ヘリコニア過去ログ1610

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月31日(月)21時53分33秒
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   素晴らしい! ただこの記事の書き方では、知識のない人には「発達障害なのにこんな凄いことを成し遂げたのか」と読まれてしまいそうなところが問題。「発達障害(就中<自閉症スペクトラム>)だからこそなし得た凄いこと」なのだから、そこをはっきり書かないと、記事にした意義がぼけてしまいます。
 

 

Re: 第2回藤本義一文学賞

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月31日(月)20時55分17秒
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  > No.7350[元記事へ]

 段野さん
>今年はどうだったのでしょうか
 今年はぼちぼちという感じだったのではないでしょうか。特別注目を引くほどどっとアクセスが来ることはなかったです。瞬間的に1日数アクセスあったような気もしますが、せいぜい2日に1アクセスくらい?
 しかも今年は義一賞について話題にすることがなかったですよね。ですから、来た人も実際のところ、去年の書き込みに到着しているわけで、ああ来てくれはったけど無駄骨でしたなあ、ご苦労さん、という思いで検索キイワード(というのが見れるのです)を眺めていました(^^;

>何だか、作品以前に問題があるみたいです
 というか、どの応募文学賞でも同じですが、そういうのにはじめて応募する人が一定の割合でいるわけです。彼らははじめてですから常連には当たり前のことも知らなかったりするわけです(私もそうでした)(^^;。
 そういうときは近くにいる大人に訊ねればいいのですが、まあふつう親には聞けませんわな(というか秘密にしているでしょう)、自己勝手な解釈で送ってしまう人も少なからずいるのだと思います。「生暖かく」見守ってあげればいいのではないでしょうか(笑)※生暖かく見守るなんてのも最近の造語ですよね。言い得て妙だと思います。
 しかし――
>郵便料金の不足
 ポスト投函したということだと思いますが、一般的に言って、料金不足だと撥ねられて戻ってくるのではないでしょうか。届かないのだからその事実は主催者にわからないと思うのですが、どうしてわかったんでしょうね。知りたいです(^^;

※今思い出したけど、私なんか、つい数ヶ月前、切手を貼り忘れて投函し、戻ってきたことがありました(^^ゞ
 

第2回藤本義一文学賞

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年10月31日(月)15時12分49秒
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  10月28日に発表されました。今回は632篇、昨年より少ないです。最終発表に知り合いの方はおられませんでした。(1次、2次にはおられたかも知れませんが)
昨年は、私が掲示板に書き込んだせいか、ここにアクセスする人が多かったとのことですが、今年はどうだったのでしょうか。昨年のいきさつでは館長さん(お嬢さんですね)が、この掲示板に触れられておられました。
今年は、館長さんが、選考までのいきさつを記しておられます。選考に関しては、「たる出版」から刊行されますので、それ以外で気になったことを書かせてもらいます。
まず、宛先。「文学賞宛」「文学賞」の後に、何もない人もいたそうです。封筒の裏には「名無し」。これは、自分に戻らないことになりかねませんので、要注意とのことです。また、「当日消印有効」でしたが、締め切りを過ぎていたものもあったそうです。多分、ポストに投函したのでしょう。このような時には、郵便局に行き、「当日消印有効」を依頼すべし、とのことでした。(私は、郵便料金が分からないので、窓口に行くことが絶対だと思っていました)
また、郵便料金の不足もあったそうです(困った人ですね)
あと、応募規定に外れているもの、「最終ページ」がなかった作品もあったとのことです。信じられないです。
「周辺のことも十分に注意を払って下さい」とのことでした。
このようなことが、他の文学賞でも、多々あるのかと思うと、何だか、作品以前に問題があるみたいです。気を付けねばならないと、感じました。
 

     

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月31日(月)00時50分29秒
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        元記事
 

「007 スペクター」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月30日(日)19時42分35秒
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   ということで、DVD「007 スペクター」(15)を観ました。
 今回観た三作品の中では、やはり一番面白かった。貫禄といいますか、蓄積されたノウハウの勝利でしょうか。
 面白いと思ったのは、本作では、MI-6 の00セクションが時代遅れの遺物として一旦廃止されてしまうのですが、「ミッション・インポシブル」でも、スタンドプレイの多いIMF(インポシブル・ミッション・フォース)が、同じく時代に合わないとして解体されCIAに吸収されてしまうのです。
 本国公開は「ミッション・インポシブル」が15年7月、「007」がその3ヶ月後と、ほぼ同時期で、当然偶然の一致なのですが、蓋しこれはどちらの製作者も内心のホンネが無意識にシナリオに反映されたものではないか。そう深読みしたくもなったのでした。
 こういう設定でのシナリオがだんだん荒唐無稽化しているのを、一番感じているのは、製作者ということかもしれませんなあ(^^;

 

「ミッション・インポシブル ローグ・ネイション」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月30日(日)00時49分29秒
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   DVD「ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション」(15)を観ました。
 いやこれも面白かった。2時間10分あっという間でした。ただその面白さの質は、スパイ大作戦というより007でしたね(^^;
 オリジナルのスパイ大作戦では、アクションシーンは極力抑えられたシナリオで、コンゲーム的な騙し合いがメインでしたよね。体力より頭脳が強調された作風でした。ある意味007の対角を狙った感じが新鮮だった。
 それからすると、ちょっと違うかな、という印象を(観たあとに)もちましたが、観ている最中はそんなことは思いつきもせず、楽しんでいました。
 まあ映画化の2時間を越えるようなシナリオでは、そうならざるをえないのかもしれませんね。
 それにしても、読書ですと30分も読めば集中力が途切れてしまうのに、映画だと切れないのは不思議といえば不思議。やはり能動的娯楽と受動的娯楽の違いでしょうか。

 

「主観というブラックホール」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月29日(土)20時38分42秒
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  > No.7344[元記事へ]

 著者によれば、17世紀にデカルトの二元論から分岐し確立したもっとも新しい知の枠組みである自然科学(革命)は、しかしその根本的性格である客観性信念によってデカルト二元論から心を捨象し、いわば物一元論に特化してしまった。そしてその科学的思考の弊害(倫理の欠如)が20世紀以降顕在化してきたとします(原爆、公害etc)。
 著者は、現代という時代は、科学という知の枠組みがその役割を終え、しかしそれに変わるべき新しい知の枠組みはまだ見えていない、いわば地球磁場反転の瞬間のような時代であるとして、科学を継ぐのは誰か、いかなる新しい知の枠組みか、を考察しているわけです。
 そして新しい知の枠組みに要求される要件として、まず第一に、「主観=心を扱える知の手法」でなくてはならない」とします。
 そこから必然的に第二の要件として、それは「倫理的な手法」でなくてはならない」ことが導出される。

 ところで科学革命を般化させたのは「微積分という数学的 手法の発明」なのだそうです。
 ところがこれは、ある意味詐欺的手法だったんですね。と言うのは他でもありません、微分とは無限の細分化です。円を無限に細分化していけば、最終的に円は直線になるというのが微分の原理(公理?)なのですが、でも実際はそうではない。円をいくら顕微鏡で拡大していっても、円は円で直線にはなりません。近似でしかない。(著者は微積分を「力まかせの棍棒」に例えます)
 しかしこれが威力を発揮して、科学は人間を月に送り、冥王星を裏から撮影することまで実現してしまいました。いやもっと身近な、車のエンジンも、発電所も、通信も、すべて微積分を用いなければ実現しなかった。
 力まかせの棍棒ですが、実体的な力を発揮したのです。

 著者の構想する新しい知の枠組みは、上記のような二つの要件を持たなければならないのは当然として、それと同時に、微積分に変わりうる新しい実体的な棍棒を持たなければ、次のエピステーメーにはなりえません。

 コンピュータの進化によって、人類は非線形をそのまま解析できる計算能力を獲得しました(複雑系)。では複雑系の科学が新しい知の枠組みの棍棒なのか。
 著者は否定的です。微積分は非線形な自然を線形に近似させることで実用的成果をあげたのですが、いまだに科学が及ばない分野があります。
 それは天気予報です。コンピュータの計算能力を駆使しても、いまだに予報率は100%になりません。ここに著者は解析学の至らなさ、新しい知の枠組みの棍棒とはなりえない理由を見つけます。結局コンピュータも微積分(解析学)なのですね。
 著者によれば、天気予報もコンピュータによって細分化されたデータを計算(分析、解析)できるようになっているわけですが、うまくいかないのは、「問題は、それを統合し、広い領域全体の予測として計算する過程にある」。「微分方程式を解く段階で必要となる積分操作が問題」「積分が正しい値を得るためには、積分するための各要素を無限小にしておかねばならない。ところが、現実にはそうは出来ないから、有限の小さな領域で近似するしかない。その近似は、近似として十分利用利用価値はあるのだが、それを全体に積分( integral)する過程において不適切さが生じる」のだそうです。
 問題は「無限大」にあったのです(要約は省略)。したがって「新しい知の枠組みは、微積分とは対照的な、細分化せずに、全体を統括的に把握する、まったく新しい手法にゆだねられねばならないのではないか」
 新しい知の枠組みの、第3の要件として、著者は「分割ではなく統合的な手法」を挙げます。

 ということで、橋元淳一郎『科学と哲学に関するつぶやき(第6巻)主観というブラックホール』(Kindle版、16)読了です。

※ということで、本日発売の第7巻『神と科学の退場』購入しました。


 

DVD「オデッセイ」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月29日(土)01時13分4秒
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   先般といっても数カ月前、ツタヤのカードを更新しました。そのとき思ったのは、前回のカード更新から今回の更新までの1年間、一度も借りなかったのではなかったか、ということでした。
 おそらく間違いありません。これでは何のための更新か、とわれながら呆れてしまいました。(更新するとサービスで 1枚無料になるので、それは利用しましたが)
 たまには借りなくては ―― と思いつつ、それからまた数カ月が。
 今日たまたまツタヤの前を通りかかり、そうだったと思い出し、借りてきました。

 ということで、「オデッセイ」(15)を観ました。
 いやー、これは面白かった。興奮しました。
 原作がハヤカワ文庫から出ています。アンディ・ウィアー『火星の人』という作品で、そこそこ評判になっていましたが、確かにこの設定なら面白くならないはずがありませんね。
 一種のプロジェクトものになるでしょう。サバイバルものでもあります。
 また、地球からも見えているわけで、これは『渇きの海』と同じです。
 そしてこのシチュエーション、北杜夫『白きたおやかな峰』がそうでしたね。その意味では山岳ものの一変種と言ってもよいかも。
 主人公からすればありあわせのものを工夫する(ブリコラージュ)孤独なサバイバルものですが、地球からすれば針の穴を通す宇宙テクノロジーの粋をこらした救出プロジェクトとなる。観客にすればその両面から迫っていけるわけで、それがこの設定の最大のポイントですね。

 

「主観というブラックホール」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月28日(金)20時55分39秒
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  > No.7342[元記事へ]

