【掲示板】


ヘリコニア談話室ログ(2003年6月)


本邦初のホットジュピター小説 投稿者:管理人 投稿日: 6月30日(月)20時21分51秒

SFM8月号所収の小川一水「老ヴォールの惑星」を読みました。
これはすごいですよ。先日紹介しました『異形の惑星』にも出てきた系外惑星<ホットジュピター>という、まさにホットな最新の知見を、早速ハードSFに造型しています。
「異形の惑星」でもすこし触れましたが、こういう新知見に触発されたた新しいハードSFが出てこないかな、と思っていたところでしたが、早くもそれが現実したわけです。早い!

強風が吹き荒れる超臨界水の海に覆われたホットジュピターの過酷な世界が活写されています。
しかも作者は、さらにそこから想像力を限界まで広げて、「四季のあるホットジュピター」でしか発生し得ない奇跡的な高等生物(?)を創造し、活き活きと描きだしています。この生物(?)がまたユニークで魅力的。繁殖はせず環境から自然に発生するのです! コミュニケーション(文化伝達)の仕方も面白い。しかしそれにしても、こんなの生物と呼べるのでしょうか(^^;

ともあれ作者は(YA的な制約がないためでしょうか)とことんハードSFに徹しており、その結果、本篇は夾雑物のない、ストイックな、まさに純ハードSFとでも表現したくなる作品に仕上がっています。
 #できれば先に「異形の惑星」に目を通しておいた方がいいかも。


ぼくたちのリアルフィクション 投稿者:管理人 投稿日: 6月29日(日)21時37分00秒

SFM8月号が出たようです。で、7月号の特集「ぼくたちのリアルフィクション」4作品の感想を書くことにします。というのは、元長作品のオチを割ってしまうと思うので、7月号が店頭から回収されてしまうまで待っていたのでした。それでは始めます。

冲方丁「マルドゥック・スクランブル"104"」
平井和正っぽいアクション小説。そこそこ面白いが、マンガの原作という感じ。ウルフガイ系のお話が好きな読者なら充分楽しめる。ただ主人公の内部告発者の女性の、トラウマに支配される行為(思惟+行動)が、観念的でリアリティがないのがちょっと。またボイルドとウフコックという「兵器」も、あまりに絵空事めいて現実感がない。もっともシリーズ作品ということで、設定に埋没してしまえばどうと言うことはなくなるだろうが。
それから、作中頻出する「煮え切る」という言葉の使い方が特殊で、とても気になった。

元長柾木「デイドリーム、鳥のように」
これは問題作。SFジャパンの秋口ぎぐるもそうでしたが、SF雑誌という発表場所をトリックの前提に使った極めて意図的、技巧的な作品です。
つまり私のようなヤングアダルトに偏見を持つSFファンの心理を見越したストーリーづくりがなされていて、思わずやられたと叫んでしまいました。

主人公の穴穂津里緒には特殊能力があり、それを買われてある機関の工作員をしている。今回のターゲットは啓市という高校生。里緒は啓市の恋愛感情に付け入って近づくのだが、この里緒、3年間恋人と同棲していたという経験があるにもかかわらず、啓市に対する態度が「異常に」ウブで、私は「だからYAはリアリティがないんだよ」とイライラしながらも、しかしYAの欠点を「十全に備えた」作品を読んでいることに故なき優越感を覚えつつ読み進めていたのである。啓市の好みに合わせて、それまでパンツルックしか穿いたことがなかった里緒は、啓市にプレゼントされたミニスカートを穿いてデートすることになる。そのときの里緒の羞恥心が、これも「異常に」強く、違和感を覚える。そして里緒の部屋で、遂に里緒は啓市に抱かれ、下半身に手が伸びて……

ここで読者は驚天動地の大どんでん返しに、持った雑誌をパッタリ落とし、小膝叩いてニッコリ笑い、ではなく、わお!と叫んで部屋の中を走り回るだろうことは、まず間違いないところであろうと思われます。
もちろん私もビックリし、小林泰三の「家に棲むもの」のときと同様、「仕掛け(細工)」を遡行的に確認していったのですが……ミスディレクションに誘う記述が余りにもアンフェアで、残念ながら小林作品ほどフェアとはいえませんでした。

とはいえ、この作品が(少なくとも年輩の)SF読者のYA観を意識した(揶揄することを目的とした)ものであることは明らかで、この作者の才気には脱帽しました。

吉川良太郎「ぼくが紳士と呼ばれるわけ」
本特集中、一等頭抜けた作品。高野史緒にケンカを売った(嘘)19世紀の今一つのフランスを舞台にしたスチームパンクならぬアルケミーパンク。文体もすぐれているし、描写も、読んでいて世界がありありと迫ってくる力を持っている。この世界を舞台にした長篇を構想中とのことで楽しみです。
一つ気になったのは、主人公のアルの正体が途中で明らかになることで、どうせ一回しか使えないオチなのだから、これは最後まで引っ張る方がよかったのではないでしょうか。

長谷敏司「地には豊穣」
これは本特集中唯一の凡作。吉川良太郎のあとに読んだせいか、とりわけ文体の凡庸さに苛立ちました。内容もYAらしく観念的で、筒井の所謂自動性に埋没したまま飛躍できていないように思いました。


「マントとマスク」 投稿者:管理人 投稿日: 6月29日(日)16時15分01秒

眉村卓「マントとマスク」(同人誌<寄港>創刊号、所収)を読みました。
――森田泰治は70前後、10年前に妻と死別してから独り暮らしの引退生活者。新聞の死亡欄で五十嵐研介の名前を見つける。もう40年以上行き来の絶えてしまっていた彼は、昔の「仲間」だった。五十嵐の名前が、昔の記憶を引きずり出す……。

腕におぼえのある森田や五十嵐ら道場仲間が練習からの帰途、神社の裏手で襲われていた男女を助ける。すると不思議な老人があらわれ、かれらにマントとマスクを手渡す。それは正義の使者が着けるもので、正義を信じている限り、マントを着けると空を飛べ、飛んでいる姿は人間には見えないという。
以後、テレパシーの呼び出しがあると、彼らはマントとマスクを着け、空に飛び出す。すると自然に強盗などの現場に着き、やっつけるのだ。そういう出動が何回に及んだろう。次第に森田は疑問に感じるようになる。もっと社会の構造や人間の在り方にかかわることをすべきではないのか。これでは命令者にとって都合のいい、ただの手先ではないのか?

そう言う疑問にとらえられた彼は、ある日、自室の6階の窓から飛び出さず、階段を駆け下り地面から飛ぼうとするのだったが……

死亡記事の五十嵐は、森田が飛べなくなってからも、出動し、戦っていたのだろうか?
彼は押入の隅に突っ込んであったマントを引きずり出してくる。笑い出さずにはいられなくなり、止まらなくなる。ひいひいと涙まで出てくる。
マントとマスクを仕舞い込み、かれは碁会所に出掛ける。その晩、森田はマスクとマントを着ける夢を見る。飛ぼうとした瞬間、足元に穴があき、彼はどこまでも落ちていく。……

うーむ、、、いいですねえ。まさにこれぞ文学の味わい、何度も味読したい短篇小説です。

この「マントとマスク」ですが、眉村先生のご厚意により、拙HPにて公開のお許しを頂いております。可及的速やかに掲載しますので、お楽しみに〜。


空気が読めない男 投稿者:管理人 投稿日: 6月29日(日)11時57分06秒

昨日は友人たちと、(いつも大衆酒場しか行かない私にしては珍しく)曾根崎の割鮮「吉在門」で会食。さすがに新鮮で美味しかったです。値段もリーズナブル。2、3人の少人数ならこういう店の方がいいかもと思いました。

その後、久々にラスカルズを聴こうと、ニューサントリー5に行きましたら、なんと眉村先生がいらっしゃるではないですか!! 先生はお嬢さんと聴きに来ておられたのでした。
千載一遇のこのチャンス逃すまじと、すでに酔いが回っていた私は、友人をほったらかし、先生の横にくっついて、泡を飛ばしてしゃべりまくってしまいました。あ〜楽しかったー(^^)

しかし――でも――酔いもあらかた醒めてきた帰りの電車の中で、私はふと気が付いてしまったのです。
……先生はラスカルズを聴きに来られたのに、演奏中も喋りまくる私は大迷惑だったのではないか、と……。そればかりか、回りのお客様を不快にさせた可能性もきわめて大。はた迷惑とはこのこと。演奏のラスカルズにも失礼なふるまいだったのではなかったでしょうか。まことに場の空気を読めない人間ほど周囲に迷惑をかける存在はありません。(ーー;)

そう思いついた瞬間、私は冷水を浴びせられたように凍り付き、冷や汗が滝のように流れ出したのでした。しかし、そうはいっても文字どおりそれは後の祭り。後悔先に立たずで、私はいっぺんに落ち込んでしまいました。嗚呼、、、嗚呼、、、

そういう次第で、眉村先生、お嬢様、並びにニューサントリー5にて運悪く私と居合わせた全ての皆様、まことにご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。反省しております。どうぞお許し下さいm(__)m
というわけで、サントリー5、また行きますね〜♪(あかん、全然懲りてへん(ーー;)
編集済


眉村卓情報 投稿者:管理人 投稿日: 6月27日(金)23時01分46秒

1)『ねらわれた学園』が、〈青い鳥文庫〉にて復刊されます。7月15日発行予定です。

2)大阪芸大文芸学科の卒業生を対象にした同人誌『寄港』の創刊号に、「マントとマスク」という短編を寄稿されています。この同人誌はユーゴーなどの書店で入手可能らしいです。

3)先日お知らせしました高野山夏季大学の詳細ですが、さる方より毎日新聞の切り抜き(毎日新聞6/24付)を頂きました(>ありがとうございました)。それに掲載された眉村先生の文を全文を下に転記します。

 昨年5月末に、妻が亡くなった。手術でがんとわかってから5年弱だった。
 少年のころからものを書こうとしてきたが、あきらめかけたこともあった。妻に励まされ、思うことがあってSFに転じ、書いてきた。病気の妻に読んでもらおうと、一日に1本短い話を書くことになったのも、こういう経緯の中での私の気持ちがさせたのだと思う。
 しかし、妻が亡くなって1年余になる今は、さまざまな事柄を考えずにはいられない。元来、ものを書いて他人に伝えることのむずかしさは、年と共に実感するようになっていたのだが、今思うと一番の理解者であったはずの妻に本当に伝えることができていたか、いや、その妻のことさえ何もわかっていなかったのではないかと思えるのだ。この機会に、自分がものを書くようになるまで、なってから、そして妻のために書き続けた毎日のことをお話ししたい。


講師は、他に堀江謙一さん、水谷八重子さん、養老孟司さんら合計8名。
会期は8月1,2,3日。会場は高野山大師教会本部大講堂。聴講料1万3000円。定員先着700名。宿泊は希望者に宿坊をあっせん。2泊5食付きで1万6000円。
申し込み方法:所定の用紙を送りますので、80円切手を貼り宛名を明記した返信用封筒を、封書で下記宛送って下さい。申込用紙2枚以上の場合は90円切手が必要。
送付先:〒530−8251 毎日新聞大阪本社総合事業局、高野山夏季大学係(06・6346・8377)

眉村先生の講演は第1日の15時30分からです。


インド魔術のロープを登る 投稿者:管理人 投稿日: 6月27日(金)21時32分31秒

アレクすてさん

>私にも仕事ができ
おお、それはおめでとうございます(^^)
初めてお会いしたときから比べれば、格段にお元気になりましたもんねえ。いやあよかった、私も嬉しいです!

