秒
返信・引用
  > No.6814[元記事へ]

 承前。第4話が捗りませんなあ。理由は明白で、場面が変わるごとに話者も(順ぐりに)変わっていくのが、なかなか乗れない理由の第一です。現在150頁中50頁あたりですが、すでに話者は4、5回変わっています。ひょっとして、著者は客観描写(神の視点)というものをありえないものとして意図的に排除しようとする一派なのでしょうか。それは正しいのですけど。とはいえねえ・・

 もう一つ理由があって、それは第1話のややラノベっぽいのから、2話、3話とそれがだんだん薄れていっていたのですが、最終話に至って爆発的にラノベになってしまったこと(ここまでのところ)。もはや作中人物は漫画の絵柄でしか目に浮かんできません。いやもちろんそういう筆法を否定する気はないのです。そういうのを求めている読者は確実にいるのでしょう。いやもはや過半数はそういう読者かも。でも私はなんかしらけちゃうんですよね。脳内映像は実写であるべしというのが、どうも読書において私が無意識のうちにアプリオリに求めている姿のようです。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月12日(火)00時27分14秒
返信・引用 編集済
   元ツイート  

オチなんかつくとホンマかいなと思っちゃいますが

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月11日(月)21時15分40秒
返信・引用 編集済
 
 某有名ブラック企業に就職して新人研修合宿に行った話(連載)
  ↑
 これ、めちゃくちゃ面白いです。こういう人を天性のストーリーテラーというのではないでしょうか。
 あ、リンク先跳んでビックリしないように。あらかじめご注意(^^;
 テレビにも出ている有名人らしいので、ご存知のかたはご存知なのかもしれませんが。

 

追記

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月10日(日)17時01分37秒
返信・引用 編集済
   下に関してご意見大歓迎ですが、ユーチューブを別項に出して、著者名も作品名も明記していない点をご理解くださると幸い。分かっとるがな皆まで言うなですか。失礼しました(^^;


 

朗読とは如何なる芸なりや

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月10日(日)17時00分12秒
返信・引用 編集済
  > No.6813[元記事へ]

 承前。《合成音声による朗読》って、どれくらいレベルなんでしょうね。ロボットのような声が平板に朗読しているのでしょうか。
 興味が湧いてきたので、購入してみました(→下のユーチューブ。全部は流石に問題なので3分間だけ)。
 おやまあ。ここまでとは思わなかった。抑揚をつけていますね。
 でも平板とまでは言いませんが、やはり単調の感が。句点読点できちんと空白をつけているのですが、きちんと付けすぎているんですよね。朗読速度もあくまで一定。
 人間の朗読者なら、文脈によっては読点を飛ばして一気に読んだり、速度に変化をもたせたりすることもあると思います。
 そういう判断※ができていませんよねえ。
 あと、このお話はあんまり直接的な「会話」がないので、選択を誤ったなあと後悔したのですが、たとえば感極まったり、激高したりするような会話も、機械では難しいのでは。
 結局、感情が乗っていないということですなあ。
 ちなみに、2回分割の第1回34分で、200円。高いか安いか。それとも論外か(^^;

※これはプログラマーがそのようにプログラムすればいいだけの話で、つまり手抜きなんですね。費用対効果が合わないんでしょう。

 
 

  

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月10日(日)16時59分55秒
返信・引用
 
 .
 

「波の手紙が響くとき」読み中(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 9日(土)22時57分37秒
返信・引用 編集済
  > No.6812[元記事へ]