 図3を再掲します。
 
 私は、生命(命)の発生を、見た目「無」状態から相転移で雨滴や霜が発生するイメージでとらえましたが、著者は「泡」(球)とイメージしています。
 これはブラックホールのアナロジーから導出されたものだからで、恒星のブラックホール化は、重力による時空の歪みでシュバルツシルト障壁ができあがったことで完成します。
 同様に「生命」も、図のようにぐにゅーっと伸びていた繋がりが切れて(障壁の完成)、独立的な状態(泡)となってはじめて「生命」の発生となる。
 ということだと解釈しました。
 ところで私は、生命(主観)と外界は相互内在していると認識していたので(たとえば身体は物質(外界)ですが、「私」の一部と認識されます。外界が内界に取り込まれています)、外界と切れてしまっては、外界と交通できないのではないか、と一瞬思ったのですが、このアナロジーは水中に泡が浮かんでいる状態をイメージしているようで、それなら納得です。むしろ生命は外界と交通しつつ(同時に)自己完結的な状態ですから、このアナロジーはアナロジーとして非常に優れていますね。
 さて、この泡は、エントロピー張力に抗している間は(つまり泡を保っている限りは)生命として「生きて」いる。エントロピー張力に負けると泡がほころび、つまり死を迎える。
「この主観相である泡は、安定した存在ではなく、つねにエントロピー的張力と戦わねばならない。そして、いつかはその力に負け、物質相へと 開き、物質的存在へと解消されてしまう」
 余談ですが、生命とはかかるエントロピーに抗している状態を指し(マイナス・エントロピー)、それが「時間」を発生させる契機となるのだとすれば、著者の時間論につながると思います。
 このことから著者は、
「真に存在するものは、ただ一つの精神空間に作用する張力と応力であって、物質や主観ではないのである」
「その面が球形に閉じ、応力と張力が拮抗しているとき、我々は自分の内部に主観があると錯覚する」

 もっとも千万!!(>おい)(汗)
 いやー、主観は「錯覚」だったのですね(^^;
「閉じた球が、エントロピー的張力によって開くとき、それは主観の死を意味するが、それは精神空間の幾何学的変化にすぎない」
 この記述も、相対論のミンコフスキー時空を髣髴とさせられますね。
 

横溝正史生誕地碑建立12周年記念イベントのお知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月27日(木)00時28分40秒
返信・引用 編集済
   横溝正史生誕地碑建立12周年記念イベントのお知らせ。
 11月12日(土)午後2時〜
 講演:杉本一文氏(銅版画家イラストレーター)「横溝作品の文庫カバー絵とのかかわり」※原画も少しだけだそうですが展示されるとのこと(直前まで岡山で原画展が行われていて、輸送的に無理だったようです)。
 詳細はフライヤーを御覧ください。

 これが行われると、気分は一気に年末ですね。

    クリックで拡大↓
 

「主観というブラックホール」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月26日(水)22時14分53秒
返信・引用 編集済
  『主観というブラックホール』、半分読みました。
 著者によれば、今日の諸問題は、デカルト的二元論に基づいて哲学から分離、成立した科学が、その根本的性格によって、物と心のうち、心を単なる視者(主観)に矮小化してしまった(したがって内なる倫理を取り扱えない)ことに起因している、と考えます。そしてそれを超克するためには、科学と哲学の再統合による新しい知の枠組みを作り出さなければならないとします。
 ただしそれは、デカルト以前に戻ることを意味しません。17世紀以降、科学が人間に多大な貢献をしてきたことは間違いない。それゆえ新しい知の枠組みは、当然、科学を捨て去ることであってはならない。
 著者の試みは、現在の「主観」→「物質」の一方通行を基礎とする二元論的「科学」の固定観念を揚棄するような全く新しい知の枠組みの探求なのです。
 著者は、それを旧科学の時空観念を相対論の時空観念へと移行させた座標変換のアナロジーで説明します。つまり独立し直交するものと捉えられていた旧来の時空観念が、アインシュタインによって相関的なものとして捉え返されたように、従来、独立的で直交するものとされていた主観と外界を、相関的なものとして捉え返そう、というわけです。(それはいわば、主観と外界の合体した、唯識論の「識」のようなものであろうと著者は想像します)
 さらに別の比喩(トポロジカルな図)でも説明されます。

「図1は、 重力場による時空の歪みによって生ずるブラックホールの様子を示した模式図である。ブラックホールは、 シュヴァルツシルトの障壁で外界から遮断されてしまうが、その外部解と内部解は、図のように連結することが出来る」
 
「同じような図を、物質と意識の関係に適用してみよう。 生命現象の存在しない物質世界を、水平な平面で表す。念のため注釈しておけば、この平面は距離距離的時間的空間を示すものではない。そこでこの平面を、「精神空間」における「物質相」と呼んでおこう」
 
「静かな水面は、重力の作用によって平らになるが、この物質相は、外側に引っ張られるある種の張力によって、平らになっているとしよう。この張力を、「エントロピー的張力」と呼ぶ。さらにこの物質相には、エントロピー的張力に対抗して、面に対して垂直な方向に「 秩序的垂直応力」と呼ぶ力が内在しているとしよう」
 
「さて、 完全に静かで平らな水面など存在しないように、この物質相もランダム・ノイズのようなもので、つねにさざ波が立っているとしよう。これらのさざ波は、たいていはエントロピー的張力によって元の物質相に戻されるが、その「くぼみ」がある閾値を超えると、秩序的垂直応力によって成長することがある。これを生命とみなすのである」

 いやあ、圧倒的なイメージではありませんか!
 わたし的に(より不完全に)言い換えるなら、冷却によって空気中の水分が凝り、水滴になったり、昇華してさっと霜が拡がったりする、そんな感じ。生命(主観。意識?)は物理宇宙から霜のように析出され、やがて「エントロピー張力」に負けて消滅して(死んで)しまう。
 確乎たる主観というアプリオリを疑うことなく受け入れてしまっているわれわれ善男善女にとって、なんともショックな、冷厳なヴィジョンの提示ではありませんか!!

 

ハイカラ神戸幻視行スケッチ歩き

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月24日(月)02時09分53秒
返信・引用
   ハイカラ神戸幻視行フェア(11/16〜28)については既報のとおりですが、その一環として「ハイカラ神戸幻視行スケッチ歩き」が催行されるそうです。
 
 11/20(日)午後1時半から4時頃まで。
 案内人戸田勝久画伯とともに、ハイカラ神戸幻視行に書かれた旧居留地界隈を、スケッチしながら遊歩するというなかなかユニークな企画です。
 申込みは1003books@gmail.com 又はTEL 050−3692−1329
 詳しくはこちらでご確認下さい。
 定員10名とのことで、すぐに枠は埋まってしまうと思います。興味のある方はお急ぎを!
 

 

Re: 「20億の針」読書会

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月23日(日)16時04分6秒
返信・引用 編集済
  > No.7333[元記事へ]

 さて――昨日書き込んだあと、雑用が出来し、結局4時30分頃発の各停乗車となりました。天王寺着が5時45分頃。なんと1時間15分かかった(快速乗り換えなら35分)。予想以上に各停の細分化が進行していることを知りました。
 しかしまあ、そのおかげで『20億の針』は完読。
 それで気が緩んだのか、天王寺から環状線に乗るつもりで、電光掲示板を見れば17番線の関空快速が先発とのこと。17番線に行ったらうまい具合に電車が入構してきたので、何も考えず乗ったのが、JR難波行き大和路快速でした(汗)
 橋元さんの新刊『主観というブラックホール』を読み始めていたので、JR難波に到着するまで乗り間違いに気がつかず。あわててちょうど同じホームの反対側に停まっていた加茂方面行き大和路快速に乗り、新今宮で下車。ここでも何も考えず、というか橋元本に集中しすぎていて(あんまり利用しないのでプラットホームひとつだけと思い込んだようです)、同じホームの反対側に並び、来た環状線に乗り込んだら、(当然ですが)これが内回りだった。あ、しまったと思いましたが、そこで列を離れたら負け、という気がし、天王寺発ならどっち周りでも同じではないか、と、そのまま大阪まで乗ってしまいました。
 いやー、電車読書は集中できると昨日書き込みましたが、集中できすぎましたね(汗)。結局大阪着6時30分で、ぎりぎり読書会に間に合いました(この会は10分や15分遅れて始まるのがデフォルトなのです)(^^ゞ

 前置きが長くなりました。あとは簡単に(>おい)(^^;
 当会はミステリの会ですがSFも読んでいる人が多いのも特徴。ミステリのみの方はむしろ少数なのですが、そのミステリ専門の方には不評でした(途中で挫折した人も)。
 SF界ではSFミステリとして有名な本ですが、ミステリとして読む場合、かなり甘いのですね。
 読書会は専らミステリとして面白くなるにはどう書けばいいかという話になってしまいました(笑)
 それを拝聴していて私は、結局著者は、理科の教師でファンライターであるという経歴それから一歩も出ることがなかった作家だったのだな、と思い至りました。
 著者にとって、創作とは科学的知識をいかに小説化するか、小説中に散りばめるか、だけにほぼ限定されていて、面白いお話を書こうとかいう意識は希薄だったのではないか、いやむしろこんなお話こそが著者には一番面白いものなのだったんでしょう。
 私はSF読者ですから、このようなストーリー(ストーリーに発展性がなくても)は許容できてしまうので、楽しめました。
 でも読書会で出てきた意見はすべて納得できるものでもありましたね。
 SF的な立場からでも、寄生した取り手が本当に捕りてなのか、犯罪者がそう騙しているだけではないかという形式にする手もあった、そっちのほうが格段にサスペンスは高まる、とか、追うものも追われるものも、帰る手立てはなく死ぬまで地球にとどまらなくてはならない、という面に焦点を当てれば、光瀬的な無常SFになったのではないか、とか、特に後者は私の好みの展開なので、残念な気もしましたが、後者の場合は読者がそう思いを馳せればいいだけのことで、実際私もラストでそのように妄想することで余韻を楽しんだのでした(続編「一千億の針」は救援の物資が届いていてそれを探すという設定らしいです。読んだ人によると)。
 読書会の楽しみは、自分の思いもしなかった感想に出会えることで、今回は殊にその面でいろいろ得るものがあった読書会でした(^^)

 

Re: 眉村さん関連の書籍情報です。

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月23日(日)14時56分40秒
返信・引用
   斎藤さん
 早速ご返信くださりありがとうございましたm(__)m
>こういう催し物に出くわすと、
 本当、文化は東京に集中してますね。うらやましいかぎり。
 高田渡さんも言ってました。
 ♪東京はいいところさ 眺めるなら申し分なし(>おい)m(__)m

 

 

Re: 眉村さん関連の書籍情報です。

 投稿者:斎藤  投稿日:2016年10月23日(日)14時23分18秒
返信・引用
  > No.7337[元記事へ]

管理人様
本の値段は税込みで3千円丁度でした。

段野様、管理人様
この「竹尾」という神保町のお店は、一階がショップで、2階が展示場でした。
一階のショップには、紙がたくさん置かれていました。
でも、通常のいわゆる「紙屋」さんとは全く趣が違っていて、何となく、仕立て専用の呉服屋さんを思い浮かべました。
普通なら入ること自体に敷居の高さを感じてしまいそうな所でした。
今回のような催し物だと気軽には入れて良かったです。
こういう催し物に出くわすと、東北の田舎から関東に出てきて良かったと改めて思う次第です。
トークイベントは平日でしたので無理だなあと思い諦めました。
是非聞いてみたかったです。

 

Re: 眉村さん関連の書籍情報です。

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月23日(日)14時05分42秒
返信・引用
  > No.7335[元記事へ]

 斎藤さん
 ツイッターで紹介したらさっそくお値段を聞かれてしまいました。ご教示くださると幸甚。なんでしたらメールででも結構ですm(__)m

 

Re:眉村さん関連の書籍情報です

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年10月23日(日)13時58分46秒
返信・引用 編集済
  斎藤さま
すごい「ディープ」なところにたどり着かれましたね。
「株式会社竹尾」は、恐らく「紙の問屋」さんなのでしょう。その業界紙みたいなのが「図書設計」だと思われます。一般書店にはない(記憶では)とみました。
毎回、斎藤さまの行動力には驚かされます。今回も、係員に交渉、「本」の購入ができることが分かり、おまけに、カバーの種類まで選択されたとか。3種のカバーで、色々と趣向が変わる、本好きにはたまらないことでしょう。(通常は、一種のみ、増版するとカバーを代えてくる版元もありますが、それは少ないでしょう)
購入されて、よかったですね。「スペシャルトーク」の受付は終了したとか。どんな経緯で、この展覧会が開かれることになったとか、執筆陣のチョイスとかの話があったかも知れません。ちょっと惜しかったかも知れませんね。(それは、興味がないと、おっしゃるかも知れませんが)
わざわざとお出かけになられて、収穫あり、で、よかったですね。
 

