ヘリコニア過去ログ180108~0207

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 7日(水)18時45分55秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 7日(水)00時50分40秒
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――――――         ――――――         ――――――


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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 6日(火)21時34分30秒
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 平谷美樹『草紙屋薬楽堂ふしぎ始末 唐紅色の約束』は、210頁まで読みました。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 6日(火)02時38分27秒
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 平谷美樹『草紙屋薬楽堂ふしぎ始末 唐紅色の約束』に着手。120頁まで読みました。

 

昭和21年6月米軍上陸用舟艇LSTにて佐世保軍港に復員す

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 5日(月)03時36分52秒
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  > No.8376[元記事へ]

 新作戦※で218連隊は湘江東岸を北上しています。小銃と水冷式チェコ機関銃だけのゲリラ的な国府軍は全然怖くないのですが(重機関銃で蜘蛛の子を散らすように敗走する。まあそれがゲリラ的ということでしょうけど)、戦闘機の空襲が執拗で五月蝿かった。ところが、ふと気がつくと、ここ数日空襲がない。そのかわり、大型輸送機が高高度を東に向かって毎日毎日飛んで行くのを目撃するようになる。
 と、ソ連参戦の報。やばいぞ、と著者は思います。
 そして8月15日。
 大型輸送機は重慶から国府軍を沿岸に運んでいたんですね。つまり武装解除される日本軍に代わって沿岸部を(共産党軍から)守る兵力を搬送していた。
 218連隊は揚子江北岸を南京に向かって戻ることを命令される。北岸は共産軍の勢力範囲。蒋介石政府は日本軍の軍事力を共産軍への盾に使うことにしたのでした。著者は蒋介石の「報恩以徳」を感謝していますが、現実的な理由もありそうですよね。
 相変わらず「徴発」しながら部隊は東進します。徴発された部落は、戦中のような「めいふあーず」では済まさない、怒り狂って抗議してくるんですが、(敗戦国ですからヒヤヒヤしながら)追い返す。ところが追い返したあとは諦めるようです。これも(私が思うに)「まあ我慢せい」とお達しがあったのではないでしょうか。持ちつ持たれつの「報恩以徳」様々ということかも。(一方、揚子江の支流渡河で困っていた時、中共軍の将校が船を手配してくれる。実は京大卒の日本人で、敗戦で帰国を断念し、中国再建のため共産軍に身を投じたとのこと。「戦いすんでこの中国大陸の一隅ではからずも奇しき縁にして巡り合った/京大出の若い中共軍将校の若き日本人。/60余年の歳月を経た現在、彼らはいかにしているであろうか。/お互いに名乗ることもなく名も聞かず支那大陸での心に染み入る別れであった」
 とにもかくにも南京着。ところが大量の復員兵ですから船便待ちが長期にわたる。
 年が変わって21年1月になり、ようやく218連隊の番がくる。南京駅から列車で上海に向かう。
「南京駅のプラットフォームに停車していた無蓋車に各部隊夫々分乗した。武器を持たない我々は丸裸の無抵抗である。住民はそれをよいことに今までの鬱憤をぶつけてきた。ゴムのコンドームに小便を入れて投げつける。或いは石を投げてくる」
 また、列車はたびたび駅でもないところで停車します(「列車の機関士と中国兵が合意の上であろう」)。すると中国兵が乗り込んできて日本兵の私物を強奪していくのです。
 実は私の取引先の社長で、やはり中国から復員してきた人が居て、その人は揚子江沿いに鉄道で南京に戻ったのですが、やはり列車がしばしば停まる。住民が止めるのですが(運転手と話ができているのだとその人も言ってました)、なにがしかの金品を渡せば通してもらえる。そうやって南京付近まで戻った。ところがそこからは動かない。住民が強硬でちょっとやそっとでは通してくれなかったそうです。で、その人は南京の対日感情が(他地域に比べても格段に)悪いことからして、南京事件は間違いなくあったんじゃないか、と言ってました(大正10年生まれでもう亡くなりましたが、歴史の生き証人がどんどん鬼籍に入るにつれ、捏造歴史がどんどん幅を利かせていくのを目の当たりにさせられます)。
 こうして著者は(218連隊と一緒に帰れず、34師団司令部に転属させられ帰還支援の任務につく。優秀だと損をする例ですね)(汗)、昭和21年6月、待ちに待った米軍の上陸用舟艇LSTに乗船、帰国の途につきます。往時あれほど難航したのがウソのように、3日で佐世保軍港入港。
 こうして、昭和18年11月より数えて二年半にわたった著者の中国での軍隊生活が終了したのでした。自叙伝は更に「戦後編」へと続いていくのですが、要約はここまでとします。いや面白かった。自費出版でごく少部数なのが残念でなりません。可能ならKindleで出版したいです(原稿がワープロなら簡単ですが手書きだったらほぼ不可能なんですよね)

※「安義に向かう敵中突破作戦」:支那大陸に進攻してくるであろう米軍に対して、速やかに反転東進し逸早く山東半島青島より上海に至る東シナ海沿岸に進出し、米軍の上陸を阻止するため支那大陸沿岸防備の任に当たる大目的のために、まずは安義を目指して敵中突破を図った。
 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 4日(日)17時46分7秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 4日(日)01時11分12秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 4日(日)00時12分57秒
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Re: 深田亨「映画鑑賞」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 3日(土)17時59分50秒
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  > No.8377[元記事へ]

 深田さん

 「映画館」とか「居酒屋」とか、それが指し示す具体的な事物じゃなくて、その記号自体に、ある「色調」が備わっていますよね。あと「夕焼け」とか「廃墟」とかもそんな感じがあります。その色調に頼りすぎると、「どうしても同じようなものになって」しまうという意識が立ってくるのではないでしょうか。
 それは「作家」が作家であるからで、出来合いのものをこね回すのは作家もどきでありちょっと違うと(意識無意識にかかわらず)そう考えてしまうからでしょうね。
 けっきょく、要はその「按配」の意識ですよね(利用できるものは利用するが、取り込まれてしまわない)。
 ところでウィリアム・バロウズは、利用するなんてはなから峻拒していて、むしろその連続感に亀裂を入れるためにカットアップやコラージュを取り入れているんですが、その作物にはやはり「黄昏」みたいな色調が濃厚で(そこがわたし的には好みなんですが)、なかなか難しいものです。人間の思考の「構造」がそのようにできているんでしょうねえ。