>週末は、あけられないのです
また仕事になれたら、別の曜日にでもお会いしましょう。

そういうことで、今、何冊かお借りしていますけど、今度お会いするときまで、しばらくお借りしておきますね。
そういえば、ルシフさんも、アレクすてさんに借りているビデオを返したいのだけど、とおっしゃってましたよ。またあちらの掲示板で相談して下さいね。

軌道エレベーターは、原理的には静止衛星なのですが、垂らしたチューブにかかる引力を打ち消す遠心力を得るために上に向かってチューブが伸びて釣り合いを取っているのですが、これってインド魔術の空に向かって伸びるロープと似てますよね。
昔、ワトスンの「大西洋遠泳大会」(だっけ)に対抗して、この静止衛星ロープを何本も並べて、これを競争でよじ登っていくアイデアを考えたことがあります。壮観でしょ(^^)。ロープを上に向かって昇っていく競技者は、途中で(上に向かって)降りていく自分に気が付くのです(^^;
編集済


野尻抱介さん、大泣き? 投稿者:アレクすて 投稿日: 6月27日(金)00時03分57秒

管理人さま、おひさしぶりであります。
アレクすてです。
この前の畸人郷例会に出席できず、すみませんでした。
今度は…といいたいのですが、実は、私にも仕事ができ週末は、あけられないのです。
従って、今年(7月中まで)は、例会に出席できなくなります。
申しわけありません。(頭を下げる。)
ところで、こんなニュースを見つけました。

このエレベーターは宇宙へ参ります! ついに
「Space Elevator」建設へ始動
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030627-00000094-myc-sci

2018年4月12日にクラークの「楽園の泉」が実現するわけです。
まさか、生きている間に、『軌道エレベーター』が見られようとは!
(まあ、我々一般人が乗れるかはわかりませんけれども)
では!


ミステリーズ!>どこにも売っていません 投稿者:管理人 投稿日: 6月25日(水)20時08分25秒

よく利用する(近所では比較的大きい方の)書店が閉店していて、閉じられた入り口の前で、しばし呆然とする。
もう一軒ある書店に回ったら、こちらも新刊書籍が縮小されていて、そのかわり、新たに古本のスペースが出来ていて、びっくりしたのですが、久しぶりに我を忘れてしまいました(こんにちは、土田です>嘘(^^;)

 丸山蘭水楼の遊女たち 井上光晴 新潮文庫
 橇・豚群 黒島伝治 新日本文庫
 パロマー カルヴィーノ 岩波文庫
 暗黒神のくちづけ C・L・ムーア ハヤカワ文庫 処女戦士ジゼル。先のヒロイックファンタジーアンソロジー収録作を含むシリーズ。
 ビースト・マスター アンドレ・ノートン ハヤカワ文庫 
 イシュタルの船 A・メリット ハヤカワ文庫 荒俣訳。あとがきによるとHSFS版は縮小版の翻訳だったよし。
 JEM フレデリック・ポール ハヤカワ文庫
 大いなる天上の河(上)(下) グレゴリイ・ベンフォード ハヤカワ文庫
 天武と持統 李寧煕 文春文庫
 卑弥呼はふたりいた 関裕二 ワニ文庫
 天武天皇隠された正体 関裕二 ワニ文庫

我を忘れたと言ってもこの程度ですから、所詮土田さんの敵ではないのでした(汗)。ちなみにこれだけで、締めて900円也! しばらく通うかも(^^;。


「群青神殿」 投稿者:管理人 投稿日: 6月24日(火)21時52分51秒

小川一水『群青神殿』(ソノラマ文庫、2002)

核融合や宇宙発電などの未来エネルギーまでのつなぎとして、21世紀のエネルギー問題を解決する切り札と目される「燃える氷」メタン・ハイドレート(MH)――民間会社に所属する俊機とこなみは、このMHを探すために作られた二人乗り中深海長距離試錐艇デビルソードの乗務員であり、恋人同士でもある。

その彼らに、大型沈没船の調査が命じられる。沈船には破壊孔が開いていた。しかもそのささくれだった裂孔縁は、内側に向かって曲がっており、それは巨大で堅い物体がぶつかって開いたものであることを示していた。
同様の原因不明の沈没事故が多発し始め、そこには必ず新種の海棲生物シーリボンが群をなしていることが判ってくる。やがてシーリボンを補食する未知の巨大海洋生物の存在が浮かび上がる。

襟裳岬沖で巨大生物調査に従事していたデビルソードは、巨大生物と自衛隊の<衝突>に巻き込まれ、コントロールを失ったまま、8000メートルの日本海溝に沈む。やがて海溝底に到達した二人は、そこに月光下の雪面のように青くかがやく、見渡す限りの無数の列柱を見出す。それは巨大生物とシーリボンの生まれし場所だった……

海洋UMA小説です。もちろんハードSF。巨大生物とシーリボンの正体が、「科学的想像力」を限界まで駆使して明らかにされるとともに、その結果、この地球は2万メートル級の海溝を持っていなければならないことが論理的に導出されてしまいます!
このあたりの論理のもて遊び方は、本当にワクワクさせられました。まさにハードSFの醍醐味!

一方、ソノラマ文庫から出たこの長篇SFは、表紙絵がマンガ風であることからも明らかなように、ヤングアダルト小説(キャラクター小説)でもあるわけです。何度も言いますが、SFであることとキャラクター小説であることは全く矛盾しません。切り口の異なる分類概念同士だからです。

たしかにキャラクター小説らしく、民間会社で、しかも男性が圧倒的に多い職場でチームを組む二人が、会社公認の(一応理由があるとはいえ)恋人同士であるという、まさに非現実的な設定を、本書は持っており、主人公のひとりであるこなみは、いかにもマンガの登場人物のような、旧来の小説読みには一種耐えがたい非現実的な行動をとって私のような読者を萎えさせます。そのような感じ方が、ひとり私だけではないことは、たとえばここなどをご覧いただきたいと思います。

さて私は、だからキャラクター小説は駄目なんだ、といいたいのではありません。むしろキャラクター小説としては中途半端でしょう、と感じないではいられなかった。
というのは、こなみ(と、もうひとりの女性キャラ)以外の登場人物は、ほとんど旧来の人物描写をなされているからです。実写の中にアニメが合成された映画がありましたね。本書に私はそんなイメージを持ちました。そこに違和感を感じました。

「スターハンドラー」を思い出して下さい。この作品には<生身の人間>は、たったひとりとして登場しません。全員どこか過剰なキャラクターばかりだったではありませんか。その呆れるばかりの徹底ゆえに、この作品は、私のような者でも楽しめたような気がします。キャラクター小説だから面白くない、と決めつけているわけではないのです。

そう言う意味で、本書はキャラクター小説として「不徹底」な印象を禁じ得ません。あるいは実写部分の素晴らしいリアリティが、アニメと馴染まなかったようにも思われます。

ここからは想像(妄想)ですが、本来、初稿は旧来の、キャラクターに偏しないハードSFとして完成していたのではないでしょうか。だがそれでは、ライトノベルの編集者は不満だった。
「先生、もっとキャラを立てて下さいよ」
作者は別段アニメ的人物を登場させたくなかったのだが、編集者の要請とあれば無碍に無視することもできなかったのかも。カバーの作者の言葉で、「萌えを否定はしないが、美少女とともにどうしても年寄りを出したがる性癖がある」とわざわざ書いているのは、あるいは意に反してキャラクターを書かざるを得なかった無念さの現れではないでしょうか。

いや妄想が過ぎますね(^^; かように私は、面白い作品にぶち当たると感情移入しすぎてしまう性癖があります。これも、端無くも大変なハードSFの好編を読むことが出来た興奮のなせるところとご寛恕頂きたく(^^;ゝ。


キャラクター 投稿者:管理人 投稿日: 6月24日(火)03時29分32秒

土田さん
大塚英志によりますと、たとえば私のような旧来の読者は、読書の最中、無意識に自明のこととして、作中人物を<生身の人間>として認識しています。
ところがキャラクター小説の読者は(作者も)、マンガやアニメの絵を思い浮かべるのだそうです。

それに伴って作中人物の性格や行動パターンも、リアルなものからマンガのそれへと変容します。
かかる人物像は、当然旧来の小説が追究したリアルな人間像とは何程か異なっているわけで、このような作中人物をさして大塚は「キャラクター」と定義しているようです(たぶん)。

だからアニメ絵の表紙は、まさに作品の反映であるわけなんです。
しかし洋モノであるSF文庫は違いますよね、アメコミなら合う作品もあるかも知れませんが(汗)

ところで「群青神殿」は、そういう意味では、「キャラクター小説としては不徹底な小説」なのです。
それについては、また改めて・・・


素朴な疑問 投稿者:土田裕之 投稿日: 6月23日(月)23時01分41秒

素朴な疑問を持ちました。

>キャラクター小説は作中人物が「人物」じゃなく「キャラクター」なのだから
「人物」とキャラクターの違いの定義というのは
大塚氏の著作を読めば載っているのでしょうか?