Re: 眉村さん関連の書籍情報です。

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月23日(日)13時40分2秒
返信・引用
  > No.7334[元記事へ]

 斎藤さん
「本迷宮 ――本を巡る不思議な物語」展のご紹介ありがとうございました。
 リンク先へ行ってみましたが、そこに書かれている内容は、一読ではよくわかりませんでした。斎藤さんの書き込みを読んでようやく理解できました(^^;
 あまり一般に馴染みのない分野に光を当てるなかなかユニークな試みの展覧会ですね。
 当該ページを読んでいきますと、会場の見本帖本店にはそういう紙を販売しているショップがあるようですね。個人客向けなのでしょうか。私も手製本を実際に製作しているわけで大変興味深いです。
 ネットでもその手のショップがあり覗いたことがありますが、実際に見て触ってみなければ、購入までなかなか進みません。送料もかかってしまいます。大阪にもあったらなあと思ってしまいました。
 なにはともあれ、よい買い物をされましたね、おめでとうございます(^^)
 眉村さん情報でもありますし、まだ会期もあるようですので、ツイッターで紹介させていただきますね。よろしくお願いします。

 

眉村さん関連の書籍情報です。

 投稿者:斎藤  投稿日:2016年10月23日(日)09時21分59秒
返信・引用
  眉村さん作品関連で次の情報を見つけました。

https://www.takeo.co.jp/exhibition/mihoncho/detail/20161021.html

「本を巡る不思議な物語」というサブタイトルにも、とても惹かれました。
「本」という「物」自体に愛着を感じる身には捨て置けないものです。
眉村さん作品が収録されているということで、これは現物を確認せねばと、昨日神保町に出かけてきました。
リンク先の案内を見る限り、「展」とあるので、本の装丁を見せるだけなのか、本の販売も行っているのかは不明でした。
しかし、もし販売されているのなら「買わねば」と思った次第です。

展示コーナーに入って、先ずは物販の有無を確認しましたが、本を売っている様子は無く、「これは展示のみか」とすこしガッカリです。
でもせっかくなので、現物を見るだけでも見ようと展示コーナーを回りました。
テーマの本の展示は一冊だけでなく、10冊以上でした。
これはどういうことかと思い、一冊ずつ手に取って確認すると、中身は全冊同じで、ブックカバーが全て異なっていたのです。
眉村さんの作品「来たければ来い」というタイトルで、冒頭に収録されていました。
収録作は全て4ページほどの掌編作品で、全てに2ページ見開きで異なる画家の手によるイラストが収録されています。
本は四六判ハードカバーで、通常のハードカバー本と異なり、カバー部と本文部が全く同じサイズなので、少し小柄に見えます。
本の背側は布張り「
独特なのが使用されている用紙で、作品毎に紙の種類が異なっていて、作品の最後にはその紙の種類が記載されていました。

目次の用紙には、
 ・竹あやGA きなり 四六判Y目 100kg
とあります。

眉村さんの作品では
 ・新局紙 白 四六判Y目 100kg
とありました。

更に他の方の作品では
 ・ミルトGAスピリット スノーホワイト 四六判Y目 110kg

とあり、全てに紙の種類を異ならせて製本されていました。
素人には「何のこっちゃよう分からん」なのですが、本自体が製本用紙の見本品になっているようです。
実際、ページを変えると色や手触り、紙の密度感に差があるように感じました。
面白い趣向の本だと思いました。

異なるカバーは、純和風な絵柄から、真鍋博さんを思い起こさせる絵柄、ホラー小説っぽい絵柄、シンプルな文字デザインだけの広告のような絵柄、和書風な絵柄等、全く別の本と思えるもので、眺めているだけでも楽しいものでした。
これは是非欲しいなあと思い、本の裏を見ましたが、期待した本の値段は印刷されおらず、やはり非売品のように見えました。

改めてガッカリし直し、別のコーナーを見やると、カバーが見開かれた状態で一枚の絵として展示されていました。
カバーもこうして表と裏を分けずに一枚の絵としてみると、本のオモテ面のみで見たときとは違った印象になり、絵としての面白さを感じました。
カバー絵を次々と眺めて行ったときに、ある貼り紙に気付きました。
そこには「一冊お買い上げごとにカバーを3種選べます」とありました。
思わず二度見です。
どこにも本の販売コーナーは無いのでこれはどういうことかと思い、展示室の係員の方に思い切って訪ねてみました。
すると、本は購入出来るという嬉しい回答だったのです。
カウンターのようなところに申込用紙があり、そこに好きなカバーデザインの番号を3つまで記入して係の方に渡すと、本と選択したカバー3種を購入出来るのでした。
その時に改めて知ったのは、選べるのはカバーデザインだけではなく、カバーの紙の種類も選べるとのことでした。
カバー用紙は、ツルっとしたもの、普通の紙っぽいもの、デコボコのついたエンボス加工のものの3種があり、カバー絵毎に選択可能でした。

となると、改めてこの3つをどれにするかを決めるため、もう一度絵柄の再確認です。
自分はどの絵柄が好きなのか、たっぷり時間を取って眉村さん作品が収録されていてふさわしいと思える3種にしぼりました。
あとは用紙種類の選択だけです。
結果、用紙は全てエンボスタイプにしました。
なんとなく、本のカバーとして一番高級感があると感じたからです。

3種のカバーを一冊の本に重ね掛けをして眺めるのも楽しいものですね。

以上です。
 

「20億の針」読書会

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月22日(土)13時22分10秒
返信・引用
   今日は畸人郷読書会なのですが、課題の『20億の針』、ここ数日暇がなくてまだ読み終えていません。
 昨夜の就寝時点で260頁まで読み、のこり70頁。まあ午前中に読み終わるかと楽観視していたら、なかなか。
 ということでもう少ししたら出発します。
 いえ、車中読書が一番集中できるのです(^^;。鈍行に乗って読むことにします。最近の鈍行は快速と連絡が良くなっていて、それはそれでいいのですが、鈍行視点で言えば、数駅ごとに快速通過待ちで、長いときは10分弱停車する駅もあります。鈍行に関しては昔より時間がかかるようになっている。そもそも鈍行で終着駅まで乗るということが想定されていません。
 ところがこれを私視点で言えば、快適な読書時間がより長くなるというわけです(^^;
 鈍行乗り継ぎだと大阪まで1時間半弱か(快速乗り換えですと50分くらい)。大阪駅についた頃、ちょうど読み終わっているでしょう。もし無理だったら、残りは喫茶店で読む。こういうとき、ジャズ喫茶の全滅がこたえますねえ。

 

Re: 「豪邸の住人」朗読

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月22日(土)00時01分31秒
返信・引用
  > No.7298[元記事へ]

 おっと、今日だ。

> 眉村卓さんの小説「豪邸の住人」(短篇集『自殺卵』所収)が、NHKラジオ第1放送10月21日(金)の《ラジオ深夜便》にて朗読されます。時間は午前2時台(厳密には土曜午前2時)。
>  これは去年6月に放送されたもののアンコール放送です。
>  《ラジオ深夜便》2週間番組表 10月3日〜24日


 

右上の人は若手落語家さんですか(^^;

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月21日(金)22時34分47秒
返信・引用
  元ツイート  

     

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月21日(金)22時06分23秒
返信・引用
   

音読はしないが音読的黙読はしている

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月20日(木)21時28分47秒
返信・引用
   日経サイエンス11月号より。

 
 
 

 まあそうなんでしょうね。私も日常的な文章や論文は、実際このような読み方をしているように思います。
 だから下の文章がちゃんと読めてしまうのですね。
 

 でも、小説や詩はこの読み方では半分も楽しめない。文章に作者が籠めたリズムが捨象されてしまうからです。俳句をガバッと一括で画像認識して面白さを感じとてるかということです。(絵画鑑賞でも、私たちは一律な画像認識をしないですよね。遠くから全体を眺めて、近寄って部分を見ます。そこに時間が発生しますから一種のリズムと言っていいかも)
 小説を読むということは、人間の自然な読みに抗するもので、超越的な、反自然的な所業なんですね(^^;

 

「20億の針」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月20日(木)02時44分51秒
返信・引用 編集済
  > No.7327[元記事へ]

 140頁まで。
 主人公の男の子の設定は、ハインラインのジュブナイルに近い感触ですね。少年小説の王道といいますか。
 また舞台がタヒチ島付近の、つまりソシエテ諸島の小さな島というのも楽しい。密室という意味ではなく、です。サンゴ礁に囲まれた南海の島、というのは一つの定型として小説の舞台によく見かけますよね。ヴェルヌやドイルの冒険ものにも使われていたと思います(バラードにもあったかも)。
 19世紀末から第一次大戦頃まで、南海の島々は、欧米人にとって一種理想郷的イメージががあった。モームの南洋物なども読者はそういうイメージを持って読まれたに違いない。本書の出版は1950年ですが、そんな南海の島に暮らすアメリカ人(?)少年の物語としても読める本書は、英米の(とりわけ少年の)読者にはなかなか魅力的だったんじゃないでしょうか。

 

「20億の針」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月19日(水)01時24分51秒
返信・引用 編集済
   今週末の畸人郷読書会に備えて、課題のハル・クレメント『20億の針』に着手しました。ほぼ半世紀ぶりの再読。ところで現在の地球人口は70億らしい……。いやはや。
 70頁まで読んだ。
 地球に墜落し、鮫の中に潜み、安住の住処を見つけるまでのゆくたてには、ハードSF作家らしい科学的な描写が散りばめられていて(ある意味ひけらかしていて)さすがと思ったのですが、いかんせん訳者は1901年生まれの、ミステリ――それも1920年代本格物専門翻訳家(^^;、私たちが当たり前に持っている科学的知識(いや科学的常識か)程度も持ち合わせてないのでしょうね、おぼつかない訳文で先が危ぶまれたのですが、そこを過ぎて地上の話になってからは、やはり何十冊もヴァン=ダインやクイーンを訳しているだけのことはありました。ミステリ翻訳での、あの江戸時代調まではいかないにしろ、そうとう古い文体なんですが、それがなんともいえぬ雰囲気を醸成している。同時に緩急を心得たノリのよい文体でもあって(おそらく原文よりもノリはいいのでは)どんどん先へと引張られていきます。

《「もっとも千万」”捕り手”の限られた英語の読書の知識では、このいいまわしが、なんだか気に入っていた》

 「もっとも千万」、私も気に入ってしまいました(^^ゞ

 

マーヴィン・ミンスキー、クラークを語る

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月18日(火)19時14分20秒
返信・引用
   

「モナドと唯識」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月17日(月)22時31分32秒
返信・引用 編集済
  > No.7324[元記事へ]

 橋元淳一郎『科学と哲学に関するつぶやき(第5巻)モナドあるいは唯識 』(Kindle版、16)読了。

 承前。すでに述べたように、本書はエッセイとはいえ論述ですので、(この巻の一応の)結論があります。たいてい最後に結論があります。ですから自分にとって難読な本は、うしろから遡行して読めば、案外理解しやすかったりします。
「主観というものは、理性すなわち、論理的言語の世界だけに存在するのかもしれない」
 というのが本書というより本巻のそれです。
 これは、ここに至るまでの著者の思考を辿らずとも、私の知識の範囲内で納得できました。
 要するに「言語」を駆使しなければ「思考」はできないということですね(というか、思考とはそういう形式から生まれたものともいえます)。

