ヘリコニア過去ログ1611

本日締切

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月30日(水)22時00分21秒
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   ということで、皆さんもうありませんか? もうちょっと待って、という方はご一報くださいね。どうせ年末は、私も忙しくて、何もできませんから、あせらずに(^^)

 しかしまあ、表紙(案)をお見せしましょうか(^^;
 デザインはこれでいくつもりなんですが、表紙の地の色が決めあぐねています。とりあえず2案。イメージ的には青がいいような、でも黄色のほうが映えるような……、どんなもんでしょうねえ。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月28日(月)19時41分19秒
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   南極の氷、100年前とほぼ同じ大きさ スコット隊日誌で判明 (日経)

 ふーん。でも北極の温暖化は確実に進行しているのですよね。北西航路が近年通りやすくなってきているらしい。
 南北でのこの違いは何なんでしょうか。文明圏が北半球に偏っているので、北極がまともにその影響を受けてしまうからでしょうか。
 

 

1932年の日本(音声あり)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月27日(日)18時47分46秒
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「廃市」を観た

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月27日(日)00時09分12秒
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   映画「廃市」(83)を観ました。
 いかにも大林監督らしい箱庭のような景観描写が美しい作品で、これ、当然ですがロケというのか実写ですよね。もちろんスタジオ撮影もしているのでしょうけど、要するにCGではないということ。
 よい意味での人工性(反自然性)を感じました。まあそれが大林映画の魅力ですよね。でも、もし1983年の作品ということを知らなければ、CGだと早合点してしまったかもしれません。
 このような絵を撮るために、ロケハンとかすごい手間を掛けているんだろうなとわかるし、感心もするんですが、逆に今だったら、CGで比較的簡単に作れそう。いや素人判断ですが。
 気になったのは、ストーリーがどれだけ原作に忠実なのかわからないのですが(昔読んだんだけれど完璧に忘れてしまっている)、ラストなど古い男性原理じゃないのかな、と、ちょっと考えてしまいました。

 

OB会設立総会に出席

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月26日(土)20時32分41秒
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   高校で所属していたバドミントン部が今年創部60年だそうで、OBOG会というのが発足することになり、設立総会というのに出席してきました。
 高校の同窓会の正式な下部組織としての発足とのことで、そういえばこれまでなかったのですね。まあ府立高校の弱小クラブですから、なくて当然という気もします。
 いま同窓会のホームページを見にいったところ、やはり硬式野球部、水泳部、バレー部、吹奏楽部、写真部(そして今回新たにバド部)しかないようです。
 まあそういうタテ社会的な風土とは伝統的に相性の悪い高校ということもあるかもしれません。
 その意味で、最初の創設者である(らしい)13期の方もいらっしゃってましたが(私は26期)別にふんぞり返ってもいず、後輩連もごくふつうな、友達関係よりもちょっとだけ目上をたてた感じのニュアンスで談笑されていました。
 それにしても、なぜ今頃酔狂にも?と考えるわけですが、これはわたし的にははっきりしていて、要するに先輩連中がどんどん引退世代になって、みな暇を持て余しているからに違いありません(>おい)(^^;

 会場は阪急東通の、昔「田園」というジャズ喫茶だったビルの3、4、5階がいま”カンパーニュ”というパーティステージになっていて、その3階を借り切って行われました。
 田園とは懐かしいと思っていたら、3期上の先輩も同じことを仰言っていて、実はその方は私と同じ大学で(現在大学女子の監督をされているとのこと)、大学が同じだと遊ぶエリアも伝統的な偏りがあるのかもしれません。
 3期上の先輩をなんで知っているのかと言えば、その方は私が一年のとき一浪で、毎日のようにコーチに来ていたのですね。当時はありがた迷惑でしたが(>おい)(汗)
 この人は特別ですが、夏休みの合宿(校内での合宿)にはOBの方がよく来てくれましたので、3期上くらいまでは面識があるのですが、私は覚えていても向こうはどうかわからないなあ、と思っていたら、意外に皆さん覚えていてくれていたりだんだん思い出してくれたりと、入れ代わり立ち代わり話が弾んで、あっという間の3時間でした。(いやクッチャベッてばかりいたわけではなく、会則の制定とか本来の趣旨の時間も当然ありました)
 今回、私の同期はみな用事があって、私だけ出席だったので、ボッチになったら嫌だなあ、と思っていたのですが、杞憂でした。とても楽しかった。一人だけなのでどうしようかなと思ったのですが、出席して正解でした(^^;

追記。あ、思い出した。自己紹介のとき、多くの方が「うさぎとび」と「いざり」に言及していたのは面白かった。皆さん苦しめられたのですな(笑) 1990年代に中国で住んでおられたという方が、向こうでもクラブに入られて、「うさぎとび」とか「いざり」とか、中国ではすでに取り入れられてないよと言われたそうで、どんだけ日本が遅れていたかということ、と話されていたのは興味深かったです。

 

「青春の逆説」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月26日(土)02時13分33秒
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   織田作之助『青春の逆説』(青空文庫)に着手。横長版
 戦時中、発禁処分になった長篇小説です(と、「世相」に書かれてあり、それで興味が湧いて読んでみることにしたのでした)。
 いや、面白い。横長版の頁数で110頁まで一気に読みました。これで全体のおよそ四分の一。
 このあとどうなるのか、とても気になります。もっと読んでいたいのですが、明日は12時に大阪に着いていなくてはなりません。
 とすると、9時半には出かける用意をはじめる必要があり、あまり夜更かしもしていられません。しぶしぶながら今日はここまでとしましょう。

 

「夫婦善哉 新潮文庫版」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月25日(金)01時12分47秒
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  織田作之助『夫婦善哉 新潮文庫版』(青空文庫)読了。[横長版]
 「夫婦善哉」(昭和15年8月)八十枚
 「木の都」(昭和19年3月)二十五枚
 「六白金星」(昭和21年3月)五十枚
 「アド・バルーン」(昭和21年3月)七十枚
 「世相」(昭和21年4月)九十枚
 「競馬」(昭和21年4月)三十枚
 やはりまとまって読むと、青空文庫の短篇をバラで読むのより印象が定着しますね。本書は作家としての一生を展望するいわゆる傑作選ですが、それでも一本筋が通った印象があります。いや、ぜんぜん変わっていません。変わらぬオダサク・ワールドです。まあ作家人生が十年に満たないのですから、ある意味当然といえますが。

 ただそれ、著者自身の思いはちょっと違っていたようで、戦後の作品である「世相」では(これは一応私小説の体裁で、語り手の「私」は「おださく」です)、小学校の友人で因縁浅からぬ(有り体に言えば何度も尻拭いさせられた)男・横堀が中支から引き上げてくるも数日で有り金使い果たし(男が語るその顛末が、当時の大阪の闇市や世相を具体的に描き出していて面白いのです。本集中の白眉です)困り果て、あとはもう死ぬしかないというときに、ふと著者を思い出したずねてやってくる。
 本来なら顔向けできない人を頼っていけしゃーしゃーとやってくるのだから、そもそも社会の規範から外れている男です。まさに著者が追求してきた「どうしようもない」男の一人。「横堀がポツリポツリ語りだした話を聴いているうちに、私の頭の中には次第に一つの小説が作りあげられて」「もはや横堀は放浪小説を書き続けてきた私の登場人物であった」……
 そして実際書き始めると、またたく間に5枚進む。調子が乗ってきます。
 しかし著者は、それがふと悲しくなってしまう。
「調子に乗っているのは、自家薬籠中の人物を処女作以来の書き馴れたスタイルで書いているからであろう」「なんだ自分の昔の小説と少しも違わないじゃないか」

 うーん、これは難しい問題ですね。大部分の読者は「オダサク・ワールド」を読みたいのだろうからです。私もその一人です。
 でもこの辺、無頼派と言えども織田作の作家として真摯なところですね。
 今日び一つの作品が当たったらそのエピゴーネンを書き続けるのは当たり前、いやそれを版元から要請される時代ですよね。聞くところによると、応募新人賞などでは、前年の受賞作の作風を真似た作品がどっと送りつけられてくるとか。

 話がそれました。著者は「放浪小説」と自己規定していますが、ロマン主義的な放浪者のイメージとは全く違います。なぜでも社会の中で決め事に従って生きていけない「はぐれもの」たちの小説という意味でしょう。
 本書の各話の主人公もしくは焦点人物たちは全員そうです。ただ全員同じではありません。「木の都」のレコード店の店主は非常に真面目で、真面目すぎて社会と齟齬をきたします。「六白金星」の弟は、これは今で言う「発達障害」かもしれません。「アド・バルーン」の東京まで徒歩で行った男は気分の差が激しく計画性がなく(未来への焦点距離が短い)何をしても長続きしない(>私自身はこの男に近いかもしれません)(汗)。「世相」の登場人物は(阿部定も含めて)そんな人間ばかり。「競馬」の主人公はそもそも小心な教師だったのが、あることをきっかけに「狂って」しまう(社会的な意味で)。
 社会的に狂っているという意味では、本書の全員がそうですね。そんな彼らへの共感的な「哀しみ」こそが、織田作の主題といえるでしょう。

 ところで、「世相」のエピソードですが、著者である私は、新聞の文芸記者の男に、「それよりも、そんな話ばかし書いているから、いつまでたっても若さがないと言われるんだね」(昭和15、6年のエピソードなので、著者27、8歳)
 といわれて凹むのですが、表層的にはそのとおりですよね(>おい)。でもそういう話が面白いという読者もいるわけで、私もその一人。熱中して読みました。

 もう一つ、著者の特徴として大阪への「こだわり」があります。著者自身も、「その事件を中心に昭和十年頃の千日前の風物誌を描こうという試みをふと空しいものに思う気持が筆を渋らせていたのだ。千日前のそんな事件をわざわざ取り上げて書いてみようとする物好きな作家は、今の所私のほかには無さそうだし、そんなものでも書いて置けば当時の千日前を偲ぶよすがにもなろう」(世相)といったことに意識的で、先日も引用した「僕はほら、地名や職業の名や数字を夥しく作品の中にばらまくでしょう(云々)」という文章も、元は同じだと思います。
 で、たしかに作中人物は大阪、ことにもミナミを歩き回り、少しはそのあたりを知っているので、まるで映画のように目の前に浮かんできて、それが私には愉しくて、快感ですらあったのでした。
「木の都」はその意味での、つまり<大阪小説>として傑作で、長さも適当ですから大阪小説傑作選には必須の作品だと思います。

 そういえば、こういう「土地への終着」ということでは、西秋生は、あるいは織田作と似ているのではないでしょうか(^^;

※なお、表題作については、過去に複数回読んでいるので、今回は飛ばしました。
 

Re: 眉村さん情報:『頑張って、太郎さん』(ほぼ確定)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月24日(木)03時10分10秒
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  > No.7397[元記事へ]