「燃える氷」読了。
小松左京の「日本沈没」へのオマージュであります。
小松作品ほど想像の翼は広げておりませんが、
企業小説を書き続けてきたせいか、地に足のついた作品で読ませます。
もっともちょっとうまく筋が運びすぎるひらいはありますが。
あと、残念なのはメタンハイドレートが主役な筈なのに
終盤、ぼけてしまうところでしょうか。
(小説としては充分面白いので、欠点とはいえないかもしれませんが)


ペット化するYA読者 投稿者:管理人 投稿日: 6月23日(月)21時02分46秒

ふみおさん
ミステリ文庫はまだしもですが、SFとFTはまさにそうですね。たとえば創元SF文庫と比べてみると、ハヤカワSF/FT文庫の「マンガ絵化」ぶりがよく判ります。

>若い読者におもねっているのか
大塚英志によれば、キャラクター小説は作中人物が「人物」じゃなく「キャラクター」なのだから、表紙が「マンガ絵」であるのはむしろ当然なのだと言っています。
しかし(と大塚は釘を刺します)キャラクター小説ではない、作中人物が「人物」である小説の表紙に「マンガ絵」を配するのは、これはお門違いなのであり、あわよくばライトノベルの読者に間違って買わせようとする(怠慢な編集者による)姑息な、ヤラシイ手段に他ならないと言っています(大意(^^;)。

この大塚英志の意見は、よく理屈が通っています。
そう言う意味では、(洋モノである)ハヤカワ文庫SF/FTを「マンガ絵化」するのは基本的におかしいですし、おっしゃるとおり、「おもねり」としか思えません。ある意味YAの読者さえも「ばかにしてる」所業といわざるを得ませんね(^^;

もっとも、最近JA文庫からよく出るライトノベルが「マンガ絵」であるのは、当然それでいいのです(^^;ゝ なぜならそれらは、キャラクター小説の文法で書かれたSFであるわけですから。
とはいえ私自身は、ハヤカワがライトノベルに進出しても仕方がなかろう、とは思っています。「もっと他にやることがあるでしょう」という感じですかね。
ともあれハヤカワのSFは画一化に手を貸す方向にではなく、逆に画一化に抗する方向に進んでほしいものだとは思います。草葉の陰で福島正実が泣いてるかも

「群青神殿」読了。感想は明日にでも。

読み始めた小原秀雄・羽仁進『ペット化する現代人――自己家畜化論から』(NHKブックス、1995)で、動物学者の小原秀雄は、人間の「家畜化−自己家畜化」の結果、現在の若者・子供に精神や行動に変化が見られるとしてその特徴を、

1)きわめて狭い関心、自己中心の発想。他人との連帯や協同行動などの回避と不器用さ。発想の一面性と短絡さ、形式的なとらえ方。知的・肉体的なスタミナ、特に持続性のなさ。知的作業などや、ものごとを自ら調べずにあきらめる、探求力の欠落。生理的快感・安楽さを求めるのには熱心だが、持続的な訓練には耐ええない。
2)他人には求めるが、自らは進んではやらない消極さ。性、ひいては異性を求めることには熱心だが、占いなどにたよる非合理性と心情的な行動。金銭などの合理性に比べ、時には泣いたり喚いたり暴れたりする情緒的幼稚さ。
3)子供の成人病に見られる典型的な不健康さ。

に纏めています(ちょっと老人のヒステリーを感じないではない(^^;)。しかしこの概念(動物学の立場から立てられたものですが)、東浩紀の「動物化」とどこが重なり、どこが重ならないのか、非常に楽しみです(^^)
編集済


そういえばそういえば 投稿者:ふみお 投稿日: 6月23日(月)00時18分28秒

最近、ハヤカワの文庫の表紙ががジヤンルを問わず「マンガ絵化」してますよね。
なんでだろ〜♪ なんでだろ〜♪
若い読者におもねっているのか。しかしそうだとすれば、読者をばかにしてるとしか思えないんですけど。

それに、一つ一つの絵は別に安っぽくもなければ幼稚というわけでもないのに、ずらっと平積みで並べるとと〜っても低俗〜に見えてしまうのは何故か。個々のイラストレーターさんにも失礼なような気がします。


そういえば 投稿者:管理人 投稿日: 6月22日(日)23時20分16秒

昨日の畸人郷(2次会)で、少しヤングアダルト小説の話題になったんですが、全員アニメ絵のイラストは不要だということで一致しました(^^)
私のようなロートルではなく、20代のヤング(って時代遅れ?)の方も同調してくれましたから、これはかなり一般的な感じ方だと思います。

むしろ編集者の側に、「ライトノベルにアニメ絵は不可欠」といった先入観・思いこみがあるのではないでしょうか。あるいは「昔からこうだった」という伝統主義・踏襲主義にとらわれているようにも思われます。実際のところは読者は「アニメ絵でなければならぬ」といった、そんなに強い思いこみはないのかも知れないではないですか。

たとえば左打者に左投手を当てるのはセオリーとして正しい。しかし時には左投手が好きな左打者もいるし、左打者が投げにくいと思っている右投手もいるはず。しかしセオリーはそういう境界値は無視してしまいます。機械的に「左には左」を持ってくる監督(コーチ)は、実は現実を見る目がなく、自信もないのでセオリーに頼るのです。晩年の野村監督がそうでした。野村の真骨頂は類い希な記憶力を駆使した個人別傾向と対策を野球界に持ち込んだ点だったのに、阪神時代の野村にはその点に衰えが感じられました。

これは経験的にも実感しています。かつて入社以来10年以上勤めた分野から、管理職になって全然畑違いの所に回されたことがありました。叩き上げから経験していない分野なので、実感的な判断が出来ません。そうなると頼りにするのはセオリーです。しかしセオリーに頼りすぎると、上に述べたような境界値を取り逃がしてしまうのです。

今のヤングアダルト小説の画一化現象(アニメ絵、キャラ立ち、ストーリー軽視)は、自分の感性に自信を失った編集者のセオリー主義の結果のようにも見えます。本当はもっとジャンルを豊かにしていかなければいけないのに、セオリー主義の画一化はジャンルの活力を奪い縮小再生産に向かうばかりのように思われます。

たとえばジュブナイル小説は本当に若い人たちに受けないのでしょうか。今の若い世代に「時をかける少女」や「なぞの転校生」は受けないでしょうか。私はそんなことはないと思います。そりゃあ主流にはならんでしょうが、ある一定の読者層は掴むことができるはずです。
私は、売上に汲々するばかりではなく、そういう実験を試みなければ、いつかヤングアダルト小説界もジャンル自体の損益(存在?)分岐点を割り込んでしまうように思われてならないのですが。  


卑弥呼論完結 投稿者:管理人 投稿日: 6月22日(日)22時00分38秒

石原藤夫博士の「卑弥呼」論が一応終わりました。→《光世紀世界》のSF探検旅行連載。(第1回は4/16)

>あと一つか二つ、決定的な証拠が出てこないと、断言するのは非科学的だと思っております
>〈卑弥呼〉がもらった金印の発掘も期待しています
という態度はさすがですね。これぞ科学的な態度というべきです。
私も先日、「親魏倭王」の金印でも出ない限り断言することは出来ないと書きました。
しかし私の文脈は、金印でも出て確定するまでは自由に妄想するぞ、という意味なので、石原博士とは、<志>において天と地ほどの差があります(^^;ゝ

ところで上の石原先生の掲示板で募集している「SFいろはカルタ」から一つ引用(ピョン吉@岡山さんという方の投稿です)

>や:雇われ社長の悲哀だ司政官(《引き潮の時》シリーズ)


眉村卓情報 投稿者:大熊宏俊 投稿日: 6月22日(日)16時51分55秒

眉村卓先生出演の『徹子の部屋』放送日が判りました。
放映は7月28日(月) 13:20から13:55 とのこと。テレビ朝日です。お見のがしなきよう。

あと、高野山夏期大学に講師としてお出になるようです。
毎日新聞社主催で、詳細は、6月24日あたりの毎日新聞に掲載されるとか(購読紙が毎日新聞の方、よろしくお願いいたします)。
眉村先生の講義日は8月1日。詳細は追ってお知らせいたします。


西武もノッてきましたね(^^) 投稿者:管理人 投稿日: 6月22日(日)14時47分42秒

土田さん
巨人>緒戦叩いておかないと、息を吹き返しかねないと見ていました。こういう大事な一戦で、負けないどころか大勝してしまうのが、今年の阪神の強さですねえ。

>メタンハイドレートを扱ったディザスターノベル
おお、今読んでいる小川一水『群青神殿』にも、メタンハイドレートが出てきます。もっともこの小説は、ディザスターノベルではなく、海洋UMA小説ですが(^^;


桧山もがんばってる 投稿者:土田裕之 投稿日: 6月22日(日)01時29分36秒

怒涛の攻撃、すごかったですね。

高任和夫の「燃える氷」を読んでおります。

メタンハイドレートを扱ったディザスターノベル。
面白い感じ。
大熊さんにもお勧めできるかも。


承前 投稿者:管理人 投稿日: 6月19日(木)22時32分53秒

きのうの続きですが――草上仁は、何か「掴んだ」のではないでしょうか? というのは、ストーリーが格段に厚みを増したように思うからです。

もともとこのシリーズ、ストーリーが輻輳しているんですが、今回も輻輳は輻輳なんだけど、ストーリーの各線が、もっと有機的にネットを形成していて、そのせいか、今回は特にストーリーに太さと力強さとしなやかさを感じました。

それはおそらく、このシリーズの特徴である、キャラクターが勝手に動くのを、あまり作者が規制せず、自由に振る舞わせるという、一種ルーズな小説づくりの手法に作者が完全に習熟したからではないかと思うのです。

この手法は、たぶん昔の(柴錬とかの)伝奇時代小説の書き手が、雑誌の連載という場において採用していたものと同じものだと思います(もちろんスターハンドラーは書き下ろしですが)。

たとえば、本人かと思えば、実は替え玉であったとか、エアがなくなって死んだ筈の人物が死んでなかったりとか、連載の各回をの終わりに必ず次回への「引き」を無理矢理つくっては、次の回で何とか辻褄を合わせる、あのおなじみの〈大衆小説〉のおおらかさに非常によく似ています。それが実に効果的に作用して、この巻ではとりわけ読者に、一種〈分厚い〉物語性を感じさせるのだと思います。

しかも最後には、ゆるめていた手綱をきりりと締め直して(ここが昔の伝奇時代物との違いです)、きれいに着地するのですから、たまりません。

これまで草上仁といえば、版で押したように短篇の名手という冠詞が付いたものです。私もそう思っていました。短篇とはいかに作者が作品をコントロールするかが問われる形式でありましょう。これまでの草上仁はかかるコントロールの名手であったわけです(それがために一種「理に落ちる」味気なさも、草上さんの短篇のなかには、正直なところ、ある場合もあったのです)。

ところが、このシリーズで草上仁は、あるところまでは手綱を引かない、コントロールしない、という小説手法上のコツを掴んだのではないでしょうか。

おそらくこのシリーズを機に、作者は、物語性豊かなエンドレスな大長編小説の書き手に変身していくのではないかと私は想像します。
とはいえ草上さんがSFを離れるわけがありませんから、それはつまり伝奇小説的な豊かな物語性を兼ね備えた本格ハードSFを書ける稀有なSF作家になったということです。
つまり半村良にハードSFを加えてスケールアップしたような、途轍もない大長編SFを、近いうちに草上仁は我々の前に披露してくれるのではないか、私はそんな気がしてなりません。いやあこれは楽しみになってきました(^^)


「ゲートキーパー(下)」 投稿者:管理人 投稿日: 6月18日(水)20時55分38秒

草上仁『ゲートキーパー(下)スターハンドラー(3)(ソノラマ文庫、2003)読了。

スターハンドラーシリーズ(3作全6巻)の最終刊。おおーこれはすごい! シリーズを貫通する全ての謎が明らかになる驚愕の大傑作!! 今年度のベストワン作品はこれで決まりですね(^^)。
いや、これならスターハンドラーシリーズ全巻まとめて日本SF大賞と星雲賞のダブルクラウンも夢ではありません。ていうか、これでSF大賞を取れなかったら選考委員の目はフシ穴! 星雲賞を取れなかったらSF大会にたむろする連中はSFファンではない!(汗)。

観測しようとすると見えなくなってしまう謎の電波を捕まえようと宇宙空間に飛び出したスチャラカチーム。彼らを追ってこれまでに登場した全てのキャラクターたちが集まってきます。

量子論とミトコンドリアが出合うとき、真空の宇宙空間に、嵐のようなが降る!!