 

Re: 深田亨「映画鑑賞」を読んだ

 投稿者:深田亨  投稿日:2018年 2月 3日(土)16時18分2秒
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  > No.8374[元記事へ]

大熊さん、感想ありがとうございます。

> さて本篇、チャチャヤング・ショートショート・マガジン用に書かれたものの、最終的に外された作品とのこと。
まあ、お話自体は好きなのですが、気になったのでとりあえず外しておこう、という感じですね。
星とか映画館とか男女などという道具立てをすると、どうしても同じようなものになってしまいます。
でも書いてみたいキーワードではあります。
星座と居酒屋とおひとりさまの女性客、とかですね……(笑)。
 

敵情は日に日に悪化する

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 3日(土)01時01分1秒
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  > No.8338[元記事へ]

 目の調子が少しましになってきたような気がするので、目薬を頻繁に点眼しながら、例の自叙伝に復帰。借りている本ですし、次の読み手も決まっている。あまりゆっくりもしてられません。

 長沙で後続部隊を待つ間に、朝鮮兵脱走事件が起こる。後続部隊は結局列車ではなく陸路(と言うか雨季の泥路を)行軍して到着するのですが、泥路行軍の苦しさに耐えかねて長沙間近で到着を焦って昼間行軍に切り替え、米空軍の餌食となる。
 おそらくこれらの失態の責任を問われたのではないかと思うのですが、著者らは鳳部隊輸送の任を解かれ、原隊に復帰することになる。
 ところが原隊の現所在地が曖昧。これは通信が傍受されるので、そういう情報は秘匿されたんでしょうか。著者らは「貴官達が今から南下すれば、衡陽か全県付近で原隊に追求できるだろう???」という情報だけで出発します。何というアバウトな軍隊(ーー;
 その途上、衡山にて見習士官二名が行方不明となる。この二名は、付近の敵情が極めて悪いと知らされていたにも関わらず屡々点在する部落に出かけていたとのことで、捜索隊を出すも結局見つからず。後に部落で歓待されているうちに眠り薬を飲まされ眠らされ、国民党軍(?)に捕まり、「支那大陸を転々とし重慶軍の管理下に置かれ、死ぬよりつらい日々を送り、終戦で漸く日本軍に合流」したことが、戦後当人のこれまた自叙伝に克明に記載されている由。この自叙伝も読んでみたいものです。
 さらに原隊復帰後ですが、新しい作戦で北上中の大休止時に一人の軍曹が消える。捜索隊が出、付近の部落で逆さ吊りにされ、耳鼻指を削がれた状態で発見される。ここでも付近の敵情が悪い地区との説明ですが、私は、著者らが南京に居た一年前に比べて急速に日本軍に対する民衆の憎悪が、隠されなくなっていたんだと思います(朝鮮兵脱走も同じ文脈でしょう)。
 この軍曹が何故単身部落に出かけたのかと言えば、いつもの調子で食い物をせびりに出かけたんでしょう(上述の二名も同じだったと思われます)。以前は内心はどうであれ、にこにこ顔で飯を食わせてくれていたんでしょうが、もうそんな状況ではなくなっていたということではないか。

《「今日は糧秣の調達に出かける。貴官が中隊を指揮して行け」/兵百名を率いて/山間の部落に突入/ 予期していたのか部落は/猫の子一匹も見当たらなかった。/相当量の食料を確保することが出来た。
我々も生きるか死ぬかの極限の瀬戸際に立たされ、部隊全員の生死に関わる物資の調達である。「徴発」という名のもとに、古来より我が軍の戦場を外地に求め、軍の糧秣補給は現地で行うことが当然のように(なされて来ていた)、兵站線の特に前線では、物資、特に糧秣の補給は皆無に近い状態であった。/部隊は致し方なく「徴発」という名の下に、旧い(昔から行われていたの意?)物資調達の手段として平然と行われていた慣習であった。
餓鬼状態のような人間剥き出しの心境で、我々も己が「生」への執着心のみが先走って平和に暮らしている村民を蹴散らし、物資を掠め取っていたのである》(266p)


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 2日(金)18時58分15秒
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   アホや(ーー;

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 ある種のプリミティブな社会集団では、親分の行動が子分の行動規範になるんですね。親分がテキトーなことを言ったりしたりしていると、子分もこの程度は許されるとたかをくくってテキトーなことを言ったりしたりする。最近の失言閣僚は皆これで説明できる。逆に言えば、ボスの言動は子分に注意深く観察されているということです。

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深田亨「映画鑑賞」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 2日(金)17時27分19秒
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   深田亨「映画鑑賞」を読みました。
 例によってPDFにしてタブレットで。岡本俊弥「同僚」の感想では肝腎な理由を書き落としてしまいましたが、このような操作をするのは、まずもって縦書きで読みたいからなんです(タブレット読書のほうがPC読書より集中できるということもあります)。
 さて本篇、チャチャヤング・ショートショート・マガジン用に書かれたものの、最終的に外された作品とのこと。
 これは戴きたかったですねえ。作品を或る情動が一貫して流れている(※)。というのは深田作品はどれもそうなんですが。
 私は映画には疎くて、元ネタがどうのこうのと言えませんけど、これはこれで自立したお話になっていると思いました。いやよかった。

 上のリンク先ブログによればWEB光文社文庫の『SSスタジアム』が再開されたとのこと。もっとも中断していたことも知らなかったのですが(汗)、さっそく読みに行きました。
 深田亨「思い出増幅マシン」は星新一型SSですね。その分情動すこし少なめ(^^; しかしこれも「ソイレント・グリーン」にインスパイアされているような。もしかしたら著者は無意識なのかな。

 海野久実「朝のひと時」は、まさに情動成分100%のセンチメンタルSS。こういうシチュエーションを書かせたら右に出るものなし。というよりもこういうシチュエーションに特化して書き続けているのが海野さん。その意味では狭い。狭いという意味では光瀬龍タイプなのかも。海野節。
 けれども短篇の長さになると、もっと多様な世界があらわれてくるのですよね。SSもいいが、私は短篇が捨てがたい。海野さんの短篇は、和田宜久名義ですが、チャチャヤング・ショートショート・マガジンで読めます(^^;