 絵画鑑賞を例に、「主客一体」の境地を妨げているのは、「記憶」ではないか、というのもそのとおりだと思います。
 読書において、(なかなか滅多に来ませんが)ある瞬間、頁の上の文字が消えてしまうことがありますよね。その瞬間、読者である私は、作品世界に溶け込んで、「視て」はいるんですけど視点はありません。作品世界と一体化した、いわば世界に遍在した感じで、物語を視ている。
 なかなか滅多にこないのは、一方向的な視線という理性が身に付いてしまって、その呪縛を断ち切れないからでしょう。(「日常生活においては、我々はほとんど論理的言語の世界に住んでいる。それゆえ、そうした日常生活の記憶が、つねに脳の活性化した部分に存在するであろう。よって、芸術の世界に浸ったときにおいてさえ、その記憶が通底に流れているのではないか」

 記憶は動物にもあるのかもしれませんが、人間のそれとは違うように思います。
 動物は学習によって新しい行動パターンを獲得します。幸島のサルのイモ洗いはその例ですが、最初にそれをはじめたサルは、その瞬間を「記憶」しているでしょうか。そうではないように思います。彼らは「記憶」しているのではなく、行動パターンが身に付いただけなのです。だから芋洗するサルは、洗っているとき、そういえば、あの日からだったなあ、と、それをはじめた日を思い出しながら洗うことはありえない。
次の日から、ごく当たり前のように、昔からやっていたことのようにその行動パターンを繰り返しているのだと思います。
 人間は「記憶」します。それができるのは「言語」を操れるからです。
 記憶することは「記銘」といいますが、ウィキペディアによれば、最近は「符号化」と呼ばれるようです。つまり名前が与えられて初めて人間は「記憶」できるのですね。
 見たこともない色や見たこともない形状を、人間は長く記憶できません。それに名前がないからですね。

 そういう次第で、記憶もまた言語作用と密接に関係しているのです。

「もし、我々が論理的言語を失ってしまったら、この世界はどのように見えるだろうか」

 私たちは世界を名前によって弁別しています。名前が世界をかっちりと強固なものにしている。もし言葉を失ったら、記憶も弱くなり、見える世界は名状しがたい混沌でしかないのかもしれません。

「私」(主観)は世界の中に位置を確認することで(第一義的にウチとソト)「私」であるとするならば、言語能力を喪失した人間(根源的な意味で。聾唖者という意味ではないですよ。失語症者の世界が参考になるような気がします)は、もはや私(主観)を構成できないのではないでしょうか。

 著者は「もし、主観が何らかの言語作用と関係しているのだとすれば、主観を持つのは人間だけということになる」
 と書く一方で、
「しかし、外から見ているかぎり、チンパンジーには主観があるように見える」とも。

 さらにバクテリアはどうか、と著者は問います。
「一個のバクテリアが生きていることは間違いないし、そいつを突けば、「体」をひねったり、抵抗したり、逃げたり、場合によっては攻撃してくることさえあるだろう。つまり、バクテリアは生きている。この生きている状態は意識ではないのだろうか」

 一見、「主観というものは、理性すなわち、論理的言語の世界だけに存在するのかもしれない」という(仮の)結論と矛盾する提議です。(しかしこの考えは著者の時間論の根本にあるものなので、著者が否定するはずがない)

 たしかに猫だって犬だって、そういう意味で意識はあるように見えます(しかし自己保存本能かも。自己保存本能の行動に、人間が勝手に意識を見ている可能性は?)。
 うーむ。思いつきですが、「主観」と「意識」を同じと無意識に捉えていましたが、別の意味内容をあらわす「名前」とすれば避けられるわけですが……(ーー;

 人間の「私」(主観)と動物の自己保存本能を同一視できるのか。

 著者はチャーマーズの説を紹介して、現象的意識(主観)自体、限界があることを指摘します。
 ここで唯識論が登場する。
 唯識論では、意識は錯覚だと考えるらしい(人間が動物に見出した意識が錯覚かもしれないのと同様の構造?)。
 しかしその考えは、私が思うに、おそらく言語を契機として構成される「私」(主観)の、さらに上位のレベルの話とするべきで、下のレベルでは「私」は機能しているように思います。思うのですが――錯覚なのかなあ。私自身、ロゴスの軛から脱け出せないようです(^^;
 ともあれそれを上位から見下ろせば、一切空ということなのかな、と考えたのでした。

 その意味で、ひょっとしたら続巻で言及されるのかもしれませんが、マーヴィン・ミンスキーの『心の社会』理論もつながってきそうな気がしますね。


 
 

Re: 「モナドと唯識」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月17日(月)20時49分8秒
返信・引用
  > No.7323[元記事へ]

 橋元さん
 いえ、原因は私の知識不足です。
 叙述はそれこそロゴスに則った論理的な論述なので分からないはずはないのですが、術語で引っかかったんですね。
 術語(専門用語)はある意味「名前」であって、大熊という名前は私の生の全体をあらわしているわけですが、私とは面識がなかったり文章も読んだことのない人は、その二文字に何の意味も見出だせないはずです。
 それが本書の術語において私に起こったことなので、いろいろぐぐる必要があったということですね。
 あとで格闘の記録を発表いたします(>おい)(汗)

 

Re: 「モナドと唯識」

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2016年10月17日(月)09時30分17秒
返信・引用
  あわわわわー。すみません。ペコリペコリ。
管理人さまご指摘の通り、
唯心論 → 唯識論
です。
読みにくくてみません。同じ調子で書いているつもりなのですが、書き方が生硬になっているようです。改訂版で加筆修正したいと思います。
よろしくお願い致します。
 

ダニエル・デネット「意識について」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月17日(月)02時25分1秒
返信・引用
    出典

 

Re: 「モナドと唯識」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月16日(日)21時29分54秒
返信・引用
  > No.7318[元記事へ]

 『モナドと唯識』に着手。ひととおり目を通したのですが、あまりの難解さに――というよりもこっちの反射板が桁違いに貧弱なため、すーすーと透り抜けていってしまい、やむなく途中から、一応最後まで目を通すという読み方に変更せざるを得なかったというのが正しいのですが……。
 そういう次第で、再読に入ったところ、一箇所文脈的に合わない(ような気がする)単語に気がつきました。
 第3話「唯識論の登場」の最後の段落の頭「ところが、唯心論の論法は……」と「唯心論」という言葉が突然出てきたのですが、これは「唯識論」のタイプミスではないでしょうかm(__)m

 

Re: 「夕焼けエッセー2017」

 投稿者:斎藤  投稿日:2016年10月16日(日)20時00分40秒
返信・引用
  > No.7319[元記事へ]

段野様

> 眉村さんに関係ある書籍として、「藤本義一文学賞」作品集はご存じですか。

これまた重要な情報をありがとうございます。
早速ネット検索。
アマゾンで普通に購入出来そうです。
第二回分は今年12月発売予定ですね。
これも「買わねば」です。
ありがとございました。


 

Re:「夕焼けエッセー2017」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年10月16日(日)16時43分44秒
返信・引用
  斎藤様
眉村さんに関係ある書籍として、「藤本義一文学賞」作品集はご存じですか。昨年の受賞者の作品とともに、眉村さんの「批評」「感想」が、載っているものです。昨年は、11月に「たる出版」から刊行されました。眉村さんのコメントがあります。今年は、どうでしょうか。この時期、受賞者が通知されているはずです。その後、昨年通りだと、11月あたりに「たる出版」から出るはずですが、まだ、分かりません。(予定では、刊行とのこと)
 

「モナドと唯識」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月16日(日)01時00分2秒
返信・引用
   橋元淳一郎さんのKindle本『科学と哲学に関するつぶやき(第5巻)モナドと唯識』を購入しました。
 西洋哲学史の終着点、ハイデガーまでたどり着いてしまって、次はどこへ向かうのか、興味津々だった私は、早速目次に目を通しました。
 もっとも一応予想は立てていて、一つは自然科学からは現象学の影響下に成立した社会科学へ、哲学からは現象学を止揚した構造主義へ、それぞれ向かう道を検証していく。もうひとつは、西洋哲学史で序論を終え、いよいよ(科学と哲学を綜合する橋元学というべき)本論を開始する。そのどちらかではないか――
 実際はどうだったか?
 なんと意外や意外、東洋哲学、仏教哲学の方向なのでした!
 こっち方面は、大昔に中村元の原始仏教の岩波新書を読んだことがあるくらいで、それもきっぱり内容を忘却していて、いつか読み返してみたいなと考えていたところでしたので、いや、わたし的にグッドタイミング、これぞまさにシンクロニティではないのか、と、偶然に向って過去を必然に再構造化してしまったのでした(^^ゞ

 
 

眉村さん情報「僕と妻の1778の物語」再放送

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月15日(土)21時35分24秒
返信・引用 編集済
   斎藤さん
>アマゾンのユーズドの出品価格がかなり高めで、買うのを躊躇していましたが、
 いま確認しましたが、とんでもない値段ですね(>呆)。
 私は昔小売の仕事に従事していましたが、主に食品関係だったので、原価の何%というのが原則でした。ですからこういう値付けは理解の埒外ですね。
 衣料品はシーズン期首に原価とは関係ない基準で値決めされ、期の終わりに向かってだんだん値下げしていき、最終的に原価を割って売りつくし、結果、どれだけ利益が残ったかという商売で、そっちに配属されていたら考えも違っていたかもしれませんが、衣料品の商売ですら、私には胡散臭かったので、そもそもこういうのは性に合わないのでしょう(ーー;
 けれども、
>粘って張り込んでいたら、手頃な出品をキャッチ。
>無事購入にこぎつけることが出来ました。
 おお、それはよかったですね。バイヤーの才能があるかも(>おい)(^^ゞ
 ともあれ無事入手おめでとうございました。

 閑話休題、眉村さん情報です。
 衛星放送のチャンネルNECOで、眉村卓さん原作、草なぎ剛主演映画「僕と妻の1778の物語」が放送されます!
 土曜シネマ9という枠で、上記リンク先では日時がわからないのですが、J-COM番組表では、

 11月5日(土) 21:00〜23:40 (160分)

 となっており、他のケーブルテレビやアンテナ受信でも同じだと思います。
 なお、11月から来年4月まで、8回放送されるそうです。
 この機会に、あの感動を再体験されてみてはいかがですか(^^)

 

Re: 「夕焼けエッセー2017」

 投稿者:斎藤  投稿日:2016年10月15日(土)19時40分30秒
返信・引用
  > No.7303[元記事へ]

管理人様

>  その毎日の掲載作品の中から月に一度選考委員によって優秀作が選ばれ、これまでに本書を含めて4冊出ています。
>  時実新子/玉岡かおる・撰『夕焼けエッセー街角の600字』(03)
>  時実新子/玉岡かおる・撰『夕焼けエッセー〈2〉』(04)
>  時実新子/玉岡かおる/眉村卓・選『夕焼けエッセー まとめて5年分』(09)

この中の09年刊行の三冊目「まとめて5年分」も眉村さん選者ということで購入せねばと思いました。
しかし、近所のリアル書店に在庫は無く、取り寄せをお願いしましたが、取次も版元も在庫切れで、重版予定も無いということで取り寄せはキャンセルとなってしまいました。
あとは古本屋さん(アマゾン含む)を探すしかないと探求を開始です。
ブックオフを含め神保町も当りましたが見つかりませんでした。
ネット検索で販売店を探しましたが、アマゾンのユーズドショップしか見つけられませんでした。
このアマゾンのユーズドの出品価格がかなり高めで、買うのを躊躇していましたが、粘って張り込んでいたら、手頃な出品をキャッチ。
無事購入にこぎつけることが出来ました。



 

Re: 「草紙屋薬楽堂ふしぎ始末」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月15日(土)17時45分38秒
返信・引用
  > No.7314[元記事へ]

 平谷さん
> 楽しんでいただけたようで嬉しいです。
 楽しませていただきました(^^)
 これは個人的な趣味ですが、時代小説もSF(未来小説)も、やはり現代がダブルイメージになって浮き上がってくる話が面白いです。
 続巻も期待しております!