このアイデアだけでも大概ややこしいのに、さらに話をややこしくするのがキャラクターたちのてんでに勝手な行動です。この野生の悍馬のように跳ね走り出すストーリー相手に、さしもの作者も、今回は手綱さばきが大変そう(汗)。しかしさすがは草上仁、名手と謳われるのも伊達ではありません。この錯綜するストーリーを最終的に捌ききった果てにあらわれるのは、壮大なSFの極致。キャラクターたちの行動は、全てあらかじめ定められていたのか?
戦いすんで、しばしの休暇を満喫するスチャラカチームの、収まるところに収まる大団円に滂沱滂沱。清々しい心地よさを読者に残して、この素晴らしい大作はフェイドアウトしていきます。ああ〜〜、おもしろかった〜! 思う存分堪能させてもらいました。
編集済


体験操作の手法 投稿者:管理人 投稿日: 6月16日(月)21時48分32秒

筒井康隆『小説のゆくえ』(中央公論新社、2003)を、パラパラと拾い読みしていたら、こんな文章がありました。

宮沢章夫の「サーチエンジン・システムクラッシュ」は読んでいてとても懐かしい気分になれた。(……)池袋をほとんど知らない小生にも既視感のようにそのリアリティが感じられ、作中にも出てくる「いま、池袋」というフレーズには実感があった。(150p)

未読なので断定しませんが、鈴木謙介のいう「体験操作」の手法というのは、つまるところ、これなのではないでしょうか。もしそうであるのなら、「体験操作」の手法とは、小説のもっとも本来的な機能そのもののことのように思われます。その証拠に、

手法が古めかしい、とか、七〇年代の小説みたいだ、という否定的な意見もあった。(この文章は三島由紀夫賞の選評です。管理人注)(……)カフカに始まる徘徊もの彷徨ものの文学的伝統すべてが思い出され、まさにそこにこそ前記の「懐かしさ」を感じたのである。これを一概に古さと言うべきなのだろうか。(150p)

これを、↓の鈴木の文章と比べてみて下さい。

「ああ、自分にもこんなことがあったな」という感情・記憶を喚起させられる。そこで私たちはこの物語を「自分の来歴」と重ね合わせて受け取ることができる。(……)前半において観客は物語をすでに自分の記憶の中の物語の再現として見せられている。 ので、それが「ありえなかった話」に展開したとしても、それがまるで自分の記憶の延長にあるもののように受け取られてしまう。(……)観客を物語に引きずり込むために「記憶」というデバイスを利用するのである。(鈴木、38p)

ふみおさん
ご賛同していただけて嬉しいです。ふみおさんに支持していただければ、これはもう百人力です(^^)

>励みに書きつづけます……
期待しております。
そういえば、新作が出たんですよね。→異形コレクション
我が町の本屋にはまだ入荷していませんが、近日中に読ませていただくつもり。楽しみです!


まさしくまさしくその通り…… 投稿者:ふみお 投稿日: 6月16日(月)12時31分13秒

>読者の「読む能力」の無際限な右肩下がり

下記の書き込み、まったくもってその通りだと思います(涙)。
しかしヤングアダルトについて表立ってこの手のことを言うとバッシングされそうで何も言えないというか(涙)。

でも、少なくとも大熊さんのような方がいらっしゃるのだ、ということを励みに書きつづけます……


鈴木謙介論考を読んで(承前) 投稿者:管理人 投稿日: 6月15日(日)18時12分06秒

(下よりつづく)
さらに著者は、最近「感覚操作」と異なる種類の操作を用いて「物語の困難」を乗り越えようとする作品が生まれてきている、として、「体験操作」という手法が用いられ始めていると述べる。……(注2)
著者は、感覚操作に主軸を措いたメディアを「バーチャル」なメディア、体験操作に主軸を措いたメディアは「フィクション」のメディアとし、「この「フィクション」が物語なき時代に「物語」の意味を生み出すための大きな力になる」(39p)だろうと期待を寄せている。

著者の「物語」にまつわる社会的時代的変遷の整理や客観的な現状認識は、よく纏まっているし、異論はない。けれども(「体験操作」は措くとしても)「感覚操作」が、「物語の困難」を乗り越えるためにでてきたというのはどうだろうか。
私はむしろ、困難を乗り越えるためではなく、(資本主義的な必要に迫られて)観客や読者の想像力の低下に迎合するためにでてきたものではないかと思わないではいられない。
最近の若者(といっても具体的に何歳と想定しているわけではない。40歳の「若者」もいれば20歳の「大人」もいるだろう)は、前代の若者に比べて「見立て」るといった想像力が確実に低下しているのだ。それはたしかに、著者が分析するように社会的な変遷となにほどか連動している構造的な現象であるのは間違いないにせよ、だからといって放置し、いわんや経済の要請とはいえ迎合するのは、結果として右肩下がりの現状の維持強化に荷担することになっているのは間違いないところである。

(注1)小説のジャンルに於いて、これに対応するのがいわゆる「ホラー」小説だろう。

(注2)著者がこの「体験操作」の説明に例として持ち出した映画を、私は観ていないので何とも言えないのだが、この体験操作、私の印象では、別に新しい手法ではなく、文学や映画に於いて、昔からある手法ではないだろうか。
編集済


鈴木謙介論考を読んで 投稿者:管理人 投稿日: 6月15日(日)18時10分37秒

鈴木謙介「物語なき時代に物語を紡ぐこと――バーチャルとフィクション」(SFM7月号所収)

三村の論を、社会的な文脈において構造論的に補足するものとなっており、この配列、なかなか絶妙。編集部ももよく考えている(^^;。
著者はまず、社会学者・大澤真幸の所説に拠って戦後日本の時代精神の変遷を解説する。
1945年から1970年頃までの日本においては、「現実」の対義語は「理想」だったとする(理想の時代)。この「理想の時代」は連合赤軍事件で終わり、目指されるべき理想(大きな物語)が「虚構」としてしか存在し得ない「虚構の時代」が始まる。つまり「現実」に対して「虚構」が対置される時代である。

枚数の関係もあってか、著者の論はコンパクトに纏められ過ぎていて、逆に理解が難しい面があるのだが、この「虚構の時代」を私なりに類推するならば、1970年代以降、社会の多様化相対化に伴い、大きな共通の「理想」というものは存立し得なくなる。その結果、理想は社会的属性や信条によって分化、相対化してしまう。いわば無数の小さな物語が並立する状況といえよう。この時代は1995年のオウムの事件によって幕が引かれる。

では、1995年以降、我々はどのような社会に生きているのか。著者によれば、それは東浩紀の所謂「動物化の時代」であるとする。
「近代の理性が目指すものが、自然を克服し、自然に働きかけて理念を現実のものにするということであるとすれば、〈動物〉とは自然と調和し、与えられるものをそのまま受け入れて満足するような存在だ」(36p 斜字化、管理人)
この時代の物語は、諸要素に分解され、物語の各パーツ自体が単体として機能する。つまり各パーツの任意の組み合わせとしてしか物語は存在できなくなる(データベース消費)。
「あらゆる物語はパーツの順列組み合わせとしてしか見なされないことになり、物語の「大きさ」を維持することが不可能になる」(37p)

かかる「物語の困難」に対抗するために、たとえば近年のハリウッド映画はCGを多用することで観客の感覚に直接働きかけるようになる。すなわち直接的な「感覚操作」に頼りはじめる。
この「直接的」というのはこういうことだ。「例えば演劇であれば、明らかに恐竜に見えない人間や大道具を、心的な作用によって恐竜に「見立てる」という作業が発生する」(37p)わけだが、このような(「見立て」のような)想像力を介在させる「間接的な」能力(読みとる力)を、観客(読者)に期待できなくなったので、「この種の想像力を必要としない表現を可能とする」(37p)直接的な感覚操作(たとえばCG)に頼るようになり始めたということであろう。

感覚操作によって支えられた作品においては、観客は「物語の流れを読みとらなくてよい」。観客(読者)は、さながらジェットコースターに乗ったように、制作者の運転のまま、はい、ここで笑って下さい、というところで笑い、次ここで怖がって下さい、というところで怖がり、ここで泣いて下さい、というところで泣き、はい終着点に到着しました。お疲れさまでした、で、映画館を出るなり、本を閉じる、ということになる(ノンストップムービーとは、まさにこういった手法に依拠した作品のことだろう)。なぜ泣くのか、といった「悲しみの理由」やなぜ怖いのか、といった「恐怖の理由」は、考えるいとまもなく置いてけぼりにされてしまう。……(注1)
物語を読み、因果を関連づけ、行間を想像し、場合によっては深読みする、そういう作業は全く必要としない。なるほどこれでは「映画を見て感想が言えるなんてすごいですね」(37p)ということになるのは当然ではないか。(つづく)
編集済


「長江文明の謎」 投稿者:管理人 投稿日: 6月14日(土)21時44分19秒

安田喜憲古代日本のルーツ長江文明の謎』(プレイブックス・インテリジェンス、2003)、読了。
世界の4大文明といえば、メソポタミア文明、インダス文明、エジプト文明、黄河文明である。著者はあと何年か後には、ここに「長江文明」が付け加えられるに違いないという。