(※)情動というより、むしろ色調と言うべきかも。海野さんも深田さんも或る定まった色調を確立されているのですね。あるいはエーテルか。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 2日(金)01時20分31秒
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2月になりました

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 2月 1日(木)16時44分22秒
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 2月になりました。

   モンドリアンもんどり打って悶絶す逃げる2月を握りそこね 

 2月は逃げ足が速いですからね。私も気をつけねば(>おい)
 でも作品的には、

   悶絶すもんどり打ってモンドリアン

 の方がいいですかね。どーでもええ? 失礼しました(^^;

 

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月31日(水)23時11分38秒
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岡本俊弥「同僚」を読んだ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月31日(水)01時26分22秒
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   岡本俊弥「同僚」を読みました。
 月イチ連載の1月分。気にはなっていたのですが、そろそろ2月分もアップされそうということで、目の調子は相変わらず悪いのですが、例によってPDF化してタブレットで読みました。
 近未来の日本、人口減少で首都圏への集中と地方の超過疎化が同時進行しています。成り立ちは全く違いますが、現象的にはモンゴルの人口分布みたいな状況になっているわけです。
 地方はブロックごとに中核市が定められ他の都市は遺棄されています。自動車も鉄道も効率の悪さゆえ廃止されている。在住者は在所と勤務地である中核市をバスで往復しているのだが、道路もバスが通る幹線道路のみ維持されているだけで、それ以外のメンテナンスはなされていません。。結果、バスの車窓から見える風景は古代の原野状態。
 以上は設定。なかなか興味深いです。このような設定は田中光二も書いてましたが、私は『幻影の構成』を想起させられました(事実、同様のオチというかどんでん返しがあります)。
 そこで考察されるのが「同僚」。ある意味ボッコちゃんの超進化系なんです。
 ここでも私が想起させられたのは眉村さんの初期の「暗い渦」。『わがセクソイド』の原型というか同じ設定で、セクソイドと主人公の束の間の交流の話。
 話は飛びますが、セクサロイドという言い方が日本では一般的ですが、これおかしいですよね。だったらコーカサロイドというのかと。コーカソイドが正しいならセクサロイドではなくセクソイドというべきです。
 閑話休題。「暗い渦」のセクソイドは一種の「空気を読む」能力が付与されており、主人公は人間としか思えません。この場合のセクソイドは「主観」を持っているようです。少なくとも作者はそのつもりで書いているように思います(但し個別の客との記憶はカセット化されていて、その都度入れ替えられる。セクソイドにすれば当該の客の記憶しかない)。一方本篇では、いかに見た目人間的であっても、そこに主観はない(と思う)。
 突き放して言えば、主人公の「思い」しか、そもそもないわけです(主人公にはそれがわかっているにも関わらず)。ここもなかなか深い。
 ラストがその「思い」(記憶)の回想なんですが、え、これで終わり? と少々驚きました。やや唐突あり。続きがありそうに思われたのですが、再読したら納得しました。
 この辺が著者と眉村さんの「個性」の差かも(出来不出来にあらず。為念)。眉村さんだったらここからひと波乱ありますね、きっと(>おい)(^^ゞ


 

一行目

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月30日(火)01時12分18秒
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   めずらしくアイデアが降ってきて書き始めようとしているのですが、一行目が決まりません。まあいつものことで、ここをクリアすれば進んでいけそうな気がするのですが(経験上)。

 

ネトウヨあほ列伝

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月29日(月)22時54分30秒
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  「バカSF」という言葉がありますよね。御存知のとおり、よい意味にも悪い意味にも使われます。どっちの意味かは文脈でわかりますよね。
 ところが先日、ツイッターで「バカSFは褒め言葉なのか揶揄なのか」とつぶやいている人がいて、ちょっと驚いたのですが、たしかにそういう判断が苦手な人が一定数いるようです(経験的に)。
 これまたツイッターですが、「お客様は神様ですという言葉が大嫌いだ。その価値に相応しいと判断した代金を支払って商品を受け取るというのは対等な者どうしの行為のはず」。それはそのとおりなんですが、一般的に言って「お客様は神様です」を文字どおりの意味で使う人が実際にいるでしょうか。そんな人はいないんじゃないか。
 むしろ「はいはい。「お客様は神様です」よーだ」みたいに使うのではないか。
 これなんか、ちょっと使用場面を想像したら、そんな杓子定規な使い方のほうが少数であることに気づくはずだと思いのですが……。なにはともあれこのツイートは、現実には存在しないか、稀にしか存在しない「お客様は神様です」の(字義どおりの)意味内容に対して怒っているわけで、なんだかなーと。
 要するに、前者の例では、「バカSF」を辞書的に定義してほしいという願いがつぶやきになかに暗意されているように思います。後者は、「お客様は神様です」を文字どおりに(一義的に)理解して、文脈による倒立の可能性に気づいていません。
 どっちも「語」は一義的にしか理解できない、もしくは一義的に理解したいという立場の人達といえそうです(穿った見方をすれば、そのほうが安心できるからなのでしょう)。
 それって、辞書の定義しか認めない立場といえそうな。しかし実際のところ、言語というものはそんな風に意味を固定できるものではなく、自走的に変幻自在なのではないでしょうか。(もともとの/辞書的な)意味は、会話の過程で、いかようにも別の意味を担わされたりするのではないでしょうか。まさに語は転々宇宙間であります。
「もともとの/辞書的な意味」を尊重するにやぶさかではありませんが、それが転々とあっちやこっちに転がっていくのを無理やり縛めてしまうのは、言葉を貧しくするだけなような気がするんですよね。

 ということで――

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 これ、まさに辞書的理解しかできない人ですね。遺書に書かれた内容を文字どおりにしか読み取れない。遺書の内容と書いた人の実際の(意識、無意識に関わらず)心の中身が異なっているという可能性に思いが至らない。言葉はそもそも多義的に活動するのに、(辞書的定義のような権威を後ろ盾にした)一義的な意味しか捕らえられない。
 こういう傾向の人こそ経験の蓄積が必要なんですが、そんな人ほど体験の意義を否定したがるようで、実はそれもまた一種の防衛機制、無意識の自己正当化もとい安定化のなせるところなのではないのかと思ったりするのです。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月29日(月)20時08分54秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月28日(日)15時08分40秒
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 うーむ。ネトウヨを操る側かと認識していたのですが、操られるあほの方やったみたいです。「ええっ、国会議員だった者が??」と思いますが、68歳(らしい)にもなって5ちゃんねらー(旧2ちゃんねらー)てんですから、あほに年の差なんてないということでしょうね。イヤオモロイ(あーイヤだ&オモロイなーの略)。学ぶを知らなければ永遠に14歳なんですね。