 

Re: 「草紙屋薬楽堂ふしぎ始末」読了

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2016年10月15日(土)13時08分25秒
返信・引用
  > No.7313[元記事へ]

拙著の感想、ありがとうございました♪
楽しんでいただけたようで嬉しいです。
おおよそ、管理人さんの「推当」通りです(笑)
 

「草紙屋薬楽堂ふしぎ始末」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月15日(土)03時34分37秒
返信・引用 編集済
   平谷美樹『草紙屋薬楽堂ふしぎ始末』(だいわ文庫、16)読了。
 うむ。これは面白い。300頁を正味3時間ちょっとで読んでしまいました。時速100頁。もちろん昔日の体力はなく休み休みで、途中インターネットで道草をしたらあっという間に1時間近く経っていたりするわけですが、それでも時速100頁出たのは超久しぶり。
 主人公鉢野金魚(きんとと)は作家志望アワワもとい戯作者志望の、当時で言えば年増にあたる20歳を少し出たくらいの女です。そこそこ色っぽいようですが(その理由はあとで分かる)、ストーリーに色っぽさは微塵もない(^^;
 物語は、書き上げた原稿(稿本といい、草稿である手書き文字が読みやすいきれいな場合はそのまま版下に使われ、版用に清書する筆工が省略できる)を風呂敷包みに携えた金魚が、自作を売り込みに出版社アワワもとい草紙屋(地本屋)の薬楽堂を訪れるところから始まります。
 ところで当時、江戸時代後期ですが女の戯作者っていたのでしょうか。ちょっと検索しましたが分かりませんでした。いやもちろん小説ですから、そういう設定で構わないのです。
 著者は可能なかぎり当時の戯作者や版元の生態をリアルに描いているようです。が、同時に現代の出版界の現実もそこに反映させているように思われてなりません。その意味でも女性作家(女戯作者)はありです。
 事実、現代の作家の卵と同様、金魚もすぐに本が出せるわけではありません。薬楽堂に書き上げた原稿を持ち込んでは没を繰り返します(最後に、或る詐欺じみた商法で本が出るのですが)(^^;
 金魚が書きたいのは「推当物」、現代で言えばミステリーなんです。これも当時そんなジャンルがあったのかどうか。いやもちろんなかったっていいのです。でも私はそういう設定にした理由のひとつとして、上記の現代の出版業界の反映の意図があったと「推当」するものであります。
 本書は連作短篇集で4篇収録。それぞれ江戸時代のミステリ作家(の卵)である鉢野金魚が、同じく戯作者でこちらは少し名の売れた、とはいえ筆一本で生活できるほどではない(なので書店を兼ねる薬楽堂で店番のアルバイトをしています)本能寺無念をワトソン役に(ワトソン役なのか?)、あと薬楽堂の隠居長右衛門と普段は気弱だがコーフンすると手がつけられない凶暴性(笑)を発揮する番頭の清之助も加わって快刀乱麻の名推理(?)で難事件を解決します(後の二人は別に加わらなくてもいいのですが、無理やり参加してくるのですが)(汗)。
 第2話は公務員(尾張徳川家勤番侍)で内緒で小説を書いている男の懊悩。第4話は専属イラストレーター(絵師)の悩みがストーリーの幹になっていて、これらも現代に通底する設定といえます。
 また第4話では、金魚の上記したことも関わってくる或る秘密が明らかになりますが、無念にも秘密があるようで、これは続巻で明らかにされるのかな。
 江戸時代の出版業界を舞台に、現代でもありそうな事件が物語られる軽快なユーモア面白時代小説でした!

 

Re: 「幻想の永劫回帰」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月14日(金)20時54分14秒
返信・引用
  > No.7311[元記事へ]

 橋元さん

> 第5巻も、今夜か明日朝までには、発売になるかと思います。
 お知らせありがとうございます。発売されましたら早速購入いたします(^^)
 ハイデガーまで来てしまったわけですが、次はどこへ向かうのでしょうか。
 楽しみです!!

 

Re: 「幻想の永劫回帰」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2016年10月14日(金)13時39分1秒
返信・引用
  > No.7306[元記事へ]

管理人さま
いつも、素晴らしいコメントをありがとうございます。
第5巻も、今夜か明日朝までには、発売になるかと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

 

「偶然性と運命」読み中(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月13日(木)23時13分51秒
返信・引用 編集済
  > No.7308[元記事へ]

 ここで確認しておきたいのは、ハイデガーの「世界」とは、個々人(各主体)がそれぞれそこに生きている、主体ごとにある「世界」であることです。ですから主体は世界で生きていますが、その世界は主体の内にある。つまり相互内在しているのですね。本書のここまでのところには出てきませんが、主体と主体が関係を取り結ぶのは、各自の世界が(部分的に)重なって在る場所(視界が交差する場所)においてだと思います。

 ということで、ハイデガーの時間論のつづきです。
 前項で「未来から己を時間化する」と書きましたが、未来の終着点は「死」です。ハイデガーによれば、死とは「だれにも代わってもらえない」「もっとも自己的」で「他人と関わりを持たない」、且つ「確実な」、然しそれでいていつ来るか「不定な」しかも「追い越すことができない」(とは、その先にはいかなる可能性も残されていない)、究極の可能性である。
 その究極点へ先駆けていっての(ということは覚悟を固めるということですが)、そこから(昨日述べたように)過去と現在を開く「時間化」は、それゆえ究極の時間化といえる(ものすごく端折っています)。(だからそこまでいかない中途半端な時間化があり得る。ということだと思う)
 かかる時間化作用を「本来的時間性」(根源的時間=時間の根源的現象)と呼ぶ。

 ところが自然的態度(フッサールの用語ですが)に生きるいわゆる善男善女は、自分自身の死から顔を背け、目前のあれやこれやにかまけて生きています。その立場では、未来は(覚悟すべきものではなく)ただ未だ来ざる可能性であり、期待すべきものです。過去は過ぎ去ったもので忘却されていくものです。この立場では眼前のあれやこれやにかまける(配慮する=念慮をあれやこれやに配る)現在(今)だけが突出している。(この立場では「今」がどんどん来て去っていくように感じられる)
 これが我々の普通に感じている時間意識ですよね。
 しかしそれはハイデガーによれば「非本来的時間」というべきもので(わたし的に言えば、未来を突き詰めないところから構成された偽の時間で)、時間化作用そのものも配慮される世界である(ここは私にはまだ腹にはまっていません)ことから、「世界時間」ともよばれる。
 かかる「配慮された時間」が時間計測の操作のうちで平準化され、時間を「等質的な今の無限の継起」とみる「通俗的時間概念」が生まれてくるのだとします。

 さて、いよいよ「めぐり逢い」の明証性です。
 自然的態度で生きる(非本来的時間を生きている)私が、偶然或る異性と出会い、「ああ私のハートは、ストップモーション」(桑江知子)となった瞬間、その瞬間が日常的な時間の系列から脱け出て、「特権的な瞬間」となる。

「その時我々は本来的時間性に引き戻され、ただくるであろう可能性をぼんやり期待するのではなく、この人と ――ハイデガーにならって「死ぬまで」とは言わないまでも ――これからずっと一緒に生きていきたいと、いわば自己を能動的に将来へ向けて企投するに違いない。その時、過ぎ去ったものとして忘却され、時折その忘却の中から思い出されるだけだった自分の過去の体験が、採り上げ直され(反復され)、すべてがこの特権的瞬間を目指して進行してきたかのような意味を与えなおされ再構造化される。そうすることによって、この偶然の出会いが必然に転じ、運命と感じられるようになる。会うべくして会ったとしか思われなくなるのである。が、むろん現世にはそう思う根拠はない。そこで、前世からのきずなとか縁とかいう考えが出てくるのであろう。めぐり合いの意識に伴う不思議なほど強烈な明証性、つまり確かだと思う意識は、過去の体験の再構造化が完了したことの反映に違いない」

 要するに、このような事態は、人間を人間(世界内存在)たらしめている「時間化作用」それ自身から必然的に生まれてくる作用の結果であるということだろうと思われます。

 以上が「1 めぐり逢いの現象学」。一旦ここで本書をおきます(脳の容量が小さいので、内容が十全に染み透るまで時間がかかるのです(汗)。

 ということで、平谷さんの新作に着手。

 

「草紙屋薬楽堂 ふしぎ始末」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月12日(水)23時53分58秒
返信・引用 編集済
   オムニ7に注文してあった平谷美樹『草紙屋薬楽堂 ふしぎ始末』(だいわ文庫)ですが、到着連絡があったので、確保してきました(^^)

 江戸の本屋を舞台に戯作者=作家が謎を解く!
 痛快で少々切ない
 傑作書き下ろし時代小説!
(帯より)

 楽しみです!!
 

「偶然性と運命」読み中(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月12日(水)23時23分55秒
返信・引用 編集済
  > No.7307[元記事へ]

 承前。しかし著者は、めぐり合いの意識に伴う明証性はこの程度のことで収まりがつくとは思えない、その内的確信はこんな生やさしいものではなさそうに思われる、として、ハイデガーの時間論の方がより適切であるとします。

 人間以外のすべての生物は、「現在」だけを生きています。これは別に説明はいらないでしょう。これは人間の次に賢いチンパンジーでさえそうなのです。
 霊長類学者の松沢哲郎の著書(※『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』)に、飼育していたチンパンジーがひん死の重傷を負って危篤状態で横たわっている、そこで具体的なことは忘れましたが、滑稽な何かが起こった。するとチンパンジーはその瞬間、本当に楽しそうに笑った、という話が載っていました。松沢によれば、これはチンパンジーが「自分は死ぬんだな」ということを理解していない(予想していない)証拠である、とのことです。
 つまりチンパンジーには、未来を認識する能力がまだ備わっていないということです。予想していないと書きましたが、時間の概念がないのですから予想は不可能なのです。
 人間以外のすべての生物は、現在という「環境」だけがすべてであり、それに適応して生きているのですね。

 一方、人間は(脳の発達によって)「その〈現在〉のうちにあるズレ、ある差異化を引き起こして、通常〈未来〉とか〈過去〉とかと呼ばれている次元を開き、その〈現在〉〈未来〉〈過去〉のあいだに複雑なフィードバック・システムを設定し、そこにまたがって生きることができるようになった」。それはつまるところ「生物学的環境」から脱し、その上に構成された「世界」に適応して生きることができるようになったということです。
 しかしそれは、リニアな、そして時計的な、時の流れを意味しません。そのような物理学的な時間概念をハイデガーは〈通俗的時間概念〉と呼びました。
 ハイデガーによれば、世界とは、「現在与えられている環境構造(註、現在)に、かつて与えられたことのある環境構造(註、過去)や与えられるであろう環境構造(註、未来)を重ね合わせ、それらを互いに切り換えて相互表出の関係に置くことによって、それら多様な環境構造をおのれの様々な局面としてもちはするが、そのどれ一つにも還元されることのないような高次の構造として構成されるもの」なのだそうです。

 こうして人間は、他の動物と違って生物学的環境に埋没し縛り付けられることなく、「そうした環境を少しだけ〈超越〉し、世界という高次の構造に開かれている」、そのような人間の存在構造、あり方を獲得します。ハイデガーはそれを「世界内存在」と呼びます。
 世界内存在という在り方は、上に述べたように、人間がおのれを時間化することで初めて可能になったのです。
 この在り方を具体的に言うなら、おのれを時間化することで、現在、未来、過去といった次元を開いて、そこにまたがって生きるということです。「人間は〈現在〉を生きるとき、〈未来〉〈過去〉をも共に生きているのである」