 承前。調べてくださった方より《季刊ひゅーまん》他の資料が届きました。
 やはり出来る限り一次資料に近づくべきですね。私の解釈が間違っていたことが、送って頂いた資料で判明しました。
 前回、85年度は5冊出されたと書きましたが、やはり4冊だったようです。
 季刊なんだから5冊はおかしいだろう。いやそのとおりなんですが、「負けに不思議の負けなし」(野村克也)それは後からいえること(>なんのこっちゃ)(汗)
 85年度も86年度も冬季号は国会図書館未収蔵なのですが、87年、88年、89年冬季号は所蔵されていて、それらは例外なく年度の第一号であることが、頂いたコピー資料で分かりました。
 そのことから逆算すれば、85年、86年の冬季号もその年の第一号であるとほぼ確定できるわけです。ゆえに85年は5冊出た、などというイレギュラーで辻褄を合わせなくてよく、89年12月刊の『頑張って、太郎さん』に、90年発行の冬季号、春季号に掲載された「雪の日」「かくれた災難」が載っていないのも何の不思議もないわけですね。
 また『頑張って、太郎さん』出版のお知らせが90年冬季号(多分1月刊)に掲載されているのも、実に当たり前で時系列的な筋が通っています。自然はつねにオッカムの剃刀なのです(>なんのこっちゃ)
 というわけで、対照表を修正しました(^^;
 ここを見てくださっているとは思われませんが、ご親切本当に感謝の言葉もありません。ありがとうございました。

 


 

織田作と福田紀一の市電戎橋停留所

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月23日(水)23時48分44秒
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  > No.7382[元記事へ]

 いま、例の《贋》『夫婦善哉』(新潮文庫版)から、「世相」を読んでいたのですが、こんな文章が目に入ってきました。
「戎橋の停留所で市電を降り、戎橋筋を北へ丸万の前まで来ると、はや気が狂ったような「道頓堀行進曲」のメロディが聴こえてきた。美人座の拡声器だとわかると、私は急に辟易してよほど引き返そうかと思ったが、同行者があったのでそれもならず、赤い首を垂れて戎橋を渡ると、思い切って美人座の入口をくぐった」
 前頁に「美人座は戎橋の北東詰を宗右衛門町の方へ折れた掛りにあり」とあります。

 何がいいたいかといいますと、先日福田紀一『失われた都』を話題にしたとき、「ただ「戎橋の電車道」というのが私には不明です。昔は市電か何かが通っていたのでしょうか」と疑問を呈したのでしたが、さっそく2週間も経たないうちに「市電の戎橋の停留所」という回答が、むこうからやってきた、ということ。
    シンクロニシティ
 これぞ有意な偶然ではないでしょうか(^^;

 ともあれ、織田作の文章から「戎橋の停留所」の位置が推定できます。
 戎橋を渡って(戎橋北東詰の掛りにある)美人座に入ったのですから、そしてその前は、戎橋筋を北へ歩いてきたわけですから、戎橋の停留所というのは、戎橋筋を南にくだったところにあったことになります。
 戎橋筋は、その途中で千日前通と交差しています。
 千日前通りを渡って戎橋筋を南にくだりきると、高島屋の前の道路です。
 織田作は地名に拘る作家でして、本篇は私小説ですが、作中でも「僕はほら、地名や職業の名や数字を夥しく作品の中にばらまくでしょう(云々)」と自己分析しているくらいです。
 したがってもし千日前通りを渡ったのなら、当然そう書くはずです。しかし「千日前通りを横断して」とは記述されていません。
 ですから渡らなかった。
 結局そこが始点だった。すなわち、市電の戎橋の停留所は、千日前通りにあったと推定できるわけです。

 ところがそうなると新たな疑問が。『失われた都』のナポレオンたちは、地下鉄御堂筋線(御堂筋の地下)の任意の地点から西へ向かって穴を掘り始めたのです。そして「もう我々は戎橋の電車道を渡ったかい」と話している。そうしますと、戎橋の電車道は南北方向ということになるのですが、上記より市電は千日前通りを走っていたはずなので、東西方向です。合わないんですね。
 ただ、ナポレオンたちが御堂筋線なんば駅のプラットホームの北端少し行ったところから掘り始めたのなら、ちょうど千日前通りの直下を掘り進んでいたのかもしれません。だとしたら、「もう我々は戎橋の電車道を渡ったかい」は、まさに「戎橋の停留所は通り越したかい」という意味だったのかも。牽強付会にすぎるでしょうか(^^ゞ

追記。地図を眺めていてハッと気づきました。
 私、大変な勘違いをしていました。なんとなく、ナポレオン一行は西に向かって掘り進めていった、と思い込んでいたのですが、無論そんな記述はありません。
 豊臣家の財宝は、「大阪城の南西」に埋められたと書かれていただけです。だったらナポレオンたちは、すなおに大阪城の方角すなわち北東へ掘り進んだと見るべきです。
 そこで、当時のなんば駅ホーム北端辺りと想定される地点※から市電戎橋停留所を結ぶ直線を引き、それを延長したところ、なんと空堀商店街に行き当たったではないですか!!
 つまりなんの矛盾もなかった。
「もう我々は戎橋の電車道を渡ったかい」はまさに文言どおりで、ナポレオンたちは千日前通りを戎橋停留所の直下あたりで「渡った」。戎橋の電車道とは千日前通りだったのです。ひょっとして福田紀一さんも地図に直線を引いて確認していたんじゃないでしょうか(^^;
(※ただし始点は、現在のなんば駅は千日前通の地下を走る千日前線ができて北へ延伸しているので、それ以前はもっと小さかったと仮定しての位置。実際はどうだったのか、検索してみましたが有意な情報は見つかりませんでした)

 今日たまたま「嘘屋を自称したSF作家の半村良が言ってました 大きな嘘にリアリティーを持たせるにはディテールに嘘をついてはいけない 今の嘘つきは雑だなぁ」というツイートを見かけたのですが、『失われた都』もディテールのリアリティにこだわって構築された大法螺話だったのですねえ(^^;

 
 
 

Re: 青空文庫で

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月22日(火)18時49分15秒
返信・引用
  > No.7402[元記事へ]

 昨日の続きです。昨日は作ったファイルを確認せずリンクしたのでした。今日、改めて、自らリンク先へ行ってみました。
 タブレットなんですが、リンクを開いて現れるのが、これです。
 
 みなさんも同じ画面でしょうか。ただでさえ狭いタブレット画面なのに、フォーマットがごちゃごちゃし、その分本文の文字も小さくなってしまっています。
 この画面は、クラウドにあるファイルを直接読んでいる、という言い方が正しいのかどうかわかりませんが、とにかくそういうことで、私のタブレットではスクロールすると応答が追いつかず一瞬フリーズしたり白紙になったりしてしまいます。ゆっくり読む分には問題なさそうですが。
 でもダウンロードしてしまいますと、もっと快適です。
 画面右に「ダウンロード」というボタンが見えますが、これでダウンロードしますと、私の場合Kindleのビュワーが開き、下のようになります。(Kindleだからか横スクロールになって自然です)
 
 ということで、やはりダウンロードしてしまう形式がいいようです。だったら従来の、PDFファイルをFFFTPでアップして、URLを購読希望者に教える形でいいということになります。ただこの方法だと、閲覧数が把握できないんですねえ(ーー;
 それからこっちは、PC用のファイルをタブレットにダウンロードしたもの。

 こっちのほうが、上下の目の動きが短くなって、私個人的には、縦長より読みやすいです。

 

青空文庫で

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月22日(火)03時56分39秒
返信・引用 編集済
   青空文庫で読んでいて、ことに短篇を読んでいるときにそれを感じるのですが、いま読んでいるこの短篇が、作家の生涯において(というのは、青空文庫で読むのは大抵昔の作家ですから)書誌的にどんな位置づけであるのか、若い頃の作品なのか晩年の作品なのか、といったことは、紙版の本だったら、短篇集の中に並べられていることで、察しが付きます。ところが青空文庫で、単品で読んでいますと、そのへんが砂浜で砂粒を拾っているような茫漠とした感じに、少なくとも私はなってしまうのですね。
 やはり短篇は短編集の括りのなかで読まなければ、なんとなく収まりが悪い。読了したという感じも乏しい。
 だったら青空文庫の短篇は、既存の紙版の短篇集の目次どおりに読んだらいいのではないか、と思いつきました。そして、それだったらいっそ、電子短篇集を作ってみようかな。
 ということで、織田作の新潮文庫版の『夫婦善哉』を、とりあえず作ってみました。
 どうせならと、パソコン閲覧用(横長版)と、タブレット閲覧用(縦長版)を作りました。

 実はこれ、本当のことを言うと別の目論見もあってなんです。
 今度の《チャチャヤング・ショートショート・マガジン》は、勿論紙版も製作しますが、以下に述べる理由で、電子版も作ろうかなと考えていまして、その実験でもあるのでした。
 そういうことなので、一度閲覧していただき、ご意見を賜りたいです。

 電子版は(もし作るなら)当然無料です。紙版の頒価には制作費しか含まれていません。各寄稿者の原稿料著作権料というものは、形式的に言えば放棄してもらっているわけですね。電子版に制作費は発生しませんから、論理的にいって電子版は無料にするのが当然と言えるでしょう。
 電子版を思い立った理由。これまで発行してきた経験上、紙版ではどうしても物理的に製作部数に限界がある。せいぜい50部が限度なんですね。
 ところで、前号の《チャチャヤング・ショートショート・マガジン3号》は、あまり広告しなかったですが、ネットで読めるようになっていまして、驚くべきことに、120アクセスされているのです(こちら)。単純に考えれば、50+120で170人に読んで頂いた可能性がある(もちろん一人の読者に複数回アクセスされた場合もあるはずですから最大に見積もってということになります)。
 できるだけ沢山の読者に読んでもらいたいというのは、これは寄稿者全員の気持ちで間違いないでしょう。
 だったら、電子版を発行しない手はありませんよね、と思ったわけです。
 一方、紙版は紙版で、会員諸氏は物理的に手元に置いておきたいはずですから、これをやめてしまう訳にはいかない(これまで購入してくださっていた方の中にもそういう方はおられると思います)。
 という次第で、今回できれば両方発行したいな、と考えているのです。
 とはいえ、実際はどうなるか全く未定。リンクした二種類もとりあえず作ったもので、いろいろ改善点が見えてくるに違いない。まあ個人的な希望として電子版を出したいなということ。結局私の道楽というべきですね(^^;
 

Re: 「ハイカラ神戸幻視行フェア」に行ってきました

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月21日(月)22時20分23秒
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  > No.7400[元記事へ]

 堀さん
 jali-netって、そんな特殊な(?)HPサービスだったのですか。よく知らなかったので、ググってみたのですが、GoogleでもYahooでも全くヒットしませんね。
 唯一「参加作家一覧 - JALInet (Japan Literature Net)」というのが引っ掛かりましたが、当然アクセス不可。
 いろいろやっていて、結局、有意な情報にたどり着いたところは『マッドサイエンティストの手帳』の過去ログこちらの11月30日でした。
 しかしそれにしても、何の連絡もないというのは問題でしょう。ひょっとして、すでに生身の担当者はいなくて、AIが保守していたのかも、とも想像してしまいました。
 どうも最近、なんでもAIの影を感じてしまうのですね(汗)
 話は違うのですが、例の「決戦・日本シリーズ」の無断掲載ブログですが、2ページだけ削除されたきりであとまだ残っているのです。こんな中途半端な対応をしているのも、AIだからかな、と最近思ったのでした。