 

耳目を洗われる

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月28日(日)15時05分46秒
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   目の調子が悪くて(最悪の場合では横書きの行と行の間の空白に下の行がくっきりそのまま(殆んど同じ濃さで)印刷されている風に見え、つまり同じ行が二行にわたって現れる。目を休めれば消える)、これはちょっと危険かもと、しばらく本を読むのを控えています。その分ネット視聴時間がふえていて、意味ないがなと思わないでもないのですが、意外にネットは本ほど目が疲れないようです。文字を大きくできるのがいいですね(電子書籍は紙の本より速度が上がるとよく言われ、私も実感しているのですが、同じ理由かも。でもあとでどっと疲れがくるんですよね)。
 読書の代りに音楽を聴いています。といっても浜田麻里のアルバム「Legenda」。聴くのはこればっかり。昼となく夜となく、寝るときも聴いています(ヘッドホンで。当然上を向いたままで身動きできないのですが、全然気にならない。数曲でぐっすりな感じです)。一体何十回聴いたか。まだ100回は行ってないと思いますが。
 以前、コンサートのライブ動画のほうがスタジオ盤より良いと書きましたが、そうは言い切れないですね。映像がない分、歌詞に注意がいくようになって、詞のすばらしさがわかってきたのです。
 最近の浜田麻里の詞は、もはやハイファンタジーの世界観なのです。世の歌詞の大半を占める、いわゆる男女の日常的な恋愛の歌は皆無。通底するのはユング的世界観のように私には思われます。

 たとえば
「理由もなく 夢など見るものか」「Decipher strangers in the millor」(Crisis Code)とか、
「Double fantasy Double energy 見も知らぬ私が 背を押す」「夢なき夢(暴挙のShadowが)追いかけて」(Etranger*)とか。(* Eはアクサンテギュ)

 こう書くと、M27の世界観を思い出すわけですが、たしかに似ていなくもない(ただしM氏のようなペドフィリア的趣味はない(当然か)(汗)。いや否定しているわけではないですよ。単に似ていながらも違うといっているだけ)(^^;

「戦慄がはしる 愚鈍な街に 激情を捨てた Philosophic confusion」(Crisis Code)
「若き愚蒙の群れは 猜疑を携えて 胸の刃を隠す」(Momentalia)
「祈りが這うように呻いた 風の叫びを聞いたら 氷のような冷たい雨が降る夜に 迎えにゆく あなたの慟哭を」(Heartstorm)
「夢追いし旅人の寂夜が 明くれば白き朝は来る 流離のメランコリア」(El Dorado)
「泣きじゃくった天空が 嘆く現世の脆弱よ」(Forest)
「消えゆく海に残響のうねり 欲望の果てに我らが見たものは」(同上)
「白夜を進む虜囚のように その瞳には何も映らない」(Ransei ? Conscienta)
「罪を纏う涙は胸氷(きょうひょう)も溶かすほど」(同上)
「風を憎んだ日々 己にあらが抗う仮想の敵」(The Greatest Cage)
「荒気なく抱き寄せた胸のSolitude 愛と戯れが入れ替わるDuality」(Etranger)
「胸のShadowが目を覚ますBrand New days カンパネルラの太陽が沈む」(同上)※カンパネルラの太陽が沈むって意味深ですよね。どっちのカンパネルラなんでしょうか。やっぱり太陽の都か?

 「文字」によって或る種の情動を喚起させる手法はM27と同じ。もちろん両者に前後的関係があるわけがなく、いわば日夏耿之介の流れを汲むものという意味で並列的ということです(あ、M27自身は鷲巣繁男を(も?)手本にしていると言ってましたっけ)。
 日夏的という意味では、「文字」として読者の目を洗うわけですが、同時にその独特の佶屈たる音韻が耳をも洗うものなのは言うまでもなく、しかも歌詞ですからそもそも耳から入ってくるのが先なんですね。とはいっても現実的には歌詞カードを見なければ「音韻」(シニフィアン)が「意味」(シニフィエ)を届けない、わからないという面があるわけで、「耳目を洗う」というのが正確ですかね。しかし意味が(即座に)わからなくても、そのことが「浮遊するシニフィアン」としての快楽をもたらす。現実的に殆どのオーディエンスはそういう快楽を享受していると考えるべきなんでしょう。

 

ネトウヨあほ列伝

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月27日(土)19時30分33秒
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ネトウヨ捏造者列伝

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月27日(土)19時29分31秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月27日(土)01時18分38秒
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  KEIKOと同じ高次脳障害の僕が、小室哲哉不倫疑惑報道に感じたこと(鈴木大介)


 


Abemaの相撲中継

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月25日(木)20時57分20秒
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   今場所からAbemaTVで相撲中継が始まりましたね。とても重宝しています。
 というのは、NHKは中継だけなので6時には放送終了してしまう。一般の社会人で、6時――否、幕の内後半戦は5時頃から始まるわけで、それまでに帰宅できる人が一体どれほどいるかといえば、せいぜい数パーセントじゃないでしょうか。
 したがって私も大抵はNHKの実況中継は視聴不可で、(昔は大相撲ダイジェストがありましたが)Youtubeに奇特な方がアップする(おそらく違法な)動画で鑑賞するしかなかった。
 しかしAbemaTVは、中継終了後はビデオに切り替わるので、夕食後にゆったりと(鮮明な画像で)視聴できるのです。これはありがたい。
 放送の雰囲気もNHKとはだいぶ違っていて、もっとくだけています。ゲストの親方も、たとえば昨日だったか一昨日だったかの立浪親方(元旭豊)なんか、「オレ」という自称で解説していました。多分データ類もNHKほど揃ってないのでしょう、新聞に載っている程度で、そういうのは極力少なく、客が雑談しながら観戦しているのに近いスタンスですね。
 呼び出しの声もよく聞こえてきます。となると、例の呼び出しさんです。NHKでは極力音を絞るようにしているようですが、Abemaはそんな手間はかけられないのでしょう。どうしても気になってしまいます。
 しかし今やナンバー2。この世界は年功序列ですからベテランということになる(ウィキペディアによれば78年初土俵なので、職歴40年です)。いくら耳が悪くても40年もやっていれば改善していくように思うのですが、全然そんな気配はない。
 これは私の想像で、事実かどうか確証はない、と先に言っておきますが、おそらく先天的な機能的問題があるのだと思われます。
 ウィキペディアによれば「まれに先天的な理由で音感を持たない(耳で聞いた音程を声で再現することが出来ない)場合がある。このケースは音階を感じ取る大脳の異常であり、このタイプの音痴の治療は至って困難である」と記述されています。
 おそらく彼は、耳に聴こえる(教わった)正調の呼び出しの節を「耳に聞こえた通りに」反復しているのです。それズレてるんとちゃう?と言われても、そのこと自体が認識できないので、困惑するしかないんでしょうね。
 ここまで書いてきて、ちょっとこの場が書き続けるにふさわしい場所か自信がなくなってきました。
 しかし現在のナンバーワンと4歳しか違わないので、呼び出しの定年が何歳かは知りませんが、やがて遠からずナンバーワンです。それでよいのかという気が、どうしてもするんですよね(本人には真に気の毒ですが)。やはり観客を惚れぼれとさせる名調子を披露してこその呼び出しさんだと思うんですよね。

