卓通信第3号−1


 

回転ドアとロッド・サーリング・ほか

 


 

 

 昔、ぼくが大阪窯業耐火煉瓦――現在のヨータイに勤めていた頃、会社は北区梅ヶ枝町(今は西天満になっている)の宇治電ビルにあった。

 のっけからローカルな話だが、この宇治電ビル、中央の出入り口が回転ドアになっていた。いまだにそうだと思うけれども、近年は行っていないので、たしかなことはいえない。

 この回転ドアというのが、ぼくには何となく不思議に感じられたものだ。一度に一区画(?)には二、三人しか入れず、閉じ込められたようで、入るときと出るときが違う空間なのである。

 この「日課・一日3枚以上」の第三巻の校正をしながら、ぼくはそのことをつい思い出していた。

 前にも述べたように、「日課・一日3枚以上」の作品を書くにあたっては、みずからいろいろな制限を設けている。そのせいで、狭義のショートショートの範囲からはみ出したものも少なくなく、また、掌編小説というのとも違う。強いていえば、短話であろうか。ともあれ、現実と非現実の境界線を行ったり来たりしている観があるのだ。それも、ときには現実そのもので終わったり、非現実から異世界に行ってしまったり――という場合もないではない。

 考えてみれば、これは回転ドアみたいなものではなかろうか。あっちとこっちの間をぐるぐると回り、ときどきドアを離れるということではなかろうか。いや……ぼくは実際に回転ドアから出られなくなるとの設定の話も書いたのだ。ぼくがはっきり自覚しないうちに、心の底ではちゃんとそのことを意識していたのかもしれない。

 ――という話を、この卓通信に書こうとしていた折も折、ぼくはテレビで(うちはケーブルテレビである)、「ロッド・サーリングの世界」という番組を見た。「ミステリー・ゾーン」を書き、番組冒頭にガイド役で登場していた、あのロッド・サーリングである。そして、回転ドアとしての解釈以外にも、自分の「日課・一日3枚以上」の見方がありそうだと思ったのだ。

 今では懐かしの白黒番組とされる「ミステリー・ゾーン」は、ご存じの通り原題「トワイライト・ゾーン」である。薄明地帯と訳すのが適当なのだろう。ぼくなど、当時は、太陽に同じ面を向けたまま公転しているとされた水星(実は五十九日周期で自転しているのだそうだ)の、その昼地帯と夜地帯の中間の薄明地帯を重ね合わせてイメージし、第一回日本SFコンテストに応募した「下級アイデアマン」でもその設定を使ったが……大気のないところで本当に薄明地帯というようなあいまいな状況が生じるのか、今となっては疑っている。それと、「トワイライト・ゾーン」では日本人にぴんとこないだろうから、「ミステリー・ゾーン」でいいとしたのは、星新一さんだったと聞いたけれども、これも真偽不明である。

 それはさておき。

 当時は活字にせよ映像にせよ、SFそのものが乏しかったので、ぼくは毎回わくわくしながら「ミステリー・ゾーン」を見た。その話の突っ込みが大抵一段で終わり、また、話そのものが霧に呑まれて行くように、あからさまな決めつけをしないで想像に委ねる――という話が多かったせいか、SFファンでなくても「ミステリー・ゾーン」は見るという人が身近にたくさんいたように思う。

 多分現在では、これではいかにも物足りないといわれるのであろう。

 しかし「ロッド・サーリングの世界」を見ていると、なぜ「ミステリー・ゾーン」がそうであったか、ある程度わかる気がした。

 ロッド・サーリングは、コネチカット(だったと思うが、間違っていたらお許し願う)のささやかな町で少年時代を過ごし、その記憶が生涯、シナリオ書きに追いまくられるようになっても残っていて、常に心がそこに還っていた――と、番組のナレーターは語っていた。

 つまりは、過去とか残したものとかを一切忘れて突進し、行けるところまで行ってしまうというのではなく、どうしても還らざるを得ない心の世界を持っていたということである。それが「ミステリー・ゾーン」の、いわば、“無責任なまでの破天荒”の欠如となったのではあるまいか。