 拙ツイッターで新住所ツイートしました。https://twitter.com/mizcohol/status/800687548989247488
 そもそもフォロアーが殆んどいませんので、どれだけ実効性があるかわかりませんけど。

 

Re: 「ハイカラ神戸幻視行フェア」に行ってきました

 投稿者:堀 晃  投稿日:2016年11月21日(月)21時15分30秒
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  > No.7399[元記事へ]

あ、そう「ひでー話」でもないですし、腹も立ちません。
むしろ面白い体験(ヴァーチャルでの自宅焼失)をさせてもらったような。
もともとjali-netは実験的「文芸ネット」としてスタートしたのですが、プロバイダーとしてはホームページサービスの看板にしたかったのだと思います。適当なところでホームページサービスと合体すればよかったのでしょうが、20年前のままですから、現社員から見れば「お荷物」になっていると思います。
今回のは、おそらくサーバーの故障(クラッシュ)でしょうが、復旧できるのかどうか、連絡もなく不明です。
jali-netの「筒井康隆 公式サイト」「薄井ゆうじの森」「北野勇作的箱庭」はこのまま消滅?? 復旧すればよろしいですが。
生き延びた2名は、下記でほそぼそと再開してます。

上田早夕里 http://www.ueda222.com/
堀晃    http://www.sf-homepage.com/

まだ告知の方法がありませんので、口コミで機会ありましたらよろしく。
 

Re: 「ハイカラ神戸幻視行フェア」に行ってきました

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月21日(月)17時38分11秒
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  > No.7398[元記事へ]

 堀さん、ご無沙汰しております。

>午後2時頃
 私たちは4時集合で、早い人は3時半頃到着したそうですが、ちょっとすれ違いでした。
 それはさておき、

>20年間HPをやってきたjali-netがとつぜん消滅してしまったのです
 と言うのはひでー話ですね。
 拙HPも、何年か前、OCNが撤退するというので、今のFC2に移ったのですが、何か月も前から定期的に告知があって、移行先の推薦もありましたので、その種の知識が皆無の私でも、なんとか対応できました。
 でも、とつぜん消えてしまうというのは、ネットでは案外よくありそうな気もします。なんせ民間企業ですから。
 近年、日本の政府や行政は、ネット時代に対応するためツイッターを専ら活用していますが、ツイッターもいつ消滅するか知れたものではありません。
 公的機関のツイッター依存が極限に達したとき、もしツイッターが突然消滅したとしたら、日本社会は一瞬にして寸断されてしまうのではないでしょうか。
 いやまあ、それはそれでちょっと小松左京的で、なかなか面白そうですが(^^;

 ああ、また横にそれてしまいました。なにはともあれ、引越し先確認しました。問題なく見えております。

 

Re: 「ハイカラ神戸幻視行フェア」に行ってきました

 投稿者:堀 晃  投稿日:2016年11月21日(月)11時18分53秒
返信・引用
  > No.7396[元記事へ]

小生も19日にハイカラ神戸フェアを見に行ってました。
午後2時頃。
夕刻に何人か来られるとか聞きましたが、風の翼関係でしたか。
ちょっとうちの「home」がごたごたしてたので、早めに失礼しました。

ついでながら、ちょっと告知用に談話室をお借りします。
1週間前に、20年間HPをやってきたjali-netがとつぜん消滅してしまったのです。
わがページにアクセスしようとしてもエラーコード404が出てくるはず。
住人本人がそうなんですから。
ということで、19日、下記に引っ越しました。
引越通知を出す場所もないものですから、こちらに。知り合いの方の来訪が多いようですので。
引っ越し先は下記です。

   http://www.sf-homepage.com/

 

Re: 眉村さん情報:『頑張って、太郎さん』(ほぼ確定)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月20日(日)16時53分29秒
返信・引用 編集済
  > No.7395[元記事へ]

 先般、眉村卓さんの《季刊ひゅーまん》連載について情報をお寄せくださった方が、先日国会図書館に行かれたそうで、更に詳細なデータを送って下さいました。
 おかげさまで、各号の発行年/季がわかり、一部誤記だったところが修正されて、前回不明だったところがすべてきれいに嵌ったように思います。
 新しい対照表を作りました(85年だけ5号刊行されたようです)。
 
 その結果、『太郎さん、頑張って』収録の小説は全て、《季刊ひゅーまん》掲載分から採られている(しかも順番もほぼ同じ)ことがほぼ確定しました。
「順番もほぼ同じ」ではあるのですが、《季刊ひゅーまん》連載第一回「食堂」だけ、『太郎さん、頑張って』のラストに移動されていることも分かりました。
 また、『頑張って、太郎さん』刊行のお知らせが21号(89年冬季号)に載ったことで、当の21号「冬の日…」と22号「かくれた災難」は、当該作品集に間に合わなかったものだったことも推定できます(『頑張って、太郎さん』は89年12月10日刊行)。
連載の最後の二作品が収録されなかった理由もこれで分かりました。
 それに関して、『頑張って、太郎さん』以降に出版された眉村さんの作品集をざっと見ましたが、「冬の日…」「かくれた災難」というタイトル作品は見当たりませんでした(ただし『日課・一日三枚以上』全10巻は未調査。後日チェックします)。

 あと、今回教えていただいたことを列挙します。
◯「まぼろしのペンフレンド」
《中学一年コース》1966.4〜?     1966.5=連載2回目から1966.8=連載5回目まで国会図書館所蔵あり。1966.4と1966.9以降欠号。
 何回連載か不明。

◯「地獄の才能」
《中学一年コース》1970.4〜?
 7月号=第4回のみ所蔵あり。
 4.5.6月号と8月号以降欠号。
 これも連載回数不明。

◯「さすらいの終幕」
《中学二年コース》1966.11=連載第1回〜1967.3=第5回   以下《中学三年コース》に連載継続の予告あり。
《中学三年コース》1967.4以降欠号=連載回数不明。

 私のリストでは、特にジュニアものが手薄で、雑誌掲載情報は全く手を付けていなかったので、とてもありがたいのでありました。

 コピーを送ってくださるとのことで、本当に感謝感謝です。ありがとうございました。



 

「ハイカラ神戸幻視行フェア」に行ってきました

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月20日(日)12時18分8秒
返信・引用 編集済
   昨日は西秋生ハイカラ神戸幻視行フェアを観に行きました。
 会場は神戸元町。実は古書うみねこ堂書林のすぐ近所。ということで、まずはうみねこ堂に寄り、野村さんとしばし歓談。久しぶりに行ったら、どんどん充実しミステリ古書店らしくなっていました。

 

 もうストックもパンパンで仕入れを控えなければいけないのだが、市場へ行くとどうしても買ってしまうそうです。これはもともと収集マニアであった悪癖ですね(^^;
 で、捌けていくのは仕入れ量よりずっと少ないので、たまっていくばかりとのこと。みなさん、せいぜいうみねこ堂さんを利用しましょう。私はある古書をリクエストしてきました(^^;

 会場の古書店1003は、ビルの二階にあり、Googleマップのストリートビューでしっかり下調べしていたのですが、一度通り過ぎてしまいました。看板等が出ていないのですね。白いビルの右端にある入口から階段を上がって下さい。
 最近開店したそうで、ビールやドリンクが飲めるいわゆる今どきの古書店です。

 展示は、壁に本書の装釘を担当された戸田さんの表紙の原画と、本文各章の扉に配されたカットの版画。販売もされていましたので、ぜひぜひ。

 

 平台に西秋生の書籍(こちらも販売しています)や『ハイカラ神戸幻視行』の参考文献に上げられていた書籍など。参考文献は150冊ほどあるのですが、それを全部展示できないので、ごく一部だけ持ってきた、とは夫人の妹尾凛さんの弁。
 この参考文献、圧巻でした。こんなのをあつめていたのかと。しかしこれ位蒐集していなければ書けないよなあ、と納得も。

 

 

 

 本業関係のお花も。

 

 ということで、こじんまりながらなかなかよくまとまった内容の展示会でした。フェアは11月28日まで開催されています。興味のある方はぜひご来場下さい。実は堀晃さんが少し前までいらっしゃっていたそうで、すれ違いでした。ああ残念(^^;

 この日は、久しぶり(1年ぶり?)風の翼大宴会も挙行されました。7人が1003に集合し、近くの居酒屋で「リアルで」久闊を叙したのでありました(^^;
 皆さん、お疲れ様でした。

 

眉村さん情報:『頑張って、太郎さん』

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月18日(金)22時30分14秒
返信・引用 編集済
   ある方からメールで眉村さん情報を教えていただきました。
 筒井さんの書誌をなさっている方だそうです。国会図書館で調べ物をしているときに発見されたとのことで、ご一報下さいました。ありがたいことです。
 筒井さん書誌と言えば、尾川さんも折に触れて眉村さん情報をご教示くださっており、感謝の言葉もないのですが、筒井さんは本当にそのような在野の研究者にめぐまれていると思います。ツイッターを閲覧していましても、他に少なくとも二人、そういう方がいらっしゃいますね。

 さて、今回、内田洋行発行の「季刊ひゅーまん」というPR誌に、1985年から90年にかけて、眉村さんのショートショートが連載されていたとのことで、掲載号と掲載作品名を教えていただきました。
 そのリストを拝見して、思い当たることがあり、確認したところ、連載作品の多くは作品集『頑張って、太郎さん』に収録されたようです。→こちら (註。このリストの初出誌情報は当該作品集(初刊版)に記されてあったものです)

 で、頂いた《季刊ひゅーまん》のリストと『頑張って、太郎さん』の掲載作品リストを合体してみました。

 
 (註。<欠号>とは国会図書館に所蔵されてないという意味です。<掲載なし>は当該号に眉村さんの作品は掲載されていなかったということです)

 比べてみますと、どうやらそのままの並びで作品集に収録されたことがわかりますね。そうだとしますと、
 欠号の3号には「精神強化合宿」
 欠号の8号には「画像面接」
 欠号の9号には「人材」
が掲載されていた可能性が高そうです。
 それでいきますと、「F会館」は11号掲載ということになりそうですが、11号は<掲載なし>ですので、書下ろしか、もしくは別の媒体から採られたのかもしれません。
 「食堂」も同様ですね。

 一方、「念書」(1号)、「雪の日」(21号)、「かくれた災難」(22号)は<不採用>だったようです。
 念のためこの3篇を読み返してみましたが、「F会館」の内容も「食堂」の内容も、<不採用>3篇のタイトルと結びつく要素はありませんでした。(*もっとも「確定」ではありません)

 図の「推定発行年」は、「ひゅーまん85.1〜89.7(小説)」という初刊本記載と、頂いたメールに「1号から22号までで1985年から1990年です。(これで1冊の合本になってました)。その後は掲載はないようです」とあったところからの推理です。
 初刊本記載に従えば、「精神強化合宿」が85年1月発行号となりますが、だとすると、それ以前の号は84年発行となり、辻褄が合いません。そこでこの「85.1〜」は連載開始号のそれが、誤ってかどうかわかりませんが、記載されたと推測しました。
 そうとして順々に追っていきますと、「疑心暗鬼」は89年刊行の第4号となり、「〜89.7(小説)」と合致します。(*7月に年次4号というのは早すぎる気もしますが)
 と同時に、21号、22号は90年刊行号掲載となり、メールの「1985年から90年にかけて、眉村さんのショートショートが連載されていた」というのとも矛盾しません。