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月25日(木)01時37分42秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月25日(木)01時37分7秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月23日(火)21時06分45秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月23日(火)21時05分52秒
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 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月22日(月)21時10分26秒
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   .

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月21日(日)13時42分21秒
返信・引用 編集済
  > No.8351[元記事へ]

 昨日書き込みしたこの記事で、リンクに失敗していたようです。大変失礼しました。すでに正しくリンクされています。

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 ところで、「云々」→「伝々」や「未曾有」→「みぞゆー」は、間違えた過程が了解できます。しかし、「ちうね」→「あだち」はどう間違えればそんな発音になるのか、もはや想像の埒外です。私は、もしかしたらあべっちは「わだち」と言ったのではないかと。「畝」と「轍」って案外似ているやないですか。その前に「轍」を「わだち」と読めたかどうかですけど(おい)m(__)m

 余談。こんなの見つけた(汗)
 


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月20日(土)20時38分5秒
返信・引用
   



 

ネトウヨには二種類ある

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月20日(土)20時34分16秒
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 ネトウヨにも二種類あって、あほ列伝で嘲笑される連中は、単に自分で考える訓練ができていない文字どおりのアホで※、事実を突きつけられるとアカウントを消して逃走する(もっともすぐ別アカウントで舞い戻ってきます)根性なしでしかないんですが、もう一種類のが悪質なんです。上の二例がそれで、最初のは摘発者の方が言ってるように、現在の生活保護費を9年前の最賃と比較させて、いかにも生活保護受給者が「いい目」しているように見せかけています(年齢を同じ28歳で合わせているのが芸が細かいというか陰湿)。
 後者は、一見ネトウヨあほ列伝のようですが、杉原千畝を貶めるために樋口季一郎(キスカ島撤退指揮者でもある)を持ち出しているのが巧妙(というか陰険)です。
 いずれも事実や史実を知っているのに「ためにする」捏造を行っている。つまりこのようなネトウヨ「かしこ」連中に操られているのがネトウヨあほ列伝中の人物たちということになります。

※こういうツイートがあるのですが、
 元ツイート
 当たっていますよね。これはフッサールの言う「自然的態度」と同じだと思うのですが、第一義のネトウヨはこの状態に留まっているわけです(普通の人は経験や知識の蓄積でここから超越していくのですが)。
 この状態を私は、「私が形成されていない状態」と呼んでいます。何度も書いていますが、私の中で「私」が存在を始めたのは中2のときでした(これを先日の小学校の新年会で説明したのですが、あんまり理解してもらえなかった。「いや小学生のときもオレはオレやった」。説明が下手くそだったんだと思います)。その日の帰りの電車で、そうか、こういえばよかったんやと思いついたのが、「校則や教師の言動に疑問を小学生の時は持たんかったやろ、中学ぐらいではじめていろんな疑問を持ったやろ。その疑問者が私や」。
 後の祭りで切歯扼腕したのでした。小学生の時、「私」は私の中にいなかったんです。いやおった、と言われるかもしれませんが、そのときそこにいたのは「私」ではなく、上のツイートの「自分が生まれた時にすでに存在していたフォーマル、インフォーマルを問わない諸規範」だったんですね。
 もとに戻して、「自然的態度」にとらわれているネトウヨにとって、現在の日本の支配的な諸規範は、そもそも当人にとってアプリオリな存在であるため、それが正しいとか正しくないと言う以前に「全的」に受容されている。だからそれを批判的に見るなんて以ての外なのです。第二義のネトウヨはそこにつけ込むわけです。


 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月20日(土)01時13分26秒
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   元ツイート

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ネトウヨあほ列伝

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月19日(金)03時35分56秒
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   元ツイート

 この高校生、ツイッターを始めるにあたっての決意表明だったんでしょうね。1月16日付け。
 いま見に行こうとしたら、「tEOlp87AEyvq1OGの検索結果はありません」。
 わずか二日で退会しちゃったみたいですね(汗)

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月18日(木)21時12分53秒
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   元ツイート

 

    

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月18日(木)21時12分4秒
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  記事元

 

Re: 『開高健 電子全集』無料版

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月17日(水)23時18分6秒
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  > No.8340[元記事へ]

 承前。という次第で『ベトナム戦記』文庫版を買ってしまいました。
 まあこれが小学館の狙いだったわけで(と、当初は思っていたのです)、そんな手に乗りたくはなかったんですが、やっぱり対照しておきたくて。
 結論を言えば、これこそ「ひでえ話」の最たるものでした。
 文庫版のもくじを記します。
――――――――        ――――――――        ――――――――
 日ノ丸をいつもポケットに…   11p
   ベトナムの匂いはすべて”ニョク・マ
   どこへ行っても必ず従軍僧と”憂国筆談”
   17度線国境附近と、そこに住む人びと

 ベトナムのカギを握る? 仏教徒   57p
   統一力を持つのは仏教徒とベトコンだけ

   記者を東奔西走させる怪情報   72p
   烈日の下、八日間のクーデター

 ベトナム人の七つの顔   105p
   (節名省略)

