卓通信第1号−2

 

真生印刷のこと



 

 このシリーズの印刷・発行をお願いしている真生印刷株式会社とぼくの関係、及びぼく自身の思い出を、気楽に書かせていただくとする。

 

 ぼくは昭和二十五年の四月に、大阪府立住吉高等学校に入学した。

 住吉高校については、また述べる機会があると思うが、クラブ活動がさかんで、文化部系統のクラブも多かった。週五日制で休日の土曜日はクラブ活動の日になっていて、土曜に勉強していたりすると、ガリ勉と呼ばれたものである。

 気の多いぼくは、あれやこれやの部に関係したものの、結局俳句部と新聞部に精力を費やすことになった。

 その俳句部。

 文芸部がなかったので、父親がやっている短歌を敬遠して俳句部に入ったけれども、これがまことに厳しいクラブで、随分しごかれたのだ。部員が少なかったため、ひとりひとりへのプレッシャーがきつかったともいえる。

 ぼくが一年生のときの三年生に、田中勇という先輩がいた。俳号は芳夫である。

 芳夫氏(と呼ぶことにしよう)の家は、印刷業であった。

 真生印刷というその小さな印刷会社へは、学校新聞の編集・校正や、俳句部で出していた作品集「すみよし」の印刷のことで、しばしば行かなければならなかった。

 会社は、三男の芳夫氏を含めた兄弟四人と従業員三人の、七人だったと記憶している。住吉の安立町にあって、入り口が狭く、入ったところに応接室と事務所があり、奥が印刷所、さらにその奥は空き地という、うなぎの寝床のような構えで、印刷所で三台の平版印刷機がガッチャンガッチャンと音を立てていたのだ。元はもっと大きな会社だったようだが、兄弟のお父さんの没後、ほとんど倒産の様相を呈していたのを、何とか立て直そうとしていたらしい。

 真生印刷側の相手が芳夫氏であるから、ぼくたちの話はつい雑談になりがちである。

 ときどき、というより、たびたび長兄の社長(現在も社長)が出て来て、芳夫氏を、あれをまだやっていないじゃないか、これをどうするんだ――と、どなりつけた。陸軍士官学校にいたという若い社長は、さすがに叱り方も的確で鋭く、横にいるぼくたちも頭を垂れて黙っているしかなかった。もしもぼくが軍隊に行っていてこの人が隊長だったら大変だったろう、と思ったりしたものだ。

 そんなわけでぼくは、芳夫氏から、俳句のことだけでなく、印刷についてもいろいろ教えられた。当時はもちろん鉛の活字の時代で、文選工が活字を拾っていたのだが、ある夜芳夫氏がベテランの文選工と競争で活字を拾い始め、最初はこっちが速いといい気になっていたところ、夜明けになってこちらがへたばっても、ベテランのほうは初めと全く同じペースで着実に拾っているのを見て、プロは違うと思い知らされた――というような話も聞かされたりした。

 ある夜。

 真生印刷で徹夜で「すみよし」の編集をすることになった。

 メンバーは、芳夫氏とぼく、それに同学年の俳句部のライバル(といってもライバルだらけだったのだが)の、岩上泰造という男である。号を自分で酔月とつけ、それがまた学校でも面白がられて、みんな、酔月、酔月と呼んでいた。

 夜中、出前でうどんを取って食うことになった。

 学校の食堂で早食いに慣れていたぼくは、どの位早く食えるか実験しようということになり、酔月が時計を持ち、用意、始め、で、かっ込み出したのだ。食い終わったとき、酔月が、

「十三秒!」

 と叫んだ。

 出前で冷えていたし、素うどんだったから可能だったのだろうが、以後、いくら頑張ってもぼくはその記録を破ることが出来なかった。

 その真生印刷も、少しずつ仕事が増え、ますます忙しくなり、印刷機も新しいのを入れて、大きくなって行った。とはいえ、ある年の暮れに、黒ともう一色アイボリーの二色刷をするのに、どうしても依頼主のいう色が出ないと、みんなでわあわあ論議しているのを目にしたりしたのだから、苦戦の時代は依然として続いていたのであろう。

 ぼくは大学に行ってからも、ことある毎に(また、いろんな用があったのだ)真生印刷に顔を出した。柔道部に入って無精ヒゲを生やしたりしていたので、ヒゲの大学生といわれたりしていたらしい。芳夫氏が無精ヒゲの本家みたいなものだったので、奇妙な気がしたものだ。

 年月は移って、やがて真生印刷は住吉区浜口町に新社屋を建て、堺に工場を建設した。新しい機械が次々と入れられ、成人式のときには、お邪魔したりしていたが、もう印刷システムの説明を聞いてもよくわからなくなってきた。人数も増えた。そして住吉公園の前の本社ビルが出来ると……本当にこれがかつての真生印刷なのかと、信じがたいのである。だが、考えてみると、初めて安立町の真生印刷に行ってから、五十一年めなのだ。半世紀なのである。

 

 書きだせば、あれもこれもという気になって際限がないけれども……第一巻を早く出してもらいたいので、今回はこの辺でやめておくことにする。

(一二/六/二一)

 


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