 ということで、私としては本格ミステリを解いたような高揚感に包まれております。勝った!!という感じですな(^^ゞ
 いやまあ、実際はどうなのか、全く分からないのですけどね、しかし、実際なんかどうでもいいのです!(>おい) 書誌とミステリを混同するなんて書誌家としては失格ですね。いうまでもない? 失礼しました(汗)。

追記。その方が、近日国会図書館に行かれるとのことで、季刊ひゅーまん各号の発行年月日を調べてくださるそうです! 筒井書誌家の方はみな親切です(^^)。とともに、私の推理の当否もそのとき定まるわけで、ドキドキでもあります(^^ゞ

 

眉村さん情報『終幕のゆくえ』

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月17日(木)19時20分46秒
返信・引用
   眉村卓さん新刊『終幕のゆくえ』(双葉文庫)が、アマゾンで予約受付中になっていました。12月14日発売予定。
 →【Amazon

 楽しみです(^^)

 

ハイカラ神戸幻視行フェア

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月17日(木)18時55分49秒
返信・引用
   ハイカラ神戸幻視行フェアがはじまったそうです。→風の翼
 
 詳細はこちらで。

 

Re: みじかばなし

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月17日(木)18時09分11秒
返信・引用
  > No.7391[元記事へ]

 海野さん
>どちらも同じ海流に乗って流されてたんですね。
 なるほど。それも面白い。けれども、それだとリアリズム小説になっちゃいますね(^^;
 オチ無しのオチといいますか。深く考えるとそういうことになります。
 おお、オールディスじゃないですか(^^ゞ

 別件、了解しました。とにかく全快することが第一ですね。


 

Re: みじかばなし

 投稿者:海野久実  投稿日:2016年11月17日(木)07時37分44秒
返信・引用
  管理人さんへのお返事です。

おお!ハードSFだ。2001年みたいなリアルな効果音で映画化したいですね。これを踏まえると「瓶の中の手紙」も違うオチになりますね。ある南の島に大きな箱が流れ着く。髪の長いビキニの美女がそれを見つける。美女はそれを見てびっくり。箱の上には白骨死体。箱と一緒に無数の手紙の入った瓶が流れ着いていた。どちらも同じ海流に乗って流されてたんですね。 

http://marinegumi.exblog.jp/

 

みじかばなし

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月16日(水)21時54分28秒
返信・引用 編集済
  本篇は返歌です。まずこちらをお読み下さい→「瓶の中の手紙」

乗っていた宇宙客船が原因不明の爆発でモジュール単位で四散してしまった。
俺は放り出された衝撃で気を失い、救命ボートに乗り損なってしまったらしい。
しかし俺は幸運だった。
気がつくと空気循環モジュール(AM)に引っかかっていたのだ。
ラッキー!
着用している非常事用気密服をAMに繋ぐ。
こうしておけばAMの非常動力システムが働いているかぎり、窒息死することはない。原子力のそれは半永久的である。
ただ空気チューブが短いので行動は制約される。上下左右は見渡せても、後ろは見えない。
次なる問題は食料なんだよな。
そう考えていたら、なんと糧食庫モジュール(RM)が前方に見えてきた。二つのモジュールは、偶然にも同じ方向に跳ね飛ばされたようだ。こっちのほうが若干速度があり、RMに追いついたということらしい。
携行命綱(CL)を発射してRMを捕縛する。
CLを巻き戻し、ドッキング。
ドッキングしたAM-RMは、合力により新しい方向と速度を獲得する。
これで当面の危機は回避された。飢えて死ぬ心配もなくなった。
あとは救援を待つばかり。
といっても、どっちの方向に向かっているのか、皆目見当がつかない。
宇宙客船の沈没に気づいた真空軍(VF)の遭難救助活動をあてにするしかない。
10日が経過したが、救助隊は現れない。
少し焦ってくる。
そりゃあ、宇宙で遭難者を発見するってのは、サハラ砂漠に置いた一粒の砂を捜し出すに等しい。
20億の針どころの話ではない。
なんか手はないものか。
ひらめいた。
RMに保管されている糧食は特殊なプラスティック容器に入っている。そのカラの容器がたまってきていた。
これに手紙を入れて宇宙に流すのだ。どんどん流していけば、それが宇宙にどんどん広く拡散していくはずだ。救助隊の目にも留まりやすくなるのではないか。
それからは、糧食を食べ終えれば必ず、カラになった容器に、SOSと宇宙客船名、俺の名前を記した紙を封入し、ポイとうしろへ放りなげている。
100日が経過。
救助隊は現れない。
どうなってるんだ。
コンと頭に何かが当たる。見ると容器だった。
なんだなんだと、無理やり後ろを振り向いて――わっと俺は目をむいた。
そして、ああそうだった、と、力なく膝を打つ。
理由は即座にわかった。
俺の乗っているAM-RMは、宇宙空間を自由落下しているわけだ。
で、そこから放り出した容器は、ポイと投げ捨てた程度では、別の軌道を獲得することはなく、AM-RMと同じ軌道を、等速で飛ぶだけなのだ。
俺はガックリと肩を落とした。

俺を乗せたAM-RMは、後ろに星光を反射して銀色に輝くプラスティック容器群の巨大な壁をしたがえて、大宇宙のただなかを、粛々と進んでいくのだった―― m(_ _)m

 

「てやんでェ(下)」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月15日(火)21時50分4秒
返信・引用 編集済
  > No.7380[元記事へ]

 梶山季之『てやんでェ(下)』(光文社文庫85、元版66)読了。
 面白かった。舞台は昭和36年(1961年)。上巻冒頭で、かつて駐留軍兵士だった米国人が商用で来日します。終戦直後の廃墟と焼け野原しか知らないその男は、わずか15年で東京がみごとな復興を遂げているのを目の当たりにし、驚きに打たれます。
 本書はそのような劇的な復興を遂げた60年代の日本のバイタリティと、それを背景に、対米コンプレックスを克服し、対等意識にめざめた日本人を描いて余すところがない社会経済小説でした。
 対米コンプレックスを克服――と書きましたが、21世紀の今日から見ますと、実際はやはりコンプレックスから抜け出せていず、その裏返しで肩肘張って背伸びしているだけなんですね。これはある意味、著者の反米(無)意識の反映でしょう。それゆえ主人公は、外国人に対して妙に古い日本的なもので対抗しようとします。それは今から見るとずいぶん硬直的な行動パターンなんですね。そのあたりは、私には読んでいていささかイタイタしく、さめてしまう部分でした(たとえば終章の日本的女性観の押し付け)。
 ただ本篇にみなぎるギラギラ脂ぎったバイタリティは、まさに60年代のもので、70年代の繁栄は60年代のこのような一種恥も外聞もない(ある意味ノーキョー的な)行動原理によって成し遂げられたと言って過言ではありません。
(70年代になるとジャパン・アズ・ナンバーワン的自信が余裕を生んで、対外コンプレックスはほぼなくなる。そのかわりバイタリティも失われていきます。90年代から現在にいたる夜郎自大な自意識(ex土人発言)は、ひょっとしたら60年代の対外(無)意識(裏返しのコンプレックス)の復活なのかも。ただし野卑なまでのバイタリティは復活していません)
 本書は、そのような「60年代」が、一種劇画的なストーリーで描写されます。劇画という手法は、案外60年代と親和的なのかも。「課長島耕作」を読んだことはありませんが、多分本書と通底するところが多いのではないでしょうか。
 かつて80年代に、当時流行した経済小説を10数冊読んだことがありますが、小説として重くなりすぎていて、本篇のようないかがわしい軽さは感じられなかったように思い出します。その意味でも、まさに60年代を体現した小説と、私には感じられました。

追記。本書は経済小説でもあり、1ドル360円時代の関税も高い貿易の風景が読みどころでもあるのですが、思ったのは、今ほど情報が透明でなく「情報のタイムラグ」で儲けたり損をしたりしているのですね。これは現代の光速で情報が行き渡る世界とはぜんぜん違っています。そこも面白かった。人類が宇宙に進出していく場合、たとえ光速航行が実現したとしてもアルファ・ケンタウリの情報は4.3年のタイムラグが必ず発生するわけで、宇宙大航海世界を舞台に60年代小説が書けるのではないか、そんな気がしてきました(^^;


 

Re: 真田丸と失われた都

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月15日(火)20時44分36秒
返信・引用
  > No.7387[元記事へ]

 段野さん
>タイムリーに「ブラタモリ」をあててきたのでしょう
 なるほど、ブラタモリは「真田丸」の客寄せというか販促企画だったのですね(ーー;

>本格的に調査すれば、何かわかるかも。(誰がするねん)
 番組に出演していたどこだったかの学芸員の方なんか、そういう調査をやっておられるのではないでしょうか。「自分が発見した」とか言ってませんでしたっけ。

 私は大河ドラマ「真田丸」を見てなくて、たまたま何週か前の放送を、はじめて少しだけ見たのですが、どうも真田十勇士は存在しない並行世界の物語みたいですね(>おい)(^^;。

 

Re:真田丸と失われた都

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年11月15日(火)10時03分46秒
返信・引用
  管理人様
>12日の関西地区平均(視聴率)は14.7%
直前の(6日)の大河ドラマ「真田丸」ではまさしく「空堀」を作って真田丸を築城していました。タイムリーに「ブラタモリ」をあててきたのでしょう。
「空堀」は今はないとかいっていましたが、痕跡はあるようで、突然高低差が現れたりします。「高低差マニア」のタモリは、早速に見つけ、観察していました。地名に残っていますから、本格的に調査すれば、何かわかるかも。(誰がするねん)
 

江戸川亂歩『奇譚』翻刻

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月14日(月)22時21分5秒
返信・引用 編集済
  中相作氏狂気の労作、遂に完成!!(汗)
http://rampousha.co.jp/#kitan

江戸川亂歩『奇譚』(藍峯舎)翻刻校訂中相作
      ↓クリックで拡大↓


 

Re: 真田丸と失われた都

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月14日(月)21時31分43秒
返信・引用
  > No.7384[元記事へ]

 雫石さん
>大きな痕跡があるのが判らないのかな。
 それ、私も思いました。地図を見ると、真田丸比定地の北に空堀町、西に空清町という地名があり、タモリのブラブラ足跡マップをたどれば、タモリさん一行が歩いてきた道(真田丸の北面)に空堀ビルというのがありますね。プリンセス・トヨトミの主たる舞台が空堀商店街でしたから結構人口に膾炙している地名ですよね。タモリさんも知らん振りするのは苦しかったかも(笑)。
 それよりなにより、空堀商店街の方たちが、見ていて大笑いしていたんじゃないでしょうか(^^;。
 ところがこの番組、ニュースによりますと「12日の関西地区平均は14・7%と、前4週平均の11・8%を大きく上回った。大阪城の地元では、さらに強い反響があったもようだ」と、大好評だったんだそうです。そんな番組ですから、ひょっとしたらアッチでも放送されていて、見ていた真田幸村がゲラゲラ笑いながら、「おいおい『007は二度死ぬ』かよ」とテレビに向かってツッコんでいたかもしれませんなあ(>おい)(^^ゞ

