卓通信第3号−2


 

母のこと  村上知子

 


 

 晴れ男、雨女といった言い方がある。その人たちが旅行したり、外出したりするときに、必ず晴れたり、または雨が降ったりする場合、こう呼ぶようだ。

 そういう意味ではうちの母などは完璧な「晴れ女」である。おおよそ彼女が旅に出て、大雨に降られたり、そのために予定を変更せざるを得なかったということは、聞いたことがない。この話をすると母は、「精進ええねんなあ」と自分で笑う。それが本当かどうかは、よくわからない。

 ともかく、曇っているほうが似つかわしいなどと贅沢な人は言う室生寺でも、雨を期待した長崎に行っても、雪でも降れば最高のパリでも、いつも母が行くところはピーカンなのである。映画の撮影前などは必ずスタッフキャストが神社にお参りして、安全で滞りない進行をお祈りするが、こと天候に関してだけならば、うちの母を連れていくほうが確実ではなかろうかと、時々思う。

 

 三年前の六月、その日も晴れていた。前日の夜の父の電話で、母が入院したと知らされ、朝一の「のぞみ」で、病院に駆けつけたのだった。病棟は奥だと聞いてエレベーターホールに向かう途中、廊下の長椅子に父が座り、朝食のパンを食べていた。パン屑が落ちた床が、朝の光に白く反射していたのを覚えている。

 夏至が近く、台風も来ているのに、こんなときもやはり母は晴れ女なのだなあと、病状や所見を訊かなくては、という意識とは別のところで、ぼんやり考えた。

 旅。それが非日常的な場所への移動であると定義づけるなら、入院もひとつの旅といえる。そして、この母の旅が、もしかすると還らざる旅になるかもしれないと、そのときは思っていた。おそらくは父も同じ思いであったろう。そういうことなら、せめて病室の窓から見える空は、晴れていてくれたほうがいい。

 

 病室の窓より見ゆる熱帯樹野戦病院の暑さもかくや

 

 けっこう老朽化した病院の建物の中で、それでもこれは非日常の旅で、またそこからいつもの日常に帰るのだと、考えようとした。暑い夏だった。玄関ホールには、新しく建てかえられる病院の模型が飾ってあり、二〇〇〇年秋完成予定とあった。その話題は避けながら、南方の戦線や、それを扱った映画、戦争に行った親戚の話をしたりした。担当のM先生の明るい人柄や看護婦さんたちの雰囲気の良さも幸いして、母はそれほど沈んだ様子も見せず、入院生活を送っていた。手術後の経過はよく、一ヶ月後、母は退院した。それでも家に帰ったときの母の表情が、やはりずうっと気の抜けない毎日だったのだな、と私に思わせた。

 

 病院より帰りて母の悦びぬ白粉花の今年も咲きし

 

 その後、一巻目の通信に父が書いたように、何度か母は手術を受けたが、おかげさまで、無理はきかないとはいえ、いまは日常生活に殆ど支障はなく、生活している。(この秋に、予定通り病院は新しい建物に引っ越すそうだ。今度入院するときはこっちやなあと、言い合えるようになった。) 一人旅は自信がないというが、父とともに、奈良の美術館に出かけたり、時々東京に旅行したりもしている。そうしてやはり、母が出かけるときは、なぜか雲ひとつない晴天なのである。

 


次へ  戻る

 

inserted by FC2 system