もとより「長江」とは揚子江のこと。これまで長江流域には、都市を形成するような文明は存在しないと言われていたが、近年、5000年前の都市らしい遺跡が続々と発見され(5000年前はメソポタミアやインダス文明が興った時期に等しい)、それらは従来の文明の概念を覆すものだった。

すなわち従来の4大文明が、おしなべてユーラシア大陸の湿潤と乾燥のはざまに位置する大河のほとりに、遊牧民と農耕民によって生み出された畑作牧畜文明であったのに対し、ひとり長江文明は湿潤地帯のどまんなかの大河流域の照葉樹林帯に花開いた米作漁労文明であった(その照葉樹林の東端は日本列島にまで伸びている)。

なぜ4大文明がほぼ同時に興り、また同じ時期に長江文明が花開いたのか、著者は環境考古学の手法を駆使してそのメカニズムにせまる。この辺、ちょっと初心者向きすぎてやや歯ごたえがない(この部分が一番読みたかったのに)。本書は180pだが、もうちょっと書き込んで250pくらいでも良かったのではないか。

さて、かかる4大文明と長江文明の相違は、文明を担う当の人々の心性にも影響を及ぼしたと、著者は考える。今日の文明の行き詰まりは、4大文明的な「力と闘争」の文明の必然的な帰結であり、いま必要なのは長江文明的な「再生と循環」の思想を持つ「美と慈悲」の文明ではないかと著者は主張する。

言いたいことは判るが、その結果、本書はオピニオンメッセージ的な性格が強くなってしまい、しかしそれを支える環境考古学的な事実の確認がおろそかになっていて、いささかバランスの悪さを感じないではいられない。

長江文明の延長線上に縄文や弥生の文化を認める論旨も、事実を離れた想像的・理念的な信念の発露になってしまって、やや残念。


三村美衣論文を読んで(承前) 投稿者:管理人 投稿日: 6月14日(土)16時45分11秒

(下よりつづく)
[註1]私は、ヤングアダルト小説とSFは別の分類概念であって、分類の基準からして全然別のものだと考えます。そう言う意味で著者はこれを混同しています。<クラッシャージョウ>で挙げられた5項目は、作品が「SF」なのか「YA」であるのかを区別する基準にはなりえないものであるのは、5項目に改めて目を通されればおのずと明らかではないでしょうか。

>ヤングアダルトを新しい小説形態、別のジャンルと見ることができず
上述のように、著者はヤングアダルトとSFを別のジャンルであると考えているようですが、ヤングアダルトというジャンルとSFというジャンルは、そもそもジャンルとしての切り口が位相的に異なっているものではないでしょうか。かかる態度は、基準が異なるものを同じまな板の上にのせており、そもそも比較できないものを比較しようとしています。ヤングアダルトであってもSFジャンル作品であることは可能でありますし、逆にヤングアダルトではあるがSFではないという作品もありうるはずです。

そうでなければ、ジャンル雑誌であるSFマガジンで、今回のようにライトノベル作品を掲載する意義がどこにあるでしょうか。
そして幸いにして、私の読んだ限りこれらの4編は十分SFとしての要件を満たしています。SF小説としてあり得ています。また当然ながらクラッシャージョウは宇宙を股にかけたスペオペの傑作であり、立派なSFであります。

[註2]かかる3点によって「小説からあらゆるストレスが取り払われようとしていた」とされているのですが、それがはたして「好ましい」ことなのでしょうか。
管見によれば、イラストによるイメージの具象化とは、反面ではイメージの固定化、他者による一つのイメージの押しつけであり、「絵」を想像する楽しみの剥奪に他なりません。小説とは畢竟文字による描写から、読者が自由に(ただし描写に導かれて)イメージを造形する喜びなのではないでしょうか。

>日常的な会話と段差のない文体
日常的な会話を文字で連ねても、それは文体ではないでしょう。鏡花の小説は、あの文体があったればこそ豊饒なイメージを読者に伝えているわけです。文体(スタイル)を味わうのも、読書の大きな楽しみの一つです。

そうしますと、著者が言うところの「ストレス」は、ストレスでもなんでも無く、読むことの楽しみの大きな部分を占めるものであることが分かります。
>小説からあらゆるストレスが取り払われようとしていた
というのは言い換えれば、「小説からあらゆる読むことの楽しみが取り払われようとしていた」と言うに等しいのではないでしょうか。

もっとも著者自身本心から書かれているのではなさそうです(本当はよく分かっていらっしゃるのです)。
「イラストによって絵を思い浮かべるストレスから解放され、文体によって読書の努力から解放された読者が、今度は嗜好の判断を短絡化させたととるべきなのかどうか、長らく確信が持てないでいる」(35p)

私には、その行き着く先は明らかであるように思われます。それは読者の「読む能力」の無際限な右肩下がり、徹底的な退化です。その結果が、「嗜好の判断の短絡化」という、与えられなければ反応できない、判断を回避する主体性の発達不全なのではないでしょうか。
むしろこういった方が良いかもしれません。(特にSFにそれが顕著ですが)本来きわめて主体的な営為である想像力を要求される読書という行為の、そのかなりの部分をヤングアダルト小説は(自発的に)取り払った。その結果、読力の低下をきたし本来それによって形成されるべき想像力(主体性)が発達しなかったと。

なんのことはない、出版社が率先して(読書という行為の肝であるところの)読者の想像力のレベル低下に協力していたのですから、今日の出版界の惨状は自業自得というほかありませんね。
出版社が読者のレベルに迎合しますと、当然読者のレベルがそれ以上に上がるはずはなく、むしろ下方へ傾きます。その結果出版社はさらにレベルを下げ……といういたちごっこ。本来出版社には読者のレベルを引き上げる使命があった筈なのに、現実は果つる底なき縮小再生産。

ヤングアダルト小説に現れる(多様性理解に達しない)世界の小ささや(他者との距離を測れない)未熟な感情の乱舞は、そういう読者への作り手の側の「懲りない」迎合ではないのかと思ってしまう私は、もとより(次世代フィクションという表現に添わせれば)前世代の遺物なのでしょう。

とはいえ、今回の特集の4編がそれなりに私的に満足できるものであったのは収穫でした。少なくともSFの牙城に切り込んでくるような意欲を持つ若い作家たちには希望が持てるなと思った次第です。
編集済


三村美衣論文を読んで 投稿者:管理人 投稿日: 6月14日(土)16時43分55秒

三村美衣「表現とリアリズムの変遷――ライトノベル25年史」(SFM7月号所収) 

副題どおりライトノベル(ヤングアダルト小説)と呼ばれる作品群の始まりから現在までを簡潔に振り返ったもの。なかなかの力作。
まず、<1977年――ジュヴナイルからヤングアダルトへ>という小見出しの下、著者は同年に開始されたクラッシャー・ジョウシリーズをもって、かかる新ジャンル小説の嚆矢の一とする。
その理由として、次の5要素を挙げる。
  1)主人公が10代ながらプロフェッショナル。
  2)主人公も含む10代の登場人物が武器で戦い殺人も犯す。
  3)展開が早く映像的。
  4)主人公だけでなくチーム全員のキャラクタ−が書き込まれている。
  5)イラストにアニメ絵。読者はイラストのイメ−ジをそのまま受け入れる。
そして、これらの要素は一つずつを取り上げればこれまでもあったが、全てを同時に備えた作品は以前にはなかったとする。

嚆矢の二として挙げられているのは、やはり同年の新井素子のデビューである。新井の小説の特徴は、以下の3点。
  1)「あたし」という1人称。
  2)会話のみならず地の文まで女の子の話口調を採用。
  3)等身大の女子高生を描いた。
著者はジュヴナイルとライトノベルの違いを、前者が大人が子供に向かって書いている小説であるのに対して、後者は同じ視線で書かれており読者はそこに敏感に反応した、とする。

また著者は、「SFの人たちはヤングアダルト小説を低く見ている」というYAサイドの見解に対して、「SFインサイダーたちが、ヤングアダルトを新しい小説形態、別のジャンルと見ることができず、ジュヴナイル同様にSF入門ツールと考え続けたのは(……)誤謬だった」とする。これに関しては下に異論を書きます。[註1]

その後、80年代は夢枕獏、菊地秀行らが輩出し、ライトノベルは盛り上がっていくのだが、特筆すべきは笹本祐一の登場で、主人公がプロではなく、ただのマニアックな高校生で彼らのオタク的な知識が世界を救うところが新鮮だったとする。
「アニメや特撮ものを共通基盤にした(……)同時代的情報を共有する小説の流れはこの小説から始まった」(30p)
このようにして著者によれば、
  1)イラストによるイメージの具象化
  2)情報の共有
  3)日常的な会話と段差のない文体 
によって、「小説からあらゆるストレスが取り払われようとしていた」とするのだが、この部分にも異論があり、あとで書きます。[註2]

80年代は日本にTRGPが紹介され、国産本格TRGPも発売され始め、そのタイアップ的にゲーム小説が誕生し、盛行する。
著者は、これらの作品がSFやファンタジーの直系ではなく、ゲームを経て受け継がれたもので、「そこには従来の小説がもつリアリズムとは別の文脈が加わっている」とする。この辺は大塚英司の説と大差ないのでとばします。

以上簡単に要約しましたが、最後に私が違和感を覚えたことを記しておきます。(つづく)
編集済


ドゥ・ザ・ハスキル! 投稿者:管理人 投稿日: 6月14日(土)15時05分14秒

石川さん
しかし確かに、Yさんの元の文章では、短篇の「ハスキル人」を指して言っているとしか読めないですね。私も最初は「あれ、ハスキル人て短篇だっけ」と思いましたよ。
で、bk1で確認してみて、ああ、Yさんは、出版芸術社の作品集のことを言っているのかも、と推測したわけでした。
でもYさん自身も錯覚しておられたようですね(^^;

河本さん
スケジュールの詳細決まりましたらお知らせ下さい(^^)

>「酔歩する男」
私はこれでガーンと殴られて、小林泰三にすっぽりハマッちゃったのですよ!
感想文をネット化以前の1996年12月の「ヘテロ読誌」に書いていますので、再録しておきましょう。

 さて、『玩具修理者』集中のもう一作、中編「酔歩する男」。オールディスが書きそうな本格SFの傑作であると言っておこう。私は、表題作よりも、こちらが気に入った。
 重力の方向を感知する三半規管に対応する、時間の方向を感知する未知の器官――それを破壊することで時間線のくびきを外れた男の地獄を描いて逸らさない。
 シュレディンガーの悪魔、時間の不連続性、並行世界等々、魅力的なアイデアを一本に縒り上げた強腕は大したものだ。わくわくした。(「ヘテロ読誌1997」、3p)