 

Re: 真田丸と失われた都

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2016年11月14日(月)14時04分23秒
返信・引用
  > No.7382[元記事へ]

わたしも「ブラタモリ」見ました。
あんなかで真田丸の南がわに大きな空掘があって、その痕跡はいまは認められないといってましたが、大きな痕跡があるのが判らないのかな。
あのへんの町名は「空掘」ですよね。町名に残っている。大きな痕跡ではないのでしょうか。
大昔、私が国語の問題集の編集をやっていたころ、空堀商店街のラーメン屋によく行きました。にんにくが効いたけっこううまいラーメン屋でした。いまもあるのかな。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 

表紙案出来

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月13日(日)18時55分26秒
返信・引用
   今日はチャチャヤング・ショートショート・マガジン4号(通巻6号)の表紙デザインをやっていて、だいたいこれでいこうというのが出来ました。
 お見せしてもいいのですが、直後は頭の中のあらまほしいイメージで見ている(つまり脳内変換した虚像を見ている)場合があるのです。何日か経過して見返したら、ナニコレとなることも少なくないのですねえ(むしろ大抵そうなる)。
 ということで、とりあえずしばらく寝かせておきます。
 あとは扉ともくじを進めて行きます。
 通巻6号ともなりますと、かなり工程が手慣れてきて、このごろはカセット方式(と私は呼んでいる)なので、あとから作品が届いても、任意の場所にポンとはめ込み、もくじを手直しするだけ。実に簡単になってきました。
 本当は、作品が揃ってから全体を見透した誌面づくりが理想ですが、理想に走っていつまでたっても雑誌が出ないよりはマシかなと(^^;
 というか、大体まだ締切まで半月もあるのです。現在、ちょうど150頁になりました。これでも十分なボリュームですが、前号が190頁だったのですよね。それくらいの厚みになると、いかにも書籍という感じになるので、どしどし送ってきてくださいね(^^)

 

真田丸と失われた都

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月12日(土)21時41分34秒
返信・引用 編集済
   あちゃー。ブラタモリ、チャチャヤング・ショートショート・マガジン4号(通巻6号)の作業に没頭していて、今回も冒頭部分見逃してしまいました。また再放送を観なければ(^^;
 ところで視聴していて、あるところであっと驚いてしまいました。真田丸のあった場所に、現在明星高校の校舎が建っていることを知ったからです。明星高校と言えば、福田紀一さんが教鞭をとっておられた高校ではないですか。
 なるほど!と膝を打ちました。
 何が、なるほど!なのか。
 福田紀一さんの「失われた都」は、おそらく明星高校にいらっしゃったときに書かれたものだと思うのですが、この話、主人公が、時空を超えて財宝捜しにやってきたナポレオンとともに、地下に埋蔵された豊臣の財宝を求めて、地下鉄の坑道に横穴を開け、掘り進んでいき……というとんでもない話なのです。
 財宝の埋蔵場所は、大阪城の南西としか書かれていません。そして地下鉄も何線かわからないのですが、おそらく御堂筋線でしょう。「もう我々は戎橋の電車道を渡ったかい」「勿論さ」という会話が交わされるので、なんば駅と心斎橋駅の中間の地点から東へ向かって掘り進んでいったと想像できます。(*ただ「戎橋の電車道」というのが私には不明です。昔は市電か何かが通っていたのでしょうか)
 いずれにしろ、かつて真田丸があった土地の上の高校の社会の先生であった福田紀一さんが、この豊臣の隠し財宝の物語を構想していたというのはいかにもありそうですし、地下を掘り進んでいくというプロットも、たぶん真田の抜け穴が、意識か無意識かわかりませんが踏襲されているように思われます。
 いやあ、ブラタモリのおかげで、「失われた都」に新しい知識(有意な偶然)が結びつきました(^^)。

 

AI、創作料理に挑む

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月11日(金)20時29分5秒
返信・引用 編集済
   羽生善治三冠、生存本能に縛られないAIは「創造的」たりうるか

《中島:今、「ディープラーニングは、いろんなことを学習して、なんでもできるぞ」という話があります。たとえば、有名レストランの味を学習して再現するというのは、味覚センサーがあれば、たぶん実現できると思います。
羽生:いかにも得意そうな感じがします。
中島:でも、AIに「創作料理」はつくれないんじゃないかと思っているんです。
羽生:ほぉ。
中島:創作料理とは、今まで誰もやらなかった食材や調理法の組み合わせですよね? そんな創作料理をAIがつくれないのは、「評価ができない」からだと思うんです。AIは、人間と同じ身体を持っていないですから。こういう味だっていう味覚センサーの値はわかるけれど「美味しいかどうか?」っていうのは、完全に人間のものですから。
羽生:まだ味わったことのない味を評価するのは困難に思えます。
中島:そういう「身体性」に関わることって、いろんなところにあって、プログラムには手が出ない。まねはできても、新しいものはつくれないので、そういう職業は絶対になくならないと思っているんです》


 

「てやんでェ(上)」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月10日(木)22時51分38秒
返信・引用
   梶山季之『てやんでェ(上)』(光文社文庫85、元版66)読了。

 面白く、三分割くらいで読んでしまいました。ただ、だんだんと劇画みたいな展開になってきて、いくらなんでも偶然が重なりすぎるし、打つ手打つ手が当たりすぎで、ちょっと食傷してきました。せっかくですから下巻も読みますけど(汗)

 しかし主人公は、いかにも絵に描いたような(類型的な)押しの強い大阪の商売人なのに「てやんでェ」という言葉が好きというのは、設定ミスではないでしょうか。江戸弁やないですか。「てやんでェ」は「何言ってやんでェ」の省略形。たしかに反骨精神をそれに重ねるのは可能ですが、それなら大阪弁にもありますよね。「何言ってやんでェ」の大阪弁は「何ぬかしてけつかんねン」ですから、タイトルは「けつかんねン」でもよかったのでは? あきませんか。失礼しました。

《あこがれの夢の島――ハワイである。/余は、かつて放浪のころ、一度だけこの島に来たことがある。/なんでも寄港中の日本軍艦から、脱走水兵が一人出て、いくら島内を捜してもわからず、大さわぎをしていたころだった。/あとで、その水兵が沖縄県人で、差別待遇をされるのに腹を立て、脱走したものとわかったが、たしか日本の新聞には、報道されなかった模様である》(235p)
 こんな文章がありました。主人公といっしょにハワイに飛んだ通訳の老人の日記という体裁ですが、著者の小説はたいてい取材小説なので、この一文もその例外ではないでしょう。つまりそう書かれている実際の日記を参照したとおぼしい。
 戦前の軍隊はそうだったんでしょうね。いや軍隊ってところは(機動隊も警察もだけど)、今も昔も、そういうのが当たり前に認識され声に出して(土人めとか)いじめたりするそんな世界なんでしょうね。戦前と何も変わっていない。そんな環境に放り込まれたら、どんな入隊者も、遠からずそのような考えに染まってしまったとしても、ぜんぜん不思議ではありませんよね。

 

書を捨てよ、町に出よう

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月10日(木)21時17分47秒
返信・引用
   人工知能「東ロボくん」 東大を断念

  《人間では当たり前の常識や問題文に書かれていないことを推測し、人間のように意味を理解する
  ことができません。例えば、センター試験模試の英語の問題で2人の会話のやり取りを読み、空欄
  部分について与えられた単語を並べ替えて会話を成立させる問題です。
  「こんなに暑いのに歩いたの!」という問いかけに対し、「はい。とてものどが乾いた。だから」
  に続く文章を6つの単語で作ります。この時、東ロボくんは6つの単語の並び替えをインターネッ
  ト上の文章で学習し、候補として、「冷たいものが飲みたい」、「寒いので何か飲みたい」という
  2つの文章を作りました。
  通常、人間であれば「暑いのだから冷たいものが飲みたいだろう」と状況を理解し、当然、「冷た
  いものが飲みたい」と解答します。しかし、暑いとは何か、暑いと何が飲みたいのか、という知識
  は教科書に記載されていません。
  このため東ロボくんは、「寒いので何か飲みたい」といった間違った解答を選んでしまうのです》

 《人間は問題文に書かれたことだけでなく、常識のような知識も利用して問題を解いている。今後、
  人間が意味を理解するレベルに人工知能を近づけるには、人間の常識をはじめとした教科書に書か
  れていない知識をどのように習得し、習得した知識を目の前の問題とどのように関連づけられるか
  という技術が必要だ》


 要するに、今日びAIも、家に閉じこもっていず、外に出て社会的体験を積まなければいけないということですね。さしあたり東ロボくんには足をつけてあげたらどうでしょうか(笑)


 

Re: 「超知性原理」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月10日(木)18時25分51秒
返信・引用
  > No.7377[元記事へ]

 橋元淳一郎さま
 電子本『科学と哲学に関するつぶやき』全8巻、大変面白く、興味深く読ませていただきました。普段まず手を出すことのない分野なので、そういう意味でとても新鮮な読書体験になりました。ありがとうございました。

>電子本は引き続き出版していくつもりです
 それは嬉しいです。楽しみにしてますね(^^)

 

Re: 「超知性原理」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2016年11月10日(木)13時40分8秒
返信・引用
  > No.7367[元記事へ]

管理人さま。
遅ればせながら、拙著電子本『科学と哲学に関するつぶやき』全8巻を、すべてご購入頂き、含蓄ある書評を頂き、誠にありがとうございました。読ませて頂いて、もし自分が書いたものでなければ、これは凄い本だなー、是非買って読んでみようと思うに違いありません。確固たる構想もなく、毎月締め切りに追われながら、あーでもないこーでもない、とない知恵を絞ってあてどもなく書いたもので、お恥ずかしい限りです。
とはいえ、電子本は引き続き出版していくつもりです。いろいろ企画案はあるのですが、なかなか時間が取れません。少し休憩しましてから、また俎板の上に載せて頂ければと思っております。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
 

岡本俊弥「狩り」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月10日(木)01時28分54秒
返信・引用 編集済
   岡本俊弥さんの新作がアップされました。https://sway.com/8BqJHOegreAbXOEr
 早速読みました。
 私は、小説に関しては縦書き派なので、いつも勝手に加工してしまいます。
 まず全文コピーして、メモ帳にペーストします。(メモ帳に移す理由はフォント等の書式を無効化するためです)
 岡本さんの使っておられるswayというのは、コピーすると文章が折り返しで改行されてペーストされるので、まず改行部分をもとに戻して文を繋ぎます。なに20枚程度ですから5分もかかりません。
 著者は算用数字は半角で使われているので、縦書きにしたら寝てしまうのですが、これはメンドクサイのでそのまま寝かしたままにしています。別に読むのに困ることはありません。
 次に、メモ帳に移した作品を全コピーして、あらかじめタブレット用にカスタマイズしたワードの書式にペーストします。(一度メモ帳に移すのは上述の理由でして、直接ワードにペーストすると元々持っていた書式情報が反映されてしまうのです)
 そのワード文書をPDF化します。
 PDF文書を、これまではAcrobat Readerか、dropboxのクラウドに上げて、タブレットにダウンロードしていたのですが、今回は、Googleドライブを試してみました。
 Googleドライブは、私の理解するところでは、クラウドからダウンロードするのではなく、クラウドにある文書を、そのままインターネットで読むという形式なのです(swayも同じですね。横書きですが)。
 これまでは読み終わったら端末から削除していたのですが、たまに消し忘れて残っていることがありました。Googleドライブでは、ダウンロードされていないので、削除する必要もないわけです(もちろんクラウドには残っています)。
 で、試してみた結果、あんまり早くスクロールすると、文字がぼやけてしまうのですが、私の読書スピードなら問題なしでした。