 承前。第3話「サイレンの呪文」を読みました。
 今回の話者は《武佐音響研究所》所長の武藤です。前2話で既に明かされているのですが、武藤は6歳のとき交通事故で両親を亡くすと共に、自身も下半身の大事なものを失う大怪我を負いました。その結果、長じても変声せず、巨漢なのにカストラートのような声の持ち主になったのです(それがひとりの人間の少年期と青年期にいかなる影響をおよぼすものか)。
 前2作ではこの特異な設定が等閑視されており、なんのための設定なのかといささか不審だったのでしたが、なるほど、今回のメインテーマだったのですね。
 他の所員が皆帰り、ひとり居残っていた武藤を、突如侵入してきた覆面の賊が襲う。賊が言う。「<青い海>を渡せ」と。
 本篇は面白い構成で、重要な事が全て過去と結びついており、そのたびに過去がプレイバックするのです(この手法は別に珍しくないのですが、今回読んで、これって存外リズム感というか流れが損なわれるな、と感じました。将来書く自作の参考にメモしておきます(>いつ書くのかね)。あ、もちろん批判しているのではなく、長篇じゃなくて短篇で扱おうとするとこういう手法が必要な場合は当然ありえるのです。その場合流れが滞るということを知っていたら、その場に立ち当たった際工夫の余地ができるわけです)。
 話を戻す。
<青い海>とは、武佐のふたりが高3のとき、佐敷が自サーバーで管理していた掲示板に、一瞬書き込まれ即座に消された音楽ファイルのタイトルでした。即座に消されたものですが、管理を自サーバーでしていた佐敷は復元することが出来た。
 再生されたその音楽(?)を聴いた二人は、最後まで聴き終えることが出来なかった。その音楽は、聴者に強烈な水(海)への欲求(渇き)を喚起する力があった。もし最後まで聴かされ、近くに海があったら、欣然として飛び込み溺死することも厭わないだろうということが、ふたりには了解できた。とんでもない殺人音楽だったのです。
 ふたりは、とりわけ武藤は自己のIT技術を駆使して、この音楽ファイルの制作者を特定しようとするのでしたが……!?
 いや本篇も大変な力作。
 冒頭の方で、話者佐敷が、「慌ててわが肉体に助言を送る」とか、「フジ(武藤の名)の背後で彼の口をそう操っているはずの本当のフジは」とか、霊肉二元論的な表現にこだわっていて気になっていたのですが(というのは、メルロ=ポンティ的にそれは受け入れられないからです)、なぜそんな人間観を佐敷が持つに至ったのかも、最後まで読めばあざやかに諒解できるのでした。
 全体としては、前作以上に京極堂的な雰囲気が色濃く(逆にヒノシオ的な雰囲気は後退する)、ファイルのタイトルが「アオイウミ」なのに、なぜ歌われている歌詞は「アオイウエ」なのか、その解釈には拍手喝采でしたし、「感音性難聴」の老人が発話にまでその影響が及ぶというのは、失語症のプロソディの構造に敵った説明でリアリティがあり、納得させられました。
 それらをひっくるめて、本篇は、前回ハードSFと言いましたが、むしろ本格SFと言いたくなります。
 ということで、最後に残った第4話の中篇が、ますます楽しみになってきました。

 追記。そうだ。私、武佐は「むっさい」の武佐かと勝手に思っていたのですが、じつは「ムーサ」(musa)つまりミューズ(muse)だったのですね。失礼しました(汗)


 

電子書籍の茫然

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 9日(土)16時54分41秒
返信・引用
  キンドル版「二銭銅貨」(99円)の実体。
詳しくは《名張人外境》にて→http://nabariningaikyo.blog.shinobi.jp/Entry/3681/
 

「波の手紙が響くとき」読み中(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 8日(金)01時29分36秒
返信・引用 編集済
  > No.6808[元記事へ]

 承前。第2話「亡霊と天使のビート」を読みました。
 前回は省いてしまいましたが、《武佐音響研究所》にはたった一人の、入社一年目の社員がおりまして、それが今回の話者、鏑島カリンです。第1話では漫画の登場人物みたいな感じでしたが、今回はなかなかしっかりしています。最初は少しギャップを感じました(すぐに慣れましたけど)。
 今日もまた《武佐音響研究所》を依頼人が訪れる。
 社長の佐敷は外出中だったので、カリンが応対する。というのはいま一人の武藤は在席していたのだが、武藤が応対しては折角の依頼者が呆れて逃げてしまう可能性があったからなのです。
 依頼人はバイオリニストの妻とその夫。二人には9歳の病弱な息子、継音がいる。その継音の部屋で、最近母親が気づいたのですが、夜毎夜毎、息子が寝入ると苦悶の表情を見せ、すると虚空からわき出るように、何者かの、何とも恐ろしげなうめき声のようなのが聴こえるのです(何を言っているかはわからない)。そしてその声は、どうも亡くなった継音の祖母(父親の母)のように思える、と二人は言うのです。
 祖母はフィドラーだった。といっても、フィドルもバイオリンも楽器は同じ。クラシック界ではバイオリンと言い、アイルランド民謡、そしてそれから伝播したアメリカ民謡ブルーグラスではフィドルと言うのですね(あ、しかしジャズではバイオリンと言うなあ)。ですからパパ・ジョン・クリーチはフィドラーなんですね(^^;
 話がそれました。
 夫妻と祖母の関係は、あまり良くなかった。そんな祖母も、継音は可愛がり、継音もよくなついていた。祖母のフィドルは継音に形見分けされ、継音も祖母の遺志を汲んで一生懸命練習していた。
 そういう経緯があったので、夫妻は、死んだ母親が継音に何かを訴えたいと「出てきた」のではないかと考えたのでした。で、その声を録音しようとしたのですが、奇怪なことに何も録音されていなかった。
 そこで《武佐音響研究所》に、プロの本格的な機材で録音してほしい、というのが依頼の内容だったわけです。
 さっそくカリンが、プロの録音機器を携えて継音の部屋に泊まりこみます。はたして継音は寝入るや、声も出さず苦悶に表情を歪ませる。と、カリンの耳元で、何かが呻くような声がした……!?(どうやらカリンは卒倒したようです。あかんがな)(^^;