Yさん
>「死美人」
もはや内容も何もかも忘却の彼方ですが、そうしますと神津恭介のキャラクターに馴染んでないと、そのよさは伝わってこないようですね。
そう言う意味では「神津恭介」と言われても、たしかに私のなかには何のイメージも浮かんでは来ませんです(^^;ゝ

ではまた後で。
編集済


もうしわけありません 投稿者: 投稿日: 6月13日(金)19時06分13秒

うわーごめんなさい。「ハスキル人」は出版芸術社版で読んだんですが、SF短編が
含まれてたので短編のような気がしていました。
ひどい書き方をしてしまいましたが、ファンクラブに8年ほど入っている程度には
高木彬光ファンです。「死美人」もあれだけ読むとナニかもしれません。神津ものの
一部として読めばまあまあかな……というところです。

「邪馬台国はどこですか」はお笑いネタとして読んで笑いました。


ハスキルボイスは青江美奈 投稿者:河本 投稿日: 6月13日(金)16時09分59秒

 大熊さん
 「異形の惑星」、面白そうですね。読んでみます。

 鳥取旅行で関西通過します。>たぶん6月末〜7月
 お会いしたいです。

 小林さんの「酔歩する男」読まれました?
 ぼくは、「ペンローズのねじれた四次元」・竹内薫と平行して読んでいたのですが、この読み方お奨めです。
 これ、ペンローズの素粒子論についての解説なのですが、量子論に付いての解説が充実しています。
 「酔歩する男」のアイデアは量子論に関するものです。
 それで、この本を合わせて読むと量子論の描く世界の不思議さがよく理解できます。
 「酔歩する男」のややこしいアイデアが分かりやすくなるというわけではありません。
 うどんにかける七味のようなものです。>よく分からん喩えでごめん (^^;)
  
編集済


ハスキレバ浮かぶ瀬もあれ 投稿者:管理人 投稿日: 6月12日(木)23時04分49秒

石川さん
私も未読の、しかも現物が手元にない本のことを、泥縄でお返事しておりますので、非常に心許ないのですが、できるかぎりお答えさせていただきます。

※『ハスキル人』には、短篇のバージョンと長篇のバージョンがある
出版芸術社の『ハスキル人』は、食人金属 ビキニの白髪鬼 ロボットX53 宇宙船の死の花嫁 ハスキル人 の5篇が収録されているようです。ページ数は241pです。
この記載からハスキル人が長篇であるのか短篇であるのかは判りません。けれども、5篇しか収録されていないわけですから、長篇のハスキル人一本と、あと短篇が4本採られていると考えるのは、あながち不自然ではないように思います。

逆に、ハスキル人に短篇バージョンがあったとしましょう。ハスキル人以外に高木彬光が長篇SFを書いたという話は聞いたことがありませんので、するとこの5篇がすべて短篇だということになります。
出版芸術社のふしぎ文学館は、手許にある『虹の裏側』の場合、24字×22行×2段ですので、これに準じますと、『ハスキル人』の総原稿枚数は、636枚です。636/5=127枚ですので、中篇集ということになりますが、これも現実的とは思えません。ハスキル人以外のSF作品は、おそらくすべて50枚をこえない小品であろうと考えられるからです。

そこで傍証としまして、角川文庫版『ハスキル人』を見てみましょう。
今は知りませんが、昔の角川文庫はだいたい42行×18行でした。従いまして42×18×252/400=476枚です。
石川さんが現認されているから確かなはずですが、角川文庫版は長篇ですよね。

そうしますと、出版芸術社本が636枚に対して角川文庫本は476枚。636−476=160枚。残りの作品数4で割ると、40枚です。つまりハスキル人以外の作品の平均枚数は40枚です。これは上の<現実的想像>とほぼ一致しますね。
そういうわけで、私はハスキル人は長篇で、短篇バージョンというものはないと推測します。つまりふしぎ文学館の『ハスキル人』は長篇1本と短篇4本の作品集だと思うのです。

――ということで本論です。
>どうやら出版芸術社版『ハスキル人』所収の「SF短篇」を指しているように判断されます
の意味が分かりにくかったようで申しわけありません。

Yさんの書き込み
>もしかして「ハスキル人」だったら最悪です。
>短編より長編の作家であるに加えてSFセンスは皆無なので。
を解釈しての発言なんですが、もっときっちり書かないといけませんね。
おそらくYさんの真意は、
もしも『ハスキル人』所載の短篇を(大熊が)読んだのなら、あれは最低ですよ。
なぜなら>短編より長編の作家であるに加えてSFセンスは皆無なので。
ということだったのではないかな、と思ったのです。

蛇足ですが、そう言うわけで
※角川文庫の分厚めの本は、長篇である。
は、○です。現に石川さんが現認されているのですから。

※短篇は、出版芸術社の全SF作品集『ハスキル人』にのみ収録されている。
は、×。作品ハスキル人は長篇バージョンしか存在しない。

ということになりますね。


「邪馬台国はどこですか」 投稿者:管理人 投稿日: 6月12日(木)20時03分59秒

Yさん、これは駄目ですよう(汗)
ほとんど古田武彦さんの説のつかい回しで、しかもひとことも古田さんに言及せず、出典も示さないのは、犯罪同然だと思います!
編集済


「蜘蛛男」 投稿者:管理人 投稿日: 6月12日(木)18時53分55秒

例によって、「名張人外境」に書き込んだ感想文がログから押し出されて消えかけていましたので、こちらに再録しておきます。

--------------------------------------------------------------------------------
大熊宏俊   2003年 6月 2日(月) 22時13分  [211.130.251.174]
http://okmh.web.fc2.com/i/

 サンデー先生
 ようやく「蜘蛛男」を読み返すことが出来ました。
 いやあ、それにしても覚えていないものですね、畔柳博士が蜘蛛男であることと、博士邸がアジトと接している錯覚トリックは覚えていたのですが、あとはほとんど記憶になく、存外残酷な話だったので驚きました(もっと少年探偵団的な話のような印象があったのですが)。
 読み終えて、「孤島の鬼」と「蜘蛛男」の違いを確認できたように思います。

 その前に、「孤島の鬼」に対する乱歩自身の否定的な評価に対する、私の理解を整理しておきます。
 管見では、乱歩は本篇に於いて通俗小説を目論んだのに、初めての通俗ものであったため計算が狂ったのか、出来上がった当の「孤島の鬼」が通俗小説に収まり切らぬ、通俗小説にあるまじき(と乱歩は思ったのでしょうか)根源的な「人間の謎」に触れるものとなってしまった。それを乱歩は肯定できなかったのではないでしょうか。
 乱歩の、決してよい読者ではない私の、ほとんど思いつきに近いかかる認識が、どれくらい的を外しているのか判りませんが、とりあえずこれが私の前提です。

 それでは、この2作品、どこが違うのでしょうか。
 私は、前者が(中井英夫がいうように)「人間の謎を秘めている」(山下真史、99p)のに対して、後者にはそれがほとんど認められない点ではないかと考えます。
 前者では、丈五郎の内面に(山下論考にあるように間接的であるにせよ)立ち入って、いわば丈五郎は如何に丈五郎になりしか、がそれなりに語られ、読者に丈五郎へのある一定の理解(了解)をもたらします。それはすなわち丈五郎を、仕切線の向こう側からこちら側へ引き戻すものであります。山下さんの言葉を使えば彼我一如の混在境が、「孤島の鬼」においては出現しています。(私の想像する)乱歩の立場からいえば、通俗小説に図らずも混在境を現出させてしまった、ということになります。

 ところが、今回読みなおして気がついたのですが、「蜘蛛男」の場合、稀代の「悪魔」たる蜘蛛男の内面は、読者には全く明らかにされていません。そういう描写はただの一片もないのです。それ故読者は、蜘蛛男と混在境を同じくすることが出来ず、読者と蜘蛛男の間には永遠の一線があり、彼我は断絶されたままです。これは重要な構成上の相違点であると思います。

 山下論考の眼目は、丈五郎の内面への踏み込みが不十分であった(社会小説を忌避した)点が乱歩の不満だったといっているように思うのですが、私は逆に、繰り返しになりますが、通俗小説を目指しながら内面に踏み込んでしまった(何とか間接的なところで踏みとどまったにせよ)点が不満だったのではないかと想像したわけです。

 乱歩は「孤島の鬼」での「失敗」を学習したのでしょう、江戸川乱歩執筆年譜によれば「孤島の鬼」の連載8回目に始まった「蜘蛛男」では、蜘蛛男の内面への踏み込みは周到に回避されているのです。
 その結果、「蜘蛛男」は乱歩が企図した通俗小説に限りなく近づき、その意味に於いて傑作となり得たのではないでしょうか。そしてこの作品によって乱歩は、通俗長篇の筆法を会得したのであり、以降その方法論に従って通俗長篇が書かれるわけです。

 先日畸人郷での「孤島の鬼」に対する評価をご紹介しましたが、実は名探偵ナンコでも同様の意見がありました。すなわち「孤島の鬼」は読者にとって生々しすぎ、他の通俗長篇の方がゲーム的な遊びの要素があって(という言い方はしていませんでしたけど)、気楽に楽しめる、というような意見でした。確かにゲームに於いては彼我一如の混在境は原理的にありえませんね。
 そう言う意味で、乱歩の軌道修正は、ミステリ的には正しいものだったのでしょう。中井英夫には残念至極だったでしょうけれども。

 以上、「蜘蛛男」を読んで感じたことを書いてみました。
編集済


作品集のようです。 投稿者:管理人 投稿日: 6月12日(木)18時48分10秒

石川さん
ご無沙汰でした(^^)。
>ハスキル人
検索してみました。
「ハスキル人」自体は長篇のようですね。ただし出版芸術社の『ハスキル人』は、表題作以外に高木彬光の全SF短篇が収録された作品集のようです。

そういうわけで、Yさんの
>短編より長編の作家であるに加えてSFセンスは皆無なので
という書き込みは、どうやら出版芸術社版『ハスキル人』所収の「SF短篇」を指しているように判断されます。
「高木彬光」、「SF」、「短篇」というのは、「最悪」の組み合わせなんでしょうか(^^;

Yさん
>高木彬光の短編って……もしかして「ハスキル人」だったら最悪です
残念ながら違います(^^;
検索していて気がついたのですが、「褐色の肌」というのは全くの見当違いで、正解は『死美人劇場』(角川文庫)でした。
これを読んだのは1980年代だったはずですが、このとき、鮎川哲也や斎藤栄の短篇集も一緒に買い、全て面白くなかったのです(汗)。きっと、ミステリの読み方が判ってなかったのでしょう。

凍冬引さん
私も、古代史からずいぶん遠ざかっておりまして(新書程度の軽いのはたまに目を通しますが)、実は息子が高校に入学したのを機に本棚を一本明け渡さなければならなくなり、整理していたら、たまたま昔書いた下書きが発掘されたところだったのです。そういうわけで、↓のような話も出来た次第なんです。
古代史本、読みたいという意欲が、私もムラムラとわいてきましたです(^^;ゝ
編集済


面食らってます・・・^^; 投稿者:凍冬引 投稿日: 6月12日(木)02時20分13秒

ぼくは突っ込んだわけではなかったので、正直面食らってまっす(笑)!
なにしろ古代史からけっこうな期間離れていたので、系図関係や年表関係にはうとくてうとくて・・・^^;・・・山上王も国川王も名前は聞いたことがあるんですが、キレーに忘却の彼方でありまして・・・^^;・・・間違いを指摘するどころの話ではないのでありまして・・・^^;・・・久しぶりに高句麗系図など見て、灰色の脳細胞がグルングルンと酩酊いたしておるような塩梅なんでございますです、はい。
でありますからしてえ・・・歴史観云々など言えるはずもなくう・・・まことに恐縮の極みに立たされておるとお・・・こういう次第にてござそうろう・・・^^;・・・。

面白いです。
眉村先生のサイトにお邪魔するようになって、また古代史に再会することになるなんて!
着いて行けるように昔の本を読み返しますです、はい!


