卓通信第1号−1

 

ご 挨 拶


 

 

 一九九七年――平成九年の六月十二日。

 東京から新幹線で帰る途中、車内アナウンスで呼び出されて電話に出た。

 かかりつけのK医院の若先生からである。

 妻が入院したというのだ。

 前々日あたりから妻は腹痛を訴えていたが、それがひどくなって医院に行き、虫垂炎だろうとのことで、大先生が車でT病院に運んで下さったらしい。

 T病院に回ると、手術がまだ続いているので、ぼくは一度帰宅し、指示された入院生活での必需品を持って病院に戻った。

 しかし、まだ手術中であり、当初は大部屋といわれていたのが、個室に変更されている。

 妻が病室に運ばれて来てから、執刀のM先生の話があった。

 M先生によれば、進行した悪性腫瘍であり、縫合不全がないとしても、余命はそう長くないだろうとのことである。

 東京に住んでいる娘も帰ってきて、妻の入院生活が始まった。

 手術そのものの経過は順調で、二十日余りで退院し、以後は注意して普通の生活をつづけながらの通院ということになったのだ。

 病気が病気であり、こちらとしてはどうしようもない。出来るのは、事実を知っている妻に身体的・精神的苦労をさせないように努めること位である。

 だが、気持ちが明るくなれば体に良いとの話も聞いた。

 で……そういうことならせめて、毎日妻のために面白いショートショートを書くのはどうだろうと考え、七月十六日から始めたのだ。

 必ずその日のうちに、四百字詰め原稿用紙で三枚以上の話を書き、妻に読んでもらう。

 ただし、そういう目的のものということもあって、自分で制約を設けた。

病人の神経にさわるような、深刻な話、効果を狙うためのひねり過ぎた視点、大所高所からのお説教、ことさらの社会風刺、専門知識の押し売りなどは書かない。

もともと不得手なラブロマンスや官能小説、若い人の受けを意識したものはやめる。

話に一般性を持たせるため、固有名詞はなるべく使わない。必要なときはABCのアルファベットを順番に出し、一巡したらまたAから始める。もっとも、わけのわからぬ変な固有名詞はこの限りではない。

夢物語でも、日常性との接点を失わないようにする。

読んで、あははと笑うかにやりとするものでなければならない。

とはいえ、どこまでこの条件を守れるか……やるだけやってみることにしたのであった。

 

書きつづけているうちに、当然ながら作品が溜まる。

元来読者は妻ひとりのわけだが、書いたものの話をすると面白がって下さる方もあって、まとめてみたいとの気持ちも強くなってきた。

だがこんなもの、本にすべきだろうか、他人様に読んでもらっていいものだろうか――と迷っているうちに、出版芸術社の原田裕社長がうちで出そうといって下さったのだ。

タイトルは、「日がわり一話」ということになり、第一回から二百回までの中から選んで頂き、平成十年の二月に刊行された。

そして平成十年九月には、妻の病状悪化もないままに、「日がわり一話」第2集が出たのである。

 

右にしるした事柄は、出版芸術社刊の「日がわり一話」「日がわり一話 第2集」のあとがきを読んで下さった方なら、ご承知のはずである。

その後妻は、体調の変化はあるものの平成十年一杯から十一年六月までは通院のみでよかった。十一年五月には一緒にイギリスに旅行したりしたのだ。

しかし七月には小切除手術を受け、八月には病状悪化で大きな手術となり、一か月の入院となった。今年の三月には副作用の強い薬を使いだしたこともあって、短期間の入院――という経過をたどった。

とはいえ、幸いなことにこの稿をしるしている現在(最初の手術から満三年になる)妻は無理はきかないものの家で普通の生活を送りながら通院している。

 

出版芸術社から二冊の本を出して頂いたものの、それ以後も毎日書いているのだから、作品は溜まる一方である。

その間、平成十一年に日本ペンクラブ編のガン告知を受けての本人や家族の文章を集めた「見慣れた景色がかわるとき」(光文社刊)に四編収録されたり、共同通信社によって五編が配信され各紙に掲載されたり、大阪芸術大学の「河南文学」に続き番号の十編が載ったり、今年の一月には読売新聞に一編と、未発表だったものが紹介され、さらに「月刊センター」では毎月一編掲載がすでに三回となり、その後もうちで扱いたいとおっしゃって下さるところがいくつか出て来ている。ありがたいことだ。

とはいえこのやり方では、当然ながら一部を抜き出すに過ぎない。全部読みたいといって下さる方があっても、そうはいかないのである。

一方、こういうみずから制約を設けた作品を、みんな出版してもらおうなんて、虫がよすぎるのもたしかだ。

で……考えた末、ぼくは、これまでこの件でいろいろお世話になった方々、ご心配下さった方々のために、(二百部ほどになるのではないかと思う)自分で本にして献呈しようとの結論に達したのである。

幸い、ずっと昔からのお付き合いの真生印刷株式会社が助力して下さるとのことなので、計画はとんとんと進んだ。

どうせ自費で出すのなら、これまで前出のように収録され、あるいは発表しているものも含めて、全作、書いた日付もしるし通し番号もつけて、入れてしまおう。ただし、すでにそうなっている作品名は明示するとする。

この稿を書いている現在、作品数は千編を超えてしまっているが、第一巻から順次、百編ずつまとめて行こう。妻が元気である限り書きつづけるわけだから、何巻になるかわからぬけれども、やれるだけやってみよう。

本自体は軽装版でいい。

ぞくぞくと出すのだ。

本の通しタイトルは、書いた原稿をまとめるさいにしるしている「日課・一日3枚以上」のままで行く。

各巻には、このような本来はあとがきとすべきものをはじめ、その時点での近況や、さらにはエッセイも加えた刷り物を挟み込むとする。

もしも、当初刷った分以上に、読みたいといって下さる方があれば、そのとき真生印刷と相談して方法を考えればいいではないか。

――ということで、スタートしたのであった。

 

作品を読み返してみると、ショートショート小説のつもりながら、その日その日の心象が反映している感じがあり、ときには、エッセイに近いものになったり、寓話になったり、詩みたいになったりしており、SFっぽいものも全くそうでないものもあるのが、よくわかる。

それにこれは、妻のために書いたという事情から、ぼくがこれまで書いたものに多少でもなじみがあるとか、ある程度以上の年の人とかでなければ面白くないかもしれない、という気もしてきた。

しかしまあ、仕方のないことだろう。

また、今回の(1)から(100)までについていうと、やはりぼく自身の戸惑いと試行錯誤が濃厚に出ているように感じるが……これも仕方のないことである。

以下、蛇足。

ショートショートというものを数多く書いてきたせいで、ぼくはそれなりに型とか持って行き方をつかんでいたつもりであった。しかし、毎日アイデアを探し、構成で頭を絞っているうちに、少しずつ未知の分野や方法が見えてきて、あがきつつ学んでいるような気がしている。もっと頑張らなければならぬとおのれを励ましてもいるのだ。

それと……こんなかたちで校正をやっていると、きちんと書いていたはずの自分の原稿に、結構誤字・脱字・錯覚があるのを発見した。これからは他人様の原稿を拝見するときには、偉そうなことはいわないようにしよう、と反省したのである。

 

右が、この「日課・一日3枚以上」第一巻をごらん頂くにあたっての、ご挨拶であります。

(一二・六・一八)

  

 


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