 もちろん幽霊ではありません。武っ佐いコンビはその謎を科学的にあばいてみせます。この世に不思議な事はなにもないのだ、とばかりに。いやもちろん、そんな京極堂めいた言葉は出てきませんよ(^^;
 このトリックにはあっと驚かされました。めちゃめちゃ面白い。驚天動地の(ギリギリの)トリックです。ギャオスも裸足で逃げ出すかも(>おい)。
 そういう意味で、ちょっと新本格っぽいなあ、と思った次第。
 ただし本篇はミステリではありません。系外の知識で解決されるからです。やっぱりSFです。こんな感じ、知ってるんだよなあ。何だったっけ。そうだ。石原藤夫の惑星シリーズ(ヒノシオシリーズ)じゃないですか。
 この《武佐音響研究所》シリーズは、舞台こそ大宇宙ではありませんが、日本的ハードSFの系譜を継ぐ、しかしもちろん新規で独自な世界になっているように思います。

 

フリーソフトもありますが

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 7日(木)20時58分38秒
返信・引用
   段野さん
 前回ご紹介したGV-USB2ですが、こんな記事を見つけました。→ここ
 普通のDVD(1層式)は1時間分の映像しか録れないそうです。それに気づかずに2時間テープを録画しようとすると、DVDもなんとかせなあかんと、画質を落として対応するみたいですね。
 ですから1時間ずつぶつ切りに録画するか、2層式というのを購入したらよいと書いてあります。
 と――いちおうマイナス情報も書いておきます(^^;。前回リンクしたアマゾン記事のカスタマーQ&Aやカスタマーレビューも有用ですのでよく読んで下さい。

 無料のソフトを見つけました。→ここ
 直接リンクするとやばそうな気がするので、グーグルにリンクしています。上から3つ全部同じフリーソフト(golden videos)です。
 ところがこのnch softwareという会社、あんまり評判が良くないです→ここ
 ダウンロードすると、いらんものを付加してくるみたいです(ウィキペディアによればウィルスソフトではないみたい。またvectorにも載っているくらいですからそんなに悪い会社でもないように思えます)。
 要はおまかせ一括ダウンロードではなく、個別に確認しながらダウンロードするボタンを選択し、不要なものは全てチェックを外せば、おそらく問題ないとは思います。似たような手順でDLした経験があり、問題なく使っています。
 フリーソフトとなっていますが、実際は試用期間無料みたいですので、期間内に使いまくって、アンインストールすれば良いでしょう。
 まあ無料のものは、それなりにごちゃごちゃ対応しなければならないということですね。

 ご参考までに。

 

「なぞの転校生」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年 1月 7日(木)13時38分25秒
返信・引用
  管理人様
VHSからDVDに変換の方法をお教え下さいまして、ありがとうございます。何とかやってみることにします。(「なぞの転校生」を見ていて、舞い上がっていたのでしょう。すいませんでした)
 

Now listening

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 7日(木)01時22分22秒
返信・引用
 
 .
 