 私事になるが、(いや、この文章自体、私事そのものなので、今更こんな釈明をするのは間が抜けている)ぼくは、「夕焼けの回転木馬」という長編を書いたとき、そこに幼少時の自分をデフォルメして描いた。俳句をやっていた関係もあってぼくは、文芸には書き手自身の過去が投影され描かれるのはむしろ自然と考えていたのだ。それがある雑誌で、“そんな子供の時分のことを書くなんて、作者のわがままか”という意味の叩かれ方をして、え? と驚いたことがある。評者は推理小説畑の出身という話で、彼はそういう感覚で小説を読んでいるのか、と、考えてしまったのだ。また、別に、ぼくは、“眉村というのはSF界に珍しく自己を投影する作家で”と書かれたりしたこともある。

 そういうものなのかもしれない。

 けれどもぼくにはぼく自身の流儀があり、やめるつもりはなく……それが今度の「日課・一日3枚以上」では、みずから制約を設け、妻に読ませるために書くということで、結果、自分自身の求心性を離さない姿勢をつづけているといえる。いかに空想的で、あるいはいい加減な設定をしようともだ。それが「日課・一日3枚以上」の作品群の性格となってしまっているのは、どうしようもないだろう。

 その意味でぼくは、ロッド・サーリングと「ミステリー・ゾーン」に自分がどこか通じているという気がするのである。

 

 *  *  *

 

 演説めいたことを書いてしまった。

 第三巻(201)〜(300)であります。

 ここに収録したのは、平成十年二月から五月にかけて書いたもので、妻の体調も悪くなく、高校の同期会の一泊旅行に一緒に出掛けたりした上に、ずっと続けていた「カルタゴの運命」の連載が終了した解放感もあって、アイデアによってはゆっくりと時間と枚数をかけることが出来た。もっともその反面、アイデアが出ないとなると、そのうちにつかめるだろうとのんびり構え、結局は慌てて必死で仕上げることになり……さまざまなタイプの話が出て来ている。

 ここで一言釈明しておかなければならないのは、(229)と(233)の、書庫ののぞきからくりである。いろんなタイプの話を書くうちに、のぞきからくりというものを使って、前から一度しるしておきたいと思っていたぼく自身の思い出を書いたのだ。だからこの二つに関しては、制約を外し、人名を固有名詞にしている。初めはもっとこののぞきからくりを使うつもりだったが、二本書いてみると、自分でも、それがどうしたのだとの気になって……やめてしまった。また書くことになるのかどうか、今のところわからない。

 ともあれ毎日こうして書いているうちには、どうしても似たような発想が出て来て、それは人間であるから避けられないことだけれども、設定やテーマで違うものにして頑張るほかはないのである。机のところに自分を励ます文句を書いた紙を立てるのだ。文句はいろいろある。

 弛緩は的。

 困窮而通。

 気力。

 進行。

 ただ頑張るだけである。

 新路線開拓力投。

 常に新機軸を!

 迅速に/焦らず/流れず/緊張と/バランス感覚を/保て。

 走れ走れコータロー。

  (画像)

 という調子で……自分でもヨクヤルヨと思う。

 

 この「日課・一日3枚以上」、新聞に経緯が紹介されたこともあって、多くの方々から真生印刷へのお問い合わせ・購入のご希望が寄せられた。望外のなりゆきで、本当にありがたいことと感謝している。で……当初予定していた部数では足りなくなってしまったが、真生印刷のほうでは(どうなっているのかよくわからないけれども)版は置いてあり、ごく少部数でも増刷出来るとのことで、無理をお願いすることにした。既刊のものでもそうしてくれるとの話である。

 お読み下さった方々から、お励ましやご感想のお便りをたくさん頂いた。お礼を申し上げます。ま、これからも頑張るつもりですからよろしく――と叩頭の次第でございます。

 

  *  *  *

 

例によって、この第三巻の百編のうち、すでに他に収録されたり紹介されたりしたものを、次に掲げます。(省略)

 また今回は、妻のことについて娘が書いたものも加えました。

 この稿を書いている本日現在、幸いにも妻が何とか元気であることも、ご報告しておきます。

(一二・一〇・九)




次へ  戻る

 

inserted by FC2 system