ツッコミ感謝 投稿者:管理人 投稿日: 6月11日(水)22時03分07秒

凍冬引さん

>山上王(延優)(10− 二二七)と故国川王(男武)(9− 一九七)
これが錯綜しているんですよね。(以下、東洋文庫の『東アジア民族史1』によります)

「三国志高句麗伝」は、
伯固は死んだ。(伯固には)二人の子がいた。長子は抜奇、次子が伊夷模である。抜奇は不肖の子であったため、国人たちは、ともに伊夷模を擁立して王位につけた。(120p)
となっています。
しかし、「東アジア民族史」には、注が付されていまして、朝鮮の史書である『三国史記』には、
「故国川王、諱は男武、或いは伊夷模という」とあるが、別に発岐、延優兄弟の伝承がみえ、(……)抜奇は発岐と考えられる。したがって伊夷模は延優、つまり山上王(在位197−227)と考えられる。
としています。
そうしますと、この『三国志高句麗伝』は、伯固(新大王)と故国川王を同視しているようです。一方『三国史記』のほうは、男武と伊夷模を同視しています。

検索してみますと、ここの系図では、男武と抜奇と伊夷模は三兄弟になっていますが、ここでは伯固=故国川王としていますね。
結局ここの年表が正確なところではないでしょうか。

そうしますと私のきのうの書き込みは不正確ですね(^^;。
>AD197年高句麗王伯固が死に

>AD197年故国川王が死に
に訂正します。ご指摘ありがとうございました。

金思かさんの著書は、本がすぐには出てこないので記憶ですが、六興出版というところから出ています。絶版です。ていうか出版社がつぶれたはずです(汗)。
もっとも、ワンアイデアだけの思いつき本なので、古本屋で見つける価値はないと思います(^^;ゝ

私自身、きのう書いたアイデアを「真実だ」と思っているわけじゃないですよ。
きのうの繰り返しですが、歴史的記述(いわゆる事実)はそのまま尊重して、しかし見方を変えれば別の様相が浮かび上がってくる可能性があるのなら、それも尊重したいっておもうんですよね(歴史的事実を恣意的に改変するのは論外ですが)。
日本は神世の時代から今の天皇の先祖によって支配されていた、なんてつまらないじゃないですか(^^;。


邪馬台国追加 投稿者: 投稿日: 6月11日(水)20時07分05秒

高木彬光の短編って……もしかして「ハスキル人」だったら最悪です。
短編より長編の作家であるに加えてSFセンスは皆無なので。
ちなみに邪馬台国は宇佐説でした。
お笑い歴史ミステリーでは「邪馬台国はどこですか」(鯨統一郎)
もおもしろかったですよ。


中途半端なまま今に来てます(汗) 投稿者:凍冬引 投稿日: 6月11日(水)02時35分00秒

ご理解ありがとうございます!

小林惠子さんの本は「二つの顔の大王」です。
「聖徳太子の正体」は見たいんですけど、これがなかなか見つからないんですよ。

”トンカラリン”の遺構は一応知っていますが、詳しくは知らないんです。
金思か さんの論考も知らないんです。
あと、年表的なこともちと弱いんです(汗)。
数字に弱い体質なんでございます(^_^;)・・・。
山川の「世界史小辞典」を引っ張ってきて読みました。
伯固という王様は載っておりまして(新大王8− 一七九)、発岐と伊夷模ってありませんで、いきなり(汗)・・・なんですけど、山上王(延優)(10− 二二七)と故国川王(男武)(9− 一九七)の二人なら系図に載っていました。
同じなのでしょうか???

ボクが古代史にはまったもう一つの芽は、10年くらい前にNHKで再放送していた「人形劇・三国志」を見て、卑弥呼とほぼ同時代だということに気付かされてずいぶん意外な感じがしたことがあったということにもありました。
なんでこうも歴史が違うんだろうと疑問に思ったんでした。
卑弥呼と孔明が繋がらなかったんです、はい。
趙雲子龍が格好良かった!です。

http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=hicchann


郷土史家同然(^^; 投稿者:管理人 投稿日: 6月10日(火)21時09分10秒

凍冬引さん

>「失われた九州王朝」
この本も刺激的でしたね(^^)。
日本列島に国が複数あってどこがいけない、という主張が、ともすれば、昔から神国日本は一つの国だ、という無意識的な先入観が打破されて、ゾクゾクッとしました。
それは、凍冬引さんが感じられたゾクゾクッと同じ種類のものだと思います。

>きっとなに言ってるんだか分からないと思います^^;。
いえ、だからよく判ります。コペルニクス的転回! まさにそうですよね。
歴史的に事実とされていたこと(事実だと、ずっと今まで思っていたこと)が、見方をずらしてみれば、その事実とは全然違う相を垣間見せるんですよね。そのとき感じるゾクゾク感!

上岡龍太郎さんの番組は見ていないので何ともいえませんが、機を見るに敏な上岡さんですから、大和説有利と見るやあっさりそちらに乗り換えることは十分ありえる事態だと思います。

>小林惠子氏の本
「聖徳太子の正体」ですね。読みましたよ(^^;
私も自分の常識をひっくり返してくれる度(?)が大きければ大きいものほど好みです。もちろんトンデモ的な思いこみ(信念)のみで、論証をすっ飛ばしたやつは論外ですが、アイデアが壮大だったら多少論理が強引でもオッケーです(^^;ゝ

凍冬引@九州アイランドさんならご存じかも知れませんが、熊本にトン・カラリンという遺構があるんですよね。この遺構トン・カラリンの存在から狗奴国は高句麗人が建てたという説があります(金思か「トン・カラリンと狗奴国の謎」)。これはその後トン・カラリンが3世紀に遡らないことが証明されて否定されたのですが、私はいたくそのアイデアが気に入りまして、さらに突っ込んで調べたことがあります。
そうしてAD197年高句麗王伯固が死に、発岐と伊夷模の兄弟が王位を争い、敗れて遼東に隠棲した発岐が、公孫康によって九州に送り込まれ、狗古智卑狗(菊池彦)になったというシナリオを考えたことがあるんですよ(汗)。少なくとも年代はクリアしていますでしょ(^^;ゝ
編集済


古代史と私・・・ 投稿者:凍冬引 投稿日: 6月10日(火)02時37分56秒

ぼくは古田さんの「失われた九州王朝」という本を偶然本屋で見て、面白そうなので買って読んだ所はまったのでした。
一時期”市民の古代研究会”って所にも入ってROM専(違うか、汗)しておりました!
”不明の学問僧たち”ってくだりで韓智興って人が出てきたり、倭の五王のくだりで姓としてある”倭”一族が出てきたりして、ゾクゾクッときたんでした。
半ば幽霊みたいなものだと思ったんですよね、その時。
だってその人たちって古代からずっとそこにいたにもかかわらず、まったく”そういうものとして”見られてなかったということだったんですよね。
思いっきり俗っぽく言うと「あんたらいったい誰やねん?」ってことだったと思ったんですよね。
ごめんなさい、きっとなに言ってるんだか分からないと思います^^;。
とにかくこの本はコペルニクス的転回だったんです、ぼくにとって。
上岡龍太郎さんは古田さんシンパだったと思うんですけど、大和説を支持しておられたんですか?そのEXテレビでは。
ぼくもたぶんその回の番組は見たはずなんですけど、キレイサッパリ内容は忘れちゃってます(汗)。
その後、小林惠子氏の本を見てまた驚かされました。
聖徳太子=突厥可干 達頭
倭王=三国王
って面白い図式だなあと思いまして。
古代史ってものの見方を面白いように変えてくれるなあと思って、一時期はまってました。
今も前ほどではありませんが関心はあります。

大塚英志氏といえば昔「少女民俗学」って本を読んだことがあります。
ただ、それだけなんですけど^^;・・・今はサイコスリラーの小説家でしたっけ?
苦手なんです・・・サイコ物って(汗)。


『異形の惑星』 投稿者:管理人 投稿日: 6月 9日(月)19時54分33秒

土田さん
私が読んだのは、おそらく『褐色の肌』(角川文庫)だったと思います。処分してしまったので記憶ですが。
この本、世評はどうなんでしょう? 私自身、読んだ当時はミステリの読み方が全く判ってなかったと思われますので、自分の感想には自信がないです。

>大熊さん向きじゃない気がします。
確かに(^^;
でも、「アルファオメガ」も一見ウルトラマンオタク向けでしたけど、実は超クラーク的本格SFだったという前例もあるので(^^;

井田茂『異形の惑星系外惑星形成理論から(NHKブックス、2003)読了。

前作『惑星学が解いた宇宙の謎』が序論だとすれば、本書は堂々たる本論です。
1995年以来、観測技術の精密化と観測行為の無意識的慣性からの離脱により、太陽系外に続々と惑星が発見され始めています。
それらの惑星は、たとえば木星質量で中心星の直近を高速で周回するホットジュピターや、灼熱と酷寒の世界を繰り返すエキセントリックプラネットなど、従来の惑星形成理論では、絶対にあり得ない異形の姿を我々に見せているのです。
すなわち従来の「惑星形成理論」は、この太陽系にのみ妥当する「特殊」惑星形成理論でしかなかったことが判ってきました。