「波の手紙が響くとき」に着手(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 6日(水)23時26分10秒
返信・引用 編集済
   オキシタケヒコ『波の手紙が響くとき』に着手。第1話「エコーの中でもう一度」を読みました。
 主人公武藤と相棒佐敷が設立した《武佐音響研究所》に、相前後して二人の依頼人が訪れる。まず一人目、盲目の少女は、エコーロケーターです。エコーロケーターとは後天的な訓練で、コウモリが超音波を出し反響音を捉えて空間認知するように、常持しているクリッカーを鳴らすことで同様に空間把握できる人です(現実にモデルがあるとのこと)。
 彼女は小さい頃視力を失ったのですが、視力を失う前に見ていた故郷の商店街の様子をなんとなく憶えている(視覚を失ったら色彩なんか忘れてしまうようです。事物のくっきりした映像も消えてしまうのでしょうか。映像記憶というのは機能的に存在できなくなるんでしょうか)。
 その記憶を強化(というより維持?)してくれているのが、当時の商店街の喧騒を録音した一本のカセットテープ。それを聞いていると、風景がありありと浮かんでくる。
 ところが擦り切れるくらい聞いたためテープが劣化し殆んどノイズになってしまった。
 それをクリーニングして、元の音を復元してほしいという依頼だった。
 二人目は音楽系のタレント事務所の跡取り息子。失踪した所属ミュージシャンの居所を探り出してほしいという依頼。なぜ音響研究所にそんな依頼が?
 実はその女性ミュージシャンは両耳に障害があり難聴が進んでいた。それは音楽家にとって致命的です。で、《武佐音響研究所》が、音楽家のために依頼されて、自然な聴覚とほぼ同じ機能を果たす聴覚装置を設計したのでした。そしてそれにオプションとして当のミュージシャンが耳から入力した情報を全て音楽家の聴いた(脳が認識した)そのままに録音できる録音機が装備されていたのです。
 たまたま行方をくらましてから最後に送られてきた録音情報が残っていた。それを解析して、居所の手掛かりを探ってほしいとの依頼。
 音響研究所の、武ッ佐いコンビ(>おい!)は、この二つの依頼を同時に解決する妙案を思いついたのだったが!?
 いや面白い。音響工学SF? これ傑作です(^^)

 ところで19p「その差異は、彼女の骨振動までも《ネーメ》が捨っていることにある」は「拾っている」ではないでしょうか。

 

「なぞの転校生」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年 1月 6日(水)10時08分53秒
返信・引用
  番組が始まる前にどっとコマーシャルが入ったあとは、やはり原版その通りで、コマーシャルなしで突き進みました。ほっとしました。せっかくのNHKの原版なので、コマーシャルが入ると、げんなりです。
多分、昔もそんな思いでみていたのでしょう。何だか、昔に戻ったような気がしました。(予算がないので、ちゃちいっぽい感じは否めませんが。まあそれでも、その頃の私には十分だったと思います)
 

NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」日本映画専門チャンネルで明日放送開始

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 5日(火)21時06分43秒
返信・引用 編集済
  再掲。日本映画専門チャンネルにて、NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」(完全版全9話)の放映が始まります。
明日(1/6)からです。ご注意下さい。
伝説の名作をお見逃しなく!→日本映画専門チャンネルサイト

     ↓クリックで拡大


 

Re: NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」日本映画専門チャンネルで明日放送開始

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 5日(火)21時05分47秒
返信・引用
  > No.6804[元記事へ]

 段野さん
 ビデオに撮っておいたらどうですか。
 VHSをDVDにダビングしてくれる業者が沢山あるみたいです→こちら

 自分ででもできます。
 これを購入されれば、自分でできます。3218円ですから業者に頼むのとさほど違いませんね。
 しかもこれがあれば、お手持ちのVHSテープをすべてDVDにダビングできます。
 段野さんはVHSテープが山ほど持っておられそうですから、こっちのほうが経済的かも。

 

Re:NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」日本映画専門チャンネルで明日放送開始

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年 1月 5日(火)15時03分34秒
返信・引用
  テレビ東京系の「なぞの転校生」はいつから再放送しているのかと、番組表で見てみますと、去年の12月14日から第1話が放送になっていました。番組案内に特段に説明がなかったので、見落としていたのでしょう。ううむ、残念。そして、このテレビ東京系のものはしっかりとコマーシャルが入っていて、著作を示す「ドラマ24」がはっきりと残っていました。
少年ドラマシリーズに限らず、この時代のものは、NHKでさえも原版が残っていないことが多く、アーカイブスに寄せられた貴重なお宝です。あの「天下御免」の第1回放送分は、何と主役の山口崇の家族の方が、自宅で8ミリカメラで、テレビ画面を撮影したものがアーカイブスに寄せられていました。家庭用のビデオがまだ普及していなかった頃です。私もあまりに打つ手がなかったもので、カセットテープで録音したことがありましたが、音声だけではやはり物足りなかったことを覚えています。
 

Re: NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」日本映画チャンネルで明日放送開始

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 5日(火)14時21分17秒
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  > No.6801[元記事へ]

 段野さん
 CMは当然入るでしょう(^^;

 このNHK少年ドラマシリーズ版は、当時のこととてNHKにも原テープは保管されておらず幻の作品だったのですが、幸運にも家庭用VTRで録画していた方がおられ(75年に!)、NHKに寄贈されたことで再び視聴することが可能となったものです。
 これぞトリクルダウンでは?竹中さん(>冗談です。すみません)m(__)m

 