 ”日本ベトナム人”と高原人   123p
   (節名省略)

 ベトコン少年、暁に死す   155p
   (節無し)

 ”ベン・キャット砦”の苦悩   175p
   (節名省略)

 姿なき狙撃者! ジャングル戦   223p
   (節無し)

 ベトナムは日本に期待する   269p
   (節名省略)

――――――――        ――――――――        ――――――――

 前記事で、「なんとオリジナル版の前半部分だけではありませんか」と書きましたが、とんでもない。上記目次の青色部分だけ掲載されているのでした。ボリュームで言えば、全体の4分の1弱。
 具体的には、2章の1節までという、なんとも中途半端な、というより端的に「雑な」切り取り。バカにしとんかと言わざるを得ません。
 しかも、こんな風に切り取りましたという「ことわり」はどこにもありません。
 末尾に、「以上、「開高健電子全集 第7巻」より」とありますが。この電子版で初めて「ベトナム戦記」に接する人は、これで全部かと、当然思うはずです(そして「なんかおさまりの悪いルポやな」と首をかしげることでしょう)。
 続きがあることを明記したほうが、否、明記しなければ、本書で「ベトナム戦記」に興味を覚えた読者が、紙版なり上記の電子全集を購入しようというモチベーションも生まれませんよね。
 まことに、本書編集者の「やる気の無さ」は只事ではありません。何のための「特別限定無料版」なのか。読者を完全版に誘導できないということでは、会社に損害を与えているとさえいえます。
 とここまで書いて、ふと、そうなのかな? と、ちょっと心配になってきました。
 冒頭に「小学館の狙い」と書きましたが、実はそんな意図すらなかった可能性に思い当たったからです。何の思惑もなく、ただ単に無料版を発行したかっただけなのかも。
 昨日、段野さんに触発されて書き込んだその伝で言えば、(段野さん言うところの)「業界人」にそんな知恵があるのなら、昨今の為体(ていたらくとお読み下さい)は防げていますもんね(>おい)(ーー;


 

「マークスの山」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月16日(火)20時57分47秒
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   高村薫『マークスの山(上下)』(新潮文庫11、初刊93)読了。

 上下巻併せて810頁(1200枚)の堂々たる本格小説で堪能しました。これぞ「小説」という感じ。
 本書の読みどころは3つあって、一)は犯人の動機、二)は警察組織(官僚組織も同じですが)の構造的な問題点の剔抉、三)はそのような組織にあって所属する個人がいかにそれに絡め取られ、あるいはいかにそれを跳ね返して主体的であることができるか。
 一)に関しては微妙。犯人は記憶力が続かない障害があり、また第二の人格を脳内に住まわせている。その第二人格が怜悧な論理性計画性(当然記憶の持続が前提)を発揮して、当初はまるで知能犯のような印象を警察にいだかせるほどなのですが、そういう二重性を十全には説明しきれていません。ミステリ寄りの読者は納得できないはずです(ホラーのように読む人は別です)。ある意味犯人の内面はブラックホールのままです。したがって最後まで、なぜここまでこの計画に執着し実行しようとしたのかが、納得出来ない。犯人はMARKSに被害を被ったことはないのです(第二人格に、MARKSに強い恨みを持っている者の意識が超自然的に移植されたというような設定が、もしかしたらあるのかな、と想像していたのですがそんなホラーではなかった。

 ただそれを括弧に括って読むなら、あとは堂々たる警察小説で十分に満足できる作品です。
 MARKSの犯行は、彼らが、上は霞が関に人脈がつながる者たちだったために、(彼らが積極的に働きかけたのではなく)官憲(高検や官僚)が(人脈を恐れて)勝手に「忖度」して握りつぶしてしまう(二)。(※この辺は「現在の状況」がダブルイメージになってきてしまいます。「詳しいことは知りませんが、私学の経営ほど不透明なものはないですからな」(下巻287p)
 犯人の犯行は(必ずしもそれを意図したのではないのだが)それを暴き出す方向に作用し、現場の警官たちは職業意識に則って犯罪の摘発を目指すのだが、上記による上からの介入に邪魔される。警官も警察機構の1構成要素ですから、そういう空気から全く自由に抵抗できるわけではない。葛藤が生まれます。本書の警察官たちはそのような組織内個人であり続け苦悩する。
 一方MARKSも、最初は悪の権化のような印象なんですが、終盤で各個人が詳らかにされ、決して正義対悪の構図には収まらない。運命に翻弄されたとしかいえないのですね。
 結果、読後感は決して爽やかなものではありません。しかしそれが、ホンモノの小説を読んだという満足感をもたらすのです。
 いやー面白かった。著者の作品をもっと読みたくなりました。

 

Re: 「妻に捧げた1778話」

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月16日(火)18時46分1秒
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  > No.8343[元記事へ]

 段野さん

>先日業界人の新年会があったそうで
 業界人とはどこの業界人なんでしょう。文脈から「紙」の世界の業界であることは推量できますが、それにしたって出版業界、取次業界、書店業界、古本業界、等々、いろいろ思いつきます。まあ最後のは外れていそうですが(^^;

>「増刷した」「何でや」「カズレーザーが番組で紹介した」などなど、今頃騒いでいた
 てことは出版業界ではないですよね。だって即座に増刷対応したのですから。

 次に書店業界ですが、twitterを検索すると、あるわあるわ、
 元ツイート
 みたいな書店員のツイートがどんどんヒットしますから、書店業界でもなさそう。

 では取次業界なのか。しかし出版社が増刷した本は、まず取次に届くはずですから、新年会まで気が付かないということはありえないでしょう(上の入荷ツイートは12/25)。

 そうなると、上では除外しましたが、古本業界? まあこれはありえそうです(>おい)(^^;

 と言うのは冗談で、何が言いたいかといいますと、「業界」はそんな(本が売れそうな)情報にはむしろ敏感なんです。
 おそらく段野さんが教えられた人が単に、個別特殊的に、業界人にあるまじき鈍感漢(いやまあその情報だけでは漢かどうか確定はできませんが(^^;)であったにすぎないのではないかと思料するものであります(笑)。