 というわけで、前置きが長くなりました。本文は簡単に(>おい)(^^;
 タイトルは「狩り」。これはリーダビリティ高いです。少女の謎でどんどん引っ張っていきます。
 ホラーだと思います。というか、ひょっとしたら理屈付けがあるのかもわかりませんが、私はホラーとして読みました。異形コレクションに載っていそうな話です。
 現実なのかそれとも主人公の妄想なのか、最後の主人公の述懐(疑問)は、疑問のままで答えはない、で、いいのだと思います(たぶん)。
 だとしたら、これまで謎は必ず解明説明される、理屈のあるSFを専ら執筆してきた著者の新境地ということになるのではないでしょうか。面白かったです!※

 実は最近、私も、リアルを超越する際、理屈なんかいらんのじゃないか、と思い始めているんですね。面白いことに今度のチャチャヤング・ショートショート・マガジン用に届いた作品にもそういう話が多いのです。偶然にしたらできすぎていますねえ(いやまあ私がそのように読みたいだけかもしれませんが)(汗)
※(もちろんオコジョとか、細部はリアリティの裏打ちは必要で、本篇も当然そうなされています)
 

チャチャヤング・ショートショート・マガジン4号着々準備中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 9日(水)22時44分6秒
返信・引用 編集済
   チャチャヤング・ショートショート・マガジン4号の原稿が、そろそろ溜まってきましたので、並びを考えながら誌面の2段組の判型に流し込み、PDF化してタブレットで通読してみました。現状で10篇、120頁。あと数篇これから届くと思いますので、150頁くらいになるのではないでしょうか。ショートショートから70枚の中篇まで、長さ的にもバラけていい感じです。
 タブレットに落とし込んで読むと、紙版で読む感覚に近いのです(以前はプリントアウトしていたのですが、最近はタブレットです)。いろいろ見映えの不備(フォントとか間隔とか)も見えてくるので、この作業は欠かせません。事実細かい修整箇所が見つかりました。それを直しながら読んでいたのですが、今号もいいですよ〜! なかなかのものではないでしょうか(^^)。
 ただ今回は色調が統一され過ぎかも。馬鹿馬鹿しいのが一篇もありません。といっても、殆どの作品がSFなんです。というか非リアル小説なのです。ところが、現実を超越する部分が巧妙にシームレス化されていて、はったりがないんですねえ。(追記。もちろんそれが悪いと言っているのではなく、それぞれの作品が必然的に選んだスタイルなんですが、アンソロジーとしてみた場合、変わり種もほしいな、という……)
 で思ったのですが、これはあるいは作家陣の平均年齢と関係があるかも(そういう意味では山田正紀は凄いですね)(^^;
 こうなったら馬鹿馬鹿しいのは私は得意なので(>おい)、ひとつでっち上げましょうかね(汗)。とか、そんなことをいろいろ考えられるのが、編集担当者の役得でしょうか。
 いやまあ、そういう意味ではこれから届く作品に期待してもいるのですけどね(^^ゞ。


 
 

「てやんでェ」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 8日(火)22時22分37秒
返信・引用
  > No.7373[元記事へ]

『てやんでェ』は140頁まで。

「世の中に、偶然というものはない、と、数学者はいうが、二人の出会いはやはり、偶然というべきだったろう。もし木塚が「危ない !」と日本語で叫ばなかったら ……また、ハーマーが、それを英語だと誤解しなかったら、二人の今日の握手は生まれなかったのだから ――」

 

「てやんでェ」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 8日(火)00時52分39秒
返信・引用
   哲学書ばかりも読んでいられないので、併読用として梶山季之『てやんでェ』に着手。
 進駐軍の兵士だった男が15年ぶりに(ビジネスで)再訪した昭和36年の日本は!?
 面白い。あっというまに50頁読んだ。
 

「偶然性と運命」読み中(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 7日(月)22時44分36秒
返信・引用 編集済
  > No.7310[元記事へ]

 そういう次第で(どういう次第だ)、また木田元 『偶然性と運命』に戻っているのですが、九鬼周造の説明が面白い。九鬼は偶然を〈論理的偶然〉〈経験的偶然〉〈形而上的偶然〉に分けます(但し以上の術語は木田のもの)。
 三角形の概念にとって、三つの線で囲まれた面の一部ということは本質的・必然的な徴表であり、これが否定されれば、三角形という概念そのものも否定されることになる。
 一方、頂角が直角であるか鈍角であるか鋭角であるかといった徴表は、三角形の概念にとって非本質的・偶然的な徴表であり、その〈可能的内容〉でしかない。〈論理的偶然〉とはこのようなことを言うようです。
 プラトンのイデアは多数の個物に対して〈共通者〉(ト・コイノン)であり〈一〉(モナス)であり、永遠に不変で自己同一的な〈概念〉である。
 ところが個物の方は、一方ではイデアに分かち与りながら、他方ではそのイデアに由来する〈形相〉(エイドス)を、特定の〈質料〉(ヒュレー)を媒体にして現実化している。この形相と質料の結びつきは、外的・偶然的である。
 これはおもうに、レヴィ=ストロースの〈構造〉と〈要素〉の関係と同じですね。要素は交換可能ということですから。結局、構造は必然であり、要素は偶然ということになるわけです。

 次に〈経験的偶然〉ですが、まずその対義である〈経験的必然〉とは因果的必然性のことです。
 要するに原因ー結果です。しかし目的ー手段も広義の因果性にふくまれるとします。後者は前者を逆転させたものだからです。「Aのためには、Bをしなければならない」という目的ー手段の関係は、「Bをすれば、必ず Aが生じる」という原因ー結果の関係を予想しており、それを逆にしただけです。同じ必然性が支配している。
 経験的偶然とは、AのためにBをしていたらCが生じたという形式です。例えば植木屋が木を植えようとして穴を掘ったら札束が出てきたというのがそれです。植木屋が穴を掘る目的は木を植えることで、札束を手に入れることなど目的に含まれていなかった。札束を得たのは偶然ということになります。
 これは植木屋の目的ー手段に基づく必然的行動と、泥棒が逃走中に、後から掘り出そうと地中に埋めたという目的ー手段に基づく必然的行動が交差したわけです。前者も後者も必然的ですが、それが交差することで偶然が生じた。

 

Re: ブラタモリ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 6日(日)22時33分31秒
返信・引用 編集済
  > No.7369[元記事へ]

 段野さん
 下の文を書き込んだあとに思い出したのですが、織田作にこんな一文があります。で、ちょっと考えを改めました。

「たしかに、軍部は国民を皆殺しにしようと計画していたのだが、聖上陛下が国民の生命をお救い下すったのであると、私は思った」(「終戦前後」)

「東条英機のような人間が天皇を脅迫するくらいの権力を持ったり、人民を苦しめるだけの効果しかない下手糞な金融非常処置をするような政府が未だに存在していたり、近年はかえすがえすも取り返しのつかぬような痛憤やる方ないことのみが多いが武田さんの死もまた取りかえしのつかぬ想いに私をうろたえさせる許りで、私は暫らく蒲団をかぶって「方丈記」でも読んでいたい」(「武田麟太郎追悼」)


 前者は終戦の日の感懐で、後者は武田麟太郎の追悼に書かれたもので、どちらも青空文庫で読めます。
 前者では「六月といえば、大阪に二回目の大空襲があった月で、もうその頃は日本の必勝を信ずるのは、一部の低脳者だけであった。政府や新聞はしきりに必勝論を唱えていたが、それはまるで低脳か嘘つきの代表者が喋っているとしか思えなかった。/ 国民の大半は戦争に飽くというより、戦争を嫌悪していた」とも。

 これらからすると、織田作は戦時中からすでに日本政府(軍部)に反抗的な気分でいた。ところが天皇については、本当は平和を望んでいたのに、軍部や政府に脅迫されてやむなく従っていた、という認識だったことが分りますね。
 いやまあ事実そうだったのでしょう。しかし戦後文学者は明治体制(=天皇制)自体に戦争の契機を見ていた。そこが大正2年生まれで戦後派より一世代前の織田作との認識の差異であった。眉村さんは戦後派(最終)世代ですが(大江健三郎までを戦後派とするならば)、織田作に似た天皇観を持っておられたのかもしれませんねえ。
 

「ハイカラ神戸幻視行」書評

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 6日(日)19時22分33秒
返信・引用 編集済
   本日(11/6)の神戸新聞に、西秋生『ハイカラ神戸幻視行 紀行篇 夢の名残り』の書評が掲載されました。



 

Re: ブラタモリ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 6日(日)18時57分23秒
返信・引用 編集済
  > No.7368[元記事へ]

 段野さんも、ブラタモリ観られましたか。
 たしかにハルカスからなら上町台地は一望のもとでしょうね。私も一度観てみたいと思いました。あそこは途中の展望台は無料だけど、一番上は有料でしたっけ。行くならやはり一番高いところから見霽かしたいものです。

>大阪城築城に、その場所を選んだのは、なるほどな、と
 あの場所は天然の要害かつ交通の要衝なんですよね。ですから大阪城の前は石山本願寺があり、これも難攻不落と言われました(大阪市民に門徒衆が多いのはそれが理由ですね。テレビでは石山本願寺の話も出たのでしょうか)。
 それどころか、古代(大化の改新直後)は難波宮があそこにありました(長柄豊崎宮とも称されたのでまさにあの場所ですね)。大化の改新の諸施策はこの宮廷から発令されたのですね。孝徳天皇が(実質中大兄がですが)大化の改新直後この地に遷都したのは、本宗家は滅びたとはいえ蘇我氏の影響力が残っている飛鳥斑鳩を避けたからでしょうが、ところが10年も経たずして中大兄は孝徳を置き去りにして飛鳥に戻ってしまう(その頃には蘇我も無力化してしまっていたということもあるでしょう)。それはもう孝徳天皇の奥さん(間人皇女)も中大兄に従って帰ってしまうのです。広い宮廷にたった一人残された孝徳天皇はがっくりと気落ちして、翌年亡くなってしまう、というそんな悲劇のドラマも、この上町台地北端の地には残されています。

>(昔の大阪は、湿地帯でしたね)
 難波宮の頃はたぶん海で、上町台地は岬だったようです。つまり三方海の高台に、都があったわけで、絵的にも壮観だったのではないでしょうか。
 昨日のテレビによれば、秀吉の頃にはすでに泥湿地化していたみたいですね。特に江戸時代になって行われた西横堀以西の干拓は、統一的な国家事業ではなく、富商たちがそれぞれ(ちまちまと)行なったと言ってましたね。それでまず東西方向に堀が掘削され、その掘削された土が堀の両側に積み上げられて陸地化していくという、そういう方法が採用されたのかなと、見ていて想像しました。
 だから下図のように、秀吉が拓いた船場島ノ内は東西方向の堀が(道頓堀以外)ありませんよね。
 画像元