「なぞの転校生」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年 1月 5日(火)14時14分22秒
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  うちはケーブルテレビなので、番組を直接ハードディスクに録画できないのです。残念。いまさらビデオテープという訳にもいくまいかと思ったのですが、この際、ビデオに残しておくべきか、考え中です。
と番組表を見てみると、なんと、去年のテレビ東京系の「なぞの転校生」が、同じ時間枠で、今日まで放送されていました。今日(5日)は最終回です。そして、日本映画専門チャンネルは、この枠ではコマーシャルがありますので、少々うっとおしい感じです。明日からのは、NHKからのものだと思いますので、コマーシャルが入るのか、不明です。
 

NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」日本映画チャンネルで明日放送開始

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 5日(火)13時52分3秒
返信・引用
   急告。日本映画チャンネルにて、NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」(完全版全9話)の放映が始まります。
 明日(1/6)からです。
 伝説の名作をお見逃しなく!
http://www.nihon-eiga.com/program/detail/nh10006292.html

 

ふりだしに戻る

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 5日(火)01時32分47秒
返信・引用 編集済
   十干十二支一回転したことでもあり、付き合いをダウンサイジングしていこうと一念発起し、出す年賀状を減らしたのですが、なかなか難しいですなあ、減らした人から賀状が届くと、やはり書かないといけない気になって、結局三が日、お返しの賀状を書いては投函するはめに。元の木阿弥でした。減らす際、それなりに熟考して決めたのでしたが。
 届いた賀状も、当然、去年還暦を迎えた、もしくは今年迎える人も多いわけで、なかには定年を機に社労士行政書士事務所を開きましたと書いてきた人や、今までやれなかったことを自由気ままに挑戦したいと考え、関西を去り新しい住処に移る予定です、と書いてくる人もいたりして、今年は皆それぞれ激動の年なのだな、と、うたた感慨を禁じえません。皆さんどうぞお気張りやす。
 

 

「ビブリオグラフィ」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 4日(月)21時59分15秒
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  > No.6798[元記事へ]

 岡本俊弥「ビブリオグラフィ」を読みました。
 これは面白いです。人間の記憶とは何かがテーマのようです。
 主人公(話者)「僕」は、亡くなった父の遺品を整理するため、母が亡くなって以来5年ぶりに実家を訪れる。訪れてみると、男やもめの住む家にしては存外整理整頓されており、積み上げられた本の山などもなかった。
 僕は書棚に、父が著したとおぼしい数冊の本を見つけ、驚く。それも専門外の本なのだ。
 そんな趣味があったとは全然知らなかった僕は、詳しく知りたくなって書斎のデスクトップPCを開ける。見ていくと、そこには父の仕事のテーマであった「人間の記憶」に関する考察がメモされていた――

 というわけで、機械の記憶(メモリー)と人間の記憶(エピソード化)の違いが解説されます。これが大変興味深い。機械の記憶は逐一記憶するので膨大なメモリーを食うのですが、エピソード化された人間の記憶はそれを免れている(節約的)。しかしエピソード記憶は、ある意味必然的に模造記憶を発現せしめるのですね。
 われわれは意外に模造記憶を本当の記憶と信じているもので、それは同じ現象を見た他者の記憶と比較することで気づかされます。
「えー、それは違うで。こうこうやったやんか」「あれ、そやったかな」というやつです。
 その模造記憶の発現機制が、よくわかりました。人間の記憶における一種必然的な誤作動なのですね。特に私は思い込みが強すぎるせいか、この誤作動をよくおこします。脳に欠陥があるのではないか、と密かに心配していたので、ほっと安心しました(^^;

 話を戻します。上記の人間の記憶の原理を調べるため、膨大なデータ(一種の個人情報)が集められているのですが、当然、父も自分のデータを提出していたのです(その中には父の写真、母が猫を抱いた写真があって僕を和ませる)。
 それを閲覧するに、同一事項に対して複数の記憶が記述されているのです。どっちかが偽記憶でどっちかが本当の記憶なのか。それともどちらもニセモノなのか。
 それにしても、記述上の父は趣味の分野でもかなり著名人(BNF)だったようです。それを僕は知らなかった。これも人間の記憶の不確かさ故なのでしょうか。

 ふと気づくと、あたりは薄暗い。もう夕方なのだった。「私」は見ていた「タブレット」を閉じると、雑然と本が不安定に積み上がった書斎を出、編集者から届いていた封筒を開ける。そこには先日編集者が撮影していった写真が入っていた。自分と妻と猫の写った写真。
 それは「家族の写真」として、掲載されるはずのものだった……

 いやー面白い。エピソード化とはそういうことなんですね。力作でした。

 追記。だとしますと、エピソード記憶とはエントロピー平衡状態に仮設的にエントロピーを減少させるものといえるかも。つまり虚構?