本書は、かかる異形の惑星たちの形成メカニズムを解き明かし、普遍的な「一般」惑星形成理論の構築をめざす「最新」の惑星学を紹介するとともに、著者自身の「一般惑星形成理論」を開陳しています。
その上で、生命誕生の条件を備えた地球型惑星が、いかなるパラメータにおいて存在確率を有するかを検討しています。

私のような文系人間にも理解できるよう、因果関係をいささかもゆるがせにせず書いてくれているので、(往々にしてその分野の専門家にとっての常識は、公理化されて説明されない場合が、この種の科学一般書においてよく見かけるのです)とても判りやすく、そのおかげで理論形成過程のスリリングな快感をいささかも損なわず読者は追体験出来ます。

最終章が、(紙幅の関係か)駆け足になっているのはいささか残念です。あるいは別途出版されるのかも知れません。楽しみに待ちたいです。

かかる系外惑星像は、ハードSFにとっても未開拓の分野ではないでしょうか。系外惑星を舞台にした新しいハードSF――いやあ読んでみたいですねえ(^^)
編集済


しゃばけ 投稿者:土田裕之 投稿日: 6月 8日(日)21時23分58秒

>高木彬光自体、短篇集を一冊読んだきり(汗)。それがあまりにもしょうもなかったもので……

おほほっ。何を読まれたのか気になるなあ。(笑)

川田武とはなつかしいですね。
少し前に変格ミステリを文庫書下ろしで出しましたね。(積読)

日本SF新人賞の『歩兵型戦闘車両ダブルオー』はアニメオタク向けSF。
ぼくは楽しみましたけど、大熊さん向きじゃない気がします。

最近「ぬしさま」が出た畠中恵のデビュー作、
ファンタジーノベル大賞の『しゃばけ』は面白かったです。
妖(あやかし)がたくさん出てくる少しとぼけた味わいの時代ミステリーで
これはお勧めできるかな?

http://www.02.246.ne.jp/~pooh


九州説いろいろ 投稿者:管理人 投稿日: 6月 8日(日)20時36分38秒

Yさん
>「邪馬台国の秘密」
これは有名ですねえ。でも読みそびれているんですよね。というよりも高木彬光自体、短篇集を一冊読んだきり(汗)。それがあまりにもしょうもなかったもので……出会いが悪かったのでしょうか。

>大塚英志
いや、実用性もあると思いますよ。本に書かれているとおりに書けば、いちおう「小説」の体(カタチ)をなしたものは出来上がるでしょう。よくできたマニュアルだと思います。
しかしそれは単に「器」ができあがるだけの話、それだけでは「面白」くなりません。
結局は、「器」に何を盛り込むのか、それが大事なのではないでしょうか? そういうものはマニュアルでは教えられませんねえ。
内に表現したいものを抱えているのに、どう小説にしたらいいのか判らず途方に暮れている人には利用価値があるでしょう。

アレクすてさん
>半村良先生の「嘘部」シリーズ「 闇の中の黄金」
ああそうでした!あれは「邪馬台国宇佐説」でした(^^)
宇佐説は、実際でも有力な説ですね。

そういえば川田武「女王国トライアングル」は、たしか「宇佐神宮」と「香椎宮」、「菊池神社」が作るトライアングルの中点に女王国の秘密が隠されていました(^^)。つまり九州説。
豊田有恒「倭王の末裔」では、卑弥呼は騎馬民族夫余族を率いて朝鮮半島から海を渡り、九州に建国します!
このように、昔は九州説が圧倒的に優勢だったんですけどねえ、、、

先週は読書にあまり時間を割けませんでした。
『異形の惑星』は今日中に読み終えるつもり。
「SFマガジン」7月号<ぼくたちのリアルフィクション>も、ぼちぼち読み始めています。


九州説がいいけれど・・・ 投稿者:アレクすて 投稿日: 6月 8日(日)19時27分53秒

昔、EXテレビという、番組を見ていたら、「上岡龍太郎」という人が、
「邪馬台国論争に終止符をうつ!大和説である!
これは火を見るより明らか!(大意)」
といってましたね。(私は、九州か、大和か以前に上岡氏の偉そうな態度にへきえきしましたが…)
私が、九州説に組するのは、半村良先生の「嘘部」シリーズ「 闇の中の黄金」によるものです。

そこで、彼は、「宇佐美神社あたりが怪しい」といってます。
(ま、嘘部シリーズですから、実証性はないのですがね…)
ではでは。


九州説に一票 投稿者: 投稿日: 6月 8日(日)00時38分38秒

邪馬台国といえば「邪馬台国の秘密」。以前高木彬光にハマってました。
それ以外知らないんですけど。

>大塚英志
小説の書き方本というより、ある種の文芸評論ですね。


邪馬台国はなかった 投稿者:管理人 投稿日: 6月 6日(金)22時39分44秒

凍冬引@九州アイランドさん

おお、凍冬引さんも古田武彦はまりましたか! いやあお仲間ですねえ(^^)
それ以前から(豊田有恒さんの「倭王の末裔」なんかの影響で)古代史には興味があったのですけど、私も「邪馬台国はなかった」で本格的にはまり、現在に至っています。邪馬壹国の論証は、本当にドギモを抜かれました(^^)
その古田さんも、論争で自説の不備の穴埋めに追われてしっちゃかめっちゃかになってしまったのは残念でした。その辺は原田実さんのご専門ですね(^^;

漢委奴国王の金印は、奴国にしろ伊都国にしろ、博多湾沿岸であるのは間違いないので、私は問題ないと思います。それよりも「親魏倭王」の金印ですよね。とりあえずこれが発見されないかぎり、九州説も大和説も蓋然性にとどまるという意味では同等であると信じております。

>SFジュブナイルのサイト
弱気なことを言わないで(^^;頑張って下さいね! 期待しております。
編集済


志賀島の金印・・・ 投稿者:凍冬引@九州アイランド  投稿日: 6月 6日(金)01時49分13秒

ぼくは10年前くらいに古田武彦氏に凝ってたことがありまして、大和説ではなぜお宝中のお宝の金印(漢委奴国王)が福岡は志賀島に眠っていたのか説得力のある説明がないんだなあと思ってたことがあります。
今でもあれは邪馬臺国ではなくて邪馬壹国でいいんじゃなかろうかと思えてならないんですが、学会の外の学説(妄説?)として考慮の余地はないんでしょうかねえ???

※SFジュブナイルのサイトですけど、ボチボチ・・・ほんとにボチボチとですが^^;、作成中です。まだ公開の目途は立っておりませぬが^^;・・・。ひょっとしたら、ずっとないかも^^;・・・。誰か作ってくらさいませ!


がんばれ九州説! 投稿者:管理人 投稿日: 6月 5日(木)21時35分13秒

Yさん
>最近物語を読むことに飽きてきたような気がします
それはごくまっとうな反応だと思いますよ(^^;
「物語」って、とりわけエンターテインメントにおける「物語」って、そんなにヴァリエーションがあるわけではないんですね。ある一定数消化しちゃうと、結局は同工異曲という感じがして来るのは当然の帰結だと思います。

ただし純文学の「物語」は、多くの場合そういう同工異曲へのアンチとして書かれているので、お読みになったら案外新鮮かも知れません。

大塚英志は、たぶん「個々の物語」(=ストーリー)はマニュアルで作れると考えています。で、小説の肝は「背後の物語」(=世界)であって、この「世界」を読む読書を「物語消費」と定義します。それがキャラクター小説の特徴であるとするのですが、私はこの「物語消費」こそSFの本領であると思うんですよね。

そういえば「木島日記」の感想を書いてない(^^;。これはキャラクター小説の実験小説だと私は位置づけたんですけど、ちょうど忙しい時期で書きそびれているうちにかなり忘却してしまいました。とても面白かったんですけど。
続編を近々読むつもりなので合わせて感想を書く予定。

原田さん
そうなんですよ、石原先生は大和説。

>私は最近、旗色の悪い九州説で頑張っているのですが(^^)。
私も九州説です!
確かに最近の考古学的知見は圧倒的に大和説に有利ですね。
これはしかし、日本列島の高文化地域が3世紀すでに大和にあったことを示しているだけで、それと文献上の邪馬台国を重ね合わせるのは、牽強附会というのは言い過ぎでしょうが、必ずしもイコールで結べるものではないのではないかと、思いたいです(^^;。

たとえば中国大陸の高文化地域は13世紀でもなお中原ですが、元の首都は北京ですよね。そういう状況が、推計学的に可能性が低いとしてもゼロではないのですから、邪馬台国でもありえたのではないでしょうか。

などと言いますのも、なんのことはない、私のなかに20年近くかけて積み上げてきた(わが内なる)邪馬台国像があり、それをあっさりとは見捨てられないんですよねえ(ーー;)
編集済


石原博士は大和説 投稿者:原田 実 投稿日: 6月 5日(木)01時00分24秒

石原藤夫先生、古代史研究家としては邪馬台国大和説の立場にたっておられるのですね。
私は最近、旗色の悪い九州説で頑張っているのですが(^^)。
http://www.eiko-books.co.jp/himiko/index.html
しかし、石原博士が重視しておられる籠神社の問題には私も注目しております。
さあ、頑張らなくては、動くのを止めたらスプリンクラーで跳ね飛ばされるぞ!!

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


(無題) 投稿者: 投稿日: 6月 4日(水)22時43分39秒

「ふりむけば闇」読み終えました。「ヌジ」は確かに奥様の面影を感じますが、
久々に眉村先生独特の「女性の会話文」が読めて良かったです。せつない。
「ハイペリオン」は2巻目までしか読んでいませんが、連作風なのでテンポ良く
楽しめました。世界の壮大な感じと個人の対比がいいです。

しかし、最近物語を読むことに飽きてきたような気がします。
何となく先が読めてしまうというか、こう落ちるんだろうな、と思えてしまう。
人生の先達の方々はそういうこと、ありましたか?
とりあえず大塚英志でも読んでみます。


リアル・フィクション 投稿者:管理人 投稿日: 6月 2日(月)23時01分54秒

SFマガジン7月号を買ってきました。
今月の表紙絵(タカノ綾さん)は好みです(^^)
特集は《ぼくたちのリアル・フィクション》。リアル・フィクション、て何?
ジャンルの無効化が進行する次世代フィクションは、この現実をどう捉えていくのか?だって。おお、真っ向から来ましたな。
書いている作家を見ると、キャラクター小説のようなんですけど(^^;
キャラクター小説がリアルフィクションなの?
とりあえず〈critic〉から読んでみるつもり。楽しみ楽しみ!

当然BGMは
リアル・マッコイと行きたいところですが、持っていません(^^;ゝ
ので、
ブッカー・リトル・アンド・フレンド/ブッカー・リトル(1961)


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