 ですから、
>これだから、「紙」の世界がだんだんと落ち込んでいくんやなあ、と思ったのでした。

 という結論には賛同するのですが、段野さんが考えているその理由(情弱)は違うと、むしろ逆だと私は思っているんですよね。

 どういうことかと言いますと、段野さんの印象とは反対で、業界人はそんな情報に飢えていて、常に探していて、見つけたら飛びつくんです。今回のカズレーザー現象もそれです。
 でもそんなのは根本的な改善ではないのですね。要するに「他力本願」なんです。自ら本を売る努力じゃないよね。いま業界がやっていることといっちゃ、一部の作家が新刊出版時にサイン本を何十冊も書かされるくらいじゃないか。あと作家に自作をツイッターなりで宣伝して下さいと要請しているのか、もしくは作家が出版社に任せてはおけんと自発的に発信しているのか、それは分かりませんが(いずれにせよ暗黙の圧力はありそう。売れなければ次の本は出ませんよ、とか)。
 でもそういうのは対症療法に過ぎず、サイン本もあれだけ多くの作家が書かされたら効力もどんどん逓減していくことは火を見るよりも明らかですよね。対症療法にばかり頼るから「落ち込んでいく」のだと思うわけです。

 出版最盛期だった70〜80年代の日本人口は、85年で1億1千700万人、90年が1億2千100万人です。一方最新の2015年のデータでは、1億2千700万人です。30年間で5%しか増えていません。こちら参照(但しエクセル)
 ところがですよ。本をよく購入すると思われる若年人口は1970年2517万人(24.0%)に対して2005年は1759万人(13.8%)と激減。現在は更に減っていますここ(但しPDF)

 つまり総人口は出版全盛期に比べて5%しか増えておらず、書籍購買の主体である若年層は400万人減少している。
 その一方で出版点数は1975年22727点だったのが2014年にはなんと80048点。350%に激増しているのですね。(→なぜかリンクが効かないので下にコピペしました)
 そりゃあ売れないですよ。このようなマクロ視点での推計的思考、構造的把握が出版・書店・取次の各業界には、おしなべて決定的に欠けているように、私には思われてなりません。

 外部(の権威)頼りと言えば、売れないから他分野から書き手を引っ張ってきて賞を与えるような手法もそうで、これも麻薬みたいなもので、いっときそれで楽になっても、それが持続するはずがなく、また同様の手口をつかう。それを延々とやって「延命」しているのが「業界」なんです。最大の原因は、市場が構造的に縮小しているのに生産点数は増加させているという(これも短期的な弥縫策でしょう)、自由市場では考えられない緩さが自らの首を絞めている。
 まあ実作者も次第に分かってきて、出版社に任せていたら一緒に滅びてしまうぞ、と気づき始めたようで、今後、電子出版やオンデマンド出版で自ら出版する(自信のない作家はフリー校正者とタッグを組む)ようになっていくのは必然で、「業界」なんて、或る時点であっという間に崩壊してしまうのではないでしょうか。

 
 

「妻に捧げた1778話」

 投稿者:段野のり子  投稿日:2018年 1月15日(月)10時24分40秒
返信・引用
  古い話ですいません。先日業界人の新年会があったそうで、この本の話題が出たとか。「アメトーーク!」で昨年の11月16日位の放送でしたか、「増刷した」「何でや」「カズレーザーが番組で紹介した」などなど、今頃騒いでいたそうです。放送直後には既に話題になっていたというのに。
(私もその仲間なのに)これだから、「紙」の世界がだんだんと落ち込んでいくんやなあ、と思ったのでした。
 

正月が終わり1月が始まる

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月15日(月)01時22分46秒
返信・引用 編集済
   年末−正月−正月明けの連休と、今年は休みがことのほか長かったですね。ほぼ2週間まるまるお休みでした。しかもクリスマスが過ぎたら物流が安定しないのは例年どおりなんですが、今年は特にクロネコに引っ張られるかたちで物流各社が過酷な勤務体制を見直したこともあって、連休明けの今週に物流も受注も集中し、まだ松の内なのに関わらず慌ただしい1週間でした(といっても9日なんですから当然といや当然、例年10日くらいからは常態に戻りますから)。
 そうはいっても、長かった休みに慣れた精神はすぐに通常に戻るわけではなく、疲れての帰宅でさすがに晩飯後は睡魔に襲われたものですが、ちょっとした軽躁状態で仮眠するのも勿体なくあれやこれやで遊んでしまい、結局2〜3時間しか睡眠を取らなかった。
 そうしましたら土曜の夜はさすがに体力も限界だったのか、普段なら目がギラギラ冴えはじめる11時過ぎにはバタンキューで、翌朝の4時半頃、あの一番寒かった日なのに、びっしょり寝汗をかいて目が覚めた。
 どうやら発熱したようです。年をまたいでずっと鼻の調子が悪かったので、軽い風邪をひいてもいたんでしょうね。
 土曜日は昼過ぎまで布団から出ずうつらうつらしていました。今は快調です。ということで、明日は最後の新年会。長かった私の正月もついに終わる。哀号(>おい)(^^;

 

眉村さん情報:読売新聞

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月12日(金)00時02分19秒
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   元記事

 この記事は、去年の5月7日に読売に掲載されたもの(当時紹介済み)に、最近のインタビューを付け足して合成したもののようです。

 

『開高健 電子全集』無料版

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月10日(水)21時06分36秒
返信・引用
  《小学館電子全集 特別限定無料版 『開高 健 電子全集』 Kindle版》というのが発売されていることに気がつきました。以前から興味のあった「ベトナム戦記」が収録されているみたいなので、早速ダウンロード、忽ち読了。
 あれ、なんか短い・・・
 もくじで確認したところ、なんとオリジナル版の前半部分だけではありませんか。しかしその断りがどこにもないのです。非常に不親切です。無料本だから手抜き? いやもっと積極的な、「無料本には手間暇かけねえ」という強い拒否感すら感じますね(>おい)。なんだかなあ。(抄)とか付ければいいだけなのにねえ。
 一方「夏の闇」は、分量から勘案してFULLだと思われます。こちらはひたすら眠る長篇小説の名作なので、未読ならダウンロードする価値はあります。

 


 

「マークスの山」に着手

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月10日(水)20時45分41秒
返信・引用 編集済
   昨夜はyoutubeで「マークスの山」を観ました。
 緊張感が持続し、飽きることなく見終わったのですが、最後まで、犯人の動機がよく分かりませんでした。面白かっただけに、やや未消化感が残りました。
 ネットを調べますと、この映画、上映時間が138分だったようです。
 ところがこのyoutube動画は、2時間7分(127分)なのです。11分短縮されています(これの元データがテレビ放映版か何かだったのかもしれません)。カットされた部分に重要な手がかりがあったのか。しかしそんな大切なシーンを(わざわざ選んで)カットするものでしょうか。