 

岡本さん新作短篇

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 4日(月)04時23分41秒
返信・引用
   岡本俊弥さんが新作を「岡本家記録とは別の話」にアップされています→こちら
 42枚ということで、短篇ですね。
 さっき発見したばかりで、まだ読んでいないのですが、とりあえず皆さまにお知らせです。

 

「紐育、宜候」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 4日(月)01時19分0秒
返信・引用 編集済
   光瀬龍『紐育、宜候』(カドカワノベルズ、84)読了。
 一気読み。これは懐かしい<時間局員・笙子>ものでした。といっても笙子ほかメンバーが登場するのは、(260頁中)200頁を過ぎてから。
 ミッドウェイ海戦敗戦の噂が流れる昭和17年、池袋から発して西へ伸びる武蔵野鉄道で10分の町に住む15歳の千葉少年は、突然米軍の艦載機と陸軍の戦闘機の空中戦を目撃する。(艦載機が東京上空を飛んでいるということは米空母が来ているということだ)。あわてて家に走り帰るが、母親は幽霊を見る目で彼を見、家の奥へと去り、仏壇に向かって拝み始める。少年は自分が、制定されたばかりの《陸軍特別幹部候補生》として南方戦線に出征していることを知る。母親は息子の幽霊が帰ってきたのかと思ったわけです。
 そして戦況も、日本はミッドウェイ、ハワイを占領し、北ではアラスカ・アンカレッジを手中に収め、カナダ沿岸を南下中という、信じられないことになっていた。
 実は千葉少年は、別の並行宇宙、いや、この世界とは鏡像関係にある別世界へ跳ばされていたのです。
 新大久保駅から高田馬場駅にかけて展がる《戸山ヶ原》は、戦後都営住宅が建設されましたが、戦前は広大な草原がひろがっており、陸軍の練兵場や射撃場があった。その中央線大久保駅寄りの一角には、陸軍科学研究所や陸軍技術研究所をはじめ、何を仕事としているのかはっきりしない施設がその辺りを占めていた。殺人光線なども研究していたようです。
 そしてタイムマシンも研究されていた。
 どうもその誤動作か何かで、千葉少年(と他二人)は鏡像宇宙へ跳ばされてしまったらしい。これを千葉少年の視点から語れば、次第に劣勢になっていっていたのが、突如逆の戦況になっていたとなるわけですね。そして千葉少年が跳ばされたのと同時に、向こうからも向こうの千葉少年が、こちらの世界へ跳ばされていた(そのエピソードはほぼ書かれていませんが)。
 ということは、200ページ以降、時間局員の登場で説明されるのです。
 それまでは、向こうの世界に飛ばされた千葉たち三人の苦難が描写されます。
 最終的に千葉は、(タイムマシンで未来から盗んできた技術で)製造された超大型爆撃機・富嶽に乗り込み(乗り込まされ)、ハワイ島から飛び立って高度1万5000メートル(その高度まで上がってこれる迎撃機はアメリカにはない)でアメリカ大陸をひとまたぎ。一気にニューヨークへと向かう。積み込んでいるのは新型爆弾。航続距離は1万3000キロですが、ハワイ―NY間は9000キロ弱でしょうか。さすがに復路は無理です。つまり壮大な特攻作戦だったのです。

 というストーリーは、細かいところでいろいろ矛盾しているのですが(例えば《陸軍特別幹部候補生》の制定は、実際は翌18年)、まあこれは細部にこだわらない大陸的な著者のいつものことです。
 むしろ著者が本書で描きたかったのは、著者が実際に体験したのであろう、東京大空襲のすさまじさ、敗戦直後の風景。そして戦中の威張りくさった警官、憲兵の態度や、軍隊生活の陰険ないじめや理不尽な暴力だったのではないでしょうか。余談ですが、こんな軍隊が海外へ行ったら、内地より以上に傍若無人な振る舞いに及ばないはずがなかろう、と思わせられます。
 実体験ということで気づくのは、主人公の名前が千葉ということ。著者も旧姓は千葉なんですね(結婚時に飯塚姓)。著者の生まれ住んだ町は板橋区練馬南町(現練馬区)。まさに文中の「池袋から発して西へ伸びる武蔵野鉄道で10分の町」ではありませんか。ということで、本書は部分的に著者の私小説になっているようです。
 閑話休題。ストーリーもきちんと終結しているわけではなく、なぜ千葉はこの世界に戻れた(再度入れ替わった)のかよくわかりません。
 そもそもの発端のタイムマシンも、笙子たちがようやくその所在を突き止め、大田区大岡山※の古道具屋に向かうのですが、なんと1週間前に売れてしまっていた。購入したのは砂塚茂という中学生。
「砂塚茂という少年が何をしでかしたかは、角川文庫『夕ばえ作戦』をお読み下さい」って、おい(^^ゞ