 実際そうでしょう、人は常に明日を思い煩い、昨日を引きずっているわけです。
 この「おのれを時間化する」人間の在り方こそ、〈通俗的時間概念〉とは違う、時間の〈根源的現象〉だとします。
 これが、ベルクソンやフッサールの時間論より優れている点だと著者は述べます。つまり「世界」を構成するような機能を持つ、いわば外に開かれたものとして時間を考えている(脱自的)点が、自己閉鎖的な上記二人の時間論よりも実際に近いというわけです。
 結局、世界内存在とは現在の前と後ろに未来と過去がくっついた(別々に分離できない)状態で一つである、そのような時間的な厚みを持った存在形態として、人間は生きているのですね。

 さて、これらの三つの相は、それぞれがその存立根拠を自分のうちには持っていません。それぞれが他に依存して存立している。当然、一つが変われば他も変わる(脱自態)。
 考えてみれば実際その通りだ、と著者はいます。

「入学試験に合格して、自分の前に洋々たる未来が開かれたように思えるときには、過去の苦しかった浪人生活もすべてこれでよかったと思えてくるものだし、現在もゆったりと安定した気分を味わえる。これに反して、試験に失敗し、未来が閉ざされたように思われるときには、過去がすべて悔恨の種になり、現在の焦燥感にさいなまれる。〈現在〉と〈未来〉と〈過去〉は緊密に連動しているのである」

 現在の前後に未来と過去があるように思いますが、ハイデガーは、時間性は〈未来〉からおのれを時間化すると言います。まず未来が開かれたからこそ、過去という次元も開かれ、現在が現在として見えてくると考えるのだそうです。

 著者はそれをこのように解釈します。「もともと人類は熱帯・亜熱帯で進化をとげ、そこでいわばその日暮らしの採取生活をしていた。つまり現在にだけ生きていたのであろうが、やがて火を手に入れ、衣服をつくる技術を獲得することによって温帯から亜寒帯に進出し、そこで大きな気候変動を経験したのであろう。こうして、食物が得られず死の危険にさらされる未来(冬)をおもんぱかり、過去の経験に照らして、夏のうちに食物を貯蔵しておくということを始めたに違いない」とします。
 なるほど、人間は未来をまず考えることで過去と現在も獲得したのですね。たしかに。

 と長々と書いてきたのは、「めぐり合い」の明証性をハイデガーの時間論に求めるためでした。そこにいくためにもうちょっと続けます。

 

「偶然性と運命」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月11日(火)22時48分23秒
返信・引用 編集済
   鞄の中には、大体ニ、三冊入れてあって、今は 『偶然性と運命』が入っています。しかしこれにはなかなか手が伸びません。数週間前に一度開いたきり。今日、久しぶりに開いてみたところ、面白い記述がありました。
「運命の人に出会う」という体験についての考察で、要するに、偶然の出会いを必然と感じ運命と感じるこのめぐり逢いの意識はどういう構造かという話です。
 こういう時、「前世から決まっていた」とか前世にすでに出会っていたという「輪廻」が持ち出されてきて、その強烈な明証性において納得されます(ゲーテ)。
 同様の構造で、ニーチェがショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』との偶然の出会いに運命的なもの感じたという有名な話があるそうです。
 著者によれば「これらは、出会いをきっかけにして、これまでの過去の体験がすべて整理し直され、いわば再構造化されて、あたかもすべてがこの出会いを目指して必然的に進行してきたかのように意味を与えなおされたということであろう」とします。
 ベルクソンは、こういうのを〈回顧的錯覚〉あるいは〈遡行的効果〉と呼んだそうですが、その例として、こう記しています(『思想と動くもの』)。

「われわれが今日、19世紀のロマン主義を古典主義作家のうちにすでにあったロマン主義的なところに結び付けるのは一向に差し支えない。だが古典主義の持つロマン主義的な側面がそんなふうに取り出されたのは、ある時出現したロマン主義の遡行的効果によってでしかない。ルソー、シャトーブリアン、ヴィニー、ヴィクトール・ユゴーといったたぐいの人が現われなかったなら、かつての古典主義作家のうちにロマン主義が感じられるということがなかっただけではなく、そんなものは実際になかったことになる。というのも、古典主義作家のロマン主義が実在化されるのは、それらの人の作品の中からある面を切り取ることによるのであるが、その切り取りの特殊な形が、ロマン主義の出現に先立って古典主義の文学に実在していたわけでないことは、流れ行く雲の中に芸術家が、その空想のおもむくままに無定形な塊を整えながら見出す面白い意匠が、その雲の中に実在するわけではないのと同様である」(下線原文では傍点)

 なるほど!これは膝ポンですねえ。
 その伝で行くと、SF史において、前SFとして扱われる作品もまた、SFというものを知った読者なり批評家が、勝手にSF的なものを見出しているに過ぎないといえますね。オールディスはSFの起源は「フランケンシュタイン」としましたが、それも「遡行的効果」で、壁の汚れに人の顔を見るのと同じなのかも(汗)

 このあと、著者はハイデガーの時間論を検討します。


 

「幻想の永劫回帰」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月10日(月)20時45分4秒
返信・引用 編集済
   橋元淳一郎 『科学と哲学に関するつぶやき(第4巻)幻想の永劫回帰』(Kindle版)を読みました。
 今回はカントからハイデガーまで。
 デカルトの二元論が科学的世界観の基礎となったのですが、それは一方通行な視者(縦横高さのない点としての理性)と対象の関係にほかならず価値論が捨象され、結果として科学は非倫理的性格を持つことになった。
 デカルト的世界観が理性はいずれ全てを解き明かすとしたのに対し、カントは理性には限界があることを示し、その限界を超えたものは科学では解き明かせないとします。霊魂は科学的世界観には存在しませんが、それを信じる者には影響を与えます。自然科学はそれを取り扱えない。取り扱おうとする気もない。
 ところが霊魂を信じる人は普通に存在しています。科学が物質でないものは存在しないとして、十把一からげに否定してしまっていいものか、と著者は言います。
 このような科学的理性(視(るだけの)者の理性)を、カントは純粋理性と定義する。でもそれは上記のように不完全というか実際にはそぐわない。それに対してカントは実践理性を上位に置きます。(私の言い方に直せば縦横高さのある理性)
「理屈抜きにわいてくる道徳的感情(たとえば線路に落ちた人を助けようという気持ち)は、実践理性によって喚起される」
 それを著者は、知識を知恵に生かすことと言っています。
 デカルト的世界観に対して疑義を呈した一派の最初の代表格がカントということになる。

 ヘーゲルはデカルト的理性(科学的理性)の絶対性に対して、理性と言えども「時間内存在」でしかない、とします。つまり絶対的なものではなく、歴史の一部面で有効なだけのものだということでしょうか。
 著者はロゴスの時代はプラトンに始まりヘーゲルで終わったとします。ではそれ以後ロゴスに変わったのは何か。論理的言語ではなくイメージだとします。その例として現代人がテレビのコマーシャルの強い影響下にあり、それを無意識に受け入れていることを挙げるのですが(「知が軽くなってしまった」)、岡本俊弥さんの「ノンバルとの会話」がまさにそれですよね。
「人の会話というものが、内容はどうでもよく、ほとんど感情的なもので占められていて、表層的な表情や声の調子等が作り出す「気分」的なもので成立している」
 そんな人間を癒やすのもまたテクノロジーなんです。

 著者はロゴスの時代が終わり、新しい知の時代が今後始まるのではないかと予感します。それは磁場逆転みたいなもので、逆転の瞬間、磁場は消えてしまう。現代の知の混沌はまさに磁場が消えた瞬間なのかもしれないと。
 ヘーゲルより少し遅れて登場するショーペンハウアーはロゴスではなく直感的な非合理主義の哲学を打ち立てるのですが、これもまた知の転換の最初とのあらわれだったのかも。
 それに続くのがニーチェです。ニーチェは物理的時間のリニア性(進歩史観)に対して、円環的時間を呈示したと著者はいいます。「永劫回帰による無意味な事柄の繰り返し、それは絶望以外の何ものでもない」

 SF史もまさにこれを踏襲していますね。リニアな物理ハードSFの時代が50年代にありましたが、60年代に登場したニューウェーブは、まさに円環的な時間をSFに持ち込んだといえるのではないでしょうか。

 本書のラストはハイデガーです。デカルト的物理的世界観は、一方通行な視者と対象の関係で、視者はただ見るだけでしかなかった。その結果科学は没倫理的となり科学者はすべて知りうると驕慢になり、それが科学と技術の暴走を許した。
 ハイデガーは観測装置たる我と外界は分離できるものではなく(世界内存在)、観測者の位置によって外界は相を変えると考えたそうです。それは相互作用的な世界観で、科学者もまたそのような世界内存在としてしか存在できない。絶対的な視点はありえないと考えます。いわば世界と我は相互内在しているのですね。
 これは明らかに相対論や量子力学の世界観に対応する哲学ですよね。
「ハイデガーの哲学は、哲学の終着点であるとともに、ひょっとすつと、新しい知の枠組みの出発点かもしれないのである」

 

Re: 「夕焼けエッセー2017」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月10日(月)12時02分12秒
返信・引用
  > No.7304[元記事へ]

 段野さん
>「若い人が使う言葉」だとの認識があったのでしょう。言葉ひとつでも、世代が分かるものかと、
概ねそのとおりだと思うのですが、年齢に関係なく、新しい言葉が生まれたら使ってみたくて仕方がないという人種の方もいますね。
 皆川博子さんがそうらしいですよ。眉村さんより4つ歳上ですが、今の若い人と同じような言葉遣いをされると、綾辻行人さんが書いていました(たぶん『聖女の島』の文庫解説)。玉岡さんもそのタイプなんじゃないでしょうか。
 私は、基本的には眉をひそめる方ですが、本来言葉は生きているもので変化していくのが当然なんですね。私の「言葉感」も畢竟ある時期(昭和後期)のそれでしかないと気づいてからは、随分寛容になりました。
「まったりする」なんて、まさに言い得て妙ではありませんか。新語の全てが残っていくわけではありませんが、殆どは淘汰されてしまうのですが、「まったりする」は日本語として残っていくに違いありません。
 らぬき言葉も定着してしまいましたが、これなど文法的にも合理的なことはこの板で何度か言及しています(さ入れ言葉も)。
 一方、廃れてしまったと言えば「さだはる」なんかがそうですね。若い人は「それなんやねん」でしょうね。その意味では「いちろる」も寿命は短いのではないでしょうか。まだ生まれていませんが(>おい)(^^ゞ

 

Re:「夕焼けエッセー2017」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年10月10日(月)10時20分18秒
返信・引用
  管理人様
「書きなさい」と勧められましたが、難しくて、やっていません。(すいません)書けば、いい訓練になると思うのですが。
ところで、そのエッセーの選考での会話にでもあったのでしょうか、玉岡さんが「なにげに」という言葉を使われて、眉村さんが、「玉岡さんの世代でも、普通に使われる言葉なのか」と、驚かれたそうです。眉村さんにとっては、「若い人が使う言葉」だとの認識があったのでしょう。言葉ひとつでも、世代が分かるものかと、これは言葉使いに気を付けねばと思ったのでした。
 

Re: 「夕焼けエッセー2017」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 9日(日)21時53分23秒
返信・引用 編集済
  > No.7302[元記事へ]

 斎藤さん、お久しぶりです。
  『夕焼けエッセー』購入されましたか!
 産経新聞大阪版夕刊に「夕焼けエッセー」という、読者の投稿エッセイが毎日掲載されるコラムがあって、2002年からずっと続いているのだそうです。
 最初は玉岡かおるさんと川柳作家の時実新子さんが選者だったのですが、2006年末に時実新子さんが退き眉村さんが新たに選考委員になられました。
 その毎日の掲載作品の中から月に一度選考委員によって優秀作が選ばれ、これまでに本書を含めて4冊出ています。
 時実新子/玉岡かおる・撰『夕焼けエッセー街角の600字』(03)
 時実新子/玉岡かおる・撰『夕焼けエッセー〈2〉』(04)
 時実新子/玉岡かおる/眉村卓・選『夕焼けエッセー まとめて5年分』(09)
 産経新聞社編 選者・眉村卓/玉岡かおる『夕焼けエッセー2017 おかげさまで15年 』(16)
 ――でして、第3巻収録作品の途中で眉村さんと時実さんの交替があったわけですね。
 この交替で、選ばれる作品の傾向が変わったのかどうか、実地に調べたら面白いと思うのですが、やっていません(>おい)(^^;
 600字という字数制限は、ショートショートの訓練になりそうで、送ってみようかなと思った記憶がありますが、いつの間にかすっかり忘れていました(汗)
 段野さんは投稿されているのかな(^^;

 あ、そうそうこれはまだオフレコでお願いしますが、12月に眉村さんの新作短篇集が出る予定ですよ!
 