 と、いささか腹にはまらないので、水道方式のひそみに倣い、高村薫の原作小説を読んでみることにしました。これから着手しようと思います。

 

大陸打通作戦(湘桂作戦)は真に成功といえるのか

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 9日(火)20時31分4秒
返信・引用 編集済
  > No.8337[元記事へ]

 元ツイート

 そういえば218連隊もその一翼を担い、著者の戦友上官が多数戦死した湘桂作戦(大陸打通作戦)ですが、実はその作戦自体については殆んど知識を持っていないことにふと気づきまして、ウィキペディアを閲覧しました。
 なんとこの作戦、中国内陸部の連合国軍の航空基地を叩くのが目的だったんですね→ウィキペディア
 てことはつまり、米軍は中国内陸部に展開していたということですよね。まあ航空部隊だけで陸戦隊は来ていなかったのかもしれません。ウィキの記事を読みますと、どうもそんな感じがします。
 内陸部の飛行場から飛び立った米軍爆撃機が、日本海軍の艦船や台湾を空襲していて、それを阻止するための作戦だったと書かれていますが、それはそうなんでしょうけど、結局最終的には本土が空襲される可能性をあらかじめ封じるためだったようです。
 もっともマリアナを奪回されてそっちから空襲可能となったので、途中で無意味化した作戦でもあった。連合軍も南からの空襲に方針を変更したとあります。
 記事によれば作戦は成功したと書かれていますけど、作戦終了が1944年12月10日、ところが17日には早くも漢口大空襲されています。なにより著者の部隊はP50に再三攻撃され、また鉄道確保も当作戦の重要な任務だった筈なのに、鉄橋は執拗に破壊されているわけで、どうも成功とは言い難い感じですね。
 なにはともあれ、中国に米軍は来ていなかったという新年会で聞いた話は、やはり勘違いだったわけです。伝えてあげなければ(^^;

 

白マフラーのP50女性飛行士の執拗な機関砲攻撃を辛くも逃れ漸く長沙へ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月 8日(月)21時45分53秒
返信・引用
  > No.8331[元記事へ]

 兵馬を満載した列車は、暗夜の鉄路を、燃料不足のため蒸気圧が上がらず青息吐息の体で南下を開始、翌2月9日午前7時、洞庭湖に面した(杜甫「登岳陽楼」で有名な)岳州站到着。ここで宿営することになる。というのは長沙付近の橋が敵機により爆破されたのです。修復されるまで待機となる。
 ところがいつまで経っても列車の運行が再開されない。修復に時間がかかっているとなっていますが、私が思うに、修復されるのを見計らって敵機が攻撃を仕掛け、そのいたちごっこになっていたのだと思います。
 月も変わって3月5日、漸く列車編成が決まるも、全員乗車は不可能とのことで、とりあえず著者を指揮者とする先遣隊が出発する。残余の者は次の列車編成であとを追いかけることになります。
 3月6日早朝、麻塘站着。ここで又動かなくなる(鉄橋破壊のため)。ところが大部隊の移動が察知されたようで、突如ノースアメリカンP50(※P51じゃないのね)が来襲。著者も追いかけられ、間一髪竹やぶに飛び込む。右側50糎をプツプツプツと機関砲の弾道が通り抜けていく。超低空で引き返してくる敵機から、白いマフラーをなびかせ身を乗り出している操縦士は、なんと女性なのでした。そんなことがわかる至近距離からの攻撃。著者は放心したように、飛び去っていく敵機を見つめていたのでした。
 幸い味方に損害はなかったが、足止めを食っている間の糧食の支給はなく、自分たちで調達しなければならない。著者は子供の頃住んでいた九度山の麓で、空気銃で遊んでいた杵柄で、銃を持って森へ入ってはヒヨドリや山鳩、時には高麗雉という日本種とは別の雉を撃って食料の足しにする。遂には鹿まで撃ち取り、皆に喜ばれた(皮は陰干しして自分用の敷物にする)。まあ自叙伝とは自慢話であります(>おい)(^^;
 そんな牧歌的なのもそこまでで、麻塘滞在も1ヶ月に及ぶ。鉄橋復旧とのことで、3月23日、ようやく出発、翌24日永家湾着。ここで再び空襲。兵隊はからくも逃げたが、馬を逃がす暇はなかった。敵機の去った後、軍馬を積んだ貨車の扉を開くと、ざーっと鮮血が滝のように流れ出してくるのでした。
 3月25日、泪羅駅着。敵襲を避けるため、夜間活動が続いていた結果、著者の目は動物並みになっていた。真っ暗闇の中、宿舎を求めて付近の部落への途中、小さな溝を渡ろうとしていた。横を歩いていた当番兵が煙草でマッチを擦った瞬間、そんなほのかな明かりに、水中の気配を感じ、著者は水中を覗き込む。なんと、大きな雷魚(台湾泥鰌)が!
 麻塘を出発してより兵站からの食料の支給は皆無でしたから、その日の遅い夕食に饗されたのは言うまでもありません。自叙伝とは自慢話です(^^;
 そうして3月28日、漸く先遣隊は長沙に到着したのでした。2月9日に武昌を出発してから、直線距離でせいぜい200キロに50日かかっているのですね。
 結局、この頃にはすでに、点と線しか確保できていない。いや、線もしばしば寸断されています。

 あ、そういえば、先日の新年会でこの話をしていたら(著者の息子も出席していたので)、いやそれはおかしい。当時米軍は中国大陸にはいなかったはず、と言い出す者がいて、でもそう書いてあるんや、と。結局、私が読んだあとは、その友人にこの本を郵送することになりました(^^;
 ところでいま、そういえば飛行機は海上の空母から飛来してくると書いてあったのを思い出した。ちょっとページを繰ってみたのですが見つけられなかったのですが(もしかしたら別の本の知識かも)。でも考えたら、マリアナ奪回で日本空襲が可能になったんですから、フィリピン華南間もほぼそれくらいですよね。P50は艦載機だと思いますが、漢口を空襲したB29は、フィリピンから飛来したものかもしれませんね。

 


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