※追記。大岡山というのが気になりますね。SFファンはピンとくるのでは? そう考えるとその前の所有者である加藤の「加藤」という名前も。(笑)

 

Re: 中年からの読書

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 3日(日)20時03分31秒
返信・引用 編集済
  > No.6795[元記事へ]

 斎藤さん
 安部公房全集全30巻!
 当然別格ですね(^^)
 私は持っていませんが、これ、全集として最高の水準みたいです。
 安部公房を論ずる人は、私の知る範囲では必ずこの全集をチェックしています。
 近所の図書館にあるのですが、途中で財政難になったみたいで全巻揃ってないんですよねえ(ーー;

 段野さん
 書かなければ読めます!(>おい)
 どっちを取るか、よーく考えてみよう(^^ゞ

 ということで、皆さん原稿は進んでいますでしょうか。私は1行も書いていません。あかんがな(ーー;

 

Re: 中年からの読書

 投稿者:斎藤  投稿日:2016年 1月 3日(日)15時43分29秒
返信・引用
  管理人さん、段野さん、おそまきながらですが、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
そして、私のブログの方をご覧頂き、こちらにコメントまで、ありがとうござます。
買ってから15年以上も書店カバーをかぶせたままの本にようやく辿り着いているような状況で本当にお恥ずかしい限りです。
眉村作品は、主人公が自分と同年代か若干下の年代のほうがその作品世界をより深く味わうことが出来るように思いました。
じゃ、眉村さんの近作を読むには、あと10年、20年待つ方が良いのか? と自分突っ込みを入れてしまいたくなります。

「カルタゴの運命」を書店の店頭(渋谷の今は無き結構大型の書店でした)で見つけた時には驚きました。
出版情報を知らなかったことに加え、そのブ厚さ(「消滅の光輪」を思い浮かべました)に驚きました。
眉村作品では、「引き潮のとき」や「不定期エスパー」で大作には慣れていたつもりでしたが、これらは分冊で順番に発売されていたので、一冊ずつだと並みの厚さでした。
すごい大作を書いたなあ、と感激しながらその辞書のような分厚くて重い本を持つ喜びに、足取りは逆に軽くなったことを覚えています。
それだけその新刊を喜んでいたくせに、まさかそれから15年も積読してしまうことになるとは夢にも思っていませんでした。
社会人になって10年を超えた位の頃で、本の購入冊数も一番多かったと思います。
90年代には新たに高橋克彦、隆慶一郎にはまっていて、彼らの既刊本を集中的に読み漁っていたころでした。
それと、眉村さんの新刊に対する「読むのがもったいない」という気持ちが重なって、結果昨年まで未読になっていたと思います。
今年は何とか、積読分はせめて10年前分までにしたい思っている次第です。
と、ここまで書いて、全くダメなことに気付きました。
安部公房全集全30巻が手付かずのままでした。ビニールもそのままというていたらくです。
全集は別格扱いということで行きたいと思います。
 

Re:中年からの読書

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年 1月 3日(日)13時16分56秒
返信・引用
  管理人様も斎藤様もよく読書されていますね。
「カルタゴの運命」については、まさに運命を感じました。
現場で本を「漁って」いました。私の眼に飛び込んできたのは、「カルタゴの運命」でした。本が「買ってくれ」と私に叫んでいるようで、思わず手に取りました。もう、即、買いです。社内売りなので、その日の私の財布は痛みません。(その代り、来月の給料に魔物が潜んでいます。給料天引きなのです)「カルタゴの運命」の版元を見ますと、これはもう刷り部数が少ないと直感で思い、この機会を逃すと、二度と私の前には現れないと感じて、買いました。やはりその後も、姿を見かけませんでした。勿論、お目当てという探し方もあるのですが、その時には運命を感じました。こういう出会いもあるのだと、しみじみと思いました。
 

中年からの読書

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 3日(日)01時04分25秒
返信・引用 編集済
   当掲示板のご常連、斎藤さんの昨年の読書結果
 おっしゃっているように眉村作品は、若いころ読んだ作品をいま読みますと、ずいぶん読後感が変わってしまって、若い頃感じた面白さとは、また別の面白さを発見したりしますよね。