>9時から、「僕と妻の1778の物語」がチャンネルNEKOで(リピート放送なし)
 ああ昨日でしたか。リピート放送は間隔をあけて何回かされるそうです(こういう放送局の常套みたいです)。気をつけて確認しなければならないかもしれませんね(^^;

>眉村さんは唖然というのか、
 これは眉村さん世代の座標原点と草なぎさん世代の座標原点のずれでしょう。いまどき握手なんか当たり前になさっているんじゃないのでしょうか。というか、美智子さんの登場の際、率先して起立拍手していた映像を見たとき、へえ、と意外でしたね※。大正末年ごろから昭和一桁にかけての世代は、一番多感な時期に戦争で苦しめられましたから、天皇制に対して相対的な見方をする人が多いですよね。眉村さんの小説にも、走り抜けていく米軍のジープに向ってバンザイと叫ぶシーンが描かれていますが、70年も経つと思いも変わってしまうのでしょうかねえ。
※一種の義務感からだったのではないかと思っていましたけど。だったら眉村さんらしいエピソードですね。

 

ブラタモリ

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年11月 6日(日)15時58分17秒
返信・引用 編集済
  管理人様
「ブラタモリ」の再放送は、ぜひ観て下さいませ。
まず、タモリが、「あべのハルカス」(さすがNHK、名前を出しません。が、関西人にはすぐ分かります)から、上町台地を見ます。タモリ、「高低差マニア」なのに、「高所恐怖症」なのです。スタッフに「あれが大阪城ですよ」と見るように勧められても、展望ガラスに近づけません。カメラが、ずーっと上町台地を俯瞰します。「あの一番先が、大阪城ですよ」
上町台地、結構長いです。こうしてみると、大阪城築城に、その場所を選んだのは、なるほどな、と感心させられました。(昔の大阪は、湿地帯でしたね)その後、「暗渠」の見学。今の公共下水道ではなくて、川に流すための、石組みで作られたものでした。今も水量が多くて、秀吉の知恵が生きているのだなと思いました。あと、町名。(ここのところは管理人様も見られたのでは)例えば、北から「石町」「島町」「釣鐘町」「船越町」「内平野町」「内淡路町」「大手通」「糸屋町」とか、延々とあるのですが、道で区分けされているのではありませんでした。建物一つ違いで、町名が変わるのです。その町名も、北から区分けされていました。
後は、管理人様が見られたシーンではなかったでしょうか。「ここに橋があった」と連れて行かれると、道路しかなくて、橋の面影など、全くありませんでした。
次回は、「真田丸」篇ですね。(大河ドラマも来月で終わりますから)
この後忙しかったです。9時から、「僕と妻の1778の物語」がチャンネルNEKOで(リピート放送なし)が始まりましたから、万全の体制(どんなんやねん)で、終了時間(11時40分)までを整えました。
余談ですが、この映画で、東京で「プレミアム試写会」が行われました。原作者の眉村さん、主演の草g君、竹内さんと、そうして、美智子皇后さまがおられました。何と、草g君は皇后さまに「握手して下さい」とお願いしたそうです。眉村さんは唖然というのか、「今時」の人種と思われたのか、「まさか『握手』なんてこと、皇后さまに言えるのか」と、驚いたそうです。皇后さまは、握手されたそうですが、どう思われたのでしょうか。
 

「超知性原理」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 5日(土)23時57分58秒
返信・引用 編集済
  > No.7361[元記事へ]

 橋元淳一郎『科学と哲学に関するつぶやき(第8巻)超知性原理』(Kindle版、16)読了。

 新しい知の枠組みを探求する本シリーズ、最終回ですが、著者は「その新たな知的枠組みが、具体的にどのような相貌をもったものなのか、それは想像もつかない」とします。
 それはそうでしょう。人間は常に「世界内存在」「時間内存在」でしかありえない。「外」に出て、世界や時間の外から見られたら、何か見えるかもしれませんが、(現)人間の意識の構造からそれは不可能です。そして現人間の認識の台座は「科学」なのです。だとしたら「科学」を超越する「新しい知の枠組み」は考えるすべがない。想像を絶するものです。いわば「ソラリスの海」なのですね。
 その限界のなかで著者は、あえて想像してみます。
 ただ既述の3つの契機(Moment)を備えたものであることはわかっています。そこから抽出されるのは、それが「物質文明を否定するであろう」ものだということです。
 なぜなら科学的思考と物質文明は表裏の関係にあり、物質文明の果はカタストロフしかないからです。
「現代文明の知の枠組みである科学は、そのような混乱を助長しこそすれ、解決の切り札とはなりえない」
「想像もつかない」ながら、著者はいくつかのヴィジョンを提示してみます。
 まずひとつは「脳の改変」「不老不死」。
「来るべき新しい知の枠組みは、ソフトウェアという生易しい変革ではなく、ハードウェアの変革によって誕生するであろう」
 DNAを意図的に直接、変化させることによって起こる変革です。
 改変(拡張)された脳は主観を超越できる(何回か前に複数の脳を直列させるというアイデアもありましたね。あれはハード的変革ではなかったですが)。
 不老不死による時間猶予により周囲の主観と融合していく。「彼らは、決して急がない。永遠の時があるのだから」
 後者はアッと思いました。
《一つの文明の盛衰と同じだけの時間を生きるサイボーグの集団。それは一代かぎりでも文明と呼べるのではないか》
 実はこれ、私のアイデア帳にあるメモなのです(^^;
 ただしこのようなハードウェア的改変は、科学の延長線にあるので、新しい知の枠組みとしてはふさわしくない、と著者は考えます。
 ふたつめはボノボ社会のアナロジーから《母性社会》に可能性を見出します。
 ただしそれは単純な女性の社会進出とは違います。「現代社会で主導権を取っている女性は、セックスとしては女であっても、ジェンダーとしては男なのである」
 いやー、政治家の女性のすべてがそうとは思いませんが(現に私の知り合いの女性市会議員がふたりいますがそんなことはない)、高市某とか辻本某なんか見ると納得しちゃいます(^^;
ボノボのような社会では「自然や人をモノとみなすような客観主義は排除され、個々の主観が尊ばれるだろう。倫理的であることはいうまでもない。そして、自然や人を切り刻む分析的手法よりは、すべてを包み込む総合的手法が重要となるだろう」
 なかなかよさそうですが、女性によくある視野の狭さが公平性や客観性を妨げそうな。あ、客観性こそ科学的思考でした(汗)。それに女性の視野が狭いというのは現社会の男女あり方のせいかもしれませんから不適当でした(あべっちは女性は家に居れという立場かも)。
 でも結局著者は、可能性の一例を示しただけで、「筆者の出来ることは、右の三つの方向性 の提示止まりということになるであろうか」と謙虚ですが、いやいやその「主観の克服」「倫理性」「統合的手段」という3つの方向性を具体的に示されたことそれ自体が、現代という状況できわめて意義があることであったと思います。だいたい現・知の枠組みである科学的思考という認識の慣性系に取り込まれている我々現代人が、それに気がつくこと自体がなかなかありえないことなのですから。
 という次第で、本シリーズを通読し、大いに啓発され触発されるとともに、楽しませてもらいました。

 

Re: ブラタモリ高低差編

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 5日(土)21時11分14秒
返信・引用 編集済
  > No.7365[元記事へ]

 和田さん、お久しぶりです。
 ブラタモリの件、ご教示ありがとうございました。忘れず見ることにします。
 入院>順調そうでなによりです。タブレットなら、消灯なんのそのですね(>おい)(^^;
 例のヤツも楽しみにしています〜(^^ゞ

 追記。スマホじゃなくてタブレットでした。スマホでは長文打てませんよねm(__)m
 

Re: ブラタモリ高低差編

 投稿者:和田宜久  投稿日:2016年11月 5日(土)21時04分37秒
返信・引用
  ブラタモリ「大阪」は11月9日午前1時から再放送です。11月8日の深夜25時とも言う。僕はタモリ倶楽部とブラタモリは、ずっと録画しています。病院のベッドの上から書いてます。あ、今、消灯。小説も書いてます。  

ブラタモリ高低差編

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 5日(土)20時28分17秒
返信・引用 編集済
   ブラタモリを観ていました。といっても途中からなんですが、ふとテレビを付けたらタモリが上町台地の坂道を降りるところで、ややっ、と慌てて座り直したのでした。
 タモリさんは高低差オタクなんですってね。ところが私の見逃した部分で上町台地を歩いていたようです。ああ見逃した〜。
 私が観たのは秀吉の公共事業で拓かれた船場編、江戸時代に商人の民間事業として拓かれた西横堀川以西編ということになります。整然とした船場の区割りと商人が少しずつ進めていった西横堀以西の雑然とした区割りの違い、この番組ではじめて気がつきました。
 いやー面白かったけど、最初の部分見逃したのが残念。来週は真田丸編とのことで、ふたたび高低差がテーマになるのではないでしょうか(^^ゞ
 

 

Re: 「神と科学の退場」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 4日(金)17時57分13秒
返信・引用 編集済
  > No.7362[元記事へ]

 橋元さん
 私は数Uでわからなくなったので、本書もアナロジーで近似的に接近していくより他ないのが、本当に情けないです(汗) 嗚呼、もっと勉強しておけばよかったですー (ーー;

>たぶん本日中には最終巻発売のアナウンスが出来るかと思います。
 今見たら、出ていました!→『超知性原理 科学と哲学に関するつぶやき』
 超知性原理――とはまたSF心をくすぐられるタイトル!
 いよいよ最終回ですね、楽しみです(^^)
    

 

Re: 「神と科学の退場」読了

 投稿者:橋元淳一郎  投稿日:2016年11月 4日(金)13時43分40秒
返信・引用
  > No.7361[元記事へ]

管理人さま
いつも拙著の内容以上の深読みを頂いて、恐縮のかぎりです。最終巻、決して期待しないで下さい。ペコリペコリ。第1巻第1話の冒頭に書いたように、羊頭狗肉なのです。舞台裏を白状しますと、連載を開始するときには何らかの結論を得ようと意気込んでいたのですが、6年間やってみて、やっぱり答は出せなかった……ということで……ペコリペコリ。
いずれにしましても、たぶん本日中には最終巻発売のアナウンスが出来るかと思います。
 

「神と科学の退場」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 4日(金)00時14分33秒
返信・引用
  > No.7360[元記事へ]