Re: 「夕焼けエッセー2017」

 投稿者:斎藤  投稿日:2016年10月 9日(日)19時17分23秒
返信・引用
  > No.7294[元記事へ]

管理人様

いつも貴重な情報をありがとうございます。
私は、エッセーだと古本エッセー(出久根達郎さん等)かオーディオエッセー(オーディオ評論家の本)位しか手にとりません。
本屋さんでもエッセイコーナーは基本素通りです。
(あ、中村うさぎさんの「買い物シリーズ」は別格です)
ですが、さすがに眉村さん選出のエッセー集とあらばこれは買わねばなりません。
おかげさまで、本日リアル書店で購入出来ました。
ありがとうございました。

 

Re: 「草紙屋薬楽堂ふしぎ始末」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 9日(日)12時56分7秒
返信・引用
  > No.7300[元記事へ]

 平谷さん
 はい! 本の到着(コンビニへの到着ですが)を楽しみに待っているところです(^^)

 

Re: 「草紙屋薬楽堂ふしぎ始末」

 投稿者:平谷美樹  投稿日:2016年10月 9日(日)00時45分16秒
返信・引用
  > No.7299[元記事へ]

拙著のご購入、ありがとうございます♪
 

Re: 「草紙屋薬楽堂ふしぎ始末」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 8日(土)21時29分23秒
返信・引用
  > No.7276[元記事へ]

 平谷美樹さんの新刊『草紙屋薬楽堂ふしぎ始末』(だいわ文庫)が発売になりました。
 さっそくAmazonで購入しかけたのですが、たまたまツイッターでオムニ7(元セブンネット)のポイントは2、3年で消滅するというツイートを見かけて、そういえばもう何年も利用してしてないけど、ポイントがあったはず、もう消滅したかな、と念のため見たら、100ポイントだけ消え残っていました。
 これは使ってしまわなければ、と、今回久しぶりにオムニ7で購入しました。今の名前になってからは初めてかも。
 このネット書店は近所のセブンイレブンで支払い受け取りするのですが、水曜日になるようです。
 アマゾンなら通常配送でも大抵24時間以内に届く(関西の倉庫とうちの家が近い)ので、ネット書店的にこれはかなり大きなマイナスポイントです。そういうのが積もり積もってアマゾンを巨大化させ、巨大化の効果でさらにサービスが良くなるという、寡占化の法則(私の命名でブラックホール効果)(^^;が進行中なのが、ネット書店界の現状なんですね。

 

「豪邸の住人」朗読

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 8日(土)02時58分53秒
返信・引用
   眉村卓さんの小説「豪邸の住人」(短篇集『自殺卵』所収)が、NHKラジオ第1放送10月21日(金)の《ラジオ深夜便》にて朗読されます。時間は午前2時台(厳密には土曜午前2時)。
 これは去年6月に放送されたもののアンコール放送です。
 《ラジオ深夜便》2週間番組表 10月3日〜24日
 

「ハイカラ神戸幻視行フェア」開催!

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 7日(金)00時05分4秒
返信・引用 編集済
   風の翼公式ブログ風の翼によりますと、神戸の古書店「1003」にて、「ハイカラ神戸幻視行フェア」が開催されるとのこと。

  と き:2016年11月16日(水)〜11月28日(月)
      12:00〜20:00(最終日28日は18:00まで)
  ところ:1003(神戸元町)

「装丁の戸田勝久さんの絵や版画、資料や関連書籍を展示します」

 いやこれは素晴らしい。楽しみです(^^)

 

「幻想の永劫回帰」発売

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 6日(木)23時34分12秒
返信・引用
   橋元淳一郎さんのSFサイエンス・エッセイ『科学と哲学に関するつぶやき(第4巻)幻想の永劫回帰』が刊行されました。【Amazon】

 

 幻想の永劫回帰って、なんとも謎めいたタイトル。どんな内容か、いやでも興味をそそられますよね(笑) さっそく着手したいと思います。

 

跛行銀河

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 6日(木)21時59分37秒
返信・引用 編集済
   太陽系含む銀河系の「腕」、4倍も大きかった(ナショナル・ジオグラフィック)

 (翻訳がだめなのか原文がそもそも悪文なのか)ゴタゴタした文章でわかりにくいのですが、要は、私たちが「オリオン腕」と覚えていたものが、いつのまにか「オリオン弧」に格下げされていて、ところが近頃、実際はその4倍の大きさであることがわかった、ということでしょうか。
 その結果、「かつて科学者が考えていたよりも対称性が少し高く、規則正しい形をしている」。
 つまりオリオン弧だけ短かいため形がいびつだと考えられていた銀河系が、オリオン弧も他の腕並みであることがわかったことで、対称性を回復したという意味?

 ともあれ銀河系観測は日進月歩で、Aと認識されていたものがBとなり、さらにまたひっくり返ってAとなったのに、私はBになったのを気づかないでいたため、ずっとAだったと、思い込んでいたかもしれないということですね(ーー;

 

 

「夕焼けエッセー2017」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 6日(木)00時43分12秒
返信・引用
   眉村卓さんと玉岡かおるさんが選者をなさっている産経新聞夕刊の読者投稿コーナー「夕焼けエッセー」が本になりました(4作目)。

 選者:眉村卓・玉岡かおる『夕焼けエッセー2017 おかげさまで15年』(産経新聞社刊)

 発売日7日ですが、アマゾンでは取り扱い開始していますね。【Amazon】

 リアル書店は、5日現在、在庫ナシ。7日前後から店頭に並ぶのではないでしょうか。

 

 

Re: 「デカルトの亡霊」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 5日(水)22時35分19秒
返信・引用
  > No.7291[元記事へ]

 橋元さん
 ツイッターのおかげで、科学者や研究者と言われる人々の、構えていない言説(無意識のホンネ)を目にする機会が増え、実はがっかりしているのです。なににがっかりしているのかといいますと、かれらは表層だけ見て文脈を読まないのですね。それはたぶん理系の外界観察がそういう形式なんでしょう。たとえば、喩え話を極端に嫌がりますね。AとBの関係はCとDの関係に相似であるというのがよくわからないみたいです。因果関係ではなく構造なんですけどね。
 そんなときに、本シリーズを読みましたので、いやそのとおり、ホンマホンマ、ああ嬉しいなとほっとするんですね(^^; 自分の中にこんがらがって存在しているものが整理されていく快感もあります。
 次巻も楽しみにしております!
 

「ノンバルとの会話」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 5日(水)22時19分36秒
返信・引用
   岡本俊弥「ノンバルとの会話」岡本家記録とは別の話)を読みました。
 ノンバルとはノンバーバル・イメイジリー・コミュニケータの愛称。つまりnonverbal imagery communicator、非言語的なイメージによる意思伝達装置という意味でしょう。
 しかし、だったら愛称はNIC(ニック)でもよかったのです。ノンバルでは形容詞部分だけの略なので、略称としてはあまり良くないと本篇の話者も言っています。それをあえてノンバルとしたのにはわけがあると思います。実は、日本ではポチですが、英語圏ではバルというのが飼い犬の代表的な名前なんですね。つまりバルではないがバルのような存在が、ノンバルなのです。(以上は私の推測です>おい)(^^;
 それはカメラアイとマイクと肉声に最適なスピーカーでできたAI機なんです。
 AIといっても、知性や感情があるような高級なものではありません。人間の発する言葉にただ反応するだけの機械です。反応するだけといっても、カメラで相手の表情や動作やなにやかやを観察し、マイクで声の調子や口調を聞き分け、それらを総合して、膨大なデータベースとニューラルネットを瞬時に参照し、最適な反応を、最適な口調でマイクを通して返答するのです。
 つまり、ボッコちゃんの最新テクノロジー版なのですね。
 これは、人の会話というものが、内容はどうでもよく、ほとんど感情的なもので占められていて、表層的な表情や声の調子等が作り出す「気分」的なもので成立していることに対応しているのです。
 実際、ボッコちゃんはただ単に、客の言葉を繰り返すだけですが、それで客は満足しているのですね。ノンバルはもっと精巧ですが、つまるところ同じ効果を利用しているといってよいでしょう。
 すなわち、ノンバルは、現代社会で孤独に陥っている人々の愚痴を聞き、効果的に反応することで、その人々の心を安定させ、社会に適応させる、一種の治療機械なのです。
 ですから、バー海神の鏑木マスターも全く同じ機能をはたしていたわけです。しかしまあ、バーに行って愚痴って心の安定を取り戻すような人は、ある意味積極的な人であり、健康的でもある。ところがリースマンが「孤独な群衆」で分析した現代の孤立化社会では、とりわけネット時代が生み出したある種の人々は、自室に閉じこもって、2チャンネルに書き込んだり、SNSを炎上させて憂さを晴らしているだけだったりします。これは本人の精神的健康状態にも良くないし、社会的にもぎすぎすさせてしまう。
 個人に一台ノンバルがあれば、社会は安定するのかも知れません。しかしこの機械にも副作用があった。それだけでなく、意図的に逆の効果を狙って使用することも可能だった。製作者はそのことに気づいていなかったのですが ……

 いや面白い。本篇は一種のスペキュレイティブ・フィクションです。岡本さんの最近の小説は、ほぼすべて最新の技術的成果の延長線上にある社会を想定し、その技術がいかなる結果を社会に招来するかを描きつづけているようです。社会技術 SF ――テクノロジカル・ソーシャル・ファンタジー(TSF)と命名したいと思います (^^;

 

Re: 「デカルトの亡霊」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2016年10月 5日(水)20時03分55秒
返信・引用
  > No.7289[元記事へ]

管理人さま
いつも拙著電子本、ご購入下さり感想をアップ頂き、誠にありがとうございます。深いご考察に、著者でありながら、そうかそうだったのかと、感心させられている次第です(ええ加減な作者です、トホホ)。
先ほど第4巻をamazonに申請しました。たぶん、明日中には販売になるかと思います。
引き続きどうぞよろしくお願いの程、申し上げます。
 

書き込みが消えちゃった!