>主人公の心情に共感出来る面白さに変化していました。
 たしかに眉村作品の主人公の心情行動は、そう言われれば私も、若い頃はちょっと反発してしまう場合もあったことを、いま思い出しました。
 それがある年齢に達してから再読すると、逆にその辺に強く共感していることが多いように思います。
 その意味ではむしろ、SF読者が高齢化した現在のほうが、眉村さんは読者に正しく読まれるようになったのではないでしょうか。

『カルタゴの運命』(98)は私も大好きな作品です。でも感想や書評を、ネットでもほとんど見かけないんですよね。出た時期がSF冬の時代で、しかも出版社がジャンル違いだったこともあって、あんまりSF読者の目に止まらなかったのだと思います。はっきりセンス・オブ・ワンダーのある(それも大センス・オブ・ワンダーと小センス・オブ・ワンダーのどっちもある)傑作なんですけどねえ(^^)

 大江健三郎は私も体系的に読み返さねばと思いながら、なかなか踏ん切りがつきません。他の純文作家も同様ですが、80年代初頭でストップしてしまっているので(実はSF作家も)、とりあえずそこまで再読してから80年代中盤以降の作品に取り掛かりたいと考えているのですが。『宙返り』まで到達するのは、いつになることやら(汗)

 

Re: 牡丹峰(モランボン)は平壌市内にある小丘

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 2日(土)04時26分15秒
返信・引用
  > No.6789[元記事へ]

 
 上は、2014年4月20日北朝鮮空軍のために開催されたコンサートのyoutube動画から、切り出したものです。
 いや全部見る価値は充分あるコンサートなんですよ。
 でもねえ、難儀なことに冒頭、将軍様が入場してくるシーンがあるのですよねえ。耐性のない方にはなかなかしんどいかも、と思いましたので(>おい)(^^;
 このコンサート、楽団が自己批判した「第9回全国芸術人大会」が5月17日ですから、そのわずか1か月前に行われたものなのです。
 3月の公演では登場しなかった団員が、この公演では既に復帰していて、マンセイ色はあからさまながら、それなりに以前のスタイルも復活しつつあるように感じられました。
 ソヌ・ヒャンヒさんの影が薄くなっているのかな、と思っていましたが、そんなことはなく、バンド組では一番アップも多いですし、何よりバンド組でテロップに名前が出たのはソヌさんのみ。
 上に切り出したのは、これはめずらしい弦楽カルテットが歌を披露している部分です。あとにもさきにも、これっきりの超レア映像です(^^; ここでもソヌさんのアップが一番多い。
 こんな一種の余興を企画するなんて、この時点で楽団もかなり楽観的になっていたのではないでしょうか。なんといっても将軍様が観に来ているわけですから。
 それが、わずか1か月もたたず「外国のモノマネをしていました」と自己批判することになろうとは。
 その「第9回全国芸術人大会」でのソヌさんの態度については既に述べました。
 それ以降の公演、私が視聴したのでは、9月の映像にソヌさんが見えますが、翌2015年は、アップされている1月の公演にも10月の公演にもその姿は確認できません。もちろん1月と10月では点描にしても間があきすぎています。その間に出演した演奏会がなかったとはとても断定できません。しかしネット上をいろいろ見てきましたが、どうもそんな記述は見当たらないですね(もちろん単なる手の負傷なのかもしれません。しかし腱鞘炎の治療に1年以上もかかるのでしょうか)。

 

Re: 謹賀新年

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 1日(金)17時31分36秒
返信・引用 編集済
  > No.6790[元記事へ]

 申年の今年を象徴するような、不穏な情景ですなあ。

 

謹賀新年

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 1月 1日(金)17時23分43秒
返信・引用 編集済
 
  真昼。団地の中庭の樹々がこまかく揺れては、敷石に小さな無数の光点をばらまく。

  風のベンチは眠気を誘った。どうしたことか、誰もいない。

  不意に小さい足音が近づいてきた。

  老人といっていいような小柄な男。風呂敷包みを背負って、

  老人はゆっくり風呂敷包みを開けはじめた。

  真昼の静けさの中、

  不意に、じゃん、じゃん、じゃんと急調子で、猿がシンバルを叩きはじめた。

  首を振り、跳ねあがり、向きを変えながら、狂ったように叩きまわった。

  それは団地の中庭とは全く異質で、不気味なショーだった。

  せかせかした演奏は、しかし、一分とたたないうちに終り、

  老人はゆっくりと玩具を包みはじめた。

――眉村卓「交替の季節」より


 


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