  新しい知の枠組みの必要要件として、(1)主観の克服、(2)統合を扱う手法、(3)倫理的であること、が挙げられました。
 今回は、(3)倫理的であることについてです。17世紀から現在までつづいた知の枠組みである科学的思考の欠陥は(科学的思考の根本である没価値性からは当然の帰結ですが)倫理が等閑視されたことですね。
 著者は「非・倫理的」と「不・倫理的」を区別します。
 前代の知の枠組みである「キリスト教」(神の時代)は人々の「欲望(主に物質的)」を抑圧しました。リプレイスした「科学」は「物質的欲望」を解放するものだった(だから受け入れられた)。ところがそれが嵩じて、人々の欲望はとどまるところを知らなくなります。科学は人々の欲望に後押しされてさらに社会を進展させてきた。変化の速度はどんどん早くなっていき、あっという間に廃れ、新しいものが生まれてくる、そして規模の拡大が同時進行する、それが現代です。要するに科学時代の後半は資本主義と科学主義の野合といえるかもしれませんね(それとも科学が必然的に資本主義を生んだのでしょうか)。
 しかしその最終結果が、核戦争や公害等、地球規模での破滅が目前に迫っている現状なのでした。
 科学的思考は、その初期、キリスト教的な束縛を破り自由を獲得する力となりました。その力は実は科学の倫理性の欠如に負っている面があるのですね。著者はそのような倫理性の欠如を「非・倫理的」として限定的に肯定します。
 しかし「非・倫理的」が、地球規模の災厄をもたらすようなものになってしまったら、それは科学の破滅への自走暴走であって、それは認める訳にはいきません。これを著者は「不・倫理的」と規定しているのです。
 前回の比喩の使い回しですが60年代ロック、ビートルズや前期ストーンズやジェファーソンエアプレインの音と、70年代ニューロックのレッド・ツェッペリンの音との圧倒的な差異(コードやスタイルは同じなのに)みたいなものでしょうか。思い起こせば70年、ツェッペリンはメロディー・メーカー紙の人気投票でずっと1位を保ってきていたビートルズを破り、はじめてグループ部門で1位となりました。あれはきわめてドラスティックな新旧の交替劇でした。
 しかし科学から次の新しい知の枠組みへの交替は、そんなふうなドラスティックなものではないだろうと著者はいいます。100年単位の変化かもしれない。その前にカタストロフが起こって水泡に帰してしまう可能性もあるとのこと。
 地球人口が100万人やそこらなら、地球の自浄作用でなんとでもなることが、70億、いや100億も目前の現代では、地球だのみは通用しない。これはマーヴィン・ミンスキーも、先般紹介したユーチューブのなかで言ってましたよね。
 非・倫理的と不・倫理的の差は規模の差(著者は量の差と言っています)といえるかもしれません。
 だからといって文化を知ってしまった人類は、著者がいうように、いまさらクロマニヨン人の洞窟に帰るわけにもいきません。というか70億の人口を抱えてしまったこの地球では、クロマニヨン人の洞窟へ帰ることも、もはや不可能なんですね。
 なんとか次の知の枠組みへ(それは倫理を意識した枠組みです)、ソフトランディングしていく他ありません。
「すなわち、 新しい知の枠組みは、古い文明の衰退と疲弊に並行して現われてくるということである。そのとき、人々の倫理観はどのような変容を受けるのか」
 科学の時代は、一面で自由の拡大、謳歌の時代でもありました。しかし科学という知の枠組みに限界が見えてきた今、これまでのような訳にはいかないだろう、と著者は述べます。
「今日、われわれが直面している危機は、そのほとんどすべてが、個人の自由の量的拡大に負うていることもまた明らかである」「新しい知性の枠組みに、倫理的なものを求めるということは、われわれがこれまで謳歌してきた自由を、制限されるということに他ならない」
 それを現知の枠組み内で回避する方法がない訳ではないとして著者が提示するものは、ある意味クラーク的なのですが、それゆえに楽観的すぎて、著者が言うように「きわめて非現実的」と、私も思わずにはいられません。「すべては逆に向かっている」

 ということで、橋元淳一郎『科学と哲学に関するつぶやき(第7巻)神と科学の退場』(Kindle版、16)読了。

 次回は最終回。いよいよ科学と神にとってかわる「新しい知の枠組み」に就いて著者のヴィジョンが開陳されるのでしょうか!?

 

「神と科学の退場」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 2日(水)21時45分46秒
返信・引用 編集済
  > No.7358[元記事へ]

 科学的思考における数学(解析学)に対応する、新しい知の枠組における「棍棒」(もっとエレガントなものでしょう)を考えます。
 それが、分割ではなく統合的な手法になるだろうことは当たりが付いています。著者はさらに踏み込んで、具体的に思弁します。
 コンピュータはどうでしょう。1 )ケタ違いの高速の計算力をもちますが、やっていることは古い数学のままです。どういうことかというと、レッド・ツェッペリンはニューロックの草分けとの史的位置づけですが、電気楽器の進歩によって獲得できた大音量で旧来のロックンロールを演奏しただけとも言えます(もちろん「それだけ」ではないのですが、でも確かに「それだけ」で印象は180度変わってしまったはずです。ニューであったことを否定する意図はありません)。そういうことではないでしょうか。
 ではコンピュータに希望はないのか。
2)コンピュータはデジタルです。一方量子力学は「この世界を構成する要素が、連続的なものではなく離散的なものであることを明らかにした」つまりデジタルな存在と言えます。「よって現実世界を表現するのにコンピュータはぴったりのように見える」。見えるのですが、しかし著者は、量子力学の世界の(クォンタムの)離散性とコンピュータのデジタルは似て非なるものだといいます。少なくともノイマン型のコンピュータには創造的な役割は期待できないと考えておられるようです。
 ここから先は理解していません(>おい)。観測されていない電子のスピンは確率的にしか表現できないので幽霊的存在(演算子)とするのだそうです。従来の科学では見えないものは実在ではないとするわけですが、量子の世界ではそれを認めると数学的にうまくいく。ただし演算子は微分形式なので、分析ではなく統合であるべき新しい知の枠組みにはそぐわないのと、この演算子「∂/∂tという記号が、暗黙のうちに時間tを実在として扱っていること」に問題があるとのこと。量子論と相対論はニュートン的絶対時空を否定するものであるのに、「位置xと時間tは絶対的物理量として、定義抜きにどんどん登場する。これは矛盾ではなかろうか」
「少なくとも、演算子∂/∂tの使用は、量子力学の哲学的意味を曖昧模糊としたものに見せている。新しい葡萄酒を古い袋に入れている感がある」
 まさにレッド・ツェッペリンですね(汗)
 著者は新しい酒を収めるには新しい袋でなければならないと述べます。ニューロックで言えばピンク・フロイドの登場がそうでしょう。新しい知の枠組みのピンク・フロイドとは一体!?

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 2日(水)00時53分20秒
返信・引用
   元ツイート

 

「神と科学の退場」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 1日(火)23時23分4秒
返信・引用 編集済
   橋元淳一郎科学と哲学に関するつぶやき(第7巻)神と科学の退場』 に着手。

 今回は雑談風です。
 まず無理数は実在するのか、という話。正直、本書を読むまでそんなことは考えたことがありませんでした。もちろん√2が、一夜一夜に人見頃以下無限に続くことは知っていました。
 ところが改めてそう問われて、そういえば直角二等辺三角形は実際に描けるわけです(近似ですが)。なのに、底辺の長さが定まらないとは、一体どういうことやねん、と生まれて初めて気がつきました(汗)
 直角二等辺三角形の底辺は線分として始めと終わりがあるじゃないですか。ですから測ったら長さが分かるじゃないですか。それなのになぜ1:1:√2と長さが確定しない(無理)数になるのか。考え始めたら気が狂いそうになります。地下鉄の入れ場所どころの話ではありません。ピュタゴラスが無理数を研究したいと申し出た弟子を殺してしまったというのもむべなるかな(>おい)
 その点において著者は、「ピュタゴラスは数学者というより、自然哲学者と呼ぶのが相応しいであろう」とします。
「科学者と数学者の違いは、一言でいえば、現実に存在するものを真理とするか、論理的に正しいものを真理とするか、の違いといってよい」
 なるほど。実在するものを(数学的には近似値であっても)研究するのが科学者ということでしょうか。これは微分の考え方(リニアとみなす)と同じですよね。
 とにかく√2の場合は一目瞭然で、数学的には無理数だとしても、ちゃんと実在していると考えるのですね。
 虚数iもそういうものだと著者はいいます。虚数を想定しなければミンコフスキー時空は描けない。したがって虚数は実在する。ということだそうです。
「まず数学が、論理的に真である新しい概念を提唱する。それを追って科学 (物理学)が、その概念を自然の中に発見する」
 だからピュタゴラスは自然哲学者としても間違っていたんだそうです(^^;
 つづく「もし∞が実在すれば」という話題は、知識がなさすぎて付いていけませんでした(汗) ただその結論である「無限集合という概念が科学に取り入れられるのだとすれば、このとき世界は無限に分割される何者かではなく、統一された唯一のものとならざるをえないのではないか」は、前書で言われた「新しい知の枠組みは、微積分とは対照的な、細分化せずに、全体を統括的に把握する、まったく新しい手法にゆだねられねばならないのではないか」に関連してくるのだと思われます。

 

11月になりました

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 1日(火)20時21分42秒
返信・引用 編集済
   11月になりました。ところで本日11月1日は寿司の日だったんだそうです。知ってたら食いに行ったんですけどね(>ホンマか)
 仕方がないので、ハフィントンポストの記事から、安倍晋三首相など各界のVIPも訪れた東京・銀座の名店「すきやばし次郎」の芸術的なすしでも鑑賞することにしましょうか(^^;

 →すきやばし次郎コース写真集


 いやまあこんな、アベッチの奢りでもなければ行かれないような超高級店じゃなくてもいいですから、たまには廻ってない寿司を食いたいもんですなあ(^^ゞ

 

焼豚考

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 1日(火)13時35分34秒
返信・引用
 
元記事


 

Re: 料金不足の件

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 1日(火)13時32分17秒
返信・引用
  > No.7354[元記事へ]

 段野さん
 え、そうだったんですか!
 今までは料金不足等のはすべて戻ってきていると思っていましたが、むこうに届いている場合もあるわけですね。そういう指摘は一度もないのですが、しかし考えてみれば、私自身、料金不足の郵便を受け取ったとして、まずそのことを相手には伝えないと思いますから、日本中でそういう事例が闇に紛れてしまっている可能性が高いですね。気をつけなければ。
 定型郵便物でも、私は目分量というか、手に持った感覚で切手を貼っていましたが、今後はきちんと計量しなければいけないな、と反省しました。まずは計量秤を購入することにします(^^;

 

料金不足の件

 投稿者:段野のり子  投稿日:2016年11月 1日(火)10時01分47秒
返信・引用
  管理人様
私は、払わされました。不足の手数料もあったかと思います。
これは想像なので(ちゃんと調べますが)、管理人様がポストに投函されたのは、ご自分の住居地だろうと思います。集配の局員が見つけ、「同じ市内だから戻す」みたいなことがあったのではないでしょうか。
私のところに来た不足の郵便は、差出人の住所と、投函されたところが異なっていたから、そのまま私のところに配達されたのでしょう。先日の「文学賞」のところに、そういった感じで配達されたので、「料金不足」が見つかった、と思われます。
 

眉村さん新作情報

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月 1日(火)00時32分0秒
返信・引用
   眉村卓さんの新刊情報が出ました→こちら

 眉村卓『終幕のゆくえ』双葉文庫、12月15日発売予定。

 全編書き下ろしの新作短篇集です。楽しみです!


 




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