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 5日(水)01時32分19秒
返信・引用
   あれ、当掲示板の9月23日から25日までの書き込みが消えちゃってます。具体的には観劇の記録とか橋元さんの1巻と2巻の感想とかなんですが……、うーん、原因不明です。


 

「デカルトの亡霊」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 4日(火)22時57分29秒
返信・引用 編集済
  > No.7283[元記事へ]

 昨日は難波で飲み会がありました。難波へは通常、阪和線で天王寺、それから地下鉄でなんばという経路なんですが、先日花園町で観劇した際、三国ヶ丘から南海高野線という経路を初めて利用したところ、意外に便利で、今回、三国ヶ丘から難波まで利用してみました。
 ネットでチェックしたところ、到着時間はほぼ同じで、しかもなんと従来の経路より 1割も安くなるではありませんか。こんなに料金が違うのではこの経路を利用しない手はありません。
 ということで、往きは新経路で行きました。帰りも当然同じ経路を利用したかといえば、違うのですなあ (^^;。天王寺経由で帰宅したのでした。もちろん理由があるのです。
 天王寺は、一応阪和線の始発駅ですから、座れる可能性が高いのですね。といっても、この頃の関空快速は環状線を一周してきて天王寺駅に着くので、必ずしもそううまいことはいかないのですけど、一本(10分)遅らせて一番前に並べば何とかなるのです。少なくとも三国ヶ丘から乗り込むよりは確実。
 という皮算用で、思惑通り天王寺で座れたのでした。
 ところが、昨日はなぜか三国ヶ丘で意外にすいてしまった。うーむ。なんか残念でした(>おい)(^^;

 マクラが長くなりました。
 往路で 橋元淳一郎 『デカルトの亡霊』(Kindle版、16)読了。※
 前巻から一気に 1000年下ります。やはりキリスト教の中世は「理性」にとって暗黒時代ということなのでしょう。
 まずデカルトが取り上げられます。デカルトが、今日の私たちの思考の枠組みを作った。つまり物質と精神の二分法です。それを峻別することで、外界の物質の精密な観察が可能となった。しかし、その思考法を突き詰めれば、いつか人間は外界のすべてを理解できるだろうという考えになってしまう。
 これは実際のところ、科学を志している人々は、言う言わないは別にして、皆アプリオリに持っている「信念」なのではないでしょうか。それはデカルトに発するのです(デカルトの亡霊)。
 著者は、それに疑義を呈します。それは思い上がりではないかと(猿に見えないものが人間には見えるが、しかし超知性から見れば人間は全能ではない。クラーク)。
 私も、科学が当然とする「没価値」はたやすく「没倫理」になってしまうと思います。というよりも、なってしまっていると思います(原子爆弾を持ち出すまでもなく)。
 それはデカルトが物質と精神に二分したうちの「精神」をないがしろにしたことに発しています(中立的な「視点」>まさに点としての我)。著者は、デカルトの尾を引く現代科学は「主観」を扱えないために行き詰まっているとします。
 かかる現代科学の二元論に対して、著者はスピノザやライプニッツの一元論に可能性を見ています。その同じ流れにある中込流モナド論が簡単に要約されているのですが、これって現象学の我-汝の集積としての我々(=社会)という認識にきわめて近いように感じました。
 このあとジョン・ロック、ヒュームが検討されたあと、カントが俎上に上げられます。

※帰路の車中で岡本俊弥さんの新作「ノンバルとの会話」読了。こちらの感想は明日にでも。

 

Re: 2033年恐怖のスイッチ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 3日(月)16時10分55秒
返信・引用 編集済
  > No.7287[元記事へ]

段野さん

>「月」がなくなる訳ではなさそうです。
 そうでしたか。安心しました。月って見かけ太陽と同じ大きさなんですね。だから日食が発生するわけですが、考えたら不思議ですよね。月と太陽が同じ大きさに見えるピンポイントの距離で地球を周回しているわけですから。太陽系で「日食」が見られるのは地球だけでは? 偶然、そんな位置関係になったのでしょうか。しかしそんな精妙な偶然がありうるものなのか。誰かがそこに置いた?(汗)
 しかし旧暦がだめなら新暦で定義できないのですかね。あ、旧暦は太陰暦だからかな。新暦は太陽暦なのでだめなのかもしれませんね。よく分かりませんが。

 昨日は「無常の月」を挙げましたが、逆の例でした。もっとぴったりな作品を思い出しました。まさに文字どおり、『太陽が消えちゃう』です(ついでながら、月は自分で光らない、太陽の光を反射しているだけなので、月が消える(光らなくなる)ということは、イコール太陽が消えたということなのです)。
 かんべむさし、岡田英明(鏡明)、横田順彌、川又千秋によるリレー小説という珍しい試みなんですが、出版された単行本には岡田英明、横田順彌、川又千秋の三人の著者名があるのみで、かんべさんの名前がありません。
 実はかんべさんは冒頭の第一回目を執筆しただけで、あとは書いていないのです。
 これは何の根拠もない推測ですが、第一回目を執筆後、バトンを受けた作家たちがどんどんくだらない話にしていったので、こんなのに付き合ってられんわと、嫌気がさして降りられたんじゃないでしょうか。
 つまりよほどしょーもない話だったようで(図書館で借りて読んだ記憶があるのですが筋を思い出せない、記録を調べても見当たらないので模造記憶かも)、そういえばSFでてくたあで石川喬司さんが珍しく苦言を呈していたのではなかったでしょうか(^^;(>これも模造記憶かも)

 

Re:2033年恐怖のスイッチ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年10月 3日(月)14時11分30秒
返信・引用
  管理人様
ちょっと説明不足でしたか。といっても、解説者(兵庫県立大西はりま天文台)が、「複雑で、解説するには割愛しますが」と言っていますので、分かることを記します。
2033年、旧暦で、7月以降の(多分日時とかが)旧暦で、その定義ができないんだそうです。よって、「中秋の名月」がいつなのか、定義できなくなるという「2033年問題」と呼ばれる、天文界での大問題だそうです。「月」がなくなる訳ではなさそうです。
ですが、このことに関して、管理人様は、「ノストラダムス」「オウム」とかを関連付けられました。そんなことは、全く「我知らず」の私には、驚きでした。
あと、17年後です。どうなっているのでしょうか。
 

2033年恐怖のスイッチ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 2日(日)18時50分57秒
返信・引用 編集済
   段野さん
>「2033」年には、「中秋の名月」がなくなるらしいです
 おお、そんな大変なことが!? 知りませんでした。
 だとしますと、1999年のアンゴルモア大王覚醒に匹敵する由々しき事態ではありませんか。あのときは本気で信じている人がいて、たとえば粕谷知世『終わり続ける世界のなかで』の主人公がそうでした。読んだとき私は、そんなやつおらんでー(大木こだま)、と思ったのですが、後にトマトさんもそうだったと知り、へえ、と驚いたものでした。そして最近、らっぱ亭さんもそうだったと知るに至って、ある狭い年代の層において、それはきわめてリアルな物語だったことを納得させられたのでした。
 その年代層は、おそらくオウムとも重なるのだと思います。当の書籍は73年刊ですから、60年代前半から半ばへんの生まれの方が読んだとしたら小学校高学年ですね。もうちょっと大きかったら、相対的に見れたのですが。
 そして上祐ら幹部たちも60年代前半生まれです。
 つまり彼らは一発逆転的な超能力や心霊思想や予言をあたりまえに受け入れてしまう素地が、ノストラダムスで培われていた。それが長じてオウムと出会ったわけです。
 繁栄の70~80年代のあと91年にバブル崩壊するのですが、そのとき彼らは20代のぺーぺー社員です。そういうお先真っ暗な環境もそういう思考を後押ししたのかも。ともあれ偶然よりは運命を信じる傾向になっても不思議ではないような気がします。
 そして彼らの下の世代(75年〜)が、いわゆる動物化のデータベース参照型世代となるわけで、それは旧来の思考とは画然と違っているのですが、丁度その二つの思考型の間に、あたかもクッションのように挟まっているのがノストラダムス・オウム世代なんですよね。

 それはさておき、満月消失と聞いて即座に思い出したのは、ラリイ・ニーヴン「無常の月」だったのでした。でもあれは超スーパームーン化するんでしたね。満月がなくなるとはその真逆の現象であるわけで、とすれば2033年に、太陽光が届かなくなるような事態が起きるんでしょうか。考えられるのは、神さまが寝ぼけてオフのスイッチを押してしまう、とかm(__)m



 

Re:運か偶然か

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年10月 2日(日)17時25分24秒
返信・引用
  野球人が、「引退試合」を演出して貰うことが、たまさかあるようですね。と、言いますのは、「福原選手」が引退試合をして貰い、皆から、「ご苦労様でした」と、胴上げなんか、あるようです。その後、花束贈呈などもあります。家族もやってきます。
ここまでやって貰えるのは、野球人としては、かなりなことらしいですね。つまり、「一軍」の下にいる人たち、その下の「育成」の人たち、その上にいるので、「引退試合」をやって貰えるとのこと。そうして、その人たちは、「コーチ」「解説者」とかの道があるようです。では、それ以外の人はどうするのか。
何だか、悲しい物語があるようです。ちょうど、そんな話をしていたところに、「戦力外通告」を受けた福原選手のことが飛び込んで来ました。
仮に(仮ですよ)、「一軍落ち」「二軍」「戦力外選手」とか、通告されたら、何か、(私でも)すごい思いが発生します。
確かに、「プロ」なので、結果を残さないとは思います。ですが、こういった人たちが、年間何十人か、出てくるんですよね。
「プロ」の、凄さと、厳しさを感じさせられることでした。

突然ですが、「2033」年には、「中秋の名月」がなくなるらしいです。解説してくれる人が、「複雑で、ややこしいので」割愛されてしまいました。
その頃に、生きているのでしょうか(17年後)。
お月様が、なくなるとは、信じがたいことですが。
 

運か偶然か

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 2日(日)01時53分8秒
返信・引用
   阪神の福原投手が引退試合を演出してもらった同日、同じく阪神の一二三慎太外野手が戦力外通告を受けたそうです。名前が珍しいので覚えている方もいらっしゃるでしょう。
 ウィキペディアを参照しますと、夏の甲子園の準優勝投手で、その年のドラフトで阪神が二巡目指名。と嘱望されて入団したのですが、入団したとはいえ、まだ高校在学中の翌年一月に溶連菌感染症を患い、春季キャンプ前の新人合同自主トレーニングから出遅れます。さらにキャンプ中に右肩を痛め、結局新人の年を棒に振ってしまう。シーズン終了後外野手へコンバート。
 3年目にはウエスタンで四番を任されるまでに急成長、フレッシュオールスターへの出場も決まっていたのですが、ウエスタンの試合でダイビングキャッチした際、フェンスに激突、左足をはく離骨折。フレッシュオールスターを辞退したばかりか、一軍昇格までも逃してしまうのです。
 結局、5年目終了後、支配下から育成選手契約に。そして 6年目の今年、本日戦力外通告を受けたのでした。
 こんな人生もあるのですねえ。かと思えば、調子が悪くて KOされても、その裏の回に味方が猛攻して勝ち投手になってしまう強運の持ち主もいます。
 運不運て一体何なんでしょう。単に偶然なのでしょうか。
 野球では、試合の流れというのがあるようです。選手たちも信じているようです。実際、見ている私たちもそれがあることを実感します。これも単なる偶然なのでしょうか。
 不思議ですねえ。少なくとも上記の一二三選手にすれば、運に見放された野球人生だったな、としか思えなかったに違いありません。
 

「デカルトの亡霊」

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月 1日(土)20時50分28秒
返信・引用
   橋元淳一郎さんのSFサイエンス・エッセイ『科学と哲学に関するつぶやき(第3巻)デカルトの亡霊』(キンドル版)が刊行されました→【Amazon】
 早速購入。モノ(というかデータというか)は一瞬で飛んできたのですが、今日は着手できませんでした。明日も日曜なのでムリかも(平日のほうが読書時間を作りやすいのです)。

 
 




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